どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: アウトロー関連

ヤクザの起源のような話は、どのように語っても定見がないので「それは違う」のように言えてしまう世界なのですが、フリーライター・朝倉喬司が書いたヤクザ概論とでも呼ぶべき朝倉喬司著『FOR BEGINNERS ヤクザ』(現代書館)では、民俗学者にして歌人であった折口信夫(おりくち・しのぶ)の使用した『ごろつきの話』をヤクザと読み替えて、それを説明している。

「無頼漢(ごろつき)などといえば、社会の瘤のようなものとしか考えておられぬ。だが、かつて日本ではこの無頼漢が、社会の大きな要素をなした時代がある。のみならず芸術上の運動には、ことに大きな力を致したと見られるのである」

上記の一節は、折口からの孫引き引用という事になるのかも知れませんが、少なくとも折口のヤクザ論では、そう解釈されている。「芸術上の運動には大きな力を…」は説明するまでもないのかな。興行、芝居から歌からボクシング、プロレスなどもヤクザなしでは成立していない。

折口に拠れば、「ごろつき」とは中世に発生した非定住民諸集団であり、例えば武士団らが抗争によって土地を奪われ、流民化・漂泊民化したものであったと推定している。例えば、蜂須賀小六などは通説でも乱破だったとされ、いわゆる山の民というか山賊というか、もう、名称をつけるにも苦慮するような、それであった。で、折口が、どう「ごろつき」を片付けたのかというと、

彼らは、やむを得ず、無職渡世などといって、いばって博徒となった。これが侠客の最初である。

えっ、これをヤクザの起源と言ってしまっていいのかという感覚は誰しもが感じるものかも知れませんが、この話、私は横山光輝の書いた漫画『史記列伝』に中国に於ける侠客を描いた話があり、なるほど、折口信夫は、中国の古典から「ごろつき」というものを思いつき、それが近代のヤクザの起源であろうと推理していたのであろうと考えることができる。この侠客が本格的に日本で起こるのは江戸時代以降だから、或る意味では折口のヤクザ論は飛躍が過ぎるじゃないかと言えてしまうのですが、江戸時代に登場したヤクザが侠客を名乗り、また、庶民も侠客を褒め称えていたのはどうしようもない事実なのだ。

この【侠客】とは、「弱気を助け、強気をくじく」を本義に据えた任侠道を精神規範とし、渡世をしていた人々であるのも否定しようがない。

また、横山光輝が題材としたのは、郭解(かくかい)という侠客で、この郭解については司馬遷が文書を残していたという。郭解は、軹(し)という国の人で、若い頃から手の付けようのない暴れ者であったという。殺人、墓荒らし、偽金造り、略奪、恐喝などの常習犯で役人に追われていたが、中々、捕まらなかった。郭解は義理堅い人物で、友人がやられると命を張って仇討ちを果たすような人物であったという。そんな郭解も、役人に捕まる日がくる。幸運にも恩赦となり、娑婆に戻ると、この郭解は、心を入れ替えたのか、恨みを持っている者には恩で報い、困っている者があれば助けてやるという生き方をはじめる。十年ほどが経過すると、人々は、この郭解を侠客と呼ぶようになっている。役人にいじめられていると訴えると、郭解が役人相手でも「言うべきことは言う」という態度を貫徹した為であるという。いつしか、郭解は人々から「あの人は俺たちの味方である。弱い者の味方である」と認識されるようになり、子分たちを増やしていったのだ。

或る時、郭解の甥が殺害された。郭解は甥を殺害した人物を探そうとしたところ、一人の男が郭解の元に現れた。男は「逃げられる筈がないからやって来た」と述べた。すると郭解は何故、甥を殺したのかを尋ねた。男は言った。「無理矢理、酒を飲まそうとして、人前で私の鼻をつまんで酒を無理矢理に流し込もうとしました。その屈辱に私は男として我慢できなかったのです」と理由を述べた。すると、郭解は、その甥殺しの男を責めることなく、無罪放免とした。「あなたは悪くない。私の甥が悪かったようだ」で済ませたのだ。この逸話によって、郭解は、益々、人々から尊敬されるようになった。人々は儒教的な価値観によって「筋を通す人」、「義理と人情」を重視していたのだ。

やがて、この郭解という侠客は、役人の罠に嵌められて逃亡する身となり、挙げ句、役人に捕まり、拷問にも遭う。しかし、悪事の証拠はない。また、過去に働いた悪事については恩赦が出ている。証人を呼んでみたが、人々は揃って「郭解は義理に厚い、とってもいい人ですよ」と言うばかりなのだ。困った役人たちは一計を案じ、郭解に「大逆無道の罪」という罪をつくり、それに強引に問うて、郭解と、その家族を皆殺しにしてしまった。おしまい。

無頼の人。法の外の人という意味でのアウトロー。役人とは正義なのか、法は正義なのかと考えるいい材料かも知れず、つまり、人々から尊敬されている郭解が、何故、罪に問われ、処刑されねばならないのかという基本的な問題が浮上する。儒教的価値観というべきか、東洋思想というべきか、つまり、義理人情に厚く、筋を通すリーダーは、我々日本人だけに限らず、古代中国でも尊敬されたという当たり前の話になっている。他方、役人はというと、政府というべきか王朝というべきか、つまり、それに仕えている役人である訳ですが、彼等の世界とは古代から讒訴や讒言が多い世界で、弱い者いじめが多い世界であったのだ。そういう世の中だから侠客は尊敬された。もっとも、そういう侠客は稀であり、殆んどはゴロツキと呼ばれておしまいなのだけれども。

では、何故、国家は人々から税なり年貢なりを集め、それに従わなければ懲罰する事が許されたり、暴力を行使しても許されるのかという問題になってしまう訳ですね。国家とマフィアの違い、国家とはヤクザの違いというのは、意外と難題でもある。ショバ代を巻き上げたり、ピンハネも許される統治機構であり、且つ、暴力の行使も許され、拷問をしても殺人をしても咎められない。竹内久美子著『賭博と国家と男と女』(文春文庫)は奔放な発想で、ホントは国家の起源はマフィア(ヤクザ)であると推理してしまう傑作ですが、実は、両者には、あんまり差異がない。

しかも日本の近代史になると、官憲はヤクザを暴力装置として利用していたのが事実なんですよね。現在でこそ、毎日のように「反社」、「反社」と大騒ぎをしている。しかし、労働争議などをつぶす為に警察にヤクザに動員をお願いしていたという日本の暴力史がある。下の写真は月刊誌『実話裏歴史SPECIAL VOL.6〜日本の暴力史』ミリオン出版ですが、まぁ、ホントに角材を持ってヤクザが労働者を殴りつけている証拠写真(共同通信の写真)であるという。

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1960年は、60年安保の年であった訳ですが、この年、西日本では「総資本VS総労働」とが激突することになった三井・三池炭鉱争議があった年でもあったという。人員整理、つまり、クビを巡っての激突であったそうな。

三井鉱山は4580名の希望退職者を募集したが、三井鉱山の三池炭鉱だけが目標数値に達しなかった。その為、三井鉱山は活動家を含む1214名の指名解雇に踏み切る。これに労働者は反発、1960年3月25日から全面ストライキ(罷業)を行使する。これに対して、三井鉱山はロックアウト(作業所閉鎖)で応じた事から、総資本VS総労働という緊張状態へ突入した。

三井鉱業は、第二組合という別の労組を企業主導で起ち上げて、この第二組合の組合員のみを就労させるという手法を採った。労働者の中には元々の組合(第一組合)から第二組合へ流れた者もあったらしく、或る種のスト破りのような裏切り行為であるとして第一組合と第二組合との間で乱闘が発生した。

3月28日に115名の負傷者が出る騒ぎとなる。しかし、翌29日、第一組合に襲い掛かったのはヤクザの集団であった。写真は証拠として実際に検察に提出したものだそうで、とうとう、このヤクザ投入によって第一組合からは死者が出た。刺殺されたものだという。

この三井・三池炭鉱争議は、5月には警官隊と第一組合が衝突、171名が重軽傷を負う。ここで決着かと思いきや、「ヤクザや警官隊までもを投入して弾圧するのか」と第一組合が猛反発。労働者らが全国各地から集まり、7月にも海上から資材を運ぼうとした企業側の動きを察知した組合側が船を出して海上で24艘の船が一時間余りの海戦を起こし、230余名の負傷者を出したという。

収拾不能と思われたが岸信介内閣が安保を通した後に退陣し、池田勇人内閣になると強硬策から懐柔策に変わり、池田内閣の調停に乗り出し、最終的には11月に、この争議は幕引きとなったという。或る時期までは、ヤクザをこんな風に利用していたのに、現在ともなると、凄い掌返しになっている気がする。

日本の労働行政が絶望的にダメな理由もこういう部分にあるのかもね。社畜でいいじゃないか、働かせ方改革、従おうじゃないか的な。
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週刊文春が短期集中連載として掲載した森功さんのルポ『西城秀樹と姐さん』は、10月4日号から10月25日号までの4号に亘る連載でしたが、テレビや新聞では触れない「もう一つの西城秀樹像」に迫ってみせた非常に読み応えのある連載でした。しかも、森功さんのルポは、いわゆるレッテル貼り、ゴシップに終始することなく、その一時代を築いた“西城秀樹”というスターの実相に迫るという筆致ですしね。念の為に述べておくと、「反社、反社、それは反社なのです! 反社は許されないのです!」と騒ぐような内容ではありませんよ。一定以上の見識を有する者が「ああ、なるほどね」と理解すればいいだけの話で。


大阪市天王寺区にある四天王寺には、木本家と刻まれた墓石があり、その墓石の裏には昭和のスター・西城秀樹さんの本名である「木本龍雄」と記されているという。そして、その隣には宅見家の墓石があり、その宅見家の墓碑には「宅見勝」と記されているという。同じ大きさで左右対称に建立された「木本家」と「宅見家」の墓が並んでいるのだそうな。

「宅見勝」とは山口組の内部抗争によって敵対勢力によって射殺された大物中の大物と呼ばれた、あの宅見勝組長であるという。当時の山口組は経済ヤクザとして台頭した宅見勝組長率いる宅見組が山口組内でも大きな勢力として台頭していた中、山口組内では内部抗争があったとされている。武闘派として認知されている山口組系中野会の手にかかった者が宅見組組長を射殺したものと言われている。


◆西の横綱、宅見勝
「経済ヤクザ」という言葉を使用した場合、稲川会二代目会長「石井隆匡」を東の横綱と呼び、西の横綱については、山口組系宅見組組長「宅見勝」を指すことになっている。単純にアンダーグラウンドな世界に於ける資金力や経済力という観点で言えば許永中事件や住友銀行を巡るゴタゴタを含めると、この西の横綱・宅見勝こそが真の日本一の経済ヤクザであった可能性が高い。

1975年、それまで神戸に拠点を置いていた三代目・田岡一雄組長体制の下、大阪戦争と呼ばれるヤクザ世界の戦争を制し、大阪を制圧。その大阪戦争の際に勇名を馳せたのは、宅見勝伝説のはじまりであったという。1977年、宅見勝は三代目・田岡組長と直接的に親分子分の盃を交わし、その宅見組は山口組直系の二次団体、直参(じきさん)の宅見組を率いる事になったという。

1989年、五代目・渡辺芳則組長体制下で若頭に就任。この1989年前後はバブル期であり、暴力団も例外ではなく経済ヤクザへのシフト化が起こっていたが、そこで西日本最大、ひょっとしたら日本最大の経済ヤクザになっていたのが、この宅見勝率いる宅見組であった。山口組という一次団体の若頭という地位は、即ち、日本一巨大な暴力団組織のナンバー2という地位であり、しかも圧倒的な経済力を誇っていた宅見勝は巨大組織たる山口組内に於ける実質的なトップのような存在であったとも言われる。故に宅見組は大阪ミナミの千日前に組事務所を構え、その威光は広く知られていたという。

そして、やはり古くから囁かれていた話として、「宅見組の宅見勝組長の内縁の妻は、あのテレビで人気を博しているスター・西城秀樹の実姉らしい」という事実とも風聞とも判断の難しい情報が流れていたが、つまりは、そういう事であった。芸能史に於ける「西城秀樹」とは否定しようのない大スターの一人であり、その大スターの実姉は実は日本一とも言われた経済ヤクザ・宅見組の姐さんであったという覆しようのない事実が一つ、そこに転がっている。何故、そこに接点があったのかは後述しますが、一先ずは、この西の横綱・宅見勝について――。

五代目体制下の山口組で発生した内部抗争については未だに真相らしいものは謎に包まれている。渡辺芳則組長の後見人にして山口組若頭補佐をも務めていた山口組系中野会の中野太郎会長であったといい、また、実質的に山口組の執行機関の運営をしていたのは山口組若頭という職にあった宅見組の宅見勝組長であったという構図であった。

元々の経緯は、一橋文哉氏の著書に沿うと以下のようになる。

1996年7月10日、京都府八幡市の理髪店で散髪中であった中野太郎会長が、京都を地盤にしている会津小鉄会系中島組によって拳銃を乱射され、中野会長のボディガードをしていた中野会組員が逆に会津小鉄会系中島組の2名を射殺するという事件が発生。元々は、京都を巡る山口組系中野会と会津小鉄会系中島組との抗争であった。

会津小鉄会は、その事件の後、山口組本部へ訪問して謝罪。この謝罪を受けた山口組本部は宅見勝が仕切っていたが、宅見勝は会津小鉄会の謝罪を受け、そこで電撃的な和解が成った。しかし、その裁定に武闘派・中野会は納得できず、宅見組と中野会との関係が火花を散らすこととなった。

1997年8月28日、この日、宅見勝は新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジに居たところ、中野会が放ったヒットマン集団らによって銃撃を受けて、7発を被弾、暗殺された。この宅見組長射殺事件は、ホテルのラウンジで行なわれた内部抗争劇であった為に、一般客の男性にも流れ弾を被弾し、後日死亡するという事態となり、大きく報道された事件でもあった。

その後、山口組本部は中野会を絶縁処分とするなどの対応をしたものの、中野会はその後も独立団体として存続。しかし、ヒットマン部隊のリーダーであった中野会若頭補佐・吉野和利が1998年7月に潜伏先の韓国・ソウル市のマンションで変死体で発見。更には1999年9月に中野会若頭が射殺され、2002年4月にも中野会副会長が射殺され、2005年8月に中野会は解散に追い込まれた。

因みに、故・横山やすしさんは中野会の盃を受けた際の写真が出回っているし、また、中田カウスさんに関しては渡辺芳則五代目との親密さをアピールしていたという風聞があり、それ故に乗用車に乗っていたところ奇妙な暴漢による襲撃事件に遭ったという芸能ニュースがあった。横山やすしさんも暴漢に殴られた事件がある。そして、少し時代は経過しますが島田紳助さんの場合になると山口組の実質的ナンバー4との親密さが露見する電子メールがマスコミにリークされ、芸能界引退に追いやられた騒動などもある。



◆宅見の姐さん・宅見ママ
西城秀樹の実姉は、秀樹さんよりも9歳上であるという。実家となる木本家は広島駅裏の小さな住宅密集地で生まれ育ったという。父・三朗は戦時中に広島にやってきた長身の男性であり、母・靖子は名古屋から嫁いできたという。父・三朗は自動車タイヤの卸商や雑貨店、輸入品販売、更には不動産屋、ビリヤード店、パチンコ店と色々な事業の展開を手掛けた人物で、その内、パチンコ店の経営が軌道に乗った事もあり、地元ではパチンコ店の経営者として痕跡を残すという。

そんな戦後の混乱期に様々な事業を展開させて財をなした父・三朗は、厳格で頑固な父親であったという。秀樹さんの9歳上の実姉は木本家の長子であり、殊に父親との衝突が絶えなかったという。実姉は中学生時代、女の子であったが父親によって頭髪を丸刈りにされた事もあったという当時を知る人の証言があるという。その為、実姉は高校一年のときには家を飛び出すような騒動があり、その後、家出したらしい。仮に、この年齢を15〜16歳とすると、まだ、後の「西城秀樹」となる木本龍雄は6〜7歳でしかない。

後に西城秀樹となる木本龍雄は、その頃は「タッちん」というニックネームで仲間たちからは呼ばれており、3歳年上の兄の影響を受けて中学時代からジャズ喫茶でアルバイトをしていたという。そのタッちんは兄を追い掛けるように音楽を始めたが、何をやっても兄には敵わなかったという。

タッちん、ジャズ喫茶でアルバイトしていたところ、寺内タケシとブルージーンズのボーカルを務めていた藤本好一にスカウトされる。これが中学時代だったのか高校一年の夏休みの事であったのか微妙ながら、その頃であるという。上京するにあたって広島時代に通っていた山陽高校を中退、東京の明大附属中野高校へ再入学するという選択をして、歌手活動を始める。

西城秀樹自身が週刊文春の連載「家の履歴書」(2000年10月26日号)に登場した際には、父・三朗から猛反対を受けたという逸話を語っていたという。厳格にして頑固な父・三朗は、歌手を目指す為に上京するという我が子を紐か何かで縛り付けて押し入れに閉じ込めたが、それを母・靖子が押し入れから出してくれ、内緒で送り出し、実質的には家出同然のようにして上京を果たしたという。

上京したタッちんは、音楽プロデューサー・上條英雄の元に居候してデビューまでの期間を過ごしている。実は、この上條は前述の寺内タケシとブルージーンズの藤本好一から「いいのがいるから見にきてくれないか」と誘われ、丁度、広島に用事があったので、ジャズ喫茶時代のドラムを叩いていた西城秀樹を実際に見たという。また、この上條英雄はジョー山中や五十嵐じゅん、ゴールデンハーフ、舘ひろしなどをデビューさせた人物であるという。その上條の住んでいたマンションに居候しながら音楽修行をしていたのだそうな。

1970年、そして上京から10日目のこと、上條の元にタッちんの両親と姉の三人が訪ねてきたという。両親は広島に連れ戻す為の説得にやって来たものであったが、タッちんの意志は固く、広島弁で「わしは広島には帰らん」と突っぱねた。その膠着状態に割って入ったのが、9歳上の実姉であったという。

「ほなら、お父さんたちは下で待っといて。私が話をするけん」

と、とりなし、その部屋の中にいた9歳下の実弟に対して

「あんたがそこまで言うんなら、やってみんさい。私がお父さんを説得するけん」

と、タッちんに優しく話し掛けたというのだ。

思いの外、西城秀樹のデビューの裏には、この表に出せない実姉の存在が関与していたらしい。

この頃、9歳上の実姉は24歳前後であったが、上條に向かって

「上條さん、弟のことをよろしく頼みます」

と言って分厚い封筒を手渡し、弟を預ける相手に精一杯の気遣いをみせ、その場から去っていったという。

芸名「西城秀樹」とは、この時に登場する音楽プロデューサー「上條英雄」の【條】を【城】へ、そして【英】を【秀】へ、同じ読みの異なる漢字二文字を当て嵌めて名付けたらしい。

16歳になった西城秀樹は大手芸能プロダクションの芸映と契約。この芸映との契約時には両親も立ち会ったという。(つまり、猛反対していた父・三朗も芸能界入りを承認するようになっていた。)

1972年、西城秀樹は「恋する季節」で歌手デビューを飾ると、その後は瞬く間に「情熱の嵐」、「傷だらけのローラ」等のヒット曲を放って、郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるアイドルスターの地位を固めた。

うーん、改めて実際に西城秀樹さんのCD「ゴールデンベスト・シングルコレクション」を聴いているのですが、私は知っている最も古い曲は「チャンスは一度」でした。その後は「情熱の嵐」、「激しい恋」、「傷だらけのローラ」という感じですかねぇ。実はシングルカットされた曲でも、どれもこれも記憶にあるという感じではない。きっと、そこそこ売れた曲と売れない曲とがある中で、アイドルスターという露出で、その地歩を固めて行ったという感じだったのかも。

そして、1979年2月、あの大ヒット曲「ヤングマン〜YMCA」となる。人気テレビ番組「ザ・ベストテン」で満点を叩き出した唯一の楽曲であるのは語り草ですが、私が記憶しているのは小林よしのりさんの漫画「東大一直線」ですかねぇ。その登場人物らが「ヤンメン」と歌っていた描写があったと思う。アイドルスターという認識から、半ば国民的人気歌手という認識になってゆくのかな。それについては山口百恵や桜田淳子も似ていて或る時期から楽曲が「青い性」を売りにするプロモーションではなくなってゆく。

1983年1月、西城秀樹は芸映から独立。そして翌1984年3月に西城秀樹自らを代表取締役とするアースコーポレーションを立ち上げた。大手芸能プロダクションからの独立というのは、そのテレビ局やイベント興行との兼ね合いもあり、すんなりといかないのが相場であるという。つまり、事務所からの独立を機に、そのギョーカイからホサれてしまうという力学が隠然と存在している世界であるという。これは昨年のSMAP解散騒動からすると、きっと現在でも同じなのでしょう。しかし、西城秀樹の場合は、鮮やかに、この独立を果たした。そこにあったのは、宅見の姐さんのバックアップと無縁ではなかったという。

独立後、一発目のシングルカット曲は「ギャランドゥ」であり、これは、もんた&ブラザーズの「もんたよしのり」による楽曲提供であった。先に放送されたテレビの追悼番組でも、もんたよしのりさんのコメントがありましたが、それですね。もんた&ブラザーズの音源として「ギャランドゥ」もCDを持っていたので、そちらも耳にしているのですが、楽曲そのものが非常に垢抜けているんですね。曲調やアレンジは特徴的なのに、それに似ている曲を挙げることが難しく、オリジナリティのある曲で。

また独立元年の1983年、独立後にも10年連続での大阪球場コンサートを開催し、大成功を収める。

1986年には映画「傷だらけの勲章」が東宝で配給された。この映画では主演は西城秀樹、その他にもちあきなおみ、朝加真由美が出演し、エジプトロケまで行なった映画であったが、その製作はファインズ・コーポレーションなる会社が手掛けたものであるという。


◆ファインズコーポレーション
「ファンインズ・コーポレーション」なる会社の前身は「大阪屋商事」といい、1971年に設立された会社であるという。そして大阪屋商事の役人には、かの宅見勝も名前を連ねていたという。宅見勝は元々は和歌山県の根城にしていた山口組系南道会傘下の福井組、その福井組の若頭であったが1970年に福井組は大阪ミナミに事務所を構え、その翌1971年に設立した会社が大阪屋商事であったという。

そして宅見勝と西城秀樹の実姉との出会いも、この和歌山から福井組が大阪ミナミに移って間もなくの事であったという。広島の実家を家出していた実姉は、大阪ミナミでクラブホステスをしていたとされる。福井組が大阪ミナミに進出、その頃までに実姉はクラブ「朱雀」の人気ホステスになっており、そこで宅見勝に見初められ、朱雀を辞めて十三(じゅうぞう)にある「ナポレオン」というクラブのオーナーに店を任されるようになった。その後は「クラブ西城」という店を出して繁盛したという。以降、その界隈で実姉は「宅見ママ」と呼ばれるような存在になったという。平たく言えば宅見勝の内縁の妻、情婦、或いは宅見の姐さんというニュアンス。

経済ヤクザ・宅見勝、その経済力を初期に支えていたのは、前出の大阪屋商事で、金融業に不動産仲介、飲食店経営を目的にしていたという。社名は途中から「ロータリーユニオン」へ商号変更、更に「ファインズ・コーポレーション」へと商号変更し、1985年には宅見ママ、つまり西城秀樹の実姉が代表取締役に就任していたという。

宅見ママはファインズ・コーポレーションの代表取締役として才覚を発揮し、その他にも大阪ミナミで焼き肉店やステーキハウスの経営を手掛ける。殊にステーキハウス「瀬里奈」は宅見ママの誕生日ともなると、大物芸能人やゼネコン幹部、政治家、大学教授ら、さまざまな著名人が招かれ、来店したという。また、あの細木数子さんの姿を現していたという。

また、宅見ママはコンサートチケットを強制的に売りつけていたものではなかったが、大阪では西城秀樹以上に「桑名正博」や「やしきたかじん」が人気となる土地柄であった事もあり、西城秀樹コンサートのチケットはステーキハウス「瀬里奈」で売っていたことがあったという。そんな時、宅見ママは

「あの子は宝物なの」

と、言っていたという。この話などは宅見ママは陰ではずっと実弟・西城秀樹を支えていた一端がうかがえる。西城秀樹は全国区のスターとなっていたが、その光輝くスターを陰で支えていたものは、ひょっとしたら、こういうものも関係していたのかも知れませんやね。

事実関係は判然としないものの、西城秀樹の大阪球場コンサートは、ソロ歌手としては日本初の球場を使用したコンサートにして、また、ペンライトを使用した本邦初のコンサートとなるが、その大阪球場コンサートは1974年から1983年まで連続して10年間行われたものであり、時期を照らし合わせると宅見組の快進撃の時期と重なる。ルポ中では「やっぱり宅見親分の神通力が働いた、ともっぱらでした」という証言が掲載されている。


◆十朱幸代の話
西城秀樹を巡る報道の中で、とりわけ話題になったのは年齢にして一回り上の女優・十朱幸代と西城秀樹の噂であった。確かに芸能レポーターらの話では確信的に結婚話が取り上げられたり、或いはアメリカまで西城秀樹が十朱幸代を追い掛けて行ってしまったなんて報道もあったが、最終的には西城秀樹が十朱幸代にフラれたという風に理解されている。

しかし、このルポでは少し異なる破局の真相を綴っている。以下、着色文字は引用です。

九〇年頃のことだ。三十五歳の秀樹に対し、十朱はすでに四十八歳。幼馴染たちは秀樹が十朱にフラれたと考えているようだが、実はそうでもない。秀樹は実家の父、三朗にも彼女を紹介している。三朗の古い友人がこう明かしてくれた。

「二人は結婚を前提に付き合うちょった思います。だから実家まで連れてきたんじゃ。家に十朱幸代が来て『結婚させてくれ』いうから、お父さんが(十朱の)歳を聞いて断ったって言うちょった。なにしろ歳が離れすぎちょるけ、『アンタ、子供を産むつもりがあるかね』と聞いたみたい。いかにもあのお父さんらしいけど、それで別れることになったんだと思います」


しかし、この引用文にも記されている通り、幼馴染、それこそ「タッちん」と呼んでいたバンド仲間は、そのタッちんから「今度俺、結婚しよう思う」と十朱幸代を紹介されたという。その幼馴染は直に十朱幸代を連れて来た西城秀樹と会っていたが、その印象からすると(十朱は)「秀樹の恋人の演技をしているように見えたので、長続きせんと思いました」と証言したという。重複になるのを覚悟で整理しますが、つまり、幼馴染からすると西城秀樹は十朱幸代に熱を上げていたが、十朱幸代の方は演技をしているように見えた――という。(真偽のほどは定かではない。)


◆その人脈
2001年7月7日、新高輪プリンスホテルの「飛天」の間にて、西城秀樹は結婚披露宴を開催した。司会は徳光和夫、来賓には、森光子、ビートたけし、当時、人気絶頂であった西田ひかるら数々の有名スターも参加していたといい、その披露宴の招待者の総勢は654名。

その披露宴では、久世光彦、森光子らに続けて、次のように主賓の紹介が徳光によってなされたという。

「社会福祉法人ともしび福祉会の理事長でいらっしゃいます小西邦彦様。ひとことお願いいたします」

と。

この「社会福祉法人ともしび福祉会理事長・小西邦彦」とは、「部落解放同盟飛鳥支部長・小西邦彦」であったが、徳光の司会進行では前者の肩書きで紹介したという事である。これは、いわゆる現在でもインターネット検索すれば、直ぐにヒットする飛鳥会事件の当事者の名前でもある。

引用します。

その主賓の一人が、大阪の部落解放同盟飛鳥支部長だった小西邦彦だ。山口組系金田組の構成員から被差別部落解放運動に身を投じた小西は、同和行政に影響力を発揮してきた斯界の実力者として知られた。政界や官界だけではなく、実業界や芸能界、暴力団の世界にいたるまで、幅広い人脈を誇ってきた人物である。

披露宴会場では芸能人たちが入れ替わり立ち代わり、小西氏に挨拶していたという。岡本夏生さんは『おとうさぁーん、会いたかったぁ』と大声をあげて抱き着いていたといい、加賀まりこさんも『おにいちゃん、お元気そうでなによりです』と駆け寄ってきて挨拶していたというから、確かに小西氏が、そういう人脈を持っているのは事実であったよう。

また、西城秀樹の場合は1991年7月に許永中とともにイトマン事件で特別背任罪に問われた伊藤寿永光からのバックアップがあったという。この伊藤によるバックアップも西城秀樹独立後であったという。

この頃の経済ヤクザ・宅見勝のその経済力については、規模を推測しようにも推測そのものが難しく、許永中に伊藤寿永光、更には小西邦彦という名前がそこに浮上してきてしまうって事なんでしょうねぇ。山口組五代目・渡辺芳則組長体制下で実権を握っていたのは経済ヤクザ・宅見勝であり、その規模や構成の完全な把握は難しいものの、そこに登場する顔ぶれとは、そういう面々だったという事になるんでしょうねぇ。









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反社会的勢力と親交を持っていた事を主とした理由で、日本ボクシング連盟の山根明会長が辞任するという騒動があり、その辞任を表明したのは記者会見では声明として辞意を表するという映像がありました。

ここのところワイドショウを中心に、NHKのニュース枠でも取り上げられていた告発騒動でしたが、この告発を巡っては、告発を受けた張本人である山根明氏がメディアに登場、さんざんぱら反論、持論めいたものを披露していた。

具体的に取り上げられていたのは【奈良判定】と【過剰接待】であった。奈良判定というのは奈良県の選手に有利な判定が下るというものであったが、問題を突き詰めてゆくと、明確な山根会長よりの指示があったワケではなく、山根会長を忖度する周囲が勝手に奈良贔屓の判定を恒例化させてしまっていたという構図のようにも見える。とにかく、現時点では山根会長から直接的に「奈良の選手を勝たせろ」という趣旨の命令の存在は判明していない。過剰接待が恒常化していたという問題も同じで、「これこれこう接待しろ!」という具体的な指示が存在していたと現時点では断定しにくく、その点ではたぶんに周囲が忖度して過剰接待をしていたものとも考えられる。

奈良判定および過剰接待の二件については「具体的に指示が出されていた証拠がない」のだけれども、どうも事情を並べてゆくと、ホントに山根氏からの指示はなかったのに、あちらこちらで忖度が起こり、忖度をせずには成立しないことが恒常化していたと捉えると、色々と辻褄が合う。率直に言えば独裁的リーダーは、単体では成立せず、ホントはゴキゲン伺いをしたり、忖度をしてしまう側にも問題があるようにも思える。つまり、独善的リーダーを成立させてしまっていたのは、そのリーダーの取り巻きであったというのも一面では真理であったでしょう。


奈良判定と過剰接待の具体的な二件は、そんな流れであったと思う。その後に爆弾が投下されたのは「反社会的勢力との交流があった」という部分、それと毎度お馴染みの「時代錯誤である」という批判であった。

先ず、先に【時代錯誤】の方ですが、まぁ、率直にその言い表してしまうのは意が通るし、楽なのだけれども、実は批判する側の武器という意味では、

「そんなものは時代錯誤だ!」

というのは万能すぎて面白くないし、殆んどイチャモンでも成立してしまう。現代人のクレーム事情を体現する常套句でしょう。さほど革新的でもない新商品を製造したり輸入して、それを売り込むにあたって「未だにそんな事をしているのゥ。オックレてるゥ〜」のようなミーハー向けの広告を打ってマヌケな消費者を釣ったり、そして釣られるマヌケな消費行動でもある。「え? ウェアラブル端末を持っているでんか? さすがですね、すごいですね」って面と向かって言いながら、陰では「あいつさ、最先端気取りなんだけれと、人間としての中身がさ、そう、イナカッペ丸出しなの!」ぐらいに軽蔑しているのが案外、現実かも。

「寿司を握るのに素手で握るなんて時代錯誤だ!」

というものの、昔から寿司は素手で握っていたし、清潔な板場、見るからに清潔を心掛けている板前が握るものであったりしましたよね。不潔そうな板前さんってのは成立しないものであった。

「今どきファクシミリなんて時代遅れだ。今はメールかLINEで充分だ」

というのだけれども、これはホントは持っている機器を臨機応変に使い分けるべきというのがホントであろうと思う。LINEが、その人の仕事にベストであるなら、そうすればいいのであって、わざわざ他人を批判して社会そのものを変えるべきだと言い出すのは筋が違う。書類なり原稿があって、それに手書きでメモを加えてファクシミリで送信するという手法は決して非効率的ではありませんやね。実際には、ファクシミリで送信した書類を手にしてもらって、言葉や文書で伝える事柄が困難な内容というのも実際にはある。電子メールが便利で、きれいで、余計な紙クズを出さない事は確かですが、そうするに当たってデータをPDF形式にしたり、あれやこれやという実情に伴う事情があって、場合によってはファクシミリで書類を送信し、数分後に電話を入れて、書類を手にしてもらった上で説明する事が最も効率的な方法であったりするのもホントでしょうしねぇ。

最近、キレモノの会計士さんとあれこれとやり取りしましたが、実際、ファクシミリは便利ですよ。紙媒体という実物で手元にある以上、それをお互いに見て、確認できるし、早朝や深夜の時間帯に送りっぱなしにしておくという使用方法もありますからね。要は「バカとハサミは使いよう」なのですが、「時代遅れだ!」と批判する人たちの中には、なんでもかんでも古いものを否定する事で自らを肯定せんとする薄っぺらさがあるというのがホントであろうと思う。

「もう世界は電子決済の時代だというのに日本は現金を使用する老害ばかりだ。なんて時代遅れなんだ!」

は、ドイツが何故、日本以上に現金主義なのかを考えるといいと思う。日本以上に現金決済主義であるのがドイツなのだそうな。ドイツが一貫して経済強国である理由や、哲学的思考に熟練した国民性であるようにも見えなくもない。電子マネーや電子決済の未来図とは、一方ではディストピア的な完全管理社会の登場を惹き起こしかねない何かかも知れず。大体、情報流出リスクとかをホンキで考えているんだろか。現金主義なら個人情報漏洩なんて心配しないで済むのであって。

既成のもので、その既成によって物事が成り立っている場合、我々が気付いていない微妙な何かがバランスしている可能性がある。「頑固おやじのリーダーシップなんて老害以外の何者でもないから排除すべし!」として排除してしまったところ、まとまるべきものもまとまらなくなってしまったり、或いは独裁的リーダーを倒してみたら、次なる独裁的リーダーが登場しただけだったというオチは、現実問題として有り得るし、起こり得るし、そもそも組織内の主導権争いとは、そういう性質を内包してしまっているものなのだ。

私なんて高校生のときに学級委員長を辞退したという経験を持ってる。原則としては、そんなものに辞退もクソもないんですが、その頃、私の行っていた学校というのは荒くれ気味の一部の生徒を含めて男ばかり50人ぐらいのクラスで、私が声を張り上げたところで、その場を制することは、どう考えても難しいんですね。「静かにしろっ!」とドスの効いた声でクラス内を一括できるような迫力を持ったキャラクターじゃないと、正直、リーダーシップは取れない。取れるワケがない。そういうのは現場を知っていれば、火を見るより明らかな事実なのだ。適任とか、適材適所というものがある。


一先ずは【時代錯誤】という批判、イチャモンの付け方というのは、一見、正当性があるし、意も汲み取れば汲み取れるのだけれども、その斬り捨て方は万能すぎて実は犒雖瓩あると言いたいんですね。

次いで【反社】(反社会的勢力)の問題について。これはレッテル貼りの問題が大きいのは確かでしょうねぇ。

「反社と交際があったなんて今の時代、許されません! 言語道断です!」

という斬り捨て方なのだと思う。しかし、国民的歌手「美空ひばり」のプロモーションを誰が手掛けていたのかっていえば神戸芸能社であり、つまり、三代目山口組組長・田岡一雄である。実際には戦前のボクシング黄金期のスター選手、「拳聖」の異名を持つピストン堀口の興行などにも関与している。或いは「北島三郎」にしても反社との交流を報じられて紅白歌合戦出場ピンチなんてのがありましたが、興行を執り行なうにあたって、その筋が介在していた、そういう歴史的経過の中で今日の日本文化があるというのは厳然たる事実なんですね。

政治家や財界も、すっとぼけているけど、日本の歴史なんてのは三池炭鉱争議などでは資本家がヤクザを雇って、そのヤクザたちに労働争議を鎮圧させていたのであって、そこに色はないんですよね。なのに今日ともなると【反社】という一語を使用することを以って、そうレッテル貼りされた者はゴミクズ扱いをしている。元をただせば結託していた人たちなのに。

実際には代紋を掲げた「ヤクザ」という形態の世にも珍しいマフィアが日本に色濃く残っていた戦後史がある。これは中々特殊で、実際には統治機構もヤクザとウラでは繋がっていたと考えるべきじゃないんスかね。つまり、彼等は近年までヤクザと仲良しこよしの関係で、一般大衆を共に支配してきた何かだったのは一面では真理なのだ。ヤクザと政治家はよく似ているし、なかよしこよしで、実際には権力機構はヤクザを利用していたというのがホントの近現代史なのでは?

過去には、自由民主党の総裁になりたかった竹下登が、右翼団体・皇民党から褒め殺しに遭う街宣運動(いわゆる皇民党事件)を掛けられてしまい、自由民主党という政党が頼ったのは二代目稲川会会長の石井隆匡であった。これなんて1980年代後半ですけど、つまり、支配者層というのは、ホントは仲良しこよしだったんですよ。政権政党たる自由民主党にしたって反社とズブズブな関係といえばズブズブな関係の党史を持っている。なのにテレビ的言説は乖離していて、北島三郎が暴力団員とゴルフをしていたのに紅白に出すのかってなってしまう。或る時代までヤクザ映画に出演していた北島三郎になると、北島が歌っていた「関東水滸伝」は稲川会をモチーフにした歌だから、実際に稲川会のテーマ曲と呼ばれている。美空ひばりにしても紅白歌合戦に途中から出なくなったのは不適切な暴力団との関係性が問題視された為だそうですが交友関係で切り取って、「けしからん」の号令の下、排除を展開させてしまうとキリがなくなってしまう。

安倍昭恵総理夫人が「刺青を見せて」と尋ねたところ、「そういう事を言ってはいけませんよ」と窘めたとされる人物は会津小鉄会系の元暴力団組長であるという。また、野田聖子総務大臣の旦那も元会津小鉄会系傘下の暴力団組員、これは元構成員であったの意で、それが週刊文春と週刊新潮によって報じられている。これも反社といえば反社ですが、どうでしょう、ちゃんと報じられていると言えますかね? それこそNHKの「ニュース9」あたりで、言葉やニュアンスを濁さずに報じているだろうか? 

島田紳助という大物芸能人が芸能界を引退した。彼なりの筋の通し方をしたのでしょう。で、テレビ的言説なり、世論一般は「島田紳助はヤクザと交流があったのだから公共電波たるテレビから追放されて当たり前である」のような言説を採る。それが世論としては正論となる。しかし、島田紳助さんの一件にしても、元は右翼団体に街宣をかけられ、警察に対応をお願いしたが埒があかなかったところ、知人を通して山口組系の暴力団組長と繋がりが出来てしまったというのが真相であったワケですね。それが表沙汰になった事で糾弾され、島田紳助さん的には「こんな事で糾弾されるんなら芸能界、引退したるワ!」というノリ、ホントは「いいカッコしい」をしたとか、ツッパって、そう言って電撃的に芸能界引退という運びになった旨、後に週刊文春誌上で語っている。おそらく、そうだったのでしょう。島田紳助さんの気性の問題なども含めて、色々と整合性が取れている。


――と、長い長い伏線を経て、「男・山根」、「カリスマ山根」の問題へ。

週刊文春最新号(夏の特大号)には、山根明氏自身が文春誌に3時間に渡って語った半生について掲載されている。

「元々、私自身は、(韓国の)釜山からの不法入国、密航者ですね。十歳の時、漁船、いわゆるポンポン船で、三十名ほどの密航者と来ました」

この山根氏は、非常に堂々とされている。余計なゴマカシは確かにしていないっぽい。その密航船から降りたところ、福岡の海水浴場に流れ着き、地元の消防団につかまって、そのまま福岡の入国管理局に一泊させられ、翌日からは長崎県の大村にあった収容所に連行され、後日、釜山に強制送還されたという。しかし、その2〜3ヶ月後、再び密航を敢行し、日本へ。

では、山根氏は韓国生まれなのかというと、そうではなく、生まれは大阪府堺市であるという。父親は日本人であったと思われるが、母親は韓国人であり、終戦後、6歳時に母親の故郷である釜山へ疎開する為に渡ったと説明している。しかし、10歳のときに単身、密航して日本にやって来たという。なので兄弟は現在も釜山にいるのだという。

密航は二回していて、二回とも拘束されたものの、当時、大阪に松田竹千代なる大物の衆議院議員がおり、その議員が身元引受人となってくれた為、山根氏は実父と会えたという。で、その実父は、元プロボクサーであり、ボクシングジムのオーナーをしていたという。

(直接的には会長としての資質には関係がない「山根氏のボクシング経験の有無」についてワイドショウで取り沙汰されていますが、山根氏に拠れば、3〜4歳で父親からボクシングを教わっていた、13歳からボクシングを習っていたとテレビカメラの前で発言していますが、裏返すと、6歳から10歳までの期間は韓国・釜山で生活していた事と、合致する。)

実父は再婚したが、その頃に山根明氏は反抗期で家出などをするようになったという。それ以降、テレビなどでも紹介されている二歳年上の山口組系の元直参組長A氏との出会いのクダリとなる。商店街で6名ぐらいを相手に喧嘩していたところを、そのA氏が仲裁してくれ、それを契機にA氏との長い長い師弟関係もしくは交友が始まったとしている。A氏は山根氏にとっては確かに「兄貴分」であり、そのような関係性が近年まで維持されていたという。

しかし、A氏が指摘している点にも反論をしている。先ず一つ、「前科はない」という。これは昭和55年に山根氏は正式に帰化しているが、そもそも前科があったなら帰化は認めらない事で逆に証明できると弁明。また、同じく氏は69歳までクレー射撃の免許を持っていた、このクレー射撃の免許もホントに前科を有していたなら下りないので、自らに前科のない事は逆に証明できるではないかと主張している。

また、これは文春誌で明かされた部分としてですが、「殺しの軍団」と恐れらた柳川組、その初代組長である「柳川次郎」にも恩義を受けたことがあるという噂があり、直撃みたところ山根氏本人も認めたという。

この「柳川次郎」とは柳川組の初代の名前であり、ヤクザ史の中でも最も凶暴であったとして語り継がれる伝説的な人物。先述の通り、この柳川組は別名「殺しの軍団」と呼ばれ、ヤクザが乱舞する大阪を舞台に暴れ回り、その殺しをも厭わぬ武闘派ヤクザとして台頭、後に巨大組織たる山口組の傘下に収まり、その後も山口組の日本制覇への尖兵として一時代を築いた伝説的ヤクザ組織である。簡単な一代記みたいなものを読んだ記憶があるし、ほんの数週間前にもケーブルテレビで、あの小林旭が柳川次郎役を演じている古いヤクザ映画を視聴したばかり。少なくともヤクザ映画やヤクザ史では「柳川次郎」というのは「殺しの軍団の親分」として、広く知られている伝説中の人物でもある。(確か「柳川次郎」も国籍の問題を抱えていたのだったかな。)

その伝説のヤクザでもある「柳川次郎」から、山根氏はボクシングの日韓戦で金銭面の援助をしてもらった事があると認めている。

また、非常に複雑な事情、不都合な真実らしきものも週刊文春が報じている。或る意味では、山根氏のコワモテが、実際にトラブル処理として機能していた節の証言も同時に掲載されている。

「ジムや学校に暴力団の介入があった際には、山根氏がA氏の力を借りるなどして、トラブル処理を手掛けてました」

というのは「ボクシング関係者」と名乗る人物の証言。

更に、ボクシング界全体を見渡した場合の、「カリスマ山根」や「男・山根」という風聞があるのも事実っぽい記述もある。

国際ボクシング協会(AIBA)という組織の最高権力者はパキスタン人のアンワ・チョドレイ会長であるという。そのチョドレイAIBA会長の海外出張に付き添い、チョドレイ会長に取り入ることに成功し、山根氏はAIBA常務理事という肩書きを持つまでに、実際に上り詰めた人物であるというのは事実らしいのだ。

「国際大会で日本に不利な判定が出た際には異議を申し立て、判定が日本有利に覆ることもありました」(別のボクシング関係者)

更に、チョドレイ会長の付き添いで韓国に行った際、その試合会場では何故か50〜60名で殴り合いをしているというトンデモナイ状態に遭遇しという。チョドレイ会長の命令を受けた山根氏が近くにあったゴミ箱を手に持って暴れ、誰彼構わずバンバン殴ったところ、暴動は収まったのだという。斯くして「カリスマ山根」が出来上がった――、と。

そもそも国際ボクシング協会(AIBA)がマトモな組織なのかも不明だし、そのチョドレイ会長の体制下、AIBAがどういう組織なのかも謎といえば謎ですやね。要は国際的機関としてフェアネスが徹底されているのかどうかという問題もある。アマボクシングに於いて「クリーンなジャッジをすべきです」という見解がホントに通用するようなものなのかどうかも一応は考慮する必要性がある。

その武勇伝は山根氏自身が語ったものだそうですが、週刊文春は次のように文章を続けている。

マスコミの取材で、山根氏はこう自画自賛するが、満更大げさではないという。チョドレイ会長に重用されAIBAでは常務理事をつとめ、日本の連盟では終身会長として絶大な権力を握ることになったのだ。

この問題は、ワイドショウが報じているような、一定の型に嵌めない方が正しい理解かもなって思う。「時代遅れで許されない」とか「反社と交流があるなんて言語同断である」というものの、それでいて、現実問題としては現行のアマチュアボクシング界の地位、あるいは秩序を成立させていた歴史的プロセスの通過点であった事は間違いなさそうですかね。ホントはスポーツ界、特にボクシング界は恒常的に賄賂が横行していたり、威を武器にしてゴリ押しをする輩たちが多く存在しているから、山根氏のようなコワモテの人物がサクセスストーリーを作れてしまったという事ではないんだろか。

クソミソに叩いて追放し、「反社と交流があったなんて言語同断だ、反社野郎は放逐するべきだ! (でも野田聖子大臣と昭恵夫人は守るけどね)」という御都合主義的なテレビ的言説に追従するのか、もしくは山根氏のような人物に対しても一定範囲内での慰労の念で応じ、その上で退場を願うとするかで差異はありそうですけどねぇ。

「レッテル貼り」に基づく「時代遅れだ!」という万能批判。この全方位型の万能批判というのは、結局は時流のエゴであるよなって思う。結局は御都合主義で、その上、排除・排斥を正当化する為に使用されてしまっている気がする。物を投げて老害と罵って邪魔者を追い出すのか、一定の敬意を表しながら退場願うのかの差異ってのが、処理できているかどうか。
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この数日、テレビでも取り上げらるようになった森友学園の国有地格安払い下げ問題ですが、くだんの森友学園の籠池泰典理事長というのは、昨年、新書ブームを起こした日本会議の幹部であるという。具体的には日本会議大阪支部の代表・運営委員だそうな。

ん。んんん。

学校法人・森友学園が運営する塚本幼稚園では、毎朝の朝礼で園児たちに教育勅語を一斉唱和させるという、皇国史観に基づいた愛国教育で知られる幼稚園であるという。数年前に、何か映像で紹介されていたテレビ番組を視聴した経験がありますかね。アソコかぁ…。

で、現在、国会でも取り扱われている犢駘地格安払い下げ疑惑瓩任垢、週刊新潮2月23日号お特集記事を読む限り、非常に問題が大きいと思う。現段階では疑惑ですが、構図が築地市場の豊洲移転を巡って発生した土地売買を巡る手法と全く同じ手口が使用されている。つまり、売買するにあたって土壌に汚染なりゴミがあるので土地整理費用を計上して、カネを動かすという手法ですが、基本的にカラクリは同じですやね。現時点では「疑惑」と報じられているものの、そんなの、正規の土地評価額と桁違いに安い価格で転売されて、その莫大な差額が消えているのだから、実際には疑惑ではありませんやね。大下英治、一橋文哉、森功ら著書ほか経済犯罪本を何冊も何冊も読んできた経験からすると、こーゆーのは、経済事件の常套手段でしょう。

しかも、結構、タチが悪い。森友学園が用地を取得したのは「瑞穂の國記念小学院」なる小学校を開校する為であり、その建設用地として大阪府豊中市にある約8770屬旅駘地を取得したのが発端。最初に疑惑の追求を始めたのは日本共産党系の豊中市議であったらしいのですが、最早、全国区の問題になっていますやね。

最初に疑惑の追求をしていた山本一徳市議に拠れば、2012年に森友学園とは別の学校法人が当該用地を管理していた大阪航空局に取得を打診した際、その学校法人は7〜8億円という金額を提示したが、提示価格が安すぎるという理由で撥ねられたという。

しかし、2013年になってから当該用地は奇妙な動きを見せ始める。大阪航空局から財務省近畿財務局に土地の処分依頼が行なわれ、その結果、財務省近畿財務局が公募を行なった。この公募というのは一般人が家を建てたいからといって競争入札に参加できるものではないそうで、地方自治体や公益法人、学校法人が優先的に取り扱われるという。つまり、公的利用の要望を募るという優先順位が定められているのだそうな。で、その公募に手を上げたのが、学校法人・森友学園であった――と。森友学園は小学校用地として取得の意向を示し、結果、随意契約を結ぶことになった――と。当初は購入資金が賄えないからと、10年間の定期借地契約であったという。しかし、それが、いつの間にやら、1億3400万円で森友学園が買い取るという契約に変更され、そのまま、譲渡されていた――と。

あー、ダーティーな経済事件の匂いがプンプンでしょ、これ? この流れというのは疑惑というレベルじゃない手応えですけどねぇ。

で、テレビでも報じられている通り、本来であれば14億円程度の物件であったと目されるのに、1億3400万円で払い下げられたカラクリが、「ゴミ処理費用に8億1900万円かかったので、払い下げにあたって8億1900万円を差し引いて払い下げしました、と、そうなっている。

当該用地には大量のゴミが埋まっていたので、8億超のゴミ処理費用が計上され、販売価格から天引きして譲渡したものだという。しかし、2012年に当該用地の購入を考えて大阪航空局に土地取得を打診した「別の学校法人」の資産では、ゴミ処理費用の負担分は約2億5千万円であったという。

なので、財務省に顔の利く政治家が一枚咬んでいるのではないか――と推測したくなるワケですね。今後は、またワケの分からないフィクサーだの闇紳士だのってが浮上して、政治家と役人を操って銭を食いつぶしている実態が暴かれていくとか。

まぁ、ここまでの経緯だけでも、森友学園と財務省近畿財務局との間で、何かしらの怪しい裏交渉があったのではないかと疑いたくはなりますやね。なるというか、あったと推測すべきレベルの不自然さでしょうからね。

因みに、週刊新潮に拠れば、籠池理事長は

「あくまで近畿財務局がごみ処理費用を算出し、売却金額を提示してきたので、取得にいたったものです」

と答えたという。


で、ここから先は、事件の本質とは少し逸れます。逸れてしまうんですが、コネクションという意味では意味がある。既に、国会でも追求がされた通りで、安倍総理夫人である安倍昭恵氏が「瑞穂の國記念小学院」の名誉校長となっている。また、その事は、安倍総理も承服していると国会で認めたワケです。まぁ、安倍総理が日本会議の特別顧問をしているというのは周知の通りであるから、日本会議の幹部が運営する学校法人に何某かの便宜を図ったのではないかというのは、多少、強引な結び付けになりますが、一つ考慮すべきは、神道系右翼の蠢動だよな、という部分ですかねぇ。

教育勅語を一斉唱和させる教育ってのは、どうなんだね、と。別に犯罪ではないけれど、そのイデオロギーというのは明治以降の軍国主義時代の右翼の復活を目論んでいるかのような匂いを感じないでもない。また、学校名としての「瑞穂の國記念小學院」という校名からしても、右翼は右翼、保守は保守でも、最も厄介であろう皇国史観をバリバリに復活させる右翼イデオロギーですやね。

うーん。ここをどう説明するかなんですが、おそらくは今時の右翼思想の厄介なところは、

「愛国教育の何が悪いんですか!」

という感じの反応をしそうな気がするからですかねぇ。

しかし、愛国主義ってのは、かなり曖昧なんですよね。郷土を愛さないのに一足飛びに国家を愛せるというの? もの凄い観念的に国家を愛せよという風に展開させられているケースが混じっているんですが、国民は皇民であり、天皇陛下の為であれば喜んで殉ずることができるような日本人を育成すべきかって類いの愛国主義ってのはどうなんだろう? 別に皇国史観に固執することが愛国主義だというのは錯覚であり、それは明治政府がイビツな思想統制としてイビツな皇国史観ををやってしまったからではないの? 神道、それも国家神道みたいな方向へと繋げられてしまうと戦後の日本ってのは何だったのかという話になってしまうし…。
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週刊実話増刊12月14日号は創刊3000号特別企画と題して「犯行声明に見る凶悪犯罪70年史」の特集号になっており、これが価格に反して内容が濃密でした。

忘れている事柄ってありますかね。中田カウス脅迫事件なんて、すっかり忘れていましたが、覚えてますゥ? 警告文と題した脅迫状らしき文書が届き、その後、実際に中田カウスさんの乗った乗用車が金属バットを持ったフルフェイスのヘルメットを被った人物に襲撃され、何が何だか詳細が分からぬままに、コメディNo.1の「前田五郎」氏が吉本興業を解雇された。その後も前田氏側から訴訟が起こったが、いつの間にか沈静化した一連なんて、「ああ、そういえば、なんか在ったよなぁ…」という感慨でしか記憶に残っていませんでしたが…。両者は揉め事を抱えていたと同時に、当時は吉本興行そのものも経営権を巡っての対立があったとされ、ホントに核心部分は謎だらけでしたかね。しかし、関東人の私でも知っていた人気お笑いコンビのコメディNo.1、つまり、アホの坂田さんの相方ですが、その人物が完全に消えたという不可解な一件でした。

よくよく考えてみると、吉本興行に係る暴力団の影のようなものが表れていた気がしないでもない。個人的な感慨だと、その襲撃の手口というのが、晩年の横山やすしさんが何者かに襲撃された騒動に似ているように感じなくもないのかな。その後に、島田紳助さんと山口組系極心会との問題を経て現在があるワケですが、色々と組み立てる事が出来てしまいそう。誤解のないように少しだけ述べると、それぞれの芸人が、そういう付き合いを持っており、それが不可解な騒動や、芸人間に於ける権勢(政治力)とも関係があるのかもね、と。

意外性があったなと感じたのは、8年前にもなるという「チロの仇、事件」として記憶している元厚生事務次官宅連続襲撃事件でした。

事件は2008年11月17日、さいたま市で旧厚生省の元事務次官宅が相次いで襲撃、包丁で元事務次官とその妻を刺殺。犯行は宅配便業者を装いターゲット宅を訪問し、対応に出てきたところを襲撃するというものであった。で、この事件は翌18日にも東京都中野区で、同じ手口で元事務次官宅に一人でいた妻が包丁で刺され重傷を負った。当時、年金問題が世間を賑わせていた事から年金問題に怒りを感じた何者かが意図的に旧厚生省の元事務次官宅を狙って犯行を行なっているのではないかと騒然となったんでしたよね。

ところが事件は意外な展開を見せた。

22日になって報道各社に犯行声明文が届き、犯人の小泉毅(当時46歳)も22日中に自首をするという急展開が待っていた。そして衝撃が走ったワケです。その犯行動機は、なんと、子供の頃に実家で飼っていたチロという愛犬の仇討ちであった。

今回の決起は、年金テロではない!

34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである!

やつらは今も毎年、何の罪もない50万頭ものペットを殺し続けている!

無駄な殺生をするな!!

無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!


週刊実話特別号の記事(取材・文/片岡健)によれば、この犯行主である「小泉毅」に対して爛ぅ鵐拭璽優奪半紊任脇のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ瓩筏している。確かに、そんな印象で消化した記憶がある。しかし、どこまでが狂気で、どこまでが狂気じゃないのかという問題があるワケですよね。手紙のやりとりをしたという取材者氏は、犲尊櫃両泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるが、むしろ知的能力が高い人物だった瓩筏している。確かに、経歴からして国立佐賀大学の理学部に通っていたという経歴があり、おかしな人ではあるが、その「おかしさ」というのは、知的能力の高低とは別もののよう。まさしく、おかしな人なのだ。

46歳のときに34年前に殺された家族の仇だと言っているのだから、逆算すると12歳の頃の恨みである。しかも、このチロの仇事件の背景にはペーソスがあり、12歳であった小泉毅少年の愛犬は野犬と間違われて保健所で殺処分に遭ってしまったという悲劇性を備えていたんですよね。だからと言って擁護する材料にするのも変な話なのですが、その執念が凄まじい。小泉は高校時代に愛犬チロが殺処分に遭った保健所、その保健所の向かいにある県立高校へ通った。そして、毎日のように登下校していたワケです。その部分の手記があるという。

「私は毎日、登下校の際に保健所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです」

12歳の頃に殺されたチロ、そのチロの仇討ちを決意したのが高校2年生のときであったという。しかも、その決意がハンパではないのだ。小泉は50歳までは普通に生き、人生にやり残しがない状態にして、その後にチロちゃんの仇討ちを決行すると心に固く、固く決めていた人物なのだ。

小泉の計画では、仇討ちは50歳を過ぎてからの予定であったが、予定に変更が生じた。それは2005年12月に交通事故に遭い、左膝と右アキレス腱を負傷した。その怪我の回復具合を考慮して、体力に自信をなくしてゆき、爐海里泙泙任魯船蹐舛磴鵑竜愼い舛出来なくなる瓩班坩造砲覆辰燭箸いΑM縦蠅任50歳になるのは2012年であったが、このままでは実行が危うくなるとして仇討ちの時期を早めることにし、それが46歳のとき、2008年11月だったというのが、真相であるという。

「やつらはチロちゃんを殺したばかりか、今も尚、毎日、何の罪もない犬や猫を好き勝手に大虐殺しているんだ! やつらがマモノなら、オレは鬼になる!」と自分自身を叱咤激励し、割り切ることにしました。」

また、襲撃を決意してからは、それまで勤めていたコンピューター関連会社を辞めて、チロの仇討ちの為に人生を賭けてしまう。元事務次官の住所を調べ上げ、更にはナイフや包丁を使って、仇討ちを失敗しない為の狒膿兇雖瓩覆匹棒困鮟个靴燭箸いΑ

「刺す動作については、毎日最低でも1時間は訓練しました。そして、刺す訓練の時は、毎回心の中で、もっと強く! もっと速く! もっと強く! もっと速く!」

このチロちゃんの仇を実行した小泉毅の狂気は、何やら話が壮大すぎるようにも感じる反面、一部の動物愛護家の中には小泉の減刑を求める署名活動が起こり、実際に1500筆程度の署名が集まったが、最終的には死刑が確定したという。

確かに或る種の狂気を見てとれるワケですが、実はきちんと筋書きがあり、愛犬を野犬と間違われて保健所で殺されてしまったという少年時代の大きな怨念を抱えており、「死ぬ迄に必ずチロちゃんの仇討ちを果たす」という凄まじい決意で生きた一人の阿呆の人生物語であったと捉え直すと、中々、悲しい話でもあり、確かに複雑な感慨が芽生える話だなって思う。

そんな小泉毅死刑囚は手記に

「私の人生は幸せでした」

と残しているという。

この一念というのは、なんなんでしょ。12歳前後で奪われた愛犬チロの仇討ちを果たさんと、ずっと抱き続け、実際に計画し、実行してしまったというカレの人生とは――。


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もう年末じゃんよォ、2016年も特に何もできぬまま終わってしまうんだなぁ…という脱力気分で、テレビを眺めていたら、東海テレビ製作の「ヤクザと憲法」なるドキュメント番組が始まっておりました。劇場版として作成したが、今夜、テレビ初放送だというので、そのまま最後まで視聴することになりましたが、ホント、年末にスゲエ、問題作を視聴してしまった…。

指定暴力団・東組の二次団体・清勇会に密着取材したもの。東海テレビ側は取材の条件として、編集なし、モザイクなし、清勇会への謝礼金の支払いもなし。よく取材に応じたものだよなって思う反面、中盤以降というか後半30分ぐらいになると、ヤクザの人権問題というものが重くのしかかってくるという秀作なドキュメント映画でした。

先ず、清勇会という団体が分からないワケですが、視聴している中で、きちんと解説してくれます。東組(あずまぐみ)は大阪西成区に拠点を構えており、その二次団体がカメラの入った清勇組であり、所帯は27名だったのですが、その組長は山口組と抗争で服役した人物であり、或る意味では「ヤクザ」という言葉を使用した場合に思い浮かべるであろう、そのイメージ。しかも還暦であるというものの精悍な顔つきで俳優のような二枚目であり、一見すると一般人のようでありながら、どこかしら「この人、ただものじゃないんだろうな」と感じさせる匂いをプンプンと漂わせている。

事務所の人たちは、それぞれ訳アリです。小指のない人。選挙権のない人。21歳だか22歳で、今のようなヤクザ不遇の時代にヤクザを志願して、住み込みとして働いている人などなど。

最初のうちは、背中の彫り物が映し出される程度で、「ああ、ホントにヤクザの事務所へ密着取材したのだな」という程度なのですが、カメラマンに対応している会話が、際どく、中々、ドキドキさせられます。

「それは機関銃じゃないんですか?」

「違いますよ。これは、テントです。開けてみせますよ」

「拳銃とかは無いんですか?」

「…無いじゃないですか」

「武器はないんですか?」

「ありませんよ」

「でも、敵が攻めてきたらどうするんですか?」

「テレビの視すぎですよ(笑顔)」

という感じ。

視聴していると、ホンの一瞬、ホンの一瞬なんですが、目が泳ぐというか、返答が遅れるというか、そういうところでハラハラとさせられる。

或いは、こう。

カメラはヤクザが運転しているクルマに同乗して取材している。

「ちょっと。待っとってな」

「何ですか?」

「スグに済むから」

クルマを降りて数秒もしない内に数枚の紙幣を握りしめてクルマに戻って来る。

「今、どうされてたんですか? クスリですか?」

「違いますよ。ふっふっふ」

「覚醒剤を売って来たんですか?」

「違いますったら。ふっふっふ」

とかね。うーん、あんな映像、大丈夫なのかな。いや、シラを切っても勘のいい人なら、何故、カネを集金できたのか予測できてしまう。

会話だけ羅列すると間抜けに感じるかも知れませんが、確かに謎の行動らしい部分も基本的には編集なしなので、その空気が伝わって来る。ぜってー、ヤバい事してんじゃねぇのって思うもの。とはいえ、このドキュメント番組のホントの恐ろしさが登場するのは、実は中盤以降というかラスト30分ぐらいからですかね。このドキュメントのタイトルは「ヤクザ密着取材」ではなく、「ヤクザと憲法」なのだ。

カメラに向かって、「映すな」や「映してるんじゃねぇ」という凄味のある声が飛ぶシーンというのが再三再四、あるんですが、後半になると、警察が犧承縮た詬撞伸瓩農桐Σ饂務所に押しかけるシーンがあるのですが、カメラを止めろとがなり立てて、カメラ撮影を強制的に遮断してしまうのは、警察の方であったりする。清勇会に密着取材をしているが、警察は令状を読み上げるシーンの撮影を頑なに拒否し、レンズに手を伸ばして強制的に撮影を中止させる。清勇会の面々でさえ、レンズにハンカチを被せる等の撮影拒否であるのに対して、警察の場合はカメラに手をかけているんですよね。しかも、その組員の容疑である「詐欺未遂容疑」というのも、考えようによっては微妙でキワドイ罪であるんですが…。逮捕・拘束に、家宅捜索をかけて暴力団壊滅へというシナリオであるワケですが、これだと確かにヤクザの人権問題が生じてしまうという印象でしょうか。実際に、憲法14条がテロップとして映し出されるのですが、これはナンダってなる。

同時並行で、元山口組の顧問弁護士であった山之内幸夫弁護士にも密着取材をしているのですが、こちらの動向では、ヤクザの弁護士をした事が原因で警察や検察から狙い撃ちされてしまっているという境遇を映しているので、嫌が応にも、現行の暴対法の問題点、つまり、国家権力というものが動き出してしまった場合、収拾がつかない事態となり、排除・排撃されるヤクザの一側面を抉り出す。イチャモンをつけて権力を捩じ込んで排撃する様子であるワケですが、その構図が映し出されてしまうと、官憲とヤクザ、どちらがヤクザなのかホントに分からなくなってしまうというポイントがホントに後半30分で描かれており、驚かされる。

秩序とは?

権力とは?

ホントに、取り扱いの難しい衝撃作というか、問題作でしたが、よくぞ製作したもんだなぁ…。。
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柴田大輔著『聖域』(宝島社)を読了。著者は元々は「工藤明男」というペンネームであったが、最早、ペンネームを使用する必要性が無くなったとして本名を名乗ったという。

で、冒頭から非常に複雑なのですが、この著者は工藤明男と名乗っていた時代から元関東連合の幹部であった事は語られていたのですが『聖域』の中では著者こそが昭和54年組のリーダーであった事が明かされている。

また、柴田大輔氏は、1997年7月7日未明に発生した暴走族100名が入り乱れての乱闘騒ぎが起こった犖淅薪鳥件瓩能害致死容疑にて少年院に送致された過去を明かしている。

五反田事件とは、敵対関係にあった世田谷区の「全日本狂走連盟」と杉並区の「宮前愚連隊」とが衝突したものであるという。3時10分頃、全日本狂走連盟が暴走を終えて休憩していたところを宮前愚連隊が襲撃したものという。現場には金属バット4本と、果物ナイフ1本が落ちていた。全日本狂走連盟の若い無職男性が背中や尻などを刃物で刺され、出血多量で死亡。

と、要は、この五反田事件で傷害致死に問われたのは著者である柴田大輔氏であると自ら告白している。

また、この事は同時に、いわゆる関東連合問題に於ける昭和53年組のリーダーこそが現在も全国指名手配中の見立容疑者であり、その一年下の54年組のリーダーが柴田大輔氏である事を示している。

傷害致死事件であったが少年院生活は2年半であった旨の記述があり、要は少年院とは成人式を迎える年齢になると…という事情についても語られている。また、「反省なんてものも無かった」、と。(少年院出所間もない時期の柴田氏の下には櫻井淑子氏と共著で少年法を考える主旨の書籍を刊行する企画が上がっていたという。)

少年法の問題もアレコレと考えさせられてしまう話ですが、それは別の機会に譲ると、少年院を出て以降は、53年リーダーで実質的な犂愿賚合瓩料軣垢砲△燭觚立容疑者と、その見立容疑者と近いような遠いような複雑な距離感の著者との、その後の経過が綴られいる。

大方は、工藤明男著『いびつな絆』(宝島社)にて記されている通りですが、『聖域』では、よりディティールに踏み込んでの記述から、著者の自伝的な内容までもが網羅されているという印象でしょか。



――で、いきなりですが、引用します。(『聖域』P307〜P312)

その西麻布の交差点から渋谷方面に上がっていった場所にあるのが、後に「海老蔵ビル」と呼ばれることになる「バビルゾン27」ビルだ。そしてこのビルにオープンしたのが、会員制のガールズバー「R」だった。

六本木にも似たような大学生キャバクラはあったが風営法の規制で深夜営業ができないため、女性は接客しない(客の横に座ってお酒をつくらないなど)というタテマエで「ガールズバー」としたのだ。〜略〜

「R」の店舗イメージは、六本木にあった大学生キャバクラのハイクオリティ版だ。実際、現在の社長も含めて歴代の店長、店員のほとんどは六本木のガールズバー「Bガール」からヘッドハンティングされていた。それだけ資金もあったということだ。

それも当然で、この店の実質的な出資者は楽天の三木谷浩史会長、USENの宇野康秀会長、サイバーエージェントの藤田晋社長、GMOインターネットの熊谷正寿会長、テイクアンドギヴ・ニーズの野尻佳孝会長と、当時のベンチャービジネスシーンの最先端を走っていた5人だった。

〜略〜

オープン当時は、オーナーズルームといって、悪趣味なプライベートフィルムが貼られ、中からは店内が見渡せるが、店内からは中が見えないという個室がつくられていた。

〜略〜

女の子たちも、通常のキャバクラやクラブでは知り合うことのできない、普通の大学生やモデルやタレントの卵を採用しているというのがウリだった。実際にルックスだけで言えば、六本木や銀座のホステスとは比べ物にならないぐらいレベルが高く、しかもプロではないホステス、というところが新鮮だった。

〜略〜

なにしろ女の子の中には、当時、現役タレントとして活動していた大谷允保(現みつほ)が名前を偽って働いていたほどだ。さすがにワンランク上の現役タレントさんだけあって、ものすごく可愛らしく、当時は彼女がいなかった僕は、何度か店に通い、店の後に一緒にバーに寄って、一杯飲むくらいは気心の知れた仲になった。

〜略〜

大谷さんは他に、イラストレーターで詩人の「326(みつる)」や、「R」の出資者の1人だった熊谷会長とも親しくされていたようだ。

〜略〜

現在の「R」は、少なくとも表向きは、IT長者の出資者たちとは無関係となっている。もともとガールズバーが脱法行為に近いグレーゾーンでの営業だったこともあり、イリーガルな経営状態に気づいた出資者たちは撤退し、「バビルゾンビル」で起きた関東連合絡みの事件などの影響もあって、「R」はその資本関係や経営体制の形態を変えることになった。〜略〜

その後、11年には、同じ「バビルゾンビル」で営業していた「Birth NISHIZABU」という店が、風営法の無許可営業で摘発されている。ちなみにこの店の経営者は、株式会社アクシブドットコムという企業を起こし、3億円ほどで売却した尾関茂雄氏で、タレントの山口もえさんと結婚(その後離婚)していた人物だ。

また海老蔵事件後には、関東連合関係者の店と誤解されて、「バビルゾンビル」からさらに裏手に入った「U」というお店も摘発されているのだが、なぜか「R」は摘発されることもなく、同様の店舗を広げながら、飲食店の展開も成功させている。


何故、こんな箇所を引用したのかというと、今の日本の現状を憂いる気持ちからであり、直接的にはアウトロー関連そのものとは関係がない。東京への一極集中を何の疑いもなく肯定的に語り、東京、東京、東京、IT、IT、IT、有名人、有名人、有名人って具合に反応するような情報に簡単に踊らされている世の中ですが、こういうのが現在の狹豕瓩任△蝓△修痢峙飾の都」の正体じゃないんですか的な、イヤミな気持ちですかねぇ。

トランプ現象じゃないけれど建設業者や運送業者、第一次産業や第二次産業を底辺と嘲り、さらにはコンビニの店長あたりも底辺扱いするような奇妙な世の中になっていますが、広告やマスコミを含めての情報産業や人材派遣業といった分野はバカみたいに儲かっているようで。

まぁ、自民党議員さんの中にも平気で「儲かる産業に集中的に投資する」という「選択と集中」論を自信満々に語っていますが、現代社会の勝ち組なんてのは、こーゆー現状と関係があるんだと思うよ。夜な夜な怪しいガールズバーで遊んでるって事なんじゃないの。有る所は腐るほどカネとコネが集中して有るワケで、ホントに低賃金労働者の人たちは、これに怒らないでいいんスか的な。

ホントは納税額の多い者を優遇して政治を動かす権利を認め、納税額の少ない貧乏人に対しては発言する権利もないかのように語る昨今の風潮そのものが、もう、新自由主義の政治哲学なんですよね。主権者は国民であり、高額納税者ではないという基本的な民主主義の合意部分を見落としている。実際に或る時期からの富裕層に対しては、妙に特権を集中させる風潮や制度になってしまってるんじゃないの? 彼等を富ませるような税制にして彼等を優遇して、それは日本の国益に適ってるの? それで日本人の理想が実現できるの? 日本の成功者の姿として納得できるの?

その後、柴田大輔氏にしてもグッドウィル折口雅博氏との豪遊旅行について触れているけど、まぁ、なんていえばいいのかな。何かを創造したり創出するビジネスではなく、何かを斡旋するようなビジネスばかりが儲かるような社会になったんじゃないの。食べログ? あんなの掲載されている側の店が食べログからカネ貰っているのかと思ってたら、カネを払って掲載してもらっていると知って驚きました。「ウチの店を掲載したいのなら掲載料を払わんかいっ!」って言う立場を全ての飲食店が一致団結して採ればいいだけなのに、AKB商法ヨロシク、いい具合に競争させられちゃってるように見える。家元ばかりが大繁盛。情報ビジネスなんて言っているけど、原理としちゃ、他人のフンドシで相撲を取って、フンドシの主よりも稼ぎが大きいって、ヘンじゃないの。どうせランキングだって操作しているなんてウワサもありますしねぇ。まぁ、既にヘンテコな裁判判決が出てしまっているみたいけど、要は実需の産業よりも情報を取り扱うだけの虚業に甘すぎるような気がしますかね。現場労働者の労働条件がよくなるワケがない。ピンハネされているようなもんだしねぇ。

また、次のような一節もありました。

それも海老蔵事件の時に面白おかしく「灰皿テキーラ」を流行らせたような、いつもの悪ノリで、だ。僕は友人を売ったクロスを許せなかった。それでもテレビや雑誌は、こんな調子でクロスたちから流される情報に飛びつき、僕たちを叩くような情報を一方的に報じ続けた。

クロスとは松島クロス氏を差しており、海老蔵事件の際には好きなようにワイドショウに妙な情報を流した人物だとされている。著者の柴田氏は関東連合側の窓口として海老蔵側の弁護士と対峙する役目を担っていたとしている。ここで著者がクロス氏に腹を立てているのは六本木フラワー事件を経て柴田氏が『いびつな絆』を発刊した後の出来事と関係している。週刊ポスト誌に見立容疑者の暴走族時代の写真が掲載されたことがありましたが写真を売った者を、柴田氏が庇おうとしている53年組メンバー「剣士君」のシワザにするような怪しい情報操作をした事に腹を立てている。

柴田大輔氏は現在、保護措置対象者になっている。というのも見立容疑者及び見立容疑者の後見人であるH原氏と対立、更には見立容疑者は海外逃亡中であるが山口組系D会の友人と兄弟分になり、山口組系D会が柴田大輔氏や家族に対して脅しを仕掛けるような状況になってしまっているという。極めて特異な話ながら実際に命が狙われているらしく、故に現在の柴田氏は暴対法に於ける保護措置対象者になっているという事のよう。


で、最後に、この犂愿賚合瓩覆詒織哀貊乎弔砲弔い討料躋腓覆鵑任垢、驚いたことに、柴田大輔氏は、そこに爐い犬瓩旅戎洵瓩蕕靴ものを見い出している。

以下、引用です。(P434から)

関東連合は、もともと学校にあるイジメの延長線上にあるような集団だ。外部の敵がいなければ、内部に矛先を向けて、気に食わない奴を制裁の対象にする。そんなことを中学生ぐらいから30歳を過ぎたオッサンになるまで続けてきた見立君の地位は、揺るぎないものになっていた。

見立君は、関東連合のメンバーやその関係者に対して恐怖政治を敷いてきた。批判や悪口はもちろん、メンバー同士が見立君の話題を出すだけで制裁の対象にしたほどだ。制裁の矛先はどんどん拡大してゆき、儲かっている者や派手に飲み歩いている者にも向けられた。

「粋がんなよ!」

これは中学生の頃の見立君の口癖だが、見立君が狄茲っている瓩噺世┐弌△修料蠎蠅北契茲向かう事になり、同時に連絡も断つ。そうすると皆ソワソワしはじめ、見立君と連絡が取れないことに怯え、見立君に近しい者に相談をする。

そこでようやく見立君が登場し、「俺はどうでもいいんだけど、周りがムカついてるからさぁ」という話に持っていき、服従や懐柔、あるいは金銭の負担をさせるのだ。


この構図は、やはり、猖塾呂猟觜餃瓩箸任發いΔ戮型に当て嵌まっていると思う。赤軍リンチ事件や松永太や角田美代子と同じような支配原理であり、一つの秩序体系を相互監視するように仕向けてマインドコントロールで確立させてしまっているんですよね。

「このメンバーの中で裏切ったら制裁な」

という秩序ですかね。で、洗脳する為には適当な理由をつけては、メンバー同士に制裁させ合えばいい。そうすると、ヤキを入れられる事を怖れる心理があるから相互監視し合うようになって、王様を中心とした絶対的ヒエラルキー秩序が出来上がる。先に挙げた赤軍リンチ事件や松永太事件、角田美代子事件でも、その王様に当たる中心人物は必ずしも自らの手で制裁を加える必要はない。独裁体制であるが自分自身が暴力の発現地にならぬ方が利巧であり、むしろ、周囲の暴力装置を顎で使うような、そういう相互監視空間に於ける暴力支配の構図なんですよね。(関東連合の場合は自らの属性がバイオレンスを肯定する不良グループである事からすると、リーダー自身も暴力を行使して、その恐怖を植え付ける必要性がある。)

確かに、それはイジメ原理そのものでもある。

人は洗脳され易く、一つには外部に敵をつくってやると、その仮想敵を敵とする事で内輪の結束力が高まるワケですね。常に、外敵が欲しい。中国や韓国で反日思想が根強いワケですが、日本に悪感情を向けさせておけば政府に対して不満を逸らすことができる。しかし、外敵の脅威は時として見つけるのが困難になる場合があると、今度は王様は王様自身への不満を逸らす為に相互監視を強いる。「裏切り者には厳しい制裁が必要なのである。内規が乱れていては敵に思うようにやられてしまう」という論法を用いる。そんなバカなと思うものの、既に集団内は疑心暗鬼が支配しているからゲシュタポ的というか憲兵的というか、そちら集団内の裏切りに対しての制裁(集団リンチ)を利用して秩序体系を編み上げていく。

「こんな相互監視をする集団は間違っている!」

と、集団内の誰かが気付き、単身で脱走や反乱を画策しても、既に周囲が洗脳されているから密告が横行する。密告者は手柄となり、密告をしたり、リンチに加担した者は集団内カーストの順位が上昇する。集団内で洗脳されている連中には自己がないので自覚も薄く、或いは自覚があっても直視しない。つまり、「ホントはイヤだけど従わないとリンチされちゃうから」という意識なので、その牢名主のように君臨する猖塾呂硫ν有瓩つくりだすヒエラルキーは思いの外、盤石なのだ。

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東京都知事選は小池百合子候補が当確という結果へ。選挙評そのものは色々と思うことがあって、ネガキャン選挙になったなという感想を持っているのですが、それとは別に、こういう選挙を繰り返してゆく中で、利権構造と決別が可能なのだろうか、と週刊文春8月4日号を参考にして、以下へ――。

猪瀬直樹元知事は、「都議会のドン」と呼ばれる人物を批判している。「都議会のドン」とは、自民党東京都連幹事長の内田茂都議を指している。

猪瀬元知事に拠ると2012末の都知事選で安倍総理は、当時の猪瀬候補に対しての狄篩Ν瓩冒宛きであったという。ところが、推薦は出なかった。何故かというと「都議会のドン」が推薦に反対した為であるという。猪瀬さんなりに仁義を切ろうと内田都議に電話をしたが、本人が電話に出ることはなく、後に人伝てに聞いたところでは内田都議は『猪瀬から電話かかってきたけど、出ねぇよ』と吹聴していたという。

その後、内田都議は猪瀬さんに『五輪までやれると思うなよ』と言い放ったという。何やら、隠然とした力を東京都議会に誇っているらしい。

文春に拠れば、石原、猪瀬、舛添といった歴代都知事も、この内田都議に平伏してきたという。更に2015年12月16日に執り行われた内田都議の妻の通夜には、安倍晋三総理が駆け付け、葬儀委員長を務めたという。一介の都議会議員でありながら、確かに「ドン」の政治力は圧倒的に大きなものであるという。

国会議員の一人の弁によって、何故、都連幹事長の内田都議が、これほどまでに絶大な権力を握っているのかを説明している。

「首都・東京の政治を動かしているのは実質上、自民党東京都連です。知事は、彼らが担ぐ御輿にすぎない。その都連の会長は石原伸晃経済再生担当相ですが、実際にカネとポストを握っているのは、長年、都連幹事長を勤めている内田氏。都議はもちろん、選挙で都議に動いてもらう国会議員も内田氏には逆らえない。伸晃氏も内田氏の前では『そうですね』と言うばかり。七月五日に、推薦を求める小池氏と面談した時も、伸晃氏は『私には決められないのは分かっているでしょ』と言うしかなかったそうです」

そーゆー事のよう。

自民党東京都支部連合会の収入総額は約10億円あり、その10億円は内田氏が差配できるカネなのだという。所属議員らに配られる餅代・氷代(活動資金)を差配しているのは内田氏である事から、所属議員は内田氏に御礼の挨拶に行くのだという。一方で、内田氏と対立した場合、徹底的に干されるという。既に猪瀬元知事がツイッターで樺山卓司元都議の遺書を公表しましたが、つまり、自殺に追い込まれるところまで徹底的に干されたという。

また、内田都議は地元の千代田区に本社を置く東光電気工事なる企業の監査役に就任している。この東光電気工事は独立系で、名前が紛らわしいのですが東京電力系列の旧東光電気とは全く無関係の企業。して、その東光電気工事は大手建設会社とジョイントベンチャー(JV)を組み、今年一月に東京五輪バレーボール会場となる有明アリーナ(約360億円)と、水泳会場となるオリンピック・アクアティクスセンター(約470億円)の施工工事を落札したという。東京五輪開催に向けては三つの恒久施設が新築されるが、このうち二件を東光のJVが受注したという。

しかも、有明アリーナの競争落札では、東光のJVはライバルのJVよりも高い入札額であったが、施工計画などの技術点で上回り、逆転で落札に成功したものだという。(因みに内田事務所の女性秘書は、元々は、千代田区のまちづくり政策が専門だった優秀な人物を引き抜いたものだという。)

更に東光は、五輪施設だけではなく、豊洲新市場関連工事など、都発注の工事もたびたび受注しているという。

さて、内田茂氏のプロフィールには謎が多いという問題にも触れている。空白期間があるというのはインターネット上でも話題になったところですが、その空白の20年間についても文春が掲載している。

九段高校に進学し、柔道部に所属していたが中退。中退の理由を同窓会では「意見の合わなかった担任を殴ったから」と話していたという。

「中退後、内田氏はテキヤに出入りして、世の中の猯側瓩棒椶靴討い燭茲Δ任后今でもテキヤの親分は『露店の陳情で頼れるのは内田氏だけ』と言っています。同級生の経営する電気屋で働いたり、喫茶店の店番をしたり。神田の雀荘を経営しているときもあった。〜後略〜」

また、鳩山威一郎の下足番をし、秘書の名刺を持ち歩くなどして政財界に人脈を築いていったという。その後、当時の自民党幹事長であった小沢一郎と太いパイプを作ったという。

内田氏の娘の結婚披露宴があり、その席次表には、小沢一郎、住友不動産社長、鹿島副社長、清水建設常務、川崎定徳社長の名前があるという。


ゼネコン大手は兎も角、川崎定徳とか名前が出て来ちゃうんだ。ばりばり、平和相互銀行事件のメンバーか。いやいや、この経歴がね。「テキヤに出入りして電気工事店で働いて――」って、最強の経済ヤクザのときにも書いた経歴だね。小谷光弘の光進(コーリン産業)で片腕として働き、後に喧嘩別れをした「富嶋次郎」という人物の経歴と似ている。勿論、別人なんですが、同じ経歴ですね。

拙ブログ:「経済ヤクザ」と呼ばれた男〜4

また、カネを差配し、それで支配力を掌握する手法が小沢一郎に似ていると思ったら、そのまんま繋がりがあるんじゃないか。

さて、小池百合子知事は、石原親子も平伏したという、この都議会のドンと対決するんだろうか?

いやいや、よくよく考えてみると、敢然と内田氏批判を展開している猪瀬直樹さんを心配すべきなのかも。
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小谷光浩は焦っていた。小谷の地産グループからの借入総額は966億円にも達しており、7月末までに200億円返済の期日が迫っていた。

1989年(平成元年)7月28日、蛇の目ミシン社へやってきた小谷は、森田暁社長(森田顧問が社長に就任したもの)に強い剣幕で一筆を迫った。蛇の目ミシン社が自社株を買い戻すという社長の念書があれば、地産グループに対して、何がしかの裏付けになると画策したのだ。森田社長は社長室に小谷を招き入れ、そこで念書をしたためた。

「貴殿所有の蛇の目ミシン工業の一千七百四十万株のファイナンスあるいは買い取りにつき蛇の目ミシンが責任をもって行ないます」

という文面であった。それを以って、一先ず7月末日に迫っていた返済期日を地産グループに延長させる材料とする為であった。

同月31日、蛇の目ミシン社の社長応接室では、森田社長が小谷の要望に応じて渋谷の地産本社へ出向き、200億円の返済期日の延期できた事で、「これでなんとかならないか?」と小谷に質していた。すると、小谷は意外な返答をする。

「もう延期はいい。竹井のところの966億円は全部返す。カネの段取りはできた。しかし、ヤバい筋からのもあるから、そっちで何とかできないかな。早く返事をしろ!」

というものだった。小谷の言わんとした「カネの段取りはできた」とは、「蛇の目ミシン株の引き取り先が見つかった」の意であり、その引き取り先の中には「ヤバい筋」も含まれているという脅しになっていた。

蛇の目ミシン側は埼玉銀行へ繋いで、小谷の保有する蛇の目ミシン株買い取りの融通がつかないか問い合わせたが埼玉銀行の回答は、やはり、ノーであった。

「埼玉銀行は無理だと言っています」

と返答すると、小谷は

「それではオレの株は全部、よそへ移る。それでは新大株主の登場だ! それでは新大株主に挨拶に来てもらおう」

と、あてつけがましく言い放ち、その場からどこかへ電話をかけた。その電話がホントに繋がっていたのか、あるいは小谷の自作自演の演技なのかは定かではない。小谷の電話が終わった後、蛇の目ミシン側の副社長が小谷に「(新大株主は)どこですか?」と尋ねた。すると、小谷は勿体つけるように間をおいてから、

「北祥産業だ」

と告げた。

しかし、蛇の目ミシン事件は単純には進行しない。シナリオは非常に入り組んでいるので、整理する必要があるのだ。

小谷は稲川会に対して蛇の目ミシンの株式1,740万株を売り渡す約束をしている。そして蛇の目ミシンの森田社長に書かせた念書が存在している事も、稲川会に伝えてあるというのだ。森田念書の文面は先に紹介した通りであり、額面は記されておらず、「貴殿所有の蛇の目ミシン一千七百四十万株のファイナンスおよび買い取りを、蛇の目ミシンが責任をもって行ないます」なのだ。つまり、蛇の目ミシン社は、稲川会から買取額面の指定のない1,740万株の株式を買い取らねばならいという状況に陥れられたのだった。

更に小谷の蛇の目ミシン社への揺さぶりは続く。稲川会が新大株主になるというのも悪夢であれば、稲川会から額面なしで1,740万株を買い取るのも悪夢である。稲川会への株式譲渡をキャンセルするから、そのキャンセル料として300億円を寄越せという要求に変わる。

1989年(平成元年)8月中旬、蛇の目ミシン役員の経営する企業を経由して、小谷の光進へ2回に分けて300億円の送金が為された。


石井隆匡の東急電鉄株の買い占めは続いていた。1989年(平成元年)11月の時点で東急株を3,170万株も保有していた。それは発行済み株式の3%相当を占め、既に大量保有株主になっていた。

石井による東急電鉄株の買い占めには色々な闇があるという。石井は同年4月〜8月にかけて430億円を投入して2,539万株と少しを野村證券と日興證券とを通して購入していた。購入価格は1株あたり1,700〜2,000円程度。それが同年11月中旬には過去最高値となる3,060円を記録するという高騰をみせたのだ。仮に石井が同年11月に東急株を売り抜けていたなら、僅か七か月間で1,000億円を超える利益が計上できたという。

東京電鉄株の異常高騰、その裏にあったのは野村證券であったという。同年10月頃、野村證券役員が東京と大阪で開催した大口投資家向けセミナーでは

「東急株は今後もどんどん上がる。年末には五千円を超える」

と自信満々に訴え、一般投資家向けのレポートでも東急株を推奨銘柄として挙げていたという。

それだけであれば偶然とも疑えるワケですが、後に株価操作疑惑が発生し、当時の大蔵省に調査結果がある。それによると、同年10月19日からの3営業日にかけて野村證券の全支店となる320店のうち、東急電鉄株の売買シェアが30%を超えた支店が164店あり、更に売買シェア50%を超えた支店が100店あったことが判明した。更に野村證券本店に於ける東急株の売買シェアは90%以上であったというから、現実的に考えるなら、これは株価操作疑惑ではなく、純然たる株価操作が行なわれた事例であった。(2年後、野村證券会長が国会に証人喚問を受けるまでの騒ぎとなり、「勧誘に行き過ぎがあったが、断じて株価操作はないと確信している」という答弁でウヤムヤなものであった。)


また、山一抗争は再燃し、狢萋鷦´畛外豺柿茲起こっていた。1987年(昭和63年)5月には一和会会長の山本広邸襲撃事件が起こった。山本邸に消火器爆弾と手榴弾が投げ入れられ、且つ、警戒中の警察官三名が自動小銃で銃撃され、重傷を負わせるという衝撃的な武力行使が行なわれた。1988年(平成元年)3月には一和会が解散することとなり、山一抗争は完全終結する。山口組と一和会との調停役は稲川会の石井隆匡と会津小鉄会の高山登久太郎であったが、途中から稲川会は石井に代わって稲川裕絋が重要な調停役を果たすことになった。この調停役を果たしたことで稲川裕絋は渡辺芳則との間で交流が深まり、後年、稲川会三代目と山口組五代目とのトップ同士による兄弟盃が交わされたという。

1987年(昭和63年)12月末の或る日、稲川会二代目会長の石井隆匡は自由民主党副総裁の金丸信と東京・千代田区一番町のとある料亭で会食したという。竹下登ホメ殺し騒動終結から実に一年以上の期間が開いているのは、要らぬ詮索を免れる為に時間をとったという事のよう。これが石井と金丸の初顔合わせであったという。当時の金丸は自民党に於ける実質的トップの存在だと呼ばれていた事を考慮すると、両者が会席していたというのは中々、衝撃的でもある。オモテの政治を仕切っていた金丸が、ウラ社会の黒幕にのし上がった石井とは実際に顔を合わせていたのだ。

両者は挨拶を交わすと金丸が石井に上座を勧めた。すると石井は

「いや、それはいけません。それなら私は帰らせていただきます」

と固辞し、見るからに品格のある石井の姿に金丸は驚いたという。その席の金丸は上機嫌だったといい、石井のことを「あなたこそ、真の任侠の人」と持ち上げたという。また、会食後に石井も

「政治家なんて気取っているヤツばかりと思っていたが、金丸さんというのはそこいらへんのオヤジみたいに気軽に話のできる人だな。けど、やはり只者じゃないな」

と洩らしていたという。


1989年(平成元年)11月下旬、石井隆匡の東急株を3170万株を買い占め、発行済み株式の3%を超え、東急株が過去最高値の3,060円を記録してから間もなく、石井はメキシコ・アカプルコで頭痛と手のシビレを起こした。石井隆匡の経済ヤクザとしての絶頂期、そのタイミングは同年11月中旬であったが、その11月末には病で倒れてしまったのだ。後に脳腫瘍と判明する。

1990年(平成2年)元旦、その日の一面トップに狆谷光浩瓩箸いμ樵阿狠譱昇康弘瓩箸いμ樵阿畔造鵑之悩椶気譴拭5事は中曽根元首相の側近に国際航業株10万株の相対取引が行なわれ、わずか一ヶ月の間に約1億2千万円の利ザヤが中曽根側近に渡っていた事を報じていた。

この国際航業という会社は既に小谷に乗っ取られていたが、国際航業には或る秘密があった。国際航業は、1947年(昭和22年)に飛行場関連不動産管理会社として設立された三路興業が前身。その後、1954年(昭和29年)に商号を国際航業に変更した会社であった。国際航業は国や都道府県が十年後、二十年後に予定している道路建設計画の測量が国際航業に依頼されるという特殊な事情を抱えていた官庁に極めて近い企業であったという。つまり、まだ事務官レベルでどこのエリアに道路建設の話が進められているかという情報を事前に知ることが出来る会社であった。事前にその道路建設予定地を購入してしまえば国に買い上げて貰えるから幾らでも儲けることが出来てしまうという特殊な事情を抱えた企業で、小谷は、その内部事情を知った上で株の買占めを仕掛けていたという。

1990年(平成2年)2月、石井は慶應義塾大学病院に入院、そのまま脳腫瘍の手術を受ける。退院後は熱海で静養生活に入る。既に、この頃から稲川会の会長職の禅譲について石井は語り出したという。

1990年(平成2年)3月、石井が闘病生活に入った中、小谷スキャンダルが拡大して、北祥産業の資金のネタが一部夕刊紙で報道される。記事は「稲川会二代目会長が経営している北祥産業が東急株の買占めを進めているが、その資金を有名運輸会社が債務保証の下に巨額の融資がなされている」旨であったという。(有名運輸会社とは東京佐川の事であるが、初期段階では実名は報道されなかった。)

1990年(平成2年)9月26日、金丸信が北朝鮮を訪朝、金日成主席と会談する。翌27日には「共同宣言」が発表された。その「共同宣言」の中には日本が朝鮮人民に与えた損失について謝罪し、償うべきだと認める文言が入っていた。そのニュースは日本国中の右翼団体の怒りを買い、マスコミも「土下座外交」と批判的に報じた。翌28日には東京佐川・渡辺広康から石井へと、金丸バッシング沈静化のお願いの陳情が入り、石井は了承、右翼関係者に金丸批判の手を緩めるよう働きかけたという。ホメ殺し騒動と同じように系列の右翼団体・大行社の三本菅が五つの右翼団体幹部に説得を試みた他、石井自らも静養中であったにもかかわらず、日本政治文化研究所理事長・西山広喜に電話を入れ、「金丸さん攻撃の件、なんとなか、穏便にしていただけないだろうか」と申し入れてきたので、昭和維新連盟へと電話を取り次いだという。結局、右翼団体への石井の仲裁はここでも機能し、右翼団体による組織的な金丸糾弾の動きは止まったという。(それとは別に金丸に対しては土下座外交への怒りから、栃木県で右翼関係者による発砲事件を受けた。)

1990年10月10日、稲川会は二代目体制を終えて三代目体制に入った。石井隆匡から稲川裕絋へと会長が継承されることとなり、同日、継承式が執り行われた。稲川会の会長職は初代・稲川聖城から石川隆匡へ、そして稲川裕絋へと継承されたが、稲川聖城の家系に戻された事になる。(暴力団と呼ばれる組織に於いて、実際に世襲されるのは実は非常に珍しいのだそうな。)

同年同月に、石井は意識混濁を起こし、慶應義塾病院に再入院する。ここでもタイミングを同じくして、大証券スキャンダルが火を噴く。石井が実質的な経営者である北祥産業が東急株買占めに充てていた資金の出どころが注目を集め、石井らの銀行口座も捜査の対象となった。野村證券の子会社である野村ファイナンスと、日興證券の子会社である日興クレジットから石井に合わせて360億円の振込が在った事が発覚し、証券スキャンダルとして一大騒動に発展してゆく。

1991年(平成3年)2月頃より、日本にバブル崩壊が始まる。石井隆匡にしても利息の支払いが滞り出し、瞬く間に巨額負債の返済不可能が確実となった。そのため巨額の債務保証を石井(北祥産業ほか)に対して行なってきた東京佐川急便はパニック状態となった。

渡辺広康は返済計画書の提出を求めたが、石井は本領を発揮する。石井の渡辺への返事は

「さらなる資金が必要だ!」

というもので、返済計画書の提出を黙殺し、カウンターパンチを見舞う。つまり、「返済してもらえませんか」と申し出てみたら、「カネが足りない。もっと貸してくれ」と応じたのだ。

石井が更なる債務保証を要求したので東京佐川は債務保証を上積みしたが、今度は正真正銘、東京佐川急便が倒産の危機に陥る。

1991年6月、野村證券の田淵義久社長と、日興證券の岩崎琢也社長は、それぞれ引責辞任へ追い込まれる。

1991年7月、東京佐川急便は渡辺広康を含めて幹部を全員解雇。東京佐川急便は佐川急便に吸収合併されることとなっていた。更に同月、渡辺ら東京佐川の幹部は検察から信義義務違反の容疑で起訴される。

1991年8月、田淵義久と岩崎琢也とが衆議院証券金融問題特別委員会にて証人喚問の席に引き出される。一連の証券スキャンダルの裏側に暴力団が絡んでいた事、それに証券会社も結託していたと世間は騒然となっていた。

1991(平成3年)年9月3日夕刻、慶応義塾大学病院に入院中であった石井隆匡は、その生涯を閉じた。享年は67歳であった。

石井が1989年11月にアカプルコで倒れて以降、実は石井が買占めを進めていた東急電鉄株の株価も徐々に下落に転じていた。東急電鉄株については株価操作疑惑があり、論者に拠っては前述したとおり、野村證券はクロが濃厚であったが、儲けさせたかった最大の人物であろう当の石井隆匡が東急電鉄株を売り損じているという問題が残った。この仕掛けられた東急電鉄株異常高騰の裏側には、石井隆匡の他にも誠備グループと光進、更には地産グループ、更には元祖「乗っ取り王」の横井英樹らも参戦しており、相応の時期に売り抜いていたが、石井は売り損じていたのだ。一説に、石井はカネ儲け目的ではなく、東急電鉄の大株主になりたかったのではないかという語り口もあるという。

1992年(平成4年)2月、渡辺広康ら東京佐川の幹部4名らを特別背任容疑で逮捕。闇に流れた東京佐川マネーがどこへ渡ったのかという追求に東京地検特捜部が乗り出す。

1992年(平成4年)9月、東京佐川急便から金丸信へ五億円の政治献金があったことが発覚、政治資金規正法違反で略式起訴されたが、罰金20万円という異例の軽い処分が話題になる。

以降、世論は猛反発し、金丸信は議員辞職に追い込まれ、自由民主党への不満と金権政治への怒りが爆発することとなり、日本新党の細川護熙を総理とする連立政権が誕生した。連立政権誕生により、自由民主党は実に38年ぶりに野党へ転落。しかし、数ヵ月もしないうちに細川護熙にも東京佐川急便から一億円の借入れがあった事が発覚、その細川政権はアッサリと転覆した。


さて、最後に少しだけ感想を――。

この稲川会二代目とは何者であったのか? 経済ヤクザといえば経済ヤクザであり、インテリヤクザといえばインテリヤクザであったのだと思う。しかし、それでは言葉は足りず、実は最後の最後まで石井隆匡とは「博奕打ち」であったのではないかという感慨が残る。それは、この一連を記すにあたり、石井の生涯に触れた山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』(幻冬舎アウトロー文庫)でも触れられている部分なのですが、その人間像を考えるに、それを否定しにくいと感じたから。

稲川聖城に始まる稲川会の伝統として、イデオロギー色が強く、且つ、仲裁役として事件に関与していくという手法があり、その最たるものが狎舒耄感瓩妨て取れる。稲川聖城の時代、モロッコの辰が大暴れをした後に、林喜十郎が相手に有利に交渉を持ちかけて、勢力を拡大させたという黄金パターンがあったと指摘されているし、実際に逸話からも、その黄金パターンを随所に見つける事ができる。「暴れ役」と「仲裁役」とを分担しているワケです。これがヤクザ稼業や右翼を評価するときに犂虧鬮瓩箸いι集修ある。西洋でも爛譽ぅ弌辞瓩箸いΩ斥佞あり、やはり、マフィアには、そうした犂虧鬮瓩顔役として機能する裏社会があるという。つまり、誰々が仲裁に乗り出したから解決するだろうという、その偶像が顔役であるワケですが、竹下登ホメ殺し騒動なんてのは完全に石井隆匡は顔役として登場しているのが分かる。山一抗争に於ける調停人というのも顔役ですね。「石井会長がそのように仲裁するのであれば従わざるを得ない」というような空気を醸造する。その役割を、いつも石井という人物が担っていた。まさしく影の実力者であり、裏社会の首領。仕手集団も総会屋といった連中も、真正面から稲川会会長と事を構える勇気はないワケで、従がわざるを得ない。

石井隆匡(石井進)には原則的にはヤクザ伝説にありがちな武勇伝が少ない。映画「修羅の群れ」の中でも、名高達郎が演じた石井の役どころであるイシザワは、「争いごとを好まない横須賀一家のイシザワ」として描かれている通り、大暴れをするタイプのヤクザではないのだ。では、ただのインテリであったのかというと、それも間違いであり、純然たるヤクザであったからこそ、兄弟分の為に小指を断ち、仲間が負けられない喧嘩をしているというと大勢の兵隊を連れて加勢するという具合に狎舒罩瓩箸いγ砲狼’修靴討い燭里分かる。石井の信心深さにも触れましたが、それは「北祥産業」の名称にも表れており、占い師の助言を信じ、自らが崇拝していた毘沙門天への憧れが【北祥】という社名になったという。毘沙門天で思い出したが、確かに石井の行動原理はどこか上杉謙信に似ていて義理堅いところがあるのだ。それは石塚義八郎の下で代貸を勤めていた頃、稲川聖城に見い出されて頭角を現した頃、自らが稲川会のトップに立ってからも基本的に、その行動原理は変わっていない事に気付かされる。晩年、金丸を助けているが、土下座外交後の金丸信に恩を売って金銭的利益が見込めたのかと考えると、それも難しく、石井自身の中に賭場を渡り歩いていた時代の博徒と呼ばれたヤクザの片鱗を垣間見たような気がしないでもない。

「何故、石井は東急電鉄株を売り抜けなかったのか?」

その問題が最後に残ってしまう。病気に倒れたのが第一の理由であるにしろ、一連を眺めてみると、石井の東急電鉄株買占めは、株を買占めて株価を吊り上げて利ザヤを稼ごうとしていたというよりも、むしろ博奕そのもの、奇想天外なスケールで石井が大博奕を打っていたかのような感慨も残る。石井に儲ける手口を教えたのは仕手筋の加藤と小谷である事は明白であるが、石井は最後まで自分自身が博奕の一プレイヤーでありたかったのではないか。博徒として「賭場から賭場へと歩く」という青春時代を送っていた石井の場合、まだ、そういう感覚を残していたのではないだろか。つまり、大博奕であったが故に、そもそも「売り抜く」というアタマを石井はハナッから持っていなかったのではないだろうか。石井は本気で東急電鉄を手に入れる大博奕をしていたのではないのか――と。



参考:山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』(幻冬舎アウトロー文庫)、大下英治著『闇の支配者〜昭和、平成「経済事件」』(青思社)、一橋文哉著『「赤報隊」の正体』(新潮文庫)、森功著『許永中〜日本の闇を背負い続けた男』、一橋文哉著『マネーの闇』(角川oneテーマ21)、一橋文哉著『国家の闇』(角川oneテーマ21)、山平重樹著『伝説のヤクザ』(竹書房)ほか。



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石井隆匡の元には、2つの仕手集団と繋がっていた。一つは相場師として人気を集めた加藤繊覆とうあきら)が率いる誠備グループ。もう一つは、小谷光浩(こたにみつひろ)の率いる光進であった。

小谷は元々は大和証券に勤めていた人物であるが、その後に「コーリン産業」(これが後に光進に改称)を起こす。クボタハウスと代理店契約を結び、大阪で建売住宅を売った。後に東京に進出すると、三井不動産が進めていた開園前の東京ディズニーランド周辺の住宅販売に関わり、手を広げた。その後にホテル経営の為にサンルート総合開発とサンルート東海を設立。その後、株の買い占めを仕掛けるようになった人物だという。

小谷はタイムレコーダー最大手のアマノ株の大量買いを手始めに、三菱電機系の協栄産業株を大量に買ったという。その後にゴルフ会員権の売買で大儲けし、飛鳥建設、蛇の目ミシン工業、藤田観光、国際航業、養命酒酒造、小糸製作所などの株を次から次へと買い占め、光進の名を轟かせた。その光進による株の買い占めと、稲川会二代目会長・石井との接点は、蛇の目ミシン工業で明らかになる。

1987年(昭和62年)6月、小谷光浩は蛇の目ミシンの株式を大量に保有し、蛇の目ミシン株を手放す気がないこと、蛇の目ミシン社の経営に参加する意志があることを訴え、同月の株主総会に於いて蛇の目ミシンの取締役に就任した。既に、この頃には小谷の光進は仕手集団としてマスコミから取り上げられる事もあった。大量に株を買い漁っては売り逃げしたり、もしくは大量に買った株式をその会社に買い取らせるという手法で荒稼ぎをしていた為に、その手法が追及されていたのだ。

1988年(昭和63年)3月末を以って、コーリン産業の代表取締役を辞任し、コーリン産業も光進へと商号を変更する。しかし、裏では小谷は相変わらずに活発に動いていた。それまで小谷光浩の近辺にはキーパーソンが2名あった。富嶋次郎と北見義郎であった。富嶋は東京は浅草の名門テキヤ組織の元組員であったが電気工事店の見習いを経て、茨城県で電気店を立ち上げた人物であるという。官庁関係の指定工事業者となり、茨城県下でも相応に大きな電気店であったという。一方の北見義郎はというと父親が全国テキヤ連盟会長の子分であったといい、北見自身は大学まで出て公認会計士になった人物であるが、その父親の関係で交友関係は住吉会系のヤクザや、右翼関係者が多い人物であったという。そして、このコーリン産業から光進への商号変更する頃に富嶋次郎は小谷と手を切った。

1988年(昭和63年)5月、小谷は資金繰りに苦慮するようになっていた。小谷は乗っ取りを仕掛ける為に常に膨大な資金を必要としていたが、それらの資金もまた購入した株式を担保にしてノンバンクから借入れをしていたのだ。その中でも最も小谷が借入れが多かったのが竹井博友の地産グループ系のノンバンクであった。竹井の地産グループもバブル期に次から次へと企業を地産グループに引き入れていった人物であるが、竹井の手法は少し変則的で、仕手集団に対して株券を担保に融資し、その貸出先の仕手集団が仕手戦に失敗したときに担保流れとなる株式を入手するという手法であった。この頃、光進の小谷は地産グループ系ファイナンスへの金利の支払いや一部資金の返済期限が迫り、苦慮していたという。

そのピンチを脱するべく、小谷は一計を講じた。蛇の目ミシン社は、埼玉銀行(現在のりそな銀グループ)と親戚関係にあり、同社の常務取締役経理部長というポストは埼玉銀行出身者が務め、同時に埼玉銀行の副頭取が蛇の目ミシン社の非常勤監査役になることが定式化している関係であった。つまり、蛇の目ミシンの経営陣には実際に埼玉銀行に所縁のある人物が多かったのだ。

それを熟知していた小谷は、埼玉銀行出身で次の蛇の目社の社長就任が決定していた常任顧問・森田暁(もりたさとる)に持ち掛けた。小谷は「自らが保有する蛇の目ミシン株700万株を担保に埼玉銀行200億円の融資の話を通してくれ」と森田顧問に頼んだ。

蛇の目ミシン側からすれば悪い話ではなかった。小谷が担保にするといっているのは自社株であり、株を買い取れれば、安定すると思ったという。(裏返すと、小谷に持たれている状態だと売り抜かれる可能性がある。)森田顧問は小谷の申し出を埼玉銀行東京本部に繋いだ。しかし、埼玉銀行は中々、返答をしなかったという。

一週間ほど経過したが森田顧問から小谷への返答は無かった。地産グループ系ファイナンスへの償還期限が迫っていた小谷は焦れて、蛇の目ミシン社へ乗り込んで森田顧問に埼玉銀行からの融資の件がどうなったのかを、激しい口調で問い質した。森田顧問が埼玉銀行からの猜峪待ち状態瓩任△襪海箸鮴睫世靴拭すると今度は小谷は森田顧問が地産の竹井博友と顔見知りである事に気付き、森田顧問の口利きがあれば地産グループ系ファイナンスから更に融資を受けられると気付き、森田顧問に取次を頼む。

1988年(昭和63年)7月、小谷は蛇の目ミシン株340万株を担保にして竹井の地産から100億円の調達に成功する。森田顧問は元埼玉銀行筆頭副頭取であり、竹井博友と面識があり、森田顧問からの電話仲介が功を奏した。

1988年8月、小谷は再び蛇の目ミシン本社にやって来て「(蛇の目ミシン株を担保に)300億円を融資して欲しい」という具合に駆け込んでくる。蛇の目ミシン側は、融資ではなく、この機会に小谷から株式を買い戻そうと、株式の買い取り話の方向へと水を向けた。すると、小谷は4,500万株を買い取るのであれば額面2,000円でいいと話に乗って来た。2,000円の株が4,500万株という事は総額900億円の話であったが、蛇の目ミシン側としては悪い話ではなかったので、この話も埼玉銀行へ通した。しかし、埼玉銀行の結論はノーであった。

1988年9月、再び小谷から700万株を担保に200億円の融資の請求があったが、これにも埼玉銀行は応じず、小谷は前回と同じように、再び地産グループから200億円の融資を得た。

1988年10月、とうとう小谷は埼玉銀行東京本部に足を運んだ。今度は埼玉銀行に直接、蛇の目ミシン株の譲渡を持ちかけた。

この頃、資金繰りに喘ぐ小谷光浩には北見義郎との確執があった。北見は小谷の片腕として国際航業株の買収に手を貸し成功させてきたが、北見の報酬分の30億円を小谷は支払えないでいた。執拗に30億円の支払いを求める北見に対して、それを踏み倒そうとする小谷という構図があった。

そのトラブルに稲川会系暴力団が介入してくる。北見の側に稲川会系の或る総長から電話が入り、その仲裁話は「石井会長(稲川会二代目石井隆匡)たっての申し立てで、伝言を授かった」と前置きした。その後に、石井が出しているという仲裁案が説明された。北見に対しては30億円の支払いを約束する。その代わりに国際航業株から一切の手を引けというものであった。小谷が石井隆匡に泣きついたらしく、翻って、この時期から光進の小谷は稲川会の石井と関係を構築していったように推測ができる。


1989年(平成元年)4月、石井は岩間カントリークラブの「会員資格保証金預かり証」なるものを発行し、384億円を集めた。「会員資格保証金預かり証」(以下、「預かり証」)なる代物は錬金術に近いもので、つまり、会員資格保証金を集め、その保証金を預かっている事に対して「預かり証」を発行した金融商品らしく、何が何だか分からない代物でもあるが、それでカネを掻き集める事にした。その「預かり証」の発行を進言したのは仕手集団・光進の小谷光浩であったという。(小谷は仕手筋となって以降、3億円で購入したゴルフ場でゴルフ会員権を販売し、見事に30億円を儲けたという過去があり、そうした才能に長けていたのだ。)

「預かり証」は川崎定徳の佐藤茂社長名義で発行され、その「預かり証」にはて小谷の光進、加藤の誠備グループ、それと東京佐川急便といった石井コネクションの他、ゼネコンの間組(現在のハザマ)、青木建設(現在の青木あすなろ建設)、野村證券、日興證券ら群がった。主な内訳は小谷の持ち会社であったケーエスジー社が70億円、青木建設が50億円などで石井の元には総額384億円が集まった。それとは別に、野村證券と日興証券からは系列ファイナンス会社を通して野村證券から160億円、日興證券から202億円の融資を得ていた。

角度を変えるとこうだ。石井が平相銀問題で入手した岩間カントリークラブが、更なるカネを生んだのだ。つまり、岩間カントリークラブをネタ元にして石井が掻き集めたカネは384億円の預かり証発行の額面と、融資として引き出した362億円であり、合わせると既に746億円にも上る。

石井は、その掻き集めた潤沢な資金を、なんと東京急行、東急電鉄株の買占めの軍資金に充てるという大博奕を打つのだ――。


1989年(平成元年)5月、蛇の目ミシン社にも、小谷を通して、その「預かり証」の購入話が持ち込まれる。(注:大下英治は会員証の売買が持ち込まれたとしているが、一方で一橋文哉によれば岩間カントリークラブは実は会員制ではないという。判然としないので、ここで持ち込まれた話は「預かり証」の購入話として話を進める。)しかし、蛇の目ミシン社は、岩間カントリークラブそのものが、稲川会、その石井二代目会長直属の企業舎弟である北祥産業の傘下にあることに気付き、拒否する。小谷は「オレのメンツをつぶすのか」と激怒したが、直ぐに怒りを鎮めたという。

1989年(平成元年)7月、パンチパーマをかけた大柄な男が蛇の目ミシン社の秘書室に「北祥産業の使いの者です」と名乗り、1メートル程度の長い箱に入った大きな一匹の鮭を「お中元です」と言って届けた。極めて謎めいた贈物であり、不気味な贈物であった。蛇の目ミシン側は副社長自らが北祥産業の庄司宗信社長宛てに御礼の電話を入れ、「みんなで分けて頂きます」と謝辞を述べた。蛇の目ミシン側では相手がヤクザであることにも気付いており、無碍な態度は取れなかったのだ。(因みに、映画「ゴッドファーザー」の中には関係者の命を断ったという証に魚を送るという不可思議なマフィアの習慣に触れられているという。)

すると翌日、またパンチパーマの大男が蛇の目ミシン社にやって来たという。その北祥産業の使いであると名乗る大男は「失礼しました。昨日は数を間違えまして」と、鮭が入った長箱を五つほど蛇の目ミシン社に置いていった――。
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