イエスは40日間にも及ぶ断食を行なったという。その際にイエスの残した言葉が、「人はパンのみにて生くる者に非ず」であった。慣習的には「人はパンのみにて生くる者に非ず」が使用されていますが、若松英輔著『イエス伝』(中公文庫)から引用すると、次のようになる。

「人はパンだけでいきるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」

となり、マタイ伝4章を引いている。

状況としては、イエスは40日間の断食を敢行していた。そのときに近づいてきた人の仮面を被った悪魔が

「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるよう命じなさい」

と話し掛けた。それに対してイエスが「人はパンのみにて生くる者に非ず」と返答したという。ここで意外と重要なのは「悪魔のささやき」だという事になる。「石をパンに変えてしまえばいいじゃないか」とイエスに〈試練〉を課していると解釈するのだそうな。しかし、そういう問題ではないのだとして「人はパンのみにて生くるに非ず」と返答したという設定になっている。

意味合いとしては「人は食べ物を食べる為だけに生きているのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きるのである」という意味になっているという。「パンのみにて生くるに非ず」の次には「神の口から出るすべての言葉」であるが、慣用句としては後段は省略されている。

「神の口から出るすべての言葉」とは、即ちロゴスである。ロゴスとは「言葉」であると同時に、「概念」であり、「思想」でもある。

キリスト教だけではなく、イスラム教にも共通して「言葉は神である」という。ヨハネ伝の冒頭は以下のように始まる。

初めにみ言葉があった。

み言葉は神とともにあた。

み言葉は神であった。

み言葉は初めに神とともにあった。

この世はみ言葉によってできたが、

この世はみ言葉を認めなかった。

み言葉は自分の民の所へ来たが、

民は受け入れなかった。


つまり、ロゴスによって世界が形成されており、ロゴスを抜きにして世界を語る事もできないという古代ギリシャ哲学が確かに反映されている事が確認できる。また、旧約聖書の時代からモーゼたちは預言者なのであり、神の「み言葉」を預るものであったという事になる。今更の話でありながら、改めて、この問題を考えると、日本の奈良の葛城山の「一言主神」(ヒトコトヌシカミ)にも通じているような気さえしてくる。ロゴスと片仮名を使用してしまうと、言霊(ことだま)から距離があるような気がしてしまうが、意味合いとしては似ている。元始もしくは元始に近い状態であれば、コトバは認識世界を形成する全てであった。

フリーマン理論として紹介した、その提唱者のウォルター・ジャクソン・フリーマン3世あたりも、どんなに難しい数式のような事柄であっても、その実、言語で説明できないものはないという考えた方の信奉者であったという。ロゴスまで押し広げられれば自明でもあるのですが、通常の我々は言語を単なる意思伝達をする為の道具ぐらいにしか思っていなかったりする。令和の現在ともなれば、最低限度の単語のやりとりでコミュニケーションをするのがコスパに適っているだろうというコスパ思考になっている。

コトバといえばコトバなのですが、それをコトダマと言い換えると、魂と言葉とが一体化したかのようなニュアンスになってくる。当たり前なのですが、魂の発するロゴスを乗せて発される意の形態こそが言霊であった訳です。単なる道具ではない。魂と魂とを共鳴させる役割も持っていたのかも知れない。用事や用件なんてものは、どうでもいい。魂をどう見つめるかという問題になってゆくと、確かにこれはフロイトやユングの出番、もしくは神の出番になってくる。

また、このパンの話は「最後の晩餐」のクダリになると、イエスは弟子たちにパンとワインとを用いられている。そこではパンは肉を、ワインは血を暗示している。

また、これらの話からシャーマニズムらしいものを想起する事も出来るかも知れない。イエスをシャーマニズムとしてしまうのは問題を生じさせてしまうのかも知れませんが、体系として語れば、唯一神の言葉を預かったという預言者たちの伝承によって編纂された信仰体系である。その中で、論者によってはイエスも預言者の一人なのだろうとカウントするのでしょう。しかし、イエスの場合には少し趣きが異なっている。というのは「救世主」という性格が強く打ち出されているのだ。

「イエス・キリスト」という場合の「キリスト」とは救世主を意味しているから。ヘブライ語の「マーシーアッハ」はギリシャ語形にすると「メシアス」という発音になる。ギリシャ語に訳した時には「油を注がれた者≒洗礼を受けた者」の意味であり、ギリシャ語で【Christos】、ポルトガル語で【Christo】となり、発音は「クリスト」や「キリスト」となったという。しかし、元々の意味は〈救世主〉の意味であるという。つまり、ナザレのイエスに与えられた特別な敬称こそが、救世主を意味する「キリスト」という名前らしい。