どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 夢の記録

夢というのは覚めた瞬間に、「ああ、夢だったか」と気付く事が殆んどであろうと思うんですが、夢の中の認識を覚醒後もずーっと引き摺ってしまい、「はて、この記憶はなんだっけ?」となってしまう事が、ごくごく稀にあると思う。

南の方角へクルマで20〜30分も走ると、そこには私が好意にしている寂れた不思議な店があって、そこは典型的な穴場である。昭和50年代頃まであったようなコンビニ程度の規模の小さなスーパーマーケットであり、木々に面して右手に店舗を構えている。店舗の中は暗っぽい蛍光灯が照らしており、近所の住民を相手にして、乾物と日用品とを取り扱っており、実は低価格で売られている穴場になっている。飾り気のない陳列棚にはダンボールが積まれており、そのダンボールがそのまんま陳列棚に活用されている。

その穴場は遠回りした場合に立ち寄る事にしている。本来、買い物の目的は総合スーパーとホームセンターであり、こちらは何某かの幹線道路沿いにある。幹線道路を行くと、その店舗が姿を現し、幹線道路から左折すれば、もう、そこは、そのホームセンターの駐車場である。いつも夕闇の時間帯に、その店にやって来ていて、駐車場も混雑していない。なので、店舗から漏れる灯りのすぐ近くにクルマを駐車し、買い物が済んだらクルマに荷物を積み込むのも非常に便がいい。

そして更に便がいいのは、そのホームセンターから夕闇の幹線道路に戻ると、これまた、その直ぐ近くに総合スーパーが位置しているという、その位置関係にあった。ホームセンターで買い物をして、その次いでに、そのスーパーに寄って食料品も調達できる。そして、そのような買い物を、これまでにも続けてきているという、中々、確信的な認識になっている。

夢の中での私の心理状態では、ああ、いつものルートで買い物するのだけど、少し足を伸ばして、穴場の乾物屋的なスーパーに立ち寄りたいと考えている。

で、目を覚ましてから、その夢の中の認識が、実際の記憶なのか、どうか著しく混乱する羽目になりました。あまりにも、映像的なもの、方角的な感覚というのが、生々しいんですね。大雑把に南の方角だというのは狷遒諒角瓩任△蝓他方で、夕闇の幹線道路の犧玄雖瓩吠数回建てのホームセンター的な店舗が在って、そこから程近い場所にも食品スーパーの店舗があって、用事を済ませるのであれば、そちらへ行った方がいい、穴場へ立ち寄ろうとすると時間と距離の無駄になってしまうぞ――という認識が、自分でも判断がつかないくらい生々しかったんですね。

いや、実は、丸一日以上、その地理の記憶が、完全なる夢の中の産物なのか、それとも実の記憶なのか判断がつきませんでした。24時間ぐらい経過して、ようやく、ああ、完全に夢の中でつくられた記憶だったんだなぁ…と確信するに到りましたが、不思議だなぁ…と。


方角が絡んでいるからなのか、或いは、その設定が蓄積からなっている、つまり、「いつも、そのように買い物をしてきているが…」と、既に狠濱儉瓩気譴慎憶として夢を見ていたので、夢から覚めても訳が分からなかったんです。いや、6年前とか8年前に、そういうルートで買い物をしていたんだっけか的な。しかし、どうしても思い出せない。また、店の名称なども、どうしても思い出せない。とはいえ、方角や風景などによって、それらの情景が固定化されてしまっているので、実の記憶のように思えてしまったのかな。


で、私の記憶では、これは生涯で二度目ですかねぇ。以前は、大昔に交際していた女性と会う事になって、会ってみて、なんとなく和解できたかのような、そういう夢であったと思う。(「再会をする夢を見た」ではなく、「再会をして互いに過去を笑い飛ばすようにして帰って来たんだった」という記憶を持っている夢を見たの意です。認知の歪み方に関係して、興味深い歪み方だよなと思う。)

目が覚めた後に記憶が曖昧になっており、あれ、確かに久しぶりに会ってみて、あれこれと和解して笑い飛ばしたような、そういう感慨というか、そういう余韻が残っている。しかし、冷静に考えてみて別れた女性とわざわざ会ったりするだろうか、いやいや、そんな記憶、無いよな、とね。しかし、記憶というのは厄介なもので、そうこう回想している内に、現実の記憶と交錯し始めてしまう。ああ、共通の友人だった佐藤さんが席が設けてくれたので、居酒屋かなんかで会ったような、いや、そんな事はしなかったような…と、記憶が曖昧なのだ。

ただ、心的状況などは夢の中でも克明だったのかな。とにかく、昔の事だったねって笑い飛ばせるかのような、そういう心理状態になって、放射状の白っぽい階段を肩を並べて歩いて降りながら、心の中では安堵と後悔が入り混じった感慨を抱いたという記憶があるような、ないような。なにわとれもあれ、汚点は残さずに済んだ、ああ、よかった、よかった。の筈が、あれ、それは夢だったんだっけ、現実だったんだっけと、これも24時間近く、混乱させられたのだったかな。

で、そこの登場する「佐藤さん」の記憶は現実で、確かにそこで「久しぶりに会いましょうよ」的な軽いやり取りがあった。その際、その佐藤さんが「久しぶりに、みんなで一緒に集まりません?」的な発言があったところまでは事実。しかし、何気ないやりとりであり、具体的に計画した訳でも約束した訳でもなく、夢の中の認識でも曖昧。或る種の社交辞令だから、記憶的にも曖昧。

だから夢の中で、既に再会をして笑い飛ばすような和解をした、そのような心的境地にある――という夢を見てしまい、事実関係に自信が持てなかった。「そうだったような…、いやいや、会った記憶はないし、再会なんてしないだろう…」という自らの記憶が揺るがされてしまったのだった。

今回の場合、【方向】とか【景色】という認識コードが関係ありそうですかねぇ。実際には、一切の地理的条件は夢の産物、つまり、出鱈目であった訳ですが、何故か、南の方とか、左側とか、そういう感覚が生々しいので自分の夢にダマされてしまった。こういう順番なのに、こうとか、こういう光の加減とか、そうした観念的な部分はそこそこディティールがあった。他方、具体的に固有名詞らしい固有名詞は、一切なし。
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夢というのは整合性がない訳ですが、昨晩、ドキっとして、しばし目が冴えてしまった夢をみました。

テレビではニュース報道が流れていて、そこにはテロップてんでしょうか、ニュース速報のような字幕が出ている。で、曖昧ながら新型コロナなんでしょうねぇ、その死亡者の名前がフルネームで出ているという設定の夢だったんですね。で、そこに私の実名「〇〇〇〇」のような文字配列を発見、いやいや、感覚としては、その自分の名前のテロップが目に飛び込んできた、しっかと確認し、「オレ、死んでたんかよ!」という心情に到り、ドキッとしたという夢でした。

その後に目が冴えてしまった。まぁ、この夢は、折からのコロナ報道を連日のように目にしている訳ですから、その影響でしょう。勿論、いちいち死亡者の実名が報道されるなんて事はない。しかし、夢の中では起こるんですねぇ。で、結構、インパクトが強かったのは、自分の名前、その文字列でした。なんだかんだいって、未だかつて、その文字列をテレビのような媒体で目にした事はない。

また、個人的な感覚として、中学生の頃からでしょうねぇ、「自分が死ぬのだったら、突然、自覚もないままに死ぬんじゃなくて、ちゃんと心の準備が整ってから死にたい」と考えてきたのだと思う。だから、映画やドラマの影響でしょうけど、余命宣告のようなものは絶対に欲しい。明日も明後日もあると思いながら、死ぬのは嫌だなぁ…と考えてきた。しかし、この夢の体験というのは「ええっ! オレ、死んでたんかよっ!」という、その認識手法だったので、そこにドキリとしてしまった。

まぁ、これは春先に志村けんさんや岡江久美子さんが亡くなったという報道を受けた際にも、感じた事だったのかな。きっと、ああいう場合、ご本人の意識としては「また生きて返ってくるよ」という意識、この意識が明確なのか朧気なのかは兎も角として、基本的にはヒトって、自分が眠っても、次に目覚めると考えている訳じゃないですか。まさか、そのまま、目が覚めなくなるとは考えていない。しかし、きっと意識の流れとしては、それがあるのでしょう。昏睡中であるとか、そういう状態の時にも夢をみていると思われる訳ですよね。で、その夢の中、必死に格闘し、もがいていたり、何かしらの恐怖と戦っていたり…。ただ、そのようにして、もう意識は現実世界を認識することなく、絶命に到る――と。

しかし、そうした境地のままに死んでゆくのであれば、苦しまずに死にたいし、心理的に穏やかな心持ちで死にたい。自分の一生なのであれば、自覚的であり、物心ついてから以降の自らの歩みについては、一応、自分なりに見届けたい。ああ、もしかしたら剣劇役者・浅香光代さんの訃報が数日前にあって、最後は本人への告知は行なわれなかったと耳にし、また、このブログを綴る中で石原慎太郎さんに触れましたが、その際、内心では「ああ、あの石原慎太郎さん、膵臓ガンが見つかったのかぁ…」という情報が、ほんの一瞬だけ脳裡の中を走ったのかな。きっと、この辺りの心の中の状態が、そういう夢に影響しているのかも知れない。

そういう情報が自分に反映されて、そういう夢が構築されていったのかな。で、私の場合は自分の境地に反して、「シマッタ! 心の準備もできていなかったのに死んでしまったなんて、一生の不覚ではないかっ!」と電光石火な後悔の感情が走って、ドキリとした。

この死の瞬間ってのは、話していると皆さん、持っていますやね。転倒したとか、交通事故に遭った瞬間、この世界はスローモーションになる。そのスローモーションになっている時間は、物理時間では、1秒間もないのに、非物理的な精神時間だと、そこそこの時間がある。とてもとても物理時間の通りとは思えない。昔から、死の瞬間には「人生のこれまでの記憶が走馬灯のようによぎる」なんて表現されてきた通りであって、つまり、自分のこれまでの物心ついて以降の記憶を、心の中で回想し、それなりに総括した上で、「ああ、オレにも死が訪れてしまったようだ…」と観念するという境地に到る。

私が見た夢の場合、その一連がすっかり抜けてしまており、気が付いてみたら、「死んでいる」と報じらており、その文字列は紛れもなく自分の名前、同姓同名ではなく自分が死んだらしいと認識し、ギョギョっと、それを心の中で消化しなければならなかった。汗なんてかいてないし、悲しいという感情もなく、ああ、オレは総括しないままに死んでしまったんだなって捉え、その夢から覚めた後に現実に照らし合わせ、「おお、こーゆー事も有り得るんだろうな」と1時間ぐらいは考え込んでしまった。
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何者かに首を絞められているような気がするも、「ぐぇぇ、息が出来ない!」という切迫感はなく、軽く締めている何者かの手を払いのける。「なんだ、なんだ、飼い猫がおやつの催促か〜。もう少し目が醒めてからな〜」というノリで、ここで目が醒めたのか、まだ夢の途中なのか曖昧。きっと、枕元に猫が居るんだろうなって思って、確認してみると、そこには猫の姿はなし。あー、夢の中で何者かに首を絞められる夢を見てしまったかぁ…となりました。

不気味な目覚めといえば不気味な目覚めでしたかね。しかし、なんだか不思議な気もしました。「く、く、苦しい」ので手ではらいのけて、「ぷは〜っ!」となったのではない。首を絞められているが、なんだかスッカスカで絞殺される恐怖みたいなものはない夢だったんですね。きっと、猫が「おやつが出てないじゃないか!」というイライラを募らせ、私の首の上にでも乗っかったのかなっていう程度。簡単に払いのけることが夢の中でも出来てしまった。

こりゃ、安楽死うんぬんを寝入る前に考えていたからでしょうねぇ。いわゆる「やまゆり園事件」に係る書籍を数日前に読んであれこれと考えていたという事に加えて、たまたま視聴していたDVDも安楽死を上手に取り扱ったドラマだったので、頭の中は、自ずと、そちらの問題で一杯だったのかも知れない。

視聴していたドラマはNHKが製作したものと思しき、江角マキコ主演の「マチベン」の第4話でした。この「マチベン」とは、「町の弁護士」を略して「マチベン」というのではなく、弁護士でありながら仕事の依頼を待っている状態、つまり、「待ち弁護士」の略称にして俗称らしい。ロクに仕事も来ない寂れた弁護士事務所には、沢田研二、江角マキコ、中島知子、それに山本耕史演じる弁護士が集まって仕事をしている。主演は江角マキコであり、検事から弁護士へ転向し、江角さんらしいキャラクターで、常識的には敬遠したくなるような難事件へ挑むというもの。そして、この第4話では余命6ヶ月の男が「安楽死をしたい」という依頼を持ち込んでくる。

安楽死を希望する男は岸部一徳演じる人物であり、元友人であったという沢田研二演じる後藤田弁護士に、この依頼をする。まぁ、この配役、この二人は伝説のGS、ザ・タイガースのメンバー同士ですな。しかし、後藤田弁護士は、この依頼を江角マキコ演じる涼子に回してしまう。友人は友人であるが、依頼人は個性の強い人物で、不思議と同じ女性を好きになっては奪い合いとなり、挙げ句の果てには、岸部一徳演じる男は投資会社を立ち上げて、その顧問弁護士になっていたが、これが詐欺を行なった為に弁護士資格剥奪の危機に陥った事もあるという。なので、自分では引き受けたくない。

しかし、中島知子演じる仲間の弁護士は猛反対。安楽死なんて日本で認められた前例がないし、そもそも安楽死の申請は弁護士としての信念に反するから、私は弁護士事務所を辞めると言い出す。そんな中、江角マキコ演じる主人公は、「やらせてもらいます!」と立ち上がる。

斯くして、安楽死の問題に突入していったのですが、やはり、ドラマでもドラマなりに、問題の核心には迫ってしまうものなんですね。岸部一徳演じる男は

「余命は6ヶ月なんです。そして私の場合は、いつ譫妄(せんもう)のようなものが始まってしまうか分からない。そうなれば自分の意志で行動できなくなってしまう。だから、攻撃的になって、他人を傷つけるような行動をとるかも知れない。自分は酷い人生を送って来たが、最後の最後まで自分は自分であるまま、終わりたいんです」

という主旨の事を話す。江角演じる主人公は、安楽死の裁判をまともにやっていたら決着がつくまでには5〜6年はかかるが、そもそも依頼人の余命は半年だから裁判をしている余裕はないと判断、「仮処分申請」という手法を使って、この安楽死問題を土俵に引っ張り込む。

ドラマでも、安楽死を容認するという判断が如何に大変な事であるかは、折々の発言や態度で伝わって来る。しかし、江角マキコという女優さんは、こうした逆張り、逆境で、見栄えする女優さんでしたやね。

「これは早く死にたいという申し出ではないんです。自分らしく生きたいという申し出なんです!」

と、そこを譲らない。「死なせる訳にはいかない」というアタマが、医療関係者にしても司法関係者にしても根強いので、「この問題は、早く死にたいという問題ではなく、自分らしく生きたいという問題だ」という。「死」というと途端にネガティブに受け止められてしまうからでしょう。そうではなく、「生」の問題である。

私も使用した事がありますが「人格権」の問題でもある。譫妄状態になってしまえば、自己は失われてしまう可能性がある。傷つけたくない人を、傷つけてしまい、その醜態を晒すことになる。それだけはどうしても避けたいというのが、岸部一徳演じる依頼人の要求なのだ。「人権」と「人格権」、どう違うのか私はよく知りませんが、人格権は民事裁判などでは争われる事があり、基本的には財産権と対比するものであるという。財産権と人格権。つまり、金銭的な何かを争っているのではなく、その個人の名誉とか自由とか信用といったものを争うときに使用する法律用語らしい。

その男には既に家族はない。だから醜態を晒そうが、一見、その問題は関係ないようにも思える。ひょっとしたら、その男は懇意にしている原田夏希演じるナースに醜態を晒したくないという、そういう思考をしているのか? 

ドラマなので、結局は、沢田研二演じる後藤田弁護士が、かつての裏切られた体験を水に流し、安楽死の仮処分申請を協議する「審尋」(しんじん)なる場に代理人として立つも、結局、安楽死は認められない。その決定の三日後に、岸部一徳演じる依頼人は死んでしまう。

岸辺一徳演じる依頼人には、いいセリフがありました。

「死んでいく人間には2種類あるんだそうです。有難うといって死んでいく者と、ゴメンと言って死んでいく者と…。僕は、有難うと言って死んでいきたい…」

そのセリフ、この男が念頭に置いているのは、やはり、原田夏希演じるナースであった。。。

翻って、現行のシステムというのは、まるでベルトコンベアー式ですかねぇ。画一的にしか是非が論じられない。

で、私が「おっ!」と思ったセリフもありました。

敵対する弁護士から、

「一たび、安楽死を容認したら日本中に影響を与えてしまうだろう。今、必死に闘病している人たちにまで悪い影響を与えてしまう」

というセリフが飛び出したのでしたが、それを審尋の席で、江角マキコは間髪入れずに批判したシーンがありました。

「それは本件とは関係ありませんね!」

とね。江角さんの低い声で。これですよ、これ。これが分からない人が多いんだ。個別具体的に検討するという事を知らない。この場合の本件とは、個別に本件であり、それは徹頭徹尾している。しかし、日本社会というのは意志薄弱だから、「そんな事をしたら大変なことになってしまう」というアタマが先に来てしまい、しかも許しがたい事に「今、必死に闘病している人たちの気持ちを考えれば…」のような「身勝手な負託」を繰り出すのだ。負託された正義の代弁者ぶって、結局は目の前の案件を捻り潰そうとする。本件は本件なのだから「そんな事、知るかっ!」なんですが、案外、そういう方便が有効に作用してしまうんですね。空気を支配してしまうというか。あそこで間髪入れず、そうした批判をするという事が肝要なのに。

シャープではないんですねぇ。常に背伸びした利巧者であろうとする。いわゆる「いい人ぶりっ子」。弱者と言われているものをダシにしてしまう手法であり、ホントは厚顔な態度なんですが、最近は偽善的論法が幅を利かせているので、巷間では、それが正義と認識されてしまう。目の前の者が、これこれこう苦しんでいるよりも、極めて紋切り型の「闘病している数多の人の気持ちを考えるべき」に歪曲されてしまう。

きっと「病人=優遇されるべき人」、「マイノリティ=優遇されるべき人」、「顧客=神様」、「被害者=神様」といった具合の単純二元の認識コードなので、「優遇されるべき人」の気持ちを忖度してみせたフリをした者が、なんだかヒューマニストであるかのように認識され、主導権を握れてしまう。そこに楔を打ち込むには、コンマ5秒で間髪入れず否定するしかない。ドラマを視聴していても同時並行で「今、日本中で必死に闘病している人達の為にも」というセリフには虫唾が走りました。明らかに蛇足であり、結論に誘導する為の勝手な方便なんですよね。目の前の問題である「本件」と向き合おうとしない。

そんな事を考えていたから、軽く首を絞められてしまったんでしょうなぁ。

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何者かに追われている。その追手から逃れる為に廃ビルの事務所のようなところへ逃げ込んで、ドアを閉めて鍵を掛ける。そして、追手が、そのドアをこじあけるのに時間を擁している間に、反撃をしてやろうと思っている。ライフルのような猟銃のような、そういう銃器を手にしている。

間もなく、ドアの向こうに追手がやってくる。足元はガラスの小窓になっており、そこには追手たちのスラックスが見えている。追手は3名ぐらい。スラックスから明るいグレイ系統のスーツ姿の男たちであると思われる。追手たちは「出てこい!」とか「隠れてもムダだぞ、この野郎」といった具合の怒号を発している。

その怒号に刺激されるものでもなく、冷静に思考している。〈足元は、こちらから見えているんだぞ、よし、ドア越しに、追手どもの足を吹き飛ばしてやる〉という気持ちになっている。ついさっきまでは遠方から狙撃するようなライフル銃のつくりだったような気がするが、手にしている銃はなんだか猟銃のようなつくりになっている。

追手は、どうやら渡哲也、その人であると何故か分かる。顔が見えたのだ。〈おー、おー、追手は大門軍団か、上等じゃねぇか。やってやるぜ〉と気分が高揚する。下方にある窓、そこに並んで見える5〜6本の足に照準を合わせ、〈お前らの脚を吹き飛ばしてやらぁ、吠え面かくなよ〉という気持ちで引金を引く。銃身から出た銃弾は勢いがなく、カラカラカラとか、コロコロという具合に床に落ちて転がってしまう。

〈しまった! 絶体絶命か?!〉

と、その状況に落胆した瞬間、その下窓から追手の大門軍団一味が灯油だかガソリンを注ぎ入れている。〈なんだ、何が起こったんだ? オレはどうすべきか?〉と動揺していると、直ぐに、その液体に火が放たれ、隠れていた廃墟内の事務所内は火に包まれる。床に流し込まれた液体に引火した炎が、私の目の前まで迫ってくる――といったところで、目を覚ましました。

目を覚ましてからも、「やるじゃねぇか、渡哲也め」などと考えていました。しかし、夢ってのは、不思議ですね。かなり、夢の中というのは、その人物になり切っているのが分かる。「ここに隠れてドアにカギを掛けて、そのドアを破るのに手間取る時間に、足を吹き飛ばしている」という作戦を、夢の中の私は疑わない。たぶん、これは成功すると思っている。だから、恐怖に耐えて夢の中でそのように行動しているのだ。しかし、驚いた事に、その思惑は頓挫する。そればかりか、籠城した一室に外部からガソリンを流し込まれ、火を放たれてしまった。

とはいえ、この夢は私自身が見た夢なのだ。ガソリンを流し込んで火をつける、ガソリンを流し込んで火をつけてやれ、そのような事を、覚醒時の私も、夢の中の私も、微塵も考えていないし、考えた事さえない。このあたりの展開を、すらすらとデキてしまうのが夢のなせるワザなんでしょうねぇ。しかも相手は、手ごわい筈だ、渡哲也ですぜ。

これは私という個体の中の意識が、「ドアにカギをかけてドアで足止めしている間に相手の足を吹き飛ばしてしまえばいい」とか「そうやって部屋に立て籠もっているのであれば、ガソリンを流し込んで丸焼きにしまえばいい」のように思いついているところが怖い。私がする発想ではないのだ。勿論、無自覚だし、日頃からそういう事を夢想している人間ではないのだ。そうした知恵というのは、夢の中、どこから来ているんだか気になると言えば気になるなぁ。だって、私が見た夢だという事は、そうした事を思考したのも私自身なんでしょう? 不思議なんだよなぁ。

夢の中で推理ドラマ的なクイズとか出された事もあるけど、夢ってのは他人の意識が混じっているような。

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一昨日の事なんですが、中々、寝付けず。。。。朝6時に起きねばならないのだから、早く寝付かなきゃ、となるものの、そう思えば思うほど寝付けない。

で、4時40分頃までは記憶にあって、そこから記憶がなくなって、目を覚まして時計をみたら、ドンピシャで朝6時ジャスト。おー、おー、私の体内時計ってのは分単位で正確なのか、驚いたなぁ…。しかし、よくよく考えてみたら、朝7時まで寝ていても大丈夫だったと思い出す。で、二度寝に入りました。

これが大学生の頃であったなら、目覚めたときには夕方だったりしたものですが、次に目を覚まして時計を確認したら朝7時ジャスト。おそらく分単位でも1分程度の誤差しかない。まぁ、眠りが浅いというのもあるんでしょうけどね。

結局、寝不足がたたることとなり、ややだるい一日となりましたが、歯医者にて、突如として飛蚊症の症状が…。寝不足の影響なんでしょうねぇ、時間にしたら2〜3分だったのでしょうけど、目の前に黒い蚊のような虫が20匹ぐらいみえてしまい、中々、消えず。

結構、本格的に虫のようなものが見える。しかし、同時に、それは本物の虫ではなく、自分の視覚に係る現象であるのも直ぐに気が付きました。とはいえ、歯医者から帰る頃にはすっかり、その状態は治まっており、見ようとしても見えなくなっていました。また、目を動かしてみて、その目の動きに沿って黒っぽい虫(ごみ)も動くのであれば、網膜剥離などの疑いはないというけど、私の場合は目を動かせば、そのまんま、ごっそりと、蚊も左右に動きましたかね。。。となると寝不足と老化によるものって事なんだろうねぇ。

やはり、睡眠ってのは大切ですねぇ。こんなにも顕著に体調に大きく影響してくるなんて。
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変な夢をみたのに前段を忘れてしまった。

なんだか気がついたときには通勤電車らしいものに乗車して降りたところから記憶がある。駅前の様子は、「途中下車の旅」ぐらいで見たような見知らぬ駅前でしたが、そのまま、どこかへ向かう通勤者に紛れて歩いてゆくと、なんだか大きな神社の参道なようなところへ向かっているのですが、ホントに何なんだっていうぐらい変な夢で、周囲の人たちがホッピングでジャンプするようにして当たり前に歩いているのだ。

ホッピングは確認できないのだけれども、すました顔をしたタイトなダークスーツをきた勤め人風の大勢の連中が、何か陳腐な特撮映像を見せられているかのように、ぴょんぴょんぴょんと両端を揃えて飛び跳ねるようにして、進んでゆく。辺り一面、そんな若者だらけであり、目がおかしくなるぐらいの衝撃的な光景。テレビゲームのバグみたい。

「これは、さすがに夢だな。なんてバカな夢をオレは見てんだろう?」

と気付いてしまい、ホントに起床。我に返ると「ふぅぅぅ、小便洩れそうだ」とトイレへ。ホント、ふざけてんなぁ、夢って。夢というのも、ネタ切れ気味になるものなんだなぁと痛感しました。


きっと夢にしてもネタ切れ状態で、少しでも睡眠時間を取らせる為に意味もない夢をつくり出したというのが濃厚ですが、周囲の人たちが全く自分と異なる次元に生きている生物に見えるあたりってのは何かあるのかもね。

週刊文春の最新号に目を通すと不思議な気分になる。池上彰さんは連載は過去のアメリカとイランとの因縁の説明で、これは時節柄、当たり前だよなって思う。しかし、福岡ハカセの連載は荘子の「泥に尾を引く亀」であったりして、また、孟子についての解説で「革命思想は入ってきていないと考えられていた」等についても言及されていたのかな。昨年あたりから、少しどころか、よく考えさせられていた題材であったと思う。どちらも少しズレた観点で、まとまっていないような印象もありますが、こういうテーマが並ぶという事は、底の底では、おそらく「民主主義のような制度は持たないんじゃないかな」という諦念があるような気がする。現実を見れば破綻だらけ、どこかにいい知恵はないもんかねって無意識に人々の関心が向かっている可能性なんてのはあるんじゃないだろか。

なかなかピンと来ないものかも知れませんが、パレスチナを巡るシオニズム問題と、その後の中東、アラブ、イスラム問題というのは、一神教の価値観が一神教の価値観を打ち立てて、その唯一神に対しての原理主義に帰結する可能性がある。仮に、一神教的な価値観として「異教徒を滅ぼすことが我々の存在意義なのだ」という一神教主義がある場合、実は共生とか平和は絶望的に成立しない。最初から敵対しかない。勝つか負けるか、滅ぼすか滅ぼされるか、そういう思考回路にならざるを得ない。なので、そうならない為の何かを探している。西洋では、西洋型の民主主義がベターと考えられてきたのでしょうけど、確かに民主主義制度もポリコレとか言い出した時点で既にポリコレ原理主義に堕落したんだろうなって思う。同じく週刊文春の先週号で土屋賢二さんの連載でカントが登場させ、バカみたいな長文を書く事の愚(一個も句点がない文章)を自ら体現していましたが、確かに或る時期まで、学者さんの文章というのは長文で「この人、自分の知識をひけらかす為に意図的に専門用語を並べ、句点を使用しない事にしているんだろうなぁ。相手に伝える気がないんじゃないのか」と感じた事があった。知者もまた一神教的な価値観だと聖人ではなく、知的マウンティングをとりたいという気持ちがあるのでしょうねぇ。
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どこでどのように入手したものなのか、また、それが覚醒剤と呼ばれるものなのか大麻と呼ばれるものなのかも、よく分からないが、それが入った小袋を持っている。警察24時的なテレビ番組から得た知識からすると「パケ」なんて呼んでいるのかな。

場所は狭くはない路地裏通りであり、その路地をでると大通りに繋がっている。知っている場所ではない。しかし、どこか懐かしさを感じさせる昭和な雰囲気の街並みである。

パケを隠し持っている私は、どこか心の中で「へへん、(こんなものを手に入れるのは)簡単じゃないか…」という気持ちになっているが、それは同時に「絶対に怪しまれてはならない。捕まってはならない。捕まった場合は一巻の終わり、今生に於ける身の破滅だ」というリスクと背中合わせである。

夢の中では、そのフレーズを思いつきませんでしたが、日陰の人生を歩む者の心情、社会から脱落・剥落して生きている陰獣、陰生花のようにして生きているというイメージ、設定である。

裏路地を歩きながら、自分は挙動不審ではないだろうか、服装などは周囲に溶け込めているだろうか、そんな心境で歩いている。その裏路地で、おそろしく時代遅れな駄菓子屋とも洋品店とも、あるいは土産物店でもあるような、その店へ吸い寄せられる。そこは木造の建造物であり、柱の色が黒く古そうであり、また、薄暗い店内であるが面積はそこそこ広い。

路地裏の、その古びた店の軒先に、30cm×50cmといった手頃なサイズの帆布バッグを見つける。手持無沙汰で歩いている自分に対して「私は知らない町を手ぶらで歩いているなんておかしいじゃないか」と感じていたので、そのバッグは非常に魅力的な商品として映った。ふらりと近寄って、その帆布バッグを手にして中を確認する。ちょっと気の利いたつくりになっており、バッグの内側に隠しポケットがついている。見た目は無難、価格的には五百円であり、安物過ぎず、高価過ぎとも感じず、まさしく、欲していたものであるかのように感じた。

《こんな寂びれた通りのこんな薄暗い店で、今の私のニーズにピッタシなバッグを発見できるなんて。まだ、私にはツキがあるじゃないか!》

と、気分を高揚させる。

その店で帆布バッグを購入、そのバッグの内側の隠しポケットにパケを入れる。もう、これで安心だ、このまま、この街を脱出できるだろうと楽観的な気分になる。

路地から大通りへと出る。その通りには人がいっぱいいる。しかし、私は特に怪しまれる要素はないだろうという気分で、その通りに出て、歩き始める。

迷惑な事に通りを遮るような人だかりが出来ている。何か商店街の抽選会的なものでも行われているらしく、高齢者らが立ち止まって道路を塞いでいる。そして、その混雑に紛れて若い警察官を視認する。その制服警官は笑顔で、その催し物が行われている方向を見ており、私には気付いていない。

《へへん。ヘマなんてするもんか…》

私は、そういう心情で雑踏に紛れ込む。しかし、警察官が迫り、2〜3メートル先で擦れ違う際、動揺してしまい、不自然に手にしていたバッグを右手から左手に持ち変えてしまう。バッグには柄がプリントされている側と、何もプリントされていない側があるが、内側の隠しポケットを意識するが余り、バッグを右手から左手に持ち替えるにあたって、バッグを回転させることなく、プリントのある側を右側へ向けたまま、右手から左手へと移してしまったのだ。

――と、ここで目が醒めました。最悪の寝起きでしたかね。口の中はカラカラ、こたつで雑魚寝してしまったらしく胃の調子も悪い。

警察官に声を掛けられて目が醒めたのでもなく、視線が合って目が醒めたのでもない。己が演じた失態、その失態に気付いて目が醒めたという感じ。「こんな事でヘマをするなんて、なんてオレはダメなヤツなんだ!」という落胆と、「こんなところに落とし穴があったなんて、なんてオレはついていないんだ!」という恨み節。

夢の自己分析ですが、基本的な設定は、田代まさしさんが覚醒剤所持によって五度目の逮捕となったという芸能ニュースでしょうねぇ。その逮捕の端緒となったのは塩釜市だといい、きっと、その塩釜市のイメージというものを、私がつくり出して、その舞台になっていたのかな。明らかに知らない町並みでしたから。

帆布バッグは、これは日常と関係している。手頃な帆布バッグってないかなぁ…と探すことが、ままある。意外と重宝するのはポケット付きのつくりのバッグで、それだとキーケースやらケータイやら小銭入れを入れておけるので便利だなぁ、日常使いはそれで充分じゃないかなんて考えているのですが、それがそのまんま、夢の中に持ち込まれたかのような印象。

薄暗い駄菓子屋とも洋品店ともつかぬ店というのは、旅番組などでも老舗の土産物店として紹介されるあの感じ。かき氷とか出していたりする感じの店。ただ、どこか私自身が小学生の頃に数回行ったことのある駄菓子屋の風景も混じっていたような気がする。天井が低く、柱という柱は黒く、店内はかなり暗い。

最後に警察官でしょうね。おそらくは悪感情を持つべき警察官像ではなかったと思う。若く、色白であり、柔和な笑顔を湛えながら巡回しているだけである。そんな警察官と擦れ違うにあたって動揺をしてしまう我が身の持っている「陰」にギクリとする。

その背景にも説明は可能かも知れない。行列であるとか群衆といったもの、そうしたものを善としたがる側の人々が称えられるワケですが、それに対しての違和感みたいなものがあるような気がする。時勢に器用に乗る諸々の群衆に溶け込めない、或いは、そうした群衆に自分が巧く溶け込めているだろうかという不安心理とかね。

更に言えば、昨年まではハロウィーンとやらに大がかりに警察が投入され、そのDJポリスが褒め称えられていたワケですよね。おそらく、数年前から違和感を感じており、それについてもブログに残してあると思う。公的権力の側が私のような層を置き去りにして、大衆迎合ってのをしてくれているよなぁ、というもの。これは、どこぞの県知事がAKBの「恋チュン」を踊った事とか、それらへの批判と同根だし、どこぞの映画祭や展示会に市が協賛していて表現の自由がどうだとか、ゆるキャラだとか、基本的にはどれも同根かな。公権力が実労部隊の人々を置き去りにして、人気取りをする事への不満。擦り寄り。いやらしいプロモーション、宣伝戦略に公金を投入されてしまっている事の違和感なのかな。これみよがしに、いい人ぶる姿を他人に披歴することが出来るタイプの人に対しての強い違和感。

たとえば、私はネコは昔から好きですが、だからといって、これみよがしにネコを愛している姿を誰かに見せようとは全く考えない。しかし、昨今の風潮というのは、コレですね。これみよがしな人たちが、案の定、色々としでかしてくれている。しかし、表層的には彼等は無垢な善人であるかのように認識される。ホントは自己の装飾なんだと思う。自分をよく見せる為の装飾であり、いわばセルフデコレーション。自分を引き立てる為の道具として、「これみよがし」なアピールが日々、為されているけど、それらは自己演出であって、表層的な善人の仮面の強制だよなぁ…。
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どこにでも訃報というのは転がっていて、訃報に接する機会が増えてきている。そして、口々に「こじんまりとした葬儀で済ませる」とか「済ませた」という具合に語られる。

「どこそこの誰々さんは、もう、随分、昔に亡くなられていますよ」

という場合もある訳ですね。昔って、どれぐらいよってなる訳ですが、これはケースバイケースというヤツであり、十年前後の場合もあれば、二十年前後の場合もある。そのように噂されるという事は、その死んだ人は、十年後も二十年後も、まぁ、人々に記憶されているという事でもあるのでしょう。

しかし、これが徐々に風化してゆく。記憶の中で風化してゆく。これが連綿と繰り返されている。

前市長とか前々市長とか知らぬ間に死んでおり、或る時期までは市長、市長と言われていたような方の場合でも、さほど例外ではないかも知れない。記憶としては「亡くなったという話を聞いたような記憶があるが、いつ頃であったか等の確かな記憶がない」という状態になってゆく。他方、葬儀に参加した場合などは、それなりに記憶として残っている。

で、「葬儀はこじんまりと…」と語られるようになったのは、経済的な理由もあるし、やはり、超高齢化社会を実感させてくれる。90歳の親があるという場合、その方自身も既に相応な高齢者なのだ。また、世の中は相応というレベルではなくて、かなり変化しており、そもそも我が家の場合は墓なんて必要なかったという人まで居るし、誰しもが高齢してゆくのだから、葬儀をするにしても後期高齢者の人たちが葬儀会場の集まる事そのものが物理的に難しくなってくる。

この問題は各自によって認知度に違いがあって、死んだ後に寂しい思いをしたくないからと墓を求め、式典を求めるタイプの人と、どうせ死んだら何も残らないのだろうから息子や娘に余計なカネをかけて欲しくないという何某かの理性的な言葉を並べるタイプの人がある。ポックリと死にたいという人は多いが、ひっそりと死にたいという人は少ない。

ポックリと死ぬにしても、ひっそりと死ぬにしても、要は、苦しまずに死にたいという意味であろうと思う。それ以外には、あんまり望むものもないのかも知れませんやね。

土砂崩れによって死者が出たというテレビ報道を視ると、どのように、その時を迎えたのだろうかと考えてしまう事がある。きっと、どの被害者も、

「まさか自分がこういう死に方をするなんて!」

という驚きの中で絶命しているのでしょうねぇ。交通事故にしても天災にしても、或いは事件についても同じで、その数分前までは当たり前に明日があるものと思いながら生活しており、何か、その状況が訪れてきて、その状況に巻き込まれている中で、「まさか、自分がこんな死に方をするなんて!」とか「こんな事で死んでたまるか!」とか、そのような心的動揺の中で淡々と現実は死へと傾斜してゆく。冷静に状況を把握して「ああ、これで、私の人生もおしまいかぁ…。思えば私の人生というものは…」という諦念に到達し、今生との別れを悲しんでいる暇が有るのかどうか…。


夢というのとも少し違うのですが、眠りにつく前に浮かんでくる、或るイメージがある。おそらくはアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」に起因するものだと思いますが、死んだ後、エンマ大王の前に引っ立てられる。しかし、そこで裁かれようとしているのではない。そこでエンマ大王から、その説明を受ける。

「あの世(この世)についての証言を集めている。オマエが経験してきた世とは、どのような世界であったのか、正直にオマエの言葉で述べよ」

と質問される。

そのエンマ大王の質問は何某かの理由で私を罰する材料を集めようとしているのではなく、私が体感してきた世の実情というものを私に語らせたいのであり、だから正直にオマエの言葉で述べよと言っているのだ。

ここで、煩悶する事になる。一定の道理からすれば、その豊饒な「生」の世界を悪く語る理由がない。その世界がダメな世界であったのであれば、私の生き方に非があったのかも知れない。しかし、それは本心なのかというと違う。エンマ大王の質問に対して忠実に応じれば、つまり、正直に言ってしまえば、かなり腐敗した世界を見てきた、と感じているような気がして、また、それを正直に誠実に述べることが、死んだ私の役割というものであるかも知れないな等の問題が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。更に、このように思案して時間稼ぎをしている我が身の危うさを思う。

「私が認識しているところを正直に申し上げますと、もう、あちらの世界は限界を越えるような醜悪な世界でありました」

そのように言ってしまっていいべきかどうか煩悶している。脳裡には、そこそこ、ぼんやりと、そちらの方向性で証言するイメージが浮かんで来てしまっている。どのように証言するも、自分の胸先三寸のところにあるという、その責任感と焦燥感、それと、その状況に対して誠実であるべきだろうという使命感との葛藤によって、その煩悶は重圧となってくる。生の世界への裏切り行為になり得る。善人ばかりの清浄な世界ではなかったが、だからといって悪人だらけでもなかったのが「あの世」の総体であろう、しかし、今、問われているのは実直な私の意見なのであろうと考える。正直に述べよと言われているのに私の中で天秤にかけて、思案してしまっているという状態。その間にも刻々と時間は経過している。どう答えるべきか、その決断がつかず、煩悶する――そんなイメージ。

それこそ「ゲゲゲの鬼太郎」にも「三尸の虫」の話があるし、映画「男はつらいよ」の中で車寅次郎が啖呵売りでも、それを説明していますが、ホントは日本人の典型的なエンマ大王観に係るあの世と自己とを繫ぐ世界観であろうと思う。この三尸の虫は人体の中に潜伏しており、逐一、その人間の行状を天界に報告している。実は監視者なのだ。天網恢恢、オマエが仲間を庇おうと嘘を言ったところで、そんなものは通用しない、天はすべて、まるっと、お見通しだ――という、あの世観ですね。

日本人は、その腹の中に棲んでいるという密告する三尸の虫をダマす方法を考えてきたものの、もう、色々とダマし続けるのは難しくなってきている。むしろ、正直に陳述する事が、あの世にとっても、この世にとっても、万物一切の利益に適っているように思えたりもしてくる訳で…。


その証言を終えた後に、先に死んでいる先達と顔を合わせる訳になる。おそらく、そこには生前の世界にあったしがらみはない。にこにこと人懐こそうな笑顔で話し掛けてくる人がある。

「あんた、エンマ大王に、どう陳述したんだい?」

「少なくとも天に恥じることはないように述べてきたよ」

そう言えて、ハレて死に切れる。
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夢ではないのですが、不思議と感じたこと。

北側の窓から何やら強烈な緑色っぽい光が差し込んだような気がして目を覚ます。夢か現か、ハッキリとそれを視認している。自分の寝ている場所にも少しは緑色の光が差し込んでいたが、それがハッキリと見えたのは視線の先、台所にある冷蔵庫の下半分ぐらいの箇所への反射でした。北側の窓から光が入ってきて、その光が徐々に強くなって消えるという感じ。ぼわっと。

その様子を視認し、その光の正体をアレコレと考えている。と、同時に妙に目が覚めている。目をつぶる度に、何かカメラのフラッシュでも焚いたかのような、そういう光の痕跡を感じている。

うっかり仰向けで寝てしまっていたので、察するに無呼吸症候群として語られるような、それをやってしまい、自分の脳がヘンテコな光を見せてしまっているのではないのかと思いつく。信じたくはないが有力な気がする。心霊現象のようなものは脳が酸欠状態になった際に発言するという解説であったと思う。

しかし、それにしては体に不調の自覚がない。苦しかったぁ…という感覚は皆無であり、むしろ、お腹でも冷やしてしまっただろうかと、そちらの方が心配なぐらいだ。

仮に本当に光が差し込んでいた可能性というものを考える。明らかに真夜中であるが、台所の北側にある小さな窓に光源が差し込んでくる状況なんてあるのかと考えてみる。自動車が我が家の前を通り、それが何かに反射して台所に入り、それが冷蔵庫に写ったのを目撃したという風に組み立てれば有り得るかも知れない等と思案する。私の寝ている場所は台所の西の部屋であり、こちらなら窓は大きいがさすがにカーテンを締めていて、そのカーテンの隙間からも少しは光が入っていたようにも感じていた。しかし、仮に大きなトラックが通ったとしても、角度などを考慮すると有り得ないなと考える。

テレビが紹介する映像で「火球」なんて呼ばれているようなそれがあったなら、その角度で強い光が差し込んでくる可能性がありそうだと思いつき、テレビのリモコンをまさぐって、テレビをつけてみる。大きな爆発があったとか、隕石が落下して火球が関東地方で目撃されたという具合の報道があるのなら…と考えた。

完全に空振りでした。よゐこ有野さんが画面に映っていて、何やら漫画かゲームの話をしている。どこかでニュース番組でもやっていないかとリモコンを操作すると、ぱっと「朝まで生テレビ」が映る。最低賃金について話し合われている。最低賃金の話にはうんざりしているところであるが、私の神経を逆撫でするような話し合いなので、2〜3分ほど目で追う。全員が全員、最低賃金を上げるべきだという意見らしく、しかも例に拠って、その事によって体力のない会社が淘汰されたり、統合が進めばいいじゃないか的な言説で満たされているのを目撃し、リモコンを操作して電源を切る。真夜中に目を覚ましたのは、私に、この映像を視せる為に無意識に誘導されたんだろうかなどと思案し、精神的な高揚もあって立ち上がる覚悟を決める。そして、電灯をつけてトイレへ向かい小用を足す。

そういえば…と思い立つ。あの緑色の閃光、母親が使用しているらくらくホンが、ああした発光をしていた事があるのを思い出す。母親がケータイを、どこかに忘れて行って、それがチカチカと点滅しているのであれば、視認した現象の説明がつくじゃないか、きっとそうだ、部屋のどこかに、置き忘れられたらくらくホンがあるに違いないぞ等と思う。そして、目ぼしい箇所を見回してみるが、らくらくホンはない。

時計を確認すると3時30分頃であった。ああ、分からないけど寝ようと思い、今度は横臥の姿勢で寝る体勢をとる。

横臥の体制で寝入ろうとしていた際、自分の肺が音を立てたように感じる。よく子犬の鳴き声として例えらえるような小さな「くぅん」という音で、自分が鳴らした自覚はないが、自分が鳴らしたらしいと感じる。もしかしたら飼い猫が背後にして、そういう鼻音でも鳴らした可能性があると思うものの、飼い猫は別の部屋で就寝中。

うつらうつらと、寝入ったのか寝入っていないかのタイミングで、また、「くぅん」という音が聞こえて目が覚める。驚いた事に、自分の呼吸から原因する音ではないと感じた。音の源は自分の鼻でも肺でもない。まどろんでいるような状態の中で、頭の中で聞こえている音だ気付く。気付くというか確信した気がする。呼吸のタイミングとは関係なしに、一度、頭の中で聴き取れてしまったので驚いて目を覚ましたのだ。

少しばかりカーテンの外が白んでいて、数匹のカラスの鳴き声が聞こえている。比較的大きく聞えており、そういう時間帯である。確認すると丁度4時頃であった。

カラスが騒いでいる事に触発されてか、飼い猫が何処かから猛ダッシュで走り回る音が聞こえ、やがて飼い猫が畳の上を疾駆する音を立てながら、部屋に駆け込んでくる。カラスの声に興奮しているらしいな等と思っていると、次の瞬間にも私を見下ろすようにして真ん丸な目をして姿を現わす。知らぬ間にテーブルに飛び乗ったらしい。思わず、「うわぁ」と声を上げるほど驚かされたものの、飼い猫の頭を撫でる。飼い猫はダッシュで姿を消す。

緑色がかった光が差し込んだように感じた事にしても、鼻が鳴ったか肺が鳴ったのかという音の正体にしても、自分を納得させる事が出来るかというと、なんだか出来そうもないなという気分になる。
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音だけでも、夢をみることに気付きました。

寝た状態のまま、頭だけ覚醒している状態で、なんだか騒々しいなと感じている。薄暗いのにクルマが通行している音がしている。たぶん、その際には、ホントに複数台のクルマが通過していたのではないかと思う。しかし、夢らしいのは、その続きからで、ずーっと騒々しい。

電波の状態が悪いラジオの音声が聞き取れている。うわぁぁぁん、うわぁぁぁんと、時折、何かが聞き取れるが全体的には聞き取れないアレです。波うっちゃっているので、

「このほど…………では………なので……が必要とみられています。次の……」

のような、そんな音声。

なんで、こんな音声が聞こえるんだろう、ラジオのスイッチを入れっぱなしのままという事は考えにくいから、何かテレビの周辺機器の消し忘れがあって、それに無線か何かが反応してしまっているのだろうと、夢の中で考えている。

しかし、そう考えている間にも、色々な生活音が聞こえてきて、しまいにはミーンミンミン、ミンミー、という、蝉の鳴き声が、一度目は小さく聞える。「あれ? ミンミンゼミが鳴いてるなんて、そんなバカな事が有るだろうか」と夢の中で耳を澄ましてみる。すると、一度目よりも大きく、確かに真夏に聞こえる筈の、ミーンミンミンミンミンミーが聞こえて、ハッとして目が覚めました。

一連には、音声と、自分の意識のみ。これでも夢は成立してしまうんだなぁ。
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