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カテゴリ: 格闘技

しばしば歴史というものは勝者がつくってしまうと言われますが、そんな事を考える材料として清朝末期に発生した「義和団の乱」の、その義和団について。いや、この話、ホントに小林サッカーみたいで面白い話なんですけどねぇ…。以下、三石善吉著『中国、一九〇〇年』(中公新書)を参考にして――。

日本にも伝わっている少林寺拳法というものは、中国は河南省登封市の嵩山の西になる少林寺、その少林寺に伝わる少林拳をベースにしているという。では、その崇山(すうざん)少林寺とは如何なる寺なのかというと、達磨大師が9年間も面壁坐禅した寺で、5世紀から存在していた寺院だという。

達磨大師は南インドのバラモン階級に生まれ、その後に仏教を学び、中国へと渡り、梁の武帝と問答するなどを経て、嵩山の少林寺に入ったものだという。達磨大師の教えは弟子の慧可(えか)に伝えられて広まったが、その慧可が達磨大師に弟子入りするに当たり、腕の肘から下を切り落とし、「どうか弟子にして欲しい」と懇願したという逸話があり、それが紆余曲折して、ダルマ(達磨・達摩)とは手足のないものを指すようになり、日本でも御馴染みの「だるま市」のダルマになっているという。

中国にも古くから武術(武器を使用しないものと、武器を使用するもの)は存在していたと思われるが、その代表格が少林寺に伝わっていたとされる少林拳であった。達磨大師とは直接的な関係はないかも知れないが、かの有名な達磨大師にも所縁がある古い寺であるというのがミソになってくるかもしれない。

嵩山少林拳は、少林拳とも呼ばれ、また、硬拳とも呼ばれた。発祥年代は定かではないが明代までは棍棒を使用する棒術が盛んで、いわば「少林棍」であったという。いつの頃よりか素手の武術が広まっていた。武術全般を括る言葉はないので、すべてをまとめて「武林」と呼ぶ事があるという。

分類法にもまとまりはなく、例えば、長江一帯には動作は小さいが激しく動く拳法があり、それを「南派」と呼ぶという。それと対照的に山東・河南一帯には、動作が大きく、ゆったりした拳法を「北派」に分類するという。

現在、中国武術はおおまかに少林派、武当派、峨嵋(がび)派の三派があるという。嵩山少林寺に起源を持つ拳法が少林派である。武当派とは別名として「内家拳」や「柔拳」という呼称を持ち、その真髄は「精・気・神」であり、「静を以って動を制する」というものだという。有名な太極拳は、この武当派に属する。最後に峨嵋派ですが、これは四川省の峨嵋山発祥の流派で諸説あるが詳細は不明で中には近代発祥説もあるという。


清朝末に義和団事件、義和団事変を起こした義和団とは、元々は義和拳という拳法道場集団をメインとする各地の拳法集団の集合体であったという。5〜6個の組織は確認できるが、大きく寄与したものとしては、大刀会、梅花拳、神拳といった3つの組織であった。



1.大刀会

大刀会のリーダは、劉士端(りゅうしたん)なる人物であったという。この劉士端は、白蓮教の武術家であった趙金環が郷里に逃れてきたのを機に、その趙金環に師事して武術の稽古に励んだとされる。10余年ほど修行をしていると、少林拳の秘術である「金鐘罩」(きんしょうとう)、別名「鉄布衫」を体得したという。この金鐘罩は、平たく言えば金属製の鐘を自分の体の鎧にしている状態になるという秘術であり、そうすれば銃弾で撃たれても刀や槍の刃も通さなくなるという術であるという。

そんなバカな…とは思いますが、まぁ、そういう伝承なのだから、仕方がない。また、これには理由があり、中国の武術は功夫(カンフー)と密接に関係しており、且つ、そのカンフーの先には、呪術や宗教が繋がっている為と考えられる。つまり、現実的な技術や、儒教的精神論、更には古代の呪術が未過分なままに発達した非常に面白い系譜なのだ。

この大刀会では、御札を口に含んで飲み込み、呪文を唱え、或る種のトランス状態になるという、そういう呪術性を残していた。また、同時に功夫理論も取り入れられていた。中国武術の体系では、どんなに拳法や刀剣術の練習をしても、功夫を心得ていないと役に立たないと考えられてきたという。では功夫とは何なのかといえば、丹田に意識を集中する事であるとか、気功など、いわゆる心得や基礎理論であるという。物理的な技術だけではダメで、それに精神的霊的なプラスアルファを取得して初めて本当の武術になる、という考え方。

現在の日本の大相撲でも、しばしば「心技体」なんて言うし、日本の場合は柔道、空手道、合気道、剣道、書道、華道、茶道、挙げ句に野球道といった具合になんでもかんでもタオイズム(道)にしてきた文化なので、これは日本人であればこそ、理解できるところがあるかも知れませんやね。技術だけじゃ、ダメなのさ、という考え方。タオイズム(道)そのものは中国発祥だしね。

この大刀会の劉士端は、地主の息子で文武両道を目指し、武術の稽古と科挙試験に向けての勉学に励んでいたが、科挙の方では芽が出ず。それでも科挙制度の中では郷士の受験資格は持っており、これは科挙制度としては県試の合格者資格を持っていた事を意味する。尤も、この劉士端はその地位を金銭で買ったものなので、実際に県試合格者からすれば「カネで買った資格じゃないか」と蔑まれる事もあったと思われるが、それでいて秀才であった事には変わりないという。(常識的な秀才であってもこの時代の科挙制度の合格は難しかったとされる。予備校も、それこそ義務教育も存在していない時代背景なのだ。)

大きな刀、青龍刀などもそうですが、この大刀会では、功夫の要領を踏まえて、これを体得し、心身を体の一点に集中するコツで刀剣を振るえば、それは物理的な何かを超越して、凄まじい切味になると信じられていたという。



2.梅花拳(梅花椿)

梅花拳は、少林拳の系統で、少林七十二芸の内の一つであるという。直径10センチほど、長さ適当の杭を6本集めてきて、その杭を高さ1メートルで、正五角形をつくるようにして地中に埋めて立てる。杭の間隔は約1メートル。杭は1本余っている筈で、その最後の1本を正五角形の中心に埋めて立てる。それを俯瞰すると、正五角形の中心に一本の杭が立っている状態がつくれるが、それが梅の花の形である事から、梅花拳と呼ばれる。

その6本の杭の上で拳法の稽古をするのが、この少林七十二芸の内の一つの梅花拳であり、想像するだけでわくわくしてしまいますが、かなりの難度だという。最初は低い場所にレンガなどを置いて、そのレンガで練習するが、上達すると高さを上げてゆき、杭になる。上級者は杭の高さを約1メートル60センチにもするという。

また、この梅花拳は御札を飲んだり、呪文を唱えることはない。

梅花拳は、梅花椿(ばいかしょう)という別名を持っており、これを応用して杭の本数を増やして北斗七星の形にすることもなどもでき、その場合は北斗椿と呼んだりするそうな。そうした梅花拳の演舞は、人々の前で公開すれば、見世物としても成立したと思われる。曲芸師的な要素もあったの意です。

この梅花拳は河北省の威県に伝わっており、その18代目の道場主は、趙三多(ちょうさんだ)という人物で、この趙三多は実際に梅花拳の達人であった。清朝末には、教民と呼ばれるキリスト教徒と、地方の地主や農民との間で軋轢が発生していた。アヘン戦争に敗れた清朝政府は、欧米列強にいいように譲歩していたので、地方官よりも、天主教の神父の方が3階級ぐらい権力が強い、また、列強各国の公使などでは外交官特権によって無法を働いても、清朝政府は裁く事も出来ず、賄賂なども横行していたという。そこで立ち上がったのが18名からなる義侠心のある義侠たちで、この義侠が伝統的価値観にならって弱い者いじめをしている天主教を懲らしめようと動くと、列強に弱い清朝政府は、この侠客たちを逮捕してしまった。義侠心から立ち上がった18名、これを「十八魁」と呼んでいたらしいのですが、この十八魁と呼ばれた18名を取り返す為に、立ち上がったのが、梅花拳の道場主であった趙三多であった。

この梅花拳の道場主の趙三多は公開模範試合(亮拳)をしても無類の強さを誇る本格派の武術家であった。1898年には白髪頭となり、齢61歳であったが、その十八魁が官憲によって捕らえられ、助けを求められるに当たって、「これは立ち上がらねばならぬ」と決意し、伝統ある梅花拳は、義和拳と名称を改めて、義和団事件の当事者になってゆく。名称を「梅花拳」から「義和拳」に改めた理由には諸説があるが、梅花拳の名称のまま、反乱事件を起こせば関係のない梅花拳の関係者にも迷惑が及ぶとして改称したとされる。



3.神拳

神拳は、別名「少林神打」とも呼ばれる拳法であったとされる。しかし、歴史的には新しく、この清朝末、日清戦争で日本に敗れた後に、朱紅灯(しゅこうとう)という人物が起こした拳法であった。日清戦争での敗北は、中国人には大きな衝撃であると同時に失望であったが、それは清朝政府への失望でもあった。中国の歴代王朝は黄河の治水工事は欠かす事のできない公共事業であった。この清王朝でも、道光帝の時代までは、相応に治水工事や護岸工事が行われていたが、道光帝の時代にアヘン戦争に敗れてからというもの、清王朝内には賄賂などの不正が蔓延り、碌に治水工事をしなくなっていた。それに加えて、日照りが続き、更には大雨に見舞われ、黄河流域では大被害が出ていた。黄河の水面には死体がぷかぷかと浮き、水面が見えないほどであったともいう。

日照りに旱魃、大洪水といった天災が続き、人々は困窮状態にある中、この神拳は或る種の終末論、この世が終わるという日本の末法思想に近いものに推される中、朱紅灯というリーダーの元へ貧しい者たちが集まってきたのが神拳であったという。

朱紅灯は、山東省の長清県の生まれ。子供の頃は「小朱子」(シャオジュウツ)という愛称で呼ばれえていた人気者の少年であったという。しかし、家は貧しく、特に学がある訳でもなく、伯父の家に身を寄せたのは、32歳の時であったという。この朱紅灯は無職であったので、昼間は伯父の家の手伝いをしながら、夜間は地元にあった神拳の道場に通っていた。32歳で、その状態であったというから、かなりの晩成の人である。

朱紅灯は、長身で体格もよく、丸顔で色黒、そしてどこか上品な顔立ちをしていたという。声は「雷のよう」であったというが、誰からも好かれる人気者であった。

神拳は、御札を飲み込み呪文を唱えた。更に儒教的道徳をもセットにして発達したらしく、「弱きを援け強きを挫く」や「親孝行」なども教えてたという。拳法とは言うけれど、道徳塾でもあったという事か…。そういえば、「おとうさん、おかあさんを、たいせつにしよう」って、テレビCMが40年位前の日本でもモーターボート振興会のCMとしてありましたね。かの「笹川良一」ですが、あの笹川さんも確か沢山の武道の道場などを配下にしていたんじゃなかったかな。

この朱紅灯は、一般の地主が教民(キリスト教徒)との間で借地契約を巡るトラブルに介入したのが発端であった。3年間土地を借り上げるので、その間にきちんとカネを支払う事のような契約で、カネの返済を遅れた事を理由に教民は土地の返還を拒否。質流れだという訳ですね。仲裁らしいものもあり、そこでは「厳格に契約の運用を主張し、その実、土地を返還しないという教民の対応は妥当ではない」と裁定を受けたが、これを仮に清朝政府が絡んだ裁判に持ち込むと、外圧によって教民に頭が上がらない清朝政府は教民を有利な裁定をするに決まっている。そういう状況だったのそうな。こうした相談を受けた朱紅灯は、自らが神拳を率いてキリスト教徒征伐を始める。

朱紅灯は「大紅風帽」、これは真紅の長いフードを背中に垂らし、真紅のズボンをはき、紅い旗を掲げ、馬も紅い布か何かをまとって、刀槍を手にして、決起した。騎馬隊を組織していたという事でしょうか。また、団員たちも紅い腹巻などをしていたという。紅い旗には「興清滅洋」と大きく書いており、これは「清朝を興して、洋人を滅する」の意であるが、彼等と対峙したのは官兵、つまり、西洋人に頭の上がらない清朝軍なのだ。



この、大刀会、梅花拳、神拳らが主軸となって、義和拳もしくは義和団と呼ばれる組織が中心に起こした民衆蜂起だったというのが、まぁ、事の真相でしょうねぇ。(外国人アレルギーを持つ未開人が起こした事件ではない。)

「これは武術なのか?」と思うのも当然でしょう。純粋な武術というよりも呪術的であり、儒教的道徳を有し、それでいて道教的・仏教的である。

呪文を唱えて神仙を降臨させ、その自らの肉体に神仙を乗り移らせる事で、無類の強さを手に入れると信じていたという。降臨してくるのは、唐層、悟空、沙僧、八戒らであるというが、これは、どうも西遊記の三蔵法師、孫悟空、沙悟浄、猪八戒である。また、何故か、その西遊記とは別に、三国志の英傑である趙雲と張飛であったという。

(あれ、関羽じゃなくて張飛の方なのか…。この辺りは道教の始祖に「張」という名前と深く関係しているから【チョウ】という音が影響しているとかかな? よくよく見ると、洞から神が出て来ると考えられていたのが分かりますが、洞から出て来る神は、道教の神であり、仙人は洞穴と、神聖なる山の上に棲んでいると考えられてきたからなんでしょうねぇ。)

彼等は拳法の稽古の前に東南に向かって4回、額を地面につけて辞儀をし、静坐(坐禅と同じ)をして呪文を唱えた。呪文として「孫大聖下山、趙子龍下山」などと叫び、孫悟空や趙子龍の化身を自らの身体に乗り移らせるようにしていたという。

何故、そんな事をしていたのかというと、洋鬼子(ヤンクイズ)を打ち負かし、最終的には都の洋鬼子を殺し尽くす為であった。

幻想と現実が入り混じったままに起こった史実と考えると、面白い話だと思うんですけどねぇ。


以下、余談になりますが、柳町光男監督の「旅するパオジャンフー」というドキュメント映画の中に、台湾に住むパオジャンフーと呼ばれる興行師を題材にしたものがある。蛇使いに手品師、演歌師って感じかな。通説では「彼等の出自はホラ話である」とされる。しかし、同作品中のパオジャンフーたちは自分たちは明朝時代の少林拳の達人の末裔であると名乗っている。何故、少林拳の達人の末裔が台湾で大道芸人のような事をしていたのかというのは、謎ですね。しかし、梅花拳の箇所にヒントがあったかも知れない。元々、少林拳の中には、人々の前で実演、演舞を披露して、おカネをもらうなどの興行師の側面を持っていた可能性があるんじゃないのかな、と。実は究極的なフォークロア(都市伝説)の答えだったりして。

それと、台湾には、もう一つの少林寺伝説があったらしい。陳舜臣著『孫文』旧題「青山一発」(中公文庫)には、嵩山少林寺とは別の福建省甫田県に九連山少林寺という寺がある(あった)という。清朝末、謎の秘密結社として洪門(こうもん)ネットワークがあり、その台湾の洪門の僧侶衆120名ほどは絶世の武芸の達人の末裔と名乗っていたという。洪門メンバーの先祖たちは17〜18世紀に九連山少林寺が清朝政府軍からの火矢で攻められた際に脱出し、台湾にやってきたと自称していたらしい。この洪門伝説については「神話と解釈してよかろう」との注記もあるが、それでいて、台湾の洪門メンバーの中には芸人や講釈師が多かったのだそうな。芸能と武術…まぁ、相撲やプロレスを考えても、武術というものが興行に発展する可能性はありそうなのかな…。





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1984年6月27日、藤原喜明と高田延彦が正式にUWF入りを発表。

1984年6月28日、初代タイガーマスク(佐山聡)の、翌月下旬に開催されるUWF無限大記念日興行への参戦を発表が発表される。この際、タイガーマスクは「ザ・タイガー」に改名。併せて山崎一夫のUWF参戦の発表される。これに対して新日本プロレスは、タイガー、藤原、高田のUWF出場は契約違反に当たるとし、法的措置を取ると明かす等、選手移籍を巡ってのゴタゴタが発生する。

UWFは、新間寿の思惑とは別にして「脱プロレス」という方向性の、つまり、シュート要素の強いプロレスとして方向性が定まってゆく。これによって早期からUWFへの参加が決定していたラッシャー木村や剛竜馬、グラン浜田らはUWFスタイルと合わずに去ってゆく事になる。また、木戸修はUWFへ合流。

この頃、実際に観客を呼べるのは佐山聡であり、しかも、その佐山聡のシューティング構想はプロレスからエンターテイメント色を排除し、競技性の高く、最早、プロレスとは異なる格闘技興行を志向していた為、それがUWFを分裂させてゆく。シュート路線のプロレスは概ね好評を得たが、どこまでエンターテイメント性を排除すればいいのかという大問題が早くも降りかかった。興行は、観客が入らねば成立しないし、スポンサーもつかないのが現実であった。

また、既にシューティングを立ち上げていた佐山聡は、山崎一夫をインストラクト―にしており、もっぱら練習はシューティングのジムで行なっていたのでUWFの道場へ顔を出す事はなかったという。UWFの道場内でも、スパーリングは上位選手が付き人の若手レスラーを相手にするものだった。これは従来のプロレス道場も同じであり、実は上下関係が厳しい世界でもあるので、若手レスラーが実力上位のスター選手と自由にスパーリングをする関係性ではなかったという。これは、若手の育成にも関係しており、若手は若手同士でスパーリングをして研鑽してゆくしかないという意味であり、同時にスパーリングで若手選手が上位選手との実力差がない事を示すこと、或いは実力としては上であるとして台頭する事は不可能になっていたという。

佐山聡は、UWFに2リーグ制の構想を持っていたという。実力上位のAリーグ(佐山、藤原、前田、高田、山崎)と、実力下位のBリーグに分けるという構想であった。如何にも競技性を追求した構想であったが、それで興行が成立するのかという問題があったし、或る時期までには前田日明はUWFのエースとなり、新時代のカリスマ的な人気を獲得してゆく存在になっていた。競技性を追求していった場合、仮に前田日明や高田延彦のようなUWFを支えている人気レスラーが下位選手に敗れるような事態が発生すれば、それもまた興行の行方を危うくするリスクが伴っていた。競技性を追求したい佐山聡は孤立してゆき、一方でUWFは前田日明という新たに誕生したカリスマも手放せないビジネス的なジレンマに直面したものと思われる。

勿論、前田日明や高田延彦のセメントでの実力は折紙付きであり、そこに疑念を掲げる余地はあんまりない。とはいえ、脱プロレスの新時代のプロレスとして脚光を浴びたUWFでは、実力至上主義と無縁ではなかった。前田日明はサブミッションは、言われている程、上手くなく、どちらかというと体格と馬力とでサブミッションに補っている強さであったという。高田延彦は、その前田日明から弟分のように可愛がられた実力派であり、且つ、スター性も持っていたが、後に高田延彦もUインターのエースになる頃には同じ問題によって若手とのスパーリングはしない練習スタイルとなってゆく。前田日明や高田延彦の少し後発には船木誠勝、鈴木みのるらが存在しており、実際に第二次UWFでは一緒になるが前田や高田が船木や鈴木のスパーリングに付き合う事は難しかったと思わる。この言い方を変えれば非常にリスキーであった事が分かる。実力至上主義、競技性の高いプロレスに移行すればいいと考えるが、そもそも、それをやってしまうと興行的に成立しなくなってしまうという経営的ジレンマがあったと思われる。前田も高田も「ガチンコに応じる覚悟はあった」と返答する事が予想されるが、そもそも、それぐらいリスキーな事でもあり、少しでもスター選手となって経営にタッチするようになると興行面を考え、若手選手にも給料を払わねばならないという事情に直面する事になるのだ。

故に、過熱するUWF人気の裏では前田日明は経営に深く入り込むようになり、その事が前田日明に対しての不満となって、鈴木みのる、船木誠勝らの中で高まってゆく。後に、パンクラスとリングスとが激しく対立し、且つ、安生洋二が前田日明への襲撃事件を起こす伏線も、そこにあったと思われる。この「興行か実力主義か?」という悩ましい問題を最も早い段階で惹き起こしていたのが、実は「アイツは天才だった」と回想される佐山聡ことタイガーマスクであった。



1984年8月、「ザ・タイガー」は「スーパー・タイガー」に改名。また、カール・ゴッチがUWF最高顧問に就任する。

1984年9月11日、「UWF実力ナンバーワン決定戦」に於いて、スーパー・タイガーが前田日明をチキンウイング・アームロックで下す。

しかし、佐山聡の周辺にはショウジ・コンチャという快人物があった。

1984年10月19日、浦田昇UWF社長が佐山聡のマネージャーをしていたショウジ・コンチャへの強要罪で逮捕される。ショウジ・コンチャをUWF社長が暴力団関係者を使用して恐喝したという容疑であった。

1984年11月2日、佐山聡がコンチャを背任横領罪で東京地検に告訴する。

ショウジ・コンチャは一時的に佐山聡と親しくしており、新間寿に拠れば、ショウジ・コンチャを佐山聡が「お父さん」と呼ぶほどの心酔ぶりで、そもそも新日本プロレスから佐山聡が離脱した事にも関与していたのが、このショウジ・コンチャであったと証言している。

新間寿に拠れば

私は浦田に『佐山を絶対に使うな。ショウジ・コンチャが裏にいる以上は災いの為になるぞ』と言ってたんだ。浦田は『先輩に言われたことは絶対に守ります』と言ったのに、ヤクザを使ってショウジ・コンチャを脅かしてさ。ショウジ・コンチャと佐山が取り交わした書類を浦田が取り上げたという事で、コンチャが丸の内署に告訴した。浦田が右翼と付き合ってたのは知ってたけど。コンチャの件で暴力団が出てきたと聞いて『浦田のバカ、こんなヤクザ使って……』と思ったよね〜以下略〜」

となる。

この第一次UWFは、浦田社長逮捕によって、急遽、藤原喜明社長代行となったが、そもそも藤原喜明という人物は、経営マネジメントには関心が薄いタイプであった。週刊プロレスの関係者らは、このタイミングで、前田日明を社長に据えれば…と語っている。後述することになりますが、前田日明という人物は、敵も多い反面、相応に組織運営、会社経営にも尽力するタイプの人物であったと全般的に回想されている。

明けて、1985年8月18日、衝撃的な事件がUWFを巻き込む事となる。テレビニュースでは、純金の現物まがい商法で問題視されていた豊田商事、その会長であった永野一男会長が、記者らが詰めかける中、そこへ押し掛けてきた暴力団員風の男2名によって刺殺されるという日本列島を揺るがした大事件が発生。しかし、この豊田商事はUWFのスポンサーであった。これによって、テレビ東京で予定されていた地上波放送は中止に。

1985年7月25日、この日、第1回UWF公式リーグ戦を藤原喜明が優勝で飾る。同日、前田日明がスーパー・タイガーを逆エビ固めで下す。しかし、この前田とスーパー・タイガーの試合は、関係者が前田に佐山制裁をけしかけた為に発生した幻のシュートマッチと噂が立つ。(大田区体育館)

1985年9月2日、この日も前田日明とスーパー・タイガーの試合が行われたが、前田がスーパー・タイガーの急所を蹴って反則負けとなる。(大阪府立臨海スポーツセンター)

この不穏試合はVHSで視聴した記憶が私にも残ってる。非常に不可解な試合であり、会場は、この一戦に期待しているのは明らかであるが、妙に殺伐としており、前田の急所蹴りがあったからなのか、スーパー・タイガーの方も得意技のローリングソバットで前田日明の急所を狙いに行っているような、非常に危険な空気の試合であったのかな。佐山聡は険しい顔つき、その顔は蒼ざめており、それでいてマイクを叩き付けて花道を去って行った、おおよそプロレスらしくない試合であった。

1985年9月11日、前田日明は欠場。藤原喜明がスーパー・タイガーを破り、第2回UWF公式リーグ戦を制(連覇)する。

1985年10月3日、スーパー・タイガーの急病を理由にして予定されていた興行の中止が発表される。

1985年10月11日、佐山聡がマスコミを通じてUWFからの離脱を発表。


さて、前田と佐山の、あの不穏試合は、一体、何だったのか?

前田日明は、大阪臨海スポーツセンターで行われた不穏試合について、以下のように語っている。

試合前に伊佐早さんと上井が俺のところに来たんだよ。田中正悟も佐山さんに対してはああだこうだいってたけど、俺のところに直接やってきたのは伊佐早さんと上井。本当に試合直前にね、『もう佐山を潰してください!』って言ってきた。そりゃ当時は俺も佐山さんに対してむかっ腹を立てていたけど、爐修Δい試合瓩呂笋辰舛磴い韻覆い隼廚辰討拭それをやるならクビをかけてやらなきゃいけないと思ってたんだけど、でもやっちゃった。だから臨海の試合が終わったあと、俺はみんなに『長いことお世話になりました。今日を最後に辞めます』と言って退いた。だけど、みんなは佐山さんじゃなくて、俺を迎えに来てくれたんですよ。そのとき、高田なんかは『次、俺が佐山さんをぶち殺しますよ』とか言ってたけどね、当時の高田が佐山さんに仕掛けたら、本当に佐山さんはなにもできなかったと思う。〜以下略〜」

どうも第一次UWFでは、確かにシュート路線へ一直線の佐山聡に対して、UWFのフロント陣にしても所属プロレスラーにしても危機感を募らせていたらしい事が分かる。ロストポイント制や2リーグ制といった競技性を主張する佐山聡に対して、フロントから前田日明に「潰してください!」と依頼があり、前田がそれに応じてセメントを仕掛けた事により、あの不穏試合が発生したというのが真相と思われる。

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どうしても見つからないのですが、前田日明の自著とされる書籍を読んだ経験がある。『格闘王』とか『格闘伝説』とか、そんなタイトルだった気がするものの、20年以上は昔なので記憶もおぼろ。ですが、どうも山本小鉄からは「トンパチ」と呼ばれていたらしい事が綴られていたのだったかな。聞き慣れぬ言葉だったのですが、仮に翻訳するなら「ハネッカエリ」のような意味であったか、つまり、新日本プロレスの若手の中でも、前田日明という若手は「トンパチ」と認識されていたらしい。そのトンパチな前田日明が、新日本プロレスの経営でクーデターのような動きをホントに見せていたという。

思えば力道山の死後の日本プロレスは乱脈経営となり、そこから全日本プロレスと新日本プロレス、それと国際プロレスへと選手が散っていった。その分裂騒動の裏には、間違いなく乱脈経営があり、その経営を糾弾したのがアントニオ猪木であった。ややあって、不正を糾弾したアントニオ猪木は逆に日本プロレス側から「会社乗っ取り」を画策したと反撃を受けて、日本プロレスから離脱。水面下では各テレビ局が動いており、独立、後に新日本プロレスが立ち上がる。日本プロレスの大エースであったジャイアント馬場にしても、日本テレビが背後に回り、全日本プロレスを立ち上があり、母体であった日本プロレスは馬場と猪木を失い、急失速し、2つのチャンネルでテレビ中継枠を持っていたがスター選手のいないプロレス中継が視聴率を取れる筈もなく、打ち切られる。日本プロレス残党は全日本プロセスへ。

時代は繰り返すという感じですが、UWFの誕生も似て見える。演じる役回りは変わり、この1984年の動きというのは、アントニオ猪木らが猪木が興した会社「アントン・ハイセル」に新日本プロレスで上げたカネを注ぎ込み、莫大な負債を抱えており、1983年8月、新日本プロレスの選手らはクーデターを起こした。これによって、アントニオ猪木は社長職を辞任し、坂口征二も副社長を辞任、猪木の片腕であった新間寿も謹慎処分になるという騒動が発生した。この1983年8月というのは、同月10日に佐山聡が内容証明郵便で新日本プロレスに決別を告げたタイミングである事からすると、そもそも佐山聡も、この会社経営に対しての不振から新日本プロレスを離脱したものと推定できそう。

この事態は放送局であったテレビ朝日をも巻き込んむこととなり、テレビ朝日は「猪木抜きでのテレビ中継は有り得ない」と介入し、後に猪木と坂口は元の役職に復帰を果たした。しかし、猪木の片腕、敏腕マネージャーなどと呼ばれていた新間寿は、そのまま、新日本プロレスを放逐されるという経緯を辿った。その新間寿は新プロレス団体の旗揚げを画策し、それがユニバーサル・レスリング連盟であり、通称「UWF」であったという。

1983年8月10日、佐山聡がいち早く内容証明付き郵便を新日本プロレスに送り付ける。

1983年8月23日、この日は大宮スケートセンターで興行があったが、この日、藤波辰巳を先頭に山本小鉄、長州力らが猪木・坂口・新間をやり玉に上げて抗議。試合のボイコットも検討されていたという。前田日明の場合は、まだまだ若手であり、後ろの方についていっただけであったが、前田は複雑な心境であったらしい。というのも、前田をスカウトしてくれたのは、その新間寿でり、前田からすれば恩義もあれば面倒も見てくれる人物であり、その新間寿が新日本プロレスから離れる事は複雑な感情だったと前田自身が語っている。

結局、新間寿は新日本プロレスを追放され、その新間寿がUWF創立を画策した。そして新間は、前田日明をUWFに参加させるべく、口説いた。

「猪木とタイガーマスクも、後から合流する。フジテレビもついている」

と。

その第一次UWFに、アントニオ猪木もタイガーマスクも参加するという新間の構想は、ホンモノだったのだろうか? この詳細は分かり難い。佐山聡は電撃引退し、東京・世田谷にタイガージムをオープンさせ、そこでは佐山聡に着いて行く形となっ山崎一夫、通称「山ちゃん」はインストラクターになっていた。また、前田日明も、偶然、二子玉川の高島屋内の紀伊国屋書店で偶然に佐山と鉢合わせし、その場で「一緒にやらないか?」と誘われたが、当時の前田日明は諸々の理由で金銭が必要であり、佐山の誘いを受ける事は難しかったし、やはり、新間寿に世話を受けており、その新間からUWFへ勧誘されていたので、それを断る事は考えにくかったらしい。なので、佐山にシューティング入りの勧誘を受けはしたが、前田はそれを断って、自らの選択によって第一次UWFへの参加を決断したというのが実相であった事になる。


1983年11月1日、新間寿が新日本プロレスを退社。

1984年1月29日、新日本プロレスと契約していた剛竜馬が遠征先の函館から失踪。

1984年2月11日、佐山聡が「タイガージム」をオープンさせる。


新間寿の証言に拠れば、この第一次UWF構想は、人脈を持っていたビンス・マクマホン・シニアのWWFとUWFとを契約させ、UWFにアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンを呼べるようなプロレス団体にするという構想であった。佐山聡が参加してくれれば、それに越したことはないが、実際には佐山聡と新間寿との間には太いパイプはなく、むしろ、佐山は新間を敬遠したがっているような状況であったというのが新間の語る証言である。他方、アントニオ猪木のUWF参戦については新間は信じていたという。しかし、事実はどう転んだのかというと、アントニオ猪木は、UWFには参加しなかった。

その後も新間はラッシャー木村、剛竜馬などをUWFに参入させている。しかし、選手集めは難航し、大宮スケートセンターで行われた第一次UWFの旗揚げ戦では、ポスターには、猪木、タイガー、長州といったスタープロレスラーが印刷されているにの関わらず、新生団体UWFのエースを務めたのは前田日明であった。いわば、押し出される形で新団体のエースになったのが、前田日明であったらしい。

既に述べた通り、UWFとは、その構想の時点では脱プロレスの意識は無かった事になる。そのUWFという名称を考えた新間寿にして、WWFと提携し、フジテレビをバックにした新しいプロレス団体を旗揚げしようとしていたのが分かる。そのUWFのリングで披露されるプロレスは、別段、シュート系でもなかければ、プロ格闘技路線でもなく、団体の信念としてロープに飛ばされても戻ってこない、ハンマースルー無視を絶対的な信念として掲げていた訳でもなかったらしい。ただただ、新日本プロレスの分離劇であったらしい。思うように選手が集まらぬ中、前田日明がエースに押し出され、そこに集まったメンツでプロレスをやってみたところ、新日本プロレスの藤原組のスパーリングの延長線上のような、そういうプロレスになっただけというのが、このUWF誕生のキッカケだったらしい。

それを面白がって、週刊プロレス(ベースボールマガジン社)がUWFを「新しいプロレス」と位置付けて大々的に取り上げた為、UWFは既存の台本のあるプロレスとは異なり、真剣勝負のプロレス、競技性に則った新しい時代のプロレスとして認識され、UWFブームを惹き起こしたというのが真相らしい。

では、実際のUWFで行なわれていた試合とはプロレスだったのかというと、やはり、これはプロレスであった。前述したように新日本プロレスの道場でゴッチ流のそれを藤原喜明が取り入れ、兎に角、スパーリングを行なっていたものが原型だという。打・投・極のような、シンプルなものであり、稽古であるスパーリングを試合として披露しても地味になってしまう事は分かっていたので、プロレスの要素、つまり、エンターテイメント性を完全に排除する事は、当たり前にしていなかったというのが、UWFの実相らしい。

1984年3月2日、ラッシャー木村と前田日明が、新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」を無断欠場。

1984年3月6日、新宿のビルに「UWFユニバーサル・プロレスリング蝓殖廝廝謄錙璽襯鼻Ε譽好螢鵐囲¬阻槁堯廚箸いΥ波弔掲げられる。

ラッシャー木村、前田日明は、この新宿のビルに看板が掲げられる僅か4日前に新日本プロレスを無断欠場し、新間寿のUWFに移籍を巡る動きの中での無断欠場であった事が分かる。

しかし、新間寿の構想は、最初から躓いたらしい。新間は「猪木も来てくれる」と思っていたが、猪木は来なかった。おそらく、テレビ朝日の上層部までもを巻き込んで、猪木を保留工作が為されたものと思われる。

1984年3月8日、毎週水曜日夜8時からUWFを一時間枠で中継すると発表していたフジテレビが、テレビ中継の中止を発表。UWFにアントニオ猪木、タイガーマスクが参加するという話であったが、どちらも難航している事が明らかになった為であるという。

1984年3月26日、前田日明がニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、ピエール・ラファエルと戦い、勝利し、そこでWWF認定インターナショナル・ヘビー級王者として「UWF」と刻印されたチャンピオンベルトを巻く事となる。同時に、正式に前田日明はUWF入りを表明。

1984年3月30日、新日本プロレスに残留する立場であった藤原喜明が、

「個人として、前田の野郎を潰す」

と発言する。これは藤原喜明がUWFの旗揚げ興行に単身で殴り込みをかけてやるという発言であったが、これを新日本プロレスも容認した。プロレスといった興行世界では、ライバル団体の事務所に敵対する団体のプロレスラーが押し掛けてくる事が実際に過去にもあったらしい。その辺りの激しさは否定しようがない世界でもある。但し、この場合の藤原の「前田の野郎を潰す」という発言は微妙にも思える。前田憎しから出た言葉なのでしょうが、プロレスという見世物世界、プロレスファンからすれば、そうした遺恨の要素は歓迎され、「これは愈々、面白い事になってきましたっ!」と内紛をもエンターテイメントとして受け止められてしまう、虚構綯い交ぜの世界でもあるのだ。

高田延彦は前田日明の弟分のような立場であった事もあり、前田日明を追って渡米。ロサンゼルスで前田と会い、一緒に帰国。

1984年4月9日、高田延彦もUWF参戦を表明。

1984年4月11日、3100人満員の観客を集めて、埼玉・大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行ななされる。ポスターには、アントニオ猪木、タイガーマスクも刷られていたが、メインイベンターは前田日明であった。(この時から前田はリングネームを「前田明」から「前田日明」に改めた。)

1984年4月17日、旗揚げシリーズの最終日、蔵前国技館会場に藤原喜明が姿を現し、ここで前田日明との一騎打ちが実現する。試合は両者フェンスアウト。試合は延長になったが、両者KOという決着で終わった。

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2017年刊行の『証言〜UWF最後の真実』(宝島社)では、前田日明、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのる、安生洋二、山崎一夫、田村潔司といった人物らが、UWF分裂劇について語った証言を収録しており、キーマンの内の佐山聡、高田延彦を欠いているものの、おおよそ、その誕生から分裂までの経緯が語られている。

このUWFの問題、私自身は前田日明派として物事を見ていたのですが、後年になって「前田日明」への不満の声らしいものが多々あるように思えるようになり、一体全体、何だったんだろうと捉えていたのですが、証言を搔き集めたものを目にしてみると、なんとなく自分なりに、その分裂劇の実相のようなものも見えてきてスッキリとしました。なんだかんだいって、既に名前を挙げたUWF出身とかU系と呼ばれたプロレスラーは、それなりに一時代を築いたプロレスラーであり、確かに記憶に残っている。確かにUWFブームみたいなものが、1983〜1984年にかけて大いにも盛り上がったのを記憶している。新しいスタイルのプロレスの登場であり、途中からは新しい時代の到来、その象徴のように輝いて見えたのは確かですかねぇ。



1983年8月10日、初代タイガーマスクとして四次元プロレスを披露していた佐山聡が、新日本プロレスとテレビ朝日とに内容証明郵便を送り付け、新日本プロレスからの離脱を宣言する。佐山聡の新日本プロレス離脱の意図は判然としない。しかし、この佐山聡は、いわゆる第一次UWFを語るには欠かせぬ人物である。第一次UWFでは、その看板選手は前田日明であったが、そこに「スーパータイガー」の名前で佐山聡も参加しており、この佐山聡のシューティング構想が第一次UWF崩壊劇の元凶のように語られている。

この佐山聡については、70年代から猪木が「ウチの佐山はあらゆる格闘技を身に着けていて…」という具合に語っていたような記憶があるし、梶原一騎が主催した「格闘技大戦争」に参加、そこで佐山サトルは、プロレスラーであったにも関わらず、マーシャルアーツ(これは全米プロ空手と訳されていた)のマーク・コステロとキックボクシングルールで対戦、ただただ、6ラウンド、押され続けたまま、判定負けしたという異種格闘技戦を経験していたという。これ、視聴した記憶があるかな。まったく見せ場のない凡戦であったと記憶している。猪木が「佐山サトル、佐山サトル」と名前を出していたのでホープなのだろうと思っていたものの、その試合は殆んど何も出来ずに敗北した試合であった。

1977年11月14日、日本武道館に於いて「格闘技大戦争」の興行があり、そこで佐山聡は、キックボクシングルールで、全米プロ空手のマーク・コステロと6回戦を行ない、ほぼ見せ場ないままに判定負けを喫した。これが、起点であったと思われる。この佐山サトルVSマーク・コステロ戦について、前田日明と藤原喜明とが語っている。


藤原の弁
「あの試合は素晴らしかったよ。だって、あのときの佐山はキックの練習を始めて半年ぐらいだよ? それが6ラウンドだか7ラウンドまでやりきったからね。殴られても蹴られても、最後までたってだろ? ほかのヤツだったら、1ラウンドでもう立ってられないよ」

前田の弁
「俺らが新日本の若手だった頃、当時の猪木さんは神様みたいに偉い人っていう感じで、みんなが『社長! 社長!』って尊敬していて、とくに佐山さんなんかは『猪木さんは神様』っていう感じだったんだよね。それで猪木さんもそういう佐山さんをかわいだっていて、『佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ』って言ってたんだよ」

そんなニュアンスがあったような気がする。そうじゃないと、そういうルールで戦わせないだろうし、おそらくはテレビカメラの前でも、そういう発言をしていたのではなかったかなぁ…。だからこその、コステロ戦であった。しかし、実際には、佐山は何も出来ぬままに判定負けしてしまったのだ。佐山サトルの才能は本物であったが、さすがにキックボクシングのルールで戦うってのは、見通しが甘かったんでしょうねぇ。

再び前田の弁
「佐山さんが武道館でやったキックのマーク・コステロとの試合で、なにもできずに負けちゃったでしょ。あれがたぶん猪木さんのなかで凄いショックだったんだろうね。『佐山ならいけるだろう』って思ってたのに。あの試合は俺らが見ても『なんで佐山さんはなにもできないんだろう?』って思ったんだよね。キックのルールなんだからしょうがないとかって言うんだけど、それ以前の問題でまったくなにもできなかった。

それで猪木さんも『佐山でこれなら、ほかのヤツは難しいな』って思ったんじゃないのかな。〜中略〜それぐらいね、佐山さんの運動神経のよさ、身体能力の高さをみんなもよく知ってたから」


前田日明の回想に拠れば、コステロ戦では長州力や藤原喜明あたりも「なんで佐山は何もできないんだ?」のように述べていたというが、前述したように藤原喜明は「あの試合は素晴らしかったよ。やりきったからね。ほかのヤツだったら1ラウンドも立ってられないよ」と証言している。(前田証言を採れば、藤原喜明も試合直後には、そう言っていたのかも知れない。)

そしてまたまた藤原の弁となりますが、単刀直入、「佐山は天才」と藤原喜明は語っている。前田日明や高田延彦は、カール・ゴッチ道場に留学した藤原喜明、その藤原喜明と新日本プロレスの道場でスパーリングをする事で、そのサブミッション技を含む技術を磨いていった。佐山も確かに藤原喜明と一緒にカール・ゴッチ道場へ留学したが、佐山の場合は、その後も期待を背負ってかメキシコに遠征し、更にはイギリスにも遠征し、それで、あの空中殺法のようなものも体得したプロレスラーなのだ。なので、新日本プロレスの道場でスパーリングをして技術を磨いたという期間がない。それなのに、何故、佐山はサブミッション技についても高い技術を持っているのかに藤原が答えている。

「あいつは天才だからだよ。俺はゴッチさんに習った技を、イラストに描いて覚えて、それを何度も反復練習することでみにつけていったけど、あいつは教わると、『ああ、こうやればいんだ』ってわかっちゃう。力学もメカニズムも考えずに、できちゃうんだよ」

「でも、天才ってのは教えるのが下手なんだよ。できないヤツがいると、『バカ野郎、そんな簡単なこともできないのか!』となってしまう。自分が簡単にできてしまうから、できないヤツがなぜできないのか、理解できないんだよ。佐山は昔からそうだったな」


こう並べてみると、この藤原喜明による「佐山は天才論」は、非常に説得力があるように思えてくる。その天才の欠点にも言及している訳ですからね。また、この佐山が、第一次UWFの分裂の引き金になっている事にも繋がっており、且つ、何故に、佐山聡が魅せるプロレスを完成させたタイガーマスクとして一世を風靡しながら、シュート構想になってしまったのかの遠因も探ることができそう。つまり、アントニオ猪木の格闘技世界一路線という構想、その構想を引き受けてしまったのではないだろうか? それこそ、猪木から「佐山なんかキックボクシングでもキックのチャンピオンを倒しちゃうよ」とまで期待されながら、実際には何も出来なかった事がトラウマ、いやいやトラウマではなく、それを発条(ばね)として、その猪木の夢の具現化を追求し、プロレスからリアルファイトへと転身する事になっていったのではないか? なんてね。


しかし、この佐山聡はスーパータイガーとして第一次UWFに参加、そして第一次UWFのエースとして頭角を現すことになる前田日明と、不穏試合を起こす。その不穏試合、VHSビデオで視聴した経験がありました。前田のキックが急所に当たったとかで試合が紛糾、怒ったスーパータイガーはリングを降りて引き揚げて行ってしまった試合で、ビデオで視聴しても意味がさっぱり分からなかった記憶がある。当時は、〈この前田と佐山との間ではどちらが強いのかハッキリさせてはいけないので、故意に仕組まれた無効試合なのだろうな〉と思っていたのでしたが、どうやら、正真正銘の不穏試合だったよう。団体の運営方針で揉めていた佐山と前田との間で、プロレスとは異なる原理での争いが発生してしまったというのが事の真相だったよう。

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山本茂著『ピストン堀口の風景』(ベースボールマガジン社)は、拳聖と称されるピストン堀口を題材としたノンフィクションであり、そこには、震えてしまうようなピストンの逸話が記されている。既に同著を参考にして「槍の笹崎戦」については触れたのですが、それ以前のクライマックスであろう「血の十回戦」について、同著に沿って――。

昭和9年10月、全日本拳闘倶楽部と東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)が共催して、第一回「全日本選手権者決定戦」の開催を発表した。これは日本のボクシング史としては日本人プロボクサーを各階級毎に戦わせ、そのナンバーワンを決定しようという主旨の選手権の意であり、平たく言えば、日本王者が乱立していた時代に、真のチャンピオンを決定すべく、統一王者を決定するという意味合いがあった。

この当時のボクシング興行は興行権が分裂・乱立しており、渡辺勇一郎の日拳(日本拳闘倶楽部)、嘉納健治の大日拳(大日本拳闘倶楽部)などは自前で王座をつくり、王者を擁していた。一方の堀口恒夫は早稲田大学の学生、いがぐり頭のアマチュア日本人ボクサーとして昭和8年の日仏対抗戦に出場、その日仏対抗戦で、堀口恒夫という一人の少年拳士は「ピストン堀口」というニックネームを自然に勝ち取った。

日仏対抗戦ではフランスから3名のボクサーを招き、日本からも三選手が対戦した。日仏対抗戦で、堀口恒夫はフェザー級としてルール・ユーゲと対戦し、8ラウンド判定勝ち。このユーゲ戦で堀口は「次から次と連打するパンチの連続は悪魔のよう」と評された。先駆けて堀口恒夫の繰り出す連打は「機関車のピストンのような連打」と比喩されており、このユーゲ戦の勝利によって「驚異的存在! 堀口『魔力』のピストン』 ユーゲを圧倒」という新聞見出しが打たれ、この頃から誰呼ぶとなく「ピストン堀口」が通称となった。実はリングネームとして名乗っていた訳ではないのだ。

そのユーゲ戦の翌月には、ピストン堀口は、この日仏対抗戦のフランスチームの総大将として来日していたバンタム級のエミール・プラドネルと拳を交える事となる。このプラドネルは来日後、日本人選手を相手にして3戦3勝、それもそのはずでプラドネルは26歳のフランス王者であり、戦績は75勝12敗6分け(24KO)の正真正銘のワールドクラスの実力者であった。対する堀口は18歳、早大一年生のまま、プロボクシングのリングに上がり、8戦8勝(5KO)。果たして、堀口のボクシングが世界の一流どころに通用するのかどうか、注目の一戦となり、実に3万人もの観客を集める大興行となったが、堀口はプラドネルとドローを演じ、これによってピストン人気が爆発する。

堀口恒夫は、元々は柔道の黒帯の保有者であり、真岡中柔道部の出身。柔道大会でも不死身の柔道家として栃木県内では知られていたが、堀口は「柔道は一本取られたら負けだけど、拳闘だったら戦闘不能になるまで戦える」とボクシングの道を歩んだ柔道少年でもあった。決して締め落とされない不死身のタフネスさが堀口の売りであり、それはボクサーになってからも変わらなかった。映像は残っていないが、ファイティング原田の、あの連打がピストン堀口のボクシングに最も近かったとされている。とにかく相手の懐に飛び込んで連打、連打連打のあめあられ、肉を斬らせて骨を断つというボクシングスタイルで、熱狂させたという。

その翌年に、日本のチャンピオンを統一すべく全日本選手権試合の企画が持ち上がった。つまり、或る意味では、ピストン堀口は、ボクシングファンたちの目玉中の目玉でもあった。

全日本選手権大会は昭和9年11月5日から予選が行われた。フェザー級にエントリーしているピストン堀口は順調に勝ち上がっていった。

1回戦は細井実(城南)に2回TKO勝ち。

2回戦は増村雪一(大日拳)に2回TKO勝ち。

続く準決勝は同年12月20日に行われ、ここでピストンは橋本淑(帝拳)と対戦。この橋本はベテランの老獪なボクサーであり、この試合は流血戦となって、6回判定までもつれた。勿論、ピストン堀口が勝利した。

残るは決勝戦だけとなった。決勝戦は準決勝の6日後となる12月26日。場所は国技館。相手は、小池実勝(大日拳)と決定した。

この小池実勝はタクシー運転手からボクサーに転身し、「タイガー」の異名を持つ強打者であった。無頼派ボクサーであり「酒、タバコ、女、なんでもこい」という個性派。頭を左右に振りながらラッシュしてくる荒くれファイター。

小池実勝と堀口恒夫とのフェザー級の決定戦は目玉であった。しかし、ピストン陣営には重大なアクシデントが発生していた。僅か数日前に行なった橋本淑戦で堀口は両瞼を深くカットし、試合後、荏原病院に入院していたのだ。荏原病院の病院長は堀口恒夫の大ファンで私設ドクターとして試合に付き添う程であったが、26日の決勝戦に堀口が出場する事は不可能、とてもリングに上げることはできないと判断していた。

しかも相手は小池実勝であり、大日拳のエース選手であった。大日拳は兵庫県の神戸を地盤にしていたが、その大日拳の嘉納健治会長は嘉納治五郎の実弟で、ピストルを懐に忍ばせていた等と風聞が流れ「ピス健」という異名で呼ばれていた人物でもある。激しい試合になる公算が高く、両瞼に深い裂傷を負った状態でリングに上がる事は、将来を嘱望されている堀口恒夫には相応しくないと誰もが思ったので、堀口陣営(この頃は日俱)は全日本拳闘連盟に出場辞退の意向を伝えた。

全日本拳闘連盟は悲鳴を上げた。実は、小池実勝(大日拳)の方からも小池が肋骨を痛めたので決勝戦への出場を辞退したいと申し出ていたのだ。小池の代わりとなる選手を探し出して堀口と戦わせれば興行としては成立するかと考えていた矢先に、堀口陣営からも出場辞退の申し出が来てしまったのだ。20日に準決勝を行ない、その6日後の26日に決勝戦を組むというハードスケジュールが災いしているが、当時は、こういう日程で行われていたらしい。

この異常事態によって主催者はじめ関係者、慌ただしく動き回り、堀口に出場を懇願する事になった。堀口の所属する日俱は、無論、無理な出場をさせたくないという態度で一致していたが、確かに、その国技館を借りて行う予定になっている決定戦、しかもフェザー級の決定戦は目玉中の目玉であり、堀口が出ないのであれば興行として成り立つのかどうかさえ、怪しくなってしまう状況になった。日俱の渡辺勇次郎会長は、反対の意向であったが、粘られる内に「出場の判断は本人である堀口に任せる」という事になった。

これによって関係者らは雁首を揃えて荏原病院へ向かった。荏原病院の病室では堀口がベッドの上で包帯をぐるぐる巻きにして休んでいた。なんとか試合出場をお願いしようと思っていたが、その痛々しい堀口の入院姿を見て、動揺した。これはお願いしても無理だと思ったが、念のためと思い、連盟の意向、つまりは「(堀口君には)是が非でも出場して欲しかったのだが…」と状況を説明した。

連盟関係者から窮状を伝えられた堀口は、嫌な表情一つ浮かべることなく、間髪入れず、意外な要求を突き付けた。

「わかりました。ぼくは出ます。ただし、一つだけ条件があります。ぼくの傷は試合当日まで治る見込みはありませんから、また血がでると思います。しかし、たとえどんなに出血してもストップかけないでください。これを約束してください」

拳聖ピストンは、そういう人物であった。出るからには負けたくない。出血が深刻だからとドクターストップやレフリーストップでテクニカル・ノックアウト、つまりTKO負けを喫する事は避けたい。悔しくて我慢ならない。だから、どんなに自分が流血してもTKOとしないという条件、この約束を守ってくれるのであれば、出場してもよいと言い出したのだ。現在であれば大騒動になってしまうような「TKO無し」という変則ルールで、その決勝戦は行なわれる事となった。

斯くして、昭和9年12月26日20時30分、国技館には1万5千人の観客が集まり、そこではフェザー級決勝戦として、ピストン対タイガー、すなわち、堀口恒夫対小池実勝の、伝説的な十回戦が行われることとなった。小池実勝の方も当初は出場辞退を申し出ていたが、出場してきた。包帯を巻いて入院していた堀口が出場辞退を撤回したと耳にして、大日拳の荒くれタイガーも出場辞退を撤回したのだった。

レフリーを含めて、主催者は堀口ルールを知らされていた。「どんなに出血してもTKOの裁定はしてはいけない」という暗黙のデスマッチルールになってしまっていた。それは後ろめたいものであったが、主催者としては行なわない訳にはいかず、実現させてしまった禁断の一戦であった。

◆第1ラウンド
ゴングが鳴ると堀口がラッシュをして前で出る。小池は足をつかってサイドステップでかわす。前に出る堀口、それを横にかわす小池という型が試合を支配することになる。サイドステップで堀口をかわした小池が右スイングパンチを堀口の顔面に叩き付ける有効打を放つと、その一発目で、堀口の瞼は決壊し、血をしたたらせる。傷口が開いてしまったのだ。2分過ぎまでには両瞼から出血し、堀口は血が目に入ってしまっている。

◆第2ラウンド、第3ラウンド
両瞼の流血に苦しんでいる堀口は、いつもの飛び込んでからの小さなパンチの連打ではなく、大きなフックで小池に対応しようといている。それに対して小池は冷静にスイングパンチを振り回し、堀口の顔面を狙い打ち、ヒットさせる。

◆第4ラウンド〜第7ラウンド
相変わらず小池のスイングパンチが堀口にヒットするが、小池のパンチがヒットする度にリングサイドからも、堀口の血が弧を描くようにして飛び散っているのが見えるほどの大流血となる。堀口は両瞼から血を噴き出している、そういう大流血試合になってしまった。

堀口はボクシングテクニックを捨てて、小池に対応するように大振りのスイングパンチを振り回すようなボクシング戦術へと変わる。堀口陣営は、大振りのスイングパンチ一撃で小池タイガーを薙ぎ倒そうとしていた。

堀口の流血が止まらない。レフリー荻野貞夫の白いシャツは赤く染まり出し、小池も堀口の返り血を浴びまくっている。キャンバスも堀口の血で血塗れとなり、スリップしやすい状態になり始める。さすがに出血多量で生命にかかわる事態になるのではないかと気を揉み出す関係者が出始める。一発、パンチが当たる度に血飛沫が舞い、堀口も小池も互いに血吹雪の向こうの相手と殴り合いをしているという大流血試合になる。

余りの堀口の大流血に国技館の客席から

「もうやめろっ!」

という怒声が散発的に場内に響きはじめる。堀口のコーナーのマネージャーである岡本不二は顔を伏せたまま、試合を直視できなくなっている。

第7ラウンド終了後、マネージャーの岡本は堀口の両目が完全に塞がってしまっている事に気付き、ちゃんと見えているのかと尋ねると、堀口は、「まだ見えます。でも、赤いカーテンを隔てて戦っているみたいです」と返事した。

◆第8ラウンド〜最終10ラウンド
第8ラウンドに堀口の拳が小池実勝のボディを襲い、小池がよろめく。まさかまさかの大流血している堀口の攻勢が起こった。堀口は、赤いカーテンの向こうの小池にピストンのような連打を放つ。

第9、第10ラウンドは乱戦模様となり、両者、死力を振り絞っての激しいブローの応酬をし、そのまま最終10ラウンド終了のゴングが鳴った。

しばらくして判定が集計された。壮絶な流血戦の末にレフリー荻野貞行が勝者として掴んで高く掲げた腕は、堀口恒夫の腕であった。

(テレビ東京「なんでも鑑定団」で、この伝説的一戦「血の十回戦」の時に堀口が獲得した曰くつきのチャンピオンベルトが出品された際、いいVTRがつくられていました。)

また、ピストン堀口は、こう無理までして大日本拳闘連盟の為に死闘を演じたが、翌年、タイトルを剥奪されている。小池実勝戦で負ったダメージから回復しきれず、翌10年に大日本拳闘連盟が東洋チャンピオンであったジョー・イーグルの招聘を画策するが堀口は出場できず。その後、日俱と大日本拳闘連盟は決裂し、かの大流血試合の僅か2ヶ月後でしかない2月28日には、日俱は連盟から除名され、ピストン堀口が血まみれで獲得した王座は剥奪されてしまった。

元々、この「血染めの十回戦」は主催者から窮状を訴えられ、「そうであれば」と粋に感じて願いに応じたものであったが、結局、そうした義侠心的な態度は報われなかった。こういうのが、世の常という事なのかも知れませんけど。

拳聖・堀口の公式戦績は判然としない。戦績:186戦144勝(88KO)26敗16分とインターネット上では表示されるが、山本茂著『ピストン堀口の風景』(ベースボールマガジン社)では公式試合の記録は176戦とも178戦とも言われるが、堀口の時代のボクサーは草拳闘という八百長試合にも上手に応じていたので、公式試合でないものを含めれば400戦以上をこなしたとされる。前掲著に拠れば、確実に分かっている記録は「47連勝」と「82KO」であり、いずれも誰も破れない金字塔的な記録だという。
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2019年11月に発刊となった『猪木伝説の真相』(宝島社)は、アントニオ猪木、佐山聡、前田日明、藤波辰巳、天龍源一郎、藤原喜明、グレート小鹿ほか、多数のインタビューによって「猪木伝説」が語れていたのですが、或る種、猪木論の決定版だなという感慨に到りました。

やはり、戦後の或る世代にとって最大のカリスマは「長嶋茂雄」よりも「アントニオ猪木」なんですよね…。斯くいう私もその一人なのですが、思えば、小学生の頃にアントニオ猪木著『格闘技世界一』(KKベストセラーズ)を読む小学生で、長州力やタイガーマスクが人気となった時代にはプロレスから遠ざかって、ふと気づいた時にはU系と呼ばれるプロレスに新しい波が押し寄せており、パンクラスやリングスなどになって再び、プロレスを視る機会が増えた。ホントに胸を熱くしたのは、やはり、アントニオ猪木でしょうねぇ…。しかも、実は謎めいた人物で、しかもプロレスラーの話だから、どこからどこまでがプロレス的な作り話であり、どれが実像なのか見極めるのが難しい問題であった。しかし、どうも『猪木伝説の真相』では、猪木と確執を起こしたとされる人物のインタビュー記事も掲載されていた事から、どことなく「アントニオ猪木」の人物像が生々しく浮かび上がったような気がしました。

先ず、永年にわたって謎だったのが、日本プロレスの時代から全日本プロレスと新日本プロレスとに分かれたあたりの事情が分かり難かった。語り口によっては、猪木による「乗っ取り疑惑」のように語られていたので、そのような過去があったものなのかは灰色のままに認識していたのが、その辺りの事情が『猪木伝説の真相』によってハッキリとしました。意外と、日本プロレスの崩壊劇をしっている北沢幹之(きたざわ・もとゆき)、グレート小鹿、この両名が、その古い古い謎の部分を証言してくれていたんですね。

私だと物心ついたときには10チャンネルの金曜8時が新日本プロレス中継で、土曜8時の4チャンネルで全日本プロレス中継だったという部分しか記憶にない。ああ、東京12チャンネルは、どうだったかな。ラッシャー木村の金網デスマッチを視た記憶はあるけど、猪木がジョニー・パワーズと戦っていたり、全日でブッチャーとデストロイヤーとが流血試合をやっていた頃よりも後だったのかな。まぁ、相当、おそらく50年とか60年ぐらい昔の話なんでしょうけどね。

以下、証言を元にして――。

力道山の死後、日本プロレス興行の社長になったのは豊登(とよのぼり)であったが、当時の興行ビジネスというのは乱脈経営が半ば当たり前の世界であり、1965年12月、社長の豊登に役職を利用して二千万円超の横領疑惑が浮上。日本プロレス興行は大混乱に陥った。同24日に結論として豊登は役職を辞任し、以後は日本プロレスに関わらない事で手打ちとする案が決定した。そして1965年12月31日付の辞表を以って豊登は日本プロレスから追放された。豊登の追放前時点では副社長は芳の里、選手会長兼取締役はジャイアント馬場、アントニオ猪木はアメリカはテネシー州で修行中であった。また、社長であった豊登が去った事で、1966年1月6日以降は、芳の里が日本プロレス興行の社長に就任した。

どうもアントニオ猪木はアメリカ修行中であった為、豊登追放などの国内の動きをよく把握できていなかったらしい。追放された豊登は、どうやら新規にプロレス団体を旗揚げしようとしたらしく、1966年2月、猪木を新団体に参加させようと勧誘の電話をしたが、猪木は返答を留保した。どうも猪木は日本で何が起こっているのか事情が分からなかったので、取り敢えず返事を留保したらしい。

しかし、新聞などでは日本プロレスを追放された豊登が新団体旗揚げに動いており、日本プロレスからは木村政雄(後のラッシャー木村)、斎藤昌典(後のマサ斎藤)を含む10名ほどが失踪し、新団体旗揚げに備えて静岡県で合宿を始めるという分裂劇が起こった。

1966年のワールドリーグ戦に参加する為に帰国する事になった猪木は、同年3月12日にハワイのワイキキビーチで、馬場と吉村に会ったので、声を掛けたが、馬場と吉村は腫物に触るかのような、よそよそしい態度を取った。元々、日本プロレスの練習風景としては馬場の周囲に多くのプロレスラーが集まり、どちらかといえば猪木は黙々と練習しているタイプであったという。

ジャイアント馬場は、元読売ジャイアンツの投手であり、且つ、プロレスラーに転向後もアメリカで「ショウヘイ・ビッグ・ババ」という悪役レスラーとして大成功をした大スター選手であった。馬場は現在に換算すればイチロー級のギャラを稼ぎ出していたとも言われるが、そうしたビッグマネーも、この頃の日本プロレスの乱脈経営の中で、かなりピンハネに遭っていたという。それに比べるとアントニオ猪木は、黙々とトレーニングに励み、おそらくカール・ゴッチの影響でストロング・スタイルのプロレスを標榜していた。とはいえ、この帰国直前に、アントニオ猪木はヒロ・マツダとのタッグでNWAタッグ王座を奪取していたというから、既に、この頃にはアントニオ猪木は、馬場に次ぐナンバー2のスター選手になっていた。

実際には猪木は豊登からの勧誘への返答を留保していたが、ジャイアント馬場、吉村道明らには「どうやら猪木も新団体に参加するらしい」という疑惑の目を向けられていた。なので、同じジムでトレーニングをしていたが猪木と馬場・吉村との間には微妙な空気が流れた。猪木は猪木で、日本プロレスに猜疑心を持ったものと思われる。

この豊登が画策した新団体にはキム・イル(大木金太郎)やヒロ・マツダも参加を正式に否定するという流れとなり、これでアントニオ猪木も日本プロレス残留が濃厚と思われた。しかし、飛行機嫌いの豊登が、わざわざ猪木を口説く為にハワイまでやって来て、猪木を口説きにかかった。しかも、力道山は猪木を殴るなどのシゴキをしていたが、それを庇う役割をしていたのが豊登であり、日本プロレス全盛期には力道山に次ぐナンバー2の存在であったから力道山の死後に社長に就任していた。その豊登は、

「日本プロレスに残っても、どうせ馬場の引き立て役になるだけだぞ。こっちの団体でトップを張ってくれ。カネならたっぷりある」

と猪木を口説いた。折から、よそよそしい態度を採っている馬場に対して猜疑心を持っていた猪木は、ここで豊登の新団体参加を決意することになる。

1966年4月23日、豊登が猪木を連れてハワイから帰国。そのまま、羽田空港のレストランで東京プロレスの設立を発表。これが「太平洋上猪木略奪事件」と呼ばれるものの真相だという。グレート小鹿、北沢幹之の両証言でも「猪木は豊登の被害者のようなものだった」という切り口で語っている。

1966年10月12日、東京プロレスが蔵前国技館で旗揚げ興行を行う。主催者発表で観衆1万人という興行であった。アントニオ猪木はジョニー・バレンタインと無制限一本勝負の試合を行ない、実は両者は手加減なしに殴り合いをして最終的には猪木がリングアウト勝ちした一戦であったが、内容的には好試合であったという。

しかし、この東京プロレス、元々、日本プロレス興行の社長であった際に横領疑惑に問われた豊登が立ち上げた団体であった為、またしても金銭的なトラブルが発生する。証言に拠れば、チケット売場に何故か豊登本人が現われてチケットを売っていたといい、また、選手にギャラが支払われないというトラブルが起こる。

1966年11月21日、旗揚げから間もない時期ですが、この日、興行が予定されていたのは板橋駐車場であったが、未払いのギャラが支払われない限りは試合はしないという選手と経営陣とのトラブルが早くも発生。東京プロレスの社長にして選手のリーダー的な存在になっていた猪木が、交渉が決裂した為に選手たちに

「試合は中止になった」

と命じて、引き揚げさせてしまうという事態へ。更に、突如として中止となったプロレス興行、詰めかけた観衆が暴動を起こし、機動隊が出動する騒ぎとなった。これを板橋暴動事件という。

板橋暴動事件以降、新団体・東京プロレスは信用を失い、興行的にも行き詰まり始める。社長であったアントニオ猪木はというと、監査役の新間信雄、経理部長の新間寿を業務上横領で告訴に踏み切った。すると、新間信雄、新間寿の親子は名誉毀損と誣告罪で逆に猪木を訴え、告訴合戦となった。最終的には新間親子は不起訴となり、猪木が謝罪し、新間親子は告訴を取り下げた。(新間寿は新日本プロレス発足後、猪木の片腕となった人物である。)また、何故か、この時も猪木は豊登については告訴しなかった。

これによって東京プロレスは空中分解した。

1967年4月6日、日本プロレス興行は、アントニオ猪木の日本プロレス復帰を発表。猪木は、東京プロレスから柴田勝久、永源遥を引き連れて、日本プロレスに復帰した。因みに、猪木は東京プロレスから寺西勇も日本プロレスに復帰させようと日本プロレス側に交渉していたが、寺西勇は交渉を待ちきれず、国際プロレスへ行ったという。

さて、猪木の日プロ復帰後、日本プロレスでは馬場派、猪木派、芳の里&吉村派の三派が形成されたという。

馬場派…大熊元司、サムソン・クツワダ(轡田友継)ら

猪木派…ユセフ・トルコ、山本小鉄、北沢幹之、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳(辰爾)

芳の里&吉村道明派…キラー・カーン、グレート小鹿、永源遥ら

であったが、この日本プロレス興行は社長が芳の里であり、エースが馬場なので、猪木派と馬場派との間に亀裂があるので、グレート小鹿は社長から「馬場を守ってやってくれ」と忠告をされていたので、危険視されているのは「猪木派のみ」が反主流派であったという事になる。

この後、アントニオ猪木はドリー・ファンク・ジュニアとの名勝負などを行ない、やはり、ジャイアント馬場に次ぎ人気レスラーに成長。その馬場と猪木とがタッグを組むBI砲は、日本プロレスを支えていった。

BI砲を知らない者にすると、馬場と猪木がタッグ組んでいるのかって驚きますが、当時も、このBI砲は人気を博し、日本プロレスは力道山の最盛期に次ぐ、第二次黄金期を迎えたという。

猪木派のトレーニングは非常にハードで、スパーリングをしてもアントニオ猪木、大木金太郎、上田馬之助あたりが実際の実力者であったとグレート小鹿が証言している。猪木の付き人をしていた北村に拠れば、スパーリングでは猪木が力道山をやりまかしてしまった事もあったらしく、下になった力道山が猪木の腕とトントンと叩いていたのを目撃した事があったという。既に、猪木のストロングスタイルは日本プロレス時代には完成してしまっていたらしい。

BI砲によって日本プロレスの人気を博していたが、またもや、放漫経営が問題となった。放漫経営について苦々しく思っていた猪木は、選手会役員であったグレート小鹿に、1970年5月頃のこと、「引退したOBらがフロントに入って選手以上に高額な給与を取っている」と指摘し、「幹部連中を何とかしないことには日本プロレスの将来はない」と打ち明けられたといい、グレート小鹿も、その通りだと思っていたという。

しかし、放漫経営は改善されない。猪木はイライラを募らせ、とうとう1971年末、選手会長であったジャイアント馬場にも働きかけをし、経理の不正を糾弾した。具体的には、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の3名を追放するというアクションを起こした。猪木は自らの後援会長であった経理士に日本プロレス興行の経理を調べさせ、所属全選手の署名入りの嘆願書を作成。要求が受け入れられない場合は全員が退団するというものであった。秘密裡に、その計画は進行し、1971年12月13日をクーデターの決行日と決定し、その日、臨時株主総会を開いて、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の追放を画策していた。

しかし、この猪木のクーデターは失敗に終わる。発端は上田馬之助による事前のリークであったという。芳の里、吉村道明、グレート小鹿の三人が新宿の「九州」というスナックで飲んでいたところ、上田馬之助から電話があり、その電話によって事情が発覚した。クーデター計画には猪木と仲が悪い筈の馬場まで加わっているという上田馬之助からのリークだったので、即座に馬場も電話で呼び出される展開となり、芳の里と吉村道明がクーデター計画の要旨を把握した。

1971年12月13日、この日、猪木は3名の幹部の追放を突き付ける筈であったが、逆に、この日、猪木に対しては「社内改革と称し、会社乗っ取りを謀った」として、日本プロレスから除名処分を突き付けられた。確かに、ここは微妙で、3幹部を追放後、猪木をトップに据えて猪木の後援会の経理士らが幹部ポストに座る計画であったので「会社の乗っ取りを謀った」という解釈も成り立ったものだという。

乗っ取り容疑で追放された猪木は、これまた、日を置かず、1972年1月、新日本プロレスの設立を発表する。日本プロレスは猪木一人が抜けたところで、大した影響はないと考えていたが、同年3月に日本テレビがテレビ中継を終了した。実は、日本テレビは東京プロレス崩壊後の猪木を日本プロレスに入れるように動いていたとされ、猪木追放は日本テレビからも歓迎されていなかったのだ。おそらく、日本テレビはジャイアント馬場に全日本プロレスの旗揚げを打診したものと想像できるが、同年7月にジャイアント馬場も日本プロレスを脱退。それでも、日本プロレスにはNETのテレビ中継が残っていたが、馬場も猪木も存在しなくなったプロレス中継では視聴率が稼げる筈もなく視聴率は低迷、また、観客動員数も激減したという。

NETも視聴率急落にげんなりとし、日本プロレスとアントニオ猪木が立ち上げた新日本プロレスとを合併させようと働きかけをする。或る程度まで合併話は進んだが、大木金太郎らが合併案に反対、決裂した為に坂口征二らの一派だけが新日本プロレスに移ることとなり、NETと新日本プロレスとの関係が出来上がったという。

1972年4月、NETと一緒に新日本プロレスへ移籍する事を固辞した日本プロレス残党を残して、日本プロレスが崩壊する。グレート小鹿らの日プロ残党は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに吸収される形で、力道山で戦後日本を励ました日本プロレス興行は、その歴史に幕を閉じた。

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底知れぬ強さで、いつしか「モンスター」と冠されるようになった井上尚弥が、スーパー・チャンピオンを決定するという主旨で開催されていたWBSSを制し、晴れて、その破格の強さを証明した――という事であったと思う。

何度か試合も視聴してきたのですが、いつも早いラウンドでKO勝ちしてしまうので、その強さを語ろうにも「底知れぬ強さ」のように表現するしかなかったのですが、決勝戦で対戦したノニト・ドネア戦は、さすがに早期ラウンドでのKO勝ちとはならず、そのボクシングを目撃する事ができたような気がする。

第1ラウンドと第2ラウンドでは、井上の様子は、いつもと同じように私の目には映っていたように思う。相手が強敵であろうと、あのスピードで、あのキレのある動きで、あのパンチ力なのだから、案外、早く決着がついてしまうのではないのだろうか、と。

しかし、実際には井上が右目上をカットして流血した事もあり、ラウンドを重ねて行った。やはり、対戦相手のドネアのボクシングは侮れず、モンスターと冠される井上でも簡単には倒す事はできなかった。

気が付いたのは、第7ラウンドであったか第8ラウンドでした。あ。ボクシングをみているなと自覚した場面がありました。気が付けば、井上のフットワークを含めて、その速い動きがなく、双方がパンチを狙い合っているという攻防になっており、ボクシングらしいボクシングだなと感じたのでした。まぁ、おそろく、それは老獪なドネアのペースになっていたという事かも知れず、私の中では「底知れぬ強さ」であった井上尚弥という像が、ほんの少しだけ「フツウにボクシングをしているボクサーに見えた」の意です。とはいえ、底を見せたという意味ではないのですけどね。僅かに、そういう姿を見たの意であり、「ひょっとしたら、こういうボクサーは、こういう展開になったときに脆さが出るものなのかも知れないぞ」的な。

競馬に例えれば、かの大川慶次郎の言葉を思い出す。8戦8勝の馬の強さというのは、底を見せていない。しかし、この底を見せてない馬は、もしかしたら弱さを持っている可能性があるという。そして逆に、シンボリルドルフを念頭に置いた言葉であったと思いますが、負けた時の、その負け方で、その馬の本当の強さが分かるじゃないか的な理屈ですね。確かに、そうだよなと思う。確かに、その強さというのは、いつも圧勝してしまっていると推し測りようがないんですよね。

第11ラウンド、第12ラウンドの井上尚弥の動きは、どう感じたかというと、ああ、これで強さも証明できてしまったな、という印象でした。実は、7〜9ラウンドあたりの印象からすると、こういうボクサーは、こういう展開になったときに脆さが出てしまうものだろうなと思っていたから。いや、しかし、それは早計で、実際には第11ラウンドあたりの動きというのは序盤のような動きに見え、改めて、その強さを印象づけた。
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寝付けない。これは寝付けそうもないと思い、眠たくなるまでの時間つぶしにとテレビをつけてチャンネルをあさってみると、「プロレスクラシック」なる番組を発見。

ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田対ハーリー・レイス&ディック・スレーター戦が放送されていました。ああ、ハーリー・レイスの訃報もあったしね。なにやら全日本プロレスの1982年公式タッグリーグ戦らしい。

ジャンボ鶴田は均整がとれたプロレスラーだったなぁ。ジャンピング・ニーパットとか確かに見栄えがするし、動きも緩慢ではない。ジャイアント馬場については、相応の年齢だったらしく動作に緩慢さがあるものの、あの年齢でこれだけ動いていたというのは、考え直せば凄い事だったのかも。なんだかんだいってジャイアント馬場というプロレスラーは、そのキャラクターが立っていたのは事実で、両手で握り拳をつくって相手の攻撃に耐えているときの表情なんてのも、古くさいながらも味がある。実際に映像でも十六文キックでは場内が歓声に包まれている。16文というのが十円玉何個分らしいというので、「✕文キック」とかで遊んでたでしょ、当時の小学生は。今にして思えば、脳天チョップとか脳天唐竹割りなんて技は馬場しか使用しないし、河津掛けなんて技もシブくて味がある。

スレーターが動きがいいのは当たり前なんですが、やはり、ハーリー・レイスでしょうねぇ。充分に時間を掛けているパイルドライバーなんてのは見応えがある。記憶にありませんでしたが、レイスはダイビングヘッドバッドを得意技にしていたのか…。

そして、82年公式タッグリーグ戦の最終戦として、ザ・ファンクス対スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ戦となる。

試合開始前から妙に盛り上がっていてリングには無数の紙テープが投げ込まれている。82年の公式タッグ戦は、勝ち点制で争われていたが、ファンクスが7点、馬場&鶴田組が8点、そしてハンセン&ブロディ組が8点であったから、その試合によって優勝が決定する試合になっていたらしい。

しかも、テリー・ファンクは翌年6月のプロレス引退宣言をしていたらしく、ザ・ファンクスの兄弟が入場してくると凄い歓声になっている。一方のハンセン&ブロディも既に人気を獲得していたらしく、歓声ではファンクスに負けていない。

紙テープだらけになっているリング上がきれいに整えられた後、ゴングが鳴る。テリー・ファンクとスタン・ハンセンとが衝突するのですが、これがホントに衝突なんですね。凄い勢いでプロレスをしている。重戦車のように突っ込んでハンセンに対して、テリー・ファンクは例の闘志剥き出しで当たっていくので、間違いなく迫力がある。こういうプロレスだったんですよね。

ハンセンがドロップキックを放つ。かなり、勢いもあるし、高度もある見事なドロップキックである。ドロップキックを受けたテリー・ファンクは、そのドロップキックによって吹き飛んでしまったのですが、これが見事でした。ドロップキックで吹き飛ばされたテリー・ファンクはトップロープとセカンドロープを両足で挟みこみ、手でマットを抑えるようにして宙吊りとなってる。つまり、場外へ転落しそうになったが、両足をトップロープとセカンドロープを挟み込み、尻だけがエプロンサイドに出している状態なのだ。ハンセンのドロップキックが見事だっただけに、それを受けて、この吹き飛び方をするってのは、なんて千両役者なんだろって。

ハンセンの勢いに押され気味のテリー・ファンクはラフなボクシング殺法をしている。改めて見てみると、あのスタイルは映画「ロッキー」にも似ているのかな。そして、最後にとんでもない大振りのフックを放つ。やはり、見栄えがするんですね。。。

歓声が大きくて実況が聞こえにくいぐらい盛り上がっている。

ブロディも動きはよく、高さのあるギロチン・ドロップや、ワンハンドでの高さのあるボディスラムは迫力がある。そしてドリー・ファンク・ジュニアですが、エルボー・スマッシュを立て続けてに打ち込んで行くというスタイルは独特なスタイルでしたかね。連射なんだな。スピニング・トゥ・ホールドを仕掛けた際、リング外からハンセンだかブロディの手が伸びてくると、すかさずスピニング・トゥ・ホールドを辞めて、エプロンサイドに立つ相手に大きなエルボースマッシュを決めている。

しかし、試合は場外転落。テリー・ファンクが耳上から大流血。ドリー・ファンク・ジュニアも額から流血するという流血試合へ。試合そのものはハンセンがコーナーに居たドリーに助走をつけてのラリアートを放ち、そのラリアートでドリーと一緒に樋口レフリーをもなぎ倒してしまう。サブレフリーであったルー・テーズがリングに上がるが、ハンセン&ブロディはテーズに対しても襲い掛かった為にハンセン&ブロディ組の反則負けという裁定へ。

82年公式タッグリーグ戦の優勝は「もう、ファンクスの時代は終わった」という前評判を覆してザ・ファンクスが制した――という結末へ。解説席では「終始、試合を制していたのはハンセン&ブロディ組でしたが勝負を制したのはファンクスでした…」と解説している。

なんだかんだいって、この時代のプロレスというのは見せる要素が大きかったのかも。それぞれ、個性がちゃんと見て取れるんですね。ハンセンの暴走っぷり、そのド迫力。テリー・ファンクのプロレスはファンを熱狂させる要素が詰まっていて、無鉄砲、ガムシャラに受けて立っていた。流血にしても、結構、思い切りよく流血していたのだな、と。
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アントニオ猪木というプロレスラーは、過激路線を模索し、その中で異種格闘技路線を行なっており、或る時期からアントニオ猪木についての総括めいた言説が定着し、「モハメド・アリ戦は、当時は狎さの凡戦瓩箸い酷評であったが、海外ではアリと戦ったプロレスラーとして高く評価されている」のような逆輸入の評価によって再評価されたという経緯があった。しかし、だからと言ってアリ戦が「世紀の凡戦」であった事には変わりはない訳ですね。

アントニオ猪木というプロレスラーが行なった一連の格闘技世界一路線の中で、最も輝いた試合は何であったのか? 私の場合は、昭和54年に行なわれたレフトフック・デイトン戦であったと思う。最近、新日本プロレスが発売元になっている猪木のDVDを視聴する機会があったので改めて視聴してみたのですが、やはり、改めて、その感慨を強くしました。チャプターに添えられた解説文には「現在のバーリ・トゥード戦のような試合内容」と表記されていましたが、試合そのものがスリリングであったなぁ…と。


昭和54年4月3日、福岡スポーツセンターにて、アントニオ猪木自身は12度目となる異種格闘技戦の相手として、未知なる挑戦者としてレフトフック・デイトンを迎え撃った。この頃までにはWWFが猪木の格闘技王座を認定しており、そのWWFの防衛戦とも銘打たれ、勝者には1万ドルの賞金が用意されていた。

ルールは3分10ラウンド制で、寝技は10秒以内。その上にチョーク攻撃を認めるという特殊なルールで、この試合は行われた。それまでの猪木の異種格闘技戦、格闘技世界一路線の試合ではプロボクサー、全米プロ空手の選手との対戦では、寝技に対しての制限が加えられ、5秒以内の寝技攻撃とする等のルールを設けて行われていたが、このレフトフック・デイトン戦ではデイトン陣営がレスリングに自信があるらしく、10秒以内の寝技OK、「チョークあり」になったという。

更にはデイトンは両手に嵌められた手錠を引き千切る怪力の持ち主で、絞首刑台に吊り下げられても頑健な筋肉の鎧によって絞首刑不可能という奇妙なプロモーションをしていた。

同年3月26日、テレビ朝日で放送していた「アフターヌーンショー」に出演し、その場でデイトンは手錠千切りを披露し、出演者の川崎敬三らを驚かせた。しかし、このレフトフック・デイトン、詳らかな格闘技戦績が定かではなく、ボディビルチャンピオンにして、カンフーチャンピオンにして、重量挙げ、ボクシング、レスリング、空手と何が何だか分からない挑戦者であり、ワイドショウ番組で怪力を披露するなどは、如何にもキワモノ的な雰囲気を醸し出していた。つまり、どうせ実力的なものは期待できず、これまでに柔道銀メダリストのウィリアム・ルスカ、世界最強の男と冠された天才ボクサーのモハメド・アリ、そしてアリの用心棒をしていたという全米プロ空手王者のザ・モンスターマンらと対戦してきた猪木の相手にはならないだろう――と。

しかも、この昭和54年2月には、梶原一騎/原作、中条健/漫画の「四角いジャングル」が、さんざんプロモ―ションをしていた前科持ちの最強の覆面カラテ家「ミスターX」が、殆んど動くことが出来ないよう太った体型でリングに上がって、猪木の相手にならなかったというよりも、興行そのものとしても酷い茶番であった事から、この「スーパーマン」というニックネームを冠されて紹介されるレフトフック・デイトンの実力を誰もが疑っていたのだ。

両雄がリングに姿を現す。レフトフック・デイトンは筋骨隆々であり、必ずしもボディビルダーらしい筋肉ではない。首から肩にかけて固そうな筋肉がついていて、両腕も丸太のように太く、また、胴体も全体的に筋肉に太い。ウエストが細い筋肉の付き方ではないのが確認できる。コスチュームは全米プロ空手選手やカンフースターが履いているようなダブつき気味のロングパンツで、色は艶のあるブラック。顔つきは見るからに神経質そうな白人顔であるが、頭髪はカーリーヘアーで、整えられた口髭がある。ドン・フライがカーリーヘアーにして、少しだけ神経質そうな表情を浮かべているような顔つきである。

アントニオ猪木が登場する。猪木がガウンを脱ぎ捨てると、ブルーのタオルを首から下げている。コスチュームは、語られるところによると、如何にもストロングスタイルらしい黒のショートパンツ。足元も黒のロングシューズかと思いきや、意外にも白のロングシューズで黒ラインが入っている。この頃のアントニオ猪木の面構えは、かなり端正な顔立ちをしている。目は細く、睨みつけるような眉や目であるが、全体的には映画俳優でもあるかのような精悍にして優美な顔であり、体型は引き締まって均整がとれており、多くの日本人が熱狂した全盛期のアントニオ猪木の姿である。

実況は、かなり丸々と太ってみえる古舘伊知郎が一瞬、映る。実況席の解説に拠れば、デイトンは2オンスの黒のグローブを着用しており、現在でいうところのオープンフィンガーグローブを着用している。

◆Round1
何が何だか分からぬ試合開始で、この一戦は幕を切って落とす。ゴングが鳴る前に無表情であったデイトンが突如として猪木に襲い掛かる。デイトンは猪木のボディに左キックを放つと、そのまま、猪木に襲いかかって裸締めへ。その猪木をエプロンサイドに押し込んでデイトンがパンチを振り回す。ここで初めてゴングが鳴らされる。間もなく、両者、もつれてブレイクとなる。

試合が再開されると、思いの外、デイトンの動きがシャープである事に気付かされる。距離があるので猪木にパンチは届いていないが、単なる怪力自慢の噛ませ犬ではなさそうだという緊張が走る。デイトンのパンチにはスピードがあり、プロレスラーが放つパンチとは質が違う。ローキックも使用しており、こちらは幾らか全米プロ空手らの選手のそれと比較すると華麗な蹴りではないが、しっかりと腰を入れて放たれている印象。

この第一ラウンド中盤、猪木がデイトンの中段蹴りにきた右足を掴まえる。しかし、次の瞬間に場内がどよめく。右足を掴まれている状態のデイトンは、右足を掴ませたまま、跳ね上がるようにして左足で猪木の側頭部を蹴ったのだ。実況席が「これは猪木選手がプロ空手の選手を相手に得意にしている攻撃ですよ。このデイトン選手は、もの凄く研究してきているんじゃないですか」と口走っている。猪木の方は、ほぼ見せ場もなく、この第1ラウンドが終了する。放送席では、不可解にも「このラウンドは互角です」とコメントしている。

◆Round2
パンチとキックで牽制するデイトン。そのデイトンを掴まえるべく猪木は何度か蹴りを掴まえ、足払いでテイクダウンに持ち込んでいるが、デイトンはアマレス経験者との事でグラウンドの攻防になっても落ち着いている。多くの打撃系ファイターは掴み技、寝技の攻防になると一気に猪木ペースになるが、そうならないという前半。

第2ラウンド中盤、突如として見せ場が訪れる。コーナーポストに猪木がデイトンを掴みながら押し込んだという状態になるや否や、デイトンは素早く猪木を持ち上げてボディスラムのような要領でトップロープ越しに猪木を場外へ投げ捨てて、場内がどよめく。エプロンに背中から落下した猪木は、背中を抑えながら歩いて再びリング内に入る。

再びデイトンの足蹴りを猪木が掴まえ、足払いでグラウンドへ。この際の攻防では猪木はするりとデイトンのバックをとり、裸締めにとる。実況席では「猪木のアナコンダ殺法!」と声を上げているから、この頃の猪木はスリーパーホールドを多用していたらしい事が分かる。現在で言うところのチョークスリーパーなのか、飽くまで頸動脈を絞めているスリーパーなのかの説明はないが、デイトンには効果なし。デイトンは絞首刑台で吊られても不死身を誇る異常レベルの筋肉男なのだ。デイトンは顔を紅潮させながらロープブレイクに逃れる。


◆Round3
このラウンド、猪木が仕掛ける。ゴングと同時にリング中央へダッシュしてゆき、そのまま、胴まわり回転蹴りを見せる。これは空振りで終わったものの、猪木の動きは非常にいいのが確認できる。この試合よりもずっと後年になってU系レスラーらが、胴まわし回転蹴りをしていたが猪木の方が切れがあったかも知れない。ここまで突破口のない猪木が仕掛けたものと印象づけられる。

しかし、依然としてデイトンはしぶとく、猪木優勢には見えない展開が続く。デイトンのパンチと、猪木の平手打ちが相打ちに終わるなど、緊張感は継続しているが、そんな中、デイトンが助走をつけて二段蹴り(飛び二段蹴り)を仕掛け、その足を猪木がキャッチ。両者、立ったままでの攻防となるが、その隙を猪木が逃さない。猪木、デイトンの脇に回って、背後を取って、デイトンの左脇に自分の頭を挟ませて、美しい放物線の、きりもみ式のバックドロップを放つ。捻りを加えてかのような、スピードのあるバックドロップであるが、やはり、猪木のバックドロップの美しさに驚かされる。こんな綺麗なバックドロップだったのか…。このバックドロップで形成逆転かに思えるが、そうでもない。デイトンは持ち前の馬力でエプロンサイドまで逃げて、ロープブレイクで、そのピンチを逃げ切ってしまう。


◆Round4
このラウンドは語り草となるラウンドとなる。ゴングが鳴ってからは探り合いのような展開が続く。猪木がデイトンの足に飛び込むようにして蟹挟みを仕掛けて、グラウンドの攻防へ。ここでも猪木はスリーパーホールドを狙いに行く。しかし、背後に回ろうという猪木をデイトンが掴んで前方へと投げ、仰向け状態の猪木に対してデイトンが手による首絞めと、その後に3〜4発のパンチを浴びせる。グランド状態でのパンチがルール上、どういう扱いであったのか、或いは、レフリーがブレイクをかけたにもかかわらず、デイトンがグラウンド状態でパンチが放った事が原因なのか分からないが、立ち上がった猪木が猛然と、怒りをアピールし始める。血相が変わっているから何か不測の事態が起こっていたのかも知れない。

このあたりからは、まぁ、ホント、伝説的なシーンとなる。

劣勢であった猪木、カーリーヘアーのデイトンの髪の毛を鷲掴みにして、大木金太郎ばりの原爆頭突きを放つ。語られる際、「頭突き」と表現されていますが、右手で髪の毛を掴んで、そのまま頭突きしているのだから、これは小学生の頃に「プロレス入門」を持っていた私に言わせれば、原爆頭突きという頭突きです。この原爆頭突き、最初の1発でも状況が変わりましたが、怒りのモードの猪木は、その後も原爆頭突きを3発も続けている。

デイトン、腰砕け状態になってダウン、額から流血――。

しかし、試合が再開されるとデイトン、まさかのタフネスぶりで猛ラッシュを仕掛ける。猪木は間合いを取っている。

そして、まるで矢吹丈と力石徹かのように、デイトンの左フックと猪木の左ビンタが相打ちなる瞬間がある。

その象徴的な相打ちの後、猪木が両手でデイトンの髪を掴み、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突きの5連発! 



◆Round5
このラウンド、探り合いの後、グラウンド状態となり、このグラウンド状態でも猪木がデイトンの髪を鷲掴みにして、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、頭突き、なんと10発の頭突きを浴びせる。

執拗な猪木の頭突き攻撃が続く。スタンディングで頭突き2発。グラウンド状態で2発。

更には、飛び掛かるようにしての、ジャンピング・ヘッドバッドを放ち、これでデイトンをダウンさせている。ここからグラウンド状態で、頭突きを11発。

スタンディングで2発。ダウンさせて4発。猪木は、この試合、殆んど蹴りを放っていないが、余裕が出てきたらしく、デイトンの太腿、その後ろ側に痛そうなキックを一発。そのキックでダウンしたところ、頭突き1発。

猪木が狂ったかのように頭突きを乱打するという誰も予想しなかった意外な展開へ――。


◆Round6
デイトンの流血は相変わらず続いていたが、このラウンド、デイトンがゴングと同時に猛ラッシュを仕掛ける。前評判としてはスタミナがない等とも言われていたが、もうデイトンが噛ませ犬だという話は吹き飛んでしまっているかのような、スピード&パワーを見せる。これ程にスタミナが残っているのかと思わせるデイトンの猛攻であるが、猪木はガードをしてリング内を動き回ってデイトンにチャンスを与えない。

猪木は完全に作戦を固めたらしく、片手をデイトンの髪に伸ばすと、原爆頭突き、更に、もう一発、原爆頭突きで、デイトン、たまらず、ダウン。デイトンが起き上がると頭突きを1発、そしてデイトンを抱えると、これまた捻りを利かせたバックドロップ! このバックドロップによってデイトンの反応が鈍くなっている。ほぼグロッキー状態。そしてデイトンが起き上がったところで、この試合、三発目となる猪木のバックドロップは、捻りはなく、デイトンを後頭部から落とすような角度で放つ。

リング上のデイトン、立ち上がろうと足掻いているが、ゴングが乱打されている。実況席でも「テンカウント」のノックアウトなのか、レフリーストップなのか、或いはセコンドがタオルを投入したのか分からない状態のまま、ゴングが乱打されているる。両手を挙げて雄叫びを上げている猪木に、立ち上がったデイトンが気持ちだけで突進し、戦闘を続けようとしているがセコンドらに取り押さえられている。

正式発表では、第6ラウンド1分29秒、テンカウントによる猪木のKO勝ちとなった――。


私のカウントした数字だと猪木が放った頭突きは、実に37発。しかも片手で髪を掴んで、大木金太郎のように一本足している訳ではないが、原爆頭突きを連想されるような豪快な頭突きも含んでの37発であり、まさしく頭突きの乱れ打ち。噛ませ犬だと誰もが思っていたレフトフック・デイトンが想像以上の強敵として猪木の前に立ち塞がったが、喧嘩殺法の頭突きによって猪木が鮮やかに逆転勝ちしたという試合内容は非常にスリリングにしてエキサイティングであった――と。

いやぁ、頭突きを連打しちゃう猪木って、猪木らしいといえば、猪木らしいか…。しかし、片足キャッチされた状態でも残りの足で相手を蹴りに行く戦法、蹴りをキャッチしてからの攻防、チョークスリーパーを巡る攻防、更にはホントに頭突きアリでどうなるのか等々という総合格闘技的な観点としても見どころがあるし、プロレス的な意味でも綺麗な弧を描いて投げるバックドロップの美しさといったら、やはり、色々と歴史的名勝負であったなぁ…と強く思わせる一戦でした。
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1994年12月7日、プロレスラー・安生洋二がロスアンゼルスのヒクソン・グレイシーが師範を務めていたグレイシー柔術の道場へ赴くも生憎、ヒクソン・グレイシーは外出中。この頃、プロ格闘技界ではUWFインターナショナルの高田延彦とヒクソン・グレイシーとの対戦が熱望されるも対戦は何度も暗礁に乗り上げていた。

この頃、スポーツ紙や週刊誌では高田延彦の挑戦をヒクソンがギャラを上げようとして逃げ回っている等の風聞も報道されており、それらの報道に答えて、ヒクソン自身が

「高田よ、オレと戦いのであれば道場破りに来い。道場破りであれば私はいつでも相手になってやる」

等のコメントを出していた。そんな中、安生洋二は「UWFインターナショナルの代表」としてヒクソン道場に赴いた。安生洋二はプロレス的なデモンストレーション兼、対高田延彦戦の下交渉をするつもりであったというが、ヒクソン側はというと「UWFインターナショナルの代表」と名乗った当の安生洋二を高田延彦だと勘違いしており、安生洋二は道場破りとしてヒクソンに迎えられてしまう。

その結果、「安生洋二、道場破り大失敗事件」へと発展――。それを1995年1月23日号となる『格闘技通信No.125』(ベースボールマガジン社)と、『告白〜平成プロレス10大事件最後の真実』(宝島社)を参考にして以下、そのあらましを回想してみる。


1994年10月8日、UWFインターナショナルがヒクソン・グレイシーと高田延彦との対戦を巡る交渉経緯を説明し、

「ケンカルール、金網デスマッチ、時間無制限によるヒクソン・グレイシーとの一騎打ちを要求する」

と宣言。

1994年11月30日、日本武道館のリング上でUWFインターナショナルの鈴木代表取締役が

「安生洋二選手を爛哀譽ぅ掘悉製僂悗離劵奪肇泪鶚瓩箸靴董∪擬阿冒り出すことが決定いたしました」


と発表。


1994年12月6日朝9時半頃、安生洋二は笹崎伸司氏、キャシー・スタッグス女史、その他、三名の報道陣を連れてヒクソン道場を訪問。しかし、ヒクソンは夫人と外出中であった為に一行は出直してくる約束をして近所のファーストフード店へコーヒーを飲みに行って時間をつぶす。

安生ら一行は10時半頃に道場を再訪問すると、間もなく、指導員から連絡を受けたというヒクソンが姿を現せる。ヒクソン側との交渉の間には笹崎氏とスタッグス女史が仲介に入っており、ヒクソン側には「道場破りを敢行したい」旨で伝わっており、そう要求されたヒクソンは狷讃譽泪奪銑瓩魏諾した。

最初、同行していた報道陣三名も安生と一緒に道場内に入ったものの、ヒクソン道場側の意向によって報道陣は道場の外で待たされる事となる。

報道陣が道場の外に出されると、道場内の覗けるガラス窓は道場生らの後ろ姿しか見えず、道場内でどのような道場マッチが行なっているのかは分からない状態になってしまったという。

時間が経過すること15分、道場のドアが開く。報道陣が道場内に入ってみると顔面血だらけの安生洋二が笹崎氏に肩を抱えらえている状態であった。報道陣らの目には「安生が道場内で袋叩きにでもあったかのように見えた」という。何しろ僅か15分前には想像もつかない展開だったのだ。笹崎氏は涙を流しながら安生を懸命に介抱していたという。顔をボコボコに腫らした安生は、ヒクソンと握手をしてお辞儀をすると、笹崎氏の肩を借りながら道場を出て、クルマに乗り込んだ。

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その後、安生は立ち寄ったマクドナルドで氷をもらい、その氷で腫れた顔を冷やしながらホテルへ帰った。

同日の夕刻6時より、安生洋二はホテルのロビーにて記者会見を開いた。当時の「格闘技通信」の記事に拠ると、安生は

「リラックスしすぎたのが悪かった。過信しすぎてしまった。最後は絞めでやられたが、このままでは終われない」

と語った。しかし、色々なニュアンスが加わった事もあり、安生のコメントは日本のマスコミには奇妙な報じられ方をしたという。(当時の格闘技通信でも、安生のコメントはふくらまされ、日本の各マスコミに送られることになってしまい瓩筏されている。)

結果として安生洋二の敗者の弁は次のように伝わった。

「ヒクソンの道場生たちに囲まれて、著しく不利な状況で闘わざるを得なかった」

と。

これは当時、スポーツ紙の紙面の記憶だと、道場マッチの間、道場生たちはドン、ドンという具合に足を踏み鳴らすようにして、その道場マッチを観戦していたので、それが「精神的なプレッシャーに感じた」の意であったが、口下手、或いは言葉足らずだった安生洋二のその言動によって、日本マスコミは「安生洋二が道場破りを敢行したが報道陣はシャットアウトされ、安生は不利な状況でヒクソンにボコボコにされた」というニュアンスで報じられてしまう。

確かに安生の弁は、弁解がましく聞えるものであったが、それは潔く敗北を認めた上での、「足を踏み鳴らされたりしたのでプレッシャーを感じた」の意味であったが、取りようによっては、まるでヒクソン道場側が安生洋二を袋叩きにでもしたかのようにもとれる報道であった。更には、チョークスリーパーへの入り方で、ヒクソンが安生の目に指を入れる等のラフな戦いを仕掛けたうんぬんという報道まで為された。

それを伝え聞いたヒクソン道場側は大激怒する。提携していた修斗のスーパータイガーセンタージムにて、ヒクソン道場側が収録していた道場マッチのビデオ映像を公開するという騒動となった。かくして、30名の報道関係者の前で、安生洋二VSヒクソン・グレイシーの狷讃譽泪奪銑瓩報道陣限定で公開された。


格闘技通信で活字で報じられた「安生洋二VSヒクソン・グレイシー」の試合は以下のようなものであった。


ヒクソンが右足を前、安生が左足を前に構えている。安生が右足でマットをドンと踏み鳴らして後退すると、今度はヒクソンの方が間合いを詰めながら左足でドンと鳴らすという立ち上がり。

試合開始18秒、安生が軽めの右ローキックを牽制目的で放ち、左足でドンとマットを鳴らす。ヒクソンも軽く右足をドンと鳴らす。すると安生が軽く左足でドン。

試合開始45秒、安生が軽く左パンチのモーションをとる。

試合開始50秒、ヒクソンが一発、バシーンと左内股へのローキックを放つと、安生もすかさず強烈な右ローキックを放つ。

そのローキックの交歓の後、ヒクソンは右前蹴りで、安生の右足太腿をトンと叩く。(グレイシー特有の誘いの蹴り。関節を狙う独特な前蹴り。)

試合開始1分5秒、ヒクソンが素早い胴タックルを決めて、そのまま安生は背中から倒された。足は引っ掛けていない。

以降、延々とヒクソンが上となる。ヒクソンが安生の右ボディにパンチを一発。その後、ヒクソンはマウント・ポジションをとって、仰向けの安生に右パンチ2発。更に1発。安生はうつ伏せの体勢をとるが、今度はヒクソンが肘を曲げて安生の右顔面に右パンチ2発。左パンチ2発。ワンサイドになりつつあるが、更に右パンチを8発。

埒が明かない安生は仰向けとなる。するとヒクソンは上体を密着させるようにして安生の右脇腹にパンチ2発、顔面に2発、腹にも1発。

安生は顔をガードしつつも、一度だけ安生の右手がヒクソンの右手を掴むが、すぐに離れてしまう。ヒクソンが右顔面にパンチ1発、ボディにパンチ1発。

ヒクソンの足は安生の足にからまりついており、がっちりロックしている。そのまま、ヒクソンは安生のボディに7発のパンチ。溜まらず安生がカラダをひねってうつ伏せになりかけると、安生の顔、耳、後頭部に12発ものヒクソンのパンチが降り注ぐ。

試合開始後3分13秒。うつ伏せに寝ている安生に跨るように乗っているヒクソンは、ここで一度、手を安生の顔に伸ばし、安生の鼻の孔に指を入れ、そのまま顔を上に引き上げるように一瞬だけ引っ張る。安生は「フガーッ!」と声を上げる。

安生、仰向けになる。完全なるマウント・ポジションとなり、ヒクソンの左パンチが顔面にヒットする。顔面に右1発、左1発、ボディに右1発、顔面に右パンチ1発。

さらにヒクソンの安生なぶりは続き、安生の耳のあたりに横からの右パンチを5発放って、顔面に左パンチ1発。

ここまでは、実は序章であり、次のヒクソンの右パンチはモロに安生の顔面にヒット。左パンチは安生の右目付近にヒット。更に凄まじい右パンチが安生の顔面にヒット。更にボディに左パンチ3発+7発。安生の右目付近に右パンチ。ボディに左パンチ。

試合開始4分34秒。笹崎氏が苦戦している安生に対して

「ほら、頑張って!」

と大きな声で声援を送り、その声が道場内に響く。

しかし、ヒクソンの拳は降りやまない。安生の顔面に右パンチ。ボディにも右パンチ4発。左1発、右1発。

試合開始4分58秒。ヒクソンが両掌で安生の顔を挟むようにして持ち上げて、そのまま、ズンと安生の後頭部をマットに叩きつける。その直後、安生の左顔面に強烈な右パンチが炸裂。完全なマウント・ポジションの体勢で、ヒクソンは上体を起こすようにして安生のボディに真上から2発のパンチ。それに続けて強烈な左パンチ3発が安生の顔面にヒット。このうちの2発目のパンチは、視ていても顔を背けたくなるような壮絶な一撃であったという。

ヒクソンは安生の左手を取って、安生自身の喉に巻き付けるようにして抑え込む。そして顔面に強烈な右パンチを見舞う。実は、これ、安生をコントロールしているらしく、次には安生の左手を安生の頭の上の方へ持ってゆき、ガラ空きのボディにパンチ2発を続ける。

試合開始5分40秒。ヒクソンが少し体を離した為、その隙に安生は首と足を縮めて犁記瓩粒羚イ鬚箸襦

亀の体勢の安生に対してヒクソンはパンチを後頭部に落とす。そして肘をガツンと落とす。更に左耳付近に肘を2発ほどガツンと落とす。

安生は、たまらずヒクソンの左足先を取りに行く。そのままレッグロックを取りに行ったものであるが、体勢としては、ヒクソンに対して「チョークスリーパーを取って下さい」と差し出しているような体勢で、ヒクソンの腹は安生の脊髄にぴったりと密着している。ヒクソンは「これぐらいで勘弁してやるか」と右腕でチョークに入る。同時に両足で胴絞めも加えている。

胴絞めチョークスリーパーの体勢のまま、ヒクソンが下になり、安生は天井を向く。ヒクソンは左足カカトを安生の腰に落とす。続けて安生の左目あたりに左パンチを入れる。

試合開始6分30秒。余裕のヒクソンは安生を下にする。自分の右足を安生の左太腿にかけて、左足を安生の右太腿にかけて、狢絡みチョーク・スリーパー瓩侶舛鬚箸襦どこから見ても、これ以上ないと思われる程の、完璧なチョークスリーパー瓩任△辰燭箸いΑ0太犬梁にはしばらく力が入っていたが、その足がスーッと力が抜けるようにして伸びた――という。

安生、失神状態となる。

6分40秒、ヒクソンは自ら立ち上がる。

6分45秒、ヒクソンは伸びている安生に対して右足で踏み潰すようにしてカツを入れると、そのまま、立ち去ってゆく――。

道場生たちから拍手が沸き起こる。

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笹崎氏が寝そべっている安生を抱き起こす。

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道場マッチの内容というのは活字でしか報じられなかったのですが、活字からでもヒクソンが安生をオモチャをあしらうかのように扱っていた様子が窺い知れる。実はパンチを多用しているのは「マスコミに嘘の発表」をさせない為に故意に行なったものだとヒクソン側は後に発表している。仰向けになっても、俯せになっても安定的なポジションからヒクソンはパンチを出し続けている。亀の体勢になれば後頭部に肘を落とし、それも苦しくなってレッグロックを仕掛けに行く安生にチョークを仕掛け、そこから更に弄びながら最終的にはパーフェクトなチョークスリーパーで安生を失神させたという事のように思える。安生は軽めのローキックを一発出しただけなのだから、ワンサイドもワンサイド、それも懲らしめる為に弄ばれたかのような内容だったとしか思えない。

この一件以降、安生洋二はU系ファンから猛バッシングを受けることになる。「200%、勝てる」と豪語して勝手に道場破りを敢行し、勝手に大敗し、完膚なきレベルで大敗していたにもかかわらず「不利な状況で闘わされた」かのようにも取れる言い訳をしていると、受け止められてしまったのだ。

更に、ヒクソン・グレイシーが「対マスコミ発表」という文書を発表した。そこには少し驚く内容が記されていた。それに拠ると、ヒクソンは、その道場破りにきた者を「タカダ」だと思っていたことが綴られている。

また、「何故、道場マッチになったのか?」の経緯についても触れられており、事前に「ビジネスの話は書面で弁護士を通してくれ」と通告していたのに訪ねてきた事を挙げている。マスコミに妙な情報が出ていた事もあり、再三、そう通告していたが、その12月7日、何の事前のアポイントメントもないままに安生洋二御一行はやって来て、しかも、その際に、UWFの代表だと名乗る人物は、

「ビジネスではなく、戦いに来た」

と答えたという。なので道場破りを受けた。

その後、クルマの中から男が現われた。当然、その男を「タカダ」だと思っていたが、後日、それは「タカダ」ではなく、「アンジョウ」だったと知るに到ったという。

U系ファンから失望と怒りを買ってしまった安生洋二は、後に新日本プロレスにてバッシングを逆手に取った「200%マスク」などで登場したものの、U系ファンや格闘技ファンからは徹底的に嫌われる存在となった。(道場破り敢行前に、安生洋二は「ヒクソンには200%勝てる」と公言していた。)



さて、この道場破り騒動について、当事者である安生洋二、当時のマッチメイカーであった宮戸優光、当時のUWFインターナショナルの代表取締役であった鈴木健の三氏が『告白〜平成プロレス10大事件最後の真実』(宝島社)の中で、騒動を回想している。

真相は想像もしないものでした。簡単に言うと、安生洋二は現在でも「俺に謝って下さいよ」という態度なのだ。プロレス的なパフォーマンスとして「アンジョウをヒットマンとして送り込む」とやったつもりが、ヒクソン側には【ヒットマン】という言葉が必要以上に警戒を招いたらしく、「やるのか、やらねぇのか?」という殺気だった空気をつくってしまったというのだ。

そのシナリオは、仕掛人の宮戸優光が仕掛けたもので、単に道場までUWFインターナショナルが訪問したという事を、興行の宣伝に利用しようとしたものだという。当初は、ダン・スバーン(後にアルティメット大会で大活躍するダニエル・スバーン)、ゲーリー・オブライトらも引き連れて、総勢15名でヒクソン道場に乗り込むというプロレス的な宣伝が狙いであったという。しかし、精鋭15名で乗り込むという案は頓挫し、安生洋二が単身で乗り込む事になったものだという。

また、センセーショナルにする為に【ヒットマン】という言葉が使用されることになった。なので、安生は、宮戸や鈴木に対しても、あのときの無茶苦茶に対して、食って掛かっている。

安生:いやいや、あんたね、人にリング上から「ヒットマン」なんて言わせておいて、交渉なんてできるか!? 「フロム・ジャパン・アイム・ヒットマン」って訪ねていって、「それでは交渉を始めましょう」って、なるか!? そのまますんなり帰してもらえますかって!

つまり、ヒクソン側は「ヒットマンが来るらしい」、「ヒットマンが来たぞ」と伝わっていた。しかもヒクソン側では「ビジネスは文書か弁護士を通せ」と通知してきていたのに、のこのこと

「フロム・ジャパン・アイム・ヒットマン」

と、安生洋二が予告もなしに参上した――と。

ここ、ここですね、この部分をヒクソン側は「ビジネスではなく、闘いに来た」とUWFの代表が言ったので「ほほぅ。タカダ自らが道場破りに来た」と解釈したっていうワケか。だったら道場破りに応じて存分に叩きのめしてやろうという対応になったワケですね。

そこで急きょ、報道陣を締め出しての、道場破り・道場マッチとなった。しかも、怒れるヒクソンは「UWFを代表してきた」と自己紹介したアンジョウ・ヨウジをタカダ・ノブヒコと勘違い。しかもUWF側がマスコミ発表として嘘をつけないよう、故意に顔面を殴って敗北のインパクトをつける為、パンチを多用したと説明されている。あっさりチョークを決めては嘘をつかれかねないと、そういう対処をとったの意。

格闘技通信に拠れば、結局、この道場マッチで安生洋二は頭部を50発(顔面35発)、ボディに35発のパンチと、肘打ち3発をもらい、散々いたぶられた挙げ句、フィニッシュには完璧なチョークスリーパーで失神させられた。

しかも多くのU系ファンたちからは「200%勝てるって言ってたクセに、なんだ、このザマは!」とか「ビッグマウス野郎!」とか「恥知らず!」とボロクソに扱き下ろされる羽目となり、殆んど言い訳も不可能な事態になってしまった。安生本人が語るに「あれによって高田(延彦)さんに合わせる顔がなくなった」と回想している。

プロレス的な挑発、プロモーションの一つのつもりであったが、そうしたプロレス的な挑発行為はヒクソン陣営には通じなかった――というのが騒動の真相であった、と。

私も当時のスポーツ新聞や格闘技通信誌の記事で「何やってんだよ!」と憤りを感じた一人だったのですが、真相からすると安生洋二にしても何がなんだか分からぬままに危険なプロレス的な宣伝活動の一環としてヒットマンとしてヒクソン道場を訪問し、交渉をしようとしていたが、相手はカンカンに怒っていて、「道場破り上等だ」と見せしめ的にボコボコにされてしまったというのが真実だったっぽい。ちょっと気の毒な真相だったかも。安生洋二はU系ファンからは徹底的に嫌悪されてしまった事件だったからね。

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