2015年8月7日に放送されたNHKスペシャル「こうして憎しみは激化した〜戦争とプロパガンダ」をDVDにて視聴。なるほどなぁ…という内容でした。

太平洋戦争に於いて、アメリカでは、どのように情報宣伝が行われていたのかを検証した興味深い内容でした。元アメリカ海兵隊映像部のノーマン・ハッチ元少佐が、初めて「映像」として戦場を撮影することになった人物であったが、その内幕を語ったものでした。どのような経緯で、戦場が撮影され、また、その撮影された映像が利用されたのかというと、勿論、政府によって戦争を宣伝する目的で、それらの映像が使用されたものであったという。

太平洋上のタラワ島にて、初めて生々しい戦場を撮影する事に成功したという。塹壕に手榴弾を放り投げると、そこから日本兵が慌てて駆けだしてゆく。その日本兵を待ち構えていた米兵が狙い撃ちするのですが、カメラは、その銃を構えている米兵の直ぐ背後でカメラを回したという。本物の戦争、その現場の生々しい映像を撮影する事に成功した。カメラは、生々しい現場の映像を撮影し出したが、後に、それらの映像は米国民の戦意高揚、より具体的には戦時国債を売る為に利用されることになった。

モーゲンソウ米財務省長官は、タラワ島で撮影された戦地の映像を宣伝映画とし、戦時国債を販売することを思いつき、宣伝映画がつくられることとなり、これによって、790億ドルの戦費調達に成功したという。

次には、サイパン島が舞台となり、そのサイパンではバンザイクリフで知られるように、多くの日本の民間人が崖から飛び降りるなどした訳ですが、その映像もプロパガンダに利用された。「日本人は兵士だけではなく、民間人からしても狂気なのだ」と宣伝する為であった。

「映像の世紀」などでも使用されていた映像があって、その映像は崖から飛び降りる一人の女を映している。しかし、この「こうして憎しみは激化した」では、その映像には少しだけカットされた部分があり、その女は崖から飛び降りる前に、実は抱いていた赤ん坊抱いたまま崖下に追い込まれ、どうしよう、どうしようと、少し迷った後に、その赤ん坊を崖下に投げ捨て、その赤ん坊を投げ捨てた後に崖から飛び降りたというのが一連の映像であった。海兵隊映像部は、実際には、その母子の遺体が崖下に浮かんでいる映像も撮影していたが、憐れみを感じさせてしまうような映像はカットされ、ただただ、「日本人は民間人といえども、このように御国の為であれば自殺する事も厭わない異常な民族である」という主旨の戦時プロパガンダで使用された。赤ん坊を崖下に投げ捨てたシーンにしても、その異常性だけが強調され、そこに憐れみを感じないような工夫が施されたのが事実であったという。

このサイパンでは、映像にも収められている現地の日本人に投降を呼び掛けている映像も残っていた。その映像内で、実際に日本人に投降を呼び掛けていた海兵隊情報部のロバート・シークス氏が証言する。投降の呼び掛けは、日本語で、

「どうか出てきて下さい」

のように丁寧な言葉で呼び掛けたという。その頃の日本では軍民一体の傾向があり、兵隊だけではなく民間人も捕虜になるぐらいであれば…と、大勢が崖から身投げをしてしまう状態であった。なので、「出てこい」ではなく「出てきてください」と呼び掛けていたと証言する。まだ、この頃まで米海兵隊の現場には、そういう思考が残っていたが、米国本土では違っていた。すべての映像は戦意高揚、戦費国債を販売する為の宣伝映画として利用されたと証言している。

また、ピューリッツァー賞受賞者でもあるジョン・ダワーUCLA名誉教授の解説も入る。当時のアメリカには、モーゲンソウ財務省長官と、フォレスタル海軍省長官とが、戦争プロパガンダに積極的であったと説明する。財務省は戦費調達の為に、そして海軍省は戦意高揚の為に、それを必要としていた、と。

続いて、ペリリュー島へ。このペリリュー島では、アメリカでは新兵器を使用し始めた。130メートル先まで火炎を噴射できる火炎放射器であり、洞窟内に潜んでいる日本兵を焼き出すという戦法が用いられた。このペリリュー島攻略の頃になると、実は米海兵隊の中でも異常が発生していたと、元海兵隊情報部のノーマン・ハッチ氏が証言すると同時に、その眠っていた映像が紹介される。このペリリュー島の戦い辺りから、日米の対決は特に苛烈なものとなり、このペリリュー島では実に1万名もの米兵が死傷し、現場は地獄になっていたという。カメラは、大ヤケドを負った米兵や、米兵の死骸の山も移していたが、それらは厭戦気分を惹き起こす可能性があるとして検閲されたという。この頃、映像部のノーマン・ハッチ氏は検閲の任務についており、それを証言している。

番組内でも珍しい映像が流されていました。一人の米兵が船の上で何か泣き喚ているような映像でしたが、これはナチスドイツなどでも撮影されていた戦争神経症らしきものを発病した米兵の姿を撮影したものだという。異常な殺し合いを続けることによって、実は、この頃から精神に異常をきたし、異常行動をとってしまう海兵隊員が少なからず出ていたが、勿論、それらの生々しい映像は検閲された――と。

そして、硫黄島へ。有名な、すり鉢山の頂上で米国国旗を掲げる写真、映像、そして、そのブロンズ像がある訳ですね。有名な。しかし、あの写真や映像は、実際にはホントの映像ではなく、「英雄を作る為」の目的で作成された映像であり、写真であったという内情が語られる。実際にすり鉢山の上に星条旗を掲げた写真では、星条旗は小さすぎ、また、高すぎたので、改めて、海兵隊映像部によって映像として撮影され、また、あの有名な一枚の写真も、そこから配信されたものであったという事実が明かされる。

この硫黄島にはフォレスタル海軍省長官自らもやって来て、その戦意高揚に一役買ったという。既に、ヤルタ会談が行われており、つまりは戦後処理の問題が浮上していたが、それによって米国内が楽観ムードになる事を避ける為であったという。硫黄島では5万を超える死者が出て、そこら中に死体が転がり、死臭が漂う地獄のような有様になっていたという。

元海兵隊員が証言する。正確ではありませんが、以下のようなニュアンス。

「戦争というのは狂気であり、日本兵が米兵の死体を切り刻んだり、局部を切り取ったりしていた。だから我々も日本兵の死体に同じような事をしていた。これが戦争の現実です…」

と、齢90を超えた元海兵隊員が回想している。

しかし、戦争の必要性を国民に理解される為、或いは、その後の日本への都市攻撃を展開することになるが、その国民の戦意が落ちぬように、この硫黄島では「英雄的な美談」が必要となり、あの、硫黄島のすり鉢山に掲げられる星条旗の写真が必要になったのが、実状であったという。

そして、1945年8月9日には映画「敵を知れ」というプロパガンダ映画が米国で放映された。そこでは軍需工場と、軍需工業とは全く関係のない手工芸者らの映像が混合され、まだまだ日本人は全国民規模で戦争を継続してくるという主旨の内容になっていた。しかし、同映画が公開された1945年の8月9日といえば長崎に原爆が投下された日であった――と。


視聴後の感想も手短に。やはり、局部を切り取るなどの行為まで起こっていたのだな、また、日米双方で、それが起こっていた事を確認できたなという気がしました。露骨な話でもあるのですが、遺体損壊や、局部切断のような現象というのは、生身の人間が殺し合いをしてしまう現場では実は起こり得る話であるなという風に考える。報じられないだけ、語られないだけだろうな、と。ただ、このテのペリリュー島であるとか硫黄島などで、そういう事態になっていた事は初めて知りました。

朝鮮半島から中国に掛けて、そうした遺体損壊の話は、沢山残っている訳で、私の場合は下川耿史著『日本残酷写真史』(作品社)などにも目を通したことがあるのですが、同著などは、そのタイトルから受けるイメージとは異なるグロテスク本ではなく、実は真面目に憎悪の連鎖について著者の見解にも触れられている。(このあたりについては「下川耿史」という著者名で検索すれば、凡その検討はつくのですけどね。)

憎悪というのは、途中から歯止めが利かなくなる。「こんな酷いことをしやがって!」となると、その部隊は、その次には仕返しとばかりに似たような事、場合によっては、それ以上の残虐行為をし、次第に残虐行為に対しての、罪悪感などが薄れて行く。怒り、報復感情が、それを正当化させてしまうんですね。しかも、このテの問題は、どちらが先にどうだったというのが判断がつかない。兎に角、一連の連鎖の中で、そうした遺体損壊合戦が起こる。数年前にも米兵の遺体が晒し者とされ、それへの報復として軍事作戦が為された事がありましたし、確かイスラエル人の少年がガソリンを飲まされ、そのまま焼かれた事件などもあった気がしますが、もう、憎悪感情というのは増幅しながら連鎖し、また、集団的狂気の引金になってゆく。遺体損壊や、局部切断なんてのは、ホントは、そういう生々しい人間の憎悪感情の発現で、目を背けていたいたってホントはダメなんですよね。「そんなバカな」という反応ばかりの人というのは殺し合いのリアリズムに到達できていない可能性が高い。

そして、怖ろしい事に、そのように人と人とが憎悪をぶつけ合い、殺し合いをする状況になる事で、実は潤う人たちというのが存在する。しかも、それで潤う人たちは狆霾鵑鯀犧遒任ている瓩箸いΩ充造ある訳ですよね。「戦争と資本主義の密接な関係」、その核心かも知れない。

齢90を超えた元米海兵隊情報部の面々の証言は、「戦争というのはホントは地獄なんです。美談で済まされる話ではないんです。自分は任務だから、そうしたし、また、その後も生きてきたが、やはり、証言しておきたい、これが真実だ」という心の中の葛藤が、これらの証言されたような感慨も受けました。