なんでもかんでも規則とし、それも罰則付きの規則を作ってしまう事に違和感がある。これは、世代的なものも関係しているのかも知れませんが、尾崎豊が登場した背景には当時の雁字搦めの校則なんてものが影響していたような気がしないでもない。あれもこれも校則で禁止されているという状態であり、しかも校則違反となると罰則付きであったので、いわゆる停学処分であるとか謹慎処分であるといった懲罰もあったし、それ以外にも日常的な体罰は現在よりもずっとずっと許容されていた時代背景があるんですね。で、その都度、「校則に違反したからオマエが悪いんだ」という論法を目にしていた。つまり、当時の校内統治は、校則至上主義に則り、ルール至上主義に則り、或る意味では法治主義の徹底であった。

しかし、そういう環境下だと「こんなバカらしい校則にも従わなきゃならんのか?」という、そういう問題にも直面する事になる。当時は、結構、バカみたいな校則が多かったんですね。笑ってしまうのが男女交際の禁止であり、会話も禁止、華美な服装も禁止であり、休日にも制服を着用すべしとか、もう、無茶苦茶だったのだ。それらの校則は、おそらくは非行を防ぐという目的でつくられ、男女交際なんてのは不純異性交遊の元凶だ、高校生の分際でオシャレだなんて生意気だ、休日であろうが服装は制服を着用しなさいぐらいの、そういう勢いで作られていたのだと思う。そんな校則を守っている者はさすがに居ませんでしたが、或る種の狂気みたいなものなんですね。大袈裟? いやいや、私の高校時代なんて上履きではなくてスリッパを履くように決められていて、なんでスリッパなのかというと廊下を走らせない為であった。もう、殆んど囚人扱いですよ。まぁ、囚人扱いされても仕方のない生徒も多かったのかも知れませんけど(笑

何故、正義はそうまでして暴走するのか?

ルールによって善と悪とを区別してしまうのが法治主義であり、一たび、ルールがつくられてしまうと、その人為的に定められたルールに沿って善と悪とが裁かれることになる。そうは言うけれど、こうしたルールの掲げる正義というのは、しばしば暴走する。そういうルールに沿った思考というのは、教条主義であるワケですね。校則に違反している行為は懲罰されて然るべきである――という、その教条に準じている。言い換えれば、それは教条主義的な正義。しかし、その教条主義的な正義を盲目的に信じ、その人の正義を行使されてしまう。

「法治主義がベターなのですよ」という場合でも、当然、こうした硬直的な教条主義になられては困る訳で、金科玉条のように法律とか校則を掲げて正義を振りかざすという態度は、或る意味では非常にバカげている。裏返せば、なんでもかんでも法制化し、「はい、あんた、法律に違反しましたね」と言って、どんどん、その頼りない正義が膨張していってしまう。


実は、そこまでは従来も考えていたんですが、改めて、「法制化する事によって人間が傲慢になる」という事については、あんまり意識が及んでいなかったなと気付く。

ルールを定める、つまり、法制化しますよね? すると、どういう事が起こるか?

きっちりと線を引いてしまった瞬間から、法律に反していないという正義と、法律に反している悪とに分離されてしまう。正義に区分された者は、途端に自分を正義と認識し、自分とは異なって法律に反している者を悪と認識し、その悪を攻撃し始める。

何故、悪を攻撃し始めるのかというと、総じて正義は傲慢に陥るものだから。法律によって「正しいです」という御墨付きを与えられた事により、傲慢に陥りやすい心理になると考えられる。

この事を閃かせてくれたのは、陳舜臣著『太平天国』の文章でした。アヘン戦争以前、列強諸国は清王朝の好意によって、つまり、(東洋的な)恩顧主義的な対応によって、清朝が統治している清国内での活動をしていた。その頃の列強各国の人々は、清朝に対して強硬な態度を取れなかったという。何故なら、彼等は清朝によって恩恵的な特権を与えられているという自覚があったからだという。

しかし、この清朝と列強との関係性はアヘン戦争後の南京条約によって激変したという。条約とは、契約であり、いわば「法」ですが、そうなると領事にしても町場にしても、列強諸国の人々の意識は、「我々は特別に許可してもらっている」という意識から「我々には権利がある」という意識へと変化する、変化した――という。

つまり、「我々にはこれこれこういう権利がある」という権利主義が頭をもたげ、それが列強諸国の人心を傲慢にするという事らしい。この権利意識というのは、まさしく、それですよね。

「私には、これこれ、こういう権利があるんです!」

という態度となり、勿論、その主張がマトモな主張である事も少なくはないのだけれども、同時にヒトが傲慢・驕慢に陥り易いのも、そこですね。

ここで組み立て直して欲しいのですが、その権利意識というものは、法的根拠に根差している。しかし、そもそもから言えば、それら法的根拠の正義とて人為的なものである。人定法か自然法か。

法治主義が、そこまで出しゃばらなければ、そもそも、「へいへい、あっしは特別に、ここで仕事をする事を許してもらってますねん」という或る種の謙虚さが(西洋人であっても)維持されていた事を示している。また、一たび、条約(契約)という法的根拠を与えてしまうと、それに付随して人間の心理の中に権利意識を獲得させてしまう。そうなった瞬間から、その者は自制心を失い易い状態になる。「私には法的根拠(契約・条約)に基づいて、これこれこういう権利があるのだっ!」という心理状態になる訳ですね。そこには、もう恩顧主義的な「へいへい、特別に許可してもらっており、感謝しております」という謙虚さは失われている。

勿論、法的根拠に基づいての権利意識を有していても、猶も人としては謙虚であり続ける事が望ましい訳ですが、基本的に法治主義の裏には、このヒトを傲慢にしてしまう事の効能が大きいというのはホントであろうと思う。

日本では、昔からといえば昔からですが、近年、物凄く「お客様意識」というもののが凄まじく、各種のモンスタークレーマー現象の底に在る訳ですよね。あれらの多くは「私には何々する権利がある」という権利意識に根差して、そう強い主張を為さしめている。ごくごく冷徹な客観からすれば、「おどれに権利なんて無いんじゃあっっ!」と感じる事が多いのも実際であろうと思う。

最近は、どこのスーパーマーケットでも、「お客様の声」と題した目安箱が設置されていますね。クレームの増加が認識された頃に、「お客様のクレームは、企業にとってはお宝なのです。そのクレームを無視していはもったいない」みたいな言説が流行し、そうなった。しかし、実際にスーパーマーケットの店舗内に張り出されている「お客様の声」と題した用紙には、単なる罵詈雑言が記されているケースが多い。提案ではなく、罵詈雑言、クレーム箱のようにも感じてしまう。

「✕月✕日、6番レジのババアの接客態度が悪かった!」

といった具合に、ホントに、そうした店員を特定可能な状態のまま、罵詈雑言が記されており、且つ、それは、そのババアと呼ばれたレジ係が辞めてしまったか継続勤務しているかは分からないが、平然と店舗内に貼りだされているのだ。そのテのメモを目にしたのは一度や二度ではなく、大抵、どこのスーパーでも似たような状況になっていますね。「雪国まいたけの特売を組んでください!」&「担当の山田です。雪国まいたけの特売の件、承知致しました。営為努力して、お客様の声を本部バイヤーに届けたいと思います」といった微笑ましい顧客からの要望を店員が拾い上げていくというものが半数以上であるが、3分の1ぐらいは、傍目にも眉をしかめたくなるような罵詈雑言ですね。なので、「よく、これを貼りだしているなぁ…。ここで名指しされた従業員の気持ちなんて店長は考えていないのかな?」と感じたりする。

きっと、「お客様の声をお寄せください」という文があるから、その文言を根拠にして「ババア」と書きなぐる事が正義化され、また、これを掲示してしまう事をスーパー側が正当化される事で、結局はババア呼ばわりされた従業員が人一倍、悔しい思いをしているんじゃないのって思う。「クレームは企業にとっての宝なんです」っていうけど、そりゃ経営者目線であり、労働者目線じゃありませんな。また、実際を考えればケースバイケースなのは歴然じゃないですか? クソな客をのさばらせて、どれだけクソな連中を増長させりゃ、ニッポンの、お客様至上主義は気が済むんだろうっていう、そっちの公共道徳の話になる得ると思う。

どんどん、ヒトは謙虚さを失い、その箍を緩めて行ってしまう。これは現代人の権利意識、その無差別的な称揚にあると思う。そして、それを可能にしているのが、法治主義への盲目的信仰であり、なんでもかんでも法制化、それも罰則を付けて法制化しないとダメだという今日的な言論人の思潮と関係していると思う。

法制化といっても、基本的には契約社会ですね。細かな契約によって双方を縛る。しかし、契約というのは総じて、一方が有利な立場で、一方が不利な立場で、実際には行われる。双方は対等な立場であると補足してあっても、実際の契約シーンでは、強い者が有利な契約をし、弱い者は不利な契約をさせられる。そして契約によって、その正義が生まれ、謙虚ではない人、我利我利亡者、傲慢に陥る人ほど、その恩恵を享受する。相手の気持ちを考えないサイコパスな人が、思いの外、社会で成功者になっているのは、これと関係しているのであるまいか。

法治主義というのは、ある程度は認めざるを得ない。そうしないと回らないから。しかし、過剰な法治主義というのは人々の権利意識を拗らせる。総じて人心の腐敗を招き、社会から円滑な人間関係を消去してしまっていると思う。法律、法律で雁字搦めにする事で、実際に社会の中の自由を退潮させ、息苦しい世の中にしていると思う。

「法律だから正しい!」という考え方は誤まりの元、錯覚の元でしょう。正しい法哲学に基づいて、各種の法律がつくられるべきで、そうしないと単なる教条主義になってしまう。「悪法もまた法なり」とは明確に退けられるべきで、法哲学に反して為政者によってつくられた法律、その法律にも従うべきだという主張になってしまう。「悪法もまた法なり」は、そもそも盲目的な隷属民への洗脳文句でしかない。「法哲学」と大袈裟に言いましたが、これはつまりは、巷間の慣習であり、道徳であり、倫理であり、客観的に、或いは常識として妥当と思われる価値観に依拠している。

また、極端に謙虚である必要性はない。謙虚な態度をとして、譲歩、譲歩を繰り返していても、既に世の中は、我利我利亡者が跳梁跋扈しているのが現実社会であり、譲歩をしても、殆んど得することはない。厚かましい事に、権利主義者というのは自己主張が強いから、譲歩すれば譲歩するほど、自らの権利を主張してくるのが実際だから。

これへの対応策は基本的はありませんが、ある程度の知識による武装は必要になってきていると思う。本来、それを道徳意識や倫理意識、或いは宗教や思想哲学であったと思う。とはいえ、近年、どんどん西洋的な法治主義が強まって、あれもこれも契約社会となり、義理と人情も消えて、真っ暗闇の世の中になってしまった。対立と分断は、日毎、進んでいるように見えますが、気付く気配もない。