ヤクザの起源のような話は、どのように語っても定見がないので「それは違う」のように言えてしまう世界なのですが、フリーライター・朝倉喬司が書いたヤクザ概論とでも呼ぶべき朝倉喬司著『FOR BEGINNERS ヤクザ』(現代書館)では、民俗学者にして歌人であった折口信夫(おりくち・しのぶ)の使用した『ごろつきの話』をヤクザと読み替えて、それを説明している。
「無頼漢(ごろつき)などといえば、社会の瘤のようなものとしか考えておられぬ。だが、かつて日本ではこの無頼漢が、社会の大きな要素をなした時代がある。のみならず芸術上の運動には、ことに大きな力を致したと見られるのである」
上記の一節は、折口からの孫引き引用という事になるのかも知れませんが、少なくとも折口のヤクザ論では、そう解釈されている。「芸術上の運動には大きな力を…」は説明するまでもないのかな。興行、芝居から歌からボクシング、プロレスなどもヤクザなしでは成立していない。
折口に拠れば、「ごろつき」とは中世に発生した非定住民諸集団であり、例えば武士団らが抗争によって土地を奪われ、流民化・漂泊民化したものであったと推定している。例えば、蜂須賀小六などは通説でも乱破だったとされ、いわゆる山の民というか山賊というか、もう、名称をつけるにも苦慮するような、それであった。で、折口が、どう「ごろつき」を片付けたのかというと、
彼らは、やむを得ず、無職渡世などといって、いばって博徒となった。これが侠客の最初である。
えっ、これをヤクザの起源と言ってしまっていいのかという感覚は誰しもが感じるものかも知れませんが、この話、私は横山光輝の書いた漫画『史記列伝』に中国に於ける侠客を描いた話があり、なるほど、折口信夫は、中国の古典から「ごろつき」というものを思いつき、それが近代のヤクザの起源であろうと推理していたのであろうと考えることができる。この侠客が本格的に日本で起こるのは江戸時代以降だから、或る意味では折口のヤクザ論は飛躍が過ぎるじゃないかと言えてしまうのですが、江戸時代に登場したヤクザが侠客を名乗り、また、庶民も侠客を褒め称えていたのはどうしようもない事実なのだ。
この【侠客】とは、「弱気を助け、強気をくじく」を本義に据えた任侠道を精神規範とし、渡世をしていた人々であるのも否定しようがない。
また、横山光輝が題材としたのは、郭解(かくかい)という侠客で、この郭解については司馬遷が文書を残していたという。郭解は、軹(し)という国の人で、若い頃から手の付けようのない暴れ者であったという。殺人、墓荒らし、偽金造り、略奪、恐喝などの常習犯で役人に追われていたが、中々、捕まらなかった。郭解は義理堅い人物で、友人がやられると命を張って仇討ちを果たすような人物であったという。そんな郭解も、役人に捕まる日がくる。幸運にも恩赦となり、娑婆に戻ると、この郭解は、心を入れ替えたのか、恨みを持っている者には恩で報い、困っている者があれば助けてやるという生き方をはじめる。十年ほどが経過すると、人々は、この郭解を侠客と呼ぶようになっている。役人にいじめられていると訴えると、郭解が役人相手でも「言うべきことは言う」という態度を貫徹した為であるという。いつしか、郭解は人々から「あの人は俺たちの味方である。弱い者の味方である」と認識されるようになり、子分たちを増やしていったのだ。
或る時、郭解の甥が殺害された。郭解は甥を殺害した人物を探そうとしたところ、一人の男が郭解の元に現れた。男は「逃げられる筈がないからやって来た」と述べた。すると郭解は何故、甥を殺したのかを尋ねた。男は言った。「無理矢理、酒を飲まそうとして、人前で私の鼻をつまんで酒を無理矢理に流し込もうとしました。その屈辱に私は男として我慢できなかったのです」と理由を述べた。すると、郭解は、その甥殺しの男を責めることなく、無罪放免とした。「あなたは悪くない。私の甥が悪かったようだ」で済ませたのだ。この逸話によって、郭解は、益々、人々から尊敬されるようになった。人々は儒教的な価値観によって「筋を通す人」、「義理と人情」を重視していたのだ。
やがて、この郭解という侠客は、役人の罠に嵌められて逃亡する身となり、挙げ句、役人に捕まり、拷問にも遭う。しかし、悪事の証拠はない。また、過去に働いた悪事については恩赦が出ている。証人を呼んでみたが、人々は揃って「郭解は義理に厚い、とってもいい人ですよ」と言うばかりなのだ。困った役人たちは一計を案じ、郭解に「大逆無道の罪」という罪をつくり、それに強引に問うて、郭解と、その家族を皆殺しにしてしまった。おしまい。
無頼の人。法の外の人という意味でのアウトロー。役人とは正義なのか、法は正義なのかと考えるいい材料かも知れず、つまり、人々から尊敬されている郭解が、何故、罪に問われ、処刑されねばならないのかという基本的な問題が浮上する。儒教的価値観というべきか、東洋思想というべきか、つまり、義理人情に厚く、筋を通すリーダーは、我々日本人だけに限らず、古代中国でも尊敬されたという当たり前の話になっている。他方、役人はというと、政府というべきか王朝というべきか、つまり、それに仕えている役人である訳ですが、彼等の世界とは古代から讒訴や讒言が多い世界で、弱い者いじめが多い世界であったのだ。そういう世の中だから侠客は尊敬された。もっとも、そういう侠客は稀であり、殆んどはゴロツキと呼ばれておしまいなのだけれども。
では、何故、国家は人々から税なり年貢なりを集め、それに従わなければ懲罰する事が許されたり、暴力を行使しても許されるのかという問題になってしまう訳ですね。国家とマフィアの違い、国家とはヤクザの違いというのは、意外と難題でもある。ショバ代を巻き上げたり、ピンハネも許される統治機構であり、且つ、暴力の行使も許され、拷問をしても殺人をしても咎められない。竹内久美子著『賭博と国家と男と女』(文春文庫)は奔放な発想で、ホントは国家の起源はマフィア(ヤクザ)であると推理してしまう傑作ですが、実は、両者には、あんまり差異がない。
しかも日本の近代史になると、官憲はヤクザを暴力装置として利用していたのが事実なんですよね。現在でこそ、毎日のように「反社」、「反社」と大騒ぎをしている。しかし、労働争議などをつぶす為に警察にヤクザに動員をお願いしていたという日本の暴力史がある。下の写真は月刊誌『実話裏歴史SPECIAL VOL.6〜日本の暴力史』ミリオン出版ですが、まぁ、ホントに角材を持ってヤクザが労働者を殴りつけている証拠写真(共同通信の写真)であるという。
1960年は、60年安保の年であった訳ですが、この年、西日本では「総資本VS総労働」とが激突することになった三井・三池炭鉱争議があった年でもあったという。人員整理、つまり、クビを巡っての激突であったそうな。
三井鉱山は4580名の希望退職者を募集したが、三井鉱山の三池炭鉱だけが目標数値に達しなかった。その為、三井鉱山は活動家を含む1214名の指名解雇に踏み切る。これに労働者は反発、1960年3月25日から全面ストライキ(罷業)を行使する。これに対して、三井鉱山はロックアウト(作業所閉鎖)で応じた事から、総資本VS総労働という緊張状態へ突入した。
三井鉱業は、第二組合という別の労組を企業主導で起ち上げて、この第二組合の組合員のみを就労させるという手法を採った。労働者の中には元々の組合(第一組合)から第二組合へ流れた者もあったらしく、或る種のスト破りのような裏切り行為であるとして第一組合と第二組合との間で乱闘が発生した。
3月28日に115名の負傷者が出る騒ぎとなる。しかし、翌29日、第一組合に襲い掛かったのはヤクザの集団であった。写真は証拠として実際に検察に提出したものだそうで、とうとう、このヤクザ投入によって第一組合からは死者が出た。刺殺されたものだという。
この三井・三池炭鉱争議は、5月には警官隊と第一組合が衝突、171名が重軽傷を負う。ここで決着かと思いきや、「ヤクザや警官隊までもを投入して弾圧するのか」と第一組合が猛反発。労働者らが全国各地から集まり、7月にも海上から資材を運ぼうとした企業側の動きを察知した組合側が船を出して海上で24艘の船が一時間余りの海戦を起こし、230余名の負傷者を出したという。
収拾不能と思われたが岸信介内閣が安保を通した後に退陣し、池田勇人内閣になると強硬策から懐柔策に変わり、池田内閣の調停に乗り出し、最終的には11月に、この争議は幕引きとなったという。或る時期までは、ヤクザをこんな風に利用していたのに、現在ともなると、凄い掌返しになっている気がする。
日本の労働行政が絶望的にダメな理由もこういう部分にあるのかもね。社畜でいいじゃないか、働かせ方改革、従おうじゃないか的な。
「無頼漢(ごろつき)などといえば、社会の瘤のようなものとしか考えておられぬ。だが、かつて日本ではこの無頼漢が、社会の大きな要素をなした時代がある。のみならず芸術上の運動には、ことに大きな力を致したと見られるのである」
上記の一節は、折口からの孫引き引用という事になるのかも知れませんが、少なくとも折口のヤクザ論では、そう解釈されている。「芸術上の運動には大きな力を…」は説明するまでもないのかな。興行、芝居から歌からボクシング、プロレスなどもヤクザなしでは成立していない。
折口に拠れば、「ごろつき」とは中世に発生した非定住民諸集団であり、例えば武士団らが抗争によって土地を奪われ、流民化・漂泊民化したものであったと推定している。例えば、蜂須賀小六などは通説でも乱破だったとされ、いわゆる山の民というか山賊というか、もう、名称をつけるにも苦慮するような、それであった。で、折口が、どう「ごろつき」を片付けたのかというと、
彼らは、やむを得ず、無職渡世などといって、いばって博徒となった。これが侠客の最初である。
えっ、これをヤクザの起源と言ってしまっていいのかという感覚は誰しもが感じるものかも知れませんが、この話、私は横山光輝の書いた漫画『史記列伝』に中国に於ける侠客を描いた話があり、なるほど、折口信夫は、中国の古典から「ごろつき」というものを思いつき、それが近代のヤクザの起源であろうと推理していたのであろうと考えることができる。この侠客が本格的に日本で起こるのは江戸時代以降だから、或る意味では折口のヤクザ論は飛躍が過ぎるじゃないかと言えてしまうのですが、江戸時代に登場したヤクザが侠客を名乗り、また、庶民も侠客を褒め称えていたのはどうしようもない事実なのだ。
この【侠客】とは、「弱気を助け、強気をくじく」を本義に据えた任侠道を精神規範とし、渡世をしていた人々であるのも否定しようがない。
また、横山光輝が題材としたのは、郭解(かくかい)という侠客で、この郭解については司馬遷が文書を残していたという。郭解は、軹(し)という国の人で、若い頃から手の付けようのない暴れ者であったという。殺人、墓荒らし、偽金造り、略奪、恐喝などの常習犯で役人に追われていたが、中々、捕まらなかった。郭解は義理堅い人物で、友人がやられると命を張って仇討ちを果たすような人物であったという。そんな郭解も、役人に捕まる日がくる。幸運にも恩赦となり、娑婆に戻ると、この郭解は、心を入れ替えたのか、恨みを持っている者には恩で報い、困っている者があれば助けてやるという生き方をはじめる。十年ほどが経過すると、人々は、この郭解を侠客と呼ぶようになっている。役人にいじめられていると訴えると、郭解が役人相手でも「言うべきことは言う」という態度を貫徹した為であるという。いつしか、郭解は人々から「あの人は俺たちの味方である。弱い者の味方である」と認識されるようになり、子分たちを増やしていったのだ。
或る時、郭解の甥が殺害された。郭解は甥を殺害した人物を探そうとしたところ、一人の男が郭解の元に現れた。男は「逃げられる筈がないからやって来た」と述べた。すると郭解は何故、甥を殺したのかを尋ねた。男は言った。「無理矢理、酒を飲まそうとして、人前で私の鼻をつまんで酒を無理矢理に流し込もうとしました。その屈辱に私は男として我慢できなかったのです」と理由を述べた。すると、郭解は、その甥殺しの男を責めることなく、無罪放免とした。「あなたは悪くない。私の甥が悪かったようだ」で済ませたのだ。この逸話によって、郭解は、益々、人々から尊敬されるようになった。人々は儒教的な価値観によって「筋を通す人」、「義理と人情」を重視していたのだ。
やがて、この郭解という侠客は、役人の罠に嵌められて逃亡する身となり、挙げ句、役人に捕まり、拷問にも遭う。しかし、悪事の証拠はない。また、過去に働いた悪事については恩赦が出ている。証人を呼んでみたが、人々は揃って「郭解は義理に厚い、とってもいい人ですよ」と言うばかりなのだ。困った役人たちは一計を案じ、郭解に「大逆無道の罪」という罪をつくり、それに強引に問うて、郭解と、その家族を皆殺しにしてしまった。おしまい。
無頼の人。法の外の人という意味でのアウトロー。役人とは正義なのか、法は正義なのかと考えるいい材料かも知れず、つまり、人々から尊敬されている郭解が、何故、罪に問われ、処刑されねばならないのかという基本的な問題が浮上する。儒教的価値観というべきか、東洋思想というべきか、つまり、義理人情に厚く、筋を通すリーダーは、我々日本人だけに限らず、古代中国でも尊敬されたという当たり前の話になっている。他方、役人はというと、政府というべきか王朝というべきか、つまり、それに仕えている役人である訳ですが、彼等の世界とは古代から讒訴や讒言が多い世界で、弱い者いじめが多い世界であったのだ。そういう世の中だから侠客は尊敬された。もっとも、そういう侠客は稀であり、殆んどはゴロツキと呼ばれておしまいなのだけれども。
では、何故、国家は人々から税なり年貢なりを集め、それに従わなければ懲罰する事が許されたり、暴力を行使しても許されるのかという問題になってしまう訳ですね。国家とマフィアの違い、国家とはヤクザの違いというのは、意外と難題でもある。ショバ代を巻き上げたり、ピンハネも許される統治機構であり、且つ、暴力の行使も許され、拷問をしても殺人をしても咎められない。竹内久美子著『賭博と国家と男と女』(文春文庫)は奔放な発想で、ホントは国家の起源はマフィア(ヤクザ)であると推理してしまう傑作ですが、実は、両者には、あんまり差異がない。
しかも日本の近代史になると、官憲はヤクザを暴力装置として利用していたのが事実なんですよね。現在でこそ、毎日のように「反社」、「反社」と大騒ぎをしている。しかし、労働争議などをつぶす為に警察にヤクザに動員をお願いしていたという日本の暴力史がある。下の写真は月刊誌『実話裏歴史SPECIAL VOL.6〜日本の暴力史』ミリオン出版ですが、まぁ、ホントに角材を持ってヤクザが労働者を殴りつけている証拠写真(共同通信の写真)であるという。
1960年は、60年安保の年であった訳ですが、この年、西日本では「総資本VS総労働」とが激突することになった三井・三池炭鉱争議があった年でもあったという。人員整理、つまり、クビを巡っての激突であったそうな。
三井鉱山は4580名の希望退職者を募集したが、三井鉱山の三池炭鉱だけが目標数値に達しなかった。その為、三井鉱山は活動家を含む1214名の指名解雇に踏み切る。これに労働者は反発、1960年3月25日から全面ストライキ(罷業)を行使する。これに対して、三井鉱山はロックアウト(作業所閉鎖)で応じた事から、総資本VS総労働という緊張状態へ突入した。
三井鉱業は、第二組合という別の労組を企業主導で起ち上げて、この第二組合の組合員のみを就労させるという手法を採った。労働者の中には元々の組合(第一組合)から第二組合へ流れた者もあったらしく、或る種のスト破りのような裏切り行為であるとして第一組合と第二組合との間で乱闘が発生した。
3月28日に115名の負傷者が出る騒ぎとなる。しかし、翌29日、第一組合に襲い掛かったのはヤクザの集団であった。写真は証拠として実際に検察に提出したものだそうで、とうとう、このヤクザ投入によって第一組合からは死者が出た。刺殺されたものだという。
この三井・三池炭鉱争議は、5月には警官隊と第一組合が衝突、171名が重軽傷を負う。ここで決着かと思いきや、「ヤクザや警官隊までもを投入して弾圧するのか」と第一組合が猛反発。労働者らが全国各地から集まり、7月にも海上から資材を運ぼうとした企業側の動きを察知した組合側が船を出して海上で24艘の船が一時間余りの海戦を起こし、230余名の負傷者を出したという。
収拾不能と思われたが岸信介内閣が安保を通した後に退陣し、池田勇人内閣になると強硬策から懐柔策に変わり、池田内閣の調停に乗り出し、最終的には11月に、この争議は幕引きとなったという。或る時期までは、ヤクザをこんな風に利用していたのに、現在ともなると、凄い掌返しになっている気がする。
日本の労働行政が絶望的にダメな理由もこういう部分にあるのかもね。社畜でいいじゃないか、働かせ方改革、従おうじゃないか的な。