イメージとしては、下記の過去記事の続編的になりそう。

拙ブログ:「虫の知らせ」について〜2022-06-21

先日、「おお!これは!」という体験をしました。10月31日の25時頃でしょうか。土日とニュース番組らしいニュース番組も視聴しなかったので、韓国で発生した群衆雪崩の事故の情報に疎かったのでインターネットで検索をして動画を視聴していたんですね。当初、死者の桁数を勘違いしていて、途中で死者数が膨大である事に気付き、そんなに死者が出る事なんて有り得るのだろうかと感じていた。で、翌日からワイドショウなどでも再三、流された例の動画に辿り着いて、おそらくは10分から15分ぐらい動画を視聴していたんですが、途中で私自身に異変が起こりました。突如として、暑くて苦して汗が止まらなくなった。汗が顎から滴り落ちて、髪の毛先も汗で濡れてしまっているような大量発汗。次いで呼吸が苦しい、どうかなってしまうと思い、慌てて動画視聴を辞めて、シャワーを浴びて、冬用の厚手のパジャマからジャージに着替えて、横になっている休んでいると、5分もせずに暑さと息苦しさから解放されました。

突如の体調不良、内心、「ひょっとしたら、こんな風にして死んでしまうのかも知れないぞ」等と寝そべりながら考えたのですが、その体調不良の原因として考えられるのは、私が動画を視聴していて、きっと動画の中の群衆の苦しそうな雰囲気をというものに感応してしまった事なのだろうな、と結論することになりました。これは、特異な体験をしたぞという意味では、貴重な体験でもあった。不快が感染するとか、ヒステリーが感染するとか、そういう話があって、現に私自身の身にも起こったではないか――と。

詳細は失念しましたが、エジプトだったかな、女子学生が朝礼か何かで集団ヒステリーなるものを起こした事例というのが大昔にあって、当時から不快感は人から人へと伝染するのではないかという仮説があったんですね。そのエジプトの集団ヒステリー事案だと、校則か何かで炎天下なのに髪を布で覆わねばならず、その状態で朝礼となり、先生方の長い話が行なわれていた。一人の女子生徒が気分が悪くなって倒れたので、他の女子生徒が倒れた女子生徒を助け起こそうとしたところ、次から次へと女子生徒が倒れてしまった。かなりの数の女子生徒に不快という感情が伝染するように伝わった、と。

韓国で発生した群衆雪崩は、私は決定的に受け付けられないような不快材料だらけの事故であった。そもそも人混みは嫌いだった。母親に連れられてデパートに出掛けた際、おそらく小学1〜2年生でしょうけど人混みって気分が悪くなってしまうんですね、なので、その時には薬局によって何か飲み薬を買って飲んだのだったかな。言ってしまえば「混雑なんて大嫌い」なタチなのだ。行列に並ぶのも苦痛だし、渋滞にハマるのも苦痛。群衆雪崩の映像のような状況、ぎゅうぎゅう詰めになって身動きが取れないという状況なんて地獄そのものだと思う。

なので、思えば、きっと動画を視聴している中で、私自身が不快を強く感じ取って、自分自身があの中にいるかのような身体反応になってしまったのだろうなと思う。尋常ではない暑さを感じとって、息苦しさを感じてしまったのだろう、と。しかも、気のせいというレベルではなく、汗をぬぐって服を着替えて、横にならずにはいられないというレベルの身体上の異変であった、と。


で、そんな体験をした一週間後の6日にNHKスペシャル「超進化論」を視聴しました。常々、進化論についての取り上げ方がおかしいと不満を述べていた私としては溜飲を下げるどころか、「ほら、そうじゃないか!」と拍手を送りたくなるような内容であった。植物はコミュニケーションをしている、森はコミュニケーションをしているらしい事が分かって来たという番組内容であった。植物は自らの体内で物質を生成して放出し、他の植物や昆虫に物質を媒介として意を伝達しているという。更に森ともなると、地中の根には菌糸がついているが木と木と関係は競合関係にあるのではなく、地中に張り巡らされた根、その根に菌糸がまとわりついて根と根とをネットワークにして、その菌糸のネットワークによって栄養を融通し合っているという事が明らかになってきたという。番組中の演出にもあったとおり、弱肉強食の勝者が生き残ったと語る進化論は誤まりだ。競争原理もあるけど、同時に共生原理もあり、融通し合って成立している何かだ。

これを哲学の自然状態仮説に応用すると、万人の万人による戦争状態こそが自然状態であるとする説は誤まりだ。仮説の段階でも、そんな極端な事は有り得ず、協力し合う連中は協力し合うであろうとなり、そちらの自然状態仮説の方が有利であろうと考えられてきた。しかし、NHKスペシャル「超進化論」は、それ以上の可能性を示唆していたかも知れない。だって、植物と昆虫と鳥と菌類などは実際にコミュニケーションを取って共存しているという事ですからねぇ。寄生(パラサイト)と共生は紙一重なのだけれども、寄生によって宿主が滅びては寄生している側も生き残れないので、自ずと共依存関係を構築していく。こういう均衡が自然界には作用している。この均衡を破壊しまくっているのがヒトであり、つまり、人の有する文明こそが、そういった自然界の均衡を破壊している。

また、これは20年前か25年前にテレビのバラエティ番組で視た、不思議な映像を思い出させた。それは白菜に何か装置の電極らしいものを繫いで、その装置に繫いだ白菜の隣の白菜を包丁で二等分に切断すると、その隣の白菜につけた装置の針が反応して大きく振れるというものであった。科学者なのかどうかもあやしい人物が、それを以って「植物にも心があるんです」と提唱していた。思えば、そういう仮説が、堂々と証明されてきたという事なのかも知れない。隣の白菜が切られると、白菜が何かを感じ取っている? 勿論、収穫済みの白菜でしたが…。しかし、そんな事が有り得るのかな? まさしく、この世界には目に見えぬ回路、我々が全く予期していない回路があるという事ではないのだろうか?

やはり、こういう問題を考えていると、どうしても頭をもたげてくるのは南方熊楠だ。熊楠は幽霊に導かれるようにして、新種の粘菌を発見したという。そんなバカなって話なんですが、南方熊楠には南方マンダラと呼ばれる例の絵もある。我々は幽霊と言った瞬間から過ちを犯す。【幽霊】という単語は、「幽かな霊」の意だ。幽霊の【幽】の字の訓読みは「かすかな」で「微かな」と同じだ。死霊と幽霊とは別物だ。そういう話を井上円了は論じていたと思う。結局のところ、熊楠も円了も仏教の哲理で説明していた訳ですが、つまり、感覚器官を研ぎ澄まし、自然界の中にある微かな信号を読み取れるという次元になれば、それこそが幽霊とコンタクトを取っている状態なのかも知れない。まさしく、それを「虫の知らせ」と理解してきたのではなかったのか? 第六感とか霊感と呼んできたものは、それではないのか?

本当は「反応する世界」という事からも、色々と推測することは出来ていたのだと思う。世界は反応する。鏡に映った自分の顔を見て、そこで笑ってみれば、その鏡の中の自分は笑っている。当たり前じゃないかと思う。しかし、それは、この世界は、ちゃんと反応している世界だという証拠だ。もし、笑顔をつくっても鏡の中の自分が笑っていなかったら、それは「反応しない世界」であり、きっと、その者は死んでいる。反応があるという事は、その世界の中で生きているという事の証明だ。

「感応する」というのは、可能か不可能かを意味する「感応できる」とは限らず、また、「意図せずして感応してしまった」という場合もある。「不快だ」という感覚が言葉を介さずに人から人へと伝染するという事は、それが「生命に関わる危険」を意味してる信号だからこそ、伝染するのでしょう。虫の知らせも同じで、その人の生死にかかわることだからこそ、「あ。ひょっとして」と、その人の死を察知してしまう。悪い予感の方が、生命に関わる危険性を意味しているから鋭敏なのでしょうねぇ。

竹内久美子さんはパラサイト仮説の中で、人間の行動は実は腸内にある腸内細菌に操られているのではないかという仮説があるなんて紹介していた。カタツムリの例では、寄生虫が宿主の行動をコントロールしているケースが発見されているという。とはいえ、これらの事は、そのグラウンドベースになっているものは、相互に支え合うような均衡で出来ているという事の証明になっていくのかも知れない。

同じくNHKが「超常現象を科学する」という企画をした際、その番組内で女性のナンタラっていう学者が、将来的には霊とか思念といったものを形成している素粒子が発見されるのではないかと考えていますという主旨の発言をしたかな。生物が死ぬと、その素粒子は空間に放出され、何か生命が宿る時に、その素粒子が関与しているといった具合の説明であった。まぁ、重力の素粒子なるものがあったというのだから、将来的には、そういうものが発見される日が来るのかも知れない。というか、やはり、井上円了らが考えていた事で、我々も夢想したりしている気もしますが、「宇宙全体が霊体なのである」と考えると、実は諸々の辻褄が合う。巡り巡ってよく出来ている。

「科学主義」を声高に掲げる人の多くは、おそらく無神論に傾斜してしまっていると思う。「神なんて存在している訳がない。見た事ねーし。実証も不可能。この世は弱肉強食、これが唯一の法なんじゃ! 食物連鎖の下の方の奴はワンサイドに食われるだけ! 弱い奴は強い奴の養分に過ぎないの!」と考えているのだと思いますが、巡り巡って、自然循環の調和と均衡を乱し、遂には自然界を司る仮称「神」の逆鱗に触れてしまう時が来るのだろうな――と思う。

タタラとモノノケとの対立の中、壮絶な終局が訪れる。てんで出鱈目な家族間対立の中、対立を吹き飛ばすように堤防が決壊して大洪水が家々を呑み込んでしまう。均衡が破れた時、破局が起こるというのは、山田太一にしても、「そういうものなのだ」と述べていたかな。堤防が決壊して家々が流されるのは「岸辺のアルバム」ですが、あのシナリオについて評論家が「どう締めくくっていいか分からなくなって洪水で流されるにしたのだろう」という評をしていた事に対して、強くエッセイの中で反発していた。鋭い対立の最中に、その対立を嘲り笑うように破局が起こる――そうした道理というのは説明は不能だが、いつだって、そのように発生している。これは世の常だ。逆説的に切迫しているからこそ、対立が鮮明化するのかも知れず、その辺りはニワトリとタマゴなのですが、得てして、破局的状況が発生するのは調和状態とか均衡状態が破壊された時に発生する――そういう話なのではないのかなって思う。