立憲民主党の代表選の候補者が出揃って4名に絞られ、報道番組やNHK「日曜討論」でも取り上げてはいるものの、そこから受けている印象を率直に述べると「ダメじゃん」の一言ですかねぇ。何か期待を持てるといった感じがしないし、既に報道が食いついていない。枝野さんが辞任するという流れになった時点から嫌な予感はありましたが、後継として期待できる人物がいなかったという事ではないんだろか。

先ず、マスメディアへの露出の問題かすれば、先の自民党総裁選のようなメディアジャック状態からは程遠い。これは覆しようもない現実でしょう。そして代表候補にしても、知名度はさておき、そんなに重厚感も感じない。従来の枝野体制から何がどう変わるというのかという部分さえ、見い出しにくいというのが現実ではないだろうか?

報道にも欺瞞があると思う。昨今の選挙は、イメージとか大衆の人気が大きく結果を左右する選挙制度になっている。勿論、立憲民主党の政策提言うんぬんという問題、身も蓋もない話をしてしまえば、そもそも中身が足りないという問題もあるのに、立憲民主党のシンパは、立憲民主党の体質と同じで感情的な批判しかせず、つまり、或る種、議席数を減少させた事に対しても徹底した分析が為されているようには見えない。皮相的な物言いをすれば、立憲民主党という政党の支持母体は、自分たちをも棚に上げて、勝てる筈もない立憲民主党という政党でもって、無いものねだりや、誰ちゃんが悪いという具合の醜悪な罵り合いを展開し、結局のところ、与党体制側の揺さぶりに見事に屈しているように見える。とてもとても、政権担当能力を問えるような代物には見えないという、決定的なウイークポイントがあるように見える。

立憲民主党を支持している連合にしても単なるアンチ与党の受け皿であることを理解せず、「単独で行ける!」というのであれば、どうぞどうぞ単独で戦うという選択をすればいい。おそらく、得票数も議席数も激減するであろうと思う。自らの非力に気が付いていない政党が自滅するのを眺めるのもデラシネ層からすれば一興かも知れない。

立憲民主党なる政党は、二大政党制というシステムにしてしまったが為に、アンチ自民党の受け皿になるという使命を自ずから、有してしまっている。しかも、選挙制度は大衆迎合型の民主主義投票にしてしまっている事もあり、そもそも票を伸ばすには、都市部に多い無党派層をターゲットにせざるを得ないという宿命を帯びてしまっている。都市型無党派層と言えば、ひょっとすればカッコいい言葉と誤解する可能性もあるが、それは、言ってしまえば、根無し草であり、デラシネという事になる。最初から、重厚な布陣を組みにくいという性質を有しているという事ではないのか? 

自ずと、そんな意味合いの弱小政党が、少しでも民主政治に資すようにするのであれば、ホントは政策がどうのこうの以前に、先ずは目先の選挙で、きっちりと勝てる布陣を考えることが優先されるべきと発想するものだと思う。しかし、どうもヘンテコなのだ。言葉はきついが、立憲民主党及びそのシンパは、自分たちが大きい存在であると、致命的な勘違いをしているように、私の目には映る。立憲民主党なんて政党には、投票したくないが、あまりにも選択肢がないので、しょうがなく投票しているという投票行動が、かなりあるであろう事に気が付いていないのだ。

メディアの露出にかけては政治家の中でも極めて上位であったであろう、知名度の高い辻元清美氏が落選したという事は、或る意味では象徴的であったと思う。残酷なようだが、思うに、「もう、期待されていないのだ」と思う。これまでの過去の言動などで信用を失ってしまったという側面もあれば、これからの展望にしても期待を持てそうもないとジャッジされてしまった選挙であったように思う。まぁ、維新が絡んでいるんですが、維新旋風を「風」という具合に侮っている態度からして、もうダメだろって思う。そもそも無党派の人たちの投票行動なんて、いつだって風みたいなものだし、立憲民主党という政党にしても、先述の通り、基本的には風に左右され易い政党なのだ。「風にやられた」だなんて、大御所ぶってしまったらオシマイだよなって思ってしまった。

大不評であったかも知れない昭和末期から平成初期にかけてブルーハーツを擁しての社会変革論は鋭すぎるなと感じた。当時の評論家らの言辞を引きながら2020年の視座から当時のブルハ現象を語ったものであったが、その通りであろうなと思った。言葉そのものが存在しないので、どう表現すべきか苦慮するところですが、実際に、この国、この世界で起こった事とは、マス文化・大衆社会による個人や孤独への包囲であった。仮に、これをマス大衆社会による個への侵略と言い換えると分かり易いかも知れない。青島都政下で、新宿のホームレスが追い出され、今も各地に排除アートと呼ばれるような「ホームレス避け」がつくられている。また、公衆トイレは減少し、どうしているのかとえいば結局はコンビニなどの商業施設への丸投げに成功しただけなのだ。そして、おそらく、オモテナシされる市民社会を形成した。消費型資本主義の正体とは、それですね。あれが欲しい、これが欲しいと、いつも要求ばかり、駄々を捏ねる。そして、そうした要求に対して「よちよち、そうでちゅか」という反応をして巨大政府は巨大財政で分配という名の差配をする。そして、これは差配する権利を拡大しているという事であるが、その差配を正義化している。

分配とか差配ってのは、急に持て囃され出したのだけれども、どうだろう? ホントは自由主義に反していないだろうか? 右側を歩いている洟垂れ小僧からナケナシの小銭を毟りとって、そうして集めたカネを自分が懇意にしている御子息に、うやうやしい態度で渡す。これが差配の原理である訳でしょう? モンティ・パイソンという英国のコメディ集団がつくった「ルピナス仮面」の話ですよ。ルピナス仮面は義賊を気取って悪者から財貨を奪い取って、自分が考える弱者に施しをしているが、財貨を奪われる側から財貨がなくなると、そこら辺の雑草(ルピナス)を大量を搔き集めて、人々の家に投げ入れてゆくという古典的なコントだ。

その差配を正義化している。こんな不公平な社会が持続可能な社会の訳はないが、それでもマス大衆社会では「これこそが正しい選択肢なのです」と展開できてしまう。何故なら都合の悪い異論を排除して必死にPRできるようになってしまったから。そういう社会になったという事である。現行の言論環境による過度の抑制要求なんてのも、実際には検閲に似た機能を果たしていると思う。この社会を支配しているのは、大衆を飼い慣ならす事に成功してしまった為政者である、そういう気持ち悪さしかない。

既に、そういう言論環境になっており、そこでは特定の政治イデオロギーを持った人たちが生まれ、そういう彼等がマス大衆社会を仕切っていると思う。思い浮かぶテレビの中の言論人の顔を想起すれば、8割方は残念ながら電波芸人同然の人たちなっている。骨っぽい事をしゃべる論客は実際に見掛けませんよね? こういうマス大衆社会にしてしまったのだから、最早、カンタンに、どうにかできる次元の話ではなくなってしまっている。

話が長くなってしまいましたが、要は最早、大衆の票を奪い合うプロパガンダ合戦が政治そのものになってしまっており、そこら辺のランキング投票でしかない。政治について、さほど見識が高くない人気タレントが何かしら話しただけでも、おそらく票が動いてしまうような御時世だと思う。そんな中での話ですからねえ…。


我慢ならないのは、「ひょっとしたら、まともな判断力が失われているのではないか?」と感じてしまう事であったりする。それは野党共闘を巡る言説ですかねぇ。与党を支持している勢力や、それに与している論者に限って「立憲民主党の野党共闘は失敗であった」という論陣を張っている。そんな事は見え透いているが、肝心要の立憲民主党及びそのシンパが、それを理解できていないように見える。そこには大衆の無理解の問題も関係してくるし、大衆からの支持を得ないと存在意義さえなくなる立憲民主党の場合、ここで混乱が生じるという事からして信用できない。

仮定の話として、野党共闘しなかったならば、先の衆院選で立憲民主党は現有議席数以上の議席数を獲得できたであろうか? 獲得できたと分析できるだろうか? 

「野党共闘なんてしたから議席数を減らしたのだ! 仮に共闘体制なんで組まずに堂々と立憲民主党が単独で勝負していたならば、もっと議席を獲得できた筈だ!」

と考えているのであれば狂人でしょ? 単独では勝負できないような状況であったから共闘したのに。ホントは、このテの直観でも、物事の本質を見抜ける話だったのではなんだろうか?

なんだったら、次の参院選、その素晴らしい有権者からの支持を持っている立憲民主党さんは、新しい代表を選出して単独で戦って、大躍進をすると考えるだろうか? しませんな。ホントは選択肢なんてない。そんな事さえ、理解できていないらしいと分かると、こちらは驚かされるというか、戸惑いしかない。

先ず、11月5日付の朝日新聞、それも埼玉版、つまり、埼玉県に於ける共闘を報じている記事です。
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埼玉ローカルの分析なので、別に記事に目を通さないでも構わないのですが、見出しが全てでしょうか。「立憲民主党+希望の党」で戦った2017年の衆院選よりも、今回の「立憲民主党+日本共産党+社会民主党+れいわ新選組」の方が多く得票している事を、選挙の僅か3日後には、報じていた。その部分は、先ず確定的な事実なのだ。

しかし、問題は単純ではない。そして「維新の会」の候補が居た場合に、野党共闘体制は苦戦を強いられてた。「立憲民主党+希望の党」に投じていた投票者が、先の衆院選では共産党アレルギーというネガティブキャンペーンを受けて、そうだよねと思った層が「維新」に投票したという事がそこそこ分かってしまう。それだけといえば、それだけの話なのだ。

しんぶん赤旗日曜版でも、2017年と2021年との得票数の総数を比較した上で、「野党共闘には一定の成果があった」という論陣を張っている。しかも実は比例区でも先の4勢力からなる野党共闘体制は票を増やしていた事を指摘している。下の図は興味深い。獲得票は増えている。しかし、比例区というヘンテコなルールによって議席を減らしたという事なのだ。これは選挙制度がヘンテコだって事としか言いようがない。
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共産党は自分たちの議席数を減らしたにもかかわらず、こういう態度ですが、実は「れいわ」が共闘体制に不満を漏らしている節があるのかな。「れいわ」もデラシネ層に特化した支持であろうから最も票を読み難い存在ですが、れいわ自身は風が吹かなかったにも関わらず、相応に票を集めていた可能性がある。そうだから不満なんでしょうけど、実際問題を鑑みれば、共闘体制を維持しなかったら消去法によって自民党と公明党が大量の議席を獲得、更に残りの議席だって、かなり維新の会に奪われていたという具合の支持率が現況だと思う。

若年層が野党共闘へ投票してくれるというのは幻想で、基本的に若者の票は自民党に流れている。若年層では保守化が起こっているとは少なくとも2〜3年前から指摘されていた事でもある。これは韓国でも見られる現象らしいのですが、どうも若年世代の政治の捉え方は「損か得か」で判断されていると思われる。国政選挙であるが「公の問題である」と捉えず、そちらの問題は一先ず置いておいて「自分にとって有利になるのはどの政党か?」で投票行動を決める思考方法だという。もしかしたら、それぐらいしか選択のしようがない状況って事かも知れませんが、これが意味しているのは「社会がどうなるのか?」とか「政治の仕組み」といった事柄には、そもそも関心が向いてくれていないという事でしょう。そりゃそうだよね、ペコ&りゅうちぇるさんを器用して「選挙へ行こう」とかプロモーションやってたし、クーポン券を出すから投票へ行くべきとか、物事の基本からズレまくっているのは大人の方、中高齢者の方なんだから。目的を達成する為の最短距離思考。物事を掘り下げるのはムダという思考回路なんじゃないだろか。

また、週刊文春11月18日号には、匿名で政治学者の弁を引用した小記事がある。「政権交代があるとすれば自民が割れる時か、共産党が党名や綱領を変える時だ」という弁であった。おおよそ同じ内容の質問を、田原総一朗氏が共産党の小池晃氏にぶつけ、その小池氏が狼狽するかのようなたシーンを、「朝まで生テレビ」で視聴していた記憶がある。ごくごく常識的に考えれば、そうなる。しかし、共産党という組織は古いガチガチの指揮系統、硬直的な組織だから柔軟性がない。実際には、まんまと麻生太郎氏が発した「立憲共産党」という揶揄したフレーズが当たったという事にも週刊文春が言及している。つまり、共産党アレルギーを喚起させる事に成功し、野党共闘の勢いを削ぐことに成功したというのが情報戦の実相であったと述べており、私も同じ見解ですかね。立憲共産党という揶揄から共産党の綱領問題まで展開されましたが、共産党は連立内閣に参加する意志はないと説明し仮に連立政権ができても「閣外協力」という方針を打ち出す事態になった。

ネガキャンに卑怯もへったくりもないらしい。これがポピュリズム型の情報戦であり、野党共闘勢力が「政党名を揶揄するなんて無礼だ」とか「失礼である」と抗議すれば抗議するほど、その層は実は喜んでしまうタイプの層である。デラシネ層だから、そのようなサディスティックな性向に快感を覚え、マウントを取ったと自己満足をする層が大雑把には2〜3割以上はある。いじめられっ子よりも、いじめっ子の側を支持してほくそ笑む者も現実社会では少なくないのだ。

何故、れいわの山本太郎氏の評価が映画監督の原一男氏ら一部の文化人の間で高いのかというと、あの空気を読まない反射神経と関係している。サディストにはサディズムで斬り返す以外の選択肢はなく、斬りつけられたら斬り返して大怪我を負わせる以外の対処方法はないのが残念ながら世俗社会の現実だ。サディズムに徹するべきだったと思う。例えば、公明党の偽善甚だしい政権公約は衆院選前からホントは攻撃可能だったし、なんだったら支持母体の創価学会をテレビという公共電波を使用してディスれば少しは選挙戦は盛り上げられた筈だ。公明党を敵に回したくないのであれば、ネトウヨ系の自民党シンパが相手になるが、そもそも自由民主党結党時に米国経由の資金が入っている事や、過去の労働争議に於いて実際にヤクザを動員していた事に言及して揶揄合戦に持ち込んでも互角以上に持ち込めたのではないか? それぐらいのサプライズをテレビの生中継で、やってしまう覚悟が必要だったと思う。

何故そう考えるのかというと、そもそもネガキャンとは、そういう心理で行なわれているのが観察できるから。例えば、有権者の高齢化問題についても取り上げられたが、あの報道も結局は「最も共産党の高齢化が著しい」と言いたかったような報道であった。裏返せば、野党共闘を嫌がっている勢力があって、その勢力が必死になっているようにも思えた。

14日付のしんぶん赤旗日曜版には中島岳志東工大教授が登場、「総選挙をどうみる」で野党共闘について談話を寄せていたので引用します。

メディアの多くは「野党共闘は失敗」「見直しへ」と言っています。たしかに総選挙は野党によっては厳しい結果となりました。しかし総括を間違えてはいけません。〜略〜

どういう数字の分析をしても、今回、野党共闘をしていなければ、立憲民主党はもっと議席を減らしていたと思います。自民党や政権に近いメディアなどから、野党共闘否定論が流されているのは、自民党にとって野党共闘が徹底されることが怖いからです。


私も、全く同意見。あれこれと野党共闘失敗論を展開させている彼等というのは、そんなに立憲民主党なんてものを本気で心配しているような連中ではありませんね。あのテの識者とやらに、1ミリでも「誠実さ」を感じたことがあるかって言われたら、無い。御用メディアと提灯ジャーナリスト、なんちゃって評論家だらけなんだと思いますよ。

また、衆院選の前後に某国際弁護士が「共産党は現在でも公安の監視団体になっている」とテレビで発言した騒動があった。その辺りかしてネガキャンの空気の確認できていたとも言える。「だったら過去の労働争議や学生運動にも自民党はヤクザを投入していたのに、何故、公安は監視団体にしていないのですか?」と質問返せばよかったのに、と思う。おそらく、そこら辺の事情を知らない人が、ああいう反応をしているものだ。巧く言えば「それは事実ではない!」と勝手に騒ぎを拡大させてくれたかも知れない。今後、政府は「共産党は現在でも公安の監視から外れていない」という事実を改めて国会で答弁させる予定だという。

いっそ、戦後日本の膿という膿を、全部まるっと出し切ってしまった方がいい。


立憲民主党? うーん、次の参院選の事を考慮すると、もう一回、代表選を、やり直さないと厳しいのでは? これで誰かが新代表になって新体制がスタートするとして、それで枝野体制よりもマシになったと、有権者、それも無党派の有権者が思ってくれるだろうか? そりゃ、きっと思いませんな。。。

むしろ、自民党や維新の会ともなると「クックック、次の選挙もイケそうだ☆」と、喜んでしまっているのが現実だと思う。