どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 辛口評論

10月30日にNHK総合「首都圏情報ネタドリ」は「ヘイトスピーチは今」と題してヘイトスピーチ問題を取り上げていました。番組冒頭付近で、川崎市で起こっているというヘイトスピーチの実情を撮影した映像が放送されていましたが、「殺せ、殺せ、韓国人」と声を上げている人の声が、一切の消去処理なしで放送されており、中々の衝撃を受けました。これは放送するにあたっても或る種の英断だったのだと思いますが、どのようにヘイトスピーチが行われているのかを伝えない事には、その酷さ、その程度を俎上に上げる事ができないんですよね。

物事を論じるに当たっては、その言葉を直視せざるを得ない。変に伏字にしたり、ニュアンスを暈かしたところで、その悪辣さ、その状況の深刻さは伝わらない。また、その程度を認識しない事には、論じたり、話し合うことも出来ない。そのジレンマを超えて、あの音声を放送したものと思う。

川崎市ではヘイトスピーチに対して罰則付きで規制する方向で動いたという事は、これまでにも報じられていましたが、そうなると「表現の自由」の問題が立ち塞がるという。しかし、この「表現の自由」を盾にしてのヘイトスピーチを放置しておく訳にも行かず、規制に踏み込んだという。同番組には、法政大学特任研究員の明戸隆浩氏が出演しており、「表現の自由」と「ヘイトスピーチ」との間で規制する事の難しさを説明していたのかな。一律的に禁じればいいというものではないだけに悩ましい。

とはいえ、視聴していた感想からすると「表現の自由」という言葉に対して、何故、そんな切取り方をするのだろうという気がしました。思想の自由であり、言論の自由であり、その上での表現の自由であるという風に考えているので、別に「表現の自由」という風に切取っている事に違和感がある。体系としてそう分類されてきたので、それを踏襲している「表現の自由の問題」になっているのでしょうけど、これ、掘り下げていくと自由全般、自由主義そのものの問題だよなって思う。

無政府主義思想というのは、実は自由主義の双子であるという言説がある。しばしば、無政府主義者の主張は、いわゆるリバタリアニズムと酷似していると指摘される事からも、現在だって証明できると思う。自由とは、すなわち、それである訳ですね。原則的には何ものにも縛られない事が好ましいという部分で自由が成立し、しかし、そんな事をしたら一切の好き放題を放置する事になるので自分で自分の行動を律していく必要性とか、共同体内の秩序を保つ必要性との相克の上に自由がある。無政府主義思想が、個人的信条には成り得るが政治思想には成り得ないのではないか――、そう考えられている問題でもある。無制限な自由、何ものにも縛られない自由というものを、共同体の中で享受する事は不可能だろうと、直ぐに分かる筈なんですね。

同番組中、川崎市役所の人だったのかな、作業服姿の中年男性がヘイトスピーチ規制に苦慮しているホンネを吐露するシーンがありました。要旨は、「ヘイトスピーチの問題は、法規制するだけではダメで、犒屡瓩里茲Δ覆發里必要なのではないか?」と語っていた。おそらくは、その通りでしょうねぇ。

とはいえ、現在ともなると、この啓発にしても乱発されており、人権問題に係る啓発事業なんてのは、多いですやね。小中学生に人権標語を作らせるなどの、教育関連の事業は毎年のように行われている。但し、私が啓発が乱発されている感じているのは、おそらく、予算としては食育だの体罰禁止だの何だのと、それらと同じレベルで事業にされている事ですかねぇ。決して食育や体罰禁止を軽んじる意図そのものはありませんが、その比重、重さ、優先順を考えれば、その差異は明らかな気もする。あれもこれも啓発事業にしなければいけないと啓発事業乱立状態なってしまっているので、重点が何処にあるのか見えにくい。

人権意識の啓発は、いじめ問題、不当な差別の愚かしさの問題にも通底しているのは歴然であり、かなり基本的な問題なんですよね。そりゃ、食育も啓発したいのでしょうけど、あんまり乱発すれば、全体的な濃淡は曖昧となり、ただただ「そういう事業をしていますよ」という役所や政治家のアリバイ作りにされてしまうだけなんですよね。食育を武器にし、子供好きを武器にし、その議員サンなり、その提唱者の発言権を大きくしているだけ。しかも、乱発状態なので、濃淡がはっきりしてこない。機能しているようで、ホントはアリバイづくり、「その問題にも取り組んでいますです、ハイ」という口実が、口実として大手を振って歩いている状態に思える。

で、この「(罰則付きの)規制だけではダメだと思う。啓発をしない限り、ヘイトは終わらない気がする」という意見の奥底に、もう、その限界が表出していますよね。なんでもかんでも法治主義、罰則を科すルールをつくって取り締まればいいのだという風に現況は傾いているように見えるんですが、実は、それでは差別問題は終わらないし、根を断てそうもない問題なんですよね。何故なら、この問題は心根の問題だから。( 嵋槐重な心根」の問題であると同時に、⊆匆颪共通して問題を理解して問題にあたる必要性がある。)

タイミングを同じくして、ニックネームを禁止している学校が増えているという報道がありました。これも同じですね。ルールによって禁止したところで、心根までは変わらない。陰口を言うだけ。陰湿になるだけ、それも自明。どうやったって、この問題、啓発とか啓蒙によって本人に自発的に気付いてもらうより他に策がない。仮にルールによって禁止したところで、表面的には抑制効果が期待できるが、ヒトの内面として憎悪感情は何ら鎮まる事はない。

表面上、繕う正義というのは脆弱ですやね。川崎市のヘイトスピーチでも韓国へだか朝鮮へだか忘れましたが、つまり、「帰れ」のような文言が投げつけられたという。これ、60年代や70年代の民衆闘争を追っていると、反戦思想の中で「ヤンキー・ゴー・ホーム!」という文言が多く使用されていた事に気付かされる。ここ数週間、当ブログで取り上げている阿片戦争、義和団の乱、太平天国の乱など、それらにしても、本義は通底している。異質なもの、異質な価値観を自分の領域に捩じ込まれたら、嫌悪する感情があるのは実は自然なのだ。ルールで厳罰化して抑え込む、或いは皆殺しにして思想弾圧をする、そう外殻を抑え込もうと発想して対応しても、ヒトの憎悪感情は鎮まらない。本当は「やられたらやり返す」という応報感情は、ヒトの本性だし、正当な自衛本能でしょう。相互性原理とは、そういうものであり、向こうがヘイトしているのに、一方だけにヘイトを禁止するという片務性では事態が歪んでしまうんですね。そうせざるを得ないのかも知れませんけど。しかし、こうした問題は、もう地道な啓蒙とか啓発しかない。中々、目先の出口は見えてこないものでしょうけど、如何に物事を捉え、それに取り組んでいたかという姿勢は、やがて評価されることになるような気がしますけどねえ。

一律でのニックネーム禁止に関して言えば、デメリットだって容易に考えられる訳ですよね。「呼び方」を固定化してしまう事で、心と心という次元では、他人と距離を縮める機会を奪ってしまっている可能性だって考えられる訳で。どれもこれも唯物論的機械論で思考した法治主義、その盲信だと思いますけどねぇ。人間ってのは感情もあれば、意志もある動物だというのが真理なのでしょうしね。

主義主張に関係なく「殺せ、殺せ、XX人」という具合の過激なシュプレヒコールをやっている人の姿を直視してみるのも、反面的な効果があるような気もする。憎悪感情を前面に出してしまっている人たちの姿、人相、態度、主張は、10歳以上のフツウの感性があれば、容易に違和感を感じ取れる(直観できる)もののような気もするんですけどねえ。
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なんでもかんでも規則とし、それも罰則付きの規則を作ってしまう事に違和感がある。これは、世代的なものも関係しているのかも知れませんが、尾崎豊が登場した背景には当時の雁字搦めの校則なんてものが影響していたような気がしないでもない。あれもこれも校則で禁止されているという状態であり、しかも校則違反となると罰則付きであったので、いわゆる停学処分であるとか謹慎処分であるといった懲罰もあったし、それ以外にも日常的な体罰は現在よりもずっとずっと許容されていた時代背景があるんですね。で、その都度、「校則に違反したからオマエが悪いんだ」という論法を目にしていた。つまり、当時の校内統治は、校則至上主義に則り、ルール至上主義に則り、或る意味では法治主義の徹底であった。

しかし、そういう環境下だと「こんなバカらしい校則にも従わなきゃならんのか?」という、そういう問題にも直面する事になる。当時は、結構、バカみたいな校則が多かったんですね。笑ってしまうのが男女交際の禁止であり、会話も禁止、華美な服装も禁止であり、休日にも制服を着用すべしとか、もう、無茶苦茶だったのだ。それらの校則は、おそらくは非行を防ぐという目的でつくられ、男女交際なんてのは不純異性交遊の元凶だ、高校生の分際でオシャレだなんて生意気だ、休日であろうが服装は制服を着用しなさいぐらいの、そういう勢いで作られていたのだと思う。そんな校則を守っている者はさすがに居ませんでしたが、或る種の狂気みたいなものなんですね。大袈裟? いやいや、私の高校時代なんて上履きではなくてスリッパを履くように決められていて、なんでスリッパなのかというと廊下を走らせない為であった。もう、殆んど囚人扱いですよ。まぁ、囚人扱いされても仕方のない生徒も多かったのかも知れませんけど(笑

何故、正義はそうまでして暴走するのか?

ルールによって善と悪とを区別してしまうのが法治主義であり、一たび、ルールがつくられてしまうと、その人為的に定められたルールに沿って善と悪とが裁かれることになる。そうは言うけれど、こうしたルールの掲げる正義というのは、しばしば暴走する。そういうルールに沿った思考というのは、教条主義であるワケですね。校則に違反している行為は懲罰されて然るべきである――という、その教条に準じている。言い換えれば、それは教条主義的な正義。しかし、その教条主義的な正義を盲目的に信じ、その人の正義を行使されてしまう。

「法治主義がベターなのですよ」という場合でも、当然、こうした硬直的な教条主義になられては困る訳で、金科玉条のように法律とか校則を掲げて正義を振りかざすという態度は、或る意味では非常にバカげている。裏返せば、なんでもかんでも法制化し、「はい、あんた、法律に違反しましたね」と言って、どんどん、その頼りない正義が膨張していってしまう。


実は、そこまでは従来も考えていたんですが、改めて、「法制化する事によって人間が傲慢になる」という事については、あんまり意識が及んでいなかったなと気付く。

ルールを定める、つまり、法制化しますよね? すると、どういう事が起こるか?

きっちりと線を引いてしまった瞬間から、法律に反していないという正義と、法律に反している悪とに分離されてしまう。正義に区分された者は、途端に自分を正義と認識し、自分とは異なって法律に反している者を悪と認識し、その悪を攻撃し始める。

何故、悪を攻撃し始めるのかというと、総じて正義は傲慢に陥るものだから。法律によって「正しいです」という御墨付きを与えられた事により、傲慢に陥りやすい心理になると考えられる。

この事を閃かせてくれたのは、陳舜臣著『太平天国』の文章でした。アヘン戦争以前、列強諸国は清王朝の好意によって、つまり、(東洋的な)恩顧主義的な対応によって、清朝が統治している清国内での活動をしていた。その頃の列強各国の人々は、清朝に対して強硬な態度を取れなかったという。何故なら、彼等は清朝によって恩恵的な特権を与えられているという自覚があったからだという。

しかし、この清朝と列強との関係性はアヘン戦争後の南京条約によって激変したという。条約とは、契約であり、いわば「法」ですが、そうなると領事にしても町場にしても、列強諸国の人々の意識は、「我々は特別に許可してもらっている」という意識から「我々には権利がある」という意識へと変化する、変化した――という。

つまり、「我々にはこれこれこういう権利がある」という権利主義が頭をもたげ、それが列強諸国の人心を傲慢にするという事らしい。この権利意識というのは、まさしく、それですよね。

「私には、これこれ、こういう権利があるんです!」

という態度となり、勿論、その主張がマトモな主張である事も少なくはないのだけれども、同時にヒトが傲慢・驕慢に陥り易いのも、そこですね。

ここで組み立て直して欲しいのですが、その権利意識というものは、法的根拠に根差している。しかし、そもそもから言えば、それら法的根拠の正義とて人為的なものである。人定法か自然法か。

法治主義が、そこまで出しゃばらなければ、そもそも、「へいへい、あっしは特別に、ここで仕事をする事を許してもらってますねん」という或る種の謙虚さが(西洋人であっても)維持されていた事を示している。また、一たび、条約(契約)という法的根拠を与えてしまうと、それに付随して人間の心理の中に権利意識を獲得させてしまう。そうなった瞬間から、その者は自制心を失い易い状態になる。「私には法的根拠(契約・条約)に基づいて、これこれこういう権利があるのだっ!」という心理状態になる訳ですね。そこには、もう恩顧主義的な「へいへい、特別に許可してもらっており、感謝しております」という謙虚さは失われている。

勿論、法的根拠に基づいての権利意識を有していても、猶も人としては謙虚であり続ける事が望ましい訳ですが、基本的に法治主義の裏には、このヒトを傲慢にしてしまう事の効能が大きいというのはホントであろうと思う。

日本では、昔からといえば昔からですが、近年、物凄く「お客様意識」というもののが凄まじく、各種のモンスタークレーマー現象の底に在る訳ですよね。あれらの多くは「私には何々する権利がある」という権利意識に根差して、そう強い主張を為さしめている。ごくごく冷徹な客観からすれば、「おどれに権利なんて無いんじゃあっっ!」と感じる事が多いのも実際であろうと思う。

最近は、どこのスーパーマーケットでも、「お客様の声」と題した目安箱が設置されていますね。クレームの増加が認識された頃に、「お客様のクレームは、企業にとってはお宝なのです。そのクレームを無視していはもったいない」みたいな言説が流行し、そうなった。しかし、実際にスーパーマーケットの店舗内に張り出されている「お客様の声」と題した用紙には、単なる罵詈雑言が記されているケースが多い。提案ではなく、罵詈雑言、クレーム箱のようにも感じてしまう。

「✕月✕日、6番レジのババアの接客態度が悪かった!」

といった具合に、ホントに、そうした店員を特定可能な状態のまま、罵詈雑言が記されており、且つ、それは、そのババアと呼ばれたレジ係が辞めてしまったか継続勤務しているかは分からないが、平然と店舗内に貼りだされているのだ。そのテのメモを目にしたのは一度や二度ではなく、大抵、どこのスーパーでも似たような状況になっていますね。「雪国まいたけの特売を組んでください!」&「担当の山田です。雪国まいたけの特売の件、承知致しました。営為努力して、お客様の声を本部バイヤーに届けたいと思います」といった微笑ましい顧客からの要望を店員が拾い上げていくというものが半数以上であるが、3分の1ぐらいは、傍目にも眉をしかめたくなるような罵詈雑言ですね。なので、「よく、これを貼りだしているなぁ…。ここで名指しされた従業員の気持ちなんて店長は考えていないのかな?」と感じたりする。

きっと、「お客様の声をお寄せください」という文があるから、その文言を根拠にして「ババア」と書きなぐる事が正義化され、また、これを掲示してしまう事をスーパー側が正当化される事で、結局はババア呼ばわりされた従業員が人一倍、悔しい思いをしているんじゃないのって思う。「クレームは企業にとっての宝なんです」っていうけど、そりゃ経営者目線であり、労働者目線じゃありませんな。また、実際を考えればケースバイケースなのは歴然じゃないですか? クソな客をのさばらせて、どれだけクソな連中を増長させりゃ、ニッポンの、お客様至上主義は気が済むんだろうっていう、そっちの公共道徳の話になる得ると思う。

どんどん、ヒトは謙虚さを失い、その箍を緩めて行ってしまう。これは現代人の権利意識、その無差別的な称揚にあると思う。そして、それを可能にしているのが、法治主義への盲目的信仰であり、なんでもかんでも法制化、それも罰則を付けて法制化しないとダメだという今日的な言論人の思潮と関係していると思う。

法制化といっても、基本的には契約社会ですね。細かな契約によって双方を縛る。しかし、契約というのは総じて、一方が有利な立場で、一方が不利な立場で、実際には行われる。双方は対等な立場であると補足してあっても、実際の契約シーンでは、強い者が有利な契約をし、弱い者は不利な契約をさせられる。そして契約によって、その正義が生まれ、謙虚ではない人、我利我利亡者、傲慢に陥る人ほど、その恩恵を享受する。相手の気持ちを考えないサイコパスな人が、思いの外、社会で成功者になっているのは、これと関係しているのであるまいか。

法治主義というのは、ある程度は認めざるを得ない。そうしないと回らないから。しかし、過剰な法治主義というのは人々の権利意識を拗らせる。総じて人心の腐敗を招き、社会から円滑な人間関係を消去してしまっていると思う。法律、法律で雁字搦めにする事で、実際に社会の中の自由を退潮させ、息苦しい世の中にしていると思う。

「法律だから正しい!」という考え方は誤まりの元、錯覚の元でしょう。正しい法哲学に基づいて、各種の法律がつくられるべきで、そうしないと単なる教条主義になってしまう。「悪法もまた法なり」とは明確に退けられるべきで、法哲学に反して為政者によってつくられた法律、その法律にも従うべきだという主張になってしまう。「悪法もまた法なり」は、そもそも盲目的な隷属民への洗脳文句でしかない。「法哲学」と大袈裟に言いましたが、これはつまりは、巷間の慣習であり、道徳であり、倫理であり、客観的に、或いは常識として妥当と思われる価値観に依拠している。

また、極端に謙虚である必要性はない。謙虚な態度をとして、譲歩、譲歩を繰り返していても、既に世の中は、我利我利亡者が跳梁跋扈しているのが現実社会であり、譲歩をしても、殆んど得することはない。厚かましい事に、権利主義者というのは自己主張が強いから、譲歩すれば譲歩するほど、自らの権利を主張してくるのが実際だから。

これへの対応策は基本的はありませんが、ある程度の知識による武装は必要になってきていると思う。本来、それを道徳意識や倫理意識、或いは宗教や思想哲学であったと思う。とはいえ、近年、どんどん西洋的な法治主義が強まって、あれもこれも契約社会となり、義理と人情も消えて、真っ暗闇の世の中になってしまった。対立と分断は、日毎、進んでいるように見えますが、気付く気配もない。
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「この事件、アイツはクロだな」とか、「いやいや、シロだろう」のように推定する。実際に、そのように思考しない事には事件を認識できないし、捜査もできないし、罪を裁く事もできない。しかし、ここで用いた【推定】という用語は、霞が関文学では重要であり、この「推定する」とは「後に撤回することが可能な場合」に用いられる。つまり、「やっぱり、彼はクロではなくシロだった」とか「シロではなくクロだった」と引っくり返していい事を予め想定して【推定】という言葉がある。

明鏡国語辞典でも、用法の△箸靴董◆嵋[Г如¬昔討任覆に[Т愀犬泙燭六実関係について、否定する反証が成り立つまで、それを正当なものとして扱うこと」。と解説してある通りなのだ。(広辞苑第六版は、少し問題がある説明文になっていて、当事者がこれに異なることを証明したとき瓩箸いΨ萃蠹にも思える誤記がありました。それこそ、典型的な「悪魔の証明」になってしまいますね。「当事者に限らず、推定された状態を覆すだけの理由が客観的に成立すれば、その推定は効力を失う。」が正しいと思う。このレベルになると、法律の専門家(弁護士や検察官、官僚機構)を相手にして、一般人が争って勝てる筈がないという事を思い知らされる。広辞苑は第七版になっている筈だから、修正してあるものと思いますが…。

冒頭に面倒くさい説明を配置しましたが、これ、どのように続けるか読めてしまったかも知れない。事件で犯人が警察に逮捕されますね。すると容疑者・被疑者になる。まだ、量刑は下っていないし、裁判も始まっていない。裁判が始まって、被告・被告人となる。そして有罪判決を受けて受刑者、囚人、場合によっては死刑囚になる。これは簡単なので、多くの者が直感的に感じ取れる。逮捕されたからといって即、罪人ではないのだ。

では、実際にマスコミ報道はどうなのかというと、最近は厳格に適用されているのですが、平成初期の頃までは、逮捕と同時に有罪確定であるかのような報道が目立ちましたやね。まだ、理屈としては起訴もされていない状態なのに、犯人、犯人、犯人、とんでもねぇ野郎だって、そういう盛り上がり方をしてしまう。まぁ、通り魔事件とか籠城事件とか、現行犯逮捕のケースであれば、もう、疑いようもなく罪人なのだけれども、中には複雑な事件がある訳ですよね。

有名な例では、松本サリン事件に係る河野さんへの誤認逮捕というのがあり、マスコミ報道は如何にも河野さんが真犯人であったかのように報じた。大きな反省の契機となった。これはテレビを視ていて私もダマされた記憶がある。実はサリンが空中散布されたらしいとか、空から毒ガスが降って来たらしいとか、そういう奇々怪々な事件だったので、暴走したマスコミだけではなく、日本中が浮き足立ち、おそらくは長野県警の刑事たちも浮き足立ってしまっていたのでしょう。そうした経過の中で、犯人逮捕の動きとなり、マスコミ報道は「犯人逮捕」を血相を変えて報じていた。おそらく日本中の視聴者の7〜9割は、「こいつが犯人か! 悪い野郎だな! 毒ガス兵器を自宅で生成するなんて!」ぐらいの勢いであったと思う。しかし、全くの見込み違いであった。(まだ、この時点では、あまりオウム真理教についての疑惑は報じられていなかったのだ。)

それと、現在では足利事件と呼ばれることになった幼女誘拐殺人事件であった。こちらは「DNAが一致した」というのが逮捕の決め手であり、「科学的証拠も出てんだぞ!」と取調室で凄まれた菅谷さんが事実でもない自供をしてしまった。何しろ、科学捜査の切り札であったDNA型鑑定により、被害者の少女から採取された犯人の体液と、菅谷さんの体液とか1000分の1であったか10000分の1の確率で一致した、科学捜査の勝利であるという具合の認識が全てだったので、菅谷さんの場合は実に17年間もの間、犯人として警察や刑務所に押しとどめれた。

その間も、粛々と、代謝性小児性愛者と精神鑑定され、ある事ない事が報じられ、犯人に仕立て上げられてしまった証拠も後に暴かれた。週末にビデオ鑑賞する為の借家を借りていた菅谷さん、その菅谷さんが保有する133本のビデオ、その内にロリコンモノのビデオは僅か1本のみであった菅谷さんが、恣意的な報道と恣意的な精神鑑定によって、小児性愛者にされてしまった事を意味している。あの年代の男性であれば、或る程度はエロビデオの視聴経験はあったでしょうけど、インディ・ジョーンズや座頭市といったビデオ、更にはエロビデオであれば巨乳モノが殆んどで、ロリコンものは僅か1本のみというビデオコレクションが、如何にロリコン性向からは遠いタイプであるかは察しがつきますやね。週末に利用していた借家というのも家賃1万円という格安物件で、単なる隠れ家、その隠れ家で週末の夜に一人、バツイチの男性がビデオを観賞しに行っていただけだった。

冤罪に傾斜したのは「幼稚園バスの運転手を長年していた人が、いくらなんでも、あんな残酷な事を出来る筈がないのでは?」と考えた近隣の主婦が動いて面会し、それが冤罪運動となった。決定的な転機となったのは当時の日本テレビ記者であった清水潔記者による報道であった。色々と、語られてきた足利事件というものが根本から引っくり返ったんでしたよね。改めて、科学技術が進んでからDNA鑑定をやってみたら別人という結果が出た。おいおい、当時、決定的な証拠と報じられていた「科学捜査の成果」という文言は虚しく響くだけ、そもそもからして事実無根だったという、全くの冤罪事件であった…。

しかも冤罪確定後も、その菅谷さんに対して為された代謝性小児性愛の精神鑑定は撤回されたり、謝罪されることはなく、また、刑事や検察官も菅谷さんへの謝罪は行なず、足利事件は冤罪事件として終結した。

ここに「無謬性の問題」が根強く絡みついているのは分かりますよね。間違っていたのであれば、直ちに修正する必要性がある。当然、謝罪も伴うべきなのでしょう。しかし、何故か権威主義は、メンツとかプライドが高いので、自分たちの誤まりを認める事ができない。一たび、誤まりを認めたなら、ありとあらゆる仕事を疑われかねないと怯えている。また、警察にしても法曹界にしても、誤まりを犯せば出世に響くし、諸先輩方の名誉を傷つけてしまうというので誤まりを認めたがらない。しかしながら、実際は、人間のやっていることなのだから、当たり前に一定の確率で誤謬は発生するし、発生している筈なんですね。ヒューマンエラーは一定の確率で発生するもので、部下が嘘をついているかも知れないし、バカな上司が証拠の改竄や捏造をしているかもしれない。科学鑑定にしても、後で引っくり返されるような鑑定で、「何が科学捜査じゃ!」って話でもある。しかも、彼等は意固地になって自らの非を認めないという態度、無謬性を誇ろうとする態度からすると、まだまだ、どんどん、今後も同じ過ちを犯す可能性が高いと推測できる。

上記の足利事件の場合は、ジャーナリズムがグゥの音も出ないレベルで無実を判明してしまったので、司法にしても異例の措置で菅谷さんの開放となりましたが、ひょっとしたら、まだまだ、似たような事例を抱えている事だって考えられる。警察に任せておけばいいとか、司法に任せておけばいいと思うものではありますが、ちゃんと機能してくれているのかどうかは、誰かがチェックしないと、おそらくは機能しなくなる。

「検察が公訴権を独占している」という表現は、私も宮台真司さんの書籍で「ああ、そうか!」と思った部分ですが、これ、大きな大きな権限なんですね。起訴するか不起訴にするかを決定する権限なのだ。しかも、不起訴にしてしまえば、裁判にもならないのだから、あたかも無実であったかのように世間には認識される。しかし、不起訴は不起訴ですな。事実無根、まっさらな無実、冤罪ではない。そういうグレイゾーンの論理なのだ。だから、検察官には特別な権限が与えられているんでしたよね。検察官になると、いちいち、法務大臣ではなく、天皇陛下から任命されるのだという。

(政体と国体の意味を踏まえて考えてみれば、自ずから性質の違いに気付くかも知れない。また、検察の権限が大き過ぎるが故に、検察が暴走するという懸念もある訳です。しかし、現在、日本で起こっている事は、官邸による人事権の一元化であり、官邸が検事総長などのポストに強く介入するような状況にあり、しばしば逮捕が執行されなかったり、起訴されてもおかしくないと思われる案件が起訴されなかったりという状態が安倍政権の中期以降から続いてしまっている。現在も秋元司議員と、河合克行・杏里議員の案件がある訳ですが…。)

実際に検察の暴走と呼ばれるような案件もある話なので、そこで「これは検察の暴走だ!」と叫べば、その反動で検察を萎縮させてしまい、検察の独立性を奪い、そこへ政治、現況で言えば、官邸の意向が介入してしまう訳ですね。或る程度は公正なジャッジメントが効いてくれないと話にならない。或る程度は検察は情報を開示する方向へと舵を切り、国民の方を向く必要性があるのではないのかなって思う。それとジャーナリズムでしょうねぇ。政府の発表を報道するだけの発表報道ではダメで、調査をして報じる調査報道へと切り替えていかねばらない。そうすればジャーナリズムが、監視機能を果たしている事になる訳で。インターネット上ではメディア批判やジャーナリズム批判が「いいね」を集め易いのは分かりますが、ジャーナリズムが廃れれば、権力に対してのチェック機能を国民は失う事、捨てる事になってしまう。また、そうであるが故に政官財マ学といったコネクションが出来上がってしまう一元化を懸念せざるを得なくなる訳ですね。


で、最後に、いわゆる「ぶっちゃけ」の次元になりますが、法治主義をタテマエにしている以上、証拠を以って、犯罪者を裁く以外にない。したがって、「どうせアイツは有罪なのだから、証拠をデッチアゲて死刑にしてしまおう」という理屈は、捨てなければならない。ここは、私自身もそういうところがあるかも知れませんが、日本人って、コレらしいんですね。「証拠はないが、あいつがクロに決まっている!」という感情が先走ってしまい、結果として、あいつはクロ、我々は正しいのだから手続き上のプロセスにズルが割り込んでもいいと、そういう歪んだ正義感を持っている。私自身にもそういうところがあるかも知れないと思うものの、世の中、現在の日本社会は、私以上に、コレだと思う。「煩わしい手続きや、そのプロセスについては、省いてよろしい」、と。

何しろ、河野さん事件の頃までは「逮捕=犯人=有罪判決を受けたも同然の罪人」と実際にマスメディアも報じてきたのだ。警察を信用していたから成立していた構図ですが、そもそもの仕組みからすればおかしい。しかし、実際に、そうであった。起訴されれば99.9%は有罪の社会である事は、現在も実はそんなに修正されていない。検察が起訴した時点で、そこそこ、判決が出てしまったような、そういう「警察(逮捕)⇒検察(起訴)⇒裁判(有罪判決)⇒刑務所」という順送り構図の仕組みが定着してしまっている。これは否定できませんやね。しかし、「誤まりがない」という事、並列で、「無謬である」という事は、その実、インチキが紛れている高い可能性を示唆している。

勿論、本来であれば事実関係は裁判所が吟味を負っている訳ですが、99.9%の有罪率が、むしろ、裁判は形式的なものであり、有罪は確定的で、その量刑を計算するところという認識になってしまっている。機能としての形骸化だし、日本社会はそうなのだから、日本人は「クロはクロなんだからプロセスはどうでもいい!」と考えがちになるのも必然かも知れない。それだけではなく、おそらくは精神風土としても日本の軍隊論などでも言われている通りで、目先の手柄を立てる為であれば道徳的な規範に甘くなり、何をしても許されると思い込み易い。また、我田引水をしやすい、そういう国民性を持っていると思う。「クロはクロなんだからいいだろ!」と考えてしまう。理ではなく、情緒とか観念を優先させてしまう気性であり、知性ですやね。

しかし、そもそも刑事罰とか刑事裁判というのは、「疑わしきは罰せず」というのが大原則である。その上に、物証主義なんですね。「動かざる証拠がなければ罪に問うことは、ならぬ」というのが、そもそもの根本理念である。これを軽んじてしまったら、元も子もない。本来は、その道のオーソリティこそが、こういう理念を厳格に守っていくべきなのでしょうけど、既にガタガタになっていて、偉い人に対しては忖度しちゃうようになっていたり、出世に響くからと変な事をしてしまっている。学者にしても、政府を批判する学者はけしからんと平気で言ってしまうような世の中になってしまった。(学者の方にも問題があるにしても、そもそも権力をチェックする、批判する者は必要なのが大枠の議論ですね。)

で、ぶっちゃけの次元の話というのは、まぁ、極論すれば、実際にはクロであっても、証拠がければ本来的な法治主義では罰せないという事ですな。また、実際にクロであっても、捜査や取調べで不都合が弁護側に暴かれてしまったなら、これも罰する事が出来ない。OJシンプソン事件などですね。

つまり、「クロかシロか」という二元論ではなく、「クロと認定できるかできないか」の二元論であり、突き詰めれば「クロに認定できなければシロとせざるを得ない」ですね。無実を証明できたというケースというのは、マッシロケのケの無罪・無実である。真実に対してシロ、事実無根レベルで無実・無罪。

それと比較して「不起訴になった」という話とか、裁判の結果として「無罪判決を得た」という場合は、そのまんまで、前者は「不起訴になった」であり、後者は「無罪判決を得た」である。延長しても、同じですね。真実に対しての無実ではないというものも、制度上、そこに含まれる。なので、「正真正銘の真実」と「人の世の制度的限界の下で認識される事実(真実)」とは、やはり、差異があると考えねばならないんでしょうねぇ。間違っていても、「これこそが真実だ」と認識されてしまえば、それは真実になってしまう訳で。これは、どうしようもない。認識の限界の話だし。
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『暴走する検察』(光文社)は、ジャーナリストの神保哲夫さんと社会学者の宮台真司さんとのマル激トーク・オン・ディマンドなる配信番組を活字化したもので、そこには映画監督の周防正行さんも登場している。痴漢冤罪騒動を題材にした映画「それでもボクはやっていない」の映画監督であり、且つ、村木さん事件後の検察改正を審議するに当たっては、村木厚子さんらと一緒に法制審議会のメンバーとしても名を連ねていたのだそうな。

で、ごくごく単刀直入に、周防正行さんが痴漢冤罪問題について語られている箇所がありました。以下、周防監督の発言部分の引用です。

痴漢事件摘発の経緯を振り返ると興味深いことがわかります。一九九〇年代の初めまで、被害者が被害を訴えても、被害者は泣き寝入りをしていた。それが一九九〇年代の半ばから、迷惑防止条例で摘発するようになります。摘発する以上、犯人を有罪にしなかったら意味がない。裁判所が検察の有罪立証に合理的疑いが残ると無罪を連発したら、またまた被害者が泣き寝入りすることんある。無罪は出しにくいですよね。被害者が勇気をもって訴えているのに、無罪にしたら司法は市民の期待に応えていないことになる。

〜略〜

でも立て続けに三件ぐらい無罪が出た年があって、今度は立証のしかたが変わっています。「確かに触っているその手を見て、間違いなくその手をつかみました」といったように、被害者の供述がより客観的なものになって、誤認逮捕ではないという事を強調していくようになった。「はっきりとは見ていないが、この人しかいない」といった主観的な供述調書は作られなくなります。つまり、警察や検察は、裁判官が何をもって無罪としからを分析して、どうすれば有罪にできるかということを学習して対策をたてるわけです。供述調書にどう書けば有罪になるか、そのテクニックを進化させていく。〜後略〜


これは深層でしょうねぇ。

痴漢事件は摘発すべきであり、被害者は泣き寝入りをすべきではない。摘発した以上は、無罪にする訳にはいかない。無罪にしたら被害者の勇気を踏みにじることになる。この複雑な事情が深層には絡んでいる。しかし、だからといって無実の者を有罪にするという冤罪を乱発されてしまっては堪ったものではない。もっといえば、こうなってしまったから、故意に「この人に痴漢されました」と嘘をついたと思われる事件なども実際に発生していますね。しかも、その虚偽の証言によって痴漢冤罪をつくりだした人物は、記憶では、罪に問わなかったような気がする…。

これが痴漢冤罪問題なのに、既に日本の現代社会の風潮というのは過剰なまでの女性神聖化が蔓延ってしまい、「頑張れ!オンナノコ!」という感情任せの過剰なフェミニズム論陣によって、この問題が封殺されてしまっているんですね。そして挙げ句の果てには、「痴漢という卑劣な犯罪がある以上は、一定の確率で冤罪が発生する事も黙認すべし」となってしまった。人気お笑い男性タレントあたりまでもが地上波テレビの番組内で発言して週刊誌ネタになっていたことがあったし、ひょっとしたら、ごくごく単純なアンケート調査をしたら、既に日本の世論は劣化しているので非常に怪しい。

また、こうした事を以って、宮台さんも日本人の劣化、これは、ホントに「劣化」という文言を連発してますが、確かに、そうだとしか思えないんですね。「疑わしきは罰せず」とか、もっともっと専門用語も使用されていますが、冤罪に対してのスタンスが酷い。これも厳しい響きかも知れませんが、いわば「B層の女性」に媚びる為には、男性が男性に対して、犠牲、無実の者に刑事罰を与えてもいいだろうとまで、言い出してしまっている。「モテたいので、ボクは女性の味方です」って訳ですが、これ、キモチワルイですよね。腑抜け、腰抜けなフェミ男ばっかり。そう振る舞った方が女性ウケはいいんでしょうけど、その前に恥を知れやって思う。

「キチガイに刃物」ならぬ、「日和見する者に権力」という状態になってしまっている。諸々、艱難辛苦して築き上げていた叡智の系譜、その理念を、軽薄な人たちの大衆迎合によって、カンタンに捨てさせてしまっている訳で。

もう、避けたくとも「日本人の劣化」というフレーズを避けて通れなくなってきてしまっている。優秀な女性政治家も多いハズで、この問題点に気付いているであろう法曹界出身の政治家なんても沢山いるのに、こういう問題になると、みんな声を合わせて「女性の権利」という問題にすり替えてしまう。幻滅しますな。それで、「閣僚中の女性大臣の数が少ない!」とか言ってしまっている。そんなバカなと思ったので、平塚雷鳥あたりにも触れましたが、やはり、昔の婦人解放運動には賛同できても、昨今のMeToo論陣などは受け容れがたいというのが、私見ですかねぇ。なんでもかんでも、そういう問題にすり替えられては、ひたすらに迷走することになる。「あのハリウッド女優の主張を、本気で正しいと思っているのか?」という気持ちにさえなる。いやいや、ホントに精神を病みますな、そういう人たちばかりなのかなって思うと。妙な精神病理ってのは、社会に蔓延してしまったな、と。

更に、周防監督の話を引用します。

被害者尋問のときには衝立で隠します。裁判官は、被害者をもう一度恥ずかしい目に遭わせ、傷つけてはいけないと、二次被害を受けないように被告人からも傍聴席からも見えなくします。あるいは、被害者を法廷外の場所に呼んで、映像と音声によって証人尋問を行うビデオリンク方式を採用する場合もありますし、名前も住所も伏せるということも行なわれています。

ただ、人が人を裁くという裁判の本質を考えると、被害者の情報がある程度公開されることについてはやむを得ない部分も出てきます。そういうリスクはある。被害者が最初に警察に行くだけで、あとは自動的に裁判が進行し、真犯人が裁かれるなどということはあり得ない。もちろん、告発するにはとても勇気がいったと思うし、法廷で多くの人の目に晒されれば、もう一度傷つくということもよくわかるつもりです。ただ、その一方で、人が人を裁くことを、きちんとルールに則って実現していくためには、耐えなければならないこともあると思う。裁判の公開性はやはりとても重要です。裁判の適正を担保しなければならないからです。


あゝ、周防監督、凄いなぁ。もう、簡潔に問題の核心を語ってると思う。草刈民代さんと結婚って聞いたときに「監督が商品に手をつけるなんて!」と冗談半分に嫉妬を感じたものですが、きっと、周防さんは芯がしっかりされている方なんでしょう。

本来、こうして考えないことには刑事罰なんて与えちゃダメですやね。民主国家に於ける刑事罰というのは、つまり、民主国家というのは国家という機関を通すことによって、罪人に公的な刑罰を与えている訳だ。仮に、民間人が民間人を刑したなら、私刑であり、つまり、単なるリンチ、魔女狩りだ。民主国家であると自称する以上、適正な裁判をして刑事罰を与えるべきか否かを判断するのは当たり前だったんですよね。しかし、或る時期からマスメディア全般や政治家たちが軽量級になって理解できなくなっているんだから、ホントは、かなりの重症、最早、重篤な状態ですやね。ドゥテルテ大統領のような即断即決、強権発動をする強い独裁的なリーダーシップが望ましいとか思ってしまっているのが、今の日本人みたいだし…。

私の場合は、ジョディ・フォスター主演の「告発の行方」を視聴した際にも感じましたかねぇ。同作品は、ジョディ・フォスター演じるアバズレな女性が、酔っ払った男たちに集団レイプされるというものであった。勇気を出して告発に踏み切るが、世間の反応は冷たい。何故なら、被害者女性は見るからにアバズレ、アバズレという単語でいいのかな、少し違うかな、「ふしだら」の方が適切かな。要は如何にも性モラルの低そうな女性であった。肌の露出の多い服を着て、「あの男の子、可愛いわぁ」といってソフトクリームをねっとりと舐めてみせるような女性。なので、幾ら告発しても或る種の偏見によって「こんなふしだらそうな女性がレイプされたなんていって…」と軽んじられてしまうのだ。男性目線は好奇に注がれてしまうものだしね。しかし、そのジョディ・フォスター演じる主人公は、果敢に法廷に立つ。「確かに私はだらしない女かも知れないけど、集団レイプにあって傷ついたのは事実なのだ。これは真実を巡って争っているのだ」という世界。やはり、刑事罰を与えるという闘いをする以上は、一定の勇気は持たざるを得ないって事だと思ったものですが、なんだか軽薄化してしまった世論は、違う方向性ばっかりに引っ張られるんですよねぇ。

MeTooに関しては、カトリーヌ・ドヌーブを用いて、過去にも何度も取り上げていますが、なんでもかんでも女性の権利として片付けてしまうと、結局は「女性はか弱い庇護される存在」になってしまうと思う。ドヌーブの指摘もそれであったと思う。しかし、ヒステリックになったハリウッド女優たちが猛抗議をしてドヌーブは謝罪する羽目になったのが経緯であった。ホントに女性は庇護されるか弱い女性という地位を手に入れたいのだろうか? そうではなくて、ホントは既に女性は男性を能力的にも超えている人たちが、沢山、登場していますやね。なんたらっていう医科大学の不正受験問題で明らかになってしまいましたが、実際に女性受験者の方が学力試験で高得点を取っていたらしい事が露見してしまった。女性医師の定着率がどうのこうと勝手に考えてしまった大学側が合格者の性別を勝手に調整してしまっていたのが実相であった。当時、新聞記事をあれこれと読んだ記憶がありますが、「もう色々と、実際のところ、女性の方が男性よりも優秀ですやん」って分かってしまう話でもあった。

なので尚更に「か弱い、庇護される存在」という地位に甘んじるよりも、「純粋な平等」を模索していくべきだし、それが女性に不利に作用する事なんて、そんなに無いんじゃないんだろか。それが真の公平じゃないの? むしろ、危機感を抱いているのは男性の方だと思いますよ。男児と女児の生まれる比率で、女児に比べて男児が少なくなっているそうですが、この問題を踏まえて考えれば、何か思い当たるものがあるかも知れない。

公平かどうか、純粋な平等かどうかを斟酌するのは簡単なようで難しいのだけれども、少なくとも弱者権力になってしまってはおかしい訳ですね。弱者である事を武器にして威張り散らして強者になるるというのでは、本末転倒だ。弱者の主張は何が何でも受け入れられるべきだと考えているのであれば、その瞬間から弱者は弱者でなくなり、弱者権力になってしまう。











ああ、タイミングが悪くて、杉田水脈議員の騒動を連想させてしまったかな。それとは全く別に、ですよ。先鋭化したフェミ論陣への苦言という意味では似ていますが、おそらく杉田水脈議員らの周辺ってのは、先鋭化したフェミ論陣に対しての先鋭化した保守論陣であろうと思う。杉田水脈議員は実際には自分の言葉で説明できないタイプの人だし、そんな杉田議員を応援しているヘンテコな保守陣営が調子に乗って威張っているだけって構図のような。
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シャルリー・エブドを巡って、またテロが発生したという。なんでもシャルリー・エブドが例のカリカチュア(風刺画)を再掲載した事で、パキスタン国籍のイスラム教徒である青年が殺傷テロを起こしたものだという。シャルリー・エブド社は既に移転していたので直接的な被害はなかった…と。「テロかよ!」と反応するも、その原因が再掲載だと知って、「何やってんだろう…」という思いに到る。

イタズラに挑発すべきではないではないし、イタズラに不快な思いにさせるようなシャルリー・エブド側の対応に頭を捻っている。確かに「表現の自由」は大切だし、重要であり、フランスの場合は厳然たる理屈として教条的に割り切っているから、風刺画はセーフとなる。しかし、その世俗主義による「正しいか」or「正しくないか」という正誤の問題は、教条主義に頼っていると、このテロの連鎖の出口は見つからないでしょう。

お隣の韓国が反日感情をこじらせて、しばしば日本の総理大臣の顔写真にバッテンマークを描いたプラカードなどを掲げたデモンストレーションを行なっている映像がありますが、あれが惹き起こしているものは、日本にあっては嫌韓感情なんですね。「表現の自由」という保証された教条的正義なのかも知れないけど、イイ感じはしない。原則的には不愉快なのだ。「表現の自由」として正しいという教条に固執していては、その問題を超克できないのは、ホントは歴然ですやね。嫌韓デモに参加しないような温厚な日本人にしたって、これは同じで内心、「韓国のデモって、感情的になりやがるな」と感じているものだと思う。挑発行為が挑発行為を呼び、互いに罵り合ういがみ合いの連鎖となる。だから、応報しない態度は、ホントは「仕返ししたい気持ち」を押し殺しているに過ぎず、実際には内心では悪感情が生起させている。

で、こういう状況でも「表現の自由」は優先させる正義なのかという問題がある訳ですね。もっと身近なケースで述べれば、ある女性お笑いタレントが、「もう顔イジリばかりで、顔イジリは嫌だ」と感じ、その意志を表明している場合、もう、「顔イジリ」をすべきではないのは明白ですやね。この経緯の中でも「お笑い芸人なんだから、顔イジリは、おいしい筈じゃん。そういう事を言うヤツは、そもそも芸人失格だ」と思う人、そう意見を述べる人も、必ず出て来るであろうことが予想できますが、そうまでして何某かを理屈を他者に押し付ける権限は、公共正義は持っていない。本人が嫌だと感じている事が容易に予想がつき、且つ、本人が「嫌である」と明確に意志の表明しているのだ。「表現の自由」は、それを超えてどうにかできるものではないって考えるのが、オトナなのでは? いやいや、多分、中学生ぐらいで気付く筈ですよね? 

ただし、昨今のコンプライアンス概念とは少しズレている。例えば、ニックネームの問題なんてがそうかな。或る時期から、ニックネーム禁止が日本では優勢となり、正義化された。しかし、「名前って何だろうね?」と考えていったとき、それは認識コードに過ぎない事に気付かされる。戸籍上の名前が実名であり、それが仮に「山田太郎」であったとする。それを根拠にして、

「私は山田太郎という名前があります。この山田太郎という名前以外の名前で呼ばれると不快なのです」

というのは間違いではないが、反面、狭量な気もするんですね。

「まぁ、名前なんてのは、誰かが対象者に対して使用する呼称なんだから、好きなように呼んでくれたまえ」

という事が有り得る。この「好きなように呼んでくれていい」という態度は、結構、多いような気がする。レーニンはレーニンですが、そもそも本名ではなく、ペンネームだったりする。孫文ことになると「孫逸仙」をはじめ何通りも何通りも呼称があったらしい。自ら偽名を名乗ったりもしていたので、6〜7種類、或いは、それ以上あったのかな。しかし、仲間たちは孫文を孫文と認識しているし、場合によっては「孫先生」だったり、「孫兄」とか、そういうニュアンスで好きなように呼んでいたという。別に著名な革命家に限りませんね。実際に愛称なのだ。

「美空ひばり」は仲間内では「お嬢」と呼ばれていたらしい、これは仲間たちがつけた呼称だから、面識もない初対面の者が「お嬢」と呼んだら失礼になる訳ですが、まぁ、そういう感覚が分からないという事の方が問題がある。

テレビドラマ「太陽にほえろ」であれば、ボス、長さん、山さん、殿下、マカロニ、ジーパン、テキサス、スコッチといった刑事たちのニックネームがあった訳ですが、仮に、ああした関係性の中で、

「私には山田太郎という正式な名前があるんですっ! そんな呼び方は辞めて下さいっ!」

と言ったら、仲間たちのノリを、一撃でへし折る事になるのは自明ですやね。

そりゃ、仮に「ハゲモグラ」とか「悪臭王子」といった明らかにバカにしてきているニックネームだったら「不愉快だから、その呼称を変えろっ!」と抗議してもいいんでしょうけど、実際に仲間が付けるニックネームとは愛称であり、実際に、その者を呼ぶ言葉なのだ。

そもそも、そんなに本名なんてものが大切なのか、仲間とのコミュニケーションよりも、あんたは戸籍上の本名の方が大事なのかよって話でもある。

我々の世界には、存在しているものは最初から存在しているし、その存在も認識できている。しかし、明確な認識になるには、名前、呼称が必要なんですな。適当な名前・呼称がないと、その対象を指す事が出来ないし、その対象について一定以上を語る事が出来ない。さっきから、部屋の隅の方でうずくまって沈黙を決め込んでいる太った男が存在していたとして、その男について語るには、呼称が必要なのだ。「太っちょさん」と呼ぶべきか「そこのデカいの」と呼ぶべきか、怒らせたら怖そうなので「そちらの御方」ぐらいにしておくかとか、諸々、葛藤する訳ですね。そういう中で、実名とか本名というのは味気ないといえば味気ない訳です。そりゃ、役所や銀行の窓口で待っていて呼び出しのときにニックネームで呼ばれるのでは困るのだけれども、仲間内での呼称なんてのは、元々、そうしてTPOをわきまえて使用されるものだしねぇ。

これは、実際に体験していないと分からない感覚なのかもねぇ。例えば漫画「ビーバップ・ハイスクール」の主人公は「トオル」と「ヒロシ」であり、ヒロインは「今日子ちゃん」であった。おそらく、トオルといえばトオルであり、勿論、「トオルさん」と敬称を付けることに問題はないが、それでいて近しい仲間からは「トオル」と呼び捨てにしても、そんなに腹を立てるものではないという感覚があったと思うんですね。一方で、映画「ピンポン」の主人公であるペコは、「ペコさん」と敬称付きで読んで欲しいので、その口癖は「さん、くれろや」であった。しかし、一向に卓球部の連中はペコをペコと呼んでいた。松本大洋原作であった事を考慮すれば、おそらくはペコの方が、ちょっと感覚がおかしかったのだ。いちいち、固い事、言うなよってノリの世界だろうから。

昨今、評判の悪い「3年B組金八先生」の旧シリーズなどでは、ニックネームは標準装備でしたやね。だってね、そもそも仲間内で使用する愛称なんですよ。碌に口を利いた事もないような女子生徒から「トオル」とか「ヒロシ」と呼び捨てにされたら「呼び捨てにすんなや!」という感覚よりも、「おっ、なんだか親近感持ってくれているやんけ」と感じたものだと思う。苗字+さん付けとか、苗字+くん付けよりも、遥かに仲間意識が強いというか、その関係性の距離が近かったんだと思う。私の場合も中学時代はファーストネームの呼び捨てがニックネームになってしまっていたのですが、慣れればなんてことはない。女子生徒から呼び捨てで呼ばれると大きく動揺はしないけど、小さな動揺はあり、その中で「なんだかんだいってウチのクラス、一体感があるんだね」と感じた経験がある。

なので、

「私には親から与えられたれっきとした何々っていう本名があるんですっ!」

と言われたって、そんなに固い事を言っちゃうヤツなのか、迂闊には声を掛けられんぞ、と身構える事になる。(こういう感覚が「暗規」、暗黙の了解であり、慣習的なものですね。明文化はされていないが実際には、そういう感覚を我々は持っている。)

要は、自分たちとの関係性の中での呼称の問題なのに、なんで、親とか、戸籍とか正式とか、そういう価値観に頼って、物事を考えてるんだろうってなる。この場の雑談だの、ちょっとした会話に、そういうの、必要じゃなくね? 儒教の学者が孫文の時代にあれこれと清王朝を共和制の国にしようとして言い出したのは、親と子、兄と弟、師弟といった関係性は上下関係があるが、朋友(友達)には上下関係がないので、本当に大切なのは余計な上下関係のない朋友だと言い出したらしいのですが、そりゃ、そうですな。忠孝なんて儒教の弱点でしかない。「自由公平」こそが20世紀初頭に考えられていた自由主義であった。(孫文の周囲には南方熊楠や宮崎滔天なんてのがあり、アジア主義の源流のようなものがある。現在の中国にこれが活きているのかというと微妙ではありますが…。) 

先日、テレビ東京のローカル路線バスの旅の後継番組で、太川陽介さんと島崎遥香さんとが同一グループで旅をしていたのですが、最初に太川さんは「島崎さん」と呼んでいた。しかし、旅行が続くにつれて、結局は「ぱるる」という彼女の愛称を自然に呼んでいた事に気付きました。傍から視ていても分かってしまうんですね、その距離感というものに。島崎さんの場合には、「ぱるる」という愛称が半ば定着しているので、むしろ、そちらの呼称の方が、ずっと、しっくりする。で、太川さんも「島崎さん」と呼ぶこと、それが距離が遠すぎるかなと気付いたから、途中から「ぱるる」と遠慮せずに呼ぶことにしたのでしょう。わざわざ、そういう説明はしていませんでしたけどね。

要は、相手の気持ちを考える事は非常に大切である。しかし、だからといってニックネームの全面禁止のように、ありとあらゆる事柄を規則で縛る事、一律で規制してしまうというのは案外、マヌケで、そのまんま、人と人との距離を遠ざけ、味気ないものにしてしまっているのではないかという気がする。一律禁止という規制ができる事に拠って、深部ではコミュニケーションがとり難くなったという事実が隠されているような気もする。

正しいと思われているポリコレ的な教条というのに、色々と従わされてきているのだけれども、そもそも、あれこれ、おかしいんじゃないんですかね。どちらかといえば感情的な意見が主張されるので、いつも穏健な意見は譲歩することになり、そこへ付け込むようにして、どんどん「正しいと思われる規制」が規制として出来上がってしまう。結果、味気ない社会になり、規制に抵触しないように気を使いながら、場合によってはビクビクとしながら、コミュニケーションをとる羽目になってる。これは平成や令和の不幸のような気がしないでもない。昔は確かに粗暴だったのですが、一方で、もっと日本人って仲間意識があったのにな、と。

理屈としての正義、つまり、「教条的な正義」と「実際の正義」とで、どちらが好ましいだろうか? 後者じゃないですかね? さほど顧みられる機会が少なくなった大杉栄、大杉栄の文章なんて読むと、「実際主義」という言葉が多く目につくんですね。単純明快、大杉栄は実際主義の人であり、実際を重視して物事を思考していた。この実際主義を理解すると、少し考え方がラクになる。

これは政策などを考える場合でも使えますな。多くの政策は、彼等が言うところの正しい方向性に対しての、政策である。改正、改正というけれど、実際には改悪、改悪もある。そこは是々非々でもいいのだけれども、絵に描いた餅ばかり、見込みの上での「絵に描いた餅」ばかりを、タラフク食わされたって、ちっとも人々は幸福になれないんじゃないのかな。

そればかりか、我々、日本人のコミュニケーション能力は、おかしなポリコレやコンプライアンス意識の喧伝によって、我々のコミュニケーション回路の中に侵入、侵食し、現在ともなると、どんどん劣化してきているって事だって考えられる訳で。だって、実際に対人の距離感を物凄く難しくしてしまっていません? どんどん日本文化を破壊しておいて、挙げ句、効率性がどうのこうのってイチャモンを言われましても、そもそも政治家さんや官僚さんらが、根っこにある日本の慣習にそぐわないようなルールをバカスカと濫造して日本文化を破壊しているから、効率性が上がる訳がないとも言えてしまう訳であって。
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ここでは、『暴走する検察』(光文社)から宮台真司さんの説明を踏襲して、そのシステムを捉え直してみる事にします。

まず、行政官僚について説明しましょう。官僚は政治家に使われる存在です。この場合、行政権内の話をしています。行政権内でも牽制メカニズムが機能します。よく「三すくみ」と言います。官僚は政治家に弱い。〜略〜人事権を握られているので捏造・改ざん・隠蔽にさえ手を染めてしまった。政治家は市民に弱い。政治家は選挙で市民に選ばれるからです。そして市民は官僚に弱い。官僚が法に基づいて行政を執行するからです。例えば許認可行政では、官僚の裁量権の胸先三寸で、市民にできることとできないことが決まります。

だから、立法・行政・司法の三権分立とは違いますが、行政権内でも、官僚・政治家・市民が三すくみの権力循環をなすことで、「誰が一番偉い」とは言えないように、「頂点を消す」わけです。三権分立の基本は、立法・行政・司法の相互関係において、「頂点を消す」ところにありますから、全体の原則が部分にコピーされる形で、行政権内にも同じ原理が働いているということですね。

ここで誤解をふさいでおけば、政治家に対して官僚が弱い立場にあることは、悪いことではなく、望ましいことです。〜略〜行政官は政治家の手足だということです。手足だから行政自体には意思はない。すなわち、政治家から見ても、国民から見ても、場合に「計測可能な機械」だという事です。〜略〜マックス・ウェーバー的に言えば、行政官が、合法手続の枠内で動く予算と人事の動物であることによってです。行政官僚はそういう存在でないと困るのです。ただし合法手続の枠内で、と申し上げたこところが肝腎です。そこが昨今の日本では、文書管理のずさんさを含めて、完全にデタラメになっているということです。その結果、国民から見て行政官が計算不可能な暴走機械になってしまっているのですね。


政治家に使用されるだけの機械である筈の行政官が、政治家のブレーンであるかのように動き出している事を、暴走機械と宮台さんは指摘している。ここは、少々複雑で、官邸が官僚を手足のように操って何が問題なのかとなってしまう部分でもあるが、そもそもからして官僚とは政治家に取り込まれたり、取り込む関係であるべきではなく、本来的には「三すくみ」の関係になっていなければいけない、というシステムの解説が読み取れる。

(一応、補足しておくと、宮台真司さんの主張そのもの、その本旨は、「一見すると政治家が官僚を取り込んでいるように見えるが、実は官僚がバカな政治家を取り込んで、そもそも在るべき、三すくみ状態を破壊している」である。官僚が政治家を補佐する言いながら、その実、官僚が「政治そのもの」をやってしまっているというのが本旨のよう。)

また、次のように宮台節は続けられている。

問題を理解する手掛かりが、「頂点を消す」相互牽制のメカニズムです。政治が官僚を使い、官僚が市民に命令をする。しかし、その市民が政治家を選挙でコントロールするので、政権交代が起こり、特定の政党にべったりな官僚は取り除かれるというメカニズムのことです。だから、行政的な中立が守られると想定でされるわけです。細かい話に見えるかも知れませんが、そういう機能的連関が、実は前提なんですね。

と。

よく、テレビのコメンテーター氏のコメントでも「これじゃ三権分立が崩れてしまっている!」とか「議会制民主主義が崩壊している!」といった具合の発言をされていますが、よりフォーカスすると、この宮台さんの意見にように、それらのバランスが著しく崩れており、中々、正確に説明する事が大変な状況になってきてしまっているという実相がありそうですかね。

「検察=司法」ではないのですが、法曹界、或いは刑事裁判、刑事罰に係る部分では警察・検察という秩序維持装置の役割は絶大なのだ。

しかも、日本の裁判制度は特殊であり、起訴されたら99.9%は有罪となるという。逮捕された時点で、もう警察が逮捕したんだから有罪なのだろうという推定有罪の心理が実際に強い訳ですね、慣習的にも。しかし、権能からすると、逮捕されても起訴される前段階では容疑者であり、起訴されて初めて被告となり、有罪か無罪かを決定するのは裁判官であるというのが本来の設計図なんですね。裏返すと、「起訴されたら99.9%は有罪である」という事実は、これはデータでも事実だそうですが、つまり、検察が裁判官の役目をも実質的には兼任してしまっているという、イビツな問題を炙り出している。そして警察が逮捕した場合でも、検察が不起訴にしたり、起訴猶予にすれば、その者の行為は裁かれないで済む。これが日本の検察の問題でもある。だって、ちゃんと分権できていない、役割の分担ができていないって事のよう。

また、この検察は裁判所に被疑者の勾留を請求し、勾留して取り調べをするという段取りになっていますが、検察が勾留を請求し、裁判所がの請求を認める確率も98.6%であり、つまり、検察と裁判所が明確に分離できている訳ではないというのが実態である訳ですね。

「検察官よりも裁判官の方が偉いんだから…」と我々は考えたりもする訳ですが、実際の問題としては、裁判官とて同じ法曹界に身を置いているのだから、検察のメンツを叩き潰すかのような、そうした判決は出せない、出しにくいという構造になっているという問題がある。

弁護士の場合は、士業であり、弁護士事務所を構えている。いわば、市井の中に身を投じながら裁判に参加する、いわば【士】である。それに対して検察官と裁判官は【官】であるという事でもあるのでしょうかねぇ。

勾留は、起訴する前の段階で行なわれる訳ですね。身柄を拘束されて、そのまんま、勾留(拘留)されてしまう。警察で3日間。その後は検察で10日間、延長で10日間なので、日本では起訴前勾留が合計で23日間ある。この間、弁護士の立会もさせず、家族などとの接見も禁止し、拘禁状態で取調べをしている。(一部、改正されているともいう。)

因みに、日本の起訴前勾留期間は23日であるが、イギリスは4日間、アメリカとカナダは3日間、フランスは2日間、ドイツは24時間、オーストラリアは8〜12時間だという。日本の場合は23日間なので、そもそも長いが、その上に再逮捕などの手法によって勾留延期も行なっている。これを身柄を拘束してしまう取調べ手法を主に「人質司法」と呼んで批判されてきた。

周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」のような冤罪が、実はそこそこの頻度で起こされている。密室内の取調室では、「否認していても損するだけだぞ。自供して楽になれ」のような言辞もあるという。

痴漢冤罪事件などになると「オレはホントにやっていないのだから、後で裁判の時に無罪を主張すればいいや」と安易に考え、一刻も早く拘禁状態から解放されようとして墓穴を掘るケースが多かったという。自供をして聴取をとられサインする。でも、ホントはやっていないのだからテレビドラマのように裁判の席で無罪を主張しようとする。しかし、検察官と裁判官との区別は曖昧であり、そのまま有罪とされてしまうのだという。「失敗した!」と気付くのは、一審で有罪判決を受けた後なのだそうな。

20代とか30代の若手検察官が、70代の被疑者に「おまえ、ぶっ殺すぞ」といった恫喝も行なわれているという。幾つかの事件を想起すれば分かりますが、「やってなかった人」が「私がやりました」と自供してしまっているケースが思いの外、多いんですね。後になって、検察は「自供にダマされた」とか「自供に惑わされた」と口にする。しかし、実相は異なり、徹底的に精神的に追い込んで、やっていもいない罪を認めさせ、虚偽の自供を引き出してしまっているのは、当の検察の取調べに問題がある。70歳とか75歳になって、小生意気な若造に「おめぇ、ぶっ殺すぞ!」という恫喝を連日のように受けたり、机を叩いたり、椅子を蹴飛ばされるという取調べを受け続けると、人間というのは、ヤケクソになったり、もう、何もかも認めてしまい、楽になろうとしてしまうものらしい。だから、やたらと事実でもないのに「自分がやりました」と自供に応じてしまう者が多いのだという。

それがあるので村木厚子さんらは全面可視化(録画・録音)を訴えている訳ですね。現行では例によって特例が設けられていて、検察側の申請によって一部始終の録画・録音をしないでいい事になっている。という事は、結局のところ、調書に大人しくサインしている映像や音声部分だけを編集し、提出してオシマイに出来てしまう。

因みに、映画「それでもボクはやってない」には、【不見当】という言葉が使用されていたという。これが、どのような状況で使用されたのかというと、検察側は被告の無罪が有利になる証拠を持っている筈なので、証拠として開示して欲しい、提出して欲しいという弁護側の請求に対しての返答として【不見当】という言葉が使用されていたのだそうな。これは、法律用語でいうところでは、「見当たりませんでした」であり、実は巧妙に「ありませんでした」を回避している言い回しなのだそうな。「ありませんでした」と答弁すると偽証になる。なので、「見当たりませんでした」と答弁しているの意。なまじ、エリートたちなので、そういう手法を使うという事らしい。

翻って、勾留状態での取調べ一つにしても、密室内で、素人を、プロ中のプロが取り調べて言質をとり、供述調書を作成している訳であり、赤子の手をひねるようなものかも知れませんやね。

袴田事件の袴田巌死刑囚の姿なんてのは、テレビのドキュメンタリー番組で視ましたが、同じところをぐるぐると旋回して歩いてしまう。あれ、拘禁反応という精神現象なのだそうな。更には、袴田さんは現在も最高裁に特別抗告中とのことですが、本人曰く、宇宙人と交信できるようになってしまっていた。既に、人格的なものを破壊してしまっている事ですな。

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21日付の読売新聞社会面(29面)と特別面(27面)とで、大阪地検改ざん事件(村木さん冤罪事件)から10年として検察改革について大幅に紙面がされていました。検察庁法の改正案を前にして、その改正案がどういうものになるのかの見通しも読み取る事が出来るものであった。しかし、翌22日の読売新聞に村木厚子さんが登場、改めて「全面的な可視化」を訴えている。つまり、現状、改正案は全面可視化を織り込んでいない。可視化とは具体的に「録画・録音」を意味しており、読売新聞の記事の見出しは「検察 客観証拠重視へ」と銘打たれているが、それは「見立てに固執しないこと」を意味しているが、尚、録画・録音については賛否があるかのような記事になっている。

21日付の読売新聞には林真琴検事総長も登場しているが、既に可視化を本格導入したかのような前提で語られている事にも気付かされる。

一方で、元東京地検検事の郷原信郎氏は、検察庁法の改正案を「政治ヤクザが権力ヤクザを手足のように使うことを可能にする法改正」と呼んで、反対しているという。この郷原氏が使用している「政治ヤクザ」とは政治家を指しており、権力ヤクザとは検察&警察を指しているという。前者の「政治ヤクザ」とは政治を盾にしてヤクザと同じような事ができる事を含意した名称であり、後者の「権力ヤクザ」とは法律を盾にして合法的にヤクザと同じような事でできるという事を含意しての名称であるという。

実は、我々が想像している以上に、この検察・警察が有している権限は大きい。治安を守る為に暴力装置という定義が、これは揶揄ではなく、マックスウェーバー等の説にも出て来る用語ですが、その問題らしい。

この内、検察については、社会学者の宮台真司氏が、次のように指摘している。

検察が起訴しない限り、刑事裁判は起こらない。それが公訴権の独占です。なんらかの被害を受けた市民が提訴しても、それだけでは裁判にならないということです。

これは当たり前といえば当たり前、特に刑事裁判の話であると思われますが、この辺りがイカレてしまっている可能性がある訳ですね。

例えば、先に黒川弘務氏に係る定年延長問題があり、最終的には場外乱闘のような賭けマージャンによって黒川氏が辞任して問題は、そこでトカゲの尻尾切りにあってしまった。しかし、黒川氏については、次のような経緯が実際にある。

◆黒川氏が法務大臣官房長の時代

2015年4月、小渕優子衆院議員を不起訴

2015年5月、東芝の巨額不正会計事件の捜査に着手せず

2016年6月、甘利明経済再生担当大臣を不起訴

2016年7月、伊藤詩織さん事件で逮捕状の執行をせず


◆黒川氏は法務省事務次官の時代

2018年5月、佐川宣寿・前国税庁長官らを不起訴

2019年10月、菅原一秀経済産業大臣、違法寄付行為が発覚するが、その後の進展なし

2019年11月、「桜を見る会」問題が発覚するが捜査せず

2019年12月、IR汚職で秋元司衆議院議員が逮捕され、現在も裁判中

2020年1月、公職選挙法違反の疑いで河井克行元法務大臣と、その妻でもある河井案里議員の捜査を広島地検が着手。

2020年6月、河井克行・杏里夫妻が逮捕


こう並べても、説明が必要になりそうですが、小渕優子不起訴、甘利明不起訴、伊藤詩織さん事件の逮捕状の執行せず、佐川宣寿・前国税庁長官ら公文書改竄問題に関与した人物ら38名が38名とも全員不起訴、桜を見る会の捜査に着手せず、と、上記の5件については、「まるで政権を守るかのようなものであった」と勘繰られても仕方がないものでもある。モリカケ問題も、サクラ問題も、どちらも国会を空転させた問題としてまるで野党やマスコミが悪者にされてしまっていますが、常識的に考えれば、明らかにおかしい。そして、その何やら官邸を守る検察という流れに反発するようにして、2019年にIR汚職で秋元司衆議院議員が実際に逮捕され、更には広島地検によって過去に例がないような体制で河井克行・杏里夫妻をの逮捕に踏み切っている。つまり、現在も壮絶な政治ヤクザと権力ヤクザとの抗争の最中にあるのだ。

そこには残念ながら真実を明らかにするという本来的な使命よりも、深作欣二監督が描いた日本映画の最高峰「仁義なき戦い」のような近代ヤクザの抗争が起こっているようにも見える。

検察が起訴しなければ裁判さえ起こらず、事件化しない。また、警察・検察が捜査そのものに着手しなければ、これも勿論、事件化しない訳ですね。「そんなバカな事が起こるなんて!」と思ってしまうものですが、よくよく精査すると、そうとしか思えないのだ。つまり、治安を維持する為に特別な権能を与えられている警察・検察が、政治家とくっついたり、離れたりしているという厳然たる事実を炙り出している。

この問題が、キョンキョンこと小泉今日子さんが驚きのツイッターをした「#検察庁法改正案に抗議します」の本丸でもある。これに疑念を抱かなければ不自然で、しかも安倍政権も菅政権も一貫して公文書改ざん問題についての再調査を拒否しているのが現状である。

思えば、伊藤詩織さん事件は安倍政権に近いとされた元TBS記者が泥酔状態の伊藤詩織さんをホテルに連れ込み、そこで性的乱暴をしていたうんぬんという事件であった。事の核心は密室内で起こった事件なので是非を論じる事は不可能ながら、伊藤詩織さんの通報を受けて実際に警察が逮捕の段取りまでしていたのに、官邸筋の人物からの連絡によって直前になって逮捕が見送られたという箇所にあった。確かに警察権の私物化、公権力の私物化であった可能性がある訳ですね。

(余談ながら、菅義偉新総理と「ぐるなび」の創業者で会長でもある滝久雄会長は親密な関係にあるという。政治献金を受けている事、また、GoToイート事業でも業界最大手の「ぐるなび」が最も恩恵を計算できる政策だと週刊文春9月24日号が報じている。何故、こんな話を、この箇所に挿入しているのかといと、くだんの元TBS記者氏は、現在、滝会長が経営している広告代理店NKBの子会社の顧問に就任しており、月額42万円の顧問料を得ているのだそうな。うーむ。なんだか元TBS記者氏と菅義偉との関係は、怪しいといえば怪しいような…。)

何故それが起こったのかというと、安倍政権下で内閣人事局が作られ、官邸が実際に通常の官僚人事だけではなく、検察の人事権を掌握してしまった事と関係していると疑うのも、これまた必然でしょう。

現在の法体系の下では、一応は内閣が、検察に指揮・監督する権限を持っています。まず法務大臣に指揮権というものが認められている。指揮権という伝家の宝刀の話とは別に、内閣は内閣人事局を通じて人事権という形で、検察を指揮・監督できる。また、これが上手くできていて、任命するのは我が国では天皇であり、つまり、天皇に任免権があるというタテマエができている。勿論、実際には天皇に「この人物を任命してください」と具申しているのだから形式的な任免権でしかない。また、この天皇が検事総長と次長検事と8名の検事長、合計10名の天皇から直に認証を受ける「認証官」という特別な待遇になっており、これは他の省庁の事務次官でさえ、認証官ではないので、検察という機関が如何に重要視されてきたものであるかを裏返しに証明するものでもあるという。

定年延長問題の際、国会であったかマスコミでも「どこの省庁でも官僚らの定年を延長しているのだから、当然、検察にも定年延長が認められるべきだ」という言説を繰り出していた人たちが如何に狡猾か無知であったかも、推し測れるかも知れない。全然、システムを理解できてしない可能性もある。なのに、彼等は「改革を推し進めるべきだ」と展開しているという、非常に捩じれの多い、厄介な構造になっている。
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「スーダラ」と「モーレツ」って、どっちが先でどっちが後なんだっけと、ふと思う。検索してみたらスーダラ節のヒットが1961年頃で、モーレツという言葉が流行したのは1966〜1967年頃のよう。既に私の生まれる以前の話でもあるから、テレビCMとしての風が吹いてスカートが捲れて「オー、モーレツ」というCMはリアルタイムでは知らなかったりする。知っているのは、きっと漫画の影響でしょおうねぇ。森田拳次の「丸出だめ夫」だとかジョージ秋山の「パットマンX」とか好きだったから。

先に「スーダラ」か…。日本の歌謡史にあって、なんだかんだいって屈指の名曲の一つに数えるべきは、この「スーダラ節」でしょうねぇ。

♪スイスイ、スーダラタッタ、スラスラ、スイスイスイ〜

という箇所が凄い。旋律も見事ですが、そもそも【スーダラ】が凄い。これは擬音(オノマトペ)でもない。ただただ、観念的に「スーダラ」なのだ。広辞苑で「スーダラ」を引いても掲載されていない可能性がありますが、これは掲載すべきですやね。

何故なら、仮に

「そんなスーダラな調子でいいのかい?」

といえば、一定の年齢以上の日本人であれば当たり前に意味が通じてしまうであろうから。このニュアンスは、きっと英訳しようもないのだろうから【karoshi】(過労死)と同様に、【su-dalla】といった具合の和製英語になって欲しい。

擬音なのかどうなのかという問題がありますが、おそらくは、スイスイと水面を泳ぐミズスマシの泳ぎを観念的に切り取って「スーダラ」になっているのではないかと推測するかな。作詞は「青島だァ」の青島幸男であり、元東京都知事でもある。冷静に考えて凄くないでスかね?

「スイスイ、スーダラダッタ、スラスラ、スイスイスイ」

が凄い。おそらく、大橋巨泉の「はっぱふみふみ」も同じ系統だろうし、その後、タモリや筒井康隆が「ハナモゲラ語」のような架空言語の言葉遊びも同系統なんですが、おそらく、最初にして最大の成功例は「スーダラ」でしょう。ニュアンスを擬音化して、そのまま、観念的なニュアンスを新語として作ってしまっているかのように感じる。

しかも、このスイスイ、スーダラダッタは、非常に軽快に水面を訳もなく渡っていく様子が描写されている。


チョイと一杯のつもりで飲んで

いつの間にやらハシゴ酒

気が付きゃホームのベンチでゴロ寝

これじゃカラダにいい訳ゃないよ

わかっちゃいるけど、やめられない


堅苦しく言えば、準依存症とでも呼ぶべき事柄を唄っており、しかも「わかっちゃいるけど、やめらない」とか、「わかっちゃいるけど、やめられない(ときたもんだコレ)」と唄っているのだ。この世の中を泳ぎ切ろうとしたら、力んで仕事に取り組んでしまっては消耗してしまいますな、ミズスマシのように上辺をスイスイと泳いでいきましょうという歌詞なのだ。

その後、青島幸男&クレイジーキャッツの世界は、「日本一のゴリガン男」などという映画をつくったりしますが、この「ゴリガン」というのは、現在でいうところの「ゴリゴリでガリガリ」でしょうねぇ。何故か音写であるのに、意味が通じてしまう観念的な言葉なのだ。それに比べたら「オー、モーレツ!」は新語ではなく、既成の【猛烈】をカタカナ語にしたものに過ぎませんが、ゴリゴリでガリガリな観念的な音写としての「ゴリガン」が、より鮮明になって「モーレツ」になったと推測できる。

テレビCMの「オー! モーレツ!」に端を発して流行したという「スカートめくり」なる遊びは私が幼稚園児とか小学生の頃には既に、もう死滅していたかな。「ハレンチ学園」がエッチな内容であったようなオボロな記憶はあるが、実際には何も覚えていない。児島みゆきさんあたりだったのか。ああ、イイ感じにエッチだったかもねぇ。これは「エロ」なのではなく、「エッチ」というライトな感覚かな。

また、この【スーダラ】は【精神論・根性論】に対してのアンチテーゼであったと思う。サブカル的な視点で述べれば、凄い発見であったと思う。戦後の日本がスタートして経済復興を遂げていくものの、基本的には日本人の気風は戦前・戦中から切り替わっていない、切り替われていない訳ですね。最近、ユーミン絡みで騒動を起こした白井聡さんが強調してしまっていますが、要は、天皇国体論からアメリカ国体論に切り替わっただけという、奇妙な構造が戦後日本にはあった。戦前や戦中に鬼畜米英と叫んでいた連中が、戦後になったら掌返しをしてアメリカ万歳と言い出した。それ故に、60年代と70年代の日本のサブカル・シーンには、単なる左翼思想とは異なるカウンター・カルチャーのようなものが登場していたという事にも思える。

この話は、結構、広範にわたってそうだったのだろうなと思う。犯罪で言えば、戦後派を意味するアプレ犯罪が目立ちはじめ、言論界でも石原慎太郎の太陽族を筆頭に戦後派(とはいうけれど、石原慎太郎は戦中を体験している戦後派)が、大きく支持を伸ばしてゆく。それと並行してテレビでは青島幸男&クレイジーキャッツが人気者となる。三木鶏郎事務所には永六輔、野坂昭如、五木寛之なんてメンツが揃っており、野坂昭如はメディアの寵児として登場、作詞家、雑文家、小説家として人気作家兼流行作家となり、とうとう芥川賞を受賞し、これでもかと歌を唄い、圧倒的な「文化人」の地位を確保した。更にノサカは政界にも挑んでますな。実は青島幸男も同様だ。そして、五木寛之に到っては、もう、堂々たる大物作家中の大物作家である。なんですか、コレはって思う。

付け加えれば「ゲバゲバ」なんて言葉も観念的な新語だったのでしょうねぇ。大橋巨泉、前田武彦がテレビで普及させたものですが、ゲバゲバの考案者は現在も週刊文春で連載を持っている小林信彦であり、これは、もう確定的であり「ゲバルト」という単語の「ゲバ」を重ねたものである。「ゲバゲバ」の後に「ピー」という電子音を合わせた音声でコントを繫ぐ仕掛けになっていたが、まさしく演出的にもゲバルトが取り入れられていた。

更に更に、ここまで言及すれば赤塚不二夫の「レッツラゴン」にも言及しないとバランスが取れなくなる。「おそ松くん」、「天才バカボン」、「もーれつア太郎」、「ひみつのアッコちゃん」等で、ギャグマンガの頂点を極めてしまった赤塚不二夫は、もう、描くべきマンガはなく、アバンギャルドへの領域に達してしまい、既成の枠に収まらない「レッツラゴン」というマンガに行き着いてしまった。読んで面白いかどうかと問われれば、私は面白くないと思う。しかし、既存のマンガの領域を完全にぶっ壊していしまっている事は認めざるを得ないのベラマッチャ。トーフ屋のゲンちゃんの頭をノコギリで切断して、その脳味噌の代わりに、オカラを詰めておけばいいのベラマッチャ。常識的には酷ぇマンガなのですが、既存価値のなにものにも影響されないマンガ、芸術、表現はあるのかという大袈裟な表現活動に当て嵌めた場合に「レッツラゴン」は究極系かも知れまやね。もう、訳がわかんねぇ世界であり、過激派と思われる人物が平気で爆弾を投げ込んできちゃうハチャメチャな世界。そこまで既成枠を破壊してしまった表現ってのは、ちょっとやそっとじゃ、思い浮かばない。水木しげるは「ある人気漫画家は、お酒に溺れてダメになってしまったでしょう?(それと比べたら水木サンは考えていたんだから…)」のように語っている活字本を目にした事がある。水木しげるの妖怪的な俗物性がよく顕われている文章でしたが、「まぁ、これは赤塚不二夫センセの事だろうなぁ」と思う。しかし、確かに晩期の赤塚マンガなんてのは、そこまでイっちゃってたマンガだったと思う。

翻って、現在はどうなのかというと、定石だのセオリーだの、批評だの、JAROだの、読者投票だの、視聴率だの、スポンサーの意向だの、実は物凄く制約を受けている。信じられないほどの制約下で、テレビもマンガ雑誌も活字媒体も表現活動をしている訳ですね。ホントに、こうした環境から、何か新しいもの、新しい価値観なんてものが生まれてくるのだろうか? 

頭の固そうな批評家は「スクラップ&ビルド」とか「多様性」というワードを口にしているのだけれども、明らかに本来の意味では使用していませんね。これはダメ、あれもダメという見識の上で、多様性を定義づけて使用している。自由の意味ってのも、彼等の頭の中からすると、定義づけられた外来語のリベラル思想体系に合致していなければアウトであり、それじゃ、中心地に勝てる訳がない。逆転は起こらない。画期的な変化も期待できない。本来は辺境には辺境地の強みがあり、また、ひょっとしたら、そうしたローカルな一地方の中から、既存の価値観とは全く異なる新しい価値観が生まれるかも知れないのに、そうした可能性については全く言及しない。ただただ、用意された既成のテーブルの上の、その価値体系に則った中でLGBT問題やBLM問題を語っているだけになってしまっている。


スイスイと水面をミズスマシが行くように、世の中を渡りたいという願望が、スーダラを生み出したのだろうなって思う。

そう言えば、佐野元春に「Happyman」という名曲がありましたね。



young and free

I'm jast a Happy man

アスピリン片手のジェットマシーン

そんなに乱れてハニー、何を企んでるのか、

Tell me, Tell me,(Woo!)


このタイトル「Happyman」なのだから、そのまんま日本語にしたら「幸せな人」とか「幸せな男」の意味なのでしょう。若くて自由で、幸福な男か。そんな男は、「そんなに乱れるまで急いて、ハニー、何を企んでいるんだい?」という調子である。どこかスーダラにも通じる、マイペース型の幸福論が投影されていそう。その幸福な男は、タフでクールで、そしてヒューマンタッチであるとも歌っている。

この歌は80年代のヒット曲であり、少々、バブルの気というのもあるのか歌詞は、

仕事も適当に、みんなが待っている店まで

Hurry up, Hurry up!!


と唄っている。この意味は、仕事も適当なところで切り上げて、みんなと待ち合わせている飲食店(バーなのかレストランなのか居酒屋なのか喫茶店)まで、ハリーアップ、急げ、急げという具合の歌詞である。なんだか積極的な幸福な暮らしってのを歌ってますね。で、アスピリン片手のジェットマシーンみたいにアクセク生きたって仕方がないんだぜ、というノリも感じ取れる。

そこには重苦しい空気も、深い悩みもストレスも感じられない。責任とか責任感なんてものにしても、本来的には個人が負える責任なんてのものはタカが知れている。この時代を経て、90年代以降もしくは00年代以降に、「この責任を、あなたは、一体、どうとってくれるんですかっ!」のようなヒステリック反応が増え、他罰的な空気の世の中になったんでしたよね。

おそらく、日本人は結局のところ、幸福から遠ざかってしまっている…という事のような。どこかしら制限を強いられることに慣れてしまい、好ましくないと思われる事は発言できず、相互に比較し合い、水面下で競い合い、監視し、他人の行動に介入したがり、場合によってはチクリあうような世の中になっているのであって。


商業音楽ばかりの音楽だらけじゃないかという中で、そのカウンターカルチャーとして英国でパンクロックが発生したという。この【パンク】とは掘り下げていっても、多分、それだけの意味しかない。ただただ、カウンターカルチャーとして生まれたのだという。締め付けが厳しく、どこもかしこも商業主義だらけ、そんな一つの価値観が蔓延してしまった場合に、こうした「カウンター」が発生するという好例のような気がする。次なるカウンターは「スーダラ」に準じたような「緊張と弛緩」といった場合の「弛緩」、その弛緩的なもののような気もしますかねぇ。

最近の音楽評は、妙に「疾走感、疾走感」と言っている。少し前は「抜け感」を空間デザイナーが使用していましたな。疾走感って要は、打ち込みのリズムに疾走感があるの意だと思うのですが、そんなに疾走ばかりしていたら、疲れるのにね。

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論壇誌なき時代の思潮を扱っているものと思われる31日付の読売新聞9面(文化面)では、香港の国家安全法を巡っての国際社会というのが「中国批判一色ではない事」に言及し、それぞれ紹介している。

◆「国際秩序をめぐる競争を激化させる中国」(『外交』山口信次氏)に拠れば、本年、国連人権理事会ではキューバなど70か国が国安法(国家安全法)への支持を表明しており、実は中国批判一辺倒になっていない国際情勢を指摘している。

◆「世界に向けた日本の保健・医療イニシアティブ」(『同』北岡伸一氏)も、その中国批判の流れを受けて、「日本では欧米メディアの反中国的な声が入りやすいが、途上国に対する中国の影響力はもっと強いと考えた方がよい」と警鐘を鳴らしているという。

これは、実はヒシヒシと感じている。基本的には「自由を守れ!」であり、「中国の覇権主義には気をつけるべき」なのですが、既に国際情勢というか国際環境が抜き差しならない事になっているというのが実感でしょうか。既に中国の存在は軽々に論じる事はできないところまで大きくなっており、オバマ政権の前半の段階で「TOO LATE, TOO BIG」というフレーズが何度も使用されていた気がする。日本の場合は尖閣問題が絡んでいるので、米中緊張問題に対しても、当のホワイトハウスがどこまで中国と対峙する気があるのかを冷静に見定めることもなく、「アメリカをバックに着けて、中国を懲らしめるべし」に傾斜してしまっているのかなと感じる論陣を目にする機会が多いんですね。そういう勇ましい言説というのは一定の人気を集めてしまうものなのだ。

しかし、実際問題、深掘りしてみると、米中の対立は予断を許さない状況にあるが、では翻って、中国を挑発しているトランプ政権が、あの発言のままに、引金を引く可能性があるのかというと、これは冷静に考えれば考えるほど、実は低い。いわゆるディールだし、プロレスのマイクパフォーマンスような挑発を、大統領選挙を踏まえて発信しているに過ぎないと思われる節がある。その可能性が高い。

保守系の論客にも2系統あり、親米追従論のケースでは何の疑いもなくファーウェイやティックトックとやらを悪者だと捉えて発言している。しかし、そのデータを国家や企業、もしくは情報機関が抜いてしまうリスクがあるというのはフェイスブック社も同じであるという事に言及していないんですね。幸い、そこそこ重厚な論客は、それに言及している。池上彰さんも、まぁ、言及していたのかな。別に政治スタンスが親中だから、そのように言っているのではなく、それが事実だから、そう言っているのに、それを理解しようとしない威勢頼みの親米追従論の台頭にいは、特に、今の時期は注意すべきだと思う。

これはどういう事が起こっているのか?

◆『「米中冷戦」時代はこうして生き延びよ』(『ニューズウィーク日本版』河東哲夫氏)の主旨が要約されていますが、単刀直入に言えば、現在、起こっている事とは、アメリカが同盟諸国の信頼と尊敬を失っている過程の途上にあるという。そして次のように指摘されいたらしい。

トランプ大統領の中国たたきは選挙目的に過ぎず、えげつなさは中国とさほど違わないと批判。ただ、中国も世界との付き合い方を知らず、硬直した官僚主義なので〜以下略〜

という見解を示している。

◆「いまこそ五族協和の精神を思い出せ」(『Voice』片山杜秀氏)の片山氏は提言として「日本は棲み分けの世界を目指せ」としているという。その上で、片山氏は、

日本は一国と極端に仲良くし過ぎず、表では協和の精神を掲げつつ、裏では権謀術数を尽くすリアリズムで生き延びるよう――という主旨らしい。

まぁ、どういう事かというと、アメリカによる一強時代は歴史の転換期に差し掛かっており、基本的には終焉に向かおうとしている。中国やインドといった新興勢力を抜きにして世界を語れなくなってきているという事でしょう。

この記事の脇には、たびたび、引用している佐伯啓思さんの『「歴史の危機」と安倍政権の限界』が掲載されていますが、そこでも

アメリカ中心の世界秩序も動揺し、米中関係の将来も不透明である。世界中が「冷戦後」のその次の時代の価値観を模索している。だがその姿はまだ見えてこない。

という国際情勢の認識を示している。

中国が覇権主義的な動きを拡大しているのは、それが可能になったからそうしているのであり、つまりは、米国を筆頭に、旧西側陣営による牽制が利かなくなっている、これが現在起こっている世界情勢だという。

「アメリカと同盟を強化して中国に当たればいい」という親米保守の安定論が、実は徐々に通用しなくなってきている可能性が高く、「米中両国の間で均衡をとって」という考え方への転換期に日本も差し掛かっているという事のような気がしますけど。言葉で言うは易しですが、言わんとしていることは、何かのイデオロギーなどを論拠にベッタリとか一辺倒のような外交姿勢は難しくなってきており、「兎に角、どうにかこうにか生き抜きゃならねぇぞ。その為にゃ、日本みたいな小国は権謀術数も弄さないと厳しくなるべなぁ」かな。
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ぱらぱらと週刊文春8月27日号をめくっていて、どうでもいい事に、他人(文筆家・吉川浩満さん)の読書日記に目を通して、あれこれと思案する。(「私の読書日記」という連載のことです。)

そこには一冊の書籍の示した内容が述べられている。全米で千人の被験者を集めて行われた実験として、「スキンクリームの効能についての統計」と「銃規制問題を前提としての犯罪統計」という架空の課題を出して、その推論に係る認知能力の偏りを調べたものだという。どちらもデータとして提示された数字は、数字そのものも並び方も一緒にしてあったが、被験者は銃規制の課題よりもスキンクリームの課題の方に対して、有意に正しい回答が行われた――というもの。

その実験から判明した事とは、ヒトの認知能力は、さほど関心もないスキンクリームの効能については冷静かつ合理的に取り組み、提示されたデータに対して正しい回答に行き着いたが、一方の銃規制のような政治問題が絡む問題になると、何某かの熱意が作用し、統計的に有意な回答をできなくなったというもの。しかも、興味深い事に、数学的な能力の高い者、分析的思考の持ち主ほど、正確に回答できなかったという実験結果になったのという。

なんでもターリ・シャーロット著『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社)という著書の内容らしい。

そして、その書評の眼目も次の着色文字にある。

この実験結果は、「自分勝手な推論は知的でない人の特性だ」という私たちの思い込みを打ち砕く。

その意見に賛成でもないし、反対でもない。そんな事なら推測がつくところもあるとも言えるし、いやはや、それは、まったくその通りだとも思う。

何故かというと、認知能力には感情的になるかそうではないかによって差異がある事は、他人を観察していれば分かりますやね。冷静であるべきところ、興奮してしまっている人は、大体、アテにならない。激してしまっている時点で、負けている。他方、数学的能力は或る種の攻撃性とも正比例するような関係している可能性があって、必ずしも常に怜悧に、冷静に数学的能力を発揮してくれるとは限らないものだよなって考えるから。

そこで非常に重要な事が指摘されているというのは、ただただ、邪心なく、正確に物事を認識せよ、これが大前提だというのは、意外と難しいものなのだ。そんな心構えみたいな訓示、バカバカしくって、と考えているのが通常のオトナなので、邪な何かを捨てるというプロセスを省いてしまう。自分は、相応に賢いから、感情に左右されることなんてないと、そこから慢心が既にスタートしてしまう。で、これ、ホントにヒトというのは慢心する動物だから、意外と難しいのだ。感情は邪魔。むしろ、碌に関心もないスキンクリームの効能に関しての方が冷静に判断できるという訳だ。

また、そういった事情があるから「意外と他人はアテにならないよね」となる。何かに左右されることなく、中立的、中観、客観的に物事を認知することが、案外、難しい事に気付く。

いじめ問題があったとして、その意見を聞いていたとして、色々と頭をよぎる。「いじめられた方には問題はなかったのだろうか?」とは当然に脳裡をよぎる事柄であるが、それを言い出してしまうと感情的攻撃に晒されてしまう。セカンドレイプという言葉も似た構造を持っている。そういう邪心を全て捨てて、物事を見ないことには正確に物事を認識する事はできない。ネガティブな材料であっても、当然、そういう事柄が影響して、その事態が発生したのが事実なのでしょう。だから、そういう意味では残酷でもある。しかし、そういうプロセスを経ない限りは物事を認識できませんやね。変なカタチで、事実関係にフタをして閉ざされてしまうと、断片で物事を推し量ることなってしまい、そう規制する体系へと誘導されてしまう。

何かしら鼻につく行動があったので、いじめの標的にされたのか、まったく、そうでもないのに標的にされたのか、その部分から既に差がついてしまう。勿論、他人を傷つけないような配慮はあってしかるべきですが、殊更、問題が重要であれば重要であるほど、そうした細部までもを掘り下げておく必要性がある。どちらかといえば、第三者的に、つまり、なまじ感情を移入しない方が物事は正確に理解できる可能性が高いのだ。そのプロセスを経た上で物事を認識して、その上で意見を形成すればいい。このプロセスは非情のようにも思えるが、それでいて、分かっている気になって物事を認識して断罪する態度よりも、遥かに誠実な態度だ。誠実であるが故に、責任を意識しているが故に、それを徹底しているのだ。裏返せば、碌に事実の吟味をすることもなく断罪する態度の方が遥かに無責任である。なので、基本的に正義なんてものを軽々には掲げるべきではないし、また、軽々に他者を罰するものでもない。うーん、言うなれば、無責任を装って、真の自己の責任を貫徹する、かな。

いい人ぶったって、仕方がない。いい人を演じても疲れるだけだし、それで報われることもない。勿論、故意に悪人ぶる必要性もない。これが中観でしょう。しかし、改めて考えてみても、意外と難しいのが分かる。ヒトは感情移入し易い生き物なのだ。


土曜日の午前中に、NHK総合で「フェイク・バスターズ」なる番組を断片的に視聴していたら、宇野常寛さんが出演されており、そこでネット規制について意見を述べられていた。私は宇野さんに大賛成でした。SNSが不適切な書き込みをチェックして削除すべきだという意見こそが、最も危険であるだろうという意見でした。しかし、この問題、厄介な事に「規制すべき」が主流になってしまっているようにも見える。別に高尚な次元で「言論の自由」を語るのではなく、SNSの運営が適切なカキコミと不適切なカキコミとを判断させ、更に規制させる権限を与えてしまう事が最悪のシナリオであろうことは、高尚な次元ではなくても直観できますやね。それをやられてしまったら、正義は硬直化し、固定されてしまう。完全ポリコレ支配の世界にされてしまう。同番組では、宇野さんに続けてIT評論家氏も、そう展開してくれたので溜飲が下がる思いでしたが、なんでもかんでも罰則付きの規制を課すのような発想をしている論者が増え、それが主流になっている事に危機感がある。

香港に於ける言論弾圧は愚かである。法律で規制するというのが如何に危険であるかというのは、それで気付けそうなものですが、案外、世の中というのは、そうなっておらず、習近平政権による香港への言論弾圧は許しがたいが、一方で法治主義による罰則の強化は避けられない、悪法もまた法なりという二律背反を背負っている。ひとえに法治主義は絶対に正しいと思い込んでしまっている事になるが、実は、それを逆手にとっているのが習近平政権でもある。違法者を取り締まって何が悪いのだという口実にできてしまう訳ですね。自由主義諸国による法治主義は正しいのか? ホントはそういう訳でもない。歴史を検証してみれば、世の中のトレンドなんてデタラメですな。奴隷貿易をしていても罪悪感なんて感じなかっただろうし、植民地の何が悪いんだっていう常識だった訳だし。案外、デタラメをやってきているものだったりする。ヒトというのは謙虚さを見失うんですね。

幸徳秋水の文章に目を通していたら「余は流行を憎む!」なんて記してあったけど、確かに正鵠を射ているようにみえましたかねぇ。流行というのは要は、単なる同調であり、空気であり、骨を持っていない。掘り下げて、帰納法で思考して、咀嚼して言葉として組み立てて説明するというプロセスを、流行に乗っているというだけで一刀両断できてしまうものなんですよね。理由は、「今、流行っているから」が全て。しかし、実際に世界は、それで出来てしまっている。

なので、現在、テレビで何かと主流になっているように見える「法律によって罰則をつけて規制し、その代わりに補償すべき」のような、一見すると洗練された法治主義者の弁というのは、「けっ」と思う。これは、お利口さんが過ぎるの意です。現実というのは、そんなに単純ではないし、それをすればするほど、世の中は殺伐とする。これはコンプライアンスの遵守、その徹底が叫ばれ出してから、日本社会そのものが息苦しくなった事とも関係している。「けっ」なんです。物事の細部なんて現場の当事者間で発生しているのだから、不完全な法律みたいなものをつくられてしまっては迷惑千万、そこから日本の迷走が始まったというのが実際であろうと思う。

「頑張れって言うな!」というのであれば、勝手にするがいいやね。だって、それが唯一の回答でしょう? せいぜい、「気に障ったなら謝るよ、頑張る必要性はないよ。常套句として発しただけだから」で、オシマイにするかなぁ。わざわざ、本気で謝罪する必要性なんてないし、デリカシーに欠けているというのであれば、「頑張れって言うな!」という態度にも同等以上のデリカシー欠如が有るのだから、どのみち相殺できている。中立的な関係というのは、そういうものだと考える。

それこそ、それで謝罪してしまえば、著しくバランスを欠くことになる。しかし、現代社会では、或る種のポリコレ的な言論がマフィアのように幅を利かせているから、「頑張れって言うな!」と言われたら謝罪をしなきゃならない空気になっている。しかし、もう、その人とは同等の関係性は成立しない。そういう人間なんだなって見下さざるを得ない。おそらく、本心から発せられている言葉だろうから、尚更に、そうなってしまう。しかし、そんなのは、ホントは自分主義でしょ? 気遣ってくれている者に対して、「うるさい、黙れ」と暴言で応じているのが、このコミュニケーションの一連の構造であって。

相手を屈服させる為なら、言葉尻を捕まえ、揚げ足をとり、相手の真意を酌もうとする努力も放棄し、攻撃的になる。まぁ、攻撃的になるという態度が理性や冷静さを欠いているのだけれども、そのように仕掛けられてしまう世の中になったのだ。邪(よこしま)の塊と化す。そういう邪な人と対峙するのは、気苦労するから真剣になるだけ、労力の無駄となる。聞く耳を持たない人には、何を言ってもムダ。己の不徹底に気づく謙虚さがあれば、そもそも他者に対して慇懃な態度、邪な態度は取らない筈なんですね。なので、もう、これで全て完結する。そもそも、冷静になれない人は、いつも同じ事を繰り返しているだけだったりするものなのだ。きっと、反省なんて、おそらく一生しないでしょう。考えているのは目の前の相手に勝利すること、それだけ。そういう人は、結構、多いのが世の中でもある。「恥知らず」が臆面もなく、大手を振って、これみよがしに分かり易いレベルの善人を演じ出して調子に乗っている――というのが現代社会でしょう。

この濁世を生き抜くには、無能であればあるほど、直感的に物事を見極めなければならない。並べられている理屈は、予め用意された理屈であり、掘り下げていった場合に、これでもかというレベルでの正論でもない。トロッコ問題が好例でしょうけど、あれを正義と主張されても困る。到底、承服できない。勝手な功利主義を押し付けられても迷惑なだけなのだ。我が身に振り替えたとき、死なない予定だったところへきて、リベラリストの報じるところ正義の判断によって殺されたなら、「てめぇ、余計な事をしやがって! 孫の代まで呪ってやるからな!」と怒ったり恨んだりするのが日本人だし、ヒトの自然な感情というものだ。

そういえば、徹底した無神論にして唯物論でもあっただろう日本赤軍の話で、ハイジャック機の選定の際、実は、ひょっとしたら政治家は全くの第三者である乗客しか搭乗していない旅客機をハイジャックしても要求に応じない可能性があるとして、ハイジャック機の選定には政府要人の関係者が搭乗している便を狙ってハイジャックしたという。そんなことはないさ、国民の生命を政治家を守るものだと考えたいところですが、確かにギリギリまで切り詰めた場合、そういう部分にまで計算が及ぶものらしい。日本の政治家が頭が上がらないであろう某国の大臣クラスの政治家、その家族が搭乗している旅客機を狙ってハイジャックすれば、成功率はグンと上がる訳ですね。唯物主義を徹底すれば、そうなる。乗客の命を重視するだろうという人道主義は機能しない可能性がある。絶対に機能するとすれば、当事者か、その関係者を人質にしてしまうしかない。

黒澤明の映画「天国と地獄」でも社長に対して、その社長の息子の友人が誘拐されて、その社長が身代金を払うのか払わないのかという問いがありましたが、あれは「キングの身代金」と呼ばれる問題ですね。87分署シリーズ。劇中の社長は、他人の子の為に身代金を用意したが、おそらく、ホンモノの唯物的合理主義が基盤になった場合、身代金なんて出さない可能性がある。それが合理主義に支配された殺し合いの真理でしょう。羊飼いの少年に軍事機密作戦を知られたら、「任務遂行の邪魔になるので可哀想だが殺すしかない」と思考してしまうのが軍事である。「他人の子が誘拐されて身代金を要求しているって? わしゃ、知らん。わしゃ、払わんぞ」が究極的に合理的な姿でしょう。勿論、そういう社会を標榜すべきではないものの、難しいといえば難しい。


ヒトが物事を判断する場合の正否というのは、実際には、後から理屈をつけたりするのがヒトであり、実際にはヒトの認知能力や判断には怜悧な思考は貫徹されておらず、感情に左右された意見に後付けで理屈をつけていたりもするのがヒトの思考の真実かも知れず。

思えば、自分に自信がない者、バカならバカであるほど、自己防衛の為に直感を利かせる必要性がある訳ですね。理屈ではなく、損か得かという、その直感を頼りにせざるを得ない。相手に拠っては平気でダマそうとしてくる者も少なくない世の中だから、手放しで相手を信用していたら痛い目に遭ってしまう。或る程度は、疑わざるを得ず、十全に検証するのは実際には難しいのだから直感に頼らざるを得ない。自分が賢い気になってしまった時にこそ、足元を掬われてしまう。確かに知ったかぶりをした時に、その隙に付け込まれたりするのが実際だから、見栄を張る事なく、知らない事は知らないという態度でいいのでしょう。

結局、ヒトの認知能力とは、その能力の高低とは関係なく、或る程度の思考能力があれば、後はその者自身が自分の思い込みを合理化してしまうらしい。正否のようなものは、手前味噌に合理化する能力が高い人ほど、それをやってしまうらしい、そういう話らしいけど、合点しますかねぇ。

実際問題、これみよがしに周囲に対していい人アピールをする人って、大体、裏がありますな。そういう胡散臭さのようなものに対しては、直感的に犬や猫みたいに嗅ぎ分けないと、生き残れないから、そうなっているのではないだろか。きれいごとを臆面もなく、主張できる人というのは、あんまり信用しませんかねぇ。直ぐに矛盾を見つけられてしまうのが犲尊櫚瓩箸いΔ發里任靴腓Δらね。

一見、或いは耳にした限りでは、法治主義者の弁舌は魅力的である。しかし、実際というのは、彼等が制度設計したものとは全く異なる様相となる。結局、罰則と補償とのパッケージ商売をやっているだけ。やってもロクな事にはならないと予想しますかねぇ。そういうルールで縛っている限りは、人間の内在しているモラルとか道徳とか倫理には働きかけらない。ノールールの中で、初めてヒトは道徳やモラルを意識し、自覚する。法治主義というのは単純なアメとムチの論理でしかなく、どんどん人心を劣化させてゆく。

で、他人が作った正義論を押し付けられる事が昨今では珍しくなくなってしまった。迷惑千万ですが、もう、これがアメリカを筆頭にして現行世界の限界であり、分断現象の根底にあるものだと感じる。これは、どう考えても簡単には解決しない。「自分の価値観を強引に他人に押し付けることは正義ではないな」という謙虚さに欧米人が到達するには、数百年はかかるような気がする。

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