野口英世について。

1893年、福島県の若松会陽医院に入門し、薬局生となる。

1896年、上京して高山歯科医院の学僕となる。

1897年に済生学舎に学び、10月、医師開業試験に合格。

1897〜1898年にかけて順天堂医院の助手となる傍ら医学雑誌の編集にあたり、且つ、北里伝染病研究所の助手となり、細菌学の研究に入る。この頃、「清作」を「英世」に改名している。

1899年、横浜・長浜開港検疫所の医官補となり、次いで清国の牛荘で発生したペスト治療に日本医師団の一員として作家した。

1900年、渡米。ペンシルバニア大学サイモン・フレクスナー教授の助手となり、毒蛇の研究に従事する。

1903年、カーネギー研究所の助手となり、ガラガラヘビの抗毒血清を発明。(デンマーク国立血清研究所に留学。)その後、ロックフェラー研究所に勤める。

1911年、梅毒トレポネーマ(スピロヘータ)の純粋培養に成功したと発表する。

1913年、麻痺性痴呆患者の脳中に梅毒トレポネーマの関与を証明する。

1915年、帝国学士院から恩賜賞を授与される。

1918年、中部アメリカや南アメリカで熱病を研究、エクアドルに流行中の黄熱病病原調査に参加し、その病原体を発見した。

1923年、帝国学士院会員に推される。

1928年、アフリカで黄熱病の研究をしていたが黄熱病に感染し、ガーナ国の首都アクラで死亡した。

2004年からは、いわゆる千円札の肖像にも選定されている。

いわゆる偉人伝にも描かれている偉人であると、認識されている。


しかし、この野口英世には既にテレビ番組や週刊誌などでは35〜40年前頃から、様々な形で、実は、非常に奇妙な人物であった事が紹介されていた記憶がある。人物としての評判が非常に悪い。それでも功績に誤まりはないのだろうとも思うものの、実は問題だらけだという。以下、福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(講談社学術新書)に沿って――。

前段にも名前が登場しているサイモン・フレクスナーは、「米国に於ける近代基礎医学の父」と冠される人物であり、同時にロックフェラー医学研究所の創設にも貢献した人物であるという。このフレクスナーは、1899年に訪日し、その際、燃えるような野心的な日本人青年であった野口に一種の社交辞令として大いに励まし、同時に「支援を惜しまない」と伝えた。

するとフレクスナーの元に本当に野口が押し掛けてきてしまった。帰る宛てもなく押し掛けてきてしまったのでフレクスナーは実験助手の仕事を与えた。

その後、フレクスナーの庇護の下、野口は次々と輝かしい発見を立て続けに生み出した。梅毒、ポリオ、狂犬病、トラコーマ、黄熱病の病原体を培養したと発表し、その当時としては破格の二百編もの論文を書いた。その為、一時的に野口英世の名はノーベル賞候補とも囁かれ、そればかりかパスツール、コッホ以来のスーパースターとして崇められた。ロックフェラー研究所にしても、フレクスナー博士が日本から連れてきた日本人青年「ノグチ」の御蔭で、その名を高める事に成功したという。

以下、着色文字は引用です。

パスツールやコッホの業績は解きの試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられていない。彼の論文は、暗い図書館の黴(かび)臭い書庫のどこか一隅に、歴史の澱(おり)と化して沈み、ほこりのかぶる胸像とともに完全に忘れ去れたものとなった。

野口の研究は単なる錯誤だったのか、あるいは故意に研究データを捏造したものなのか、はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか、それは今となっては確かめるすべがない。けれども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいなまれていたことだけは間違いないはずだ。その意味で彼は典型的な日本人であり続けたといえるのである。

野口の研究業績の包括的な再評価は彼の死後五十年を経て、ようやく行われることになった。それもアメリカ人研究者の手によって。イザベル・R・プレセットによる“Noguchi and His Patrons”(Fairleigh Dickinson University Press,1980)がそれだ。本書によれば、彼の業績で今日意味のあるものはほとんどない。当時、そのことが誰にも気づかれなかったのはひとえにサイモン・フレクスナーという大御所の存在による。彼が権威あるパトロンとして野口の背後に存在したことが、追試や批判を封じていたのだと結論している。(邦訳『野口英世』〔中井久夫・枡矢好弘訳〕星和書店、一九八七)。


2008年頃に目を通していたのに細部を忘れていましたが、これ、物凄くSTAP騒動の際に参考に出来た一連であったかも知れないなぁ…と気付きました。「大御所のパトロンが背後についていたので追試や批判が封じられていた」という箇所と、「錯誤なのか捏造なのか自己欺瞞で事実を見極められなくなっていたのか?」とまで、野口英世を説明する箇所で福岡ハカセは言及していたんですね…。日本を二分したSTAP騒動は2014年だった事を考慮すると、なんだか惜しまれる。思いの外、あの問題の真相を巡っては迷走に付き合わされた記憶がある。まさかそんな事はないだろって思ったものでしたが、よくよく考えれば、その問題が研究者の人間性とも関係しているという仮説は、そんなに難しくなかったのかも知れない。野口英世を評して述べられているように、過剰な反応(過剰に恩に応えねばならないと過剰な出世欲の持ち主が過剰に気負っていたならば…)は、大いに基本的事柄として疑えた話だったのかも知れない。

さて、何故、野口英世の功績のほとんどは今日では意味がないのか。この種明かしも為されている。答えは簡単で、野口英世の時代は顕微鏡で病原体を探していたが、当時の顕微鏡で見つけることができるのは「細菌」の類いで、細菌よりも遥かに微小な「ウイルス」は、そもそも見つけようがなかったのだという。だから、考えられるのは病原体とは異なる病原微生物を野口は発見し、それを病原体だと結論し、発表していたと思われるのだそうな。何かしらの不徹底によって研究用の試料の中に異物混入などが起こり、それを見て、何かしらの錯覚が起こってしまう等々が考えられる。これがあったとか、こういう現象を確認できたとか、これが培養できたとか、色々と起こり得る訳ですね。

人間の心理として、スライドガラスとカバーガラスとに対象物を挟み込み、顕微鏡のダイヤルで焦点を絞ってゆき、そこに何か微細な動くものを発見してしまうと、「なんだこれは!」と大いに精神的昂揚をしてしまうものかも知れない。我田引水なタイプの人というのも確かにあって、途端に「これは大発見をしてしまったぞ!」と興奮する感覚は、なんとなく分かりますやね。その人の性格にもよるでしょうけど。

そう考えると、屈斜路湖のクッシーだの、比婆山のヒバゴンあたりの目撃談なんてのも、そんなものかも知れませんやね。錯覚か捏造か、それらの関わったもの。井上円了の妖怪学で言えば、偽怪(捏造)か誤怪(錯覚)となる。

因みに、野口英世については、ロックフェラー大学2004年6月発行の広報誌には、次のような一節が掲載されたという。

彼の業績、すなわち梅毒、ポリオ、狂犬病、あるいは黄熱病の研究成果は当時こそ賞賛を受けたが、多くの結果は矛盾と混乱に満ちたものだった。その後、間違いが判明したものもある。彼はむしろヘビイドランカーおよびプレイボーイとして評判だった。結局、野口の名は、ロックフェラーの歴史においてはメインチャプターというよりは脚注に相当するものでしかない。

ヘビードランカーでプレイボーイとして米国でも有名であったという事か。日本国内でも助手から嫌われていただの、カネを返さないだのという悪評が多かった事からすると、人格に問題視すべきものは多そうな気もしますね。自己顕示欲の塊みたいな人物だったのかも知れない。

福岡伸一さんは少し前の引用箇所部分になりますが「その意味で彼は典型的な日本人であり続けたといえるのである。」と野口英世の性向について記していましたが、この恩に報いなきゃ、功績を上げなきゃ、みんなを見返さなきゃと過敏に反応するが余り、足元を見失い易い特性ってのが「典型的な日本人」って事かも知れませんやね。和辻哲郎が『風土』の中で、日本人は非常に慎重、非常に注意深いが性向があるが集中力はそんなに持続しないと分析していたし、軍隊の特性なんてのも日本人は「とにかく手柄を立てるのだ。それ以外の事はどうでもいい」というタイプらしい。