どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: 歴史関連

25日放送のBS-TBS「関口宏の一番新しい近現代史」で取り上げられていたのは真珠湾攻撃についてであった。

先の日米首脳会談の際、日本人ジャーナリスト・千々岩某氏の発した質問への返しで、トランプ大統領が「日本ほど奇襲に詳しい国はない」と返した一コマがあった。少し時間が経過してしまっているものの、その際にもネット上の記述から感じ取れる部分に違和感を感じていた。不穏な質問をしたという趣旨でテレビ朝日所属の千々岩氏への批判的な声が上がった事、それとドナルド・トランプの機転の利いた返しに対しての賞賛と、そんなものしか目にしなかった。しかし、そこには違和感があった。というのは、もう25年前とか30年前なのかも知れませんが、その頃、保守的な言説は明らかにマイノリティであった時代、「いやいや、真珠湾攻撃というのは、ホントはアメリカ側は既に無線を傍受して暗号も解読していたのだから本来的な意味での奇襲攻撃ではなかったんですよ」という見解があったのだ。日本の世論はタカ派的な言説がすっかり支配的になっているのに、その話を誰もしないので違和感を感じたのであった。

例えばですが、週刊文春側が資料を提供して手塚治虫が著した漫画『アドルフに告ぐ』には、その真珠湾攻撃史観で描かれていたと思う。トランプ大統領のあの答弁は、日本が卑劣な奇襲攻撃を仕掛けたという筋書きで語られていた。にもかかわらず、これだけ右派的な言説が支配的になっている言論空間で誰も何も発しないというのは、やっぱり、昨今、タカ派的な発言で幅を利かせている保守陣営には決定的な何かが足りないよなぁ…と感じざるを得なかった。おそらく、彼らは「テレビ朝日」であるとか「TBS」といった看板に反応して、パヨクを攻撃することで自分が偉くなったかのような感覚を得ているだけだ。つまり、マウントを獲りに行って悦に入っているだけの論陣に見えてしまう訳だ。

結局のところ「テレ朝を叩いてるオレは正義なんだぜ」とか「オールドメディアを批判しているオレって正しいんだぜ」という感覚である事が見透けてしまっている。昨今の右派ポピュリズムに傾斜しているのは写真週刊誌やスポーツ新聞の記事なんじゃないのかな。


そして25日放送の「一番新しい近現代史」の中で晴らされる事となった。事実関係の検証的なものが番組内で行なわれていたのだ。

真相を断定するには到らないが、どうも当時の大日本帝国は宣戦布告をするつもりであった。しかし、外務省と軍部とが電報を伝えるタイミングをギリギリまで遅らせるように迫り、実際には攻撃開始の僅か30分前に米国側へ伝えるようにしてしまった。在ワシントン大使館には4000語からなる宣戦布告文を土曜日の夜に送られ、それを翌日の日曜の朝に翻訳して文書化して米国側に伝えた。その頃には既に真珠湾攻撃は終わっていた。つまり、意図的に奇襲作戦を仕掛けたものではなく、飽くまで不作為によって奇襲攻撃になってしまったものだと考えらえる――と、そのように説明されていた。

その経緯は十年ぐらい前に別のテレビ番組でも視たような記憶がある。つまり、それが最も真相に近いものだと考えられる。

同番組のコメンテーターである岩間陽子氏は、そもそも当時、奇襲攻撃は珍しくなかったという文脈の中で「独ソ戦も奇襲攻撃でしたし」とフォローしていた。また、この「一番新しい近現代史」シリーズでは過去に保阪正康氏がレギュラーコメンテーターであった頃にも真珠湾攻撃を巡る箇所で「奇襲攻撃だったかどうかに注目が集まってしまいますが、戦争の始まり方というのは実際には曖昧なものなんです」という具合に応じていた。どこから「真珠湾攻撃は卑劣な奇襲攻撃であった」という言説が生じたのかというと、どうも80年前の米国だという。そこを今回は小泉悠氏が口にしていた。当時のルーズベルト政権(同番組的にはローズベルト)は参戦に舵を切りたかったが、世論は戦争に反対していた。一気に世論を変える為に、殊更に卑劣な奇襲攻撃を日本が仕掛けてきたと政治的プロパガンダを打ったと思われる。その政治的プロパガンダが、80年後となる現在でも未だに有効に作用してしまっている。プロパガンダを仕掛けられた側の敗戦国国民は未だに「(大日本帝国は)卑劣な奇襲攻撃を仕掛けた」と信じてしまっている。なんとも物凄く複雑な問題なのだ。

その戦後レジームの呪縛から解かれぬまま、右傾化が起こって親米保守化してしまっているので、トランプ大統領の切り返しに対して「さすがはトランプ大統領、機転が素晴らしい! それに比べて質問したテレ朝はクソ!」のような反応をするイビツな右派的反応になってしまっている。



また、同番組では少し異なる角度でも真珠湾攻撃を回想していた。真珠湾攻撃は大きな成果を上げた。しかし、作戦では第三攻撃まで予定されていたのに何故か第三攻撃は実施されなかったという謎があるのだそうな。「何故、南雲司令官は第三攻撃を仕掛けなかったのか?」という謎だ。

小泉悠氏によれば、真珠湾攻撃では多くの艦船を沈没、破壊したが、実はドック、石油貯蔵施設までは破壊しなかった。また、多くの艦船を沈没させたが真珠湾というのは浅瀬の海であり、艦船は海中深く沈んだのではなく、艦船の上部は地上に露出した状態であったという。なので、米海軍は、それらの艦船を後に引き揚げて補修して、海軍を立て直したのだという。もし仮に第三攻撃を仕掛けてドックや石油貯蔵施設に対しても破壊を行なっていれば、米海軍が体制立て直しをするのはもっと膨大な時間がかかったと思われるが、何故、南雲司令官は攻撃命令を出さなかったのか――という謎があるらしい。

第三攻撃が実施されなかったのは事実らしく、何故、それが実施されなかったのかについては資料が残っていないので詳細は実際に不明だという。第一攻撃と第二攻撃で、充分に成果を上げたので、第三攻撃は必要なしと判断したのか、第三攻撃を仕掛けると米国側から反撃を受けて自軍に損傷が出ると判断したのか、そこら辺はまったく謎のままなのだという。

まぁ、戦争というのはプロパガンダに次ぐプロパガンダの世界であり、しばしば、正義は捏造され、真実は歪曲されてしまうって事でね。
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ヒストリーチャンネルで放送されていた「アメリカ同時多発テロはなぜ起きた?」の全3話中の2話を視聴。米国同時多発テロ事件については、色々なドキュメンタリー番組を視聴してきたつもりでしたが、この番組は、当時のFBI要人やCIA要人らから豊富な証言を得て構成されており、中身は非常に濃厚であった。

米同時多発テロ事件といえば、世界貿易センタービル(WTC)へ旅客機が突っ込み、攻撃を受けた2棟が崩壊。それが全世界にテレビで生中継された衝撃的な事件であった。我が家では、テレビでサスペンス劇場を視聴していたが急に臨時ニュースになってしまい、何か大きな事故が発生しているらしいと報じられていた。しかし、そのまま、画面を視ていると二機目が突っ込んだという話になり、その映画ではない惨劇の規模に驚愕して、家族と「これは一体、何が起こっているんだ?」となった。テレビの中のキャスターも確信的な情報は持っておらず、殆んどテレビをつけてはいたものの、音声による説明では映像についての要領を得られないという状況が体感的には長かったのを記憶している。

さて、この米同時多発テロ事件の首謀者として、誰を思い浮かべるであろうか? やはり、オサマ・ビンラディンという事になるのでしょう。しかしながら多くの人は、オサマ・ビンラディンがどのような人物であったのかを詳しく知らない。また、首謀者ではあるが実質的にはビンラディンは資金提供者であったという側面が強く、WTC攻撃の立案をしたのはハリド・シェイク・モハメドであり、アルカイダという組織の発案者もハリド・シェイク・モハメドであったという。

これは当時の報道の影響であろうか、誰しもが知っている首謀者の名前はオサマ・ビンラディンであり、当時は並行してウサマ・ビンラディンのように報じられていた。

ビンラディンは、他のドキュメンタリー番組でも取り上げられているようですが、元々は建築業で財を成した実業家であり、さほど過激な思想の持ち主ではなかったという。実際に米ABCやCNNは米同時多発テロが発生する以前のビンラディンへのインタビューに成功していたらしく、その映像も少しだけ番組内で流されていた。その頃には既に米国に攻撃を仕掛けると宣言をしていたものの、190cmほどの長身で口数の少ない人物であったのが確認できる。

ビンラディンはムスリム同胞団に思想的な影響を受けていたが、決定的な転機が起こったのは、アイワン・ザワヒリと接近するようになってからの事であったという。殊に過激な思想であったのはザワヒリで、それ以前のアブドラ・アザムが語るに、ビンラディンは元々は銃を撃つときに驚いて、思わず父親の名前を叫んでしまうような繊細な人物であったという。そんなビンラディンは、ソ連によるアフガン侵攻を受けて、アフガンの為に戦うイスラム聖戦士(ムジャヒディン)の支援に乗り出していった。

ムジャヒディンは、ソビエトを追い払ったのは自分たちであると自認している上に、シルベスター・スタローンが主演をした米国映画(おそらく「ランボー」)でも善玉として描かれた事もあり、神格化されている部分もあったので、オサマ・ビンラディンの名前はムジャヒディンたちの中で拡大していったという。

その様子は、元のビンラディンの知人が次のように表現していた。

「ビンラディンは、ゴリアテに挑むダビデのように思われていた」

【ゴリアテ】とはダビデで戦いを挑んで倒したという大巨人の名前であり、イスラム教の人たちも、こういう具合に物事を認識しているのだなと印象に残った。

CIAではアルカイダの首謀者の名前を「ムフタール」を追っていた。当初、「ムフタール」と呼ばれている人物が居る事は理解できていたが、その正体が不明であったという。しかし、地道な調査を進める中で、ムフタールとはハリド・シェイク・モハメド(通称「KSM」)である事が判明した。

1995年に12機の航空機を爆破するという「ボジンカ計画」と呼ばれるテロ未遂事件があった。ボジンカ計画の際に逮捕されたラムジ・ユセフの身辺を洗ってみると、ラムジ・ユセフの叔父がKSMであり、KSMの甥がラムジ・ユセフであった。

1996年、KSMがビンラディンに米国同時多発テロの提案をした。当初の計画では、9機の旅客機をハイジャックし、8機を高層ビル、原子力発電所、ダムなどへの自爆テロを仕掛けて、最後の1機でアメリカの空港に着陸して、KSMが旅客機が降り立って、その場で「勝利宣言をする」というシナリオであったという。しかし、ビンラディンは、その辺りには興味はなく、計画は縮小されたという。しかし、このクダリで「原子力発電所」や「ダム」といった施設までもがテロの標的になる可能性がある事が分かった。

アルカイダでは本格的に米同時多発テロの実行計画がスタートする。テロの実行犯たちの選出が検討される中、意外な場所から実行犯たちがピックアップされた。ドイツはハンブルクになる或るモスクでは反欧米主義を掲げる教説が熱を帯びていた為であったという。実行犯4名の内の2名はハンブルク工科大学の現役大学生であった。

一人はモハメド・アタで、このアタは非常に真面目にして非常に優秀な学生であったという。授業を受けるのは一番前の席。しかし、ビールも飲まずダンスに興ずることもなく、友人も居ないようだったという。しかし、非常に優秀であったらしく、ハンブルク工科大学の教授の証言によるとアタは「ノーベル賞を狙えるんじゃないか思うぐらい優秀な学生だった」と回想されていた。

もう一人がジアッド・ジャッラーフで、このジャッラーフは周囲に打ち解けていて友人も多く、ビールも飲んだし、恋人もいたという。また、英語、ドイツ語、フランス語の三ヵ国語を話したという。また、このジャッラーフは米国に渡ってから飛行機の訓練校に通っていたが、ここでもナイスガイぶりを発揮していた。訓練校の教官が交通事故を起こした際、ジャッラーフは教官の自宅まで飲み物と花とを持って御見舞いにやってきたという。教官の証言によると同僚たちも御見舞いにきてくれていないのに誰よりも早く御見舞いに駆けつけたのが当時の生徒であったジャッラーフであったという。勿論、この教官にジャッラーフの事を尋ねるとベタ誉めをしていた。「あんないい青年が、あんな事をしでかすなんて全く信じられなかった」的な。

ハンブルクで勧誘された4名に対しては何か大きな使命が与えられるからアフガニスタンへ行けという具合に話が進められ、4名はアフガニスタンへ。そのアフガニスタンでは、既にイスラム聖戦士のリーダーとしてカリスマ性を帯びていたビンラディンと会った。そこでテロ計画の説明を受けてから、また別の拠点へ散っていったという。

実行犯たちは自爆テロをした後に、それが自発的意志によるものであった事を証明する為にビデオメッセージを残しており、そのビデオメッセージが公開されていた。おそらく、ジアッド・ジャッラーフだと思われるが、次のようなに語っていた。

「アメリカは大悪魔であり、陰で世界を操っている。頂点を攻撃すべきだ。その機会が来たら我々はためらわない。神のみ心に適えば、我々は勝利する」

2001年7月、全米は或る問題がマスメディアを賑わせていたという。この2001年7月には7歳の少年がサメに襲われて死亡したのを皮切りにサメによる被害が米国だけで39件も発生し、「サメの夏」と呼ばれており、テレビのニュース番組は連日のようにサメ被害を報じていた。

そのサメ騒動と並行して、CIAはアルカイダが「大量のアメリカ人を殺害する計画がある」という情報を入手していた。つまり、911の2ヶ月前には50名程度の情報機関の職員は、監視していたアルカイダ要員が拠点を動いた事を察知すると同時に、「大量のアメリカ人を殺害する計画を実行しようとしている」という情報を持っていたらしい。

CIAはFBIにも情報を電子メールで回していたが、何故かFBIの方で電子メールが止まってしまっていたらしい。また、この話はFBI側の人物に語らせると違う内容になっており、FBI側の人物に証言によると「CIAが情報を回してくれれば実行犯を事前に逮捕する事ができたかも知れない。なのに、情報を共有しようとしなかった。CIAは我々を信用していなかったんだ」と怒気を孕んで語っていた。

CIAという部署は特殊で、CIA内部でさえ他のセクションとの間には情報を共有しないという文化があるという。そして問題であったのがリチャード・クラークであった。CIA内部でも「変わり者」と認識されている事が、3名程度の証言で分かった。このリチャード・クラークは、アフガニスタンの基地にいるビンラディンの存在を捕捉した際、「ビンラディンを暗殺すべきである」と進言していたが断られていた。結果論からすれば、「あの時にリチャード・クラークの進言に従い、ビンラディンを暗殺しておけば…」というポイントをつくりだした人物でもあった。但し、その話は1995年もしくは1996年の事であり、CIAもホワイトハウスも本格的にオサマ・ビンラディンが脅威である事に気付いていなかったのが実相であったらしい。また、CIAの内部の人物にしても「リチャード・クラークは変わり者であったか?」という質問をされると、「それについてはノーコメント」という返答と、変わり者であった事を認める証言が多数であった。ましてやFBI側の人物ともなると「その段階で暗殺なんて、認められる訳がない」という反応であった。CIAとFBIとの間には、単なる縄張り意識だけではなく、文化の違いがあるらしい。

斯くして、2001年9月11日の朝を迎えた。いつものように静かな朝をニューヨークは迎えていたが、旅客機が世界貿易センタービルに突っ込んだ。何か大変な事故が発生したと大騒ぎになっている中、これまた、二機目のハイジャック機がもう一棟に突っ込んだ。静かな朝は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

ドキュメンタリー番組「ブッシュ大統領、空白の9時間」についての記述あり。
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拙ブログ:テロリズムの時代

CIAはコンドリーザ・ライスに緊迫した状況を説明していたが、ホワイトハウスの反応は鈍かったので、再度、ホワイトハウスに戦時体制並みの警戒をするよう警告したが、巧く伝わらなかったようだ、と回想していた。

「カサンドラ現象」と呼ばれる現象があるそうで、カサンドラとはギリシャ神話に登場する女神で、カサンドラは物事を予知する能力を持っていたが、呪いによって誰もカサンドラの警告を聞かなくなってしまうという。


ホワイトハウスの内情についても、驚きの証言があった。米同時多発テロが発生してから僅か数時間後には、次のようなシーンがあったという。ブッシュ大統領を囲んで対応について話し合っていた最中、アレクサンダー・ヘイグ国務長官が、次のような発言をしたという。

「アフガニスタンに攻撃しても効果が少ない。イラクを狙った方が効果的だ」

ヘイグが、その発言をしたので、その場にいた証言者は「バカげている!」と横槍を入れたという。アルカイダの拠点があるのはアフガニスタンなのに、ヘイグはイラクを攻撃すべきだと発言していたらしい。

ヘイグは、物事を〈報復の規模〉で考えていたのだ。だから「アフガニスタンでは効果が少ない。イラクを狙った方が効果的だ」という発言になったものと考えられる。

その後、事態は以下のように流れた。

2001年10月、米国はアフガニスタン侵攻。

2003年3月1日、KSMことハリド・シェイク・モハメドを逮捕。

2003年3月、米国はイラク戦争を開始する。

イラク戦争は、イラクに大量破壊兵器がある事が確認されたとして初めてしまった戦争であったが、実は発端は先述した「アフガニスタンに攻撃しても効果がない。イラクを狙った方が効果的だ」というヘイグの発言に、ブッシュ政権が引き摺られてしまい、結局、2003年3月のイラク戦争に突入していったのだろう――という見立てを証人たちが語っていた。「番組製作側がヘイグに是非を打診したところ、ヘイグからの返答は無かった」というテロップが示されて、「アメリカ同時多発テロは、なぜ起きた?」という番組はエンディングとなった。
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筒井功著『忍びの者その正体』(河出書房新社)に目を通して、「忍者」と呼んできたものの実相がどういうものであったか、何となく読み取れた。5〜6歳の頃には「忍者手帳」という手帳を宝物にして、その後もアニメ「サスケ」、学生時代には「カムイ伝」をコツコツと全巻揃えてきた身からすると、なるほど、そう言う感じだったのかとの感慨に到った。

のっけから述べてしまうと、徹底的に文献を調べ上げている同著によれば、【忍者】という漢字を当たり前のように【にんじゃ】と現代人は読むが、【にんじゃ】という言葉は明治時代でさえ、存在していた事が明確に確認されている訳ではないという。では【忍者】を何と読んでいたと考えられるのかというと「シノビノモノ」もしくは「シノビモノ」であっただろうという。

その他にも色々な呼称があったらしく、「ラッパ」、「スッパ」、「かぎ」、「くさ」等の呼称があり、現代風に言えば「スパイ行為」や「破壊工作」をしていたという。


◆風魔小太郎

戦国時代の北条氏の下には風魔小太郎という忍者伝説がある。いつの頃よりか軍記物というジャンルで色々と脚色をされて、風魔小太郎像が出来上がったものだが、では全くの架空の人物かというと、そうではなく、【風摩】や【風間】と表記していて、17世紀に出た刊本『北条五代記』では「風摩」に対して「かざま」と仮名がふられていたという。つまり、「フウマ」ではなく「カザマ」であったらしい。

18世紀には『関八州古戦録』が刊行されているが、これは所謂、軍記物であり、歴史検証の材料としては弱いという。しかし、ここで頭目の名前として「小太郎」が登場、これがいつしか「風魔小太郎」という忍者の頭目の像へと繋がったという訳です。

関東史に詳しい黒田基樹氏によると、実際に北条氏関連の資料の中には風間一党についての文献は6点あるという。つまり、風魔小太郎のモデルになった人物は実在していた事になる。

では、風間一党はどういう集団であったのかというと、この説明を完結にすると「ならず者集団」だったという事らしい。北条家から何かしらの報酬と引き換えに任務を請け負い、潜伏したりする。素行に問題のある者の集団であり、潜伏先からは風間一党が住民たちに狼藉を働いた場合には風間に相談をし、それでも風間が了承しない場合は小田原へ書状で連絡をもらう旨の内容の公文書が存在しているという。つまり、風間は「ならず者集団」の頭目だったという訳です。住民たちは風間一党が先乗りとして乗り込んでくるが、彼等が駐留して狼藉を働くのではないかと迷惑がられていたという。

少しだけ引用します。

農民が、自分たちへの村への兵士の駐留を迷惑がるのは、どこでも変わりないだろうが、風間の部隊の嫌われ方は尋常でなかったことがわかる。(『忍びの者その正体』21頁)

「ならず者」なので嫌われていたというのもありそうですが「尋常ではなかった」という表現まで使用されている事からすると、何かしら被差別集団であったという可能性も考慮する必要性が出てくる。「平将門の乱」は10世紀初頭の話ですが、当時の東国は「僦馬の党」(しゅうばのとう)と呼ばれる凶賊が非常に多かったとされている。単なる凶賊であれば、何らかの理由で勝手に凶賊をやっていたと考えられる。しかし、或る時期からはケガレ思想の影響か貴賤の区別が起こり、戦国時代ともなると死体の後始末をしたり、葬儀を執り行なう人たち、牢の番人をする牢番、境界の見張番をする番人、更には猿を引いて武士たちらが乗る馬についての祈祷や健康状態を見る人たち(猿回し)らは何かしら低い身分を与えられていた可能性があるという。

風間一党の狼藉を農民たちが心配していて、その嫌われ方は尋常ではなかったとなると、そういう事であったのかも知れない。因みに「カムイ伝」の主人公は下人として生まれた男であり、「カムイ伝」は壮大な階級闘争史という構成になっている。

また、この風間一党の怖ろしさが分かる証拠もあるという。それは北条氏政から〈風間出羽守〉という人物へと与えられた書状から読み取れるという。どうも信州と遠州の境界付近で風間出羽守は、山家三方衆という敵を千余人討ち取ったと注進し、その風間出羽守の注進に対して北条氏政が「心地好く拝読した」旨の書状があるのだそうな。「千余人を討ち取った」というのは尋常ではなく、風間一党は総崩れになった相手を待ち伏せして、ほぼほぼ皆殺しにしたという事ではないのか――となる。

風間一党の頭目とは一体、何者だったのか? 『北条五代記』では風間の配下には「二百人」と記されているらしい。そうした規模の荒事も熟す傭兵集団であり、北条家は表向きは風間一党を家臣としていないが、金銭などを支払って裏側の仕事を依頼していたという事ではないのか。まぁ、隠密行動をしているし、潜入も偵察もしているので、確かに忍びの者なのでしょう。


◆一条兼定暗殺未遂事件

初めてファミコン版「信長の野望・全国版」をプレイした時、四国の情勢に驚いた。「ちょうそかべもとちか」を選択してゲームをはじめて、数ヵ月後に「みってい」コマンドから「あんさつ」を選択すると、他の大名でのプレイでは成功しない「あんさつ」コマンドが成功してしまうのだった。四国エリアで「ちょうそかべ」で四国制覇は「あんさつ」を連発してさえいれば、出来てしまいそうな程のパラメータの差があった。おそらく、その暗殺される側の大名が「いちじょう」だったのでしょう。小さな忍者が大名が寝ている寝所に忍び込み、その体に刀をグリグリと捻じ込む可愛らしいアニメーションがついていた。「おだ」でプレイしながらも「たけだ」のような有力大名に対して「あんさつ」を仕掛けると、逆に「あんさつ返し」に遭い、「おだ」の「けんこう」パラメータが激減させられた記憶がある。

しかし、どうも本当に長宗我部元親による一条兼定暗殺未遂事件があったとなると、何やら興味深い。ホントに忍びの者は、暗殺も可能だったのだろうか?

元々、一条家は足利幕府内では五摂家という家柄であった。一条家からは帝を補佐する人物が出たり、関白になる人物を出すという超名門であった。しかし、「応仁の乱」が起こるようになると京都周辺も不穏な地域となり、土佐一条氏の祖・一条教房は京都を逃れて奈良へ行き、更に奈良を逃れて土佐へ下向した。その教房の子が土佐一条氏の初代となり、土佐一条氏は京都に残った京都一条氏に物資を送るなど支援をしていたという。まだ、この頃、長宗我部氏は弱小勢力であったが、時代が経過してゆくと、長宗我部氏の勢力は脅威になっていった。

16世紀前半頃の土佐には七雄が登場していた。国力を石高で示すと以下のような状況であった。

安芸氏…5000貫

香宗我部氏…4000貫

長宗我部氏…3000貫

本山氏…5000貫

吉良氏…5000貫

大平氏…4000貫

津野氏…5000貫

が、「土佐の七雄」であり、一条氏はというと石高16000貫で、土佐に君臨していたという。この構図を変えたのは、長宗我部元親の登場であった。長宗我部元親は近隣の弱小土豪層を次から次へと滅ぼして覇権を拡大し、1570年頃までには土佐は一条氏と長宗我部氏との2強状態へ。そんな中、一条氏は土佐を出て、豊後の大友宗麟の元へ身を寄せようとするなどした為、長宗我部氏は一条氏が居城にしていた中村城を手に入れる事に成功。一条兼定は自ら中村城奪還に挑むが敗れて、以降、一条兼定は戸島(現在の愛媛県宇和島市戸島)に身を潜めるという生活を送る事となった。

戸島には、知己のある法華津(ほけつ)氏があり、その法華津氏に匿われる形で一条兼定は生活をしていた。

そして、ようやく、ここからが暗殺未遂事件の話となる。

高知県黒潮町の猿飼(さるかい)という地には、植田姓の人たちが軒を連ねているという。比較的、新しく流入した人たちは異なる苗字であるが、古くからの住民は全員が植田という苗字。そして、その猿飼の植田姓の人たちの間には、自分たちの先祖は植田次兵衛という人物で、この植田次兵衛という人物は、一条の殿様を襲撃し、その後に身を隠す為に、この猿飼の地に逃れてきた一族だという伝承を持っていたという。この伝承がバカにできず、土佐中村には一条氏を祀る一条神社があるが、猿飼地区の人たちの間には「この一条神社で手を合わせてはいけない。何故なら私たちの先祖・植田松次郎は一条の殿様を殺害した人だから」のような伝承を持っていたという。

ここから更に様々な話があるという。元々、植田次兵衛という人物は伊才原という地に住んでいた尾崎という人物で、長宗我部元親の傘下の入江左近という人物こそが戸島で一条兼定を襲撃した人物であるという。その入江左近を補佐していたのが尾崎某であり、その尾崎某は猿飼に逃げ込んで、そこで植田姓に改姓して隠れ住むこととし、それが猿飼地区の植田姓の起源だという。

つまり、一条兼定を実際に襲撃したのは入江左近であり、その入江左近の下働きをしていたのが猿飼植田氏のルーツという事になる。実際に「軍記物」ともなると、長宗我部元親が入江左近に「一条兼定を亡き者にせよ」と命じたという一節があるという。入江左近は元々は一条氏の家臣であったが長宗我部氏に寝返り、家臣だと思って油断した一条兼定は入江左近と面会をした。

その際に入江左近が太刀を刺したので、一条兼定の方も咄嗟に枕元の刀を手にしようとしたが、その兼定の肘で二太刀目が襲い掛かった。兼定は咄嗟に逃げ出して、浜辺に停留してあった一隻の小舟に飛び乗って逃げ遂せた。(つまり、暗殺は成功したと伝わっている訳ではない。)

軍記物では、天下の極悪人は入江左近の方になっている。恩を忘れて長宗我部に寝返り、かつての主君の殺害を図るというのは弑逆であり、天神地祇も怒るような所業である――と。しかし、この話が真実なのかどうかも分からない。というのは、入江左近に所縁のある地では、その入江左近を祀ったという入江神社があるという。

何が何だか分からない。しかし、この一条兼定は大友宗麟と懇意にしていた事もあり、実はキリスト教に改宗していた為、ルイス・フロイスは一条兼定の事を洗礼名である「ドン・パウロ」として、そのドン・パウロが暗殺未遂に遭った事を書き残していたという。

或る夏の夜のこと、ドン・パウロ(一条兼定)が蚊帳の中で眠り込んでいると、或る側近者(入江左近)がドン・パウロの刀を手にして、その顔、手、腕に幾多の致命的な傷を負わせた。ドン・パウロが死んだものと思い、その側近は長宗我部元親(反逆者という名前)の元へ報酬を受け取りに行った。ドン・パウロは徐々に傷から回復したが、彼は常に臥せっており、あたかも身体障害者のようであった旨、書き残しているという。比較的、冷静に歴史を切り取った可能性のあるルイス・フロイスには、そのように伝わっていたらしい。ルイス・フロイスによれば、「我ら主なるデウスは、ドン・パウロを永遠なる天国に招き入れた」としているという。いやいや、ルイス・フロイスに限らず、キリスト教関連の文書には「善き土佐の王ドン・パウロ一条殿」のような記述があるという。

ここで〈猿飼〉が重要になってくる。猿飼とは現代人がイメージする「猿回し」ではないという。医療行為なのか微妙であるが馬の健康状態を管理する役目と、祈祷のようなものを主にしており、大道芸として猿回しをしていたというのとは少し異なるのだという。武士たちが乗る馬の番をしているという意味では武士の下働きをしているという事である。何故、その人たちが猿を引き廻していたのかについては諸説があるが判然としないらしい。しかし、裏返すと、猿飼(猿引き、猿曳き、猿回し等と同義)に紛れてしまえば、仮に何かしら追手に追われているような者でも、その正体を隠しやすかっただろうという訳です。

植田次兵衛の場合は、入江左近の手下として一条兼定暗殺事件に関与していたので、身分を隠す必要性があった。ルイス・フロイスともなると、太閤秀吉に「四国全土をキリスト教化したい」等と大絶賛しており、その秀吉と反目した長宗我部氏についてはドン・パウロを裏切った意味も重なって「反逆者」と呼んでいたと思われる。

確定的な事実ではないにしても、植田姓の人たちの間では平成期まで「私たち猿飼地区の者は一条神社では手を合わせてはいけない」という伝承が残っていたという事は、教育委員会らが正史として認めておらずとも、実は有力な証拠ではないのか――と。


伊達家にも黒脛巾組(くろはばきぐみ)と呼ばれるシノビの集団があったようですが、実は戦に関しての諜報戦とゲリラ戦を請け負うという傭兵部隊だったよう。
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アメリカ独立戦争後の歩みという事になります。

1789年3月、ジョージ・ワシントンが初代アメリカ大統領に就任する。独立戦争に勝利しても即座に米国大統領制度がスタートした訳ではなく、どのような憲法を制定するのかを巡って米国国内でも揉めに揉めて、ようやく、この年、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した。『アメリカ革命』に拠れば、我々が思っている以上に揉めていたらしく、現代人の常識では「大統領は1人」である訳ですが、統治システム構築中には、大統領は3名選ぶべきとう案も出ていたという。それもこれも、どういうシステムが好ましいのかという発熱した議論が展開されていたという。

そして、このジョージ・ワシントンが大統領に就任した1789年の7月、フランスには大きな波が押し寄せていた。フランス革命が始まったのだ。

1792年12月、フランスでは革命勢力が、それまでの国王であったルイ16世を国王裁判にかけて死刑判決を下す。

1793年1月、国王であったルイ16世はギロチンで処刑される。

因みに有名な「マリー・アントワネット」はルイ16世の妃。マリー・アントワネットは革命勢力を追い払う為にフランス国外の軍隊をフランスに入れるべきだとして画策した人物でもある。そして、このマリー・アントワネットも同年10月にギロチンで処刑された。)

アメリカ史に関係してくるのは、ルイ16世の処刑であった。少し引用します。

(フランス植民地で情勢の変化が起こった事が、アメリカにも大きな影響を与えたという説明のに続けて、ハイチでの黒人奴隷蜂起と、もう一つ大きな要因があった――として)一七九三年一月二一日のルイ一六世の処刑だ。これ、以降、イギリスやオーストリアらヨーロッパの各国はフランスに対して対仏大同盟を構築し、戦争へと突入した。二月にフランスが宣戦布告したとの報が四月にアメリカに届くと、ワシントンは中立を宣言した。

これは、独立戦争時に自らの財政悪化も辞さずにアメリカを支援してくれたフランスに対する裏切りとも、多くの人には思われた。しかもフランス革命は、民主政の大義を掲げるものであったため、心情的には当然フランスの味方をしたい、という市民が多かった。
(『アメリカ革命』175頁)

どういう事なのか分かりますよね? アメリカ独立を果たしたアメリカ勢力は、フランスの支援を受けてきた歴史があり、啓蒙思想の盛り上がりや、希求している政治思想も似ていた。しかし、欧州で対仏大同盟が起こってしまったら、「え? みんなで組んで、フランスをやっつけるんですか? あの、ボクたちは中立という事で、よろしくお願いします」と、そういう態度をとったという事なのだ。

1793年1月にルイ16世が処刑された。その2ヶ月後となる同年3月には次のような動きがあったという。

駐米フランス大使として着任したエドモン=シャルル・ジュネは、市民の熱狂に迎えられたこともあり、積極的にアメリカ国内のフランス支持の空気を作り出そうとした。プロパガンダをばらまくと同時に実力行使にも出た。アメリカ人の船員を雇って私掠船を沿岸で組織し、イギリスの船を襲わせたのである。(同177頁)

この頃のアメリカの一般人は基本的にフランスにシンパシーを持っていた。なのでフランス大使ジュネはアメリカ政府に無断でアメリカ人を雇って私掠船を組織し、イギリス船を襲わせた。「さぁ、アメリカよ、もう、イギリスと戦争するしかないよ」という既成事実をつくらんとした訳だ。

フランス大使ジェネの、この行為に対しては、新仏派のトマス・ジェファソン国務長官(後の第3代米国大統領)が説得を試みた。「ここはアメリカでっせ。主権はわてらにあるんでっせ。そんな事をされましたら困りまんがな」。ジェファソンの説得に対して、フランス大使ジェネの回答は意外なものであった。「1778年に締結した仏米間の条約は、今も依然として有効である。したがってフランスが武力をアメリカ国内で行使することには問題はない!」であった。あっちょんぶりけ。

ジュネの私掠船の問題は、ワシントン大統領がフランス本国に「あの大使をフランスを帰国させてくれ」と懇願することになった。しかし、この頃までには既にジュネが属していたジロンド派は壊滅させられており、ジュネはフランスへの帰国を拒否。じゃ、しょうがないですねとなって、ジュネはアメリカに帰化することとして一件落着になったという。このジュネの一件で説得に失敗したジェファソンは大変な有力者であったが、この年の年末に国務長官を辞任してしまった。

対仏大同盟が生じた事でアメリカはイギリスからの圧力を受けていた。アメリカは中立だといって相変わらずフランスと貿易しているが、それはけしからん事だという訳です。令和の現在のようだ。

イギリスは相変わらずフランスと通商を行うアメリカを、自国の敵として認識した。そして一七九三年一一月以降、カリブ海のフランス植民地と往来するアメリカ船を片端から拿捕するという手段に出た。その数は二五〇隻以上と言われている。また一七九四年には英領カナダからアメリカ北西部のオハイオへも侵入し、先住民に武器を与え、アメリカの入植者を襲わせて、その西部開拓を防いだ。(同178頁)

イギリスのアメリカへの嫌がらせは、カナダに於いても起こっていたという。当時のカナダは英領カナダであった。イギリスは意図的にカナダの税率を下げて、重税にあえいでいたアメリカの民衆に「どうだ? イギリスの植民地へ戻りたくないか?」という宣伝工作さえしていたという。

アメリカの世論は先述したようにフランスに好意的だったこともあり、一部からは対英開戦論の声も上がった。しかし、当時のアメリカとイギリスでは戦力差は歴然としていたらしく、アメリカはロンドンに特使ジョン・ジェイを送って事態を解決した。内容は、以下のようなものであった。オハイオ等に侵入したイギリス軍を撤退させる代わりに、イギリスはアメリカからの輸入品には自由に関税をかけることができる、また、アメリカはイギリスからの輸入品に対してかける関税については12年間はイギリスの制限に従うこと――。

1794年、ジョン・ジェイが結んだ条約(通称「ジェイ条約」)は、アメリカの民衆には大変な不評であったという。独立戦争の記憶が生々しいアメリカ人からすると、イギリス人への敵対感情は小さくなかったかのよう。

1796年11月、ジョージ・ワシントンが二期八年を節目としてアメリカ大統領を辞任する事を表明。実は、このジョージ・ワシントンの行動が「米国大統領は二期八年を越えて務めないこと」という慣例の始まりになったのだという。



フランス革命によってフランスに誕生した共和政(共和制)は混乱を極めていた。先に登場した駐米フランス大使ジュネがフランスに帰国できなかったのはジュネが所属していたジロンド派という党派が壊滅状態になってしまっていた為であった。革命後のフランスでは主導権を巡って会派同士が激しく衝突し、結果としてジャコバン派が台頭し、ジャコバン派による恐怖政治が現出する。(ここでも政体循環説が生きてくる。)そんな中、コルシカの怪物・ナポレオンという英雄が現われる。

1799年11月9日、フランスでナポレオン・ボナパルド(ナポレオン1世)が寡頭支配状態であった総裁政府を倒した。革命歴なので日付の整合性が取れませんが「ブリュメール十八日のクーデター」。総裁政府を倒したナポレオンは「執政政府」や「統領政府」と呼ばれる政府を樹立。分類としての政体としてはフランスは帝政へ。

ここから少し引用します。

ナポレオン率いるフランスの破竹の快進撃に最大の歯止めとなったのは、宿命のライバル、イギリスである。〜略〜このような英仏の対立に、アメリカは一七九〇年代に引き続き対応せざるをえなくなった。両国とも、アメリカに敵国(英にとっての仏、仏にとっての英)との貿易停止を要求してきたのである。しかしアメリカにとっては両国ともに主要な交易相手であり、自国の経済にダメージを与えたくない。

一八〇五年にはイギリス海軍がアメリカ浅薄を拿捕し始めた。英軍の主張は、英海軍の徴兵逃れのためにイギリス人がアメリカ人になりすましてアメリカ船に乗り込んでいるから、それを摘発するというものだった。
(同201頁)

その後もイギリスによる強行姿勢は続き、とうとう1807年6月には米の軍艦チェサピーク号に対してイギリス海軍の船籍が停止命令を出し、無視したところ、イギリス海軍が砲撃するという事件が発生する。アメリカ国民は大激怒し、開戦を求める声が挙がった。

1812年6月、米国第4代大統領はジェイムズ・マディソンであったが、このマディソン政権下は、とうとう開戦を宣言した。ジェイムズ・マディソンの目論見は「イギリスはナポレオン率いるフランスと戦争中である。今ならイギリスは我々に戦力を割くだけの余裕はない筈である」であった。しかし、これは裏目に出た。イギリスは、ナポレオン率いるフランスと戦う為に戦力を3倍にまで増強していたのだ。この戦争については西暦をそのまんま「一八一ニ戦争」と呼ぶらしい。

1812戦争では、先住民の中から英雄が誕生した。先住民族諸派はカリスマ的指導者・テカムセをリーダーとして先住民連合軍を結成。武器を融通していたのはイギリスであったが、この先住民連合軍はギリス軍よりも手ごわいと、アメリカ軍を恐怖に陥れたという。デトロイト砦の戦いでは、アメリカ軍は戦わずして降伏したという。アメリカ軍も英領カナダへ進軍してトロント(当時はヨーク)を焼き払った。また、アメリカはテカムセの率いる先住民連合軍に対抗する為に、ニューヨーク州で先住民部族の軍隊を組織し増強をはかった。この先住民を積極的に導入して行なった一八一二年戦争では行動はエスカレートし、農村を焼き払いまくるというものであったという。1813年、テカムセは戦死する。

先住民の中には文明化を拒絶する部族もあった。ローワー・マスコギー族はアメリカ白人と協力関係を構築していた。しかし、彼らよりも貧しいアッパー・マスコギー族は、白人と協力するローワー・マスコギー族は裏切者であるとして、自分たちを「レッド・スティックス」と名乗って反乱を起こし、多くのローワー・マスコギー族を殺害した。イギリスは事情を知ると、アメリカを叩くチャンスとばかりにレッド・スティックスの支援にまわった。

1814年、アメリカに英雄が登場する。荒れ狂うレッド・スティックスを倒す為にテネシーから軍を率いてアンドルー・ジャクソンがやってきて、レッド・スティックスに壊滅的な被害を与えた。この頃、イギリスもアメリカも疲弊が限界にきて和平交渉に入った。

同年5月、ナポレオンがロシア遠征で失敗する。有名な話ですが補給線が伸びてしまうので深追いしたら負けてしまうのだ。これによって帝政のフランスは衰退。ナポレオンは帝位を退位。

イギリスはフランスに差し向けていた軍隊をアメリカに向けることができるようになった。イギリスはアメリカの首都ワシントンDCの焼き討ちを実行、再建不可能と思われるほどに破壊した。イギリスはアメリカの足元を見ることができたので和平交渉でも強気であったが、1814年12月、結局、この戦争は開戦前の状態に戻すことで和平条約が結ばれた。

和平条約が締結した筈であったが、簡単に戦争は終結せず、その翌月となる1815年1月、ニューオリンズでの戦闘で、アンドルー・ジャクソンがアメリカに劇的な勝利をもたらせた。人々は熱狂し、このアンドルー・ジャクソンは第7代アメリカ大統領になっている。

1815年、ヨーロッパの戦争も最終局面に入っていた。再起をはかるべく、エルバ島に配流されていたナポレオンが脱出して、再び帝位へ就いた。そのナポレオン率いるフランス軍を、ベルギーのブリュッセル南東にあるワーテルローの地で、イギリスとプロイセンの連合軍が撃破。「ワーテルローの戦い」もしくは「ワーテルローの会戦」。

ナポレオン(フランス)…12万5千

ウェリントン公(イギリス)…9万5千

ブリュッヒャー(プロイセン)…12万

ナポレオンは南大西洋上の孤島セントヘレナ島へ配流され、その地で死んだ。「ナポレオン戦争」という言葉があるそうで、期間は1799〜1815年に該当する。ナポレオン戦争が意味するものはイギリスを中心とした対仏大同盟とナポレオンの率いたフランスの戦争を表しているという。
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米国初代大統領と言えば、ジョージ・ワシントン(生没年1732〜1799)ですが、このワシントンは元々は軍人であり、イギリスとフランスとが北米で戦争をした七年戦争で戦功を挙げた人物であった。まだ、米国は独立していなかったので、ワシントンはイギリス軍側であった。

その「七年戦争」は、イギリスでは「フレンチ−インディアン戦争」と呼ぶのだという。どうして、そのような呼称なのかというと、当時のイギリスが戦っていたのは、フランス軍と北米インディアン諸部族だったから。フランスは先住民であるインディアンたちに武器を融通するなどして、いわばタッグを組んでいた形だったのだ。

以下、上村剛(かみむら・つよし)著『アメリカ革命』に沿ってアメリカ独立戦争を眺めてみる。

1754年に始まったフレンチ−インディアン戦争は、7年後となる1763年にパリ条約によって終結する。

1770年にボストン虐殺が発生する。

1773年にボストン茶会事件が発生する。

これが、どういう流れなのかを今一度、確認すると、この時代の北米にあったのはイギリスの植民地であり、北米で暮らしている植民地下のイギリス人たちが、イギリス本国に対しての不満を募らせ、独立へ向けた動きが始動したという事を意味している。それよりも前だと、北米ではフレンチ−インディアン戦争が7年間も続いていたのだ。

1775年、ついに戦端が開かれる。ボストンから約30キロほどのところにあるレキシントン・コンコード間の戦いが発生。この戦いは小競り合いに過ぎなかったが、その後、アメリカ側がタイコンデロガ砦を陥落させ、イギリス海軍が拠点にしていたボストンを包囲し、バンカー砦の戦いに発展。この一連によって、植民地アメリカ対イギリス本国の対決は不可避なものになっていった。

イギリスは本国から増援部隊の派遣を決定。一方のアメリカ(この時点では大陸軍)は、イギリスからの独立を模索していた13の植民地のリーダーたちによる会議(第二回大陸会議)が行われ、13の植民地勢力を束ねた軍隊を創設、その総司令官にジョージ・ワシントンを満場一致で選出した。この時、ジョージ・ワシントンは43歳。

大陸軍は、イギリス国王に戦争の回避を要請するが失敗。対イギリスで戦争をするしかないという状況に追い込まれる。大陸軍は、こうなったら戦争は不可避であると考え、イギリスの植民地であったカナダのケベックシティへ侵攻するが、敗北する。何故、この時に大陸軍がカナダのケベックを目指したのかというと、ケベックへ行けばフランス系の住民があり、イギリス領のカナダを制圧してフランス系の住民を仲間に引き入れようとしたからであった。

1776年7月4日、これは戦争の最中であったが、アメリカ国民にとっては記念すべき日であり、いわゆる独立宣言が発表される。草稿を書いたのはトマス・ジェファソン(第3代米国大統領)であり、それにジョン・アダムズ(第2代米国大統領)と、ベンジャミン・フランクリン(後のパリ条約をまとめた政治家でもある)が加筆修正をしたものだたという。後に、発足する大国アメリカの初期を牽引するメンバーが揃っていた事に気付かされる。彼らが、軍人であったワシントンをサポートしていたというのが、この独立戦争を行っていた時分の大陸軍だったのだ。

ボストンを撤退したイギリス軍はニューヨークを照準に捉え、イギリス正規軍とドイツ人兵の混成部隊を編成し、ロングアイランドに上陸。このイギリス軍は総司令官のワシントンの率いる部隊を撃破してニューヨークを占領。圧倒的な強さをみせるイギリス軍は、大陸軍の拠点であるフィラデルフィアに照準を定める。この頃のフィラデルフィアはアメリカ軍(旧大陸軍)の首都のようなもので、フィラデルフィアを落とされたら大きく影響する。アメリカ軍は絶対絶命の危機に陥っており、ワシントンの率いる軍勢の士気も低下していたが、ワシントンは起死回生の策をとった。寒さ厳しいクリスマスに行軍し、先ずはトレントンに展開していたドイツ人兵部隊を撃破。デラウェア川を渡る。(この「デラウェア川を渡るワシントン」を題材とした構図、それを描いた絵は現在でも米国人に広く愛されているという。)

1777年、イギリス軍はアメリカ軍の本拠地であるフィラデルフィアを落とす。広大な北米大陸では補給線が伸びてしまう可能性があるとみて、イギリス軍は南部にも部隊を展開させた。しかし、ここで大きな転機が起こる。南へ向かったイギリス軍はタイコンデロガ砦を襲撃して陥落させ、勢いにのってハドソン川を渡ってサラトガ地域に進出。このサラトガの地で、8千のイギリス軍と1万2千のアメリカが激突。しかし、この「サラトガの戦い」に於いてアメリカ軍がイギリス軍に大勝。このサラトガの戦い以降、戦況は逆転する。そしてアメリカが優勢だと確信すると、列強同士でライバル関係にあったフランスがアメリカとの同盟に傾く。

上村剛著『アメリカ革命』(中公新書)の86頁から引用します。

サラトガの戦いで形成が変化すると、一七七八年二月に米仏の条約につながった。それ以前にもひそかにアメリカに金銭支援や武器の貸与などを行ってはいたものの、フランスの海軍派遣は、戦況を一気に英軍に不利なものとした。フランス海軍は二〇艦の増強をするなど、打倒イギリスに打って出た(しかしこれはフランスの財政難を引き起こし、やがてフランス革命につながってしまう)。

そう。実はアメリカ独立戦争では、このフランスの動きが大きかったと思われる。当時の列強情勢ではイギリスとフランスが激しく争っており、北米で発生したイギリスの植民地での反乱は、フランスからすれば〈打倒イギリス〉を果たす千載一遇のチャンスでもあった。正式の同盟を結ぶ前からアメリカに資金援助や武器の貸与をし、更には海軍の増強を図るなど自国の財政を悪化させるほど、入れ込んでいたという。しかも、その財政悪化が、後のフランス大革命の引き金になったとみることができるのだそうな。

敵の敵は味方というけど…。

この頃、スペイン国王はフランスと同系のブルボン家だったのでスペインも、ドサクサ紛れに戦争に参加。フランス軍はイギリス領のグレナダを攻め落とす。スペイン軍はイギリスに奪われていたヨーロッパのジブラルタルとメノルカへの包囲戦を開始し、更には北米のフロリダを占領。つまり、何が起こったのかというと、「おっ、なんか知らんけど、イギリスが苦戦しているらしいで! ワシらもこの期にイギリスへ攻め込んだろ」の精神でしょうか。積年の恨み。しかし、そのような国際情勢が、どうもアメリカに有利に作用したというのが最新のアメリカ独立戦争の見方になってきているらしい。確かに説得力ありますよね。

戦争の主役はイギリスとアメリカの筈であったし、主戦場も北米の筈であった。しかし、アメリカ独立戦争は、カリブ諸島、ヨーロッパ、南アフリカからインド、フィリピンにまで波及するような戦争になっていた。

イギリスも底力をみせつける。1780年、イギリス軍はサウスカロライナのチャールストンを占領。1781年元旦にはヴァージニアに上陸作戦を仕掛けて、リッチモンドを攻め落とす。この頃のアメリカの要人はヴァージニア州を地盤にしていた人物も多かったので大きな出来事であったが、同年10月のヨークタウンの戦いで善戦を展開してみせたイギリス上陸軍が大敗。

イギリスは世界各地に植民地を展開していたが、ドミノ倒し的に植民地を失いかねないという危機的状況へ。一方のアメリカは快進撃をしていたのかというと、そうではない。アメリカの方は無理な戦争を続けていたので深刻な財政難に陥っており、根拠地であったフィラデルフィアではインフレと食糧不足が起こり、民衆の不満が爆発、有力政治家の邸宅が襲撃され死者が出るような状況で、ホントのところはアメリカは空中分解寸前であったという。

空中分解寸前までいったアメリカは外国からの公債によって難局を乗り切った。ベンジャミン・フランクリンがフランスから、ジョン・アダムズがオランダから高額を借り受けることに成功。

1782年、戦争終結に向けてベンジャミン・フランクリンらがイギリス政府との交渉を開始する。イギリスは、戦争終結後もアメリカとフランスとが友好関係にある事は好ましくないという思惑があり、譲歩をしながらも有利な条件を引き出そうと画策したという。

1783年9月、イギリス、アメリカ、フランス、スペインの間でパリ条約が結ばれ、このアメリカ独立戦争は終結となった。イギリスはアメリカの独立を認め、軍隊を撤収させた。フランスはトバゴとセネガルといった大西洋上の拠点を手に入れ、スペインはフロリダを獲得し、メノルカの奪還に成功した。フランスはイギリス領インドをも欲していたが、インドは英領のままと決定した。そしてアメリカは、イギリス時代の13地域の植民地を獲得し、アメリカ合衆国となる。

ああ、これはまさしく帝国主義でしょうねぇ。プロレスのバトルロイヤルみたいなものだ。現在の国際情勢も似ているかも知れませんけど。
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ヒストリーチャンネルにてドキュメンタリー「天皇ヒロヒト〜ラスト・バンザイ」を視聴。番組の最後に流れたテロップでは「THE LAST BANZAI」でした。英語圏で製作されたドキュメンタリー番組という事になりそうですが、意外な内容だったので面食らった。どう面食らったのかというと、おそらく日本で製作する歴史ドキュメンタリー番組よりも、昭和天皇を一個人の人物として捉えている。しかも、どういう事なのか、非常に親日的な内容になっているなぁ…と感じた。

英国へ留学して、25歳で即位する。貴重な映像だなと感じたのはローマを視察している皇太子時代の映像、それと大正天皇が崩御して新たに昭和天皇として即位する行列の映像もあった。

【昭和】とは「平和を願うの意である」とか、日本が軍国主義化する中で昭和天皇が詠んだ「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を紹介し、これも昭和天皇が戦争を回避しようとしていた和歌であると紹介し、天皇を欺く形で起こされた満州某重大事件(満州事変)になると昭和天皇が「激怒」したという風にナレーションしていた。中国で戦火が拡大していくのを停戦させたのも昭和天皇の意向であった、と。

国際連盟の脱退、そして真珠湾攻撃で大日本帝国は太平洋戦争に突入していく訳ですが、古い古い映像で当時の日本人大使が「戦力的に勝ち目のない戦争を始めてしまった」旨の回想をしている。話を字幕で追っていた訳ですが、結構、重要な話もしており、その大使は「ミッドウェー海戦後に和平へ向けて動くべきだったが動けず、また、小笠原で敗れた際にも和平に向けて動くべきタイミングであったが動けなかった」旨、語っていた。冷静に戦力比較をすれば、確かに勝ち目のない戦争であり、何故に、あのような無謀な戦争をしたのかに思いが到る。

しかし、ここで皮肉なことに、熱狂してしまっている当時の日本人たちの映像に目が留まる。バンザーイ、バンザーイと、全体主義になっている古い日本人の姿を目にする事になる。思うに、あれは、やはり、天皇ファシズムと呼ぶべき何かだったような気がする。全体主義であり、軍国主義であり、その中心に天皇と皇国史観が置かれていた訳ですが、日本の場合は天皇及び皇国史観は当時の政治家や軍国主義者らによって国民を束ねる為の道具として使用されていた節がある。傍から見れば、エンペラー・ヒロヒトによる独裁国家にも見えたかも知れませんが、当時の大日本帝国の場合の実相というのは「天皇」も「皇国史観」も或る種の道具であり、意思決定の中核にあったものは、恐れを知らぬ権威主義的な軍国主義であったように思う。

また、興味深い事に米国人か英国人かが、当時の日本を語って「甘やかされて育った子供のようなもので、いつか暴走する」と指摘していた。これは、15〜25年前に中国に対して、その「甘やかされて育てられた子供」という表現が実際に使用されていた記憶がある。

原爆が投下され、日本は敗北する。戦争を終わらせる事を決意したのは昭和天皇であった。いわゆる御聖断については深くは掘り下げていませんでしたが、戦争を終わらせる決断をしたのは昭和天皇であったというのは間違いではない。そのように紡いでいるので、この「ラスト・バンザイ」だと昭和天皇は、ずっと平和主義者であったという描き方になる。そして、どん底に落ちた日本の復活を見届けたのも昭和天皇であった――と。

あの映像は何処でしょうねぇ…、御巡幸の映像だと思うけど、昭和天皇が民衆の前に帽子をとって、笑顔で手を振っている穏やかな表情の映像があった。いい映像でしたね。この番組でも実際の昭和天皇は学究肌の人物であった事は強調されていた。

随分、この番組は親日的というか昭和天皇を好意的に描いてくれているなぁ…という気分になった。番組のはじまりは、アマテラスの命を受けて天皇制が始まったのが日本の起源であるみたいな半分神話から始まり、そして戦後の日本の経済復興にチラと触れる中で日本国および日本民族を総括するようなナレーションがあった。

そのナレーションでは「日本という国は、美しさと強い意志を持つ国である」といった具合のナレーションで、いやいや、もう、そんな令和の現在ともなると片鱗さえ怪しくなってます、と謙遜したくなってしまった。「いえいえ、そんなに褒められましても」的な。

何かしら政治的な意図があって製作された親日的なドキュメンタリー番組だったのかも知れませんけど、実は『昭和天皇伝』や『昭和天皇独白録』などの内容とも矛盾はなかった。おそらく、天皇は孤独だったのだ。シェークスピア劇のセリフとして「きみは私を王と呼ぶが、私が欲しているのは友人だ。それでもきみは私を王と呼ぶかね?」みたいな一節を紹介していた。それが天皇ヒロヒトの実相であったとまとめていた――。
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NHK総合「映像の世紀〜バタフライエフェクト」では、「ワイマール」と称してワイマール共和制下のドイツがヒトラー政権を誕生させるまでを題材にしていましたが、非常に秀逸であったなぁ…。これまでにも何度も何度も、民主主義体制によってヒトラー率いるナチス政権が誕生したという筋書きについては触れて来たつもりでしたが、その下地になっていたのがワイマール時代の先進的な取り組みの14年間にあったという切り取りは「なるほど」という切り取り方であった。

帝政が倒れたドイツでは世界に先駆けて自由を重んじた民主的な議会主義政治が始まり、それがワイマール憲法で有名なワイマール共和制だったという訳です。或る意味では非常に先進的な社会変革が起こっていた。しかし、そこで頭角を現したのはユダヤ系ドイツ人たちであった。百貨店も銀行も、創業者はユダヤ人であった。元々、ユダヤ人は貸金業をやっていたが、この時期に銀行業にも進出したという。

1日あたりの労働時間を8時間とするという決まり事もワイマール期に始まった。すると人々は娯楽に殺到し、スポーツが大流行したという。丁度、この記事にラジオが登場し、人々はラジオに夢中になった。ラジオの語り掛けに皆が耳を澄ますというライフスタイルとなった。また、この期のドイツでは女性参政権も承認され、当時の世界情勢からすると、かなり先進的であった。街中にはダンスホールが林立し、ナレーションに沿うと「LGBTQ」の数だけ、そうしたダンスホールが存在し、ヌーディストたちが登場したのも、この頃だそうで、ヘルマン・ヘッセは元ヌーディストであったという。太陽の下で全裸になる事は、この上ない解放感を伴うものらしく、そのようなナレーションも為されていた。また、フロイトらが精神分析を確立したのも、この頃であったという。

ワイマール共和制下のドイツでは世界に先駆けて先進的な自由民主主義を標榜していたという。しかし、そこに経済危機が発生した。アメリカで恐慌が発生し、同年の年明けになるとドイツにも波及し、そのまま、ハイパーインフレとなった。更に戦後賠償金の返済が滞った事を理由にフランス軍とベルギー軍がドイツの工業地帯であるルール占領に踏み切る。すると、ハイパーインフレに拍車がかかり、1米ドル=4兆2千億マルクとなるというレベルの空前絶後のインフレとなり、文字通り、紙幣は紙クズになった。

例としては、あるピアニストが演奏会のギャラをもらったが一人では運び切れない量だったので人を頼んで運んで帰る事になったという。帰りにソーセージ2本を購入する為に、もらっがギャラの半分を支払ったという。そして翌日にはピアノ演奏でもらった運び切れない量の紙幣の半分が残っていた筈であるが、そのカネではソーセージ1本も買えなかったという。僅か1日が経過しただけでソーセージの値段が高騰してしまっていたという訳です。

ドイツ国民の不満が高まり始めた。民衆は英雄を標榜するようになり、それがアドルフ・ヒトラーだったという訳です。ナチスは選挙で実際に勝利して獲得議席数で第一党となる。その後に国会議事堂焼き討ち事件を起こして共産党を取り締まり、ワイマール憲法が万が一の緊急時対策の為に用意しておいた第48条を根拠にし、共産党への取り締まりをし、次にはワイマール共和制が特例として設けていた全権委任法を利用して、ヒトラーに拠る独裁体制が誕生した。

この部分こそがナチスやヒトラーを語る場合に重要で、ヒトラーは軍事クーデターを起こして政権を獲ったのではなく、実際に選挙で勝利して誕生した何かであった。ヒトラーを特別な独裁者にしてしまったのは、この頃のドイツの大衆の、その意志であったと考えねばならない訳です。すっとぼけてはいけない。

番組内では、ナチス政権誕生の後に身の危険を感じて米国に移民したトーマン・マンの言葉が使用されていましたが、どういう主旨であったのかを私が脳内で再生すると、

「この変革は一過性のものではない。積もり積もったドイツ人の不満の表われである。ドイツの人々は、この14年間、耐えに耐えてきた。ドイツ人が伝統的に美徳としていた〈質実剛健〉の気風であったが、この14年間は、そうしたアイデンティティーを失っていた。ナチスドイツの誕生でドイツ人が取り戻したものは〈誇り〉である」

といった主旨のものであった。

性的マイノリティの人たちが集っていたというバーやダンスホールはナチスに接収され、トランスジェンダーたちが集まっていた「エル・ドラド」という巨大なダンスホールは、ナチス突撃隊の拠点に改装された。そういった流れであった。この部分、いちいち説明しませんが、質実剛健を美徳とする文化を持っている場合、そういった不満を溜めてしまうのが人間である――と。この「不満」の箇所については、先述したドイツを拠点にしていた精神分析のグループは、神経症の患者が激増していて、その問題には不満が関係している事にも〈実は気が付いていた〉とダメ押しも為されていた。

また、ラジオが普及していたという背景がありましたが、ラジオに夢中になっていた少年の一人が後にナチスで宣伝相となったゲッペルスであった。ラジオは電波にのせて、一人の話を万人に届けることができる魅力的な装置である事を熟知していたという訳です。


今回の「映像の世紀〜バタフライエフェクト」は、タイミング的にも見事だなと感じた。世界的な選挙イヤーですが、フランスあたりでも極右が票を伸ばしているという。それは「極右」が伸びているという具合に表現されるのですが、その裏では既存のリベラル勢力が、彼らが言うところの右派を支持する人たち自尊心を傷つけてきたので嫌悪された結果でもあるというシビアな現実の投影のようにも思える。また、「極右の台頭」という現象は表裏一体の裏側であり、おそらく「リベラルの衰退」を意味しているのでしょう。
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松本清張が著した『日本の黒い霧』について日本歴史大辞典は項目を設定しており、『日本の黒い霧』を「記録文学」という言葉で説明している。実は占領下の日本で起こった不可解な事件を取り扱ったノンフィクション作品であり、実はフィクションではなく、語られる機会は少ないが実はリアルな戦後史なのだ。上下巻あるので結構なテーマが取り上げられていますが、その中でも白眉なのは「征服者とダイヤモンド」編であった。数年前にもコンビニの商品棚にミリオン出版系の雑誌があって「M資金」なんてワードが取り上げられていた事がありましたが、戦時中の財宝を巡る話がある。その起源にも置かれそうな戦後のドサクサに消えてしまったダイヤモンドや貴金属の問題を丁寧に語っている。ある筈のダイヤや貴金属はどのように消えたのか? その問題は実は都市伝説中の都市伝説の話である。

以下、『日本の黒い霧』に沿って――。

戦時中の大日本帝国では、昭和19年8月15日から同年11月14日までの三ヵ月間、国民からダイヤモンドを買い上げるという政策を採った。「ダイヤモンド買い上げ実施に関する件」(一九機二三五一号)。元々は軍需省から工業ダイヤの必要性を迫られて政府が立法化し、国民からダイヤモンドと貴金属の即時買い上げを実際に実施したものであった。

政府の命を受けた「交易営団」という組織が、そのダイヤモンド買い上げ業務に当たった。東京、大阪、京都、神奈川、愛知、兵庫、福岡の七大都府県では、それぞれの都府県庁指定の百貨店が買い上げの代行店として指名された。それ以外の道府県では中央物資活用協会が巡回して買い上げを行なった。東京では日本橋三越、銀座松屋、上野松坂屋、神奈川では伊勢佐木町松屋で、それぞれ即時鑑定即時払いとした。

一応は買い取りであったが戦時下、それも太平洋戦争末期の事であった。基本的には「買い取り」であったが、中にはカネは要らないといってダイヤや貴金属を供出したケースも多々あったという。この「買い取り」には行列が出来て、都市部だけではなく、樺太や台湾、満州にも及んだという。

当初は三ヵ月間の予定であったが、期間は延長され四ヵ月間に及び、昭和19年12月15日まで受付は続いた。その締め切りの翌日、つまり、12月16日には当時の軍需次官・竹内可吉は国民の感謝の談話を発表した。その談話の中で「ダイヤモンドは目標の九倍、白金は二倍という大成果が上った」と述べたという。

目標の9倍以上もの買い上げに成功したとの事であったが、具体的な数字は不明で、しかも戦況は一気に傾斜していき、昭和20年8月には敗戦へ到った。確かに戦争のドサクサに消えてしまったダイヤモンド、いわゆる接収ダイヤモンドの話があるのは疑いようがない事実である。

その「ダイヤモンド買い上げ」が実施された事は、しばらくは人々の記憶の中にあったらしく、接収貴金属処理審査会の設置が昭和35年に実現する。最初は接収貴金属審査会を設置すべしという法案が国会に提出されたのは昭和28年であったが、それはお流れとなり、昭和31年に再提出されたが、この時も継続審議となって持ち越しとなった。昭和32年に衆議院大蔵委員会が大蔵当局と協議した結果、接収貴金属処理審査会の設置が決定した。この頃になると、接収した貴金属類は日銀が保管しているものだと考えられていた事が判明する。

当時の評価額についても触れられている。

々顱糞賣Τし海ら貴金属を引き継いだ厚生、大蔵省及び造幣局を含むもの)…359億円

日銀…307億円

8魄弃鎮帖庁隠隠恐円

ぬ唄屐庁苅害円


合計すると政府・民間を含めて約730億円となり、金が200トン、銀が2114トン、白金が1トン、ダイヤが16万1千カラット、その他に2億円分の資産がある筈だとなった。

しかし、具体的な数字が出始めると、国会関係者や担当筋から、この法案の実施には問題があるというケチがつき始めた。それらは以下のようなものであった。

米占領軍は、この貴金属の管理中に、その大部分の貴金属を熔解、または混合し、一部を米本国へ持ち帰って売却している

米軍によって接収された民間分の43億円は、旧所有者に返還できそうだが、戦時中に民間から集めた貴金属やダイヤは、これらの機関が政府に貴金属類を引き渡さないうちに占領軍に接収され、関係書類さえも戦災で焼失してしまったため、返還できるかどうかとなると困難である

少し面倒臭い言葉遣いになっていますが、これらは平たく言えば、戦時中のドサクサ、敗戦後のドサクサの中で、接収し保管されている筈の貴金属類の行方が不明になってしまっていたという話になる。これは陰謀史観でもなんでもなく、事実そのものなのだ。

さて、少し引用します。

このことについて一つの参考資料がある。それは、当時の隠退蔵物資等処理委員会の副委員長であった世耕弘一氏の手記である。世耕氏は云う。

「供出ダイヤの数量は、現在まで明確に発表されていないのは残念である。国会での、当時の担当係官公吏の証言では、十六万一千カラットそこそこだと言っている。そして、現在、日本銀行の地下室の金庫にある、十六万一千カラットのダイヤモンドは、それを実証していると言っている。ところで、私は此の数字には承服できない。私が内務政務次官として、内務省にいた時分隠退蔵物資を摘発した時の参考資料に基いて調査しても、六十五万カラット位なければならない勘定である。〜略〜反対論者は、世界のダイヤモンド産出量から見ても、それは嘘言(きょげん)だと言うのである。一応、此の主張には考えさせるのであるが、私が調査したところによると、日本の代表的宝石商の専門家の意見を聞いても、私の見解は正当だと言われるのである。〜以下略〜)」
(『日本の黒い霧』下巻25〜26頁)

で、この世耕氏の手記とは、『特集文藝春秋』に掲載された手記である事も示されている。

当時の隠退蔵物資等処理委員会の副委員長であり、且つ、内務省政務次官であった人物が、この世耕氏であり、その世耕氏に拠れば「ダイヤモンドが16万1千カラットだなんて話がおかしいです。ホントは65万カラットぐらいある筈なんです」と、文藝春秋誌にブチ撒けいていた、そういう事があったらしい。

「おいおい、すげぇ話になってきたぞ。戦時中に供出された莫大なダイヤモンドがホントにあったのに、ドサクサ紛れに誰かが持ち逃げしちゃったって話じゃねーかよ」となる。

我々が想像している以上に深い闇がある。占領軍の中の不良分子も接収ダイヤ(供出ダイヤ)を横領すれば、日本人の不逞分子も接収ダイヤの横領に参戦していたと思われる事が徐々に暴かれてゆく。ダイヤモンドに群がる魑魅魍魎たち。悪党のみが繁栄できるのが世の常で――まぁ、そんなのが真実なのかもね。
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阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とは、簡単に説明すると吉備真備(きびのまきび)や玄掘覆欧鵑椶Α砲蕕箸箸發棒称716年7月に遣唐使となり、翌717年に入唐。太学に学んだ後は官吏となり、唐王朝に仕えていた。この時期の唐の皇帝は楊貴妃に溺れた事で知られる玄宗であった。唐では名前を変えており、唐での名前は朝仲満(ちょうちゅうまん)、朝衡(ちょうこう)、晁衡(ちょうこう)。

阿倍仲麻呂は唐に於いては、文人として名高い李白、王維らとの親交も深めた。玄宗からも目をかけられたらしく、とんとん拍子で出世し、西暦733年には帰国を唐王朝に上申したが玄宗は帰国を認めなかった。玄宗は異国からやってきた、その青年の才能が流出する事を惜しんだ、の意だ。実際に阿倍仲麻呂は唐王朝で秘書監、衛尉卿(えいいけい)などの役職に就いており、最終的には従三品(じゅうさんぴん)にまで出世を果たしてしまっていた。この従三品とは、陳舜臣の説明によると「閣僚に次ぐほどの地位」であったという。

唐王朝は世界帝国であったので外国人を重用していたが、それでも従三品は異例であり、外国人としての秘書監になるだけでも頂点を極めたようなものだという。

西暦750年に遣唐使として入唐した藤原清河(ふじわらのきよかわ/遣唐大使)と吉備真備(きびのまきび/遣唐副使)は玄宗皇帝に謁見した。

西暦753年正月元旦、唐王朝が執り行なった拝賀式で、或るトラブルが発生した。宮中席次を巡るトラブルであり、トラブルを起こしたのは日本の大伴古麻呂(おおとものこまろ/遣唐副使)であった。

席順は玄宗皇帝を中央にして、諸国の代表が並ぶ席順になっており、東の筆頭は新羅で、その次が大食(タージ/アッバース朝)、西の筆頭は吐蕃(とばん/チベット)で、その次が日本という並びであった。この並びに大伴古麻呂がクレームをつけたというトラブルであった。大伴古麻呂に言わせれば、「新羅は日本に朝貢している国であり、その新羅が日本よりも席順が上位であるというのは承服できぬ」という抗議を唐王朝の外交部に申し入れたのだ。

冷静に考えると、如何にも日本人らしい傲慢さが出ている。アッバース朝の席順を考えれば、単に距離の近い国から順番に並べているとも言える。また、当時の新羅は唐王朝の服属国であった。決定的な事を言えば、その拝賀式が行われた90年前となる西暦663年には白村江の戦いをしている。唐・新羅連合軍vs.百済・日本連合軍で戦争をした過去もある。それなのに日本人から「新羅よりも低くみられている、この席順は到底、承服しかねる」と厳重抗議されても当惑するに決まっている。

丁寧に当時の歴史解説を読んでゆくと、例えば吉備真備は「優雅な振る舞いをしていた」と中国でも評価されたし、阿倍仲麻呂になると「唐書」東夷伝及び「新唐書」東夷列伝に伝記まで残されており、更には(玄宗の没後ですが)空海が破格の扱いで待遇される切欠になったのは、異次元レベルの達筆であった事、また、文章も尋常ではなく上手かったので唐の地方役人が仰天してしまったという逸話が残っている。おそらく、この唐の時代、特に玄宗皇帝の時代は殊更に文明を尊ぶ文人気風が強かった時代なのだ。

唐王朝では、その猛抗議を受けた為に会議を開き、新羅と日本の席を入れ替える事で結論とした。が、裏では新羅に対して唐の呉懐宝という人物が「日本の使節は直ぐに帰国予定なので手柄となる土産話が必要なのでしょう。そこを、考えてやりましょう。我々は身内なのですから」と言いくるめたのが実際であったらしい。唐王朝側に、このトラブルについての記録は残っていないが、日本へ帰国した大伴古麻呂は、この事を報告しているので日本には記録も残っているという。

(因みに、この宮中席次騒動を起こした大伴古麻呂は、その後に皇太子廃立を巡る政争に巻き込まれて橘奈良麻呂と反乱を計画したとして処刑に遭っている。)

もし、席次問題を事前に阿倍仲麻呂に相談していたなら…という話にもなりますが、もう、その頃には阿倍仲麻呂は唐王朝の中でも重臣クラスになってしまっていた――と。

当時の日本でも積極的に仏教を取り入れており、日本で本格的に仏教を広めるには、僧たちを授戒する律師が必要だという問題が起こっており、唐から律師を招くことができないかという話が持ち上がっていた。西暦742年の事、入唐僧(にっとうそう)の栄叡(ようえい)、普照らは、唐でも高僧として知られていた鑑真に渡日を要請していた。ここで鑑真がすんなりと日本にやってきた訳ではない。

西暦743年、鑑真は揚州大明寺にて初めて渡日を要請された。既に鑑真の名声は高かったが、鑑真は即座に渡日を決意した。弟子たちは難色を示したが鑑真は

是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん

と説き伏せたという。鑑真の渡日が難航した事は有名だ。そもそも唐王朝は許可しなかったのだ。しかし、鑑真の渡日に賭ける熱情は強く、12年間の歳月に五回の失敗を繰り返し、六度目の航海で西暦754年に日本にやってきたのであった。

第1回と第4回の渡日計画は役人に阻止された。第2回と第3回は強烈な風浪に阻止された。第5回も例によって風浪に晒され、栄叡(ようえい)は死亡し、鑑真も失明した。

それでも鑑真の日本行きは敢行されたのだ。

西暦753年の事、つまり、そして先に紹介した拝賀式での宮中席次トラブルが起こった年である。藤原清河、大伴古麻呂らの遣唐使団は日本への帰国を予定していた。ここで唐で高官になってしまっていた阿倍仲麻呂は藤原清河とともに鑑真に会った。鑑真を迎えたいという日本側と、是非とも日本へ行ってやりたいという鑑真、そして実は日本を離れて36年もの月日が流れていた阿倍仲麻呂も、藤原清河らとともに遣唐使船に乗って日本へ帰国するという決断に踏み切ったのだ。


西暦753年1月15日。その日は満月であった。そして日本行きの遣唐使船は蘇州地方の揚子江南岸の港に停泊していた。その船には、こっそりと揚州を抜け出してきた鑑真が乗り込んだ。これは鑑真にして六度目の渡日挑戦であった。

阿倍仲麻呂の方は、日本に帰国するに当たっては事前に明州の海辺(現在の寧波/ニンポー)で別れの宴を開き、当地の人たちとの別れを惜しんでいた。その宴の途中、のぼってくる月を見た安倍仲麻呂は歌を詠んだ。

天(あま)の原 ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に 出でし月かも

上記の阿倍仲麻呂の歌は百人一首にも採用されている有名な和歌だという。全訳古語辞典を参考にすると、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも」とは、以下のような意味であると解説してある。

異郷の地である、ここでも空を仰ぎ見ると、今、まさに月がのぼってくる。この月は懐かしい故国日本の春日の三笠山からのぼった月と同じだなあ――の意だという。


改めて西暦753年1月15日の蘇州の港――。阿倍仲麻呂と鑑真らを乗船させる事になった遣唐使船団は4隻で構成されていた。第1船に藤原清河と阿倍仲麻呂らが乗船した。第2船には大伴古麻呂と鑑真が乗り込んだ。一説に鑑真は密航に該当するので本来であれば第1船に乗船すべきところ、さすがに日本と唐との関係に影響を及ぼすかも知れないという理由で、第1船ではなく第2船に乗船する事になったという。

運命は怖ろしいまでに皮肉であった。この帰国船団の第1船は海上で暴風に遭って安南(あんなん)に漂着した。「安南」と聞いてもピンときませんが、これ、なんと現在のベトナムの事だ。唐王朝の支配権はベトナムまで支配が及んでおり、安南都護府を置いていた。第1船の遭難は長安にも知れ渡ることになり、親友であった李白は阿倍仲麻呂(晁衡)が死んだものと思い込み、「晁卿衡を哭(こく)す」と題した挽歌をつくったという。(この李白は杜甫と並んで中国最高の詩人と呼ばれている。)

陳舜臣著『十八史略』五巻465頁から訳詞を引用すると、以下のようになる。

日本の晁卿、帝都を辞し

征帆一片、蓬壺を遶(めぐ)る

明月返らず 碧海(あおうみ)に沈み

白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ



第1船は流れ流されベトナム(安南)に漂着していた。幸いしたのかどうか、結局、藤原清河と阿倍仲麻呂は唐の都、長安に戻る事となり、阿倍仲麻呂だけではなく藤原清河も唐王朝に仕える事になった。この二人は日本に帰国することなく、唐で没している。阿倍仲麻呂は西暦770年没、藤原清河は西暦779年没。その後の唐王朝は「安史の乱」が発生し、帰国できる状況でなくなってしまったのであった。阿倍仲麻呂については、とうとう帰国を果たせなかったものの、詠んだ歌から望郷の念が強かった事が分かる。そんな阿倍仲麻呂に対しては死後60年以上も経過した西暦836年に「正二位」が贈られた。阿倍仲麻呂は717年に入唐し、そのまま、770年で没するまで期間を唐で過ごし、その生涯を終えた――。

大伴古麻呂と鑑真を乗せた第2船は、西暦753年12月に薩摩国に到着。出発したのは同年1月であった事を考慮すると、11ヶ月もの歳月を経ての日本の薩摩へ着いたという意味であった。そして鑑真は翌年2月に入京を果たし、その後は東大寺で授戒と伝律に専念をした。更に唐招提寺を建立、「大和上」(だいわじょう)の号を賜った。
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ヒストリーチャンネルのドキュメント番組を視聴していても、細かなニュアンスが理解できない事がある。その好例が「ディスコグラフィー」のジョン・F・ケネディ編であった。ケネディ家の家系などにも触れられており、それについてはアイルランド系移民の家柄であった事がなんだか強調されていたように感じていた。とはいえ、視聴していても日本人である私からすると「アイルランドからの移民であった事に意味があるのだろうか?」のようになってしまう。

何かしら白眼視されているニュアンスなのは感じ取れた。ケヴィン・コスナーが主演でキューバ危機を題材にした映画「13デイズ」あたりでも、〈アイルランドいじり〉のようなものがあった。しかし、何かしらのニュアンスが含まれている事情というのが、日本人だとよく理解できないのだ。

その謎は、神野正史監修『民族と宗教がわかる世界史』(英知出版)に記されていた以下の箇所で理解できた。

多くのピューリタンを抱えていたイギリスの植民地が独立して誕生したアメリカでは、その後もプロテスタントが宗教の中心となった。21世紀の現在も、アメリカの人口の4割近くがプロテスタントである。

〜略〜

カトリックの強いアイルランドやイタリアから独立後のアメリカに渡ってきた移民の多くは移住前の信仰を捨てることなく、カトリック信仰を守り続けた。現在のアメリカでも人口の2割近くはカトリック信者である。
『民族と宗教がわかる世界史』(英知出版)53頁

なるほど、そういう事かと合点した。なんだか「アイルランドいじり」みたいなニュアンスを感じ取れていてたのですが、その裏側には「プロテスタントが主流である中のカトリック」という意味合いが隠されていたのだな、と、確信的に理解できた。

「イタリア」というのも、なるほど、映画「ロッキー」でシルベスター・スタローンが半ばヤケクソ気味に自らを「イタリアの種馬」のように名乗っていたシーンがあった。イタリア系である事に何か意味があるのかなと思ったら、そう考えてみると、そうか、そういう意味だ。

イタリアン・マフィアとかシシリー・マフィアにしても同じだ。イタリアだ。Eテレ「世界サブカルチャー史」の玉木宏さんのナレーションがあったように、民族的アイデンティティーというべきか、疑似血縁的なファミリーというアイデンティティーを剥き出しにした映画が人々に響いたという意味であった事に気付く。もう、剥き出しも剥き出しだ。映画「ゴッド・ファーザー」が大ヒットした頃から、その問題だったのだ。国民国家的なアイデンティティー、つまり、宗教や移民元などに頓着することなく、合衆国憲法の定める下、遵法精神に則った者は等しく米国人なのであるというアイデンティティーを獲得できるという目論見があったが、早々に、その目論見は躓いていたという指摘だ。

それがマルコムXやモハメド・アリ、更にはブラックパンサー党といったアフリカ系のアイデンティティーの台頭を起こし、サブカルシーンでもスパイク・リー監督が制作した映画「マルコムX」に繫げたのが、同番組のアメリカ編であった。サブカル分析、おそるべし。

その部分が次の箇所だ。

アフリカ系アメリカ人のほとんどはプロテスタントだが、20世紀に入ると、キリスト教の信仰は奴隷時代に押しつけられたものだとして、一部のアフリカ系アメリカ人はイスラム教に入信するようになった。(同53頁)

上記の引用箇所は、イラスム教に入信して「カシアス・クレイ」から「モハメド・アリ」に改名したモハメド・アリと、その名前を拒否する為に「X」を名前としたマルコムXの逸話には大きく関係していた訳か。思ったより決定的な難題かも知れない。

モハメド・アリの場合は、金メダルを遺棄した行動、徴兵拒否もそうなのですが、「世界最強の男」として注目され始めた時代に、わざわざ、当時のザイール(現在のコンゴ)のキンシャサで世界タイトルマッチを実現するなどしていた。キンシャサの奇跡。そうかそうか、アリのドキュメンタリーのVHSやDVDを複数視聴したことがあったので、薄っすらとは分かったつもりになっていたものの、結構、本格的にブラックパワーを利用してカリスマ性を獲得していったのだなぁ。また、改めて、そうした時代に登場した人物だったのだなと今更ながらに気付かされる。単なるプロボクサーの英雄の話ではなく、時代を背負ったスターだったという訳だ。

とはいえ、そう判明してしまっても事は重大だ。つまり、多民族国家という構想そのもの、その実現が難しいようだぞという事は60年代後半もしくは70年代頃には少し見え掛かってきていて、80年代後半には半ば決定的なものになっていたという事ではないのかな。「世界サブカル史」がやってみせた指摘とは、実際に以下の話であると思う。

つまり、

「この際だから正直に言いますけど、ホントはサブカルチャーの分析から言いますと、60年代の頃から米国が今日のような状況になる未来というのは、深部では予見できたところがあったように思うのです」

だ。
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