EテレのETV特集「隠された毒ガス兵器」では、戦後75年が経過してようやく明らかになってきて日本軍の毒ガス兵器と、それに対しての米軍の毒ガス兵器との実相を描いたものでした。

これも不思議な事に、映画「日輪の遺産」に似た構図がありましたかね…。最後に書類は燃やされ、毒ガス兵器は隠蔽の目的で海や河、地中に埋めるなどの方法で投棄され、その仕事に携わった当時の少年たちには

「この事は50年間、黙っていろ。そうすれば罪には問わない」

という緘口令が布かれていた。その赤裸々な隠蔽体質、そして戦争に勝利する為であればありとあらゆる事が正義の美名の下に許されてしまうという、現行文明の危うさにも思いが到るかも知れない。

旧日本軍は日中戦争に於いて、化学兵器を使用していた。詳細も近年、明らかになったという。化学兵器の登場そのものは第一次世界大戦の欧州であり、余りにも非人道的な兵器であるとして第一次大戦後の1925年にはジュネーブ議定書により、毒ガス兵器の使用を禁止する流れが出来上がっていた。しかし、その議定書に、当時の日本と米国とは批准しなかったという。日米両国が批准しなかった事の裏側には、戦争という事態を考えた場合には、毒ガス兵器が有効な兵器となり得る可能性を考慮したものであったと思われる。

当時の日本では陸軍第六研究所、通称「六研」(ろくけん・ろっけん)で毒ガスの研究が為されていたという。そして密かに毒ガス兵器は、日中戦争で使用されたという。場所は、北担村(ほくたんそん)なる中国ののどかな村であったという。その際、原住民たる中国人は井戸に逃げ込んだが、その井戸に毒ガス兵器を投げ入れるなどして行われたという。この北担村で行われた毒ガス戦による死者は約800名であったとされる。

その後、旧日本軍は毒ガス兵器の有効性に着目した。毒ガスは有効であったらしいのだ。関東軍は密かに満州で化学兵器の極秘研究を行なうこととなり、関東軍化学部をつくった。チチハルに516部隊を設立し、この516部隊は主に毒ガス研究を行なったという。フラルキには526部隊が設立し、この526部隊は実戦で毒ガス兵器を使用する部隊であった。これは細菌兵器を研究をしていた731部隊とも連携して大規模な演習をしていたらしく、当時の少年兵らの証言や日記には「丸太」に関する証言や記述も現存しているという。『悪魔の飽食』の知識があれば、この丸太の意味は分かりますが、一応、説明しておくと、つまりは実験要員であり、同番組中でも「中国人とか、ソビエトの囚人などを指して丸太と呼んでいた」とある。これが何を示唆しているのかというと、丸太を10本とか6本とか、そのように勘定し、その丸太を実験台にしていたの意。毒ガス兵器の実験なので、丸太とは実際には実験動物であり、殺害してしまったものと思われる。

米国では、太平洋戦争の開戦前から日本が日中戦争で毒ガス兵器を使用していた事に気付いていたという。仮に日本と戦争に突入した場合、日本軍の毒ガス兵器は脅威と成り得ると冷静に分析していたが、当時の国際世論としても1925年以降は毒ガス兵器は使用すべきではないという流れの中にあり、積極に使用は考えられていなかったという。

ところが太平洋上の「タラワの戦い」は激戦となり、米兵の死者も千人を超える消耗戦となった。すると当時のアメリカ世論は「毒ガス兵器の使用も認められるべき」と流れたという。当時の新聞の紙面が映し出されていましたが、つまり、アメリカの場合は新聞のような公然メディアでも「日本との戦争では毒ガス兵器の使用も許される。これが正義だ」という正義論だったのでしょう。一方の日本の毒ガス戦略は極秘が徹底されていた事とは対照的でもある。

サイパン陥落の5日後、東条英機は「化学兵器の使用禁止」を打ち出した。それは懸命な判断であったかも知れない。仮に化学兵器を日本軍が使用した場合、米軍はたんまりと化学兵器を使用してくる可能性があり、先に使用してしまえば、その口実を与える事になる。だから、サイパン陥落後に東条英機は「化学兵器の使用禁止」を決断した。

沖縄戦が行われている頃、日本では来たるべき本土決戦に備えて、一度は使用を見送ると決断していた化学兵器、つまり、毒ガス兵器の大量生産が行われていたという。「あか弾」や「きい弾」、あるいは「ちゃ弾」等と通称で呼ばれていたものは毒ガス兵器であり、この内の「きい弾」(黄弾)とはイペリットとルイサイトを組み合わせた化学兵器であったという。毒ガス兵器は陸軍が主に関与していたが、本土決戦が迫ると海軍も毒ガス兵器の製造を始め、それは相模原工廠で製造されていたという。兵器の名称は「6番1号爆弾」であり、その6番1号爆弾を大量に製造していた。

対する米軍にしても沖縄戦の頃には、本土攻略として実際に日本本土25都市への毒ガス兵器の使用を考えていたという。述べ1000戦機の爆撃機を投入し、東京、大阪、名古屋を含む日本中の都市に爆撃を行ない、推定死者数500万人という空前のジェノサイド計画であった。これは5月頃にダウンフォール作戦という名称であたという。

日米が日本本土で毒ガス兵器を互いに使用し合うという最悪の事態は、ヒロシマとナガサキへの原爆投下、それとソビエト連邦による対日開戦によって、実現には到らなかった。日本は降伏を余儀なくされた訳ですね。

そして、玉音放送のあった翌日、満州と日本の化学兵器の拠点では貯蔵していた化学兵器の投棄と、書類の償却が行われた。地中に埋めたり、海や河に投棄した。それに携わった少年らにしても、それが毒物である事は知っていたので、「後で大変な事になるかも知れない」と思いながらの投棄であったといい、また、その極秘任務に携わった事は、口外しないように口封じをされたという。

チチハルの516部隊は化学兵器を地中に埋めたという。六研は川に遺棄したらしく、その際には「既に偉い人たちは東京へ引き上げてしまっていた」という。

やがて進駐軍が日本に入る。GHQは、日本国内の20ヶ所で4000トンにも上る化学兵器を発見したという。GHQが、それらをどうしたのかというと、やはり、海中投棄したようで、1970年代から千葉県銚子沖では、度々、化学兵器が漁師によって引き上げられるなどの事例が発生、被害者の実は多いのだという。

広島県であったか大久野島(おおくのじま)は化学兵器の生産拠点であり、ここでは戦後に3000トンもの化学兵器が押収され、その処理にはイギリスが日本の民間人800人ほどを投入して処理にあたったという。戦後、化学兵器の拠点は神奈川県湯河原市、富山県高雄市、千葉県の習志野学校(毒ガス部隊の訓練が行われていた)、神奈川県寒川町(これは神奈川県相模原工廠の関連か)等が明らかになっているという。銚子沖では投棄された化学兵器の引き上げが凡そ600件、寒川町(さがわちょう)でも約800本もの化学兵器が発掘されたという。また、占領下にあった中国本土でも53ヶ所から旧日本軍が遺棄した化学兵器が発見されており、この53ヶ所という数字は日本の内閣府調べによる2003年の数字であるという。


東京裁判を前に、戦争責任を問われる側は口裏合わせをしていた。畑俊六は日中戦争で毒ガス兵器の使用を問われても使用した事実はないと答弁した。

東京裁判で化学兵器に関しての罪を問うべきかという問題では、米陸軍化学戦部から「日本軍に対しての化学兵器での訴追は見送るべきだ。対ソビエト戦で、我々が化学兵器を使用できなくなってしまう恐れがある」という提議が起こり、その提議は、そのまま、ドワイト・アイゼンハワーにまで上がり、最終的に、化学兵器について東京裁判では取り上げないことになったという。