国会中継を時間のあいている時間で視聴しているのですが、凡その受け止め方について。先ず、第一の感想としてですが、現在、安倍総理の消耗が非常に激しいなと感じています。新型コロナウイルスの問題が浮上していた今月初旬の金曜日だから、おそらくは7日の15時55分ぐらいだったと思いますが、NHK総合のカメラが、ほんの一瞬だけ安倍総理が居眠りしているかのような映像を映したでした。腕組みをしていたかどうか定かではありませんが椅子にもたれ掛かって目を閉じており、船こそ漕いでいませんでしたが、「おや? 居眠りをしているのか?」と感じ取れる一瞬で、また、それはほんの一瞬の事であり、直ぐに画面は総理の姿からスイッチングしてしまったので、実際に居眠りをしていたのかどうかは判然としない。仮に週刊誌が、その一瞬をカメラで撮影していたら完全に居眠りをした写真になったと思う。とはいえ、そこから感じ取れたのは「お疲れの様子ですな」という感慨でした。

(並びは、安倍総理の隣に麻生副総理、その隣に茂木大臣であり、総理と副総理は目を閉じて質問を聴いており、麻生副総理は目をつぶっていても居眠りしていなさそうな雰囲気を出せるのですが、安倍総理の場合は目をつぶって背もたれにもたれ掛かっていると、寝てしまっているように見える。)

そして、騒動になっている辻元清美議員とのやり取りも生中継で視聴していました。視聴している限りでは、さほど挑発的にも感じませんでしたかね。いつもの事といえば、いつもの事であった。なので、安倍総理が不規則発言をしたというのは、率直に言ってしまえば、さほど意味などなく、イライラしていたものと思う。議会が紛糾しても、しばし、謝罪を拒否していた態度からも、総理のイライラを感じ取れたと思う。

同時並行進行で、新型コロナウイルスの問題があり、週刊新潮が「アベノウィルス」といった言葉を使用して批判した時期とも合致しており、おそらく、安倍総理個人にしても精神的ストレス(イライラ)は、相当、高まっていた時期であると思う。言ってしまえば、総理にしても一人の人間であり、全方位的に全ての問題に精通して裁可していると考えるのは誤まりであり、そのような錯覚はすべきではないと思う。

この問題は、近年、しばしば散見していると思う。マクドナルドの中国工場で落下していた不衛生な状態が映像として流出した際、マスメディアは「最高責任者が記者会見を開いて謝罪すべき」のような論調を張った。一工場、その工場内の一部の従業員が犯した不適切について、どれだけ最高責任者が事情を熟知していると思っているのかという、空々しい問題がある。工場長レベルが実際には事情に精通しているものと傍目にも分かるが、他罰的傾向が強い現代社会では、そうならず、クレーマー的に「お前じゃ話にならんのじゃっ! 社長を出せっ!」と喚いてしまうのだ。

石原慎太郎元知事に係る問題でも同様であった。山のように机の上に積まれてしまう書類にハンコをつく訳ですが、実際問題を考慮すれば、それは、いわゆる「盲目判」にならざるを得ないという実状がある。逆に、一字一句に目を通し、物事を把握し、熟考し、裁可しているというのは、組織に於けるタテマエであり、当然、各事案に精通している本当の人間は経営トップや首長ではない。「末端のことまで知事が掌握している訳がない」という問題は、かの橋下徹元大阪府知事も記者らに声を荒だてた事があったと思う。この問題は「実際論」と「建前論」とのズレであろうなと思う。道義的な責任者、それこそ「最高責任者」などという言葉に反映されていますが、それは組織図上の建前であるという理解が低いんですね。第三者的にして机上の理屈として、そういうズレが生じる。

この数日来、CIAやFBIについての書籍に目を通していましたが、実際の組織とは当然、独裁的リーダーを仰いでいる訳ではなく、権限こそ独裁的であれども、諸問題に実際に当たっているのはリーダーではない。そこには、まやかしが厳然として存在している。ホンネとタテマエ、ですね。そのズレを無視するのは胸先三寸であり、しばしば、クレーマー気質の者は、その建前を利用して相手を責め立てて、責任追及に走る。まさしく、他罰の論理でもある。しかし、そうすると実相とはかけ離れた部分で、批判合戦をする事になる。

本当は現在の新型コロナウイルスの問題などは、誰がリーダーとなって意思決定をするにしても、どうやっても批判が起こる事案でしょう。どうすることがベターなのか、ベストなのか、知っているのであれば教えてくれ状態なのが、実相であろうと思う。当然、このテの話には政治家としての分野と感染症対策に精通した専門的な知見に基づく分野とでは、持っている情報も見識も異なる訳で、トップは何もかもに精通しているべきだとして攻撃する態度というのは、本来的な「話し合い」や「議論」や「議会」から離れてしまう。相手を懲らしめる為の「場」と混同すべきではないのですが、混同が起こる。攻撃的、責任追及的、他罰的な態度をとることに現代人は慣れてしまったのだと思う。


さて、17日、前原誠二議員が日本郵政にかかる質疑を行なっていた。論旨は、日本郵政の株式を政府が50%以上保有している事が、郵政民営化を阻害しているという主旨であった。郵便事業を請け負わせている事、また、全国郵便局を2万4千件の維持を課している事、更には株主配当が高配当になっている事などを挙げ、それらの条件下では郵政三社の株価が上がる訳はないのではないかという質問であった。視聴していて、「あー、その問題を取り上げちゃったかぁ…」と感じました。或る意味では事実を指摘している。元をただせば、郵政民営化には無理があったのだ。麻生副総理が途中で答弁に立って、「自由化せよという御指摘ですが、現在、どこの金融機関も融資には苦労しているのが現状で、自由化させても…」と、これもホンネの答弁であったと思う。安倍総理も含めてですが、実は小泉政権下で行なった郵政民営化は、或る種の見切り発車であった訳で、あの郵政公社を民間企業にしろっていったって、理念先行で実際には現在のような事態に陥ることは目に見えていた。ホンネは安倍総理、麻生副総理も郵政民営化反対であっただろうから、皮肉なものだ。とはいえ、今になってから再び、どうにかする事もできない。なので、混乱を最小限にする為に株式を国が保有し、一方では制限を課すことで、どうにかこうにか維持している。仮に民営化や自由化を更に推進させれば、郵政民営化の失敗は、より顕在化してしまう、それが実相でしょう。

新自由主義ブームが残してくれた面倒な遺産になってしまった訳ですが、愚痴っても、どうしようもないから、こうなっているというのが現状だ。前原議員は自由化を推進させるべきだ、そうすれば企業価値を郵政三社が自力で上げてゆくことも可能になる、自由化とはそれだという主旨であったと思いますが、それが新自由主義の罠である訳ですね。新「自由主義」の名の下に於いて、御荷物を合理的に処分する。自由に成長させてやるべきといい、実際には自由に低迷させてゆく訳だ。不可能に決まっているのに、自由を押し付ける悪手ですな。しかし、政治は、そういう事をやる可能性がある。自分さえよければ、他人の事はどうだっていいやというのがホンネとして隠れている。タテマエというのは、怖ろしいものだ。

石原慎太郎さんは、都知事になるずっとずっと昔に質問者から「もし戦争になって徴兵で引っ張り出されたら?」と問われ、「逃げちゃう」と応じていたという。マッチョになって以降の石原慎太郎さんの印象が強烈なだけに、「そんな意外が過去が? 古市憲寿さんじゃなくて?」となってしまいそうですが、本当の基本の基本、本音中のホンネは、それでしょうねぇ。そこからスタートしていないと、物事の本質は見えて来ない。おそらく、石原慎太郎さんの場合は、若き日に作家として登場した頃にはそうであったが、日米安保の挫折、そして「NOといえない日本」へとたどり着き、そこに法華経の影響を受けてから、あのマッチョ的な思想へと転身転向したものと考えられる。

人間のホンネや、物事の本質を正確に理解する事は、結構、重要、いやいや、ホントは非常に重要なのだと思う。建前に依拠し、建前論だけを叩かせても、そこには本質もホンネもない。

辻元清美議員を巡っての安倍総理の不規則発言についてですが、到って平坦、なんの感慨もない。辻元議員側からすれば、はぐらかし答弁に業を煮やしていたと思われ、おそらく、連続して「さくらをみる会」の問題で「はぐらかし」に遭っていた。「調べて下さいよ」なのだが「調べない」という総理の態度に業を煮やすのは必然といえば必然であり、それが最後の「鯛は頭から腐る」という発言に結び付いたものだと思う。諸々のコンディションの悪い安倍総理は、その最後の捨てセリフが気に入らず、不規則発言に及んだ訳ですが、さして重要な問題でもなんでもない。場外乱闘というか、感情が顕わにした小競り合いに過ぎない。