どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: DVD鑑賞記

ひょっとしたら日本映画は、韓流にも華流にもアニメを別として追いつかれた、追い越されたのではないかという気がしていたんですね。うーん、なんていえばいいのかな、ちょっと実写版の映画というのは難しい部分があって、文芸作品的な要素、それを残しながら評価を得ようとすれば、自ずと綿矢りささん原作風のものを描く事になり、或る意味では「さすが」という評価を勝ち取れるものの、そうなってしまうとATGがそうであったように、「日本映画って暗いし、青春の懊悩だとか挫折だとか、イマイチ、分かり難くないか?」と、中途半端にアングラ扱いされてしまいかねない訳ですよね。それこそ、寺山修司があたりが高く評価されていた時代であれば兎も角、現在ともなると、そうではない。しかし、どうも日本映画専門チャンネルを視聴していると、昨今、そういう傾向にあると思う。

最果タヒ原作の「夜空はいつも最高密度の青色だ」、綿矢りさ原作の「勝手にふるえてろ」などは応分に評価すべきであるが、やはり、エンターテイメント性という部分では、やっぱり、物足りないじゃないかと感じてしまうのが、ワガママな観覧者、視聴者の率直な感想であろうと思う。相応に出来ている作品であるが歳月が経過してゆく中で、やはり、マイナーな作品として認識されていくのでしょう。

そんな中、「コンフィデンスマンJP」は非常に面白かったなぁ…という感想を抱きました。ようやく、世に出ている作品の全作品を視聴し終えたところですが、これは韓流にも華流にも負けていないよなぁ…と。やはり、長澤まさみさんのコメディエンヌとしての開眼は痛感させられました。長澤さん演じる「ダー子」というキャラクターが非常に立っていて、魅力的なんですね。しかも、笑わせる。優香さんが志村けんさんとの共演で演じていた優香姫も見事でしたが、あれ以来の衝撃ですかねぇ。「可笑しい」という演技、喜劇を演じられるってのは、ホントは演者の実力なんでしょうねぇ。思い切りよく演じているというのもありますが、物凄い微妙な空気、ダー子がスベったときの演技であるとか能天気なときのダー子の演技であるとか、もう、名実ともに長澤まさみって女優さんは頂点に立ってるなぁ…と痛感させられました。

また、長澤さんについてですが、「ガンジス河でバタフライ」なる中京テレビか何かが製作した映像作品も正月に視聴しました。要は、就職面談でPRできる事がないので、「ガンジス河でバタフライしてきました!」とぶち上げてしまい、そう言った後に本当にインドへ旅行し、ガンジス河でバタフライをするという作品。まぁ、こちらの作品でも存在感は充分でしたが、やはり、コンフィデンスマンJPのダー子でこそ、という、そういう安心感がある。

長澤まさみさん、東出昌大さん、小日向文世さんのトリオの組み合わせが面白く、且つ、馴染んできていただけに、東出さんの不倫スキャンダルは無かった事にして頂きたいなぁ。東出さん演じる「ボクちゃん」というキャラクターは、その名の通り、「ボクちゃん」な、ドライに徹し切れない悩める青年であり、そうであるが故に脱線気味の女詐欺師・ダー子との組み合わせの妙になっている。

「世の中、カネよ! カネが全てなのよ! わっはっはっ」というダー子の現金主義に対して、ボクちゃんの「もう、いいっ! 僕は今回こそ、詐欺師を辞めるっ!」とカネなのかカネ以外に生きる道があるに違いないという、その両者の対立しながらのコンビってのは、絶妙ですねぇ。

テレビドラマシリーズでも、そこそこ、面白かったですかねぇ。シナリオがいい、着想がいい。何が真実で、何が真実じゃないのか、それをテーマにした詐欺師のドラマ。人々が群がっている化粧水は本当に効果があるのか? そこにホントにシュリーマンもビックリの古代遺跡が眠っているのか? その絵画の価値は本物か? どれもワクワクさせられてしまう。化粧水の話は、第8話か、あれは傑作だったと思う。ゲストの「りょう」さんが美のカリスマ社長を演じた回でしたが、2回も視聴してしまった。あとは、第3話の美術商編で、これは石黒賢さんがゲストで、あの「目利き」の世界の舞台裏に詐欺師集団が食い込んでいる。どちらも、本当に、そんなに価値があるものなの? ――という世界だ。

その他にテレビ特番で「運勢編」があって、映画として「ロマンス編」と「プリンセス編」がある。これもそれぞれ面白かったですかねぇ。運勢編ってのは、要は占いというものは信じるに値するのかどうかという問題がテーマであり、シナリオとしては最も関心するようなシナリオで楽しめました。先に最新作の「プリンセス編」を並べると、これも相応に楽しめたのかな。

ですが、私が思うに最高傑作は「ロマンス編」でした。しかも、これは、辻褄合わせではなくて、それが面白かった理由は、三浦春馬さん演じる「ジェシー」と、竹内結子さん演じる氷姫の異名を持つ香港財閥の女帝「ラン・リウ」が凄かったんですよねぇ。おそらく、長澤まさみさんと、竹内結子さんと、三浦春馬さんは、それぞれの個性的な役柄を、競い合うように演じていたのではないだろか。代役は不可能だろうなって思わせるパーフェクトっぷり。辻褄合わせではなくて、ホントに、作品を視れば、それが伝わってくると思う。三浦春馬演じるどんな女でも陥落させてしまう完全無欠な天才結婚詐欺師によって、ついにダー子もダマされてカネを巻き上げられたのか等々、ドラマ展開も、さっぱり分からなかったので非常に緊張感がありました。三浦春馬さんの演じる天才結婚詐欺師という役柄の、行き過ぎたカッコ良さ、その演技は器用だなぁ…と感嘆の一語。そして「氷姫」の異名を持つ女帝は、如何なる人物像なのか興味を惹かれ、その氷姫を竹内結子さんが、これ以上はないだろうという具合の凄い迫力で演じていた。なので、これは終始、わくわくしながらの視聴でしたかね。もう、ちゃんと見せ場がきて、その見せ場で見せ場をつくるあたり、すんごい女優さんでしたね。

シナリオも面白味もあったのだと思いますが、それをキャスティングが、それ以上のいい化学反応をしてしまったという感じ。さすがに、こういうクオリティーのコメディは、韓流にも華流にも勝っているのではないかな――と。☆☆☆☆☆

はぁ…。世の中というのは、こういうものなのかな。藤圭子さんのデビューアルバムを耳にした五木寛之が「この人は命を削りながら歌っている」と評したらしいけど…。



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日本映画専門チャンネルにて「アイドル黄金期特集」とやらで、菊池桃子さんの映画デビュー作である「パンツの穴」が放送されていたものを、5分ほど遅れて視聴。うわぁ…、なんて、しょうもない映画なんだろう、こりゃ、とてもじゃないけど視ていられないぞ、という感じ。

うーん、特に菊池桃子さんのファンではなかったけど、非常に分かり易いアイドル雑誌のBOMBであったか、兎に角、「パンツの穴」という投稿コーナーがあって、絶望的にしょうもない投稿コーナーでありながら、途中から「パンツの穴文学」みたいな言葉が登場してきて、そのまんま、菊池桃子さんのスクリーンデビュー作になっただったか、そういう記憶を辿りながらの視聴となりました。

あれ、この演者は誰だっただろう? そういうノリですね。「ああ、山本陽一ってんだったか」とか「矢野有美? ああ、そういえば…」と、懐かしみながらの視聴でした。

序盤も中盤も、ちょっと、正直、きつい内容ですかねぇ…。確かに当時、話題になったパンツの穴文学なのですが、映像化して笑えるのか、ニヤっとなるのかというと、ならない。山本陽一さんは、織田裕二に似ていたんだな、なんて思うものの、ちょっとマスターベーションの七変化などを演じさせるには年齢的に若すぎて、なんだか気の毒になってしまう。矢野有美さんってのは、名前を完全にど忘れしていましたが、なんとなく記憶に残っている。菊池桃子さんが、かなり童顔のアイドルだったのに対して、少し大人っぽい感じ。

しかし、もう視聴の限界だなという頃に、ちょっとしたツボがありました。仮に、自分自身が映画監督をする事はないだろうけど、これこれ、こういう企画で映画を撮るんで、よろしくって持ち掛けられたら絶対に断るであろう、そういう企画なんですよねぇ。それなのに、この「パンツの穴」は、鈴木則文監督になっている。その意味が分かるかのような、バカバカしさ全快となり、思わず吹き出してしまった。そうそう、中学生のバカさって、それなんだよってね。

高校生の不良グループと、その中学生たちは決闘をする羽目になるが、なんと、そこに肥桶を持って主人公のムキンポが登場。ウンコを水で薄めた堆肥の投げ合い合戦へ。うーん、これは日本映画史上でも屈指の「おバカシーン」であったような気がする。いやいや、ビートたけしさんの「抱いた腰がCHA-CHA-CHA」のPVのバカバカしさを語るのであれば、こっちの方がバカバカしさでは上でしょう。しかも、これ、演じている人たちも興味深くて、現在は小泉今日子さんと結婚された豊原功輔さんが実はツッパリ高校生役で実はカッコいい。豊原功輔演じる高校生不良グループに標的にされてしまったムキンポ君がピンチだぜって、やるしかねえぞって立ち上がって決闘に臨む中学生番長・田中浩二さん、懐かしいし、やはり、カッコ良かったですな。あんなに長身だったんだ。で、そうして、おいおい、この映画、どういう方向へ進むんだよっていうタイミングで、肥桶が登場、そのまんま、壮絶なウンコ投げ合い合戦になるバカバカしさというは見事。バカバカしさという意味で日本映画の金字塔かも。

このテの青春映画は、井筒和幸監督が得意にしていますが、鈴木則文監督も撮ってたんだと感心。うーん、この監督が、こういうB級作品は筋金入りであり、スケバン映画シリーズなどしても、底抜けにバカな事を映像化している。

で、絶対に難しいであろうと思っていたパンツの穴文学の世界が、終盤に少しだけ、上手に描かれてたような気もする。中学生達が主人公ですが、パーティーをやるというので母親が息子に恥をかかせまいと瓶ビールを出してしまうシーンがあったり、現在のコンプライアンス意識からするとアウトの描写も多いのですが、これが80年代の中学生を取り巻く環境であったかも知れない。いやいや、制服姿で友人の家に遊びに行っても、結構、ちょっとだけならいいんじゃないのってビールとか御馳走されてしまった時代でもあるのだ。(その家庭環境にも依りますが、結構、酒、タバコについては寛容な空気があった。)また、初デートに漕ぎつけた山本陽一&菊池桃子のカップルが原宿の歩道橋の上で喫煙するフリをして、シガーチョコを咥えるというシーンもあったかな。当時の世相を思い起こすにはナイスな映画かも。

で、絶対に難しいであろうと思っていたパンツの穴文学の世界が、終盤に少しだけ、上手に描かれてたような気もする。下着を盗むとか中学生なりの変態を妄想する世界ですが、ドッと笑わせておきながら、立て続けに「ああ、そうなったの…」としんみりさせる妙があった。これは似た路線を狙って中学生の性妄想を真正面から取り扱った「中学生円山」という映画がありましたが、これは酷かったなぁ…という感想がある。変態をまるで誇っているかのような、そっちへ行ってしまっているので視聴するのが苦痛でした。こっぱずかしさが伴っているのが、この中学生の青い性なのに、こっぱずかしさを無視して変態礼讃までやってしまうと鼻白む感覚がある。「パンツの穴文学」というのは、当時のラジオの投書コーナーのような、ノリであり、ほろ苦いバカな失敗談として描いている事で笑える。ゼッタイに、好きなコの前が恥をかきたくないし、かくわけにはいかない、そういう今にして思えば微笑ましいバカさ加減が妙なのであって。そのあたりをキッチリと映像作品にしてある事に驚きましたかね。鈴木則文監督の残したシゴトは、こういうバカバカしさで改めて評価されるのかもなぁ…。

出演陣は他に、服部まこ、井川比佐志、春川ますみ、土屋早苗、清水章吾、島田洋七、たこ八郎、上田馬之助ほか。

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原一男監督の「れいわ一揆」を視聴。242分。

2019年の夏に起こった「れいわ新選組」の快進撃を密着取材していたというドキュメンタリー作品でした。中心的に描かれているのは「女装」ではなく、「女性装」をする安富歩(やすとみあゆみ)氏を追ったものですが、れいわ新選組の快進撃についても丁寧に映像作品化してある。

記憶にありますかねぇ、これって。思いの外、れいわ新選組のパフォーマンスに人が集まったが、何故かテレビと新聞といった、いわゆるマスメディアは、その現象について報道しなかったという不可解が起こった。映像では、確かに投票日の2日前あたりの映像では、かなりの聴衆がひしめき合っているのが確認できる。ところがマスメディアは、それらの様子を殆んど報じなかった。それでいながら、れいわ新選組から当選した重度障害のある議員2名の初登院には民放各局のワイドショウのテレビカメラが殺到した――。

同作では、諸々を映像で確認できる。れいわ新選組の会合には、女優の木内みどり氏、作家の島田正彦氏、脳科学者の茂木健一郎氏なども顔を出しており、相応の人出と盛り上がりが確認できる。しかし、何故か大手メディアは不自然に、れいわ新選組の選挙運動の盛り上がりを無視した。もしかしたら、強烈な公明党及び山口那津男党首に対しての辛辣な批判の演説シーンがあったからかとか、色々と詮索できるのかな。やはり、当初、無名の10人の候補を用意して、そのムーブメントが始まった訳ですが、私の視聴した感想からすると、火が付いたのは、公明党批判と関係している気がする。公明党と創価学会の意見の食い違いはあっただろうし、ネトウヨ的な言説に支えられていた当時の安倍政権を公明党がアシストしている状態というのは、傍からしても異常事態でしたしねぇ。潜在的に創価学会の人たちの公明党への不満、その不満が顕わになった事で、街頭演説は盛り上がるような空気になったのではないのかな。

しかも興味深い事に、このれいわ新選組の快進撃では、一見すると、「はて、何者なんだい?」という具合にしか映らなかった候補者たちが、徐々に潜在能力を開花させてゆく。どこから発掘してきたんだろうって思うような演説巧者というべきかアジテーション巧者というべきか、そういう候補も。

原一男監督が当初から取材したいと考えていた人物が、安富歩氏だったらしく、女性装で馬を引いて遊説する東京大学のセンセイで、カメラがずーっと追っている訳ですが、徐々に、その主張が現われてくる。楽器を演奏しながら馬を引いて歩きながらの選挙運動、しかも傍からすれば女装している男性である訳で、まぁ、常識的には敬遠しがちな、そういう人物なのだ。(安富氏いわく、男性が女性の衣装を着るのが【女装】の概念であるが、そうではなく女性でも男性でもどっちでもいいじゃないかという心持ちで女装をしているのだから、それと分別する意味で【女性装】と主張しているらしい。)

「記号論によってできている社会は、動物であるニンゲンには向いていない。人間が住む場所は、つるつるな記号論で構築された街ではなく、あちらこちらに亀裂が沢山あって異界への入口がある空間が必要である」といった具合の記号論を踏襲した話や、「人はAIにできないことをするべき。イヌやネコ、ウマのように、怒って泣いて、笑って悲しんで、食べて、ウンコして、寝る。所詮は人間も猿なんですと語る。これは所謂「サル論」が踏襲されている。そう解説をしてくれないのだけれども、繰り返し、聴いていると、おそらくは、そういう主張であるのが分かる。

そして、チンドン屋のように練り歩く。すると、意外と子どもが寄ってきたりする。私はあんまり、子ども子どもと、子どもをダシに使用するのは好まないし、子どもの純朴さばかりを強調して、反抗的な態度をとる子どもだっている事を考慮するときれいごとかな、いやいや、子どもは子どもで、お調子者なところがあって、カメラなんてものがあると、意図的に無邪気な態度を装う子どもというのも実在しているぐらいに思う方なので、あんまり過大評価はしませんが、その様子は、素朴な風景にも見えましたのかな。変な例えですが、ひょっとしたらイエス・キリストの実像なんてのは、殆んどチンドン屋みたいなものだったんじゃないのか的なキリスト教研究者の本などを目にした記憶があり、その素朴な部分は確かに感じた取れた気がする。

楽器を奏でながら馬を引いて街中を歩きながら遊説したところで、人はまばら。小さな子どもが馬、珍しさに足を止める程度。特に、名前を連呼するでもなく、大声も出していない。公園や駐車場といった空間では、安富氏の周囲に人だかりが出来上がってくる。「宿題を廃止しよう」あたりは、子どもをダシにしているかのような言動で、正直、どうかなとも思いましたが、人が集まって耳を傾けるようになっているのは確かでしょうねぇ。大島新監督の「なぜ君は総理大臣になれないのか」は、意欲ある青年政治家が現実政治の中で或る種の絶望めいたものを感じてしまう姿を描いており、その中で、選挙カーを低速運転して名前を連呼するという、既存の選挙戦に疑問を掲げていましたが、こちらは奇想天外な方法で、人を集める事に成功していたのかも知れない。

一ヵ所、この安富氏の遊説シーンで石井紘基暗殺論(私が思うに陰謀論の域を出ていない)を肯定的に語られるシーンがあり、直ぐに字幕で「暗殺論もある」という具合に解説するテロップが出ました。(こういうことも有るので、最低限度の客観性は必要でしょうねぇ。)

驚くと同時に関心したのは、日本社会を評しての【立場主義】であるという言葉だったでしょうか。人と人との関係が希薄化しているので、意見を求めても人は、その立場でしか思考せず、そういう応答しかないと訴えている。これはオリジナルの言葉だったのでしょけど、案外、インパクトがありました。警備員は警備員、市役所職員は市役所職員、経営者は経営者、実は、その立場からしか物事を発言しないし、思考もしない。人間と人間という具合に向き合ってくれない。これは既に、世の中がロボット化した社会になっているという主旨だったのだと思う。この辺りは、中沢新一氏あたりにも通じるものがあったかも知れない。それを、子どもたちに残す社会を、そのようにしてはいけない、この子どもたちをロボットにしてはいけないと訴え、この珍妙な選挙運動が終盤になると、相応に反響が良くなっていく。

映画の終盤では「れいわ現象」を一切、報じなかった大手マスコミへの不満が語られるシーンも納められていました。投票日当日、れいわ新選組の事務所には大手マスコミのカメラマンや記者たちが取材に来ていた。かなりの数であった。彼等に向かって山本太郎代表がマイクで「何故、この数日間の盛り上がりを全く報道してくれなかったんでしょう? どなたか答えて下さる方はいらっしゃいませんか? 何故、報道してくれなかったんでしょう?」と大手マスコミ関係者に問い掛けるが挙手して発言するものはない。フリーライター氏1名が答えたのみ。これが、実は「立場主義」に合致している。大手マスコミには記者もカメラマンも沢山いるが、誰も本社の意向には逆らえず、ジャーナリズムとは言うものの、その肩書き、立場に縛られているので、何も考えない、何も発言しない。既に、そういう社会になっている事を抉り出す。

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日本映画専門チャンネルにて「なぜ君は総理大臣になれないのか」と「れいわ一揆」を視聴。共に近年の日本の政治情勢を題材にしたドキュメント作品でした。

「なぜ君は…」は、大島新監督作品で120分。大島渚の子息だそうで、30日だったかな、NHK総合の午前中の番組にも出演されていた。足掛け17年に渡って、小川淳也代議士を追ったドキュメント作品でした。

総務省を辞めて32歳の時に、民主党から出馬して初当選してからの小川氏の政治家人生を追ったもの。政権交代選挙にて民主党政権が誕生するも、民主党政権は空前の大失敗と評価される事となり、その後の安倍政権の一強の露払いをする羽目となり、民主党の人気の低迷。小川氏は前原誠司氏の側近となるも、前原代表時の民主党は小池百合子率いる希望の党との合併騒動を招き、小池都知事の「全員を受け容れる気はサラサラない」という発言によって、民主党も分裂劇を起こし、枝野幸男氏によって新たに立憲民主党が立ち上がった訳ですね。

このドキュメント作品の主人公である小川氏は、その分裂劇の際、諸々の理由から希望の党へ入った。しかし、この選択が微妙といえば微妙で、地元の商店街での選挙活動では、歩行中の御婦人に握手を求めるも握手を拒絶され、「私は立憲民主党の支持者なので…」と冷たくあしらわれ、自転車に乗っている白髪の男性からは「安保法制に賛成しよるとは、とんでもない裏切りじゃ」と吐き捨てられる。本人も「いっそ、無所属で出馬した方がすっきりした」と漏らしている。

やはり、この作品に光を当てたのはタイトルになっている「なぜ君は総理大臣になれないのか?」という問いでしょうねぇ。小川淳也氏が32歳時の初当選の頃の映像やチラシなどからすると、真っ直ぐな志が読み取れる上に、「選挙で勝利した51%が49%の民意を無視していいという考え方を改める必要がある。本当は勝者は敗者の民意をも背負って政治を行なうべきである」という言葉、そうした志も、また、容姿も発言も色々とフレッシュである。しかし、民主党の分裂劇に遭う中で、監督の大島新は、ふと「彼は政治家に向いていないのではないか?」と思い始める。そして、それは小川氏の御両親なども「ウチの子は政治家に向いていないんじゃないかと思う」とカメラの前で語り出す。本人に「失礼なんだけれど、政治家に向いていないんじゃないかなと思う」と大島新監督自らが小川氏本人に直撃すると、本人さえもが、「そのように思う事がある…」と語り出す。

なぜ総理大臣になれないのか? 総理大臣になろうという意欲に欠けるからと述べれば謙虚であるが、それだけの話ではない。確かに現状の政党政治に於いて一政治家は他人を押しのけ、政党内で出世しなければならず、権謀術数を張り巡らせ、政敵を罠に嵌めるぐらいの、したたかさがないと、現行システムでは政治家としての成功は勿論、総理大臣になんて慣れる訳がないという、そういう話をクローズアップしてくる。情熱や勤勉なんて役に立たず、足の引っ張り合いを伴なう出世競争に勝利しない限り、政党内でのポストも獲得できず、到底、総理大臣になんてなれっこない――。

この猛烈な出世欲は、昨年、話題になった『女帝 小池百合子』を読んだばかりなので、かなり生々しくも感じましたかねぇ。小池都知事の素性は、おそらくは松本清張の『砂の器』を彷彿とさせるぐらい凄まじい。常識では推し量れない次元の人物、林真理子さんはエッセイの中で「怪物」と表現していたような気がしますが、つまり、尋常ではない世界なのだ。猛烈な自己PR力と、相手を値踏みし、場合によっては相手に冷や飯を食わせてでも自分が生き残るという圧倒的な闘争本能。それがないと、そもそも職業としての政治家は成立しないのではないか――という問いなのだ。

己の信じる政治理念の下、コツコツと地道に職業政治家のキャリアを積み上げていったところで、総理大臣になんてなれる訳がない――と。


大島新監督は30日放送のNHKの番組の中で、「ドキュメント作品は客観的ではなくてもいいのではないか? NHKでドキュメントを製作した事があるが、特にNHKの場合は客観性が重んじられており、まるで客観性信仰になっている」という主旨の発言をされており、その言葉を思い起こしながらの視聴となりました。

これについてはどうであったかな…。この【客観】という言葉を、どう咀嚼するかかも知れない。それは裏付け情報という意味で、或る種の真実性を以て客観性という場合もあるし、「主観⇔客観」である事を考慮すれば主観によるドキュメント、ドキュメントであれば成立しますが、そこに客観性を排除してどうかなという気がしないでもない。

スポーツライターの誰かの話であったと思いますが、ノンフィクションライターは、ライター自身が、その追っている対象に接近しすぎないように注意を払っているという文章を、多々、目にしてきた記憶がある。『ロッキーを倒した男』などのボクシング関連の著作が多い山本茂氏、それとボクシング関係でもう一人、それとサッカーものの金子達仁氏であったと思う。ノンフィクションライターが、あれこれと対象選手の将来に直接的に介在してしまう事は禁忌であるという具合に述べられていた。これが崩れたのがサッカー界に中田英寿さんが登場した頃で、以降のスポーツライターは、選手の不都合になる事は書かない、つまり、選手の広報や宣伝を担当する役割を担った人物が花形ライターになっていったんですね。これは政治も一緒かも知れませんね。政治評論家という肩書きの、特定の政党や政治家の宣伝マンが露骨に増えてしまった。イチローさんあたりも似ているかな。特定のライターにしかモノを喋らないというスタンスが起こった。これによって客観性が喪失されたから、そうなってしまったとも言える。

但し、この問題、おそらく主観のみで描いても成立するし、それは既に実証されている。では、それは本当に傑作ノンフィクション足り得るのかというと、これは微妙な気がする。相場はこれこれこういうものであるが、この取材対象人物はこういう選択をしたという程度の事柄はガイドとして存在していないと、奇妙な取り上げ方になってしまうケースがあるような気もしますかね。というのは、これこれこういう問題を描いたのであろうに、極めて手前味噌な摘まみ食いによって故意に変な捉え方をする人というのも、結構な割合で存在しているのが実情のような気がする。主観的であろうが有りのままなのであれば問題なかろうではありますが、昨今、不思議な、まるで故意に捉え間違いをするかのような、凄い間違いも起きている気がする。その辺りの事情はフェイクニュースなどでも明らかな気がする。描き手が高尚ぶって、投げっぱなしなドキュメント作品を製作すると、作品の解釈がブレるとか解釈を誤まるというレベルではなく、全く逆の意味に変換されてしまうケースだって有り得るだろうしなぁ…。

まぁ、勿論、あんまり客観に固執し過ぎる必要性はないのでしょうけどね。で、この映画でも最後の最後には、大島新監督が、直接本人に「政治家に向いていないのではないかと思う」と、言葉をぶつけてしまっている。それによって、間違いなく作品が生きている。
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チャンネルNECOにて「軍旗はためく下に」なる作品が放送されていたので、何の気なしに視聴。直ぐに気づきましたが、深作欣二監督作品でした。深作作品に「こんなものが?」と意表を突かれるような作品で驚きました。冒頭、終戦記念日に昭和天皇が戦没者への献花をしている映像からスタート。

これはシブい作品でした。「ゆきゆきて神軍」にも通じるのですが、終戦直後に軍法会議にかけられることもなく、逃亡の軍紀違反で死刑に遭っていた丹波哲郎演じる夫、その真相を解明しようとする妻によって、その秘密のヴェールが剥がされてゆくという設定。

ネタバレも含んでしまいますが、これが「ゆきゆきて神軍」の内容を理解していると中々の作品で、夫の死の真相とは如何なるものかと探ってゆくのですが、これが謎なんですね。夫の最期を知る者を訪ねて歩くことになる。

一人目の証言者は「あなたの夫は立派な軍人でした。私は逃亡してしまったので最期を見届けはしませんでしたが、きっと勇敢に斬り込みを果たして玉砕されたのだと思います」と語る。しかし、二人目の証言者、これは往年の人気漫才コンビのラッキー7(関武志&ポール牧)が芸人役で、そのまんま出演しており、意外にも関武志が好演。(いつも労務者風を演じるのを得意にしたのが関武志で、すんごい濁声だったんですよね。)

「終戦間際、一人の軍曹がやってきて野豚を仕留めたから、この豚肉と塩を交換してくれって言ってきたんだ。しかし、野豚なんて居る筈がなくて後に、その軍曹が持ってきた肉は人肉だと判明した。その軍曹は一緒に脱走した戦友を殺害し、食っちまってたらしいんだよ。なので終戦間際に軍隊内で処刑された軍曹があったよ。あんたの旦那さんだったのかは確信はないが、確かに、そういう軍曹が実在していたよ。でも、奥さん、気に病んじゃいけねぇよ。インドネシア戦線なんてのも飢餓とマラリアで、ひでぇもんだったんだ。あっしだって、罷り間違っていたら、人肉を食ってたかも知れねぇぐらいだったから…」

と、あの濁声で証言する。これは楽屋のシーンであり、鑑越しに白粉を塗っているポール牧が、黙ってそれを聴いていて

「先輩も苦労したんですねぇ。。。」

と、しんみりと語る。

となると、夫の死の真相とは、勇ましく玉砕したという証言から一転、今度は戦友を殺害して人肉を食らっていたが故に、その場で処刑されたという嫌疑が浮上する。眩暈をもよおすような展開なのだ。モノクロ映像で回想シーンをつくっており、そこでは若い頃の丹波哲郎が、人肉食いをする軍曹を演じている訳だから。どよよよーん、と、押し寄せる怖さ。

三人目の証言者、四人目の証言者と話を聞いてゆくが、どんどん謎は深まってゆく――。この手法が、丁度、芥川龍之介の「藪の中」だから、つまりは黒澤明の「羅生門」を彷彿させるようなつくりになっている。深作作品なのに、こういう作品も残していたんだと驚かされる。

100分程度の尺数だったので、視聴には手頃で、適度に楽しめましたが、視終えた後に少し考えてしまった事がありました。

やはり、天皇の戦争責任、その扱い方ですかねぇ。明確には描いていないところが巧妙でもありましたが、読み取れるものとしては、やはり、天皇の戦争責任について示唆するようなつくりになっている。

この問題は元々からして微妙だなという事を、先週末に放送されたBS-TBS「もう一度!近現代史」の中で、保阪正康さんが一つのエピソードを語っていたシーンがあった。平成の、つまり、現在の上皇に、保阪さんは半藤和利さんと一緒に何度か招かれていたが、その際に、「何故、昭和天皇は満州事変に賛成したのでしょう?」といった主旨の、謂わば、直球の質問をされていた事を明かした。その質問が出るという事は、現在の上皇がどういう歴史観で物事を眺めているのかが、ちょっと分かってしまう話でもある訳ですね。そこで、保阪・半藤の両氏は丁寧に説明してきたらしい。残された資料から分かる事であるが、当初、昭和天皇は反対していた事も判明しているが、その後、賛成に転じているから、これは状況によって、そうせざるを得なくなったという事だと思われますと、そんな具合の説明したら、「よく分かりました」と、御言葉を戴いたという。

実は、そういう事を考えながら世間を眺めているっぽい。



ぶっちゃけ、近現代史こそ、日本の場合、なんとなくの理解になっているんですよねぇ。

同番組では明治維新から近現代史を取り上げており、大日本帝国憲法の成立の経緯などにも触れて来ていますが、近代国家となるべく憲法をつくって、また、自由民権運動の気運によって普通選挙をして、というプロセスにも触れていましたが、憲法一つにしても後に天皇機関説は否定され、まるで君主制的な立憲君主制にしてしまい、普通選挙に踏み切るにしても国民主権を主張する民権派に主導権を渡したくなくて、様々な制限をかけ、同時に無責任体制を構築している事も、結構、説明できてしまっていたんですね。藩閥政治。初期段階では薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)が主導権を握っていたが、途中から土佐と肥前は押し出され、薩長出身者が政治的主導権を掌握している事を克明に解説している。

西郷隆盛は薩摩ですが、西郷は旧士族に担がれて逆賊にされ、大久保利通が政権内に食い込むが実は大久保利通の遺骨は薩摩入りを拒否されたのだそうな。何故って、西郷隆盛を討ってしまった人物だから。生々しいですな。

大隈重信は肥前(佐賀藩)で、御存知、早稲田大学の創設者。当時の新聞紙面などからすると、民権派のスターで、かなり熱狂的な人気を獲得して弁士に立てば人々が殺到していたらしい事が分かる。しかし、権力闘争に敗れて、薩長に組み敷かれてゆく。

そして土佐というと司馬遼太郎史観だと坂本龍馬になってしまいますが、その土佐から板垣退助、中江兆民、幸徳秋水なんて人物が登場している。自由民権運動、民権派なんですね。しかし、歴史の中では薩長土肥の内の薩長の残存勢力と岩倉具視を筆頭とする旧公家とが組んで、実質的に天皇の補佐役となる元老をつくるっている。だから民権派は主導権争いに敗れ、実は明治14年から天皇の周辺、実権は薩長ががっちりと握ってしまっている。伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の内、薩長閥ではないのが西園寺のみで、この西園寺は公家出身。

民権派は最後の方になると、政府をひっくり返せる革命権を主張するなど、実は、現在と同じような問題を主張して抵抗していた事も分かる。裏返せば、天皇と面会できる要職を固める事に成功した薩摩と長州と公家が、法律や警察権といった権力を行使し、権力を独占できるような仕組みに仕上げてしまっていたから、そうなった訳ですね。

やはり土佐民権派、板垣退助と共に自由党を立ち上げた植木枝盛(うえきえもり)が作成した憲法案に「東洋大日本国国憲按」なるものがあるそうで、そこでは主権在民を徹底的に主張されていたという。しかも「弾圧してくる政府に対しては革命権を認める」としていたのだそうな。

ニシベが中江兆民と福澤諭吉を敬愛してようですが、現在の日本の保守思想体系は、豊饒にして寛大な日本的なる部分を除去しての、保守思想体系になっちゃってますよね。勿論、民権とは勿論、「自由民権」である訳ですが…。

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日本映画専門チャンネルにて「検察側の罪人」を視聴。序盤は視聴を途中で諦めようかなと思いながらの退屈な視聴でしたが、終盤40分ぐらいになって、「おっ、これは実は面白い映画だったのかも知れないぞ」という感想に変わりました。実は序盤まで、この映画、劇場用だからなのでしょうかテレビで視聴しているとノイズが多くて、肝心のセリフが聴き取り難かったんですよねぇ。このノイズというのは技術的なノイズではなく、町のノイズ。監督の方針なのか、どうでもいい通行人の話声や街中の実際の雑音などが演出なのでしょう、結構、聞き取れるレベルで挿入されているんですが、そちらの余計なノイズに気を取られて肝心の登場人物のセリフが聴き取り難い。劇場や、或いはナンタラという音響システムなどであれば、また気にならなかったのかも知れませんが、テレビではキツい序盤でした。

出演は木村拓哉、二宮和也、吉高真由子といった面々で、それぞれ好演されていたと思う。序盤、中盤と進行するも、いまいち、このストーリーが見えにくく、内心、「これは駄作の部類かなぁ…」と感じながらの視聴でしたが、「おお、そう来るのか!」という展開が待っていました。期待を裏切られて喜ぶというのも変な感情ですが、この映画の場合、「冤罪」といった問題、それと「検察の正義」の問題とが入り乱れており、観覧者・視聴者は、明確な感情移入は起こらない。少なくとも終盤までは…。

しかし、このテーマは本当はタイムリーだったような気がする。〈証拠はないが真犯人である事は歴然であり、そうであれば証拠を捏造して有罪にする事も許される〉という、非常に危うい「検察の正義」の問題が織り込まれている。確かに、検察官になると、そういう次元の正義の問題に直面するだろうし、「証拠こそないが彼が真犯人である事は歴然である」という状況が有り得る。証拠を立証できないのはシステムの問題に過ぎず、目の前の真犯人を有罪にしないというのは、諸々の不都合が伴う。

他方で、それに対して、「証拠がなければ、例え真犯人であっても有罪に問えないのは歴然である」という正義がある訳ですね。もう、この立場にしても真犯人である事は確信できているというケースで、確信は出来ているが、そういうシステムなのだから仕方ないと諦め、必要以上に自らの正義に前のめりになるべきではない、という立場。

後者が究極的には正しいと考えられる訳ですが、確かにモヤモヤは残るかも知れませんね。綾瀬コンクリート事件あたりは、犯人は未成年というけど、どれだけ凶悪な犯罪であったのか、その内容とか性質を斟酌してしまうと、到底、当時の少年法の「ぬるさ」というものに言及せざるを得なくなってしまったのだと思う。「これで更生されても困るよね。。。」というレベルの凶悪犯罪というものもある訳ですからね。そして、刑罰を疎かにすれば、被害者も被害者遺族も居た堪れないし、社会そのものも不安定になってしまう。勿論、証拠の捏造なんてのは論外である訳ですが、この問題、数年前から継続している日本の政治家や官僚の間で起こっている公文書改ざんや偽造問題にも似ている。

おそらくは、検察官が証拠を捏造してしまったというモチーフは、公文書改ざん問題ではなく、村木事件に於ける検察官のフローピーデータの書き換えを念頭に置いたものでしょうけど、これって、実は検察の問題そのものらしいんですよね。物的証拠で立証せよという。しかし、そうなると立証は難しくなる。日本は伝統的に「自供させる」という手法を取って来てしまい、それが密室内での取調べに依存してきた訳ですね。やさしい口調で取り調べていたら、断じて口を割らない容疑者が大半でしょう。なので恫喝も行なわれている。相手に拠っては、かなり乱暴な取調べも行なわれているものと考えねばならない。故に、近年は可視化が叫ばれ、録音や録画などが提唱されている訳ですが、尚も検察側は抵抗している。録画・録音をする部分などについては条件をつけており、完全可視化からは遠いらしい。

これは確かに有り得るでしょうねぇ。犯罪者というのは、そもそも犯罪者なのだから、素直に自供するようなタイプの者は少ないと考えられる訳ですね。嘘八百を並べる。嘘つきは、どこまでも言っても嘘つき。

「犯人自ら犯行を自供させる」というのは、日本人の美徳とも関係しているらしい。犯人が罪を認め、自供し、その調書に署名をしたという、その筋書きは、日本人にとっては納得の行く結末なのだそうな。

どういう事かというと、日本人は「生まれた時からの根っからの悪人は居やしない」と考えているからと指摘されているらしい。これは、ひょっとしたら日本人の浄土信仰とも関係しており、最後の最後まで反省しない悪人、それを文化として許容できないところがある。近年は少し事情が異なってきていますが、元来の日本人の精神文化が、それであったのは、なんとなく想像がつきますよね。悪い事をしたら悪い事をした者が自らの罪を認めて「ごめんなさい」と謝罪して、初めて一件落着となる。そこまでが一連なのだ。証拠があっても「やってねーよっ!」と言い張る往生際の悪い者の受け皿はない。ましてや、宅間守のように、全く反省せず、反省しないばかりか挑発を繰り返すという狂暴な人間への耐性がない。まぁ、ここに「楢山節考」を持ち出すのは邪道ですが、おそらく、そういう異端の犯罪者については、内々に処分してしまってきたのが近代以前の日本文化であったような気がしますかぇ。

だから、「犯人が自供しました」というと、関係者一同が安堵する。そういう精神文化があるの意です。ちょっとした会議などでも満場一致の決定に安堵する。和を尊んでいるのかもね。

なので、近20年ぐらいの犯罪の狂暴化や凶悪化に対応できない。実証主義は肯定されて然るべきであるが、全ての犯罪が物証を残す訳でもないから、実証主義のウラを掻かれてしまう。実証できなければ無罪であると開き直り、事実とは別に、兎に角、それを法廷闘争と捉え、敢然と罪を認めないという態度を取る事も出来てしまうのだ。また、アメリカのO・J・シンプソン事件以降、弁護側が事実関係とは別にして、捜査する側の不手際を暴いて無罪を勝ち取るという、その手法も定着してしまった訳ですね。ホントは松本清張ドラマの世界が、現実化してしまったかのような話かも知れない。

なので、この映画でも描かれていましたが検察官は「あんな奴もオトせないでどうすんだっ! お前は検事失格だっ!」と、罵りに近いレベルでプレッシャーを受けている。なので、その通りの行動をすれば完全可視化なんて不可能な、恫喝、恫喝、恫喝な取調べを行なうことになる。

原作では、犯罪に手を染めてしまった検察官は自首をしたが、映画では自首までは描いておらず、それらの一連、真相を知っている者が、葛藤の中で雄叫びを上げる。しかし、どうにもならない。

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FOXにて「グッバイ レーニン!」(2003年製作)を視聴。事前にどこかでレビューを目にしていたのですが、少し異なる見解になったような…。

これ、ネタバレしない事には話も進まないので、ばんばんネタバレします。

これはきっとドイツ映画なのでしょう。で、ベルリンの壁の崩壊後の統合ドイツの視点で描かれている。

ベルリンの壁が崩壊する直前の東ドイツで、ドイツ統合以前に熱心な党員にして教師であった母親が心臓発作で倒れ、そのまま意識不明の状態になってしまう。母親は8ヶ月後に意識不明の状態から覚醒するが、その時には既にドイツが統合されてしまっている。

医者が息子に説明するには

「気の毒ですが、お母さんの余命は長くありません。意識を取り戻しましたが、依然として危険な状態です。強いショックなどを与えないで下さい」

という。

そう言われた息子は、東ドイツが崩壊してドイツが統合されたなんて知ったら母親はショックで死んでしまうかも知れないと思い、家族や仲間を巻き込んで、必死にソビエト崩壊やドイツ統合を隠そうとする。最低でも、これぐらいまでの粗筋の説明がないと、「グッバイ レーニン!」というタイトルは勝手な誤解を招きやすそうですかねぇ。結構、シブい映画でした。

しかし、こういうドイツのハートフル・コメディというのは珍しいんじゃないだろか。あんまり記憶にないし、実際のところ、コメディと呼ばれるほどのコメディでもなく、「あっはっはっは」と笑えるシーンがあるでもない。むしろ、ユーモアに関しては、アメリカ映画や日本映画を視てしまっているので、どうしてもパンチの弱さは否めない。しかし、やはり、それなりの面白味は見い出せそう。

東ドイツ時代には物資もロクに手に入らなかったが、統合された途端に物資が出回る。これは旧東ドイツの不自由さを軽く笑える訳ですが、複雑なのは、旧東ドイツに忠誠を誓っている母親にショックを与えないように、わざわざ旧東ドイツ時代のピクルスを探し回らねばならないなどの難題が降り掛かる事になるので、実は微笑ましく、口元に微笑を浮かべるという程度のコメディなんですね。

姉は、ドイツ統合になった途端、大学を辞めてしまい、バーガーキングでバイトを始め、そのバーガーキングの店長とデキてしまい、子供まで産んでしまっている。さぁ、8ヶ月ぶりに母親が意識を取り戻したぞ、ショックを与えたら死んでしまうらしいぞ、どうすんだよ、このバカ野郎め的な、そういうコメディ風味。

母親が死んでしまうまで、東ドイツは存続したままにするのか、或いは東ドイツは崩壊し、西ドイツに統合されたという事実を教えるべきかで悩む。いっそ、西ドイツが崩壊して、その西ドイツの難民が東ドイツへと押し掛けてきているから、町がこうなってしまったのだとダマしてしまった方が、母親はシアワセなまま、死ねるのではないかなんて思案する。そうした葛藤が続く。主人公の母親の人生とは、若き日には西ドイツへの亡命も考えていた一時期もあったが、それを諦め、以降、東ドイツへの忠誠を捧げるようにして女性教員として歩んだ人生だったのだ。そんな母親だから、もし取り壊されてヘリコプターで運ばれるレーニン像を目にしてまったら、大変な事になっちゃう(笑

結構、作品を視聴しているうちに、その家族にとっては、不自由で貧しいばかりの東ドイツ時代の郷愁のようなものがチラついていた気もする。物資が溢れるようになり、コカ・コーラにエロビデオ、衛星放送が映るテレビなんてものを手に入れられるようになっている主人公であるが、探し回っているものは、東ドイツ製のピクルスである。探し回ってもオランダ製のピクルスしか見つからない。母親は、国産のピクルスを食べたがっているのに…という辺りは、しんみりとは描かれておらず、ユーモラスな奮戦なのだ。しかし、その裏側を覗いてしまうと、その母親にとっての家族の記憶、家族の思い出というものは、どこれもこれも不自由だった東ドイツ時代の思い出で形成されている訳で…。

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FOXムービーにて「戦神〜ゴッド・オブ・ウォー」なるものを何の気なしに視聴。おっ、香港映画らしいな、倭寇がテーマらしいと、お気軽に視聴したのですが、画面に映っている老俳優を認識して愕然としました。く、く、倉田保明!(くらたやすあき)だ…。

和製ブルース・リーと呼ばれたアクション俳優であり、確か「戦えドラゴン」というタイトルの30分ドラマを見ていた記憶がある。また、「Gメン75」に出演している中で、何故か、明治のカールのチーズ味を頬張っているカラテ使いの刑事。小学生の頃、ドラマを見てコーフンしたっけなぁ…。元々、カールはカレーあじ派だったのだけど、「ドラゴンがチーズ味を食べてるから、チーズ味にしよ☆」と思っていたぐらいだから、憧れの存在だったのかもね。

しかも、この映画、色々と分かっていらっしゃる映画でした。倉田保明さんの見せ場、めちゃくちゃつくってあって、また、それを引き寄せるだけの存在感のある演技をされていました。これは視れば分かるのでしょうけど、もう、その佇まいに味がある。こういう表現はよくないと承知の上で言及すると、名人級の老俳優と評されている俳優さんが日本にも存在していますが、それに匹敵する味わいでした。

舞台は16世紀、実話をモチーフにした原作との事でしたが、倭寇退治で名を挙げた明朝の戚継光なる人物を描いた物語。倉田保明演じる役どころは、倭寇の総大将である。しかも、設定も面白く、その総大将には名前らしい名前がない。何故なら日本の松浦藩の老臣で、松浦藩の方針によって倭寇に成りすましている人物だから。なので、劇中では「師匠」のように呼ばれているだけ。エンドロールには「熊沢」と表記されていましたが、おそらく劇中では一度も「熊沢」なんて呼んでいなかったと思う。

味のある演技をしているなぁ…と序盤から感じていたのですが、終盤になって、なんと主役と一騎打ちを演じている。しかも、色々と見せ場が多い。往年のアクションスターですが、この年齢になって、こういう役柄が回って来て、また、それを絶妙に演じている。基本的には何を考えているのか分からない役どころでしたが、そうであるが上に、嫌が応にも、その役柄の魅力が増してゆく。とうとう最後に、字幕では「倭刀」と表記されている日本刀を抜き、たっぷりアクションシーンがあったのですが、見せ場もてんこもり。これは私の言葉で評すれば、三船敏郎であるとか仲代達也であるとか、語り継がれてきた日本映画の名シーンと比べても遜色ないような、ホントにそうした佇まいのある映像でした。

倭寇は、勿論、悪役ですが、先述したように実は松浦藩の策略で大殿からの命令で倉田保明演じる老臣が、小出恵介演じる若様を引き連れて倭寇を演じているという設定なので、そこそこ、敵役でありながら魅力的に描かれている。つまり、若様を預かって、その若様からは「師匠」と呼ばれている非常に重厚な役なのだ。

単なる智将だっただけではなく、剣技も体術も化物級の老人である。

「これだけの人物、ただ者ではないっ! 名を名乗れ!」

と問われても、

「ワシに名前などない。タダの倭寇だ…」

と静かに返す、この不気味さに味がある。

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日本映画専門チャンネルにて「レディ・ジョーカー」を視聴。原作は高村薫で、モチーフになったのはグリコ森永事件のフィクションという事になりますが、フィクション世界で、グリコ森永事件は、どのように描かれてたのか、興味深く視聴しました。

純粋に作品として楽しめるのかというと、少し微妙な気も…。誘拐されているのに誘拐シーンがない。この描き方でもついていくべきなのかも知れませんが、犯罪映画なのに、そこを省いてしまうのはどうかなぁ…と思いながらの視聴でした。

さて、事件は日之出ビールの社長が何者かに誘拐され、52時間後に解放される。長塚京三演じる日之出ビール社長は、犯人から

「20億円を用意しろ。但し、警察には5億円を要求されたと言え」

と、脅されてる――。


作品中では犯人は年齢も職業もバラバラの5人組だというのが、特徴でしょうか。同作では、以下のようなラインナップでした。

〔局の主人…渡哲也
▲肇薀奪運転手…大杉漣
6睛散函朕甕柬
だ盤工…加藤晴彦
シ沙…吉川晃司

以下、色々と示唆的なものと想像する事ができるようになっている。

〔局の主人は、昭和22年にデモ隊に参加していた人物と親しかったとして、日之出ビールの工場を解雇されたという過去を持っていた。50年以上の歳月を経ているが、競馬場で知り合った仲間と結託する。(渡哲也)

▲肇薀奪運転手には車椅子の娘があり、その娘のニックネームが「レディ」である。そこから犯行グループは「レディ・ジョーカー」を名乗っている。作品中、元自衛官と認識させるようなシーンがある。(大杉漣)

6睛散箸涼砲蓮朝鮮半島出身者として描かれている。劇中のセリフとして「株で儲けたい」と発言しており、グリコ森永事件の株価操作説を印象づけている。誘拐実行犯。(吹越満)

だ盤工の男は、メンバー中、明らかに一人だけ若い。誘拐実行犯。(加藤晴彦)

シ沙の男は、捜査会議にも堂々と出ている人物として描かれている。捜査情報はダダ洩れ。やさぐれた刑事で「カネなんてどうでもいいから、何か、どでかい事をしたい」が口癖の曲者である。(吉川晃司)


この作品では、日之出ビールは警察には何も語らず、裏取引に応じるというストーリーになっている。何故なら、この誘拐事件の裏側には、日之出ビール社の抱えていた闇問題があったから、表沙汰には出来なかったという構成になっている。

日之出ビールの或る工場では、昭和22年に渡哲也演じる人物を解雇していた。解雇した理由は労働運動参加者と親しくしていた為であったが、それが50年以上の歳月を超えて「表沙汰にしたくない問題」として浮上している。その一件を以って、反社会的組織と思しき「岡田ケンユウ会」なる組織から強請られている。岡田ケンユウ会は、日之出ビール社に、群馬県の何の利用価値もない土地を10億円で買い取るよう要求している。

日之出ビール社は一族経営企業であり、社長は長塚京三が演じているが、本部長は辰巳琢郎が演じている。その本部長の娘にして、社長の姪っ子にあたる人物を菅野美穂が演じているが、この社長の姪っ子の交際男性の秦野は被差別部落出身者であり、交通事故で死亡したばかりの人物であった。秦野は、日之出ビール社の入社面接試験に挑んだが、途中で「気分が悪くなった」として退席した過去がある。しかし、交通事故で死んだ後に、これまた岡田ケンユウ会が絡んで、秦野の父親を煽動した為に、秦野の実父は「日之出ビールは選考試験は偏見に満ちている。息子を被差別部落出身者だから落とした疑いがある」と録音したカセットテープを送り付けて脅している。(グリコ森永事件に於ける、いわゆる「53年テープ」を少しだけ想起させる。)

日之出ビール社内では会議が行われており、20億円の要求は日之出ビール社に対しての要求なのか、それとも社長個人に対しての要求なのか、と、社長は幹部らから詰問されている。

つまり、フィクション作品としての「レディ・ジョーカー」では、日之出ビール社には昭和22年当時の不当解雇事案は確認できたが、被差別部落問題の方がコジツケでありながら社長の姪っ子の交際男性が絡んでいたので、いずれにしても表沙汰にする事は出来ず、犯行グループとの裏取引に及ぼうとしたという具合に描いていたと思われる。

作品で目立ったのは、吉川晃司さんが演じた刑事でしょうねぇ。ヘンな刑事なのですが、そもそも刑事という刑事がマトモなのであろうかと問われたら自信がない。また、堂々と捜査会議に出席している刑事が犯行グループの一員なのだから、この日之出ビール社長誘拐事件は解決する訳がない。また、事件が進展するに従って、捜査本部の本部長が拳銃自殺を遂げるシーンがありましたが、自殺を図った理由は勿論、身内に犯人が居たからであると描かれていました。この自殺によってかい人21面相は終結宣言を出した訳ですが、滋賀県警の本部長が焼身自殺を図ったグリコ森永事件を想起させる。

ん? 言われみると、実は警察内部に犯行グループに繋がっている者があったとフィクション世界で考えていた訳か。うーむ。

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日本映画専門チャンネルにて「アンダー・ユア・ベッド」なるスリラー映画を視聴。これは「月イチ衝撃作」と銘打たれた枠での放送でした。これは確かに衝撃的な作品といえば衝撃的な作品だったのかなぁ。

ベッドの下に潜んでいるストーカー男という設定から、「こりゃ、江戸川乱歩の『人間椅子』のような、そういう作品なのだろう」と思いながら視聴していたのですが、その江戸川乱歩的な変態チックな作品というよりも、これが今風と捉えるべきなのか、重たい、これは実にヘビーな内容でした。。。ホラーとかスリラーという枠で括り切れるのかな的な。

以下、ネタバレします。

高良健吾演じる主人公はミツイという。漢字は三井なのか光井なのか分かりませんが、兎に角、ミツイであり、その主人公のミツイは、おそろそく存在感の薄い人間である。高校の卒業アルバム、その撮影時に集合しそこなってしまい、そのまま卒業アルバムが製作され、配布されたが、誰もその事に気付いてくれない。クラスメイトであるとか、教師であとか、家族であるとか、誰かしらが気付いても良さそうなものだが、気付いてもらえない。そんなミツイは大学へ進学したが、碌に口を聞く相手もない。大学卒業後は熱帯魚販売店に就職し、そのまま、30歳を迎えている。

誰に気付いてもらえなくても生きている――という陰生花のような人間が、このミツイであるが、ミツイには一つだけ忘れることができない記憶がある。それは19歳のとき、大学の講義中に「ミツイくん」と声を掛けてピンチの時にノートを差し出してくれた「佐々木千尋」という女子学生の記憶である。何しろ、他者から認識されないで棲息してきた彼の陰生花人生からすると、その佐々木千尋の記憶だけは例外なのだ。

このヒロイン「千尋」は、西川可奈子さんという女優さんが演じていましたが、女子大生時代と11年後では何故か印象が異なっており、演じ分けされていたのかな…。まぁ、少なくとも大学生時代の、そのヒロインは、色々とキュートである。

ミツイはノートを差し出してもらった御礼にお茶に誘い、一度だけ、その千尋と喫茶店でコーヒーを一緒に飲んでいた。しかし、陰生花のように生きてきたミツイは千尋の会話に合わせることができない。何かを話そうとすると、自分が飼っているグッピーの話だけを熱を入れて語ってしまう。

「グッピー、あたしでも飼えるかな?」

「飼いたいのなら、ボクの飼っているグッピーをあげるよ」

ミツイと千尋との間では、グッピーを譲り渡す約束が成り、ミツイは、もう一度、千尋と会えることを愉しみに一週間ほどを過ごしたが、実際にグッピーを譲り渡す当日、千尋から「色々と考えたのだけれど、アパートだからグッピーは飼えない」と、申し訳なさそうに「お断り」の電話が入っていた。

それから11年が経過していたが、ミツイは千尋を忘れないでいる。興信所を使って千尋の現在の住所を調べると、勤めていた熱帯魚販売店を辞めて、既に結婚して海沿いの町に新居を構えている千尋、その近所に引っ越して、千尋に対して隠し撮りや盗聴をしている。

となれば、何やら陰湿なストーカー話になるのですが、暗澹たる気持ちになるのは、その千尋が家庭内暴力、今時のドメスティック・バイオレンスに遭っているという展開であった事でしょうか…。DVに遭っていると知って、何か、このミツイという男がヒーローを気取って助けに行くというストーリーになるのであればイタい作品だなぁ…とも感じさせますが、そうならない。このミツイは、煩悶する。煩悶しながらオナニーする。笑ってしまいそうですが、これ、高良健吾さんが演じており、コミカルな描写ではないんですよね。。。。

このミツイという男が憧れつづけた千尋は、5歳年上の男と結婚し、赤ん坊も出産したが深刻なDV被害に遭っており、生気はなく、殴られた為に顔を腫らせていたりする。ミツイは望遠鏡で覗き見をして、千尋の裸なども覗いている訳ですが、青痣だらけ。キュートだとか言っていられる容姿ではなくなってしまっているし。

こういう展開にして、どう物語を締めくくるのかって気になりながらの視聴となりました。いやぁ、そう展開させてしまったら陳腐すぎるよなぁ、いやいや、分からんぞ、その陳腐なストーリーを令和の日本は描きかねないし、他にどうやって、この物語を締めくくれようか等とヤキモキしながらの視聴となりました。

実は、結構、意欲作だったのかも知れない。近年の日本映画って、突き抜けるような孤独を描いている気がする。「夜空はいつも最高密度の青色だ」、「勝手にふるえてろ」あたりが、私が視聴した中では比較的新しい若い感性の日本映画ですが、なんだか深刻な気がする。「認識してもらえていない」とか、もう、そういう自己存在が危うい人達の話だったりするんですよねぇ。

ありふれた題材ではあると思うけど、どう転がしていくかという部分でしょうねぇ。30歳にもなってみると、20代前半の初々しさ等というのは、物凄く眩しいものと感じるのは、今も昔も同じかも知れない。社会人になってみると思いの外、社会は鈍色であり、学生時代のような自由さとかポップな感覚なんてものは全くない。絶望という名の列車の乗っているようなものなんじゃないのかと感じてしまうものかも知れない。

江戸川乱歩の「人間椅子」とか「屋根裏の散歩者」というのは変態趣味なので、どこかケロリとしたものでしたが、DVが絡んでしまったり、この主人公のように陰生花のように棲息している者が案外、そこら辺にも居そうだなという現代社会にあっては、陳腐な話のようでいて、陳腐な話じゃないのかもなぁ。

「陳腐じゃない」と感じたのは人間観察に顕われていて、おそらく、千尋はグッピーなんて最初から欲しくなかったのでしょうねぇ。基本的に、この二人、話が合わない。ミツイの方が熱くグッピーについて語っているから「私にもグッピーが飼えるかなぁ?」と空気を読んで、そう言ったに過ぎず、そこからは成り行きでグッピーを「あげる」「もらう」という約束に行き着いている。陰生花のように生きてきた青年は、その、成り行き上の千尋の「やさしさ」に恋をしてしまったのでしょう。

その思い、憧れの情念が11年にも及んでしまったというのが、なんだか、これも痛々しい。となると、この痛々しい陰生花の情念をハンマーで打ち砕いたり、へし折るのも、何だか忍びなくなってくる。また、やさしさというのは表裏一体、他人に気遣いをすることができる「佐々木千尋」が、将来的にDV夫に捕まってしまっているという設定あたりも、現代社会を風刺している気がする。

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