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カテゴリ: 世迷い言

飯山陽(いいやま・あかり)著『イスラム2.0』(河出新書)を読み終えると、やはり、諦念としての隷属だよなぁ…という気分になる。全体的に客観的な事実を説明しているのですが、「では、どのように対応すべきか?」という対処法の話になると、つまり、この部分が思想とか主義などと関係しているのだと思いますが、つまりは、日本人は忍従してゆくしか道がないといったニュアンスになっている。それは或る意味では現実的な対処法を示しているのですが、それでいて、譲歩に次ぐ譲歩、まったく、なんにも、日本人にはメリットがないかのような感慨を残す。

どういう事かというと、つまり、イスラム教徒と対峙する、交際するに当たっては、殆んど、方法がない。価値観が違うので何をしても誤解されてしまう可能性があり、何もかもがタブーになってしまう。シャルリー・エブド紙のように、わざわざ、こちらから神を冒涜する等の行為や、日本人のノリでイタズラをするなどの粗相をせずとも、どの道、触らぬ神に祟りなし、くわばらくわばら状態で「イスラム教徒を迎え入れ、多様化社会を実現してゆくしか道はなさそうだ」という、或る意味では冷徹すぎる内容なのだ。中には、イスラム女性を見つめてはいけないとか、イスラム教徒の前でいちゃついてはいけない、うっかり無神論であると発言してしまうと人間関係に悪影響を及ぼすので言ってはいけない等、殆んど忍従の道しかなさそうなのだ。

確かに、欧州のケースなどは、それなのでしょう。労働力にもなるだろうと善かれと思ってリベラル思想体系は移民を受け入れてみたはいいが、イスラム教とは原則的に神に服従する、神に従うという宗教なので、実は世俗的な決まり事との相性が悪い。昨今のイスラム原理主義ともなると、最早、絶望的であり、イスラム教徒でなければ人に非ず、十字軍の手先(キリスト教)は敵であり、無神論者は大罪を犯した者であり、仏教者とて多神教であるから敵対勢力として見られてしまうという。この部分が絶対的過ぎるので、宗教の話は絶対的禁忌であり、礼拝にしても食習慣にしても服装にしても、ありとあらゆることへの疑問をぶつけてもいけない。となると、どのように社会に受け入れられるというのかって話にもなってきますよね。おそらくは不可能であり、接することなく、共生し、しかも受け容れよであり、おそらくは、一方的に日本人は譲歩を迫られてしまう可能性がある。

分断・断絶した状態のまま共生すべし、これぐらいしか対処法はないという。しかし、仮に、仮にですが、女性差別を筆頭にして、いわゆる差別問題で衝突したら、どうなるのか? 同性愛者も大罪に値するとするイスラム原理主義者を相手に、どのような共生社会が実現できるのか? そりゃ、そもそも、西洋文明の、それも近25年ぐらいの間のリベラル主義が惹き起こしてしまった多様性なんてものを、何故、日本人が受け容れねばならないのかっていう疑問を抱かなかったら嘘になる。

イスラム教を巡る認識については、おそらく、この飯山陽さんの指摘は説得力がある、しかし、それに対処する方法が、これしかないというのでは、なんとも絶望的な話に思えるのもホントでしょうかね。仮に、ホントに、このまま多様化社会なるものが実現する方向性で物事が進み、50年ほど経過すると、おそらく日本人らしい日本人は、この日本列島の地域でも、こそこそと、細々と生き延びていかざるを得なくなる。

飯山さんは実際に「梅原猛氏の多神教による一神教への優越論」は使用しない方がいいという。しかし、裏返すと、日本人の本性とは、それだよなって思う。「和を以って尊し」とは、縄文時代から弥生時代から古墳時代あたりにかけて、この日本列島は、とんでもない多民族国家であった事が、昨今のDNAハプログループの解析などからも証明されつつある。かの女王卑弥呼とて、共立されて女王になったと実際に記されているのだ。或る意味では、フランス大革命に千数百年ほど先駆けて、この日本列島では「共生する事の知恵」が模索されてきた実例が、いわゆる日本人的価値観のような気がする。

倭族論は何故か軽んじられている気がしますが、殆んど、それだ。春秋時代や戦国時代の棄民や難民が日本列島に辿り着き、また、先住民族であったであろう縄文人らと時には戦い、時には冊封体制で懐柔したりし、その中で「和を以って尊し」とする共生原理を強く説かれ、そのまま、或る程度、浸透したものでしょう。

【封建制】という言葉がありますが、これも東洋と西洋とでは違うんですね。西洋文明といっても、つまりは西ヨーロッパですが、そこに登場した封建制は、貴賤の明確な階級社会的な封建制であり、支配階級内部の法秩序であり、どちらかといえば日本の荘園制に近い。しかし、東洋文明に発生した封建制とは官僚的郡県制の反対概念であるという。具体的には周王朝の時代の世襲統治を封建制としているが、それは中央政府からは、かなり独立して、その国を治める事ができるものであった。『抱朴子』を著した葛洪は東晋という国の王であったが、秦王朝の官僚的郡県制への移行期の人物であり、結局は讒訴・讒言によって殺害されている。秦の始皇帝は皇帝の始まりであるのは、これと関係していて、おそらくは東洋に於ける帝国の始まりは秦王朝であり、始皇帝である。

日本はどうであっただろうか。日本の場合は東北地方の歴史などをやってしまえば、思いの外、みちのく(「陸奥の奥」の訛り)は、まつろわぬ民の国であり続けた。鎌倉時代には鎌倉に幕府が置かれていたが、鎌倉は地理的には純然たる東国であり、「坂の東」で坂東であり、果たして実際にどれほど対峙概念としての西国と距離が在ったのかは分からない。関東の歴史からすれば西国からやってきた貴族が領主化し、武家化している。「在地の豪族」とは、その体制以前に関東へやって来ていた為政者階級であり、場合によっては官僚であった。実は、日本列島に於いて「天下統一」がなるのは、豊臣秀吉の時代であり、秀吉以降が本格的な官僚的郡県制に近づいてゆく。それ以前ともなると、中央支配が及んでいるようで及んでおらず、関東武士が鎌倉時代末期から室町時代全般にわたって西国まで遠征しているという事実があるし、東北には奥州藤原三代などという明らかに別の国家が日本列島に併存していたらしい事も指摘できてしまうし、源義経にしても追手から逃れようとして東北地方へ向かいますが、それが意味しているのは中央政府の支配は東北地方にまでは及んでいなかったからに他ならない。平将門は「新皇」を名乗り、もう一つのスメロギになろうとしていた節があるし、これらは何なのかというと、中央政府の支配はかなりの歳月に亘って未完であり続け、周代の封建制に近い封建制であった事を意味しているような気がする。

おそらく日本に於ける冊封制とは、中々、在地勢力が従ってくれず、時間をかけて時間をかけて、その利益を調整して出来た何かでしょう。天皇による中央集権体制とならず、幕府、この幕府というのは遠征した軍が陣内に幕をはって、その地を統治するという言葉であるというから、本当は源頼朝の時代に、そこまで理解できて天皇を切り離して武士政権が幕府を建て、それが江戸幕府まで継続していたのが、この日本列島地域の歴史だと捉えると合点がいく。万世一系というのは明治政府の時代に誰かがつくり出し、都合よく統治する為の方便として喧伝した神話であって、ホントは皇統には断層らしきものがある。神武と崇神と応神、或いは天智や天武あたりというのは別の系統かも知れず、おそらくは歴史を踏襲して、そのルーツはどういうものかというと共生原理を模索してきた何かのような気がしますけどねぇ。

昨今、暴力はいけないとか、反乱が起こるとテロのように表現される。しかし、では、そもそも忠臣蔵などは何故、日本人に愛されてきたのか。復讐劇ですな。許せん、吉良上野介めっていう世界。何故、高倉健はスターになったのかといえば、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」だと思いますよ。ホントは御上に対しても平気で牙を剥く無頼漢の正義を愛してきたところがある。「人生劇場」であり、「傷だらけの人生」でしょう。「義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界」と歌い、「義理が廃れば、この世は闇だ」と歌い、「そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩くバカな人間でございます」と呟いてきたのであって。

てか、そもそも、日本人が忍従する以前の段階でイスラム原理主義は何某かの方針変換を迫られると考えられる気がする。殺し合い、殲滅戦を継続する中での均衡や調和というのは長続きしないのが道理なのではないか。目先の事を言ってしまえば、既に、この問題は各地で衝突を惹き起こしており、先ずは一神教の者同士が争うことになるのが先ですよね。ここに巻き込まれる事のリスクを考えるべきだ。梅原猛に代表される多様性の優越を、刺激しないように引っ込めて、背中を縮こまらせていく方法というのは実質的な日本の降伏宣言かも知れない。一神教世界の鋭い対立、そのどちらかに加担して、おそらくは日本はドナルド・トランプ的な立場に抗えずに加担して、対イスラムという敵対的なスタンスを採らざるを得なくなるのかも知れませんが、そうすると矛先はこちらに向かってくる可能性がある…。

神概念ではなく、実際に自分たちを庇護し、導いてくれる存在と確信し、その「神」の実在を信じるという人たちがある。便宜上、この神は創造主にして唯一神である。次に、概念としての神、神概念がある。我々を庇護し、導いてくれるれるような神は実在していないだろうが、存在していて欲しいという願望を持つという半信半疑で神の存在を信じるという神概念のレベルがある。また、それらは全て誤りであり、神も神概念も誤まりであるという無神論がある。唯物論などは無神論でしょうし、一部の科学主義なども無神論であろうなと思う。

上記の説明で、有神論と無神論はなんとなくイメージが沸くと思うのですが、勿論、それは明確に二分されるものではない。神概念の中には「神とは即ち、自然のことです」と演繹してみせたスピノザ的な汎神論があり、これは不当に低く評価されているが、意味合いとしては「哲学的な意味では神は存在する」という神概念である。

また、仏教のような宗教はどうであろうか? 仏教は大雑把に言ってしまえばゴータマの教え、その教義の体系にある犇気┃瓩信仰対象そのものである。ゴータマを神と崇めてしまうのは誤まりであり、ゴータマの説いた教えを崇めるのが宗教的態度である。

はてまた、道教(神道)はどうであろうか? この体系はしばしば、なんでもかんでも神にしてしまう汎神論という意味ではスピノザの神即自然と似ている。仏教の教義も深掘りすれば同じで今風の言葉に置き換えると、「自然」、「宇宙の摂理」を指して、それを「神」といったり、「仏性」といったり、「大日」といったりしている。道教の場合は土台になったのは神仙思想と老荘思想であり、NHK大河ドラマが予定されている「麒麟がくる」の麒麟、その麒麟や竜などの仮想上の生物をも実在するかも知れないというままに発展した不思議な体系である。なので、西洋文明と接した後に東洋文明は、それら古い迷信を打ち払う事が進歩的な態度という事になった。

教義や教説を崇めるという態度は低く、関羽も神となり、菅原道真も神となり、徳川家康も神となるという意味では不思議な体系であるが、その圧倒的な寛容と圧倒的な包容性がある。現代人ともなるとデタラメも極まり、七五三は神社で行ない、婚姻は教会で挙げて、葬儀は仏式であるのが主流であるが、誰も、この混淆に本気で腹を立てない。おそらく、これをも許容してしまうのが「日本教」の正体なのでしょう。ヒンズー教なども、あまりにも汎用性がありすぎて、いわば「ヒンズー式」と翻訳した方が正確だという指摘をされているぐらいだから、日本人の信仰心は有れど、縛られていない信仰心は、ともすれば優柔不断、一神教の対立概念としての多神教(汎神論)と語られてしまうが、そもそも、それは一神教を正統な価値観として物事を語ろうとしている態度と、関係している。

そもそもからすれば、多神教からスタートすべきなのだと言い張れば、それまでの話でもある。とはいえ、昨今、皇祖の天照大御神を、まるで西洋の唯一神のように扱おうとする風潮も出て来てしまっていますが、それらは後付けであるのは自明だ。元々は精霊や死霊、つまり御霊の実在を信じ、精霊が住む聖域、聖なる山や、奇岩を崇めるところから原始神道がスタートしているのも自明だ。徐々に「教え」が流入し、おそらくは霊を憑依させて霊の言葉を聞き出そうとするシャーマニズムが易経に影響されながら発展し、老荘思想、神仙思想、儒教、そして中国経由の仏教各派の教説が加わってに日本教の原形が出来上がった。最終的に日本列島では鎌倉仏教となり、上座部(小乗)仏教と大乗仏教とでは大乗仏教の系統を歩み、浄土教としては「念仏さえ唱えれば誰も彼もが成仏できる、浄土へ行ける」という最終形にまで到達した。最終形は、それであったが、そもそも仏教の教義としても「草木国土悉皆成仏」であり、草も木も国土などの心を有さないものでさえも、皆、成仏する(天台宗・真言宗)という。

実は、これ、恥じるべき思想体系ではないんですよね…。変に張り合おうとするからおかしな事になるのであって、寛容や豊饒の最終形かも知れない。しかし、そもそも他者と張り合って生きたところで幸福になれる保証は何一つなく、その証拠に世界一強い人には望んでもなれないし、世界一のカネ持ちにも望んでなれるものではないと考えるのが実はリアリティーというものでもある。

唯物論は、このテの話を観念論として蔑んだり、或いは形而上の話よりも形而下の話を、つまり、自分が具体的に認識できる事柄のみに執着する。その真逆の歴史を歩んだのが、東洋思想の真髄であったのではないか。そこに実際に竜なんてものが潜んでいるのかどうかは分からないが、仮に竜が生息しているとして…と、際限なく仮説を遊ばせながら発展した系譜だ。そして、最終的には「鬼とは人の中に棲んでいる。人は心の中に鬼を飼っているものですよ」等と言い出す。説明は後付けであるが確かに、鬼の正体などはそれである。鬼の正体は人である。幽霊の正体も、おそらくは今日で言うところの精神現象の可能性が高い訳ですが「だから何だね?」という話でもある。張り合うこともなく、押し付けることもなく、その道を歩んできたのだから、何の問題があるだろう。

◆建国の父「ベン・グリオン」
イスラエルの建国の父はベン・グリオン(生没1886〜1973年)である。ポーランド生まれながらパレスチナ地方へ移住。労働党およびユダヤ人共同農場の為の自警団を組織した。第一次大戦中はオスマン帝国の官憲によって追放され、ニューヨークへ渡って、ニューヨークでシオニスト労働党を組織した。

1918年にパレスチナに戻り、1920年にはイスラエル労働総同盟の初代事務局長になる。1930年にはマパイ党(穏健的社会主義シオニズムの労働党)を結成。

1939年、アラブ=ユダヤ円卓会議では、イギリス政府が親アラブの態度を採った為、ベン・グリオンはアメリカ政府へ支持を求めた。また、一方で、ベン・グリオンはユダヤ人武装組織の育成にも取り組んだ。

1948年5月14日、イスラエル建国と同時にベン・グリオンは首相兼国防相に就任した。

1953年〜1955年まで一時的に政治活動を休止するが、1955年にエジプトに於いてイスラエルのスパイ網が摘発されたラボン事件が発生し、イスラエル政界に激震が生じるとベン・グリオンは政界に復帰し、再び首相に就任した。

1964年12月、ラフィ党を結成。1970年にナショナル=リスト党を結成したが、1970年7月には政界を引退した。

このベン・グリオンの政治姿勢はアラブ諸国に対しては一貫して、強硬派であり続けた。これがイスラエルの建国の父・ベン・グリオンの生涯である。


◆レオ・フランク事件
アメリカでも、確かに反ユダヤ主義があったという。1913年に発生したレオ・フランク事件が事例として挙げられるという。

ジョージア州のある工場で14歳の少女が殺害事件が発生、その犯人としてドイツ系ユダヤ人のレオ・フランクが逮捕された事を契機にしてアメリカでも反ユダヤ感情が爆発した。潜在的に反ユダヤ感情が在った事の証明でもあり、今一度、確認するとWASP(White, Anglo-Saxon,Protestant)が典型的なアメリカ人の「像」であり、白人として認識されていないユダヤ人、また、ユダヤ教を信仰しているユダヤ教徒に対しては「異端」として見る傾向が在った事は否定できず、その偏見が発現した顕著な例が、アメリカの場合では、このレオン・フランク事件となる。

司法判決としてフランクには死刑判決が下ったが、ジョージア州知事はフランクの無罪を確信した為に1915年6月、急遽、終身刑に減刑した。反ユダヤ感情がフランクを有罪にしてしまっていたとジョージア州知事は確信した為という。しかし、その州知事の処置にジョージア州全土で抗議の声が上がり、暴徒がレオ・フランクが収監されていた監房を襲撃、そのままレオ・フランクに集団リンチを加えた。最終的に、このレオ・フランクは木から吊るされて殺害されてしまった。



どうも歴史的経緯からすると、西洋文明もしくはプロテスタント的な何かとしてユダヤ人を異端と見做す何かがあり、その差別が近代シオニズムを生み出している。実際に反目していたのは、西洋文明が持っている反ユダヤ主義であり、その西洋文明が持っている反ユダヤ主義に抗う形で登場したのが近代シオニズムである。しかし、これが、ややあって、アングロサクソン型自由主義陣営(米英)がシオニズムに対して譲歩したことからイスラエルが建国され、挙げ句、ユダヤ人とアラブ人との対立問題に狹床臭瓩靴討い襦イスラエル及び一部のユダヤ系財閥は、ユダヤ資本という形でイギリス政府やアメリカ政府に食い込んだというのは、実は陰謀論ではなく、公然とした歴史的事実であり、政治的事実であるのが分かる。

どこかしら「マッチポンプ」として、中東情勢は機能させられている公算が高い。それに気付いてしまっているからこそ、アラブ人もペルシャ人もアメリカやイギリスに懐疑的な態度となる。サウジアラビア政府は、どういう政権なのか、エジプト政府は、どういう歴史を歩んだのか、イラン革命は何故、起こったのか、そしてどうして中東地域の紛争と戦争は終結の目途が全く立たないのかという問題は、20世紀の負の遺産としか説明のしようがないんですね。客観的に言えば、当時の世界のリーダーであった帝国主義的なアメリカとイギリス、それとナチスドイツが、ユダヤ人に対して変な事をやらかしてしまい、その処理を第一次大戦以降、イギリス領やフランス領にしていたからパレスチナ地方に押し付けてしまったのが真相だとしか言いようがない。イスラエル建国に伴ってパレスチナ難民が発生、反イスラエル武装勢力が登場、以降、両国間では紛争もあれば小規模な虐殺事件も後を絶たない。なので、一連を以って「アラブ人がけしからん」とは、どう考えても言い難いであろうというのが客観的な国際情勢の歴史であろうと思う。

「イスラム圏」という括り方をすれば、西側陣営が自分たちの争いで発生したユダヤ難民を大量にパレスチナに送り込んでユダヤ人による国民国家を創設したという事になるから、「余計な事をしやがって!」と考えるに決まっている。また、イスラエルを国家として国連が承認したのは、そんなに古くなくて、1948年である。しかも建国の父・ベン・グリオンがシオニスト労働党を結成したのは、実はニューヨークである。

本来、「反ユダヤ主義」に関して日本及び日本人は全くノータッチだし、アラブ人を憎んでいるとかイスラム教徒に恨みがあるとか、そういう素地も土壌もない。

中東問題のはじまりというものに私自身が疎いという事と、もう一つ、80年代以降の日本は西側諸国としての歴史を歩んでいるので、そもそも西側諸国の報道というのは実はアングロサクソン型自由主義陣営の報道に偏って歩んだ歴史の可能性があるような気がする。イスラエルは核保有国であり、そもそもという部分からすればイスラエルの建国を国連が承認した事に拠って、中東問題の混乱が発生したというのが史実であるが、この部分について掘り下げた解説を耳目にした記憶がない。本来であれば、敵にも敵の正義があろうと問題が相対化されて然るべきなのに、何故かイスラエルとアラブ諸国の問題になると浅薄な喧嘩両成敗的な解説だらけとなり、或いは親米保守は安全保障上の理由に頼って、その事象を客観的に論じない。つまり、敵味方という思考になってしまっていると思う。なので、結局は、アラブ諸国に対して厳しい言及は有れども、イスラエルに対しての厳しい言及は全く存在していないという事に気付く。

これは、いつ頃からだろう? 既に私が物心ついたときには中東問題が存在しており、テレビや新聞といったメディアは、分かっているような分かっていないような言説を繰り返してきたような気がする。そして或る時期からは完全に、イスラエル支持の言説で固まったような気がする。おそらく、これは西暦2000年前後からであり、日本の場合は「集団的自衛権」の問題が浮上してからのものでしょう。漠然と、終戦後の歩みとして、日本は米国の庇護下から抜け出して独立独歩の道を歩く方向へ進んでいるようにも感じていたが、そうはならなかった。むしろ、東西冷戦が崩壊してみたら、日本は対米従属を強めることになった。この箇所、少し細かく刻めば、米ソ冷戦構造の崩壊後に、米国一国主義とも揶揄されるグローバリズムが称揚され、その米国一国主義の中で、実はアメリカ同時多発テロ、いわゆる911事件が起こり、その後のアメリカは対テロ戦争に踏み切ったという一連の流れがあった。日本の場合はエネルギーの問題もあり、安定的に石油を確保する意味合いからアメリカ支持に回ったものとも考えられますが、その裏側でイスラエルに係る問題、そのイスラエルが建国した事で始まった中東問題は、目に見えない事にしてきたような気がしないでもない。


◆ユダヤ人差別の問題
18世紀末に起こったフランス革命では「自由・平等・博愛」という三原則が起こった。そこでは「信教の自由」という問題があり、フランスに居たユダヤ教徒に対しても宗教集団としてのユダヤ教徒となり、当たり前の話ですが、「ユダヤ教徒のフランス国民」というものも理念上では成立した。しかし、そうした理念と実際との間には乖離があり、総じてユダヤ教徒は「ユダヤ人」として括られ、フランスに限らず、やはり、欧州キリスト教社会の中で、ユダヤ人は異端視された。

また、ナチスドイツ登場前の状況で語られるユダヤ人差別問題については宗教上の理由などから金融業(高利貸し)をするユダヤ人が多かったといい、ロシア革命前にはロシアやポーランドといった地方で【ポグロム】と呼ばれるユダヤ人への民族的差別に由来する虐殺などが在った。

思うに、この問題は「異端視」にあったと考えるべきでしょう。現在もフランスやドイツでイスラム教徒に対して、反イスラムという立場が成立しているのを確認できますが、冷静に考察すると異なる文化や習慣、宗教を持っている人たちが地域に流入してきたとして、理念上、「同じ国民である」とアナウンスしてみたところで、現実問題として、どこかに差異を見い出し、その異端者を「異端視する」という問題が発生してしまうのが現実でしょう。ホントは当たり前の問題なのかも知れない。

差異を発見して区別する事が学問のはじまりであるというし、実際に同じ空間で生活をしていて、明らかに異なる習慣などを目にするつけて、それを異端視しない事は難しい。また、ヒトの理性に委ねられる問題としてアカラサマな偏見や差別が生まれ、理性薄弱の場合には露骨な異端視となり、それが強まれば排除、排斥、虐待、虐殺といった攻撃的な方向へと向かってしまうのが人間社会の残念な真実であろうと思う。

アメリカにしても、或いはフランスやドイツにしても、この問題に苦慮しているのが真実であろうと思う。また、日本の場合、本来的には差別感情を露骨に出す者と、そうしない者との比率では実相としては後者の方が多かったように思うが、文明が進捗すると、やはり、現代文明とは西洋文明の影響が強いのでしょう、露骨な差別が蔓延するようになったと感じる。西洋的価値観に基づく「多様性」の話と、東洋的価値観、特に老荘思想ですが、その社会的公平性の捉え方には差異がある。「人の上に人をつくらず」と言った福沢諭吉には万物斉同の思想を見い出す事が出来ると思う。一個と一個との対面する空間で、そこに偉いも偉くないも、そういった差異は宇宙レベルでないと考えるが、合理化からなっている西洋的な文明では「偉い人」と「偉くない人」という分別は避けようがなく、常に付きまとう。

部長は課長よりも職位としては偉いが、部長も課長も一個の人格を有するヒトという意味では対等であるという、その根源的感覚がない。掃除をしているババアに対しては敬意を払う必要性がないが、社会的地位を有している者に対しては、その社会的地位そのものを絶対的価値観としてしまおうとする。文明が進歩すれば進歩するほど、この階層化も進捗し、その差別も露骨になる。おそらく、仏教的教義や老荘思想であれば「無」や「空」の哲学があるので、積極的に干渉しないことで共生を実現する事に重きを置くが、一神教世界や科学主義では特に白か黒かをハッキリさせたがる傾向が強い事、また、西洋的なものは積極的に干渉して白か黒かと思考するので、結局は支配と被支配に固執する傾向が強い。

どう考えているのかというと、結局は、ユダヤ人問題というのはキリスト教徒がユダヤ教徒に対して、どういう態度をとったのかという、日本人からは少し懸け離れたところで起こった問題であろうと思う。まぁ、仮に日本に異形の姿形をした外国人がやってきたなら、あれこれと珍しがり、それを外国人が苦痛に感じる感覚はありそうですが、裏返せば、映画『沈黙』が描いたように、日本とは、そもそもからして根っこの無い土地柄であり、非常に芯が強い一神教の価値観とは噛み合わない。なんだかんだいって80年代頃までの日本人の価値観とは曖昧であり、仏教的に説明すれば【Everything is Buddha】であり、神道的道教的・老荘思想的に説明すれば【無為自然】であり、物事に深く介入せず、そうする事で他者を侵さず、それによって共生を是とした。つまり、聖徳太子の「和を以って尊し」が日本思想の根幹にある。(あった。)

(そういえば壱万円札の肖像は、聖徳太子と福沢諭吉でしたね。次は渋沢栄一になるらしいけど、明らかに異なる系統の、つまり、西洋的な選択のような気がする。)

日本について言えば、小泉内閣の時に「旗幟を鮮明にせよ」という外圧を受け、以降、潮流が変わった。中立的、客観的な観点は失われ、嫌が応にも対米従属となった。そうせざるを得なくなったと表現した方が、より正確かも知れない。


話をフランスに戻しますが、フランスに於ける「国民としての平等」と「国民国家」という理想は瓦解した。結局のところ「白人として優越なフランス国民」と「劣等人種のユダヤ人」という差別的民主主義に陥った。ユダヤ人は、いわゆる欧州の白人からすると、ユダヤ人は非ヨーロッパ的な何かであり、「欧州の白人ではない」という認識になったものと思われる。

転機になったのは、1894年の「ドレフェス事件」であった。アルフレッド・ドレフェスはユダヤ系のフランス軍人(大尉)であったが、スパイ容疑によって軍法会議に掛けられて有罪判決(終身刑)を受けた。ドレフェスは「大尉」という位階をフランス国家によって剥奪された。このドレフェスの位階剥奪のセレモニー時に、ドレフェスから剥奪したサーベルはへし折られ、それを見守っていたフランス大衆たちは「ユダヤをやっつけろ」と叫んでいた。このドレフェス事件、実は筆跡鑑定で有罪としたものであり、フランスの世論はドレフェス擁護とドレフェス糾弾とに二分されたが、1906年にドレフェスの冤罪が証明された。このドレフェス事件は、ドレフェスがユダヤ系フランス人であったが故に、起こった冤罪事件として取り上げられた。

結局のところ、宗教や慣習は違えどもフランス国に於ける法の下の平等、そこで同じ国民とするフランス自由主義の理念は、やはり、当時から脆かったと思われる。(「そこまで人間なんて立派じゃないですよ」の意です。)

そのドレフェス事件を契機にして、反ユダヤ主義というものが立ち上がる。おそらくは、現在の反イスラム主義と構造は似ていて、それまでは不満に感じていても我慢していたが、そのドレフェス事件が切欠となった異端者・ユダヤ人に対する不満が噴出したものと推定できる。

反ユダヤ主義の台頭と、ドレフェス事件を経て、ユダヤ人の中の強硬派から「同化に応じても平等に扱ってはもらえない」という主張が芽生え、それがやがて「ユダヤ人はユダヤ人の国を建国すべきである」というシオニズムへと繋がった。



◆「近代シオニズムはアメリカで生まれた」
【シオニズム】とは【Zionism】であり、ユダヤ人によるユダヤ民族国家をパレスチナ地方に建国しようとする運動を指す。「パレスチナ」とは別名「カナン」であり、実はユダヤ教徒からすると「約束の地」である。「シオン」とは「シオンの丘」を意味し、つまりは、紀元前1000年頃、ダビデ王が居城を構えていたという聖都「エルサレム」を指している。

1897年のドレフェス事件を受けて、近代シオニズムが生まれた。近代シオニズムの創始者はテオドール・ヘルツルであり、ブダペスト生まれの記者であった。雑誌記者から新聞記者へと転身し、パリ通信員になっていた時に、ドレフェス事件が発生。フランスに於ける反ユダヤ主義を目撃していた人物であった。

このヘルツルは、ユダヤ人問題の解決を模索する中で、「ユダヤ人国家の建設」を主張し、そのままシオニストとして具体的な運動を展開する。初期の段階で、この近代シオニズムの建設地は「パレスチナ」か「アルゼンチン」であった。現実的に考えればパレスチナでは土地の獲得が困難であったがアルゼンチンには、その辺りで利点があったらしい。他方、パレスチナに建国する事は、宗教的な遠大なストーリーを掲げられる事が利点であった。つまり、具体的に運動をするにあたって、遠大な物語としての「聖地エルサレムの守護者になるべく、ユダヤ人の国をパレスチナに建国する」はユダヤ人の名誉の回復になり、宣伝的なものを考慮した場合、利点として機能することとなる。

ヘルツルは1897年、早速、スイスのバーゼルにて第一回シオニスト会議を開催して「バーゼル綱領」を採択した。これによってアルゼンチンではなく、パレスチナが候補地と決定したが、途中ではウガンダ案なども浮上したという。また、この第1回シオニスト会議の直後には世界シオニスト機構を設立され、近代シオニズムが具体的に動き出した。

そのシオニズムの波がアメリカにも波及したのですが、当時のアメリカ合衆国は「新しい形の国家」であり、フランスと同じように法の下に平等と考える国民、その国民国家である事を標榜していた。なので、ドレフェス事件が発生してシオニズムの潮流が起こると世論も割れたという。簡単に言ってしまうと、ユダヤ人ではなくアメリカ人としてアメリカ国民に同化すべきというのがアメリカ合衆国そのものの理念であったし、早期にアメリカに渡っていたユダヤ人は、そう考えていた。19世紀中ごろからはドイツ系ユダヤ人も大量に移民としてアメリカに流入し、更に19世紀末には東欧系ユダヤ人がアメリカに流入したという。基本的にアメリカに於けるユダヤ人社会で主導権を握っていたのはドイツ系ユダヤ人であり、アメリカに同化しようという指針であった。しかし、東欧系ユダヤ人になると後発的な移民でもあるのでニューヨークの労働者階級が多く、ユダヤ的伝統を重んじる傾向があったという。

この部分、混乱してしまいそうですが、要は帰属性(アイデンティティー)の問題であり、アメリカ人である事に重きを置くか、ユダヤ人である事に重きを置くかという葛藤の話ですね。さっさと成功者になったユダヤ人はアメリカ人というアイデンティティーに慣れ親しむし、そうあるべきだと考えた。それに対して、やはり、ユダヤ人という帰属性に重きを置く人たちが登場した。この部分、単純に労働者階級に甘んじたからなのかどうかという、その理由については検討の余地がありますが、基本的な説明としては間違っていないでしょう。確か「映像の世紀」あたりでもニューヨークの移民の問題に触れられていたような記憶がある。

このアイデンティティーの話は、周囲に於いて反ユダヤ主義が盛り上がれば盛り上がるほど、ユダヤ人の立場は揺らぐ訳ですね。フランスにしてもアメリカにしても、ユダヤ人を異端視する反ユダヤ主義が熱を帯びてくれば、「やっぱり同化なんて無理だ。我々はパレスチナにユダヤ人の国家をつくるべきだ」という意見が強まっていく事になる。

1914年、欧州で第一次世界大戦が起こる。

この頃、ウィルソン米大統領に革新的な政策提言を行なっていた人物にルイス・ブランダイスという弁護士があり、このブランダイスがアメリカでシオニズム運動を展開していったが、やはり、基本的には「失望」や「諦め」を契機とし、シオニズムに傾斜したという。いわば転向してシオニストになった。(転向を余儀なくされたとみることも可能かもしれない。)

ブランダイスは「反ユダヤ主義」というものが存在している以上は、「ユダヤ人」という集団を確立せざるを得ないと思考したという。「同化は難しい」と考え、その発想に行き着いたと考えられるのだそうな。ユダヤ人という集団を認識させ、保護する事で、差別問題を解決しようとしたという事か。この問題、裏返せば、非ユダヤ人の差別的な人々が【ユダヤ人】という集団を曖昧なままに定義しているのだから、そうせざるを得ないというのがブランダイスのロジックであった。また、そこから、

よきアメリカ人たるには、よきユダヤ人たらねばならない。よきユダヤ人たるには、よきシオニストたらねばならない

不思議な論法にも思えますが…。しかし、法律家として著名であったブランダイスは、ユダヤ人国家を建設する事が、アメリカに於いて、ユダヤ人という集団を認めさせる為に必要と考えたと思われるのだそうな。

当然、そのアメリカン・シオニズムにも批判が起こった。解釈のしようによっては、パレスチナに建国される新しい国に行きたくないアメリカ在住のユダヤ人も、パレスチナへ行かねばならないように聞こえる。しかし、ブランダイスは、そこに選択の自由を担保した。つまり、「パレスチナへ行くか行かないかは、そのユダヤ人個人の自由である」と説いた。難解といえば難解なのですが、アメリカのシオニズムは、どこかでアメリカの建国精神や自由主義精神と底では《自由主義》という部分で繋がっていたのかも知れない。


◆「フサイン=マクマホン協定」、「サイクス=ピコ協定」、「バルフォア宣言」
このシオニズムは極めて不可解なヨーロッパとアメリカの事情で動く。

1915年にアメリカではKKK(クー・クラックス・クラン)運動が起こり、初期は黒人を攻撃する運動であったが、次第に攻撃の矛先を、カトリック、ユダヤ人、南欧・東欧の移民、アジア系の移民へと拡大させていった。運動拠点も初期段階では南部アメリカであったが、次第に中西部や東部へと拡大していった。KKK団の思想とは排外主義的な何かであった。その目に見えぬ部分としてはアメリカ生まれの白人の優越性、プロテスタントの優越性があり、目に見える部分では移民反対、愛国心高揚、聖書の購読義務付け、進化論教育に対しての排撃などから成っていた。

一方、欧州では、より複雑な動きになっていた。第一次世界大戦下で、秘密協定が乱立していたのだ。第一次大戦後に、世界シオニスト機構は各国の首脳にシオニズムへの支持表明をするよう要請する。この頃、世界シオニスト機構の本部はベルリンにあったので、ドイツ帝国政府に要請、ドイツ帝国政府も支持しようとする動きを見せたが実現せず。しかし、その裏で世界シオニスト機構は秘密裡にドイツ帝国とは敵対関係にあったイギリス政府にも支持表明を要請していた。

第一次大戦はイギリス、フランス、ロシアの協商国(連合国)陣営と、ドイツを中心とする連盟国陣営との戦争であった。協商国側では、戦争末期になるとオスマン帝国の領土分割についての秘密協定が複数種類、結ばれていた。

1915年7月〜1916年1月にかけて、イギリスはカイロ駐在高等弁務官のマクマホンが、アラブ指導者フサインとの間で往復書簡のやりとりをする中で、締結していたた秘密協定があった。これをフサイン=マクマホン協定と呼ぶ。その内容は、フサインがオスマン帝国に反乱を起こす見返りとして大戦終結後に独立したアラブ人国家の樹立を約束するものであった。

1916年11月、サイクス=ピコ協定はイギリス、フランス、ロシアの三国による秘密協定の一つとして結ばれ、そこではパレスチナ地方については後に協定を結ぶ特殊地域とするなどの取り決めがあった。しかし、1917年になるとロシア革命を経たソビエト政権から秘密協定の存在を暴露され、パリ講和条約は紛糾、結局、このサイクス=ピコ協定は実現しなかった。イギリスはフランスにシリアの領有を認めるとし、また、パレスチナ地方にユダヤ人のコロニー(ホーム)の設立を認めるとしていた。

1917年10月4日、英ロイド・ジョージ内閣の外相であったバルフォアは、対ドイツという政治情勢からユダヤ人からの支援を必要とする状況にあり、

速やかに決定がなされねばならない、ドイツ政府がシオニスト運動の支援を得る為に、並々ならぬ努力を払っているからである」(バルフォア宣言)

と発言し、このバルフォア宣言に沿ってイギリス政府は動くことになる。興味深いのは、状況がそのような方向ヘ進ませている事であり、ドイツ政府がシオニスト運動への支援をどれぐらい積極的に行っていたのかは実は微妙である。並々ならぬ努力をしていたのかは疑問でさえある。しかし、敵対関係にあるドイツ政府がシオニスト運動への支援を表明するよりも前に、イギリス政府が支援を表明すべきであるという流れになっている。(政治というのはサイコロみたいなもので、重要な政治的決断であっても、案外、こんな風に転がる訳ですね。)

1917年11月、サイクス=ピコ協定とは大きく内容の違うバルフォア宣言が、意外な形で表沙汰となった。バルフォア外相が、ロスチャイルドに宛てた書簡で、イギリス政府によるシオニズム支持が記されていた。つまり、イギリスはフランスとロシアとの間の秘密協定とも矛盾するユダヤ人国家建設の支援を約束していた事になった。財政協力を得る為の密約がバルフォア宣言であった事になる。

その後も「バルフォア宣言」は生き続け、1920年にはイギリスの正式な政策として確定し、1922年に国際連盟がパレスチナ地方はイギリスの委任統治領となった。

少なくとも3種類以上の秘密協定がイギリス政府を入り乱れており、こうした都合でパレスチナ問題が惹き起こされている。



そして第二次大戦を挟んで、1947年11月29日、国際連盟はパレスチナ分割を決議する。これはイギリスによる委任統治を廃止し、パレスチナ地方にアラブ人国家とユダヤ人国家を置き、エルサレムについては国連管理下にするとした。シオニストは、このパレスチナ分割案を受け入れ、1948年5月14日にイスラエルの独立を宣言した。アラブ側は分割案を拒否し、第一次中東戦争が発生、以降も中東地域では、アングロサクソン陣営とアラブ陣営との紛争、戦争が絶えない。

仏陀、ゴータマの死に際の言葉というのは仏典で紹介されていて、それをテレビでも活字でも目にした記憶がある。荘子の荘周は、どんな死に際だったのか? やはり、子弟たちと会話をしながら死んでいったらしい。

弟子たちが手厚く葬ろうとすると、荘子は言った。

「私にとっては天地が棺桶で、日月が一対の碧玉、星々が玉飾り、万物が私の死出の旅への贈り物なのだ。私の葬送の道具はなんて立派なんじゃろう…この上、何が必要なのだ?」

すると弟子たちが

「カラスやトビが先生の遺体を啄みはせぬかと心配なのです」

と言った。すると、荘子は

「地上に晒せばカラスやトビの餌になり、地下に埋めればケラやアリの餌になる。あっちの餌を奪ってこっちにやるのは、えこひいきじゃないのか?」

と答えた。不公平な心で公平にしようとしても、その公平さは真の公平さではない。確証ないものに基づいて検証しようとしても、その検証には正確さはない。知恵の利く者は智恵に振り回され、精神の自然さを全うする者こそが確かな検証をものにする。知恵の働きが精神の自然さに及ばないのは、古くからのことだ。なのに愚者たちは自分の知見を恃(たの/当てにして)んで、人為の境地に没入し、その成し遂げた結果といえば的はずれ、いやはや何とも情けないことだ。
(荘子「列御寇篇」)

これが荘子(荘周)が残した最後の言葉であった、と。

なるほど、荘子らしいなぁ…と思うと同時に、やはり、これは華厳経の明恵を巡っての、それを想起させる。明恵は生きたまま、狼がいるという森に入ってゆき、狼に食べ殺される事が、悟りの境地だと考えたのだ。「自然に還る」という仏教の奥義であり、故に即身仏信仰などと繋がっている。荘子の方はというと「鳥に食われようが虫に食われようが自然に還ることには変わりないじゃないか。鳥に食われぬように埋めるというのであれば、それは狄燭慮平さではない瓩犯歡蠅掘知者は知者であるが故に自らの知に振り回されるのだ」、「天地が自分の棺桶で、太陽と月と星とに見送られて、これ以上、葬送に何を望むものがあろうか?」という。葬儀に豪奢な飾り立てなど要らぬという荘子流が今わの際まで徹底されていたのかも知れない。


「荘子」の書き出しは「逍遥遊」篇であり、平たく言えば「人生とは、なにものにも束縛されることなく、自由気ままである事が望ましいじゃないか」と教えから始まる。人生とは死ぬまでの生の営みに過ぎないだから、束縛されたり、何かに振り回されてはつまらない訳ですね。遊べ、と。この辺りは逍遥遊篇よりも、秋水篇に見える「泥に尾を引く亀」の逸話の方が面白い。三国志に登場する諸葛亮や龐統といった古代中国の賢者は、中々、重用に応じてくれない。同様に、この荘子の荘周が、そういう人物であった。

非常に短い一節にまとめられている。

荘子が釣をしていると、そこへ楚の国の王の使いである二人の大夫(高級官僚)がやって来て言った。

「我が国の事を万事、荘周先生にお任せしたいと願っております」

と申し出た。荘子は釣り竿を捧げ持ったまま、返答する。

「聞けば楚の国には神聖な亀がいて、死んでから三千年も経つのだとか…。王はそれを帛(きぬ)で包んで箱に収め、霊廟で保管されているそうですな。ところで、その亀は死んで甲羅を留めて、大切にされることを望むでしょうか? それとも、生きて尻尾を泥の中に引き摺りながら遊ぶことを望むでしょうか?」

二人の大夫は

「そりゃ、生きて尻尾を泥の中に引き摺りながら遊ぶことを望むでしょうな」

と答える。すると、荘子は、

「お帰りなさいませ。私は将に今、尻尾を泥の中に引き摺っているところなのです」

と言って、その誘いを断った。


この逸話に趣深さを感じ取れるかどうかが問題でもあるのですが、福永光司の著書の中には「泥に尾を引く亀」という具合に引用されており、確かに印象深い逸話だよなって思う。この非常に短い話の中に、荘子の哲学「逍遥遊」が凝縮されている。秋水篇は荘周自身の書いたものではないだろうというのが定説ですが、瑞々しい表現で語られているのは秋水篇の方かも知れないと思わせる。その比喩の泥臭さに味わいがある。

当時の楚の国では、亀の甲羅で亀卜のような儀式があった為、亀の甲羅は珍重されていた。転じて、死して大事に扱われるよりも、泥の中を這って生きることの重要性、更に転じて、死ぬよりも生きることの大切さ、士官して死物のように生きるのではなく、いきいき、のびのびと自由な存在で在ることの大切さを説いている。

Eテレ「心の時代」には、「クマさん」の愛称で親しまれ、かつては「笑っていいとも増刊号」に出演していた篠原勝之さんがゲストでありました。この中で、印象的なシーンがありました。蓮の葉の上に水滴を垂らし、その蓮の葉の上で水滴を転がし、クマさんが

「これが華厳経の一即一切・一切即一というやつだな。これが宇宙だってんだ」

と、にこにこしながら語っている。何やら山奥にアトリエを構えてゲージツ活動をしているといい、自作の小さな池には、東大寺で仕事をした際に分けてもらったという白い蓮が浮かんでおり、その池の泥をすくって、別に陶芸をする訳ではないが茶碗を焼こうとしているという話の中で、飛び出した言葉でした。

やはり、映像というのは説得力を持っているかも知れない。さりげなく、そうしてみせただけだったのですが、蓮の葉の上を転がってゆく水滴は、形も不安定にして陽光を反射している。そして、そこで説明されている事は、一微塵の中に宇宙が在り、一瞬の中に永遠が含まれているという教説なのだ。

思い出して、中村元著『現代語訳大乗仏典5〜「華厳経」「楞伽経」』を開いてみると、次のように記されている。

無限に微小なるもののうちに無限に大きなものが存在している、そうして一切の事物は相互に連関しあって成立している、と説くのが『華厳経』の究極の趣旨だといわれています。この趣旨をいろいろの表現や語句を用いて説明しているのです。

新聞広告を見る限りでは、昨今は親鸞や歎異抄が商業的にプッシュされているような気がしますが、言われてみれば、仏教もしくは大乗仏教の大きな大きなテーマ、核心そのものであったような気がする。中村元の解説を摘まみ食いしてしまえば、この「華厳経」によって、世界の相互連関を示しており、これが盧遮那仏(毘盧遮那仏)の話でもあり、光輝くもの、万遍なく世界を照らすもの、その世界観を示したものである。

「一瞬の中に永遠が含まれている」というのは、「オウム真理教」という名称の【オウム】が、それを意味していた。「オウム」という音、その音の響きの中に物事の起点から終点までの一切が含まれているというような意味であった。(かの麻原彰晃は、中村元のテキストを読んでいたとされ、確かに仏教やヨガなどから、あのカルト教団をつくり上げていた。)

この「一瞬の中に永遠が含まれている」という見立てが、中々に興味深い訳ですよね。時間と空間というが、実は空間が無ければ時間も存在しないという。なので、教理としての「一即一切・一切即一」というのは、超超巨視的な視座で宇宙を見立てている事になる。大大大大の50乗ぐらいのスケールの大巨人の鼻水から宇宙が生成されていたとしても、その中の宇宙の中の小さな星の小さな島の小さな町で生まれ生活している者に理解できる訳がない。また、そのレベルの巨視的な視点からすれば我々が認識するところの1年であるとか千年なんてのも、一瞬の内の一瞬だという事になる。なにしろ、起点から終点までが巨視的に視れば一瞬になってしまうのだ。

改めて、中村元の著書に目を通してみると、仏教の初期段階からあった世界観であり、この華厳経そのものはインドでつくられたと思われ、それが中央アジアを通って中国へ伝わり、漢訳されたものが朝鮮半島を経由して日本列島に渡ったものと考えられるという。これが東大寺の毘盧遮那仏であり、ヴァイローチャナである。

ところが、大乗仏教として説かれたという後半になると、龍樹(ナーガ―ルジュナ)が登場する。この龍樹は、西暦150〜250年ぐらいの人物であり、やはり、中村元は龍樹を「中国神仙思想をベースにした一派」として別の著書『龍樹』で触れている。つまり、古代インドが発祥とはいうものの、華南地方の神仙思想が2世紀か3世紀の頃には影響を与え、その完成度を高めているのだ。これによって中観派が確立されますが、何故、そうなったのかというと、この中観派によって「世界は相互依存によって存在している」と説かれるようになり、大乗仏教の礎になっているという。

長いという観念は、短いという観念に依存して成立し、また短いという観念は、長いという観念に依存して成立する。作用は作者によって成立し、また作者は作用になって成立している。悪の否定によって善が成立し、善の否定によって悪が成立している。以上のようなことを、ナーガールジュナは『中論』のなかで説いたのである。

つまり、原始仏教の持っていた法界縁起説といったものの基本的観念が、この中観派の哲学において理論化され、明確化されたと解説している。

これは驚くべき発見かも知れないなと思う。既に、壮大な話なのですが、「長いという観念は短いという観念に依存して成立している」といった、この言い回し、相対主義の証明をしたのは、まさしく「荘子」の世界なんですね。荘子を著した荘周自身がオリジナルかどうかも定かではありませんが、荘周や龍樹の生存年間以前に華南に、その哲学が登場していたって事だよなぁ…と。

まぁ、左翼思想の中にも「大きい石がなけりゃ、小さい石もないんじゃ!」という理屈は登場しますが、その相対主義を説く理屈が太古のアジア、おそらく華南地方に登場し、巡り巡って聖武天皇の時代に日本に洗練された形で入ってきている。道教として読み解けば、ホントは「天照大御神」も毘盧遮那仏と同じものを指している。

「和を以て尊し」とか「あまねく光で照らしましょう」が元々は日本国の根本理念であり、哲理としても誇るべきものであったように思いますが、現在ともなると…。



「心の時代」という固い番組でしたが、若かりし日のクマさんは絵本作家になろうとして、自作の絵本を十冊ほど風呂敷に包んで新宿界隈を歩いて飛び込みのセールスをしていたという。絵本を手にしておきながら、中には「つまらない」等と酷評する者もあったので、しばしば喧嘩になったが、

「今にして思えばよ、ホントは、あの頃のオレは絵本を持ったゴロマキだったんだな。着流し姿で坊主頭でよぅ、絵本を抱えて現れて、絵本を買えって言われてもな」

と相変わらずの調子で、笑いをとっていましたな。

靴下を履いたら何やら異物が混入しており、靴下を抜いで確認してみたらカメムシさんでありました。お、お、怖ろしい。もし、ツブしにいったなら毒ガスを噴射されてしまうのかも知れない。今、台風やら大雨やらが過ぎ去ったタイミングでカメムシが近所を飛び回っており、つい先ほどもクルマの窓にカメムシが…。こういうカメムシにどう対応するのかというと、私の場合は蚊であればツブしに行くのですが、カメムシの場合はティッシュやら指にたからせてから、窓を開けて、なるべく戸外に逃がすように対応している。クルマの窓に来てしまったカメムシは、指で弾き飛ばそうとしたら、ほとんど同時に飛び立ってくれましたが…。



『抱朴子』(ほうぼくし)とは西暦317年に葛洪(かっこう)なる人物が著わした著書で「古代中国の百科事典」という性格を持っているという。神仙思想と老荘思想とを融合し、道教の骨格をつくったかのようにも評されており、やはり、興味深いのは仙術について詳しく言及してある事であるという。具体的に、これこれこうすれば丹薬がつくれると言われているという具合に記してあったりする。その仙術に係る記述の多くは、現在ともなると、いわゆる迷信の話でもあるのですが、思想といった観点からすると、重要な内容があるのかも知れない。

何故、「抱朴子」と呼ばれているのかは著者の葛洪の「【朴】を愛した寡黙な人柄から」であるといい、周囲の人々が葛洪の著書を「抱朴」と呼び出したので、葛洪も自ら「抱朴」と称したという。解説には【朴】ではなく【樸】が使用されており、要は「派手なことはせずに地道に研究を続ける寡黙な人」のようなニュアンスとなる。「デクノボウと呼ばれたい。デクノボウのように見られたい」と言った宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」的な愚直一直線の人というニュアンス。

仙術を肯定的に語っている内容なので、そこらへんを割り引く評が一般的であろうとは思いますが、神仙思想が老荘思想や、墨家、儒家とも交雑しながら、どのような思想体系になっていたのかは、それなりに興味の沸く部分であると思うんですね。そこら辺が分かるのが、この『抱朴子』からも知れない。基本的には「神仙思想→老荘思想→道教」という線が主軸となりますが、これは、本来的な東洋思想というものが、どういうものであったのかを明かせる鍵となる部分でもある。

深い山中で全身が毛に覆われている裸の人を、或る軍隊が目撃したという。捕えてみると、全身が毛に覆われている人の正体は、女であったという。女が言うには、昔は宮中に仕えていた女官であったが宮が襲撃されたので逃亡し、以来、山の中で生活しているという。計算すると、その女は二百年も山の中で生きていた事になる。捕えられた女に穀物を与えたが、すると嘔吐してしまい、中々、穀物食を受け付けなかったという。その女が人間界に連れ戻されてから、しばらくすると全身に生えていた毛が抜け落ちたが、二年ほどで死んでしまったという。この記述などは、狼に育てたれたというアマラとカマラ、つまり、狼少女の逸話と酷似していて驚かされる。アマラとカマラも生肉しか食べられなかったという具合の神父の観察日記があり、人間界に戻ってからは、あまり長生きできなかったかのような経緯であった。古代にも似たような事があったという事かと知ることができる。

又、これを抱朴子が、どのように論じているのかというと、全身に生えていた毛が抜け落ちた事に着目して論じている。二百年生きていたとか、全身に毛が生えていたという箇所、その伝承が真実なのかどうかは疑わしい箇所でもある訳ですが、抱朴子中の思想では、そこに疑義を挟むことなく、仮説を続け、二百年も生きていれば人であっても全身毛で覆われる事があるらしい、と論立てて論考するのだ。故に、不老不死の霊薬はあるのか、どうすれば黄金をつくれるのかとか、鳥のように空を飛べるようになるにはどうするのかとか、東の果てには神仙郷があるとか、仏教で言うところの成仏や即身仏にも似た「尸解」(しかい)のような概念が生み出されてゆく。この「尸解」については実は聖徳太子の逸話に似たものが紹介されており、道で行き倒れになっていた乞食があったが、後で確認すると乞食の姿形がなくなっており、道教上の尸解の逸話が紛れていると指摘されている。

究極的には、この系譜の思想は、荘子を厳格に抽出すれば実存哲学になるが、その荘子の論理を延長し、拡大解釈を続けてゆくと、或る種、万能的理想論に到達する。これは『ソフィーの選択』で使用されているヘーゲル批判の言葉に換言すると、「世の中は思い通りになるというロマン主義」という事にもなる。

抱朴子の冒頭では、「鶴や亀は千年生きるというが、それを目撃した者は居ませんね?」という疑問に対しての返答から始まっている。抱朴子いわく「そりゃ誰も千年も生きている者はいないんだから目撃なんてした者が居る筈はないさ」という具合である。それに続けて、古くから伝承、つまりは迷信も多く含まれる古伝を列挙してゆくというスタイルで形成されている。だから日本人の言う所の妖怪も実在するかも知れませんな、という具合にしたままに、その系統の枝葉を伸ばしてゆく事になってしまう。

又、この師と師弟との会話からなるというのは古今東西、その型は踏襲されており、ホントは「ハーバード白熱教室」あたりも、その犒伸瓩鯢活させた事の意義が大きい。偉い人の教えを盲目的に覚えて高得点をたたき出すという知の系譜ではなく、「この問題、どう考えるかね?」と一緒に考えさせてゆく系譜の知が、どうも東洋でも西洋でも知の系譜だったのだ。

「尸解」の話に戻ると、生きたまま死ぬ事は有り得るのか、その逆に死んだまま生きる事は有り得るのかという問題にもなってくる。ここがハッキリとしていれば、死者の霊魂を慰める意義もなくなるかも知れない。おそらく、今日的な科学主義の一派であれば死後には精神活動は終焉するのだから当然に死霊なるものは存在しないと言わねばならない。しかし、科学を盲信している現代人もまた、洋の東西を問わず、死者の霊魂を実際に慰撫する事を正しい事と認識して形成されている。又、現代社会になってくると、「こんな状態なんて、生きる屍みたいなものじゃないか」という声が上がり、やたらとゾンビがカルチャーとして絶大の地位を占めている。


抱朴子は仙術について、凡そ、次のように説明している。

仙術は静寂無為にして、その形骸を忘れる事を欲するものである。しかし、人君はけたたましく鐘を打ち鳴らし、太鼓を打ち、魂を驚かせ、心を動かし、車を走らせ、馬を走らせる。百技万変して精力を失い、耳を塞ぐ。仙法は、うごめく虫までを愛し、あらゆる生き物の気を害さないようにすることを欲す。人君は、怒れば誅し、流血沙汰となり、実際にそうした血なまぐさい事柄が後を絶たない。しかし、仙法は…といった具合に続く。

これなどは確かに老荘思想が色濃く反映されており、現世に対しての厭世観からなる遁者の哲学であることが分かる。と、同時にこれ、【アヒンサー】にも似ていると気付かされる。マハトマ・ガンジーのバックボーンにジャイナ教があったとはよく説明されるところですが、結構、高いレベルで生き物全般に対しての不殺生・非暴力、そして共感・同情を土台に組み立てられている。牛肉や豚肉を食らうというが、それをするには牛や豚を屠殺しなければならない。それも現実として消化している既成の文明であり、それが主流であるが、この思想や教理の根底には本来的には、当たり前の事として、そういった事情が犧澆覘疚ですね。理想と現実というが、理想と現実の中間の問題だ。出来る事なら、余計な殺生はしたくないし、暴力の行使だってしたくはないと考えている者は潜在的には多い筈なのだ。「菜食主義」などは、これの一類型なのでしょう。

引用すると、

仙法は臭腥(なまくさきもの)を止絶し、糧を休め腸を清うせんことを欲す。而かるに人君は、肥(こえたるうし)を烹(に)て、腯(ふとりたるぶた)を宰(に)て、群(おほくの)生(いきもの)を屠割(さきころ)し、以下略

と記してある。

ここまでくると、古来から「仙人」と呼ばれてきた何かが、「霞を食べて生きている」とする仙人像についても、想像が及ぶことになる。理想を究極的に編み上げていったとき、生きたままに宇宙と合一(実は梵我一如と酷似)し、現世を捨てて霊山に入り、霞を食らって意のままに生きることを至福と考えた何かなのだと合点できる。

翻って現実生活に戻る。豚バラ肉の入っていない野菜炒めは、ちょっと食えたもんじゃないよなって考える。どこかで養豚された豚が殺されて、スーパーマーケットの精肉売場に商品として並べられているんだから仕方がない。又、迷惑なアリに対してはアリの巣コロリを用いて絶滅せしめ、迷惑な蜂の巣に対しても強力殺虫剤スプレーを夜陰に紛れて噴霧し絶滅させる。しかし、現実問題として、殺す事もないカメムシについては、逃がしてやってよかったじゃないか的な感慨で生きているのが、現代人の「素」というところであろうなって思う。

アフィリエイトを貼ってありますが、おそらく入手困難であるし、そもそも「読み下し文」のみなので…。
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『淮南子』(えなんじ)とは、紀元前2世紀に編纂された猊寛併典瓩箸い辰仁爐い僚颪如∧垰爾靴燭里淮南(わいなん)王であった劉安(りゅうあん)とされている。現在の江蘇省を淮南(わいなん)と呼び、この前漢時代は皇帝の血を引く者は諸侯となって赴任先の国で王となり、その国を統治していた。(郡国制や郡県制といった時代であり、まだ完全に中央集権体制的な中華思想による冊封体制が確立していなかった。)

この劉安も庶流であるが高祖の孫に該当し、この『淮南子』を編纂したが最後は謀反の罪で自殺に追い込まれたという。この淮南子には春秋戦国時代の諸子百家の思想が反映されており、特に後の道教に集約されてゆく段階で、「先の聖帝に理想を学ぶべし」という黄老思想が強く反映されていたという。この黄老思想といのは老荘思想と内容的にはダブっており、その表記が「黄帝」の【黄】に「老子」の【老】になっているものと推測できそう。つまり、聖王による徳治を理想の政治体制としていた思想であり、或る意味では現在も天皇制を戴いている我々日本人にとっては、非常に馴染み深い思想でもあると思う。

では、紀元前2世紀なんていう時代の『淮南子』はどのような事を述べていたのか? 以下、池田知久編『訳注「淮南子」』(講談社学術文庫)の現代訳を引用しながら――。

(前段で神農の治世では、国境外にまでその名声は響き渡っていたので服従しないものはなかったと、神農の時代の治世を語った後、次のように展開している。)

ところが末世の政治は違う。上は搾取することを好んで際限がなく、下は貪欲に荒んで謙譲を知らず、民は貧困のために争い合い、仕事は労力を費やすばかりで成果が挙がらない。やがてずる賢さが生まれるに伴って、次第に盗賊が出没するようになり、上下が互いに怨み合い、命令も実行されなくなった。執政官から役人たちに至るまで、誰も道に立ち返ろうと努めず、根本に背き末梢にこだわり、恩地を捨て刑罰を増やして、このようなやり方で政治を行おうとしているのだ。『淮南子』巻第九「主術」

これは現代訳なので、そのまま読めるかと思いますが、令和の現在でも結構、当て嵌まりかねない考察がされているのが分かる。これらを嘆き、【末世】という言葉を使用して紀元前2世紀には既に認識していたという事でもある。上は税を上げる事に抵抗が無くなり、その上限を失い、下は貧困の為に競い合い、そこでは貪欲に欲と欲とがぶつかるので謙譲などというものはなくなる。そうなってくると足の引っ張り合いになるので、仕事量ばかりが増えるが成果が出なくなる。やがて、狡賢い知恵が生まれ、盗賊や詐欺行為が跋扈するようになり、上と下とが互いに憎しみ合う。(このクダリなどは正しく現状の「分断」を想起させる。)

もう一つ引用します。

法というものは、天の降したものでなければ、地の生んだものでもなく、人間社会の中で発生しながら、かえって人々が自らを正す手段となるものである。それ故、正しさが己にあるからといって、他人を非難してはならず、正しさが己になければ、他人にそれを要求してはならない。下に対して設けた法は、上においても廃棄せず、民に禁じたこと、君主自身も行うことができない。いわゆる亡国とは、君主がいないのではなく、法のない国のことである。変法(法をしばしば変えること)とは、法がないのではなく、法があっても実行されないため、法がないのと同様になった時に生じる事態である。それ故、君主が法を作る場合、まず自ら模範・モデルとなるべきであって、そうしてこそ命令が天下に行なわれるようになるのだ。『淮南子』巻第九「主術」

この説明は感心する事が多いですかねぇ。この淮南子の時代の後に中央集権体制が強まってゆき、また、儒教が官学として国教的な地位を占めていくという経緯を東洋は辿る。だから礼節を重んじるべしとか、忠義云々という方向性が美徳となり、そのように儒教圏の国々は教化されて歴史を歩むことになる。

しかし、その儒教的な締め付けを批判していたのが老荘思想、特に『老子』であり、この老子は道教になると老上太君として神格化されてゆく。礼節は貴賤を分ける為というけれど、礼節をわきまえる必要性もない者が貴賤の貴のつもりになって、傲岸不遜に陥る事を指摘できるワケですね。

そもそも礼というものは、尊卑・貴賤を区別するための手段であり、義というものは、君臣、父子、夫婦、朋友の間を結合するための方便である。ところが、現代の礼を行うものは、うわべは恭(うやうや)しいが実は相手を傷つけ、義を行う者は、恩恵を施して有徳者を気取っている。そのために君臣は互いに非難し合い、親兄弟は憎み合うのであるから、これは礼儀の根本を見失ったものと言わなければならない。

それ故、成し遂げれば成し遂げるほど咎めを受けることになるのだ。一体、水が沢山集まると、共食いをするような魚が生まれ、土が沢山集まると、互いに食い合う獣が生まれ、礼儀が飾り立てられると、詐欺・邪悪の輩が生まれる。灰を吹きながら目に入らないことを望み、川を渡りながら水に濡れないことを望んでも、それは出来ない相談である。
『淮南子』巻第十一「斉俗」


この前漢時代というのは、先立つ春秋戦国時代の百家争鳴の思想が生きていたので、儒家の思想だけではなく、墨家も道家も存在していたので、結構、手厳しく批判も為されていたよう。しかし、それが災いして、この『淮南子』を編纂した劉安は自殺に追い込まれている。しかし、よくよく考えてみれば、これは東洋文明・東洋思想に在っては非常に貴重な財産であり、実際には儒教も道教も仏教も溶け込み合って東洋思想になっているが、この聖なる帝による徳治を理想とするという部分は、日本の歴史にあっても、或いは天皇制そのものとも関係が深いと認めざるを得ないのがホントであろうと考えられる。

これは現代社会に投影したときに、特に生々しいと思う。礼節を、忠義をわきまえろというが、当の御上やら上司やら先輩が礼節を尽すだけの価値を見い出せない場合はどうするのか…。その硬直した教えの欺瞞を突いている訳ですね。勿論、善は善、悪は悪という次元では構成されておらず、善や悪にしても相対的な立場によって主張が異なる事、つまり相対主義で論じられている。おかしな発言ばかりをしている昨今のテレビの中の専門家よりも、遥かに高い次元の知性で物事を語っているよなって思う。

引用文を一つ戻りますが、法治主義についても同じ事を思う。「悪法もまた法なり」という。そうであれば現在の香港デモに係る問題で、法律的に覆面は禁止されたのだから覆面をすべきではないという結論になる。しかし、違うでしょう? ホントは人為的な法律というのは人為的な法律であり、しかも為政者が自分に都合のよいように法律を定めてしまう悪法というものが現実的に存在している事を示している。法は天が降すものでもなく、地が生んだものでもなく、実は人間(じんかん)の社会が、これは御上が人為的につくるものではなく、世俗社会の価値観から生まれて来るべきである事を説明しているように思う。なので人の知恵がつくった法、それも世俗社会の価値観にそぐわないで導入された法というのは、かなり怪しい価値観なのだ。違法行為をつくれるし、敵対勢力を違法状態にして警察力や軍事力で排除するという狡智にも繋がってしまう。紀元前2世紀に、これを論じている。

現在、日本に限らず、世界中がおかしいらしい。22日付の読売新聞6面(国際面)中国では習近平政権では、とうとう記者に対して思想試験を義務付け、その試験で80点以上の合格ラインに到達していない者には取材活動を禁止するという制度を導入しようとしているという。まぁ、言ってしまえば、完全に教化という名の洗脳であり、或る種の思想狩りを模索しており、「思想の自由」を完全に強姦しに来ているのが分かる。天安門事件なるものは無かった事として、国内を統治している。こんな事が21世紀にあるんだよなぁ…。

「共産党一党独裁の中国の事だから今に始まったことではないだろう」と言いたいところですが、英連邦の一角であるオーストラリアでは現在、報道機関および記者に対して警察が捜索に入るなどし、内部通報者の刑事訴追も相次いで発生しているという。(公共放送ABCのシドニー本部に本年6月、警察の捜索が入り、捜索は記者の自宅にまで及んでいるそうな。)発端は公的機関の内部情報を伝えた報道、それに対しての報復だという。そして、とうとう21日、オーストラリアの主要新聞各紙が黒塗りだらけの新聞を敢行するというデモンストレーションを行ったという。モリソン豪首相は「ジャーナリストであっても法律を無視することはできない」などと述べているという。

「自由」という概念が、ホントに世界同時多発的に危機に瀕しているって、やっぱり、世も末って事じゃないんだろか。報じてはいけない事柄が多い自由主義陣営ってのは、もう、歴史的な役割が終わってるって事なんじゃないの?

神仙思想から道教へと言っても、なんだか飛躍しているように思えてしまうので、太平道と五斗米道について。

太平道とは、五斗米道と共に道教の源流となったと解説されている。そして、その太平道とは、2世紀末に「黄巾の乱」を起こす。その「黄巾の乱」が起点となって、三国志の世界が始まった訳ですね。黄巾賊を対峙する為に、劉備と関羽と張飛が桃園の誓いをし、曹操も黄巾賊退治で名を上げて勢力を拡大してゆく――。

では、その黄巾賊の首領とは誰であったかというと妖術使いの張角(ちょうかく)であり、その張角をリーダーとする黄巾賊が崇拝していたものが、太平道であった。

伝承に拠れば、この太平道の源流は後漢中期の干吉(かんきつ)なる人物に遡るといい、この干吉が神と化した老子、つまり太上老君(たいじょうろうくん)から「太平清領書」170巻を授かり、この干吉が太平道という教えを開き、干吉の弟子が時の皇帝(順帝)に書を献上したが無視されたという。その頃、鉅鹿(きょろく/河北省藁城県)出身者である張角が呪術を行なうなどして太平道を現在の山東省、河北省に広めたという。張角は、この頃、自らを「大賢良師」と名乗っていた。

大賢良師・張角は8人の弟子を4方へ派遣して太平道を広め、十数年の間に信徒数が十万にも達したという。如何なる活動が行われたのかというと太平道は貧民を救済した。それによって太平道はたちまちの内に強大な組織になったという。黄巾の乱には多くの農民が参加していたとされる。

張角は信徒を36のグループに分けて、それぞれ将軍を置き、その集団を統率させた。やがて、この張角は後漢王朝打倒という目標を掲げる。張角率いる太平道に対して後漢王朝の弾圧が始まった事もあり、西暦184年2月、張角は「天公将軍」と自称し、配下の将軍らを一斉蜂起させた。これが黄巾の乱であった。

既に後漢王朝の衰退もあったが、この黄巾の乱によって各地で豪族が挙兵するなどして、西暦220年、実際に後漢王朝は終焉を迎え、中国は三国時代へ突入する。

妖術使いであったともされるカリスマ・張角は黄巾の乱を起こすも、184年末に病死。張角の死によって黄巾賊の勢いは弱まり、黄巾の乱は電撃的な一斉蜂起から約1年後に終結した。


一方、蜀(しょく/四川省)では五斗米道が発足していた。五斗米道は伝承に拠ると、西暦142年、成都の郊外にある鵠鳴山(こくめいざん/また鶴鳴山とも)にて張陵(張道陵)が、神と化した老子すなわち太上老君の神勅を授かった事に始まるという。

この五斗米道は、元々、自称は「正一盟威之道」であったという。老子の哲学を用いながら祈祷、療病し、その際に米五斗を奉納させていた事から「五斗米道」と呼ばれるようになった。張陵の子が張衡(ちょうこう)であり、張衡の子が張魯(ちょうろ)である。信徒は『老子』を暗誦したといい、また、「義舎」という無料宿泊所を駅のように各地に設け、そこに米や肉などの食料を置き、貧しい旅行者に分け与えたという。

この五斗米道は張陵に創設され、張衡、張魯によって教説や教団組織は整備され、強大化。張魯の時代、華北に一大政治権力圏を構築しており、益州牧の劉焉は張魯を「督義司馬」という役に任じて事実上の独立した宗教王国を漢中(かんちゅう/陜西省)に形成していた。張魯は政治的にも軍事的にも優れていたが、西暦215年、魏を旗揚げした曹操に漢中を攻められ、張魯は魏の曹操に降った。

張魯の宗教王国は、西暦215年で終わり、その後、子孫は江西省の龍虎山に移り、五斗米道も天師道と名称を変えて存続した。5世紀に北魏の寇謙之(こうけんし)が張魯の時代の教法を整理し、伝統的神仙思想と仏教とを取り入れて、新天師道を設立。これが「道教」という宗教の成立であるという。

張陵、張衡、張魯を「三張」と呼ぶ、また、この古い道教の下地になったものを「三張道教」とも呼ぶ。この三張の家系は台湾で中国道教会の張天師として存続しているとされる。(2006年頃には第76代張天師が存続していたらしく、又、第64代の張天師は「源先」と確認できる。)


黄巾の乱につながった太平道と、張魯の宗教王国につながった五斗米道との関連については諸説あって判然としない。殆んど同じ時期に中国大陸の東と西とで、共に神格化した老子・太上老君と遭遇したという人物から、その歴史がスタートしている。また、教理や教義に仏教の要素が混じっている事は確認されているという。

福永光司著『道教と日本文化』(人文書院)には、敦煌から三世紀の写本『想爾注』(そうじちゅう)が発見されたが本来の『老子』の解釈とは異なる宗教的な解釈が行われていた事が確認できるという。更に三世紀半ばの『無量寿経』の漢訳が発見されており、そこには【老子】と【道教】という言葉が頻繁に使用されているという。福永の推測に従うと西暦50年頃にインドから入ったものの漢訳が行われており、漢訳する過程で中国土着の老荘思想もしくは道教的な呪術要素が加わって漢訳されたものという。

また、多少、福永に依存すると山東・河北に起こった張角の太平道が、西へ西へと勢力を伸ばしていったとし、それが張陵・張衡・張魯の三張道教になったと読める説明をしている。

張角の太平道の宗教一揆が、また現在の山東・河北を中心にして起きています。それを引きついでそれと同じやり方で、勢力を西のほうへのばしていくのが張陵とその子の張衡、その孫の張魯のいわゆる三張道教です。『道教と日本文化』51頁

中国大陸の西と東で、2世紀半ば、太上老君が神託を下したかのように伝承していますが、確かに元は一つで、伝播したと考えた方が自然な解釈なのかも知れませんね。共に順帝の時代に太上老君が現れたとしており、黄巾の乱は霊帝の治世下で起こっており、傍目からしても共通点が多いような感慨を受ける。

また、この「無量寿経」を巡る一連は、日本の阿弥陀信仰、浄土信仰という意味では繋がっている可能性も示唆されている。本願寺信徒らによる一向一揆が荒れ狂った日本の戦国時代がありますが、れこは浄土信仰。その一向宗が最も重んじていた教典『仏説無量寿経』は張魯の時代の五斗米道の教典であった『老子想爾注』と用語・思想表現ともに共通の基盤上にあるという。つまり、根っこが一緒の意であり、漢訳仏典であったが故に、道教用語が鏤められていたのが日本の「無量寿経」であるという。


現在、香港デモの行方を注視している我々がある訳ですが思えば、『荘子』は道教の体系では『南華真経』という教典になっているようで、中国南部、南部といっても海洋文化があった沿岸部も含めてですが二千年ぐらいの昔から神仙思想をベースにして老荘思想としての哲学やら不老不死や理想郷幻想、シャーマニズムに、儒教、仏教が入り交じって発展している。

中々、説明も難しいのですが、孔子の儒教色の強い中国文明が「秩序こそを最も重んじるべし」という思想なのに対して、老荘思想は「そういった秩序もまた自然の中にある。人為的な秩序など虚妄だよ」と説く。儒教が直線的であり、剛を尊ぶの対して、道教は円環的循環的であり、剛だけでは駄目で柔を尊ぶ。

「秩序をこそ、重視すべきなのだ」では、秩序の為に軍事力や警察力を投入して鎮圧、秩序を保つ正義が出来上がる。また、秩序の為に情報工作も情報統制も出来てしまうのがホントなのだ。ヒント、香港デモってね。

福永に拠れば、孔子は天地人で世界を語るが、老子・荘子は天地水で世界を語るという。【人】と【水】とが入れ替わっている訳ですね。意訳するなら、人なんて大したことはない。水のように変幻自在にして流れてしまうようなものこそ、理想であるとする。雲や霞といったものが尊ばれますが、考えようによってはモナド論でもあり、実際に漢字の【道】や【気】は【monado】と英訳されることがあるのだという。人も動物も、また、草木、生命を持たぬ石や砂さえも同じような自然の一部である的な宇宙観であるという。

日本映画専門チャンネルの山田太一劇場は、NHKで放送されたらしい「日本の面影」なるドラマに切り替わりました。またまた、山田太一に溜め息を漏らすことになりました。モチーフにしているのは、ラフカディオ・ハーンであり、つまりは小泉八雲なのだ。

個人的には高校三年とか大学一年の頃に、小泉八雲の「怪談」を通して日本文化を考えられるじゃないかと思いついたものでしたが、とっくの昔に山田太一に描かれていたのだなぁ…的な嘆息。で、ドラマでは新聞記者だったラフカディオ・ハーンが小泉八雲になるまでを連続4回のドラマにしていたよう。山田太一は社会風刺は絶妙であるが、そちらは書かないのだろうと思い込んでいたんですけどねぇ。

第二話まで視聴したところで、第一話を視聴した限りでは地味なドラマになりそうだと感じていたのですが、第二話になってから、怪談話が相応のクオリティで映像化されていました。檀ふみ演じる小泉セツが、ラフカディオ・ハーンに怪談話を聴かせる。怪談話を聴かせてくれというハーンはコンプレックスから、白人に嫌気を指しており、今、視聴すると白人は白人なりにコンプレックスがあって、そこで日本のオタク文化が救いになっているという構図とダブる。そう、なんだかラフカディオ・ハーンという人物は繊細な白人ジャーナリストであり、周囲からは「君はジャーナリズムから逃げてばかりいる。幽霊の話に夢中になったり、日本にのめりこんだり…」と責められている中での来日なのだ。

第一話の冒頭シーンは、ポルターガイスト現象から。そして第二話のラストは、檀ふみ演じるセツがハーンに、とっておきの怪談を教えるシーンでしたが、なるほど、映像作品として面白い。しかも、ラフカディオ・ハーンというフィルターを通す事で、狷本の面影瓩鯢舛海Δ箸靴討襪△燭蝓△笋呂蝓∋嚇賃整譴箸いΦ嗚棆箸棒紊魎いてしまう。

「何故、怪談をバカバカしいと思うのか?」というのがハーンなんですね。当の日本人たちも同じであり、「幽霊話のような迷信なんて意味ないだろう。日本には合理主義が必要なんですよ!」と考えている。なので、希望に燃えている日本人は、ハーンの御眼鏡に叶わない。つまり、つまらない日本人なのだ。ハーンが求めているのは合理主義ではなく、伝統や歴史が持っている美意識に関心が向いている。イザナギ、イザナミの神話をギリシャ神話以上に面白いと感じる感性なのだ。そんなハーンが、出雲神話の本場である松江へやってきて、怪談話の収集を始める。

ハーンは松江で学校の教師となる。或る時、ハーンは「螢」という題材で生徒たちに自由に作文を書かせる。すると全員が全員、「螢雪の功」を引用して作文を書いた事で、怒り出す。油がないので蝋燭で書を読むことができない。だから螢を集め、それを袋に入れて、その螢の光で書を読んで苦学したという故事を全員が全員、挙げているのは、おかしいじゃないか、と。松江の同僚教師たちも、ハーンの指摘を受けて激しく動揺する。教育システムというのは、これなんですよね。正解を当てにさせるゲームになりがちであり、生徒は評価される作文を書こうとするから全員が全員、苦学を肯定し、その苦学の精神を作文に書く事で満足してしまう。それにハーンが怒る。そして、これらハーンの身の回りで起こる出来事が狷本の面影瓩覆里澄どんどん日本は日本らしさを失い、日本らしさを捨てて西洋化している事を暴きにかかっている。

苦学を美徳とするのも確かに日本らしさなのですが、しかも全員が全員、その故事を引用しているというのは確かに不気味ですね。しかも精神論に陥り勝ち。同調圧力が強く、そうなりがちなのが日本でもある。

そんな中でラフカディオ・ハーンは、合理的な説明はつかないが「実際に面白い」、「実際に怖い」という、幽霊話に興味を持ったのだ。それは日本の手鞠や人形、羽子板といった玩具類の装飾から、重箱のような漆塗りの調度品の象嵌技術やら陶磁器の絵付けまでもが美しい伝統美が「実際にあるじゃないか」と底で通じてしまうのだ。まさしく、日本の面影の話なんですね。仮に西洋の方法に拠るならば、工業で雛型をつくって大量生産システムになってしまう。

「日本の面影」というドラマは、津川雅彦やら下条アトムさん、或いは樋口可南子さんの若々しさから想像すると、80年代ぐらいなのだと思いますが、この問題を指摘するというのは大きな事だよなって思う。


先日、『荘子』の文庫本数冊(内篇、外篇、雑篇)をパラパラと頁を繰ったのでした。本ブログで「秋水篇」を引用する為だったのですが確かに外篇「天地篇」で、そんな話についての解説文を目にしていた。

「機械あるものは必ず機事あり、機事あるものは必ず機心あり」

という。これだけだと何の話か分からないと思うのですが、機械を用いるようになると人は必ず機械的に物事を処理するようになるの意であり、これを荘子の教えと解するならば、《機械を使用する者は心まで機械になってしまう危険性があるから用心すべきだ》の意であるという。これは、現代風に言い換えると、テクノロジーを操る者はマインドを蔑ろにすべきではないぞの意である。

アニメ「タイガーマスク」のエンディングテーマ「みなしごのバラード」は町田康さんのエッセイの中にも登場していたので、そこそこ広く認識しているものと思いますが、その歌い出しは、

♪強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんだ

と歌う。しかし、当然、それでいい訳ではないという心情で歌われている。強いだけではダメ、力があるだけでいいという話ではないと、そういう歌詞である。ただただ物理的に力があるとか、強いでは足りないと日本人は思考してきているんですね。何が足りないと考えているのかというと、やはり、マインド、心なんですね。

体育会系の人は「心・技・体」という。或る程度までは、その通りである。心とはマインドであり、マインドが伴なわない限り、芸術や美術、人々を動かす事はできない。ただただ、盛り上げる為のパフォーマンスうんぬんではない。心を動かすとか、胸を打つとか、それが伴なっていないものは完成品ではないと、この紀元前4世紀に南華に生まれた荘周は、既に、それについて説いてしまっていたのだ。伝説の横綱、双葉山は木彫りの闘鶏、つまり、「木鶏」のように泰然自若とした境地を目指していたが、その「木鶏」も出典は『荘子』であったりする。

道がある。儒教もそう説いている。しかし、道教では道は基本的には見えないものであると説く。むしろ、批判して「道」という概念を立てている。道は啓けてくるものであり、或いは誰かが歩くことで道になる。最初から道なんてものはない。アントニオ猪木が何故か引退セレモニーで、一休和尚の「道」を読み上げましたが、あの理解の道は、ホントはタオイズムからすると大正解である。「この道を行けばどうなるもか?」&「この一歩が道になり、その一歩が道となる」は、おそらく、大正解である。裏返すと、儒教系の人たちが説いてしまう「君には、この道しかない」という道は、老荘思想及びタオイズムからすると、間違った道の教えなのだ。

真っすぐな道があるとすれば、それは誰かが人為的にこさえた道である。本来、道とは曲がりくねっているものであり、絢香&コブクロが歌った

♪曲がりくねった道の先に 待っている 幾つもの 小さな光

はタオイズムに沿っている。また、絢香さんの「三日月」の歌詞のように一本道に分岐点があるのであればタオイズムに沿っているかも知れない。

何を言っているのかというと、元々は道などは存在していないのだ。どこをどんな風に歩こうが自由である。仮に不都合に遭遇して死ぬような場合でも、これもまた天命だよなと考えてきたのが、老荘思想の本義であっただろうなって思う。

これらを考えると、西洋文明とは如何に一神教的な一元論であるかに気付いてしまうんですね。「死=忌避すべきもの」だし、「合理的に大量生産をすべし」だし、どのようにやったって「うむむむ、ワシが納得いくまでのモノが完成しない」という職人技とか職人魂が存続できなくなってしまう。日本の伝統工芸みたいなものを支える土台そのものが、西洋型の現代文明では、あんまり望めない。物事を猴儉瓩蚤えるのではく、物を物として捉えてしまっている事に気付かされる。

実際、スマホを操作するようになると、スマホへの依存を深め、また、その利便性を当たり前のものだと思い込み始める。始めている。そうなる事で、また一つ、人間らしさというマインドを喪失している可能性がある。機械を機器を操作する者は、心までもを機械に感化されぬよう注意せよというのが、無用の用を説いた荘子の哲学だろうという事になる。無用のモノなんて、この世にはありゃしない、なんかの用があって存在しているものだと考える。

思えば、映画「男はつらいよ」等にも反映されていたと思う。ホントは最近まで日本は日本らしさを残していたというか、その面影を残していた。しかし、現在ともなるとホントは虚構じゃないのかと指摘できるようなグローバリズムこそが正しい事である、新時代の正義であるとして流布し、蔓延し、現在ともなると「正義マン」と呼ばれる人たちが声高に道を闊歩するようになっている。


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