昭和31年5月19日に東京都渋谷区に在住していた青木斌氏なる61歳の人物が、大阪市北区にある大阪回生病院で死亡した。病名は急性肺炎として処理された。しかし、この青木氏は終戦後に隠退蔵物資等処理委員会・委員長代理(副委員長)の世耕弘一氏と共に共に行方不明になってしまったダイヤの摘発に協力していた人物であった。

隠退蔵物資等処理委員会は内務省に置かれており、これは政府機関であったという。世耕弘一氏は元々は内務省の人物であり、バギオ会議に於いて日本で起こっている物資等の隠蔽はポツダム宣言違反であるというバギオ法令が成立した後、行方不明になったダイヤを含む貴金属類の摘発をしていた。主力として動いていたのが世耕弘一氏であり、その協力者であったのが冒頭で触れた青木斌氏という事になる。

また、この「征服者とダイヤモンド」の話に於いて、その世耕氏が日銀の地下金庫に在る筈のダイヤモンドは16万1千カラットどころの筈はなく、資料の作成などにも携わっていた世耕氏に拠れば、ざっと65万カラットは有った筈である旨、『特集文藝春秋』昭和31年2月号に手記を発表していた。

さて、ミステリーは青木斌氏が死亡する前に発生している。この青木斌氏は東京都渋谷区に在住していた。しかし、死亡前に世耕弘一氏が学長をしていた近畿大学から「百万円を青木から恐喝された」と大阪府警に告訴があり、その結果として昭和31年5月14日に在宅逮捕された。東京・渋谷の自宅で逮捕された青木斌氏は、その居宅で逮捕されて大阪に連行されて留置された。死亡日を確認して欲しい。在宅逮捕の僅か5日後に青木斌氏は急性肺炎で亡くなったとして処理された事になる。

この青木斌氏は近畿大学に恐喝容疑で逮捕され、大阪府警によって連行され、その留置場で死んだという経緯であるのが分かる。そして、当時の新聞には青木斌氏の妻・美代さんの談話が掲載されていたという。

当時の新聞に妻の美代さんの談話として次のような記事が掲載されていたという。

わたしはどうも腑に落ちないのですよ。主人は、近畿大学(学長世耕弘一氏)のことで十回近く大阪に行ったのですが、その際、お礼として一回一万円ぐらいをわたしは貰っていました。だから、百万円の恐喝というのは、そのお礼と大阪での旅館代だと思います。その証拠に、大分前に告訴状が出ていたそうですが、真相が摑めないので、警察でも延び延びになり、今度逮捕されても結論が出なかったのではないでしょうか。それよりも、夫の死因について次の点から不審があると思います。病院の人の話によると、十六日、医者から急性肺炎と診断されたのに、入院したのは十八日なのです。なぜ、十六日に入院させなかったのでしょうか。次に、わたしが佐藤公証人を通じて大阪に電話して、荷物は何を持って行ったがよいか、と連絡を取ったのに、先方では、来なくてもいい、という返事でした。折角、切符も買っていたのに無駄になったのですが、どうして病気なのに来てくれと云わなかったのでしょう。お陰で死に目にも会わなかった。死体はまだわたしが行ったとき温かだったが、肩と腰に蒼黒い斑点があり、どんな原因かはっきりしなかった。わたしは不審な点を医者に訊きたかったので、担当医者に面会を申し込んだが、会ってくれず、女医の方が、お気の毒です、と云っただけです。主人が十六日に発病したとき、注射を打ってもらったそうですが、その後、数分経って動けなくなり、痛みを訴えたことを、隣の留置場で見ていた人があります。死因がどこにあったか、納得のいかないことが多いのです。しかも、主人は、検挙される前日、ダイヤモンドに関する報奨金の書類を作ったばかりで、今度の国会に提出しようとした矢先なので、奇怪な気がします。今度のダイヤ問題についても、主人が国のためと思い、命を賭けてやったことです」(『日本の黒い霧』下巻17〜18頁)

この青木斌氏が近畿大学の告発によって逮捕され、大阪に連行され、大阪の留置場で発病、そのまま、大阪回生病院で死亡している。逮捕は5月14日で、その後は大阪に移送され、16日に留置場内で体調不良を起こして発病、その際にどうも留置場で何やら怪しげな注射を打たれており、その注射をしてから数分後に動けなくなったという証言があったらしい事が分かる。しかも、それは青木斌氏が国家に提出を予定していたダイヤモンド摘発に係る書類をつくっていたという事情があった。

更には、青木斌氏の逮捕には近畿大学からの恐喝の告発とあるが、その近畿大学の学長は、昭和20年代には青木斌氏の上に立っていた世耕弘一氏であったのだ。(また、ここに登場している世耕弘一氏は2024年時点の国会議員・世耕弘成議員の祖父とされる人物である。)

この青木斌氏が不可解な死に方を遂げた事について、続きもある。

大阪地検別所主任検事の話では、

「青木は十四日に逮捕したが、四日目に肺炎を起したから、一時釈放して、大阪回生病院に入院させたが、死亡した。青木を逮捕したのは、近畿大学に対する暴力恐喝事件に関してだが、検察庁としては、ダイヤ事件及び中古エンジン事件に関係あるとは知っていたが、調べたのは先の恐喝に関してだけだ」

なお、回生病院の話として、

「青木という人が、十六日に、気分が悪いと云って来たので、入院させたところ、急性肺炎で死んだ。警察のことは知らぬ」

とある。
(同18〜19頁)

よくよく見ると、諸々の日付の整合性が取れていない。検事の談話にある4日目に肺炎を起したのであれば、それは(5月の)18日に入院したという事になる。が、発症したのは16日ではなかったのか? それを改めて肯定するように回生病院側は16日に入院させたと話しているというチグハグがある。


隠退蔵物資等処理委員会は、先述したように内務省付けの機関であり、実は米軍機関とも連携していたという。先述したように、この隠退蔵物資等処理委員会は、ポツダム宣言違反にならぬように隠退蔵された物資の摘発を業務として据えられた機関であったのだ。この隠退蔵物資等処理委員会の委員長には、当時は大蔵大臣であった石橋湛山(いしばし・たんざん)が担ぎ出されており、その石橋湛山委員長の下の副委員長や委員長代理を世耕弘一氏が勤めていた。その世耕氏の片腕となっていたのが、実は不審死を遂げた青木斌氏であった。

以下、種明かしになってゆく。

隠退蔵物資等処理委員会は、摘発した者に対しての報奨金制度を採用していた。その摘発した物資の時価相当額の何割かを報奨金と支給すると実際に謳っていた。青木斌氏の恐喝容疑とは、この報奨金を巡るものであったらしい。

漢数字を算用数字に置き換えて少し引用します。

青木氏は、実は世耕氏の片腕となって隠退蔵物資摘発をした男で、その実力は当時大きく買われていた。彼は、いわば身体を張って発見に成功した16万カラットのダイヤの報奨金を求めていたのである。

彼の要求する報奨金総額は21億円余りで、その根拠は、政府が一割の報奨金を出すということになっていたので、彼の発見摘発したダイヤ16万1千283カラットを1カラット25五万と計算し、合計420億円となるわけだから、これを一割ではなく、昭和二十四年、総理庁公示第二十四号第四条適用によって、最低五分の報奨金の請求をしたのであった。
(同45〜46頁)

青木斌氏は、日銀の地下金庫にあった16万1千カラットのダイヤモンド、その全てを「ひとりで発見した」と主張していたという。まさしく、その数字が一致しているのだ。また、この事について、松本清張は次のように紡いでいる。

(すべては「青木ひとり」の発見によるものなのかの問題の続けて)では、果たしてそうかというと、そうではないとも云えるし、そうであるとも云える。なぜかというと、日銀ダイヤははじめから、そんな大変なしろものが日銀にあろうとは一般国民も知っていなかった。特殊な者、または少数の者しか政府関係でも知らなかったのである。そして世耕氏自身も「青木発見」によって初めて知ったぐらいだと云われている。(同46頁)

隠退蔵物資等処理委員会は、石橋湛山は「お飾り」であり、世耕弘一氏が実質的な責任者でとなり、その実務に当たっていたのは青木斌氏であった。なので、これを分かりやすく〈世耕機関〉という用語を用いている。米軍系の諜報機関CICのバックアップも受けている世耕機関は、切れ者の青木斌氏を擁して、ギャング映画まがいの摘発を行なっていた。まさしく銃弾が飛び交うような危険な仕事をしながら隠退蔵ダイヤの摘発を行なっていた。先述した報奨金制度が最終的には仇になったが、報奨金をばら撒いてでも、ダイヤを摘発・回収していたらしいのだ。

「ニッポンは戦争に敗れたのだ。どうせ、物資は進駐軍に接収されてしまうのだろう。であれば、どこかへ隠してしまえ」とか「オレの物のしてしまえ」とか、そういう考え方が起こる。

当時の中央物資活用協会業務部長の職にあった青木正(あおき・まさし)氏(のちに警察担当の国務大臣になった人物)は、「大蔵省久保外資局長に頼まれ、埼玉県埼玉郡真和村の自宅に、日銀地下室からダイヤ入りの木箱十六個、金の延べ棒二十五本を秘かに運び、徹夜で車庫の地下室に埋めた。しかし、二週間後、米軍に発見されて、そっくり持ち去られた」

と国会で証言している。国会の委員からその信憑性を疑われ、米軍に持ち去られたというよりも党の方に出したのではないか、と激しく追及される一幕もあった。
(同32頁)

中央物資活用協会とは、戦争末期となる昭和19年に接収ダイヤ(供託ダイヤ)の買い取り業務の一部を請け負っていた団体である。その業務部長だった青木正氏が、その後に国務大臣になり、そのような事を国会で答弁していた事が確認できる。(この青木正氏も青木姓であるが青木斌氏とは関係がない。)また、米軍に持ち去られたというのは嘘で党の資金にしたのではないかと追及されているが、この青木正氏は自由党所属であり、第二次岸内閣で国務大臣(自治庁長官、国家公安委員会長)を務めている。

(腑に落ちないところもある。「埼玉県埼玉郡真和町」という地名、勿論、旧地名で検索したのですが見つからないのだ。仮に「真和町」は「新和町」の誤記であるとすれば、埼玉県の県東になりそうですが不明。)

そのような状況であったので、世耕機関は摘発を厳しく展開させた。青木斌を擁してギャング映画まがいの摘発も行っていたと思われる。そうなると、厳しく隠退蔵物資の摘発をする世耕機関を好ましく思わぬ連中が登場、暗躍し、副委員長であった世耕弘一は昭和22年4月11日に罷免された。しかも世耕の出した世耕名義で発行されている隠退蔵物資摘発指令書は無効だとし、指令者は世耕名義の指令書を回収する事までもが義務付けられたという。世耕機関の末端には悪質ブローカーや札付きのならず者もあり、実際に指令書を悪用しての詐欺などが横行していたという。不審な死に方をした青木斌氏についても、そういうルートを使用して世耕氏の片腕になっていた人物という意味である。

青木斌氏の不審死は、その後、国会でも追及が行なわれる様相になっていたが、松本清張に拠れば、「あらゆる手段が用いられ、関係者は沈黙させらてしまった」という表現を使用している。沈黙を強いられた為に、結局、国会の議題になる事はなかったという。

更に松本清張の告発は続く。

この青木斌氏の奇怪な死亡事件の他にも、この処理委員会の調査員だった或る男が謎の失踪を遂げたり、また或る調査員が小屋の中で死んでいたりした事件と共に、不思議な印象をうけずには居られない。(同48頁)

行方不明になった莫大なダイヤモンド、その裏側には実際に怪死と思われるような事案が多いらしい事も分かる。この青木斌氏の怪死について松本清張は同氏は自らの実力に頼んで多額の請求を要求していたが、それとは比較にならないような途轍もなく大きい政治権力に抵触してしまい、謀殺されたのではないかと見立てている。