◆選妃(せんぴ)

洪秀全は南京攻略の前段階で、南京(金陵)攻略の手始めに武昌を占領した。この武昌にて、洪秀全は「選妃」(せんぴ)と呼ばれる後宮を調達した。武昌城を陥落させ、占領後した後、上拝帝会は城内の13歳から16歳の少女全員を、推定1万人ほど集め、その中から後宮を選んだ。選別するにあたっては該当する女子は全員集められ、これに欠席することは許されず、欠席した場合は父母諸共に斬首とするという厳罰が付されていた。

選妃の数は明確ではなく、50人が選ばれるらしいとも100人が選ばれるらしいとも巷間には伝わっていた。広西省の山奥に起こった謎の宗教集団、その指導者(教祖)の妃になる事は、武昌の人々にとっては光栄な事ではなかったらしく、適齢期の娘を持つ親たちも、そして審査される当の娘たちも、御通夜のようであったという。娘たちの中には選ばれぬように故意に顔を煤で汚したり、髪をボサボサにしたりの工夫があったので、先ず、集められた娘たちは全員が全員、タライに酌んだ水で洗顔させられ、その上で、実務を取り仕切っていた楊秀清によって、選抜が行われたという。

最終的には選妃60名が洪秀全に献上され、その後宮となった。これがエホバから使命を与えられ、キリストの弟を自称していた、洪秀全の一つの顔だと思えば、さすがに異常と考えられる。この上拝帝会及び太平天国では、厳格に男営と女営を分離しており、夫婦であっても禁を破って逢えば死罪だった事を考慮すると、諸々、教義に反しているように思える。因みに、有名な秦の始皇帝は後宮が三千人であったといい、中国史上最も多い後宮を抱えていたとされるのは隋王朝時代の煬帝(ようだい)で、その数、実に二万人であったという。

この後宮(こうきゅう)は、原則的には皇后や皇妃をも含めて奥御殿の女官すべてを指し、男子禁制の奥御殿そのものを指している。女官らは身の回りの世話をするが、伝統的に後宮は容姿の美醜によって美姫(びき)が揃う。美姫の中には当然、妃となる者もあり、つまり、この「妃」とは「側室」の意味である。(徳川幕府の大奥なども「奥の院」という意味では非常に似た制度ですね。)

また、異説として、この選妃に当たったのは楊秀清であったが、既に楊秀清の威勢は、洪秀全を凌ぐほどになっており、この選妃に当たっても、最上の美女は楊秀清が自ら召し抱えてしまい、そこから60名を洪秀全に献上した等の、真偽不明の風聞もあったという。



◆戦況〜太平天国軍VS清王朝軍

南京を占拠し、天京と改称した後の太平天国は、その最終目標が顕わになった。目指すは北京であり、清王朝の打倒こそが、目先の目的であった。北京を目指して北伐軍の遠征が行われるが、戦況は数年間に亘って一進一退であった。清王朝はかなり衰退していたが、それでも既に150年以上の歴史を有しており、軍人の中には蒙古人(モンゴル人)もあり、決定的に強さを誇る蒙古騎兵隊なども登場するので、決定的な勝利はどちらも得られない。

移動する国家であった上拝帝会が南京を拠点とし、いわば移動は終わったが、移動してきたルートにあたる広西、広東、永安、桂林、長沙は、天京(南京)からは西にあたるが、この西方面でも清朝軍と構える事になり、この天京から見ての西方面でも一進一退という戦況が数年間続く。膠着状態。

清王朝軍は、太平天国軍と対峙するにあたって、曽国藩(そうこくはん)によって水軍を統括した湘軍が形成され、この湘軍が対峙した。湘軍は曽国藩の故郷である湖南省の湖南人による編成部隊であり、水軍技術がある事、また、湖南人だけで編成されていたので団結力が強かったという。この曽国藩の湘軍は河を利用しての水軍であり、西方面で太平天国軍と争った。この曽国藩を師をする李鴻章は、曽国藩の下にあったが曽国藩に倣い、後に淮河(わいが)を舞台にして活躍する淮軍(わいぐん)を組織し、太平天国軍に対峙した。李鴻章が名を挙げたのは、この太平天国の乱とも関係している。永安攻防戦の頃から上拝帝会軍と戦い続けている向栄(こうえい)は、諸々の特権を付された欽差大臣として太平天国軍へ対応している。

対する太平天国では、大きな変化が起こった。洪秀全と楊秀清との間の力関係が微妙となり、洪秀全は引き籠もり始め、人々の前に姿を現さないようになった。この裏には、勘繰れば60名の選妃を後宮に迎えた事で、政務を怠る、疎かにする君主が出る事が中国史では指摘されており、そんな事も考えさせられる。実務では、楊秀清が頭一つ飛び抜けた存在となり、それに続いて地主階級の出身者で初期メンバーである韋昌輝(いしょうき)、船匪から転身した羅大綱(らだいこう)、孤児から上拝帝会で頭角を現した石達開(せきたっかい)、同じく孤児であったところ上拝帝会で育った新鋭の陳丕成(ちんひせい)ら。



◆なぜか上海

北京の清王朝に対して、南京(天京)の太平天国という対立構図の中、上海では太平天国との連携を探りながら、天地会系組織が上海を掌握する。天地会とは、謂わばマフィア、ヤクザ、任侠団体といったもので、そうした性格の結社を指している。この頃までには既に上海にはアヘンの売買で利権が生まれており、天地会は太平天国の乱に乗じて清朝に対しての武装蜂起をし、官憲を上海から追い出す事に成功する。天地会と太平天国との間には連携を模索する動きがあったが、太平天国はアヘン吸飲者は死罪、アヘンを売買している者は死罪という方針であった為、連携は見送られた。

イギリスは軍人が太平天国の様子を探っており、楊秀清らと面会を果たし、洪秀全との面会を求めたが、太平天国は天王(洪秀全)に面会するには跪拝するなどの礼儀作法を面会の条件にした為に決裂。太平天国に加勢しても、アヘンへの厳しい態度からすると利益は得難いとして太平天国との連携を諦め、アヘン売買で利益が見込める天地会へ武器を売買する形で援助する方策を取った。そんなイギリスに対して、租界地の面積で嫉妬していたフランスはイギリスに対抗すべく、清王朝に加勢。登場勢力、全てが全て利権を巡ってしか動かないというクズ飽和状態となる。

天地会は間もなく分裂した。天地会には広東省の広東派と福建省の福建派とがあり、共に気性の荒さで知られていた。上海城を陥落させるまでは広東派も福建派も上手くいっていたが、やはり、上海を手に入れた後の利権を巡って、対立関係が生じた。この天地会の骨格を担っていたのが「小刀会」という名称の任侠団体であり、「大刀会」の分派であった。母体の「大刀会」の方は時間軸として後発となる「義和団の乱」の最初の反乱を起こしている。



◆狂気の大破局

天京に拠点を構えて以降の太平天国は、楊秀清が洪秀全を凌ぐような威勢を誇りだし、洪秀全は楊秀清を制止できないという状態が続く。楊秀清は、権力奪取を画策し、得意の天父下凡(てんぷかぼん)と呼ばれる降神術を演じ、

「天父(エホバ)より啓示があった。天王(洪秀全)に鞭打ち百回の刑(杖刑)を与えよ」

という宣託をした。これは謀反の動きであった。しかし、これが空振りする。天京城内の威勢では楊秀清は、閉じこもってばかりの洪秀全を凌いでいたが、まだまだ天王・洪秀全の影響力が大きかったのだ。そう天父下凡を降してみたところ、韋昌輝が「私が天王の代わりに刑を受ける!」と言い出すと幹部らが相次いで、代わりに杖刑を受けると言い出したので、楊秀清は慌てて取り繕った。

楊秀清が追い落としを画策している事を本格的な危機を抱いた洪秀全は、韋昌輝と石達開、この両名は太平天国軍の将軍職にあったが、密使を放って、この韋昌輝と石達開に楊秀清の誅殺を依頼する。この頃、太平天国は天京城内おいて、洪秀全が天王として天王府を構え、楊秀清は東王と名乗り、東王府を構え、韋昌輝は北王として北王府を構えていた。(石達開は翼王という王号を冠されていたが遠征中で天京には居なかった。)

洪秀全から東王・楊秀清の誅殺の密命を受けた韋昌輝は、なんと、その日の内に動き、東王府を包囲した。洪秀全は、東王誅殺については、石達開の帰還を待って、北王・韋昌輝と翼王・石達開とが東王・楊秀清を誅殺するというシナリオを描いていたので、早い動きに驚いたが、韋昌輝は思いの外、迅速に動いたのだ。

韋昌輝は、楊秀清と異なり、地主上がりだったので文字は読めたし、それなりの良識も備え、且つ、権力者の間でゴマをする処世術を身に着けていた人物であった。或る意味では、洪秀全にしても頼みの綱にしていた人物であった。しかし、この北王・韋昌輝は意外な行動に出た。洪秀全は楊秀清とその兄弟らを誅殺し、死者を最小限度に抑えるように命じていたが、韋昌輝は、積もり積もっていた楊秀清への恨みを晴らすべく、東王府の者の大量殺戮を計画していた。残党を残せば、後々、憂いになりかねない――という兵法の鉄則が韋昌輝に、それを計画させたと言えるが…。

北王・韋昌輝の配下には、秦日綱という将があり、この秦日綱は、この2年前に部下の一人の梁某が楊秀清の親類に挨拶をしなかったという小さな騒動が発生した折、楊秀清の命令によって車裂の刑に処された。これは車で四肢をばらばらに引き裂く刑罰であった。犯した罪が「挨拶をしなかった」である事を考慮すると如何にも理不尽な刑罰であった。その部下を殺された恨みのあった秦日綱は自らの手で、楊秀清への復讐を貫徹した。「梁の仇をとってやる!」と狂ったように叫びながら秦日綱は楊秀清を切り刻んだ。太平天国、最高の実権者として君臨した楊秀清は寝室で討たれ、その部屋は文字通り、血の海になったという。

韋昌輝は、東王府を包囲しただけではなく、城郭都市である南京(天京)そのものをも包囲し、厳戒態勢を取っていた。そして東王府内に残る東王勢力の殺戮を行なった。残党を残せば、後顧の憂いになるとばかりに、約五千人ほどを処刑した。これは明らかに洪秀全の命令とは異なる対応であったが洪秀全は沈黙した。約五千人ほどを処刑した訳であるが、それは半数近くであり、残りの半数の東王・楊秀清の将兵は、この殺戮時に東王府からの脱出に成功し、逃散していた。

韋昌輝と秦日綱の復讐は終わっていなかった。東王に仕えていながら逃亡した将兵を始末しようとしていた。東王誅殺の後、太平天国では神懸かりをする「女宣詔書」という官職の女官を抱えていたが、その女宣詔書によって「無辜の民をも殺した咎」として、「北王・韋昌輝に鞭刑四百の刑に処する」と布告した。そして、北王・韋昌輝と、実際に誅殺した秦日綱の両名は公開の場で鞭打ちの刑に処される事となった。そして、この両名の鞭刑は広場で執行される事となり、旧東王の配下であったものは朝房(ちょうぼう)と呼ばれる屋根のない施設で、それを見物するような手配が為された。この朝房とは、野球の外野スタンドのようなものであり、屋根は無いスタンド席であり、そこからイベントを見物できるような施設であったという。

朝房に入場して見学にするには、自ずと武器を装備してはならない決まりがあったので、東王・楊秀清に仕えていた将兵らは丸腰で、朝房へと押し込まれた。その数、5千人。実際に鞭打ち刑は執行され、韋昌輝と秦日綱はの背中には鞭が振り下ろされ、背中が破れ、血が噴き出したという。朝房に陣取った旧東王勢力からは「殺せ!殺せ!」という大歓声が起こった。

しかし、これは大掛かりな復讐劇の余興に過ぎなかった。韋昌輝によって仕組まれた罠であった。鞭打ちショーが佳境となると、朝房に、北王・韋昌輝傘下の北王軍が突入した。屋根がないスタンド席であるが簡単には逃亡できない。しかも旧東王勢力は丸腰であった。北王軍は、その朝房で屠城を行なったのだ。朝房は阿鼻叫喚、無慈悲な惨殺劇となり、東王勢力残党の兵士たちからは「殺してくれ!」と哀願する声が上がるような修羅場になったという。この計略によって北王・韋昌輝は、東王勢力の残党の約五千人を殲滅に成功した。

狂気は、まだ終わっていない。遅れて翼王・石達開が天京へ到着する。帰還してみれば、天京は異常事態であった。石達開は20代の若者であったが、少年期から洪秀全とは面識があり、そのまま、出世して、翼王という王号まで授かった将軍であった。翼王・石達開は、天王・洪秀全に面会を求めると、やはり、特別扱いで面会が適った。石達開は、この異常事態の収束方法を洪秀全に訴えたが、洪秀全も打開策は持っていなかったという。

次に、翼王・石達開は、北王・韋昌輝に直談判に出向いた。しかし、そこには人格が変わってしまった韋昌輝が居た。石達開は屠城(皆殺し)をした事を咎めに行ったものと思われるが、韋昌輝は権力の虜になっており、「黙れ、小僧」とばかりに石達開を叱り飛ばした。翼王よりも北王の方が組織図として上位であった。

楊秀清に代わって、太平天国の実権を掌握した韋昌輝は、天京にあった天下第一塔と呼ばれる高さ80メートルにも及ぶ、塔を破壊した。この塔は江南の名所名跡であるばかりか、中国の名所名跡であり、ブリタニカにも記載された南京名物の塔であった。天下第一塔の建造は1412年であるが、その場所は、かの孫権が阿育王塔(あそかおうとう)を建てた場所であり、江南文化圏にあっては歴史的なモニュメントであるばかりでなく、アイデンティティーの象徴でもあった。しかし、これを韋昌輝は爆破して破壊した。石達開が攻めきて、その天下第一塔から砲撃されると恐れた為であるという。

この事態になると、今度は洪秀全の兄である洪仁発、洪仁達が北王・韋昌輝の専横を攻撃し始めた。これによって、とうとう天王と北王との対立関係へと発展していった。緊張が高まり、衝突に発展する。洪秀全の実の兄弟であった洪仁発や洪仁達は自分たちが身内であるが故に重用されていたが、この血縁に頼った仁発・仁達にしても、その威の背景にあるのは血縁であり、実権者ではない。韋昌輝は、洪秀全を含めて天王府に対してのクーデターを画策する。しかし、実際に天王府を攻撃するとなると脱走兵が増え、士気は上がらないという現実に直面した。忠誠の対象となっているのは、この期に及んでも、実権者ではなく、宗教的指導者に向けられていた。

それでも北王・韋昌輝は決断し、天王府を兵士で包囲するというクーデター作戦を決行。しかし、この天王府包囲をしていた際に、東王・楊秀清勢力の残党で、楊秀清の秘書であった傅善祥(ふぜんしょう)に背後を突かれる。韋昌輝の兵は二千は背後から来た傅善祥に対応しようとすると、今度は天王府の門が開いて、天王軍が突撃し、韋昌輝軍は挟撃され、呆気なく、捕まった。韋昌輝は、洪秀全の命に拠って首を刎ねられた後に、四肢を切断する支解の刑に処せられた。それでも、まだ、足りず、韋昌輝の遺体は二寸四方の肉片になるまで切り刻まれ、その肉片は城内のあちらこちらに撒き散らされた。

韋昌輝と秦日綱の首級は塩漬けにされ、翼王・石達開の元へ届けられた。以降、人望もあり、実力もある石達開が太平天国の実権を掌握し、新鋭として陳丕成らによる若い太平天国となったが、石達開と、洪仁発・洪仁達とが緊張状態となり、石達開派と反石達開派という様相へ。石達開は、太平天国を見限って、20万の兵を天京から引き連れて離脱。これが1857年5月であったが、実質的な太平天国の崩壊であった。

その後も、太平天国は側近政治体制で、王を粗製濫造しながら存続を続けるが、曽国藩、李鴻章、向栄らの清朝軍が戦局を有利に展開し、追い詰めていき、1862年、清朝軍は天京城を包囲し、攻城戦となる。1863年、蘇州が清朝軍の手に落ち、1864年には杭州、常州も清朝軍の手に落ちた。

そして1864年7月19日、洪秀全は赤い紙に包まれた毒薬を服用して、自殺を図った。毒薬を服用する前に、洪秀全は遺言を残しており、その遺言を天京中に広めるように申し付けた。

「太平天国の大衆は安心するがよい。朕はこれから天堂にのぼり、天父天兄から天兵を派遣していただこうと思う。それまで、天京を堅守するのだぞ」

勿論、洪秀全の遺言は守られず、天京に天兵が出現するという事態は起こらなかった。それから間もなく、天京は陥落した。

洪秀全の自殺後も天京では約1万人の兵士が残り、清朝軍への抵抗が続いたという。女官らは自殺していたが、天京陥落の瞬間まで投降する者は出なかったという。天王・洪秀全を信じ、必ずや天兵が援軍としてやってくるものと信じ、最後の最後まで徹底抗戦が続いたという意味らしい。