どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: 歴史関連

ヒストリーチャンネルにてドキュメンタリー「天皇ヒロヒト〜ラスト・バンザイ」を視聴。番組の最後に流れたテロップでは「THE LAST BANZAI」でした。英語圏で製作されたドキュメンタリー番組という事になりそうですが、意外な内容だったので面食らった。どう面食らったのかというと、おそらく日本で製作する歴史ドキュメンタリー番組よりも、昭和天皇を一個人の人物として捉えている。しかも、どういう事なのか、非常に親日的な内容になっているなぁ…と感じた。

英国へ留学して、25歳で即位する。貴重な映像だなと感じたのはローマを視察している皇太子時代の映像、それと大正天皇が崩御して新たに昭和天皇として即位する行列の映像もあった。

【昭和】とは「平和を願うの意である」とか、日本が軍国主義化する中で昭和天皇が詠んだ「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を紹介し、これも昭和天皇が戦争を回避しようとしていた和歌であると紹介し、天皇を欺く形で起こされた満州某重大事件(満州事変)になると昭和天皇が「激怒」したという風にナレーションしていた。中国で戦火が拡大していくのを停戦させたのも昭和天皇の意向であった、と。

国際連盟の脱退、そして真珠湾攻撃で大日本帝国は太平洋戦争に突入していく訳ですが、古い古い映像で当時の日本人大使が「戦力的に勝ち目のない戦争を始めてしまった」旨の回想をしている。話を字幕で追っていた訳ですが、結構、重要な話もしており、その大使は「ミッドウェー海戦後に和平へ向けて動くべきだったが動けず、また、小笠原で敗れた際にも和平に向けて動くべきタイミングであったが動けなかった」旨、語っていた。冷静に戦力比較をすれば、確かに勝ち目のない戦争であり、何故に、あのような無謀な戦争をしたのかに思いが到る。

しかし、ここで皮肉なことに、熱狂してしまっている当時の日本人たちの映像に目が留まる。バンザーイ、バンザーイと、全体主義になっている古い日本人の姿を目にする事になる。思うに、あれは、やはり、天皇ファシズムと呼ぶべき何かだったような気がする。全体主義であり、軍国主義であり、その中心に天皇と皇国史観が置かれていた訳ですが、日本の場合は天皇及び皇国史観は当時の政治家や軍国主義者らによって国民を束ねる為の道具として使用されていた節がある。傍から見れば、エンペラー・ヒロヒトによる独裁国家にも見えたかも知れませんが、当時の大日本帝国の場合の実相というのは「天皇」も「皇国史観」も或る種の道具であり、意思決定の中核にあったものは、恐れを知らぬ権威主義的な軍国主義であったように思う。

また、興味深い事に米国人か英国人かが、当時の日本を語って「甘やかされて育った子供のようなもので、いつか暴走する」と指摘していた。これは、15〜25年前に中国に対して、その「甘やかされて育てられた子供」という表現が実際に使用されていた記憶がある。

原爆が投下され、日本は敗北する。戦争を終わらせる事を決意したのは昭和天皇であった。いわゆる御聖断については深くは掘り下げていませんでしたが、戦争を終わらせる決断をしたのは昭和天皇であったというのは間違いではない。そのように紡いでいるので、この「ラスト・バンザイ」だと昭和天皇は、ずっと平和主義者であったという描き方になる。そして、どん底に落ちた日本の復活を見届けたのも昭和天皇であった――と。

あの映像は何処でしょうねぇ…、御巡幸の映像だと思うけど、昭和天皇が民衆の前に帽子をとって、笑顔で手を振っている穏やかな表情の映像があった。いい映像でしたね。この番組でも実際の昭和天皇は学究肌の人物であった事は強調されていた。

随分、この番組は親日的というか昭和天皇を好意的に描いてくれているなぁ…という気分になった。番組のはじまりは、アマテラスの命を受けて天皇制が始まったのが日本の起源であるみたいな半分神話から始まり、そして戦後の日本の経済復興にチラと触れる中で日本国および日本民族を総括するようなナレーションがあった。

そのナレーションでは「日本という国は、美しさと強い意志を持つ国である」といった具合のナレーションで、いやいや、もう、そんな令和の現在ともなると片鱗さえ怪しくなってます、と謙遜したくなってしまった。「いえいえ、そんなに褒められましても」的な。

何かしら政治的な意図があって製作された親日的なドキュメンタリー番組だったのかも知れませんけど、実は『昭和天皇伝』や『昭和天皇独白録』などの内容とも矛盾はなかった。おそらく、天皇は孤独だったのだ。シェークスピア劇のセリフとして「きみは私を王と呼ぶが、私が欲しているのは友人だ。それでもきみは私を王と呼ぶかね?」みたいな一節を紹介していた。それが天皇ヒロヒトの実相であったとまとめていた――。
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NHK総合「映像の世紀〜バタフライエフェクト」では、「ワイマール」と称してワイマール共和制下のドイツがヒトラー政権を誕生させるまでを題材にしていましたが、非常に秀逸であったなぁ…。これまでにも何度も何度も、民主主義体制によってヒトラー率いるナチス政権が誕生したという筋書きについては触れて来たつもりでしたが、その下地になっていたのがワイマール時代の先進的な取り組みの14年間にあったという切り取りは「なるほど」という切り取り方であった。

帝政が倒れたドイツでは世界に先駆けて自由を重んじた民主的な議会主義政治が始まり、それがワイマール憲法で有名なワイマール共和制だったという訳です。或る意味では非常に先進的な社会変革が起こっていた。しかし、そこで頭角を現したのはユダヤ系ドイツ人たちであった。百貨店も銀行も、創業者はユダヤ人であった。元々、ユダヤ人は貸金業をやっていたが、この時期に銀行業にも進出したという。

1日あたりの労働時間を8時間とするという決まり事もワイマール期に始まった。すると人々は娯楽に殺到し、スポーツが大流行したという。丁度、この記事にラジオが登場し、人々はラジオに夢中になった。ラジオの語り掛けに皆が耳を澄ますというライフスタイルとなった。また、この期のドイツでは女性参政権も承認され、当時の世界情勢からすると、かなり先進的であった。街中にはダンスホールが林立し、ナレーションに沿うと「LGBTQ」の数だけ、そうしたダンスホールが存在し、ヌーディストたちが登場したのも、この頃だそうで、ヘルマン・ヘッセは元ヌーディストであったという。太陽の下で全裸になる事は、この上ない解放感を伴うものらしく、そのようなナレーションも為されていた。また、フロイトらが精神分析を確立したのも、この頃であったという。

ワイマール共和制下のドイツでは世界に先駆けて先進的な自由民主主義を標榜していたという。しかし、そこに経済危機が発生した。アメリカで恐慌が発生し、同年の年明けになるとドイツにも波及し、そのまま、ハイパーインフレとなった。更に戦後賠償金の返済が滞った事を理由にフランス軍とベルギー軍がドイツの工業地帯であるルール占領に踏み切る。すると、ハイパーインフレに拍車がかかり、1米ドル=4兆2千億マルクとなるというレベルの空前絶後のインフレとなり、文字通り、紙幣は紙クズになった。

例としては、あるピアニストが演奏会のギャラをもらったが一人では運び切れない量だったので人を頼んで運んで帰る事になったという。帰りにソーセージ2本を購入する為に、もらっがギャラの半分を支払ったという。そして翌日にはピアノ演奏でもらった運び切れない量の紙幣の半分が残っていた筈であるが、そのカネではソーセージ1本も買えなかったという。僅か1日が経過しただけでソーセージの値段が高騰してしまっていたという訳です。

ドイツ国民の不満が高まり始めた。民衆は英雄を標榜するようになり、それがアドルフ・ヒトラーだったという訳です。ナチスは選挙で実際に勝利して獲得議席数で第一党となる。その後に国会議事堂焼き討ち事件を起こして共産党を取り締まり、ワイマール憲法が万が一の緊急時対策の為に用意しておいた第48条を根拠にし、共産党への取り締まりをし、次にはワイマール共和制が特例として設けていた全権委任法を利用して、ヒトラーに拠る独裁体制が誕生した。

この部分こそがナチスやヒトラーを語る場合に重要で、ヒトラーは軍事クーデターを起こして政権を獲ったのではなく、実際に選挙で勝利して誕生した何かであった。ヒトラーを特別な独裁者にしてしまったのは、この頃のドイツの大衆の、その意志であったと考えねばならない訳です。すっとぼけてはいけない。

番組内では、ナチス政権誕生の後に身の危険を感じて米国に移民したトーマン・マンの言葉が使用されていましたが、どういう主旨であったのかを私が脳内で再生すると、

「この変革は一過性のものではない。積もり積もったドイツ人の不満の表われである。ドイツの人々は、この14年間、耐えに耐えてきた。ドイツ人が伝統的に美徳としていた〈質実剛健〉の気風であったが、この14年間は、そうしたアイデンティティーを失っていた。ナチスドイツの誕生でドイツ人が取り戻したものは〈誇り〉である」

といった主旨のものであった。

性的マイノリティの人たちが集っていたというバーやダンスホールはナチスに接収され、トランスジェンダーたちが集まっていた「エル・ドラド」という巨大なダンスホールは、ナチス突撃隊の拠点に改装された。そういった流れであった。この部分、いちいち説明しませんが、質実剛健を美徳とする文化を持っている場合、そういった不満を溜めてしまうのが人間である――と。この「不満」の箇所については、先述したドイツを拠点にしていた精神分析のグループは、神経症の患者が激増していて、その問題には不満が関係している事にも〈実は気が付いていた〉とダメ押しも為されていた。

また、ラジオが普及していたという背景がありましたが、ラジオに夢中になっていた少年の一人が後にナチスで宣伝相となったゲッペルスであった。ラジオは電波にのせて、一人の話を万人に届けることができる魅力的な装置である事を熟知していたという訳です。


今回の「映像の世紀〜バタフライエフェクト」は、タイミング的にも見事だなと感じた。世界的な選挙イヤーですが、フランスあたりでも極右が票を伸ばしているという。それは「極右」が伸びているという具合に表現されるのですが、その裏では既存のリベラル勢力が、彼らが言うところの右派を支持する人たち自尊心を傷つけてきたので嫌悪された結果でもあるというシビアな現実の投影のようにも思える。また、「極右の台頭」という現象は表裏一体の裏側であり、おそらく「リベラルの衰退」を意味しているのでしょう。
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松本清張が著した『日本の黒い霧』について日本歴史大辞典は項目を設定しており、『日本の黒い霧』を「記録文学」という言葉で説明している。実は占領下の日本で起こった不可解な事件を取り扱ったノンフィクション作品であり、実はフィクションではなく、語られる機会は少ないが実はリアルな戦後史なのだ。上下巻あるので結構なテーマが取り上げられていますが、その中でも白眉なのは「征服者とダイヤモンド」編であった。数年前にもコンビニの商品棚にミリオン出版系の雑誌があって「M資金」なんてワードが取り上げられていた事がありましたが、戦時中の財宝を巡る話がある。その起源にも置かれそうな戦後のドサクサに消えてしまったダイヤモンドや貴金属の問題を丁寧に語っている。ある筈のダイヤや貴金属はどのように消えたのか? その問題は実は都市伝説中の都市伝説の話である。

以下、『日本の黒い霧』に沿って――。

戦時中の大日本帝国では、昭和19年8月15日から同年11月14日までの三ヵ月間、国民からダイヤモンドを買い上げるという政策を採った。「ダイヤモンド買い上げ実施に関する件」(一九機二三五一号)。元々は軍需省から工業ダイヤの必要性を迫られて政府が立法化し、国民からダイヤモンドと貴金属の即時買い上げを実際に実施したものであった。

政府の命を受けた「交易営団」という組織が、そのダイヤモンド買い上げ業務に当たった。東京、大阪、京都、神奈川、愛知、兵庫、福岡の七大都府県では、それぞれの都府県庁指定の百貨店が買い上げの代行店として指名された。それ以外の道府県では中央物資活用協会が巡回して買い上げを行なった。東京では日本橋三越、銀座松屋、上野松坂屋、神奈川では伊勢佐木町松屋で、それぞれ即時鑑定即時払いとした。

一応は買い取りであったが戦時下、それも太平洋戦争末期の事であった。基本的には「買い取り」であったが、中にはカネは要らないといってダイヤや貴金属を供出したケースも多々あったという。この「買い取り」には行列が出来て、都市部だけではなく、樺太や台湾、満州にも及んだという。

当初は三ヵ月間の予定であったが、期間は延長され四ヵ月間に及び、昭和19年12月15日まで受付は続いた。その締め切りの翌日、つまり、12月16日には当時の軍需次官・竹内可吉は国民の感謝の談話を発表した。その談話の中で「ダイヤモンドは目標の九倍、白金は二倍という大成果が上った」と述べたという。

目標の9倍以上もの買い上げに成功したとの事であったが、具体的な数字は不明で、しかも戦況は一気に傾斜していき、昭和20年8月には敗戦へ到った。確かに戦争のドサクサに消えてしまったダイヤモンド、いわゆる接収ダイヤモンドの話があるのは疑いようがない事実である。

その「ダイヤモンド買い上げ」が実施された事は、しばらくは人々の記憶の中にあったらしく、接収貴金属処理審査会の設置が昭和35年に実現する。最初は接収貴金属審査会を設置すべしという法案が国会に提出されたのは昭和28年であったが、それはお流れとなり、昭和31年に再提出されたが、この時も継続審議となって持ち越しとなった。昭和32年に衆議院大蔵委員会が大蔵当局と協議した結果、接収貴金属処理審査会の設置が決定した。この頃になると、接収した貴金属類は日銀が保管しているものだと考えられていた事が判明する。

当時の評価額についても触れられている。

々顱糞賣Τし海ら貴金属を引き継いだ厚生、大蔵省及び造幣局を含むもの)…359億円

日銀…307億円

8魄弃鎮帖庁隠隠恐円

ぬ唄屐庁苅害円


合計すると政府・民間を含めて約730億円となり、金が200トン、銀が2114トン、白金が1トン、ダイヤが16万1千カラット、その他に2億円分の資産がある筈だとなった。

しかし、具体的な数字が出始めると、国会関係者や担当筋から、この法案の実施には問題があるというケチがつき始めた。それらは以下のようなものであった。

米占領軍は、この貴金属の管理中に、その大部分の貴金属を熔解、または混合し、一部を米本国へ持ち帰って売却している

米軍によって接収された民間分の43億円は、旧所有者に返還できそうだが、戦時中に民間から集めた貴金属やダイヤは、これらの機関が政府に貴金属類を引き渡さないうちに占領軍に接収され、関係書類さえも戦災で焼失してしまったため、返還できるかどうかとなると困難である

少し面倒臭い言葉遣いになっていますが、これらは平たく言えば、戦時中のドサクサ、敗戦後のドサクサの中で、接収し保管されている筈の貴金属類の行方が不明になってしまっていたという話になる。これは陰謀史観でもなんでもなく、事実そのものなのだ。

さて、少し引用します。

このことについて一つの参考資料がある。それは、当時の隠退蔵物資等処理委員会の副委員長であった世耕弘一氏の手記である。世耕氏は云う。

「供出ダイヤの数量は、現在まで明確に発表されていないのは残念である。国会での、当時の担当係官公吏の証言では、十六万一千カラットそこそこだと言っている。そして、現在、日本銀行の地下室の金庫にある、十六万一千カラットのダイヤモンドは、それを実証していると言っている。ところで、私は此の数字には承服できない。私が内務政務次官として、内務省にいた時分隠退蔵物資を摘発した時の参考資料に基いて調査しても、六十五万カラット位なければならない勘定である。〜略〜反対論者は、世界のダイヤモンド産出量から見ても、それは嘘言(きょげん)だと言うのである。一応、此の主張には考えさせるのであるが、私が調査したところによると、日本の代表的宝石商の専門家の意見を聞いても、私の見解は正当だと言われるのである。〜以下略〜)」
(『日本の黒い霧』下巻25〜26頁)

で、この世耕氏の手記とは、『特集文藝春秋』に掲載された手記である事も示されている。

当時の隠退蔵物資等処理委員会の副委員長であり、且つ、内務省政務次官であった人物が、この世耕氏であり、その世耕氏に拠れば「ダイヤモンドが16万1千カラットだなんて話がおかしいです。ホントは65万カラットぐらいある筈なんです」と、文藝春秋誌にブチ撒けいていた、そういう事があったらしい。

「おいおい、すげぇ話になってきたぞ。戦時中に供出された莫大なダイヤモンドがホントにあったのに、ドサクサ紛れに誰かが持ち逃げしちゃったって話じゃねーかよ」となる。

我々が想像している以上に深い闇がある。占領軍の中の不良分子も接収ダイヤ(供出ダイヤ)を横領すれば、日本人の不逞分子も接収ダイヤの横領に参戦していたと思われる事が徐々に暴かれてゆく。ダイヤモンドに群がる魑魅魍魎たち。悪党のみが繁栄できるのが世の常で――まぁ、そんなのが真実なのかもね。
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阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とは、簡単に説明すると吉備真備(きびのまきび)や玄掘覆欧鵑椶Α砲蕕箸箸發棒称716年7月に遣唐使となり、翌717年に入唐。太学に学んだ後は官吏となり、唐王朝に仕えていた。この時期の唐の皇帝は楊貴妃に溺れた事で知られる玄宗であった。唐では名前を変えており、唐での名前は朝仲満(ちょうちゅうまん)、朝衡(ちょうこう)、晁衡(ちょうこう)。

阿倍仲麻呂は唐に於いては、文人として名高い李白、王維らとの親交も深めた。玄宗からも目をかけられたらしく、とんとん拍子で出世し、西暦733年には帰国を唐王朝に上申したが玄宗は帰国を認めなかった。玄宗は異国からやってきた、その青年の才能が流出する事を惜しんだ、の意だ。実際に阿倍仲麻呂は唐王朝で秘書監、衛尉卿(えいいけい)などの役職に就いており、最終的には従三品(じゅうさんぴん)にまで出世を果たしてしまっていた。この従三品とは、陳舜臣の説明によると「閣僚に次ぐほどの地位」であったという。

唐王朝は世界帝国であったので外国人を重用していたが、それでも従三品は異例であり、外国人としての秘書監になるだけでも頂点を極めたようなものだという。

西暦750年に遣唐使として入唐した藤原清河(ふじわらのきよかわ/遣唐大使)と吉備真備(きびのまきび/遣唐副使)は玄宗皇帝に謁見した。

西暦753年正月元旦、唐王朝が執り行なった拝賀式で、或るトラブルが発生した。宮中席次を巡るトラブルであり、トラブルを起こしたのは日本の大伴古麻呂(おおとものこまろ/遣唐副使)であった。

席順は玄宗皇帝を中央にして、諸国の代表が並ぶ席順になっており、東の筆頭は新羅で、その次が大食(タージ/アッバース朝)、西の筆頭は吐蕃(とばん/チベット)で、その次が日本という並びであった。この並びに大伴古麻呂がクレームをつけたというトラブルであった。大伴古麻呂に言わせれば、「新羅は日本に朝貢している国であり、その新羅が日本よりも席順が上位であるというのは承服できぬ」という抗議を唐王朝の外交部に申し入れたのだ。

冷静に考えると、如何にも日本人らしい傲慢さが出ている。アッバース朝の席順を考えれば、単に距離の近い国から順番に並べているとも言える。また、当時の新羅は唐王朝の服属国であった。決定的な事を言えば、その拝賀式が行われた90年前となる西暦663年には白村江の戦いをしている。唐・新羅連合軍vs.百済・日本連合軍で戦争をした過去もある。それなのに日本人から「新羅よりも低くみられている、この席順は到底、承服しかねる」と厳重抗議されても当惑するに決まっている。

丁寧に当時の歴史解説を読んでゆくと、例えば吉備真備は「優雅な振る舞いをしていた」と中国でも評価されたし、阿倍仲麻呂になると「唐書」東夷伝及び「新唐書」東夷列伝に伝記まで残されており、更には(玄宗の没後ですが)空海が破格の扱いで待遇される切欠になったのは、異次元レベルの達筆であった事、また、文章も尋常ではなく上手かったので唐の地方役人が仰天してしまったという逸話が残っている。おそらく、この唐の時代、特に玄宗皇帝の時代は殊更に文明を尊ぶ文人気風が強かった時代なのだ。

唐王朝では、その猛抗議を受けた為に会議を開き、新羅と日本の席を入れ替える事で結論とした。が、裏では新羅に対して唐の呉懐宝という人物が「日本の使節は直ぐに帰国予定なので手柄となる土産話が必要なのでしょう。そこを、考えてやりましょう。我々は身内なのですから」と言いくるめたのが実際であったらしい。唐王朝側に、このトラブルについての記録は残っていないが、日本へ帰国した大伴古麻呂は、この事を報告しているので日本には記録も残っているという。

(因みに、この宮中席次騒動を起こした大伴古麻呂は、その後に皇太子廃立を巡る政争に巻き込まれて橘奈良麻呂と反乱を計画したとして処刑に遭っている。)

もし、席次問題を事前に阿倍仲麻呂に相談していたなら…という話にもなりますが、もう、その頃には阿倍仲麻呂は唐王朝の中でも重臣クラスになってしまっていた――と。

当時の日本でも積極的に仏教を取り入れており、日本で本格的に仏教を広めるには、僧たちを授戒する律師が必要だという問題が起こっており、唐から律師を招くことができないかという話が持ち上がっていた。西暦742年の事、入唐僧(にっとうそう)の栄叡(ようえい)、普照らは、唐でも高僧として知られていた鑑真に渡日を要請していた。ここで鑑真がすんなりと日本にやってきた訳ではない。

西暦743年、鑑真は揚州大明寺にて初めて渡日を要請された。既に鑑真の名声は高かったが、鑑真は即座に渡日を決意した。弟子たちは難色を示したが鑑真は

是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん

と説き伏せたという。鑑真の渡日が難航した事は有名だ。そもそも唐王朝は許可しなかったのだ。しかし、鑑真の渡日に賭ける熱情は強く、12年間の歳月に五回の失敗を繰り返し、六度目の航海で西暦754年に日本にやってきたのであった。

第1回と第4回の渡日計画は役人に阻止された。第2回と第3回は強烈な風浪に阻止された。第5回も例によって風浪に晒され、栄叡(ようえい)は死亡し、鑑真も失明した。

それでも鑑真の日本行きは敢行されたのだ。

西暦753年の事、つまり、そして先に紹介した拝賀式での宮中席次トラブルが起こった年である。藤原清河、大伴古麻呂らの遣唐使団は日本への帰国を予定していた。ここで唐で高官になってしまっていた阿倍仲麻呂は藤原清河とともに鑑真に会った。鑑真を迎えたいという日本側と、是非とも日本へ行ってやりたいという鑑真、そして実は日本を離れて36年もの月日が流れていた阿倍仲麻呂も、藤原清河らとともに遣唐使船に乗って日本へ帰国するという決断に踏み切ったのだ。


西暦753年1月15日。その日は満月であった。そして日本行きの遣唐使船は蘇州地方の揚子江南岸の港に停泊していた。その船には、こっそりと揚州を抜け出してきた鑑真が乗り込んだ。これは鑑真にして六度目の渡日挑戦であった。

阿倍仲麻呂の方は、日本に帰国するに当たっては事前に明州の海辺(現在の寧波/ニンポー)で別れの宴を開き、当地の人たちとの別れを惜しんでいた。その宴の途中、のぼってくる月を見た安倍仲麻呂は歌を詠んだ。

天(あま)の原 ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に 出でし月かも

上記の阿倍仲麻呂の歌は百人一首にも採用されている有名な和歌だという。全訳古語辞典を参考にすると、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも」とは、以下のような意味であると解説してある。

異郷の地である、ここでも空を仰ぎ見ると、今、まさに月がのぼってくる。この月は懐かしい故国日本の春日の三笠山からのぼった月と同じだなあ――の意だという。


改めて西暦753年1月15日の蘇州の港――。阿倍仲麻呂と鑑真らを乗船させる事になった遣唐使船団は4隻で構成されていた。第1船に藤原清河と阿倍仲麻呂らが乗船した。第2船には大伴古麻呂と鑑真が乗り込んだ。一説に鑑真は密航に該当するので本来であれば第1船に乗船すべきところ、さすがに日本と唐との関係に影響を及ぼすかも知れないという理由で、第1船ではなく第2船に乗船する事になったという。

運命は怖ろしいまでに皮肉であった。この帰国船団の第1船は海上で暴風に遭って安南(あんなん)に漂着した。「安南」と聞いてもピンときませんが、これ、なんと現在のベトナムの事だ。唐王朝の支配権はベトナムまで支配が及んでおり、安南都護府を置いていた。第1船の遭難は長安にも知れ渡ることになり、親友であった李白は阿倍仲麻呂(晁衡)が死んだものと思い込み、「晁卿衡を哭(こく)す」と題した挽歌をつくったという。(この李白は杜甫と並んで中国最高の詩人と呼ばれている。)

陳舜臣著『十八史略』五巻465頁から訳詞を引用すると、以下のようになる。

日本の晁卿、帝都を辞し

征帆一片、蓬壺を遶(めぐ)る

明月返らず 碧海(あおうみ)に沈み

白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ



第1船は流れ流されベトナム(安南)に漂着していた。幸いしたのかどうか、結局、藤原清河と阿倍仲麻呂は唐の都、長安に戻る事となり、阿倍仲麻呂だけではなく藤原清河も唐王朝に仕える事になった。この二人は日本に帰国することなく、唐で没している。阿倍仲麻呂は西暦770年没、藤原清河は西暦779年没。その後の唐王朝は「安史の乱」が発生し、帰国できる状況でなくなってしまったのであった。阿倍仲麻呂については、とうとう帰国を果たせなかったものの、詠んだ歌から望郷の念が強かった事が分かる。そんな阿倍仲麻呂に対しては死後60年以上も経過した西暦836年に「正二位」が贈られた。阿倍仲麻呂は717年に入唐し、そのまま、770年で没するまで期間を唐で過ごし、その生涯を終えた――。

大伴古麻呂と鑑真を乗せた第2船は、西暦753年12月に薩摩国に到着。出発したのは同年1月であった事を考慮すると、11ヶ月もの歳月を経ての日本の薩摩へ着いたという意味であった。そして鑑真は翌年2月に入京を果たし、その後は東大寺で授戒と伝律に専念をした。更に唐招提寺を建立、「大和上」(だいわじょう)の号を賜った。
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ヒストリーチャンネルのドキュメント番組を視聴していても、細かなニュアンスが理解できない事がある。その好例が「ディスコグラフィー」のジョン・F・ケネディ編であった。ケネディ家の家系などにも触れられており、それについてはアイルランド系移民の家柄であった事がなんだか強調されていたように感じていた。とはいえ、視聴していても日本人である私からすると「アイルランドからの移民であった事に意味があるのだろうか?」のようになってしまう。

何かしら白眼視されているニュアンスなのは感じ取れた。ケヴィン・コスナーが主演でキューバ危機を題材にした映画「13デイズ」あたりでも、〈アイルランドいじり〉のようなものがあった。しかし、何かしらのニュアンスが含まれている事情というのが、日本人だとよく理解できないのだ。

その謎は、神野正史監修『民族と宗教がわかる世界史』(英知出版)に記されていた以下の箇所で理解できた。

多くのピューリタンを抱えていたイギリスの植民地が独立して誕生したアメリカでは、その後もプロテスタントが宗教の中心となった。21世紀の現在も、アメリカの人口の4割近くがプロテスタントである。

〜略〜

カトリックの強いアイルランドやイタリアから独立後のアメリカに渡ってきた移民の多くは移住前の信仰を捨てることなく、カトリック信仰を守り続けた。現在のアメリカでも人口の2割近くはカトリック信者である。
『民族と宗教がわかる世界史』(英知出版)53頁

なるほど、そういう事かと合点した。なんだか「アイルランドいじり」みたいなニュアンスを感じ取れていてたのですが、その裏側には「プロテスタントが主流である中のカトリック」という意味合いが隠されていたのだな、と、確信的に理解できた。

「イタリア」というのも、なるほど、映画「ロッキー」でシルベスター・スタローンが半ばヤケクソ気味に自らを「イタリアの種馬」のように名乗っていたシーンがあった。イタリア系である事に何か意味があるのかなと思ったら、そう考えてみると、そうか、そういう意味だ。

イタリアン・マフィアとかシシリー・マフィアにしても同じだ。イタリアだ。Eテレ「世界サブカルチャー史」の玉木宏さんのナレーションがあったように、民族的アイデンティティーというべきか、疑似血縁的なファミリーというアイデンティティーを剥き出しにした映画が人々に響いたという意味であった事に気付く。もう、剥き出しも剥き出しだ。映画「ゴッド・ファーザー」が大ヒットした頃から、その問題だったのだ。国民国家的なアイデンティティー、つまり、宗教や移民元などに頓着することなく、合衆国憲法の定める下、遵法精神に則った者は等しく米国人なのであるというアイデンティティーを獲得できるという目論見があったが、早々に、その目論見は躓いていたという指摘だ。

それがマルコムXやモハメド・アリ、更にはブラックパンサー党といったアフリカ系のアイデンティティーの台頭を起こし、サブカルシーンでもスパイク・リー監督が制作した映画「マルコムX」に繫げたのが、同番組のアメリカ編であった。サブカル分析、おそるべし。

その部分が次の箇所だ。

アフリカ系アメリカ人のほとんどはプロテスタントだが、20世紀に入ると、キリスト教の信仰は奴隷時代に押しつけられたものだとして、一部のアフリカ系アメリカ人はイスラム教に入信するようになった。(同53頁)

上記の引用箇所は、イラスム教に入信して「カシアス・クレイ」から「モハメド・アリ」に改名したモハメド・アリと、その名前を拒否する為に「X」を名前としたマルコムXの逸話には大きく関係していた訳か。思ったより決定的な難題かも知れない。

モハメド・アリの場合は、金メダルを遺棄した行動、徴兵拒否もそうなのですが、「世界最強の男」として注目され始めた時代に、わざわざ、当時のザイール(現在のコンゴ)のキンシャサで世界タイトルマッチを実現するなどしていた。キンシャサの奇跡。そうかそうか、アリのドキュメンタリーのVHSやDVDを複数視聴したことがあったので、薄っすらとは分かったつもりになっていたものの、結構、本格的にブラックパワーを利用してカリスマ性を獲得していったのだなぁ。また、改めて、そうした時代に登場した人物だったのだなと今更ながらに気付かされる。単なるプロボクサーの英雄の話ではなく、時代を背負ったスターだったという訳だ。

とはいえ、そう判明してしまっても事は重大だ。つまり、多民族国家という構想そのもの、その実現が難しいようだぞという事は60年代後半もしくは70年代頃には少し見え掛かってきていて、80年代後半には半ば決定的なものになっていたという事ではないのかな。「世界サブカル史」がやってみせた指摘とは、実際に以下の話であると思う。

つまり、

「この際だから正直に言いますけど、ホントはサブカルチャーの分析から言いますと、60年代の頃から米国が今日のような状況になる未来というのは、深部では予見できたところがあったように思うのです」

だ。
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奴隷制度というのは日本にも在ったので、それを西洋文明の中に見る特異な制度であるというと、たちまちのうちに反論されてしまったりする。しかし、日本に於ける奴隷と西洋文明が抱えている奴隷とでは、やはり、差異があると認めるべきであろうと思う。

日本史としても魏志倭人伝に記述があるように「生口」(せいこう)は、或る種の捕虜や奴隷として「人」を物品のように献上する等していた事が記されている。「奴婢」(ぬひ)と呼ばれる人たちがあり、朝廷のそれは公奴婢といい、豪族のそれは私奴婢と呼んでおり、あたかもウマやラクダなどの経済動物のような感覚で扱われていたように想像できる。その他にも年季奉公のようなものも或る種の奴隷であるが、それは年季が明けらたら身柄が解放されるという仕組みなので、経済システムと関係している。寒村の娘が「人買い」に身売りされていたという話も実際問題としては大正時代頃まではあったのではないかと推測していいのだと思う。そのように売られた娘は「苦界に落とされる」のように表現していたが、これは令和の時代にホスト狂いを起こし、挙げ句に「風俗産業に沈められる」といった表現に対応しているよなと感じる。

これらも奴隷制度の話とされてしまうのですが、西洋文明に登場する奴隷制度の話と比べれば、まだ、マシというか、結局、人情や慈悲のようなものを感じ取れていたように思う。そのような者、その者の境遇を「憐れなことだ」と感じ取っていただろうし、また、どこかで、そうした制度を理不尽なものだと感じる感性を有していた節がある。

生口や奴婢を題材とした時代劇を視る機会は殆んどありませんが、時代劇ではしばしば身売りされた遊女の物語が実際に題材にされているものが多く、おそらく、伝統的にそうした物語を踏襲されている。今日的な言説では「東洋には人権という概念がなかった」として一刀両断で東洋思想が不当に貶められているように感じる事がある。確かに西洋人が言うところの〈人権〉という感覚はないが、それにもまして優れているであろう〈憐れみを知る〉とか〈哀しみを知る〉といった憐憫が重視されてきたのが日本文化であろと思う。ただの武人については「もののふ」と呼ばず、憐れみを知って初めて「もののふ」となる。武蔵武者の熊谷直実が我が子と同じ年齢ぐらいでしかない源敦盛の首を斬る際に感覚として「憐れみ」を知った。それを「精神の覚醒であった」というのが鈴木大拙の語る「武士のはじまり」であった。実際に、その「敦盛」(あつもり)の一節で舞うことを織田信長らが好んでいたというのだから、日本の武士なんてのも、そんなものなのでしょう。

なので、奴隷制度は奴隷制度だろって言われても、西洋文明に登場した奴隷とは少し異なるニュアンスがあるよなって思う。決定的なのは奴隷貿易であろうと思いますが、なんというのかな、知恵のある小学生が素直な幼稚園児をだまくらかして売り払っていたかのような悪質さ加減、冷徹さ加減、非人情さ加減が違うよな、と。なので、日本人にしても色々と怨みを買い呪われているところもあるのでしょうけど、その呪わしさという意味では、西洋文明とは違うような気がする。


さて、以下に呪わしき西洋文明と奴隷の話を、神野正史監修『民族と宗教がわかる世界史』(英知出版)に沿って――。

15世紀末にコロンブスが新大陸を発見して以降、西洋人は新大陸への入植を展開した。「コンキスタドール」という言葉で知られるスペインは当時はカトリックの国であったがアステカ帝国、インカ帝国に対しての壮大な征服事業を国家事業として展開し、先住文明を滅ぼしてしまった。皮肉な事に、現行文明を支えているといも言い換える事ができるトウモロコシとジャガイモは、いずれもアンデス文明やマヤ文明が培った農作物である。もし、トウモロコシとジャガイモがなかったなら? 

新大陸には北米と南米とがあった訳ですが、北米大陸の方へ積極的に入植するようになったのはイギリスであった。新大陸への入植はスペイン人、フランス人、イギリス人と続いた。フランス人もイギリスと同じ北米大陸に進出したがフランス人は北米インディアンを毛皮交易の相手と考えていたので比較的良好な関係にあったという。しかし、イギリスから北米大陸へ入ったプロテスタント系のピューリタン(清教徒)は貪欲であったという。

(因みに、監修の神野正史氏は河合塾の世界史の講師であり、別に私が意図的に偏った話をしている訳ではありませんよ。念の為。)

1620年にメイフラワー号で41名のピューリタンが北米大陸へ入ったのを皮切りにして、以降、1640年までに数万人のピューリタンが北米大陸へ渡り、入植地を拡大していった。

以下、着色文字は引用になります。

イギリス人の入植地が拡大していくなかで、イギリス人たちはインディアンから土地や資源を奪い、さらに彼らを奴隷として働かせるようになった。一方、フランス人も北米大陸に進出していたが、フランス人はインディアンを毛皮交易の相手と考えていたため、彼らとの関係は比較的良好だった。

そのような経緯もあり、1754年にイギリスとフランスが北米大陸での利権をめぐって衝突すると、多くのインディアンはフランスと同盟を結んでイギリスと戦った。これがフレンチ・インディアン戦争だ。

この戦争はイギリスの勝利に終わり、以後フランスは北米大陸からほぼ撤退した。ただ、勝利したイギリス側も戦費がかさみ、その負担を植民地に押しつけようとした。これに植民地側は強く反発し、1775年にイギリスとの独立戦争が勃発。植民地側が勝利を収め、北米大陸のイギリス人入植地はアメリカ合衆国として独立を果たした。
(『民族と宗教でわかる世界史』52頁)

大方は、そのような流れであり、これがアメリカ合衆国の祖型になっている。しかし、この話は、もう少し焦点を絞る事が可能だ。何故なら、そこにWASP(ワスプ/ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)という観点を加える事ができてしまうから。実際問題として歴代米国大統領の中でカトリック信者はJFKとバイデンのみであり、非白人なのはオバマのみであり、以前から指摘されていたように超大国米国の実権は実際にWASPと呼ばれる階層の人たちが掌握してきたと考えられているのだ。

再び引用します。イギリス人の入植のところから。

中南米はスペインが支配しており、ブラジルもポルトガルの植民地になっていた。さらに肥沃なミシシッピー川流域はフランスが抑えていたため、彼らの行き先は荒れ果てた西海岸しかなかったのである。〜略〜

イギリスからの移民たちにとって荒れ果てた土地を開拓するのには大変な労苦がともなった。入植者の多くが過酷な環境に直面したが、彼らの多くはまともに働こうとはせず、インディアンたちへの略奪に明け暮れた。その略奪がうまくいかなくなると飢えや疫病に見舞われ人口を減らすことを繰返した。彼らは荒野を切り拓いて生存圏を築いたことを「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」と呼び、キリスト教徒として正しい行為だと正当化したが、実情はそうではなかったのだ。

彼らは異教徒であるインディアンを迫害、虐殺することをも正当化した。
(同56〜57頁)

となる。やはり、米国あたりにしても、なんだか呪わしい歴史だって捉える事ができる。これが西部劇などで描かれる西部開拓時代であり、インディアンを殺戮する事を神から与えられた使命(マニフェスト・デスティニー)と考えていた人たちに対してインデアンたちが反撃を開始し、1622年以降はインディアンと移民たちとの間での長い戦争へと突入した。

ブルーハーツの「青空」の冒頭の歌詞「♪ ブラウン管の向こう側 かっこつけた騎兵隊が インディアンを打ち倒した/ピカピカに光った銃で 出来ればボクのユウウツを 打ち倒して くれればよかったのに」の世界かも知れない。

ずーっと【インディアン】という単語を使用していますが、同著に拠れば、実はアメリカ・インディアンの人たちの中には「ネイティブ・アメリカン」という呼称に対して反発を持っている人たちがいるのが実際なのだという。先住民のような意味で、「ネイティブ・アメリカン」という呼称の方がマシだろうと考えて使用されている訳ですが、北米インディアンの人たちからすれば、どうでもいい問題らしい。しかも「ネイティブ・アメリカン」という呼称を用いた場合には、イヌイットやハワイ先住民も含めてしまう事になり、それだったら「インディアン」という呼称の方がマシではないのかという。因みにコロンブスがインドに到達したと勘違いをして彼らを「インド人のつもりでインディアンと呼んだ」という逸話も有名ですが、コロンブスの認識は、もっともっと大胆なまでに薄ぼんやりとした意味合い、ざっくりと「東方ユーラシア世界」を、インドぐらいにしか認識しておらず、インディアンという呼称を使用したと考えがあるのだそうな。

話を奴隷の歴史に戻します。やがて西洋文明は極めて特殊であるとも言える奴隷貿易を展開する事になる。

アフリカ大陸の黒人たちを最初に奴隷として扱ったのはアッバース朝時代のイスラム教徒だった。やがて15世紀に入ると大航海時代の到来とともにポルトガルやスペインがアフリカへと進出、黒人をヨーロッパへ連れ去るようになった。彼らは中南米で鉱山や農園を経営したが、最初はその労働力として現地の先住民を使っていた。しかし酷使が過ぎたために人口が減少、その労働力不足を補うためにアフリカの黒人を奴隷として捕らえるようになっていった。

17世紀になるとイギリスが組織的な奴隷貿易を開始する。〜略〜ちなみに奴隷を捕らえて物々交換に応じていたのは西アフリカに住んでいた同じ黒人だった。彼らはイギリス製の武器を使った奴隷狩りをおこなっていたのだ。アフリカ大陸西岸で捕らえられた奴隷は今度は中南米や西インド諸島へと運ばれ、そこで砂糖と交換された。その砂糖がイギリスへと運ばれたのだ。〜略〜この大西洋三角貿易は常に「荷物」を積み込んでいたために無駄がなく、奴隷商人や投資家たちに莫大な利益をもたらした。
(同58頁)

黒人が黒人を捕まえてイギリス人に売っていた。しかし、そのように誘導していたのはイギリス人の方だろうから、こうした構図を描ける部分というのが何とも悪魔的だよなって思う。続けます。

18世紀に入り、イギリスで産業革命が始まると大西洋三角貿易に変化が生じた。綿花の需要が増加したのだ。そこでアフリカの黒人たちは北米大陸南部の綿花プランテーションへ送られるようになる。〜略〜こうしてアメリカ大陸に大量の黒人奴隷が送られた。現在、アメリカに住んでいるアフリカ系黒人たちのほとんどは、この時期にアメリカ大陸に送り込まれた奴隷の子孫ということになる。

この奴隷貿易はアメリカがイギリスから独立した後も引き続きおこなわれた。18世紀の後半までにアフリカから連れ去られた黒人は1000万人とも1500万人とも言われている。
(同58頁)

コスパ的にもタイパ的にも最強の手法で莫大な利益を得ており、これが現代文明を築くまでの礎になっている。しかも未だに或る種の他者をモノや道具のようにしか見ることができず、搾取する事が目的化してしまっている文化的遺伝子を、現在まで引き継いでいるようにも見えてしまうという不思議がある。

また、ここが分かるとEテレ「世界サブカルチャー史」に於けるマルコムXの登場あたりの解釈が深まる。同番組ではアフリカ系アメリカ人にしても実際には、その民族的アイデンティティーを頼りにしてブラックパワーを炸裂させたと表現していた。それはサブカルチャーというシーンに限らず、アイデンティティーが表に出るようになったという意味であり、そうなったから当たり前に衝突する機会も増えたという意味なのだ。或る意味では、因果応報であり、起こるべくして起こったブラックパワーの炸裂――という事であったようにも思える。
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ヨーロッパの三大民族とは、ラテン民族、スラヴ民族、ゲルマン民族なのだという。参考にしているのは、神野仁史監修のムック本『民族と宗教がわかる世界史』(英和出版)になりますが、この問題の何が分かり難いのかというとゲルマン民族から派生したなんたら人とかなんたら族が余りにも多いので、なんだ、結局、ゲルマン民族になるのかよ、になってしまう事がやたらと多いのだ。

アングロ人とサクソン人とが合わさって、アングロ・サクソン人となるが、アングロ人もサクソン人もゲルマン民族という事になる。そして現代人の感覚からすると「ゲルマン」が「Garman」なので日本人の頭だと、即座にドイツをイメージしてしまう。勿論、「ゲルマン民族の大移動」ぐらいは知っているつもりであるが、詳しく理解できているとは思えないのだ。そう、これ、私がなんだけれどもね。ヒストリーチャンネルで昨秋頃に「ヨーロッパの暗黒史」を取り扱ったドキュメンタリー番組を視聴したのでイメージは掴めているものの、どうも詰め切れないところがある。

例えば、次の話だ。我々日本人は歴史の教科書で「ゲルマン民族の大移動」と教わる。しかし、フランスの教科書になると「ゲルマン民族の大侵入」という具合に掲載されているという。こういう細部は、正直、イメージするのが非常に難しいと思う。つまり、ゲルマン民族の大移動(大侵入)があった頃、4世紀後半という事になりますが、現在のフランスの地に住んでいたのはガリア人であり、ガリア人からすれば、ゲルマン民族は侵入してきた侵略者であったという事になる。まだ当時はローマ帝国だったのだ。フランス人のルーツはフランク人だろと考えたくなる。それも間違いではないが、そのフランク人というのはゲルマン民族から派生したものだという。謂わば、ゲルマン系フランク人。

一説に北方から南下してきた「グルグル」と何やら音声を発する野蛮な人たちの事を当時のローマ帝国の人たちが彼等の発する言葉を音写して「ゲルマン」のように呼ぶことになったのだという。それがゲルマンの語源だと考えられるのだそうな。勿論、ローマ帝国が下水道を完備していたり、コロッセオを建設していた等、かなり高度な文明を有していたのに対して、当時のゲルマン民族は狩猟民族であった。

ゲルマン民族は南下する以前から西ローマ帝国の傭兵になっていたが、オドアケル将軍の反乱が起こり、西ローマ帝国が滅亡。ゲルマン人たちはヨーロッパ地方に広く住み着く事となる。因みにフランク王国が成立するのは5世紀後半であるが、言語はローマ帝国時代のラテン語であり、ゲルマン人以前にガリア人もあったのでフランスやイタリア、スペイン、ポルトガルといった国々は先のヨーロッパの三大民族の分類に当て嵌めるとラテン民族という事になる。西フランク王国が現在のフランスになり、東フランク王国が現在のドイツになったのだそうな。

ゲルマン民族から派生したアングロ人、サクソン人、ジュート人たちは海を渡ってイギリスに侵入し、先住のケルト人を圧迫し、アングロ・サクソン7王国を建国する。古代遺跡の分布などからするとケルト人はフランス・ブルターニュ地方にも痕跡を残していますが、裏返すとローマ帝国があった時代にケルト人は地方に盤踞している感じであったところ、これまたゲルマン人に征服されたって事のよう。ノルマン人も実はゲルマン民族系で北方のゲルマン人という事になる。スカンジナビアやデンマーク。

ゲルマン民族、最強ですな。元々は北方の狩猟民族なのに文明を叩き壊して乗っ取りに成功してしまったかのようなイメージだ。しかし、これは実は中国史に於ける興亡と共通点があるように感じた。中国人と言えば漢民族というイメージが定着しているものの、漢民族という概念の成立は漢王朝の頃であり、その後の中国王朝史になると実は北方騎馬民族が漢化して王朝を築いている期間がかなり長い。匈奴も漢化したし、鮮卑も漢化したし、女真も突厥も蒙古も漢化して中国を統治したりしている。(中華)文明とはノウハウさえ習得すれば支配者を変えても継続する性質があり、乗っ取りも可能なようだ。

蛮族とか野蛮のように思われていた人々が文明化するのは容易いのだ。それこそ、文明と接した事がないイゾラドと呼ばれるブラジルのアマゾン原住民が文明に接した際、少年たちは直ぐにサッカーボールで遊ぶ事、ラジオで都会人と同じ流行の音楽を聴いてダンスして楽しむも瞬く間に起こった。しかし、文明社会で生きようとして町に働きに出掛けてみると、彼等は文明社会の中では自尊心を喪失し、それ以前には起こらなかった自殺する若者が増えるという現象に見舞われた――。


話を戻しますが、先述したラテン人は欧州地方に存在していたローマ帝国、更にはギリシャ哲学&ギリシャ神話の系統を受け継ぐ伝統の古くからの歴史的な遺伝子を、その地で継承してきた人たちのという事になる。ここは難しくない。

ヨーロッパの三大民族の中で最も人口が多いのはスラヴ民族なのだそうな。これは、なんだか意外な気がする。しかし、そうらしい。東スラヴと呼ばれるのがロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、西スラヴと呼ばれるのがポーランド人、チェコ人、スロベキア人、最後に南スラヴと呼ばれるのがセリビア人、クロアチア人、スロベニア人。これは地域で読むと東ヨーロッパ地方、及びバルカン半島地方に住む人々がスラヴ民族に該当するという。

このスラヴ民族は紀元前8世紀頃にウクライナに登場し、そこからロシア、東欧、更にはバルカン半島へ拡散していった民族であるという。このスラヴ人は、ゲルマン人の侵入を殆んど受けずに済んだ歴史を持っている為、(誤解のないように引用としますが)「一定レベルの純潔性を保つことができた」のだそうな。その為かスラヴ民族は金髪碧眼が現在でも多かったという。

また、現在でも名残りを残している問題ですが、「スラヴ民族の人々は容姿が美しい」という認識は古くからあったらしく、西暦955年にドイツのオットー大帝がマジャール人(これはフン族と混血したハンガリー人のこと)を討った際に、その地にいたスラヴ人を捕らえて多数が奴隷として売られたという。再び引用しますが「殊にスラヴ人には美女が多かったので、多くが性奴隷として売買の対象にされたとも言われている。古代ギリシア人もローマ人も頻繁にスラヴ人を襲い、美女狩りをおこなっていたと言われている。」そうな。

その名前の由来は、古代ギリシャ人がバルカン半島で出会った際、「お前たちが使用している言語はなんというのだ?」への返答として「スラヴ」(Slavs)と返したので、それが「スラヴ」という名称の語源だという。奴隷を現在の英語で【Slave】と表記するが、それはスラヴ民族を意味する【Slavs】が語源だという。先述した通り、美形の多いスラヴ人は大昔から奴隷として売買されていたという歴史と関係しているらしいのだ。この話、私は「奴隷だったから、彼等の呼称はスラヴ民族になった」のように誤解していた。実は順番は逆で「スラヴ民族は昔から奴隷にされたので、奴隷という単語の語源にスラヴ民族の名前が用いられるようになった」が正確な認識だったよう。

このスラヴ民族は、容姿が北方ゲルマン民族と似ている事から遺伝子的にも近いと考えられていたが最近の遺伝子解析では別の系統である事が判明したそうな。確かに北欧系と呼ばれる人たちの美形と、スラヴの人たちの美形っぷりは「あんたたち、容姿、洗練され過ぎだろ!」という感覚はなんとなく認識できる。しかし両者は遺伝子としては異系統らしい。

日本史にも呪わしいところがありますが、ヨーロッパ史ってのは、それよりも2倍か3倍ぐらい呪わしい歴史のような気がしないでもない。
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吉田敏浩著『昭和史からの警鐘』(毎日新聞出版)は、松本清張と半藤一利が導き出した昭和史を基に戦前と戦中を検証し、そこから現在に向けての警鐘を指摘したものでした。内容は濃密だし、ひょっとしたら、この辺りが本来的に辿り着くべき戦争の総括であったような気もする。

ただ、単純に「漢字率の高さ」があり、とっつきにくさもあった。別に難解な漢字が使用されている訳でもないのですが「第二次世界大戦当時」であるとか「衆議院予算委員会分科会」等の漢字で表記せざるを得ない単語が多用されている文章で、ざっくり言えば、使用されている活字の約半分は漢字で表記されているような印象。なので、疲れているときには読みにくく感じた。しかし、それにも増して内容は濃密だ。私自身も浜矩子氏が「これからしばらく手許に置いておこうと思う」ぐらいに同著を絶賛していたので手にしましたが、膨大な昭和史を学び直すのはタイムパフォーマンス的にも容易ではない中で、同著は要点が集約してあり、重宝しそう。

戦争を取り上げたドキュメンタリーをチェックすると、何故、そんな無謀な作戦が実施されたのかという問題に突き当たる。どれもこれも似たようなものであり、昭和史レベルで検証すれば「軍部の暴走」が開戦の要因になったと総括するのが妥当であり、作戦レベルになってきた場合について、半藤一利は半生を昭和史に費やしたと称される人物ですが、その半藤は結論として「小集団エリート主義」を挙げている。具体的に名前も同著では掲げてある。

日本がアメリカとイギリスに対する戦争に突き進もうとしていた、一九四一年(昭和一六年)七月の時点で、「陸軍の意志形成の中心」にいた参謀本部第一〔作戦〕部長は田中新一中将、同作戦課長は服部卓四郎大佐で、その下に作戦課班長の辻政信中佐がいた。このトリオが「参謀本部を開戦論」にまとめていった。(『昭和史からの警鐘』49頁)

何故、これが小集団エリート主義の弊害なのかというと、情報専門家である参謀本部第二部からの報告を無視して、参謀本部作戦課が自分たちに都合のいいような情勢判断をしていた為であるという。そして、それらを半藤一利の著書から引いている。

「参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦)には、エリート中のエリートだけが集結した。第一部にはほかに第三課(編制・動員)、第四課(国土防衛・警備)があるが、花形はだれが何といおうと、作戦と戦争指導を掌握する第二課。それが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである」(『ノモンハンの夏』)

どのように小集団エリートが形成されていったのかというと、その人たちは「いずれも陸軍大学校出の俊英」と呼ばれた人たちであり、その裏には「日本陸軍には秀才信仰が色濃かった」と『ノモンハンの夏』の中で語っていたという。

学歴信仰は戦前から? それは兎も角としてエリート意識が強いので、当時から唯我独尊状態との批判があったらしい。しかし、気に留めることなく、遠慮なく俊英たちは自分たちだけが決定権を持っているのだという俊英ならではの傲慢に陥っていたという事でしょう。

そして、例のあの話につながる。以下の引用は半藤一利・戸高一成著『愛国者の条件』(ダイヤモンド社)からの孫引用という事になります。

「日本軍の戦死者は、その約七割近くが餓死、または栄養失調にともなう病死という、まことに凄惨なむごたらしい最期を迎えています。もちろん、兵士の七割近くが餓死する戦争なんて、おかしいにきまっています。少なくとも第二次世界大戦当時、そんな戦いをしていたのは日本だけです」

「それでは、いったい何かがおかしかったのか。作戦です。参謀本部から下される作戦があまりにも無計画・無責任で、愚かだったのです。補給もままならず、作戦によっては『食料は現地で調達せよ』などという、信じられないほど無責任な形で戦地に送り込んでいます」
(『昭和史からの警鐘』48頁)

おそらく、他のテキストや映像ドキュメンタリーでも、これに似たような総括になっていくでしょう。ガダルカナル島の話であるとか、レイテ島の話であるとか、インパール作戦であるとか、沖縄戦であるとか、無謀な作戦をしていたと回想される逸話だらけだとも言える。それで敗戦して「国民総懺悔」などという文言が出たというのは異常だし、そもそも日本人が日本人として戦争の総括をせずに、その後の現代史の歩みをやってきてしまっている。何故、日本人は無謀な作戦を実行した当事者に責任を問わなかったのだろう。現在ともなると、連日のように誰かが吊るしあげられているのに。

この辺りの文脈になると、松本清張の小説も色濃く反映されてくる。日本には黒い霧があるのではないか? 帝銀事件は何故、あんな結末になったのか? ロッキード事件の不可解な謎の理由は? その糸口が私の場合も決定的だなと感じたのは砂川事件を巡っての判決であった。一審の判決がマッカーサー神社をつくった最高裁判所長官の意向によって覆ってしまったというおかしなものであった。私が気付いたのは白井聡氏の著書であったが、この『昭和史からの警鐘』の著者にも「砂川判決」を巡っての著書がある。その辺りが分かってしまうと色々と視野が拓けてしまうところがある。

(ホント、不思議だったのですが、白井聡氏の著書を読み終えた直後に、仕事の関係で自伝をつくりたいという方がいて、その方から自伝本の見本を見せて欲しいと頼まれて、そこで仕事仲間にお願いして取り寄せた一般個人の自伝本三冊の内の一冊が、労働闘争をしていた人物の自叙伝であった。しかも砂川事件に於ける判決の引っくり返しの事が詳しく記されていたので実は驚いた。偶然の巡り合わせの妙なのですが、まるで神の配剤のようにも思えたかな。)

エリートをエリートと崇めると、そのように崇められたエリートは傲慢に陥り易い。こうした土壌・風土をつくってしまっているのは、案外、日本人自身の可能性があるような気がしないでもない。

拙ブログ:砂川事件について
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ノーム・チョムスキーの反骨精神は少年時代の体験が影響しているという。実際に、それを語っているインタビューの映像を視た事がある。「そんなにオモシロい話ではないので披露するようなものでもないが…」と前置きして語っていたと思う。

小学校低学年の頃の話で、ごくありふれた肥満児がイジメられていた。当初はチョムスキー少年も特に止めることもしなかった。しかし、なりゆきで仲裁に入った。問題は解決したように思えたが、そうではなかった。ガキ大将グループは、上級生を呼んできた。最初、チョムスキー少年は、その肥満児と並ぶようにして待ち構えていたが、実際に上級生が近づいてきたら、怖くなって逃げてしまったという体験があるのだという。後に、その時の自分を大いに恥じることになった。以降、自分で自分を恥じないように行動すべきだと心掛けるようになったのだという。

現役の大学教授でありながらベトナム戦争反対の抗議活動に参加し、逮捕されるという騒動まで起こした。対テロ戦争時には孤立無援状態の中でも戦争反対を訴え続けた為、或る新聞は「チョムスキーVS合衆国」との見出しをつけて報じた。それ以前はチョムスキーは非常に多くのリベラル系メディアに引用される人物であったが、その頃からマスメディアからホサレるようになった。

拙ブログ:叛逆と平和〜2022-12-13

また、チョムスキーは自分に反骨精神がなかったら、きっと学術的な功績も残せなかっただろうとも語っていた。

或る講演会で、チョムスキーに中年女性が挙手をして質問をぶつけた。中年女性は「できることなら私は国を愛したいと思っているのですが、可能ですか?」という主旨の質問であった。チョムスキーは「あなたの言う〈国〉というのは〈政府〉という意味ですか?」と問い返し、中年女性が頷くと「そうであれば難しいと思います」と切り出し、そのまま、〈国〉と〈政府〉との差異についての説明をしてみせるという映像があった。それこそカタカナであれば、カントリーとガバメントほどの差になるのでしょうけど、何故か我々はその区別に疎いところがある。国家というニュアンスと郷里というニュアンスでは微妙にズレがあるが、なんとなく帰属性的アイデンティティーの問題があるので曖昧に語ることになってしまうのだ。アメリカ生まれの育ちというアメリカ産こそがアメリカ人なのか、それとも国籍を頼りにして国籍基準でアメリカ人と認識するのか――。

日本にも国家公安委員会や公安警察みたいなものがある。公安とは何かというと「公共の安全」を意味しているという。法治主義的な解釈でそうなっているらしく、そちらのガチガチの解釈では、そういう説明のみで終わる。公共の安全を守る為に、その危険性のある団体を監視するというのが主旨となり、そこには治安を脅かす恐れのある左翼団体や右翼団体が含まれているが、これまた、その具体的な名称についての言及は避けられるようになっている。「監視していますよ」と告知する必要性がないというのが法的根拠になるから。なので、仮に「✕✕という政党については監視しているのでしょう?」と尋ねても「そういった質問には答えられません」と回答しておけばヨシ――というのが公安であるという。しかし、実際のところ、〈公共の安全・秩序を守る為に何がしかの監視〉をしているという。しかし、こうなってくると何を以って〈公共〉とするのかが重要になってくる。〈公共〉の主体とは何か? 国家公安委員会のケースでは結局のところ、大臣、学者、最近では有名な企業経営者などによって委員会が形成され、公安の維持の為の問題を話し合っているのだという。

中国には国安法という法律があるらしく、しばしばニュースでも取り上げられている。日本の「公安」が「公共の安全」であった事からすると、中国のそれは「国家の安全」の略であろうと考えると、すんなりと腑に落ちる。しかし、こういう場合は先述した通り、何を主体とするのかによってニュアンスが異なってくる。国家の安全というのは、為政者(支配者)の側からした場合の国家の安全を意味しており、中国の場合であれば中国共産党の脅威になるものは取り締まれるという解釈になってしまう。その点、日本の「公安」は言葉としては上手にくぐりぬけている訳ですが、為政者側が「公共の安全」を乱したり、そもそも「公共の善」と為政者の唱える「公共の善」とが常に一致しているとは限らないという問題が起こり得る訳です。しかし、成り立ちからすると、おそらく、そういう場合、実社会の慣習法よりも、政府の方の立場を善とするのでしょう。

ある事件では、一度は逮捕状が発行されが、政治的な圧力があったらしく、内閣関係者から現場の警察官への何某かの伝手によって逮捕に到らなかったというケースが、過去に週刊誌で報じられた事があった。結局、そうした薄氷を踏むような何かなのだ。正義も、帰属性も実は相対化できてしまうところがある。

政府による軍事作戦であれば、それが如何に非人道的なものであったとして無批判で許されてしまうというのでは、どうにもなりませんやね。そもそも「政府」や「国家」といったものが、そのように「政府」や「国家」だと認識されるのは、他の政府や国家からの承認に因るという。たとえ、それがマフィアのような組織であったとしても、諸外国から国家と承認されれば、それが国家になれてしまうらしい。

確かに、そんなものかもね。中東情勢が気になったので少しチェックしていたら、ブリンケン米国務長官がネタニヤフ首相と会談したというニュースで「私は一人のユダヤ人として…」と言ってしまっていたけど、結局、色々と絶望的な分断、対立になっていくって気がするよ。これが「リベラル」と呼ばれてきた総本山的な米民主党政権なので、今までの「民主主義を守る」とか「人権」とか、それらの価値観を自分たちで盛大にぶっ壊し始めているように見えるけど…。
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ヒストリーチャンネルの「バイオグラフィー」で昭和天皇〜ヒロヒト編を視聴。1996年に放送したものの再放送であり、現在の情報とは食い違っている箇所もありますという主旨の字幕が番組放送前に流れてからの放送でしたが、率直な感想としては非常に集中して視聴できてしまうデキであったと思う。細部については「おや?」という箇所は2箇所ぐらいあったのだと思いますが、「これは酷いなぁ…」と感じた部分はなかった。いやいや、それどころか、1996年に放送していたのだとしたら、かなり良質の伝記ドキュメンタリーになっていたと思う。

ヒストリーチャンネルでは「バイオグラフィー」(伝記の意)で、ヒトラー、ムッソリーニ、ヒロヒト、トルーマン、マッカーサーの再放送を8月に放送していた。ヒトラーのドキュメンタリー作品を沢山あり、特に感想はなし。ムッソリーニは別の放送局が製作した30分程度のものでしたが、意外とムッソリーニの映像というのは視聴する機会がなく、貴重であった。ムッソリーニはローマ帝国を復活させると言っていたらしく、本人もシーザーに憧れていたという。これがファシズムの父であり、ヒトラーが影響を受けたのはムッソリーニであるという。トルーマンについては無名の政治家に過ぎなかったが急遽、歴史的な舞台の大統領となった事、マッカーサー解任を断行した為に人気はイマイチながら、この「バイオグラフィー」では大統領を辞めた後に郷里のミズーリ州に戻って市民になった…としてフツウに歩道を歩いているシーンは中々に印象的であった。マッカーサー編は特殊ですかね。ナレーションにも似た表現がありましたが「地で英雄人生を歩んだ軍人」みたいな。マッカーサーを解任したトルーマンが悪役になってしまうのも自明か。ナレーションに上手な表現があって、「マッカーサーは日本でも韓国でも皇帝のような支配者であった為に、政治家的な支配者ではなかった」という。また、日本では天皇が人間宣言をした事で、マッカーサーが日本国民にとっての新たな崇拝される対象になった旨のナレーションは結構、シビアな分析かも知れないと感じた。

昭和天皇〜ヒロヒト編ですが、これは日本のドキュメンタリーでは目にしたこともないような幼少時の写真なども流されており、結構、驚きました。文明開化以降の天皇の扱いと為政者との関係を説明しながら、生後三ヵ月で親元を引き離され、実質的には隔離されたような状態で生育した事も説明していた。御成婚を巡っては色覚異常を巡っての問題、その間の渡欧、渡欧ではロンドンだけではなくローマを視察しているという貴重な映像もあったのかな。帰国後に即位。そして二・二六事件を巡っての強硬姿勢をとった事、また、その事を独白録などでは後悔しているらしい事、また、そこから「内気な性格」という表現も使用されていたのかな。明治天皇と昭和天皇には性格的な差異もあり、且つ、昭和は完全に近代化を遂げており、難しい時代の舵取りであった、と。また、これは現在ではどうなっているのか分かりませんが、昭和天皇は父である大正天皇の身勝手を余り快く思っていないところがあり、そうであったが故に「自分を抑える」という自制心の強い天皇になったという旨の解説を加えていた。そうであったが故に、満州事変や上海事変についてもヒロヒトは不満を語っていたが…という具合に描いてある。そして御聖断については、解説の歴史学者が「実際には一存で御聖断に到ったものではなく、周囲が事前に戦争終結の為に動いて調整していた」と説明していた。現在であれば、鈴木貫太郎あたりが具体的に調整役をしていたと具体的に語られていると思う。

この「昭和天皇〜ヒロヒト編」は、昭和天皇を描いたものとしては傑作であったと思う。ルース・ベネディクトの『菊と刀』が日本文化論の傑作と評されるのに似ていて、海外、おそらく米国人の目から見た昭和天皇の像であり、そうであるが故に余計な忖度なしに生々しく描いている。エンディング近くになると、昭和の終焉として「大喪の礼」の映像が流されましたが、米国制作のドキュメンタリーで、あの映像に「昭和という時代の終焉」という具合のナレーション(字幕)があると、改めて、「ああ、そうだったのかな。大きな時間の流れの中で振り返ると、「崩御」から「大喪の礼」への流れというのは確かに歴史的一コマであったのだな」という感慨が沸き起こる。

現在ともなると「日本人は変わった」というか「変わり過ぎてしまった」かのような感慨さえある。また、エンディングでは戦争責任についての議論を残したまま、その生涯を終えた旨のナレーション(字幕)であった。

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