淘汰には「性淘汰」と「自然淘汰」とがある。自然淘汰は捕食者などの外敵や環境的な困難によって行なわれる淘汰であるのに対して、性淘汰は生殖可能な同質的なグループの中で起こる。つまり、性淘汰の問題とは、自己の遺伝子を次代へと残せない事であり、一般的通念で言えば繁殖(≒性交)の機会を持たない事である。利己的遺伝子論では遺伝子は自らの複製をつくろうとする行動原理を持っていると考える。
既に蟻の社会については触れた。女王蟻が一匹あって、繁殖用の雄の蟻が数匹あって、それ以外の働き蟻は全てメスである。この話を以って、ドラマなどでも「ねぇ、知ってる? 働き蟻とか働き蜂ってメスなんだって」となる。しかし、この話には続きがあって、蟻社会や蜂社会の場合は女王と働き蟻・働き蜂の関係性は血統的には兄弟姉妹の関係にある。つまり、女王が産んだ子の遺伝子(DNA)は、その一群にいる働き蟻・働き蜂の遺伝子と半分は合致している。なので、蟻や蜂の場合は、繁殖&産出と、それ以外の労働とを分業しているだけである。そして、これらの話を理解するのに必要なのは、主体者は「遺伝子である」という事だ。ただただ遺伝子は自らの遺伝子を複製しようとしているだけ。
カッコウの托卵については有名だ。改めてリチャード・ドーキンス著/大田直子訳『遺伝子は不滅である』(早川書房)に目を通しても、このカッコウの托卵には結構な頁が割かれていた。ヒトの道徳的観念からすると、カッコウの托卵は極悪非道なものだと考えられている。
平たく言えば、カッコウは「托卵鳥」であり、自分の卵を別の鳥(ミソサザイ、ジョウビタキ、コマドリ、ヨシキリ、セキレイ、クグリ等)の巣に産みつける。巣の中にカッコウの卵を産みつけられてしまった鳥を「仮親」と呼びますが、仮親たちは甲斐甲斐しくカッコウのヒナにせっせとエサを運ぶ事になる。そして鳥種によっては仮親の体長の何倍にもなるカッコウのヒナにエサを与える。仮親の中には、ヒトの世界にもオレオレ詐欺であるとかロマンス詐欺に引っ掛かる人たちが存在するように「それは、どう考えてもダマされていませんか?」というカッコウのヒナに対して親としての愛情とエサとを与え続ける。
少し引用します。
カッコウの極悪非道は卵から孵ってすぐに始まる。孵ったばかりのヒナには腰のくびれた部分にくぼみがある。それ自体に悪意はないと思えるかもしれないが、その唯一の用途を知ると事情が変わる。カッコウのヒナは仮親の注意を独占しなくてはならない。孵化したばかりのカッコウのヒナは仮親種の卵やヒナを共有していることに気づくと、その卵やヒナをくぼみにぴったり納める。そしてもぞもぞと巣の脇のほうに下がり、ライバルの卵やヒナを放り出す。(『遺伝子は不滅である』235頁)
上記の話は、竹内久美子著『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社/未文庫本)で、32年前となる1994年に紹介されていた話でもある。托卵とは、人間社会に置き換えると、往年の大映テレビドラマ「乳姉妹」(ちきょうだい)や嬰児取り間違え事件を題材とした音無美紀子主演のテレビドラマ「我が子は他人」を彷彿とさせるような話である。基本的には、裕福な家の赤ん坊に貧乏人の赤ん坊とをすり替えて、裕福な家族に我が子を育てさせるという繁殖戦略を採っている。しかし、テレビドラマよりもカッコウの托卵はエグいものであった。カッコウのヒナは仮親のヒナや卵を殺し、その上で、仮親の愛とエサとを独占せんと大きな口を開けてピーチクパーチクやって成長するのだ。遥かに仮親よりも大きな体長になっても、仮親にエサを運ばせているケースもあるという。確かに、我々は人間社会に生存しているので、これを「小さな悪魔」と感じたり「極悪非道」と感じる訳です。もし人間社会でカッコウの托卵戦術と同じような行為が行なわれているとしたら、きっと多くの者は「なんて理不尽な話なんだ!」と感じるでしょう。
「すり替えるだけじゃなくて、殺しとるやんけ!」
で、この自分で産み落とした卵を別の種に育てさせるという托卵戦術はカッコウの専売特許という訳ではなく、昆虫界ではミツバチ、スズメバチ、アリが存在しているという。それぞれカッコウミツバチ、カッコウスズメバチ、カッコウアリという名称だ。更には、タンザニアのタンガニーカ湖にはカッコウナマズというナマズが存在しており、このカッコウナマズは口内で子育てをする口内保育魚であるシクリッド科の魚の卵の中に自らの卵を紛れ込ませるようにして産むという。後は、その口内保育魚の仮親がナマズの子を我が子のつもりになって、愛情を注いで安心安全に育ててくれる――という訳です。
もう、この世界ってのは、つまり、やったもん勝ちですな。他の遺伝子が、エゴイスティックな遺伝子の為に、どんなに苦労しようが知ったこっちゃない。ウェーイなパリピが、クソ真面目なダサい連中をダマくらかして、メシウマ生活を送るが如し。ヒント、投げ銭。
そして、この話の先にもここで打ち切れないその先の話がある。カッコウの托卵のようなものを許していたら、やられている側の種が絶滅してしまうのではないか? ――という問題だ。しかし、そうならない。逆にカッコウの托卵戦略からすると、ダマされてくれる種が滅んでしまうと自分たちも滅んでしまうのだ。また、更には個体レベルで、このカッコウの托卵戦略は百戦百勝なのかというと、そうではないらしい。つまり、巣にカッコウの卵を産み落とされた仮親の側でも、
「あれ? この卵なんだけど、ウチの卵じゃなくね?」
と気づいたりして、結構な割合で、托卵戦術を見抜き、カッコウの卵を巣から落としてしまう等の防衛策も講じられているらしい。
それが生態系の絶妙なバランスと関係している。即座に「✕✕はけしからんから撲滅すべし」のように反応しても仕方のないところがある。現在の日本社会では何か些細なモラルの問題でも騒ぎ出すと、直ぐに「一律的に法律で規制すべし!」みたいな硬直的な方向へと持っていかれてしまうのだけれども、自然界とか自然界の法ダルマには、そのように一線で線を引く事はそもそも不可能という事柄が多いのが実相なのでしょう。
(と、言いながらオレオレ詐欺団には受け子も含めて厳しい刑罰が必要だと思う。人間社会の場合は社会や経済で成り立っており、その根幹は信頼関係である。これを脅かす犯罪については厳しい態度で臨まないと、実は社会秩序そのものが破綻する。既には破綻しているからこそ、他者を思いやらない人たちの天下になっている気もするからねぇ。)
そして、ここにカッコウの托卵をされた仮親たちが何故、ダマされるのかという問題についての新しい仮説が紹介されていた。名づけるなら「野ウサギと猟犬」仮説か。
イソップ物語には、主人の御供をしている猟犬が野ウサギを追い掛けるが、野ウサギは生き死にがかかっているので死に物狂いで逃げるのに対して、猟犬の方はというと、野ウサギを捕まえなかったからといって主人から殺される訳でもなく、お気楽な感覚で追い掛けるという教訓から来ているという。まぁ、猟犬の方だって、御主人の性質にもよるのでしょうけど、野ウサギを捕まえられなかったからという理由で罰を与えるにしても、おやつを抜きにするとか、一食だけ抜かれるという程度の罰である。それに対して逃げる野ウサギは文字通りの命懸けの逃走である。
この「野ウサギと猟犬」をドーキンスは、カッコウの托卵問題に置き換えて、次のように述べている。
捕食者の遺伝子が振り返ると、獲物に逃げきられた多くの祖先が見える。しかし被食者には捕食を振り切らなかった祖先はいない。少なくとも、振りきって遺伝子を伝えている。多くの捕食者遺伝子は、振り返れば獲物に逃げきられた祖先が見える。振り返って捕食者との競争に負けた祖先が見える被食者遺伝子はひとつもない。
命か食事かの原理をカッコウのヒナと宿主に当てはめてみよう。カッコウのヒナが振り返ると、連綿と続く祖先の系統が見えるが、そのなかには見分ける宿主によって出し抜かれた祖先はまったくいない。もし出し抜かれていたら、祖先にはなっていなかっただろう。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子は伝わらない。しかし仮親がカッコウに気づけない原因となる遺伝子はどうか? カッコウにだまされた多くの宿主は、生きて再び繁殖できた。カッコウにだまされる宿主の遺伝的傾向は伝わる可能性がある。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子的傾向は決して伝わらない。これが命か食事かの原理の作用である。(同254頁)
ややこしい文章にも感じるので敢えて、意訳してみる。
捕食者が一度の狩りで獲物の捕獲に失敗したところで、それは一食を食いそびれたという程度の失敗である。勿論、その捕食者は後世に遺伝子を残す可能性はほとんど変わらない。それに対して、被食者はというと、一度、捕獲されたら当該個体の〈生命そのもの〉が、その瞬間に「ジ・エンド」になってしまうので、その失敗をやらかしてしまった被食者となる動物の遺伝子は後世には残らない。ここからカッコウの話に置き換える。カッコウの托卵戦略にダマされる仮親の場合、ダマされたからといって二度と繁殖の機会が巡って来ない訳ではない。ただ、ダマされた経験のある仮親は、その傾向の遺伝子を次代以降に残す可能性がある。まぁ、苦い経験で済む。一方で、仮親をダマす事に失敗したカッコウの遺伝子は見破られたら巣の外へ落とされるので、確実に後世に残ることはない。
更に展開できる。自然淘汰とは、原則的には自己保存要求であり、つまり、生きるか死ぬかという生命活動の維持そのものの〈個体の生命維持〉の問題である。対して、性淘汰とは繁殖相手を見つけて無事に次代に遺伝子を残せるか否かという問題であり、まさしく〈利己的遺伝子〉の問題である。(また、ここに更に文化的遺伝子(ミーム)の問題が絡んでくる。)
既に蟻の社会については触れた。女王蟻が一匹あって、繁殖用の雄の蟻が数匹あって、それ以外の働き蟻は全てメスである。この話を以って、ドラマなどでも「ねぇ、知ってる? 働き蟻とか働き蜂ってメスなんだって」となる。しかし、この話には続きがあって、蟻社会や蜂社会の場合は女王と働き蟻・働き蜂の関係性は血統的には兄弟姉妹の関係にある。つまり、女王が産んだ子の遺伝子(DNA)は、その一群にいる働き蟻・働き蜂の遺伝子と半分は合致している。なので、蟻や蜂の場合は、繁殖&産出と、それ以外の労働とを分業しているだけである。そして、これらの話を理解するのに必要なのは、主体者は「遺伝子である」という事だ。ただただ遺伝子は自らの遺伝子を複製しようとしているだけ。
カッコウの托卵については有名だ。改めてリチャード・ドーキンス著/大田直子訳『遺伝子は不滅である』(早川書房)に目を通しても、このカッコウの托卵には結構な頁が割かれていた。ヒトの道徳的観念からすると、カッコウの托卵は極悪非道なものだと考えられている。
平たく言えば、カッコウは「托卵鳥」であり、自分の卵を別の鳥(ミソサザイ、ジョウビタキ、コマドリ、ヨシキリ、セキレイ、クグリ等)の巣に産みつける。巣の中にカッコウの卵を産みつけられてしまった鳥を「仮親」と呼びますが、仮親たちは甲斐甲斐しくカッコウのヒナにせっせとエサを運ぶ事になる。そして鳥種によっては仮親の体長の何倍にもなるカッコウのヒナにエサを与える。仮親の中には、ヒトの世界にもオレオレ詐欺であるとかロマンス詐欺に引っ掛かる人たちが存在するように「それは、どう考えてもダマされていませんか?」というカッコウのヒナに対して親としての愛情とエサとを与え続ける。
少し引用します。
カッコウの極悪非道は卵から孵ってすぐに始まる。孵ったばかりのヒナには腰のくびれた部分にくぼみがある。それ自体に悪意はないと思えるかもしれないが、その唯一の用途を知ると事情が変わる。カッコウのヒナは仮親の注意を独占しなくてはならない。孵化したばかりのカッコウのヒナは仮親種の卵やヒナを共有していることに気づくと、その卵やヒナをくぼみにぴったり納める。そしてもぞもぞと巣の脇のほうに下がり、ライバルの卵やヒナを放り出す。(『遺伝子は不滅である』235頁)
上記の話は、竹内久美子著『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社/未文庫本)で、32年前となる1994年に紹介されていた話でもある。托卵とは、人間社会に置き換えると、往年の大映テレビドラマ「乳姉妹」(ちきょうだい)や嬰児取り間違え事件を題材とした音無美紀子主演のテレビドラマ「我が子は他人」を彷彿とさせるような話である。基本的には、裕福な家の赤ん坊に貧乏人の赤ん坊とをすり替えて、裕福な家族に我が子を育てさせるという繁殖戦略を採っている。しかし、テレビドラマよりもカッコウの托卵はエグいものであった。カッコウのヒナは仮親のヒナや卵を殺し、その上で、仮親の愛とエサとを独占せんと大きな口を開けてピーチクパーチクやって成長するのだ。遥かに仮親よりも大きな体長になっても、仮親にエサを運ばせているケースもあるという。確かに、我々は人間社会に生存しているので、これを「小さな悪魔」と感じたり「極悪非道」と感じる訳です。もし人間社会でカッコウの托卵戦術と同じような行為が行なわれているとしたら、きっと多くの者は「なんて理不尽な話なんだ!」と感じるでしょう。
「すり替えるだけじゃなくて、殺しとるやんけ!」
で、この自分で産み落とした卵を別の種に育てさせるという托卵戦術はカッコウの専売特許という訳ではなく、昆虫界ではミツバチ、スズメバチ、アリが存在しているという。それぞれカッコウミツバチ、カッコウスズメバチ、カッコウアリという名称だ。更には、タンザニアのタンガニーカ湖にはカッコウナマズというナマズが存在しており、このカッコウナマズは口内で子育てをする口内保育魚であるシクリッド科の魚の卵の中に自らの卵を紛れ込ませるようにして産むという。後は、その口内保育魚の仮親がナマズの子を我が子のつもりになって、愛情を注いで安心安全に育ててくれる――という訳です。
もう、この世界ってのは、つまり、やったもん勝ちですな。他の遺伝子が、エゴイスティックな遺伝子の為に、どんなに苦労しようが知ったこっちゃない。ウェーイなパリピが、クソ真面目なダサい連中をダマくらかして、メシウマ生活を送るが如し。ヒント、投げ銭。
そして、この話の先にもここで打ち切れないその先の話がある。カッコウの托卵のようなものを許していたら、やられている側の種が絶滅してしまうのではないか? ――という問題だ。しかし、そうならない。逆にカッコウの托卵戦略からすると、ダマされてくれる種が滅んでしまうと自分たちも滅んでしまうのだ。また、更には個体レベルで、このカッコウの托卵戦略は百戦百勝なのかというと、そうではないらしい。つまり、巣にカッコウの卵を産み落とされた仮親の側でも、
「あれ? この卵なんだけど、ウチの卵じゃなくね?」
と気づいたりして、結構な割合で、托卵戦術を見抜き、カッコウの卵を巣から落としてしまう等の防衛策も講じられているらしい。
それが生態系の絶妙なバランスと関係している。即座に「✕✕はけしからんから撲滅すべし」のように反応しても仕方のないところがある。現在の日本社会では何か些細なモラルの問題でも騒ぎ出すと、直ぐに「一律的に法律で規制すべし!」みたいな硬直的な方向へと持っていかれてしまうのだけれども、自然界とか自然界の法ダルマには、そのように一線で線を引く事はそもそも不可能という事柄が多いのが実相なのでしょう。
(と、言いながらオレオレ詐欺団には受け子も含めて厳しい刑罰が必要だと思う。人間社会の場合は社会や経済で成り立っており、その根幹は信頼関係である。これを脅かす犯罪については厳しい態度で臨まないと、実は社会秩序そのものが破綻する。既には破綻しているからこそ、他者を思いやらない人たちの天下になっている気もするからねぇ。)
そして、ここにカッコウの托卵をされた仮親たちが何故、ダマされるのかという問題についての新しい仮説が紹介されていた。名づけるなら「野ウサギと猟犬」仮説か。
イソップ物語には、主人の御供をしている猟犬が野ウサギを追い掛けるが、野ウサギは生き死にがかかっているので死に物狂いで逃げるのに対して、猟犬の方はというと、野ウサギを捕まえなかったからといって主人から殺される訳でもなく、お気楽な感覚で追い掛けるという教訓から来ているという。まぁ、猟犬の方だって、御主人の性質にもよるのでしょうけど、野ウサギを捕まえられなかったからという理由で罰を与えるにしても、おやつを抜きにするとか、一食だけ抜かれるという程度の罰である。それに対して逃げる野ウサギは文字通りの命懸けの逃走である。
この「野ウサギと猟犬」をドーキンスは、カッコウの托卵問題に置き換えて、次のように述べている。
捕食者の遺伝子が振り返ると、獲物に逃げきられた多くの祖先が見える。しかし被食者には捕食を振り切らなかった祖先はいない。少なくとも、振りきって遺伝子を伝えている。多くの捕食者遺伝子は、振り返れば獲物に逃げきられた祖先が見える。振り返って捕食者との競争に負けた祖先が見える被食者遺伝子はひとつもない。
命か食事かの原理をカッコウのヒナと宿主に当てはめてみよう。カッコウのヒナが振り返ると、連綿と続く祖先の系統が見えるが、そのなかには見分ける宿主によって出し抜かれた祖先はまったくいない。もし出し抜かれていたら、祖先にはなっていなかっただろう。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子は伝わらない。しかし仮親がカッコウに気づけない原因となる遺伝子はどうか? カッコウにだまされた多くの宿主は、生きて再び繁殖できた。カッコウにだまされる宿主の遺伝的傾向は伝わる可能性がある。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子的傾向は決して伝わらない。これが命か食事かの原理の作用である。(同254頁)
ややこしい文章にも感じるので敢えて、意訳してみる。
捕食者が一度の狩りで獲物の捕獲に失敗したところで、それは一食を食いそびれたという程度の失敗である。勿論、その捕食者は後世に遺伝子を残す可能性はほとんど変わらない。それに対して、被食者はというと、一度、捕獲されたら当該個体の〈生命そのもの〉が、その瞬間に「ジ・エンド」になってしまうので、その失敗をやらかしてしまった被食者となる動物の遺伝子は後世には残らない。ここからカッコウの話に置き換える。カッコウの托卵戦略にダマされる仮親の場合、ダマされたからといって二度と繁殖の機会が巡って来ない訳ではない。ただ、ダマされた経験のある仮親は、その傾向の遺伝子を次代以降に残す可能性がある。まぁ、苦い経験で済む。一方で、仮親をダマす事に失敗したカッコウの遺伝子は見破られたら巣の外へ落とされるので、確実に後世に残ることはない。
更に展開できる。自然淘汰とは、原則的には自己保存要求であり、つまり、生きるか死ぬかという生命活動の維持そのものの〈個体の生命維持〉の問題である。対して、性淘汰とは繁殖相手を見つけて無事に次代に遺伝子を残せるか否かという問題であり、まさしく〈利己的遺伝子〉の問題である。(また、ここに更に文化的遺伝子(ミーム)の問題が絡んでくる。)
