東京都知事選の候補者乱立がテレビやネットを賑わせていますが、今に始まった事ではないような気もする。政治については失望は絶頂に達してしまっているところもあって、既に諦めている人も多いような気がするよ。確か『日本の論点』に拠れば、明確に東京都を首都と定めている法的根拠はないと記してあったから、もう東京には古都になってもらって、東北地方とか山陰地方の何もないような場所に新時代に相応しい首都をゼロから設計し直した方がいいような気さえする。東京は皇居を有しながら、政治の拠点であり、官僚機構の総本山であり、金融市場の中心地であり、大手マスメディアの活動拠点であり、大手企業の本社も密集しているという完全一極集中都市になってしまっており、ありとあらゆる権力が密集してしまっている。その挙げ句に起こっているのが腐敗なのだから、それぞれを距離として引き離してしまうしか対応がないような気もするかな。東京は徳川幕府の時代から諸々の整備がなされているから仮に首都と自称できなくなったとしても、鎌倉や京都のような調子で廃れる事もない気がするけどね。
ムービープラスにて吹替版で放送されていた映画「天使と悪魔」、「インフェルノ」を視聴。どちらも二度目の視聴の筈なのですが、放送が始まってしまうと最後まで視聴してしまう羽目になった。
「天使と悪魔」では、陰謀論で御馴染みの「イルミナティ」を名乗る組織がカトリックの総本山であるバチカン市国を破壊しようとするという粗筋でしたが、作品中のセリフのやりとりによって、イルミナティなるものがどういう組織であったのかの説明をしている。キリスト教会は科学者らを弾圧した歴史があり、かのガリレオも実はイルミナティに属していたという。最終的には科学と宗教は対立すべきではないという風に集約していきますが――。
「インフェルノ」とはダンテの神曲「地獄篇」の意味であり、こちらは改めて視聴してみると、キワドイなと思うテーマであった。先ずアメリカの若き大富豪としてゾブリストという男がいる。ゾブリストは、人口爆発を筆頭にして人類による環境破壊に怒りを抱いている人物であり、言論面でもカリスマの顔も持っている。「環境破壊」と切り取りましたが、そこに「地獄篇」が関係してくる。単に環境破壊を攻撃しているだけではなく、人間世界の腐敗をも攻撃材料にしている。権力者は汚職をし、民衆も秩序を見失って享楽に明け暮れる。このような世界には6度目の大量絶滅が必要になり、人類の人口を半減する必要性があるとして強力な殺人ウイルスを入手し、それを実行しようとする。ゾブリストに拠れば「中世の欧州では黒死病大流行で人口が減少した後にルネサンスが興ったのであり、そのウイルスをばら撒く事で自分は悪魔と認識されるだろうが、後世にはどのように語られているか分からない」的なセリフを言う。つまり、その殺人ウイルスを散布するという計画は無差別テロなのではなく、「救済なのである」という認識なのだ。
そういう人物を通常は「狂っている」と認識する。しかし、「インフェルノ」の描き方は際どく、ゾブリストの言説には主人公も共感していた部分があったが、行動に踏み切った事を以って「狂気」と認識し、阻止に動く。また、この「インフェルノ」ではゾブリストの恋人であったという人物が計画を遂行しようとする。ゾブリストの計画を狂気だと感じることなく、その計画を捉えている。ゾブリストの恋人は幼少期から頭脳明晰で天才の誉れ高い人物である。そして「天才として生まれた者には、歴史に対しての責任も負わされているのだ」的なセリフもある。確かに昔から「天才と狂人は紙一重」なんていってましたが、その話である。純真さを有した天才が、そちらの選択しているという設定なのでドキリとする。確かに現在のような状況であれば、そういう人物が現われたとしても驚かないような環境になっているとも思う。
こうしたフィクションのストーリーが、何処か生々しく感じるようなレベルの時代になってしまっているような気がするんですよねぇ。確かに「あなたの一票で世の中を変えられる」なんて悠長な事を言っていられるような状況ではないように見える。確かに人類には立ち止まるべきではないのかという警告は、自分たち自身で何度か叫んでおきながら、結局、ダンテが構想した地獄の観念をボッティチェリが地獄の図とした地獄像、その地獄像を現代人はホントに完成させ、ここに現出させてしまっている。そう劇中のゾブリストは語っていた。我々が考えるところの地獄を本当に完成させてしまっているのだから、次に来るものは当然に地獄を壊す事が〈救済になるのだ〉という理屈であった。
こうなってくると確かに厄介に問題になってくる。地獄が現出していると認識しているのに、何も行動をしないでいいのかという問題で、その話にも「インフェルノ」はセリフで触れていた。ストーンヘンジにオレンジ色の粉末を吹きつけた人たちは狂信的な環境団体との事ですが、今後はそういう時代になっていくのかも知れない。
ムービープラスにて吹替版で放送されていた映画「天使と悪魔」、「インフェルノ」を視聴。どちらも二度目の視聴の筈なのですが、放送が始まってしまうと最後まで視聴してしまう羽目になった。
「天使と悪魔」では、陰謀論で御馴染みの「イルミナティ」を名乗る組織がカトリックの総本山であるバチカン市国を破壊しようとするという粗筋でしたが、作品中のセリフのやりとりによって、イルミナティなるものがどういう組織であったのかの説明をしている。キリスト教会は科学者らを弾圧した歴史があり、かのガリレオも実はイルミナティに属していたという。最終的には科学と宗教は対立すべきではないという風に集約していきますが――。
「インフェルノ」とはダンテの神曲「地獄篇」の意味であり、こちらは改めて視聴してみると、キワドイなと思うテーマであった。先ずアメリカの若き大富豪としてゾブリストという男がいる。ゾブリストは、人口爆発を筆頭にして人類による環境破壊に怒りを抱いている人物であり、言論面でもカリスマの顔も持っている。「環境破壊」と切り取りましたが、そこに「地獄篇」が関係してくる。単に環境破壊を攻撃しているだけではなく、人間世界の腐敗をも攻撃材料にしている。権力者は汚職をし、民衆も秩序を見失って享楽に明け暮れる。このような世界には6度目の大量絶滅が必要になり、人類の人口を半減する必要性があるとして強力な殺人ウイルスを入手し、それを実行しようとする。ゾブリストに拠れば「中世の欧州では黒死病大流行で人口が減少した後にルネサンスが興ったのであり、そのウイルスをばら撒く事で自分は悪魔と認識されるだろうが、後世にはどのように語られているか分からない」的なセリフを言う。つまり、その殺人ウイルスを散布するという計画は無差別テロなのではなく、「救済なのである」という認識なのだ。
そういう人物を通常は「狂っている」と認識する。しかし、「インフェルノ」の描き方は際どく、ゾブリストの言説には主人公も共感していた部分があったが、行動に踏み切った事を以って「狂気」と認識し、阻止に動く。また、この「インフェルノ」ではゾブリストの恋人であったという人物が計画を遂行しようとする。ゾブリストの計画を狂気だと感じることなく、その計画を捉えている。ゾブリストの恋人は幼少期から頭脳明晰で天才の誉れ高い人物である。そして「天才として生まれた者には、歴史に対しての責任も負わされているのだ」的なセリフもある。確かに昔から「天才と狂人は紙一重」なんていってましたが、その話である。純真さを有した天才が、そちらの選択しているという設定なのでドキリとする。確かに現在のような状況であれば、そういう人物が現われたとしても驚かないような環境になっているとも思う。
こうしたフィクションのストーリーが、何処か生々しく感じるようなレベルの時代になってしまっているような気がするんですよねぇ。確かに「あなたの一票で世の中を変えられる」なんて悠長な事を言っていられるような状況ではないように見える。確かに人類には立ち止まるべきではないのかという警告は、自分たち自身で何度か叫んでおきながら、結局、ダンテが構想した地獄の観念をボッティチェリが地獄の図とした地獄像、その地獄像を現代人はホントに完成させ、ここに現出させてしまっている。そう劇中のゾブリストは語っていた。我々が考えるところの地獄を本当に完成させてしまっているのだから、次に来るものは当然に地獄を壊す事が〈救済になるのだ〉という理屈であった。
こうなってくると確かに厄介に問題になってくる。地獄が現出していると認識しているのに、何も行動をしないでいいのかという問題で、その話にも「インフェルノ」はセリフで触れていた。ストーンヘンジにオレンジ色の粉末を吹きつけた人たちは狂信的な環境団体との事ですが、今後はそういう時代になっていくのかも知れない。
コメント
コメント一覧 (7)
いや地球が破滅するって(笑)
そういや犯人像も英明な人物でしたね。
インフェルノの犯人像はなるほどという感じでさね。
読んでないけれど。
義憤の為に立つ……というのは割と今まであった悪役像で、ニコラス・ケイジとショーン・コネリーが組んだ「ザ・ロック」は政府によりもみ消された部下の死を怒る特殊部隊の指揮官だし、劇場アニメのパトレイバー2の犯人は、PKO活動中に政府に無謀な不戦を強いられ部下を全滅させられた指揮官によるサイバーテロ。
昔の「合衆国最後の日」は、ベトナム戦争での政府の裏取引を公開しろとミサイル基地を乗っ取る退役軍人。他にも幾つか観たり読んだりしていて、原作者も戦地で政府に怒った退役軍人とか多い。
そういう怒りに、「世界を変える」という信念だか狂人だかをヒーローとして描いたのが80年代の「沈黙の艦隊」なわけで、さすがに黒旗水滸伝や昭和テロリスト列伝の「かわぐちかいじ」で、核武装原潜をハイジャックする狂気の軍人にはしなかった。で、その、かわぐち氏も「ジパング」では、歴史を変えるまいとする
タイムスリップしたイージス艦長で、変更を許さない側に。最近作で映画化された「空母いぶき」もシビリアン・コントールに忠実な職業軍人で、勝手に原潜を奪って核で世界を脅したりしない(笑)
たぶん「おかしなヤツ」としてしか描けないんですよ今は。
インフェルノの悪役と五十歩百歩なのですが。
あれが描けたのって、結局は80年代は豊かでゆとりがあったからですね。つぎつぎと起こる事態に対象するしかない今は、強引に秩序を変更しようとする者をヒーローとしては描けない。ラングトン教授も結局は
阻止する側にまわるわけでしょう?
それは読者や視聴者は、やはり少し腐ってきても、いまの社会秩序と生活を棄ててまで、先の解らない改革とか嫌なわけでないですか。だから「適正人口」というような嫌味だけれど、正鵠を射ているかもしれない
意見って、ヒーローとして描けないんだと想うです。
一極集中の話もそうだけれど、クラッシュするまでは
誰も目覚めたくないんだと想うんですよ。
その反面で「このままではヤバい」という気持ちも持ち合わせていて、だから悪役に「狂気の天才」として、「言ってはいけない話」を実行させるわけかと。
ご指摘のとおりだと思います。私が念頭に置いていたのは「ユナボマー・マニュフェスト」だったのですが、狂気のテロリスト側の主張に頷いてしまうという事がホントに有り得るんですよね。「インフェルノ」の場合は二度目の視聴で気が付きましたが、「ダンテが地獄というものを概念化していたが、その地獄が本当に現出している。だから、この行為は救済なのである」という主旨に加速していっているんですね。幼少時から天才少女として育った女性は主人公のラングトン教授も魅惑される純真な美の持ち主なのですが、その彼女も「天才には歴史に対しての責任がある」と言い出し、ラングトン教授も観覧者・視聴者も動揺させられる。確かに「おかしい」と気付いている人たちは相応に存在しているが現に誰もブレーキを掛ける事が出来ないじゃないかという怒りが隠されている。
思えば、そういうテーマなので、そうした狂気が題材とされるのでしょうね。
昨晩、視聴したばかりですが「天使と悪魔」の映画版だと、反物質の爆発は海中ではなく、サンピエトロ広場の上空で起こっていました。確かに伏線があったとはいえ、予想を超えてくるなぁ…と。
N国党の選挙ポスター、元N国党の「つばさの党」氏の選挙騒ぎ、結局権力側が「合法かもしれないが、誰もが迷惑と感ずる表現をするなら、いろいろ規制できる法律を作りましょう。」という流れを作るお手伝い。しかもあの騒ぎを引き合いに出せば「拡大解釈されかねない規制」にも民衆側は文句言いにくい。
今年の国際経済フォーラム(WEF)が提唱した今後の課題の第一はフェイクニュース対策と言う名前の(SNSなどの)「情報統制」でした。表現の自由を制限する法律を作りやすい環境づくりをいかに行うか、彼らの貢献は大きい。彼らの隠れた活動資金、メディアでいかに迷惑が目立つように報道させるかという指示などが解明されることを期待します。
ここのところ急に【アテンション・エコノミー】等の言葉が脚光を浴びましたが、「つばさの党」や「N国党」が起こした騒動は実際には情報統制社会へのアシストになってしまっていますね。結局、法制化で制限する方向性に着地することになりそうですが…。
民間も含めて、そうは言っても、、で終わってるからねー。決まったことをやる真摯さに欠けてます、日本は。日々の事は真面目だけど、法令とか社会を変える制度には甘いというか。(企業の不正、ブラック企業も無くならないのはこういうことかと、個人も弱いから言わないしでますます組織がつけあがる体質)
昨日、都知事候補の政見放送を最初の3人くらい観ました。変な爺やん出てました、笑った。50人見たら、相当面白いんじゃないですかねー。
確かに海外のニュースだと学生や民衆が年がら年中、抗議運動をしている映像を目にしますが日本の場合、労働政策の改悪をしたり、年金制度を不利なものにしようとしても抗議しないんですよね…。まぁ、そんな事をしている余裕がないのかも知れませんが、これだとジリ貧だよなぁ…と。
都知事選って供託金3百万円で既定の票数を獲得しないと没収されるのに、ユーチューバーらは再生数稼ぎなどでペイできてしまうらしいんですが、ホントは選管や警察が「本来の趣旨と異なっているものは…」とチェックできたような気もします。深夜に放送しているスベるお笑い番組なみのイベントにも見えてしまうんですよねぇ。まぁ、クーポン券を発行して投票率を上げようとしていた過去もありますし、真剣に政治と向き合う気がオトナたちにも無いというのがなんとも…。