◆連合赤軍大量リンチ殺害事件〜急転直下、あさま山荘まで

山本順一、大槻節子が相次いで死んだ頃、永田洋子は森恒夫に、

「ちょっと、どこかで静養したい」

と耳打ちし、連合赤軍メンバーを群馬県沼田市北西部の迦葉山に残して、かねてから用意していた広島県尾道市の隠れ家へ、疑似ハネムーンを計画する。

1972年2月2日、この日、ナンバー4の山田孝が奥沢修一を連れてクルマを修理する為に町に降りて、そこで時間があったので銭湯に入ってきたが、その銭湯に入ってくる根性が気に入らんと総括に掛けられる。山田孝は京大大学院で政治学を専攻し、赤軍派時代にも塩見孝也の側近であった。山田孝は「自分は兎も角、奥沢まで銭湯に入れたことは悪かった」と説明したが、森恒夫によって「そんな事で革命ができると思っているのかっ!」として、この頃からしばしば、山田孝は疎まれるようになる。

1972年2月4日、この日、森恒夫と永田洋子は

「いずれは迦葉山ベースもヤバくなるから、我々は迦葉山の次の新しい拠点の候補地を捜しに行く」

という建前を述べて、最高幹部の森と永田が迦葉山ベースを発った。その後、広島県尾道市の秘密の隠れ家で、森恒夫と永田洋子は思う存分、性愛を愉しんだ。これが他人を難癖をつけて吊るし上げをし、虐殺の限りを尽くしてきた「最高幹部」の真の顔であるようにも思える。

森と永田が離脱し、その二人の留守中は坂口弘が総大将を務める事になった。或る意味では山本保子の脱走は、連合赤軍に大きな転機をもたらせたとも言える。既に森・永田は、遥か西日本の広島・尾道でバカンス中であるが故にナンバー3であった坂口弘が連合赤軍を取り仕切る事となったのだ。

以降、事態は目まぐるしく展開する。

1972年2月6日、この日、山本保子が迦葉山ベースから脱走を図って成功する。岩田平治に次いで、二人目の脱走成功者となる。とはいえ、この山本保子は我が子を迦葉山ベースに残したままという不本意な脱走であり、夫・山本順一を殺害されていたが警察に出向く事はせず、身を潜めた。この山本保子のケースでは、ヘタに動けば乳児は殺害されてしまう可能性もあった。

山本保子の脱走を知らされた坂口弘は、山本保子が警察へ訴え出る可能性を警戒し、群馬県北東部の迦葉山を捨てて、群馬県南西部の妙義山へと新たな拠点を移す事を決断した。

坂口は、山本保子の子の面倒を任されている中村愛子に密命を託した。つまり、広島県尾道市へ行き、そこにいる森と永田に、迦葉山を捨てて、妙義山へと拠点を移すので、直ぐに帰還するように伝達する命令を下した。その命令を受けて、中村愛子は乳児を背負って迦葉山を下山し、広島を目指した。

また、坂口は、迦葉山へ来る前の榛名ベースを焼き払っておくべきと考え、この榛名ベースを焼き払う為に坂東国男をリーダーとする別動隊を組織し、その坂東率いる別動隊(前沢虎義ら8名)を榛名山へと向かわせた。

1972年2月7日、「この時以外に脱走のチャンスは巡って来ない」と考えていた前沢虎義(24歳)が脱走を図った。この別動隊が無事に榛名ベースを焼き払い終え、そこからバスと電車を乗り継いで迦葉山に戻ろうとして、バス待ちをしていた際、前沢は脱兎の如く駆けだして人だかりの中へ姿を消したので、坂東らは追い掛ける事もできなかったという。この前沢で3人目の脱走成功となる。この前沢も脱走後は、知人の家を転々と泊まり歩き、しばらく事態を静観した。

1972年2月8日、この日、金子みちよが息を引き取った。大槻節子と共に1月7日から正座を強いられる総括に掛けられ、1月27日には遂に縛り付けられながらも生き続け、その胎内には吉野雅邦の子を孕んでいたが、遂に力尽きた。金子みちよの遺体からは、身長40センチ、体重1650グラム、頭部には薄っすらと頭髪さえ生やした胎児があった事が確認された。

1972年2月10日、連合赤軍メンバーは妙義山へ移動を開始するが、山田孝は取り残され、12日頃に死亡している。映画「あさま山荘までの道程」では、山田孝は「森、オマエが総括しろっ!」とか「俺が死んで革命が成るなら喜んで死んでやる!」といったセリフを語った後に死亡する。また、同映画では、この山田孝の死亡後、坂口弘と永田洋子のやりとりが挿入されている。

坂口「総括って、何だか分からなくなりました。山田を総括する理由なんてありましたか?」

永田「あいつは分派主義者で、革命戦士になる気持ちが足りなかったのよっ!」

てな感じの、シーンが挿入されている。(『赤い雪』では山田孝の死については触れられているが、総括となった理由さえ書かれておらず、且つ、瀕死状態の山田孝を放置したのではなく妙義山へと運んだとし、その死亡日も2月14日になっている。)


警察は、この頃までに乳幼児を背負った不審な女・中村愛子を自殺志願者ではないのかとして、一時的に保護する等していた。また、榛名ベースを焼き払いにいった別働隊が電車やバスといった公共交通機関を使用していたが、彼等は昨年末からの山岳ベースでの生活で、殺人はするが風呂にはあんまり入らないという生活をしていたので、強烈な臭気を放っていたという。警察は、赤軍派や京浜安保といった過激派のアジトがあると睨んで本格的に捜査を始めていたのだ。



1972年2月16日夜、中村愛子から報告を受けた森恒夫と永田洋子は妙義山へと戻って来た。しかし、この頃、坂口弘や坂東国男は、警察の手が迫ってきている事を察知していた。

警察は、この頃までに、乳幼児を背負った不審な女・中村愛子を渋川駅から榛名湖畔へと送迎したタクシー運転手が、中村を乳飲み子を抱えた自殺志願者と疑い、旅館の主人やボート小屋の番頭に合図をして通報、中村愛子は一時的に群馬県警の高崎署に保護される等していた。警察に保護された中村愛子は友人に電話をし、身元引受人となってもらい解放された。解放された中村愛子は密命を果たすべく広島は尾道へ向かった。

(この乳児を背負った中村愛子が自殺志願者と勘違いされて警察に保護され、身元引受人の知人に引き渡されたという偶然は幸運に作用していた。中村がおぶっていた山本夫妻の乳児は、広島・尾道へ向かう前に中村が知人に預けた為、そのまま、あさま山荘事件の後に無事に保護された。)


また、榛名ベースを焼き払いにいった別働隊が電車やバスといった公共交通機関を使用していたが、彼等は昨年末からの山岳ベースでの生活で、殺人はするが風呂にはあんまり入らないという生活をしていたので、強烈な臭気を放っていたので東武バスの運転手から1万円札の受取を拒否される等の些細な揉め事を起こしていた。山岳ベースに籠もって異様な生活をしていた連合赤軍メンバーは、町場へ出れば、たちまちの内に不審者と見られるようになっていたのだ。(先に山田孝と奥沢修二がクルマを修理する為に町へ降りた際に銭湯に入って来て、それを咎められて山田孝は総括に掛けられたが、そういう事だったらしい。)

警察は既に群馬県に赤軍派や京浜安保といった過激派がアジトに潜伏していると睨んで本格的に捜査を始めていたのだ。2月8日に榛名ベースを焼き払った跡を発見。2月15日に放棄された迦葉ベースを発見。遺留品から手配中のゲリラ兵士らが付近に潜伏しているとして、警察庁は翌16日から本格的な捜査態勢をしく事を決定していた。

坂口弘と坂東国男も、警察の手が迫っている事に感づいていた。妙義山の山中の籠沢(こもりざわ)の洞窟を新たなアジトにしようとしていたが、その付近に警察が臨検を展開、それを察知し、連合赤軍メンバーは、籠沢の洞窟アジトから長野県境へに向かって脱出を図るという目まぐるしい攻防が、急転直下、始まっていた。

1972年2月16日昼、妙義山・籠沢の洞窟を拠点とした坂口率いる連合赤軍は、先発隊として坂口弘、青砥幹夫、植垣康博、杉崎ミサ子の4名が、奥沢修一の運転するレンタカーで偵察を試みた。すると、妙義湖付近で、前方からくる警察車両を確認。一行を乗せたレンタカーはUターンをしようとしたが、タイヤが泥濘にハマって動けなった。

その為、坂口弘は、運転手の奥沢修一と、杉崎ミサ子とに時間稼ぎをするように指示を出し、坂口は青砥と植垣を引き連れて、元来た籠沢の洞窟アジトへと駆け戻り、洞窟アジトに残っていた仲間6人に長野県方面へ逃げる事を命じた。警察の手は、すぐそこまで伸びている――と。

奥沢修一と杉崎ミサ子の時間稼ぎは徹底していた。ドアをロックして車内に籠城、警察官の呼びかけを無視し続け、缶詰を食べたり、大声で歌を唄い、更には小便も車内でする徹底ぶりで、この車内籠城は実に8時間にも及んだという。しかし、いつまでも車内籠城が続けられる訳もなく、奥沢修一(22歳)、杉崎ミサ子(24歳)は警察に捕まった。

1972年2月16日夜、ようやく森恒夫と永田洋子が群馬県の妙義山に到着。しかし、夜間の妙義山では身動きを取る事ができず、翌17日の夜明けと共に妙義山の籠沢の洞窟アジトを目指した。森恒夫と永田洋子は、既に、捜索をしている機動隊員と林道で遭遇する。

「どこへ行くんですか?」

「東京から来たテレビ俳優です。これからロケに行く所なんです」

と、咄嗟に嘘をついた。機動隊員から

「この辺に過激派が潜伏している可能性があります。危険ですから、これ以上、奥へは行かないで下さい」

と注意を促された森と永田は、その注意に従って元きた方向の林道へと引き返すフリをした。しかし、森と永田にしても一行と合流しない事にはどうにもならないので、林道から沢へと降りて、その沢づたいに籠沢を目指してた。しかし、その沢ルートで、またしても先ほどの機動隊員とバッタリと鉢合わせとなった。

永田洋子は登山ナイフを握り締めて機動隊員に飛び掛かってみせたが、あっけなく逆手をとられ、ナイフを落とした。森恒夫は特に抵抗することもなく、震えていたという。これによって連合赤軍・最高幹部の森恒夫、永田洋子の両名は逮捕となった。永田は「悔しいーっ!」と声を上げた。

(森恒夫は1973年1月1日、初公判を受けずして東京拘置所内で首吊り自殺を図って死亡。永田洋子は2011年2月5日に脳腫瘍によって東京拘置所内で獄死した。)



依然として連合赤軍の9名が、群馬県から長野県方面へと逃亡中という緊迫した状況となる。

籠沢から吹雪の妙義山を長野県方面へと14時間歩き続け、2月17日午前5時から夕方5時まで休憩。本来は長野県佐久市で抜ける筈であったが道に迷ってしまい、その結果、辿り着いたところは「軽井沢レイクタウン」という別荘分譲地であった。

ここで坂口弘率いる連合赤軍は、雪の中に穴を掘って待機する事とした。青砥幹夫(23歳)、植垣康博(24歳)、寺林真喜江(23歳)、伊藤和子(22歳)の4名が佐久市へと出て、佐久市で物資を調達し、後に合流する事とした。この時の残留組が坂口弘(25歳)、坂東国男(25歳)、吉野雅邦(23歳)、加藤倫教(19歳)、加藤元久(16歳)の5名であり、そのまま、「あさま山荘事件」と呼ばれる籠城事件を巻き起こす。

2月19日午前7時頃、青砥、植垣、寺林、伊藤の4名は軽井沢駅の売店でタバコや新聞を購入。しかし、この4名も異臭を放っていた事から、弘済会の店員が警察に通報。7時50分発の長野行き電車に乗り込んだところ、一斉逮捕となった。

警察は、群馬県警の機動隊470名を投入、更に長野、新潟、栃木、茨城、埼玉、神奈川の六県警の警察官、約1300名以上を投入する大捜査網を張った。

軽井沢レイクタウンの近くの雪穴に残留していた5人組はトランジスタラジオで、青砥ら4名が逮捕されたというニュースを聴いた。