1980年9月22日、イラン・イラク戦争が勃発する。

1980年6月頃からシャット・ル・アラブ川の国境地帯に石油利権が絡み、その領有を巡って、イランとイラクとの間で紛争が起こっていたが、この9月22日、サダム・フサイン政権のイラク空軍を使用した本格的な攻撃を仕掛けてイランとイラクとの全面戦争が勃発した。また、革命後のホメイニ体制のイランは各アラブ諸国に向けて、シーア派の決起を呼び掛けていたが、国民の過半数がシーア派であったイラクのサダム・フセイン政権にとっては非常に挑発に感じられたものという。

戦況は膠着したが、このイラン・イラク戦争ではソビエトがイラクの後ろ盾として有り、且つ、イランはパーレビー体制を引っくり返した為にアメリカの後ろ盾を失っている状態、且つ、アメリカ大使館人質事件中であった事からイランは国際的に孤立状態になっていた。イスラム教という意味でも分裂し、アラブ諸国もイラン陣営とイラク陣営とで分裂した。

ホメイニ体制のイラン支持には、シリアとリビア。

サダム・フセイン体制のイラク支持としてヨルダン、サウジアラビア。

そしてイラクに対しては、クルド人勢力が抗争中であったので間接的にクルド人武装勢力はイラクと敵対的な立場を採った。サダム・フセイン体制のイラクはクルド人の反抗に対して化学兵器の使用に踏み切るなどしていた。(サダム・フセインはイスラム宗派としてはスンナ派であり、政党としてはバース党であった。)

このイラン・イラク戦争は、1988年8月、国連安保理の調停まで継続した。また、双方がミサイルを撃ち合う人類史上初のミサイル戦争となった。死傷者は100万人とも150万人ともされる。

イラン、イラクは敵国の石油タンカーを攻撃するなどした為、世界的に石油価格が高騰、1982年頃を、第二次オイルショックと呼ぶ。1987年にはイラン軍がバスラ攻略で有利な局面に立つ中、国連安保理が即時停戦を採択して調停、劣勢のイラクは承諾したが攻勢であったイランは国連決議案(598号)を拒否し、サダム・フセインの処分を求めた。1987年夏以降になると、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエトがペルシャ湾内に展開した。(中立的であるが、イラク陣営へ肩入れした形である。)

1988年8月、イラクが攻勢に転じる。イラクはイランの都市や石油施設へのミサイル攻撃を強化し、占領されていた領地も回復した。劣勢になったイランは国連決議598号を受諾した。

1981年10月1日、PLOのアラファト議長が来日を果たす。

1981年10月6日、エジプトのサダト大統領がイスラム・ジハード団に爆殺される。

この頃までにエジプトのアラブ離脱、イラン革命、イラン−イラク戦争によってパレスチナ情勢も目まぐるしく変わり、反イスラエル勢力は、シリア、リビア、アルジェリア、南イエメン、PLOという陣容に変わっていた。

1982年6月4日、在ロンドンのイスラエル大使館が襲撃された事件を契機にして、イスラエル軍がレバノンへ侵攻する。このイスラエル軍はレバノンの奥深くまで進攻し、首都ベイルートをも包囲する。(注:「レバノン内戦」及び「イラン−イラク戦争」は終結しておらず、継続中。)イスラエル軍は、レバノン国内のキリスト教右派勢力と1976年頃から同盟関係にあり、一気に攻め上がった。

この頃までにPFLPや日本赤軍といったパレスチナ武装勢力の遊撃部隊は「ハイジャック闘争」を終結させた。PLOのアラファト議長の国連を通して国際社会を味方につける路線が一定程度、浸透していた。

アメリカ大統領はロナルド・レーガンが就任、アメリカは大胆な路線変革を行なった。レーガン政権の中東和平プランは、。丕味呂魯謄蹈螢好箸覆里脳鞠Г任ない、▲僖譽好船平佑魯ザ地区西岸で一定の自治権を認めるが国家建設は認めない、であった。パレスチナ解放勢力は猛反発。

イスラエル軍によるベイルート包囲は、1983年にレバノンの山岳地帯の左派勢力、バース党、シーア派、アラブ諸勢力など16勢力が結集し、レバノン救国戦線を展開するなどしてパレスチナ解放勢力は膨れ上がった。

1982年8月、PLO本部がベイルートからチュニスへ移転する。

1982年9月14日、次期レバノン大統領候補であったバシール・ジュマイレルを含む民兵組織レバニーズ・フォーセスの関係者ら約50名が爆殺される。

1982年9月16日から18日にかけて、イスラエル占領下のベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでパレスチナ人に対しての数千人規模が虐殺されたという大量虐殺事件が発生した。虐殺を行なったのはレバニーズ・フォーセスという民兵組織であったが、虐殺にはイスラエル軍の関与が疑われた。イスラエル軍の照明弾が打ち上げられ、その照明に照らされる中、夜通しレバニーズ・フォーセスが虐殺を行なったものという。ジュマイレル爆殺の報復行為であったと思われるが、泥沼化する。

1982年11月、シーア派の民兵組織であったアマル(希望の意)から、ヒズボラが分派して独立勢力となる。ヒズボラとは現地では「ヒッズブラー」と発音し、その意味は「神の党」であるという。

1983年4月18日、在ベイルートの米大使館を襲撃が行われ、7人が死亡し、120名が負傷する。

1983年10月、ベイルートの米海兵隊本部と仏軍施設で2台のトラックによる自爆テロ事件が発生し、241名が死亡する。多くの被害者はフランス兵であった。

この1983年の2つのテロ事件は特定の組織が行なったのか定かではないが在レバノンの武装勢力と思われ、多国籍軍として西ベイルートに展開していたアメリカ軍とフランス軍は撤退を余儀なくされる。

ここでレーガン政権は中東政策を刷新する。レバノン武装勢力に支援をしていたイランを打倒すべく、イラン−イラク戦争の渦中であった事からレーガン米政権は、1983年頃からイラクのサダム・フセイン政権への支援を開始し、イラク包囲網を形成する。(ラムズフェルドがイラク訪問を果たし、サダム・フセインと会談した。)

1984年1月、レーガン米政権はイランを「テロ支援国家」と非難する。

1984年2月、ベイルート包囲は解かれる。

1984年3月、ベイルートでCIA支局長が誘拐され、殺害される。

1985年5月、アメリカ軍がリビア(カダフィ政権)を空爆する。

1987年12月8日、ガザ地区でイスラエル軍のタンクローリーが衝突、パレスチナ人4名が死亡する事故が発生。事故の処理が不公平だとして抗議が起こっていたところへイスラエル軍が発砲、その発砲で少女が死亡した事から反イスラエルの気運が一斉に広がり、インティファーダ(民族蜂起)となった。インティファーダはUNLPOUT(被占領地人民蜂起民族東一指導部)という統一戦線からなり、被占領地の勢力であったPNF(パレスチナ民族戦線)にファハタ、PFLP、パレスチナ共産党などが加わったものであった。

1988年2月、UNLPOUTからアハメド・ヤシン師によって「ハマス」(イスラム抵抗運動)が結成される。

1988年4月、PLO副議長のアブ・ジハードがチュニスでイスラエルに暗殺される。

1988年8月20日、イラン−イラク戦争がイランのホメイニ師が国連安全保障理事会の停戦決議を受諾し、ようやくイラン−イラク戦争が終結する。

レーガン政権は、このイラン−イラク戦争中にイランと対峙していたが秘密裡にイランに禁輸武器を販売、その武器売却代金の一部をニカラグアの反政府組織であるコントラ(コントラ・レボルシオナリオ、反革命分子の意)に流していた「イラン=コントラ・スキャンダル事件」が後にレバノンの新聞に報じられ、大スキャンダルとなった。最終的にホワイトハウスは事実を認めた。