陳舜臣著『太平天国』(講談社文庫)に沿って「太平天国の乱」について――。

◆天王・洪秀全について

先ず、洪秀全(こうしゅうぜん)という人物は自作農の家、牛飼いをしている家に生まれ、必ずしも裕福な家の出ではなかったが、7歳の頃より村塾と呼ばれる村の塾に行かせたところ、大いに見所のある事が分かった。秀才だったらしい。なので、なんとか才能を開花させるべく村塾へ通わせたかったが、村塾の月謝を払うことも大変で、村塾の側が月謝を免除したり、一族が金銭的援助をするなどして、16歳までは村塾に通っていた。

16歳(数えで14歳)の時、1826年に広州の府試と呼ばれる科挙制度の入口となる試験に挑戦するも失敗。18歳になってからは村塾の教師となり、1836年、24歳時にも二度目の府試に挑戦するも、これも失敗。翌1837年に三度目の府試に挑むも、これも失敗。秀でた才能の持ち主であった事は間違いはないが、科挙制度の中では芽が出なかった人物であった。

この三度目の府試では、試験前から洪秀全は体調を崩していたといい、その後に失敗のショックが追い討ちとなったのか、高熱を出し、歩行さえ困難な状態になった。医師は「もう助からないかも知れない」と診断され、意識不明の状態となり、家族は洪秀全を看取るつもりで病床に付き添っていたという。

1837年3月から4月にかけて、洪秀全は病床に伏していたが、この病床に伏していた際に、超破格の夢を見たとされる。

これは、興味深い夢でもあるので、詳しく触れますが、夢の中で洪秀全は家族を枕元に呼んで、そこで自らの不孝を詫び、つまり、「親よりも先に先立つ不孝をお許し下さい」的な、今生の別れの挨拶をしたところ、どういう訳か天使が迎えに来たのだという。天使に導かれるままに、洪秀全は輿(かご)に乗り、そのまま、昇天したという。天は光に満ち溢れて、輝かしい様子は凡俗の世界とは全く異なっていたという。その後、とがった帽子をかぶったおびただしい数の人たちが洪秀全の元へやってきて、彼等は洪秀全の腹を割き、五臓六腑、つまり、内臓をすっかり入れ替えてしまったのだという。内臓を入れ替えられた洪秀全は、その後に河で下界の汚れを洗いおとした後、いよいよ、エホバ(ヤハウェ)と後に呼ばれる事になる神の御前に行った。黒衣をまとい、髯を生やした人物が天父であり、この天父を後に洪秀全はエホバであると理解した。

洪秀全が、その天父に跪くと、天父は悲しげに洪秀全に語った。

「地上の人間は一人としてわしが生み養ったものではない者はいない。すべての人にわしは食べものを与え、衣服を与え、服を与えてきた。天地万物は、みなわしが造り成したのだ。それなのに、みな本心を見失い、わしを畏敬する者がいない……はなはだしきは、妖魔に迷い惑わされ、わしの与えたものを、妖魔に捧げている。まるで妖魔に養ってもらったかのようにな。妖魔が彼等をとらえ、彼等に害をなすのを知らないのだ。わしはそれをいたく恨み、憐れに思う」

その後、天父は洪秀全に金印(金璽)と、一振りの雲中雪剣を与え、「妖魔を駆逐せよ」、「汝が天子となり、天下万民を統治せよ」と仰せになった――と。

勿論、これは昏睡状態の中で、洪秀全が見た夢、臨死体験的なものであろうと、今日的な常識からすれば、そう片付ける訳ですが、そうはならなかった。洪秀全は約40日間程度は病に伏していたが、その間、かなり、長い夢を見ており、それは夢ではなく、何某かの奇蹟体験と理解し、その天父の命に応じようと決心した。

夢、臨死体験と侮りたくなるのが現代人の感覚ではありますが、かのデカルトは、三日三晩に亘って悪夢にうなされた後に急に頭脳が明晰になったという話もあれば、かのエジソンは睡魔と心地好く戦うようにして、まどろんでいる時は誰もが天才になれると言い、実際に、あれやこれやという発明のヒントを得たと言う。瞑想、瞑想といいますが、アレなんですね。死にかけた人はホントに三途の川を見てしまう。そんなものは物理的にはありはしないが、どうも精神作用としては実際に起こる。日本人には、あまり、この逸話は在りませんが、天理教の初代教祖の中山みきあたりは、ある日、突然、いわゆる自動書記と呼ばれる神の言葉を書き綴り出した。医学的にはてんかんの発作ではないのかと疑われるワケですが、稀にそういう事が起こる。

愛郷塾の塾頭として五・一五事件に関与した橘孝三郎も、この洪秀全に少し似た逸話を残しており、名門・水戸高校から東京帝国大学へ進むというのが通常の秀才が選ぶべき進路であったが、橘孝三郎はぐらぐらと空間が歪むという奇妙な体験をしており、その体験の後に東大進学を諦めて、単身、郷里の茨城の農村で農業振興に躍起となる。押し寄せて来る海外列強、その不安の中で、愛郷塾を組織すると、近隣の小中学校の教師たちが橘の元に集まって農本思想(右翼)を学ぶようになってゆく。最終的には要人暗殺の黒幕的存在と噂されるまでになってしまう。秀才であったという事、また、学問に熱心で厳格な性格の持ち主であったという部分、それと海外列強による圧力があったという国際情勢は少し似ている。

洪秀全の夢は、既に指摘されているものと思われますが、純粋なキリスト教ではなく、キリスト教的な何かに影響を受け、それを土着宗教と組み合わせているのが分かる。腹を割かれて五臓六腑の入れ替えを行われたというのは、別に宇宙人による改造手術ではなく、我々、日本人にも馴染みの深い「切腹」と関係しているように見える。「男はつらいよ」や「ゲゲゲの鬼太郎」でも少し触れられいたと思いますが、道教的価値観の中では人体の中には三虫という虫が存在しており、その虫が色々と悪さをしたり、或いはエンマ大王に密告をすると考えられてきた訳ですね。そして、死に際に日本人は腹を割くという切腹という世界的にも珍しい習俗を持っていましたが、これ、腹を割く事に意味があり、御覧の通り、腸の中に黒い虫なんざ、御座いませんと、その証明の儀式だと考えられているのだという。「腹黒いヤツ」なんて言いますが、それは腹の中に悪い虫、黒い虫を一杯、飼っているヤツの意味であると付け加えれば、より判然とするだろか。

内臓の入れ替えを終えた後に、体の表面が下界の汚れで塗れているとし、その汚れを河で洗い落としたという事になっていますが、これは説明するまでもなく、禊(みそぎ)であり、イザナミを追って死の世界、根の国へ行ったイザナギが、戻って来るに当たって身を浄めたのと一緒。穢れは清浄な水で濯がねばならない。

この洪秀全は中国南部、現在の香港や深センの近く、珠江を遡った花県(かけん)の出身であり、華北と華南でいえば華南であり、それらの信仰や伝承の一致がある事は興味深いといえば興味深い。それとエホバから金印を賜わったというあたりは、言及するまでもなく中華的である。

その幻想的な夢を見た洪秀全は自らが教祖となり、天主教(キリスト教)の教団をつくる。天父はエホバ、天兄はキリスト。洪秀全はキリストの弟であるという認識の教団であった。洪秀全はカトリックから洗礼を受けようとした経験もあるというが、洪秀全は異端すぎて洗礼は拒否されたという。

この洪秀全は馮雲山(ひょううんざん)と共に上拝帝会なる宗教団体を旗揚げ、布教活動を始める。既存の宗教や社会制度を破壊し、政府である清王朝をも否定する一神教的な中国人による天主教教団であったが、これが広西で人々の困窮の救いとなったのか教団は拡大してゆく。拡大した教団は実務を取り仕切る実権者が必要となり、そこに炭焼きでありながら一体の炭焼きや樵(きこり)の頭領格であった楊秀清(ようしゅうせい)が加わり、戦闘的にして機能的な宗教集団の誕生となる。


◆上拝帝会及び太平天国について

洪秀全は教団内では、いわば教祖であり、実務には殆んど携わらなかったという。洪秀全は宗教書や思想書を読みふけってばかりいる教祖。それに対して、楊秀清は文盲でありながら観察眼や洞察力が鋭く、強権的なリーダーシップを布くと同時に、演技としての降神術を持っていたという。これは教団を運営する中で出された知恵であり、楊秀清が神懸かりとなり、天父(エホバ)を自らの身体に降臨させ、ご宣託を発する。これが上手くいったので、後発の上拝帝会の幹部の中には天兄(キリスト)を降臨させる者も登場した。どこからどこまでがホンモノの信仰であり、どこからが組織運営なの分かり難くなってしまうのが、このテの宗教団体の実相でもある。

上拝帝会では、男女の別は厳格であり、夫婦であっても男営と女営に分離され、勝手に会う事は禁止された。会員は例外なく、男は男営舎、女は女営舎で生活した。また、天主教的な価値観であるが故に男女平等も謳い上げていた。これは洪秀全が定めた基本的なルールであり、この規則を破った者は死罪に該当した。

また、この上拝帝会では私有財産所持の禁止が徹底されており、信者は所有する財産の全てを教団の聖なる倉庫たる「天庫」に納める決まりになっていた。カルト宗教にありがちですが、アレですね。そんな教団が拡大していくのも不思議なのですが、時代背景が、ここに関与しており、アヘン戦争後の事であり、清王朝はアヘン戦争で敗れた為に南京条約によってキリスト教の布教を認め、この頃から中国各地に天主教が進出している。アヘンは蔓延していたし、清王朝は海外列強の言いなり状態で、そうなると警察機構そのものも汚職が蔓延して、いい加減な社会となり、中国全土には匪賊、侠客がアヘン密売などで群雄割拠状態になっているという、なんとも救いようのない時代背景の中に、この奇妙な天主教団が出現した。

初期の段階では、上拝帝会は孔子廟や寺院の破壊を行なった。教団の原理からすれば、一神教であり、それ以外の宗教は邪教となる。それらの破壊活動をしていた時点で、危険視はされていたが、清王朝の場合は、あちらこちらで匪賊の反乱が起こり、且つ、侠客ネットワークの中で天地会というマフィアが裏ではアヘン密貿易に関与しながら略奪や破壊行為をしていたので、上拝帝会への対応は遅れたものと思われる。また、孔子廟や寺院を破壊する上拝帝会、その悪名は人々の口を膾炙して広く知れ渡ることとなり、これが或る意味では逆宣伝になっていたものと考えらえる。その名前は広く各地へ広がっていた。

元より、この上拝帝会という教団は、上帝エホバから命を受けたという洪秀全、その洪秀全による万民の統治を目標としていた。そんな事が可能なのかと思うところですが、この上拝帝会は、実現してしまった。この教団では、年寄りから幼子、更には病人までもを背負っている教団であり、聖庫からの分配によって信者全員の生活を賄っていたワケですが、こうした宗教団体が戦闘集団に変貌したとき、寄せ集めの匪賊や、賄賂などが横行している官軍よりも強い戦闘能力を持っていたという。上拝帝会は「移動する王朝」、「移動する国家」のようなものであり、基本的には上拝帝会は、金田村(きんでんそん)という花県よりも更に珠江を遡った広西の田舎に拠点を構えていたが、後に教団そのものが、次の拠点を求めて移動するという行動をとり始める。

1851年、洪秀全38歳の年、上拝帝会は武装蜂起する。官軍である清王朝軍と衝突する。最初は上拝帝会が「金田村の紫荊山」と「山人村の鵬化山」とに拠点をつくり、官軍が教団を攻めたものであったが、官軍は敗れた。官軍に協力する者が四散してしまったという。上拝帝会は官軍とは満州族の清王朝の官であり、これを「妖」と呼んだ。これは妖魔の「妖」であった。上拝帝会は官吏に対しては絶対に斬首するという方針で動いており、自警団(団連)が官軍に加勢した場合には、その自警団を皆殺しにするという事を徹底していた。余計な戦乱には巻き込まれたくないというのが民衆のホンネであり、或いは真に貧しい者の場合は教団に入会すれば、信仰は兎も角、それだけで食事にありつけ、仕事にもありつけることも関係していた。

上拝帝会の名前が轟くと、匪賊の中からも上拝帝会に加わろうとする者たちが現れ、その有力な一人が羅大綱(らたいこう)であった。この羅大綱は船匪と呼ばれる、いわば水軍を使う匪賊であり、多くの匪賊は、私有財産保持の禁止、ありとあらゆる財産は天庫に納めよと言われると、去っていったが、羅大綱は、その上拝帝会の分配システムに感激し、熱心な信者となり、水軍の将として大活躍をする。これは裏返すと、多くの匪賊や天地会系の組織は、私有財産保持と、男女の厳格区分、アヘンの使用禁止などの諸要件を受け入れられない。その踏絵を乗り越えて、上拝帝会に帰依した者は、心の底から教団の為に尽くす戦力になってゆくという事を意味している。

挙兵後の上拝帝会は広西で暴れ回っていたが、永安の州城、永安州城を1851年8月に陥落させ、とうとう城を持つまでになっていた。この頃までには、「上拝帝会」という教団ではなく、「太平天国」という国家を自称するようになっていたものと思われる。この【国家】の定義には種々あると思われますが、この話で太平天国軍と戦っている清王朝を国家の正式な統治機関と理解するのであれば、少なくとも「領土内の排他的な勢力を武力を以って斥ける事が出来る」という要件を果たせていないという意味でマックスウェーバーの定義した国家には当て嵌まっていない事になる。マックスウェーバーから離れて、一般論的な国家の定義としては、「一定の領土と国民を有する排他的な統治機構」が国家の定義だとすれば、凡そ、この上拝帝会(太平天国)は、「移動する王朝」もしくは「移動する国家」と認識されても違和感はない。

陳舜臣の『太平天国』は歴史小説であり、フィクションも含まれているが、そうであるが故に著者の私見も登場人物の見解として作品中に織り込んである。太平天国軍は、炭焼き職人に樵集団、更には炭鉱夫ら、それに匪賊、任侠系団体の天地会系からの転身組も入っていたので、爆薬を仕掛けるなどの戦術に長けていたように読める。

永安州城を占拠後に桂林に入り、桂林城を攻め、全州城では城内で大殺戮を行ない、長沙に入り、長沙城を攻める。軍団を編成し、複数の軍団による侵攻であったが清軍と戦争になっても互角以上の強さ。老人や幼児、病人を抱えながら、そういう転戦をしていた。長沙攻城戦の後に大量の船団を組んで南京(金陵)を目指し、金陵を攻略する拠点として武昌を攻めて武昌を占領。その後、中国の第二の都市にして華南の最大都市である金陵(南京)を占領。この金陵(南京)を太平天国の拠点と定めて、名称を「天京」に改称。その後も清王朝の本拠地である北京を攻撃すべく、北伐軍を展開している。このスケールは、かなり大きく、「太平天国の乱」とは言うものの、この太平天国の乱は完全に消滅するまでには足掛け16年も有している。軍事にしても数万人単位の兵団を2〜3動かし、且つ、天京には大勢の人々を囲い、そのまま、統治する国家にまでなった。



◆天京(南京)の物語

金陵が現在の南京である訳ですが、その地が要衝となったのは紀元前4世紀頃で、楚の威王の時代に小さな城を築いたのが最初であるという。その地には、非常に良い地霊が集まっており、王が拠点を構えるに相応しい王気があったので、そこに黄金を埋めて、その黄金の上に城を建てたという伝承から、その土地の名称は金陵になったのだという。

その後、中国史上、初めて天下統一を成した秦の始皇帝は、この黄金を地下に埋めてあるという金陵を恐れ、山を二つに分割するという大規模な公共工事をし、山を切り拓いて谷川にしてしまった。そして名称も「秣陵」(まつりょう)に変更してしまったという。これは、おそらくは紀元前2世紀頃でしょうか。

その後、三国時代の孫権が、秣陵に目をつけて、そこを都として「大業を建てる」という意味で、その地を「建業」と改称し都にした。その後も「建業」は晋朝時代に「建康」に改称され、唐代以降には「江寧」に改称された。更に、漢民族による明王朝・洪武帝は江寧を国都と定め、「応天府」という別名を持つようになり、この明朝時代に応天府を北京へ移したので、北京が応天府となり、都市の名前としては、北京に対して南京になったという。

確かに古代より金陵と呼ばれた、その地は天下の趨勢を握ってきた歴史を有している土地であり、その金陵(南京)を制圧した太平天国軍は、その地を「天京」に改称した。少なからず、これらの経緯から考えると、洪秀全は本気も本気で宗教王国・太平天国による天下の統一を夢想していた節が伺えなくもない。この天京を構えた事で、洪秀全は自らを「天王」と名乗る。キリスト教を洪秀全風にアレンジしながら、王手をかけていた。


◆虐殺と屠城

【虐殺】とは、広辞苑第六版では「むごたらしい手段で殺すこと」と説明してあり、明鏡国語辞典でも「残虐な方法で殺すこと」と説明されている。しかし、現代人は大量殺人そのものを「虐殺」と表現したり、「大虐殺」と表現していると築かされる。ナチスドイツによるユダヤ人の虐殺とか、大虐殺という具合に使用される訳ですが、惨たらしい事、残虐な事には変わりないので、そうなるが、実相という意味では、ナチスドイツによるユダヤ人の虐殺とは、金目の物を全て没収し、収容所に収容して強制労働を課し、衰弱したら処分するという薄気味の悪い、機械的大量殺人であった訳ですね。勿論、それも惨たらしいし、残虐である。しかし、ナチスドイツによる蛮行は、機械的であり、合理的であった事の残虐さ、惨たらしさですね。ヒロシマ、ナガサキも同じで、確かに惨たらしい所業であり、残虐な行為であった。

しかし、我々が使用している「惨たらしい」や「残虐な行為」というものは、そうした機械的な大量殺人や、合理的な大量殺人とは少しズレますね。苦しませ、苦しませ、苦痛に喘ぎながら殺害する行為を、残虐、惨たらしいと捉え得る。加えて、その惨めな姿を晒し者にしたりする。人数そのものはあまり関係なく、【虐殺】とはそれであり、惨たらしい殺し方をすれば、被害者は1名であっても本当は虐殺であるワケですね。しかし、現代人の言語感覚では「ナチスドイツ」や「広島・長崎」が念頭にあるので、「大虐殺=規模の大きな大量殺人」であり、しばしば「虐殺=大量殺人」の意味で使用されているように思う。ですが、本義は惨たらしい殺し方を指しており、その被害者の数は関係がない。

この『太平天国』では、全州城に於いて、上拝帝会の楊秀清の支持によって「屠城が為された」という表現が登場している。【屠城】(とじょう)と読むようですが、国語辞典の類いには勿論、無い言葉でした。どういう意味かというと、当時の中国は城郭都市であり、城の中に町が築かれていた。全州城での攻防戦で、上拝帝会は大幹部、ナンバー2の地位にあった馮雲山が、全州城軍の砲撃によって死亡してしまう。すると、楊秀清は復讐心に燃え、何が何でも全州城を陥落させ、城内にいる者全員の抹殺を命じたという。老いも幼きも病人も、文字通りの皆殺しに処したという。思わず、大虐殺には変わりないので大虐殺と表現したくなりますが、これは字義に忠実に言えば大量の屠殺という行為であり、いわば城まるほど屠ったの意である。城も徹底的に破壊し焼き尽くした。

牛や豚を屠(ほふ)る感覚、屠殺場を【屠場】と呼んだようですが、つまり、皆殺しであるが、実際には人を殺しているという感覚はなく、まるで家畜かのように、その命令に従って、無機的(これは機械的とも言えるのかな)に屠っていく感覚を表現している。病人や赤子まで屠るのだから惨たらしい事には変わりはないが、皆殺しにする事そのものが主眼であり、そこから「惨たらしい」とか「残虐な」といった人心を否定し、人道から外れていると理解した上で行われる何かなのでしょう。

「皆殺しだなんて、なんて酷い事を!」「何も罪もない者まで殺さなくても!」という感覚が人道であるが、楊秀清には、その感覚がなかったと思われる。あったのは「やられたらやり返す!」という応報感情と、教団の威厳を威厳として保つ為の合理的な思考としての大量殺戮であった。これによって、或る種の恐怖支配も生まれる訳ですね。上拝帝会(太平天国)に逆らったりしたら、必ず復讐を受ける、実際に全州城では皆殺しに遭ったらしいぞ、という暗黙の恐怖支配が成立するようになる。と、同時に、こうした楊秀清の冷徹無比な行ないや、思考によって、太平天国は内訌(内部分裂)を惹き起こしてゆく。

この実権者であった楊秀清は非常に優れた資質を持った優秀な人物であったと思われるが、文盲であり、教養は高くなかったし、軽んじていた。洪秀全はというと科挙制度では芽が出なかったが、宗教書や思想書には耽読するタイプの秀才であった。この両輪によって太平天国は動いていたが…。