控えおろう! 我が後ろに控えておられるのは、誰あろう、かの大岡越前守であるぞ! 何? 大岡越前を知らぬだと? 大岡忠相(ただすけ)じゃ。ん? まだ、分からぬのか?
大工が三両入りの財布を紛失してしまった。その財布を左官が拾って、大工に渡そうとした。すると、大工は「一度、失くした財布を受け取る訳にはいかねぇ。拾ったあんたのものだろう」と言い張って受け取りを拒否した。左官の方は「そりぁあ、とんでもねぇ話だ。これは間違いなくあんたが落とした財布じゃねぇか。この三両入りの財布を、あっしがウマウマと懐に入れるような不義理な真似は出来ねぇ」と拒否した。大工も左官も双方ともに意固地になって、互いに意見を譲らないって訳だ。そこで大岡越前の登場よ。大工と左官を並べて、その前に大岡越前だ。大岡越前がどう裁いたのかというと、自らの懐から一両を取り出した。財布の中には三両だ。その三両に一両を足して、四両にしてみせた。そして、こう言った。
「二人で2両づつ受け取れ。さぁ、遠慮するな。大工は3両を持っていたが2両になってしまって1両の損。左官は黙ってもらっていれば3両だったところが2両になってしまって1両の損。そして、この儂は、今、このフトコロから1両を出してしまったので1両の損。つまり、三方一両損だ。わっはっはっはっ! これにて一件落着!」
この三方一両損(さんぼういちりょうぞん)の大岡忠相じゃ。まだ、分からんのか? うーむ、じゃあ次だ。或る時、産みの親と名乗る女と、育ての親と名乗る女との間で幼子を巡っての争いが起こった。どちらも「この子は私の子です」と言って譲らない状態であった。大岡様は、その争いを、こう裁いた。「その子を互いに引っ張り合え。勝った方こそが、親子の絆の強さの証明をした事になり、つまり、勝利した方こそが、その子の母親である」と。産みの親と、育ての親とが、その幼子の両腕を引っ張り合った。引っ張り合わされた幼子は「痛いよ、痛いよ」と泣き叫んだ。その時、育ての親の方は我が子が痛みを訴えているのを見て、思わず引いていた腕を放したんだ。すると、そこで大岡様が声を上げた。
「勝負あった! 我が子が痛いと泣いているのを見て、堪らず手を放してしまった親心こそが本物の親子の絆と考えるべきである! これにて一件落着!」
とな。
さぁさぁ、それでは大岡様、前へ。そして、どうぞ今回の夜泣き焼きそば一平ちゃん事件をお裁き下さい。
余が大岡忠相である。此度の事件、吟味いたした。甲と乙との問題じゃ。先ず、乙が賭博にハマって6億8千万両の損失をつくり、その借金の支払いに追われていた。その乙とは二人三脚でやってきた甲がある。甲は、なんじゃ、蹴鞠や撃球(げっきゅう/ポロ競技)みたいなものの名人で天下に名前を轟かせている人物だという。そして甲には、その特技がある故に莫大な富貴を持っていた――そういう前提がある。そして甲は乙が莫大な借金を抱えていると打ち明けられた。その上で「二度と乙が賭博に手を出さないと約束してくれるのであれば、その借金は立て替えてあげましょう」と応じた。更に、その後に状況が変わり、闇賭博に関与していたとなると甲にも何某かの咎が及んでしまう可能性があると考え直して、証言を翻した。つまり、甲は何も知らなかったところ、賭博で借金をつくった乙が甲から金を盗んで借金の返済に充当していたという話にすり替わった。これらの過程に何の疑念の余地があるであろう? 現時点では何が確定的とも言えぬが、物事の流れというものは、そういうものだ。
そもそも甲には何の罪もない。友情から乙を助けようとしただけだ。事実を歪曲して乙の借金を肩代わりしていたという行為の、どこに道義的責任があろうか。むしろ、天晴れと称賛すべき仁義を見せたという事ではないのか。余が裁いた三方一両損裁判でも、大工と左官が互いが互いを庇い合うようにして金銭の受け取りを拒否した事例であった。これは「史書」にも記されている伯夷と叔斉という兄弟の伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の逸話とは「聖とは何か」や「仁とは何か」を説いた逸話が挿入されている。また、その話は、此の大八島の神話にも移入されている。第23代の顕宗天皇と第24代の仁賢天皇で、これは兄弟で引計(おけ)と億計(おけ)であったが、この兄弟は互いに皇位を譲り合った。「仁」や「徳」を強調する意図で用いられているのが歴然である。
法律を守る為に友人を見殺しにする者と、友人を見殺しにする訳にはいかないと発想し、行動してしまう者の道徳観の差異が、この問題を複雑にしている。甲には罪がないのは歴然である。そして甲に罪があるかどうかという観点に固着する態度というのも実質的には法律に重きを置き人道を軽んじる観点である。
通常、人は、その者の人格と向き合っている。人格的には糞野郎だが規律を違える事がないという人物よりも、人格的に尊敬できるが規律を冒してでも友情を重んじる人物に好感を抱くものである。
因って、甲の仁義溢れる行為を、なんとか法の網に引っ掛けよう、引っ掛けてやろうと蠢動している法治主義の過剰こそが問題であると裁定いたす。此度の甲の行為についてであるが、誉め称える要素こそあれど、貶める要素は微塵もない。甲を罰しようなどと目論んだり、その法治主義を支持する態度の蔓延は、実質的には南蛮由来の「いんとれらんす」とやらの問題、つまり、非寛容・不寛容が世界を浸食してしまっていると嘆くべき問題である。
そして今、夜泣きしているであろう乙に対してであるが、基本的にカップ焼きそばなのであれば「夜店の一平ちゃん」よりも確実に「ごっつ盛り焼きそば しお味」である。これにて一件落着!
大工が三両入りの財布を紛失してしまった。その財布を左官が拾って、大工に渡そうとした。すると、大工は「一度、失くした財布を受け取る訳にはいかねぇ。拾ったあんたのものだろう」と言い張って受け取りを拒否した。左官の方は「そりぁあ、とんでもねぇ話だ。これは間違いなくあんたが落とした財布じゃねぇか。この三両入りの財布を、あっしがウマウマと懐に入れるような不義理な真似は出来ねぇ」と拒否した。大工も左官も双方ともに意固地になって、互いに意見を譲らないって訳だ。そこで大岡越前の登場よ。大工と左官を並べて、その前に大岡越前だ。大岡越前がどう裁いたのかというと、自らの懐から一両を取り出した。財布の中には三両だ。その三両に一両を足して、四両にしてみせた。そして、こう言った。
「二人で2両づつ受け取れ。さぁ、遠慮するな。大工は3両を持っていたが2両になってしまって1両の損。左官は黙ってもらっていれば3両だったところが2両になってしまって1両の損。そして、この儂は、今、このフトコロから1両を出してしまったので1両の損。つまり、三方一両損だ。わっはっはっはっ! これにて一件落着!」
この三方一両損(さんぼういちりょうぞん)の大岡忠相じゃ。まだ、分からんのか? うーむ、じゃあ次だ。或る時、産みの親と名乗る女と、育ての親と名乗る女との間で幼子を巡っての争いが起こった。どちらも「この子は私の子です」と言って譲らない状態であった。大岡様は、その争いを、こう裁いた。「その子を互いに引っ張り合え。勝った方こそが、親子の絆の強さの証明をした事になり、つまり、勝利した方こそが、その子の母親である」と。産みの親と、育ての親とが、その幼子の両腕を引っ張り合った。引っ張り合わされた幼子は「痛いよ、痛いよ」と泣き叫んだ。その時、育ての親の方は我が子が痛みを訴えているのを見て、思わず引いていた腕を放したんだ。すると、そこで大岡様が声を上げた。
「勝負あった! 我が子が痛いと泣いているのを見て、堪らず手を放してしまった親心こそが本物の親子の絆と考えるべきである! これにて一件落着!」
とな。
さぁさぁ、それでは大岡様、前へ。そして、どうぞ今回の夜泣き焼きそば一平ちゃん事件をお裁き下さい。
余が大岡忠相である。此度の事件、吟味いたした。甲と乙との問題じゃ。先ず、乙が賭博にハマって6億8千万両の損失をつくり、その借金の支払いに追われていた。その乙とは二人三脚でやってきた甲がある。甲は、なんじゃ、蹴鞠や撃球(げっきゅう/ポロ競技)みたいなものの名人で天下に名前を轟かせている人物だという。そして甲には、その特技がある故に莫大な富貴を持っていた――そういう前提がある。そして甲は乙が莫大な借金を抱えていると打ち明けられた。その上で「二度と乙が賭博に手を出さないと約束してくれるのであれば、その借金は立て替えてあげましょう」と応じた。更に、その後に状況が変わり、闇賭博に関与していたとなると甲にも何某かの咎が及んでしまう可能性があると考え直して、証言を翻した。つまり、甲は何も知らなかったところ、賭博で借金をつくった乙が甲から金を盗んで借金の返済に充当していたという話にすり替わった。これらの過程に何の疑念の余地があるであろう? 現時点では何が確定的とも言えぬが、物事の流れというものは、そういうものだ。
そもそも甲には何の罪もない。友情から乙を助けようとしただけだ。事実を歪曲して乙の借金を肩代わりしていたという行為の、どこに道義的責任があろうか。むしろ、天晴れと称賛すべき仁義を見せたという事ではないのか。余が裁いた三方一両損裁判でも、大工と左官が互いが互いを庇い合うようにして金銭の受け取りを拒否した事例であった。これは「史書」にも記されている伯夷と叔斉という兄弟の伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の逸話とは「聖とは何か」や「仁とは何か」を説いた逸話が挿入されている。また、その話は、此の大八島の神話にも移入されている。第23代の顕宗天皇と第24代の仁賢天皇で、これは兄弟で引計(おけ)と億計(おけ)であったが、この兄弟は互いに皇位を譲り合った。「仁」や「徳」を強調する意図で用いられているのが歴然である。
法律を守る為に友人を見殺しにする者と、友人を見殺しにする訳にはいかないと発想し、行動してしまう者の道徳観の差異が、この問題を複雑にしている。甲には罪がないのは歴然である。そして甲に罪があるかどうかという観点に固着する態度というのも実質的には法律に重きを置き人道を軽んじる観点である。
通常、人は、その者の人格と向き合っている。人格的には糞野郎だが規律を違える事がないという人物よりも、人格的に尊敬できるが規律を冒してでも友情を重んじる人物に好感を抱くものである。
因って、甲の仁義溢れる行為を、なんとか法の網に引っ掛けよう、引っ掛けてやろうと蠢動している法治主義の過剰こそが問題であると裁定いたす。此度の甲の行為についてであるが、誉め称える要素こそあれど、貶める要素は微塵もない。甲を罰しようなどと目論んだり、その法治主義を支持する態度の蔓延は、実質的には南蛮由来の「いんとれらんす」とやらの問題、つまり、非寛容・不寛容が世界を浸食してしまっていると嘆くべき問題である。
そして今、夜泣きしているであろう乙に対してであるが、基本的にカップ焼きそばなのであれば「夜店の一平ちゃん」よりも確実に「ごっつ盛り焼きそば しお味」である。これにて一件落着!