「武蔵国造の乱」について考える中で、そもそも〈ムサシ〉とはどんなものだったのか? 現在の地名に比定して、どんな感じになるのか?
『新編武蔵風土記稿』関連の書籍からすると、上記のような図が江戸時代の頃の武蔵国の郡名になるのだという。鉛筆とトレーシングペーパーとで手作業で書いたものなので色々と見にくいと思いますが、武蔵国というのは面積で言ってしまうと、秩父郡、多摩郡、足立郡、埼玉郡、葛飾郡の比率がかなり大きい。地名入りの古地図から地名を拾っていくと、次のようになる。
世田谷→荏原郡
練馬→豊嶋郡
府中→多摩郡
田無→多摩郡
まぁ、多摩郡ってあっち方面ですワな。秩父地方とか多摩地方というのは、そんなに難しくもないかも知れない。
そして千住、草加、川口、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣は、ごっそりと武蔵国では足立郡であった。おお、埼玉県民としては、なんだか謎が解けたような気分になってくる。越谷、岩槻、騎西(旧騎西町で現在は加須市)、羽生、行田あたりまでは、ごっそりと埼玉郡だ。春日部はというと葛飾郡となり、東松山はというと比企郡になる。そして川越、所沢、狭山、飯能、入間、ふじみのあたりまでが、ごっそりと入間郡。
そして日高と鶴ヶ島は高麗(こま)郡となる。この高麗郡については高麗神社があり、高句麗系の渡来人たちが開発した土地であり、7世紀、実に天智天皇の時代にまで遡れる。高麗若光は高句麗王族だったとされ、従五位下の官位を与えられている上に高麗郡の郡司になったとされている人物で、これらの事情が分かってくると、日本のルーツみたいなものにも思いが到るかも知れない。
そして暑さで取り上げられることの多い熊谷(くまがや)ですが、これは大里郡の一部と榛沢(はんざわ)郡と男衾(おぶすま)郡と、幡羅(はら/はたら)郡となり、この幡羅郡には深谷も属していた事になる。「武士のはじまり」は鈴木大拙に言わせれば「熊谷直実」だ。熊谷直実は源頼朝の御家人として頭角を現し、その熊谷(くまがい)という姓の発祥だとされているが、この日本中に広まっている熊谷姓の祖となる熊谷氏で、毛利元就軍の傘下にあった熊谷氏は武蔵発祥の熊谷氏の分家だ。おそらく毛利水軍には児玉某という武将もいたと思いますが、熊谷氏のケースを考慮すると武蔵武士団の児玉党を率いていた児玉氏との関係は非常に怪しいと思う。武蔵七党のような関東武士団は鎌倉時代から室町時代にかけての戦乱では、とんでもない寒村だった武蔵野の人たちでありながら、はるばる京都を越えて西日本の中国地方まで遠征していたりする。(そういう歴史が本当にあって、それら歴史を経て現在のニッポンが形成されている。)
一方、三浦半島はごっそりと久良岐郡となり、横浜や川崎あたりになると橘樹(たちばな)郡と都築郡とに跨っていたという。
先に世田谷を挙げましたが、品川、大田、目黒といったあたりが荏原郡となる。江戸城のあった千代田は元々は荏原郡であったが、そこは特別に「府内」と江戸時代には呼んでいた。
東京の隅田川よりも東を「墨東」(ぼくとう)と呼ぶ訳ですが、中沢新一の『アースダイバー』に拠れば、墨東とは、つまり、下町であり、歴史的には諸々の災害が多かった地方だという。なので武蔵国時代には葛飾郡であり、現在も葛飾区がありますが、元々は葛飾郡が南北へ長く伸びていたので埼玉県の春日部市と一緒だったという訳です。現在の地理感覚からすると意外ですが、そういう事らしい。
氷川神社について。旧大宮市にある氷川神社は武蔵一之宮として知られている。諸々と語られている神社ですが、氷川神社は武蔵国全体に広く分布しており、特に足立郡には集中して154社と多く分布している。基本的には足立郡司と密接な関係があったと考えられ、「平将門の乱」の引き金を起こした武蔵竹芝(むさしたけしば)は足立郡司であった。また、鎌倉幕府の時代の御家人衆の棟梁格であった有力武将の安達家も足立郡司の家系だったのではないかととされている。更に氷川神社にはアラハバキ神を祀ったものとされる門客人社がある。
この話を展開してゆくと、実は自ずと神社の分布が古代からつながっている事に気付く事になる。クイズと読める事からテレビの「クイズ番組」で取り上げられた久伊豆(ひさいず)神社の分布が、武蔵七党と呼ばれた武蔵武士団の分布と重なっており、やはり、出雲からやってきた土師氏との関連が強く強く疑われる。久伊豆神社は岩槻が本社だという説と、騎西にある玉敷神社が本社であったという説もある。実は武蔵国の神社の分布は出雲系弥生人が進出していた後にヤマト勢力の弥生人が進出してきた事を如実に物語っているのだ。
拙ブログ:【アラハバキ】について
拙ブログ平将門の時代〜その2
『新編武蔵風土記稿』関連の書籍からすると、上記のような図が江戸時代の頃の武蔵国の郡名になるのだという。鉛筆とトレーシングペーパーとで手作業で書いたものなので色々と見にくいと思いますが、武蔵国というのは面積で言ってしまうと、秩父郡、多摩郡、足立郡、埼玉郡、葛飾郡の比率がかなり大きい。地名入りの古地図から地名を拾っていくと、次のようになる。
世田谷→荏原郡
練馬→豊嶋郡
府中→多摩郡
田無→多摩郡
まぁ、多摩郡ってあっち方面ですワな。秩父地方とか多摩地方というのは、そんなに難しくもないかも知れない。
そして千住、草加、川口、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣は、ごっそりと武蔵国では足立郡であった。おお、埼玉県民としては、なんだか謎が解けたような気分になってくる。越谷、岩槻、騎西(旧騎西町で現在は加須市)、羽生、行田あたりまでは、ごっそりと埼玉郡だ。春日部はというと葛飾郡となり、東松山はというと比企郡になる。そして川越、所沢、狭山、飯能、入間、ふじみのあたりまでが、ごっそりと入間郡。
そして日高と鶴ヶ島は高麗(こま)郡となる。この高麗郡については高麗神社があり、高句麗系の渡来人たちが開発した土地であり、7世紀、実に天智天皇の時代にまで遡れる。高麗若光は高句麗王族だったとされ、従五位下の官位を与えられている上に高麗郡の郡司になったとされている人物で、これらの事情が分かってくると、日本のルーツみたいなものにも思いが到るかも知れない。
そして暑さで取り上げられることの多い熊谷(くまがや)ですが、これは大里郡の一部と榛沢(はんざわ)郡と男衾(おぶすま)郡と、幡羅(はら/はたら)郡となり、この幡羅郡には深谷も属していた事になる。「武士のはじまり」は鈴木大拙に言わせれば「熊谷直実」だ。熊谷直実は源頼朝の御家人として頭角を現し、その熊谷(くまがい)という姓の発祥だとされているが、この日本中に広まっている熊谷姓の祖となる熊谷氏で、毛利元就軍の傘下にあった熊谷氏は武蔵発祥の熊谷氏の分家だ。おそらく毛利水軍には児玉某という武将もいたと思いますが、熊谷氏のケースを考慮すると武蔵武士団の児玉党を率いていた児玉氏との関係は非常に怪しいと思う。武蔵七党のような関東武士団は鎌倉時代から室町時代にかけての戦乱では、とんでもない寒村だった武蔵野の人たちでありながら、はるばる京都を越えて西日本の中国地方まで遠征していたりする。(そういう歴史が本当にあって、それら歴史を経て現在のニッポンが形成されている。)
一方、三浦半島はごっそりと久良岐郡となり、横浜や川崎あたりになると橘樹(たちばな)郡と都築郡とに跨っていたという。
先に世田谷を挙げましたが、品川、大田、目黒といったあたりが荏原郡となる。江戸城のあった千代田は元々は荏原郡であったが、そこは特別に「府内」と江戸時代には呼んでいた。
東京の隅田川よりも東を「墨東」(ぼくとう)と呼ぶ訳ですが、中沢新一の『アースダイバー』に拠れば、墨東とは、つまり、下町であり、歴史的には諸々の災害が多かった地方だという。なので武蔵国時代には葛飾郡であり、現在も葛飾区がありますが、元々は葛飾郡が南北へ長く伸びていたので埼玉県の春日部市と一緒だったという訳です。現在の地理感覚からすると意外ですが、そういう事らしい。
氷川神社について。旧大宮市にある氷川神社は武蔵一之宮として知られている。諸々と語られている神社ですが、氷川神社は武蔵国全体に広く分布しており、特に足立郡には集中して154社と多く分布している。基本的には足立郡司と密接な関係があったと考えられ、「平将門の乱」の引き金を起こした武蔵竹芝(むさしたけしば)は足立郡司であった。また、鎌倉幕府の時代の御家人衆の棟梁格であった有力武将の安達家も足立郡司の家系だったのではないかととされている。更に氷川神社にはアラハバキ神を祀ったものとされる門客人社がある。
この話を展開してゆくと、実は自ずと神社の分布が古代からつながっている事に気付く事になる。クイズと読める事からテレビの「クイズ番組」で取り上げられた久伊豆(ひさいず)神社の分布が、武蔵七党と呼ばれた武蔵武士団の分布と重なっており、やはり、出雲からやってきた土師氏との関連が強く強く疑われる。久伊豆神社は岩槻が本社だという説と、騎西にある玉敷神社が本社であったという説もある。実は武蔵国の神社の分布は出雲系弥生人が進出していた後にヤマト勢力の弥生人が進出してきた事を如実に物語っているのだ。
拙ブログ:【アラハバキ】について
拙ブログ平将門の時代〜その2
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