どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願するブログ。リンクなど御自由にどうぞ。

カテゴリ: 辛口評論

週刊文春12月19日号では、とうとう首相補佐官と不倫疑惑にある厚労省大臣官房審議官との不倫デートを報じました。なんと、6ページも割いている。単なる不倫であれば、こんなに大きな記事にはならないのですが、和泉洋人首相補佐官と大坪寛子審議官は、iPS細胞ストック製造事業を公益財団法人として独立させようとしている山中伸弥教授に対して、本年8月9日、

「法人化した場合は(これまで年間約10億円支出してきたが)国費を充当しない」

と発言したことは、地味にニュースになっていました。が、その出来事のあった直後、補佐官と審議官とは、京都・貴船神社で腕を組んでデートしている現場と、12月7日に一緒に東京・丸ビルで仲良くデートしている現場との写真と、凡その会話まで再現して報じている。最低でも4ヶ月以上、この問題を追っていた週刊文春、その執念が現れた記事になっていました。

言ってしまえば不倫そのものなんて、どうだっていい。問題は、このテイタラクそのものにある。実際の経緯からすると、山中伸弥教授が法人化を目指している京都大学iPS細胞研究所への研究開発費は継続される事が既に決定しているが、その騒動を起こした8月9日、和泉補佐官と大坪補佐官は京都で一緒に完全にデートをしていたという事が一つ。

週刊文春もいやらしいですなぁ…。つまり、山中伸弥教授に「国費は充当しません」と言った後、そのまま、二人の京都デートを撮っていたのだ。どこで何を買って、何を注文していた、まで。

土産物を買い、喫茶店では66歳の男が「あ〜ん」とばかりに52歳の女の口にかき氷を食べさせ、恋愛成就の神社へ行って、嗚呼、高級官僚、嗚呼、上級国民。えげつないことに、「あ〜ん」しているところまで丸囲いの写真が掲載されている。

その後も、この和泉補佐官と大坪審議官の不倫をマークし続け、8月31日の銀座の蕎麦屋での手握りデート、そして12月7日に丸ビルで和泉氏(66歳)が大坪氏(52歳)の頭の上に顎を乗せて背後からハグしたという話まで、必ずしも羨ましくもないであろう、不思議な不倫記事になっている。

それにしても、この徹底取材ぶり、久々に週刊文春の怖さを垣間見た気がする。

不倫は不倫で、勝手にしてくれという話でもあるが、この記事に6ページを割く意味というのは、長期政権化によって、異常事態が発生している事を如実に表わしているからでしょう。「桜を見る会」に係る話で疑いが出たが、森友・加計問題からずーっと継続されたまま放置されている、いわゆる「アベちゃん政権」の内幕の暴露になっている。

単刀直入に言えば、この和泉洋人首相補佐官は首相補佐官として7年目であり、もう、周囲は安倍首相の覚え愛でたい和泉洋人補佐官に萎縮している。そして、その和泉洋人補佐官の愛人だからという理由で、大坪審議官が和泉洋人補佐官の虎の威を借りるようにして、医療関連の予算配分や関係各所の人事に口を出すようにまでなっているという、かなり、深刻な内部腐敗が描かれている。

ここから着色文字で、文春から引用します。

安倍政権の長期化に伴い、官邸の権力は強大化した。そこでは、官邸主導の御旗のもと、安倍首相に近い一握りの人間が「総理のご意向」を振りかざし、行政を歪めた疑いが何度となく浮上してきた。その最たるものがモリカケ問題だ。和泉氏と大坪氏の関係においても、牋打楡権の縮図瓩垣間見える。

「大坪氏の常套句は『補佐官が仰っているから』。今年七月、大坪氏は厚労省大臣官房審議官に就任するなどスピード出世を果たしますが、昇進するにつれ、医療関連の予算配分や関係各所の人事などに口を出すようになった。象徴的なのが、今年九月の『日本医療研究開発機構』(AMED)の人事です」(前出・厚労省関係者)

AMEDは、文科省、経産省、厚労省など各省庁から医療関係の補助金を集約して、各研究機関などに配分する医療分野の司令塔だ。理事長は前慶応大学医学部長の末松誠氏。約三百人のスタッフには大学の研究者のほか、省庁からも職員が配置されている。

「そのAMEDで統括役を務めていた厚労省出身の泉洋子氏が、今年九月末の人事で近畿厚生局長に異動になったのです。後任の統括役には、大坪氏と近しい人物が充てられた。通常のプロセスでは、厚労省の医系技官トップである医務技官から理事長にまず打診をし、理事長が受け入れる意向を示した段階で、改めて審議官が人事案を持参します。しかし泉氏の人事では、九月初旬に大坪氏がいきなり末松理事長に人事案を伝えたのです。末松理事長は反対しましたが、大坪氏は『これは通告です』と言い放ち、有無を言わさぬ姿勢だったそうです」(同前)

「補佐官に代わって私が言う」とばかりに関係各所を牛耳る大坪氏。今回のiPS細胞ストック事業の予算削減案も、複数の関係者が「和泉氏ではなく、大坪氏の仕掛けだ」と口を揃える。

「大坪氏は和泉氏の威光を最大限に生かし、ノーベル賞のスター学者の事業にもメスを入れることで、自らの力を誇示しようとしたのではと囁かれています。実際、八月九日には和泉氏が山中氏に示した予算削減に関する資料の原案は、大坪氏が作成したものでした」(同前)

八月末には、専門誌「薬経バイオ」が、八月九日の面談で大坪氏が「iPS細胞への補助金なんて、私の一存でどうにでもなる」と恫喝したと報じ、波紋を広げていた。



実は、つい先日、前原喜平氏に係る読売新聞提灯記事騒動について語る中で、あの記事を掲載する前段階で、おかしな出来事があった更に隠されていた事に気付いた。当時、前原喜平氏は文科事務次官であった訳ですが、文科省の後輩を通して読売新聞記者から奇妙な、脅しを受けていた。その文言は、

「和泉(洋人首相補佐官)さんが話をしたいといったら、応じる気はあるか?」

であった訳ですね。で、それを前原氏が無視したので、読売新聞が連載漫画「コボちゃん」の脇に相応に大きな記事で前原喜平氏の「出会い系バー通い」の記事を掲載した。(仮に、前原喜平文科次官が和泉洋人首相補佐官に会いに行ったら、その場でシメてやろうとしていたって事だろうね。さながら反社だ。)

しかし、後に週刊文春に、その出会い系バーで前原氏と会っていた女性が登場、出会い系バー通いは、援助交際うんぬんとか性風俗うんぬんというものではなかった。ホントは読売新聞政治部が、首相官邸に忖度し、怪文書を出されてはならぬとばかりに水面下で、前原喜平氏に脅迫的行為をしていた疑いが強い。実際に、そのように作用していたのだから、取りようによっては、立派な恫喝であり、ジャーナリズムとしては世紀の大失態を犯した。事実の揉み消しに加担した形で動いていた事が発覚した。しかも読売新聞社内にしても政治部が、わざわざ社会部の社会面に「出会い系バー」の記事を強引に捩じ込んだというのが実相であった。

で、今回のケースでも、山中教授に「来年から国費は出しません」と告げに行った本年8月9日のケースでも、この和泉首相補佐官が文科省に対して「文科省の人間は同行しなくていい」旨、連絡していたという。つまり、予め、大坪氏と京都でデートの予定だったので、余計な人間に同行されないようにしていたって事ですワな。

読売新聞のように「官邸主導」と言えば聞こえはいいが、実際に起こっている事はモリカケ問題から一貫して「公私混同」による混乱ですな。しかも、狡猾なことに隠蔽を得意技にしている。国会を空転させているのは、実は無能な野党にのみ問題があるのではなく、常に隠蔽したり、バレバレの嘘でも強弁を続ける官邸の態度にこそ、大きな責任があると捉えるべきではないのか。

安倍政権というのは、単純に閣僚の人事が「お友達内閣」というだけではなく、実は、忖度が起こり易い構造を持っている。それは「内閣官房参与」というポストも歴代最多の15名となっており、この内閣官房参与は首相の一存で任命できて、しかも内閣府の本庁舎に部屋とデスクが用意されているので、いわば「安倍総理の分身」として作用する。この内閣官房参与は各省庁の幹部ではなく一般公務員扱いだが、総理の分身として作用するから思いの外、大きな権限を持っているという。忖度せざるを得ない訳だ。官邸主導のカラクリとはコレだ。

そうして次から次へと、忖度が生まれ、ゴマすりが横行し、虎の威を借るなんとやらが跋扈する伏魔殿になっていると考えれば、少し前に火を噴いた「桜を見る会」に於ける、巨大シュレッダーで名簿が細断された理由や、データも早々に廃棄したので復元は不可能、バックアップも存在してないという異常事態の理由も想像がつくところでしょう。

総理がとか、閣僚がとか、政権そのものが、というよりも、実は「政府そのもの」が、デタラメになってしまったって事だろうなぁ。



週刊文春は、「和泉・大坪氏による山中教授への恫喝があった」というニュアンスで報じている。山中教授を直撃している。

――その場で恫喝発言はあったのですか?

「発言の詳細については、水かけ論になってしまうと思いますので」


と、山中教授は直接的な言及を避けた。しかし、8月9日の異常なシチュエーションは浮き彫りにされている。

8月2日の時点では山中教授が東京で和泉補佐官の元へ足を運んで、打ち合わせをした。その際、和泉補佐官は「大坪さんに任せているから、大坪さんを研究所に行かせます」という返答であった。この文脈から、山中教授にしても8月9日に大坪寛子審議官が京都へ来るものと思っていたが、この9日になってみると大坪審議官に和泉補佐官も同伴していた。休暇をとっての不倫旅行ついでに、京都大学iPS細胞研究所へ来たという事だ。

そして、普段は、山中教授はお金の話だから記録を取る為に議事録をつくることにしていたが、この9日、カップルでやってきた和泉補佐官と大坪審議官から「一人だけと話したい」という申し出があったので、山中教授、和泉補佐官、大坪審議官という3人だけの室内となり、その場で、国費の打ち切りを切り出したという。

山中伸弥教授が「税金を自分たちの研究に使用させてもらう話だから」、と議事録を採るよう心掛けていたという、そうした真摯な姿勢であったのに対して、和泉首相補佐官らの不倫デートがてらに研究所に立ち寄ってみましたというオラオラな姿勢というのが、一連の問題を象徴している。誠実さや真摯な態度の著しい欠如、末期的な症状だ。全人格的な腐敗にして、組織的な腐敗なんだろうなって思う。

資料を出せだってよ、うっぜぇなぁ。早く、早くシュレッダーにブチこめっ!

隠せ、隠せ、バレたら負けだっ!

はい、証拠なんてありませーんっ!

野党のばかちん議員の言う事なんて、ワシらは聴きませーんっ! 知りませーんっ!

っていう精神なんでしょうねぇ。彼等の高額な給料にしたって自民党から出ているのではなく、税金から出ているのに。

桑田佳祐さんの「明日へのマーチ」という楽曲に《♪明日への、フレー、フレー》という歌詞があって、何故だかその箇所を《♪明日への、レッセフェール》と聴き間違えてしまう。

レッセフェール? 

いやなんだっけかな、レッセフェールって…。なんだか物凄く重要なカタカナ語だったような気がする…。少なくとも、この語感を知っているからこそ、聴き間違えているのだ。


ブリタニカ国際大百科で、【レッセフェール】を引くと、それは日本語では【自由放任主義】であり、フランス語だと【laissez-faire】だという。

解説…自由に個人の利益を追求させ、競争させることが社会全体の利益の増進に役立つという主張。A.スミスは『国富論』において、フェアプレイの原則に基づく自由競争こそ、見えざる手による社会の繁栄をもたらすとし、一切の保護制度を廃止すべきであると主張した。このような主張は独占的商業資本が王権と結びついてとった貿易の独占とそれによる金銀の蓄積を主目的とした重商主義に対抗するものであったが、同時に国際的な自由貿易を求める運動にも結びついていった。

ああ、そうだっけ…確かに重要なカタカナ語であったなぁ…。と、思い起こすと同時に、現状のヤバさを思う。それぞれの国は、国家資本主義か帝国主義かという方向へハンドルを切っており、市場原理に到っては「見えざる神の手」というよりも「見えざるヒトの手」によって動かされている。それは人為的に行われている事なのだけれども、あたかも「神の手」のように見える。少なくとも、アダム・スミスの頃は、国家による制約などとは無関係に各個人が経済活動をしている中で、国の富は最大化されると考えていたワケですね。

しかし、現状ともなるとどうか? 微妙に合っているが微妙に違っている。基本的な部分は大きく違ってしまっており、国際政治の舞台でパワーポリティクスが幅を利かせている現在の状況は、フェアプレイの自由競争とは認めがたく、むしろ、国益の最大化を各国が画策するあまり、利益がバッティングし、それぞれの国が、どうも帝国主義的な道へ向かってしまっている訳ですね。国家資本主義なのか国家社会主義なのか、その呼称にも迷うところがありますが、例えばレーニンの場合、「資本主義が独占資本の段階に入った時にその最高形態としての帝国主義に転化する」と規定していたという。それに似た状況になっている事は間違いない。米国も中国も。


さて、11月10日の読売新聞12面(「言論」面)にはブレンダン・シムズ英ケンブリッジ大教授が登場し、「現代に潜むヒトラーの影」なる記事が掲載された。シムズ教授は歴史学の教授で、今秋、歴史書としての『ヒトラー』を米英で発刊し、話題になっている歴史家であるという。

ヒトラーの定説は覆されている。従来の定説ではヒトラーが最も脅威と感じていたものはソ連及び共産主義であったかのように展開されているが、このシムズ教授は従来の定説を否定し、ヒトラーが最も怖れていたものは、米英両国であり、国際金融資本であったとする。その米英両国及び国際金融資本に対抗する為に、全体主義を採ったのがナチスであるというのが、凡そ、シムズ教授の見解として語られている。

従来の定説を覆した事になるのかどうか微妙ですが、きっと歴史学のアカデミックな部分では、そういう解釈であったのかも知れない。しかし、このシムズ教授は、ヒトラーを再評価してみせたのだ。

ナポレオンを別にして、ヒトラーは近代以降、最も際立った為政者と言えます。加えて、ナチスは行進、音楽、映画などに意匠も凝らした。テレビ、映画向きの題材です。

と再評価してみせたという。

また、別の読売新聞の記事では、従来はヒトラーやナチスに対しては「語る事も問題視される何か」という具合の、悪魔的な解釈しかしていなかった事にも言及されていたかな。ベルリンの壁崩壊30周年記念の頃の記事ですけど。

で、シムズ教授のナチスの話も、我々からすると、そんなに斬新な話でもないかも知れない。米英両国と国際金融資本を怖れたから、全体主義で対抗しようとしたのだし、国際金融資本と対決する中で反ユダヤ思想に傾斜していったと、ただただ、淡々と歴史を見つることができる。米英に対抗する中で「生存圏」という構想が生まれ、実際に連合国と枢軸国との対立構図は「持つもの」と「持たざるもの」との対立構図であった事を承認している。そのまんまですな。善とか悪とか、そういう余計な観念を歴史に持ち込んでしまうから、おかしな事になるのであり、真実の中には善も悪も共存している。

そして、シムズ教授はグローバル資本主義への批判が高まり、先鋭化した部分では反ユダヤ主義がポピュリストの言説として台頭していると語っている。それを以て「ヒトラーの影」と表現し、シムズ教授の立場からすると、「私たちは不断にヒトラーを打ち負かす必要があるのです」とし、更には、次のように主張している。

ドイツは経済大国ですが、軍事小国です。89年の東西冷戦崩壊後、軍事力を更に落としている。軍事的な役割を担うことに極めて臆病です。ここにもヒトラーの影が差しています。ためらう気持ちは理解できますが、欧州の安全保障上、ドイツの振る舞いは問題です。

とあるから、シムズ教授の見解としては、「ヒトラーを復活させない為に、ドイツは軍事力を増強すべきだ」的な方向性を向いている。ん。しかし、そのように舵を切ると、国際情勢ってのは…。



ヤフーとLINEとが合併に向けての合意に達した事を正式発表。「なんじゃ、これは!」と思わせる大型な合併案件でしたが、Amazon社に対抗しうる何かが模索されての、ここのところのソフトバンク・グループの動きに気付かされる。黙っていれば、Amazonにシェアを奪われてしまう。他方、実は中国ではアリババ・グループが、Amazonの猛威を一先ず斥けたとされている。

アリババ・グループに拠れば、同社の戦略は従来の先進国が40〜50年間かかかった部分を10年間で成し遂げたという。特に、流通というものの形態、その発展プロセスを大幅に省略して、現在のアリババ・グループがあるという。米国や日本には百貨店、スーパーストア、コンビニなどの豊富な販路が既に出来上がっていたが、中国には、強靭な流通界の王者はなく、確かに、一気呵成に、それらのプロセスを吹っ飛ばして、現在のITによる経済王国をつくりあげており、何故か完全監視社会への杞憂も希薄なままに、そのビジネスを確立してしまったワケですね。現在もクラウドや決済に係る技術が争われている。

そして孫正義さんは、アリババ・グループの約30%ほどの株式を持っていたとされるが、昨年、一部の売却し、現在は、約27%ほどの株式を保有しているという。孫さんは何をしようとしているのかというと、ここに来て、スピードを急いでいるように見える。最近だけでもZOZOを買収し、LINEをも取り込み、それに先駆けて行われているペイペイのバラマキも重くのしかかっているが、それでもシェアを抑えてしまいたいと躍起になっている訳ですね。ソフトバンクグループ全体だと、どうも稼ぎ頭になっているのはケータイ事業としてのソフトバンクであり、それ以外は稼いでいるという感じでもない。

次なるAIを擁した新しいITが人々を幸福にする時代が始まるのだというけれど、どうも観測できる事柄は覇権を争っているという事ばかりだったりする。シェアを奪わねば明日はない的な状況にソフトバンクグループあたりでさえ、追い込まれている。個人に何ができようかってレベル。勿論、この巨大企業合併による世界再編の流れ、それには甚大な被害が付き纏うと予測されると、アリババ・グループの元戦略担当の人が、どこかの記事で語っていたかな…。まぁ、そうとしか考えようがない。誰が幸せになるのやら…。

個人的にはZホールディングス株で6千円ほど利益確定するも、その後、買い直し。買い直した結局はマイナス6千円へ。チャラだからいいけど、世界は大変な激動期に入っていそうだなぁ…。

ここのところ、週刊誌が面白くない。週刊文春あたりにしても政治家の醜聞ネタ、ジャニーズの醜聞ネタ、皇室がらみネタ、嫌韓論争ネタ。週刊新潮と比較してどちらかを購入しているというスタイルなのですが週刊新潮も似ている。醜聞とハラスメントがどうのこうのというネタで埋め尽くされている。なので個のライターさんの連載の方が、まだ読物として成立しているよなぁ…という具合。

ホントは政治ネタ、芸能ネタにしても「ゴシップ」なんでしょうねぇ。しかも、もう、その手のゴシップに対してのオドロキがない。さすがに「あの酒井法子、のりピーが覚醒剤? ホントなの? そんな事ってあるの?」ぐらいのニュースバリューがあったと思うんですが、もう、ここ最近のゴシップはどうでもいいんじゃないのって感じてしまう。一昨日、昨日あたりの第四次安倍内閣の人事にしたって、結局は「小泉進次郎」という一人の政治家にフォーカスされていってしまうんですね。

前回に引き続き、文春図書館から、つまり、書評を元ネタにして、その感慨を…。題材となっているのは批評家・綿野恵太さんの著書『「差別はいけない」とみんないうけれど。』が取り上げられている。

着色文字は引用です。

杉田水脈の文章に対しては、LGBT以外の人々も批判の声を上げた。それは「シチズンシップ」の論理に基づいていたと綿野さんは指摘する。自分たちが生きる社会が大切にしてる「差別はいけない」という原則が踏みにじられたことを「市民」としての尊厳を傷つけられたことだと受け止め、批判する論理だ。

「九〇年代ぐらいまでは、差別された当事者だけが反差別の声を上げられる、という「アイデンティティ」の論理が強かったので、当事者以外の人は差別に反対であっても、声を上げづらいところがありました。だから、差別を批判するときには、「少数者」である当事者は力を持たないので、彼らに代わって発言するのだ、というロジックを組み立てていました。しかし、杉田批判は「シチズンシップ」の論理に立って展開されていたので、そのような屈託はほとんどみられませんでした。


ん? そうなのか? カタカナ語が気になりますが、市民意識らしいものが妙に高まって、やたらと正義を振りかざす人が増えたようには感じている。確かに、ゲマインシャフトだのなんだのって社会学の理屈でいくと、そういう事か。

かつては「少数者」や「弱者」が依拠していた「アイデンティティ」の論理は今や日本の在特会や移民排斥を唱えるトランプ支持者を支えている、という指摘に目を啓かされる。

「市場原理や資本の論理とシチズンシップの論理は親和性が高いのでシチズンシップの論理は今後も社会に広がっていくでしょう。でも、その論理の前提となる「市民」は成立しうるのか、という疑問を私は抱いています。トランプ支持者のように経済的な格差などによって、自分たちが「市民」であると実感できない人々もいますし、認知科学は、教育を受け、情報を与えられれば、人間は合理的に判断し、自律した個人として主体的に振る舞う「市民」たりうるという前提を打ち崩しつつあります。万人に高圧的に「市民」になれ、というのでも、システムの設計によって、万人を有無を言わさず「市民」として行動させるのでもない道を考えられるのではないかと思っています」


ああ、私も、強く、そう思う。市民、市民と、のぼせてんじゃねーよぐらいの事を腹の底では思っている。税制を、年金を、社会保障政策を吟味してみろって思う。市民か市民の末端に属しているつもりの連中が、いいようにダマされているよなってホンネでは考えている。

この数日、古代中国思想の話を展開させてきましたが、儒教的な教条による洗脳教育の気持ち悪さにうんざりしている。ここのところのGSOMIA問題噴出後の日韓問題でも「礼儀知らずだ」等の文言が浴びせられていましたが、礼節の前に最低限度の信義を果たしていないというのが酷い。形式的な礼節秩序に固執しているだけで、酷く低次元の感情論が平然と国際問題にされちゃってる。

引用した箇所とも共通するかも知れませんが、自称マイノリティーによる市民意識の過剰な高揚があるよなって思う。明らかに社会から欠けてしまったものは謙虚さであり、謙虚さの欠片もない自己主張の強い人たちが声高に主張して勝利してしまうという混沌にある。正義の大義を得ると、容赦なく他罰に走る。この綿野さんの物言いはオブラートに包まれているが、ホントは直球で分かる話であり、ともすると市民意識は簡単に正義として暴走してしまう。しかも、現在ともなるとアイデンティティの論理が、トランプ支持者を支えている。リベラルは、全ての人々は市民に成り得る、市民になって当たり前だと思考し、そこで市民意識と親和性の高い市場原理・資本主義原理を前面に出してくるが、トランプ支持者の中の怒り、憤激は「市民」なんていう階層ではなく、何某かの政策によって進退を追い込まれている人たちの怒りなのだ。それが不動産王であるトランプ支持でいいのかとはいうと怖さがあるが、社会を打っ壊す威力は絶大だ。もしかしたら自覚もないままに、既成社会の価値観を破壊してしまいたいという衝動がトランプ政権を支えているのではないだろか。

巧く使いワケが出来ないのですが、社会と世間とは異なる。社会とは一定の価値観に拘束される社会であるが、世間とか世間一般というものは社会とイコールではなく、最低限度の拘束力しか持っていない。これを強引に人為的な「これが正しい筈だ。みんな社会の構成員になるべきだ。ほんじゃ自己責任でよろしく」と言い出してしまっているのがリベラル思想が陥った陥穽であろうと思う。市場原理といいながら気付いてみたら、権力という権力、富という富は一極集中の方向性であり、それを批判されると今度は「分配します」という。しかし、そもそも何が価値を生み出して何が価値体系を支えているのか、そこら辺を考えるとねぇ。

評論家の御田寺圭(みたでら・けい)さんが命名した【大きく黒い犬の問題】というワードは、色々と取り扱いが難しさを感じる。取り上げられてたのは、週刊文春9月5日号の橘玲(たちばな・あきら)さんによる『息子という病い』なのですが、先ずは【大きく黒い犬の問題】という名称の説明から――。

捨て犬の保護施設では、毛並みの明るい犬や小型犬は容易に引き取り手が見つかりますが、「大きく黒い犬」はほとんどが殺処分されてしまいます。

大きくて黒い犬というのは、保護施設でも引き取り手がないので殺処分されているという事実があるらしい。うーん、私は犬派ではなく猫派なので犬を飼う事を検討した事もないのですが、もし、どうしてもというのであれば、なんだかんだいって大型犬は避けると思う。色合いはどうかなぁ…。好みの問題だと思いたいところですが、黒犬は避けるか…。できたら、みてくれからして可愛がりようのある犬を選ぶと思う。しかし、もう、この時点で、或る種の理不尽なんですね。その大きな黒い犬とて、そのような色やサイズを自分の意志で選択して生まれてきた訳ではない。偶々、人間様から不人気なサイズと色とで生まれてしまったのだろうから。挙げ句、もらい手がないので殺処分される事になるという。

つまり、「大きく黒い犬の問題」とは、引き受け手がないが為に殺処分されている犬の話である。

では、それは、その犬の話なのかというと、それは全く異なる。これは現代社会の問題、特に男性、特に「非モテ」というワードの問題であるという。

色々と棘のある問題でもあるので、橘玲さんの論旨に沿うと感情的になって反論したくなる気持ちや、感情を沸き立たせる可能性もありますが、先ずは、冷静に、その論旨を見つめるものとして、以下、続きます。ハッキリ言って、身もフタもない話なのですが、直視しないことには始まらない。

婚活サイトのビッグデータで明らかなように、女がモテる要素が「若さ」で、男は「カネ」です。恋愛の基本形はカネとエロスの交換、すなわち売春です。

この「男女の性愛の非対称性」によって、男の場合、社会的・経済的な成功者=「持てる者」は、複数の女から「モテる者」になる一方で、金も権力もない「持たざる者」は、女性の関心を惹くことができず「モテない」のです。これは、ネットスラングでは「モテ/非モテ問題」と呼ばれています。

低所得の男は社会的・経済的に排除され、同時に性愛からも排除されることで、人生を丸ごと否定されてしまいます。ところが、貧困問題が声高に叫ばれる一方で、経済格差が性愛格差に直結することは、これまでタブーとされてきました。


経済力のある男性がモテて、経済力のない男性はモテないという事は、おそらくは世俗的価値観としてはホントは多くの者は薄々、知っている。誰が好き好んで貧乏な男性と付き合いたがるものかという話でもある。しかし、ここで述べられている事は、単なる経済格差ではなく、性愛格差と直結していると指摘している事が目新しい。ごくごく単純に美形男性が美形女性と交際する事になるのではなく、カネのある男性が不特定多数の女性たちから「引く手数多」でモテるのに対して、貧困男性は全くモテようがないというシビアな現実に言及している。それを【性愛格差】という語句を使用して表現しているあたりが、橘玲さんらしい。で、おそらくは、これ、説得力がある話なんですね。ホントの事であろうし、シビアな現実であろうから。吊り合うか、吊り合わないかという尺度を持っているのは、実は世俗の中の価値観であるから、どうにもならない。

また、「カネとエロスの交換である」とか「売春」という言及は非常にドライですが、もう、或る次元では、それを認めざるを得ない。仮に、仮にですよ、かの有名なIT社長がカネも権力もなかったとしたら、ただのチンパンジーみたいなもんじゃんってホントは、あなただって思っているでしょう? ブ男だろうがハゲだろうがデブだろうがチビだろうが、カネさえあれば基本的にはモテるのが現実社会の真の姿であり、美女を射止めるのも言ってしまえば経済的バックボーンを有している人である事は間違いなく、つまり、そういう世の中なのだ。そこは認めざるを得ない。(ここを直視せずに、恋愛は平等であると思考するとたちまちの内に思考が破綻する。ヒント、AKBビジネス。)

男の分断は、日本に限ったことではありません。アメリカでは「非モテ」の男性たちは「インセル(Incel)」と呼ばれます。「Involuntury celibate(自発的禁欲)」の略で、ネット上の自虐的な俗語として急速に広まりました。きっかけは二〇一四年五月に起きた無差別銃撃事件で、犯人のエリオット・ロジャー(当時22歳)は「インセル」を名乗り、自分に関心を持たない女たちへの復讐が目的だと「犯行声明」を発表したのです。この事件以降、アメリカでは自称「インセル」による凶悪事件が立て続けに起きました。これはまさに猗鵐皀討離謄蹈螢坤爿瓩任后

そんな事件報道、ありましたよね。【インセル】という単語は知りませんでしたし、それが広まっているという事も知りませんでしたが、「自分に関心を持たない女たちへの復讐」というクダリは、記憶がある。また、そのインセルが意味するものが【自発的禁欲】であるというのも実は興味深く感じますが、先ずは『息子という病い』の記事に沿って続けます。

で、次の部分が意外に重要である可能性がある。

自由恋愛では、「非モテ」の男性は社会からも性愛からも排除される苦境に追いやられますが、男を「抑圧する側=マジョリティ」と見なす「リベラル」は、これまで「非モテ」の存在を黙殺してきました。LGBTのような「見えやすいマイノリティ」を支援した方が気分がいいからです。

この箇所、特に留意した方がいい。先日、このブログ記事でも触れたばかりですが、ホントの事を言うと、大雑把に中高年男性の賃金だけが伸びていないが、それに対しては完全に黙殺されている。社会保障政策として、ですよ。本年、問題視され、慌ててロスジェネ世代に対してカネをバラまくかのような政策が掲げられましたが、ホントは大変な大失敗をしている。《LGBTのような「見えやすいマイノリティ」を支援した方が気分がいいからです。》は橘さんの文体に挑発的なものを感じ取れるかも知れませんが、リベラルという思想体系の欺瞞に気付いてしまうと、毒づきたくもなるものでしょう。或る時期から、結構な年齢になっても交際経験がない人とか性交渉の経験を持っていない人というのがチラホラと話題になり、米国では「40歳の童貞男」という身もフタもない映画がスマッシュヒットし、日本でも影響を受けたらしい非モテの悲恋を自虐的に描いた創作物が登場していたような感慨がありますが、ホントは馬鹿馬鹿しいほどに、LGBT問題だけが崇高な問題として取り扱われ、非モテ問題は軽んじられてきた訳ですね。

いやいや、女装家であるとか、オカマと呼ばれる人たちがテレビなどで毒舌を吐く事で重宝された反面、非モテはどうかというとイロモノとしてしか扱ってきていない。経済学者の森永卓郎さんが冗談半分自虐半分で展開していたのは確かですが、ホントは黙殺してきたのが事実なんですね。男性の実質賃金に限って言えばオイルショックの頃から上がっておらず、それを「パラサイト・シングル」なる言葉を流行語にした家族社会学者の山田昌弘さんにしても著書の中で指摘したら、無視されたという体験を綴っていたのを記憶している。これは正真正銘、リベラルが黙殺してきた問題なんですね。私が思うに、或る時期から「キモい」と面と向かって発言する事が許されるようになり、一方で、過剰なまでにモラリストである事を強いるような言論に反抗してきたつもり。

(平成30年度版の労働経済白書でも40代の男性を中心に給与所得が月額5〜7万円で減少している事が指摘されているが、これがマスコミに取り上げられたり、政治家が対策に言及する事はない。ついでに言及すると、20代などの若年層で保守化が起こっていると分析されていますが職場に対しての満足度が高いというデータが示されている。ああ、謎が解けてしまったかな。。。)

ホントは酷かったと思う。七夕の頃、やはり、週刊文春に連載されている益田ミリさんの漫画「沢村ん家のこんな毎日(平均年齢60歳)」で、主人公の「ヒトミさん」がレストランで七夕の短冊を渡される話がありました。つまり、その短冊に願い事を書けという事ですが、ヒトミさんには、これといった願い事も見つからない。頭の中で「今日は疲れたから帰りの電車、座れたらいいな…」と思う。それぐらいしか願い事が思い浮かべる事しかないという単身OL「ヒトミさん」の自虐的なほのぼの感を描いた漫画ですが、こういうものがホンネの中のホンネであろうと思う。「市民の声」として声高に掲げられる事はないが、本来的には誰だって「今日は疲れたから電車、座れたらいいな〜」ぐらいには感じる生き物なのだ。勿論、高齢者や妊婦が優先される事が望ましいが、そうした隠れた当たり前をどんどん殺していったのは、背伸びをしたような権利意識の高い人たちとか、意識高い系の人たちで、かなり窮屈なモラルが支配するようになったと思う。


この「息子という病い」の内容が如何にヤバいかは察しがついたのではないだろか。本年、3月、内閣府は40〜64歳のひきこもり状態の人が全国に61万3千人いると発表した。大雑把な統計であろうと予測できますが、その4分の3は男性であるという。この際、特に偏りが大きかったのが団塊ジュニア世代であり、これは同義でロスジェネ世代であった。正社員になれぬまま、年を重ねた人が多い世代であり、言ってしまえば、非正規雇用に甘んじ、そのままであり、時間が経過してみると下の世代では人手不足となり超売り手市場となったので、実は中高年世代の中で社会や仕事から、取り残されてしまった人を多く出している。特に男性の場合は、性愛格差として彼等を襲った可能性もある。

引用します。

ロスジェネ世代は仕事=社会から排除されて孤立しやすいのに加えて、男の場合、「性愛」からも排除されてしまいます。報道によれば、凶悪事件の犯人たちに、妻や恋人などがいた形跡はありません。未婚率の上昇が懸念されていますが、実は男女でかなりの差があります。五十歳時点で一度も結婚したことのない割合は、二〇一五年時点の調査で、女性は一四・一%に対して男性は倍の二三・四%です。

で、この問題、「大きくて黒い犬は、捨てられて、引き取り手も居ない」という。


追記:令和になってから社会を震撼させた事件が幾つかがある訳ですね。令和になって、まだ日も浅いというのに…。一つは登戸事件であり、この登戸事件という園児を切りつけた通り魔事件の犯人は、51歳で、最近はひきこもり状態であったと報じられたのでした。そして元農水次官がゲーム三昧でひきこもり状態、その上に家庭内暴力をふるっていたという長男を刺殺した事件がありましたが、このケースでは刺殺された長男は44歳であった。更に、京都アニメ放火事件の犯人は謎が多いものの、年齢は41歳であった。関西テレビの幹部の息子が手の込んだ交番襲撃事件を起こしましたが、この人物は33歳。必ずしもロスジェネという分類も当て嵌まっていないし、引きこもりも完全に当て嵌まっている訳ではないが、何か社会からの紐帯が切れていた人物(男性)だな、社会と隔絶して生きていたのだろうな、とは窺がわせる素姓であったかも知れない。

パスワード管理は限界に達したよなって思う。昨今ともなるとパスワードを設定するにもアルファベットの「大文字」と「小文字」と「数字&記号」で9文字以上のパスワードじゃないと、新たにパスワードを受け付けてくれない場合なんてのがある。パスワードを重複して使用するなんて以ての外。住所や電話番号の使用は不可。ヤフーショッピングで買い物をした場合に還元されるポイント「PayPayボーナスライト」なんて、確認しようとするだけでケータイにショートメールで暗証番号を発行してくるからケータイを手元に於いてパソコンに向き合わねばならなくなった…。

ただでさえ、記憶力が衰えてきていて、新しく何かを覚えると何か記憶を失っている気がしている私からすると、もう、パスワード地獄は限界に達してきたよなって思う。少しばかりのポイント、それこそ1%程度のポイント還元の為に、せっせと個人情報を登録し、先方にビッグデータの蓄積をさせてやっている事に意味が在るんだろうか。ポイント還元のキャンペーン期間中は、確かに還元率が高いのでポイントもバカにならないぞと錯覚させてくれていますが、もう、色々とポイント還元キャンペーンのようなものって打ち切られたり、還元率を切り下げられたりしていますやね。確かに、消費者にとっては、人々が感じているほどメリットがないのが電子マネーの正体だろうなと実感できるようになってきた。


さて、データ爆発がもたらせたデータ資本主義、デジタル独裁の話というのを、8月15日付の読売新聞12面を参考にして――。

先ず、【ゼタ・バイト】という情報単位を理解できるだろうか? 1バイトの千倍が1キロバイト(KB)で、その千倍がメガバイト(MB)、その千倍がギガバイト(GB)であり、その千倍がテラバイト(TB)であるという。うーん、実際に私が日常的に言葉として使用していそうなのはMBまでかな。電子メールで送受信できる容量がそんな程度だから。テラバイトはパソコンの購入時に、そんな言葉を目にしたものの、身近な単位だとは認識していない。

しかしですね、これが厄介な事に、テラバイトの千倍がペタバイト(PB)となり、ペタバイトの千倍がエクサバイト(EB)となり、エクサバイトの千倍がゼタバイト(ZB)というデータ容量になるという。

ゼタバイト? なんじゃ、そりゃ? 

日本語にすると10垓(がい)バイトであり、万→億→兆→京ときて、その京の上の単位が垓であるという。0が6個で100万だとしたら、0の数が21個という世界で、理屈として、そういう単位を理解できなくもないが、直感的に理解するのは不可能な次元に突入している。

そして世界中の巨大なインターネット空間には膨大なデータが存在しており、2011年に初めて1ゼタバイトに達したのだそうな。しかし、そのデータは、データ爆発とでも呼ぶべき、膨張を見せており、昨年となる2018年には33ゼタバイトとなり、2025年には175ゼタバイトに達する見込みであるという。スマホの普及、SNSの普及、監視カメラの普及によってデータ総量が文字通り、膨張し始めており、最早、従来の常識では捉え切れる事が不可能な、「データ爆発」という次元のビッグデータ世界をつくり上げてしまっているの意であるという。

最早、データも膨大になってきているので、データを自分のスマホやパソコン、或いは会社のパソコンに保存する事も難しくなってきており、いわゆるクラウド依存の流れが出来上がってきているという。冒頭で掲げた「パスワード管理が限界だ」という私の愚痴は、ホントは愚痴ではなく、どうしようもなく世界が直面している管理不可能状態、情報渦、データ爆発とも合致しているのだ。

少し楽な次元の話に戻りますが、データが膨大となるビッグデータの時代に既になってしまっており、クラウド依存が進行しているという事は、もう、どうしようもなく「データ集中」が起こってしまっている事を意味しているという。GAFAの問題というのは昨年か一昨年から新聞やテレビでも目にするようになりましたが、単なる偶然ではなく、もう同時進行というか同時並行というか、現在進行形で今日も明日も巨大IT企業によるデータの寡占が起こり、しかもデータそのものが価値になりつつある。巨大IT企業のみに利益が集中する傾向が継続し、現在は勿論の事、今後もしばらくは市場支配と寡占化が進行していくと見られるのだそうな。ヒトがヒトとして、いわゆる人力で熟している仕事、作業があるとすれば、その労働価値は相対的に低下していく事も同時に想定される訳ですね。

そして、この流れを【データ資本主義】や【デジタル独裁】という呼称が生まれているという。アマゾン・ドットコムのような企業を念頭に置くと、もう、アマゾン一社で、一つの巨大市場を形成している事になる。既に、太刀打ちのしようはないのではないかという次元なのだ。これまでの資本主義を、金融資本主義と定義するなら、これからの資本主義は「データ資本主義」になる可能性がある。また、市場支配や寡占が進行していくことから「デジタル独裁」となる。

英オックスフォード大のビクター・マイヤー・ショーンベルガー教授が「データ資本主義」の提唱者の一人であり、おそらく、ここで巨大IT企業のデータの寡占化を放任しておくと、公正な競争は起こらなくなり、様々な弊害を発生させるという。また、この事は、意思決定が分散している事がメリットであった自由主義市場の法則とは異なり、中央集権型の経済に近づいていくという。

この話は、先に世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』の著者でもあるイスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラル氏も警鐘を鳴らしているという。

「資本主義と民主主義は分散処理を好むのに対し、共産主義と独裁制は集中処理に依存する」

と。

あー。なるほど。

「AI(人工知能)になんて何ができるってんだ!」という言説も未だに健在ですが、最早、膨れに膨れ上がってしまったビッグデータは人力では管理も処理も不可能なまでに膨れ上がっており、その膨大なデータの処理をこなせるのは、もう人工知能しかなさそうな状況へ、知らぬ間に突入してしまっていたのかも知れませんやね。

自動車の自動運転一つにしたって、何が決め手になるのかというと、データ容量なのだそうな。圧倒的なデータが存在し、それを処理できるAIが在れば、もう、人間の能力なんてものをあっさりと超えてしまう可能性がある。というか、高そうですかね。

ハラル氏は、巨大IT企業によるデジタル独裁は必然的に中央集権を選択するので、近い将来、民主主義を脅かす事になると警鐘を鳴らしているという。

今朝ほど、フジテレビの「とくだね!」が報じたコンビニの対応が悪いと告発するような内容がありましたが、何やら、ざらざらとする感触の内容でした。まぁ、確かにコンビニ側の対応は有り得ないだろうと思う。しかし、ああまで問題がこじれるという状況も、また有り得ないんじゃないのかなぁ…というのは私の抱いた感慨でした。詳しい情報が分からないから、裁定できるものでもないのですが、客商売であるとか接客というのは、折れないでもいいような事でも折れたり、基本的には平身低頭に対応してトラブルを回避したり、その収拾とするものであろうと思う。なので、客相手に乱暴な言葉遣いをする事は基本的にいはしない。これは、基本的には、同じなんじゃないのかなぁ…。ただ、年々、お客様意識を増幅させるような消費者至上主義が蔓延してしまっているので、もう、何が何だか…。

なので、既に実際問題としては接客業などでは、本心では謝罪する必要性はないと考えながらも、業務上の立場を考慮して謝罪するという事は、もう日常的になってしまっているように思う。クリーニング店のクレーム対応は大変だとか、色々、巷間、言われていますが、基本、申告されてしまったクレームに対して、「なに、その申出の根拠はあるのか?」という具合の詮索はしませんね。業務、仕事では、そういう対応で一向に構わない訳ですが、道徳的な問題とか教育的な問題にした場合、「ホントは謝罪する必要性もないのに謝罪するのは、おかしいのではないか?」という問題が生じてしまう。この問題が、ずーっと「お客様は神様です」的な世論に圧されて、見えて来なかった問題のように思う。まぁ、稀に横柄な店員とか店主もあるのだけれども、基本的に嫌われ者やトラブルメーカーは浄化されるか自滅するか、勝手に淘汰圧が掛かる。

道徳的、教育的に問題があるというのは、世の中の風潮としてゴネ得を許し易くなってしまっている事、また、ゴネ得を経験した人が味を占めて、更に増長して過剰なクレーマー気質になり易い事ではないのかなって考えている。

近5年ぐらいでしょうか、おそらくはSNSの発達によって理不尽なクレーマーへの不満をSNS上にアップされるケースなども増え、いわゆるモンスタークレーマーの問題が社会の共通の問題として一般化され、社会問題化してきたと思う。これについては、内心、歓迎しているのかな、私は。それ以前の段階というのがあって、「お客様は神様です」を伝家の宝刀のようにして使用する人が多かった事、また、それは元より、過剰になり易い性質を帯びていたと思うのですが、商業サービスに囲まれて育つ中で、自己尊大、自己肥大化、そういうものもあったと思う。「自分は客なのだから、これこれこのように扱われて然るべき」という権利意識、その権利意識の増長があるよな、と。

そら、不愉快な思いをする事はあるでしょう。飲食店で注文したのに、いつになっても注文が来ない、忘れていやがんな的な状況とか、あるよ、ある。しかし、そういうヒューマンエラーって一定の確率で、起こるものだよねという認識が相互に在れば、そんなに気にもならない。「あれ? さっき注文したんですけど」と言えば、おおよそは、まともな対応をしてもらえる。私が客であったとして、客の分際で、その対応に指図なんてしない。何故なら、それは客の分際であるから。その会社や、その店の経営に客である私が「これこれこうであるべきだ」と指図するのは、或る種の越権行為であり、その対処は基本的には先方に任せる。しかも、大体、それで応分以上の対応をしてもらえているよなって思う。慰謝料だの迷惑料といった概念はない。最低限度の金銭的補償が為されていれば、それで充分であると思う。それを、昨今ともなると、押し付けに行くようになってしまった。

吉本興業の例などもそうでしたが、越権行為が凄いんですね。「これこれこういう経営であるべきだ」という風に押し付けに行く。しかし、仮に正解を知っていたとしても、そんなの教えてやる必要性もない。教えてやろうだなんて態度そのものが烏滸がましい。それで問題が解決せず、不満が残るなら抗議的な言辞の一つも吐くかも知れませんが、まぁ、殊更、事を荒立てるのも無益なので、付き合いを制限するなどして対処する。もう、付き合わないと決めたら、嫌味を吐く必要性さえなく、嫌味を吐く事自体が無益でもある。教育者じゃないんだから出しゃばるまでもない。

で、実際、どうなんでしょ。私自身も自信を失ってきましたが、実際問題として相手のミスとか瑕疵とか、そういうものを受けて、謝罪されるような場合、もう、謝罪をされるのも心痛だなって感じることがある。「申し訳ないです」という気持ちが分かっているから、「申し訳ありません」とか「すみません」という謝罪を聞くのも辛いんですね。力んで、「申し訳ございませんでしたっ!」のように謝罪されても、案外、気恥ずかしいものだと思う。だって、いつかは私にしたって、故意の犯罪のようなものは起こさずとも、意図せぬ過失によって迷惑を掛けてしまう事は有り得る。そういう関係性というのが、相互で成り立っているのだから、厳しく断罪したりするのは本意ではないんですね。

厳しく断罪しないが、厳しく断罪された経験というのはある。あるけど、そーゆー時は相手次第ですかねぇ。そーゆー種類の人間ってのも、居るよな、と。人として、人格的なものが残念ながら規格外で下劣な人というのは実在する。これは仕方がない。下には下があるもので、下を見てしようがない。仮に謝罪されて気が休まるような状況があっても、土下座を要求したり、真摯な態度は要求しないかな。謝罪は要求したり、請求する性質のものではない。それを要求する人は、相手を膝まづ課せる事にちっぽけな快楽をみようとしている人な訳でしょ? 「謝罪させてるオレ、偉いでしょ」、と。まぁ、品性下劣なような気がするけどね。

それを痛感しているのが、現在、ブログで触れている「橘孝三郎」あたりですかねぇ。平たくいえば人格者なのかな。自身は謙遜して「臆病だから」と語るものの、そこに或る種の高潔さが付き纏っている。妙に「橘先生」という具合に慕われてしまうキャラクターなのだ。実際にインタビューをしたという保阪正康さんにしても橘孝三郎(先生)には畏怖の念を感じていたのがホントであったという。しかも右翼系の老人にありがちな威厳によって畏怖の念をおぼえさせられるのではなく、敬われて然るべき人なのに威張ることもないという態度によって畏怖の念をおぼえたという。これが真髄でしょうねぇ。対等ではないのは明らかなのに対等に応じられてしまうと、恐縮するものですからね。トルストイだの、ガンジーだのという、その右翼老人は、尋常ではない空気を発していた可能性があると思う。畏怖されるべくして畏怖され、尊敬されるべくして尊敬される人というのも、きっと実在するのでしょう。

その「橘孝三郎」がトルストイの影響を受けていたという。とてもとてもトルストイなんて私には読めそうもないので、お手軽な所でテレビドラマ「戦争と平和」を視聴してみたのでした。ああ、なるほどな、と感じた部分もありましたかねぇ。終盤に、主人公ピエールは捕虜になり、捕虜仲間の言葉に感心する。「犬は人間よりも賢いのだよ。人間は戦争するが犬は戦争なんてしない」に始まり、「そんな風に一口でジャガイモを食べるのはよくない。もっと少しづつ、味わって食べるべきだ」という。その老捕虜は、塩を一つまみして、親指大のジャガイモに振り掛け、それを、ゆっくりと口に入れて味わって食べるべきだ、それによって自然の恵みを味わえるのだという。ホントはピエールは伯爵の地位を有する貴族で、戦争が終わった後に、再びジャガイモが食卓に出て来るが、老捕虜の言葉を思い出して、小さく千切って塩をまぶし、口に含むようにして食べるというシーンがありましたが、このテの話って、私に言わせるとエピキュリアンというよりも、そのまんま「老子」の世界なんですね。そのまんまだよなって感じました。そして権藤成卿や橘孝三郎が考えた農本主義の根底も似ている。自然と共生する事の、その幸福論である。「神即自然」に当て嵌めれば、そのまんまスピノザの世界でもある。

実は「映像の世紀」にしても「山田太一」にしても或る種の道徳観があったと思う。文明批判もしくは現代批判である訳ですが「映像の世紀」の方は、1920年代を描いた際、資本主義がもたらせた享楽主義に警鐘を鳴らすような当時のジャーナリストらの言葉が並べられている。1920年代、ラジオが普及し、ニューヨーカーたちはラジオから流れてくる有り得ない音楽で、有り得ないダンスを踊ったという。チャールストン。そして人目をはばかることなく、大胆になってゆく女性のライフスタイルに、その先輩世代の女性が苦言を呈している。これはいつも一緒かな。資本主義経済は消費者をターゲットにするのだけれども、標的になる層は消費者である。そんなミーハーなノリでいいのかしら的な葛藤は時代を超えてあったよう。1920年代から基本的には「セックス・アンド・ザ・シティ」だったっぽい。

そして物質的な豊かさは思いの外、早く実現されたが、既に1920年代の時点で「もう、今、以上の希望は見つからない」等と言われていたという。1960年代でもヒッピーが描かれていましたが、どこか似ている。若者は大胆になり、享楽主義に溺れようとする。既存の何かを破壊する。同時に、「これで大丈夫なのか?」という不安が台頭する。

山田太一のドラマに触れると長くなってしまうので割愛しますが、まぁ、山田太一の場合、父性由来の現代批判がドラマに込められている。「ふぞろいの林檎たち」で、室田日出夫演じる工場の先輩が新入社員の中井貴一に対して「今の若い人は、そんな甘い事でいいと思っているの?」という具合に、やたらと嫌味な詰問をしてくる重たい展開があったような記憶がありますが、どうであっただろう? 昨今のように中高年の大人が妙な若者礼賛ばかりをするのはおかしいのではないか、それこそ、若者の思うようにさせてしまったなら、おそらくは節度のようなものはどんどん破壊されてしまうのではないか? 山田太一のドラマは、どこか父権的な伝統的価値観の、つまり、享楽主義的風潮や付和雷同を戒めようとする言説がバランスよく込められている気がする。

既に体罰は違法とする事が決まり、民法上の懲罰権についても既に「懲罰権」という言葉を使用しない方向性だけは決定しているという。つまり、今後も叱らない子育てを継続していくという事のよう。しかし、ホントは多くの現代人が単に「無責任になっただけ」という可能性はないんだろうか。享楽主義には歯止めは利かず、どんどん利己主義的な権利意識ばかりが肥大化し、結果、クレームが社会に充満し、お望み通りの訴訟社会を日本に誕生させる未来を予見できてしまう気がする。

神を殺し、道徳を殺し、自然を殺し、ゴシップ情報とアニメとゲーム、いや【eスポーツ】って呼ぶようにするのか、こういう世界が無限に拡大し、今後も経済成長していけると思いながら、現代人は生きている訳でしょう? 将来的には希望が云々どころか、この世界そのものを存続させる事さえ、厳しくなっていくんじゃないのかな。

汗して働く者よりも、理屈を捏ねたり、享楽に耽る者の方が偉いかのような、そういう社会が実現してしまった。自然の恵みを食し、自然の摂理の中で生かされているにもかかわらず、自然とは無縁の都市生活の追求ばかりが持て囃されている。

既に、この連日連夜の暑さ、世界的な異常気象なんてのは滅亡の序章が始まっているんじゃないのって気さえする。神は存在しないのだろうけど、概念上の神は存在しており、これほどまでに自然を奇形化させてしまった現代人に対して、怒りを感じていない筈はないんじゃないの?

♪ 義理がすたれば、この世は闇だ

とは村田英雄の「人生劇場」の歌詞ですが、ここのところ、よく耳にしている。私が古いテレビドラマばかりを視聴しているからなのですが、ショーケンの「傷だらけの天使」で耳にし、渡哲也の「浮浪雲」で耳にし、北大路欣也の「三匹のおっさん」で耳にし、まぁ、或る時期まで、そう考えられていたんでしょうねぇ。

そして鶴田浩二は「傷だらけの人生」で、こう歌った。

♪ 何から何まで真っ暗闇よ 筋の通らぬ事ばかり
 右を向いても左を見ても、バカのアホウの絡み合い

これを否定できないよなぁ。

瞬く間に鎮火となったようですが、25日に米トランプ大統領が日米安保の破棄について周囲に言葉を漏らした旨のニュースが飛び交いましたね。ブルームバーグ辺りが報じたものを共同通信が報じた。間もなく、菅官房長官がホワイトハウスからも連絡を受け、それはフェイクニュースであると説明を受けたとして、同ニュースを打ち消した。

うーむ。分からんなぁ…。そりゃホワイトハウスから「それは誤報だ」とか「フェイクニュースだ」という風に外務省なり首相官邸に連絡が入った可能性は別に信憑性を疑う必要はないと思う。しかし、トランプ大統領が日米安保の破棄を検討した事は嘘なのかどうかは判然としないし、或いはトランプ大統領のディールという手法からして日本に対しての外交圧力として「日米安保の破棄」をチラつかせたという可能性だって考えられる。

実は、この話、思い当たる節がある筈なんですよね。おそらく、12〜15年前、日米安保は解消に向かっていくべきではないのかという話があったように記憶している。東西冷戦構造が終結したのだから、日本はアメリカとは徐々に距離を取り乍ら、改憲して国軍を保持できる国になるべきで、つまりは、独立すべきではないのかという意見で、多くの者が一致していた「朝まで生テレビ」のシーンを記憶している。そもそも改憲勢力とは、その頃は、そういうものだったし、そういう勢力こそが保守だったのだ。しかし、現実は異なる道を歩んだ。中国が台頭してきた事が大きく影響しているのだと思いますが、逆に、日米同盟の狄鴫臭瓩箸いκ向へ舵を切った。

おそらく、アメリカの安全保障的な庇護下から独り立ちする方向へ行きたがったが、事情が異なってしまい、日本の立場としては日米安保の深化を模索せざるを得ないという状況になってしまったのでしょう。なので、或る時期から日米安保にはザラザラとした感触が付き纏うになって、近年を迎えている。

そういえば第一次安倍内閣は、「戦後レジームからの脱却」というフレーズを掲げていましたよね。しかし、日米同盟の深化という事は、少なくとも安全保障政策としてはアメリカから離れないという方向性へ舵を切ったという事でもある。選択肢が無かったというのが実際と考えるべきでしょうけど、これは「日本」というアイデンティティーを建てようとした場合、違う方向になってしまっているという事のようにも感じる。

中々、不思議なのですが、安倍政権を支持している保守派というのは、例えば春名幹男著『仮面の日米同盟』(文春新書)のような、不都合な事に対しては徹底的に無視するところがあるよなって思う。余り、ホントの事を認めたがらないというか、それこそ、先日発生した「老後に2000万円必要だ」の問題と似ていて、ホントの事が報じられてしまうと、慌てて鎮火するようになってきている。しかし、考えようによっては、こういう状況こそが、怖いのであり、憂うるべき事態なのではないだろか。

1971年12月29日付で、当時のジョンソン国務次官がニクソン大統領に提出したメモがあるという。それはニクソン大統領が佐藤栄作首相と会談を行う前に会談が円滑に進むように事前に提出されるメモでページ数は実に34ページにも及ぶという。そのメモには、刻銘に在日米軍が日本に駐留している意味合いを記してあったという。その一節が以下。

在日米軍は日本本土を防衛するために日本に駐留しているわけではなく、韓国、台湾、および東南アジアの戦略的防衛のために駐留している。北大西洋条約機構と違って、日本とは、統合司令部に関する取り決めがなく、何かの種類の統合計画もない。このように、在日および在沖縄米軍基地はほとんどすべてが米軍の兵站の目的のためにあり、戦略的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。

その後、70年代から80年代にかけて米国は「日本の安保タダ乗り論」を喧伝し、いつしか日米関係は「日本側が米国軍に守ってもらっている」という解釈が浸透してゆき、思いやり予算をはじめとする力関係の均衡が歪んで、双務性から片務性へ、つまり、日本はアメリカには守ってもらっているという解釈が浸透してゆき、今日に到る。 春名氏は、それらを証明する機密文書を幾つか入手し、「在日米軍は日本を守る為に駐留していない」という事実について元内閣官房副長官補や政府高官らに問い質しているが、一様に、さほど驚かないという。但し、在日米軍が日本を守る為に駐留している訳ではないこと、それについて「日本の政治家は誰も知らない」と断言したという。


てな、具合なのだ。これ、不思議なんですよね。おそらく新右翼などは、こういう問題についても論じているのに、何故かメディアで主流となっている保守思想は、そういう問題はない事にしてしまっている。良くも悪くも、安倍晋三色の強い自由民主党的な保守思想なのでしょう。私の個人的な印象だと、読売や産経が掲げる保守イデオロギーは安倍晋三支持層とダブっているんですが、これが新潮社やら小学館あたりで囁かれる事がある保守思想とは結構、開きがあると思う。

しかし、ぼちぼち、限界ではないのか。アベノミクス、最初の頃の黒田バズーカこそ成功したが、例のトリクルダウン以降は失敗だし、目先を変えようとして展開させた働き方改革なんてものをマトモに評価する事なんて不可能であろうと思う。原発を輸出するという世界のセールスマン戦略にして失敗しているし、消費増税に対してのスタンスは異常だし、忖度なのか何なのか官僚全体が平気で嘘をつくようになってしまっている現状は異常と認識しないと話にならない。

三原じゅん子議員の演説が話題になったそうですが、内容を直視すべきだ。話している内容は「民主党がぐちゃぐちゃにしたものを安倍政権が立て直したのだから感謝すべきであり、問責決議案を出してる野党は、恥を知れ」という論旨であり、威勢、演出力は良くても、主張の中身というのはカラッポといえばカラッポなんじゃないのかなって思う。

イランを巡っての日本とアメリカの関係や、最近の出来事にしても、何が何だか分からない。日本タンカーへの攻撃があったのは事実と認識すべきなのでしょうけど、同盟国たるアメリカが指摘している通り、わざわざ安倍総理がイランへ訪問しているタイミングで、イラン政府の手のかかった勢力が日本のタンカーを攻撃したとすると、その意味が組み立てられなくなる。イランが何か交渉を有利に進める為に工作したと考えようにも、そもそも安倍総理のイラン訪問はアメリカとイランとの仲を取り持つ為であったと報じられていた筈なのだ。もう、何が起こっているのか、よく分からない状況になってきてしまったのではないか。アメリカの言っている「イラン犯行説」というのは、どの程度までホンキで信じていいのか分からないような状況になってしまっているのが実際ではないのか。イラン政府に対して正直者であるという具合に思っている訳ではないのですが、イラン側に日本のタンカーを攻撃して何か得るメリットがあったんだろか…。ちょっと分からない。兎に角、よく分からない展開になってしまったんですよねぇ。で、こうして同盟関係にありながら、ひょっとしたら自分が欺かれている可能性を考えねばならない、そういう危うい同盟関係だという事ではないのか。

最近、国賓として迎え、歓待したものの、考えようによってはトランプという人には、そういう態度は通じず、兎にも角にも、ディールという具合で物事を思考している可能性がある。過去の発言の中には「世界を支配しているのは恐怖だ」といった類いのものがあった事を考慮すると、交渉を有利に運ぶ為に嚇しも辞さないタイプの指導者である可能性も否定できないんでしょうからね。

色々と言論環境もいびつになっている気がする。「メディア論」に数日前に触れましたが、本来であれば、メディアは「王様は裸じゃないか」と指摘できる事が重要だという話がありました。しかし、何故か、この指摘が出来なくなったか、しなくなったか、考えることがめんどくさくなってしまったか、そんな感じなんですよねぇ。まぁ、世界全体が不安定だというのも確かでしょうけど、結構、色々な矛盾が最近、噴出しているような気がする。

香港デモは、一先ずは「延長」を引き出したが、それに満足することなくデモは「撤廃」を掲げて継続しているという。

「もう、デモには効果は見込めないのではないか?」という言説も語られるようになり、私自身も7割ぐらいは諦めの気持ちで眺めていましたが、香港デモは一定以上のデモの力というものを証明してくれたのかも知れない。

それに引き替え、日本は…と、どうしてもなってしまう。「民間社会そのもの」から、「活力そのもの」が失われてしまったと感じている。ペットショップで購入するペットにはチップを入れる事が法制化されたといい、レジ袋に関しても有料化する事を法制化したという。もう、これっぽっちも民間社会の裁量を残す気なんてないのでしょう。

法治主義の世の中にあって、その法治主義を批判するのは愚であるかのように思えてしまうかも知れない。しかし、西部邁、ニシベを想う。最後の自裁死にしたって、生前のニシベの持論に沿って果たされたものであって、長生きする為に長生きするような思想はおかしいと思う。また、ニシベは敢然と、物事の判断基準となる道徳のようなものは、習慣などの文化に根差しているという論旨であったと思う。東京MXテレビの番組内で佐高信と対談しながら、「組織には明規と暗規とがあるから、企業が合併しても巧く行かない。合併にあたってルールを決めたところで、元々の企業には明文化されていない暗黙の規律がある」てな具合の話をしていましたが、ホントに、そうなんですね。細かいことを言い出せばキリがない筈で、それを明文化して一律的なルールを設定し、そのルールに全員が従えばいいのだという理屈は、どう考えてもおかしい。

しかし、完全に、今の日本は、その愚を冒しに行っていると思う。結局、年金問題にしても、また、事実を事実として認識せず、ヘンテコな方向で物事を進めている。国民の不安を煽るなという、ヘンチクリンな理屈の方が強いのだ。平たく言えば、ホントの事が露呈してしまうと収拾不能になってしまうから、ホントの事を言っちゃいかんという、そういう力学で、日本の国会やマスコミは動いちゃっている。しかし、それじゃ、考えようによっちゃ、詐欺みたいなもんだ。

社会保障制度なんてのは欺瞞も多いと思いますよ。それこそ、年金に係る事柄なんて、その理念の中に「申告主義」という法律用語が使用されている。どういう事かというと、年金は原則的に被保険者や受給権者の側が自ら申告をして手続きが決定するというシステム設計になっているから、仮に被保険者や受給権者が、その事柄に係る申告を忘れた場合は、我々は責任を負いませーんという具合の、典型的な役所仕事的性質を孕んでいる。強制加入のクセに、そういうルール設定をしている。他人に厳しく自分に甘い。これほど複雑な制度にしてしまったんだから丁寧に説明すべきだと思うけれど、実際、そうなっていない。日本年金機構や厚労大臣には、それらの事柄を周知する事も法令で義務づけられているけど、そちらは出来る範囲内でヨロシクってノリだ。「広報活動など、我々は努力はしていましたー」というアリバイ作りみたいなもんだと思う。丁寧に説明する気がさらさらない。しかし、彼等には絶対的な権限が与えられている。

官と民の差異も思いついてしまう。こんにゃくゼリーを凍らせて食べて死んだ者が出たら、その企業に処分を課したんじゃなかったっけ? 周知が不徹底だったから死者が出てしまった的な理屈で営業停止処分か何かにしたんじゃなかったでしったけ…。なんなんでしょ、この差は。

通常の契約とか約束事であれば、そこで甲と乙とは対等な立場で契約を交わす事ができる。しかし、税金や年金、健康保険、最近はNHKなども徴収権や捜査権といった公的な権限を、警察と同等か、それ以上に露骨に発揮していると思う。


ああ、そうそう。長生きする事に目的があるのかという話であった。10秒や15秒も考えれば気付いてしまう筈ですが、長生きする事そのものが目的化しているのだとしたら、こりゃ、中々に虚しいよなって思う。ビートたけしさんが「健康の為なら死んでもいい!」といった具合の冗談をよく使用していた記憶がありますが、基本的な構図は似ている。「長生きしさえすれば幸福」とか「長生きしさえすれば苦しい人生でもいい」、「長生きする為に忍従と努力の人生を歩む」という転倒があるじゃないの。

野坂昭如著『終末の思想』(NHK出版)には、次のような過激な一節がある。

老人の知恵を生かすといったって、ボケの場合無理だろう、「お年寄りを大事に」など、そらぞらしいことをいっても、現実はまるで違う。大事にするというなら、病院へ放りこまず、自宅で面倒をみる、そして、手に余ったら、子供の手で殺す。殺すといういいかたに抵抗はあるだろうが、しかるべく医師によって調整された薬を、ほどこす分には、老人にことさならな苦しみもないし、きわめて効果は緩慢、一種の衰弱死をとげる。

奇型の子供、あるいは成長したところで、幸せになれない、このいいかたはきわめて曖昧だけれども、母親がかく判断した時、子供を殺す。親がボケてしまい、このままでは一家共倒れと思えたら、子供がしかるべく殺す。即ち、病院にまかせない、自分の判断で行い、このことについて他人はいらざる差し出口をしない。


現在であれば炎上必至といった感じの箇所ですが、発刊は2013年であり、出版社はNHK出版であったりする。おそらく、世の中全体が、言葉狩り的な傾向にあり、その語彙が含んでいる危険な部分にのみ反応してしまうようになってしまい、それでいて年金問題同様、見事に棚上げしてしまっている気がする。大手経済団体や保守系論客が、お湯を注ぎ込まれても気付くことなく茹で上がって死ぬ、茹でガエルの論理を、やたらと使用したがっていますが、ホントは、その思考停止になっている茹でガエルは、彼等も同じだ。舛添要一さんあたりは指摘している可能性がありますが、「日本人は御上は間違わない」とか「官僚は間違う筈がない、誤魔化す筈がない」等と、盲目的に無責任体制を放置しているというか、率先して騙されに行っているような態度なのが事実であろうと思う。

この問題、野坂昭如は深沢七郎の「楢山節考」から思考している。他方、本来であれば渡辺昇一の「神聖なる義務論」もあったし、最近でもヤノマミ族への取材で分かってしまった「精霊送り」という問題も同じ事を示唆しているし、いやいや、それどころかマイケル・サンデルあたりでも「その子を堕胎するか出産するかの決定権は母親に委ねられるべき」と提示していたりするんですよねぇ。しかし、現在の環境では触れてはいけないアンタッチャブル案件となっていて、揚げ足取りしか起こらなくなってしまっている。

或る意味では、野坂昭如が最も過激であったかも知れない。

薄っぺらでお手軽な世の中に、幾重にも正体不明の闇が広がっている。闇は視界を妨げ、若者の心に入り込み、足をからめとる。この闇はぼくらの生き写しである。金や物を崇め、合理化とやらをすすめてきた日本。無駄だと省かれたものの中にこそ、日本の誇りがあった。風土や気質、歴史に支えられ培ってきた独自の文化。うわべ豊かとなった時、今度は内容を豊かにしなければならない。少しゆとりが出来たところで文化を深め、伝統を生かす分野に心を注ぐべきところ、抹殺することで成就しようとした。文化を壊したというよりも弊履の如く捨てた。そして日本人は醜くなった。街は便利で生活、全体に美々しくなり、人もまた見てくれきれい。醜くなったのはその生き方、消費文化の行きつく果て。

結局、何が豊かなのか分からぬまま、日本は滅びようとしている。戦後、その都度決着をつけてこなかったこの国、当然の報い。


つまり、自業自得の結末として、日本は滅びるだろうという考え方をしているのだ。

野坂昭如は、もし三島由紀夫が都知事になっていたなら…という夢想もしている。改憲と護憲でいえば、改憲派なのだ。自衛隊を国軍に出来ないという問題に関していえば、三島由紀夫が都知事になっていたら、なんてことにも触れているし、三島由紀夫であったならゲバ棒を振り回していた世代の連中も賛同できる部分が多かった筈で、右派と左派の均衡のポイントであったように述べている。裏返すと、共産党や社民党が世論誘導に失敗したとも言及している。まぁ、これが分かっていたのが、野坂昭如なのだなぁ…。

御節介な説明を付け加えると、その人の命はその人に帰属している。その人の人生もその人個人に帰属している。ニシベが自裁死をした理由もそれだし、ノサカが「日本は豊かさも理解できないまま、滅びようとしている」と指摘しているのも、それですかねぇ。「死ねる」というのも、ホントは幸福のうちの一つだし、幸福な人生を歩むこととは何か等々、そちらへ発展できる。

「どんなに辛くても死んではならないのです! 自殺は法律違反です! どんなに苦しくて苦しみに耐えて耐えて、懲役囚以下の生活でも死ぬまで歯を食いしばって生きるのですっ! 努力、努力、努力ですっ。艱難辛苦の果てに栄光を勝ち取ったアスリートたちをご覧なさい! あんなに懸命に頑張っているじゃないですか! あなたも頑張るべきなのです! 努力すれば必ず報われます!」みたいな御伽噺から抜け出せないって事なのだと思う。ホントは上級国民さんたちによって、既に「落とし穴」や「罠」を仕掛けられているのに、そちらを疑うことをせず、そこへ突き進むことこそが正しい生き方だと考えているんだと思うけどなぁ。


続きを読む

先の統一地方選の際、市会議員さんらと雑談する機会が少しばかりあったんですが、その中で思わずホンネで語り合ってしまったものがありました。

「生活保護受給者の方が我々よりもマシな生活をしているのが実際だよ」

と。トップギアにて発車してしまった感がありますが、もう、これ、ホントなんですよね。そんな訳はないだろって思いたい。自分が惨めである事を認めたくないものだ。しかし、最早、地方の事業主なんて、そんなもんですかねぇ。事業主は事業主だから嫌な仕事を拒否する事ができるという意味では奴隷的労働者よりも、その面では報われているとも考えられますが、もう収入的にはピイピイ文句を垂れている次元に突入している。給与を取れば事業の存続が危ぶまれるし、事業をたたもうにもカネがかかるのが生々しい現実でしょう。しかし、昨年、一昨年あたりから、どうも厚労省が本格的に統制国家を完成すべく「働き方改革」という名前の「働かせ方改革」へとシフトしている。具体的には労働政策総合推進法あたりを日本に根付かせて、東京一元支配体制の国家を作ろうとしていると思う。極論だろうと思うのが、常識的な感覚かも知れませんが、まぁ、多くの者が既に思い当たるか、まもなく思い当たる事になるか、そういう事柄だなって考える。

「健康で文化的な最低限度の生活」って、これが幸福論などにも流用されているんですが、全く違うよなって思う。幸福なんてものは個々人によって何を幸福と感じるのか定かじゃないのだから、尺度なんて統一する事は不可能だろってのが、どうしようもなく真理ですやね。それを、定量化して分配することが可能だと思っている時点で、いきなり幸福論から逸脱している。

何故、幸福論に流用されるのかというと、それが憲法上の生存権を謳っているから、そう体系づけられているという。しかし、それは犧把禪足瓩鮴騎里紡れない事には話にならない。また、既に述べた通りであり、誰が何を幸福と感じるのかは定量化して計測する事ができないのだから、そもそも理念の段階から逸脱していると思う。で、ここで意見が分岐する訳ですね。或る者は「メシさえ保証してやればいい」といい、或る者は「衣食住だ」といい、また或る者は「衣食住+情報通信だ」と語ったりする。

しかし、そもそもホントに幸福論を考えた事があるだろうか? 私の場合はアランという人物が著した『幸福論』というタイトルの書籍と、ショーペン・ハウエルが著したという『幸福について』と二冊ほど目を通しましたが、どちらも上記のような話ではないんですね。先述したように幸福とは、各人によって感じ方が異なるものであろう、それなのだ。おそらく、「健康で文化的な最低限度の生活」を、やたらと使用したがる論陣は、片仮名表記としてのリベラル陣営から出てきた言葉であろうと思う。で、この陣営は、いわゆる進歩的文化人とか知識人と呼ばれる人たちが構成因子になっていて、また、アングロサクソン発祥の福祉の必要性を説きながら国家の権能を最大限まで拡大してゆく、「リヴァイアサン」と呼ばれる国家主義者の系統の何かであろうなって思う。

その政治思想は国家を統治するに当たっては強大な怪獣リヴァイアサンを必要としている。国家の意に反する者を強大なチカラで食い殺すことができる怪獣が必要であると考える訳ですね。自由主義思想の一派で、日本の政治学者や政治評論家の多くは、これに当て嵌まると過去に東谷暁氏が指摘した事がありましたが、その通りであろうと思う。だから、国が介入して「我々があなたたちに健康で文化的な最低限度の生活を実現します」と言い出しても違和感を感じないのでしょう。本来であれば、「余計な御世話じゃっ!」と噛み付いていいハズなんですが、そういう声が弱いんですね。それこそ、或る時期までの社会主義運動の書籍を開くと、そこには真髄として「働くべきもの食うべからず」という言葉が扉ページに記されていたりする。当代の自己責任論のど真ん中を射抜くような言葉ですが、ホントは、そう、社会主義思想でも「働くべきもの食うべからず」という理念は真髄と考えられていたのだ。自然の摂理に倣えば、そうなる訳で、誰かから施されることを待っていて生きていける筈もない。

プルードンであったか「自由・平等・博愛」という、この順番にこだわってマルクス義を批判したりもしている。「平等」が先頭に来て二番目に「自由」を並べるのは欺瞞であり、当然に「自由・平等・博愛」という風に並べるべきだ、その優先順を動かせる筈がない、と。しかし、この自由主義思想陣営に生まれたリヴァイアサンは「国家が強大化して、みんなに分配すればいいよ」と、それこそ薄気味の悪い事を言い出した。それは裏のある話であったが、それを真に受けた堕落した左派らが「それはいい、それはいい」と福祉国家幻想に無様にも併呑された。これで形成されているのが、現在のカタカナ語のリベラルでしょう。アメリカは知りませんけど、日本の場合はそれだと思う。

「政治は何の為にあると思っているんですか? そうです、国民の福祉を実現する為にあるんですよ」という具合の言説を、討論番組や国会でも見掛けた記憶がありますが、どうも、そんな生やさしい理屈で構成されている世界ではないんですよねぇ。福祉や社会保障を人質にして、いつまでも自分たちが支配者階級で居られる方法を考え出しただけ――という可能性がある。

改めて「健康的で文化的な最低限度の生活」は、ここのところ、テレビドラマ化されていたりして、もう、何かと猛プッシュされている状態にある。詳しい事までは触れられませんが、憲法第25条の生存権に係る法理念であるというのですが、これを法的拘束力を以って展開させる事が可能だと考えるだろうか? で、この理屈を応用して生活保護などの政策が施行されているのですが、ここで生活保護制度批判や生活保護受給者に矛先を向けるものではありません。矛盾を展開しているのは政府の側ではないのかなって主張なんです。一言で言ってしまえば欺瞞なんですね。

「我々が下層民たる諸君たちの為のカネを集めて公平に分配してあげよう。異論は認めぬ。異論があるなら然るべき手続きで法律的に争ってもいい。勿論、法律はウチらの味方なんだけどね」

という態度なのだ。で、そのように掲げておきながら、実際問題としての年金制度は破綻しているが破綻していないように見せかけているから、数日前から問題になったような「ホントは年金で老後がなんとかなるんて思いなさんよ。低く見積もっても二千万円は必要になるよ」と金融庁が試算してしまった訳ですね。どちらが現実に即した事を言っているのかというと間違いなく金融庁の方なんですが、既に騒動が起こってしまったので金融庁の方が「ごめんなさい」と提言を取り下げたというのが経緯で、そうにしか見えない。

この部分は辛坊キャスターと全く同じですかねぇ。「100年は安心だ」という。しかし、そんな訳がない。どういう事かというと、取り敢えず「そういう事にしてしまっている」というだけの話でもある。既に国庫からもカネを投じている事からすれば制度そのものの枠をぶっ壊しながら維持している状態だし、国民に対してのプロパガンダとしては「年金が破綻しちゃうから保険料を徴収すべし!」と展開しているのだけれども、その実、どう考えても給付水準を維持すれば破綻を免れるとは思えない。考えられている事は、年金の受給年齢を引き上げてしまう事と、年金額そのものを低くしていく方向である。

既に一階部分の国民年金では保険料は月17000円で全て保険料を納付して65歳になってもらえる年金は年額で80万円にも達しない額になっている。1万7千円を480ヵ月間(40年間)、今の20歳の者が支払ったとしたら、概算ながら合計で816万円ですわな。その彼が厚生年金に加入することなく、65歳から受給者となったとしても、76歳まで、つまり、採算をとる最低ラインで計算しても11年間(年額80万円×11年=880万円)は生き続けない(受給者で在り続けない)と赤字。若年世代は勿論、現役世代にしても、そんなに有難い制度でもないのだ。しかも生活保護との均衡を考えろというが既に国民年金の給付額は年額80万円足らず、そこから介護保険料まで差し引いているのだから、とっくの昔に一階部分は破綻していると言える。生存権だなんて欺瞞も欺瞞じゃないの?

しかし、この先、どういう事が起こり得るのかというと、先ずは受給開始年齢の引き上げで、これについては既に議論が上がっている。急に「人生100年プラン」などと言い出したのが今年の春先であり、本当は100歳まで生きる人は全体の4%程度と試算されているのに、まるで全員が全員、100歳まで生きる可能性があるという風にプロパガンダし、受給年齢の引き上げ論をまんまと引き出した。

例えば、年金の受給権は70歳からに改正するといった手法をとってくる事が予想できる。65歳から受給したい場合はウン%ほど年金額を割り引かせてもらいますという移行措置もつける事が予想できますが、つまり、限られた枠の中で、集金と配分をし、尚且つ、均衡を保てというのだから、ホントは自明なんですよね。じわじわと、保険料は上げられ、給付される年金額は減少していく。気付いて、年金保険料を払いたくないといっても、それを許さない。これは強制なのだ。滞納すれば容赦なく罰則となる。

きっと多くの人は「僕は厚生年金もあるだから大丈夫さ」とタカをくくると思う。しかし、現行の給付水準が守られるなんていう保証は何処にもないという恐ろしい現実に数年も経たないうちに気付かされるでしょう。年金政策は実際には均衡をとる為に制度の見直しをしてもいい事になっているのだ。「年金制度を維持する為に給付額を下げます」が許されるが霞ヶ関文学で言えば「極論を言えば、年金給付を月額1万円にしたって法的には問題ない訳です。制度が破綻した事にはならない」と言い出す可能性がある。既に週刊誌では報じられた話でさえある。

旧世代であれば「そんなに厚生年金ってもらえるの? 凄いね」というぐらいの年金額をもらえていたりもしましたが、制度そのものが先細りなんですね。しかも厚生年金の場合は、定額制ではないので、高収入だった者ほど高額な保険料を納めたから高額な年金を受給できる。「そういう制度なら低収入のボクは加入したくないです」と言っても許してくれないという琅瓩張り巡らせれている。逆進性を顧慮することなく一律で所得の18.3%が厚生年金保険料として徴取され続ける。拒否したら懲役や罰金までチラつかされる。考えてみりゃ、自営業なんて生活保護受給者よりも低収入であろうとも、がつがつと毟り取りくる。これが、健康的で文化的な最低限度の生活の種明かしだと思う。

先日、テリー伊藤さんの実兄が書類送検されて、それがニュースになった。思うに、みせしめ効果を狙ったものかもなって気もしました。もう、働き方改革に託けての、諸々の労働者管理、民衆管理が始まってしまっている。労働政策総合推進法とは、御上が御上として発想し、明らかに民衆を法の網にかけて一元管理下に敷いてしまおうとしている何かでしょう。今後、ばんばん、仕掛けてくる事が予想できる。(労働政策総合推進法の主旨が、それを謳っている。)

「下々の者は労働効率が悪いんだよなぁ。さっさと最低賃金を上げらたらいいじゃないか。我々がやらずして誰がやるのだ。わっはっはっ」

「下々の会社は、有給休暇も消化できないという。効率が悪いんだよなぁ、日本の私企業はさ…。そうだ、ブラック企業撲滅の為にも、今年からは有給を消化させていない企業には罰則をつけて締め上げてやろう、わっはっはっ、コンプライアンス万歳!」

「働き方改革なのだ! 障害者をこの数値以上の割合で事業主は雇う事を義務付けるっ! おっとっと我々の偽装が発覚してしまいましたね。うっかり我々はアレルギー性鼻炎も障害者にカウントして計算しておりました…。我々の仕事は崇高な公務だから障害者を軽々に雇い入れる事などできなかったのです。よって罰則なし。これは仕方がない。公務は崇高なのです、君たちの雑務とは違うんです」

「何? このままだと社会保障が維持できないだと? 急げ急げ、急ぐのだ。早く労働移民を受け入れて、ワシらの年金制度と社会保障制度を支えさせるのだ」

という締め付けが始まっていますね。押し付けの幸福論なのが見え見えでもある。

先に元農水事務次官が長男を刺殺したという事件があった際、週刊誌報道を目にしていたら、かの農水事務次官の略歴にも触れられていましたが、退職金で約8900万円を貰って退官、退官後にも相応のポストと最終的には外交官ポストを経て、ここで、もう一度、退職金約8900万円を受けていたのだったかな。そういう人たちが計算する将来設定というのは絶望的なまでに、下々の者たちの生活水準とは違う訳です。健康で文化的な生活うんぬん以前に先ずは、社会は健全性を取り戻すべきじゃないのかなって思う。

みずほ銀行とソフトバンクが共同出資している消費者金融「ジェイスコア」という企業のサイトには、150問ほどのアンケートが用意されており、そのアンケートに回答すると、その者のスコアが提示されるという。そのスコアが高いと融資を受けられる上限額が上がり、金利も低くカネを借りられるという仕組みであるという。既に、日本で、こういうスコア化が始まっているのだなと驚きました。

アンケートでは、

「店の人にオーダーを間違えられると気になるか」



「どのくらいラジオを聴くか」

等の質問のほか、読んでいる新聞、人生経験、運動習慣など多岐にわたる質問が用意されているという。それらの質問は、その回答者にカネを貸し出すにあたっての信用スコアと直接的には関係していないように思えるが、実は、人工知能によってプロファイリング化されており、つまり、その回答者の性格やら人格やらをも含めてスコア化し、どれだけカネを貸せるのかを推し測っているのだという。

15日付の読売新聞11面、若江雅子編集委員の解説を参考してのものですが、これは、私には、中々に、ショッキングな解説でありました。私の感想は後回しにして、ひたひたと迫りつつあるスコアリング社会の話を続けます。

ジェイスコア社では、2017年からサービスを開始しており、既に50万人以上がスコア算出のアンケートに挑戦しており、本年中にも100万人突破を目指しているのだという。勿論、このテのビッグデータ産業は、情報を多く集積すればするほど、その情報がお宝に化けるという訳ですね。ポイントカードの乱立も、或いは、失敗したようですが、例の家庭用ロボットなんてのも、実際には情報を収集する為の装置であると、人工知能社会を解説した書籍(新書)で目にした事がある。

わざわざ自分から率先して個人情報を与えるような行動をとるものだろうかと考えたくもなりますが、思いの外、そこら辺の抵抗感は低くなってきているのかも知れませんやね。テレビ、新聞ともに電子決済や電子マネーについての宣伝はばんばん打たれてるが、ネガティヴな発言は控え目であると思う。言ってしまえば、消費者金融を利用するタイプの人たちに有効であろう、広告がばんばんと打たれている。「なんとかペイ」の乱立ですな。リクルート社から政府までもがカネを出して普及させようとしているのだから、中々に悪魔的な社会であるかも知れない。

「個人情報保護の大切さを知らんのか?」などと常日頃、言っている人が、その実、「コンビニの会計時に小銭なんてダサい。支払いはスマートじゃなきゃね」と言っている提灯ネット記事に釣られていたりするものかも知れないなって思う。

さて、そのスコア、今後は外部販売に乗り出す予定であるという。つまり、個人情報の売り買いが開始される訳ですね。もう、この時点で個人情報保護って言っていた人たちはどうなんだ、ウチの子の顔写真を卒業文集に掲載するのは個人情報保護の観点から逸脱するなどと言っていた人たちは、どう思っているのか、とにかく、そういう事になっている。

スコアのような、データを管理する機関、そうした企業を【情報銀行】と呼ぶらしい。こちらも、昨年末から日本IT団体連盟による認定制度が始まり、申請受付が開始されているとの事で、既に、個人情報を売買するシステムが、日本でもスタートしているという。このスコアリング事業には、ヤフー社、NTTドコモ社、LINE社も参入を表明しており、将来的には情報銀行を目指しているという。

この、スコアリング社会の先駆者は御存知の通り中国である。米国でもクレジットカード情報を元にした信用スコアがあるが、その情報は飽くまでもクレジットカード等の、金融情報に係る信用スコアに過ぎない。しかし、中国ではスコアの取得先も活用先も、全方位的であり、消費者の生活の隅々まで広がっているという。小耳に挟んだことはありますが、ソレですね。中国のスコアの場合、資産のほかキャッシュレス決済履歴、通販利用歴、SNS上の交友関係までもの保有データを統合してスコア化し、既に運用している。スコアは金融取引、商取引に係る用途だけではなく、そのスコアが就職、結婚、進学などに影響しているほか、ビザ申請の公的サービスでも使用されているといい、スコアが高ければさまざまな特典を受けられるが、反面、低スコアであると就職も難しくなるという。

現時点ではアリババグループなどが、そうしたスコアの運用をしているが、そこに更に中国政府がスコアを連携し、信用情報の一元管理を可能とする社会信用システムの構築を目指している。この問題、まさしくディストピアの誕生のようにも思え、しかも、中国の政府が、アリババのカリスマ経営者らに対して、情報を提供させる事で合意している旨の報道もあった事から、おそらくは、そう何年も経ないうちに、中国に於いて、その注目すべき一元的社会信用システムが姿を現すものと予見できそう。中国政府による中国の人々の個人情報の一元管理は2020年、完成予定であるという。

察するに、その2020年に登場するそれは完全管理社会の誕生かも知れないのに、誰も声高に異を唱えないというのが引っ掛かりますかね。2〜3年前に、アメリカでは映画「1984」の上映会が起こったというけれど、日本ではさほど話題にならなかったような記憶がある。

また、先述したジェイスコア社の場合、同社が推奨する行動をとるとスコアを上げることができる機能がついているという。同社が用意した数十冊の書籍の要約を読んだり、スマホで測定した歩行数が目標値を上回ったりするとスコアを上げられる機能がついているのだそうな。しかし、これは何を意味しているのだろうかって思う。

「青いクジラ」と言いましたっけ、世界各地で自殺者を出した謎のゲームがありました。ゲームをさせて、色々な課題をクリアさせ、最終的にはゲームの利用者を自殺に誘導してしまうという恐ろしいゲームの話がありましたよね。実は、応用している洗脳テクニックという部分では似ている気もする。課題をクリアするとスコアが上がる。その事で快楽物質が脳に流れる。それを続けている内に冷静な感覚は麻痺し、与えられた課題のクリアに盲目的に突き進んでいく。そのメカニズムというか、ノウハウとして、脳の報酬系を利用し、洗脳しようというものなのだろうから昔ながらの教養体系、自由思想の体系からすると、かなり危険なことをしようとしているようにしか思えない。それが肯定されちゃうのかって思うと同時に、既にスタートしてしまっていることに驚かされる。

裏返すと、ゲームにのめりこませて、そのゲームのプレイヤーを自殺にまで誘導できるゲームをつくれてしまっている事からすれば、スコアを上げる為に何らかの課題を利用者に課すという事は、かなり危険な行為であると思う。カモを合法的に育てる方法が、遠くない未来に完成するって事ではないんだろか。

憲法が専門の山本龍彦慶応大教授は「人々がAIの定義する『良い行動』に適合するように考え、行動するようになれば、社会の多様性が失われるのではないか」と述べたという。また、政府の検討会で情報銀行の認定制度を検討してきた森亮二弁護士は「スコアの影響力を抑えるために、就職や結婚、進学など、生活に重大な影響を及ぼす場面では使用を禁止すべきだ」と主張しているという。また、宍戸常寿東大教授は「これまでの社会評価は、学歴や所属、出身地、収入など、その人の一部の属性にすぎないラベルを基にしていた。それが全人格的な評価に代われば、今までより公平で効率的な社会を実現する可能性もある」とする一方で「一生逃れられない差別を固定化するかもしれない。さらには内心の自由が侵され、統制された一人一人の人間が一方向に誘導される危険な社会を生む恐れもある」と警告しているという。

先ず、スコアが支配するスコアリング社会が、公平な社会を実現する可能性なんてものは、私は極めて低いと思う。AIがスコアをつけて、しかも、それが人格をスコア化できる等というのは何かの誤解なんじゃないだろか。それが商業利用であったり、政府による一元管理の道具として使用される以上、そこで人格のスコア化は不要ですな。既得権益層は、敵対勢力の排除や、好ましくない反動分子の監視に利用しようとするだろうし、基本的には効率的なカネ儲けの為に開発されている事からすれば、既得権益層、それこそ上級国民でもない限りはメリットは見込めず、むしろディストピアの登場と見るべきなのではないかなって思う。

仮に私が監視する側の立場であったと仮定すれば、その利用法も想像はつきますやね。その座を脅かそうとする敵対関係にある者を排除する事を考えるし、その自らの地位の確保、体制の固定化を画策する。また、労働の対価を得るのではなく、その役得から生じる手数料、その最大化を目論み、その優越的地位を固めようとする。私以上に腹黒そうな人たちが沢山いるのが現実であろうだろうから、向かう方向性ってのは、そっちでしょうねぇ。

全人格スコアが国家に一元管理される未来に、これまでにない公平な社会が実現されるというのは、かなりの理想論なのではないだろか。

このページのトップヘ