どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

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加治木義博著『真説・ノストラダムスの大予言〜人類最終戦争・第三次欧州大戦』(KKベストセラーズ)1991年1月刊の44ページから48ページにかけては、日本の将来について述べられている。

『第五巻の七二』
彼の快楽、享楽的・好色のために
人々にその中の毒薬を信頼させる
金星は流通に高潔だろう
太陽はすべての品質でカゲるのだ

金星は中国、太陽は日本。いま日本の方は自由主義で、人々は快楽と享楽を当然の権利だと信じている。しかしそれはノストラダムスから見れば毒薬だ。その結果、中国の人も製品も高潔で信頼がおけるのに対し、日本のそれは、すべてにおいて見劣りがし、品質が悪いことで、結局、経済も生活もカゲる。今まで続いた日本の繁栄も間もなくカゲリが出はじめるが、それは自由をはき違えた生活理念が根本から間違っているためだ、というのである。こうみてくると、この詩で「彼」というのは、これまでの日本のカジ取りをしてきた指導者たちを指しているとみていい。

お説教はたくさんだが、ノストラダムスは私たちに説教してくれているのではない。ただ事実を指摘をし、日本人が今の貧しい頭、貧しい心、貧しい教養、貧しい倫理観のままでいること、そしてさしもの繁栄も、それが原因で世界の指弾を受け、間もなく「ソロモンの栄華」のように消滅してしまうことを予言しているだけなのだ。


加治木氏は、当時、「11PM」等にも出演していた。ノストラダムス本のオーソリティーであった五島勉訳を批判し、「私こそがノストラダムスの予言を完全解読した。五島翻訳は間違っている」と言い出した老境の人でしたね。短期間ではありましたが、おそらく、1990年前後に話題になった人物で当時は「11PM」あたりには何度も出演していた記憶がある。「中国の人も製品も信頼がおけるにに対して、日本のそれは品質が悪く信用を失っていく」という解読は、どうなんだろうと思うものの、それでいて、冷静に述べれば、このテの予言の解読は、その解読者の思想が反映される。結構、強引にこじつけないと、意味が意味としてつながらない世界ですからね。

これは、もうハルマゲドン信仰とか末法思想とかすべてに共通している。「今のままで大丈夫だと思っているのか?」という不安心理があり、その不安心理というフィルターを通して解読し、また、それを読む者も、同じように「今のままで大丈夫なんだろうか?」と感じているから、繰り返し繰り返し、滅亡論はブームとなる。また、同時に「滅亡なんてする訳ないじゃん!」という空気が蔓延した時に、ホントに破局が訪れるという関係性がある。常に「このままじゃ、破滅するぞ」という緊張感や、危機意識がない事には始まらない。

冷静に考えれば、未来永劫、繁栄が継続し、膨張・拡大してゆくと考えている方が、よっぽど畸形的な思考であるのは自明でしょう。道理からすれば、芽吹いた瞬間から枯れるまでの道はスタートしており、これはヒトに言い換えれば、生まれた瞬間から死までの道が始まっているのだ。仮に最盛期を迎えたなら、その後は衰退期になっていく。これは論じるまでもない。要は、自分の生きている間に、破局的状況が起こるかどうかという問題でしかない訳ですね。

で、正直、加治木義治氏のノストラダムス訳は、五島勉訳ほどのブームにはならなかったのですが、前掲著では、世界最終戦争後の世界までが語られていました。

1巻の97

武器も火も持たない証し、それは完成しそう

甘い言葉で忠告に、彼女を来させる

平和な時にその王は焼き直しを作る夢を見る

もう火も流血も軍人も使う敵はいない


この状況は世界最終戦争の後の世界だとしている。厳密には1996年か1997年に起こる事として述べられていたようですが、日本に真の救世主が現れる――と述べていたのでした。

真の平和が訪れた時、世界を指導するその「王=日本に現れる救世主」は、その日本の平和憲法のコピーを世界中に作るために、優しい言葉で忠告をする女性を派遣する。その結果、世界には、戦火や軍人を使う必要のある敵がなくなる時代がくる。

楽観的だったんですなぁ…。つまり、加治木氏は「日本の王が平和憲法のコピーを世界中に広める。そして真の平和が訪れる」と組み立てていた訳ですね。(加治木訳の✕巻の✕✕は「諸世紀」の番号。)


とはいえ、こういう話って、五島勉の役にもあったような…。

諸世紀第1巻48には、「別のもの」という次の文明の登場を予言したような詩もあった。

月の支配の二十年間は過ぎ去る

七千年には、別のものがその王国を支配しているだろう

太陽はそのとき 日々の進行をやめ

そこで私の予言もすべて終わりになるのだ


さらさらっと目を通してみると、これが「別のもの」の登場する予言詩だったんですね。しかも、ノストラダムスブームというのは、この詩を希望だと展開し、「別のものが現れれば、ハルマゲドンは起こらない」という風に試行錯誤していったのでした。

しかし、これは色々と構築に錯綜がありますね。しかし、『ノストラダムスの大予言供戞1979年刊)で、アンリ二世の王妃、カトリーヌ・ド・メディチとノストラダムスとが1552〜1553年にかけて会話をした記録だという「ブロワ城の問答」をぶちこんでくる。

この「ブロワ城の問答」については、隠居したノストラダムスがサロンで人々に語った内容ながら、一世を風靡したノストラダムスブームを語るには、欠かせない一節であった。以下、「カ」はカトリーヌ・ド・メディチの発言であり、「ノ」はノストラダムスの発言である。

カ「世界は滅びる、救いはどこにもない。爐燭世鍬瓩噺世い泙靴燭諭」

ノ「そうでございました。確かにそう申しました」

カ「ただし、どうなのです?」

ノ「ただし、別のものが…」

カ「それは何じゃ?」

ノ「わかりませぬ。果たして現れるかどうかも分かりませぬ。もしも終わりの時、恐怖の大王が降る前に、その猜未里發劉瓩現れれば…」

カ「現れれば?」

ノ「そうすればおそらく人間は、滅びずに済むであろう――と」

カ「それは喜ばしいこと。その正体を知りたいものじゃ。それは人間ですか? それとも救世主のような?」

ノ「犇寡櫃梁膕Ν瓩見えないのと同様、その猜未里發劉瓩盡えませぬ。ただ、もし、その猜未里發劉瓩現れれば、大地震や飢餓、戦争といった惨い有様も消えてゆくように思われるのです」


という文脈を持ち込んでいた――。

そして、この「別のもの」の正体とは何であろうかと、延々とシリーズで取り上げたのでした。

以下、五島勉&西丸震哉(食生態学者)著『実説 大予言』(祥伝社NONブックス)1974年刊から引用します。

昭和四十九年四月十日の朝日新聞ですが、「月は年々遠ざかる。弱まる地球の引力。米学者が測定」という記事が、九面のトップに出てるんです。最近、アメリカで地球物理学連合学会というのがあって、そこでトーマス博士という海軍の天文台の学者が公式に発表した。要するに、地球の重力がきわめて少しづつだが弱まって来ていて、月が一年間に、だいたい四センチずつ、地球から離れていっている、というですね。

それで「二十年間の月の支配」というのを、ノストラダムスはしばしば数字を暗号的な意味に使いましたから、「二十世紀」というふうに理解すると、どうも符合してくるんです。これを二行目以下につなげていくと、「二十世紀に月が遠ざかりはじめたあと、七千年には別のものが王国を…」と解けないことはない。

この暗号という点では、「七千年」もおそらくそうなんです。ノストラダムスというのは、まぎらわしい表現をふんだんに使って、後世の解釈が混乱するのをおもしろがってるような、人の悪いところがありまして、「七」も前に言ったかもしれませんけども、たぶん「週末の時期」ということなんですね。一ケタの「七」が使ってあれば、それは破滅ということ、「七〇」や「七〇〇」や「七七」や「四九」で大破滅、したがって「七〇〇〇」は終末。こうみてきますと、「二十世紀に月が遠ざかり、その後、二十世紀に終末がおとずれて、そのとき別のものが新しい世界をきずく」ということになってきます。

その新しいものが、おっしゃるように東洋哲学的二十一世紀文明であれば、それにこしたことはないです。


「別のもの」を、この対談本では、やはり東洋哲学的なものと考えていたのが分かる。また、【七】という数字の読み方については『ノストラダムスの大秘法』にも記されていましたが、実際には1974年の時点で、各種の数字は占星術的な暗示であるという種明かしをしていた事も確認できる。なにしろノストラダムスは占星術師であると記してある。

五島 いままでのヒューマニズムは、人類全部をなんとか生かす、という考え方だった。しかし、どうがんばっても、ふえつづける人類全部を生かすだけの食糧がない、という事態になったら、実際問題として、そんなヒューマニズムは成り立たない、人類というのは種の存続のためには、人類の一部を切り捨てなきゃいけないんじゃないか、と言うんですね。

私は、この考え方に全面的に賛成はできませんけど、たしかに自分の儲けのために汚染を吐き出したり、ナパーム弾をばらまいて、スポーツみたいにおおぜいの人を殺したり、またそのナパーム弾をつくって売っていい生活をしているような奴、こういうのにも平等にヒューマニズムを適用できるかとなると、私はとてもそう考えられません。〜略〜ところが、実際には、切り捨てられるのは、汚染地帯で暮らすほかなくて、それで体をむしばまれた庶民、ナパーム弾をばらまかれた民衆、そんな人たちが殺されてる。〜略〜たとえいまの人類が滅びるにしても、この矛盾だけはなんとかしないと、死んでも死にきれないですね。

西丸 ええ。だから、くりかえすけれども、原始社会の方が、人間のモラルはまだよかったということなんです。いや、動物だって、自分の生存に必要なエサ以上はけっして食べない。それで多くの種が共存している。それを、人間は自分のエゴのために殺し合うんだから、人間にとってもっともおそろしいのは人間ですね。文化とか文明とかいうけど、人間のやってることはそういうとんでもないことだ、ということね。

だから、何も神仏じゃなくても、これからの生き方の最低基準としては、「オレは少なくとも他人のマイナスになることはやらない」、そしてその上で、「自分のやりたいのはこれだ」ときめること。で、それをじっくりやって、棺桶へ足を突っ込むときに、「オレは人にマイナスのことはしなかった。まあいい一生だったな」と思えればそれでいい。この場合、必ずしも宗教は入ってこなくてもいい、とぼくは思うけど、少なくともそれだけの哲学的考え方は必要ですね。


色々と「これはどうなの?」とツッコミたくなる小さな箇所はありますが、凡そ、こんな風に未来を語っていたのが70年代〜90年代だった事は確かですかねぇ。

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潜伏中のケムールの者たちよ、その波長をチャンネルXに合わせよ。

指令Xは終了する。指令Xは終了する。指令Xに係るすべての任務を即時に打ち切り、3日以内に脱出せよ。
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週刊文春8月6日号には、『「ノストラダムスの大予言」五島勉が死去していた』という記事は、丸一ページで報じられていました。

享年90歳。2年ほど前から心不全などの病気を繰り返し、病院に出たり入ったり、今年に入ってからは難病の膿疱性の湿疹が再発。6月上旬に入院するも、食事が摂れなくなり、6月16日、ノンフィクションライター界の最大のスターにして、同時に詐欺師ペテン師と揶揄された五島勉は永眠したという。

五島勉は大好きでしたかねぇ。学習塾へ通っていて、その塾の先生だった大学生が、「みんな読書とかしてる? 今、先生は、こういう本を読んでるだけど…」と取り上げたのが『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)であった。いやいや、小学校中学年ぐらいで五島勉に出会ったのだったと思いますが、率直に言えば、凄いノンフィクションライターだったんですよね。『ノストラダムスの大予言』シリーズばかりが取り上げられてしまうんですが、この頃の五島勉はノンフィクションライター界のスターだったと思う。

ツングースカの謎の大爆発とナスカの地上絵、オーパーツなどについて語った『宇宙人謎の遺産』。ムー大陸が話題になっていた時代に別の角度から、海底遺跡の痕跡から「大陸棚そのものが超帝国であった」と大胆すぎる仮説を展開した『幻の超古代帝国アスカ』あたりは仮説としては兎も角として読み物としては面白かった。それに『ファティマ第三の予言』があって、ユダヤ秘術の解説に挑戦した『ノストラダムスの大秘法』があり、最もシブい作品として『カルマの法則』があった。

どれもこれも面白かったなぁ。最も戦慄したのは『ノストラダムスの大秘法』だったかな。カバラ占星術について記してあり、これを読めば、ノストラダムスという人物が占星術師である事がハッキリと書いてある。ビジョンとして何かを感じ取る能力を持っていたかのような伝承があり、それに基づいているからオカルトなのだけれども、実際に、その人がアーリア人がインドとペルシャとに分岐した事、また、そこから派生した宗教、更には神秘学や隠秘学、更にはユング心理学などに踏み込めば、その実、インチキではない事にも気付くでしょう。

文明は何かを崇めたり、信じ、その方向性で肉付けされ出来上がっている。諸葛孔明は「魔法陣」を知っていたらしいけど、かなりの太古の時代からヒトは、この世には数学的魔法があるのように考えていた節がある。インドの古代哲学には「世界は数えられるものによって構成されている」なんていう学派(数論派=サーンキヤ派)なんてのも、かなり、古層と思われる時代から存在していた。中国人は易・易経ですが、ユダヤ人の場合はカバラ占星術であった訳ですね。

これは素晴らしかったというのは最も地味であった『カルマの法則』であったと思う。カルマとは業の事であり、むしろ、カルマと呼んだ方が分かり易い。オウム真理教事件が起こった時にも「カルマ」という単語が一時的にテレビの電波に乗りましたが、活字として【カルマ】を追えば、そりゃ、とんでもなく深い話である。「あの因業ババアめ!」という場合の「業」(ごう)であり、先日、石原慎太郎さんが失言・謝罪した「業病」の「業」が、まさしくカルマに対応している。

【業】は、しばしば「宿命」と誤解されがちであるが、宿命のようなものは業の一部であるという。「業」とは「行為そのもの」であったりする。善いカルマを積めば当たり前に、それに報いるカルマが訪れ、悪いカルマを積めば、それに報いるように反映されるという、謂わば我々日本人が使用している「因果応報」、その因果応報の因果律、その因子が「カルマ」なのだ。

落とし物を拾ったので、交番に届けたとする。その行為に何かしらの報いが発生する。ここまででホントは完結でいいのでしょう。しかし、人間というのは純粋な法則性よりも、物語性で法則を理解しようとするから因果応報となる。その後に交番に落とし主が現れ、交番を経由して落とし主が拾い主に謝礼をしたいと申し出て、落とし物を交番に届けた正直な拾い主は儲かりましたとさ、めでたし、めでたし、という一連の物語にしないと、それを理解できない。つまり、純粋には「行為には報いがありますよ」という意味である。そこから「善い事をしたら善い報いがあり、悪い事をしたら悪い報いがあるだろう」という因果応報が確立される。ホントは、これ、哲学ですやね。

そこから発展していって神秘学のようなものが19世紀頃に起こる。それ以前には「善いカルマを積んだ(善行した)のに、その通りに報わないじゃないか!」という因果律への不満が起こったりもするようになるが、原則的には善いことをしたら善い事が帰ってくるというのは真理でもある。その通りに報われないのは、人為的な何かを介在しているからであり、飽くまで物事の法則性としての因果応報は誤まりではない。

宗教的な次元に進展したときに、善い事をしたのに善い報いが無かった事で矛盾に達する。これは「努力すれば原則的には報われる筈である」は真理であるが、絶対にそうなるとは限らないというのが現実である。その二つ、原則を原則として哲理を哲理として見極められないのが、いわゆる無明なんですね。報われない場合があるのは、それは人為的な何かが介在しているケースが多い。遥かに高望みをした目標を掲げていれば、その努力は報われないでしょう。しかし、だからといって同時に「努力すれば原則的には報われる筈である」という機械的な法則性、その定理とか公理の否定にはなっていない。少なくとも内因的には努力の成果はあった筈なのだ。思い通りの結末に到らなかったのは、狙いを間違って高望みをしていたか、外因的要素、例えば「競争率が高すぎた」とか「相手が悪かった」とか、そういう外因的な問題だ。内因的な「努力すれば原則的には報われる筈である」という原則は崩れない。

そして、これが輪廻転生と結び付く段階まで進展していったときに、「親の因果が子に祟り」のような思想が生まれた。その文句は精緻ではなくて、おそらくは「親の積んだ悪いカルマが子に祟った」の意である。これを間違って使用すると残酷な物言いになってしまうが、これもDNAとか遺伝子、それらが遺伝する事を知っている現代人からすれば、ホントは、そこそこ興味深い話である筈なんですね。親から子へと継承される遺伝的特質がある。両親は共に黒い瞳であるが生まれた子が青い瞳をしていたら、当たり前に驚くでしょう。体質も遺伝するし、顔貌や体型も遺伝するし、特定の病気を発現しやすい遺伝子なども特定され始めている。また、それらとは別に不思議な事に仕草とか口癖のようなものまでもが遺伝しているように見える場合さえある。

死後、どうなるのか? ホントに輪廻転生はあるのか? そう考えたときに当然、重視されるのは「カルマの法則」なのだ。(仏教的宗教色を排除した哲理として眺めても「おっ!」となる。)

ぱらぱらとページをめくってみたら、やはり、五島勉の功績は素晴らしい。祥伝社ブックス、現在で言えば新書みたいなものですが、ユングは勿論、スエーデンボルグ(当ブログではスエーデンボリ)の霊界通信の逸話にも触れているし、哲学者のアンリ・ベルグソン、チベット死者の書にも言及している。これが詐欺師とかペテン師というのでは気の毒な気がしますかねぇ。インターネットがない時代に、そこまで調べていただけでも、ちゃんとしているじゃないかと思う。

神秘学、リーディングの次元になる。そこで取り上げられているのは神秘学の教義と、当時、最強の超能力者との呼び声が高かったエドガー・ケーシー、そして日本のマリー・オリギンであった。(エドガー・ケーシーの場合は、何かを感じ取る、読み取ることで超能力とか予知能力として騒がれた人物である。「リーディング」という言葉にしても定義に苦慮しますが、世の中には、おそろしく勘のいい奴がいるという事であり、そういう人は未実証の感覚器官でもって何かを読み取っている?)

マリー・オリギン、単純に懐かしいですね。知らない人の為に補足すると一時代を築いた女性占い師ですな。スポーツ新聞で、読みはしないがマリー・オリギンの占いコーナーがあったのを記憶している。かのマリー・オリギンは、実は臨死体験経験者であった。アクティブな女性だったのでしょうか、或る時、水戸街道をオートバイで吹っ飛ばしていると、目の前にダンプカーが現れた。マリー・オリギンは、ダンプカーの後部にオートバイごと突っ込んだ――。

マリー・オリギンが占い師に転身することになったのは、実は、その事故と関係していた。マリー・オリギンの記憶では、水戸街道をバイクで飛ばしてたら目の前にダンプカーが出てきて、そこで途切れている。気が付いたときには、霊安室であった。何故、霊安室であったのかと分かったのかというと、自分で自分の遺体を、遺体の上部から見下ろしていたからだという。状況を補足すると、マリー・オリギンは、交通事故を起こした後、一週間ほど懸命な治療を受けたが蘇生することはなく、そのまま、霊安室に遺体として安置された。その霊安室で、気を取り戻したのが、後に占い師として大ブレイクしたマリー・オリギンであったというのだ。(本人談ですけどね。)

「そんな話を信じられるか?」と思うでしょう? しかし、こういう場合、実にあっさりしているもので、当のマリー・オリギンは「信じられないでしょうね。でも、事実なんです」と静かに語ったという。つまり、なんらゴリ推しするような態度でもなかったらしいから、そのエピソードを自分の宣伝文句にしたようでもないんですね。

確かに、実際にそんな事があったなら、他人に信じてもらおうとか、そういう事は、どうでもよくなってしまうものでしょう。また、これに似た話は、このブログのどこかにも記した記憶がありますね。案外、多い。

テレビタックルというテレビ番組の中で、タレントのヒロミさんとビートたけしさんとの間で、死にかけたときに人生観が変わったという会話が放送されたことがあったかな。死にかけた状態から蘇生した人は、往々に、「オレ、死にかけたんだけどさぁ…」という奇妙な臨死体験を、これはどうしようもない次元で体験してしまうもののよう。

これについては知の巨人の異名を持つジャーナリストの立花隆さんが挑戦したことがあるし、その立花隆さんを案内役にしてNHKが死後の世界を検証したことだってあった。それよりも先駆的な役割を果たしていたのが五島勉の『カルマの法則』であったような気がする。更に進めれば、そこで五島勉は五島勉仮説として「生命子」という言葉を使用し、未だ発見されていない素粒子として、仮称するなら生命子というべき素粒子が存在していて――と読める仮説さえも披露している。これ、数年前に製作されたNHKの「超常現象」でも外国人の女性学者が提唱していた説と似ている。我々が死亡したとき、生命子とでも呼ぶべき素粒子が宇宙に放出され、宇宙を漂流する。そして地上で生命が宿るときとは、その生命子が結実する事である的な仮説ですな。完全に仮説だから実証は不可能ですが、ごくごく稀に前世の記憶を持って生まれてきたとしか思えない子供が存在し、それを検証しているが、それは大昔から一緒なのだ。それが輪廻転生説にも迫る話になり得るから。



拙ブログ:臨死体験は信仰や予備知識は関係ない?!〜2013-02-22
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こんばんワ。この度は緊急事態宣言が出た事によりまして特別報道番組に差し替えての、ゲリラ放送とさせていただいております。案内役を勤めさせていただきますのは、私、ビリー・ミリガン工科大学でネスカフェ・アンバダサーをしております、JACK天野です。

今晩、このゲリラ放送の主旨に賛同いただきまして、スタジオにはスペシャル・ゲスト・コメンテーターとして石上三千年(いしがみ・みちとし)さんを、お招きしております。

石「こんばんワ。石の上にも三千年、石上です」

天「……えー、早速なのですが、このたびの緊急事態宣言を、石上さんは、どのように受け止められていますか?」

石「遅い! 遅すぎます! 遅すぎたので既に日本は滅んでいます!」

天「遅すぎましたね…」

石「それに甘いです。外出している者を発見次第、射殺する位じゃないと、明日にでも日本はイタリアやNYのようになります。このままでは今回の対ウイルス戦争には勝てません!」

天「戦争みたいなものですから、気が緩んでいては勝てない、そういう事ですね?」

石「ニッポン人は平和ボケしているのです。フランスやアメリカを見習うべきです!」

天「やはり、都市封鎖が必要だと思われますか?」

石「都市封鎖では足りません。これは、いわば第三次世界大戦のようなものであります! 実質的な世界最終戦争なのですっ! 今すぐ戒厳令を発動し、立法権、行政権、司法権をチーム安倍に一任し、超権的国家体制にすべきなのですっ!」

天「もう、これは破局的状況だと、ターミネーターとかインディペンデンス・デイの世界みたいな状況、そう言いたいのですね? チーム安倍による戒厳司令官的な超権的国家体制には、ひょっとしたら一年ぐらい前から既になってしまっていた気もしますが…」

石「明日にでも戒厳令も検討すべきです。敵は未知の敵なのですから備え過ぎという事はありません。命よりも大切なものはありません。そうでしょう?」

天「そ、そうですね…」

石「経済なんてクソくらえです。命あっての物の種、命以上に重視すべきものはありません」

天「では、どうすればいいのですか?」

石「例外なしで、すべての活動を停止させればいいのです」

天「電気なども供給しないでいいと?」

石「そうです。電力会社の人も外出禁止の例外とはなりません。蛍雪の功です。孫康(そんこう)という人は雪灯りで書を読んだといい、車胤(しゃいん)という人は蛍の光を頼りにして書を読んだのです。社畜だらけの現代日本人に出来ぬ筈がありません」

天「では、原則としては警察官以外は外出は禁止にするということですね?」

石「いいえ、警察官も外出禁止です。完全に例外なく外出を禁止にして、この最凶ウイルスに立ち向かわねばならないのです。どーせ、警察官がクラスター感染を惹きこ起こす事も目に見えています」

天「しかし、警察も機能停止したら無法地帯になりませんか?」

石「無法地帯になってしまう事と、命と、どちらが大切ですか?」

天「そりゃ、命がないことには始まりませんけど、北斗の拳みたいなヒャッハーな世界で生き残っても…」

石「ヒャッハーの世界になっていても生き残る事が大切なのです」

天「いや、待ってください、それは極端ではありませんか?」

石「重要なのは第一に命であり、その次に治安であり、その次に経済です。先ず、生き残りますよね、そこはヒャッハーな無法地帯である。しかし、そのヒャッハーを生き抜いて、また人類は一から歩み出して、最後に経済を立て直せばいいのです。無法地帯となって治安が乱れ、ヒャッハーな状態になったところで、所詮、平和ボケしている日本人は武装蜂起するほどの気骨はありませんから大丈夫です。この際、完全に最凶ウイルスを撲滅するのが先決なのですっ! そして何としてでも来年夏に東京オリンピックを開催するのですっ! これは決定事項なのですっ! 石の上にも三千年、石上ですっ!」

天「え? ちょっと待ってくださいよ、石上さん、あなたオリンピック、まだ諦めてないんですか?」

石「諦めていませんっ! 何が何でもオリンピックを開催すべきなのです。東京オリンピックが開催できないのなら、私は腹を切りますっ! 辞世の歌もつくってあります! 久方のひかりのどけき春の日に富士の高嶺に雪はふりつつ、京都先斗町に降る雪の中で死のう!」

天「勝手に切腹されても困ります。それにオリンピックと命とではオリンピックの方が優先しちゃってませんか? とゆーか、石上さん、あなた、ホントは東京五輪をやりたいので、なんとしてでもコロナ問題を片づけたいだけなんじゃないですか?」

石「あるいはそうかも知れません。しかし、オリンピックは夢の祭典なんですよっ! 一度、高々と掲げた目的を諦めるなんて絶対に許される事でありません! 私はオリンピックの為なら死んでもいいっ!」

天「………じゃ、仮に、仮に日本ではコロナ問題が一定の終息を迎えたとしましょう。でも、地球上のどこかでコロナの猛威は継続していると予想しなければならないワケで、そんな状況なのにオリンピックを開催するんですか?」

石「おっ、天野さん、あなた、今一瞬、一年後にはコロナ問題は終息しているんじゃないのかって、ちょっと認める気になりましたね?」

天「なってませんよっ! むしろ、考えにくいでしょ、現時点の状況からすればっ!」

石「オモテナシしたくないのですか?」

天「したくありませんねっ!」

石「アスリート・ファーストのオリンピックを、オモテナシの精神のオリンピックを、この美しすぎる東京で開催したくないのですか? ザハ氏が設計した新国立競技場と、佐野氏がデザインした、あの幻の五輪マークで東京五輪開催を成し遂げるべきなのですっ!」

天「反吐が出そうなほどの、キレイごとですねっ! そんなの、すべてあなたのエゴじゃないですかっ! 新国立競技場は設計をやり直し、商業主義まみれのデザインも変更したんですよっ、忘れたんですかっ!」

石「断じてエゴではありません! このニッポンの将来を背負って立つ、子供たちの為に、どうしても東京でオリンピックを開催してやりたいだけなのですっ! なんとしてでもレガシーを残すのですっ!」

天「あなたが、そんな他者を慮るタイプの人間には見えないのは何故でしょうかっ! ホントは子供をダシにして自分がオリンピックを見たいってだけなんじゃないですかっ! どーして素直に、そう言えないんですか?」

石「違いますっ! 子供たちやお年寄りたちの為に…」

天「きれいごとにきれいごとを重ねるのは辞めましょう。図星ですね? 現在だってフランスでは緊急事態宣言下で児童虐待や家庭内暴力が増加していると報じられていますね? 日本でも一部報道では、この自粛ムードの中で家庭不和が発生し、コロナ離婚だの、コロナDVが懸念されるという声が上がっているようですよ? ホントは世界中、どこもかしこも腐ってるって事じゃないですか? 未来の子供たちに夢を与えたいなんてきれいごとを言っている連中は、同時に日本にカジノを呼び込もうとしている事に矛盾は感じないんですか? 現在の為政者なんて頭の中は、カネと地位、つまり、頭の中は権力の事だけで一杯なんじゃないですかっ!」

石「あなたはニヒリストだっ! 愛を知らないっ! 人類を信じていないっ! ネスカフェ・アンバサダーだからって、そんな傲慢、許されませんよっ!」

天「いやいやいやいや、あなた、本気で人類なんて信じているんですか? 自分の隣人だって信じていない癖に? 愛? どこに愛なんてものがあります? それにですね、ネスカフェ・アンバサダーの意味、分かってます? カタカナ語ならなんでも偉い職業だと勘違いしてるんじゃ…」

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チャンネルNECOにて「12モンキーズ」を視聴。視聴したつもりになっていたのでしたが、どうも初視聴だったよう。結構、愉しめてしまったというか満喫できてしまった…。話題としては今更でもあるのですが…。

字幕で視聴した限りでは、結構、ブラピ演じるジェフリー・ゴインズの発言が気になりました。

「もう誰も働かないでも済んでしまう時代になったから、物を買うヤツが正常で、物を買わないヤツは精神異常者にされちまうんだ」

というセリフでした。1995年作品である事を考慮すると、結構、鋭い文明批判になっていたのではないか。

実際、ケータイ料金プランや、保険商品・保険制度なんてものになると、使うは使うほど、その人に恩恵がもたらされ、使わない人にはそんなに恩恵がないという世界が登場してしまっている。挙げ句、電子マネーを否定的に語るとキチガイ扱いされてしまう世界になった。或いは、いい歳をした大人が若いコのケツを追い掛けてどうなのか的な言説も昨今ではアウトでしょう。「時代遅れ」と糾弾され、「老害」と認識される。昨今、好ましい理想的な人物である為には、若者や子供に対して媚びて媚びて媚びまくらねばならなくなったと思う。スポーツ中継とゴシップ記事に常に関心を持ち、「eスポーツ」と名乗りだしたテレビゲームについても手放しで賛美せねばならない。

そのジェフリー・ゴインズが精神異常者なのか健常者なのか、はてまた、どのレベルで異常者なのかが最後まで分からない。また、主人公・ブルース・ウィルス演じるジェームズ・コールは妄想と現実との境界を行き来してしまっているので、どちらが現実世界なのか分からなくなるという設定。

さて、ブラピ演じるジェフリー・ゴインズというイカれた青年は、人類を滅亡させる禁断のウィルスを世界にばら撒こうとしている。ブルース・ウィルス演じるジェームス・コールは、そのウィルスを1996年12月27日にばら撒こうとしている事を知って、未来から作戦の阻止にやってくる。しかし、未来が現実なのか、命令でやってきた1996年が現実なのか分からなくなってしまい、終始、物語は混乱しながら進捗する。女性心理学者のライリー博士だけは半信半疑の中で、少しづつ物事を理解してゆく。1996年年末に地上の生物を全滅へと導く、ウィルスがフィラデルフィアを皮切りに世界中にばら撒かれる未来があり、何故か、その未来からの使者としてジャームスがやって来た可能性があるのではないか――と。そして、ウィルスをばら撒こうとしている連中は「12モンキーズ」(Twelve Monkeys)と名乗るグループらしく、それがジェフリー・ゴインズら少数のイカれた若者グループである。

ライリー博士はジェフリーを精神分析して「カサンドラ異常心理」という言葉を使用している。ライリー博士によれば、繰り返し繰り返し「世界が滅亡する」と予言した女性予言者「カサンドラ」なる人物が過去に実在し、その名前が、その病名の由来であるという。不安心理から破局が起こると思い込んでしまうという心理状態は誰にでもあり、それが異常レベルまで達してしまったものが「カサンドラ異常心理」と呼ぶのだと劇中で説明している。

精神異常者と健常者が紙一重であるという、そのヤバさが作品を貫徹している。薬物中毒なのか精神異常者なのか、案外、マトモな思考能力を持っているのか、12モンキーズのリーダーであるジェフリーの正体が分かり難いのだ。しかも、ブルース・ウィルス出演作品にありがちな、分かり易い結末ではないというあたり、物凄く不条理なSF映画になっている。

英国の伝説的コメディ集団「モンティ・パイソン」のメンバーだったテリー・ギリアムの監督作品だという。なるほど、こーゆー作品を作ってるのかぁ。確かに凄いなぁ。不条理であるが故に怖さってヤツですかねぇ。「未来世紀ブラジル」は幻想的な作品でしたが、こちらは結構、突き詰めると怖い作品であった気がする。日常の一歩向こうは非日常。


現在、アメリカとイランとの間で結構な歴史レベルでの緊張が高まっていますね。で、実は嫌なタイミングで、昨年12月27日頃、自衛隊のペルシャ湾派遣が閣議決定したという報道が新聞の国際面に掲載されていた。水面下で起こっている事とは、―乎津自衛権の問題であり、日米安保の問題であり、アングロサクソン的中東支配及び其れに反する中東情勢の問題である。つまり、集団的自衛権ぐらいは仕方がない事だよねと一般的な日本人の見識は、そう構えていたのですが、いきなり集団的自衛権の問題によって根っこの深い中東問題に引きずり込まれてしまったという、このスピードに対しての驚きなんですね。

そりゃ、なんとなく、アメリカもイギリスもフランスも西側陣営であるから強気になれる部分もある訳です。しかし、冷静に考えると、これはパレスチナ分割などにも絡んだ中東問題と根っこが繋がっており、第一次大戦や第二次大戦の戦後処理でワケの分からぬままにイスラエル建国を是とし、イスラム社会及びアラブの人々、ペルシャの人々に自由主義陣営の獺賢瓩鯊任噌んできたアングロサクソン的な世界戦略の失敗した部分とも関係している。

誰も自覚らしい自覚はない。ところがシオニズムの問題はどうか? 一昨日、近代に於けるシオニズムの登場に触れました。しかし、正確を期すと、それよりも40年ほど前にシオニズムは登場しているし、シオニズムの中には狂信的なシオニズムも紛れ込んでいる。つまり、聖書に従って来たるべき審判の日が来る事を信じている人が唱え始めた何かなのだ。その審判の日の前には、大破局が起こらねばならない。このヤバさが、12モンキーズのストーリーとも微妙に符合しているように思えるんですよねぇ。現実世界と幻想(妄想)世界の境界で、現実的な判断は不可能になる次元がある。そこで存在感を示すものは、案外、強固で偏執的な人の持つ観念かも知れない。

説明すると、シオニズムの問題とはそれなんですね。20世紀のアメリカで、シオニズムに関しては世論は二分されたという。アメリカ人として生きるべきなのだからユダヤ人というアイデンティティーを強調すべきではないというユダヤ系アメリカ人と、そうではなく、やはりユダヤ人が生き残る為にはユダヤ人国家が必要なのだという主張するユダヤ系アメリカ人とで二分されたという。プロテスタントで白色人種の主導層からすれば、シオニズムは大した問題でさえなかった。しかし、戦争によって混乱する中で、ユダヤ人の支持率が欲しいという職業政治家の立場であるとか、或いは政府としてユダヤ系財閥の財政支援を受けねば財政が大変だとか、ナチスの迫害によって生まれてしまったユダヤ難民をどうすべきなのかとか、そういった思惑が浮上、さほど決定的な理由もないままに、イスラエル建国がイギリスとアメリカ、アングロサクソンのプロテスタントによる都合で決まってしまったのが、どうも史実なんですね。何某かの理念が貫徹されたとか、そーゆー話ではない。そしてイスラエルの建国と同時に中東戦争が始まってしまい、パレスチナ難民が出てしまったという国際情勢を客観的に眺めると、何が何だか分からぬままに、現在まで紛争と戦争を継続させてしまっている問題でもある。

シオニズムが理性的に生じたとするのは無理がある。やはり、どこかにシオンの丘の場所に国を構えたいという狂信的なシオニズムが介在していないとは言えない。聖書の時代の、聖地に国家を持ちたいという意向がくっついており、これは不可分な問題でしょう。そうプロパガンダしていたんだし。いにしえの聖地とされているから、そうなったのであり、時代が経過する中で、そうした信仰は年々強化されてゆく事になる。おそらく、審判の日が来る事を信じている人も少数ではあっても居るでしょうし、再臨を信じているという狂信的な人も紛れ込んでいる問題なのだ。「ユダヤ人」というとレッテル貼りの効果によって、その像を作ってしまう訳ですが、実相としては多くのユダヤ人はマトモだし、ユダヤ教徒にしてもオウム真理教事件と一緒で必ずも狂気ではないし、企図していない。しかし、この「12モンキーズ」に登場するジェフリーのような、厄介な人物が登場する可能性は有ると思う。(設定では「過激な動物愛護主義者」であるが、それが、どうにか一線を超えてしまうと「この世を滅ぼす」という本格的な破滅への案内人になろうとする狂気の次元がある。)

関係者の誰一人として、そうなる事を企図していないが、何故か、あらぬ方向へ事態が向かってしまうという不思議がある訳ですが、これが猯廊瓩箸いΔ發里良垰弋弔気も知れませんやね。権力とは、そういう奇妙なバランスによって動くものだという。

それこそ征服することを意図して起こされた征服戦争もある中、征服することを意図せずとも、戦争をせざるを得ない状況に追い込まれて起こった戦争も、結構な数になるのが実相ではないだろか。権力による綱引きが起こる中で、狂信的にして微弱な何かが最終的な決定権、casting voteを握ってしまうというのが、イスラエル建国の場合のカラクリであり、シオニズムの怖さであった。そういう状況になると、人々は平然と自分たちを正当化する事が出来てしまう。或る者は自分を欺いて正当化し、或る者は盲目的正義を信じ続け、そして或る者は自分たちが引き起こした惨劇であるが、それを神の思召しと解釈し、また、「神との契約であった」と理解する。

世界のリーダーと呼ばれるような人物は、おそらく自覚がない。ただ、目先の問題を解決しようとして足掻いている。トランプ政権によるイラン革命防衛隊の司令官殺害は年初の混乱の中で起こり、トランプ自身もイスラエル人の婿がいるので、反イスラムのスタンスであり、且つ自覚する限りは軍事的優位だから、こうした作戦を承認したのでしょうけど、トランプ大統領の想定を超えて物事が動いてしまうのが逆説的に説明できる現実というものだという話ではないのか。

相対主義とは、そういうものであり、アラブ諸国では「アラブは一つ」という思想があるという。言ってしまえば、反植民地主義であり、反イスラエルであり、汎アラブとなる。当たり前といえば当たり前なのですが、それを西側陣営は見えないふりをしてしまっている。イラン人のアイデンティティーはアラブ人ではなくペルシャ人だとの事ですが、それら固有性、多様性を無視して押し付けているのが現行の世界秩序であり、実際にはアングロサクソン主導のイスラエル擁護で中東情勢が形成されている。そこにイスラム教やマルクス主義が絡み合ってい反帝国主義をやっているのだから、この戦いは終わりがない戦いなのではないだろか。

アラブ人に言わせれば、西洋人とは文明の簒奪者であり、文字やら数字、宗教も本来はアラブ起源だと考えているそうで、当たり前といえば当たり前だ。和辻哲郎の「風土」あたりを読めば、あの沙漠一体の風土から生み出された文明とは、死と密接に関わった殺伐とした何かだという。果物が豊富に実る南国でもなく、日本のような季節風があって四季によって住んでいる景色が変わる風土でもない。その苛酷な殺風景の風土が生み出した文明が、それだって事になる訳ですね。一神教の秘密でもあるかも知れない。

「集団的自衛権ぐらいは仕方がないのでは?」と考えていた層、或いは親米保守として「集団的自衛権は当たり前だ」と考えていた層にしても、急転直下、思わぬ事態へと転がっているという事を自覚しにくい。自覚しにくいままに事態が転がされている。

拙ブログ:「救世主」と「マゴグの地のゴグ」〜2013-8-29

拙ブログ:欧米はいつ世界を支配したのか〜2016-10-23

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何かを選ぶときに、次のような呪いをしていた記憶がある。各地方で少しずつ呪文が違っていたらしいのですが、私の育った環境だと、確か以下のような呪文であった。

どれにしようかな 天の神様の言う通り

おべべのべの反対側は、どれにしようかな


変形するというのは二行目以降であり、「おべべのべの反対側は…」あたりは地方によって変形があったという記憶なのですが、詳細を記憶していない。しかし、問題はそこではなくて、この御呪いの中で「どれにしようかな 天の神様の言う通り」という型が実在していたという事であろうと思う。

この「天の神様」とは何者であろうか?

直ぐに思い浮かべる事ができる「天神」とは、菅原道真だという事になってしまい、私が目にしてきた各種もそうであったので、「はて? 菅原道真信仰とは?」になってしまった。すると、しばしば菅原道真の祟りを怖れるだけの話になってしまう。しかし、これ、冷静に考えると違いますね。どう考えても、それこそ関東地方で菅原道真信仰なんてものがあるとは思えない。せいぜい、合格祈願の対象、学問の神様でしかない。

明鏡国語辞典で【天神】を引きば、

‥靴凌澄あまつかみ。てんしん。
⊃原道真を祭神とする天満宮。また、菅原道真の神霊。
〔俗〕梅干しの核(さね)。

とある。

やはり、「菅原道真=天神様」という解説が浸透し過ぎていて、意識を逸らされてしまうのでしょう、元々、この天神とは「天の神様」であろうことが薄々分かる。「天神様とは菅原道真の事である」とか「天神とは天津神を指しており、国津神と対立する渡来の勢力の古代の神である」のように物事を硬直的・確定的に理解しようとすると、その都度、そこで転ばされしまう事になる。これは我々の知るところの「天の神様」こそが、最も原義に近く、おそらくは「天に坐します神」である。

翻って、この御呪いは、その「天の神様の言う通りにしますよ」という呪文になっている訳だ。

【天神】といえば、もう一つ、馴染みのある呪文があって、こちらは節がついてますね。わらべ歌だ。


C:通りゃんせ、通りゃんせ
A「ここは何処の細道じゃ?」
B「天神様の細道じゃ」
A「ちっと通してくだしゃんせ」
B「御用のない者、通しゃせぬ」
A「この子の七つのお祝いに、御札を納めに参ります」
C:往きは善い善い 帰りは怖い 怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ


誰も彼もが、この「わらべ歌」に何か恐ろしさを感じる訳ですね。かなり特殊なわらべ歌だ。節回しとして「おどろおどろしい」というのもあるのですが、後半の「往きは善い善い、帰りは怖い」という辺りは、きっと西洋人や日本人であっても当代のデジタルデバイス世代には理解できないであろう怖ろしい神の姿が歌われている、その回路がある。

この「とおりゃんせ」については、昨年あたりテレビで、そのモデルになったとされる神社の参道を取材している番組を視聴した記憶がある。しかし、諸説あって定かではないみたいな話が付け加えられていたのだったかな…。しかし、このわらべ歌の特殊性は「往きは善い善い帰りは怖い」にあるような気がする。

私の体験では、別に神社への参拝は関係なくて、どこかへ遊びに行っていて帰宅する時間が送れると日が沈んで暗くなる訳ですね。急いで帰らねばと子供心に思う。お寺の裏の道などは舗装もされておらず、右も左も竹藪だったりして、その細道を通るのは、ごくごく単純に「おっかない」ものであった。だから、「往きは善い善い、帰りは怖い」という感覚は身近でした。遊びに行く為に、その道を通るときは気持ちとしても弾んでいるので、その道を怖いとは感じない。しかし、その道を帰る際には、その道の怖さに怖気づく羽目になる。まさしく「往きは善い善い、帰りは怖い」なのだ。

これ、何かの教典の翻訳でしょうねぇ。「往きは善い善い、帰りは怖い」とは、人の人生そのものであり、「生まれて成長して頂点を迎えた後には衰退が始まり死に到る」という絶対不可避のライフサイクルという名の唯一の因果律に当て嵌まる。この教義を、子供にも分かりやすいように簡略化していったら、こうなる。すなわち「往きは善い善い、帰りは怖い」のだ。そして、それは我々が知っている数少ない絶対的な因果律である。生きている者は死ぬ。芽が出て成長して花を咲かせ、種を残した後は枯れてゆく。「栄枯盛衰」の話であり、無限に成長できたり繁栄する事は理(ことわり)として有り得ない事を暗示している。還ろうとしたとき、すなわち、往還に置き換えれば、それは帰り道であり、その帰り道は、衰亡を意味しているのだから、怖くて怖くて仕方がない。

適当な事を述べているようですが、これは確信的なのではないかなって思う。冒頭へ戻って、これが「天の神様」を崇めてきた日本人の信仰の真の相であろうと思う。

以前に【天道思想】という用語について言及したこともあったし、天皇論を念頭にして【天】についても考えてきましたが、信仰のようなものは広く民間に広まって共有されてこそ、成立する概念であり、奥義のようなものと俗世間との間に乖離があってもいい訳ですが、余りにも乖離し過ぎてしまっている。そうではなくて、何を実際に日本人は信仰してきたのかと、実際ベースで考えた場合、おそらく日本人の多くは「天の神様」なるものを民俗の次元に信仰してきたというのが実際だろうと考えるべきだよな、と。

で、「天の神様」とは具体的な何か、特定した何かではない。菅原道真の御霊に限定されないし、誰々が祀る特定の神でもない。ただただ「天に坐(ま)します神」である。原始神道は山や岩を崇めていたとされ、ごくごく霊山などを崇めていた訳ですね。恵みをくれる大自然を崇めていた。そこへ幾分か宗教的な教説が加わって、祈祷のようなものや儀式のようなものへと発展する。具体的に何かを祀り出すのは、その次の段階でしょう。明らかに原初段階では大自然を神と崇めていたのだ。その原初段階から特定の教理・教説を持った段階で、太陽が神となり、星辰が神となった。大自然を司っているのは天文であろうとなる訳ですね。いわば、その正体とは「自然そのもの」であり、宇宙の発見後は「宇宙そのもの」であり、観念的な要素を加えて信仰する為の対象、名前を持たせれば天照大御神、大日如来、太上老君などとなる。教理・教説でいえば仏性が分かりやすいものと思われますが、東アジアに大きく関与しているのは易経を中心にして発展した「道〜タオ」であろうなぁ…となる。

そして「天の神様」の抽象性の中にこそ、その秘密がある。

「どれにしようかな、天の神様の言う通り」

と呪文を唱えている通りであり、我々は偶然の中にも神が介在していると考えているのだ。「やるだけやったさ。後は天運に任せる」とか「天命に従う」という具合に、実際の行動様式の中に「天の神様」を有している。この偶然の中に神を見い出せる事は、これは「易」の影響が大きいとしかいいようがない。芽吹き、成長し、花を咲かせ、実をつけ、枯れてゆく。生あるものは必ず死ぬ。それらの絶対的因果律を踏まえて作られいるのが「易」であり、日本神話の原点的なものであろう古事記あたりにしても乾坤、陰陽は欠かす事が出来ない目に見えぬ重要な要素になっている。わらべ歌として存在しているという事は、それが広く民間に広がっていた事の動かぬ証拠とも言えるのでしょうし。

福永光司著『道教と古代日本』(人文書院)には、浄土真宗についても言及されているのですが、これは漢訳仏典としての無量寿経に影響を受けたものであり、無量寿経そのものは仏教と道教との混淆によって成立しているという。無量寿とは「寿命に際限なく…」の意味があり、どうも神仙思想と似ているのだ。そして、それがどこかでヤマ王(閻魔大王)の話とも混淆してしまう。つまり、日本人の多くは、自分の寿命は「天の神様」が司っていものと認識している可能性が高く、それが「あの世」があると思考する日本的な浄土信仰になっていると眺める事が出来てしまう。仏教的な教説を取り入れながらも、尚も「天には逆らえない」という考え方が色濃く残っている事に気付かされる。

どこでどのように混淆したのも定かではない。しかし、死んだら死後の世界があって結局は、あの世で生の続きがあると考えない事には、阿弥陀仏は成立しないんですよね…。また、弥勒菩薩がマイトレイヤーと同一のものである事は、しばしば語られてきた話でしたが、とどのつまり、この世が終わった後に登場するのがマイトレイヤーであるという考え方は、西洋にも普及している。救世主が登場する。しかし、この話、実は必然的に、こうならざるを得ない。永久不滅を希求するが永久不滅は現実的には考えにくい。なので、この世は滅亡し、信じる者のごくごく一部だけが世界滅亡後の世界にも生き残るという筋書きしか描きようがない。無量寿経は道教的な要素と混淆しているものの、【劫焼】や【劫水】といった言葉があるという。やはり、言わんとしている事は「ヨハネの黙示録」と同じような終末論であるという。大洪水を思わせる「劫水」や、燃焼されて終結を想起させる「劫焼」によって、この世は終わるかも知れないと認識しているという。形而上で試行してゆくと、実は当然、そこに行き着く事になる。

大洪水によってこの世が終わる、大火災によってこの世は焼き尽くされるというと、まるで西洋思想のようであるが、そうではない。同じ事を東洋思想も説いていたのだなと思い知らされる。滅びた世界の後に、一部の者は助かる。彼らがする事は何かというと「世直し」をするのだという。(ひょっとしたら、オウム真理教のハルマゲドン計画なんてのも、こういう話であったのかも知れませんやね。)

元々は永久不滅、不老長寿を希求していたから、そうした終末論には驚かされる。しかし、冷静に理で考えてみれば、それは必然でもある。これが整備されたのが三世紀の魏晋の時代であるという。よくよく考えてみれば、自然という神には抗いようがない。その圧倒的なスケールに気付かされることになる。思えば、或る種の諦念が終末論に行き着いており、且つ、終末があるからこそ、再生の道が開ける。その形而上の思考実験に沿っている。

天には寿命を司っている神が居ってな、あの人が早死になのも御長寿なのも、天の神様の計画通りなんや。「三尸(さんし)の虫」という虫が、人の腹の中に棲んでいて、この三尸の虫が庚申の晩に、神様の下へ、チクりに行く。だから寝たらダメなんじゃ。夜通し、騒いで起きてないと三尸の虫によって、悪業を天の神様に報告されてしまうんじゃ…というのが「寝ずの番」って事だ。
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『黄金の華の秘密』に記されている「三観」の解説は、非常に優れた解説なのではないかと考えるようになりました。

先ず、空観ですが、これは「一切は空である」の意である。

次に、仮観ですが、これは「一切は空なのだから、一切は仮象である」と説くとする。

最後、中観ですが、これは「一切は空である。だから万物は仮象である。だから執着は不要である。真実を見よ」のように解する事ができるのではないか。

このシンプルな理解こそが、仏教・天台宗話ではあるのですが、確かに言わんとしているところの混淆した東洋思想の非常に重要な一部という事になると思う。

ゴータマの仏教からは離れているような気もしますが、そもそも空観については龍樹(ナーガ・ルージュナ)がもたらせたもので、この龍樹については、伝承でも怪しげな仙術を使用し、バラモンの宮殿に透明人間になって忍び込み、女官たちを次から次へと姦淫してしまった妖術使いであったという伝承がある。ついつい【空観】という言葉を目にした途端、それを仏教とカテゴライズしてしまうものの、これが意味している事は、明らかに神仙思想から道教へという流れの中になる。となると、空観とは高い確率で、その起源は老子の「ふいご」であろうと考えられる。神仙思想に老荘思想が結び付いて、それがいつの間にやら民間信仰としての仙術信仰のような形になって道教が出来上がっているのだから、龍樹が伝えた「空」とは、やはり、それなのでしょう。火を燃やすには、ふいごで風を送ればいいが、そのふいごの中身はカラッポである。

これは猴儉瓩療学とでも呼ぶべきもので、ホントはカラッポであるが、その中身がカラッポのふいごであっても、その用い方によっては風を送り出すことができる。物質としての「ふいご」や「焚き木」、「炎」がどうのこうのではなく、現象の本質を見ようとするならば犧醉儉瓩鮓よ的な話である。また、そこから「この世の中にあるもので無用なものなどあるものかね」という具合に荘子が続けて「無用の用」や「万物斉同」へと繋がっている。

西洋風に述べると【形而上】と【形而下】とがあって、形而上のものは目に見える形を持たず、形而下のものは目に見える形を有する。元々は西洋でも形而上の観念などに熱心であったが、徐々に目に見えるもの、視認できる確実なもの、物質的なものを重視して、その科学体系がつくり上げられてゆく。それに対して、東洋思想というのは異なる回路で形成された。

ピンと来たのは「黄金の華の秘密」には、瞑想、静坐による修練で、無駄なエネルギーを使用する事を極端に避けるように説かれており、精を漏らす事はムダとされている。そのような仙術の話にもなってきて「気」で女性を懐胎させる云々というクダリが登場する。これは、まさしく龍樹の伝承と合致しているじゃないか。その部分には、くっきりと道教的な匂いが感じられる。

【仮象】という言葉は仏教の解説で登場したかどうか記憶がない。しかし、ここで説明されているものであれば理解は難しくありませんやね。一切は空である。空なのだから、そこで目に見えているものも仮である。これは、むしろ西洋的な説明になっていますが、まぁ、そのまんまでしょう。

で、その上で「中観」となる。そういうものだから、執着するべきではないぞよ、と。

そして、その先がある。この空観・仮観・中観では「真」が何処にあるのか示されていない。真はどこにあるのか? 巨大なハマグリが蜃気楼をつくり出しているという具合に組み立てられいるので、それを「昔の人はバカだなぁ…」等と嘲り笑う訳ですが、仮象の理屈が分かっていないと、ハマグリが蜃気楼をつくり出しているという不可解な仮説は立てられない。また、「ハマグリ」が何を意味しているのかを、各自が胸に手を当てて考えみるのも一興かも知れない。

かのカール・グスタフ・ユングが太乙金華宗旨に解説を加えていたので連想できましたが、ハマグリとは、ひょっとしたら女陰を連想させている可能性がある。ユングであるから「アニマ」や「アニムス」という単語を使用しているものの、それが意味するところは女性性であったり、男性性、正確には異性に抱く理想像といった意味合いの用語ですが、女性に帰属する何かの事として「ハマグリ」が捻り出されたのであれば、これは新鮮だよなって思う。そんな事はないだろうと言いたくなるかも知れませんが、道教では魔除けとして桃を用いる。桃は仙果として尊ばれてもしている。しかし、ディープに分析していゆくと、この桃が魔除けになるとは、桃の種が女陰の形状に似ているから魔除けになると解釈された可能性が高いという。男性であれば、思わず女陰に目を奪われてしまうであろうという理屈で、邪視という。しかも、これ、最新の実験でも男性は女性の写真をみると瞳孔が反応するとされている通り、デタラメなようでありながら、或る程度は理屈で説明できる話なのだ。

道教というのは老荘思想に秘術的なものを結び付けて発達しており、或る意味では徹底しているところがある。仙人の棲む山には入れないように入らずの山にし、護符なども開発しているが、護符には渦巻紋を記し、容易な侵入を防ごうとする術なのだ。動物の紋様が迷彩柄のようになっていたりしますが、それは外敵から我が身を守る為の迷彩であるという。中には、渦巻き紋というのがありますが、渦巻き紋というのは、その紋そのものが外敵を一瞬だけ欺く効果があるとする。

自分でも忘れていましたが、南洋に、でんでん虫の逸話があるという。

空は、一匹の小さなでんでん虫の触覚が何かを語り掛けたいかのように動いていることに気付いた。そして空は、でんでん虫の話に耳を傾けてみた。

「空さん、あなたはとても広大で、どんな地平線でも水平線でも超えてゆく。でも、自分よりも大きなものは、この世に存在しないと思う前に、どうかちょっとだけ、私の話に耳を傾けてください。そうすれば、あなたよりも私の方が大きいことを分かってくれるでしょう」

空は、でんでん虫が何を言わんとしているのかを考えた。でんでん虫が背負っている家には螺旋の印がついている。その螺旋は中心点から出発して外側に向かって広がっている。あの螺旋の印は延長してゆくと、空よりも大きくなるのだ。

空は、でんでん虫に返答した。

「その通りだね、小さなでんでん虫さん。私は今、はじめて自分よりも君の方が大きいということに気が付いたよ」

でんでん虫が返した。

「話を聞いてくれてありがとう、空さん。お礼に秘密を教えましょう。私が背中に背負っている家についている印は、五つの優れた特性を表わしています。この特性を習得した人間たちにとって、空さん、あなたは努力の限界を表わしているのです」

で、オシマイ。螺旋という形状が持つ魔術的にして秘術的な何かが、のどかな空とでんでん虫との会話の中に盛り込まれているっぽい。


なんじゃ、この不可解な逸話は…。しかし、でんでん虫の背中の螺旋模様が、何か特別な秘密の模様であるという理解がないと、こういう伝承も生まれないのかも知れませんやね。

さて、最後に「真」はどこにあると考えられていたのか――となりますが、やはり、天界であるという。真は天界で起こっているが、それが現実世界では仮象として起こっているとするから。

では、何故、「天」に求める事が出来るのかというと、天と地とで、天地(あまつち)ですが、人に宿っている魂魄、その魂は天へ繋がっており、魄は地に縛られているというのが、この種の考え方になっているから。肉体は土に還り、魂は天へ帰る。

「天」は即ち「真」なのかというと、これは似ているが少し違う気がする。道教的には「太乙」のようになり、密教であれば「大日如来」になり、不可分な一つの宇宙的自然摂理となる。

思えば、我々、日本人にも馴染みの死生観であるような気もしますけどねぇ。
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「太乙金貨宗旨」という金丹教のテキストは『黄金の華の秘密』というタイトルで書籍化されているが日本では知る者は少ないが、それでいてヨーロッパでは文庫本にもなっているという。中国に現存した金丹教なる民間宗教の教本だという事なのですが、内容的な事からすると、ハチャメチャでもある。

主旨としては「金丹という仙薬をつくる」と掲げておきながら、読み進めてゆくと「仙薬をつくることとは、光の瞑想によって体内に仙薬をつくることである」となり、「秘薬と伝わる金丹とは、三観(空観・仮観・中観)である」と記されてる。単語としての【仙薬】や【金丹】というのは、あんまり関係なくなってしまうのだ。

呂洞賓という仙人が現れて、その系譜の教えだというから道教と解説されているものの、内容的には仏教的な要素が非常に多い。ヨガ、坐禅、瞑想、止観ときて、実際に釈迦の名前が挙げられて、挙げ句には天台、空観、中観のように内容そのものが流されて行されていってしまう、奇妙さ。それでいて、元王朝時代や明王朝時代、この金丹教は民間宗教として隆盛を誇ったものだという。

日本にも「日本教」という概念があって、なんでもかんでも取り入れてしまったが故だろうか。初詣で神社へ参拝し、教会で結婚式を挙げて、寺院で葬式を挙げ、何が何だか分からない。しかし、日本教が教理とか教条のようなものに対して何らこだわらないのに対して、金丹教の場合は明確に「これは仏教の瞑想・坐禅とは異なる手法である」のように秘伝の書のような体裁になっている。

どのようにして、こうなったのか謎なのですが、解説に拠れば、ユングが言うところの自動書記という奴であり、シャーマニズムの影響が考えられる。依代に何かが降臨して、その依代に文書を書かせるという方法。だから支離滅裂になりやすく、且つ、途中から仏教の持っている理法を取り入れており、しかも、かなり仏教的である。しかし、仏教とは肝心要の瞑想の方法で異なる。この金丹教、光を回せという独特な瞑想方法によって「もう一人の自分と対話せよ」のようなオリジナリティのある瞑想方法を指南している。

瞑想を始めると、野狐禅の話なのでしょう、途中で菩薩などが見えるが、それはまやかしであり、それらに捉われると魔境に迷い込んしまうと指南している。本当は、その瞑想の終着点は犖瓩鬚澆襪海箸砲△襪箸いΑb堊枌罅△気泙兇泙平澄垢靴い發里見えてくるが、それらはマヤカシであり、そちらとコンタクトを取ると魔境にしか通じないが、いつか白い光が現れて、その時には天にある、宇宙にある真界とでも呼ぶべき世界に到達している、と。

ここで謎が解ける事になる。この教本の【金華】とは周囲を欺く仮の姿であり、仮の名前であり、本旨は「光の教え」と理解しない事には、どうにもならない。この民間宗教は厳しい弾圧を受けていたというので、日本の隠れキリシタンのように周囲を欺く必要があり、「金華」という漢字二文字の中に「光」という漢字一文字を符牒として紛れ込ませたものではないのかという仮説が紹介されている。これは実際に、それに目を通せば、合点のいく部分もあるのですが、瞑想法の解説に比較して、仏教を説明している箇所は如何にも脈絡がないんですね。だって、仙薬・金丹の作り方の話が、いつの間にか「空の境地を理解する事なんじゃよ」という話にすり替わってしまうのは、幾ら何でも不自然だ。

して、この金丹教、どうも、曰くつきらしく、古代ペルシャの宗教との類似点が指摘されており、どうも、いわゆる西洋人がいうところの東方、そこにあった秘教の影響を受けているという。この「太乙金華」という言葉の「太乙」とは、タオ(道)ですが、非常に良く似ているのは「アフラマズダ」の神である。陰陽二極で一体。分離はできない。つまり、太極図ですが、それはアフラマズダは似ている。かなり古層の神概念にして哲理であるのは間違いなさそう。言ってしまえば、人格を持つ創造神が居て、その神の名の下に人々を教化した次元の哲理よりも、高度な何かである。

そして「黄金の華の秘密」の猗詭瓩箸蓮◆峩皺據廚箸いΥ岨二文字の中に「光」という漢字一文字が隠されたまま、言い伝えられている秘密を意味しているのかも知れない。真の名前は隠すんですね、東洋では。元服前の幼名は意図的にみすぼらしい名前をつけて、呪われぬように防衛しますが、確かに、こうした呪術的な回路を有しているのが東洋でもある。

グノーシス主義はキリスト教の主流派から異端扱いされ、残された文献は僅かしかなかったが、その秘教的な要素が、この「黄金の華の秘密」に隠されているという。

学術界から去った後のユングは、それらにガチで取り組んでいたっぽい。「白い光」うんぬんについては「死海文書」を想起させるなどと言及している。「チベット死者の書」、「ヤコブ・ベーメのマンダラ」にも触れられている。

更には、ギリシャ神話から神の火を盗んだ為にゼウスによってコーカサス山に磔にされ、肝臓を鷲に食われては復元するという無間地獄に遭ったプロメテウスの話などにも触れながら解説している。そして粘土から人間を造ったとされるのも、このプロメテウスなのだ。

「1+2+3+4」の解は「10」となる。ピタゴラス学派は、これによって「10」を「完全な数」と認識し、「完全な数」が実在する事で、同時に「神の存在」を確信したという。これは図にすると分かりやすいのですが、「テトタクリュス」なる数字の「4」を重視して万物の原型とみなした数的理論を解説している。

テトタクリュス


別に大した話ではないように感じますが、古代中国には『易経』が存在しており、それは現代人が言うところの2ビット方式によって1が2に枝分かれする原理を、高度に応用していないと易経は成立しない。易経は単に「1」を「1a」と「1b」とに二分するだけではなく、その「1a」も「1aa」と「1ab」とに枝分かれしてゆき、且つ、\犬泙讚∪長しO靴きせ爐未箸い循環理論を組み合わせてつくられている。変化しながら現象が移り変わってゆくことを易経でやってしまっている訳ですね。また、循環の存在を理解し、図としては円環となり、中心と周縁との関係性までもをマンダラで表現するような発展の仕方をしてゆく。

また、陰陽五行説のような全てのものは5つの元素のものから出来ているとするモナド説のようなものが浸透し、また、気脈の動き方には「魔法陣」が用いられていたりするのが古代中国の不可思議なんですね。「この魔法陣は破れまい」と奇門遁甲術に応用された。そう考えると、デタラメなようでデタラメではない。どこか科学主義とは異なる回路なのだ。間違いなく西洋には現れることのなかった秘術の世界でもある。

少し違う角度からとなりますが、プラトンの「球形人間」なる話にまで言及している。プラトンは原初段階の人間は球形をしていて、2つの顔、4本の腕、4本の足を持っていたと考えたのだそうな。この話も、おそらくは、一元論という奴で、元々は一元であったものが分化していったと考えたのでしょう。原初の人間は、きっと球形であり、顔は2つ、手足は4本。一つの完全ものが枝分かれ、分化してゆくという発展過程であっただろうと仮説を立てるところからスタートしている。ホントに、ユングは没落したんだろうか。ホントは、日本の福来博士のケースに似ていて、いわゆる実証主義に反したから、徹底的に放逐されただけなんじゃないのかなって気もする。

ユングは、西洋人から「何故、中国には科学が登場しなかったのか?」と尋ねられるが、それは西洋人が東洋を理解できない証拠であると、『黄金の華の秘密』の解説文で述べている。「易経」の叡智が理解できず、単なる占星術としか認識できない。また、東洋のヨガについても、西洋人はスポーツのようにしか認識できないのではないかとまで言及している。健康や美容の為にヨガをやっているという感覚が西洋感覚ですが、本来は梵我一如、自然と合一し「真」の境地に達する為にヨガや瞑想が開発されたが、そういう観念は確かに理解が難しいのだ。又、因果律で思考している西洋の科学主義に対して、東洋は科学主義的な因果律の他にも回路があるという具合の説明をしている。ユングは、それを「共時律」と呼ぶべきものではないのかと東洋思想に没頭していった。ユング的には古層にある集団的無意識の作用は、実際に現象界に影響を与えているのではないかという究極的な謎でもある。確かに、それらの知恵を用いずして、どのようにしてバーニングマンの問題を説明できるのかってなる。

やはり、大きく関与しているのが「易経」という事になるのでしょう。更に、これがネトリウス派と呼ばれる「景教」との関係が持ち上がったという。(ユングいわく、「論理性を欠くいているが、呂洞賓をアダムとする説まで登場した」という。)

そういえば、続日本紀にも8世紀の聖武天皇の時にペルシャ人1人が唐人3人と一緒に来朝したという記録があったんでしたっけ…。
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2年前か3年前であったと思うのですが、脳科学の大御所が書いたという書籍に目を通した際、その筆致の中に猥慢瓩鯑匹濕茲辰討靴泙辰浸がありました。これは分かりやすい傲慢であったかな。

日本で行われた式典、そこで、その学者は表彰を受けたのだったのかな。その式典会場に天皇陛下が現れると、その会場の一同は敬意を表したが、その学者は故意に敬意を表しなかったと告白している。その理由も単純明快であり、「天皇に敬意を表するのが、日本のしきたりらしいが、そんな事は知らない。そもそも戦争犯罪者ではないのか。それに、とても天皇が脳科学を理解しているとは思えない」といったものであった。悪気もないままに、書かれた一節であったのでしょうけど、そうであるが故に、その西洋科学優越主義的な傲岸は、鼻についてしまう。そりゃそうだが、そうなのであれば、それはどこそこの大統領にも、どこそこの女王や法王にも敬意を表する必要性はなく、故意に御辞儀を省略するなどの非礼も許される事になってしまう。

また、その流れで、ユング批判が盛り上がった。或る時期まではフロイトが持て囃され、その後に「フロイトなんて古いのさ、これからはユングだ」という時代を経て、その後に「やっぱり、フロイトだ。ユングは全く意味がなかった」という認識になっている。フロイトが改めて、見直されたのは誰の目にも明らかではあるのですが、では一時的に発生した「フロイトなんて古いよ、これからはユングの時代さ」という、あの軽薄なノリは何だっただろうとなる。そして、それが過ぎると「ユングはクソだ。功績はゼロに等しい」のように、極端にしか振り子が触れないんですね。残念ながら、これが現実であろうと思う。そもそもからすれば、フロイトを必要以上に貶し、その後にフロイトを再評価せざるを得ない状況となると、ユングを扱き下ろす事で自己正当化を図っているだけで、やはり、傲岸不遜な思考回路は隠せていないよなって思う。

さて、このフロイトとユングとの関係は、フロイトの後継者はユングであると思われていたが、両者の間に埋めがたい対立が起こった。そしてユングはフロイトの元を去った。ここでも感情的軋轢は大きく作用しており、フロイトは徹底的にユングを攻撃した。ユングの方はというと、シンクロニシティ(共時性)という方向へ進み、おそらく実証を是とする実証主義の観点からすると失脚、その名を地に落とした。その地に落ちたユングを、今度は池に落ちた犬を棒で叩いて殺すが如く、皆で袋叩きにするようになった。

が、ここには師弟関係の中で発生した愛憎劇のようなものが介在しており、学者と呼ばれるような人たちが、復讐心を燃やしたり、必要以上に仇敵を叩きのめそうとする事も見えてしまう訳ですね。その辺りは政治家と変わらない。功績のある学者さんだからといって全人格的な「偉い人」である筈はなく、勿論、精神的な超越者という訳でもないんですね。

なので、ユングが取り上げられる機会は著しく低下し、取り上げたら取り上げたで「えー、未だにユングとか言ってんの? あれは間違いだらけの心理学だよ」と、したり顔で展開するのが昨今のトレンドでもある。

しかし、一方で超心理学という分野がある実際に在る。先日、NHK取材班班編『超常現象』(文春文庫)を取り上げましたが、「あれれれれ」と思う。バーニングマンなるイベントの実験などからすると、人間の感情が影響を及ぼさない筈の乱数発生装置に異常を起こさせているのではないかという問題が実際に今も有るんですよね。何がどうしてそうなるのか分からない。仮説を立てることになる。すると、やっぱり、ユングが提唱していたような問題に突き当たってしまう。物質界と精神界とは、どのように繋がっているのか、繋がっておらずとも干渉が起こっているらしい事は、超心理学の分野では指摘されている。結局、その先駆けとなったものはユングである。

ユングが学術的な舞台で失脚したのは確かであろうとは思うのですが、常に超常現象とかオカルトには、この問題が付き纏うんですね。映画「リング」のヒットで注目を集めた千里眼千鶴子の鉛管実験などは際どいといえば際どい。冷静に謎なのであれば「これこれこういう事であろうと思いますが、現時点では謎ですね」と態度を留保しておけばいいのに、「いいえ、それはインチキなのです!」のように声高に強硬に主張し、それをバネにした主導権争いになってしまうのだ。念写実験なんてインチキを暴きたいが為に謄写版を盗み出して実験を成功させまいとする輩まで登場、これじゃ、呪わても知りませんぜっていうような事も起こる。日本でも御馴染みのマコモニーグルは実際に米軍で遠隔透視の任務について旧ソビエトの巨大潜水艦の存在を透視していた事も明らかになっており、実際に勲章をも受賞している事は事実であるが、そういう話をすると眉を顰めたがるのが当代のインテリである。これはエスカレートしてゆくと、目先の論戦で勝利する為には、先に挙げた謄写版を盗み出す等のズルをもしかねない態度とも関係している。

ユングは確かに失脚、没落してゆく。最初に1800〜1700年前に発生したという異端思想、グノーシス主義へ傾斜したという。これは東洋思想にも似ているのですが、ユング自身の述懐によればグノーシス主義は思弁的なものであり、心理的経験の記述は僅かしかなく、しかもキリスト教陣営から「異端」と認定されていた系統であるが故に、充分な知識を集める事が出来なかったという。その後、ユングは東洋思想に没入してゆくことなる。ユングが研究対象にしていたのは集合的無意識である訳ですが、どうも東洋思想に似ているものがあり、しかも、それは錬金術研究と未分化のものであったり、宗教、坐禅などと密接に関係しているものであったという。

西洋文明が東洋文明を十全に理解する事は、おそらくは不可能に近いのが事実であるという。実は東洋思想は蓄積が膨大で、「易経」の登場あたりから中華文明は独自の発展を遂げているが、その体系の思想は、西洋の言語では説明が非常に難しい。そもそもマンダラにしても、真理は言語では説明できないから図といて表現したものと説明されている通りで、東洋思想の中でさえ、分かり難いものなのだ。マンダラは擬人化した神が配置された図ですが、一方では幾何学図形であり、この幾何学模様と見ればイスラム寺院の装飾そのものがそれであるし、哲学的な神の存在の証明をしたスピノザが用いたのも幾何学図形の数学的証明を応用して「これこれこうなのだから神は実在する」と証明したとされるものである。数学や図形というのは、仮に、この世界の創造者があるとして、やはり、具体的に必要としているものでしょうからね。

グノーシス主義の研究に行き詰まったユングは、リヒアルト・ヴィルヘルムという神父と出会う。ヴィルヘルムは中国へ赴き、その地で東洋思想研究をしていたが、その異質性に魅了された人物であった。ヴィルヘルムは中国の民間宗教団体の教本であったと思われる『黄金の華の秘密』(太乙金華宗旨)を入手していた。それはキリスト教主流派が異端派を斥けた後に異端派の痕跡を消したのと同じように、滅ぼされた民間宗教団体の教本であり、金丹教の教本であった。錬金術という意味では道教的であり、且つ、仙人が現れて教えて教示したという宗教であることからも道教的であるが、内容中には既に釈迦も出て来るし、観無量寿経なども登場している奇書であり、おそらくは18世紀頃に千冊ほど現存したか否かも微妙な奇書であったという。しかも、その民間宗教団体・金丹教は清王朝から苛烈な弾圧を受けて全滅、教徒はキリスト教に改宗したか、改宗せずともキリスト教に好意的な立場として残った人たちの教本であったという。

印刷されたのは18世紀であるが、そこに記されている内容は唐王朝時代、8世紀頃から一部の内容が継承されており、故に堂々と錬金術が記されていた。金丹教とは、仙薬をつくって不老不死を実現できるとした仙人思想を継承していた秘教であり、それでありながら膨大な歳月を民間宗教として存続していたという。因みに「黄金の仙薬」を「賢者の石」と呼んでいたらしい。

これは西洋人は愚か、東洋人にしても秘教の領域の話でもある。おそらくは最初に老子があり、荘子があり、いつの頃よりか、それが更に古い神仙思想と結び付いて、不老不死にして空を飛行し、霞を食べていきている仙人を神とする仙人思想が民間宗教となった。これが道教の正体であろうと思われる訳ですが、これは日本の歴史とも底の方では繋がっていますね。しかも、占術と宗教と政治が一体化していた時代があり、何故、東アジアでは巫術、つまり、神を降臨させてシャーマンによる神託などで物事を判断する術が発展した事などとも関係している。

『黄金の華の秘密』は、9世紀の人であるという呂厳という八仙人の内の一人が説いた教えであるという。それはインド系の瞑想方法とは異なり、瞑想方法であり、その瞑想方法を続けることによって、「もう一人の自分」というものを呼び出し、その「もう一人の自分」と対話できるようになる方法などが記されているという。呂厳は「呂洞賓」とも呼ばれる。道教では「洞」の字は重要で、「洞玄」といえば老子の事を暗示しており、「洞真」といえば荘子の事を暗示している。

ユングは、フロイトと決別した後、うつ病を患ったというものの、どうも、それでユングが終わっている感じではないんですね。むしろ、超心理学の先鞭となったかのような印象もある。

人間の精神と精神が持つ情熱とは、われわれ西洋人に固有のキリスト教的精神文化にとって、長い間確かなものであり、追求するだけの価値あるものであった。中世が遠く没落し去ったあと、つまり十九世紀が経過する間に、精神は次第に知性に変質してしまったのであるが、ごく最近になって、知性主義の優越に我慢できなくなった反撥作用が起ってきた。もっともこの反撥は、当初、知性を精神と混同し、知性の悪行を精神のせいにして告発するという誤りを犯したのだが、それは致し方のないことであった。知性が精神の後継者になろうと思い上がる時には、それは全体的なたましいを傷つけてしまうようになる。知性には、精神の後継者になれるような資格はないからである。狎鎖性瓩箸蓮知性ばかりではなく感情をも含むものであって、知性よりも高いものだからである。

そんな気もするんですけどねぇ。
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その人の事を考えていると、偶然にも、その人から電話が掛かってきたりするという、この偶然、多くの人が実際に体験を持っているのだという。そして、その偶然の確率を調べて統計を取って、単なる偶然と比較した場合の、相手を想い描いて電話する場合の有意差を調査した実験というものに、NHKスペシャル取材班著『超常現象〜科学者たちの挑戦』(新潮文庫)が触れている。この箇所、おそらくテレビ番組では紹介されなかった内容だったような。放送はあったけど私が忘れてしまっているのかも。

実験は一般から協力者を募ったという。ニッキー・スレイドさんという女性が電話を受ける役割を担当。そして、ニッキーさんの親しい友人4人が電話を掛ける役割を負ったという。この友人4人はランダムに10分おきにニッキーさんに電話を掛ける。電話を掛ける前には、ニッキーさんの事を想起してから電話を掛ける事を義務付けたという。友人4人はランダムに電話を掛けさせますが、誰に電話を掛けさせるかの順番については、もう一人、指名する役割の者を配置して、その実験は行われたという。そして電話を受けるニッキーさんは電話番号非通知の電話機の前で待ち、電話がコールされたら、その電話に出る前に、友人4人の内の誰からの電話なのかを事前に声に出して実験立会人に告げるというもの。

この実験を12回ほど行なったところ、ニッキーさんは友人の名前を3回ほど的中させた。12回の内の3回を的中したということは正解率では25%となり、つまり、当てずっぽうで名前を挙げた場合と同じ確率となった。このNHK取材班が取材したニッキーさんの実験結果では、電話を掛けてくる相手を的中させる正答率に有意差は無かった事になる。

ところが、この実験、ロンドンの在野の生物学の研究者だというルパート・シェルドレイク博士は、この実験を200人を対象にして述べ約850回も統計を取ったという。すると、驚くべき正答率になったという。

約570回の初期の実験では正答率は平均40%を叩き出した。シェルドレイク博士は、余りにも数字が高い事に疑念を抱き、参加者がズルをしている可能性を考慮し、途中から不正が行われないようにビデオカメラで撮影するように調査方法を変更したという。変更後となる約270回の実験では、正答率は45%となり、予想とは裏腹に、むしろ、数値は上昇してしまったという。

本来であれば25%になる筈の統計が、45%の正答率になる確率は統計学的には1兆分の1にもなるといい、何かしらヒトにはテレパシーや第六感と呼ばれるような未知の能力があるのではないかという仮説を立てているという。

在野の研究者の言っている研究だから…と考えて、話を割り引くのが実際の人情であろうと思う。しかし、この話は意外な方向へ転がってゆく。どうもヒトの脳が同期現象を起こすという実験は、そこそこ権威のある研究者たちも実験に取り組んでおり、その一部は実は我々も知っているらしい。

双子の実験ですね。一卵性双生児は、テレビタレントのマナカナさんなどもそれで御茶の間の人気をさらった時期がありましたが、明らかに同期しているとしか思えない不思議な現象がある。同じ時に同じタイミングで同じ言葉を発したりする。これは当然、超常現象の話とは言っていられない。

1965年にアメリカのジェファソン医科大学のグループが、一卵性双生児の間で脳波が実際に同期している現象を確認し、権威ある科学誌「サイエンス」誌に発表した。

15組の双子が被験者となり、それぞれ6メートル離れた個室に隔離する。ヒトが目を閉じたり開いたりすると、アルファ波と呼ばれる8〜13ヘルツの周期を持った脳波が発生するのだそうな。それを利用して片方の双子に目の開閉をしてもらい、もう片方の双子には、ただただ待機してもらう。すると15組中の2組で、アルファ波の同期、つまり、脳波が同期するという現象が確認されたのだそうな。

つまり、説明はつかないが双子に接している人たちなどが見つける、その同期現象は、双子の脳波が同期して起こっている現象だと見立てる事が出来てしまう。番組では、ここからfMRI装置を使用した実験を紹介したのでした。このfMRI装置を使用した実験はNHKの番組でも紹介した通りの内容となりますが、やはり、同期が画像化された形で確認できてしまった。より詳しく述べると、脳の同期現象は視覚野と呼ばれる部位周辺に明らかな脳活動の同期が確認された。

(番組内では脳活動が低下するという形で脳の同期が確認されたが、別の実験では脳活動が活発化したという形で脳の同期が確認されたというのが、より厳密な意味らしい。つまり、脳の視覚野周辺で同期現象が発生しているのは確かである。ただし、脳活動が低下するとも活性化するとも、その部分については法則性がない的な。)

この話、ホントは、その番組をわざわざ視聴した記憶があるにもかかわらず、改めて不思議な話だよなって感じました。

この『超常現象〜科学者たちの挑戦』という書籍にしても、あとがきまで読むと、単純な二元論に陥っている事への言及が登場する。つまり、「インチキだ」という意見と「インチキじゃない」という意見とが衝突してしまうので、真相究明が進まないが、分かって来た事実から述べると、念力のような物理的な超能力のようものは検証するにもハードルが高いが、これを、脳の同期現象として捉えるなどの話とし、その分野を「超心理学」とした場合には、実は科学的検証が必要な話になってしまうという。

幽霊の話というのは、いわゆる不可知論であり、分からないのであれば肯定も否定もしないのが誤まちを避ける唯一の方法であるという。しかも、この手の不可知論はかなり古くから哲学的には指摘されていた問題である。また、単純な是か非かにしてしまう二元論の問題も、おそらくは正反合、ヘーゲルの弁証法で何となく知っている筈なのだが、人間というのは、そういう回路で思考できていないという話にも繋がる。

私に限っては、荘子に感嘆している。易経、陰陽五行説について少し考える機会があったのですが、よくよく考えると、怖ろしくなってくるんですね。易図をライプニッツが「これは二元法で著した世界図だ」と感嘆したというけど、荘子のあたりから登場する九星図あたりになると世の移ろいの流れを占ったものでありながら、モナド論のようなものになっている。何故、古代の哲学者は、物事は循環していると考えたのか、それが成立するには粒子があって生と死をサイクルしている、つまり、再生しているという風にまで組み立てていた可能性が高い。

ドラゴンと竜は一緒だろうか? 一緒にされている場合もあるので語るのが難しいのですが、実は違う。ドラゴンとは西洋の怪獣であり、羽を持ち火を吐くトカゲのお化けである。起源はギリシャにある。ところが、竜はどうかというと、中国南部、まだ、中国という概念が成立する以前からあるのが東洋の竜であり、東洋の竜は東南アジアでも水神なのだという。勿論、火は吹かないし、羽も持っていない。また、竜は水神であるが故に水中に潜んでいるとされる。南方熊楠は竜の正体は手足があることからオオトカゲやワニといった実在する動物を指していたのではないのかと指摘していたようですが、熊楠の着眼点も実は悪くない。総じて、その竜という神獣の伝承があるエリアの検証をしている。

また、ここで、五行説がモノを言う。そういえば竜というのは、どんな色をしているだろうか? 「青」もしくは「碧」として絵にされている事が多いのだ。何故なら、東の方に住んでいる住んでいる水神だという認識があり、東の色がアオだったからでしょう。その時代の生き物であり、熊楠のワニ説やトカゲ説を完全には否定しないものの、おそらくは創造上の神獣であり、しかも、それは明らかに水神として認識されていた。姿形は似ているが、西洋のドラゴンとは似て非なるものだ、と言える。

そんな事を考えている内に、目を開閉、つまり、瞬きさせていると脳波としてのアルファ波が出るらしいという事に私の感心が移りました。

「おっ。そういえば、ウチのネコも仔猫の頃は、よく目の開閉をして、いい子であるかのようなアピールしていたっけなぁ…」

ホントかどうかは知りませんが、一時期、ニャウリンガルを使用し、「ねこのきもち」も三年間ぐらい定期購読していた私の知識によれば、ネコは両目を瞬きすることで親愛の情をアピールする。つまり、「いい子だからおやつちょうだい」的なアピールをするのだ。だから、こちらも両目で瞬きをしてやると、相互で、両目まばたき合戦となる。意志疎通となるのね。会話ではないので明確に意味がある訳ではないのだけれども「なかまだよ〜」、「なかまだね〜」と相互に敵愾心がない事を確認しあうようにコンタクトを取れる。

そんな事をぼんやりと考えていたら、思わず、

「うわっ!」

と声を上げることになりました。最近、両目瞬きをしてくれなくなったなといった、そのくだんのネコが、突如として私の鼻先に鼻先を合わせるように姿を見せて、目を丸くして「ニャーン」と鋭く鳴いたのでした。

さぁ、こうした偶然とは何なのだろう…。気持ちと気持ちとが同期しているのか、或いは、ちょっとした予知能力というものを我々が持っている証拠と考えるべきなのか。いや、やはり、ネコの態度からすると、以心伝心を肯定すべきか。

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NHKスペシャル取材班著『超常現象〜科学者たちの挑戦』(新潮文庫)に目を通していて、「おや?」と感じた部分がありました。これはNHKスペシャルが世界的に有名な幽霊城だというマガール城に取材班を送り込んで、SPRなる科学者らの実験を放送した取材班が著した本という事になりますが、やはり、臨死体験や生まれ変わりに係る部分で、認識論の限界のようなものに突き当たるなと改めて思い知らされました。先に述べてしまうと、ホントに臨死体験等の超常現象を経験してしまった場合、どんなにそれを説明しても信じてももらえないので孤独と闘うことになってしまうという。或いは、人生そのものを変える羽目になってしまうという話に触れられている。

先ずは、臨死体験を並べて行きます。

オランダのエリー・ムアマンさんは元小学校教師だったという60代の女性である。このエリーさんは、1978年9月23日、第二子の出産にあたり、大量出血で娘で失い、また、その際にエリーさん自身も命を落とし掛けたという。

「意識を失うと、トンネルにいました。その奥には素晴らしい光がありました。とてもきれいで、暖かくて、幻想的でした。だから歩いてトンネルから出ました。すると、素晴らしい話、色、音楽……。見たことも聞いたこともないような世界を見ました」

「たどりついた場所は、黄色の世界です。そこには、大きな緑の草原がありました。草原には、花が一面に咲いていました。この世界にはない色で、とても洗練されていて、うまく描けません。そこには私を待っている人がいたのです。それは、私が12歳の時に亡くなった父でした。父は、私の手を握ってくれました。言葉もなく、話さなくても理解できるようで、そのまま一緒に連れていってくれました。天国……、天国としか言えないような情景で、光に満ちて、ただ美しく、無条件で受け入れてくれる世界です。無条件の愛に包まれた感じです」

「父と光の中を歩いていきました。すると、足を踏み外して、つないでいた手が離れました。トンネルに戻されて、気がつくと看護師さんが私のほおを強くたたいていました。あなたは戻ってきたわ、幸運よ。もう駄目かと思ったのよ、って」


こう記してみても、なんだか臨死体験談の典型例のような印象を受けますかねぇ…。ジョディ―・フォスターが主演した映画「コンタクト」で、異次元ワープを試みたところ、主人公は異世界へ行ってしまい、確か死んだ父親だか恋人だかに会ってしまい、物凄く取り乱して現世へと帰還したのでした。いやいや、この『超常現象』では、同映画に対しての回答らしきものを導いている。軍用機のパイロットは訓練の過程で地上の10倍の重力、いわゆる「G」を体験させる機械があるが、その訓練中に、やはり、臨死体験らしいものをしてしまう者が一定の確率で起こったと記し、そこから仮説を立てている。強いGがかかった状態になると人体では低酸素状態が起こり、その低酸素状態によって臨死体験のような、トンネルを目撃する、というもの。

また、この低酸素状態になると臨死体験できるという仮説は、やはりNHKが立花隆を用いて臨死体験に挑んだ事がありましたが、それを指摘していたと思う。ヒトの脳は低酸素状態になると幽体離脱などが疑似体験できるようになってしまう、と。

しかし、これによって臨死体験を説明できるじゃないかとすると、当の臨死体験者は当惑するのだそうな。何故なら、その説明だと臨死体験は脳内現象になってしまうが、臨死体験を体験した本人からすると、到底、脳内現象とは思えないから…という事になる。臨死体験をした人たちは、ジレンマから孤独と闘うことになったりするのだそうな。

先の体験の主であるエリーさんは、気が付くと、そこには医師と看護師らがいた。エリーさんは、それまで見てきた不思議な体験を医師に話そうとしたという。

「医師が私の部屋にいたので、話そうとしました。すると医師は、忘れなさい、あなたはまだ若いし、子どもは持てるよ、と言ったのです。それですぐに分かったのは、この世の人たちはそのような話を聞きたくない、扉を閉ざしてしまうということ。それで、私も閉ざしました」

その後、20年間ほど、エリーさんは、その臨死体験を公表しなかったという。この似たような事例が、輪廻転生に関しても記してあって、我が子が不可解な言動として前世の記憶を語ったという場合、やはり、口外しないというケースについて記されている。つまり、前世の記憶があるというと、「おかしな子」と認識されてしまうって事でしょうねぇ。

NHKスペシャル取材班は、先の低酸素状態の脳内現象によってトンネルが見え、そのまま、お花畑のような見える状態になる、おそらくは脳内で快楽物質が分泌されているので、お花畑が見えてしまうで説明ができるという仮説ですが、ただただ、それで解明としているのかというと、これも違う。

科学者は、臨死体験は、主に脳に起因する人間の生理反応だと解釈するのが一般的だ。その結果、臨死体験者の多くは、周囲の無理解にも苦しんでいる。

ここで、臨死体験者は死後の世界に固執せず、科学者は現代科学だけで解決しようとせず、お互いの主張を咬み合わせてみてはどうだろう。


と、提案して、その章を結んでいる。この臨死体験が現代科学の脳内現象として説明が可能になったという例は、特に科学者側にとってのアドバンテージなんですが、前世の記憶を持っている子供たちのケースだと、現代科学は劣勢に立たされる。何故、稀に、そんな事が起こるのか? 現代科学は、子供は嘘を捏造するという風に展開させてゆくのですが、前世の記憶があるという場合、当たり前に辻褄が合わなりそうなものですが、「?」という事例らしきものが出て来てしまうのだとか。
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