結局は映像化されることのなかった山田太一の脚本『唐津湾夕景』は、中国残留孤児をテーマとして取り上げたものであった。中国残留孤児を取り上げた原作といえば山崎豊子の『大地の子』が最も有名である訳ですが小説『大地の子』の連載が始まったのが1987年であったのに対して、この脚本が掛かれたのは1975年だという。中国残留孤児団の来日は1981年で、その頃には大々的にテレビがニュースで取り上げていたのを記憶している。その後、中国残留孤児の日本帰国事業のようなものが始まって、「中国残留孤児」なる用語の記憶も薄れた頃に、思いもよらぬ形で、それを思い出す事になったのであった。これは、いつ頃であったかなぁ…、きっと90年代後半とか2000年代初頭頃だったのでしょうか、中国残留孤児、その子息たちが日本社会に溶け込めぬまま、反グレ集団、アウトロー集団となり、そちらの界隈で脅威になっていたという話であった。その話についてはテレビメディアなどは殆んど取り上げていないような気がする。2010年代頃になって、一橋文哉の犯罪ノンフィクションで詳細を知る事になり、愕然とした。
先述したように、実際に中国残留孤児団の訪日があったのが1981年であったのに対して、この「唐津湾夕景」は、それよりも6年も前に書かれていたという映画用のシナリオであるという事が、先ず、欠かせない前提条件となる。
結構、入り組んでいるストーリーなので、さらっと粗筋に触れると、以下のような粗筋である。
堀川大吾と静江の夫婦は、終戦時には満州に在った。その夫婦の間には亮介という3歳の男児があった。しかし、その亮介を子供を中国(満州)に置き去りにして帰国した。
少しだけ状況説明が必要になる。終戦のどさくさにソ連軍が南下を開始し、また、この頃の満州には当時の日本人が匪賊のように呼んでいた集団もあった。細かい事まで述べると、戦時下では日本国内から満州への移民政策も行なっており、軍隊だけではなく、一般的な日本人も満州に居住していた。しかし、終戦のどさくさになると、その民間人たちを置き去りにする形で軍隊は撤退してしまい、取り残された日本人の中には引き揚げようにも引き揚げようがないという問題に直面していた。ソ連軍や匪賊、更には日本人に不満を抱いていた人たちは日本人を襲撃、その際には虐殺や強姦の被害に遭った日本人も多かったらしいと考えられている。そんな状況だったので、我が子を置き去りにして日本へと帰国した人たちも相応に存在していた。そのような経緯で日本人が親であるが、そのまま、中国に置き去りされてしまった子供たちを「中国残留孤児」と呼んだ。
堀川大吾と静江の夫婦は、我が子を中国に置き去りにしてきたという過去を持っていたが、1970年代半ばまでには、千人規模の従業員を持つ工作機械の会社の社長と社長夫人になっていた。頑張って働いた事もあり、それなりに裕福な地位を築き、屋敷には住み込みの家政婦を雇い、出勤は運転手付きの生活をしている。子宝にも恵まれ、28歳の長男、26歳の長女、20歳の次男、15歳の次女がある。しかし、28歳の長男は「父親の会社なんて継ぎたくない」とばかりに家を出て飛行機のパイロットの仕事をしている。長女も結婚して家を出ていて、子育てに奮闘中。なので、次男の大学生と次女の中学生とが堀川邸に両親+家政婦という形で住んでいる。
大吾と静江には、子供たちに打ち明けていない秘密があった。それは真の長男で亮介の事についてであった。大吾と静江は、4人の子供たちには「お前たちには、本当はお兄さんがいた。しかし、不幸にも終戦のどさくさの頃に病気になり、死んでしまった」と伝えていた。しかし、本当は3歳の子を子供を欲しがっていた満州人に預ける事とし、帰国したというのが真実であった。
おそらく、1970年代半ば頃までには、ポツポツと「中国で育った日本人孤児」という問題が新聞やテレビで取り上げられるようになっていた。それが後に要約されて「中国残留孤児」という言葉が生まれた。大吾と静江は動揺していた。真の長男である亮介については、既に死んだ事として戦後をスタートさせてきた。そして現在の経済階層に辿り着いていた。「もしや、亮介が生きていて、日本に来たい、私たちに会いたいと思っていたら、どう応じるべきだろうか」と動揺していた。
そんな動揺を抱えていたところ、新聞に108名の中国残留孤児の顔写真と中国名、それと生年月日が掲載されていた。中国名にも【亮】という漢字が使用されていて、年齢も亮介と同一、置き去りにされた場所も夫妻の記憶と一致していた。間違いなく、自分たちが置き去りにしてきた亮介らしき人物のプロフィールが載っていた。夫の大吾は、連絡を取る事に慎重であったが、妻の静江は新聞社や関係省庁に連絡をとり、手紙のやり取りを始める。3歳の時に満州に置き去りにしてきた亮介は、もう、35歳になっていたが、それでも両親に会いたいという希望を持っていた。既に中国で国籍を取得しているので日本に帰化する意向はなく、近々、中国で中国人として結婚もする予定であるという。
夫婦は決断する。我が子たちに説明する。
「お前たちには、お兄さんがいたが死んでしまったと言ってきた。亮介だ。しかし、本当はやむにやまれぬ理由があって置き去りにしてきた。その亮介が日本に来たいと言っているので、この邸宅で歓待してやりたいと思っている。既に亮介は、中国国籍を取得しており、中国人として生きていく意向で、来年には結婚する事も決まっているという。日本に滞在するに当たっては当屋敷に滞在する予定である」
子供たちの反応は意外であった。15歳の女子中学生、20歳の大学生は、なんの屈託もなく、その中国で育ったという兄・亮介の訪日を喜んだ。二人して、亮介が滞在できるように空き部屋を片付け、掃除までしている。中国からやってくる、35歳だという兄を歓迎する気満々である。既にマンションで子育て奮闘中の長女や、家を飛び出して商業パイロットになっている長男は、下の子たちほどではないが拒絶反応はない。
斯くして、大吾・静江夫妻が中国に置き去りにしてきた亮介が、堀川家にやってくる。亮介は片言の日本語が話せるが、習って身に着けた日本語なので話す言葉は丁寧語である。礼儀正しい。しかし、家族なのだから、もっと打ち解けた日本語を使って欲しいと思っている。
次女は中学生である。受験前であるがロック(グループサウンズ)のコンサートに出掛け、勉強は後回しというタイプである。部屋にはアラン・ドロンのポスターを貼っているという設定である。大学生の兄が妹の部屋へ入ってくる。本棚には明星、平凡といった芸能雑誌が並んでいる。大学生の兄は明星や平凡をパラパラと捲りながら、言い放つ。
「亮介兄さんを見て思ったんだけど、ちゃんとしているよなぁ…。ホントに、ちゃんとしている。白いごはんを食べられないような厳しい経済環境の中で幼い頃から農作業を手伝ってコウリャンなんてものを食べてきたといっている。滅多に、白いごはんなんて食べられないって。それに比べたら、僕たちの生活は怠惰がすぎんじゃないか? こうして一人に一人に部屋もあてがわれている。こんなところにはアラン・ドロンのポスターなんて貼ってある。亮介兄さんが見たら何て思うか…。剥がせ、剥がせっ」
「そうよね」といって、次女は自らベッドの脇に貼ってあるアラン・ドロンのポスターを剥がしにかかる。【グループサウンズ】に【アラン・ドロン】、【プレスリー】といったワードに年代を感じるが、そういう時代に書かれたシナリオなのだ。
この兄妹は、35歳になっているという中国育ちの兄に遭って、自分たちがちゃんとしてない事に気付く。そういう設定なのだ。
次男「中国だぞ、人民公社から来たんだぞ。一粒の食糧は一滴の汗ってよ。真面目に働いて、米一粒だって大事にしている国から来て、このバカバカしい贅沢をみたら、どう思うと思うんだ」
当時の日本人の中国人観のようなものも読み取れそうだ。
次男「びっくりしたでしょ? 中国の娘さんに比べて、贅沢で、怠け者で」
次女「そんなに言わないで」
亮介「(苦笑して)いい部屋じゃありませんか。はがすことなかったのに」
次男「ハハ、そういうとこが泣かせんだよな、な」
亮介がしっかりしている事に堀川家の人たちは安堵し、歓待する。次男と次女は、すっかり亮介になついてしまい、東京案内をしたり、富士五湖の方まで案内したり、サービス満点の接待をしてみせる。しかし、大吾はというと経営している会社が経営危機に瀕している事もあり、あまり、家に居られない。そして静江の方はというと、子供たちのように亮介との距離を縮められないでいる。
静江には、まだ秘密があったのだ。子供たちには、大吾の決断によって子供を欲しがっていた満州人に亮介を預けたと説明している。しかし、違うのだ。その頃の大吾は兵役についていた。亮介を置き去りにするという決断をしたのは夫婦でもなく大吾でもなく、静江の決断だったのだ。しかし、その事を静江は言い出せないでいる。言い出せないでいるから、亮介との距離も縮められないのだ。本当の事を言って、謝罪したい。わがかまりを抱えている限り、どうしても32年前に置き去りにしてきた亮介と向き合えないでいる。
亮介の滞在期間は約1ヶ月間であり、亮介が堀川家に居られる時間もどんどん減ってきている。残り日数は一週間と迫って来くると、すっかり亮介になついている次男と次女は「亮介兄さんが帰ってしまう前に、もっともっと旅行をしようよ」等と、はしゃいでいる。しかし、それを亮介の方がやんわりと拒否する。「中国に戻ってしまったら、当分は日本には来られません。結婚して子供が生まれて、少し生活が安定したら家族を連れて来られないかも知れませんが、それだって、いつの事になるか分かりません。だから旅行ではなく、この家にゆっくり滞在させてもらい、家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいです」。
亮介の帰国予定日がどんどん迫ってくる。その中で、静江が決断する。本当の事を言うのだ。本当の事を言って、謝っておきたいのだという自分の気持ちと向き合う。今、打ち明けなかったら、一生、打ち明ける機会を失ってしまう――と。
本当は、病気になってしまった事もあり、苦しくて苦しくて、とても我が子を連れて逃げられる事は無理だと感じた。だから3歳だった亮介を置き去りにして逃げるという決断をした。とある農道で、3歳の我が子が、満州人の老夫婦に預け、立ち去ろうとした。立ち去ろうとしたとき、3歳であった亮介は「お母さん、お母さん」と叫びながら静江を追い掛けて来た。その亮介を振り切るようにして日本に帰って来たのだ――そう、打ち明けた。
その話を聞いて亮介も受け止めた。亮介は亮介の方で、実は置きざれた瞬間についての記憶があったのだ。「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら農道を追い掛けていった、その記憶を持っていた。なので、「打ち明けられて、私の方もすっきりました。私も、その部分が、わだかまりになっていた」――と。
大吾が補足する。実は日本に帰国した後、静江は自殺未遂を図っていた。幸い一命をとりとめたが、自殺未遂を図った理由は、亮介を置き去りにしてきたという罪悪感と結び付いていた。引き揚げてきた母親の中には、しっかりと三人の子供を抱っこにおんぶしてきた者もあった。それと比べると、静江は自分を責めずにいられず、静江は53歳となった今まで、ずっと苦しんできたのだという。
静江が自殺未遂を図ったのは唐津湾であった。中国から日本へと帰国したのが唐津湾であり、唐津湾は中国と繋がっているような気がしたのだという。
その話が明らかになると、商業パイロットをしている長男の出番となった。飛行機で唐津湾上空まで、大吾・静江と亮介とを搭乗させ、飛行できると言い出す。その飛行機が美しい唐津湾夕景の中を飛行して終幕となる。
結構、夢中になって読んでしまった。
先述したように、実際に中国残留孤児団の訪日があったのが1981年であったのに対して、この「唐津湾夕景」は、それよりも6年も前に書かれていたという映画用のシナリオであるという事が、先ず、欠かせない前提条件となる。
結構、入り組んでいるストーリーなので、さらっと粗筋に触れると、以下のような粗筋である。
堀川大吾と静江の夫婦は、終戦時には満州に在った。その夫婦の間には亮介という3歳の男児があった。しかし、その亮介を子供を中国(満州)に置き去りにして帰国した。
少しだけ状況説明が必要になる。終戦のどさくさにソ連軍が南下を開始し、また、この頃の満州には当時の日本人が匪賊のように呼んでいた集団もあった。細かい事まで述べると、戦時下では日本国内から満州への移民政策も行なっており、軍隊だけではなく、一般的な日本人も満州に居住していた。しかし、終戦のどさくさになると、その民間人たちを置き去りにする形で軍隊は撤退してしまい、取り残された日本人の中には引き揚げようにも引き揚げようがないという問題に直面していた。ソ連軍や匪賊、更には日本人に不満を抱いていた人たちは日本人を襲撃、その際には虐殺や強姦の被害に遭った日本人も多かったらしいと考えられている。そんな状況だったので、我が子を置き去りにして日本へと帰国した人たちも相応に存在していた。そのような経緯で日本人が親であるが、そのまま、中国に置き去りされてしまった子供たちを「中国残留孤児」と呼んだ。
堀川大吾と静江の夫婦は、我が子を中国に置き去りにしてきたという過去を持っていたが、1970年代半ばまでには、千人規模の従業員を持つ工作機械の会社の社長と社長夫人になっていた。頑張って働いた事もあり、それなりに裕福な地位を築き、屋敷には住み込みの家政婦を雇い、出勤は運転手付きの生活をしている。子宝にも恵まれ、28歳の長男、26歳の長女、20歳の次男、15歳の次女がある。しかし、28歳の長男は「父親の会社なんて継ぎたくない」とばかりに家を出て飛行機のパイロットの仕事をしている。長女も結婚して家を出ていて、子育てに奮闘中。なので、次男の大学生と次女の中学生とが堀川邸に両親+家政婦という形で住んでいる。
大吾と静江には、子供たちに打ち明けていない秘密があった。それは真の長男で亮介の事についてであった。大吾と静江は、4人の子供たちには「お前たちには、本当はお兄さんがいた。しかし、不幸にも終戦のどさくさの頃に病気になり、死んでしまった」と伝えていた。しかし、本当は3歳の子を子供を欲しがっていた満州人に預ける事とし、帰国したというのが真実であった。
おそらく、1970年代半ば頃までには、ポツポツと「中国で育った日本人孤児」という問題が新聞やテレビで取り上げられるようになっていた。それが後に要約されて「中国残留孤児」という言葉が生まれた。大吾と静江は動揺していた。真の長男である亮介については、既に死んだ事として戦後をスタートさせてきた。そして現在の経済階層に辿り着いていた。「もしや、亮介が生きていて、日本に来たい、私たちに会いたいと思っていたら、どう応じるべきだろうか」と動揺していた。
そんな動揺を抱えていたところ、新聞に108名の中国残留孤児の顔写真と中国名、それと生年月日が掲載されていた。中国名にも【亮】という漢字が使用されていて、年齢も亮介と同一、置き去りにされた場所も夫妻の記憶と一致していた。間違いなく、自分たちが置き去りにしてきた亮介らしき人物のプロフィールが載っていた。夫の大吾は、連絡を取る事に慎重であったが、妻の静江は新聞社や関係省庁に連絡をとり、手紙のやり取りを始める。3歳の時に満州に置き去りにしてきた亮介は、もう、35歳になっていたが、それでも両親に会いたいという希望を持っていた。既に中国で国籍を取得しているので日本に帰化する意向はなく、近々、中国で中国人として結婚もする予定であるという。
夫婦は決断する。我が子たちに説明する。
「お前たちには、お兄さんがいたが死んでしまったと言ってきた。亮介だ。しかし、本当はやむにやまれぬ理由があって置き去りにしてきた。その亮介が日本に来たいと言っているので、この邸宅で歓待してやりたいと思っている。既に亮介は、中国国籍を取得しており、中国人として生きていく意向で、来年には結婚する事も決まっているという。日本に滞在するに当たっては当屋敷に滞在する予定である」
子供たちの反応は意外であった。15歳の女子中学生、20歳の大学生は、なんの屈託もなく、その中国で育ったという兄・亮介の訪日を喜んだ。二人して、亮介が滞在できるように空き部屋を片付け、掃除までしている。中国からやってくる、35歳だという兄を歓迎する気満々である。既にマンションで子育て奮闘中の長女や、家を飛び出して商業パイロットになっている長男は、下の子たちほどではないが拒絶反応はない。
斯くして、大吾・静江夫妻が中国に置き去りにしてきた亮介が、堀川家にやってくる。亮介は片言の日本語が話せるが、習って身に着けた日本語なので話す言葉は丁寧語である。礼儀正しい。しかし、家族なのだから、もっと打ち解けた日本語を使って欲しいと思っている。
次女は中学生である。受験前であるがロック(グループサウンズ)のコンサートに出掛け、勉強は後回しというタイプである。部屋にはアラン・ドロンのポスターを貼っているという設定である。大学生の兄が妹の部屋へ入ってくる。本棚には明星、平凡といった芸能雑誌が並んでいる。大学生の兄は明星や平凡をパラパラと捲りながら、言い放つ。
「亮介兄さんを見て思ったんだけど、ちゃんとしているよなぁ…。ホントに、ちゃんとしている。白いごはんを食べられないような厳しい経済環境の中で幼い頃から農作業を手伝ってコウリャンなんてものを食べてきたといっている。滅多に、白いごはんなんて食べられないって。それに比べたら、僕たちの生活は怠惰がすぎんじゃないか? こうして一人に一人に部屋もあてがわれている。こんなところにはアラン・ドロンのポスターなんて貼ってある。亮介兄さんが見たら何て思うか…。剥がせ、剥がせっ」
「そうよね」といって、次女は自らベッドの脇に貼ってあるアラン・ドロンのポスターを剥がしにかかる。【グループサウンズ】に【アラン・ドロン】、【プレスリー】といったワードに年代を感じるが、そういう時代に書かれたシナリオなのだ。
この兄妹は、35歳になっているという中国育ちの兄に遭って、自分たちがちゃんとしてない事に気付く。そういう設定なのだ。
次男「中国だぞ、人民公社から来たんだぞ。一粒の食糧は一滴の汗ってよ。真面目に働いて、米一粒だって大事にしている国から来て、このバカバカしい贅沢をみたら、どう思うと思うんだ」
当時の日本人の中国人観のようなものも読み取れそうだ。
次男「びっくりしたでしょ? 中国の娘さんに比べて、贅沢で、怠け者で」
次女「そんなに言わないで」
亮介「(苦笑して)いい部屋じゃありませんか。はがすことなかったのに」
次男「ハハ、そういうとこが泣かせんだよな、な」
亮介がしっかりしている事に堀川家の人たちは安堵し、歓待する。次男と次女は、すっかり亮介になついてしまい、東京案内をしたり、富士五湖の方まで案内したり、サービス満点の接待をしてみせる。しかし、大吾はというと経営している会社が経営危機に瀕している事もあり、あまり、家に居られない。そして静江の方はというと、子供たちのように亮介との距離を縮められないでいる。
静江には、まだ秘密があったのだ。子供たちには、大吾の決断によって子供を欲しがっていた満州人に亮介を預けたと説明している。しかし、違うのだ。その頃の大吾は兵役についていた。亮介を置き去りにするという決断をしたのは夫婦でもなく大吾でもなく、静江の決断だったのだ。しかし、その事を静江は言い出せないでいる。言い出せないでいるから、亮介との距離も縮められないのだ。本当の事を言って、謝罪したい。わがかまりを抱えている限り、どうしても32年前に置き去りにしてきた亮介と向き合えないでいる。
亮介の滞在期間は約1ヶ月間であり、亮介が堀川家に居られる時間もどんどん減ってきている。残り日数は一週間と迫って来くると、すっかり亮介になついている次男と次女は「亮介兄さんが帰ってしまう前に、もっともっと旅行をしようよ」等と、はしゃいでいる。しかし、それを亮介の方がやんわりと拒否する。「中国に戻ってしまったら、当分は日本には来られません。結婚して子供が生まれて、少し生活が安定したら家族を連れて来られないかも知れませんが、それだって、いつの事になるか分かりません。だから旅行ではなく、この家にゆっくり滞在させてもらい、家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいです」。
亮介の帰国予定日がどんどん迫ってくる。その中で、静江が決断する。本当の事を言うのだ。本当の事を言って、謝っておきたいのだという自分の気持ちと向き合う。今、打ち明けなかったら、一生、打ち明ける機会を失ってしまう――と。
本当は、病気になってしまった事もあり、苦しくて苦しくて、とても我が子を連れて逃げられる事は無理だと感じた。だから3歳だった亮介を置き去りにして逃げるという決断をした。とある農道で、3歳の我が子が、満州人の老夫婦に預け、立ち去ろうとした。立ち去ろうとしたとき、3歳であった亮介は「お母さん、お母さん」と叫びながら静江を追い掛けて来た。その亮介を振り切るようにして日本に帰って来たのだ――そう、打ち明けた。
その話を聞いて亮介も受け止めた。亮介は亮介の方で、実は置きざれた瞬間についての記憶があったのだ。「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら農道を追い掛けていった、その記憶を持っていた。なので、「打ち明けられて、私の方もすっきりました。私も、その部分が、わだかまりになっていた」――と。
大吾が補足する。実は日本に帰国した後、静江は自殺未遂を図っていた。幸い一命をとりとめたが、自殺未遂を図った理由は、亮介を置き去りにしてきたという罪悪感と結び付いていた。引き揚げてきた母親の中には、しっかりと三人の子供を抱っこにおんぶしてきた者もあった。それと比べると、静江は自分を責めずにいられず、静江は53歳となった今まで、ずっと苦しんできたのだという。
静江が自殺未遂を図ったのは唐津湾であった。中国から日本へと帰国したのが唐津湾であり、唐津湾は中国と繋がっているような気がしたのだという。
その話が明らかになると、商業パイロットをしている長男の出番となった。飛行機で唐津湾上空まで、大吾・静江と亮介とを搭乗させ、飛行できると言い出す。その飛行機が美しい唐津湾夕景の中を飛行して終幕となる。
結構、夢中になって読んでしまった。