今回は以下の話の続きという事になります。

拙ブログ:トランスフォビアの深層

何故、カルフォリニア州では性自認教育というガイドラインが教育現場に導入されたのかという問題について、性自認教育に肯定的な教師たちは「LGBTQの子供への暴力や嫌がらせ、精神的苦痛を防ぐために、この性的指向と性自認に関する教育はすべて必要だった」と主張しているという。

有名な例があるとの事で、そのケースに触れていきます。

1996年にウィスコンシン州アッシュランドでジェイミー・ナボズニーという中学生に起こった事件があるのだという。

この箇所は慎重を期して(それと、文章そのものが私と非常に相性が悪いので)引用とします。

ナボズニーは公立の中学校、高校に通っているあいだずっと、執拗に心身とも傷つけられ、暴力をふるわれ、爛曠皚瓩筬爛マ掘り瓩覆鋲雲愛者を侮蔑するあらゆる言葉を浴びせられ、暴力をふるわれ、恥をかかされ、小便をかけられていた。それもすべて、同性愛者であることをいっさい隠そうとせず振る舞っているという罪を犯したからだという。彼に対する他の生徒の仕打ちはおぞましく、悲劇的で容赦がなかった。同級生たちは彼を殴るためだけに存在する屈曲自在の筋肉の塊と化していたとしか思えないほどだ。

しかし、同級生たちがナボズニーに見せた残忍さよりはるかに悪辣だったのは、彼が保護を求めたいくつもの学校の校長たちの慈悲のかけらもない無関心だった。学年がかわっても、いじめは続いていたが、どのカウンセラーもどの校長もいじめを止める手だてを打たなかった。あるとき、ナボズニーと同じクラスの男性生徒何人かが彼を地面に押したおしてレイプする真似をし、ほかの生徒がそれを笑ってみていたということがあった。ナボズニーはその一件を校長に訴えたが、校長は彼に、もし爐海譴らも同性愛者だと公言し続ける瓩里覆蕕弌△曚の生徒から今回のような扱いを犲けるもの瓩隼廚辰討いたほうがいいと言いはなった。中学二年生の終わり、ナボズニーは自殺を試みた。

ナボズニーは成人すると、自分を守らなかった学区相手に訴訟を起こした。控訴審で第七巡回区控訴裁判所は、ナボズニーが何度も助けを求めたにもかかわらず、学区が彼の苦境の訴えに耳を貸さなかったのは、アメリカ合衆国憲法修正第十四条で認められた平等な保護を受ける権利の侵害にあたると断じた。
(『トランスジェンダーになりたい少女たち』120〜121頁)

悲惨な話といえば悲惨な話なのは間違いない。しかし、既に日本人である我々は2019年に発生した旭川14歳少女イジメ自殺事件をはじめ、陰湿で悪質なイジメ事案を知ってしまっているので感覚としてピンとこないところがあるし、もう一点、このケースでは「同性愛者であることを公言していた」という問題が率直に言えば日本人の感覚ではつかみにくいのも実際であろうと思う。それがイジメの原因なのであれば「同性愛者であると公言する事を控える」という対処を考えるのが現実的な対応ではないのかなという気もする。また、こういう部分で常に「自己主張型の権利主義」と衝突してしまう訳ですが、他者との共生に重きを置くのであれば、不必要なアウティングは避けるというのが、伝統的な日本人の思考方法であろうとも思う。からかわれるのが嫌なのであれば、わざわざからかわれる材料を提供しないという具合に発想し、そう対処する。

うーん、きっと、ここで西洋リベラル型というのは「いいえ、そういう事を言っているのではありません! これは法律や権利の問題なのです!」のように展開するのでしょう。しかし、思うのだ。この問題で、どちらが実際に即した対応だろうか? 思うに、こういう問題こそ、実際主義、リアリズムを採択すべきで、いじめ問題を語って原理原則の理想を語るというのは、少なくとも私は感心しない方であろうなと思う。「同性愛者だからといって、イジメられる謂われはないのだから、堂々と公言しても守られるべき」という理想型の思考方法をされてしまうと、感覚的にも、ついていけないところがある。飽くまでも、いじられている側が被害者である訳ですが、いじめのようなものはどこにでも起こってしまうというのがリアルだからこそ、それを回避する事も怠って欲しくないと考える訳です。

この理屈は「深夜のスラム街に露出の激しい服装で若い女性が出掛けるようなものだ」という言い回しで、ずっと昔から言い続けられてきたものであると思う。原理原則からすれば、襲う側が悪いに決まっている。そんな事は言うまでもない大前提の話だ。その上で、そもそも我が身を危険に晒すような事をするのは愚かな事ですよという意味合いで現に使用されてきた言い回しであろうと思う。また、この話については和田秀樹著『テレビの大罪』でも取り上げられていたと思う。当時の福田康夫総理がオフレコ発言として「クロヒョウ発言」をしてバッシングされた事がありましたが、実際問題からすれば、「加害者と被害者のどちらが悪いか?」という比較をしているのではなく、「この世の中には絶望的なレベルで悪い奴がいる世の中なのだから、被害に遭いたくなければ注意が必要だよ」という主旨の警句として発せられているのに、これまでにも度々、炎上してしまっている類いの話でもある。

話を『トランスジェンダーになりたい少女たち』に戻すと、ジェンダー思想教育に賛成している教師たちは、こうしたイジメ事案があったので「LGBTQの子供への暴力や嫌がらせ、精神的苦痛を防ぐために、この性的指向と性自認に関するする教育はすべて必要だった」と展開している。

著者のアビゲイル・シュライダーは、一定以上の評価をした上で、次のように続けている。

いじめ防止法を可決させた連邦議会議員や教師、性自認および性的指向に関する教育を実践している教育委員会は〜略〜LGBTQを自認する生徒の幸福を真剣に考えていると、わたしは信じて疑わない。とはいえ、問題に対処するために取られた方策が改善の域をはるかに超えてしまった場合、立案者の意図からそれているのは明らかだ。

それゆえ、聖職者のたゆみない情熱によって行なわれる性自認と性的指向の教育が、秘めた目的のための口実だと言われるのだ。生徒に自分は同性愛者やトランスジェンダー、パンセクシャルだと思うよう強要していい理由はどこにもない。それに、生徒が女の子の身体をした男の子、あるいは男の子の身体をした女の子かもしれないと勝手に思っていい理由もまったくない。〜略〜学校マニュアルの言葉を借りて、「トランスジェンダー・アイデンティティの表明や、性の枠を拡大した振る舞いは人間形成の健康的かつ適正で典型的な一側面である」と生徒に教える理由もない。

必要なのは、クラスメートに対して慎み深さや礼儀正しさ、親切心を示すよう生徒に言いつづけることだけだ。行動規範に従え。〜略〜ほかの人の体形や宗教、セクシャリティなどの違いを指摘する行為は寛大さとも寛容さとも無縁だ。悪い行ないは即座に罰せられるべきだ。

〜略〜

万が一、嘆かわしい行為がジェイミー・ナボズニーの事件にあったような、加重暴行レベルにまでエスカレートしたら、その生徒を退学処分にするか、警察の手に委ねるかするだろう。
(同122〜123頁)

何故、このような話になっているのかというと、既に性自認教育のガイドラインが整ってしまっているから――という事になる。

中学校では次のような按配らしい。

教師への指示にはこうある。「生徒に立って、ぐるりと二回まわって、すわるように言う。そのあと『みなさん、自分がいまと違う性になったところを想像してみましょう』と言う。もしうまく想像できない生徒がいれば、教師はもう少し踏み込んで行ってみる。『もしいまと違う性になったら毎日の生活でどんなことが変わってくるでしょうか?』と尋ねる。生徒たちの答えを黒板に書き、質問をする。『べつの性になったら、どんな気持ちがするでしょうか? べつの性になったら、どんな楽しみがあるでしょうか? あなたの生活のなかで、べつの性になっても変らないものはなんでしょうか?』」

畳みかけるように質問が続く。自認する性が定まっていない人の立場になって考えてみよう。あなたは完全に女性だろうか? 自信をもってそうだと言えるだろうか?

〜略〜

唯一のルールは、性的二型(生物の生殖器以外の性別による違い)をすべて除外することだ。教師と性的指向の選択肢を数多く提示し、生徒が賢明な選択(つまり、シスジェンダー以外の選択)をしたら、うれしそうに驚いたふりをする。生徒にそのビッグニュースを家族に伝えるよううながしてはいけない。
(同114〜115頁)

なんだか、カルト臭がするというのは、こういう部分にある。しかし、高校になると、更に過激な性自認プログラムが行なわれているという。

もっとも評価の高い健康教育カリキュラムのなかの三つのうち高校生向けのものは性自認と性的指向に関する内容をふくんでいて、かなり扇情的かつ露骨で過激だ。思春期の若者を興奮させてオーガズムを感じさせようとしているのか、あるいはセックスに嫌悪感をいだかせようとしているのかと思うほどだ。アナルセックスも何度も奨励されるので、作成者は自分たちがそれを考案したと思いこんでいるのではないかと勘ぐる人も出てきそうだ。副教材では、フィスティング(拳を膣または肛門に入れる行為)や口による肛門への刺激が、想像の余地がないほど説明される。登場しない穴はひとつもない。(同115〜116頁)

まぁ、このあたりになってくると狂気を感じなくもない。そんな事をいちいち公立学校で教える必要性があるのかなって思うけどね。

でも、思い当たることってたくさんあるかな。教育現場の学校では体罰禁止は仕方がないにしても、口頭注意であったとしても自己申告次第では「精神的虐待が行なわれた」みたいなジャッジになってしまうものと思う。日本でも「叱らない子育て」が奨励されているので苦慮している親も多いだろうし、「泣き叫んでいる子供があれば、躊躇せずに通報せよ」と政府が宣伝しているけど、こういうのって多分に相互監視を煽る。これは実質的には大衆迎合型全体主義が為せる「不寛容」なのになって思ってる。

著者のアビゲイル・シュライダーは、この結論として「いじめ防止の取り組みというのは性自認教育を行なうための口実にすぎない。わたしがそう確信するに至ったのは…」という風にも綴っており、つまり、「いじめ対策」として性自認教育がは行なわれているという説明には納得していない事が分かる。

拙ブログ:「世俗社会の処し方」という知