どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: 書籍・音楽

結局は映像化されることのなかった山田太一の脚本『唐津湾夕景』は、中国残留孤児をテーマとして取り上げたものであった。中国残留孤児を取り上げた原作といえば山崎豊子の『大地の子』が最も有名である訳ですが小説『大地の子』の連載が始まったのが1987年であったのに対して、この脚本が掛かれたのは1975年だという。中国残留孤児団の来日は1981年で、その頃には大々的にテレビがニュースで取り上げていたのを記憶している。その後、中国残留孤児の日本帰国事業のようなものが始まって、「中国残留孤児」なる用語の記憶も薄れた頃に、思いもよらぬ形で、それを思い出す事になったのであった。これは、いつ頃であったかなぁ…、きっと90年代後半とか2000年代初頭頃だったのでしょうか、中国残留孤児、その子息たちが日本社会に溶け込めぬまま、反グレ集団、アウトロー集団となり、そちらの界隈で脅威になっていたという話であった。その話についてはテレビメディアなどは殆んど取り上げていないような気がする。2010年代頃になって、一橋文哉の犯罪ノンフィクションで詳細を知る事になり、愕然とした。

先述したように、実際に中国残留孤児団の訪日があったのが1981年であったのに対して、この「唐津湾夕景」は、それよりも6年も前に書かれていたという映画用のシナリオであるという事が、先ず、欠かせない前提条件となる。

結構、入り組んでいるストーリーなので、さらっと粗筋に触れると、以下のような粗筋である。

堀川大吾と静江の夫婦は、終戦時には満州に在った。その夫婦の間には亮介という3歳の男児があった。しかし、その亮介を子供を中国(満州)に置き去りにして帰国した。

少しだけ状況説明が必要になる。終戦のどさくさにソ連軍が南下を開始し、また、この頃の満州には当時の日本人が匪賊のように呼んでいた集団もあった。細かい事まで述べると、戦時下では日本国内から満州への移民政策も行なっており、軍隊だけではなく、一般的な日本人も満州に居住していた。しかし、終戦のどさくさになると、その民間人たちを置き去りにする形で軍隊は撤退してしまい、取り残された日本人の中には引き揚げようにも引き揚げようがないという問題に直面していた。ソ連軍や匪賊、更には日本人に不満を抱いていた人たちは日本人を襲撃、その際には虐殺や強姦の被害に遭った日本人も多かったらしいと考えられている。そんな状況だったので、我が子を置き去りにして日本へと帰国した人たちも相応に存在していた。そのような経緯で日本人が親であるが、そのまま、中国に置き去りされてしまった子供たちを「中国残留孤児」と呼んだ。

堀川大吾と静江の夫婦は、我が子を中国に置き去りにしてきたという過去を持っていたが、1970年代半ばまでには、千人規模の従業員を持つ工作機械の会社の社長と社長夫人になっていた。頑張って働いた事もあり、それなりに裕福な地位を築き、屋敷には住み込みの家政婦を雇い、出勤は運転手付きの生活をしている。子宝にも恵まれ、28歳の長男、26歳の長女、20歳の次男、15歳の次女がある。しかし、28歳の長男は「父親の会社なんて継ぎたくない」とばかりに家を出て飛行機のパイロットの仕事をしている。長女も結婚して家を出ていて、子育てに奮闘中。なので、次男の大学生と次女の中学生とが堀川邸に両親+家政婦という形で住んでいる。

大吾と静江には、子供たちに打ち明けていない秘密があった。それは真の長男で亮介の事についてであった。大吾と静江は、4人の子供たちには「お前たちには、本当はお兄さんがいた。しかし、不幸にも終戦のどさくさの頃に病気になり、死んでしまった」と伝えていた。しかし、本当は3歳の子を子供を欲しがっていた満州人に預ける事とし、帰国したというのが真実であった。

おそらく、1970年代半ば頃までには、ポツポツと「中国で育った日本人孤児」という問題が新聞やテレビで取り上げられるようになっていた。それが後に要約されて「中国残留孤児」という言葉が生まれた。大吾と静江は動揺していた。真の長男である亮介については、既に死んだ事として戦後をスタートさせてきた。そして現在の経済階層に辿り着いていた。「もしや、亮介が生きていて、日本に来たい、私たちに会いたいと思っていたら、どう応じるべきだろうか」と動揺していた。

そんな動揺を抱えていたところ、新聞に108名の中国残留孤児の顔写真と中国名、それと生年月日が掲載されていた。中国名にも【亮】という漢字が使用されていて、年齢も亮介と同一、置き去りにされた場所も夫妻の記憶と一致していた。間違いなく、自分たちが置き去りにしてきた亮介らしき人物のプロフィールが載っていた。夫の大吾は、連絡を取る事に慎重であったが、妻の静江は新聞社や関係省庁に連絡をとり、手紙のやり取りを始める。3歳の時に満州に置き去りにしてきた亮介は、もう、35歳になっていたが、それでも両親に会いたいという希望を持っていた。既に中国で国籍を取得しているので日本に帰化する意向はなく、近々、中国で中国人として結婚もする予定であるという。

夫婦は決断する。我が子たちに説明する。

「お前たちには、お兄さんがいたが死んでしまったと言ってきた。亮介だ。しかし、本当はやむにやまれぬ理由があって置き去りにしてきた。その亮介が日本に来たいと言っているので、この邸宅で歓待してやりたいと思っている。既に亮介は、中国国籍を取得しており、中国人として生きていく意向で、来年には結婚する事も決まっているという。日本に滞在するに当たっては当屋敷に滞在する予定である」

子供たちの反応は意外であった。15歳の女子中学生、20歳の大学生は、なんの屈託もなく、その中国で育ったという兄・亮介の訪日を喜んだ。二人して、亮介が滞在できるように空き部屋を片付け、掃除までしている。中国からやってくる、35歳だという兄を歓迎する気満々である。既にマンションで子育て奮闘中の長女や、家を飛び出して商業パイロットになっている長男は、下の子たちほどではないが拒絶反応はない。

斯くして、大吾・静江夫妻が中国に置き去りにしてきた亮介が、堀川家にやってくる。亮介は片言の日本語が話せるが、習って身に着けた日本語なので話す言葉は丁寧語である。礼儀正しい。しかし、家族なのだから、もっと打ち解けた日本語を使って欲しいと思っている。

次女は中学生である。受験前であるがロック(グループサウンズ)のコンサートに出掛け、勉強は後回しというタイプである。部屋にはアラン・ドロンのポスターを貼っているという設定である。大学生の兄が妹の部屋へ入ってくる。本棚には明星、平凡といった芸能雑誌が並んでいる。大学生の兄は明星や平凡をパラパラと捲りながら、言い放つ。

「亮介兄さんを見て思ったんだけど、ちゃんとしているよなぁ…。ホントに、ちゃんとしている。白いごはんを食べられないような厳しい経済環境の中で幼い頃から農作業を手伝ってコウリャンなんてものを食べてきたといっている。滅多に、白いごはんなんて食べられないって。それに比べたら、僕たちの生活は怠惰がすぎんじゃないか? こうして一人に一人に部屋もあてがわれている。こんなところにはアラン・ドロンのポスターなんて貼ってある。亮介兄さんが見たら何て思うか…。剥がせ、剥がせっ」

「そうよね」といって、次女は自らベッドの脇に貼ってあるアラン・ドロンのポスターを剥がしにかかる。【グループサウンズ】に【アラン・ドロン】、【プレスリー】といったワードに年代を感じるが、そういう時代に書かれたシナリオなのだ。

この兄妹は、35歳になっているという中国育ちの兄に遭って、自分たちがちゃんとしてない事に気付く。そういう設定なのだ。

次男「中国だぞ、人民公社から来たんだぞ。一粒の食糧は一滴の汗ってよ。真面目に働いて、米一粒だって大事にしている国から来て、このバカバカしい贅沢をみたら、どう思うと思うんだ」

当時の日本人の中国人観のようなものも読み取れそうだ。

次男「びっくりしたでしょ? 中国の娘さんに比べて、贅沢で、怠け者で」

次女「そんなに言わないで」

亮介「(苦笑して)いい部屋じゃありませんか。はがすことなかったのに」

次男「ハハ、そういうとこが泣かせんだよな、な」

亮介がしっかりしている事に堀川家の人たちは安堵し、歓待する。次男と次女は、すっかり亮介になついてしまい、東京案内をしたり、富士五湖の方まで案内したり、サービス満点の接待をしてみせる。しかし、大吾はというと経営している会社が経営危機に瀕している事もあり、あまり、家に居られない。そして静江の方はというと、子供たちのように亮介との距離を縮められないでいる。

静江には、まだ秘密があったのだ。子供たちには、大吾の決断によって子供を欲しがっていた満州人に亮介を預けたと説明している。しかし、違うのだ。その頃の大吾は兵役についていた。亮介を置き去りにするという決断をしたのは夫婦でもなく大吾でもなく、静江の決断だったのだ。しかし、その事を静江は言い出せないでいる。言い出せないでいるから、亮介との距離も縮められないのだ。本当の事を言って、謝罪したい。わがかまりを抱えている限り、どうしても32年前に置き去りにしてきた亮介と向き合えないでいる。

亮介の滞在期間は約1ヶ月間であり、亮介が堀川家に居られる時間もどんどん減ってきている。残り日数は一週間と迫って来くると、すっかり亮介になついている次男と次女は「亮介兄さんが帰ってしまう前に、もっともっと旅行をしようよ」等と、はしゃいでいる。しかし、それを亮介の方がやんわりと拒否する。「中国に戻ってしまったら、当分は日本には来られません。結婚して子供が生まれて、少し生活が安定したら家族を連れて来られないかも知れませんが、それだって、いつの事になるか分かりません。だから旅行ではなく、この家にゆっくり滞在させてもらい、家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいです」。

亮介の帰国予定日がどんどん迫ってくる。その中で、静江が決断する。本当の事を言うのだ。本当の事を言って、謝っておきたいのだという自分の気持ちと向き合う。今、打ち明けなかったら、一生、打ち明ける機会を失ってしまう――と。

本当は、病気になってしまった事もあり、苦しくて苦しくて、とても我が子を連れて逃げられる事は無理だと感じた。だから3歳だった亮介を置き去りにして逃げるという決断をした。とある農道で、3歳の我が子が、満州人の老夫婦に預け、立ち去ろうとした。立ち去ろうとしたとき、3歳であった亮介は「お母さん、お母さん」と叫びながら静江を追い掛けて来た。その亮介を振り切るようにして日本に帰って来たのだ――そう、打ち明けた。

その話を聞いて亮介も受け止めた。亮介は亮介の方で、実は置きざれた瞬間についての記憶があったのだ。「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら農道を追い掛けていった、その記憶を持っていた。なので、「打ち明けられて、私の方もすっきりました。私も、その部分が、わだかまりになっていた」――と。

大吾が補足する。実は日本に帰国した後、静江は自殺未遂を図っていた。幸い一命をとりとめたが、自殺未遂を図った理由は、亮介を置き去りにしてきたという罪悪感と結び付いていた。引き揚げてきた母親の中には、しっかりと三人の子供を抱っこにおんぶしてきた者もあった。それと比べると、静江は自分を責めずにいられず、静江は53歳となった今まで、ずっと苦しんできたのだという。

静江が自殺未遂を図ったのは唐津湾であった。中国から日本へと帰国したのが唐津湾であり、唐津湾は中国と繋がっているような気がしたのだという。

その話が明らかになると、商業パイロットをしている長男の出番となった。飛行機で唐津湾上空まで、大吾・静江と亮介とを搭乗させ、飛行できると言い出す。その飛行機が美しい唐津湾夕景の中を飛行して終幕となる。

結構、夢中になって読んでしまった。
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カフカ著『決定版カフカ短編集』(新潮文庫)には『独身者の不幸』という僅か1頁分ほどの短文が収録されている。フランツ・カフカはユダヤ系でオーストリア=ハンガリー帝国のプラハ生まれ。40歳で没し、生涯独身で子供もなかった。そんなカフカは若い時分から「結婚したくないという訳ではないが、きっと自分は結婚に耐えられないだろう」という思いを抱えていたという。

カフカの代表作でもある『変身』は、「朝、目を醒めたらゲオルグ(自分)は虫になっていた」という設定で始まる。虫になっていたというけど、具体的にどういう虫になっていのかも記されておらず、読む方は「こりゃ、一体全体、どういう小説なんだい?」と頭をひねりながら読み進める事になる。「朝、目が醒めたら虫になっていた」という設定を読み手が疑わないのはおかしい。それは夢だ。家族たちも「あら、ゲオルグったら、どうも虫になってしまったみたいだわ。どうにか御近所にバレないようにしなきゃ」という反応をする。なので、読み手は〈だーかーらー、朝起きたら、虫になっていたって事は有り得ないだろっ!〉と思うが、その疑問は最後の最後まで踏み倒されたままである――というキテレツな小説だ。しかし、このカフカが20世紀を代表する文豪だとされているのは、厳然たる事実なのだ。


『山田太一戦争シナリオ集 終りに見た街 男たちの旅路スペシャル〈戦場は遥かにて〉』(国書刊行会)には、『砂の上のダンス』の未発表シナリオが収録されていた。舞台化されていたものを、マキノ雅彦(俳優の津川雅彦)監督で映画化する予定があったらしく、シナリオが発見されたのだという。目を通してみても、その辺りは読み取れた。如何にもセリフ回しが、舞台っぽい。裏返すと、山田太一の書くシナリオは、セリフとセリフとの掛け合わせで、あれこれと観覧者、視聴者を振り回すようにつくられていたのだな、という事にも気付いた。

この「砂の上のダンス」のシナリオもよくってねぇ。

先ず、20代の若い男女がある。柴田誠は「田舎の秀才」と呼ばれながら防衛大学を卒業して一流商社に入社した。おそらく、素晴らしいイケメンではないが、相応にイケメンである。その柴田誠には、一度だけ肉体関係を持ってしまった草間葉子という女がある。草間葉子は、どうしても、その柴田誠と結婚したいと考えている。柴田誠と結婚すれば、自分は階層をステップアップでき、一流商社夫人になれるから――というのが草間葉子が柴田誠と結婚したい理由である。柴田誠の方は、そんな打算でしか物事を考えていない草間葉子に対して別れを切り出した。少なくとも柴田誠は別れたつもりである。そして中東にある架空の国の支社へと赴任してきた。そこは一面が砂漠で猛烈な砂嵐にも見舞われる過酷な土地である。しかも、その国は政情不安定であり、今まさにクーデターが発生している。

そんな過酷な場所へ、何故か別れた筈の草間葉子が現われる。草間葉子は支社の上司らに「柴田のフィアンセの草間葉子と言います」等と自己紹介している。これに柴田誠はキレる。「フィアンセなんかじゃない! もう別れた筈だ!」と。しかし、「おいおいおい、こんな若いお嬢さんが単身で、こんな遠くて危険ば場所まで君を単身で追っ掛けてきたんだぞ。今、まさにクーデターが起こっている真っ最中だ。追い返す訳にもいくまい」となり、現地支社の3組の中高年夫婦が、その若い男女の話を聞いてやることになる。

草間葉子は手ごわい。その場にいた中高年たちが口々に「こんなところまで柴田君を追い掛けて来たんだから、それだけ情熱的だって事だ。きっと柴田君を愛しているんだよ」のように仲裁する。すると、草間葉子は「いいえ、私には愛も恋もありません。ただ、この人と結婚して一流商社マンの妻になって、そこにいる奥さん方のような階層に這い上がりたいのです」と平然と言う。なので、柴田誠が「こいつは、そういう女なんですよ。愛も恋もなく、ただただ打算だけで結婚すべきだってしつこくて…」と諸先輩方に助けを求める。その展開に中高年の夫婦たちが一様に驚かされる。

草間葉子という若い娘は、東北出身で父親は、のんだくれの鈑金工だとぃう。その父親は、出入りしていた焼き鳥店の店員と結婚したが、それが母親で、その両親の間に生まれたのが自分(葉子)なのだという。その葉子も高校を中退。その後、住み込みの美容院に勤めているのが現況だという。その上で葉子は言う。

「もし結婚相手を自分の周りから選んだら、私は一生その世界から抜け出せん」

更には、草間葉子は

「みなさんには、鈑金工の知り合いが居ますか?」

とも展開させる。誰も鈑金工の知人なんて居ない事が判明する。確かに商社マン夫妻たちが住んでいる世界とは、草間葉子が住んでいる世界とは違うらしい事もチラと確認される。

そんな世界から這い上がるべく、東京へ出て来た。その東京で、防衛大卒で一流商社勤務の柴田誠と出会い、一度だけ柴田のアパートへ行ってみた際、その柴田と肉体関係にまで到った。その柴田を逃がしたら自分は一生、その世界から逃げ出せないという。だから別に愛してはいないけど、柴田と結婚したいのだという。(この柴田は先述した通り、「田舎の秀才」であり、都会のエリート家系出身ではないので、田舎出身という部分では、葉子と共通しているので、今は愛していないけど、結婚してしまえば、きっと、なんとかなる筈だという。また、防衛大学は確かカネをもらえる文科省管轄外の特殊な大学なので「田舎の秀才」だという柴田も、そうした理由で防衛大学卒で商社に入社したという設定になっていると読める。)

商社マン夫人たちが口を揃えて草間葉子に反論する。「あなたはズレズレにズレているわ。商社マン夫人なんて亭主の手助けだけで、つまらない人生よ」等と、言い始める。「あなたは美容師さんなんでしょう? 自分で手に職を持って働いているなんて立派じゃない。それで不満なの?」等とも浴びせかける。すると、葉子は平然と「私は人の髪の毛ばっかりいじって自分の一生を終わりたくない」等と更に反論を展開する。

柴田誠が、隣にいる草間葉子に冷ややかな視線を送りながら、「こういう調子なんですよ。愛がないって真正面から言われて、ボクも困ってしまって…」と漏らす。

すると、すかさず草間葉子が柴田誠を攻撃する。

「私と一緒になっても出世の足しにならない、いいところのお嬢さんを狙いたいのよ。そうすれば、あなたも上の階層の別の世界へ行ける。コネもできる。こんな女につかまってたまるかって逃げ回ってるのよ。計算づくという意味では、あなたも私と一緒だわ」

すると、柴田誠は、そこで押し込まれてしまう。

「たしかに、そういう気持ちがないとはいえないけど――」

まぁ、そんなものかもしれない。

一同は紛糾する。「柴田君の言う通りだ。確かに打算だけの結婚なんて味気ないものは駄目だ」という意見も出れば、反対に「いやいや、違うさ。打算のない結婚なんてものはないだろう。みんな誰しもが少しは打算で結婚という選択をしているものだ。胸に手を当てて考えてみろ」という意見も出てくる。その内に所長(私の脳内イメージだと断然「杉浦直樹」で再生されました)が、みんなで話し合う機会を持とうじゃないかと言い出す。

各自が己の人生を具体的に語り出す。御世話になっていた人物の妻を奪って、絵にかいたような恋愛の末に夫婦になった者もあれば、夫婦でありながら子供が出来ない事に起因して冷戦状態を続けているという夫婦もある。この辺りは実は見事で、ありとあらゆる可能性を拾い上げている。気の強い妻から、ドジだ、ドジだと詰られている道化色のある江崎という人物が、そんな中、語り出す。

江崎「この頃は、なにをしようとなにをすまいと、たいした違いはないんです」

江崎妻「分かったようなこといわないで」

所長「いいじゃないの。伺いましょう。続けて」

江崎「この頃はみんな長生きします。だから大抵のことに失望してしまう。失望してから死ぬんです。子供に期待をして育てる。その子供が自分に冷たくなっていくのを見なきゃならない。会社のために働く。その会社が定年後自分の働きをあっという間に忘れていくのを見なくちゃならない。課長になった、部長になった、そんなことがなんだったんだろう、とむなしくふりかえるまで生きていなくちゃならない。憧れた美少女がばあさんになった姿を見なくちゃならない」

江崎妻「悪かったわね」

所長「いやいや、一般論」

江崎「最後には失望だけが、たっぷり残る。現実が分っていようといまいと、見合いを選ぼうと恋愛を選ぼうと、独身を選ぼうと、最後には、たいしてちがいはなかったと一人で溜息をつくんです」

所長「だからといって、ずっとじっとしているわけにもいかないだろう」

江崎「それはそうです。しかし、なんにせよ、しゃかりきになるのは、つまらない。大体、いまの世の中、しゃかりきになるほどのもの、なにがありますか?」

〜略〜

江崎「いえ、これはね、たいしたもんです。プラトンの昔から、えらい人は恋だの愛だので結婚するなといっています」

所長「プラトンが?」

江崎「そうです。ところが、大半の男女はのぼせたまんま結婚しちまいます」

所長「御自分もね」

〜略〜

江崎「身も蓋もないことをいえばですね」

江崎妻「変なこといわないで」

江崎「日本人は、ずっとごまかしながら生きてきたともいえます」

所長「そうなの?」

江崎「ごまかして、まぎらしてなきゃ、たまったもんじゃない。いつか地震が来るぞ。アメリカはこの上なにを求めてくるんだ。アジアも力を振るいだした。原子力発電所で大事故があれば、一発で日本は全滅だ。それでも平和で豊かで、まあまあなんとかやっていけるだろうなんて思っている。こいつはかなりひそかに、私たちは本気で切実にごまかしているかもしれません。〜略〜」


この辺りのセリフ回しに表出している虚無感は現代人特有のものでもある。愛も恋もない結婚でいいのか? もしかしたら、それでもいいのかも知れない。自分なりに情熱をかけて生きてきたつもりであったが振り返ると…という展開になる。

その商社マンたちが勤めている一流商社、その東京本店は、その劇の舞台になっている某X国政府と契約してプロジェクト進めていたが、クーデターの影響で工事代金の支払いが滞っている。そんな事情もあり、指令部たる東京本店は現場部隊の一行に内緒で、某X国からの完全撤退を決断したと連絡が入る。10年がかりで、その地に赴任して仕事をしてきた3組の夫婦は呆然自失となる。自分たちの10年間は何だったのだろうかという空虚感に襲われる。

4組の男女は何にもすることがないから、みんなで踊ってみようとなる。「砂の上のダンス」というタイトルはこの部分である。しかし、みんな乗り気ではない。殊に男性陣は乗り気ではない。そんな中、道化の江崎が人知れず練習していたというパントマイムを交えたダンスを披露する。それによって少しだけ空気がほぐれる。一行は美しい夕陽だけが唯一の取柄であるという、その砂漠で思い思いのダンスに興じる――。

シナリオを読んでいるので、この「砂の上のダンス」のイメージは案外、難しい。このシーン、私の場合は甲斐バンドが思い浮かんだ。


生きるって事は 一夜限りの ワンナイトショウ

矢のように走る 時の狭間で踊ることさ


もう、ダンスなんてイヤだけど、踊るしかないのであれば、踊ってみるよ。踊るアホウに、見るアホウ。人生なんて、そんなものだろうからね。

夕陽を背景にしてダンスする男女のシルエットが見えて、美しくジ・エンドかと思いきや、追い打ちがかかる。クーデターが激化し、日本人が巻き込まれることはないだろうと信じていたが、その日本人居留地にもクーデター軍が押し寄せる。そして一行が集まっているハウスはクーデター軍によって包囲されてしまっている。兵隊たちが銃を構える音。万事休ス。そして終幕――。怖ろしいまでに救いのない物語だ。

何故、冒頭で簡単にカフカに触れたのかというと、実は編集者が同じで頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)氏であり、この編集者は〈絶望〉をテーマにしている。「現代社会には救いなんてものはホントにないよね」という部分で、確かに似ているかも知れない。

頭木氏の意見とは異なるのかも知れませんが、頭木氏によればカフカは、問題を考え出してゆき、どんどん訳が分からなくなるという思考回路だという。自分で考え込み、挙げ句、何もかも分からなくなってしまうという思考回路だそうな。山田太一もそれに似ているのかというと、少し違うような気がする。山田太一が持っているパターンは「どうせ、こうなってしまうだろうから、嘘でもいいから、虚構だと分かっていてもいいから愉しむべきなのでは? あっ、でも違ったかも!」という具合に進行していく。
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山田太一の原作を大森寿美男の脚本によって映像作品化して2002年に放送されたという「君を見上げて」(全4話)を視聴。背の低い男性と背の高い女性との恋愛模様を題材としたドラマであった。主人公は森田剛さん演じるロックされてしまったカギを開ける仕事を生業とする鍵師。ヒロインには未希さんという長身の女優さんが起用されていた。顔立ちは、青山倫子さん風の和風テイストの美人女優。

恋愛ドラマの要素も多かったのだと思いますが、やはり、興味深いのは、その身長差をテーマにしている事であった。女性の方が男性よりも19cm(劇中では20cm)ほど高いという設定だ。あまりにも逆身長差がある事が幸いして、この両者は出会いの瞬間から意気投合する。男女の関係に発展することを意識する必要性がなかったので、容易に意気投合できたという意味である。タイはバンコクで知り合い、折角だからとバンコクの屋台などを一緒に巡って遊び歩くものの、「傍目からして私たちは身長的に釣り合いが取れていないので余計な恋愛感情を持ち込まないで済むよね」という感慨を持っている。男性は自分よりも身長の低い女性と歩くことを以って、バランスが取れていると認識するし、女性の方も必ずしも背の低い男性と肩を並べて歩く事をバランスが取れているとは認識していない。或る意味では、固定観念化しているジェンダーギャップ問題にも通じるような固定観念をテーマとして置いたドラマであった。(過去記事で取り上げましたが山田太一の小説『空也上人がいた』では19歳年上の女性と結ばれる男性を題材としていた。)謂わば、これは〈逆ギャップ〉とでも呼ぶべき題材というになるのでしょう。

出演者は森田剛、未希、角野卓造、大谷直子、石井正則(アリとキリギリス)、北村一輝、加藤雅也ら。

主人公・高野章二(森田剛)は、開閉不能になってしまった金庫を開けることができるという能力を有している。ドラマの冒頭では、タイのバンコクで古い古いタイプの大型金庫を開錠する。金庫が開くと、その場に集まっていた高齢者たちが一様に涙を流しているが、主人公は金庫の中には関心を抱かない。開錠に成功した金庫の中身などには興味を抱かない事がビジネスだと割り切っている。それが、そのビジネスのコツなのだという。しかし、帰り際にタイの老人から声を掛けられる。

「あなたは我々の金庫を開けたが金庫の中には興味を抱かなかった。何が入っていたのか気にならなかったのか?」

「気にはなりましたが、金庫を開けるのが仕事なので、そうした事柄には立ち入らないようにしているんです」

「そうですか。私は、あなたのそういうところが好きだ。しかし、もう少し私たちに関心を持ってくれてもよかったような気がする。日本人はビジネスライクになっているので、余計な事に立ち入らなくなっている。しかし、そうした態度は私には少し寂しくも感じる…」

その余計なことには立ち入らないスタイルというプロットは、直接的にはメインのプロットである逆ギャップの男女関係とは繋がっておらず、複線的に並行するようにドラマは進行してゆく。

とはいえ、メインプロットは飽くまで身長逆ギャップ問題にある。周囲から見て釣り合いの採れていない二人の恋愛は成就するものなのかどうかという問題である。厳しかったシーンは、主人公の母親(大谷直子)が、その身長差ギャップを知って、「息子と別れて下さい、あなたはフツウじゃないもの」と言ってしまったシーンでしょうねぇ。「あなたのように背の高い女性は滅多にいないわ。何故、よりによって、うちの章二なんですか? 世間というのは色々な偏見があるものなの。悪い事は言わないから別れてください」と直言し、未希演じる小坂瑛子を泣かせてしまう。

生まれつき長身の家系に生まれたという設定の小坂瑛子(未希)が、長身であるが故に傷ついた事柄を語るシーンもあった。

「私の小学6年生の頃のニックネームはね、ガリバー夫人だったの。そんな年頃の女の子が、そんな事を言われて、どんな気持ちになるか分かる?」

となる。また、付き合い始めるようになってから、瑛子は章二におぶってもらおうとするとシーンがある。背の高い女が背の居低い男の背中に覆いかぶさるような恰好になっている。すると、章二が怒るというシーンもあった。ほろ酔い気分で夜の遊歩道を歩いているという、トレンディドラマ風のノリでもあったが、おぶさられた章二(森田剛)の方がキレる。

「オレのこと、バカにしてんだろう? オレが背が低い事をバカにしているんだっ!」

とマジ切れさせてしまう。結構な熱量で、そう言われてしまった瑛子の方は激しく動揺しながら言う。

「バカになんてしていないっ! 男性におぶってもらいたいって、昔から思っていただけなの。そんなに怒られるような事かなぁ?!」

身長差の逆ギャップを持つ二人は、結局のところ、その逆ギャップに起因する問題で度々、そのような衝突を起こす。そうなってくると、所詮、この逆ギャップの問題は乗り越えることなんて出来ない、章二の母親が言っていたように、お互いの為にも二人は別れた方がいいじゃないのか等と考え始める。

瑛子の弟も、これまた長身であり、この姉思いの弟は章二に対して「あんたじゃ、姉ちゃんを幸せにできない」などと忠告してくる。更に弟は、自分の知っている長身の知人(北村一輝)の方が、長身の姉ちゃんとは釣り合う筈だ、姉ちゃんを幸せにできる筈だと考えて、勝手に両者のセッティングを進め、章二に対しては

「頼むから姉ちゃんと別れてください。あんたじゃ、姉ちゃんを幸せにできない。オレは俺なりに姉ちゃんに可愛がってもらって生きてきたから、姉ちゃんの性格もよく知っているつもりだ。オレは、どうしても姉ちゃんには幸せになってもらいたいんだ」

とまで言われてしまう。

終盤になると、金庫屋稼業を巡るプロットの方から大事件が発生し、ドタバタな展開の中でなんとなく、逆ギャップカップルは仲を修復してゆく。(この訳の分からないドタバタによって物語が引っ掻き回されるというのも山田太一にありがちな展開である。)

もう、別れた方がいいんじゃないのかというぐらいまで、このカップルの仲はこじれる。瑛子の方が当初は諦め切れないという様子であったが、終盤になると章二の方が瑛子に縋るように関係性の継続を切望する。半ば口論のようになる。

瑛子「一体、こんな私の、どこがそんなにいいっていうの?」

そう持ち掛けられた章二は、表題通り、瑛子を見上げながら

「カラダ」

と、一言、短く答える。一瞬の間があって、

章二「抱き締めるというのも心地いいけど、抱き締められるというのも心地いいって事に気付いたんだ。ものすごく安心できるんだ」

一見というか一聞する限りでは、歯の浮くような展開だなと思うものの、おそらく、山田太一なりには、この辺りをこそ、逆ギャップ問題の着地点に置いていたのだろうなぁ…と思いながらの視聴となった。

この身長逆ギャップカップルの問題になってくると〈包容力〉という問題は実は避けられなくなってくる。「つまらない世間の偏見を超越して…」のような説明では、説明が不可能になってくるという次元がある。直接的に「好きか嫌いか」の問題になってしまう。では、具体的にどこが好きなのか、愛しているのか、という問題に触れざるを得なくなってくる。そうなってきてしまうと、とどのつまりは、「どこがそんなにいいっていうの?」になってしまい、それに正直に答えるしかなくなってしまうのではないだろうか。言辞的なタテマエとして「ギャップを乗り越えろ」というのは容易い。そいう教条的な次元ではなくて、積極的・能動的な次元で人と人とは結び付くものである。好意であるとか愛情といった分野は、教条的な「差別はよくないと思います」のようなタテマエでは済まず、そうした人間の深部からの希求に因るものなのである――、そういう理解であろうと思った。なので、突き詰めてゆくと、「こんなアンバランスまでに長身である私のどこがいいっていうの?」という問いには、「あなたがウィークポイントだと思い込んでいるその大きなカラダ、そのカラダが好きなのだ」と答える事になるという風に組み立てたのであろうなぁ…。

思えば、中学や高校時代、女子バレー部とか女子バスケ部の人たちというのは、基本的にはモテる人たちであったような記憶がある。諸々、均整がとれている人が多いのだ。しかし、東大女子の問題と似ていて男子生徒の側にしても「しかし、オレよりも背が高いと思うと、オレがショボイ男に見えてしまうかもしれんなぁ…。そもそも相手にしてもらえるかどうか…」と考えるので敬遠する事になる。結局のところ、「釣り合いが取れているかどうか」という世間体バイアスというものは目に見えないものでありながら、実際に、それは存在しているのでしょう。
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大きな書店に出掛けた折、そこでポップを目にした。「おっ、今でも新潮文庫の百冊ってキャッチコピーは続いていたんだね」と知って、なんとなく物色することになり、新美南吉著『ごんぎつね でんでんむしのかなしみ〜新美南吉傑作選』(新潮文庫)を購入。数年前に『もう一度読みたい教科書の泣ける名作』(学研)がコンビニに並んでいたので、何の気なしに読んでみたら、泣けた、泣けた、「別れの一本杉」の唄い出しぐらいに泣けたっけ。やっぱ新美南吉って天才だったんじゃねぇのかって思った事もあり、他の作品も読んでみたいと思ったのであった。

◆最後の胡弓弾き
その昔、その地方では「胡弓弾き」という出稼ぎ芸能があったという。ここからして、既に説明が必要になってしまいますが、「角兵衛獅子」であるとか「角付け」(門付け/かどづけ)とか、「ゴゼ」といった芸を披露して金銭(おあし)を頂戴するという出稼ぎ芸能が現存していたという歴史を知っていないとならない。金持ちそうな屋敷に出向き、その門前などで楽器を演奏して舞いを披露するなどして銭をもらうという風習があった。映画「ツィゴイネルワイゼン」では三人組の角付けが印象的に使用されていた。

主人公は11歳の頃より、胡弓に興味があったが、まだ、子供だからダメだと触らせてもらえず、12歳になってから胡弓を習うようになった。牛飼いをしている家に胡弓の上手な人があり、その人に胡弓を習った。そして正月になると、馬車に揺られて街に出て、裕福そうな家を回っては、踊て手とコンビになって胡弓を弾き、銭(おあし)を稼ぐのであった。

胡弓弾きとして初めて迎えた正月のこと、大きな味噌屋へと行った。その味噌屋の主人は胡弓がたいそう好きで、主人公たちが行くと信じられないような歓待をしてくれた。その味噌屋では女中が皿に大量の握り飯をのせて、胡弓弾きに振る舞った。貧しい農家の子なので、正月には胡弓弾きをしているという主人公は、白米で握られている握り飯を、がっついて食べた。あまりにもおいしいので遠慮するのがマナーであること等、忘れて6個も握り飯を食べた。意地悪そうな女中が「まるで豚みたいに」と主人公の食いっぷりを評した。よその家では、演奏と踊りを披露しても、せいぜい2銭しかもらえなかったが、その味噌屋では10銭ももらえるのであった。

来る年も来る年も主人公の「胡弓弾き」は続き、毎年のように、その味噌屋にも行った。そして30年もの歳月が流れている。30年が経過しているという事は、主人公の少年は42歳前後になっている。既に結婚して子を設け、その子さえも既に大人になっている。現在の42歳とは異なり、かなり老いた人になってきている。

また、その30年の間に、環境は大きく変化していた。電灯が普及し、ラジオも普及した。芸能民による獅子舞い等、いわゆる角付けの文化は、すっかり廃れており、それは胡弓弾きも同じであった。正月だからと、町へと出て、家々を訪ねても迷惑がられてしまう。戸口には「芸能、押売り、お断り」の貼り紙が貼られている。年々、胡弓弾きなんてものは時代遅れになっていたのだ。楽器の演奏を聴きたいのであれば、もうラジオなんていう文明の利器が出回る時代になっていた。

正月を返上して「胡弓弾き」をするのは、寒村の人たちがカネを稼ぐ為であった。そのようにして根付いていた文化であった。時代遅れになったとはいえ、主人公は「胡弓弾き」を辞めてしまうのが、惜しいような気がしていた。だって、あの味噌屋の御主人は、既に頭髪は真っ白になってしまっているけど、毎年、自分の弾く胡弓に聞き惚れてくれて、過分な銭を差し出してくれる。時代遅れになったからといって、勝手に廃業していいものかどうか等と考え始める。主人公は胡弓を愛しているし、子供の頃から慣れ親しんできた胡弓弾きとしても上達を見た。時代遅れになったからといっても胡弓弾きを辞める事には、後ろ髪を引かれる思いが強かった。

30年目に差し掛かった頃、正月に父親が死んでしまい、その年、胡弓弾きの出稼ぎを中止した。その翌年には主人公自身が感冒になって寝込んでしまい、その年も胡弓弾きの出稼ぎを中止した。その次の年の正月、主人公は胡弓を持って村を出た。馬車に揺られて街へと向かった。完全に時代から取り残されていたが、主人公は思った。「あの味噌屋の御主人が胡弓を待っているかも知れない」と。

味噌屋へ行ってみると、店の様子も模様替えされていて、店には若主人と、その奥さんらしい人がいた。「老主人にお世話になっていた胡弓弾きなのですが…」と名乗ると、老主人は昨夏に亡くなったという事を知らされた。主人公は感じた。「もう誰も胡弓の演奏を歓迎してくれる人は居なくなってしまったのだな…」。老主人が居ないとなれば、胡弓を演奏する訳にもいかないと踵を返して帰宅しようとしたが、老主人は亡くなる前、「ここのところ、胡弓弾きが来ないが、胡弓弾きは来年は来るかねぇ」と胡弓弾きが来るのを楽しみにしていたという。そんな事情から主人公は仏壇の前で胡弓を演奏する。まさしく、最後の胡弓弾きの話だ。


◆狐
文六(ぶんろく)ちゃんという小さな男の子は、お祭りに出掛けた際、母親の下駄を履いてきた。文六ちゃんの足には余りある大きな下駄だったので、周囲の子供たちが文六ちゃんの為に下駄を買ってやることになった。下駄屋で文六ちゃんに合うサイズの下駄を購入した。すると、その時、下駄屋のおばあさんが奇妙な事を口にした。「夜に下駄を卸すとキツネに憑かれるから気を付けない」。すると、その脇から若い下駄屋のおばさんが出て来て、「大丈夫よ。おばさんがオマジナイをしてあげる」と言って、マッチを擦るような仕種をしてから、「はい、これで大丈夫」といって文六ちゃんに下駄を差し出した。

お祭りからの帰り道、子供たちの間では、下駄屋での一件が噂話になっていた。「夜に下駄を卸すとキツネに憑かれるのは本当だろうか?」という声もあれば、「なぁに、そんなの迷信さ」と退ける事もあった。「おばさんがマッチを擦るようなフリをしてオマジナイをしてくれたから大丈夫だろ?」、「あのオマジナイは手抜きだよ。ホントは本物のマッチを擦らなきゃ効き目はないんじゃないのか?」。しかし、そんな話をしていると文六ちゃんが「こん」と咳をした。子供たちは文六ちゃんを薄気味悪く感じ始めた。文六ちゃんは文六ちゃんで、なんだか、みんなが自分を怖れているようだと気づいた。

文六ちゃんは無事に帰宅する。そして、急いで、おかあさんの元へ行き、おかあさんに質問する。

「これこれこういう事があったんだけれども、もし、ぼくがほんとうにキツネになってしまったらどうする?」

おかあさんは笑い出しそうになるのをこらえて、

「そうさね。……そうしたら、家におくわけにはいかないね」

と、文六ちゃんをあしらいはじめる。

「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」

「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六がキツネになってしまったから、私たちも人間を辞めて、キツネになるに決めますよ」

「父ちゃんも母ちゃんもキツネになる?」

「父ちゃんも母ちゃんも、下駄屋さんから新しい下駄を買って来て、キツネになる。そして文六ちゃんを連れて、鴉根の方へゆきましょう。鴉根にはたくさんキツネがいるらしいから」

「猟師はいない?」

「山の中だからいるかも知れんね」

「猟師が撃ちに来たらどうしよう?」

「深い洞穴に入って三人で小さくなっていれば見つからないよ」

「猟師が連れている犬に嗅ぎつけられたらどうする?」

「そしたら懸命に走って逃げましょう」

「父ちゃんや母ちゃんは、速いでいいけど、僕は子供のキツネだもん、おくれてしまうもん」

「父ちゃんと母ちゃんが手を引っ張ってあげるよ」

「そんなことをしているうちに、犬がすぐ後ろに来たら?」

おかあさんは、ここでしばし間をとってから、ゆっくりと言いました。

「そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくりいきましょう」

「どうして?」

「犬は母ちゃんに噛みつくでしょう、その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ」

「いやだよ、母ちゃん、そんなことを。そいじゃ、母ちゃんがなしになってしまうじゃないか」

「でも、そうするよりもしようがないよ。母ちゃんはびっこをひきひきゆっくりゆくよ」

「いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか。いやだったら、いやだったら!」

文六ちゃんは、わめきたてながら、お母さんにしがみつき、涙をどっと流しましたとさ。



粗筋を説明可能なのは、上記の『最後の胡弓弾き』と『狐』ですかね。

『最後の胡弓弾き』には新美南吉らしさが出ている。実は『おじいさんのランプ』に物語の構成が似ている。滅びゆくもの、廃れゆくものへの哀切がテーマになっている。30年以上も、自分の胡弓を大歓迎してくれる味噌屋の主があり、もう、胡弓弾きも潮時だという事も分かっている。最早、収入的には赤字になってさえいる。しかし、その最後の胡弓弾きは思うのだ。「私を待ってくれている人が居る限り、胡弓を弾きたい」と。

『狐』は、このストーリーを知っていたような知らなかったような不思議な感慨が沸いた。説明するのは蛇足になるというレベルでもある〈感慨〉の話になってしまいますが、文六ちゃんのおかあさんは、何故に、文六ちゃんを相手にイタズラ心を出して、文六ちゃんをからかったのか? 現在だと杓子定規で測ったようなポリコレ社会なので、ともすれば「児童虐待である」とか「不適切な表現があり、とても児童文学だなんて呼べない!」等と大騒ぎをしてしまう可能性さえある。しかし、幼子と親などというものは、そもそも、そういうコミュニケーション回路を持っていたのが実際であった。泣かす事≒悪い事という価値観でもなかったし、そもそも、そんな事をしながら愛情の確認行為を行なっていたのではないのだろうか。私自身もそうだし、私と同年代の者の多くは、どういう理由なのか「お前はね、お父さんとお母さんのホントの子じゃあなくて、ホントは橋の下に捨てられていたのを拾ってきた子なんだよ」という嘘を親からブチかまされている。

私の場合ともなるとスリリングにアレンジされていた。「お前はね、包丁と一緒に踏切に捨てられていたんだよ」という設定になっており、そんな現代スリラー調にアレンジをしてみせた母親のセンスに恐れ入る。親と子、その絆を強めるには、実は「もし、お母さんが居なくなったらどうする?」のような想像をさせて、寂しさを教え、同時に「親の言う事を聞きなさい!」という脅しに使用していたのでしょうねぇ。祖父祖母レベルになってくると、「そんなに泣いてばかりいると、泣き虫買いが、やってくるど」と脅していたらしい。

よくよく考えてみると、「泣く子は育つ」という民間の考え方に由来している事に気付く。「泣き相撲」の風習であるとか、ナマハゲの類いの風習とも共通点がある事に気付く。敢えて我が子に対して〈怯えさせる〉とか〈泣かせる〉といった経験をさせて、親子の絆、その構築に用いていたような節がある。


◆花を埋める
既に長文になってしまいましたが、ホントは『花を埋める』という作品に最優秀作品賞を上げたいと思った。タイトルからして印象的で、なんだかつげ義春の『石を売る』ぐらいのインパクトがある。新美南吉が26歳の頃に書いたという作品なのですが、これ、児童文学ではなく、ほぼほぼエッセイと呼ぶべきような体裁になっている。語り手は「私」である。

「その遊びにどんな名前がついているのか知らない。」という一文で始まる。その遊びとは、かくれんぼうをアレンジしたような遊びであり、鬼が後ろを向ているあいだに、花を摘んできては、湯のみ茶碗ほどの大きさの穴を掘り、その穴の中に花をフラワーアレンジメントの如く、デコレーションして埋めて、穴にはガラスの破片でフタをして土や砂をかけてしまう。鬼は、「もういいよ」と声がかかれば、花が埋めてある場所を探すという遊びであったという。『花を埋める』という表題は、その遊びを意味している。

〈私〉は、その遊びが好きだったという。何故なら、穴に埋められた花が非常にきれいに見えたからだという。

専ら興味の中心はかくされた土中の一握の花の美しさにつながっていた。

砂の上にそっと這わせてゆく指先にこつんと固いものがあたるとそこに硝子がある。硝子の上の砂をのける。だがほんの少し。ちょうど人差指の頭のあたる部分だけ。穴から覗く。そこには私達のこの見慣れた世界とは全然別の、何処か沓(はる)かなくにの、お伽噺のような情趣を持った小さな別天地があった。小さな別天地。
(『新美南吉傑作選』162頁)

穴に埋めた花というのは、そんなに美しく見えるものなのだろうか? とはいえ、そんなものを見た事がないので、何とも言えない。新美南吉の感性に依るものかも知れない。

その遊びは、夕暮れに行なう事が多く、夕暮れどきともなると〈私たちの心〉は何某かに溶け込んでいくかのような、そういう感覚があったとも語っている。

その遊びは女の子に人気があったが、〈私〉も大そう好きであったという。ひとりぼっちで、花を埋めて、花を探すという事もしていたし、日が暮れてしまい、常夜灯がつくような時刻になっても、まだ、花を探すなんて事もしていたという。また、埋めた花を、その日の内には見つけることが出来ずに、翌日になって探したりすることもあったという。

その日、〈私〉は豆腐屋の息子の林太郎と、ツルという名の織布工場の娘と、花を埋める遊びをしていた。その〈ツルのつくった花の世界のすばらしさに驚かされた〉という。ツルという女の子は、花びらを一つずつ用いて草の葉や草の実を巧みに点景した。凝ったアレンジをして花を埋める子だったという。そして、実は〈私〉は「そのツルが好きだった」という。

〈私〉が鬼になり、林太郎とツルとが花を埋めた。「もういいよ」と声がかかり、〈私〉は花を探した。ツルは「もっと向こうよ、もっと向こうよ」と言ったので、その辺りを撫でまわすようにして探したが見つからなかった。林太郎はというと常夜灯にもたれながら、花を探す〈私〉をニヤニヤと笑いながら見ていた。どうしても見つからないと〈私〉は降参することになった。降参した場合、この遊びは、花の在り処のタネアカシをして終わるのであった。それが当然であったが、ツルはそうしなかった。ツルは「そいじゃ明日探しな」と言った。

〈私〉は諦めきれなかった。翌朝、目覚めると早朝から、常夜灯の下へ行き、一人、ツルの隠した花を探した。まるで金でも探すかのように地べたを這うようにして探した。しかし、花は見つからなかった。

翌朝どころか、その後もツルが埋めた花は見つからなかった。日数が経過しており、既に埋められた花は萎れているに違いないが、それでも〈私〉は諦められなかった。遊び相手も見つからず、寂しいとき、思い出すように常夜灯の下に行き、ツルの隠した花を探したのであった。

しかし、ある日、そんな姿を林太郎に見られてしまった。林太郎は石段にもたれてトウモロコシを食べていた。〈私〉はマズいところを見られたと思い、咄嗟に誤魔化そうとした。しかし、林太郎は〈私がツルを好いている〉ということまで見透したかのようにニヤニヤとした顔でいった。

「まだ探いとるのけ? 馬鹿だな。あれ嘘だっただよ。ツルあ何も埋(い)けやせんだっただ」

〈私〉は、ああそうだったのかと思った。心に憑いていたものが落ちた気がして、ほっとした。以降、常夜灯のある、その風景は〈私〉には何の魅力もないものになってしまった。

と、ここで終わるかと思いきや、凄いオチがあった。

ツルとはその後、同じ村にいながら長い間交渉を絶っていたが、私が中学を出たとき折があって手紙のやりとりをし、逢引もした。しかし彼女はそれまで私が心の中で育てていたツルとは大層違っていて、普通の愚な虚栄心の強い女であることが解り、ひどい幻滅を味ったのは、ツルが隠したように見せかけたあの花についての事情と何か似ていてあわれである。(同167頁)

新美南吉の略歴と照らし合わせると、この26歳の頃に新美南吉は結婚を考える女性と交際していたと思われると記されている。勿論、その相手は本作に登場しているツルという女性ではない。おそらく、そのツルという女性のクダリは、新美南吉にしてホロ苦い初恋失恋譚といった位置づけになるのでしょう。
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『山田太一戦争シナリオ集 終りに見た街 男たちの旅路スペシャル〈戦場は遥かにて〉』(国書刊行会)が、先の終戦記念日に発刊となって、お盆休み中に目を通した。いずれも未視聴のドラマなので未視聴のまま、そのシナリオに目を通した事になりますが、どちらも軽い衝撃を受けた。『終りに見た街』の中盤にも、中井貴一&柳沢慎吾の親世代コンビが、その子世代の成海璃子さんから強烈なセリフを浴びせられるシーンがあり、ギョッとした。しかし、『男たちの旅路スペシャル〜戦場は遥かになりて』は、その問題を更に深掘りしてあった。

以下は引用であり、それは鶴田浩二演じる吉岡司令補のセリフという事になる。鶴田浩二自身も、また、警備会社の吉岡司令補という役柄も、神風特攻隊に在籍していた人物であり、謂わば、生き残りであるという設定になっている。

「戦時中、私が所属していた特攻隊の仲間は、少くともその半分ぐらいは、内心、ああいう作戦は無駄ではないかと思っていた。飛行機もろとも敵の船につっこむ。勿論、つっこめばいい。つっこんで相手に打撃をあたえられるなら、命は惜しくない。しかし、つっこめるのは、十機に一機もなかった。多くは目標につく前に、敵の砲撃で撃ち落とされた。性能が悪くなっていて、故障して海へ落ちるものも少なくなかった。しかし、無駄なことをしたくないなどとはいえなかった。いえば、臆病者だと思われるだけだ。みんな、心を励まして乗って行った。無駄でもいい、いさぎよく死のう。無駄でもやっつけに行きたいのが人情じゃないか。そんな風に納得してね」(『山田太一戦争シナリオ集』173頁)

この『男たちの旅路スペシャル〜戦場は遥かになりて』は視たいと思いながらも視れないでいる作品だったのですが、是が非でも視たくなった。きっと視聴したら、心理的にはのけぞるような感覚があったと思う。最も語る事が難しい問題に挑んでいるなと感じた。

戦後世代の感覚からすれば、特攻隊にしても、或いはバンザイ突撃にしいても、所謂、玉砕したという具合に解釈されているものについては、言葉には出さないが事情を知ると心の中で「それじゃ、無駄死にしたという事なのか?」のような事を考える。しかし、それを言葉にする事は殆んどない。何故なら、その死んだ人の魂を冒涜する発言になりかねないから。そういう構造がある。「無駄死にした」とか「まるで犬死にしたようなものだ」という風に片付けるのは抵抗がある。しかし、そうであるが故に正真正銘のホンネの部分が見えなくなるという問題がある。ましてや、昨今のような言論環境になってしまうと「あなたの、その言葉で私は深く傷つきました。謝罪して下さい、賠償して下さい」のようにクレームを言い出すような言論環境になってしまっているので、尚更、こうした問題の深部には触れにくくなってしまっている。辛うじてフィクション世界だから、登場人物に言わせる事ができたかのようなセリフでもある。そこに迫っているのは、水木しげるの『総員!玉砕せよ』ぐらいかも知れない。

これは確かに微妙な問題を含んでいる。取り敢えず【蛮勇】という言葉を使用しているが、現場や当事者レベルになってくると、それは蛮勇ではないという可能性がある。先述した親世代(中井貴一&柳沢慎吾)に対して、子世代(成海璃子)が浴びせるのは、以下のようなセリフである。こちらは引用ではなく適度にアレンジして表記しますが、次のようになる。

「みんな、一所懸命、国のために戦っているのに、(お父さんたちったら)コソコソと、つまらない戦争、バカな戦争なんて言って! 米軍は、どんどん空襲をして日本人を殺しているのよ! 立ち向かって戦おうとしないなんて、おかしいわよ!」

中井貴一&柳沢慎吾という組み合わせは、山田太一の代表作でもある「ふぞろいの林檎たち」の仲手川&西寺のコンビでもある。そのコンビが親世代になっていて、中井貴一の娘に成海璃子が配役されていて、そのシーンがある。まぁ、あまり詳しくストーリーを説明する訳にもいかないのだけれども。

子世代から、そういう言葉を浴びせられて親世代は、どういう感慨が沸くだろうか? 別に親子ではなくても、ジェネレーションギャップを認識しているとして、どうだろうか? こうしたニュアンスは非常に複雑で、少なくともタジタジになる、たじろぐことになるのは確かでしょう。

まぁ、戦争そのものを直視してしまうと、本当にその問題がある。尺数が4時間45分もある映画「東京裁判」も視聴したばかりですが、大日本帝国による先の戦争の場合、検証する限り、一部に暴走が起こり、その暴走を止められなくなったという側面が非常に強い。戦後にマッカーサーや米国が、昭和天皇を占領統治の為に都合よく利用しようとしていたのも史実なら、実際に昭和天皇が「よもの海、みなハラカラと…」という和歌を詠んだのも事実だし、満州事変に到っては実情を知った昭和天皇が激怒して田中義一首相を厳しく追及して退陣に追い込んでしまった事も明らかになっている。

まぁ、どこかに蛮勇を競ってしまうという心理があるのでしょう。これは男性特有の心理なのか、或いは女性にもあるのか微妙な問題ですが、確かに臆病者と誹られたくない心理が作用するので、結局は、蛮勇を競う事になるという構造がホントにある。〈戦争〉という舞台は、その最たるもので弱気な事を言えば、忽ちのうちに臆病者や卑怯者というレッテルを貼られてしまう。それを怖れて、蛮勇であろうとするという心理が現に存在する。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は、「チキン」と挑発されると我を失ってしまうという性格の持ち主で、それをマイケル・J・フォックスが好演していた。この「チキン」とは「臆病者」のスラングであり、そのようになじられてしまうと、我々は冷静では居られなくなる。「チキンとなじられても、毅然としていればいいのさ」という者もいるかも知れない。しかし、そういう人物はどこか真摯に向き合っていないものだよなと思うのだ。

格闘技興業「PRIDE」などで活躍した格闘家の五味隆典さんは多くの格闘技ファンの心を奪うような真正面から戦うスタイルで人気を博した。とんでもなく凶暴にして強敵との対戦前の様子を撮影した映像がDVDか何かに収録されていて合点がいった事があった。仲間を相手に深い溜息をつきながら、「負けたら顔面をグシャッって踏まれて負けるのかぁ…。こえぇぇぇ」と本音を洩らしているのを視て、ああ、なるほどと思った。勇ましい気持ちを振り絞るようにして、あの〈火の玉ボーイ〉と呼ばれた格闘家は壮絶な試合を演じ、伝説になっていったのであった。負ける場合のイメージを持っている者の勇気と、負ける場合のイメージを持たない者の勇気とでは、実際には違ってくるだろうなと思う。

いやいや、国分拓著『ガリンペイロ』(新潮社)の世界もそれに似ている。法律の外で金鉱を掘る男たちが南米に居て、彼らをガリンペイロと呼ぶわけですが、そこは法律の外にある世界である。もし殺人をすれば、ボスがなにかしらの処分を下すことなる。そこには警察のようなものの介入がない。ガリンペイロたちは喧嘩をするし、その喧嘩がエスカレートして、年に何度かは刃物を使用したり、銃を使用したりする喧嘩も起こる。登場している人物の一人は、何度も殺されてかけた経験があり、実際に深い刀傷を腹部に持ち、本人が言うには腸がちぢれてしまっているという。からかうものは徹底的にからかう。相手が侮辱に耐え切れなくなっていても、そこで手加減する事を知らず、更に侮辱を重ねるので、追い込んでしまい、結局、刃物や銃を抜く者が出てくるという世界だという。そういう殺伐とした空間、それが極限にまで達すると、物事の道理を説くような老人が出てきたり、或いは若者でも聖書を声に出して読むような者も出てくる。神とか道理とか、そういったものは、結局、必要になるものなのではないか。ただ、そういう空間を実際に支配しているものは蛮勇であり、臆病者は徹底的になじられ、蛮勇を誇る者が尊敬を集める。その世界は法律の外の世界なので、思い余って憎い奴を銃で撃ち殺し、そのままジャングルへ逃亡してしまうなんていう者も出てくる。そうしてジャングルへ逃亡したところで、結局、生きては帰れない場所だという。

さて、問題は山田太一の『戦場は遥かになりて』であった。この『男たちの旅路』は警備会社が舞台であるが、おかしな若者の愚連隊たちが出現し、警備員たちをゴルフクラブで襲撃するという事件が連続発生する。ゴルフクラブの警備をしていた警備員が10人程度の愚連隊に襲撃されたり、深夜の学校を警備していたところ、同一犯か模倣犯と思われる愚連隊に再び警備員らが襲撃に遭う。主人公たちの警備会社は東洋警備という会社名ですが、東洋警備では愚連隊を確保したり、抵抗したりせずに警察に通報するという方策を立てている。しかし、東洋警備の信用がガタ落ちする。警備会社の警備員なのに、何故、愚連隊を逮捕、逮捕は無理だとしても抵抗さえしないのは、臆病ではないか――という訳です。

で、このスペシャル版では、本間優二演じる「森本直人」という役柄の若手警備員が登場している。この森本直人という人物は、花を育てたり、鳩を飼育する事を好む性向の持ち主であったが、育った環境の中で「女々しいことをするな」という教育を受けている。その父親の教育方針もあって空手を習わされ、空手の腕も相応に自信を持つまでになり、その上で新入りとして警備会社に入ってきたという設定である。この森本直人という青年は、何をするにも反抗的で、警備会社でも手を焼いていたが本心が見えてくる。吉岡司令補(鶴田浩二)は、自分たちの時代の男は武骨であり、何をするにも力を行使して生きてきたクセに若者に対しては「ケガをするような事はするな」のように命令してくる。しかし、それが気に入らないという、ひねくれ方をしているのが森本直人(本間優二)という青年である。現に、世間の反応も、同僚の反応も、愚連隊と遭遇したのに逃げて警察に通報するというだけの行動をしても、一向に評価されない。今どきの若い奴はだらしがない。腰抜けである。そのような悪評を実際に受けるし、軽蔑のまなざしを向けられる。しかし、森本直人という青年は、それこそが耐え難い屈辱だと感じているのだ。吉岡司令補に対しても「あんたの事は知っているよ。神風特攻隊の生き残りだろ? 本音を言えよ。本音では、今どきの若いヤツは軟弱だって軽蔑しているクセによっ!」という強烈な怒りを抱えている。

或る意味ではジェンダー問題を先取りしていたかのような問題でもある。森本直人は自らが勤めている警備会社の規則を破ってでも、自分の手で愚連隊どもを捕まえてやろうとか、痛い目に遭わせてやろうと画策し、私服のまま、警備対象の建物のパトロールを始める。そして愚連隊と遭遇する。人数にして10対2。とはいえ、それなりに腕っぷしにも自信があり、自分を見下している上司や世間を見返してやろうという蛮勇を発動させ、凶器を持っている愚連隊を相手に乱闘を演じて後頭部を損傷、意識不明の重体に陥って救急搬送される。森本直人には同棲している相手(真行寺君枝)がいる。お腹には森本直人の子を宿している。しかし、森本直人は息を吹き返さない――。

ストーリーは、そのように流れますが、やはり、肝になっているのは、他者からの評判、世間からの評判に左右されて、結局は、人々は蛮勇を競う事になってしまうものなのだという構造を浮かび上がらせている。

ああ。本間優二さんという俳優は、元々はブラックエンペラーの構成員であったが俳優になった方でもある。暴走族時代の映像が映画「ゴッド・スピード・ユー!」に収録されている。こういうキャスティングで、こういうシナリオなのであったなら視聴したかったなぁ。

拙ブログ:映画「ゴッド・スピード・ユー!」の感想
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新潮社が新潮文庫にした事でガルシア=マルケスの『百年の孤独』が飛ぶよう売れていているという。発売から僅か1ヶ月で7刷26万部に達しており、書店でも品切れ状態になっているのだそうな。週刊新潮8月8日号では特集記事が組まれていた。

しかし、アレかな。2022年夏に私も挑戦して無事に読み終えましたが、純粋に楽しめたかというと少し違和感がある。週刊新潮に拠れば文庫本ながら661頁もあるそうで、しかも分野としてはラテンアメリカ文学なのだ。週刊新潮の特集記事でも語られていましたが、カトリックでいう奇蹟のパロディのような描写も含まれており、それを日本人が読んで理解できるのかどうかという問題がある。専門家によれば、ガルシア=マルケスは「魔術的リアリズム」なるものを評せるかどうかがポイントになってきており、なんのことかと思ったら作品中に登場する「魔術的リアリズム」を幻想世界として楽しめるかどうかという問題になってくるという。私の場合は「エロい」というだけの意味ではなく、感覚器官で感じ取るという意味合いで「官能的な作品であろう」と評したような記憶がある。

1〜2週間前の朝日新聞では、書評家たちが揃って「この夏の読書にオススメする三冊」を掲載していた。朝日新聞に登場する書評家は、やはりリベラルなものを読んでいて、また、それをオススメにするのだなと感じてしまった。実は或る意味では「エコーチェンバー」な世界でもあることにも気づかされてしまった。私が目を止めたのは保阪正康氏と横尾忠則氏ぐらいであった。


ここ最近、読んで面白かったと感じたのは山田太一著『恋の姿勢で』(新潮社)であった。1995年刊行の作品なので、描かれている世界は当時の世相を反映している。実は、アバンチュールを題材にした作品であった。これは、さすがに読むのかキツいかも知れないと思ったが、〈ほほぅ。そう来ましたか〉というノリになれたので、最後まで飽きずに読めた。

『恋の姿勢で』の主人公は34歳の独身女性であるタミと、40代半ばの男であるツヤマとのアバンチュールから始まる。一度限りのアバンチュールであった筈が、どういう訳か奇跡的な再会を繰り返してしまい、タミはツヤマに振り回されてゆくというのが基本プロットであった。

タミは「アメリカ人になめられてたまるか」や「男になめられてたまるか」という思考を持っている。OLとして積んできた経験がそのような思考回路のベースになっている。34歳という年齢もポイントであり、結局のところ、若くなければ男性社会ではチヤホヤしてもらえず、女同士であれば「いい年齢になったらお嫁さんになる事が正解」という価値観である事に気付いている。だからタミは単身でアメリカ旅行をして、その旅先のホテルで知り合った日本人男性とのアバンチュールに応じる。その相手の男は平均的な中年男よりはカッコいい部類である。そしてタミ自身による自己評価では、若い頃はそれなりにチヤホヤされた経験もあるけれど、今となってはそんなに性的アピールで優位に立てる身分じゃないという自覚を持っている。だから今更になって条件の悪い男と結婚するなんていう気もない。

一度、両親がお見合いの話を持ってきた事があったが写真を見て驚いた。確かに経済力などの条件は悪くないのだけれど、容姿はオジサン丸出しであったのだ。タミは思う。「自分の娘を、こんな男のところへ嫁がせたいのだろうか? 自分が育てた娘なのに娘の事なんて何にも分かっていないのだな」と感じた。このタミの設定が少しだけ従兄妹に似ていた。元々は小さな会社に勤めていたが時流に乗って、あれよあれよの間にも大企業になってしまい、その従兄妹は若くして高給取りの管理職になった。そうなると結婚なんて興味がないという。そうした微妙な線上の女性の問題を、きちんと山田太一は拾っているじゃないか、と。

そのタミがアバンチュールで知り合った中年男のツヤマは「人を殺したことがある」という。となると、ひょっとしたら殺人犯なのかも知れない。素性を尋ねようとすると、それを頑なに拒絶する。事実や真実を抜きにして、二人で純粋に男と女の関係を愉しもうじゃないかという。奇妙な設定をつくっては、その役になりきってレストランやラーメン店で食事をする。途中からタミは、そうした〈ごっこ〉を抜きにして逢瀬を楽しみましょうと持ち掛けるが、そうするとツヤマからの連絡はプッツリと切れてしまう。ツヤマには何か重大な秘密があると感づく。

事実を拒絶する中年男「津山邦彦」は、ドラマ「真夜中の匂い」で林隆三が演じた「木山祐作」というキャラクターに酷似している。事実よりも虚構を好む男である。しかし、このツヤマには暗い秘密が隠されている。ツヤマの場合は辛く暗い過去を背負っているので、その過去を乗り越える事を諦めている。だから現実を現実として語る事ができない。どんなに慰めようとしてもツヤマには無理なのだ。現実問題に引き戻そうとするとツヤマは別離を匂わせる。なので、タミの方も開き直って、自分たちは虚構の中で一緒にやっていくのだと決意する。それは社会一般からすれば〈ありえない恋〉であるが、それで楽しいであれば、それでいいのである――と。

どういう言動が、どういう感情を惹き起こすのか等、相変わらず山田太一の世界は深いなぁ…と感じた。私の紹介だと退屈そうに感じたかも知れませんが、内容的にはピストルを持った少年は登場するし、サディスティックなセックスをする場面も登場するし、色々な感情を喚起させる作品であった事は間違いない。但し、ホテルのバーでカクテルを飲むシーンなどが多く、この辺りは当時の状況を想起して読む必要性がある。

後は、既に過去記事で触れてしまっていますが、松本清張の『日本の黒い霧』と司馬遼太郎の『空海の風景』は、じっくりと読めた。どちらも実際にあった〈謎〉を解き進めてゆくというスタイルのものでしたが、「えっ! そうだったの?」とか「ほほぅ。なるほど、そういう事か…」といった具合に好奇心を刺激してくれる。

司馬遼太郎は生前に自分の書いた作品の中で一番好きな作品として『空海の風景』を挙げていたという。これは、その内容が面白いだけではなくて、丁度、その時代背景そのものの知識が深まるという副次的なメリットもある。また、司馬遼太郎が「空海のみが天才だ」という考え方をしている理由にも気付く事になる。

松本清張は既に評価されているものと信じたいところですが、おそらく、突き詰めてゆくと、松本清張こそが突出した大作家であったという結論になる可能性がある。私はフィクションは読まない人間なのですが松本清張が描き出す世界というのは、イヤという程に人間や社会を描写してしまっているよなと思う。「愛」であるとか「憐憫」であるとか「美しさ」といった奇麗事ではなく、どろどろとした欲望で事物が成り立っている事を示してくる。もう、或る意味では厭らしいったらありゃしない。しかし、それが人間の真の姿であり、社会の真の姿であり、権力といったものがどのように靡くものなのかを抉り出す。

みうらじゅん氏が、やはり、松本清張ドラマ好きらしい。みうらじゅんさんの評を信用しているので「ああ、やっぱり!」と感じた。意外と有名ではない作品でも面白かったりするのですが、少し前に視聴した星野真理&船越英一郎コンビの『黒の奔流』は面白かったかな。原作は「種族同盟」であり、小川真由美の土曜ワイド劇場枠「種族同盟」と、山本陽子が主演した映画「黒の奔流」も視聴した経験がありましたが、あの善意で助けた弁護士が追い込まれていってしまうクダリは秀逸であった。確かに、世の中には殺意を抱かざるを得ないような、そういう状況が起こり得るよな、と。

松本清張の人間観察のおどろおどろしさというのは、僅か1年間で執筆したという『日本の黒い霧』でも充分に堪能できる。帝銀事件の謎だけではなく、ホントは網羅的に戦後日本には黒い霧があり、ひょっとしたら今も黒い霧が発生している可能性だってある…。
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数週間前に山田太一が書いた小説『空也上人がいた』について取り上げた。おそらく、3時間ぐらいで読み終わってしまった本だったのですが、途中まで読んで「やっぱり凄いなぁ…」という感慨でページを捲っていた。

どこに凄さを感じていたのかというと、実は私の場合は、46歳女性でケアマネージャーをしているという重光さんがトイレに駆け込んで発する勢いよく出ているオシッコの音という切り抜きについてであった。率直に言って心地好いワードではないし、そればかりか色気なんてものは吹き飛ぶような話でもある。19歳も年下の青年・草介が抱く感慨というのは想像するに余りある。とてもとても性的な対象にはならない。もっとデリカシーがあって然るべきだ。そう思うに違いない。しかし、物語が進展していくと、なんだか許せるようになってくるというポイントがあった。重光さんは重光さんなりに若い一人暮らしの男性の家に行く事に高揚して緊張しているのだ。

手ぶらでアパートへ行く訳にも行かぬと近所のコンビニに入って缶ビールの6缶入りパックを買う。そこで草介の家に上って、いきなりトイレを借りるのは恥ずかしいのでコンビニのトイレを使用しようとしているが、生憎、トイレは使用中、塞がっているのだ。なので、仕方なく尿意を我慢しながら草介のアパートを訪ねているという描写が入る。ホントは図々しい訳でもなく、ガサツなのでもない。恥ずかしいけれど尿意には耐えきれず、草介のアパートに入れてもらうや否や、トイレを借りている。寒い夜道を尿意を我慢しながら歩いてきたので、トイレを借りて安堵し、勢いよくオシッコの音を立てていたというのが重光さん側からすると真相だった――。

読み始めた直後には、その設定は出て来ないので、目を通している側は「46歳のババアが勢いよくオシッコしているなんてのは全く色気を感じない。そればかりかグロテスクな描写だ」なんて事を思っているのだ。ただ、そうした異物感というか毒々しい描写、刺々しい描写が好奇心を惹きつけるという効果はあるのかも知れない。或る意味では、そういったグロテスクな部分もあるのがリアリズムであったりもする訳です。また、事情が分かると、なんだか上がって早々、トイレを借りてオシッコの音を響かせていた事なんてのも、なんだか「あるよねネタ」のように感じ取れるようになってくる。


拙ブログ:『空也上人がいた』の感想

その『空也上人がいた』を読み終える数時間前まで、NHKの夜ドラ「ユーミン・ストーリー」の「青春のリグレット」編について実はブログで取りあげるつもりでいた。あまりテレビドラマでは見かけないようなドラマであったし、なんだかウッソウとしたドラマであった。勿論、これは松任谷由実ことユーミンの「青春のリグレット」という楽曲をイメージしてつくられたドラマであった。最後まで番組を視聴していたら「原作 綿矢りさ」とテロップが出ていた。やっぱ、綿矢りささんは何か違うものを持っているのかもなと感じた。芥川賞受賞作は『蹴りたい背中』でしたが、映画化された作品としては「インストール」、「勝ってにふるえてろ」があり、どちらもドキリとするものを持っていたような気がする。

「青春のリグレット」については、もう作詞の時点で基本的な粗筋は出来上がってしまっているのでユーミンのセンスも大きく影響していたとも考えられる。簡単に説明してしまえば、おそらく若い頃に夏のバカンスを楽しんだ彼氏を振って、計算高く、条件のいい男の方に触手を伸ばして結婚したという女の話であり、それを「青春の後悔(リグレット)」と呼んでいるのだ。しかも、歌詞は複雑に捻じれていて


私を許さないで 憎んでも 覚えてて

今でも、あなただけが 青春のリグレット


なのだ。

主人公の女を演じていたのは夏帆さんであった。役名は「カコ」であったと思う。歌詞を基にさまざまなアレンジをほどこしたのが綿矢りささんであったのでしょう。

このカコという女の物語が少女期から簡単に取り上げられている。小さな頃から要領のいいところがあって、大人しそうに見えるが自分の道は自分で切り拓いてきたという人物である。大学時代には狙い通りの彼氏を彼氏としていた。適度にモーションをかける、つまり、思わせぶりな態度をとると男の子たちがどんな反応をするのかも計算して行動してしまうタイプで、その通りに意中の彼を自分の彼氏にした。そして大学卒業前に、その彼氏との夏のバカンスに繰り出した。しかし、その頃になるとカコには計算が出来上がっていた。✕✕君の事は好きだけれども結婚するのであれば、もっとハイスペックな彼がいい。そう人生設計を立てていた。

親友には打ち明けていた。「この夏の旅行を最後にして今の彼とは別れるつもり。やっぱり結婚を視野にしたら、もっとハイスペックな彼じゃないとね」と語っている。「じゃあ、旅行はどうするの?」と親友に尋ねられると、「旅行は、これがあの人との最後の旅行だと思って楽しんでくるわ」とアッケラカンとしている。その旅行で、その憐れな彼氏は必死にスケジュールを立てており、ここへ行こう、あそこへ行こうと言っている。しかし、心の中ではもう、その彼氏と別れる事を決めているカコの反応は鈍い。なんたらという店で限定販売されているピザを買うには早く出かけないといけないのだとせっつく彼に対して、「まだ、テレビをみているんだから待っててよォ」といいた具合である。そして、その旅行を以って計画通りにカコは、その彼氏と別れた。(記憶が曖昧になってしまいましたが、その旅行の最中に「私たち別れましょう」とカコが切り出したのだったかな。)

その後のカコは計画通り、何か研究者になる彼氏をゲットし、夫婦になっている。これはゲットしたという表現が正しく、あまり女性に免疫がなさそうな真面目なタイプの彼に接近する。奥手そうな男の腕を絡み付けるなどして気を引く。そんな事はカコにとっては造作もない事であった。更に結婚に誘導するように実家に遊びに行って両親を紹介させ、気に入ってもらい、なにもかもがカコの計画とおりになって、ドラマや漫画かのような結婚披露宴の場面となる。自分の計画通りに生きていて、その地位にありついたカコに不満などはない。しかし、どうも最近、夫の様子がおかしいと気づく。何か嫌われているような雰囲気を嗅ぎ取っている。

カコは、これは夫婦の危機であると察知して旅行を計画する。奮発して高額のコテージを予約して乗り気ではない夫とのドライブ旅行へ出かける。いつだってカコは成功してきた。今度もきっと夫の気持ちを自分に惹きつけれられると思っている。元々、この夫は口数の少ないタイプで旅行にきたというのにノートパソコンを叩いているタイプである。「ねぇ、奮発して高いコテージに泊っているんだよ。なんで仕事なんてしてるの」という具合の甘い声を出して夫の傍らに近づいていく。迷惑そうな顔をする夫。奥の手とばかりに抱きついてベッドに横倒しにしようとするが、ここで夫に拒否される。夫のベルトを外しにかかるというシーンまであったと思う。しかし、夫はカコの誘いを拒絶する。挙げ句、夫に諸々を看破される。「君はいっつもそうなんだ。僕との結婚にしたって、まるで君が仕組んだ通りになったようなものだったじゃないか」。「そんな事ないでしょう? だって、あなたがプロポーズをしたんじゃないの」、「そうなるように君が誘導したんだ」。ホントはどれも夫の言っている事が正しい訳です。更に、このやりとりはエスカレートしていくが、夫は冷徹に言い放つ。「悪んだが、離婚してくれないか」。

バカンスに来て離婚をつきられてしまった事で、自分の惨めさを痛感するカコであったが、思い起こせば、このシチュエーションは、学生時代に交際していた彼氏を自分が振ったシチュエーションに酷似していると気づく。過去の自分も、こうした過酷な仕打ちを元カレにしていたのだという事に気付く。

学生時代の親友に電話をして「旅行先で夫から離婚を切り出されてしまった」と愚痴をこぼす。しかし、親友は既に子育て中で大忙しで、カコからの相談に悠長には付き合ってくれない。そればかりか、「カコってさぁ、昔からそういうところあったじゃん。なんでも自分の計算とおりにしちゃうところって。だからバチが当たったのよ」的な言葉まで掛けられてしまう。

学生時代に旅行を最後に振った元カレからは、別れ際に呪いの言葉を掛けられていた記憶がうっすrと蘇える。元カレは別れ際にカコに「君は幸せな結婚はできないよ」、そう言って過去を振り切るようにして街の中へ去って行ったのだった。思えば、本当に、元カレが放った最後の呪いの言葉通りになってしまった――という訳です。

ドラマでは、また、その元カレと偶然に再会し、その呪いの言葉を解いてもらって完結になったのだったかな。「まだ、あの時の言葉は生きている?」とカコが尋ねると、元カレは首を横に振って呪いを解いて、また、街の雑踏の中へと消えていく。それで完結であったか。

おそらく、こうした人間模様の持っている厭らしさというか、ざらざらとしたあまり気持ちの好くない肌触りみたいなものが、実はドラマに妙味を与えているよなと感じた。この厭らしい感じを夏帆さんが巧く演じていた。いつだって、いつまでも、自分だけが常に可哀想なカワイコちゃんで居られ続けるという保証はない。カコは計画通りに周囲を操っていると思い込んでいたが、その実、周囲からは憎まれたり、許されない程度のヒンシュクを買っていた事を知り、最後には許されるという境地を得た、という一連になっている訳です。

オトナ向けドラマ枠なので静かに進展するドラマでしたが、ホントは30代後半ぐらいであれば、このテの機微のあるドラマでも充分な筈なんですよね。目ん玉をひん剥いて、大声でギャグを発するというドラマが多くなってしまった昨今ですが、ユーミンや綿矢りささんともなると、こういう構想や、こういう筋書きをしてくるという事なんだろうなぁ。

ボードレールの「悪の華」あたりに目を通してみると、もしかしたら、こういう異物感みたいなもののある毒々しさや刺々しさのあるテイストこそが現代思想であり、現代文学なのではないのかなっていう気がしてきている。難解なので上手に説明できないのですが文明批判で根底にあり、この社会の中にあるグロテスクなものの表層をチラと舐めていくような感じ。また、毒や棘があるからこそ、何か引っ掛かるような気がして読み進めてしまい、画面の前から動けなくなってしまう。
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「しまざき由理 Gメン'75を歌う」という音楽CDを衝動買い。アニメソングの女王といえば、ひと昔前であれば堀江美都子で別に異論がある訳でもないのですが、大人になってみてから、もう一人、どうしても気になってしまうアニソンの女王があった。私の場合は、それが「しまざき由理」であり「嶋崎由理」であった。

「ハクション大魔王」のオープニングテーマに、「国松さまのお通りのだい」の「逆転の応援歌」の方、それと「みなしごハッチ」に「紅三四郎」。うーん、どれもこれも幼稚園から小学校低学年にかけての時期に好んで視聴していたアニメソングばっかりなのだ。で、大人になってから気付いたのが、その「嶋崎由理」が刑事ドラマ「Gメン'75」の中で、半ばあのドラマを決定づけていた「面影」という楽曲を名前を「しまざき由理」に変えて歌唱していた事に気付いたのでした。


いつかきた道 あの街かどに

ひとり求める 想い出いづこ

ああ一度だけ 愛して燃えた

ああ あの時はもう帰らない

る〜る〜る〜

(「面影」作詞:佐藤純弥 作編曲:菊地俊輔)

気持ちとしては、レコード大賞授賞曲に勝手に認定したいぐらいに味わいのある楽曲だ。歌唱も素晴らしいのだけれども編曲も好くて。

で、ライナーノートに目を通していたら、私の感慨が文字にされていた。或る時期までの刑事ドラマ群は、味わい深い哀愁ドラマであり、その中でもピカイチだったのが、しまざき由理の歌う「面影」であったという主旨の話が記されていた。

本命⇒しまざき由理「面影」(Gメン'75)

対抗⇒チリアーノ「わたしだけの十字架」(特捜最前線)

単穴⇒鈴木ヒロミツ「でも、何かが違う」(夜明けの刑事)

といった下馬評で、実質的には本命馬「オモカゲ」と対抗馬「オンリーマイクロス」との激戦が予想されていたが、最終コーナーをまわってみたら本命馬「オモカゲ」の末脚が炸裂、ゴール前の直線では異次元の強さで他馬をグイグイと引き離してゴール、圧巻のグランプリ制覇、東京競馬場に馬券が乱れ飛んだ――と、そんな印象だ。⇐(狂人の文章)

その他にも遠藤実&渡哲也コンビが秀逸で「日暮れ坂」に「ひとり」なんていう名曲がある。確かに或る時期までの刑事ドラマ群は事件や犯罪をヒューマンドラマとして製作しており、挿入歌やエンディングテーマは〈哀愁〉が凄まじかったのだ。

ここのところ、日本列島もアジア全域でも大地震が多発していますが、「日本沈没」の主題歌、五木ひろしが歌唱していた「あしたの愛」なんてのは、もしかしたら現在のタイミングでこそ、楽曲の世界に浸れるのかも知れない。

そういえば、いつの頃より、〈哀愁〉といった感慨が見当たらなくなった気がする。例えば、近年の楽曲で哀愁を強烈に感じさせる曲ってあったのかな? 懐メロしか耳にしないから知らないけど、無いんじゃないのかなって気がする。敢えて言えば、あいみょんの楽曲が少しそんな雰囲気を持っているから、世のおじさん世代からも人気があるのではないだろうか。

星新一は

われわれが過去から受け継ぐべきものはペーソスであり、未来に目指すべきはユーモアである

と言ったらしい。他にも超がつく有名漫画家の言葉で「今後はペーソスがなくなってゆく」があったような気がする。(藤子不二雄Aのような気がしているが記憶に自信がない。)

星新一のショートショートは令和になってから読み返してみても何やら上品な機知がある。単にオチでサゲるという構成要素からなるショートショートではなかった事に気付かされる。非常に垢抜けていたというか、洒脱な作風だったのだ。筒井康隆や阿刀田高もショートショートを多く残していたと思いますが、なんだかんだいってショートショートという分野に於いては星新一のショートショートは「品の良さ」、その品の良さがきちんと作風になっており、頭一つ、秀でていたような印象がある。では、そんな星新一が指摘していたように現代人はペーソスを継承できたかというと、これは完全に失敗していると思う。未来はユーモアを目指せと言っていたらしいが、おそらく、こちらもそんなに具現化している印象はない。単に「お笑い芸人」や「お笑い番組」、そうしたYouTube等の動画コンテンツは増えたが社会全体に占めるユーモアが増えたという印象は皆無だ。冷笑や嘲笑は増えたかも知れないけど、星新一の言うユーモアってのは、もっと機知に富んだユーモアの事だろうからねぇ。

ペーソス(物悲しさ)が消えたのだから、ニュアンス的にも近い〈哀愁〉も消えて当然という事なのだろうか? 

言葉を入れ替えて見て、では、令和の現在には「哀しみ/悲しみ」はないのだろうか? ありますワな。ただただ、目につかないようになっているだけとか、それらが語られないようになっているなのではないのか? 

「哀愁」というニュアンスが時代の変遷に伴って、予言のとおりに消滅している事の一つの問題として「オトナ」の消滅とも関係しているような気がしている。私が年齢的に年寄りになってしまったという事もあるのだけれども「これはオトナの意見だなぁ」と感じる文章を目にする事がなくなったと感じている。中学生の頃には北杜夫のエッセイを読んでいた記憶があるけれど、結構なオトナの世界であった記憶がある。そういえば…という気持ちになる。山田太一のエッセイを読むようになったのは比較的近年でしたが、実際問題、驚愕するようなレベルでオトナの文章であった。全く媚びないというスタンスで文章が綴られているのですが、或る種の信念で貫徹されているのだ。評価される文章を書こうとしているのではなく、山田太一の場合は信念が貫徹されている。で、後になって「あれは気骨を示さねばならぬと思って私が頑張ってしまったのだが、内心では空振りだったと思っている」的な事にも言及している。まぁ、人間というのは、実際にそういう部分がある。結局のところ、人間理解の深さと、リアリティーと、肩透かしとの絶妙なハーモニーを武器にしていたのだと思う。

野坂昭如の場合はテンションまかせの、オフザケの強い雑文だったりするのだけれども、どこかオトナの余裕みたいなものが感じられた。あれぐらいの世代の人たち、青島幸男なんてあたりの対談での発言なんてのも、そんな印象を受ける。大橋巨泉なんてのも、案外、そういうタイプだったような気がする。オトナの側に「アソビがある」というのか軽妙で許されていた。でも、今はありませんな。常に凄まじいストレス、おそらくは感情の抑制にキリキリ舞いしている。アンガーマネジメントとやらで、怒りの感情を生じさせてはいけない等という酷く窮屈な状況を強いる世論と対峙している。間違った発言をしようものなら即炎上で即謝罪を迫られるという非常に緊張した空気の中に身を置いている。「哀愁」なんて感慨に浸れるだけの悠長な時間そのもの、物思いに耽るなんていう余裕そのものを既に消失してしまったって事なのではないだろうか。

喜怒哀楽のうちの「怒」と「哀」については、人間でありながら感情表現してはいけない事になってきてしまったのだ。これはホントにいい時代になったという事なのかねぇ。精神疾患の発症率とか、メンタルヘルスの必要性が年々高まってしまっており、そのコスト等も考慮したとき、令和というのは、もう人間が人間として生活できるような環境ではなくなってきてしまっているって事なんじゃないだろうね?
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どこかで作品評を目にして購入を決意したのだったですが、どこで誰の作品評を目にしたのかが分からなくなってしまった。とはいえ、山田太一著『空也上人がいた』(朝日新聞出版)の感想という事になる。

2011年に書き下ろされた小説であったが、これは私の視点からすると、これはかなりの高評価をすべき小説だと感じた。生きていく中で犯す罪とどう向き合っていくのかという問題があり、老醜の問題があり、自裁死の問題があり、「やまゆり園事件の植松聖」&「死亡退院の滝山病院」にも繋がるかのような〈福祉の限界〉を取り扱っており、挙げ句の果てには46歳の処女なんてものが登場、これは実質的には現在進行形であろう〈男女断絶の時代〉になりますが、その問題まで取り上げられている。しかも含み笑いしてしまうぐらいのユーモラスな筆致だ。因みにタイトルの「空也上人」(くうや・しょうにん)は余り本題に直接的には関係がない。

一先ず、『空也上人がいた』について簡単に説明する必要性があるので、3名の登場人物について。

主人公は「草介」という27歳の介護士である。フルネームは中津草介。ヘルパー2級の資格を持って特養(特別養護老人ホーム)に勤めてたが、ある些細な事件で特養を辞めてしまい、現在は無職。一人暮らし。

「重光さん」は46歳の独身女性であり、ケア・マネージャーの仕事をしている。フルネームは重光雅子であるが本名については最後の方まで語られる事がない。

最後に「吉崎征次郎」で81歳。非常に謎めいた我侭な老人である。しかし、認知症ではない。

登場人物は到ってシンプルで、この3名しか出て来ない。以下、簡単な粗筋となります。

無気力な日々を過ごしている草介には秘密があった。草介が特養を辞めたのは、ある出来事が切欠であった。特養に於ける介護士の仕事とは、つまりは認知症になった老人たちの下の世話である。また、相手が認知症でもあるので非常にストレスが溜まり易い現場でもある。或る時、草介は〈植松のおばあちゃん〉の車椅子を押していたが、ひょんな事に腹を立ててしまい、カッとなって植松のおばあちゃんを車椅子から半ば意図的に落下させてしまう。植松のおばあちゃんは床に転げ落ちた。その後、植松のおばあちゃんは医者に診せられたが特に骨折などもなく、大事には到らなかった。しかし、その出来事の六日後に植松のおばあちゃんは亡くなった。草介は、植松のおばあちゃんが亡くなったのを機にして職場を辞めると表明した。同僚たちは一様に「そんなことぐらいで、仕事を辞める必要はない」と反応したが、それでも仕事を辞めた。仕事仲間たちは草介が躓いて植松のおばあちゃんを放り出してしまった事故だと考えている。そう認識されているので草介にしても、「いいえ、あれは私がカッとなって放り出して転倒させたのです」と説明することもなく、職場を去ったという意味である。

ケア・マネージャーをしている重光さんは、特養を辞めてしまった草介の事を認識していた。そして担当している風変わりな老人の介護を草介に紹介することにした。風変わりな老人は吉崎征次郎といい、気難しいのが難点だが認知症のケはない。また、決して人使いが荒い訳でもない。にもかかわらず、吉崎は自分専用の介護をしてくれれば月給25万円出すと言っており、その話を草介に紹介してやりたいと思ったのだ。この「重光さん」は介護業界が永く、ケアマネージャーになる以前は介護士をしていた時代もある。特養ともなると、それが認知症を患った施設である事も承知しており、それがどういう職場なのかよく分かっている人物でもある。中津草介という青年が施設内で発生した車椅子転倒事故を気に病んで辞めてしまったらしいので、この吉崎征次郎という気難しい老人の案件を世話してやろうという気になったのだ。

草介が独り暮らしをしているアパートに、重光さんはやってくる。重光さんは、ホカ弁や缶ビールを調達して訪ねてくる好人物であると草介も認識している。しかし、重光さんは部屋に入ると早々、いつも「トイレを借りるね」といってトイレへ向かう。草介は、重光さんの排尿している音を耳にする。勢いのある排尿の音であるが、あんな風にオシッコの音を響かせるなんて、と。27歳の草介からすれば46歳の重光さんは異性であっても異性を意識させる存在ではない。とはいえ、重光さんから男性だと認識されていないのだろうかと思うと、なんだか癪な気分にもなる。

重光さんは、草介へと、吉崎征次郎の話を繋ぐ。吉崎征次郎という老人は気難しい事だけがネックの老人であるが、仕事量そのものは多くもなく、いい給料を支払ってくれると説明する。草介は充分に警戒心を強めながらも、吉崎征次郎という個人に雇われる身となる。

吉崎征次郎という人物は、山田太一脚本ドラマでいえいば「早春スケッチブック」の沢田竜彦であり、「キルトの家」に於ける勝也であり、つまりは俳優・山崎努が演じた、あの偏屈な老人である。奇想天外な事をいって草介と重光さんを翻弄する。

「悪い条件ではないから」と吉崎征次郎の身の回りの世話をすることになった草介。しかし、征次郎は金持ちらしく、高級すしを食べに行ったり、高級なうな重を食べに行ったりと、羽振りがいい。話を聞けば、結婚はしていたが6年前に妻を失っており、子供も親戚もなく、東京・青山に持っていた一軒家は処分して郊外の中古一軒建てに住んでいるので、実はカネには困窮していないのだという。どうせ、死んでしまえばカネは国庫にでも取られてしまうのだろうから、生きている内に贅沢をするのだという。そんな調子の老人なので、リハビリに連れて行こうとタクシーを呼んでも、征次郎は「気分じゃない。運転手さん、どこか気分の晴れるようなところへやってくれ」と言って、勝手にリハビリをサボろうとする。タクシーの運転手も「そうですか? じゃ、お台場でもどうです?」なんて調子でちゃっかりしている。「行こう、行こう!」と征次郎が言うので、一日はそんな風に過ぎ去ってゆく。

征次郎が世話がかからないというのも本当であった。簡単な食事と掃除をすれば、それでよく、後は征次郎が話し相手を探しているときに話し相手になりさえすれば、そんなに問題は生じない。唯一の難点は入浴であった。浴槽に入る時にはどうしても他人の介助が必要となる。草介も征次郎の裸を目にした時に、そのキャラクターのバイタリティーは特殊であり、特異な老人に見えるが、裸はフツウの老いさらばえた老人である事を確認する。

そして征次郎が突拍子もない事を言い出す。何を言い出すのかと思えば、草介と重光さんが結婚してくれるのであれば、自分の有している全ての財産を二人に与えたいのだと言い出す。草介から連絡が行って、これには重光さんも巻き込んで大混乱になる。そうなのだ。重光さんは独身であった。征次郎は、独身の者同士、一緒になったらいいじゃないかという簡単な気持ちで、そんな事を言い出したに違いないと、草介と重光さんは電話やメールでやりとりをしながら、相談している。勿論、そんな要求は受け入れる事は断じて出来ないと二人は結論する。そもそも征次郎に幾らの財産があるのかも分からないのだ。草介と重光さんは揃って吉崎家を訪問して、二人は揃って断りの意向を伝え、そのようなワガママを言われては面倒を見切れないとも伝えた。

後日、再び征次郎が話があるからと二人を呼び出す。征次郎曰く「先日は無理な話を言って申し訳なかった。正直に言おう。私は、重光さんに恋をしている。しかし、もう81歳の老人であり、不能なんだ。だから私が重光さんと結婚できない代わりに、草介と結婚して欲しいと思ったんだ。無理を言って悪かった。では、条件を変えよう。私の見ている前で、重光さんと草介がセックスしてくれないか? そうすれば全財産を二人に譲る」。突拍子もない要求に、動揺し、怒るしかなくなる草介と重光さん。バカも休み休みに言え。どうしたら、そんなに無礼な事を言い出せるのか。そんな事を二人は主張しているが、征次郎の無茶苦茶な要求が、草介の重光さんとの関係性をヘンテコな方向へ導いていく。

征次郎に拠れば「重光さんは草介に好意を抱いている」という。推薦する時に「これこれこういう青年が居まして」と非常に熱心に推薦していたので、征次郎は「きっと、その草介という青年は好青年なのだろう」と感じ、そこから「重光さんは草介に好意を持っている」と直感したらしい。なので、重光さんに年甲斐もなく恋をしてしまった老人の欲求を叶えるには、重光さんに幸福になって欲しいというのが老境の願いであり、だから草介に対して「重光さんと結婚をしてくれ」や「セックスをしてくれ」と提案したのだという。もう、色々と交錯するのは分かりますやね。「こんな19歳も年上のおばさんとセックスだなんてとんでもない」と云えば、重光さんに対して問題発言になるし、重光さんからしても、幾ら独身だからといって、そんな扱いをされるのは不本意である。しかし。ここで、しかし、となってゆく。

重光さんは草介に好意を持っているというのはホントであった。19歳も年長だから男女としてどうのこうのなんてことを考えた事はない。むしろ、46歳女が27歳男に惚れているなんて事を認める事は彼女の自尊心を毀損しかねない。しかし、ホントは嘘であり、草介のアパートに行く前には、これから男性の一人暮らしのアパートへ行くのだと興奮する自分を冷静に沈めるなどしている。草介の方は、例のオシッコの音の一件がある。色気がある話ではないが、オシッコの音から草介は草介で「重光さんには恥じらいがないのだな。私の事を男として意識していないのだ。まぁ、介護業界に長いから、仕方がないのだけれども」と感じていた。

重光さんは動揺しながらも、同時に草介の性的プライドを傷つけないように気配りをしている。「そんなバカな要求をされても困ります!」と抗議する中で、それが表出する。こんな風に周囲の空気を意識して自分なりのプライドの中で生きて来たので恋愛とは無縁で、実は男性経験がない。もう恋愛とか結婚なんてどうでもいいと思っていたが、草介が自分をどんな風に認識しているのかには少し弱味も持っていた。やはり、女として認識されていた方が、やはり、嬉しいような気がするのだ。征次郎は無責任に、その重光さんのホンネを抉る。「あんたが草介を見る目は韓流スターを追い掛けているかのような調子だった」という具合の事も平気でズケズケという。半分ぐらいは当たっているので、動揺せざるを得ない。

草介も同様で、内心では年齢的に性的対象から外していたが、いざ、セックスの対象だの、婚姻の対象だのという視点を持ち出されてしまうと、重光さんを「女性」として見ざるを得なくなるのだ。草介に変化が起こる。頭の中では腹を立てている。しかし、一たび、重光さんとセックスする様子を想像してしまうとどうしようもなく性的興奮をおぼえてしまう。吉崎邸で怒って退散してきたその日の晩、草介は重光さんと裸で抱き合う様子を想像し、射精してしまう。

そんなトラブルのあってから数日後、吉崎征次郎は自殺を完遂する。財産があるなんて嘘であり、碌に財産と呼べるようなものは残していない。謎の老人・征次郎の本心が死亡によって明らかになる。吉崎は「ひょっとしたら、ある交通死亡事故に大きく関与していたかも知れない」という過去を抱え、罪に苦しみながら生きた人物であった。元々は証券マンをしており、或る晩、酔っ払っていい気分で深夜まで飲んでビジネスホテルまで歩いて帰ろうとした際、うっかり通りに足を踏み出してしまった。すると、その直前を猛スピードで走るクルマが急ブレーキをかけ、そのまま、横転した。征次郎は、自分が死者が出たであろう大きな交通事故の引き金になってしまったと直感し、裏通りを通ってビジネスホテルに戻り、このホテルでもアリバイ工作までに裏口の守衛に声を掛けて室内へ戻った。後に、その事故では3名の死者があった事を報道で知った。その事は征次郎の生涯の秘密であった。勿論、事故と征次郎との関係は判然としない。征次郎を目視して急ブレーキをかけて発生した事故だったようにも思えるが、そもそも猛スピードで走行していたクルマが操作を誤まって起こした事故とも言える。

しかし、その過去を持つ征次郎は、「草介という介護士の青年が些細な車椅子の転落事故を気に病んで辞めてしまった。しかし、その青年は非常にいい青年です」と重光さんが推薦していた事を気に留めていた。草介の〈植松のおばあちゃん〉への仕打ち、その後悔なり、贖罪なりを抱えている様子を自分自身の人生と重ねて見ていたらしい事が判明する。空也上人はここで関係してくる。「空也上人の木彫を見てみるがいい。空也上人が一緒に歩いてくれるような気がするものさ」。空也上人は、無数に転がっている無名の人たちの亡骸を埋葬した人物であり、あの口から針金が出ているという有名な木彫(もくちょう)は、針金の上に6つの何かが乗っており、あれば南無阿弥陀仏の6文字の念仏なのだという。

まぁ、バカで身勝手な老人が27歳の男性と、46歳の女性とを引っ掻き回す話なのですが、重厚なテーマでありながらタッチは軽妙であった。「目の前に吉崎の爺さん、脇にオレがあって、重光さんは、あんな風に言うけど、じゃ、一体全体、重光さんはオレをどう見ているんだ?」という内側の葛藤はユーモラスで、思わず含み笑いしてしまう要素を持っている。やはり、異性として意識してもらっていなければいないで、それも不満なのだ。

征次郎が草介を諭す口調は傲慢である。「君はイケメンという訳でもないだろうし、恋人がいるでもない」と言われれば草介はオモシロくない。しかし、「私に言わせれば年齢差なんてあんまり関係ない。若い人だって直ぐに老いてしまうものなのだ。よく考えて見ろ。重光さんはいい女じゃないか? あんたには分からんのか?」と言われると、そんな気もしてくる。いいように転がされてしまうものなのだ。また、無責任な征次郎の口からは次から次へと心をえぐる言葉が出てくる。「若い人にワガママな老人の世話をさせておくのは申し訳ないと感じるものだろう」という具合の指摘もある。

大いに振り回された二人であったが、その征次郎の通夜には草介が義理を立てて、独りで見守っている。民生委員や隣組の班長が義理でやってくるが、それらも義理である。最も親しくしていたとなると自分だからと草介が一人で通夜の晩をしているのだ。しばらくすると重光さんが「草介が心配だから」と、やってくる。「一人で大丈夫だから帰って下さい」と草介は言うが、重光さんは草介を放っておくことができない。本当は征次郎の指摘は図星であり、重光さんは草介に対して性的な好意も持っているのだ。重光さんからすれば、この年齢になって19歳も年下の男とそんな事は起こらないだろうと思っていたが草介は重光さんのブラウスを脱がしにかかる。すると、重光さんは「実は(男性)経験がない」と打ちあける――。


作品中には介護業界に係るの諸々が記されている。山田太一からすれば「車輪の一歩」の頃から付き合っているテーマでもあった。意図してか意図せずしてか「植松のおばあちゃん」の逸話が挿入されている。草介が故意に転がしたものだったという具合に描いている。それを征次郎や重光さんは「カッとなってしまうこともあるのも現実だよ」という具合に受け止めている。そればかりか無責任な発言が許される征次郎は「若い人に老人の下の世話をさせることにも抵抗がある」という具合のセリフも云わせている。至極当然の見解であるが、巷間、それを語ってはいけない事になっているのが現実であったりする。挙げ句、征次郎は自殺を敢行するという無責任さだ。しかし、それらは当代コンプライアンス意識というサングラスを外して読めば、至極、分かり易い人の死生観や人生観でもある。また、罪を犯して生きている事、また、その罪に怯えて生きている事、更には、秘密を秘密として保持しながら生きている事にも気付かせてくれる。ヘンテコな観点で、現代人は罪を認識している。おそらくは法令に反しているか否かが基準になってしまっており、本来的なエチカやヒューマニズムではないのだ。

ユーモラスな描写と表現しましたが、つまり、征次郎が「全財産を譲るから二人は私の前でセックスしてくれ」の箇所がある。この大胆な展開は野坂昭如の『エロ事師たち』にも通じるものがありますが、より直情的ではなく理性的な葛藤に重きが置かれていてユーモラスなのだ。とはいえ、これは昨今ではハラスメントになるので、そうした状況自体が生じないのでしょうけど、かつては、こうした微妙な空気というものはあったよなって思う。確かに対応に苦慮する。頑なに「あんな女と」や「あんな男となんて」のように否定しては、その対象の人を貶めることになってしまう。とはいえ、己の潔白を証明せんが為に様々な反応を取る。が、正答はない。

正答がある訳ではないが避けるべきワーストの展開はある。勿論、それは「あんなブスとなんて」とか「こっちにも選ぶ権利があるわ」等の罵り合いを展開させてしまう事だ。意外とこういう細部に人間性が表出するのも事実だ。自分が傷ついてしまったと怒るばかりで、その特定対象を傷つける事に鈍感な人間性なのか、飽くまで対象への敬意を失うことなく対応できるだけの人間性を持っているのかが露見してしまう。

私の場合は、或るカラオケスナックに通っていたら、そこに出身高校の近くの女子高出身の若いホステスさんが入ってきて、そのホステスさんから「先輩」と呼ばれる仲になっていた事があった。実際には別々の高校だし、学年的にも五学年ぐらい違ったのだけれども、そこの女子高とウチの高校の男子生徒は地理的な問題や偏差値レベルの問題などからも親近感があり、「先輩」、「後輩ちゃん」と呼び合うような関係性になっていた。とはいってもそこはキャバクラではなく、カラオケスナックなので、ガヤガヤと飲んで歌って食べて、という店であった。

が、あるとき、スケベな公務員の男性客があって、必死に、その「後輩ちゃん」をホテルに誘っているというシチュエーションに遭遇した。カウンター席に座っていた私はとばっちりを受ける羽目となった。そのスケベな客は、後輩ちゃんホステスが私の事を「先輩」と呼んでいる事に気付くと、「分かった。じゃあ、そっちの先輩も入れて、これから3Pしよう。3Pならいいでしょ? ねぇ、そっちの先輩も」と言い出したのだ。とばっちりが飛んできた、こちとら、溜まったもんじゃない。勿論、断ることになった訳ですが、それから数週間後に飲みに行って後輩ちゃんと話すことになると、小説に似たような状況になった。後輩ちゃん曰く「あのとき、先輩が、もし(3P)OKですよって答えちゃったらどうしようかと思ったよぉ」とニコニコした顔を言われたら、なんだか惜しいチャンスを逃してしまったかなと思案する事になった。もし、あのとき私が「いいよ」って言っていたら、この後輩ちゃんはどうする気だったんだろう? 「後輩ちゃん、後輩ちゃん」と性的なものを抜きにして可愛がっていたつもりであったが、一瞬にしてスケベな事を想像できるようになってしまったのだ。そんな経験があるので、そこら辺についての性意識なんてのは、結構、テキトーなものである、というのが真理のような気もするかなぁ。

因みに、この作品のタイトルで用いられている「空也上人」とは、つまり、なんのかんのって言ったって、究極的には、誰かを助けたくとも、その人に寄り添って歩くことぐらいしか出来ないものなのだよ――の意であった。

思いの外、アクセス数があったので追記します。

ラストシーンは、新宿駅東口付近を、車椅子を押している草介。車椅子に乗っているのは、かつての重光さんである。その車椅子を押して坂道を行く草介の隣には、空也上人がいる――。詳しい説明はないので、読み手の解釈になりますが、おそらく、草介は「重光さん」こと重光雅子と結婚し、歳月が流れた。テキパキと仕事をこなしていた雅子もいつの間にか認知症を発症して介護が必要になっており、草介は車椅子を押して新宿の坂道を歩いている――で、オシマイ。

因みに、山田太一には慎重が自分よりも19cmも高い女性と恋をする青年の小説も描いており、19という数字に何かしら山田太一の思い入れみたいなものがあるが、どんなに資料やエッセイ集を読んでも、そこについては全く見当がつかない。
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歌謡ポップスチャンネルにて、1983年3月に5週に亘ってフジテレビで放送されたという「ザ・スター〜ふりむけば聖子」を視聴。これは日本中に「聖子ちゃんブーム」を起こした頃の松田聖子さんによる完全単身企画番組。歌とディスクジョッキーを松田聖子のみで構成したというもの。構成は秋元康。

1983年って言われてもピンと来ないものですが、松田聖子デビュー3年目。「21歳になりました」と語っていたから、その頃という事になる。

やはり、凄いですねぇ。ホント、稀有なスターだったよなと感じ取れた。おそらく、「清く正しく美しく」がアイドルの条件であるというのは、この頃の〈松田聖子〉がつくってしまったものだったような気がする。だって、この聖子ちゃん以前になると「ピンクレディー」や「山口百恵」だった訳で、必ずしも「清純派アイドル」という像を持っていた訳ではないのだ。しかし、松田聖子たるや、その衣装も髪型も表情のつくり方というのが完璧であった。それを「ぶりっ子」と表現されたり、「アイドルは清く正しく美しくなくちゃね」という幻想をつくりだしたのではなかったかな。いやいや、少し遅れて松田聖子のライバルとして台頭した「中森明菜」や「小泉今日子」は、この「松田聖子」がつくり出してしまった「アイドルは清く正しく美しくあるべき」という像を少しだけ壊した事で成功したのだろうなって思う。で、もう、松田聖子以降になると、正真正銘の意味での〈正統派アイドル〉は登場しなくなっている。もう、真似できませんワ。

とあるテレビ番組の中で、ミッツ・マングローブさんが「聖子ちゃんは完璧なのよ。いつもアイキャッチという照明が目に入ることをしっかり理解して歌っていたのよ」と、証言していましたが、それに近い意味で、同じ事を思った。必ずしも、照明で目をキラキラと光らせることを意識している訳ではありませんでしたが、スタジオ歌唱なのにパフォーマンスは完璧。25曲ぐらいを視聴できたのだと思いますが、唯一、何故か「風は秋色」だけが口パクであった。何でだか理由は不明だ。疲れていたのかな。しかし、それ以外に披露したアルバム収録曲とか、例の愛くるしい笑顔に振りつけをつけて、あの伸びのあるボーカルで、当時のCBSソニーが揃えた楽曲陣の楽曲を次から次へと見事に歌いこなしていた。ああした清純派アイドルの完成されたパフォーマンスというのは、ありゃあ、子供から老人までが魅了されるような、何かであったと思う。飛び切りの美女というよりも、とにもかくにも「愛らしい」のだ。そういうパフォーマンスを完成させてしまってる。

全盛時の松田聖子の映像を記憶している人は思い出せるかも知れない。カワイイとしか表現しようのない正統派アイドル風の衣装であるが、ボーカルは伸びがあって耳に心地よい。かのサンミュージックの相沢社長も「伸びのあるボーカルが耳に心地よい」と表現していたと思いますが、まさしく、伸びのある長所は、愛らしい表現の中でいかんなく発揮されている。しかも、マンネリではなく、実は表現力もある。「小麦色のマーメイド」であれば、語りかける風の擦れ気味のボーカルで「♪ 好きよ 嫌いよ」と唄うが、ここで〈聖子ちゃん〉がどんな表情をしているかを思い浮かべる事が出来てしまうのではないか? こりゃあ、きっと仮に今どきの外国人が視たとしても「わぁ、カワイイ!」と感じると思いますよ。

その路線で争うのは無理だから、ツッパリ路線であるとか、脱清純派アイドル路線のアイドルになっていったという事ではなかったのかな。

また、秋元康企画なのか、第1回では田舎娘を演じて「明太子ジョッキー」というラジオ番組のディスクジョッキーをしたかと思えば、第2回ではアメリカ西海岸風のイメージで英語でディスクジョッキーを披露。第3回では「ぶりっ子聖子」を演じ、第4回では「セクシー聖子」、第5回がノーマル聖子の顔でトークもしていた。そのミニコーナーからは幾らかコメディエンヌの才能みたいなものを感じ取れたし、その人柄のようなものも垣間見えていた気もする。「ぶりっ子聖子」は貴重で、平時の松田聖子が「ぶりっ子をしている松田聖子」を演じているが、明らかに演じ分けられている。「セクシー聖子」は、真っ赤な少しだけアダルトな雰囲気なドレスで足組をして、とは言っても21歳の〈聖子ちゃん〉ですが、その挨拶として「今夜も眠れないでいるチェリーボーイのみんな」と呼び掛けて始まり、リクエスト葉書を読み上げるという設定では「ペンネーム、聖子の濡れたストッキングさんからの相談です」みたいな事もしゃべっているが、その辺り、思いの外、そつなくこなしている。「セクシー聖子」を演じ遂げた直後、笑いを堪えて引き攣り笑いをしているが、そんな様子もなんだか、おしゃまな女の子っぽくて、これまた微笑ましく好感を持ってしまう。最強ですなぁ。

よくよく考えてみると〈清純派アイドル〉は誤解して解釈されている気がする。「お色気」がゼロとは言わないが、ほぼほぼ「お色気」とは遠い。色気を優先させてしまうと清潔感がなくなってしまうが、清純派アイドルとは「清潔感があって可愛らしい」、なので老若男女、全方位的にウケたのでしょう。キャラクター的には意外とフツウっぽいところ、幾らか早口になってしゃべるところなど、むしろ、フツウっぽさが魅力的に映ったりするものだ。背伸びなんてしてませんな。意外とさっぱり系の顔立ちで、自分自身でも「色気では年下のアイドルに負けているので、これから成長して色気も出せればいいなと思っています。私の場合はカラッとしているので色気がないのだそうです」ぐらいの自己分析もしていたかな。でも、まぁ、そういう事を語る聖子ちゃんもカワイイよなってなる訳で。

現在でも「アイドル」を標榜する向きはあるのだと思いますが、現在ともなるグループにして歌とダンスをするというものになっており、21歳のアイドル歌手が真の意味で国民的アイドルになるという素地が既に失われている。そのプロモーション戦略として「国民的アイドル」を掲げる事は可能であっても、真の意味では、もう国民的アイドル歌手は登場しないだろうなって思う。今にして思えば、聖子の前に聖子なく聖子の後の聖子なし。アイドル歌手として括っているが、実質的には日本のテレビ史の最大級のスターであり、実は或る種の怪物だったのような気もする。


Jコムテレビで放送されている「柏原芳恵の喫茶☆歌謡界」では、往年の80年代アイドルとして松本典子、大沢逸美、芳本美代子、網浜直子、つちやかおり、酒井法子、西村知美、嶋大輔、松本明子、伊藤つかさらが続々と登場、ちらちらと視聴している。当時の裏話が披露されている。伊藤つかささんが「金八先生(武田鉄矢)は川上麻衣子ちゃんを好きだったのだと思う。いつも川上麻衣子ちゃんだけ贔屓していた」なんて話もあった。つちやかおりさんは「手紙を出そうと思ったけど少年隊はハードルが高いからシブがき隊にした」と語り、更にフックンと知り合ったが意気投合した理由は「二人とも同じ所ジョージさんのアルバムを持っていた事をキッカケに意気投合した」のだそうな。そりゃあ、確率論的に有り得ない奇遇だワなぁ。芳本美代子さんは「歌詞がおぼえられず、どの曲でも歌詞の歌い間違いが多く、実は収録現場では親衛隊の人たちに歌詞を教えてもらっていた」と明かし、網浜直子さんは「実は中山美穂さんが私の実家にバスで遊びに来ちゃった事があるんですよ。バスなんて乗ったことがないのに! バレたらあたしが叱られるぅぅぅと気が気がじゃなかった」とかね。それら80年代アイドル事情を思うと、その中でも「松田聖子」というのは、いかにも突き抜けた境遇のトップスターであったかという問題にも思いが到る。

ホントは「アイドル」(偶像)という概念そのものが虚像であり、途中から「アイドルと認識されてはダメで、アーティストとして認識されねばならない」に変質したという。しかし、そもそもという話があって、山口百恵はアイドルという括りで済む歌手だったのか、松田聖子はアイドルという括りで済む歌手だったのかという問題へなってゆく――。どちらも世に出る為に、或る種、アイドル的要素を必要として世に出るのですが、結局のところ、歌手として大成していく〈過程そのもの〉が、彼女たちの〈全盛期そのもの〉なのだ。そして正真正銘、〈時代のスター〉になると、その時代の象徴的存在にまでなってしまう。

また、正統が登場する事に拠って対抗軸ができる事を考慮すると、松田聖子が「聖子ちゃん」の愛称で体現してみせた「清純派アイドル」というのは、そう括るからそうなるだけの話であり、実際には全方位的に好感を抱かれる像を、彼女が持っていたという事でしかないと思う。仮にカワイコぶったとしても周囲からカワイイと認識されるかどうかは別問題であり、そうであるが故に様々な対立軸がつくられてゆく。とはいえ、どう考えても、おそらく現在でも、「アイドル」という言葉が持っているのは、フリルがついている衣装を着ていて清純そうに見える像であろうなと思う。おそらく、松田聖子さんあたりが、日本型のアイドルのカタチを清純派として究極形まで達成してしまったので、その後は崩していく、もしくはパロディ化していくしかなくなってしまったんじゃないかな。

「笑っていいとも」に出演していた桜田淳子さんがテレフォン・ショッキングのコーナーで、米歌手・マドンナの鍛えられたボディに触れていたのを記憶している。鍛えないといけないのかも知れませんね、触発されました的な。以降、結局のところ、どういうエンターテイメントも、米国エンタメ界の後追いになってゆく。おそらくは松田聖子さんも洋楽シーンの影響を受けていったと思う。裏返すと「アイドル文化」は非常に日本的なガラスパゴス現象であり、それはそれで極めれば良かったのかも知れませんが、以降、どんどん米国事情にも引っ張られてセックスアピールを強めていくのが歌姫であり、アーティストなのだという事なっている。その米国エンタメ事情というのも、実際にはブラックパワーの影響を受けており、ワイルドにしてセクシー路線でしょう。何故か、どんどん毒々しくなってきている気さえする。これみよがしに美の押し売りをする。

それらを考慮したとき、「わぁ、カワイイなぁ!」という清純派アイドルという像の割り込む余地は失われてしまったって事なのかもね。ああ、山口百恵さんは桜田淳子さんと「私たちは、つけ睫毛をつけるのはよそうね」ってお互いに話し合っていたらしい。その辺りに「清純派アイドル」の萌芽があった。それが希求していたのは「楚々とした美」だ。この【楚々】とは広辞苑で引くと「さっぱりとしたさま。あっさりしたさま」であり、同時に「清らかで美しいさま」である。押しつけがましさがなく、それでいて放っておけないような気にさせられてしまうという楚々とした魅力だ。逆に、毒々しいまでの色気を放つというのは肉感的なワイルドな色気なのだろうけど、どちらが上等なのかといえば、楚々とした美ではないのかなって気もするよ。「楚々とした美」が成立しなくなった後に、人は「毒々しい美」に向かうのであって。
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