どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: なまぐさ

淘汰には「性淘汰」と「自然淘汰」とがある。自然淘汰は捕食者などの外敵や環境的な困難によって行なわれる淘汰であるのに対して、性淘汰は生殖可能な同質的なグループの中で起こる。つまり、性淘汰の問題とは、自己の遺伝子を次代へと残せない事であり、一般的通念で言えば繁殖(≒性交)の機会を持たない事である。利己的遺伝子論では遺伝子は自らの複製をつくろうとする行動原理を持っていると考える。

既に蟻の社会については触れた。女王蟻が一匹あって、繁殖用の雄の蟻が数匹あって、それ以外の働き蟻は全てメスである。この話を以って、ドラマなどでも「ねぇ、知ってる? 働き蟻とか働き蜂ってメスなんだって」となる。しかし、この話には続きがあって、蟻社会や蜂社会の場合は女王と働き蟻・働き蜂の関係性は血統的には兄弟姉妹の関係にある。つまり、女王が産んだ子の遺伝子(DNA)は、その一群にいる働き蟻・働き蜂の遺伝子と半分は合致している。なので、蟻や蜂の場合は、繁殖&産出と、それ以外の労働とを分業しているだけである。そして、これらの話を理解するのに必要なのは、主体者は「遺伝子である」という事だ。ただただ遺伝子は自らの遺伝子を複製しようとしているだけ。

カッコウの托卵については有名だ。改めてリチャード・ドーキンス著/大田直子訳『遺伝子は不滅である』(早川書房)に目を通しても、このカッコウの托卵には結構な頁が割かれていた。ヒトの道徳的観念からすると、カッコウの托卵は極悪非道なものだと考えられている。

平たく言えば、カッコウは「托卵鳥」であり、自分の卵を別の鳥(ミソサザイ、ジョウビタキ、コマドリ、ヨシキリ、セキレイ、クグリ等)の巣に産みつける。巣の中にカッコウの卵を産みつけられてしまった鳥を「仮親」と呼びますが、仮親たちは甲斐甲斐しくカッコウのヒナにせっせとエサを運ぶ事になる。そして鳥種によっては仮親の体長の何倍にもなるカッコウのヒナにエサを与える。仮親の中には、ヒトの世界にもオレオレ詐欺であるとかロマンス詐欺に引っ掛かる人たちが存在するように「それは、どう考えてもダマされていませんか?」というカッコウのヒナに対して親としての愛情とエサとを与え続ける。

少し引用します。

カッコウの極悪非道は卵から孵ってすぐに始まる。孵ったばかりのヒナには腰のくびれた部分にくぼみがある。それ自体に悪意はないと思えるかもしれないが、その唯一の用途を知ると事情が変わる。カッコウのヒナは仮親の注意を独占しなくてはならない。孵化したばかりのカッコウのヒナは仮親種の卵やヒナを共有していることに気づくと、その卵やヒナをくぼみにぴったり納める。そしてもぞもぞと巣の脇のほうに下がり、ライバルの卵やヒナを放り出す。(『遺伝子は不滅である』235頁)

上記の話は、竹内久美子著『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社/未文庫本)で、32年前となる1994年に紹介されていた話でもある。托卵とは、人間社会に置き換えると、往年の大映テレビドラマ「乳姉妹」(ちきょうだい)や嬰児取り間違え事件を題材とした音無美紀子主演のテレビドラマ「我が子は他人」を彷彿とさせるような話である。基本的には、裕福な家の赤ん坊に貧乏人の赤ん坊とをすり替えて、裕福な家族に我が子を育てさせるという繁殖戦略を採っている。しかし、テレビドラマよりもカッコウの托卵はエグいものであった。カッコウのヒナは仮親のヒナや卵を殺し、その上で、仮親の愛とエサとを独占せんと大きな口を開けてピーチクパーチクやって成長するのだ。遥かに仮親よりも大きな体長になっても、仮親にエサを運ばせているケースもあるという。確かに、我々は人間社会に生存しているので、これを「小さな悪魔」と感じたり「極悪非道」と感じる訳です。もし人間社会でカッコウの托卵戦術と同じような行為が行なわれているとしたら、きっと多くの者は「なんて理不尽な話なんだ!」と感じるでしょう。

「すり替えるだけじゃなくて、殺しとるやんけ!」

で、この自分で産み落とした卵を別の種に育てさせるという托卵戦術はカッコウの専売特許という訳ではなく、昆虫界ではミツバチ、スズメバチ、アリが存在しているという。それぞれカッコウミツバチ、カッコウスズメバチ、カッコウアリという名称だ。更には、タンザニアのタンガニーカ湖にはカッコウナマズというナマズが存在しており、このカッコウナマズは口内で子育てをする口内保育魚であるシクリッド科の魚の卵の中に自らの卵を紛れ込ませるようにして産むという。後は、その口内保育魚の仮親がナマズの子を我が子のつもりになって、愛情を注いで安心安全に育ててくれる――という訳です。

もう、この世界ってのは、つまり、やったもん勝ちですな。他の遺伝子が、エゴイスティックな遺伝子の為に、どんなに苦労しようが知ったこっちゃない。ウェーイなパリピが、クソ真面目なダサい連中をダマくらかして、メシウマ生活を送るが如し。ヒント、投げ銭。


そして、この話の先にもここで打ち切れないその先の話がある。カッコウの托卵のようなものを許していたら、やられている側の種が絶滅してしまうのではないか? ――という問題だ。しかし、そうならない。逆にカッコウの托卵戦略からすると、ダマされてくれる種が滅んでしまうと自分たちも滅んでしまうのだ。また、更には個体レベルで、このカッコウの托卵戦略は百戦百勝なのかというと、そうではないらしい。つまり、巣にカッコウの卵を産み落とされた仮親の側でも、

「あれ? この卵なんだけど、ウチの卵じゃなくね?」

と気づいたりして、結構な割合で、托卵戦術を見抜き、カッコウの卵を巣から落としてしまう等の防衛策も講じられているらしい。

それが生態系の絶妙なバランスと関係している。即座に「✕✕はけしからんから撲滅すべし」のように反応しても仕方のないところがある。現在の日本社会では何か些細なモラルの問題でも騒ぎ出すと、直ぐに「一律的に法律で規制すべし!」みたいな硬直的な方向へと持っていかれてしまうのだけれども、自然界とか自然界の法ダルマには、そのように一線で線を引く事はそもそも不可能という事柄が多いのが実相なのでしょう。

(と、言いながらオレオレ詐欺団には受け子も含めて厳しい刑罰が必要だと思う。人間社会の場合は社会や経済で成り立っており、その根幹は信頼関係である。これを脅かす犯罪については厳しい態度で臨まないと、実は社会秩序そのものが破綻する。既には破綻しているからこそ、他者を思いやらない人たちの天下になっている気もするからねぇ。)

そして、ここにカッコウの托卵をされた仮親たちが何故、ダマされるのかという問題についての新しい仮説が紹介されていた。名づけるなら「野ウサギと猟犬」仮説か。

イソップ物語には、主人の御供をしている猟犬が野ウサギを追い掛けるが、野ウサギは生き死にがかかっているので死に物狂いで逃げるのに対して、猟犬の方はというと、野ウサギを捕まえなかったからといって主人から殺される訳でもなく、お気楽な感覚で追い掛けるという教訓から来ているという。まぁ、猟犬の方だって、御主人の性質にもよるのでしょうけど、野ウサギを捕まえられなかったからという理由で罰を与えるにしても、おやつを抜きにするとか、一食だけ抜かれるという程度の罰である。それに対して逃げる野ウサギは文字通りの命懸けの逃走である。

この「野ウサギと猟犬」をドーキンスは、カッコウの托卵問題に置き換えて、次のように述べている。

捕食者の遺伝子が振り返ると、獲物に逃げきられた多くの祖先が見える。しかし被食者には捕食を振り切らなかった祖先はいない。少なくとも、振りきって遺伝子を伝えている。多くの捕食者遺伝子は、振り返れば獲物に逃げきられた祖先が見える。振り返って捕食者との競争に負けた祖先が見える被食者遺伝子はひとつもない。

命か食事かの原理をカッコウのヒナと宿主に当てはめてみよう。カッコウのヒナが振り返ると、連綿と続く祖先の系統が見えるが、そのなかには見分ける宿主によって出し抜かれた祖先はまったくいない。もし出し抜かれていたら、祖先にはなっていなかっただろう。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子は伝わらない。しかし仮親がカッコウに気づけない原因となる遺伝子はどうか? カッコウにだまされた多くの宿主は、生きて再び繁殖できた。カッコウにだまされる宿主の遺伝的傾向は伝わる可能性がある。宿主をだますことに失敗するカッコウの遺伝子的傾向は決して伝わらない。これが命か食事かの原理の作用である。(同254頁)

ややこしい文章にも感じるので敢えて、意訳してみる。

捕食者が一度の狩りで獲物の捕獲に失敗したところで、それは一食を食いそびれたという程度の失敗である。勿論、その捕食者は後世に遺伝子を残す可能性はほとんど変わらない。それに対して、被食者はというと、一度、捕獲されたら当該個体の〈生命そのもの〉が、その瞬間に「ジ・エンド」になってしまうので、その失敗をやらかしてしまった被食者となる動物の遺伝子は後世には残らない。ここからカッコウの話に置き換える。カッコウの托卵戦略にダマされる仮親の場合、ダマされたからといって二度と繁殖の機会が巡って来ない訳ではない。ただ、ダマされた経験のある仮親は、その傾向の遺伝子を次代以降に残す可能性がある。まぁ、苦い経験で済む。一方で、仮親をダマす事に失敗したカッコウの遺伝子は見破られたら巣の外へ落とされるので、確実に後世に残ることはない。

更に展開できる。自然淘汰とは、原則的には自己保存要求であり、つまり、生きるか死ぬかという生命活動の維持そのものの〈個体の生命維持〉の問題である。対して、性淘汰とは繁殖相手を見つけて無事に次代に遺伝子を残せるか否かという問題であり、まさしく〈利己的遺伝子〉の問題である。(また、ここに更に文化的遺伝子(ミーム)の問題が絡んでくる。)
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ダーウィンの進化論(=ダーウィニズム)は、リチャード・ドーキンスが提唱した「利己的遺伝子論」(利己的DNA論)によって飛躍的に理解が変わった。実際のところ、生命体を支配しているのは自己複製をつくろうとする遺伝子構造に過ぎないが、その問題を掘り下げる事を拒絶したがる現代人の心理のようなものがあるらしく、いつも「あまり正確に論じられていないな」と感じる。

リチャード・ドーキンス著/大田直子訳『遺伝子は不滅である』(早川書房)では、以下のような一節があった。

一頭の雄が複数の雌を縄張りに囲い込む哺乳類は珍しくないが、ゾウアザラシのハレムを基本とする社会はその極みである。王者となった雄の「ビーチマスター」は巨大で、体長四メートル、体重二トンにも達する。雌は相対的に小さく、集まってハレムを形成するが、その「構成員」の数は通常五〇頭にもなり、たった一頭のボス雄によって精力的に守られている。集団のほとんどの雄はハレムをもたず、一度も子づくりをしないが、こっそり交尾できると期待してチャンスをうかがい、いつかビーチマスターの座を奪えるくらい大きく強くなれることを熱望もしている。ル・ブーフによるカルフォルニアの長期的なキタゾウアザラシ研究からの報告では、たった八頭の雄が何と三四八頭もの雌を受精させた。(『遺伝子は不滅である』264頁)

ヒトはゾウアザラシではないのだけれども、同じ哺乳類だ。そして、既に現代社会では人為的に格差拡大政策が採られてきた事もあって露骨に「勝ち組」と「負け組」とに二極化が進行している。一般論的な俗説では、負け組は既に生殖行動から実質的な退場を余儀なくされており、つまりは既に排除されているという考え方がある。勿論、こうした話はケース・バイ・ケースの話になるので一般化することが難しい訳ですが、例えば1975年から1976年にかけて放送されていたテレビドラマ「俺たちの旅」では原則的には存在している者の殆んどは年頃になれば恋愛をし、そして人生の中での決断として結婚を選択し、そして特別な場合を除いては基本的に子供を持つもの、その先には孫を持つものであろうという漠然とした既定路線に沿った人生観があった。その既定路線的な人生観を前提にしてドラマ「俺たちの旅」のそれぞれの登場人物は葛藤したり懊悩したりしている事が確認できる。

ゾウアザラシの例は事前に断っているとおり、哺乳類の中でもとりわけ極端な例であるという。一頭のボス(ビーチマスター)が縄張りを形成しており、その縄張り内には雌たちによって形成されているハレムがあり、ボスは雌たちと交尾して子孫を残す。他の雄のゾウアザラシはほぼほぼ交尾の機会は与えられていないらしい。実際の長期的な観測によれば、8頭のオスが348頭のメスを受精させたという。

ゾウアザラシの話は、まだ続く。8頭のオスが348頭のメスを受精させたが、更にその先がある。

一頭の雄は一二一頭の雌を受精させたのに、大半の雄はまったく繁殖に成功しなかった。ゾウアザラシのY染色体上の遺伝子が遺伝子が振り返ると、見えるのは単なる延々と続く雄の体ではなく、ごく少数のハレムを治めるビーチマスターの、特大で脂肪たっぷりのはちきれそうな肥大化した体である。ビーチマスターは非常に攻撃的な雄で、生まれながらにテストステロンが過剰で、ぶら下がるゾウのような鼻を生きたトロンボーンとして使って、ほかの雄を威嚇するうなり声を響かせる。一方、ゾウアザラシ遺伝子が振り返って見える雌の体は平均に近い。

ごく少数の雄だけがほぼすべての子の父親になるという事実について、不可解だと思わないだろうか? ひどく無駄が多いのではないか? 考えてほしい。独身の雄はみな、種にとって入手できる食料源のかなりの部分を消費しながら、まったく繁殖しないのだ。種の繁栄を念頭に置く「トップダウン」の経済立案者なら、そんな雄のほとんどは存在すべきではないと言い張るだろう。わずかな雄だけ、すなわち雌と交尾する必要最低限の数の雄、通常ハレムをもつのと同じ数の雄だけが生まれるような不均衡な雄雌比を、種はなぜ進化させないのか? それなら雄どうしが闘う必要はなく、オスはみな雄であることの自動的な権利としてハレムを手に入れるだろう。そのような経済的に合理的な計画経済をもつ種は、現在のひどく不経済な競争だらけの種を圧倒するのではないか? 自然淘汰では計画経済の種の勝利するのではないか?
(同265〜266頁)

ドーキンスが言わんとしているのは、オスとメスの比率が約半々でありながら実際に繁殖するオスが寡占状態にある事は非合理的ではないのかという指摘をしている。引用文中からも読み取れますが、現行の人間世界は、あれも競争これも競争という具合に人為的につくられた競争過多の環境下にあり、そうした環境の中でトップダウン式を取っているが、そもそもからして非合理ではないのかという指摘している。皮肉として「トップダウン経済の立案者なら、ハレムを持てないような雄は淘汰しちまえと展開するだろうが」、と明らかな皮肉を発している。

仮にスーパースターと呼ばれるような野球選手やサッカー選手、或いは天才経営者のような人たちが存在している。彼らは凡人と比較すれば100倍や1000倍もの稼ぎがある。人為的につくられている一夫一婦制なんてものは、そもそも理不尽なのではないか? いやいや、もし、そのような繁殖が合理的なのであれば、そもそも男女比が5対5で生まれて来る必要性さえもが非合理なのだ。蟻の生態をなどを念頭に置けば、女王蟻は一匹であり、繁殖相手となる雄は僅か数匹に限定される。その方が合理的ではないかと言っている。人為的な淘汰ではなく、自然状態で発生する自然淘汰であれば男女比は大雑把にはヒトは5対5であるが――。

おそらく、ここまでで多くの人は非常に複雑な気分になっているものと予想する。利己的遺伝子論とは、実際にそういう問題を孕んでいる。そして、ここで記事を打ち切ってしまうと、実は都合が悪い。というのは、世人の多くはその性別を問わず、或る種のゾウアザラシ的なハレムを是認してしまっているところがある為だ。それこそ、ホントは悪名高い「家父長制」以上に現代人にとっては厄介な問題かも知れない。

生物学的なオスは軍拡競争をしてしまう。NHK「ダーウィンが来た!」等でも御馴染みですが、多くの生物では、オスがメスに対して求愛行動をとる。実は〈マチズモ〉にしても〈軍拡競争〉にしても、この繁殖に係る競争が深く関係している。オスはオス同士でメスの奪い合いをする。代表例はヘラジカという鹿になりますが、大きな角を持ち、その角を武器にしてオス同士のケンカに勝ち抜き、メスを獲得し、そのメスとの性交にありついて子孫を残す。自然界に於いて、そのような闘争に敗れた鹿は性淘汰に遭い、子孫を残すことは出来ない。しかし、実は思いの外、その競争をする為に軍拡競争をしているらしい事が明らかになってきた。一頭のメスとの繁殖にありつく為に、オスのシカは命を削って角を肥大化させているという事が分かっている。

アメリカヘラジカの枝角は、一八キログラムにも及ぶ骨でできている。頭から二本突きだした角には、それぞれ七つほどの鋭い枝がある、大きい個体になると、枝角が頭上一・二メートル、胴体の後ろ半分まで達するほど反りかえっている。圧倒的な大きさである。だが、誰もがある程度は想像しているとおり、これほど大きいと、何かを犠牲にしなければならない。実際、オスのアメリカアカシカがこの枝角のために払っている犠牲は、相当なものだ。(ダグラス・J・エムレン著『動物たちの武器』(エクスナレッジ)12頁)

実際には命を削って繁殖競争に勝ち抜く為の軍拡競争をしてしまっているのが生物であり、特にオスなのだ。

再び、ドーキンスの『遺伝子は不滅である』から引用します。

雄と雌が一緒になって協調するのはつねに良い考えである、と思う人がいるかもしれない。これはまちがっていて、その理由が興味深い。最終的に、精子は卵子より小さくて数が多い(「低コスト」である)ので、雌は雄より選り好みをする必要がある。雄が雌とつがうことを「欲する」傾向のほうが、雌が雄をつがうことを「欲する」傾向より強い。極端な場合、後者の代償はない。(『遺伝子は不滅である』174頁)

オスとメスとでは構造的な差異がある。勘違いしている人が多いのが実際ですが、生物学的にはメスがオスを選り好みしているというケースが殆んどであり、おそらくホモ・サピエンスも例外ではない。というのは、オトコはオンナを選んでいるという意識が強く、しばしば美人コンテスト(本当はミスコンテストと直球が好ましい)をしているので、自分たちが選んでいるかのような錯覚に陥るが、実際にはオンナがオトコを選り好みしていると考えらえる。そして、それでも哀れなオスは、「うむ、きっとアピールが足りないのだ。もっともっと貢いで、彼女のハートを射抜かなくてはならぬ」のように脱線してゆき、脈もないのにムヤミヤタラに貢いでしまったり、嫌われている事に気付かぬまま、そのまま、ストーカーになってしまったり、そのまま、自らの人生そのものを犠牲にするところまで盲目的に突っ走ったりしてしまう。いやいや、先にヘラジカの例を挙げたのは、おそらく生物界全般のオスは、その軍拡競争にエネルギーを費やしてしまうのでメスに比較して短命なのだと考えられている。そうドーキンスも論じている。

ゾウアザラシは多くの哺乳類種を象徴する原理の極端な例だ。雌の繁殖成功は互いにほぼ同じで、集団平均近くになる傾向があるが、雄は少数が繁殖を独占する。統計用語で言うと、雄と雌の平均繁殖成功は等しいが、雄は繁殖成功の分散が高い傾向にある。〜略〜遺伝子が「振り返る」と、見える祖先の雌のは平均に近い。しかし遺伝子が振り返って、見える祖先の歴史は少数の雄によって支配されている。すなわち、その種に必要とされるもの――大きい枝角、恐ろしい犬歯、純粋な体の大きさ、勇気、等々――すべての恵まれている少数派だ。

「勇気」にはもっと明確な意味を与えられる。どんな動物も、いま繁殖する短期的価値と、将来的に繁殖するための自身の長期生存とのバランスをとらなくはならない。ライバル雄との激しい闘いは勝利とハレムで終わるかもしれない。しかし死で終わるかもしれず、あるいは死につながる重傷で終わるかもしれない。勇気にプレミアがつく。
(同268頁)

哀れにもオスという生物学的な性別にはマチズモがひっついている。マチズモとは、威嚇する事であり、同時に見栄を張る事でもあり、そこに自らの資力の限界以上に自分を強くみせねばならないという、いわば〈虚仮嚇し〉(コケオドシ)を迫られてしまっているのだ。哀れな生き物といえば、哀れな生き物でもある。

また、この原理は動物界の個体間で繰り広げられる「軍拡競争」と実際に呼んでいる訳ですが、この軍拡競争は国家間で発生する軍拡競争原理と全く同じである。 
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保阪正康X白井聡著『「戦後」の終焉』(朝日新書)を読了。保阪正康氏があとがきを書いていましたが、「気持ちの高揚した対談であった。」という文章が書き出しであった。年齢にすれば37歳差との事でしたが、白井聡氏との対談では保阪正康氏が抑制してきた〈思いの丈〉が爆発してしまったかのような対談になっていた。目を通しながら、「おいおいおいおい、保阪さんって売国的とかって言っちゃう人だったっけ?」と思いながら読んでいた。

とはいえ、この問題が厄介なのは一定以上は、これが戦後日本の裏面史であり、結構な真相であっただろうという事であった。気分が高揚するのも無理はない。しかし、それで気分がスカッとするというものでもない。


◆小泉政権について

小泉政権は当時も「小泉劇場」と呼ばれたようにテレビ政治、ワイドショウ政治へ日本の政治が転換した起点であった。小泉政権の前の森喜朗政権で完全に自民党政治は終焉を迎え、そんな中で「自民党をぶっ壊す!」と奇声を挙げて、お茶の間の人気を味方につけたのが「小泉純一郎」という政治家であった。

「B層」の問題にも触れられていた。以下の引用は白井聡氏の発言箇所となる。

そこではIQが高い・低いを縦軸、構造改革に肯定的・否定的を横軸にして、国民をA、B、C、Dという四つのグループに分け、それぞれ「層」と呼ぶ。そのなかで、IQが低くて構造改革に肯定的なB層が、小泉政権の支持基盤である「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」であるとされました。だから郵政民営化も徹底的にB層に向けてPRすべきである。したがって、重視すべきメディアはテレビのワイドショーと女性週刊誌であるといったことが記されていました。

要するに、頭が悪くメディア上で言われていることを無批判に信じる人たちがB層で、数量的に見ればこの層が一番多いから、小泉政権はこに依拠すべしということです。当時、「小泉政権は国民に寄り添うふりをして、じつはバカにしている」などと批判されました。そのとおりだったのです。
(『「戦後」の終焉』218頁)

これは「B層の問題」と呼ばれた。「竹中平蔵」と「オフィス・サンサーラ」。おそらく、小泉政権以降になると、政治の大衆化が鮮明となって「小泉チルドレン」や「イエスマン」たちが政治家として立派な政治家であるという価値観がつくられるようになっていった。実質的には、この小泉政権によって日本は新自由主義に転身し、それ以前に自民党の票田は〈農村〉と〈財界〉であったが、小泉政権以降になると〈農村〉は完全に切り捨てられた。

この「B層の問題」は受け入れられない人は断じて受け入れることができないという厄介な問題であった。或る意味、政治の質が変わってしまったのが小泉政権であった。



そして、ここでも〈売国的〉というフレーズで語られている。

こちらも白井氏の発言となる。

さて、小泉政権の郵政民営化です。どんどんカネを借り続けるおちうアメリカ経済の構造を持続させるためには、当然ながら、進んでカネを貸してうれる外国がなければいけません。あの頃、既にアメリカはにっちもさっちもいかなくなっていました。だからアメリカを助けるために、郵便貯金と簡易保険のカネがアメリカに回るように民営化したわけです。

その意味で、小泉首相や担当大臣の竹中平蔵のやったことは売国的行為です。ただし、アメリカの圧力に屈したという面と日本自身の自業自得だという面が半分ずつあるように思うんですね。

どういうことか。日本の金融業界は90年代のバブル崩壊によって「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」になってしまいました。バブル期の野放図な貸し出しにより不良債権を積み上げてしまった反省で、以後は反動で心理的に著しく萎縮した。つまり、預貯金はたくなる集めているけど、そのカネで何もしなくなってしまったわけです。

だからアメリカにこんなふうに言われた。お前らがカネを持っていたって、使い道を何も思いつかないじゃないか。だったらうちに預けなよ。世界中に投資して運用してやるからさ。そうすりゃ、うちもいくらかもうかるけど、お前らのリターンは結構あるぜ、と。
(同211〜212頁)

郵政民営化の狙いが明確に、そのシナリオであったのかどうかは分かり難い。【自業自得】という表現が使用されているように、何故か米英を模して新自由主義に転身することが進歩的な事なのであるという竹中平蔵イムズみたいなものに日本が呑み込まれてしまった時期があった。そして、結局のところ、郵貯や簡保のマネーは外資に流れるという経緯を辿った。例えば「アフラック」という外資系保険会社が日本市場で大きく伸びたのは、確かに小泉改革と関係している。考えようによっては売国的な事をしたという見解になり、これを批判したのはベストセラーとなった『日本の品格』で一躍、品格論の論者として有名になった藤原正彦らであった。




その他にも北朝鮮拉致問題についての言及もあった。一時帰国として5人が一時帰国を果たしたが、北朝鮮による拉致問題が明らかになった事で世論が沸騰してしまい、5人を戻すことなく、つまり、「もう戻さない」と一時帰国の約束を反故にしたという経緯があった。拉致した事も無茶苦茶だし、その拉致被害者を一時帰国させると約束していた事も無茶苦茶であるが、これには当然、裏があった。当時のアジア大洋州局長であった田中均氏が段取りをつけていたものであったが、小泉訪朝は元々は国交正常化を目指して訪朝したものであった。つまり、日本政府としても外務省としても明確に国交正常化を優先していた。しかし、拉致被害者5人の一時帰国が実現すると「もう戻さない」という決断をしてしまった事で対北朝鮮交渉は完全に潰えてしまった。(それをやってしまえば、残りの拉致被害者を帰国させる事は非常に難しくなるという問題が最初からあった。)

この話について、白井氏は次のように語っている。

小泉さんも回想録の中で言っています。「拉致問題は国交正常化交渉の中で解決していくつもりだった」と。明らかにプライオリティは国交正常化に置かれていたわけです。(同221頁)

この部分はイメージしにくいかも知れない。もう一度、繰り返すと「拉致問題は国交正常化交渉の中で解決していくつもりだった」のが当初の計画だったのだ。一時帰国をした後、更に国交正常化交渉を続ける中で他の拉致被害者も帰国させるように持っていくつもりだった、の意だ。

事情は複雑だ。この頃、アメリカは対テロ戦争に向かっており、北朝鮮を制裁の対象にすると言い出していた時期であった。これは、どういう事かというと、日本政府は外務省を通じて実際に北朝鮮との国交正常化を優先的に進めていたが、日米関係も絡んできてしまい、日本が東アジア地域に於いて主体的に動こうといていた契機でもあったが、その東アジア地域に於ける政治的イニシアチブを潰してしまったという。考えようによっては、北朝鮮と韓国を含めて東アジア地域の平和を日本が主体的にリードして構築できた可能性もあったじゃないですか、という訳です。

しかし、事情は複雑であった。おそらく、似た時期に「鈴木宗男」&「佐藤優」といった2名の人物名が政治的に人身御供とされた。

佐藤優氏によれば、当時の外務省には親米派と親中派と地政学派という三派のグループがあったという。親米派と親中派は書いて字の通りとなりますが、地政学派は親米や親中のような特定の外交要素を持たず、ただただ状況に応じて外交問題を取り扱ってゆくというスタンスであったという。プーチン政権と安倍政権との間では北方領土問題を取り扱う中で、現実味を考える中で2島先行返還が検討されていた。プーチンが警戒していたのは米軍基地であり、「もし返還したら北方領土に米軍基地を作らせない事を保証できるか?」を婉曲的に打診した。しかし、それを谷内(やち)正太郎国家安全保障局長(当時)が「(米軍基地が造られる)可能性がある」と発言し、婉曲的に拒否してしまった事もあり、そのまま、鈴木宗男&佐藤優は人身御供となったのだという。そういう流れの中で政府内や外務省内もマスメディアも、結局は親米一色になってしまったのだという。

北方領土の二島を先行して返還するというアイデアがある事が報じられて、鈴木宗男&佐藤優は猛批判に晒されることとなったが、日本政府が日本政府の政治的イニシアチブで物事を思考し、その日本の主導権の下で外交を行うことは当然であるという。しかし、このドサクサに外務省内にあった地政学派グループは潰されてしまい、日本は米国に依存するしかないという状況を自分でつくり出してしまった…という。

と、こういう話をしても今更になって述べたところで、「時すでに遅し」なので全く気分は晴れない。しかし、思いの外、辻褄が合ってしまうのも確かだよな、と思う。
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ここのところ、BS-日テレ「深層NEWS」にチャンネルを合わせる機会が増えている。高市総理の国会での発言に端を発してエスカレートする中国・習近平政権の出方に対して「そこまでエスカレートさせるか?」というのが騒動勃発時の感慨であったが、騒動は収まる気配を見せぬまま、一ヵ月が経過し、直近では〈レーダー照射〉に続いて、〈中露の爆撃機が日本周辺を共同飛行する〉という軍事的示威行為まで展開しており、何やら尋常ではない事態が起こっているのではないかと、ふと不安に感じた為だ。

一ヵ月前でれば、何やらポケットに両手を突っ込んでいる中国側の役人の態度を見て、「なんだか大昔のビーバップ・ハイスクールの時代を思い出すよな」とか「そういえば北の将軍様もあんなポーズをとっていたんじゃなかったけ」と真剣に向き合わずにすませていたが、事態はどんどん悪化しており、ひょっとしたら、ひょっとするのではないか――と感じ始めている。

10日放送の「深層NEWS」では、台湾有事を巡っての人民解放軍の戦力分析のような話にもなっていましたが、超極音速ミサイルを民間企業が開発に成功し、その企業が言うには一基を1550万円と破格の値段で生産できる体制にあるという。小原凡司氏が説明するに、「開発費が安く上がった事と、大量生産体制を確立しているので、その格安価格が成立したのでしょう」という。続けて、超極音速ミサイルを迎撃できるのかという話になると、小原氏は「マッハ6やマッハ7で飛んでくる超極音速ミサイルを打ち落とすのは非常に難しい。開発中のレールガンで撃ち落とすか、ミサイルが大気圏を出ている時に衛星兵器で撃ち落とすぐらいしか迎撃のしようがない」のように語っていた。

続けて、巨大な揚陸艦の衛星画像が映し出され、その巨大な揚陸艦は、どうも台湾上陸を意識したものと思われ、8本や6本といった脚が揚陸艦から出て浅瀬で固定し、砂浜へと6メートル幅のクレーンを下ろして橋とし、戦車部隊などの物資を大量に揚陸させる用途の艦船で、そうした巨大揚陸艦が何隻も確認できるのだという。つまり、習近平政権の「祖国の完全統一」を掲げた台湾への執念は実はホンモノなのではないかと思わせるものがあった。

対無人機用に無人機を撃墜する為に砲台の代わりにレーザー光線を発する装置を積んだ戦車のような軍事車両が走行している映像もありましたが、もう、なんだか「サイボーグ009」のようなSF漫画のような世界になってしまっている。小原凡司氏らの話を聞いていると、確かに現代戦はミサイルと無人機が大きな影響力を持つようになっており、その辺り、人民解放軍はぬかりがなさそうな雰囲気であった。

番組を視聴していて思い出しましたが、確かに台湾有事問題では「2027年」を一つの区切りにしていたのであった。習近平は「台湾統一を歴史的任務」のように考えており、それは計画通りに進捗しているという事ではないのか? 思い起こせば、台湾有事の際には日米で「エアシーバトル」という戦術で台湾有事を迎え撃つのだなんだと雑誌やNHKの番組でも取り上げていたのは、既に5〜6年前なのかも知れない。現在の国際情勢からすると、かなり国際情勢は変わってしまっている事に気付かされる。

また、中央公論2021年10月号が古雑誌の整理をしていたら出てきた。特集「台湾有事と中国包囲網」であった。当時はバイデン政権であり、日本の防衛大臣は岸信夫氏であった。そこでは決まり文句とでもいうべき「中国の現状変更への試みは容認しない」という言葉がタイトルになっていた。おそらく、高市総理の問題発言にしても、その頃の安全保障の常識から逸脱しておらず、本人的には親切のつもりで、あの発言をしたものと思われるが、状況は激変している。何が激変したのかというと、くだんの台湾有事関連だけではなく、実は国際秩序が大きく激変した可能性がある。ロシアによるウクライナ侵攻が発生し、イスラエルによるガザ侵攻が発生し、米国の支配力は低下し、多極化へ移行しようとしている時局になった。国連は無力化し、グローバル化した経済もすっかりマネーゲームに変質している。

国際情勢はカオスになったという切り口については、ジュリアーノ・ダ・エンポリの『リベラリズムの捕食者』が抜群の上手さで表現している。もう完全にカオスの時代になってしまっており、何でもありの世界になってきている。それまでドイツのアンゲラ・メルケルは政治家としての手腕を高く評価されてきたが、現在では、その評価は地に落ちている。

また、バラク・オバマはリベラル陣営からすれば、まさしく希望の政治家であったが、実はオバマの二期目の選挙は想定外の苦戦となっていたので、エリック・シュミットはGoogleのCEOを退任してオバマを勝利させる為の「イッカク・プロジェクト」を立ち上げた。イッカク・プロジェクトとは〈民主党に投票するか共和党に投票するか迷っている人たち〉に重点的に広告を打ったというのが種明かしとなるが、それを実現するには〈どちらに投票しようか迷っている人〉を抽出してもらう必要性があった。そのイッカク・プロジェクトにはグーグルだけではなく、ツイッターやフェイスブックから数十人のエンジニアが駆り出された。インターネット空間を統合するツールではなく、細分化(分断)するツールとして使用、それを広告に利用するという画期的な出来事であったという。つまり、ホントは2012年頃から選挙戦は〈コミュニケーション〉ではなく〈情報処理〉に変節してしまったという。(イーロン・マスクがトランプを支援して大統領選に勝利させた事よりも、エリック・シュミットがオバマを支援して大統領選に勝利させた事の方が貢献度は大だという。)

まぁ、その辺りからごちゃごちゃと始まっていた訳です。トランプ旋風が起こってドナルド・トランプが米国大統領になった事は象徴ですが、プーチンに習近平、その他にもフィリピンではドゥテルテが、ブラジルではボルソナロが、サウジアラビアではMBSが殺人容疑を抱えていながらカリスマ指導者となり、ハンガリーではオルバーンが、エルサルバドルではブケレが、アルゼンチンではハビエル・ミレイが、一国の指導者となり、それなりの支持者を獲得してきたという事実が転がっている。つまり、リベラルは破綻してしまっているのだ。日本でも明らかに問題のあるであろう政治家が高支持率だったりする。

ダ・エンポリは、ハビエル・ミレイの名言をフォローしている。

「狂人と天才の違いは何か? 成功だ!」(『リベラリズムの捕食者』78頁)

と。

そして、「リベラリズムの捕食者」として登場した新興勢力の人々には、特徴があるという。

彼らは因習にとらわれない。奇抜な行動で名を馳せた人物であり、旧世界を代表する専門家やエリートなど、自分たちの夢の実現を邪魔する者たちを信用していない。

行動的であり、自分たちの望むように現実を形づくることができると確信している
。真実よりも情報の拡散を優先し、迅速さこそが決め手だと信じている。
(同111頁)

(余談までに10日の衆院予算委員会で、立憲民主党の今井雅人氏と高市総理との間で長期金利の上昇や円安傾向について議論したシーンがあった。日本の政治も、ちょっと危なくなってきている気がする。)

既に世界はカオス段階に突入しており、従来の常識や倫理や道徳は通じなくなっている。とすると、どうなるのか? 最近、視聴からという訳ではありませんが、映画「ウォール街」の一コマにあった「孫子の兵法を読んだか?」と語るマイケル・ダグラスの言葉が脳裡をよぎる。「戦いを始める時は、もう勝利が確実な時だけだ。これが究極の必勝法だ」という主旨の言葉だ。それこそが勝利の鉄則だ。勝てる見込みのない戦争をしなければ百戦百勝も夢ではなく、つまり、勝ち続ける者とは既に戦いを始める前段階で勝てる算段を立ててしまっている者なのだ。そして、それが西洋では「マキャベリズム」なのだ。(ダ・エンポリはマキャベリで現代政治を分析していた。)


先週の「深層NEWS」では、「台湾に住んでいる人のすべてが台湾の独立を希望している訳ではなく、当然に中国寄りの人も存在している事を理解しないといけない」という主旨の指摘もされていた。確かに台湾有事問題で日本がしゃしゃりでてしまうのは問題があるのも事実だ。――あまりにも先行した話になってしまいますが、既に、それぐらいまで日本は先を読んでおかねばいけないというところまで来てしまっているのかも知れない。世界は日々の生活を営んでいる我々が思っている以上に激変してしまっている気がする。
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ベンジャミン・ウォレス著/小林啓倫訳『サトシ・ナカモトはだれだ?』(河出書房新社)を読み進めてみると、ビットコインに魅了された人たちの間で闘わされていた論争の凄まじさが出てくる。ビットコインのシステムの礎をつくった謎の人物「サトシ・ナカモト」は忽然とインターネット上から姿を消してしまう。残されたビットコイン愛好家たちの間では、「一体、サトシ・ナカモトとは誰だったんだ?」というサトシ・ナカモト捜しが当然のムーヴメントとして起こる。ひょっとしたら、サトシ・ナカモトはとんでもない額面になるビットコインを保有している可能性だってあり、生死にしても定かではないのだ。

そうして暗号通貨界隈の人たちの間ではサトシ・ナカモト捜しが起こる。「サトシ・ナカモトは誰だったんだ? 本当に一人だったのか? 複数人のグループが名乗った名前に過ぎなかったんじゃないのか?」、「いや、イーロン・マスクが怪しい」、「匿名ツールのToa(トーア)のケースでは政府系の諜報機関が開発したらしいから、サトシ・ナカモトは民間人ではなく政府系の情報機関なのでは?」、「いやいや、暗号学に詳しいベルギー人だ」、「オーストラリア人だ」となってゆく。日本生まれのアメリカ人「ドリアン・ブレンディス・サトシ・ナカモト」が発見されると、彼こそが本物のサトシ・ナカモトであった、とニューズウィーク誌が報じたりした事もあったらしい。

サトシ・ナカモト捜しは、とんでもないカオスを界隈にもたらせる。騒動が過熱してゆくと、「我こそが本物のサトシ・ナカモトである!」と名乗り出る人物が相次いで登場してしまうという事態へ発展してゆく。この一連は興味深い。正体不明のサトシ・ナカモトは、どんどん神格化されていくと、次から次へと「はっはっはっ。彼等はニセモノだ。私こそが本物のサトシ・ナカモトなのだよ」と名乗る人物が世界中から登場してしまうというカオスを巻き起こす。「ホンモノは誰だ」状態。

次から次へと名乗り出てくる人物は悉く偽物だと思われる。サトシ・ナカモトを名乗る事で得られる名声や、暗号通貨絡みでの利益が絡む問題なので、弁護士などを雇って「これ以上、私を偽物だと言い続けると、訴訟を起こす」のようなスラップ現象が蔓延する。そのように「サトシ・サカモト捜し」が過熱する中で、真のサトシ信者たちは怒りを募らせ始める。この怒りを募らせ始める人たちは言う。

「サトシ・ナカモトは自らの正体については一切を明かさないという匿名性に執心していた人物であり、しかもビットコインというシステム、その裏側に潜んでいるサイバーパンクの思想からすれば、ビットコインとは、何者にも監視されない次世代の通貨の開発にこそあり、サトシ・ナカモトの正体を突き止めようとする行為そのものが、サトシ・ナカモトへの尊重を欠いているじゃないか」

と。

しかも、ビットコインの重要な仕掛けになっているのはブロックチェーン技術と呼ばれるもので、それは秘密の鍵によって暗号化し、暗号化する事で、その通貨が紛れもなく偽物ではない事を証明するという技術らしい。それこそ、頭がこんがらがりそうな話ですが、理屈としてはそうなる。真実の糸を暗号化して雁字搦めにして、それをビットコインの中に埋め込む。公に解読できる暗号がブロックチェーンになっているので、その通貨が本物かどうかは誰にでも認識できるが、その通貨を使用する場合には保有している本人だけが知っている「秘密の鍵」が必要になる。つまり、「真実」についての客観的正当性はオープンにされるが、それでいて通貨として使用するレベルのクローズドな真実の鍵については本人だけのものになる――という、その〈仕組み〉が用いられているのだ。つまり、一切の権力から監視されない夢の通貨の発明であった。そこには思想的にはリバタリアニズムやアナキズムが広がっているのは自明でもある。

(故・金子勇氏の生涯を描いた映画「Winny」(2023年)にも、「P2P」と表記して「ピア・ツー・ピア」と発音するファイル共有ソフトの話が出てきたと思いますが、そういう技術を駆使する人たちの世界の話だ。そして、そのコンピューターオタクの世界になってくると、常人からすると偏執狂でありながら世間ズレしていないよいう意味ではピュアな人、それと偏執狂ではあるが、そうでもない人とが混在するような〈変人たち〉の世界になる。)

サトシ・ナカモトについては生存しているのか生存していないのかも定かではない。勿論、身の安全の為に匿名を使用し、且つ、仲間とのメールのやり取りでも自らの正体がバレぬように秘密主義を徹底している人物であった。そして素性を明かさぬまま、サトシ・ナカモトは忽然と消息を絶った。そうなのであれば、サトシ・ナカモトを捜すという行為は本物のサトシ・ナカモトを冒涜することになりやしないだろうか――という見解が台頭してきたという意味だ。用心深く秘密主義を徹底していた人物であるサトシ・ナカモトの正体を暴きにかかるという行為は道徳に反している。当然、サトシ・ナカモトの意志をきちんと我々は尊重すべきなのである――そういう意見が登場し始めたのだという。

『サトシ・ナカモトはだれだ?』の著者ベンジャミン・ウォレスにしても数年がかりでサトシ・ナカモトの正体を追っていたが、本当に正体を突き止めることに意味があるのかどうかと自らの行動に自信を喪失していくプロセスについても触れられている。

これは、ホント、ありとあらゆる現代社会の縮図にもなっている気がする。有象無象が一つの権威に群がってくる。そして彼等は「ホントの事を教えてやろう。私こそが神であり、救世主なのである。だから制度運営については、この私に任せなさい」と名乗り出る。そして、そういう者は殆んど信用できない。名乗り出る者には魂胆があり、神や救世主の名を騙ることで、実社会的に権益を得たいだけだったりする。立候補したがる人たちというのは総じて権力志向が強い人たちである。

そして様々な〈神格化〉という現象や〈ミーム〉という現象も凝縮されている。それでいてサトシ・ナカモトは功績と痕跡だけを残して、2011年にネット上から消息を絶った。サトシ・ナカモトは巨万の富を持っている筈であるが、マネーゲームに興じた痕跡もない事から、「世界を変えるテクノロジーの聖なる創始者」、実際のところ、誰もサトシ・ナカモトの素性を知らないが、「きっと修道士のような高潔な人物だったのではないか」等とも囁かれているという。

そういう一方で、続々と「私こそがサトシ・ナカモトです」と名乗り出る者たちが登場する。これは、帝政ロシアが倒れて、ニコライ2世の第4皇女アナスタシアが銃殺されたが、後に「実はアナスタシアは生きていた」として偽アナスタシアが続々と登場した。また、これはプガチョフも同じですかね。この偽アナスタシアの話は『サトシ・ナカモトはだれだ?』でも223頁で触れられていましたが、同じロシアでエカテリーナ2世の時代にもエカテリーナ2世によって殺害された夫、その夫であるピョートル3世は「実は生きていた」としてロシア各地でピョートル3世を僭称する人たちが蜂起するという騒動があった。ドサクサ紛れに蜂起した人物の一人がプガチョフで、これを「プガチョフの反乱」のように呼ぶ。本当のカオスが発生すると僭称が起こる。

絡まって絡まり続けると、真実の糸は誰にも解けなくなってしまう。
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相模原市の市立小学校では23歳の教師が61歳の校長を大声で叱責し、余りの大声で児童の中には泣き出した児童もあったという報道は率直に「世も末だな」と感じた。大声で校長を叱責してみせた23歳の教諭は、校長先生から「いじめを受けて体調が悪化した」として病院で診断書を取り、1ヶ月間の傷病休暇を申請して受理され、1ヶ月間の傷病休暇を取ったという。

さすがだねぇ。日本は素晴らしい国になったよなぁ。もう、実質的には社会秩序を立て直す事は不可能だと感じさせてくれる一件であった。どうしても、その一連というのは実際にはこれこれこんな風であっただろうな、と目に浮かんでしまうような話でもある。

【いじめ】をブリタニカ国際大百科事典で引くと、以下のように記されている。

自分より弱い者に対して暴力やいやがらせを加え、身体的に苦痛を与える行為。1980年代、特に学校において校内暴力が沈静化するとともに問題となり、いじめが原因とみられる不登校、自殺、事件が多発、深刻な社会問題となった。1994年、文部省がいじめ対策緊急会議を発足、1996年『児童生徒のいじめ等に関するアンケート調査』を公表、いじめ問題への取り組みを提言した。2007年1月、定義を「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な苦痛を感じるもの」とし、いじめかどうかは当該児童生徒の立場に立って判断するよう徹底するとした。原因や背景として、協調性・思いやり・規範意識・フラストレーション耐性の欠如、対人関係の不得手、知識偏重や競争意識による社会の差別構造、将来の目標の喪失、集団のいじめに対する認識不足などが考えられる。〜以下略〜

ホントは既に答えは出ているような気がしないでもない。校内暴力の鎮静化後、何故か「いじめ」が社会問題化したのであったが、それは単純に強者から弱者への「いじめ」ではなく、集団いじめの隆盛であり、どこか「ゲーム感覚」でいじめが行なわれるようになったとある。イギリスなどの例も挙げられていましたが、世界中の先進国で同じような現象が確認されている。どこの国でも「心のケア」というワードを乱発し、一方では「スクールカウンセラー」の配置などで対応してきたのでしょう。

しかし、何故、協調性・思いやり・規範意識・フラストレーション耐性が劣化したのかというと、既に回答も記されており、つまり、知識偏重と競争意識を是としてきた教育環境であり、且つ、それは社会全体の差別構造と関係している。でも、辞められない訳だ。重きを置かれているのは〈人間教育〉ではなく、産業構造の中で生産性を追求する為の〈人材教育〉になっている。幼児期に社会規範を教えないといけないと考えて来た訳ですが、その頃から特定のイデオロギー支配が世界各地で起こってしまい、日本の場合は「叱らない子育て」が法律としても確立した。

また、情報媒体に登場する自称専門家たちは、その時々に流行している言説を絶対的正義論としてブってきて、そこには大きな問題があった。或る種の自己申告制にしてしまったのだ。これは心的外傷(トラウマ)と関係している。そういう人間環境なのであれば、基本的には誰だって、自分の受けた〈心的外傷〉を過大に訴え出るようになるに決まっている。そして神経の繊細な者であれば、自意識過剰、神経過敏、そして基本的には被害妄想のようなものを膨らませ易くなると考えられる。逆に、これらのルールを逆手にとって、相手の気持ちを斟酌しないサイコパスのような人たちにとっては、非常に生きい易い好環境になっている可能性だってある。

スラヴォイ・ジジェク著・鈴木品訳『イデオロギーの崇高な対象』(河出文庫)から、ジジェクがラカンの「〈現実界〉と〈想像界〉とについて説明している箇所を引用します。

〈想像界〉とは幻想的実体のレベルで、その整合性は一種の鏡遊びの効果であり、実際の存在ではなくたんなる構造的効果にすぎない。六〇年代、七〇年代にラカンの教えが発展していくにつれ、彼のいう〈現実界〉はますます、彼が五〇年代に〈想像界〉と呼んだものに近づいていく。心的外傷(トラウマ)を例にとってみよう。五〇年代の最初のセミネールでは、心的外傷を引き起こす出来事は、まだじゅうぶんに象徴化されず、主体の象徴的宇宙に場所を与えられていない、〈想像界〉的実体と定義されていた。だが七〇年代になると、心的外傷は〈現実界〉的なものとされる。それは象徴化に抵抗する固い核である。だが肝腎なのは、それがいわゆる現実の中に自分の場所をもっていたかどうか――「実際に起きたのか」どうか――は問題ではないという点である。肝腎なのは、それが一連の構造的効果(置換、反復など)を生み出すということである。〈現実界〉は、象徴的構造の歪みを説明できるように、事後に構築されるべきものなのである。(『イデオロギーの崇高な対象』302頁)

心的外傷は、現代人にとっては、その者の自己像と結びつき易い性質を持っている。つまり、「これこれこういう心的外傷を私は持っているから、現に私は、これこれこうなのである」のように認識しがちなのだ。しかも厄介な事に、心的外傷は完全に主観的なものである。更に厄介な事には、心的外傷となる事実が実際にあったのかどうかさえも問題がなくなってしまうという部分だ。そうなると他者との関係性を円滑に保つは至難のワザになってくる。しかも、単純に心的外傷の問題だけではなく、ヒトという生体内では置換や反復を起こしてしまう。付け加えると、記憶も同じだ。記憶はハードディスク装置のように完璧に記録しているのではなく、それを思い出す度に記憶を微修正しながら上書き保存しているから、或る程度、謙虚に構えていないと記憶は勝手に補正されてしまったりする。

それと、校内暴力の時代が終わった後に、いじめ問題が深刻化したと考えられている訳ですが、勿論、昔はいじめが存在していなかった訳ではない。ただ、少なくとも多勢で無勢を攻撃するような行為は〈卑怯〉な行為であるという認識は、現在よりも3倍か4倍は強かったような気がする。

ちょっとした交渉事にも「数的有利」があるように、「集団いじめ」の構図にも数的有利があり、その問題はマジョリティーとマイノリティーの問題にも置き換えられる。基本的には、多数派が少数派に対して抑圧したり、弾圧・迫害をする。しかし、或る時期から逆差別の問題が起こってしまい、場合によっては声の大きなマイノリティーが「差別はよくない」という言辞を逆手にとるようなケースも増えてしまい、傍目からすると実相が見えにくくなってしまったところがある。「✕✕君に殴られました」とか「嫌がらせを受けました」という嘘をついて、その対象を罠に嵌めるぐらいの知恵は、おそらく小学生でも持ってしまっている時代になっている。大人の世界の場合はハラスメント地獄ですな。これは結構、真面目な話で、この世界には地雷が仕掛けられていて、地雷を踏むと集団リンチをされても仕方がないという精神風土になってしまっている。ホントは、世の中全体が集団ヒステリーと脅迫神経症になっているだけの可能性が高いのかも知れないのに。
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【ヒステリー】について、広辞苑第六班を引いてみる。

➀神経症の一型。劣等感・孤独・性的不満・対人関係などの心理的感情的葛藤が運動や知覚の障害などの身体症状に無意識的に転換される反応。歩行不能・四肢の麻痺・痙攣・自律神経失調・皮膚感覚鈍麻・痛覚過敏・失声・嘔吐など多彩で、健忘・昏迷などの精神症状を示すこともある。いずれも、他者の注意をひきその支持を期待する合目的性が本人の意識しない形で含まれていると見られる。これらの症状が急に起こる場合をヒステリー発作という。

��転じて、病的な興奮を示し、感情を統御できず、激しく泣いたり怒ったりする状態一般をいう。「――を起こす」

��性格障害の一つ。ヒステリー性格。自己顕示欲性格。


広辞苑でも、これぐらいの説明はしてある事が確認できる。次は、スラヴォイ・ジジェク著・鈴木品訳『イデオロギーの崇高な対象』(河出文庫)から少し引用します。

つまるところ、ヒステリーは、まさしく失敗した呼びかけの結果・証拠以外の何物でもない。ヒステリーの問いは、主体が象徴的同一化をまっとうすることができない、象徴的委託をすんなりと全面的に引き受けることができない、という表明以外の何物でもない。(『イデオロギーの崇高な対象』217頁)

この前後まで引用すると余計に複雑になってしまうので、上記の引用箇所について、私なりの言葉で解説してしてみる。

仮にAさんという人物があるとして、そのAさんは自分を自分として認識するにあたっては他者の視線を必要としているので、他者からの期待に応えるような自分であろうとする。Aさんに限らず、我々は、そのようにして自意識を形成するという意味だ。

AさんはAさんなりに自分の人格を演じている。そして自己肯定感を確立する為には、それなりの自意識というものが形成される。ある者は過大に自己評価するので傲慢になり、また、ある者は過小に評価するので不安となる。程度の差こそあれ、殆んどの者は、その両極の間のどこかで自意識を確立させている。

Aさんによる自意識は自己像をつくる。Aさんは自分なりの自己像で自己を認識しているのだ。勿論、それが他者からの評や社会的からの評と、食い違っている可能性がある。Aさん自身が有しているAさんの自己像と、他者や社会から与えられる像とが食い違っている場合、そのAさんは「象徴的同一化を全うすることができない」、「象徴的委託をすんなりと全面的に引き受けることができない」という状況を惹き起こす。


ジャック・ラカンは【サントム】という新語をつくったという。(この【サントム】という概念には、合成人造人間、症候と幻覚との総合、聖トマス、聖者etc.らの連想が含まれているというが、ここでは無視して構わない。)

サントムとして捉えられた症候は、文字通りわれわれの唯一の実体であり、われわれの存在の唯一のポジティブな支えであり、主体に一貫性をあたえる唯一の点なのである。言い換えれば、症候とはすなわち、われわれ――主体――が、われわれの享楽を、われわれの世界−内−存在に最小限の一貫性をあたえる意味的・象徴的形成物に縛りつけることによって、「狂気を逸れ」、「無(極度の精神的自閉、象徴的宇宙の破壊)の代わりに何か(症候形成)を選ぶ」という事なのである。

もしこの根本的次元において症候が縛られていないと、それは文字通り「世界の終わり」を意味する。症候に唯一代わりうるのは、無、すなわち、純粋な自閉、精神病的自殺、象徴的宇宙の完全な破壊にまでいたるほどの死の衝動への屈服なのである。〜略〜フロイトの「エスがあったところが、自我にならなくてはならない」という言葉は、そういうふうに読まなくてはならない。主体は、自分の症候がすでにあった場所に自分を同一化しなければならない。その「病理学的な」特殊性の中に、自分の存在に一貫性をあたえる要素を見出さなければならないのだ。
(同145〜146頁)

【症候】とは、病的変化を意味し、患者自身が痛みや不快感を訴えるものを〈自覚的症候〉と呼び、「患者と医師」もしくは「医師」によって認められる病的変化を〈他覚的症候〉と呼ぶ。

ジジェクによれば、「ラカンいわく、〈症候〉という概念を考え出したのは、カール・マルクスである」という。

ラカンいわく、症候なる概念を考え出したのは誰あろうカール・マルクスであった。このラカンのテーゼは、ただの気のきいた言い回しだろうか、あるいは漠然とした比喩だろうか、それともちゃんとした理論的根拠があるのだろうか。もし、精神分析の分野でも用いられているような症候の概念を提唱したのが本当にマルクスだとしたら、われわれとしては、このような組み合わせが可能であるための認識論的な諸条件は何かという、カント的な問いを発しなければならない。商品の世界を分析したマルクスが、夢とかヒステリー現象とかの分析にも使えるような概念を生み出すなんて、どうしてそんなことがありえたのだろうか。

答えはこうだ――マルクスとフロイトの解釈技法、より正確にいえば商品の分析と夢の分析とは、根本的に同じものなのだ。どちらの場合も、肝心なのは、形態の背後に隠されているとされる「内容」の、まったくもって物神的な魅惑の虜になってはないということだ。分析によって明らかにすべき「秘密」とは、形態(商品の形態、夢の形態)の後ろに隠されている内容などではなく、形態そのものの「秘密」である。夢の形態を理論的に考察することは、顕在内容からその「隠された核」すなわち潜在的な夢思考を掘り起こすことではなく、どうして潜在的な夢思考がそのような形態をとったのか、どうして夢という形態に翻訳されたのか、という問いに答えることである。商品の場合も同じだ。
(同27〜28頁)

これは「マルクスの商品分析」と「フロイトの夢分析」とが同種のものである事を指摘しているというだけでも、中々に凄味のある指摘だ。しかし、それ以上に問題なのは「秘密」という名の「隠された核」を形態の中から見つけてしまう事だという文脈に続いている。

何故、その人は感情を取り乱すのか? 何故、制御できないのか?

精神分析をしていると、その患者から突如として悪感情を叩きつけられる事があるのだという。何か話をしているうちに患者が当時の不愉快な気分を想起してしまい、その不愉快な気分を目の前にいる者にぶつける事があるという。これを�狹尚椨瓩噺討屬里世修Δ福�精神分析の専門家でも戸惑う事になるという。しかし、そんなことをされても第三者ともなると応じる術なんてものは持っていない。いちいち慰めてやる筋合いもないし、憐れむともなれば、それは侮蔑になる。だから距離をとる以外の方法はない。

5〜6歳の男児が公園で転倒したとする。大怪我をしている様子ではない。こういう場合、どうするだろうか? 「痛かったねぇ。大丈夫? 痛くなぁい?」のように「やさしさ」を全面に出すような言葉をかけた場合、おそらく、その幼児は迷った挙げ句、慰めてもらえる事を期待して「泣く」という選択をしてしまうものだよな、と思う。そうではなくて、「おお、痛いね。でも泣かない泣かない。いい子だ。強い子だ」と声を掛けると、おそらく、その泣く事を我慢するだろうという事も予測できてしまう。第三者からすれば冷淡に感じられてしまう話であるが、前者だと「泣けば慰めてもらえる」という報酬系が出来上がってしまう。そして後者の場合は「泣かなければ、褒めてもらえる」という報酬系になる。

フロイトやラカンは、おそらく後者の論者だろうなと思う。表面的な「いい人」ではない。まぁ、どこか男性優越主義であるとか父権的温情主義という具合の連想となってしまうので、長らく敬遠されてきた系譜ではありますが、どうもジジェクの破壊の仕方からすると、これら隠されてきた部分を、今の時代に蘇らせられる可能性があるような気がする。
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多くの者は「民主主義」や「デモクラシー」といったものを絶対的な指針だと信じ、「民主主義を守れ」とか「デモクラシーを堅持すべきだ」のように主張してきた。今もしている。しかし、その人たちが「民主主義」や「デモクラシー」と呼んでいるもの、その実態とは単なる擬制からなる衆愚政に過ぎない。そう示唆されたとしても、おそらく簡単には信じない。信じようとしないのだ。現に昨年の都知事選と兵庫県知事選では珍事が報じられ、その目撃者になっているが、それでも「デモクラシー」を疑おうとしない。何故なら「民主主義こそが正しい」と刷り込まれていて「デモクラシーのみが正解である」といった具合の思想体系で生きているから。要は「受け付けられない」のだ。

一口に「デモクラシー」といっても分かりにくいところがありますが、ここで問題にしているのは衆愚と呼ばれる現象についてだ。広く大衆に政治的選択を投げかけたとしても、選挙権を無制限で与えるる普通選挙制では、そもそもまともな意思決定などは不可能である――という話になる。普通選挙⇔制限選挙。

例えば、ヘーゲルの国家哲学がある。ヘーゲルは近代化を遂げるにあたって、それ以前にあった「キリスト教による思想支配」を、「人間の理性による支配」へと切り替えようとした。どんな者であったとしても理性はあるだろうし、人々を啓蒙していけば大多数の者は理性を獲得し、その行動様式に馴染むようになる。これこそが理想的な国家像であろうと考えた。そこから派生したのがマルクス主義になる。誰かがカチッとした制度設計をして、その制度設計通りに国家が運営され、一般大衆も理性に覚醒する。古代から近代まで継続してきた神話や迷信を打ち払い、科学の時代を構築してゆくのである――と考えた。なので、マルクス主義になるとたぶんに唯物的というか機械論的な制度論になっている。

このヘーゲル哲学の舞台になっているのは現在のドイツであり、「ドイツ観念論」と呼ばれる系統になる。ヘーゲルが設計した国家哲学は或る意味では非常によく出来ているが、実は早期から懸念が上がっていた。マックス・シュティルナー(スチルネル)は「そもそも社会は理性でのみ構築されていないし、個人個人の行動にしても感情に支配されている」という主旨の批判を浴びせていた。

イギリスでは、どうであったのかというと、やはり、同じような問題提起があったらしい。イギリスの政治学者ウォーラスがそれで主著は『政治における人間性』となる。「グレアム・ウォーラス」がフルネームであるが、大半の表記は「ウォーラス」になっている。ダーウィンと同時期に進化論を提唱していた博物学者の「ウォーレス/Wallace」ではなく、政治学者の「ウォーラス/Wallas」という事になる。

熊谷英人著『ルソーからの問い、ルソーへの問い』(吉田書店)から引用します。

ウォーラスは「人間の知性を過大評価する」ことを戒め、政治学は「現にあるがままの人間をとり扱う」べきだという。ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム哲学やフランス社会心理学を自家薬籠中の物としたウォーラスによれば、人間は目的合理的に行動するよりも、はるかに「衝動」「本能」「性向」といった非合理的要素によって左右される。「ほとんどの人間は、予期された目的への欲望を充足するために戦場から逃亡したり、恋に落ちたり、天気についておしゃべりしたりするわけではない。ある男の日常の一日を、本人に知られることなく映画用カメラと蓄音機をもって追跡し、彼のすべての行動と発言を翌日に本人の面前で再現するならば、そのほとんどが目標到達の手段を念入りに考えたうえでなされたものではないと知って、彼は愕然とすることであろう。(『ルソーからの問い、ルソーへの問い』356頁)

ヒトは、目的に向かって合理的に行動しているのかというと、明らかにそうではないであろう事は想像がつく。私の言葉であれば「ヒトは漫然と生きている」になる。そんな人間に対して、近現代の理想設定は間違っている。本人に自由意志で目標を立てさせ、その目的に沿って合理的な選択をさせてゆく等という、非常にプログラミングみたいな制度設計をしている事に気付かされる。

「存在している理由? そんなの親の気まぐれとしか言いようがない。それ以上に意味なんて見出せるものでもない。自分探しの旅に出る? 本当の自分なんてものは何処へ行っても見つからないと思うぞ。人生は選択の連続であるだって? なんか悪い本でも読んだんだろう。きっと自己啓発本だ。あのテの本は全てデタラメだと思った方がいい」

この話は先に挙げたシュティルナーの近現代批判と同じ内容だ。そもそもヒトは理性のみによって形成されていないし、行動の指針になっているのは欲望とか性衝動といった本能や性向の類いだ。フロイトの登場を待つまでもない。「ヒトの一生は選択の連続である」のようなネオリベラリズム的な言い回しに説得力を感じる人が多いものの、そんなところからして既に人間の本質を見誤っているのだ。実は、もっともっと総体としての民衆、つまり、大衆とはバカで愚かなものなのだ。それが束になった場合には衆愚となる。しかも、実際には『わが闘争』の中で、あのヒトラーが如何に群衆が愚かであるかを説明した上で、扇動してやったと告白しているのだ。もう、いい加減、多数決の原理こそが最も有効であるとか、世論調査の動向に一喜一憂するような連中は中々に愚かな連中だよなという認識に切り替えるべきだ。

政治史の流れで説明すると、フランス革命及びその後の混乱を経ながら、民主政が基調となっていった。特権を有する層とそうではない層との衝突の後、選挙で代議士を選出して議会を開く事や権力が暴走しないように憲法を定めて憲章を掲げる事などの制度が整えられていった。選挙にしても、特定の者だけに選挙権を与える制限選挙ではなく、普通選挙が好ましいという民主主義の輪郭が形成されていった。

再び引用します。

そうなると今度は、新たに選挙権を獲得した有権者層の政治的判断力が問われざるをえない。十九世紀前半の通念にしたがえば、政治参加の資格はあくまでも「財産と教養」をもつ中・上層市民にかぎられるべきであったが、新有権者の大部分は下層民であった。「財産と教養」をもたぬ新有権者層ははたして、合理的な政治的判断の主体たりえるのか。改革派の中には、人間は本来的にひとしく合理的であるため、必要十分な情報を供給しさえすれば、誰でも合理的判断を下しうると主張する者もいた。しかし、こうした議論に対しては、保守派は無論のこと、改革派のなかにさえ懐疑的な見方(たとえば、J.S.ミル)が少なくなかった。(同352〜353頁)

この問題は、普通選挙によって国会議員を選出するという選挙方式自体を批判してしまう性質を持っている。しかし、考えてみれば当然の疑問でもある。しかも、かのジョン・ステュワート・ミルのような理性的に自由主義を唱えた人物でさえも普通選挙制に懐疑的な見方をしていた事が分かる。

こうなってくると論点は「本当に大衆に〈合理的な政治判断〉が可能なのか?」に絞られてくる。ルソーの影響を強く受けていたとされるウォーラスは、次のように展開させた。

政治においても、人間は「愛情」「恐怖」「闘争本能」といった非合理的な情念に突き動かされているのである。

加えて、事態をより複雑にしているのは、諸々の政治的観念の性質である。「国家」「政党」「自由」といった政治的観念は、単に論理的・抽象的概念として機能するのみならず、「情緒的連想」を「反射的」に喚起する。〜略〜政治的観念が「情緒的連想」を喚起するのは、それらが「象徴」によって媒介されるがゆえである。名辞・国歌・国旗・儀礼・色・貨幣・宣伝といったさまざまな「象徴」によって、政治的観念は「習慣的連想にもとづく完全に非論理的な効果」をもたらす。ウォーラスの独創性は、政治をめぐる実践や思索の道具たる政治的観念じたいに、つまり政治という営為そのものに人間の非合理性を喚起するまとわりついていると指摘した点にある。

ゆえにウォーラスは政治家による象徴操作への危機感を隠さない。ウォーラスによると、有能で観察眼に富んだ政治家であればあるほど、こうした人間の非合理性を利用した支持獲得戦略をたてるようになる。そうなると政治家にとって、人民はもはや理性的説得の対象ではなく、純粋な操作的対象である。
(同357〜358頁)

上記引用文、特に後半部分の「象徴操作への危機感を隠さない」は衝撃的だ。このウォーラスは間違いなく19世紀の人物であったが、もう、あれもこれも言い当ててしまっているかのようだ。

表向きは、どこの国もデモクラシー路線を歩んでいたが、20世紀に入ると世界大戦の時代になる。本当に大衆の理性をアテにした制度設計のデモクラシーは機能したのだろうか――という問題になる。デモクラシーこそが至上なのであると教育を受けてきた人たちからすれば、この話は驚天動地の展開となる。先に掲げたウォーラスの懸念が的中した。

引用すると、20世紀の政治史は、これだ。

ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといった新たに権力を掌握した指導者たちは、いずれも象徴操作の達人であった。ウォーラスが危惧したように、彼らの新興権力者たちにとって、一般大衆は対等な討論の相手ではなく、一方的な象徴操作の客体以外の何者でもない。(同362頁)

続く文章は、ヒトラーの『わが闘争』である。

「地上のもっとも巨大な変革の推進力はいつの世においても大衆を支配する科学的認識であるよりも、大衆を鼓舞する狂信、往々はその他の大衆を駆り立てるヒステリーであった。広範な大衆を獲得しようとする者は彼らの心の門を開く鍵を知らねばならない。それは客観性、すなわち弱さではなく、意志と力である」。かくして「宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注目をひき、さらにその心の中に入り込むことにある」のである(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』)。

上記の部分は、平たくいえば、つまり、大衆を支配するには科学的認識や論理性ではなく、〈強さ〉をイメージさせる事であり、それを入口とした狂信的な熱狂と宣伝工作だという主旨である。ヒトラーは確信犯的に、あの狂信的リーダーを演じていたという事でもある。(これは実は有名だ。ヒトラー及びナチスを台頭させたのは〈プロパガンダ〉と〈大衆の熱狂〉による部分が大きい。)

NHKの「映像の世紀」シリーズ等で、生前のムッソリーニやヒトラーの映像を確認することができる。あのカッコいい制服に、あのカッコいい敬礼、そしてあの国旗に、あの行進。そして指導者に求められていたものは、とにもかくにも大衆を力強く鼓舞する演技力であった――。

「象徴」というと即物的にはカギ十字のような図像を思い浮かべてしまいますが、図像だけとは限らない。図像は非言語的な能力を持っているという意味で象徴として有力ですが、それ以外にも中世には王権神授説があったように、そのような神話や歴史観との〈印象づけ〉も有効に作用する。ムッソリーニは「ローマ帝国の再興」のような事を口にしてイタリア国民を熱狂させ、ヒトラーは「千年王国」や「アーリア人」(高貴な人の意味がある。)などの用語を用いて、国民を熱狂させる事に成功した。
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世界は大きな分岐点を過ぎていて、エマニュエル・トッドに拠れば既に〈西洋の敗北〉は確定的なものになっているという。

文藝春秋五月号に掲載されたトッドの『米欧の分裂と日本の選択』から少しだけ引用します。

トランプも、ウクライナ戦争で米国が敗北したからこそ再選されたのであり、ロシアと交渉しないバイデン政権の方針を一八〇度転換したのは「革命」と言えます。

この点、欧州は米国より遅れをとっている。「敗北」という�犖充足瓩鯆昌襪靴進胴颪紡个掘⊆�らの「敗北」を認められず、いまだプーチンを「悪魔」扱いし、好戦的態度に出ています。有効な軍事的手段もなしに、欧州の指導者たちは「ロシアに妥協してはならない!」とヒステリックに叫んでいるのです。
(『文藝春秋』2025年5月号101頁)

エマニュエル・トッドの見解は、既存メディアのスタンスからは大きく逸脱しているように見えるものの、本当にリアリズムやプラグマティズムによって世界情勢を語っている人物のような気がする。先週、読売新聞の「竹森俊平の世界潮流」という国際情勢を語る特集コーナーでも冒頭にユルゲン・ハーバーマスがウクライナ戦争開始直後に語った「この戦争でウクライナが勝利することは有り得ない」という主旨の言葉を正確な訳で取り上げていましたが、実は、その問題がある。確かに現況に到ってまで「ロシアに妥協してはならない!」という態度を採っているという事は、(違和感があるかも知れませんが、好むと好まざるにかかわらず)実は時局の読みとしては遅れているのだ。

勿論、トッドはトランプ政権を称賛しているというものでもない。ウクライナ情勢については、どう考えても勝者はプーチン政権のロシアであり、しかもプーチンは自らが考える軍事目標を達成したなら自然に戦争は終結するという。トランプ政権は和平を呼び掛けているが実際にはプーチンに提示できるカードを持っていないというシビアな現実がある。ここも引用しておきべきか。

ロシアが新たな提案を受け入れない場合の新たな(ただし無意味な)経済制裁を米国はちらつかせていますが、実はトランプの側近たちも――彼らをよく知る東欧のある政府関係者から私が直接聞いた話では――、ロシアにさらなる圧力をかける手段がないことは自覚しています。(同99頁)

「この戦争には勝ち目がない」と分かったなら即座に現実を受け入れて、そちらに舵を切る必要性があり、それがリアリズムとなる。それが中々に難しい決断である事は、第二次世界大戦の敗戦国である日本人は知っていなければならない。「日本のいちばん長い日」に描かれている通りだ。切り替えが遅れると遅れる分だけ、実は多くの犠牲者を出すことになってしまうのだ。


リアリズムもしくはプラグマティズムについて考えている。松本清張著『北一輝論』に目を通していて気づきましたが、本来、理想論と現実論とは区別すべきものだ。明治34年(1901年)に幸徳秋水、片山潜らによって「社会民主党」が創立されたという。これは現在の日本にある社会民主党とは全く関係がないが、その社会民主党は「理想綱領」と「実践綱領」との2種類の綱領を発表していたという。理想綱領では「万国の平和を来す為には先づ軍備を全廃すること」という非戦思想が語られているが、これが実践綱領の方になると「軍備を縮小すること」と現実に対応した綱領を掲げていた事に気づかされる。今の日本の政治ともなると現実を無視してヒステリックな反応をする人たちがあり、その人たちを支援する為の政策ばかりが議論されており、安全保障よりも「所得制限なしの高校無償化」がメインテーマになってしまうような有様なのだ。財源はどうでもいいから減税をしろ、財源なんてなんとでもなるのだからカネを配れのオンパレードになっていて、国家百年の計のタイミングであるにもかかわらず、政治報道といえば、そういう政治報道しか取り上げられなくなってしまっているという末期的な状況だ。

山田太一が脚本を書いたNHK大河ドラマ『獅子の時代』を今更ながらに視聴していますが、何故、明治維新前後が題材になっているのか分かったような気がした。かなり網羅的に明治維新前後の混乱を取り上げているのだ。そして「征韓論」を巡る箇所で、加藤剛演じる主人公の鋭い台詞があった。それは

「法を守って国を滅ぼしてしまったら、なんにもならないでごわすっ!」

と強く発言するシーンであった。閣議決定で決定してしまった事だから、その法に則って西郷隆盛を朝鮮へ行かせ、西郷隆盛が斬られたら、それを口実にして戦争を仕掛ける口実にするか、もしくは西郷隆盛の事だから交渉が決裂したら切腹をするかも知れず、それでも戦争を始める口実になるだろうという新政府内の混乱を描いたシーンであった。しかし、ホントは法に則っていさえすれば、何もかもが巧く行くというものではない。この場合の法は人が定めた人定法の「法」であり、そのようなルールを守って国益を損なう方向へ持って行ってしまったら元も子もないという心情を吐き捨てたシーンであった。現在の日本に於ける国を挙げてのコンプライアンス中毒と比較すると、やはり、山田太一の頑固さが現れているなと感じた。「いい子ちゃんになってルールに従えばいい。それが自滅してしまうような方向性であったとしても、ルールを守る事が大事なのだというが、それが正しいと思っているのか?」と。

形式美よりも実利を負わねば、どうしようもない。これは美学を貫徹する為に敵と戦う前に自刃するという会津藩のそれとも重ね合わせる事ができる。美学と心中するのでいいか? 或いは形式と心中するような態度でいいのか? 本当は生き抜く事ことに主眼を置くべきではないのか? そういう問いになっているのだ。

(山田太一は西郷隆盛が現在の鹿児島県でも人気者であるのに対して、この西郷隆盛の朝鮮行きにマッタをかけて西郷隆盛を失脚させたのが同じ薩摩藩出身で現在も嫌われ者の大久保利通(配役は鶴田浩二)で、敢えて大久保利通に焦点を当てたいと思っていたらしい。余談ながら「トイレの神様」の植村花菜さんは大久保利通の親戚筋らしい。)

「山田太一の頑固さ」という表現をしましたが、それはリアリズムについての頑固さでもある。山田太一も戦争経験者であった。

数日前、テレ朝「徹子の部屋」のゲストはうつみ宮土理さんで、その際にほんの数秒だけ生前のキンキン、愛川欽也の過去映像が流れていた。疎開先に母親からつくってもらった28個のカリントウを柳行李の底に持ち込んで、毎晩のようにみんなが寝静まってから音を立てないように細心の注意をしてカリントウを食べたという体験談を語っているシーンであった。子供ながらにカリントウをみんなで分けるべきかと悩んだが、分けるという気持ちは無かったという。バレてしまえば分けざるを得なくなる。そして分けてしまえば瞬く間にカリントウは底をついてしまう。だから毎晩のようにみんなが寝静まるのを待って、一つだけカリントウを口に入れ、誰にも気づかぬように音を立てずに食べたという。こういう話は野坂昭如の「火垂るの墓」にもかなり生々しく描かれているし、つげ義春の漫画にも闇米の話があるし、松本清張のドラマなどにも顕著だし、そして山田太一の脚本やエッセイにも顕著である。独り占めにするなんていう行為が悪徳である事は理解できている。しかし、飢餓状態のようなものになれば、そんな悠長な正論は言っていられないのだ。飢えは誰にも等しく襲い掛かる。政府による差配や、隣組による平等な分配なんてものはアテにならない。ホントは相互に監視し合っているだけの虚しい何かなのだ。テレビ画面の中の愛川欽也にしても、そのエピソードを語った後に自分が悪かったとか自分が間違っていたと回想していたのではなく、「子供にそんな事を考えさせる世の中にしちゃだめなんですよ。戦争なんてゼッタイにしたらいけないんですよ」という具合に話を締め括っていた。

しかし、そうした戦中派の遺訓は当世の文化人たちには継承されていない。政府が公正に分配してくれるものだと信じている。法律さえ順守していればいいのだと思い込んでいる。しかし、そういう思考型は本当は〈依存思考〉なのだ。いやいや、北一輝ともなると〈奴隷根性〉と喝破するかも知れない。北一輝もまた法華経を熱烈に信仰していた人物であり、「法華経が右翼の革命思想を動かしていた」とする論陣とも合致する。厄介な話ですが、相手を折伏なんてものにも通じているのかも知れない。

また、その話を深掘りしてゆくと、天皇制というものの本質に迫る事になる。「統帥権干犯」という言葉をつくりだしたのは北一輝だったらしく、当時の大日本帝国憲法下で、その問題をついたのが北一輝であった。統帥権は神聖なる天皇に帰属しているのだから、その神聖なる天皇の権限を勝手に干犯するのはけしからんという空気を醸造する。すると、誰もが、そのように攻撃される事を怖れる。ところが、当の北一輝はというと、天皇は単なる機関に過ぎないという天皇機関説論者だったのだ。凄い矛盾論法になっているものの、他者を牽制するには充分すぎる効果を持っていた事は間違いない。

そして、この「神聖なる天皇」という考え方は、実は根深いものがある。佐幕か倒幕かの対立でも、おそらく決定打になったのは本当に天皇を手中に収めて「錦の御旗」を掲げて、官軍と賊軍、相手を朝敵にしてしまうという戦略は、どうしようもない程に有効だとしか思えないのだ。実際問題として日本人のアイデンティティーにとって〈天皇〉は非常に重要な意味合いを持っており、これは空理空論ではなくて「日本人」という観念、その日本人にとっての「国民統合の象徴」に最も相応しいものは何かというと確かに「天皇」という事になってしまうのだ。神話の次元からして、そうなっているし、日本史もそうなっているのだから、日本文化を考えた場合に外しようがない。しかも野性味溢れるような古代日本や、荒ぶる神が存在していたという神話と現代日本とを結びつけるような構造をも持っているので、かなり堅固な「国民の象徴」であるのは否定しようがないレベルだ。あの和辻哲郎の見解でも明治から戦中までが例外的に狂信的な天皇信仰であったが、元々の天皇制は「国民の統合の象徴」であったというのだから、かなり堅固に日本人のアイデンティティーと結び付いている。

今後、日本にも大きな変革が訪れる可能性がある。何かを軸にして思考しない事には、あれもこれもカオスになってしまうので、結局、日本人の指針となるものは天皇という事になると思う。それを好むと好まざるにかかわらず――。
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6月8日付の読売新聞国際面(8面)には、来年トランプ政権が発足した場合に要職に取り立てられる可能性があるというエルブリッジ・コルビー氏と、マット・ポッティンジャー氏のインタビューが掲載されていた。本年11月に行われる米大統領選挙でトランプ勝利となった場合には、外交・安全保障政策の大展開が起こるかも知れないとして掲載されたものであった。(インタビュー記事はワシントン支局向井ゆう子名の署名もある。)

先ず、コルビー氏(元国防次官補代理)のインタビューから。

――世界情勢をどう見ているか。

非常に危険だ。英首相だったチャーチルの「世界危機」という言葉を使っても、誇張ではない。欧州で戦争が起きる一方、中東で複数の戦いが起きている。台湾と同時に、朝鮮半島でも起きる可能性がある。米国も日本も台湾も、こうした状況に備えていない。

米国や日本には、まだ理想主義的に世界を見る傾向がある。だが、中国は力を増しており、戦争が起きる可能性は非常に高い。


続いて、ポッティンジャー氏(前政権大統領副補佐官)のインタビューから。

――トランプ氏が再選された場合の外交政策をどう見るか。

トランプ政権で新たな戦争は起きなかった。共和党は内向きになり、「孤立主義的」な本能に傾かないようにするべきだ。国際主義的な共和党の外交政策を維持し、米国が指導力を発揮しなければ、他の民主主義国家が米国のために指導力を発揮してくれることはない。結局は、全体主義的な政権が世界を牛耳ることになる。

エルブリッジ・コルビー氏が、共和党主流派の意見を代表しているとは思わない。見解があまりにも極端だ。


読んでいても、直ぐに気がついた方も少なくないと思いますが、先に引用したコルビー氏は台湾を念頭に置いた話で「戦争が起きる可能性は非常に高い」と発言してしまっており、如何にも対中強硬派だと感じ取れる。次に引用したポッティンジャー氏は、そのように語っているコルビー氏の意見について「見解があまりに極端だ」と打ち消している。


6月2日付の読売新聞文化面(12面)は、いわゆる書評欄であり、その中では園田耕司著『覇権国家アメリカ「対中強硬」の深淵』(朝日新聞出版)の書評(櫻川昌哉・慶大教授)があった。書評でありながら正しく、米国による対中政策の深淵を題材とした内容らしく、書評からもそれが少し読み取れた。

物事を考える場合、こういう話は結構、重要になってくる。仮に台湾有事が起こったとしても、園田耕司氏に拠れば、中国軍には台湾海峡を超えて台湾に上陸して占領するだけの軍事力はないと喝破しているという。確かに、冷静に考えるとそんな戦況分析が正しい気がする。ノーム・チョムスキーが数年前のインタビューで、対中強硬政策は共和党とか民主党といった政党の問題ではなく、ペンタゴン(国防総省)案件らしい事を指摘していた。現に、つい最近、ドナルド・トランプはというとTikTokの開設に踏み切ったと報じられた通りであり、実際にはノーム・チョムスキーの語っている分析が正しかった事を証明したようにも思える。

そして、もし中国が台湾有事に踏み切る現実的なシナリオを考えるなら、人民解放軍による海上封鎖であり、海上封鎖する事で台湾を経済封鎖に追い込み、半導体のサプライチェーンを崩壊させるという手に出た場合だろうと指摘しているという。そうなると世界的な株価の大暴落が起こる可能性がある――と。しかし、仮に、そうなったとしても大打撃を受けるのは米国の方ではなく、既に経済が弱味をみせている中国の方であろう、と。なので、基本的には中国・習近平政権が暴発しない限りは「台湾有事はない」と分析しているという。習近平政権が冷静であるならば自ら仕掛ける事は考えにくいが――という論旨らしい。

私であれば、コルビー氏の「中国の侵略に今すぐ備えよ」のような言説は絶対にないとは断言できないにせよ、不安心理を突かれて煽られるべきではないと考える。


再び、8日付読売新聞国際面に戻ります。

➀抑制主義者
ドナルド・トランプ個人は、側近であったスティーブン・バノン氏(元主席戦略官)と政策理念が近いが、このバノン氏には現在、議会侮辱罪で実刑判決を受けており、7月1日までに刑務所に出頭するよう命じられており、複数のメディアが報じているところによると収監される見通しだという。このトランプ&バノンは「抑制主義者」と呼ばれており、その理念は「米国は世界情勢に関与すべきではなく、国内対応を優先すべきだ」であるという。

�⇒ダ莠腟措�
ここの冒頭のインタビューで対中強硬姿勢をのぞかせたエルブリッジ・コルビー氏は、この「優先主義者」に分類されている。トランプ氏とはバノン氏のように親和性が高い訳ではないが共通点があるとされている。この「優先主義者」の理念は「米国は対中抑止に集中すべきである。ウクライナ支援は不要」というものだという。(なるほど、そういう勢力が台頭しているのか。)

�Mケ杣腟措�
この「優越主義者」とは今後も米国は国際社会秩序に関与していくべきという主義の勢力であり、先にインタビューを紹介したポッティンジャー氏、それと大統領候補選から撤退したニッキー・ヘイリー氏、更にはロバート・オブライエン氏が、この勢力に属しているという。理念は「米国は世界情勢に関与すべきであり、対中強硬姿勢を継続すべきであり、ウクライナ支援も支持する」という。また、ドナルド・トランプ候補は、この「優越主義者」と呼ばれる勢力とは相違点が目立つという。

うーん、こう並べてみると、ひょっとしたらコルビー氏の要職起用は有り得るような気もしてくる。タカ派色は嗅ぎ取れてしまう訳ですが、�Mケ杣腟措圓亮臘イ亙胴颪�今後も世界秩序に貢献すべしという或る種の覇権主義でもあり、しかも米国の国力が相対的に低下している事を無視している。トランプ候補のホンネとは「アメリカ・ファースト」のスローガンに顕著なように米国第一主義であり、世界の事なんてどうもいいという意味では孤立主義に近いという。過去には米国はモンロー主義なんて呼ばれて戦争とは距離を置いていた時代が本当にあった訳です。戦争に関わると疲弊してしまうという考え方があるので、➀抑制主義者(バノン氏)を頼れない場合には�⇒ダ莠腟措圈淵灰襯咫嫉瓠砲鰺蠅覯椎柔�があるという事になる。
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