どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 書籍・音楽

新型コロナ厳戒下での年末年始になりそうなので、タワーレコードさんのオンラインで、音楽CDを注文。あいみょん「おいしいパスタがあると聞いて」(初回限定版)と、宮本浩次「ROMANCE」(通常版)を購入。

宮本浩次さんについては、フジテレビ「ミュージックフェア」と、NHK「あさイチ」の出演回を視聴して、どちらも耳目を惹かれました。「ROMANCE」はカヴァーアルバムであり、アルバムタイトルにもなっている岩崎宏美さんの「ロマンス」の他、「あなた」(小坂明子)、「二人でお酒を」(梓みちよ)、「異邦人」(久保田早紀)、「化粧」(桜田淳子/中島みゆき)、木綿のハンカチーフ(太田裕美)、赤いスイートピー(松田聖子)、喝采(ちあきなおみ)、白いパラソル(松田聖子)、ジョニィへの伝言(ペドロ&カプリシャス)、恋人がサンタクロース(松任谷由実)、「First Love」(宇多田ヒカル)といった女性歌手の曲を、宮本浩次さんが、あのボーカルでカヴァーしている。これらの選曲にしても見事だなぁ…と感心しました。私個人の好みとしても合致している。敢えて触れれば、このうち「恋人がサンタクロース」のみ、少々、バブル臭が強いので、さほど好きじゃないのかな。松任谷由実さんの楽曲であれば「DAN DAN」あたりのカヴァーを聴いてみたかったけど…。

それぞれの楽曲も聞き込んできた楽曲ですが「おおっ!」と感じたのは「ロマンス」ですかねぇ。果たして宮本浩次さんのボーカルでどんな仕上がりになるのかと、素朴に興味を惹かれる部分でもありましたが、やはり、適度に筒美京平のポップな曲調に、宮本浩次さんの男らしすぎるボーカルとのアンバランスが絶妙。これは「絶妙」の一語ですかねぇ。まるで化学反応によって、こういう味に仕上がりました的な。

他の楽曲もそれぞれ味わいはありましたが、私がピックアップするなら「二人でお酒を」と「あなた」ですかね。「二人でお酒を」を女性の曲ですが堂々とした歌であり、これを、きっとイメージとしては喉を開いて歌唱する堂々とぶりですが、これが宮本浩次さんい合う。後は「あなた」と「化粧」でしょうねぇ。「化粧」はミュージック・フェアで披露されていましたが、スタジオで歌ってもらった方が迫力を感じられたかも。「あなた」は、エレカシの楽曲と比較してしまうと、「いっそ、突き抜けてしまって欲しい」という聴き手の要求に対して8割程度でしか応えてくれていないのだけれども、それでも、あの「♪もしも〜、わたしが〜、家を建てたなら〜」という70年代の名曲中の名曲に宮本浩次さんが挑んでいるだけで新鮮な驚きを感じ取れる。

ああ、この「あなた」って楽曲は、当時、高校生だった小坂明子さんがガロのファンで、ガロに歌わせたいという一心で作曲した曲だったんですよね。女子高生がつくった? シンガーソングライター? なにそれ? という空気の中で、ピアノの弾き語りで歌唱し、音楽関係者は勿論、お茶の間の視聴者の度肝を抜いたのでした。

で、宮本浩次さんについてですが、私は全く知らなかったという逸話がありました。週刊文春にも、ここのところの宮本浩次さんの活躍が取り上げられていたのですが、小学生の頃にNHK「みんなのうた」で「はじめてのぼくデス」を唄っていた少年こそが、宮本浩次さんだったらしい。ええ! そうだったの? 全然気づかなかった! 


こーんど、越してきた

ボークです


って、あれを唄っていた少年がエレカシのボーカルだったのか! もしかしたら給食の時間とかに流れていたかも知れない…。

数年前にザ・ドリフターズの話題に触れた際、加藤茶さんが「はじめてのぼくデス」をレコード化していた事に気付いていて、勿論、頭の中、記憶としても加藤茶さんが「みんなのうた」で歌っていたんだっけなと記憶を辿っていましたが、「はじめてのぼくデス」の本家は、宮本浩次さんだったようで。いやぁ、それに気付くと、尚更に、ボーカリストの一生というか、ヒトの人生というか、そういうものまで考えてしまう深みがありましたかね。




あいみょん(さん)について、私が語るのはバカバカしいところがある。年に3〜4回は、タワーレコードさんの店頭で、音楽CDを物色するという、その消費スタイルから脱却できていないので、この2年ぐらいは、ずーっと、タワーレコードさんの店内で、「米津玄師」と「あいみょん」については猛プッシュ、猛プッシュの手書きのポップを目にし続けてきたんですね。中には、「あいみょんだけはホントに聴いてみて!」のようなポップもあった気がしますが、頑なに2年ぐらいはスルーしてきたのでした。若い感性のおススメはアテにならんからなぁ…、と。だってね、なんたら坂46とか、あるいは韓流ブームに器用に対応できている人たちの「おススメ」である訳でしょう? 私の感性と合う筈がない。

「マリーゴールド? ほぅ、若い人たちの間で流行っているらしいね、よく知らないけど」という程度の認識でしたが、11月初旬頃かな、夕飯を買うぞと忙しなくスーパーマーケットの弁当コーナーを物色していたら、なんだか懐かしような懐かしくないような、妙にアタマに残るBGMが流れていたのでした。それが「裸の心」でした。

そこのスーパーマーケット、どういう有線の契約をしているのか、変な時間帯に宇多田ヒカルさんの「Automatic」が流れていた事があって、とてもとても、唐揚げだの、コロッケだの、トンカツだのを物色している店内の雰囲気に馴染まないBGMを流していて、違和感が感じた事がありました。唐揚げだの、コロッケだのを物色中ってのは、「おっ、20%引きじゃん!」とか「あ。広告になってるじゃん!」とか心の中で、そういうモードのときに情感に訴える曲を流されちゃいましてもね的な。

スーパーで懐かしいような懐かしくないような曲がかかっていたけど、頭に残る。案の定、帰って来てから検索をかけてみたら、中高年層とおぼしき人から「涙が流れるほどヨカッタ」という具合のコメントが多々あって、「やっぱり、そうか、これは単なる若者文化じゃなさそうだぞ」という認識に変化しました。タワレコさん、ごめんよ、私の偏見だったみたい。世代間ギャップってのは、時間軸にして、まぁ2年ぐらい遅れて、そういう情報は到達するもんなんだよ。

宮本浩次さんは紅白歌合戦は出ないのかな。あいみょんは出るのか。視てみたい気がするなぁ。因みに、「おいしいパスタがあると聞いて」の初回限定版には「風とリボン」というアルバムが付録でついていて、全曲、弾き語り音源が収録されていました。「風とリボン」には「ハルノヒ」と「マリーゴールド」、「裸の心」も弾き語りバージョンで収録されており、聴き甲斐がありました。

弾き語りバージョン、侮ってはいけません。聴いてみると、どうも音が濃密に感じるんですね。ギターの弦にタッチしている擦過音のようなものもそうなんですが、彼女の声の通りが非常にクリアに体現できるようになっている。「あいみょんってアーティストは、こういう声の人なのか」ってのが、よく伝わって来る。

これは『1998年の宇多田ヒカル』でも論じられた話ですが、何故、宇多田ヒカルはアメリカで大ブレイクしなかったのかという分析に首肯した記憶があって、その答えは世界デビュー後の宇多田ヒカルは「宇多田ヒカルの密度が低い」という指摘があったんですね。「イージー・ブリージー」あたりを、日本でヒットした宇多田さんの楽曲と比較すれば、一目瞭然、単なるアジアから来たポップスシンガーとしてプロデュースされてしまったから、宇多田ヒカルさんの魅力であった、そのアーティストの持っている味、その密度そのものが低い。宇多田ヒカルさんのセンセーショナルなブレイクは、本当は彼女の【フェイク】と称される「あ、あ〜」とか「う〜」とか「はー」といったボーカルのアソビの部分、ああした雑味の部分として、囁き声とか鼻息とか呻き声とブレスの吐息とか、そういうレベルで宇多田ヒカルさんというアーティストの魅力が詰まっていて、故に「密度が濃かった」と表現されている。


あしたの今頃には

あなたは何処にいるんだろう

誰を、想ってるんだろう
 ハー
⇧⇧⇧
「だ・れ・を、想ってるンだ、Haaaaa」に聴こえる。

元々、宇多田さんの場合は、洗練されていたのだけれども、それでいて物凄く家内制手工業っぽい音づくりだったんですよね。本人がコーラスを採って音楽機材をいじっていたり。プロデューサーの手腕に任せてつくった音ではなかった。

あいみょん(さん)の場合、ギター弾き語りバージョンだと、声が良さが結構、ダイレクトに伝わって来る。ああ、ギターと、ボーカルだけの音、それもボーカルの声が非常にクリア。雑味も味わいのうちなんでしょうねぇ。そもそもギターの音なんては人の心を揺さぶるものだし、その声質に、そのアーティストの味が凝縮されている。

惜しまずに初回限定版を購入して正解だったなぁ。

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今年の9月初旬頃から、今度は星新一の『人民は弱し 官吏は強し』を読もうかなと計画していたのですが、書店に行くタイミングやら、私自身の中では陳舜臣ブームみたいなものがあって、ようやく一区切りがついたので、『人民は弱し 官吏は強し』を読んだのでしたが、こんな事ってあるだなぁ…と感嘆する羽目になりました。

星新一の文庫本を今年になってから2冊読んでいて、昔、読んだ筈なのに全然記憶がなく、ショートショートというのは風呂にお湯を汲んでいる時間にちょちょいと数編だけ読めるので都合がいい。なので『人民は弱し 官吏は強し』にしても、ショートショート集か、せいぜい中編小説なのだろうと調べぬままに購入していたのですが、同著は、人物伝です。それも星新一の実父である星一(ほしはじめ)の伝記でした。

しかし、これが何というべきか、神の配剤ってヤツだったのかな…。アヘンの話であり、政争の話であり、正義とは何であるかという文明批判の教科書のような内容であった。意図していなかったのに陳舜臣作品とも共通してアヘンと政治闘争の内容になってしまった。

星一なる実業家が手掛けていたのは製薬会社であり、つまり、医療用に使用するモルヒネの精製であった。モルヒネは阿片原料から精製する。他にもコカの葉を栽培し、星製薬株式会社は日本の製薬業界に新風をもたらせていた。しかし、そこに横槍が入った。加藤高明と後藤新平との政治権力闘争に巻き込まれる。また、阿片に関しての権益を独占したいイギリス、そのイギリス情報機関からの密告によって、「ハイです、分かりました」と簡単に各種の権利・権限を動かし、民間人一人を血祭りに上げる事なんて屁のカッパぐらいにしか考えていない日本官僚機構のヤバさというのが、よく顕われている。

まぁ、内容は入り組んでおり、且つ、濃密なので掻い摘んで説明するものではありませんが、もう、表題の『人民は弱し 官吏は強し』という一語に尽きる。イギリスの情報機関から密告を受け、且つ、政局として憲政会の加藤高明と後藤新平との対立があり、後藤新平と交友があった星一は官憲からの狙い撃ちに遭う。マスコミに対しての情報操作、出頭命令、家宅捜索、取調べ調書、銀行への通達を駆使して、見事に星一は事業を潰されている。

銀行への官吏からの通達は「警視庁刑事部捜査課長」名義で関係する各銀行本支店長宛てに発信されており、星製薬株式会社に係る一切の預金受け払い調査を命じていたが、そこには「背任詐欺容疑捜査の為」として行なわせていた。そもそも有罪確定前なのに、そんな事をしたものだから、星製薬は資金調達不能状態に陥らされている。どこの銀行も、そんな通達がきたら面倒くさいから星製薬とは関わらないようにしよう、官吏に目をつけられたら大変な事になると、そういう力が作用する訳ですね。(今、マイナポイント欲しさにマイナンバー制度の普及が正当化され、勿論、銀行口座と紐づけが規制路線化していますが、或る意味では物凄く怖い事でもある訳ですね。常に監視される事になる。資産状況、入出金も結局は官吏の側からすれば一目瞭然となる。因みにタスポやレンタルビデオの履歴等は警察の捜査では既にリストは利用されていますね。本当に犯罪捜査だけに利用されるのであればいいんですが信用できるのかという問題がある。過去の例からすると、旧社会保険庁では年金情報に自在にアクセスして、それをマスコミにリークしていた事がありましたしね。マイナポイントの話にしても軽々に論じらがちですが、いわゆる民衆の側は、官憲にそんな絶大な権力に繋がる情報を、率先して献上しようとしている状態なのかも知れない。)

イギリス情報機関からの情報に踊らされ、日本の官憲がアメリカに「ホシハジメという人物の周辺に麻薬取引をしている人物がいるので捜査して欲しい」と捜査協力を呼び掛け、挙げ句、アメリカ側から「アメリカにそうした人脈はない。そもそもホシハジメは麻薬密売をするような人物でもない」と返答されている等、如何に日本人が物事を自分で考えて行動していないのか嫌になるほど克明に描かれている。外圧に弱く、人一倍、見栄っぱりであるが、その実、自分の頭で物事を組み立てない。

きっと今、孫正義さんあたりが読んだら、ひやっとする内容だなと思う。ケータイ値下げ、国民もマスコミも、ヤンヤヤンヤの大喝采ですが、ホントは大衆迎合という名の衣裳をまとった多数決専制政治で在る事を誰も指摘できない。強大な権力が、全てを飲み込んでゆく。実際にNTTはドコモを子会社化する事になり、政権の意に添うような格安プランを発表し、これに各社も続くことになりますが、これは健全な競争なのかというと微妙なワケですね。「国家の電波を利用して不当に高収益を上げているケータイ会社は国民の敵だ!」と叫ぶ人が増えてしまっている訳ですが、実際に経営にかかるリスクを冒し、ライバル企業としのぎを削ってきた各企業の鋭意努力については何の評価もしようとしない。共産主義を口汚く罵りながら、その一方では実際に共産主義的な専制政治を喜んでいる。

或る意味では、殆んど、星新一の思想性はショートショート作品集からは読み取れない訳ですが、これを読んでしまうと、奥底には呻吟とした思いを抱えていた作家だったのだという事が分かる。この作品、実父を題材にしており、如何に実父が政府から嫌がらせを受けていたのかを克明に記しているのですが、それでいて客観性を失っていない。怒り狂ってもおかしくないような内容であり、その筆致は淡々としているが、政治家の名前や検察官、刑事の名前が実名で記されている事を考慮すると、山崎豊子作品よりも鋭く日本の暗部を抉っている。テイスト的には各種の冤罪事件を追ったドキュメンタリーに近いのだ。その実父の理不尽な敗北劇を、感情的になる事もなく淡々と伝記として仕上げている星新一の能力に改めて驚かされる。

八百長裁判、見識の低いままに権力を持ってしまっている官吏、物事を敵と味方でしか理解できない権力中枢の人々の醜態――。


ロックバンドのエレファントカシマシには、「奴隷天国」という歌がある。少しだけ歌詞を引用すると、次のようにある。


Ah 生まれたときから そう 奴隷天国よ

Ah 生まれたときから そうさ

奴隷天国よ 奴隷天国よ

おめえの天国 奴隷天国よ


あー、やっぱり、宮本浩次さん、やっちゃってますなぁ…。更には、「コール アンド レスポンス」なる曲は、きっとライブで唄われる曲なのでしょうけど、


世間の常識 うやむやなあいつら

我らの生命 生命 死亡宣告

もっと俺に輝かしい未来を 我らに都合のいい法律を

我らに都合のいい世界を 生命 死刑宣告

爐─次△款誼里里海箸箸六廚い泙垢韻譴匹
ここで神の意志を発表させて頂きます。
えー、発表します。全員死刑です。


とまで、やっちゃってる。あんまりにも挑発が過ぎて、聴くのも心労になる。個人的な感想からすると、頭脳警察やザ・タイマーズあたりよりも過激ですねぇ。頭脳警察は「共産党宣言」の文章に曲をつけて楽曲とし、ザ・タイマーズってのは忌野清志郎ですが「タイマー、持っている」(大麻を持っているに聞こえる)と唄い、世の中を挑発しまくったけど、或る意味では「えー、発表します。全員死刑です。」よりもマシかも知れない。

しかし、実は、星新一の書いた『人民は弱し 官吏は強し』は、そういう内容であったと思う。ヤケクソになって、牙を剥き出しにして襲い掛かってもおかしくないような内容であるが、星新一は持ち前の知性と理性とで、それを書籍として実際に遺している。

また、今日的な教訓も多い。『人民は弱し 官吏は強し』から引用します。

まじめな人たちだけに、かえって取調べは衝撃的だった。周囲でもすぐ評判になる。地方の人びとは警察にすなおな信頼をよせており、その裏にある意図など疑ってみようともしない。(282頁)

これは、ほんの一部ですが、おそらく、裁判の内容にしても実際には通じないようになっており、どれだけの者が裁判の話を理解してくれているだろうか等の心情も綴られている。この星一の裁判は台湾総督府での裁判なので裁判官の背後に総督ら政府高官がいる状態で、しかも傍聴は禁止。密室裁判を越えて、有罪にする為の裁判であったらしい。それじゃ、なんだって出来ますな。時代背景的にも朴烈事件と同時代で、どうしようもなく政治が腐敗し、官憲が権力を勘違いして行使し、司法でさえも平気で思想狩りに加担し、インチキばかりやっていた時代の話でもある。

官吏は権力を私物化し、事前にマスコミに情報をリークする。この場合は東京日日新聞であり、これは現在の毎日新聞ですが、この舞台となった大正末期、実は東京日日新聞は政治家にして三菱財閥の岩崎弥太郎の女婿である政治家の加藤高明が所有者になった時期がある。星一が検束されていないのに「検束された」と報じ、その後、実際に出頭命令が来る。ある事ない事を報じ、故意の誤報を繰り返すなどして、信用を失わせるという追い落としを公然とやっていた事が明かされている。つまりは、三菱財閥系の加藤高明がライバルの後藤新平の後援者である星一および星製薬株式会社を私怨によって経営破綻させた怨嗟の物語なのだ。かなり悪質な内務省及び旧内務省といった法曹界の悪弊であり、その根本は、近7〜8年で再燃しているが現代人の多くは、あんまり気付いていない。

大衆に訴えるも大衆は純朴、無明なので官憲を疑わない。そこに付け込まれた訳ですね。しかし、冷静に検証しても、この話には価値があり、この大正末期の政治は、腐敗政治のシーズンであり、政治家による汚職が相次いで発生していたのだ。作品中でも触れられていましたが、松島遊郭事件なんて初耳でしたが、憲政会の政治家と政友会の政治家とが結託して、遊郭の移転地の土地を買い占めて、金銭的利益を上げていた疑獄事件だそうで、百科事典で調べると確かに掲載されている。

昨今も、そして現在も、権力という権力は国家権力という衣裳をまとい、好き放題に跳梁跋扈している訳ですが、大衆は、これを支持してしまっている訳で。

んー、どこで目にした記事だったのか忘れてしまいましたが、1年間に読む本の冊数で、やはり、成績の良い学生さんは平均44冊前後を読んでいるらしく、一方で成績の悪い学生さんになると、年間の購読冊数は3冊にも満たないという記事を読んだのかな、最近。全員死刑って叫びたくなる気持ちも分からないでもない。



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五木寛之著『大河の一滴』を読み終えての感想ですが、これが現在、私が足を運んだ書店ではコーナーまでつくって売られていた。1998年に刊行された古い内容ですが、敢えて今の時代にプッシュされているという事のよう。

古い話であるが故に、思い出す話題も多かったかな。阪神・淡路大震災、酒鬼薔薇事件、それと、事件の名称は存在しないのですが、家庭内暴力の息子に向き合ってカウンセリングを受けて、そのカウンセリングに従って息子に殴られ続けた父親が最終的に息子を殺害したという事件にまで触れられていた。この事件、確かに感慨深い事件だったんですよね。少し補足すると、父親は出版社に勤務しており、かねてより息子の家庭内暴力に悩んでいた。出版社勤務という事も関係したのか、その頃は敷居も高かったであろう心理カウンセリングを頼り、そこで息子から殴られたら殴られ続けるべきだというアドバイスを受けた。その父親はカウンセラーの指導通り、殴られても反撃することはせず、最終的には鼻が真横に曲がるまで殴られせて耐えたが、息子の暴力は止まらなかった。それで、とうとう父親は包丁で息子を刺し殺した。そんな事件であった。この事件も、酒鬼薔薇事件、オウム真理教事件と似た時期だったんでしょうねぇ。それと、男子中学生が女性教師を刺殺してしまった事件にも触れていたけど、あれも確かに印象的な事件であったと思う。おかしな時代を生きているってのはホントでしょうねぇ。

『大河の一滴』は基本的にはエッセイなので、何が素晴らしいという風には評する事は難しいんですが、ごくごく昔であれば当たり前であっただろう、諸々が説かれている。読み終えてみれば、親鸞、唯円、本願寺蓮如と真宗の教説を噛み砕いたものが多かった気がしますが、説明口調でもないし、説教でもなく、独り言のように語られている。その他にも名前が挙がっていたのは「福永光司」であったり、「山折哲雄」であったり…。

で、五木寛之さんが言うには――、他人に期待などしてはいけない、最初から期待なんてするから裏切られたと感じてしまうのだ。何も人生なんていい事がないと思って生きていれば、思いがけず出会った他人の親切心であるとか、自然の美しさ、そういったものを感動できるようになるのではないのか――という話が主眼だったのかな。仏教哲学ですね。

しかし、これも、どうなんでしょ、実際、ハードモードなんじゃないだろか。仮に、それを実践したとして、それで幸福になれるのかと尋ねられたら、「うーむ」としか返答できない気がする。他者、他人はアテにならないし、世の中はアテにならないときて、それでも自分律を通して生きるのは、かなりハードな気がしないでもない。

儒教的な価値観で思考したとして、勿論、露骨に報酬を期待するものではないが、親切にされるという恩を受けたら恩を返すという風に発想する訳ですね。しかし、これが蔑ろにされてしまえば、親切にするだけバカを見てしまう。相互性原理が崩れている。それでも、他人に親切にするという徳を心掛け、それを継続して生きるというのは、現実的には破綻してしまう気がしないでもない。多少なりとも価値観の合致した他者と出会えば、その時に感動するかも知れないけど、そもそも、ホントに出会うものなのか怪しい(笑 

私の例で言えば他人の財布を3回、ん、4回かもな、拾って落とし主に渡した事がある。ところが、私が財布を落とした場合は二度ほどありますが、明らかにパクられている。世の中、理不尽なんですよねぇ。気付いてしまえば、色々とバカバカしい。いやいや、そればかりじゃなくて、ヘタをしたら親切に立ち振る舞った事が災いし、小言レベルの恨み事を言われてしまうような、そういう面白くないケースだって多々ある。

『大河の一滴』で「そうだね」と思った部分は多いのだけれども、或る種、他者に期待することなく、愚直に生きていても、まぁ、そんなに感動する事はないんじゃないのかなという気もしてしまったかな。「渡る世間に鬼はなし」というのは誤まりで、橋田壽賀子さんの御指摘通り、「渡る世間には鬼ばかり」かな。ろくなもんじゃない。

いやいや、『大河の一滴』は際どい、そうした事柄にも触れていたのかな。川口松太郎という作家の周りには常に笑い声があって、皆が皆、「かわまっちゃん」が居ないと盛り上がらないなと言い合っていたという。しかし、その川口松太郎は親しい人に対して、全く別の一面を見せた事があったらしく、「生まれ変わったら、絶対に人間には生まれ変わりたくないっ!」と吐き捨てていたという噂に触れていた。気遣いもできて陽気で人気者で、そんな人の内面には、とんでもない人間嫌いが隠れているものなのかも知れませんやね。確かに「絶対に人間になんて生まれ変わりたくない!」という発想は、相当な人間嫌いじゃないと出て来そうなもない気がする。しかし、おそらくは世の中には、そういうレベルで他者に絶望しながら生きている人が実在しているという事かも知れませんやね。

また、やはり、あの話にも触れていたかな。戦争体験など、実際に酷い心の傷を持っている人は「傷つきました」という具合に話す事はなく、自らの人生として黙って背負っているものだろう、と。勿論、嫌な記憶が消える訳もなく、心の中には残り続けているが、思い出す事も苦痛だから思い出さない。人間考察もしっかりしており、そもそも昔話がネタ化してしまっている場合には、どれが真実でどれが尾鰭なのか、分からなくなってしまうものではないのか…という話まで。尤も、五木寛之さんにしても「綺麗ごとに思われてしまうだろうが…」と冠しながら、そういう語り掛けをしている。
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【美】とは何か?

稲垣足穂著『一千一秒物語』(新潮文庫)に収録されていた「美のはかなさ」を読んで色々と驚かされましたが、そこで引用されていた一文から――

換言すれば美の脆さ、飛躍的創造によって成り出でて、周囲から全く隔絶されて完全自足する美の先端的小宇宙は、その宇宙的形象はその内的性質の些少の変化によってもたちまち崩落する。この傷つき易い美的対象を十全な把握によって潜勢的状態から現実的存在にもたらすべき美的体験もまた同様に飛躍的孤立的な、極めて傷つき易い刹那的体験である。美的なるもののかかる脆さは材料の腐朽性とは異なり、また悲劇的の美に限らず、美一般の属性、この意味に於いて猗そのもの悲劇瓩箸盡世錣譴襦さて美的体験に於いては関心が喚起されると同時に破却され、スリルが心を掴むと共に、内面的形式によって、その方向と構造を転化されるが、これは存在学的には二つの敵対原理の調和を意味する。即ち美的人間の存在は一面歴史的精神に固有の時間性に束縛されつつ、他面、特に芸術家として自然の恩寵によって創作に成功し、永遠の現在に生きる、しかもこれは自然と精神との間の緊張を脱することではなく、単に刹那的な、常に幸運な、従って脆弱な安定であり、同様し易い平衡である。

適度にカタカナを平仮名に書き換えての引用ですが、オスカー・ベッガーの「幾何学とその物理的応用の現象学的基礎づけ試論」なるものからの引用で、それを稲垣足穂はハイデガーの『存在と時間』に参照されていた事に拠って、気付いた、発見したという風に述べて、そこで引用していました。

このテの言い回し、苦手な方は苦手だと思われますが、いちいち、首肯したくなるレベルで【美】について語られている。また、それらを引用しながら稲垣足穂(いながき・たるほ)の「美とははかないものである」という論旨が組み立てられている。

少しだけ稲垣足穂について述べると、星新一を読んでショートショートという分野に於いてはスーパースターだなぁ…と感じていたのですが、一方で、日本初のショートショートと呼ばれているのは、この稲垣足穂の『一千一秒物語』だとされているのだそうな。実際に目を通してみると、その評は正しいような正しくないような…。より、メルヘンであり、しかも癖があって、宇宙とか月とか法則性とか、そんなものにしか興味が無い人物が、短詩を綴ったかのようなものでした。

また、稲垣足穂は或る時代、非常に人気を博した作家であり、かなり難解な少年愛理論なども展開しており、野坂昭如との対談では「タルホに会える!」と興奮したノサカが例によって泥酔し、憧れの稲垣足穂を前にして、その禿頭にしがみついて執拗にキスをするなどしたという、前代未聞の対談記事を残している。雑誌の対談でありながら酔っ払っているノサカがタルホに猛烈に抱きつき、のしかかる、という冗談のような実話がある。(国書刊行会の野坂昭如本の中には付録で当時の対談記事がありましたが「マジか、オエーっ!」という世界。また、ノサカの死後に発刊された『絶筆』にも足穂先生に会ったときの大失敗談を回想している記述がある。)

そして現在、『一千一秒物語』は、ピース又吉さんの選ぶ新潮文庫の何冊かに選ばれて書店の文庫本コーナーの平棚に帯付きで並んでいる。まぁ、私の率直な感想からすると、「美のはかなさ」と「A感覚とV感覚」以外は、正直、読むのが苦痛だった気がしますが(汗

改めて、【美】とは何か?

それは平たく言えば、「脆くて刹那的で悲劇的であり、尖端的である」という。ハンガリーの哲学者ジョルジョ・ルカーチは、美について「小宇宙的構造」という言葉を用いたという。それを稲垣足穂が解説してくれている。

ルカーチは、価値を表わす【規範】と、体験における【現実】とは、矛盾がない限りは同一の対象に与えることは不可能であると論じた。つまり、現実とは体験によって実際に認識される。他方、価値というのは規範なので、体験から感じる美的体験とは相容れない可能性がある。Aという者が美しいと感じるものはAという者の固有の感覚的で直接的な「美しい」である。それは、BやCやDといった他の人達が同じように「美しい」と感じてくれるかどうかは微妙といえば微妙なのだ。本来的には美的感覚は、体験的なものに左右されるものだから。

尖端は孤立的である。これは現在のサブカルでも「あの人は尖がっている」のように無意識に話していますが、尖がっているとは、即ち、孤立的なんですね。他の周囲と同じ地平には立っていない。つまり、孤立的である。しかし、その尖がっていることを「カッコイイ」と感じる感性がある。それによって、或る種のカリスマが成立する訳ですね。「なんじゃ、ありゃ。ただド派手なファッションで悪趣味なだけじゃん」という場合も有り得るが、これがどうにか転がると「あのデザイナーがデザインしたブランドなんだぜ」のようにも転がり得る。では、それは単なる偶然、全くの偶然なのかというと、そうではなく、尖端的で孤立的な閉鎖性を伴なう個性を保持していて、尚且つ、規範として認識されないと成立しない。その絶妙な平衡にある。それをルカーチは「小宇宙的構造」と評したらしい。(「構造」の話ですね。図を描くように考えればいい。)

そして、その美感の中には刹那的にして悲劇的、つまり、どうしようもなく「果敢なさ」をまとっている。裏返せば、果敢なくないものは美しくない。果敢ないものであるからこそ、希少性が生まれ、それが美と認識される。アン・ルイスに「美人薄命」って曲がありましたね。早世された夏目雅子さんであるとか、或いは尾崎豊なんてのも、もうホントに非存在になってしまった訳ですが、今にして思えば、その脆さ、危うさ、悲劇性、その瞬間的な輝きを我々を知っているから、記憶の中で輝かせることが出来ているとも言える。

滅びてしまいそうな人は美しい。破滅主義的な生き方を実践している者は、それだけで果敢なげであり、もう、それだけで美しい。この法則性は「傷だらけの天使」のプロデューサーが萩原健一を、日本のジェームス・ディーンにしようとしたという話とも合致する。「滅びゆく者というのはセクシーなんですよ」ってな事を言っていましたが、ジェームス・ディーンもマリリン・モンローにも似たような背景を持っていますね。という事は、そうした早世したスターというのは、予め、早世することが予定されていたかのような、そういう不気味な矛盾にも突き当たる事になる。死んだ後にスターになったのではなくて、生前にスターになっていたのだ。しかし、スターとは、刹那的であり、悲劇性をまとい、危なっかしく、実際に脆いものだったから、結果として早世したのかも知れない。

歌手・藤圭子は早世の人ではありませんが、一世風靡のレベルは高い。その裏には「この人は、この調子で唄い続けていたら、きっと破滅してしまうだろう…これは演歌ではなく恨歌だ。一瞬の打ち上げ花火のような…」という五木寛之の批評があったが、実際に歌手「藤圭子」の生き様というのは破滅型であり、まるで嵐のようなものであったかも知れませんやね。五木寛之は藤圭子のレコードを聴いて「この人は命を削りながら歌を唄っている。それも演歌ではなく恨歌だ」とリアルタイムで評していたという事は感覚的な部分で「直観していた」とも言える訳ですね。

尖端的、尖がっているとは、もう、そのまんま、鋭利である。安全な場所に身を置いて、尖がった発言というのは難しい。もう、我が身を綱渡りさせながら、その状態で尖がった発言をしたときに光り輝く。こりゃ、どうやっても短命になりますな。もしかしたらカリスマ的なロックンローラーが、長生きに執着し、老醜を晒すよりも、さっさと死んでしまった方が伝説になるものかも知れない。これは、昨今、そうした話題で炎上騒動もあったようですが、実は真理を突いている可能性がある。

この稲垣足穂やオスカー・ベッガーといった人物は、おそらくは、そのことに気付いていたのでしょう。だから、ハイデガーの「存在と時間」が背景に置かれているのだ。

稲垣足穂はハイデガーの【瞬視】という用語について説明している。

「瞬視」は絶対的偶然であり、何ら時間中にあるものではなく、時間そのもの、そこから「世界内」のもろもろの偶然と歴史とが導き出されるところの根本偶然(Urzufall)なのだ。

なんだか難解な話に感じる部分かも知れませんが、稲垣足穂はキルケゴールで補強している。

「瞬間」とは時間中の虚無点であって、この不可思議な交点を介して「今」と「永遠」との接触が行われる、とキルケゴールは考えたが、ハイデッガーの“Augenblick”(瞬視)は、「今」を以ては説明し得ないものである。それは「本来的現在」である。「瞬視」によって人は本来的な自己に覚醒し、もはや偶然だの環境だのに倚りすがらないで、ひとつの選択の下に自らを投企する。

うむむむ。

「瞬間」とか「今」というのは、「永遠」との交点ですな。その今を永遠にしてしまうには、つまり、美しいままに死んで、そのまま、人々の中で象となり、ミームとなって伝説化することかも知れない。確かに、それが美の正体のような気がしないでもない。美の究極は、死によって永遠となるという禁断の美に言及しているのかも知れない。ヒント、三島由紀夫。

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「真夏の夜の夢」というと、或る時期から松任谷由実さんの「♪骨まで溶けるよな」という歌い出しの楽曲を思い浮べるようになりましたが、そういえば野口五郎さんにも「真夏の夜の夢」っていう楽曲があったよなぁ…。まぁ、いつの頃よりか、ものまねタレントのコロッケさんの物真似芸の影響で、モノマネをする場合の定番曲としてしか認識しなくなってしまっているのかな。冗談めかして野口五郎さんがコロッケさんに「僕のヒット曲が一つ減っちゃった。コンサートで唄っても観客が笑ってしまう」と悪態をついていましたが、実は、地味に、その効果があるような気も。。。


野口五郎版「真夏の世の夢」は、筒美京平の作曲・編曲なのですが全体的にフォークソング的にして、軽く演歌している野口五郎の楽曲の中では、傑出して斬新でポップな曲なんですね。この一曲があるかないかによって、野口五郎というアーティストの印象は変わってしまうかも知れない。やはり、野口五郎といえば、「私鉄沿線」、「君が美しすぎて」、「甘い生活」、「針葉樹」、「青いリンゴ」といった大人しい目の楽曲のラインナップなので、やはり、ここに「真夏の夜の夢」が入るか入らないかで、その幅に大きな差異が出る。(因みに「19:00時の街」も名曲ですが、ちょっと来生たかおの「シルエットロマンス」にアレンジが似てしまっている。)

で、「真夏の夜の夢」、CDで聴いてみると、かなり斬新な曲だなと気付かされる。モノマネで毒されてしまった歌い出しとなる


その時、あなたはバラになり

その時、僕は蝶になり

この世の嘆きや苦しみを

忘れて覚えた蜜の味


ですが、これ、いきなり「胡蝶の夢」ですね。胡蝶の夢については後述しますが…。

そして、クライマックスの箇所というのを、よく記憶していなかったのですが、結構、冒険的なクライマックスの楽曲なのだ。


夢よ〜、夢よ夢よ〜

夢よ〜、夢よ夢よ、真夏の夢よ

深い〜、深い深い眠りに誘えよ

あなたはバラ、ぼくは蝶

あなたはバラ、ぼくは蝶

真夏の夜の夢〜


くはぁ、これは中々の名曲であるなぁ…と感じるに到って作詞を確認してみると、阿久悠センセイでありました。ああ、やはり、凄いなぁ。また、これを多段階の展開とした筒美京平の作曲も見事だったなぁ…とね。

先ず、歌詞ですが「その時、あなたはバラになり、その時、ぼく蝶になり」という冒頭の歌詞が、クライマックスの直後の「あなたはバラ、ぼくは蝶」の繰り返しによって確認されているのだ。そして、どれもこれも、真夏の夜の夢であったと唄っている。しかも、この締めは、上り調子のまま、「まなつのよるの〜、ゆめ⤴」と突き抜けるように歌われている楽曲だったのだ。このクライマックス部分の突き抜け方が、中々、カッコいい。本当は楽曲の持っている斬新さは、ホントは未だに色褪せていないと思う。

また、「あなたはバラ、ぼくは蝶」は二番になると「あなたは海、ぼくは舟」に言い換えられていますが、これも予定調和すぎると考えてしまう事も可能ですが、まぁ、よく出来ているといえばよく出来ている。そうした比喩の技法を、きっちりと守っていたのだなぁ…と。

「胡蝶の夢」とは、荘子の冒頭に示したものであり、つまり、「この世とは、夢のようなものである。夢の中の私は蝶であり、ヒラヒラと飛んでいる夢をみたが、この世と夢の差異なんて見極めることができるだろうか?」と示した人生観についての見識である。また、大海の中をさまよう一隻の舟という構図も、深遠を探れば、荘子の世界観に行き着けると思う。



こ〜の舟を 漕いで行け

お〜まえの手で 漕いで行け

オマエが消えて喜ぶ者に

オマエのオールを任せるな


という中島みゆき作詞の「宙船」あたりも同じですが、自己に対比しての外の世界とは、限りなく膨大、無限に近い大きさであり、その外海を、我々は一隻の小舟に乗ってたゆたっているようなものでしかない。横から他人が口を出してきて、その櫓を漕ぎ出したら、その自らの人生を他人の舵取りに委ねることになってしまう。だから、「お前が消えて喜ぶような卑怯な連中に、お前自身のオールを任せるなっ! お前の人生はお前が漕いでいくべきだ!」なのでしょう。

森進一には「花と蝶」という、かなり遠大な楽曲があり、作詞は御大・川内康範センセイであった。


花が、女で

男が、蝶か


であるが、これを全盛期の森進一が唸りまくって歌唱したので、

はうあぅながぅ おぅうんなで(花が女で)

おぅとこがぅわぅわぅ、ちょうおぅおぅくわぁ〜(男が蝶か)


ぐらいの歌唱法になる。

花が女で男が蝶という、この比喩は野口五郎が唄うところの「あなたはバラ、僕は蝶」の比喩と一緒である。

そして、川内康範&森進一コンビの場合は、「花が散るとき、蝶が死ぬ」と唄い、「蝶が死ぬとき、花が死ぬ」とまで歌った。実際に花が枯れてしまったら、花に依存していた蝶は滅んでしまうかも知れないし、蝶が花粉を媒介してくれなかったら花も死滅してしまうのかも知れない。やはり、情感を込めまくって、熱唱されてしまったときに、その情感は、ド迫力で伝わってくる。ここは目一杯の演出であるべきで「花が散るとき、蝶も死ぬ」という比喩によって、その男女の情愛の深さを表現したのでしょう。男女の仲というのは、心情的としては、きっと、そういう燃え上がり方をするものなのかも知れませんやね。

で、それを「真夏の夜の夢」も、しっかりと踏襲しているように見える。この阿久悠の「真夏の夜の夢」は、死には向かわず、よりニヒルである。意訳すれば、きっと、この狂おしい恋の炎は、真夏の夜が見せた幻想であるとして、その恋情を「夢」として片付けようとする。

夢よ〜、夢よ夢よ

夢よ〜、夢よ、真夏の夢よ⤴


と直線的に上昇し、地平に立つ自己から遠ざかってゆき、その夢は消えてゆく。

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映画ではなく、原作の『楢山節考』を読んでみたのですが、やはり、すらすらと読めてしまった。DVDを視聴した際には理解できなかった部分も、実は小説では思いの外、分かり易い。方言が多く使用されているのですが、その方言の後に、ちゃんと、これはこういう事を意味していると触れながら書かれている。このテの小説というのは、説明が多過ぎるとうんざりしてしまいがちだし、また、注釈が多いと読むのに疲れてしまうのですが、その辺りも上手く作品にしてあるなぁ…という印象。やっていることは、結構、くどくて、「これはこういうことで、この者にはこのように感じられた」という具合に書き連ねてあるのですが、そによって説明していくという構成。

その集落では「山へ行く」といった場合、同じ言葉、同じイントネーションであるが意味は二つある。一つは山へ狩猟や採集する為、つまり、仕事に行くことであり、もう一つの「山へ行く」は「楢山参り」をする事を意味している。全く同じ言葉、全く同じイントネーションであるが、集落の人々は、その差異を自在に操っている――という具合の、その諸事情が説明されてゆく。

今村昌平版の映画では、作品中、掟を破って盗みを働いていた12人家族が全員生き埋めにされるという描写がありましたが、原作では、その家族は全員が居なくなっただけであり、村人たちが殺害したという描写はない。また、今村昌平版では緒形拳演じる辰平が実父を殺害していたというサイドストーリーが付されていましたが、原作には、そこは出てこない。とはいうものの、全体からすると、かなり原作に忠実に映像化されていたのだなと確認できました。

坂本スミ子演じる「おりん」は、69歳なのに歯が丈夫なので長生きしそう、食欲の旺盛な女、転じて鬼婆であると集落の連中から陰口を言われているが、当のおりんは、さっさと楢山へ行って神様の元へ行きたいと考えている。映像作品でも、印象的なシーンですが、おりんは自らの歯が丈夫な事を恥じており、自らの丈夫な歯を折ってしまいと考えている。そして、息子の辰平(45歳)の元に後妻として、あき竹城演じる「玉やん」がやって来た時に、気立ての良さそうな玉やん、つまり、新しい嫁に対して強欲な姑と思われたくないという気持ちから、納屋の中で石臼に自らの前歯を叩き付け、とうとう前歯を折ってしまう。この描写は原作も映像作品も、色々と痛々しい。原作の方では、かなりの量の血を流したように描かれている。映像化作品の方は、もう、血を映し出すまでもなく、折れた歯が映し出されたのだと思いますが、それだけで、ゾクっとするような独特な歯の痛みを想起させる。

それこそ、中学生とか高校生の頃から「姥捨て山といったら楢山節考」という発想がある事は知っていましたが、楢山節考という原作は、姥捨伝説(棄老伝説)を題材にした代表作なのですが、やはり、諸々のディティールが、恐ろしいまでに優れているなぁ…と感じました。そうした経緯の中で、最終的に長男・辰平は、実母・おりんを背負って、楢山(姥捨山)へ足を踏み入れるのだ。絶対に振り返ってはいけねぇだぞ、絶対に楢山参りに行くにあたっては口を利いてはいけねぇだぞ、出発する姿を誰にも見られてはいけねぇだぞ。それらがタテマエ的な儀式である。そして、そのタテマエ(儀式)とは別に、この「楢山参り」には耳打ちをして、付け加えられる一言がある。「七谷まで行ったら、引き返してもいいだぞ」というのがそれで、主人公でもある辰平は、その意味が分からないまま出発するが、実際に楢山へ踏み込んでみて、その意味を理解する。楢山の頂上に年寄りを置いてくるのが、この楢山参りの本旨であるが、楢山にはロクに道らしい道はない。本気で楢山の頂上まで年寄りを背中に担いで行くとなると、大変な労力なので、その峠で、背負っている年寄りを七谷と呼ばれる谷で降ろして、そのまま、戻ってきてしまっていい、つまり、儀式を簡略化し、内々では老人を息する事も認められているのだ。この辺りのディティールが、妙に生々しい。

そして、集落の人々は、漠然と楢山には神様に棲んでいるという。どこまで神様の存在を死んでいるのかは分からないが、どう考えも神様を信じている。楢山参りとは、姥捨てではなく、楢山で神に出会う事なのだというタテマエというか信仰が、それを取り成している。そして、これは「オシラサマ」、白山信仰、民俗学的な何かなのでしょうか「白」が信仰されているようなディティールになっている。白米が貴重品であったのは、なんとなく想像がつくところですが、それと同じように、白い雪が信仰の対象になっている。だから、楢山参りの際に雪が降ると、「あの人はついている。神が楢山に来ているから、きっと神の元へ行ける」と信じられているのだ。

辰平は、楢山の頂上付近まで行って、母親のおりんを背中から降ろす。会話する事は禁忌であるから、この母子は掟を守って何の会話も交わさない。おりんを降ろして、少しだけ歩いた辰平は後ろを振り返る。振り返る事も掟に反しているが、そんな辰平を、おりんは気丈にも、ジェスチャーで、早く、村に戻るように促す。緒形拳演じる辰平が、楢山を下り始めると、見事に雪が降って来る。この「雪」は映像化作品でも強調されていたのですが、原作の方がより説明があるだけ印象が強い。

楢山に雪が降って来た、最初は風花程度の雪であったものが、どんどん雪は大きくなって、牡丹のような雪、つまり牡丹雪(ぼた雪)になった。この雪が降って来た事が嬉しくて嬉しくて、辰平は、どうしても

「母ちゃん、雪が降って来たョ!」(神に祝福されたよ!)

と言いたい感情を抑え切れなくなるのだ。どうしても、どうしても、雪が降って来たことを最後に、年老いた母親に伝えたいという感情が沸き上がってきてしまう。ああ、確かに文学的かも。クソ真面目だが、ちゃんと、やさしさもある長男・辰平の思いというのが、読み手に読み取れるように描かれている。

そして文庫本では、小説の後に深沢七郎の手書きの楽譜が掲載されていました。「楢山節」と「つんぼゆすりの唄」(泣く子はつねるぞという恐ろしい子守唄)で、どちらも作詞も作曲も深沢七郎。確かに、そこまでの次元で、物語のディティールを作り込んであるのだなぁ…と気付かされました。

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深沢七郎の短編小説「月のアペニン山」は、以下のような粗筋であった。

主人公の男は、静江という女と御見合い結婚をした。静江は、やさしい女であり、何を尋ねてもハイともイイエとも言わないタイプの女なので、物足りなさを感じることもあったが、それは大きな問題でもなかった。

新居を構えるが、数週間もすると隣人がトラブルが発生した。静江がいうには叩かれたり、投石によって窓ガラスを割られたので、もう、ここには住みたくないと訴える。なので、主人公の夫婦は2年間の間に5回もの引っ越しをすることになった。どこもかしこも、おかしな人ばっかりだ。どこかに安心して住める場所はものか――と。

埋立地の向いにある一軒家に引っ越した。下見をした際、その隣人の杉村家の人と知り合い、その日の内に晩飯を御馳走になるほど、親しくなった。杉村家は7人家族の大所帯であったが、自分たち夫婦に対しても新住民が越して来たという意識はなく、快く受け入れてくれたので、その埋立地の向いにある家へ引っ越す事を決めた。

その新しい家は、埋立地の向いにあるので、風向きによっては大量に蠅が発生した。蠅は不快なことに電灯を落とすと、二度、三度と顔に止まるので眠れやしない。杉村家に相談にすると、向かいの埋立地は、ゴミを埋め立てているので、どうしても風向きによっては蠅が大量発生するのだといい、蠅からの回避方法として蚊帳を吊るすことを教えてくれた。風向きが変わりさえすれば、蠅も姿を消すのだという。そして、帰り際に杉村家の亭主が、主人公にハエ叩きを手渡す。「気休めにしかなりませんが、ないよりはマシでしょう。これを、どうぞ」と手渡される。

主人公は蚊帳を吊る為に、カナヅチと釘とで大工仕事を始め、なんとか蚊帳を吊るす事に成功する。蚊帳を見上げていると、突然、後頭部をハエ叩きで叩かれるという不可解な現象が起こる。そんな事ができるのは、妻の静江しかいないのだが、静江がそんな事をする筈はない。主人公は頭を傾げる。

会社から帰宅すると、杉村家の亭主が自分の家の玄関先に腰掛けている。どうやら主人公の帰宅を待っていたらしい。

「どうして今まで黙ってたんですか? 奧さん、大変な病気じゃないですか。家内が既に病院に連れて行きましたから、今から我々も病院に行きましょう」

と杉村家の亭主に告げられる。そこで主人公は、妻の静江が何か持病でも持っていて、その発作によって病院に運ばれたのだろうと思い、無言のまま、杉村家の亭主と病院まで歩き続ける。主人公は、ひょっとしたら静江は妊娠していたのではないか等と思案を巡らせている。

病院に着いた頃に、ようやく、その病気の意味に気付く。病院の前に若い巡査がおり、その巡査に対して杉村の亭主が、主人公を紹介する。

巡査「だんなが来たんですか?」

杉村「この方がだんなです」

巡査「しょうがねぇなぁ、あんな気狂を、脳病院でも一番、重患の部屋に入れたそうだぞ」

と、巡査は主人公を怒鳴りつけるように言った。

つまり、静江は精神病者であった。あの蠅が大量発生した日の晩、ハエ叩きで後頭部を叩いたのは、やはり、静江だったのだと理解することになる。また、この瞬間まで主人公は静江が精神病であったことを知らなかったので、杉村の亭主と巡査は、主人公に呆れ返る。

――かなりの歳月が流れている。

主人公は家庭裁判所の廊下にいる。静江との離婚を成立させる為、印鑑を持参している。弁護士の後について家庭裁判所内の歩き、その壁の向こうに静江と調停人たちがいる。弁護士に拠れば、静江の精神病は治ったので、後は印鑑を突けば離婚が成立する段取りになっている。そう聞かされていた主人公は、ドアの隙間から室内の様子をうかがう。静江は、どんな様子なのか、覗き見たのだ。そこに静江の姿を見つけたが、その姿はまるで別人であった。かなり太っており、顔色は健康そうであるが椅子に反り返って腰掛け、何か女性評論家のように講釈をぶっている。自分の知っている静江ではなかった。

調停のまとめ役をしている人物が事情を説明してくれる。弁護士から精神病は治ったと聞いているだろうが、それは弁護士がうまくやってくれたことで、静江の精神病は治っているどころか、実際には遥かに進行してしまっている、これが現実である――と。

主人公は、そう聴いた後もドアの隙間から静江を観察する。月の北のにある山脈は、イタリアにあるアペニン山脈を模して、アペニン山脈と呼ぶという。主人公は天体望遠鏡で月面のアペニン山脈を観測するかのように、ドアの隙間から静江の様子を眺めている。オシマイ。


ただただ、これだけのストーリーである。しかし、これに深沢七郎の作風が表出しているという。読み取れたかというと、私は落第だったかなぁ…。なんだか不安とか不快が鏤められた小説だなとは感じたのですが、核心を読み取れなかった。文庫本の解説に目を通して、「ああ」となりましたが、作風の中にあるのは、アンチヒューマニズムであり、深沢七郎の小説は、徹底してヒトを物化してしまっている事に特徴があるのだという。つまり、最後の最後、これから離婚届にハンコを搗く妻の様子を、ドアの隙間から、まるで天体望遠鏡で月面を観測しているかのように傍観している主人公の在り方、これが主眼、眼目らしい。確かに、不気味なトーンというのは、それなのかも知れませんやね。

妻・静江の精神異常を知らない。重ねてきたご近所トラブルにしても、おそらくは精神異常が惹き起こしたものであったが、それにも全く気付くことがなかったのは主人公自身であった。巡査は「しょうがねぇなぁ、あんな気狂いを」と容赦のない本音を漏らしているが、結局は主人公も離婚の方向で動いたこと、動かざるを得なかったというのが物語の進展の仕方で分かる。しかも、表向きは離婚を成立させる為に精神病は治まった事にしているが、実際は治まっていないどころか進行している。それでも離婚する方向である事、有利に離婚調停を進める事が主人公にとっての選択なのだ。そして、閨(ねや)を一緒にしていた静江、まったく様子が違ってしまっている静江を、まるで月面の山脈を眺めるかのように、他人事として観察している主人公――。

これが深沢七郎の虚構と現実の、危ういボーダーラインの小説という事になるのか…。
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話題の石井妙子著『女帝 小池百合子』(文藝春秋)を読みましたが、価格の1500円に比して非常に読み応えのある内容でした。謎の多い「小池百合子」の実相に迫ったノンフィクションであり、読み応えも充分。「小池百合子」に焦点が絞ってある一方で、近30年ぐらいの日本の政治を回想できるようなつくりになっており、感慨深くページをめくっていったこともあって、ページ数の割には連夜の夜更かしとなってしまった…。

或る意味、それぐらい没頭して読める内容だったのかな。いちいち、自分の当時の政治観も回想できたし、著者の語り口に共感も多い一方で、個人的には「小池百合子を悪役にし過ぎでは?」と感じたりもしながらページを捲っていくこととなりました。著者の小池百合子観に共感も多い反面、私は小心者なのか、正直、小池百合子を悪玉にしてしまう事には抵抗も「あった」、「ある」ですかねぇ。後述しますが二世議員という訳でもなく、さほどバックボーンらしいバックボーンも持っていないところからスタートして、あの地位まで登り詰めている事そのものが偉業といえば偉業だな、その非凡な才覚みたいなものは傑出しているという証拠のような気もする。逆説的な反応になってしまうんですが、「何もないところから自力だけで世の中を渡ってみせている事」と、「その実像」とに閉口してしまう。凄いスケールの話だ。

というのも、このブログを遡って読んでもらっても検証できると思うのですが、基本的にテレビ政治とかパフォーマンス過多の政治というのは、おそらく、いちいち、批判してきた記憶がある。おそらく、小泉政権以降の日本の政治はテレビ的ポピュリズムに拠るところが大きい。これには例外というのはなくて、民主党政権しかりだし、安倍政権シンパもしかりであり、情報伝達手段が発達してしまうと、どうやっても大衆迎合主義になるという性質が関係している。これは検証も可能だと思う。例えば、

「思想信条に忠実に行動し、信用や人間力を原動力として成功した政治家の名前を挙げてみよ」

といえば、たちまちの内に、名前を挙げる事に窮してしまうのが、逆説的に、その事を証明していると思う。

中曽根康則は「風見鶏」と呼ばれていたし、小泉純一郎に到っては「変人」と呼ばれ、小沢一郎になれば「ゴロツキ」(小沢擁護派は「剛腕」と呼んだが西部邁は「ゴロツキ」と呼んだ)と呼ばれ、鳩山由紀夫に到っては「ルーピー」(くるくるパーの意)である。石原慎太郎評にしても世間一般の評は、あれだけ持ち上げておきながら、晩年の扱き下ろし方は酷いというのが実相だと思う。そして小池百合子にしても、或る時期から代名詞というほど定着はしていないが、余りにも権力にすりよって変わり身するので「風見鶏」と囁かれた。(風見鶏以外にも中身が無い等とアレコレ言われているけどね。)

安倍晋三は堂々たる保守だと思いたい人が多いが、実際に採っている政策を検証すれば「?」なものが多い。経済産業省出身者のアイデアに日和った小手先頼りの新自由主義、それでいて国家主義的な政治観なのであり、思うに小池百合子と安倍晋三は似て非なるものに見える。カタカナを多用し、メディアを操縦しようとする傾向は酷似している事は、本著を読んでも気付ける筈だ。だから、「実直さ」とか「信用力」を武器にして政治家としての成功などは、むしろ、見当たらないのが現実だよなって思う。

小池百合子は恐ろしい人物、「怪物」であると感じる事になる。しかし、気になるのは「怪物」を否定的に受け止め過ぎなのではないのか。松坂大輔や江川卓を「怪物」と評したのと同じニュアンスで「怪物」と感じるのであれば問題はないのですが、おそらく本著が強く作用してしまうのは、サイコパス的な意味合いでの「小池百合子は怪物である」であり、ここに引っ掛かりますかねぇ。人物の評伝などを目を通していると、異常なレベルで物事に執着して成功しているらしい、そうした人物は多く、むしろ、現行社会で成功を収めるには、サイコパス気質の人じゃないと無理なんじゃないのかなって思う事だって多い。これは、冷淡、ドライに人間関係を切る事ができるの意であり、思えば、そういう人物こそが、優れた人物であると言い続けてきたのが平成以降の日本であったよなって思う。現在ともなると往年の人気ドラマ「3年B組金八先生」あたりの内容でもアウトになってしまう価値観の御時世であり、どちらが狂っているのかさえ、本当は定かではなく、むしろ、現在の方が異常といえば異常にも思える。そういう世の中に対応して登場したのが「小池百合子」であり、仮に、成功する事だけを物事の基準とし、それを肯定的に捉えるならば、やはり、傑出した人物だとしか言いようがない。「小池百合子は嘘つきだ」とか「冷たいヤツだ」と扱き下ろすことは容易いが、そうした自己PRや処世術、その他の才能で突出している事も否定しようがないのだ。

テレホンアポインターなんていう職業が登場した頃から、なんだかデタラメでも何でも、契約を採ったヤツが優秀と評されるような世の中になったのは否定できず、或る時期から卒業名簿を業者から入手して、怪しげなセールスをする事が蔓延り、固定電話に出ると6〜8割は、そうしたセールスの電話、迷惑電話の時代となった。まともな電話によるセールスも少数は含まれるであろうから、言い過ぎになってしまいますが、正鵠を突いているのは確かだと思う。ロクな電話はかかってこない。思えば、豊田商事による詐欺事件などとも繋がっており、高齢者をだまくらかして高額な商品を売りつけたり、契約を結ばせるという、そういう怪しいビジネスが増えたのだ。自尊心をくすぐり、物を売りつけた。また、一方では消費者金融がテレビのCM枠を席巻した時代だってあった。

宮崎学さんの『突破者』で思い出しましたが地上げなんてのがブームになった日にゃ、当時の大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶで接待を受けていたりもし、その内容も『突破者』に拠れば、酷く下品なもので、深川の接待では、掘りコタツの中に芸妓を入れ、コタツの中でおちんちんをしゃぶらせていたと綴られていましたが、まぁ、ホントに、そういう次元の狂乱社会なのだ。この品性下劣さというのは傲岸不遜のなせる業ですやね…。芸能人の大麻やら、不倫でテレビ的な世論は動かされてしまうが、権力中枢の暗部とか腐敗ってのは、中々、メスが入らない。おそらくは既に東京一極集中の成果によって既得権が固定化してしまい政官財マ学、この辺りが東京一極集中の恩恵に拠って、ガチガチに固着してしまっている可能性が高い。ダマし、ダマされているのは日常茶飯事であり、信用力とは今のような時代では「チカラ」とイコールであり、それはカネであり、地位であり、その二つを操れる権力である。

そういう時代を経て、小池百合子という政治家が権力を有し、今、そこそこの地位に登り詰めているという現実がある。海千山千の世界で勝ち続けてきた女、こりゃ、ホンモノだよなぁと認める、そうした謙虚さが必要だと思う。(「嘘つきだ」とか「酷い政治家だ」で終始する話ではないと思うの意。)

どうしても怪物に対しては、薄気味悪さを感じてしまうのも人間の感性でしょうけど、仮に、嘘をついてもいい、他人をダマしてもいい、そういう条件を与えられたとして、それで実際に成り上がれる者がどれだけ実際に居るんだろう? 林真理子さんが『女帝小池百合子』を読んで、松本清張の「ゼロの焦点」を思い出したと述べていましたが、まさしく、そういう次元で、小池百合子という政治家が我々の目の前に立っているとして、「一体、あの女傑は何者なん?」と感じる事になるので、どうしても背筋が凍てつく事になる。幾ら色仕掛けで男性をとっかえひっかえして、成り上がるというシナリオを描いても、所詮は陳腐なシナリオになってしまう筈なんですが、確かに今も今朝だって「小池百合子」は実在している。或る意味では傑出した人物、稀有な才能を持った政治家だとも言えるんじゃないのかな。

飽くまで贔屓しているつもりはなく、ただただ、比肩する者が存在しないよねの意です。政党から当てがわれた公認候補のタスキだけで当選を重ねてきたというよりも自分自身の行動によって、それを勝ち取って来た感じだし、親から引きついた地盤があるでもなし、それで、あの地位まで登り詰めたのであれば、それはそれで恐ろしい話でもある。見方を変えれば、傑出した政治家だと言えてしまうと思う。

「父親殺し」とか、「親殺し」、「神殺し」などにも触れてきましたが、立身出世とか社会的成功を目標に掲げている人の場合、そのコツの一つ、成功例が小池百合子だという事になると思う。これは、どう説明すべきか、大枠では戦後、つまり、現代の価値観とは概ね唯物観であってるのかな、あんまり、心性とか心情、それこそ人間性とか信義などは、無価値なものと判断されているのが実相ですね。左翼思想について(史的)唯物観という言葉があるので、左翼思想ではない今日的な科学主義は唯物観ではないような錯覚が起こるが、本当の事を言ってしまえば、なんでもかんでも金銭に換算できると考えている経済偏重の唯物観が今日の資本主義であり、リベラル体系の裏の顔である。実際に現在だって、コロナ禍に係る補償にしても、結構、いい加減な基準で額面に換算して処理しているのだ。

一方に、これまでの経緯・経過や慣習などもあるが唯物観で勝利する。また、目に見えぬ精神的苦痛に伴う慰謝料などもあるが、現行リベラル思想体系では、そこら辺は自己申告頼みの自己主張したものが有利、また、それとて額面換算が可能なものだとして思考している。実際には目に見えないもの、ストレスとか気配りとか思いやり、協調性といったものはゼニカネには換算してはいない。している場合は、妙に自己主張をしてくる側が有利となるアメリカ式訴訟社会を正義としている。

当然、そういう仕組みの中で台頭するにはサイコパス的な、冷淡な人間関係を厭わないタイプの人間となり、これには実は例外はないような気がする。揉め事があれば和解しようとするのではなく、有能な弁護士を雇って有利な条件で決着をつけようとするだけ。松下幸之助の時代まででしょう、損得勘定以外にも人間としての品性などが問われるというのは…。つまり、新自由主義、グローバリズムへと舵を切った時から、これは想定する事も可能だった話のような気がしないでもない。人に接近して利用しては立身出世を遂げ、不要になった人間は切り捨てる、現行のシステムでは、おそらく優秀な人物と評される事になるような気がしますかねぇ。

「本当は卒業ではなく、中退なのではないか?」

という問題がある。これは経歴詐称に該当するじゃないかと考える。ところが、問題は複雑であり、当のカイロ大学の方が卒業証書を発行してしまっていると思われる場合でも、それを経歴詐称と言えるのかという虚実混淆の話になってきてしまう。勿論、真実を基準にして物事を推し量れば「これっておかしいよね」が真相になるが、現実問題としてカイロ大学当局が「正規に卒業しています」と言うのであれば、これは詐称に該当するのかどうかも曖昧になる。

「小池百合子の人生は虚構だらけだ!」

となる。これは、今年になってから原一男監督の「全身小説家」という映画について述べた問題とピッタリ重なるのかなって思う。世の中には、自分の経歴を面白おかしい物語に仕立てしまう人が一定以上の割合で実在し、しかも、そういう人たちの中には成功者になって、尊敬されている場合なんてのもある。スケールの小さな例は、誰もが体験している筈です。「この人は、なんで見え透いた嘘を平気で付くんだろう?」と感じた経験って、あるでしょう? 本人は嘘がバレていないつもりで、どんどんエスカレートさせてゆく。昔から、或る通りで「法螺吹き」というヤツですね。しかし、法螺吹きの話が面白いと、そのまんま、教祖様に祀られたり、あいつは才覚があるなんて、持て囃されたりする。

演技性パーソナリティーでしたっけ、或いは、セルフプロデュース? 過去記事を探ればワンサカと出て来る筈ですが、平成の時代に入ってから、実はキモチの悪いような強引なリベラルへの傾斜があったと思う。自己啓発本ブームなんてのが起こり、昔は「サラリーマン」と呼ばれていた人たちが「ビジネスマン」と呼ばれるようになり、もう、これみよがしに日経新聞が使用するカタカナ語を利用し、それこそ、小池百合子都知事ともダブるのかも知れませんが、英語を話せる事がステイタスみたいな虚像がつくられ、変な巻き舌で、コテコテのおじさんやおばさんが英語の発音をネイティブっぽくするようになり、まぁ、ホントは、虚飾、虚飾で30年以上が経過していると思う。背伸びをしたモラルが溢れかえり、物凄い虚像を持て囃すようになったのが実際ですやね。で、そうした、インチキくさい風潮の1995〜2020年なんて時代に、昇竜のように飛躍し、あそこまで到達していたのが「小池百合子」なのかと思うと、稀代のスケールじゃないかと肯定したくなってしまうんですね。

これは逆説的な展開なのだけれども、仮に実直な者とか、地道な生き方というのが報われる社会であれば、或る種の学歴詐称に腹を立てたくなりますが、もう、ホントは何が何だか分からないよなってぐらいの状況だと感じているから。学歴詐称は許さんと展開した瞬間から、科挙制度みたいな学歴重視社会の気持ち悪さにも気が行ってしまうし、各種の資格の乱立にしたって薄気味の悪い自己啓発ブームの落とし子だよなって本心では思っている。全体的にはマジメな若者が増えたというけれど、ホントは息が詰まりそうなぐらい、周囲を出し抜いて勝ち抜いて、なんだかストイックじゃなきゃダメみたいな風潮だって変だと言えば変ですやね。

「小池百合子はポピュリストであり、中身なんてない! 単なるパフォーマンス巧者に過ぎない! けしからん!」

というスタンスは、常々、「なんで知事や県庁職員が恋チュンとか踊って動画をアップしてんの? そこまでして評価されたいの?」と毒づいてきた私からすれば、嫌悪の対象なのだけれども、もう、政治そのものが大衆迎合して久しく、しかも、テレビ政治になって以降、そうした大衆迎合をして人気を獲得し、得票できる政治家を優秀な政治家と評してきた20年ぐらいがありますやね。ホントは、情報戦略に長けた人物なのであり、しかも操り人形ではなく、セルフプロモーションで成り上がっている事を考慮すると、きっと時代に適応して、あの「小池百合子」があるのだと思う。

また、「敵をつくる事で勝ち進んできた」という手法も、別に小池百合子がオリジナルではなく、小泉劇場の女刺客(ここに小池百合子アリ)もあったし、より、その手法が注目されたのは橋下徹さんでしたやね。共通の敵をつくり上げる事で無党派層の票を取り込めるという手法ですが、おそらく、これもナチスドイツとか、いやいや、第一次世界大戦の頃から、おそらくは行なわれてきた宣伝戦略のような気もします。結局、そーゆー世界だよね、と。

佐伯啓思さんの著書、おそらく『貨幣論』であったと思いますが、そこには「よく理由は分からないが資本主義には怨嗟のようなものがつきまとっているように感じる」といったニュアンスが記されていた記憶がある。草剛さん主演の「銭の戦争」というドラマでも、似たようなシーンがあったし、或いは「ハゲタカ」でも、そんなシーンがあった気がしますが、結局は、怨嗟、復讐というものが人間の原動力になっていると思う。だから貨幣戦争に勝利した者とか、権力争い(政争)に勝利した者は、腹の底には強烈な復讐感情を抱えている。敵対する相手を屈服させ、這いつくばらせ、それを横目に盛大な宴会みたいなものを開催し、その腹の中で勝っている復讐虫にエサを与える。これが現代社会の裏の顔であり、結局はって事のような気がしますけどねぇ。

勝つことが正義、強い事が正義、力こそが正義。そういう世の中が「小池百合子」を作りだしているのだろうから、本当は小池百合子を叩き潰せば、全て解決という訳ではないと思う。


うーん。やはり、些細な事だけれども、土井たか子と小池百合子であれば、私は圧倒的に小池百合子を評価しますかねぇ。前掲著は平成以降の政治的ムーブメントに深く切り込んでいたものの、土井たか子、その社会党党首の北朝鮮を巡る問題や秘書の五島某を巡る不正についての記述なんてのは「あれ?抜け落ちてる…」と感じた箇所があった。実質的伝統的な野党勢力であった日本社会党を潰してしまいましたな。その責任は極めて大きいと思いますよ。

それと、山尾志桜里さんについても不倫問題で失脚と一行で片付けてありましたが、やはり、ガソリーヌ騒動にも触れないと公正さを欠いてしまうかな。政治家なんて叩けばホコリだらけってのがホントっぽかったりしてね。それと著書中、山谷えり子さんの名前も数か所に上がっていましたが、私は著書も読みましたが、特別、評価するような理由がある女性政治家という印象でもない。大半はイメージ、虚像に操られているのが現在のテレビ政治って事なんだと思う。そこにあっては、女性政治家は、常に「添えられた花」であった。そんな花扱いされるばかりの女性政治家の中で「小池百合子」という政治家の場合は、途中から蜘蛛女のようにハマコーと睨み合い、森喜朗と火花を散らし、現在の地位にある事を思えば、小池百合子を排除せよみたいな事は思いませんかねぇ。裏返せば、この人、ホンモノって事じゃんって。

「小池百合子は公約を守らない」

という。確かにね。まぁ、テレビ政治になってから、民主党政権によるマニフェスト詐欺も発生しているし、安倍政権にしたって長期政権とか高支持率とは裏腹で問題山積、稲田朋美さんや三原じゅん子さんには触れられていましたが、まぁ、色々と真面目に評価しにくい。それが平成であり、令和なんじゃないスかね。

小池百合子知事は東京をシティオブロンドンを越える金融センターにするという。まぁ、どうかなって思う。基本、そういう金融依存政策なんて嫌いですが、自公や維新になると、カジノ付きIRですし、健全性なんてものは未来には望めそうもない。ギャンブルにアレルギー体質を持っている方ではなくて、ギャンブルは肯定派のつもりですが、カジノってのは、ちょっと抵抗があるかな。私はパチンコをやらないのだけれども競馬や麻雀なんてのは平和、健全な遊興だと思う。問題は額面だ。数千万円なんてのを一瞬で動かす賭場を開帳しようってのは、絶対に人間の強欲が出るに決まってる。ギャンブル依存症が云々じゃない。病気だから支援すべきって話でもない。そもそも見境なく博打にのめり込むような奴はダメだ、そもそも自制心がないヤツだ、それで破綻したり、病気になったのであれば、謂わば自業自得であり、それに病名を与えて救済する対象にするのは、おかしいじゃないかってのが、ホントはみんなのホンネなんじゃないの?

欲望と裏切りと怨嗟と、コネとカネ、狡猾とフェイクの入り乱れている状態が現在の東京のような気がしますけど。権力の腐敗は末期的なところまで来ているが、それでも世論の大勢は「強いリーダーを!」と希求してしまっている。選択肢なんてないのだから、その中で「小池百合子」を排除し、それで他の権力を利したところで虚しいだけかなぁ…。

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野坂昭如は2003年5月に脳梗塞で倒れ、2015年12月に逝去した訳ですが、この『絶筆』には脳梗塞で倒れてから逝去するまでの2004年から2015年12月に急逝する直前までに残したエッセイ集が収録されており、文庫本ながらざっと600頁超。これは読むのに数週間ぐらいかけて読むようかなと思っていたのですが、思いの外、短い期間で読み終えてしまった…。

似たような感じで、橋本治の晩年のエッセイを読んだばかりでしたが、確かに戦争を知る世代の人たちが最後に残したメッセージというのは、結構、魅力があるのかもなぁ…。苦言が多いのですが、それでいて、その通りなんだけどなぁ…と合点する事が多いのだ。

特に、この野坂昭如は面白くて、農本主義的終末論者、もしくは順番を入れ替えて終末論者的農本主義者なのだ。最晩年は、メッセージ色が強いので、幾分か農本主義色が勝っている。つまり、国の根幹は農であり、生産業であり、輸入で贅沢な暮らしを実現できても、それは首根っこを押さえられてしまっている末期的な状態であるという思想。

脳梗塞に倒れた後も月刊誌の新潮45に連載を持っていたようですが、目を通してると、「ああ、やはり、TPPなんてのには反対していたのだなぁ…」等と、当時を思い出しながら、すいすいと読めてしまった。また、これは諦念なのでしょうけど「農に帰れ」とか「工業国に帰れ」と綴りながらも、「きっと間に合わない」という嘆きなども読み取れる。まぁ、その通りか…。

リハビリをしながらの野坂の生活ぶりも読み取れる。折に触れて、飼い猫についての記述があり、その間に二匹の猫との死別なんてのもある。庭の木や草花などの記述も多く、自宅でエアロバイクなんてのに乗ってリハビリをしながら、それでいて多くの時間は庭を眺めながら生活をしていたらしい事が伺える。あの野坂サンが…。いや、ひょっとしたら、そういうものなのかな。飼い猫が庭に向かって逆毛を立てていて、その視線の先にはタヌキだかハクビシンが来ていた等々、やはり、そういう風景、そうした出来事の記述が目に付く。そういった出来事と、時事への記述がチラホラと。

2004年から2015年にかけての記述なので、大地震に備えるべし的な言説、北朝鮮による飛翔体発射について、民主党政権の誕生と安倍政権の誕生、イスラム国の登場などにも言及されている。

永六輔に野坂昭如、橋本治も同じでしたが、その世代の晩年は共通してテレビに苦言を呈している。元はと言えば、軽薄と批判された世代でもあるが、確かに平成以降は奇妙な形でテレビの低俗化みたいなものが起こったという認識だと思う。野坂の場合は「もっと討論番組を増やしたらどうか」なんて記している。これも一定以上の年齢であれば思いつくところもあるかも知れませんが、テレビが放送するバラエティ番組というのが、実は物凄く低俗に見える訳ですね。

浮気現場に本妻を連れてテレビで直撃する番組(アメリカの番組)なんてのは米国映画の中にも描かれていましたが、「おいおい、大丈夫なのかよ」って思うぐらいの低俗さなのだ。放送コード的にどうのこうのという問題ではなく、もう企画段階や発想そのものからして低俗そのもの。しかもヤラセであり、ヤラセだと指摘すると「ヤラセですけど面白いからいいんです」みたいな事を言うのが昨今のテレビ的モラルであり、確かにハダカそのものや差別用語には煩くなった一方で、ヤラセであるがヤラセでないと謳い、他人をダマし、その困った表情を撮って、それを嘲り笑うという類いのバラエティ番組が盛んになった。即物的な下品さという意味での低俗化ではなく、他者を蔑みながら嗤うという人間的な低俗化になってしまっている。

座頭市なんてのは典型で、そりゃ盲目の按摩が主人公なのだから差別用語だらけだけれども、ドラマそのものは、その座頭市が大暴れする活劇なのだ。どちらが深刻な低俗化かは、一目瞭然のような気もする。勿論、「一億総白痴化」にも触れられており、野坂はわざわざ誰かに言う事はないけれども、「一億総白痴化は既に完了した」というぐらいの認識を語っている。

そして野坂昭如らしいのからしくないのか微妙ながら、自らの境涯を語って「いい時代を生きたのかも知れない」と記してありました。テレビは創世記とか黎明期であり、「作家」という分野もまだ恵まれていた時代であっただろう、と。出版文化が衰退して電子書籍へ、デパートが衰退して通販へと移行している事にも言及している。これについては或る程度の諦念で語られているから、「自分はいい時代に生きたのかも知れない」になっている。

反面、若い人、次世代に対して言及する事はあんまり無いかのような立場なのかな。物質的に恵まれた時代に育ち、容姿も整い、おそらくは「目的を見つけられない」という新しい種類の不幸を背負っているが、それは次世代の人が解決すべき問題なのだろうというニュアンスを読み取れる。

そして「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」とは記されている。世界情勢も国内情勢も、やはり、一元的情報管理社会へと傾斜していると見立てている。

2013年5月某日から部分的に引用すると――

共通番号制度なるもの、国会で成立。これに対しての世間の反応をよく知らないが、総じてどうでもいいとしている印象を受ける。
俺はお上からの番号など御免こうむる。お上が個人情報を管理などしきれるはずもない。いったん個人の情報が流出すれば、とめどがない。
新たな利権を生むだけ。お上が個人情報を管理すれば、全体主義は簡単。年金をはじめ、社会保障の手続きなど楽になるというが、お国による統制もまた同じ。


とある。これは、橋本治の晩年のコラムにも見られた主張ですかね。その先も、実は似ている。

2013年12月某日になりますが――

特定秘密保護法が成立。審議などないに等しい。以前ならキャンペーンを張り一応世間のなんとない合意を得た上でのことだった。国民は馬鹿にされている。もはや民主主義国家とはいえない。
その時々の人間の思いつきで何十年も有効な法律が決ってしまう。
首相も議員もコロコロ変わる。
今後どんな首相がくるか、歴史観、あるいは性格によって、どこに波及するか判らない。国益を守るために、必要だというこの法は、国益とは一体何なのか、それぞれによって異なる。少なくとも、国民の側に立っての益ではないことははっきりしている。

〜中略〜

与党の暴挙暴走、野党は何をしていたか、メディアが今さら騒いでも遅い。これほどの悪法、メディアも野党も止められなかった。
そしてこんなお上を選んだのは国民である。病いも政治も同じ、危ないと自覚した時はすでに手遅れ。明かせない秘密だらけの国で言論抑圧があたり前となり、生きにくいと思ううち、お国のために死ぬことこそ、国民としての崇高な行為であるという、かつてまかり通った教えがよみがえる。
世の中は再び戦前に戻ろうとしている。


また、2014年5月某日には「積極的平和主義」にも言及されいる。

憲法解釈を変え、武力行使を可能にしようと鼻息は荒い。日本を本気で守るなら、憲法の解釈を変えたってダメ。日本が攻められたなら、アメリカが守る。だがアメリカが攻められても日本は守れない。これでは不均衡だという。集団的自衛権の解釈を見直し、日米安保の転換をいう。それならば、その前に基地を返してもらって当然。話はそれから。

2015年7月20日には、

アメリカの国家安全保障局に、日本政府の電話が盗聴されていたという。これについて、わが政府の反応はきわめて鈍い。安全保障を声高に言うのなら、強く抗議して当然。一方で特定秘密保護法という、新たな治安維持法により、国内を弾圧。いよいよおかしな国になってきた。

〜中略〜

ぼくは戦争がいいとか悪いとかではなく、人間の営みとしての戦争と向き合っていくつもり。これが、ぼくに与えられた業であろう。〜略〜日本人は、いつの間にかあの戦争を、なかったことのようにしてしまった。戦争は、気がついた時には、すでにはじまっているものだ。


となり、収録されている中で最も最後の、つまり急逝も近い2015年12月8日には、

テロが世界を脅かしている。
当たり前だった日常が、テロによって奪われた。
残虐な行為は許せるわけがない。だが、軍事力では何ひとつ解決は出来ない。これは既に立証されている。
戦争が戦争を呼び、テロリストを生んだ。どんどん根が深くなっている。
テロリストは、空爆で根絶など出来ない。負の連鎖を止めなきゃ終りはない。


などと記した文末に、再び、

この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。

と残している。

新潮社系列の雑誌が初出ですが「新潮45」なんてのは、昨年、例の騒動で休刊に追い込まれており、戦中世代の言説は、どんどん姿を消してきている。

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カーステレオで聴いた沢田研二の曲に影響されて、湯舟につかりながら、カサブランカ・ダンディを口ずさんでいる。

♪聞き分けの無い女の頬を

一つ、二つ、張り倒して


凄い歌詞だなぁ…。現在であれば、たちまち炎上してしまうのかも知れない。しかし、その次元で「モテる」とは不特定多数を相手にしての「モテる」であり、「僕はこれまでカノジョを絶やした事がありません」というモテ方ではなく、もう、行くところ行くところでキャーキャーという黄色い歓声を浴びるモテ方なのだ。しかもモテる為に、あれこれとカネや手間暇、創意工夫を凝らしてモテているのではなく、つまりは、自分から女性に媚びてモテているのでもない。もう、その存在そのものがモテているのだ。ああした「モテ方」というのは、きっと男性であれば一度は、その境遇に憧れるものではないか。どう考えても無理なんだけどさ…。

もしかしたら現在のようなキャラ分けの時代であれば、予め「モテる人」という「モテキャラ」設定をして、そのキャラを演じる事も可能かも知れないし、成立しているかも知れない。演じ分けですね。しかし、これの原型みたいなものが、もしかしたら「沢田研二」と「ジュリー命というファンたち」との間でも、出来上がっていたのかも知れないなと思い知らされる。

「ジュリー命50年」という沢田研二のファンが、ファン活動の中で会報誌やウェブサイトに書き込んでいた内容が書籍化されたという国府田公子著『沢田研二大研究』(青弓社)に目を通してみると、ホントに、投稿した文章が並べられている感じ。しかし、目を通していると「沢田研二」という、この人はスーパースター中のスーパースターですが、その像と、ファンとの関係性というのが確かに読み取れてくる。

数年前に、さいたまスーパーアリーナでのコンサートを中止にした事で、ワイドショウが沢田研二さんを取り上げて、「ファンを軽視している! 何様なんだ!」となり、「沢田研二? 何年前のスターだってんだい」というニュアンスが加わり、更には沢田研二さんが時折、放つロックな政治的メッセージが一部の勢力からは反日的と理解され、炎上に拍車がかかったという騒動がありました。謝罪というほどの謝罪ではありませんでしたが、ワイドショウのレポーターに囲まれて、騒動をお詫びするという一幕へ。また、週刊誌にしても足元を見るものなのか、あんまり肯定的には取り上げようとしない。しかし、この際、沢田研二ファンの中から「ジュリーは、いつもあんな感じなんです。昔っから、ああいう人なんです。あれでいいんです」といった具合の不思議なコメントも散見していたのでした。

それが分かる。1969年頃から、既に沢田研二は現在でいうところの「ツンデレ」とか「塩対応」であり、ザ・タイガースのメンバーらが、待ち構えているファンらに笑顔で応じて握手している中、沢田研二はコートのポケットに手を突っ込んだまま、ファン達を無視するかのようにして通り過ぎていったという小騒動があり、ファンたちの間でも、その対応に不満の声があり、そうした不満もファンレターとして送られていたらしい。しかも、このテの騒動がやたらと多く、ファンたちの間では「ジュリーはお天気屋だ」という見解がとっくの昔から定着していたらしい。実はファンに媚びないというのが「沢田研二」というロックスターの実相らしいのだ。

1972年6月25日、「ジャズ喫茶だより」には当時の沢田研二の発した言葉が、おそらくはそっくり残されている。

『僕はいやなことはイヤやし、それをいつもある人は「お天気屋」とか言うけれど、そうやなくって僕は将来の自分のためにいまからいろんなことをみんなに言うていきたいし、土壇場になってこうですって言うのは大嫌いやから、いつもいつも、「うるさいばかやろう」「さわるな、ばかやろう」「髪の毛抜くなばかやろう」。だいたい昔からのファン気質っていうのか、こういう髪の毛でも後ろから行って触りたい……そういうのであってほしくないわけなんや、僕は。ようするにぜいたくなんやろうけれど、僕を一人の歌手としていい意味の芸能人として、タレントとして見てほしいということなんや。だからどうせジュリーも結婚するやろし、いまは一人やしアイドルでいてほしい。アイドルって意味も僕はわかるけど、結婚したら私もやめる。自分にいい人ができたらやめようという……。それも自由やけど、そうではなくてそういうことを超越して……。これはむずかしいことやけれども、要するに一生懸命考えているうちにわかってくると思うんや。自分自身でも、だからそのつもりやし、またファンの人たちとの間にはね、許し合わないかんのやけど僕はそれをしようないたちや。いまするといかんと思うわけなんや。近い将来っていうかね。もうちょっとたったらどんな事でも許し合える、そういうファンとの間柄になれると思うから、いまは一生懸命こうやない、こうやない、握手なんか関係ないんや、サインなんか関係ないんや言うとるわけ』

凄いですね。或る時期から日本では「握手できるアイドル」なる訳の分からない商業アイドルが称賛されるようになっていますが、沢田研二ったら、ファンに対しても、何ら媚びることなく、堂々と説教めいた事も平気で言っちゃってる。しかし、これはよくよく読むと腹を立てるほどの傲岸なスターのワガママではなさそうなのだ。巧く説明できているのかどうか微妙でもあるが、どうも自分とファン、その犂愀言瓩鰺解しよう、超越しようという暗中模索を見い出せもなくもない。

福山雅治さんあたりにしても、やはり、結婚発表をしてしまうとどうしても人気に影響が出てしまう。女性アイドル、タレント、女優に限らず、芸能人というのは同じかも知れず、詳しくは知らないし、知りたくないけど、例えば大昔に多くの男性を憧れさせたであろう原田知世さんとかって、どうだったんでしたっけ。まぁ、仮に、そういう報を受けても腹を立てる事はないでしょうけど、確かにファンや元ファンだったりすると、何かしらの喪失感は受けてしまうのかも知れない。あの時代のジュリーともなれば、その影響は絶大だった可能性が高い訳で。

いつ、なんの番組であったか忘れましたが、浅田美代子さんがテレビでトークしていて、「業界の人から、美代ちゃん、こーゆー御仕事していると男性とデートも出来ないでしょ? いい人とデートさせてあげようか?」と話を持ち掛けられて、実は沢田研二さんとデート風の食事をさせてもらった事があると打ち明けていた記憶がある。原宿駅で待ち合わせたとか言ってたのかな。「業界の人」と、そこの名前は伏せられていたものの、浅田美代子さんである事を考慮すればTBS系のドラマでしょうし、芸能人としても堺正章さんやら樹木希林さんを連想する事は難しくもなく、確かにそんなことがあったとしても、そんなにおかしくないのかも知れない。

往年の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」を司会をしていた芳村真理さんがテレビか雑誌かも忘れましたが、沢田研二さんを回想し、スタジオの女性陣はジュリー出演回になると、ソワソワするような独特の空気があったという。もう、この頃までには「沢田研二」というスターの大看板は、そうであったのでしょう。もしかしたら「サムライ」や「LOVE〜抱きしめたい」あたりの衣裳にも言及していたかも知れませんが、あれらの衣裳にしても演出にしてもジュリー以外は不可能なんじゃないのかなって思いますしね。先日、亀梨さんが「勝手にしやがれ」をそれなりにテレビの中で歌唱されていました。亀梨さんはジャニーズの中でも、色気がある方だから難なくこなした、ジュリーニは及ばないけどねぐらいの印象。まぁ、色気というかセクシー、ダンディ、どれも高いハードルの演出を、かのジュリーは、こなしていた可能性が高い。当時は気付かなかったけど、あれだけド派手な演出が出来てしまっていたという事だけでも凄い。

カラオケスナックやキャバクラで「ハイティーン・ブギ」あたりの楽曲をサンボマスターのようなノリで熱唱して、苦笑いを含めて、笑いをとっているオジサマは見かけた事があるけど、「サムライ」とか「LOVE〜抱きしめたい」は不可能でしょうね。カラオケで曲を入れてしまったらアタマのおかしい人としか認識されない気がする。常識的に、ああした色気を出せる男性なんて、いやしない。ビジュアル系や女装家であれば中性的という意味では成立するのかも知れませんが、どこか中性的な魅力だけでは済まないところがある。ホントは沢田研二は中性的と評されながらも、本質的にはかなり芯が強く、かなり強情、ロックは気質に顕われるところがありそうですが、まさしく、ロックな人でもある。譲歩したり、日和ることが出来ない体質的なものを本人が持っている節がある。

♪片手にピストル

心に花束

唇に火の酒

背中に人生を 

あゝ あゝ 

あゝ〜 あゝゝ


なんて歌詞を歌ってサマになる人は、まぁ、居ませんね。何故なのか。おそらくは、「このまま、死んでしまってもいいか」とまで思わせるような退廃的な美を、全盛期のジュリーは有していたからでしょう。「このまま、滅んでも構わない」と思わせるまでの、もう美に溺れて死んでもいいじゃないか的な退廃、その人の道から逸脱しても許さるだろという背徳感。阿久悠原作のドラマ「悪魔のようなあいつ」の中で、劇中人物としてギターの弾き語りで「時の過ぎゆくままに」を歌ったシーンがありましたが、あれって、或る意味では日本歌謡史の最高到達地点だった気もする。

♪時の過ぎゆくままに この身をまかせ

男と 女が 漂いながら

堕ちてゆくのも 幸せだよと

二人、冷たい カラダ合わせる


単なる性愛的な色気(セクシー)を超えて、その先に情死の風景を漂わせてしまっている。おそらく人は、或る種の恍惚に到達してしまうと「もう、このまま、溺れ死んでしまってもいいかも」となって意識が薄れていって、それが実はタナトス、死の欲求である可能性がありますが、その悪魔的な退廃美が滲み出ている。


また、楽曲も多彩だ。意外と軽んじられがちなポップな路線としての「恋のバッド・チューニング」、「おまえにチェックイン」、「お前がパラダイス」あたりも、単なる懐メロという感じではないんですよねぇ。「恋のバッド・チューニング」なんて、

♪気持ちがイイから、このままで

の箇所、ああ見事な切り抜きだ。丸山圭子さんの一撃必殺「どうぞこのまま」にも通じますが、或る意味では生々しい行為中のセリフを、サラリと、しかもポップに歌ってしまっている。しかし、気付いてしまうと、めっちゃエロい。非常にアダルトな「気持ちがイイから、このままで」なのだ。


かと思えば、「あなたに今夜はワインをふりかけ」は不意にラジオなどで掛けられてしまうと「うわぁ、凄いなぁ…。これがジュリーの色気か…」と感嘆してしまうし、「危険なふたり」、「憎みきれないろくでなし」あたりにしても、古き良きアレンジが心地好く、情感豊かですしねぇ。また、ラジオ、トランジスタラジオのような小さなスピーカーから、小音量で洩れ聴こえてくるような状況でも、味があるんですよねぇ。

♪今日まで二人は恋という名の

旅をしていたと言えるあなたは

年上の人、美しすぎる

あゝ、あゝ、それでも愛しているのに〜


1972年8月、「沢田研二ショー」のトークでのジュリーは「ザ・ピーナッツを呼ぼうかと思ったんですですけど…」と話し、敏感なファンをからかったと記されている(笑 一度目の結婚とも関係している訳ですな。また、どうもファンたちは「ジュリーは年上の人が好きらしい」という憶測が広がっていたので、「危険なふたり」の歌詞の「♪年上の人、美し過ぎる」なんて歌詞は、きっとファンをヤキモキさせていたのでしょう。挑発的というかね。或る意味では、スターとファンとの、そういう距離感での楽しみ方というのがあったらしい。

コートのポケットに手を突っ込んだまま、通り過ぎられてしまい、「なんでジュリーは、あんなにお天気屋なのっ! もう、ジュリーのファンを辞めて(森本太郎)タローに乗り換えてやろうかしら」とも考えるが、結局、ジュリーのファンを辞められないという訳です。或る意味、非常に幸福なスターとファンの関係性なんじゃないのって思う。





追記:2020年5月7日

週刊文春5月7日・14日ゴールデンウィーク特大号の桑田佳祐さんの連載「ポップス歌手の耐えらない軽さ」から引用したい一節があったので引用します。

我々サザンがデビューした七〇年代終盤、歌謡界のど真ん中には沢田研二さんが、その孤高の輝きを燦然と放っておられました(そものも「歌謡曲」ってモノを、最初アタシはナメてましたけど)。

ジュリーさんはいつも《テレビ》と闘っておられた!!

毎回趣向を凝らし、新曲と自分の魅せ方に、テレビ的な演出とエネルギーを注ぎこんでいらした!!

あのルックスなんだから、何もしなくたってイイのに……なんていう考え方は、御本人にはサラサラ無かったんでしょうな。

照れ臭そうに司会者とのトークを終えると、まるで阿弥陀如来か殺し屋のような表情でマイク・スタンドの前に立ち、自らのヒット曲にオトシマエをつけるべく、全身全霊で牴里帆蠡儘気垢覘瓩姿が実に神々しくも艶めかしい!!

「人生も歌も闘いのロマンなんだよ!!」たぶん、そんな思いで絶叫する沢田研二。こういってはナンだけど、デビィッド・リンチやジョン・レノン以上に爐海凌佑魯筌丱き瓩隼廚辰拭!


実は、只者ではなかったっぽいスな。


追記:2020年5月19日

週刊文春5月21日号の桑田佳祐さんの「ポップス歌手の耐えられない軽さ」から更に引用します。

前回もチラと触れましたが、我らサザンオールスターズがデビューした一九七〇年代後半、日本のエンターテイメント界の頂点に君臨しておられたのは、かの沢田研二さんでございました。
もともとの優れたルックスを、いっそう際立たせるド派手にして華麗なる衣装、そして歌舞伎役者もかくやと思わせるようなお化粧。そのお姿、艶めかしいこと、この上ありませんでしたね。歌番組の初登場をジョギパン姿でこなしたアタクシとしては、いろんな意味で大きな格差を感じさせられたものです(汗)。
でも自慢じゃありませんがアタクシ、そんなジュリーと共演したことが一度だけあるんですよ。あれは一九八三年、大阪の南港フェリーターミナルで開かれてた「’83ジャムジャム・ロック・フェスティバル」でのことです。
今やすっかりポピュラーになった「音楽フェス」のハシリみたいなイベントでした。ラッツ&スター、山下久美子、上田正樹、そしてアタクシたちサザンらが歌った後に、トリとして遂にジュリーの登場!! バックバンドのEXOTICSと共に繰り広げるステージはひときわトンガっていて、尚且つ、華やかなものでした!!
エンディングセッションでは、演者全員でローリング・ストーンズの「サティスファクション」を演ったんですけど、ジュリーとセッション出来たの、嬉しかったなあ(向こうは覚えてないだろうけど)。
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