Eテレ「3か月でマスターする人体」で、味覚が取り上げられていた際、味覚という感覚については非常に曖昧で、ウマいかマズいかといった問題は、その者の記憶に左右されるという話をしていた。
ほら、言わんこっちゃない。その人にとっての「美味しいもの」が即ち「美味しいもの」なのであって、永谷園のさけ茶漬けであるとか、丸美屋のたらこふりかけであるとか、あの辺りがどれほどコスパ的に優れているのかの証明が出来たよな、と思いながらの視聴となった。ハンバーグといえば、マルシンハンバーグにケチャップで充分だし、冷やごはんの上で鰹節をふりかけて、そこに醤油をちょっと垂らすだけの、所謂、ネコまんまでも美味しく食べられてしまうというのは実は正しいのだ。
また、最近、分かってきた事実として、味覚を感じ取る細胞は、舌だけにあるのではなく、腸内にあり、瞼の裏側にもあり、更には尿道もある事が分かってきたのだそうな。腸内は兎も角として、瞼の裏側と、尿道に味覚を感じ取る細胞があるってのは、謎といえば謎ですね。
尿道に味覚を感じ取る細胞って必要なのか? もしかしたら糖分が多いと甘いオシッコになって、それを感知して、神経系統を伝って脳に報告する為とか?
まぁ、味覚なんてものは記憶に大きく左右されてしまう曖昧な感覚である――と。それなのに「美味しさ」を追い求めて、カネと労力を費やすってのは、どうなんだろうね。最近、地上波テレビはグルメ特集が多いけど、イクラ丼でイクラにテンコ盛りにしてたり、ゼイタクさを見せつけるかのような演出をしているけど、ホントにああした食べ方が美味しさの追究になっているのかどうか。
ホントは栄養バランスとか流行なんてものはどうでもよくって、家族団らんの中で「おかあさん、これ、おいしいね☆」等と声を掛け合いながら食べる食事であるとか、仲良しの友人と机を並べて談笑しながら食べるお弁当の味こそが、その者にとっての最高の美味しい食事なのではないのだろうか。
感覚の中でも味覚という感覚が曖昧な理由については、これも生存本能と関係していると考えられるらしい。つまり、過去に〈美味しいと感じた味〉は〈安心して食べられる味〉として記憶している。なので、記憶と味覚とは密接に結びついていると考えられるのだという。
ほら、言わんこっちゃない。その人にとっての「美味しいもの」が即ち「美味しいもの」なのであって、永谷園のさけ茶漬けであるとか、丸美屋のたらこふりかけであるとか、あの辺りがどれほどコスパ的に優れているのかの証明が出来たよな、と思いながらの視聴となった。ハンバーグといえば、マルシンハンバーグにケチャップで充分だし、冷やごはんの上で鰹節をふりかけて、そこに醤油をちょっと垂らすだけの、所謂、ネコまんまでも美味しく食べられてしまうというのは実は正しいのだ。
また、最近、分かってきた事実として、味覚を感じ取る細胞は、舌だけにあるのではなく、腸内にあり、瞼の裏側にもあり、更には尿道もある事が分かってきたのだそうな。腸内は兎も角として、瞼の裏側と、尿道に味覚を感じ取る細胞があるってのは、謎といえば謎ですね。
尿道に味覚を感じ取る細胞って必要なのか? もしかしたら糖分が多いと甘いオシッコになって、それを感知して、神経系統を伝って脳に報告する為とか?
まぁ、味覚なんてものは記憶に大きく左右されてしまう曖昧な感覚である――と。それなのに「美味しさ」を追い求めて、カネと労力を費やすってのは、どうなんだろうね。最近、地上波テレビはグルメ特集が多いけど、イクラ丼でイクラにテンコ盛りにしてたり、ゼイタクさを見せつけるかのような演出をしているけど、ホントにああした食べ方が美味しさの追究になっているのかどうか。
ホントは栄養バランスとか流行なんてものはどうでもよくって、家族団らんの中で「おかあさん、これ、おいしいね☆」等と声を掛け合いながら食べる食事であるとか、仲良しの友人と机を並べて談笑しながら食べるお弁当の味こそが、その者にとっての最高の美味しい食事なのではないのだろうか。
感覚の中でも味覚という感覚が曖昧な理由については、これも生存本能と関係していると考えられるらしい。つまり、過去に〈美味しいと感じた味〉は〈安心して食べられる味〉として記憶している。なので、記憶と味覚とは密接に結びついていると考えられるのだという。







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