週刊文春6月2日号には、現代人のエロス的貧困を憂慮させられる記事があるな、と。

先ず一つ目は、細田博之衆院議長(自民党)によるセクハラ報道でした。或る時期からセクシャルハラスメントという概念が登場、しかし、ハラスメントというのは受け手次第で、どのような解釈も可能になってしまうという性質なのに、それがそのまま、放置されてしまい、論者によっては「受け手が不愉快と感じたら、それはハラスメントなのです」という言説が主流になりつつある。しかし、それはどうかなって思う。そんな事を言い出したら、常に被害者ぶりっこをした者がマウントをとれることになってしまう。しかも、しばし放置してきてしまったので、おかしな思潮になっているような気がしないでもない。まぁ、急がずにいきます。

先ず、国会でも騒動になっている細田議長についてのセクハラ報道ですが、現状、週刊文春はセクハラを報じているが、当の細田議長は事実無根と述べている。文春がどのように報じているのかというと、「セクハラと受け止められかねない言動」という文言が記事中にもある通り、明確に犯罪に該当する行為という感じでもないだけに扱いが難しい訳ですね。「これはセクハラに該当すると思いますか?」という具合にマス・センチメントたる世論に委ねると、おそらくは、ひたすらエスカレートしてしまう事が予想できる。それは不快と感じる凶悪犯罪の量刑を重くすべきかどうかと尋ねたパターンと同じであり、世論とは他罰的な方向性に向かうという性質がある事も理解できてしまっている。

さて、文春が報じている細田衆院議長のセクハラ問題とは、具体的に、どの程度なのか? うーん、これまた微妙といえば微妙かな。実名で告発がなされているという問題でもなく、最もセクハラ被害にあっているとされるH記者があって、そのH記者を知る政治部記者が、H記者は、次のように嘆いていましたよ、という具合に語らせている。

「細田さんから『肩を揉ませてよ』『膝枕してよ』と言われたんです。夜中に電話で、『僕の部屋でプラネタリウムを見よう』と誘われることもありました」

週刊文春が、そのH記者に直撃している。この箇所は引用します。

事実確認のため、H記者に電話で話を聞いた。

――セクハラはあった?

「ここで、あったか無かったかというとまた……」

――細田氏は「事実無根」と言っている。セクハラが事実なら問題だ。

「それについては即答できる状況にないんです。お話し頂いていることはごもっともかなと思いますが、考える時間も必要なので、またご連絡させて下さい」

翌日、H記者から電話があったが、苦しい胸中を明かすようにこう語った。

「やはり今、お答えできることはありません……」

細田事務所に事実関係について尋ねたが、期日までに回答は得らなかった。


これをネタにして、諸々、「とっちめてやろう」という人たちが乗っかってしまうのが、このテのセクハラ問題のややこしさでもある。

とはいえ、あくまでセンスとか良識でしか語りようのない部分ですが、世の中には不粋な人間は多く、且つ、セクシャルな会話ともなれば不器用な人も相当数いる筈であり、更には鈍感な者だって沢山いる事が予想できる。当事者間で、問題視していない程度の問題を、第三者が、わざわざ、ほじくりかえしてしまっている可能性もあるのかも知れない。

まぁ、センスや良識で語るなら細田衆院議長が女性記者に「膝枕してよ」等と言っていたらしいと耳打ちされれば、〈あのジジイ、いい歳こいて、よく言うもんだね〉とは感じますワな。しかし、そういう部分も含めて、各自の個性というべきか、セックスアピールの仕方というべきか、性癖やセックス観というべきか、そういうものは千差万別であろうから、或る程度は寛容をとらざるを得ないのが実際ではないのかなと思う。この「実際」というのは当事者間に於いての実際であり、対人関係としての実際ですね。お尻を触られたとか、胸を触られたとか、何かしらの辱めを受けたケースでもないというのが、悩ましいところで、単に細田衆院議長のセックス観が相場からズレていて、単に、そういうアプローチをしているだけなのかも知れない。まぁ、総じて「あわよくば」のような下心があるものだろうけど、一気にセクハラ、セクハラと騒いで、その醜聞に乗っかって、細田氏の政治家生命を奪いに行くという手法は、正直、あんまり感心しませんかねぇ。とぼけた顔してスケベな人もいるし、年を取ってからも何か、そういう下心を抱き続ける者がある。

細田氏の場合は既に充分、赤っ恥をかかされていると思う。また、周囲が事情をややこしくするというのも少し考慮した方がいいと思うけどねぇ。中学生ぐらいの頃、「A組のヤマダ君はC組のタナカさんの事を好きなんだってよ!」等と大声でアナウンスし、周囲が勝手に騒いでしまい、実際にヤマダがタナカを好きな事をバラしてしまい、且つ、冷やかしたりする。しかし、そのように外野が騒ぐケースというのは、いわゆる「余計なお世話」ですな。少しは精神的に成長する必要がある。オトナになれやって思う。ヤマダは自らの行動も伴わないままに失恋し、タナカの方とて「好意を抱いてもらっているのは嬉しいけど、その先は無理かな」ぐらいの心性であるが、アナウンスされてしまうことによって問題は社会化してしまい、更に複雑化してしまうので「ヤマダに好かれている事なんて、その時点からして既に私は迷惑なのです!」と反応するような社会性バイアスにさらされる。元々は秘められていたヤマダ⇔タナカの当事者の二者間による閉ざされた問題であったものが、暴露される事に拠って開放に遭い、総体全体が注目する中でのヤマダとタナカの二者間の問題に変質してしまう。電子メールのアレみたいな話だ。確かに「余計なお世話」ってものだと思う。


そして二つ目が、実は深刻だなと感じてしまった。それはワイセツ罪で逮捕され、保釈になった練馬区立中学校の男性教師が21日未明、高層団地から飛び降り自殺をしたというもの。これは、ホントに深刻な事件だったのではないかって気がする。

最近は教師によるワイセツ事件が多いので、なんとなく処理してしまいがちですが、この37歳の男性教師の場合は、以下の内容らしい。

トイレ掃除をサボっていた男子生徒を注意したのち、肩を組んで体を触るなど、わいせつな行為をしたとの疑いで十八日に逮捕。スキンシップのつもりだったと容疑を認め、二十日夜に釈放されたばかりだった。

男性教師が男子生徒にわいせつ行為? 逮捕されたというんだから、相当ディープな変態チックな性的イタズラでもしたのだろうと、きっと、思い込んでしまう。しかし、どうも違うんですね。おそらく、尻や股間を男子ノリで触ったという程度…。ここも引用します。

亡くなる数時間前、自身のインスタに投稿した牋篏餃瓩砲呂海Δ△襦

〈陰部を服の上から掴みました。(中略)正直性的な狙いはまったくありませんでした。ですがやられた生徒にとってはそれはとても嫌なことで、ノリや遊びでは考えられないことでした〉

こうした身体接触はよくある光景だったという。

「肩組んだり、尻とか股間も触ることはあったけど、よくある男子ノリというか。気持ち悪いと思ったこともなかったし、今回のことも、いつものノリだろうと思っていたんですが……」(前出・別の元生徒)


え? という事は、その37歳の男性教師は、男子生徒の陰部を服の上から掴んだだけでワイセツ罪で逮捕され、挙げ句に悲観して自殺してしまったって事? 世も末ですなぁ。

「レイプしたいみたいに理解されてしまっている」というクダリは、この遺書を書くにあたって知人に「ニュースだと俺がレイプしたみたいになっているから、実際のこと投稿で書くね」と前日にインスタ上に遺書を残すことを予告していたのだという。そのように予告して飛び降り自殺に踏み切ってしまったという事のよう。察するに逮捕はされたが、そもそも逮捕なんて大袈裟な対応をするようなレイプや深刻な性犯罪といった事案ではなかったというのが実相だったのではないんだろうか。

いやいや、こちらの記事は文春の記事の主旨にも沿っている。実は、とんでもない人気教師だったらしいのだ。この男性教師宅には、休みになる大勢の生徒が自転車に乗って集まっていたという。男性教師宅は、或る種の避難所のようになっていて、親との折り合いが悪い生徒は、先生の家に泊まらせてもらっていて、しかも、その保護者からも「先生の家なら安心」と人望のある教師だったという。

サッカー部とダンス部の顧問をしていて、数十年ぶりにサッカー部が予選で勝利すると誰よりも泣いていたのが、この男性教師であったといい、また、勉強についていけなくなった子の補習もしていた等、かなり面倒見がよかったらしい。愛車に生徒を乗せて、お台場や江の島にドライブしたこともあった。こう並べると、ひたすら子供好きなのではないか、子供好きが転じて性的な行為を…と疑いたくなるものの、そうでもなく、泣きながら叱るような厳しさも持っていたという。

「いい先生でした」や「男女問わず誰とも仲のいい先生だったから、泣き崩れた生徒もいました」といった在校生の談話も紹介されている。こうなると、ひたすらに悲劇ですかねぇ。

男子ノリで服の上から男性教師が男子中学生のポコチンに触ったらぐらいで死ななきゃならない時代になってしまっているって事か。いっそ、この事を世界に誇ったらどうだろう? 日本は、これほどまでにセクハラに厳しい国なんですよ――と。さすがにクレイジーな社会になっている事に気付いてくれるんじゃないの? こういう事件が起こっても諸々の《過剰》を疑わないものなのだろうか?


かなり、斬新なアプローチになってしまうかも知れませんが、おそらく、これらの現象って、現代人の自意識過剰が大きく大きく関与しているような気がする。ここのところ、暴力について、少し掘り下げていました。ヤノマミもそうだし、マフィアもそうだし、戦争もそう。暴力というのは、人類の業みたいなものだな、とね。しかし、暴力とセックスというのは人間の領域としては近くて、偶々、その話を考えていたところでもあったかな。

これは、今まで見聞きしてきた中で、最も、共感できる言語化されたエロス論であったかな。アルフォンソ・リンギス著『暴力と輝き』(水声社)より、引用します。

愛撫のなかで私たちが感じるのは、霊魂や分身、人格といった触れられないもののしるしや痕跡ではない。わたしたちが感じとるのは、生身の、血も肉もそなえた実体としてそこにある、繊細で官能的な身体であり、そのリアリティはまったく疑いようがない。

愛撫されているときの相手の身体は表情にとぼしく、姿勢や身体動作はその状況において、もはや手段や目的を志向していない。顔は愛撫されると、疑問や主張、要求、指示、情報といったものを、焦点の定まった目や、吊り上がった眉、ゆだんだ唇というかたちで示す場所であることをやめる。相手の身体はもはや語らず、会話の流れは突如として、ナンセンスと笑いになる。声を出すことがあるとしても、ささやきや叫び、ため息が漏れるだけだ。

〜略〜

わたしたちは、誰かに名指しされ、訴えられ、要求をつきつけられたとき、またその要求が重要で、差し迫った緊急のものである場合に、責任というものを経験的に知ることになる。官能的な関係が生じるのは、そうした必要性や要求がない場合、飢えや喉の渇き、寒さや済むべき住居がない状況を免れている場合なのだ。官能を感じているとき、ひとは武装解除し、裸になり、わたしに対して何も要求せず、みずからを明け渡すのだ。

官能にふけることとは、快と不快に対して無責任に応答することである。この応答は即座に、接触することによって生じる。それは快いものであり、愛撫される身体の感じる快楽に応えて、愛撫する手が感じる快楽なのだ。悦びを与えているとき、愛撫は見返りや報酬を求めない。そして、目的のない、責任のない気ままな愛撫は結果を顧みない。

官能的な接触は、相手の人格を冒涜するようなことがあれば、エロティックなものになる。ひとの公的なしかるべき存在としての対面を解体し、社会分野での管理され、定められた地位に影響を与えることがある。気取った態度や懐疑的な態度の破綻、役割や役目、自尊心の剥奪には、特別な興奮を覚えるものだ。明け渡すこと、相手に曝け出してしまうことには、服従とその痛みによって得られる興奮への承認がある。


言語での説明が最も難しいであろうものの一つに、性的な事柄があると思う。引用箇所は「触れること」について、で、特に【愛撫】についての記述ですが、これほど見事に言い表している文章を目にしたことがないので驚いた。

言語でも性的な距離を詰める事、つまり、言葉での接近はできますが、愛撫とは言葉を超えて、それは接触である。AとBとがあったとして、AとBとの間には色々な距離の詰め方がある訳ですね。言葉がある。言葉を超えると身体と身体とを接触させる事になる。そうなると、実は言葉は陳腐化してしまう。それに言及している。また、それは霊的な何かではなく、肉体的(身体的)な生身の、リアリティである。

そして、手段や目的さえも薄弱なもの、皆無になってゆく。官能に溺れるのだ。勿論、言葉なんてものは陳腐である。手段や目的も陳腐になってくる。何故なら、実際に生身で接触しているから。そして、それは責任感であるとか、このようにされたらこのように応じるべきといった面倒臭い観念をも陳腐化させてしまう。一気に恍惚に到る訳ではないのでしょうけど、おそらく愛撫のプロセスや状況というのは、そういうものでしょう。

性愛とは、この回路でしょうねぇ。いやいや、相手に身を委ねているという無防備な状態であり、それは社会的な仮面、社会的な鎧からも解放されている。状況によっては全裸状態だったりするのだ。この箇所は男性のみかも知れませんが、いいオッパイだよなァなんて思っていて、手で包みんでみたり、支えてみたり、いじってみたりして、そこに柔らかさや肌の質感、重量感などを確かに感じ取っているような気がする。そして相手の恍惚な表情を見れば、その表情に見惚れ、そこで性的興奮を再生産したりする。

たとえ、少々、会話に自信があったとしても、発話は慎んだ方がいい。おそらく、モードが違う、回路が既に異なっているのだ。

そして興味深い事にも言及している。それは人格の冒涜を伴なっているという箇所でしょう。つまり、気取った態度であるとか、社会的な地位としての格差、或いは自尊心そのものをもメロメロになるまで溶かしてやりたくなる。その意味では確かに性的行為とは暴力と紙一重だよなって思う。そして、おそらく、そこに恍惚の境地がある。溶かし、溶かされ、社会的階級なんぞというものは、宇宙規模の神の前、ヒトという偉そうに振る舞っている動物の深淵では、大きな意味なんて持っていない。高貴な者と認識されている者も、社会のクズと認識されている者も、間違いなく同種の何かである。

セクハラの話というのは、極めて極めて入口も入口の話なんですね。#MeToo運動を肯定的に語ることが正しいと認識され、週刊文春の誌面もそんな論調に読めましたが、かのカトリーヌ・ドヌーブが、最初に抗議した際に「世の中には、口説くのがヘタクソな男性もいるのだ」という指摘をしていた。そう、思うに世の男性の大半は、そんなに性的プロモーションも性的アプローチも得意ではありませんね。イタリアの伊達男のような振る舞いをする文化があれば、伊達を気取る事も自然に身につくのかも知れませんが、ここはアジアの東の果て、モンスーン気候によって夏は蒸し暑く、冬は乾燥した冷たい風が吹きおろしてくる日本ですからねぇ。女性が満足するようなアプローチ、納得するような気の利いたアプローチってのは、そこそこハードルが高い気がする。

ああ、仮に私が適当な年齢の女性であったとして、細田衆院議長から「私の部屋にプラネタリウムを見に来ないか?」とモーションをかけられたら、「うわっ、キモいっ」と感じるであろうなというのはホントに速攻で分かる。しかし、だからといって失礼な態度を取ってはいけないというのが、本来的なオトナの対応、恋愛マナーになるんじゃないのかなって思う。

「あのジジイ、キモくてさぁ」

と、言いふらすというのは、その人格を疑われる可能性がある。しかも、それは自前で処理できれば自前で処理して欲しい事柄でもある。

「私は、誰々から、こんなキモい言葉を言われましたぁ!」

と、アナウンスするような行為は、やはり、オトナであれば躊躇すると思うから。あまりにも耐えられないレベルであればケイサツに通報するのも迷わないでしょうけど、なんだか、そういう事案でもない訳でしょう? 男女間の揉め事に警察を介入させたり、法的に契約の概念を介入させようとしているのは、そもそも原初的な関係性に対しては「そんな私的な事柄にまで公共を介入させたくない」というところからスタートしてきたのだと思う。おそらく、公共による私的な色恋沙汰への介入の方針、これを延長していくと、性行為は勿論のこと、性的なモーションをかける行為にさえも、免許が必要、許可が必要、契約書にサインが必要という具合に法律を一枚咬ませないとダメだろうという話に向かってしまう気がする。甲斐バンドであれば「♪ 愛を囁く事さえも、そこは窮屈すぎる町」(ちんぴら)と歌う。おそらくは監視社会に向っている訳だ。

人類なんてのもゲコゲコゲコって鳴いているカエルみたいなもんだ。恋の季節だからってゲコゲコと鳴くのでしょう。オスだかメスだか知らないけど、基本的には、どんなカエルでも基本的には鳴いていると思う。本能的な何かであり、しかも身体の内側から発露してくるする何かだから。それに不愉快に感じたという理由で寄せ付けないようにする、撃退するといった態度というのは、自然の法則から逸脱しているようにも感じる事がある。まぁ、色々と勘違いする人とか、ストーカーなんてのが登場したのも比較的最近であり、一方では社会は、積極的に行動できる人間を好ましい人間像、ポジティブな人間像を推奨しているから、尚更に、こういう感覚ズレも増えてきているのだと思う。行動力があって積極的でポジティヴな人材で、諦める事を知らず、相手の迷惑なんてものも考えない人材こそが今の時代に求められている人材だし、権力志向型人間しか存在していない職業政治家の世界ともなると、そういうタイプの人は多いんじゃないだろか。

ペンシルバニア大名誉教授のアルフォンソ・リンギスの文章を引用しました。本来であれば、言語化する事が難しい内容を言語化してある。これこれがこうだからこうなる、こうすべき、という回路ではなく、初対面の他者から、お茶らしきものをすすめられて、どうするかという問題から、実は説かれている。おそらく、お茶を断るのは失礼なのだ。距離を縮めるなら飲むべきだ。他方、実は勧められた飲み物や食べ物を体内に摂取するという事は、殺されるリスクをも背負っている。そういう部分から論じらている。人と人との距離を縮める事の難しさですね。性的な接触ともなれば尚更の事で、仮面や鎧を脱ぎ捨てた姿とは丸裸であり、信用していない限り、その無防備な姿になる事は不可能だ。相手に身を委ねる行為であるというのは、命をも委ねる行為であり、非常にリスクの高い行為だ。しかし、リンギスの世界観はリスクはリスクであるが他者との距離を縮めると多くの利点が生まれ、自分の世界を大きく広げられるものだ――と説いている。直観・直感ほど信用できるものはなく、当たり前に気持ちのいいものは気持ちがよい。理屈や言葉での説明を超越しているので、実はヒトは、それに逆らえない。

それは、また、文明そのものが羞恥心と関係していて、それが社会階層の上下を形成している。しかし、だからこそ、その上下を超越しようとする部分で欲情するのかも知れませんね。性愛の道へと踏み込んでいくと、そこでは当事者同士は社会階級を破壊し、武装している仮面や鎧を剥いでしまいたいという衝動なども関係していると思われる。エロスとバイオレンスとは共に本能的な何かを伴なっており、性愛と暴力とがヒトの内部では実は近い関係、隣り合わせの関係にあるという話。