長部日出雄著『天皇はどこから来たか』(新潮社)で紹介されている神話を備忘録として。

前掲著では、これは日本の「天岩戸」の神話に似ているのではないかとして挙げたのが、次のものでした。例によって着色文字は引用です。

ギリシャにおいては、麦の耕作を司る地母神デメテルが、最愛の娘を冥界の王プルートンに誘拐されたのを悲しんで、山中の洞穴に隠れ、もはや自分は神としての役目を果たすまいと決心して断食したので、大地は痩せ、世界は飢饉に陥る。

人が食事を勧めても、頑として受けつけなかったが、バウボという女が着物の裾をまくって陰部を見せると、おもわず笑いだして、食事をする気になり、やがて大地には豊かな実りが取り戻された……。


なるほど、ピッタリと一致しているものではないが、女性神が穴の中に籠もってしまい、その事態を解消したのは、また別の一人の女であり、しかも、その女が着物の裾から陰部を見せ、それで思わず、穴に籠もっていた女神が穴から出てきたという筋書きは似ているようにも思える。日本神話とギリシャ神話との間に、このような共通した神話が残されているというのは、何やら不思議な気もしてくる。

日本神話の場合は、スサノオが狼藉を働いたので、日の女神であるアマテラスが岩戸の中に隠れてしまい、この事によって世界は太陽を失ってしまった。なんとかアマテラスを岩戸から出そうとして、他の神々が行なったのは、アメノウズメによる歌舞であり、現在で言うところのストリップショーであった。アメノウズメは歌舞をしている内に着物を開けさせ、遂には陰部をも表してしまった。神々はやんやの喝采。岩戸の中はアマテラスは、この騒ぎは何だろうと自ら岩戸を開ける。斯くして、再び、太陽が世界を照らすようになった。

因みに、このアメノウズメは、どうやら天津神系の神であるが、国津神のサルタヒコと夫婦となり、猨女として祭神にもなっている。しかも、サルタヒコが天津神系の人々の前に立ち塞がった際、そのサルタヒコを懐柔したのも、このアメノウズメであり、この際にもアメノウズメは国津神系の神々の前で着物を開けさせ、陰部をチラつかせて、懐柔したという。それを考慮すれば、アメノウズメは原初の時代の歌舞の名手であり、謂わばストリッパーのような性質を持っていた神であったのだろう――となる。(実際問題としてセクシーなダンスってのは、西暦2020年の現在でも世界中で大人気ですしねぇ。日本の場合、神話のアメノウズメはセクシーダンスの元祖みたいな存在かも知れない。)

「邪視」という呪術にも触れましたが、古代、女性が男性に目眩ましを仕掛ける常套作戦であったとされる。総じて、襲い掛かってきたり、立ち塞がるのは男性の兵士であったりする訳ですが、そこで女が陰部を顕わにすると、必ず、男の視線はそこに向かうので、隙が生まれる。冗談のようですが、ホントだと思われ、これが、もしかしたら現在、心理学とか超心理学の実験などでも、やっていますね。スライドにランダムに写真や絵を表示してゆき、男性被験者の場合、女性のヌードグラビアがスライドにアップされると瞳孔が開き、女性被験者の場合でも、男性のヌードグラビアが表示されると同じ反応が見られる。殆んど、生理的に反射してしまうものなのだ。古代の呪術は、その技術を当たり前に応用していた事になる。

また、軍隊と裸婦との関係もある。山本茂の著書の『歴史読本』シリーズに記されていたと思いますが、古代ローマ帝国の軍隊の先頭を歩いていたのは、裸婦であり、おそらくは、兵士たちの性処理係であったと思われるが、それだけではなく、裸婦たちは踊りや歌によって軍隊の士気を高めていたと思われる事、また、遠征先で対峙する事になる敵対勢力は、裸の女たちを見る事で、まともな戦が不可能になる事が予想される。或る者は、女体に歓喜して懐柔できてしまうであろうし、戦争の意志を明確に持った兵士であっても全裸の美女に目を奪われない筈がない――というのが、カラクリだと記している。つまり、一見、裸の女が陰部を晒した話なんていうのは、学術的にはけしからん話じゃないかと思ってしまうものなんですが、ホントは原始社会であれば原始社会であるほど重要な事柄であったりする。ボノボ。


それと、長部日出雄著『天皇はどこから来たか』では、長部自身がフィリピンのルソン島北部の山岳地帯で、収拾したという洪水神話についても記されている。洪水神話が世界各地に分散して存在しており、興味深いので、日本神話とは離れて備忘録としてイフガオ州のマヨヤオなる地にある伝承の内容を記録しておきたい。

遠く遥かな昔、イフガオは天国のような場所であった。大きな谷間の真ん中を河が流れ、人々は森で鹿や野ブタを狩り、川で魚を採り、ほとりの田を耕して、何不自由なく生活していた。

ところが、或る時から日照りが続き、作物が実らなくなり、川の水も干上がってしまい、多くの人が飢えと渇きによって死んだ。

雨乞いをしても、中々、その問題は解決しなかったが、或る時、一人の老人が

「水が涸れたのは、川底の神様が眠っているからである。その神様の目を覚ますには、川床の真ん中に深く棒を打ち込んで、穴を掘ればよい」

と提言した。

その通りにすると、4日目には川床に空けた穴から、こんこんと水が沸き出し、空かも雨が降って来た。

人々は、大喜びしたが、今度は、湧き出る水が止まず、空から降る雨も止まず、大洪水になってしまった。イフガオの村は、とうとう水中に没してしまった。

水面から顔を出していたのは、アムヤオ山という山であり、そのアムヤオ山の頂上に、ビガンという若い男が住んでいた。世界中は大洪水となって水没し、世界中で生き残っているのはビガンにしてみれば、自分一人だけだろうと途方に暮れていた。

ビガンは、水面の遥か向こうに立ち上る一筋の煙に気が付いた。アラウイタン山の頂上も水没を免れており、そこから煙が立ち上っていたのだ。自分以外にも、まだ、この世界に生存者が残っているのだなと思い、ビガンは水が引いてから、アラウイタン山の頂上へ行ってみた。

アラウイタン山の頂上で生き延びていたのは、ビガンの姉であるウイガンであった。未曾有の大洪水で、この世に生き残ったのは、ウイガンとビガンの姉弟だけ。この姉弟は結婚して沢山の子供を設けた。このビガンとウイガンによって、現在の世界は始まったのである――。

上記が、ルソン島の北部の山岳地帯に残っていた神話だというのですが、実はレアですね。非常に貴重だと思う。

大干ばつを雨乞いで解決したというクダリは中国神話に似ている。他方、その雨乞いが仇となって、世界が壊滅したという大洪水譚は、これはギルガメッシュ叙事詩、ノアの箱舟、インドの洪水神話にまで共通している。少し「おやっ」と感じたのはインドの「マヌの洪水神話」とも似ているような気がする。

未曾有の大洪水によって、「崖の上のポニョ」よろしく、飼っていた魚の予言に導かれ、大洪水を生き抜いたマヌという男がいた。世界中に生き残ったのはマヌ一人であった。マヌは、バターをなどを捧げていると、そのバターから、娘が生まれた。バターから生まれた娘はマヌの娘となり、マヌと、そのマヌの娘が結婚して子供を設けて、この世界が始まった――という。因みに、マヌの元へマヌの娘を連れてきたのはミトラ神とヴァルナ神であるというから、何やらアーリア人に係る宗教とか伝承なども、ところどころに紛れ込んでいる。

さほど、日本神話とは関係がないだろうと捉えますが、やはり、川床に棒を立てて穴を掘り、そこから、水が際限なく沸き出したクダリが気にならないでもない。長部日出雄は日本の柱信仰にも取り組んでいる訳ですが、その棒というのは、つまりは柱であり、おそらくは男根を象った何かであり、リンガとも関係し、且つ、柱信仰とは即ち森信仰であり、巨木信仰でもある。しかも、その棒は谷間を流れる川に突き刺されたというのが、そのルソン島北部山岳地帯の神話である事を念頭に置くと、こりゃ、生殖行為そのものですな。柱という棒を、川という割目に指して、水が沸き出したという事だから。

拙ブログ:マヌの洪水神話について〜2012-08-04

拙ブログ:世界の洪水神話〜2014-07-10