どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 人間観察シリーズ

顔見知りであった高齢男性、ご近所では郵便局窓口でもスーパーマーケットの店員さんたちの間でも、ちょっとした名物なお爺さんだったのですが、年末年始の間に姿が見えず、警察沙汰に。

うーん、年末年始というのがネックで、その方を最後に目撃して、ちょっとした会話をしたのが、年末だったのか、或いは既に年明けであったのか、どうしても思い出せないという状況になりました。こーゆーものなのかなぁ…。その最後に会ったときには、いつもと異なる方向へ歩いていったので、「珍しいこともあるものだ」と感じたものの、それが年末の事だったのか年が明けてからの事だったのか、どうしても思い出せない。

年に何度も旅行に出掛ける人なので、きっと旅行したんじゃないのって、そちらの可能性があるとは思ったものの、この新型コロナで騒いでいる時に旅行というのも変か…。となると、どこかで倒れてしまったのかとなる訳ですが、そちらを考えると、この寒さだから、誰かしらに保護されたとか、そういう事しか有り得ない。

まぁ、何年か前に「体調が悪い」というので、クルマの後部座席に乗せて家まで送り届けた事があったものの、今年の大みそかから三が日にかけての期間は、外出している人も少なかったからなぁ…。パトカーも来ていたというから保護されていれば、ご近所には連絡は行っても良さそうなものですが、どこか国内旅行でも行ってしまったという可能性を待っている訳か…。

表沙汰にならぬ部分で、結構、こういうのってあるんですよねぇ…。昔だけど、お蕎麦屋の御主人がフタをされていなかった下水路に出前用のバイクごと転落、亡くなってしまい、急にお店も閉店してしまったんだけれども、ごくごく近い部分でしか死の真相は語られない訳ですね。ドブに落ちて死んだって、いいふらされるのも遺族は嫌だろうしねぇ。それと、理髪店の御主人の方はスナックで泥酔して階段から転げ落ちて亡くなったが、これは緘口令に近いような形になったのかな。やはり、カッコいい最期ではないので、色々と語り継ぐのは憚られる。ああ、私の祖父もバイクで転倒したケガが元で亡くなっているし…。

と、そんな事を思案する出来事があったのですが、その3日後に事態が判明しました。仮に、行き倒れ以外に何が考えられたのかというと、どこまで保護されて病院などに入院していたというシナリオがあるにはあったのですが、結果からすると、正月に体調が悪くなり、そのまま入院していたというのが、その顛末でした。(コロナではありません。)

もう、その名物お爺さんは今後は外出する事を辞めるらしく、そこそこ、資産家でもあったので、介護施設に入所するのだか、常時に介護を受けられるようにする事に決めたとの事でした。となると、もう、その名物お爺さんと会う事もなくなる訳ですな。大家をしていた事、その物件のラインナップからすると、2〜3億以上の資産は残していたと思われますが、きっと、それが、あの名物お爺さんの最晩年って感じになるんでしょうねぇ。

カラテカ矢部さんの「大家さんと僕」は、NHK総合でアニメ化されており、数話ほど視聴しましたが、思えば、その名物お爺さんも、周囲の心の持ちようによっては、ほのぼのとした日常的シーンをつくれたかも知れない。こちらの名物お爺さんは、もう少し毒があって俗物的で、杖をつきながら投資信託がどうのこうのとブツブツと言っているタイプでしたが、実は息子らと絶縁状態で、息子の事を一族の恥さらしのように悪態を吐くタイプでした。経歴を教えてもらうと、息子さんは社会的に成功なさっているタイプなのですが、何か親子で、ソリが会わなかったんでしょうねぇ。息子さんの方も別に資産をアテにしていないのかも知れない、20年ぐらい疎遠にしているって言ってたから。反面、近所の食品スーパーの女性店員さんらは、その名物お爺さんを「XXさん」と苗字で呼んでいる光景に出くわし、「ああ、やっぱり、有名人だったんだな」と気付いた事が一度、二度はあったかな。

他人ごとながら、資産どうすんだろ…。やはり似たようなケースが十年ぐらい前にありましたかね。そこそこ小銭は貯めていたが奥さんに先立たれ、且つ、息子さんにも先立たれてしまっていたというケース。このケースでは姪っ子さんが土地と建物を相続すると、そのまま、直ぐに解体工事が始まって、新築の家が、それこそ、今風のファミリーワゴン車が収容できるスペースを持った一軒家が建ったというケースがあったけど、こうやって、住人というのは入れ替わってゆくんでしょうねぇ。

人の最晩年、最晩期というのは、案外、そうやって社会との紐帯が否応なく切れていくんでしょうねぇ…。どぶ川に落ちて死ぬよりはマシかも知れませんが、裏返すと、どぶ川に落ちて死ぬってのも、その人の最期なんでしょうねぇ。こと切れる瞬間、脳裡に「オレの最期は、こういうシナリオが用意されていたのか…」なんて悟りながら息を引き取るものだったりしてね。

昨今、老境の人たちの「時代遅れ」を、「老害」といって一刀両断、攻撃してしまう機会が増えてしまいましたが…。やはり、気にならないといえば嘘になるかな。一昨日の読売新聞でしたか、菅政権の支持率は40代以下で高いというデータがありましたが、これは大丈夫なのかな、と。中島岳志さんあたりが指摘していたと思いますが、戦中派は「絶対に戦争はいかん」という論陣を採るが、戦後派になると、戦前・戦中派以上にタカ派の論陣を採るらしく、これは現在でも観察できるという。先日も、半藤一利さんの訃報がありましたが、右派の論者が半藤一利さんの訃報に触れながら「半藤一利は戦争の責任追及ばかりやっていた」という論旨を述べていて、驚かされたばかりですけどね。


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病院の受付で、80代と思われる男性が「前回、ここで受診した際に、保険証を返却してもらわなかった」と申し出ており、受付があれやこれやと苦心して対応している光景がありました。「保険証を返してもらっていない」という申し出なのだけれども、その真偽の程は定かではない訳ですね。察するに、きっと保険証は返却されているが、紛失してしまい、自分の手元には実際に保険証はない。なので、そこから、その80代男性は「保険証を返却してもらわなかった」と申し出ているものと思われる。

これだけで、げんなりを感じ取れる…。いやいや、ホントに病院側が保険証の返却を失念していた可能性もあるとは思いますが、その可能性というは1〜2割であり、8〜9割方は私が組み立てたように、おそらくは、その80代男性は〈手元に保険証がない。という事は、前回、受診したときに病院から保険証を返却してもらわなかったからに違いない〉と組み立てている。こういう場合、本人の自覚次第、認識次第になるので、強気で主張してしまう方が、事実の認証に於いて有利に左右する。「返却してもらっていない。私は確かに返却してもらわなかったという確固たる記憶があるのだ」と、強く主張されてしまったりするものなのだ。(タチが悪い相手の場合、もらったもらわないの水掛論に持ち込まれ、言い張った方が勝利するという非常に理不尽な現実がある。)

しかも、その傍目で目撃した病院受付のやり取りでは、「今日は受診はなさるんですか?」と受付が尋ねているが、その質問に80代男性はマトモに返答できていない。保険証がない事で頭がいっぱいになってしまっており、ただただ、「前回の受診時に保険証を返却してもらわなった」と言う為に病院に来院したのか、或いは受診の用事があって来院した中で「前回、保険証を返却してもらわなかった」と言っているのか、その判別がつかない状況になっていました。

なので、受付では、ざっと、10〜15分間は、その80代男性が時間的占領をしていたのかな。これが、超高齢化社会の現実ですなぁ…。病院や福祉施設であれば、相応に心得もあるのでしょうけど、こうしたコミュニケーション不全が、おそらくは銀行や役所、或いはケータイショップ、量販店や商店の店頭、店先などでも起こっている。

公論は今、デジタル化、デジタル化と連呼してくれるのだけれど、実際にデジタル・デバイスを導入したら、「ワガんね」っていう高齢者の波が押し寄せて、結局、現場で対応するニンゲンが混乱させられる。


別の話。

「今からウチのダンナがそちらに向かいますので、よろしくお願いします」

という電話を受けたが、特に、その電話の主のダンナと思しき人の来訪はない。そのまま、40分ほど経過してから、事情が判明しました。

ダンナには少し認知症のケがあるが、大丈夫だろうと思い、電動自転車で用事を頼んだというのが、その電話の主旨だったのだ。40分ほど経過してから、「まだ、そちらに着いてませんか?」という具合の、ダンナを心配しての電話が入り、事態が判明したのでした。

ええ…。

事態を正確に認識して感じたのですが、いくら電動自転車でも町の様子というのは近15年ぐらいで変わってしまっており、認知症のケがある人で、ホントに大丈夫なのだろうか、と、こちらも心配する事態へ。私の小学校時代の恩師で、やはり、80歳の女性ともなると、「この辺りは、道が変わり過ぎちゃって分からない。迷子になりそうになった!」と言っていたし、実は、思いの外、厄介な問題なのだ。私の伯父も認知症のなり始めに隣町の病院からの帰宅途中に行方不明になって、市内放送された事があったしなぁ…。

うーむ、自転車かぁ…。自動車の計算で約20分ぐらいかかる場所だから、電動自転車だとして何分ぐらいかかるんだろ…。いやいや、信号だの、踏切だのに引っ掛かったりしたら、どれぐらいの時間がかかるものなのか、仮に計算するにも難しい。少なくとも自転車であれば40分以上は、かかるんじゃないだろか等と、思案しながら、その「ダンナさん」を待つ事となりました。

出発から60分ほど経過して、無事に、その「ダンナさん」が当方へ到着し、無事に用事を済ませ、且つ、そのタイミングで「ウチのダンナ、まだ、着いてませんか?」という電話が入っていたので、無事到着を伝えながらの対応だったのですが、少し気になった事がありました。そのダンナさん、実は耳が遠くなっていたのだ。おそらく、途中で誰かに道を尋ねようにも、尋ねられなかったと思う。奥さんが書いたらしい地図を手にしていたものの、おそらくは、すんなり、その地図のルート通りに辿りつけず、きっと、あれこれと無かった筈の信号機や十字路、昔とは違ってしまっている市街地に苦心しながら到着したものと思われたのでした。

これ、あるんですよねぇ。市街地の整備によって、埼玉県あたりになると強引な整備もあって、「どうなってんじゃ、この一帯は!」と声を上げたくなるエリアが、ままある。昔であれば、この道を真っ直ぐ行きさえすれば、隣町の駅に着けたし、そのまた隣町の駅にも着けた。カーナビの無い時代、クルマの中に道路マップを持ち込みながらも、そんなに道は複雑ではなかった記憶がある。しかし、昨今ともなると、大胆な区画整理などによって駅の東西、あるいは南北で分断されてしまっているようなエリアが出来てしまっているのだ。その町に住んでいるドライブ好きの叔父がいるので、その叔父に「この周辺、駅の方へ抜けるにはナンタラ橋を通って真っ直ぐでいいんでしょ?」と尋ねたら、「なんだか、この辺りは道路が複雑になっちゃったでしょう? ナンタラ橋の交差点を右に入った道を真っ直ぐ行くだけで駅の東口に出られるよ。便利にはなったんだけれど分かり難くってねぇ」と言っていたのを思い出す。

自転車で片道60分っては、きっと大変だったんだろうねぇ。しかし、交通網って、そういう発達の仕方をしていますね。

そういえば、私自身も先週、すんごい場所へ行ったのだったかな。カーナビをセットしていたものの、そのカーナビが案内するのは細い農道であり、所々に車両幅を規制する為のポールが立っていて、立て看板には「農耕車に注意!」というのがやたらに多い道で、しかも全国的に有名な怪奇スポットの近所なのだ。カーナビで確認する限り、目的地は川沿いにある一件の工場跡地なんですが、妙に迂回、迂回、迂回で案内してくる。埼玉ってのは、道を何本か入ってしまうと、そういう魔境が潜んでいる。対向車が来たら、どちらかが数百メートルはバックして道路を譲らないとダメっぽい細さ。昼間だからよかったけど、夜間だったらギブアップしてかも。辺り一帯は田んぼで、その向こうは工場。

カーナビの案内が、どうもアテにならないぞと気付き、途中で犬の散歩中のおじさんを発見。その散歩おじさんに道を尋ねたら、よほどカンタンでマシな道を、親切な笑顔で教えてもらえました。なんで、カーナビって、あんな変なルートを案内するんだろう。やはり、人に道を尋ねられるかどうかは大きなポイントでしょうねぇ。きっと、あの電動自転車の来訪者は、耳が遠いので人に道を尋ねることにも難儀したんだろうなと推察する。耳が遠いというのは、結局、話し掛けてもコミュニケーションが上手く取れないので、的を射た返答を引き出せないでしょうからね。

超高齢化社会の町の風景とは、こーゆー事だね。
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今朝ほどNHK総合「あさイチ」に宮本浩次さんがゲストで出演していて、朝っぱらから魂の咆哮といった感のボーカルと、あの個性的な身振り手振りの多い語りとを目撃しました。まぁ、落ち着きがないというか挙動不審というかエキセントリックというか、あの話ぶりというのは個性的ですねぇ。直ぐに立ち上がってしまうので、幾度か進行の博多華丸・大吉さんから腰掛けるように促されていたけど、やはり、直ぐに立ち上がって身振り手振りを以って語り始めてしまう方で、ありゃ、何某かの演出ではなさそう。素の姿が、あれなんでしょうねぇ。

で、今朝、気付いたのは、実は宮本浩次さんの口調というのは、どこかユースケ・サンタマリアさんに似ているような気がしました。一つ一つの言葉を区切るテンポが似ているなぁ…と。両者に共通点はあるんだろか? うーん、言葉を区切るテンポは似ているんだけど、ユースケ・サンタマリアさんが、その場、その場のテンションに頼って要所だけ話すのに対して、宮本浩次さんの場合はアレもコレも脳内にある考えを語ろうとするが、あまりにも取り止めがないので一気に言語化しようにも言語化する事が追いつかずに、あの身振り手振りに繋がっているような印象かな。ユースケさんは、話の中身は兎も角として、ああいう空気をつくって、結局、その場の空気を支配する独自の犂岫瓩鮖っているのに対して、宮本さんは、おそらく「ああ、あれもこれも伝えなきゃいけない」という思いで溢れているタイプなので、絶えず髪を掻き揚げたり、立ち上がったり、目の付近の表情が落ち着きなく動いている感じ。

飽くまで、そういう印象を受けたという私の主観になる訳ですが、なんだか、それを裏付けるような映像もありましたかねぇ…。宮本さんが曲作りや練習をする部屋というものにもカメラが入った映像が流されましたが、函付きのショーペンハウアーの哲学全集みたいなものが置かれていた。私が廉価で市販されている解説本を読んだ限りでは、ヘーゲルあたりって、実際の専門家でも、1冊、きちんと読んで自分なりに意味を理解しようとしたら10年とか20年はかかるってな解説を目にした事があるけど、ホントに、そんな気もする。函付きの全集ともなると、きっと、いい睡眠薬になりそう。何、言ってんだか分かんねぇよって反応がフツウらしいですからね。これは尾崎豊にも似た逸話があって、「理解していたとは思えないけど、哲学書とか持っていましたよ」てな回想があったと思う。

いやいや、驚いちゃいけません、あの沢田研二さんあたりにしてもコンサートのトークなどでは「ガンジーを尊敬している」なんて語る事があったらしく、ファンの反応としては「ジュリーがガンジーを尊敬しているなんて知らなかった☆」という薄い反応だった事が想起されますが、まぁ、トップランナーの方というのは、何故か、そういう一面を持っているものだと思う。背伸びといえば背伸びだろうけど、では、何か上滑りしているのかというと、そうでもない。或る意味、「本気なんだろうな」って思う。ガンジーとジュリー、なんじゃ、その組み合わせはと反応するのがフツウでしょうけど、案外、人間の奥底にあるものというのは、そうした一見すると繋がりようのないものがエモーショナルな部分では影響を受けていたりするものだったりして。

一昨日、市役所の窓口で額に玉の汗を浮かべている40代男性を目撃しました。私が玉の汗を浮かばせたのではありませんで、その彼は困った、困ったという状況のところへ私が出向いたので、既に玉の汗を浮かべていたのでした。感情労働の世界ってヤツで、昨今、こういう感じの方を見掛ける事が増えた気がする。うつ病で休暇を取っている人なんてのも市役所あたりでも増えているなと実感している。これは個の気質にも依るんでしょうねぇ。昔ながらの役人対応といえば、仏頂面、慇懃無礼な対応というのが定番でしたが、近15年ぐらいは感情労働の世界になってきていると思う。横柄な市民が増えたというのもあるし、組織として民間を見習った結果、ブラック化してきているというのも考えられるかな。そうじゃないと、冬場に玉の汗は流せないでしょう。情緒的な何か、心理的な動揺によって、実際に身体が反応し、頭を冷却させようと汗をかかせる。しかし、汗をかいたところで精神的な動揺は収まらない。

コミュニケーションとは、すなわち「意志の疎通」であり、言語を組み立てての機械的な説明だけではないんですよね。顔の表情によって相手を安堵させたり、相互間のコミュニケーションを円滑にする為に放たれる冗談なんてのもある。コミュニケーションが本当に上手な人の中には、相手をリラックスさせ、友好的な態度、歓談という体裁の中で要点を絞り込んでいくような人もある。「必要な内容だけを回答しなさい」という言語回路は、実は機械的であり、非人間的な回路であったりする。

この問題は結構、大きな問題で、高齢者などに多い気がしますが、やたらと、どうでもいい話をしたがって接客業などの若い人を放そうとしないタイプの人がある。接客業であれば、「はい、はい」と話を聞いてくれる訳ですが、話を聞いてもらえることが或る種の自己承認になっているので、べらべらとおしゃべりが止まらくなる、そういう高齢者は単純に増えていると思う。どこか孤独なのであれば、そのようにして自己防衛するのでしょうねぇ。しかし、効率化社会では、それぐらいの事も許容できない。言ってしまえば、独居老人は話し相手もないので話し相手になってくれる者を自己防衛本能から探している可能性が高いが、それに付き合ってあげられる余力を現代社会は残していない。そういうのが、なんだかんだいってゴミ屋敷問題に繋がっているんでしょうねぇ。

「何故、そのような言動になるのか?」という洞察は、案外、深い世界の気もしますねぇ。「これはこうだから、こう」のように単純化する事が難しいレベル、複雑怪奇なレベルというのは、人間の奥底には、ゴロゴロと転がっているのがホントじゃないだろか。彼、彼女のような人間には何の含蓄もないだろう、何の価値もないなどと、そういう杓子定規で物事を計るようになって久しい訳ですが、実際には、物事を明快に言葉にしている例は、ごくごく表層であり、深部には言葉にできないような意がごろごろと控えているのが真実って気がする。
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数週間ほど前の話になりますが、赤十字募金が一周して帰ってきて、まぁ、私の隣組では2〜3軒のみが募金に応じた事となり、まぁ、これは例年の事なので驚きはありませんでした。今回は、赤十字の活動資金は、いわゆる何々の災害に関しての名目付きの募金から赤十字は活動費を出していないので、この募金を赤十字の活動資金に充てる旨の説明がなされた冊子も回覧していたのですが、読んだのか読んでないのか微妙といえば微妙だなって考えていました。

しかし、これ、実際に募金を集金して、これを区の「役職さん」に届けた際に、気付いてしまった。役職さんが言うには、

「今年は、いつになく、募金が集まったんですよ」

という。

聞けば、コロナ禍だったので例年以上に寄付に応じた件数が多く、しかも千円札で何枚という寄付も、そこそこ多かったらしい。実際に、どれどれと帳面を覗き込ませてもらったら、ホントに他所の隣組ではウン万円を寄付が集まっていました。

不味いじゃないか、ウチの班は増えていないどころか、私自身は「コロナで大変だったんで…」と減額してしまったっていうのに。毎年の事なので、どこか惰性で募金しているところがある。まぁ、いつも募金する人としない人ってのが、ホントは、ハッキリと別れてしまっているのが実情で、今年は、偶々、こうなったという話ではあるから、そんなに後ろめたさも感じてはいませんけどね。

しかし、これは、やはり、テレビなどを視ている高齢者が多く、その人たちなりに「今年は赤十字さんに募金しよう」という流れになったって事なんでしょうねぇ。

いやいや、実際に現在でも、私が住んでいる埼玉の片田舎だと、こういう感覚なのだ。インターネットやテレビがバラ撒いている背伸びをしているかのようなモラルではなくて、ごくごく当り前のモラルというのがあって、「こんなもん、惰性だけど払っておくか」と「今年は赤十字は大変だったから募金しておきましょう」とか、そういうモラル。これは募金する事が正しいんですとか、しない事が正しいんですのような画一的な単純二元論ではない。

本当はコロナ対応でも感じたものだと思いますが、かなり大袈裟にコロナ感染リスクを捉える人と、そうでもない人とがあって、実際に対応には温度差があったと思うんですね。その警戒度合いは、ただただ高い人と弱い人があったというのではなく、ピンからキリまで、本当に過剰に警戒して自粛警察のようになってしまった人も在れば、警戒感がなく、マスクもせずにバーベキューパーティーをやってしまう人とがあって、それは両極であり、8割方は、その中間であったと思う。

自粛警察化した人たちを見ては「過剰反応なのにな」と思い、バーベキューをしている人たちを見ては「おいおい、甘く見過ぎてないか?」等と思い、それぞれ反面教師にしたりする。そうやって、バランスを取る。

とはいえ、同調圧力が強い社会なので、「万が一でも、感染したら御近所からなんて言われるか分からんぞ」となる。これは何ら、公衆衛生がどうのこうのとか、公衆道徳としてどうのこうのというよりも、一字一句、「御近所からなんて言われるか分からんぞ」でしょうねぇ。それによって自らの行動を律する感覚であったと思う。しかし、こういう同調圧力が、見事に機能するのが日本って事なんだと思うんですね。テレビの中のコメンテーターは「法的根拠がどうのこうの」という言説を繰り返していましたが、実際には、人が行動するに当たって、いちいち法的根拠なんて考えて行動の指針にはしてませんやね。法的根拠、法的根拠と言い出して、一律で線引きをする事になり、もともと、そういう規範意識のある日本人をルールによって自縄自縛に追い込んでしまっているのが平成から令和の日本の公論の特徴のような気がする。
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意外な光景を目撃してしまったなぁ…というのが市役所の窓口でありました。私が接した感じでは、さほど偏屈さは感じない、年齢の頃は60代半ばぐらいの男性が、窓口で何やら大きな声を張り上げている。とはいっても、これも微妙でした。理性が一切、利かない状態で何かクレームをつけているというのとは少し異なり、何か手続きに関しての不備に抗議している。とはいえ、役所みたいなところは、もう、そのマニュアル通りにしか動かないものってのが、昔からで、現在ともなると、相応に市役所の窓口は、市民目線になっていますな。昔であれば、典型的な役人対応というのがあって、評判が悪くなるだけであろうに、何故に、あそこまで仏頂面の人を窓口に配置しているんだろうと思うような時代も20年前であれば、まだ、実際に目に出来ましたからね。。。

で、その60代半ばと思われる男性なのですが、うーん、私が思うに、感情を抑え切れなくなってしまうタイプの人ではないんですね。変にヘリクダリはないが、他人に接する態度としてはフツウというか常識的というか…。そういう風景を見掛けたので、それとなく同僚に話したら、やはり、「え? あの人が? そういう風には見えない」と同じ感想を持っていました。

まぁ、きっと些細な事が原因で、相応に熱くなってしまったってところなんでしょう。しかし、これ、或る種の先入観も加わっているから、切り取ってしまえば、【老害】というイメージで片付けてしまうと思う。実際、私にしても「え? あの人が、こんなところで大声を?」と感じていたのだから、抗議をしている高齢男性に対しては、最初から、或る種の先入観が働いてしまう訳ですね。「あの人、こういう人なのか!」と感じなかったかといえば嘘になる。

他にも、市役所や郵便局でキレる男性老人ってのは、何度か目にしてきましたが、その典型的な例というのは、本人は檄してしまい、感情を抑え切れない、制御不能状態。喚き散らすような感じで、声も怒声そのものだし、発言も感情的、攻撃的なのだ。まがりなりにも、何かを説明しようとして怒っているというのは、少し事情が違うのかも知れない。

一口に、キレる高齢者を【老害】とか【暴走老人】という言葉で片付けてしまうのは、結構、違和感がある。おそらくは、ニュアンスとしては感情の抑制が利かなくなる暴走老人の像が、そのまんま、老害に転用され、便利だから、どんどん拡散してしまっている。しかしですな、本当に昭和ヒトケタ世代などの頑固爺なども目にしてきた身からすると、やはり、色々と差異があると思う。十把一絡げにすればするほど、実際には当てはまらなくなってゆくのに、言葉の汎用性だけが拡大していってしまうという、その違和感。

「暴走機関車タイプ」は、もう、これが典型であり、王道ですかねぇ。「こうだ」と自分自身で思っているから、とことん、我を通してくる。譲歩する気は一ミリもない。或る意味では動物的でもあり、本能的な何かで、よく「目の色を変えて怒り出す」という表現がありますが、目ん玉の色は変わらないが目の形などは変わっており、カンシャクを起こしてしまうタイプ。一ミリも割り込む余地はない。

昭和ヒトケタ世代がそれであった事を思い出してみると、昨今の老害現象などとして語られているのは、上記の暴走機関車タイプと比較すれば、幾分かは割り込む余地もあるように思える。とはいえ、何かが導火線になって、感情を沸騰させ、理性による制御が利かなくなる。その原因は、なんなんだろうなぁ…と勘繰る訳ですが、思うに、やはり、幾ら表面的には繕ってみても、人間たるもの、その生育環境に影響されていない筈はなく、頭では理解できていても心のどこかには生育環境が残っていて、男尊女卑環境などが遠因しているように思う。

とはいえ、私自身は、この「男尊女卑が今現在も強く残っている」という論陣は嫌いですかね。それを武器に、めんどくさい揉め事を増やされてしまっていると感じているし、BLM問題もそうなんですが、そちらの運動する側が感情的になっているので、取り付く島がないのが実相だよなって思う。変な話、理性を統制することなく感情的になって自己主張した方が勝利してしまう世の中になってしまった事は、現代の悲劇の一因のような気もしている。

そういう考え方をしているが、それでも50代もしくは60代以上の世代の中には、その少年期とか青年期には、まだまだ巷間の価値観として「女とはかくあるべき」とか「男たるもの、こうあるべき」のような、そういうステレオタイプが健在だった、いや、健在だったどころか、それは大きな価値観であり、大きな尺度であったのだ。あれに影響を受けてない筈はない。40代は微妙かも知れませんが、これは30代以降の人になってしまうと、さっぱり訳の訳らない話になってしまう可能性がある。

言論というのは便利なもので都合よく咀嚼されてしまうので、ひと時代前とか、ふた時代前の検証になると、かなりテキトーなレッテル貼りをし、勝手に見下しているのが実際であろうなって思う。しかし、これは結構、深刻な問題で、例えば、今時の若い人がイメージする知識人というのは何某かの肩書きを有し、ひょっとしたらカタカナの名前の人である可能性が高いと思う。もう、本当は、その時点で或る種のイメージ、海外の有名大学を出ている人が知識人であるという或る種の型に頼っているとも言える。確かに、日本の化粧品の広告にしても日本人ではなく白人モデルが多く起用されているのは確かでしょうし、もう、そういうOSの上で物事を見てしまっているのが実相なのだ。優劣の基準みたいなものは、そういう部分から生じている可能性がある。

その昔、山口百恵は大スターであり、中国でさえ「山口百恵」が美女を意味する単語として使用されていたとうけれど、昨今の若い人になってしまうと別の基準になっている可能性が高い。美の基準の話は、オードリー・ヘップバーンの顔などでも触れたけど、均整がとれているという意味での美は、流行とは別に普遍性を持っている可能性があるが、もう、色々と現代人の目は、そうした情報に大きく左右されてしまっている。偏見をしていないようでいて、ホントは偏見に塗れているのが実相だよな、と。

おそらく、現在の60代ぐらいになると、当たり前に心の底には旧態依然とした育った自らの生育環境を引き摺っていると思う。引き摺っていなかったら、むしろ、おかしい。とはいえ、これ、器用に流行に飲み込まれたように見える。「じぃじ」、「ばぁば」に顕著ですが、そもそも高齢者なんてものは、偏狭なものだった気がする。与えられた社会の仮面を被らされ、じぃじ、ばぁば、その役割を演じだしたのが近20年なのだ。その証拠に、古い映画やドラマには、そんな言葉は一切、使用されていない。こう言っても、現在の価値観にどっぷりつかっている者からすれば、こうした指摘さえも目障りと感じると思う。自分は「じぃじ」とか「ばぁば」なんて言葉を使用して祖父や祖母を呼んでいた記憶は全くないが、そうなってしまっている事、その現実を認めたくない自己肯定の心理が作用するんでしょうねぇ。高齢化社会が実現し、高齢者福祉が一定レベルで達成されたから、起こった何かだろうと考えた方が、少しはマシかな。

で、「キレる老人=老害」という十把一絡げの拡散に苦々しく感じるのは、もう、そのレッテル貼りをしている人たちにしても、かなり、モラルであるとか常識であるとか、そういう物の目は、或る種の偏見に頼っているものなのにな、という感慨が強いから。場合によっちゃ、狂っているような理屈でも、都合よく自己肯定の道具にしてしまっている当たりは、本当は高齢者も若年層も大差はないように思う。いくらかでも柔軟性とか客観性を持って物事を話そうとしている人の場合は、なんだかんだいって理性的な態度として現れてくるのが実際だろうから。それでも猶、キレるのが人間の正体であり、場合によっては、現在の若年層が中高年層となり、後期高齢者レベルになった時に、どれだけ我の強い高齢者になっているか、結構、謎だよなって思う。少なくとも、70年代頃なんてのは、そこそこ、調和が取れていたのだ。この調和が取れていたの意味は、つまり、「お年寄りというのは頑固なものだから」、とか、「お年寄りというのは相応に敬ってやって然るべきだから」が、そこそこ、普遍的な価値として成立していたから。絶望的なレベルの暴走機関車老人が実在している事によって、「あんた、運が悪かったね」とか「オレ、運が悪かった」のように精神的に処理も可能だったような気がするんですね。

これは親もそうだし教師もそうではなかったかな。親だって人間だし、教師だって人間なので、ミスもするだろうし、過ちを犯すこともあるだろうさという、その寛容さがあった。お年寄りに対しても、もう少し寛容だった気もしますかねぇ。高齢者のATMの操作が遅いなどとイライラしてしまうようになったのは、何故なんでしょうねぇ。ミスター・ビーンにも階段をゆっくりと降りる老婦人が邪魔で――という秀逸なコントがありましたが、まぁ、基本的に人間ってのは、利己主義だから、そうした感性を普遍的に持っているのだと思う。ただし、それを越えて、社会的な態度としての理性がある訳ですね。イライラしてしまうのが本能由来だから仕方がなく、顔を引き攣らせてしまうこともしょうがいといえばしょうがない。でも、そこで「老人は歩くのが遅いんだから、こうするべきだ」等と、その者による自己主張が始まって、そのモラルが崩れる。その者、わたしやあんたが、ほんの少しばかり我慢すればいいだけの問題を、社会問題にし、白黒ルールを定めるだべきなどと主張を始める。

結局、皆が皆、精神的余裕を失い、分断が進行し、いがみ合いが増え、他罰化が進む。しかし、こりゃ、ホントにまともな社会と言えるんだろうか。二元論の二択思考とは、結局のところ、「全肯定vs全否定」の対立になってしまい、結局は勝利する事が目的化してしまい、公正な出口を模索するという態度から逸脱していってしまう。

で、全身理不尽な暴走機関車老人ではない、つまり、暴走老人予備軍のような、それに準ずるレベルの人たち、幾分かは理性が機能しているのにキレるというのは、おそらく、自尊心と繋がっていそうだなと気付く。何か、その人の自尊心を傷つけてしまっているのかも知れない。相応に、会社なり家族間なりで好待遇、好待遇という表現も変ですが、まぁ、「偉い人」として扱われていれば、そりゃ、感性的としてもブレますやね。相互間の距離感とか相場そのものが違うような場で、それが通用するかというと、通用しない。場合によっては、軽んじられたと感じてしまい、それが自尊心を傷つけ、攻撃的にさせてしまう。そうなると、もう抑制する為の理性は機能しなくなる。

そうならない為に、高齢者の中には「諦念」を武器にする人も多い。どうせ、世の中なんて、そんなものだろうから、しょうもない揉め事に首を突っ込んでも、何のトクもないものだ的な。

渡哲也さんがドラマ「大都会」の中で唄っていた「日暮れ坂」って曲の世界だな。


何の為に やすらぎに 背を向けて

何の為に ひとり行く 日暮れ坂

埃と汚れた上着を肩に

出会いと別れ 今日も重ねる

振り向いた〜ら〜 何もかも 崩れ去る

振り向かずに ひとり行く 日暮れ坂


作詞は「水木かおる」なんだけど、最後まで聴いてみると、


輝き忘れた 都会の星よ

ささくれだった 人の心よ

遠い道の 果てで呼ぶ ものは何?

遠い道をひとり行く 日暮れ坂


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人の一生ってのは、ホントに何なんだろうなぁ…と湯舟に浸かりながら考える。

昨日、会った方は駅近くに土地を持っている60代の男性だったのですが、

「実は、父親が死んでしまいまして…」

「え? そうなんですか? 最近もお会いしたような気がしたのですが」

「急だったんですけどね、初めての事なんでどうしていいか…」

といった具合。結構、過去にも似たようなシチュエーションを経験したかなぁ。確かに、どうしていいのか分からないものなのだ。葬儀社に連絡して、そこから葬儀社の話にのってとんとん拍子に葬儀の段取りを進めていき、そちらでてんやわんやとなる一方で、実の父親を失った気持ちのやり場みたいなものがなく、私のような挨拶を交わす程度の者にでも、それとなく、気持ちを打ち明けてくる事になる。さほど、内容は無いんです。死んだ父親の眼鏡はどうするのかとか、実印はどうすればいいんでしょうねとかね。

その方の場合は、生前の父親が、その息子を語って、どこの親子も似たようなものでもありますが、

「倅は何を考えているんだか分からないですけどね、きっと何とかやってくれてるんでしょう…」

なんて喋っていたかな。アパートや駐車場を貸している側の方だから資産家といえば資産家ですが、埼玉くんだりでは、たかが知れているし、相続税なんてのもある訳で。

しかし、確かに、こうやって人は死んでいきますナ。確実に、世代交代は起こっており、それでいて、その世代交代というのは、あまりピンと来ないものだったりもする。



まったくの別人、団地に住んでいる70代男性の場合は、僅か4〜5年の間に、それまで同居していた母親、そして妻と息子にまで先立たれてしまったという。ホームセンターのダンボール売場で大量にダンボールを購入して、淡々と後片付けをしており、しかも、もう丸2年ぐらいかかっているという。八畳間は、捨てる訳にもいかないという故人の遺品で埋まってしまったそうな。しかも、この男性の場合、その後片付けをする事に、何やら意義を見い出している節がある。

「嫌になっちゃいましたよ〜。一部屋、天井までダンボールで埋め尽くす羽目になってしまって」

てな具合。なかなか、想像がつかないかも知れませんが、見た目は、アクティブな高齢者といった風貌であり、タオルを巻いてスポーティーな格好をして、小洒落た外車に乗っている。深く、悲しみに打ちひしがれている様子はないのだけれども、確かに、丸2年ぐらい、同じような事ばかりを話している気がする。そこの情熱を傾注する事、それが、その人の原動力そのものになっているんだろうなって思う。


そう言われてみると、みんな、死ぬ準備とか考えるタイプの人と、まったく考えないタイプの人とがありそうですかねぇ。もう、ある時期から、大量消費時代になったから、変な話、不要品は沢山、ある訳ですね。で、それらを残して死んでしまうと、遺された遺族が後片付けで途方に暮れる事になる。

かつての隣人はこれでしたかね。結局、業者を呼んで衣類等の処分を頼んだらしいのですが、ゴミ捨て場にも大量のゴミ袋を出して処分したが、処分し切れないので業者に頼んだとの事でした。実際には掃除になってしまったのかな。結局、30〜40万ぐらいかかってしまったって。

友人の父親も似ていたかな。何故か押し入れから、大量のポケットティッシュが出てきた、と。40年間とか一つの会社に勤めており、来る日も来る日も電車通勤であったが、ポケットティッシュが溜まったものと考えられる。しかも、そのポケットティッシュ、きっちりと大型の段ボール箱に整理して詰めてあり、押し入れの一間分を占領していたらしい。「一体、何のつもりでこんなに集めたんだろうね」って、母親と息子で話したらしいですが、まぁ、人間ってのは、そういうものなのかもね。

もしかしたら、このポケットティッシュが役に立つ日が来るかも知れないし、捨てるなんてとんでもないと考えているのでしょう。人の一生なんてのは、案外、こんなものかもね。
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小言というのは、言われて腹が立つものでしょうが、一方で小言を言うにも苦慮があるよなって思う。公共道徳の低下が囁かれて既に久しい訳ですが、もしかしたら想像以上にジェネレーションギャップは大きいのではないかという気がしている。

新たに引っ越されてきた世帯があって、この1年だけでも4軒ほどある。うち2軒は建設工事を始める前から近隣への挨拶があり、越して来たら越して来たで改めて形式だけだけれども挨拶があったのでした。また1軒は建設工事をするに当たって、かなり早期で顔を忘れてしまったのだけれども挨拶を受けた。残りの1軒は特に工事にかかる挨拶はなく、また、その事をおかしな事ではないと感じていた。実際問題、どこの家に挨拶へ行っても留守だったりするのも本当だし、別に堅苦しく、そこら辺のモラルを掲げるつもりは私にもないし、他の御近所さんも特に持っていたとは思わない。

そして工事に係る挨拶が無かった世帯が、「なんだか既に引っ越してきて生活しているみたいですよ」という話になった。そうなると、事情は違ってくる訳ですね。まがりなりにも、自治会(行政区)があり、回覧板、ゴミ出しの管理といった事柄は、そちらを通して自治体(市町村)と連携しているのが現実なのだ。別に各戸に挨拶をしないでもいいのだけれど、その隣組単位の班長(組長)は、どんな人が引っ越してきたのかぐらいは把握しておく必要がある。

また、その隣組(班・組)が管理しているゴミ集積所を使用する以上は、協力してもらわねば困るし、本当は会費(区費)を徴収して、自治会(行政区)を運営している。

「何某さんのお隣さん、既に引っ越してきていて、ゴミ集積所も利用しているんですけど、挨拶ってあったんですか?」

という事情が発生する。挨拶などはない。まぁ、留守にしていたりもするし、我が家には挨拶に来ておらずとも、隣接するお隣さんぐらいには挨拶ぐらいしたのだろう、裏返せば、そうでもなければゴミ集積所を使用するという事は考えにくいじゃないのかなとなる。

しかし、この問題が徐々に面倒くさい事態に発展していきました。50代女性、60代女性が言うには、

「今どきの若い人たちは挨拶をすべきだという慣習そのものを知らないんだから、教えた方がいいのではないか?」

となった。しかし、そうなると、どのように、それを教えるのかが問題になる訳ですね。こちらから玄関先へ訪ねていって、チャイムを鳴らし、

「すんません、この隣組の者なのですが…」

と、こちらから足を運ばねばならない。しかし、これは裏返すと、やられたくないであろう事は歴然でもある。初対面にしてメンツをつぶすというのは、気が引ける訳ですね。なので、

「待っていれば、そのうち、向こうから挨拶の来るんじゃないですか?」

と引き受けてしまった。しかし、それから数日が経過している。。。。。

また、こういう事態になって面倒になったなって思っていたら、御近所の60代女性が言うには、

「会費(区費)を納めない人にゴミ集積所を使用させるのはおかしい!」

になってしまい、更には、最も、このテの問題に口うるさい80代女性が、

「なんだかゴミの出し方も汚いので、後で私が掃き掃除をしている!」

等と、言い出してしまった…。

しかし、この問題、過去にも実はやっている。会費(区費)を納めない世帯に対しての対応を役所へ判断を仰ぐと、困惑する事になる。揉め事を起こして欲しくないのが役所というものであり、強制する事はできないので、適宜、対応して欲しいというのが役所の見解なのだ。なので、自治会(行政区)によっては対応はまちまちで、会費・区費を納めない世帯に対しては回覧板を回さず、ゴミ集積所の利用も遠慮してもらっているという隣組(班・組)も実際にあるらしい。(ゴミ集積所を使用させない場合、ゴミ収集車が、その家の前まで収集に行っているらしいから、実状としては本末転倒、この上ないんですけどね。月額数百円をケチったが為に御近所から疎まれながら生活することの住環境、それがつまらないものだと気付かない。)

この隣組に協力するという慣習、若い人には正確に伝わっていなそうだなって思う。現在のワイドショウなどを視聴しても思うのですが、物事を理解するに当たり「それは強制ですか? 強制じゃないんですか?」という単純二元化論で物事を判断している人が多い。これは40代でも、そういう人は増えたような気がする。その二元論であれば「協力しなくても問題はない」に帰結してしまうんですが本当の本当は日本人の民度とは或る種の同調圧力とも関係して、「めんどうくさいけど、円滑に地域共同体を回す為には協力しますよ」という態度が必要で、「強制か強制じゃないか?」という二元論を駆使されてしまうと、途端にモラルは崩壊してしまうのだ。

(『デジタル・ポピュリズム』などに目を通して、そこでは明白に二元論で物事を思考する人の認識能力は劣っていると喝破してあったのを記憶している。同著に限らず、きちんと認識論を論じている書籍には同様の指摘を発見できる。しかし、市井では「イエスかノーかハッキリすべきだ!」という認識論に立つ者が優位になってしまっている。ホントは正確に物事を認識できてないのは単純二元化してしまう人たちの方なのに、彼等はスパスパと断裁する自らの認識論を最も優れたものだと思い込んで疑わない。)

嘗てであれば、おっかない御隠居や、異常レベルで隣家を詮索する老主婦などもあり、行き過ぎなのではないかと思うほど、御近所同士でも、いがみ合いがあった時代がある。Aさんところの奥さんがBさん家の玄関先に花瓶を叩き付けて割ったとか、CさんのところのダンナさんがDさん家のポストに月光仮面になったかのようなつもりで、抗議文を投函、Dさん家とCさん家はとんでもなく反目している関係にある――とかね。

本当は自治の精神の話であり、その区画に住む者が自らの住環境を整え、円滑に生活する為には、現在のような時代でも適度に面識があった方がいいだろうというものであったのだと思いますが、社会情勢の変化は著しく、共稼ぎ世帯は、ざっと7〜8割にも達しているので、ごくごく小さな単位の隣組でも、実は面識がなかったりする。冒頭で4軒中の2軒は工事に当たって挨拶まわりをし、且つ、引っ越して来たら引っ越してきたで挨拶まわりをしたと言いましたが、実は、いずれも若夫婦であり、その親世代が忠告・忠言していたらしい事も、薄々は分かっている。確かに面倒くさいから挨拶まわりぐらいの儀礼はしてしまった方がイイのだが、その理屈というのは若年世代には理解できないものなのかも知れない。

もう、そういう御時世だから、ホントに挨拶まわりを省略されてしまい、そのままにゴミ集積所を使用されている可能性がある。そうなると、班長(組長)である私が、わざわざ、その家を訪問して、悪役になり過ぎぬように小言を言う、その指導係みたいな、これまためんどくさい役を押し付けられる可能性があるので、些細なことだけれども、ユーウツといえばユーウツか。

いやいや、こちらから行かなくても、来るだろ、来るに決まっている。そこまで、日本人が無軌道になっているって事はないだろ、と。昨今ともなると、埼玉くんだりでも多国籍になって中国系や東南アジア系の人なども増えたけど、印象としては、かなりシッカリしている。日本流の対人関係を理解してくれていると思う。実はかなり親切な人が多いんだよ、基本的には。それが分からない人たちが、「法的には問題が無い」などと卑近な自らの理屈で民度を理解し、行使し、破壊してゆく。

しかし、確かにゴミ集積所のゴミの出し方を目撃すると、不安になる。少なくとも、あんまり細やかな神経の持ち主ではないらしく、高校生とか大学生ぐらいのノリで、ここにゴミを出しておけばいいんやな、どさどさどさって感じなのが見て取れる。まぁ、誰も彼も若い時分の公共意識なんて、そんなものなんのだけれども、小綺麗なゴミ集積所として御近所と共生するという意識は、今後の日本は一気に低下していくのかも知れない。多分、「ゴミ収集のオッサンたちの仕事だから、住民は最低限度のルールさえ守っていればいいんだ」って理解なんだろうね。それはそうなんだけれども、上の世代は、結構、がっちり、そこら辺の公衆意識は高かったのだよ、陰口を言われたりもしてしまうのが世間なのだよって事は、なかなか、理解されないような気がする。一方では、「協力的ではない人たちには、利用させるべきではない!」のような強気な意見も強まって来てしまっており…。


最終的には世帯主の男性が少し遅れて挨拶にみえて安堵したのでしたが、やはり、まるっと解決という風には進展しませんでした。新たに越して来た方と、ざっくばらんに話せたのですが、手応えからすると、両隣ぐらいに引っ越しの挨拶をすればいいだろうぐらいに考えていたよう。まぁ、これもホントはおかしくないんですね。ルールがある訳でもなし、両隣と班長(組長)さんところへ挨拶すれば、それでいいだろうと考えるような気がする。しかし、どうも、ご近所の古い方たちの間では「隣組の全戸に挨拶すべきでは? 私たちの時はそうしたし、何々さんも時も、そうした」という前例踏襲すべしの意見が強い。しかし、仮に、その前例を踏襲すると、新しく引っ越してきた世帯は、10軒超に挨拶まわりをしなければならず、「ホントに、今のような状況下で、そこまで折り目正しくする必要があるのか?」という問題が出て来てしまう。20代後半、或いは30歳前後であろう若い世帯主にしたら、正直、負担な気もしますけどね。広報紙をポストに投げ込んでくるだけなら20〜25分もあれば終わりますが、玄関先まで足を運んで「どこどこに引っ越してきました何々です」という具合に挨拶をして回るとなると、案外、大変そう。昔は全戸でも5〜6件程度だったし、留守の家なんて珍しかったのだけれども、現在ともなると4件中1件ぐらいは土曜だろうが日曜だろうが留守だったりするのが実際だし。高齢世帯は病院に入院していたり施設に入所しているので、土日はお見舞いだなんだで留守、若年世帯は土日は出掛けていたりして留守だったりするのが現実だし。

しかし、この問題は残りましたかね。。。。町はずれの方、農家の多いエリアなのですが、そちらの自治会(行政区)では、引っ越してきた世帯は会長(区長)の家まで隣組の班長(組長)と一緒に挨拶に出向くという慣習が現在でもあるって改めて聞かされてしまった。。。
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昨今、メディアで「暴走老人」というフレーズを耳目にすると、どこかゲンナリとした気分になる。比較的早い時期に【暴走老人】というワードに気付いていたつもりなんですが、昨今の取り上げ方というのは、もう色々な思惑に塗れてしまっており、しかも分断にエネルギーを割く方向性のものばかりなんですよね…。

週刊新潮誌の特集で男女逆差別問題が取り上げられた事があって、世の男性が内心では不快に感じている事についても書かれていて、その第一位が「女性専用車両」についてでした。まぁ、これは何となく分かる。おっとっと、この車両、乗っちゃいけないのか…という経験は、年に5〜6回しか電車に乗らない生活をしている私にしても経験しているから。そして第二位が、これは意外でもあったのですが、痴漢撲滅ポスターの掲示でした。これは意外だなと感じました。何故なら、私自身が最も不快な気分になるのは、それだから。飽くまで犯罪防止を呼び掛けるポスターなのだから文句を言う訳にもいかない。しかし、痴漢行為なんて一度もした事のない立場からすると、ただただ、痴漢と間違われてたまるかという思いと、萎縮を強いられるだけの有難くもないポスターなんですね。勘繰られるだけでもヒトは不快を感じ取ってしまう生き物であって。

で、よりによって大宮駅が痴漢防止ポスターのメッカらしいと知る。女子高生らに痴漢撲滅ポスターを描かせ、それを駅構内に昔から展示していたのですが、それを始めたのが大宮駅らしく、現在ともなると恒例になっているらしい。埼京線が痴漢が多発する路線だという事で、そうなったのだろうとは思うものの、正直、痴漢をしない者からすると、嫌な気持ちになるのは確かですかねぇ。しかも、そのことを口に出せば、途端に「あなたは痴漢を擁護するんですか?」みたいな単純二元論を仕掛けられてしまうのだから、中々、厄介でもある。そうじゃなくて、つまりは、万引きなんてする気はさらさらく、絶対にしないであろうに、それでも万引き犯であるかのような目で見られるってのは不快でしょう?



大学生の頃、痴漢に間違われたというのとは違うのですが、物凄く不愉快な体験をした事がありました。小さな書店の狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている気難しそうな若い女性がいて、その通路を通るに当たって、小声で「すみません」という具合に声を掛けて通ろうとしたのですが、中々、気付いてくれない。夢中になっちゃってる。書店内の事なので声の音量を上げるのも、ためらわれる状況だったのですが、それでも私としては相手の耳に聞こえるだろうというぐらいの音量で確かに話し掛けた。ここまでに10秒、もしかしたら15秒ぐらい費やしていたかな。それでも反応がないので、仕方なく、その通路にしゃがみこんでしまっている若い女性の脇を擦り抜けるように身を横にして、その通路を通ったのでした。すると、次の瞬間、凄まじい金切り声で罵倒される事と相成りました。

「何よ、黙ってっ!」

という大きな怒声が、その書店の中に響きわたったのでした。一応、補足すると「何よ、ぶつかっておいて黙ったまま謝らないなんて失礼じゃないっ!」の意です。

私からすると一体全体、何がどう問題なのか、その状況を把握することさえ難しい状況でしたが、どうも察するに私が肩から下げていたバッグが彼女の髪の毛に「ふぁさっ」という具合に当たったらしい。しかも、こちらの認識からすれば、事前に後ろを通らせて欲しいので「すみません」と声を掛け、しかも数秒は、その彼女が邪魔だったから立ち止まっていたのだ。《困ったな、この女の人は…》という認識で、再度「すみません」と声を掛けた後に私なりに狭い通路、そこでしゃがみ込んでしまっている彼女を避けるように体を横にした。また、バッグがドスンとかコツンとか当たったというのであれば、また少し状況は別になるのかも知れませんが、どう考えても、そのような手応えはく、書店内でしゃがみ込んでしまっていた彼女の髪、その頭頂部付近か耳の付近の髪を「ふぁさっ」と掠めるようにして当たっただけなのだ。何故、このような侮辱を受けねばならないのか――という思いで一杯でした。状況を認識する為にも思考能力と感情的動揺はフル稼働だったかな。

わなわなと震えが来ました。反論したい。しかし、反論しはじめてしまったら冷静でいられる筈もありませんワな。ホントは言いたい事は山のようにある。きっと3〜4分の事だったと思いますが、その小さな書店の中で、葛藤しました。これは言葉には表せないのかな。湧き上がる怒り、その怒りの感情を抑制する事の難しさ、正当性を主張はしたいが、あんな態度を取れるような女にまともなコミュニケーションが通じるワケもないだろうという諦念とのジレンマ、店内の客や店員は、今の声を聞いて、もしかしたら私が一方的に何か非礼を働いているのだと思っているのかも知れないなという恐怖、いやいや、ホントに、わなわなと体が震えるような、そういう嫌な嫌な経験でした。

これは今、回想しても同じですかねぇ。きっと、当事者ではなければ、その屈辱は理解できないでしょう。だから、下手な相手に相談すると、

「そうだったのであれば、君は自分の正当性を、しっかりと主張すればよかったじゃない。声を掛けたのですが、退いてくれなかったのでって、言えばよかったじゃない」

みたいな、箸にも棒にも引っ掛からないアドバイスをするかも知れない。全然違う。そういうアドバイスをする者は正真正銘の無能者だと思う。感情的になっている相手に対して、その誤解を解こうとする努力が、どれだけ不毛であるかを知らない証拠だ。その経験の乏しさ、考察力の低さを示しているよなって思う。筒井康隆さんの『アホの壁』あたりにも、このテの話は出てきますが、感情的になっている相手ほど質の悪いものはなく、どのように振る舞っても埒は開かない。怒るだけムダで、本気で考えたり、本気で感情を爆発させたり、その感情を抑えるだけでもエネルギーのムダで終わる。

ホントに絶望的乖離というものが在るんですね。「話せば分かる筈だ」などという意見もありますが、それは少なくとも相手次第だ。聞く耳を持たぬ者に対しては何を言ってもムダ。仁や誠、心を尽くして、きちんと説明しても、曲解する気しかない者は絶対に曲解する。或いは曲解されてしまう。残念ながら、これが真理ですね。

逆説的に、仮に、少しでも思慮深さとか良識があれば、そもそも「何よ、黙ってっ!」等と、反射的に自分を被害者として認識、そのままストレートに威嚇するような態度はとれないものなのだ。

立場を置き換えてみても歴然だ。そもそも書店でしゃがみ込むような事はしないし、そこで仮に小声で話し掛けられたとしても、いやいや、その背後に立たれただけでも、「あ。私が通行の邪魔をしちゃってるな」と意識を配るだろうから、気付いて当然なのだ。それが通用しなかったから仕方なく、私は脇を擦り抜けることにしたのだ。仮に、仮に、その脇を擦り抜けた人のバッグが体の一部に当たったとして、それで「ちっ」とか「イタっ」という反応ぐらいはするかも知れませんが、だからといって大声を出して相手を咎めたり、睨みつけるような言動を採りゃしない。

仮に、ぶつかられた事を認識し、ちょっとした痛感を認識したとしても、即座に被害者意識を高ぶらせて、軽々に相手を叱責したり、咎めたりは出来ないものであろうと思う。つまり、それが出来てしまう人、常に自分が正義だと思い込んでいる自意識過剰な人に対しては、何を言ってもムダ、反論すれば反論するだけ感情的になって応戦されてしまい、収拾不能になるのが、この世の常でもある。(こうした口論を続けてもロクなことにはならない。癇癪を起して大声を出すか、手を出さないまでも怒りの行き場がなくなるので物を殴ったりする事になる。挙げ句、悪者に仕立て上げられるのがオチだ。世の中、盲目ですな。)

心の中では「このクソ女めっ!」ぐらいの悪感情を抱きながら、それを表出する事は許されず、忍従を強いられる事になるのだ。こういう感慨は、似たような経験がないと理解できないだろうなって思う。中高校生ぐらいの時に喧嘩になって胸倉の掴み合ったり、ちょっとした小突き合いになっている状態と同じような精神的高揚と、また、直後に起こる敗北感に近い徒労感を否応なしに味わう羽目になる。ニンゲンの一生の内でも中々、これは味わえないような屈辱だったよなって思う。

一応、客観的に考えてみるとして、他者が激昂している場面なども何度か目にしてきましたが、まだ、怒りの沸点は遥かに私よりも低いよなって思う。私のケースは地味ながら、その精神的動揺やら高揚、その時の屈辱感は筆舌に尽くしがたい。何故なら、それは諸々の状況、各人の感情を伴って起こるので、他の誰かに語っても、その感慨を理解してもらえる事は期待しにくくもある。

軽々に怒声を上げる事が出来る人を「怒りの沸点が低い人」という意味で、皮肉として羨ましく思うけど、ホントは、世の中って、そーゆーもんだと思いますよ。いつも譲歩してもらっている人と、いつも譲歩している人がある。役割分担ですな。これがあるから意見を譲歩してもらっている側の人の感覚は麻痺する事が有り得る。譲歩されることが当たり前なのだという感覚に陥りやすいって事なんでしょうけどね。
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スマホの使い方をショップの若い店員さんに尋ねている内にも、余計なところをいじくってしまい、あたふたとする。パソコンなら文字入力に苦労する事もないのですが、スマホとなると入力方法も文字変換も違うので慣れないんですね。知らぬ間に視力も衰えており、細かな文字がどうしても読めず、うぬぬぬと目をしかめて、その挙げ句に「スミマセン、ここ、なんて書いてあります?」と尋ねてしまった経験がある。しかし、そういいながら実は内心は動揺しますかねぇ。おそらく、その往年の80年アイドル的なルックスの若い店員さんにオジサンオジサンした醜態を晒すのも心苦しいというか、しのびなく、自分なりには気を遣っているつもりでもある。しかし、如何せん出来ないものは出来なかったりするものなのだと思い知る。

その翌日、某ショッピングセンターで、学生風の若い女性がアンケート調査をしている光景に出くわしました。私自身は偶々、通りがかったという程度で直接的には関与しなかったのですが、スーパーカブで登場した60代かもしくは70代の高齢男性は、そのアンケート調査員のすぐ前にヘルメットも取らぬままにやってきて、

カブ爺「今、中継やっている?」

調査員「?」

カブ爺「アメリカに負けたでしょ?」

調査員「?」

カブ爺「中継やってないの?」

調査員「????」

なんだか居た堪れない気分になりました。おそらく、スーパーカブ爺さんは女子バレーボールのワールドカップの話をしていると思われる。しかし、きっとアルバイトなのでしょう若い調査員は、バレーボールのワールドカップなんてものに関心そのものがないのか、ただただ、変なおじさんもしくは変なおじいさんに話し掛けているという構図になってしまっていたのだ。いきなりカブにまたがったオジサンから意味不明な話題を振られて、ただただきょとんとしていたと思う。

そもそもバレーボールのW杯が国民的関心事なのかどうかも微妙であり、現在ともなればラグビーW杯も絶賛開催中であり、なにやらプロ野球では読売巨人軍が優勝したらしく、また、週末トピックスのまとめではマラソン男子の日本代表枠が決定したという話題もあれば、女子プロゴルフあたりの話題もある。ホントは「国民的関心事」などというものは、それを報道するマスメディアがつくりだした虚妄でしかない。まだテレビという媒体に影響力があって、どこの家も似たり寄ったりのテレビ番組を視聴していた時代であれば、「昨日のバレー、視た?」で通用したり、多少、マニアックに「この前のジャンボ鶴田VSバーン・ガニア戦、視た? やっぱ鶴田のプロレスは最高だわ!」でも相手に拠っては通用したが、現在のような情報氾濫時代では、もう、何が何だか分からないのだ。

「アメリカに負けたでしょ?」

って突然、話し掛けられても、

「ええ、そうですね。昭和20年8月、無条件降伏したようです」

と答えてしまう可能性だってあるのだ。(ねーよ。)

とはいえ、そのスーパーカブのオッサンの心情というのも、或るレベルでは分かってしまうところがある。おそらく、孤独なんでしょうねぇ。誰でもいいからコミュニケーションをとって、繋がりたいと欲している。その相手は、しばしば女性へ、いや、より深い詮索を含めると、若い女性と繋がりたいという深層心理に起因しているよなって思う。

ここで前日の私の体験が想起される。実はスマホの操作を教わった店員さん、イイ感じに80年代アイドルに似ており、そうであったが故に、余計に自分を戒めないとダメだよなという気持ちが立ち上がったのでした。学生時分であったら友人同士で「さっきの子、物凄く美人じゃなかった? ✕✕に似てなかった?」と話し合ったであろう、そんなアイドル風の雰囲気を持っていたので、爐海蠅秉溝屬鮖す訳にはいかんな瓩抜兇犬燭里任靴拭

ごくごく単純に他者と接触する事で孤独を回避しようとする次元の欲求があると思う。そこには老若男女の区別はないという次元ですね。しかし、基本的には生まれ育った時代というものが各自にあるから、年齢の近い世代とは話を合わせる事は、そんなに難しくない。ハードルは高くないというべきか。しかし、それが乖離すれば乖離するほど、当たり前なのですが、コミュニケーションをとる難易度も挙がる訳ですね。べらぼうな高齢者とは話題もノリも合う訳がないし、また反面として、べらぼうに若年者とも話題もノリも合う訳がない。しかも、90年代の時点で「3学年、一世代じゃない?」という話があったと思う。学年にして3学年違うと、もう、話題や価値観が微妙にズレてしまうのが実際なのだ。そう考えてみると、30歳、40歳違う年齢の人たちのノリに合わせる事なんて、不可能に近いと思う。

仮に「わっはっはっ。私は大丈夫ですよ。私は気分が若いですからな、わっはっは!」といった自覚の人があったとしても、もう、その時点で、ノリはズレているのが実際であろうと思う。

現在の80代、70代、60代、50代、40代の連中にも、当然、若かりし頃というものがあった筈で、その頃に、その者が年齢の離れた年長者に対して、どのような感覚を持っていたか、それを考慮すれば、自明であろうと思う。

また、このケースでは老いた男性による若い女性に対しての、接触を持ちたいという心理があるという具合に展開させていますが、これは女性も同じではないかなって思う。高齢女性は高齢女性で基本的には青年に対して、もしくは頼りになりそうな30代もしくは40代ぐらいの男性との接触を深層心理化で欲しているだろうなと思う。こういう話には必ず例外が付き纏うので、その人がその人に照らし合わせて「そのような事はない!」と展開する事は可能ですが、原則的には、そういう心理を我々は抱えていると思う。それらは狎瓩箸盍愀犬靴討い詛嗣な次元があり、その濃密にして本能的な次元と切り離して、ごくごく単純に他者とも繋がろうとする社会性の次元とがある。性的衝動を奥底に抱えた次元の要求(欲求)と、それは希薄化しているが社会的な動物として老若男女を限定せずに単純に他者と繋がりたいという要求(欲求)とが、大雑把にあると思う。

その無意識的な要求によって、ヒトは行動をしている。だから、幾らかは律しようとする気持ちがないと、何かにつけて高齢者は若い人に話し掛けたがる心理があるだろうなって思う。色気なんてカンケーないと思いたいところですが、おそらく日常的に、それは表出していますな。かつてのエレベーターガール、これが仮にオバアサンだったり、オジイサンだったりしたら、やはり、受ける印象は全然違った筈なのだ。

で、結局は、大型書店へ入りました。郊外型の大型書店なので、かなり豊富な品揃えと言える。しかし、探している本は見つからない。途中から、だだっ広過ぎて探すのが億劫になる。豊富な品揃えであっても、ありとあらゆる本を在庫するのは無理なんでしょう、結局は、そこそこ話題になっている新刊本がずらりと並んでいる。文庫本や新書もずらりと並んでいるが、全てを網羅している訳ではないのだなと気付かされました。これだけ、人々の関心というのは多種多様なのであれば、その関心事からして合致しないし、価値観なんてものも一致しないに決まっているよなという、当たり前の諦念に到りました。この情報の豊富さ、豊饒さってのは、どうにもならない。そこで溺れ死ぬ以外、なさそうなんですよね。。。
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男性で70代ってところですかねぇ。うーん、70代後半なのかな…。前歯が上下ともに無い。「こんにちは」と挨拶してくれたまではいいんですが、その後、その方は押し黙ってしまい、「あれ? なんだろう」と戸惑う羽目になりました。作業着風の上着のポケットをまさぐって、そこからくちゃくちゃに丸めたメモを取り出し、そのメモには筆ペンで用事が記されていました。そうか、この人は、「家の人にメモを手渡されて、お使いをしにきたって事か」と気付く。

こう述べると、認知症であるとか知的能力に問題の有る方だろうと考える訳ですが、いわゆる障害者用の施設などに入っている方とか、或いは認知症の方とは違う印象なんですね。おそらく、会話が苦手な人とか、他者とのコミュニケーションに難がある人とか、そういった印象で。

その後も、また、別の人なのですが、今度は60歳前後と思しき男性と対峙する事になりました。こちらの方は事前に市の福祉課から✕✕時頃に✕✕という方が、そちらに伺うかも知れませんので…という事前に連絡を受けていた方でした。この60歳前後の方もメモを持たされてお使いに来た方と似ているところがあり、見た目は到ってフツウなのですが、どうもコミュニケーションに幾らか難を持っている。スーパーマーケットで買い物は出来るが「何々の券を何枚下さい」という程度のコミュニケーションが伴なう場合には難を抱えているという感じ。昔で言うところの自閉症といった印象ですかね。事前に市役所の職員が気を利かせて電話してくれたので、私から話し掛けることで無事に用件を済ませたのでしたが、つまり、他人に話し掛ける事を極度に怖れ、いや、緊張なのかな、その細かなことは分かりませんが、実際、そーゆー方が、結構、居るらしい事を思い知らされました。

軽度の精神的な障害を持っている方だったのかも知れませんが、確かに、こういう方も居るんですよねぇ…。年齢的に「引き籠もり」というものとは違うのでしょうけど、その二人に共通しているのは明らかに対人関係を苦手にしているらしいな、という事でした。身体能力とか知的能力に決定的な問題があるというのではなく、精神的な何か。気後れしてしまい、自分から他人に話し掛ける事ができない何かだろうか等と考えたくなる。

まぁ、ウチの方はホントに少し歩けば古い家がいっぱいがあるような埼玉の田舎を残しているエリアだから、実際、そういう人を目撃する事がある方なのかな。もう十年ぐらい前ですが、

「オレね、学校行かなかったから字が読めねぇんだよ。悪いね、おにいちゃん、ちょっと、これ、何て書いているのか読んでくんない?」

という具合に人懐っこそうにメモを差し出された経験がある。視力に問題があって文字が読めないのではなく、文字を読めないのだという。まぁ、有り得るのかな…。うーん、確かに未だにボッチャン式トイレの区画なんても残ってしまっているのが現実だし、時代に取り残された人たちって、ホントは潜在的にはそこそこ居るのになって思う。

東京だって埼玉だって、昭和50年頃までは、そこら中に土管や砂利山といった資材置き場が点在していて、出稼ぎ労働者の飯場ってのが点在していたんですよね。いやいや、ホントは今でも名残りはあるかな。邦画で言うと「万引き家族」でリリー・フランキーがマイクロバスで作業現場に向かうシーンがある。この労働者を運ぶマイクロバスは、私が記憶しているだけでも「いつでも夜空は…」にもあったし、「予告犯」でもあったし、実は知っている人にとっては「そうそう、あーゆーバスで現場へ連れていかれるのよ」ってなる御馴染みのマイクロバスなのだ。ああして作業現場へ行って作業をし、帰りに封筒に入った日当をもらい、ハンコをつく。私もなんかのアルバイトで乗った経験がありますが、独特な雰囲気ですね。バスに揺られながら、♪ドナドナドーナ、ドーナな気分。

こういう視点を有している意味では、ホントは福祉否定論者ではないつもり。ただ、もう現行の社会保障政策や、それを歓迎するかのような思潮、妙に偏っている情報誘導にはウンザリさせられる。

また、最近、銀行の投信担当の方に、どのように経済を見通しているのかと質問した際、中々、興味深い意見でした。なんだかんだいって、自分以上のネガティブな見解の人というのは、あんまりお目に掛からないのですが、その方は感情の起伏のない口調で、「日本経済はかなり厳しい」と言い切るタイプでした。「かなり厳しい」というのは合点のいくところでしたが、続けて「米中貿易戦争の敗者は日本である」という、その口調に関心を惹かれました。米中貿易戦争の敗者が日本であると判断するそのシビアな口調というがね…。いやいや、確かにガチで経済指標を比較すれば米国株式がなんだかんだいって堅調であるのに対して、日本株式は米中貿易戦争に振り回されまくってしまっている。

数日前に小金持ちの市会議員さんと雑談した際、アベノミクスに対しての冷やかな物言いに小さな驚きがありました。購読している新聞は産経新聞で、北関東選出の自民党代議士らと繋がりを持っている方であり、中々、本性を見抜くのが難しいタヌキな部分がある方なのですが、言葉の端にそれが読み取れたので、思わず吹き出してしまいました。一体全体、どこのバカが今のタイミングで消費増税なんだって話になる。ホントは消費増税をする度に景気を冷え込ませてきたのが実情であり、前回の消費増税にしても2〜3年は景気が冷え込んだと考えられているであろうに、あまりにも、そこら辺の感覚というのが意図的にミスリードされているよなって思う。これがマスコミを含めて「消費増税しかない」というキャンペーンをしているから、物凄く質が悪い。こういう局面で「増税していくしかないのです」と言っている高齢者たちの地位や保有資産、あるいは、その人相を思い浮かべてみるといい。

「幸福を追求する自由とは、不幸を受忍する自由である」

という考え方を、近刊の或る書籍が指摘しているという。或る意味では正鵠を得ているかも知れませんが、発想が少し西洋的だなと感じませんかね? 【自由】というものを考えた場合に、その問答は当然に導かれますが、あまりにも典型的な二択論的二元論に問題を落とし込んでしまっている。ホントは、そのように誘導する事で、「我々、グローバリストが提唱しているリベラリズムが正しいのです」と展開させる為の布石にも思える。しかも、受忍する自由っていうのが、如何にもマゾヒスト的に思える。苦しみを受忍するぐらいなら、投機マネーがそうしているように、逃亡したり、逃散するっていう選択肢も認めない【自由】捉え切れないと思う。

おそらく「幸福を追求する自由とは不幸を受忍する自由である」から「不幸を撲滅する事が幸福の実現となる」のような論法になるのでしょう。それも間違いではないけど、程度によりけりだという大前提を見失わせるような話だよなって思う。幸福なんてのものは各人の自己に帰属する範疇の主観的な問題であり、個人の自由を縛り付けておいて「ほれ、不幸を減らしてやったぞ」という社会がホントに自由なのかどうかは、物凄く疑わしい。どうやったって、この問題は程度の問題が付き纏うんでしょうにね。

先日、厚労省が「非正規」という語句を、労働者の呼称として相応しくないので使用しないようにと通達を出したという。雇用形態という概念で「非正規」は使用してもいいが、労働者を表現する場合の呼称としては相応しくない、と。こんな事、ばっかりやってますな。しかし、間違いなく、弱者に対しての福祉ではなく、分配論としての大きな社会保障に舵を切っている。興味深い事に口頭では社会主義などを口汚く罵りながら、彼等の進んで行っている方向性は自由に係る裁量を残さない全体主義的な何かに向かってしまっている。既に労働基準法を少しづつ変えてしまっているようですが、最低基準だけを定めておいて、実際を誘導する、その主導権は飽くまで世俗社会・市場経済に委ねるというのであれば問題は生じないのでしょうに、現行の日本は、こういう方向へ進むべきだと御上が言っているのだから、それに見合った忖度をして、そちらへ進むべしという考え方になっていますね。しかも既に、ゴマをする人たちが数字の辻褄合わせ等をし始めていたり、不利益な言説を報じないような報道による気遣いが登場してしまっている事からすると、あんまり長期的な展望は望みにくくなる。

「働かねばサボる事も出来ない」という主旨の缶コーヒーのテレビCMは、相変わらず現場主義だなって感心する。ホントは、あれぐらいが背伸びなし、人間の身の丈にあった自由じゃないのかなって思う。働いているときにサボられたら腹も立つ。しかし、だからとって相互監視をはじめてしまうと、まったく隙間もなくなってしまう。しかし、そういう隙間のない環境こそを理想として望んでいる人たちが居るワケですよね。円形刑務所の上から囚人たちを監視するように、その監視人たちは労働者に一部の隙も与えることなく監視する事で、労働者よりも遥かに上等な幸福に浴せる。
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