2017年刊行の『証言〜UWF最後の真実』(宝島社)では、前田日明、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのる、安生洋二、山崎一夫、田村潔司といった人物らが、UWF分裂劇について語った証言を収録しており、キーマンの内の佐山聡、高田延彦を欠いているものの、おおよそ、その誕生から分裂までの経緯が語られている。
このUWFの問題、私自身は前田日明派として物事を見ていたのですが、後年になって「前田日明」への不満の声らしいものが多々あるように思えるようになり、一体全体、何だったんだろうと捉えていたのですが、証言を搔き集めたものを目にしてみると、なんとなく自分なりに、その分裂劇の実相のようなものも見えてきてスッキリとしました。なんだかんだいって、既に名前を挙げたUWF出身とかU系と呼ばれたプロレスラーは、それなりに一時代を築いたプロレスラーであり、確かに記憶に残っている。確かにUWFブームみたいなものが、1983〜1984年にかけて大いにも盛り上がったのを記憶している。新しいスタイルのプロレスの登場であり、途中からは新しい時代の到来、その象徴のように輝いて見えたのは確かですかねぇ。
1983年8月10日、初代タイガーマスクとして四次元プロレスを披露していた佐山聡が、新日本プロレスとテレビ朝日とに内容証明郵便を送り付け、新日本プロレスからの離脱を宣言する。佐山聡の新日本プロレス離脱の意図は判然としない。しかし、この佐山聡は、いわゆる第一次UWFを語るには欠かせぬ人物である。第一次UWFでは、その看板選手は前田日明であったが、そこに「スーパータイガー」の名前で佐山聡も参加しており、この佐山聡のシューティング構想が第一次UWF崩壊劇の元凶のように語られている。
この佐山聡については、70年代から猪木が「ウチの佐山はあらゆる格闘技を身に着けていて…」という具合に語っていたような記憶があるし、梶原一騎が主催した「格闘技大戦争」に参加、そこで佐山サトルは、プロレスラーであったにも関わらず、マーシャルアーツ(これは全米プロ空手と訳されていた)のマーク・コステロとキックボクシングルールで対戦、ただただ、6ラウンド、押され続けたまま、判定負けしたという異種格闘技戦を経験していたという。これ、視聴した記憶があるかな。まったく見せ場のない凡戦であったと記憶している。猪木が「佐山サトル、佐山サトル」と名前を出していたのでホープなのだろうと思っていたものの、その試合は殆んど何も出来ずに敗北した試合であった。
1977年11月14日、日本武道館に於いて「格闘技大戦争」の興行があり、そこで佐山聡は、キックボクシングルールで、全米プロ空手のマーク・コステロと6回戦を行ない、ほぼ見せ場ないままに判定負けを喫した。これが、起点であったと思われる。この佐山サトルVSマーク・コステロ戦について、前田日明と藤原喜明とが語っている。
藤原の弁
「あの試合は素晴らしかったよ。だって、あのときの佐山はキックの練習を始めて半年ぐらいだよ? それが6ラウンドだか7ラウンドまでやりきったからね。殴られても蹴られても、最後までたってだろ? ほかのヤツだったら、1ラウンドでもう立ってられないよ」
前田の弁
「俺らが新日本の若手だった頃、当時の猪木さんは神様みたいに偉い人っていう感じで、みんなが『社長! 社長!』って尊敬していて、とくに佐山さんなんかは『猪木さんは神様』っていう感じだったんだよね。それで猪木さんもそういう佐山さんをかわいだっていて、『佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ』って言ってたんだよ」
そんなニュアンスがあったような気がする。そうじゃないと、そういうルールで戦わせないだろうし、おそらくはテレビカメラの前でも、そういう発言をしていたのではなかったかなぁ…。だからこその、コステロ戦であった。しかし、実際には、佐山は何も出来ぬままに判定負けしてしまったのだ。佐山サトルの才能は本物であったが、さすがにキックボクシングのルールで戦うってのは、見通しが甘かったんでしょうねぇ。
再び前田の弁
「佐山さんが武道館でやったキックのマーク・コステロとの試合で、なにもできずに負けちゃったでしょ。あれがたぶん猪木さんのなかで凄いショックだったんだろうね。『佐山ならいけるだろう』って思ってたのに。あの試合は俺らが見ても『なんで佐山さんはなにもできないんだろう?』って思ったんだよね。キックのルールなんだからしょうがないとかって言うんだけど、それ以前の問題でまったくなにもできなかった。
それで猪木さんも『佐山でこれなら、ほかのヤツは難しいな』って思ったんじゃないのかな。〜中略〜それぐらいね、佐山さんの運動神経のよさ、身体能力の高さをみんなもよく知ってたから」
前田日明の回想に拠れば、コステロ戦では長州力や藤原喜明あたりも「なんで佐山は何もできないんだ?」のように述べていたというが、前述したように藤原喜明は「あの試合は素晴らしかったよ。やりきったからね。ほかのヤツだったら1ラウンドも立ってられないよ」と証言している。(前田証言を採れば、藤原喜明も試合直後には、そう言っていたのかも知れない。)
そしてまたまた藤原の弁となりますが、単刀直入、「佐山は天才」と藤原喜明は語っている。前田日明や高田延彦は、カール・ゴッチ道場に留学した藤原喜明、その藤原喜明と新日本プロレスの道場でスパーリングをする事で、そのサブミッション技を含む技術を磨いていった。佐山も確かに藤原喜明と一緒にカール・ゴッチ道場へ留学したが、佐山の場合は、その後も期待を背負ってかメキシコに遠征し、更にはイギリスにも遠征し、それで、あの空中殺法のようなものも体得したプロレスラーなのだ。なので、新日本プロレスの道場でスパーリングをして技術を磨いたという期間がない。それなのに、何故、佐山はサブミッション技についても高い技術を持っているのかに藤原が答えている。
「あいつは天才だからだよ。俺はゴッチさんに習った技を、イラストに描いて覚えて、それを何度も反復練習することでみにつけていったけど、あいつは教わると、『ああ、こうやればいんだ』ってわかっちゃう。力学もメカニズムも考えずに、できちゃうんだよ」
「でも、天才ってのは教えるのが下手なんだよ。できないヤツがいると、『バカ野郎、そんな簡単なこともできないのか!』となってしまう。自分が簡単にできてしまうから、できないヤツがなぜできないのか、理解できないんだよ。佐山は昔からそうだったな」
こう並べてみると、この藤原喜明による「佐山は天才論」は、非常に説得力があるように思えてくる。その天才の欠点にも言及している訳ですからね。また、この佐山が、第一次UWFの分裂の引き金になっている事にも繋がっており、且つ、何故に、佐山聡が魅せるプロレスを完成させたタイガーマスクとして一世を風靡しながら、シュート構想になってしまったのかの遠因も探ることができそう。つまり、アントニオ猪木の格闘技世界一路線という構想、その構想を引き受けてしまったのではないだろうか? それこそ、猪木から「佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ」とまで期待されながら、実際には何も出来なかった事がトラウマ、いやいやトラウマではなく、それを発条(ばね)として、その猪木の夢の具現化を追求し、プロレスからリアルファイトへと転身する事になっていったのではないか? なんてね。
しかし、この佐山聡はスーパータイガーとして第一次UWFに参加、そして第一次UWFのエースとして頭角を現すことになる前田日明と、不穏試合を起こす。その不穏試合、VHSビデオで視聴した経験がありました。前田のキックが急所に当たったとかで試合が紛糾、怒ったスーパータイガーはリングを降りて引き揚げて行ってしまった試合で、ビデオで視聴しても意味がさっぱり分からなかった記憶がある。当時は、〈この前田と佐山との間ではどちらが強いのかハッキリさせてはいけないので、故意に仕組まれた無効試合なのだろうな〉と思っていたのでしたが、どうやら、正真正銘の不穏試合だったよう。団体の運営方針で揉めていた佐山と前田との間で、プロレスとは異なる原理での争いが発生してしまったというのが事の真相だったよう。
このUWFの問題、私自身は前田日明派として物事を見ていたのですが、後年になって「前田日明」への不満の声らしいものが多々あるように思えるようになり、一体全体、何だったんだろうと捉えていたのですが、証言を搔き集めたものを目にしてみると、なんとなく自分なりに、その分裂劇の実相のようなものも見えてきてスッキリとしました。なんだかんだいって、既に名前を挙げたUWF出身とかU系と呼ばれたプロレスラーは、それなりに一時代を築いたプロレスラーであり、確かに記憶に残っている。確かにUWFブームみたいなものが、1983〜1984年にかけて大いにも盛り上がったのを記憶している。新しいスタイルのプロレスの登場であり、途中からは新しい時代の到来、その象徴のように輝いて見えたのは確かですかねぇ。
1983年8月10日、初代タイガーマスクとして四次元プロレスを披露していた佐山聡が、新日本プロレスとテレビ朝日とに内容証明郵便を送り付け、新日本プロレスからの離脱を宣言する。佐山聡の新日本プロレス離脱の意図は判然としない。しかし、この佐山聡は、いわゆる第一次UWFを語るには欠かせぬ人物である。第一次UWFでは、その看板選手は前田日明であったが、そこに「スーパータイガー」の名前で佐山聡も参加しており、この佐山聡のシューティング構想が第一次UWF崩壊劇の元凶のように語られている。
この佐山聡については、70年代から猪木が「ウチの佐山はあらゆる格闘技を身に着けていて…」という具合に語っていたような記憶があるし、梶原一騎が主催した「格闘技大戦争」に参加、そこで佐山サトルは、プロレスラーであったにも関わらず、マーシャルアーツ(これは全米プロ空手と訳されていた)のマーク・コステロとキックボクシングルールで対戦、ただただ、6ラウンド、押され続けたまま、判定負けしたという異種格闘技戦を経験していたという。これ、視聴した記憶があるかな。まったく見せ場のない凡戦であったと記憶している。猪木が「佐山サトル、佐山サトル」と名前を出していたのでホープなのだろうと思っていたものの、その試合は殆んど何も出来ずに敗北した試合であった。
1977年11月14日、日本武道館に於いて「格闘技大戦争」の興行があり、そこで佐山聡は、キックボクシングルールで、全米プロ空手のマーク・コステロと6回戦を行ない、ほぼ見せ場ないままに判定負けを喫した。これが、起点であったと思われる。この佐山サトルVSマーク・コステロ戦について、前田日明と藤原喜明とが語っている。
藤原の弁
「あの試合は素晴らしかったよ。だって、あのときの佐山はキックの練習を始めて半年ぐらいだよ? それが6ラウンドだか7ラウンドまでやりきったからね。殴られても蹴られても、最後までたってだろ? ほかのヤツだったら、1ラウンドでもう立ってられないよ」
前田の弁
「俺らが新日本の若手だった頃、当時の猪木さんは神様みたいに偉い人っていう感じで、みんなが『社長! 社長!』って尊敬していて、とくに佐山さんなんかは『猪木さんは神様』っていう感じだったんだよね。それで猪木さんもそういう佐山さんをかわいだっていて、『佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ』って言ってたんだよ」
そんなニュアンスがあったような気がする。そうじゃないと、そういうルールで戦わせないだろうし、おそらくはテレビカメラの前でも、そういう発言をしていたのではなかったかなぁ…。だからこその、コステロ戦であった。しかし、実際には、佐山は何も出来ぬままに判定負けしてしまったのだ。佐山サトルの才能は本物であったが、さすがにキックボクシングのルールで戦うってのは、見通しが甘かったんでしょうねぇ。
再び前田の弁
「佐山さんが武道館でやったキックのマーク・コステロとの試合で、なにもできずに負けちゃったでしょ。あれがたぶん猪木さんのなかで凄いショックだったんだろうね。『佐山ならいけるだろう』って思ってたのに。あの試合は俺らが見ても『なんで佐山さんはなにもできないんだろう?』って思ったんだよね。キックのルールなんだからしょうがないとかって言うんだけど、それ以前の問題でまったくなにもできなかった。
それで猪木さんも『佐山でこれなら、ほかのヤツは難しいな』って思ったんじゃないのかな。〜中略〜それぐらいね、佐山さんの運動神経のよさ、身体能力の高さをみんなもよく知ってたから」
前田日明の回想に拠れば、コステロ戦では長州力や藤原喜明あたりも「なんで佐山は何もできないんだ?」のように述べていたというが、前述したように藤原喜明は「あの試合は素晴らしかったよ。やりきったからね。ほかのヤツだったら1ラウンドも立ってられないよ」と証言している。(前田証言を採れば、藤原喜明も試合直後には、そう言っていたのかも知れない。)
そしてまたまた藤原の弁となりますが、単刀直入、「佐山は天才」と藤原喜明は語っている。前田日明や高田延彦は、カール・ゴッチ道場に留学した藤原喜明、その藤原喜明と新日本プロレスの道場でスパーリングをする事で、そのサブミッション技を含む技術を磨いていった。佐山も確かに藤原喜明と一緒にカール・ゴッチ道場へ留学したが、佐山の場合は、その後も期待を背負ってかメキシコに遠征し、更にはイギリスにも遠征し、それで、あの空中殺法のようなものも体得したプロレスラーなのだ。なので、新日本プロレスの道場でスパーリングをして技術を磨いたという期間がない。それなのに、何故、佐山はサブミッション技についても高い技術を持っているのかに藤原が答えている。
「あいつは天才だからだよ。俺はゴッチさんに習った技を、イラストに描いて覚えて、それを何度も反復練習することでみにつけていったけど、あいつは教わると、『ああ、こうやればいんだ』ってわかっちゃう。力学もメカニズムも考えずに、できちゃうんだよ」
「でも、天才ってのは教えるのが下手なんだよ。できないヤツがいると、『バカ野郎、そんな簡単なこともできないのか!』となってしまう。自分が簡単にできてしまうから、できないヤツがなぜできないのか、理解できないんだよ。佐山は昔からそうだったな」
こう並べてみると、この藤原喜明による「佐山は天才論」は、非常に説得力があるように思えてくる。その天才の欠点にも言及している訳ですからね。また、この佐山が、第一次UWFの分裂の引き金になっている事にも繋がっており、且つ、何故に、佐山聡が魅せるプロレスを完成させたタイガーマスクとして一世を風靡しながら、シュート構想になってしまったのかの遠因も探ることができそう。つまり、アントニオ猪木の格闘技世界一路線という構想、その構想を引き受けてしまったのではないだろうか? それこそ、猪木から「佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ」とまで期待されながら、実際には何も出来なかった事がトラウマ、いやいやトラウマではなく、それを発条(ばね)として、その猪木の夢の具現化を追求し、プロレスからリアルファイトへと転身する事になっていったのではないか? なんてね。
しかし、この佐山聡はスーパータイガーとして第一次UWFに参加、そして第一次UWFのエースとして頭角を現すことになる前田日明と、不穏試合を起こす。その不穏試合、VHSビデオで視聴した経験がありました。前田のキックが急所に当たったとかで試合が紛糾、怒ったスーパータイガーはリングを降りて引き揚げて行ってしまった試合で、ビデオで視聴しても意味がさっぱり分からなかった記憶がある。当時は、〈この前田と佐山との間ではどちらが強いのかハッキリさせてはいけないので、故意に仕組まれた無効試合なのだろうな〉と思っていたのでしたが、どうやら、正真正銘の不穏試合だったよう。団体の運営方針で揉めていた佐山と前田との間で、プロレスとは異なる原理での争いが発生してしまったというのが事の真相だったよう。
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