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カテゴリ: 政治史など

連合赤軍と日本赤軍の話というのは、それまで理解できていなかった事が理解できたという意味でも意義があったと自覚しているのですが、それ以外にも色々と波及する内容が多かったような感慨がある。念の為と思って、北朝鮮行きを選択した「よど号グループ」についても、よど号グループ著『拉致疑惑と帰国〜ハイジャックから祖国へ』(河出書房新社)に目を通してみたのですが、大別すると2点、気になる事柄があった。

一つは、印象としてなのですが「よど号グループ」は、「純真な人」が多いのかも知れないなという感慨でした。幾度となく、報道番組などでも目にしてきたつもりだったのですが、改めて文章に目を通してみると、その印象が強い。打ち合わせの上で、各人が辻褄を合わせの文章を書いたのだろうと勘繰ることも可能ですが、どうも、そういう印象ではない。どこか純真というか無邪気というか、それが読み取れてしまう。どういう箇所から読み取ったのかというと、既に死んでしまっているよど号事件のリーダー田宮高麿との関係性、その逸話に言及されているのですが、「こう言われたので、こう思った」という感じの文章が目に付く。「面白くないと感じた」というものもあれば、「指摘された通りで自分は傲慢だった」という具合に記されているのですが、基本的に棘とか毒が無い人たちなのだろうかと感じる。

私が知る世間の人というのは本音と建前を使い分けている。何かわきまえている事があれば、わきまえている程、その使い分けは巧妙であり、発した言葉と発さずに胸の内に留めた気持ちとは必ずしも一致しない。意外と丁寧に長文を書いていると、どうしても本音と建前との間でぎくしゃくとしたものになったりするものであろうと思う。殊に悪感情なんてのは完全に殺して取り繕うか、それとも適度に皮肉とするか、そういう風になってしまう訳ですが、そういうものを感じない。これは、どういう事だろうか。

しばしば、「洗脳」とか「マインド・コントロール」などと説明されている事があるものの、少なくとも強制的に洗脳された何かではなさそうなのだ。

塩見卓也、重信房子の文章には明らかに【自己批判】という単語の頻発を確認できたし、また、唯物的な思考回路であり、やはり理屈っぽく感じる文章だなと感じた。しかし、「よど号グループ」の場合は理屈っぽさは余りなく、どういう事なのか【自己批判】という単語の頻度も高くない。

よど号ハイジャック犯たちは北朝鮮へ亡命し、北朝鮮で亡命外国人という扱いになった。ハイジャック犯は、これまた楽観的に北朝鮮へ行った節があり、本人たちも語っている通り、日本を脱出して北朝鮮で軍事訓練を受け、また、キューバやベトナムなどから軍事的援助を受けて日本に再上陸し、日本で革命を起こすという計画であったが、これを信じていた人たちなのだ。当然、そんな事が可能なのかどうかハイジャックの際には話し合われたが、金正日をオルグする、自分たちの理論で説得し、取り込めるものと考えていた節がある。

実際に北朝鮮へ行った後、よど号グループは北朝鮮政府に「勉強をしたい」と「軍事訓練を受けたい」と申し出た所、前者は許可されたが後者は拒否されたという。また、日本人村という集落に囲われていた訳ですが、軍事訓練を受けない事には革命という目的が果たせないので、その日本人村の村内で自主的な軍事訓練をしたという。(連合赤軍は日本政府との殲滅戦に備えて銃器や爆弾を調達し、射撃訓練をしていた。日本赤軍は遊撃戦=ゲリラ戦法に活路を見い出した。)

また、勉強するという事で北朝鮮特有の主体(チュチェ)思想を学習したが、その主体思想についての批判はない。疑問には言及している者もあるし、一部、将軍様をネタにしたジョークらしい事も述べているが、主体思想への批判は殆んど読み取れなかった。

よど号ハイジャック犯らは、結婚適齢期となって小西が日本に居た恋人を北朝鮮に呼び寄せて結婚すると、各自が結婚を模索する。ハイジャックをして北朝鮮へ渡った身なので勿論、結婚を諦めていたらしいが、どうも結婚も可能かも知れないぞという状況になると、順番に花嫁探しの欧州旅行や、あるいは北朝鮮当局に申し入れをしてお見合いをし、それぞれ婚姻している。しかも、その頃の回想も各人がしている訳ですが、思いの外、無邪気なのだ。ねるとん紅鯨団ほどの軽薄さはないにせよ、大胆にも「ナンパ」をして花嫁を探した者もある。必ずしも花嫁探した事を以って無邪気と言うのも変ですが、意外といえば意外と感じますよね。何しろ、ハイジャック事件を起こして自ら北朝鮮へ亡命した人たちなのだから、より極左思想なのだろうと思う訳で。(「ハイジャック犯」である身の上を隠してナンパしたところ、その相手も主体思想に傾倒している女性であったので…という具合。黒田佐喜子、森順子らは、よど号ハイジャック犯の妻となった主体思想に傾倒していた女性であった事になる。)

これに対して、日本赤軍では重信房子には陰鬱は余り感じないが、総じて陰鬱さが読み取れる。死が隣り合わせであったが故の何かなのか、連合赤軍のリンチ事件を知って泣き崩れたうんぬんや、まるで叱られた子供が押し入れに閉じこもってしまうように部屋にこもって出て来なくなってしまう等の仲間の裏切りや死についての「重さ」が読み取れたが、それが「よど号グループ」にはない。おそらく、楽観的にして純真なタイプか。そうとしか思えないという感慨がある。

そして2つ目、この「よど号グループ」は本当に北朝鮮による拉致事件の手先として行動していたのかという問題がある。スパイであればスパイならではの、何かしら強固な気骨の強さのようなものがあって良さそうなのに、それが感じられないのだ。どこか、この「よど号ハイジャック犯」の場合は学生運動をしていた若者が、そのまま、加齢したかのような、その純真さというか無邪気さがある。こういう人物に「工作員」としての資質があるのだろうか。

少し、込み入った話になりますが、「よど号グループ」が北朝鮮による日本人拉致事件に関与していたというストーリーが定説になっており、それは「八尾恵」(やお・めぐみ)の証言によって、成り立っている。複雑なので私も完全に忘れていましたが、つまり、有本恵子さん、石岡亨さん、松木薫さんの日本人拉致事件があり、その手引きをしたのは八尾恵の証言によって成立したという。八尾証言では、有本さんの手引きをしたのが魚本公博(旧姓安部)が、石岡さんと松木さんの拉致の手引きをしたのが森順子・黒田佐喜子という事になっている。罪名は「結婚目的誘拐罪」で国際指名手配中であるというが、このストーリーを当のよど号グループは完全否定しており、そればかりか現在も裁判で争っているのだ。

「八尾恵」という名前は記憶があるが、どういう訳か私には、何をどうした人物だったのか、さっぱり記憶がない。しかし、前掲著に拠れば、この八尾恵なる人物は、北朝鮮当局が「お見合いしてみてはどうか?」と、よど号グループに取り次がれ、16歳でよど号ハイジャック事件に参加していた柴田泰弘(故人)の妻になった人物である事が分かる。北朝鮮当局が「よど号グループ」の結婚願望を知ってお見合い話を持ってきた例は2件があり、2件とも成婚に到ったが、その内の1件が「八尾恵」であった。この北朝鮮からのお見合いで結婚したよど号ハイジャック犯は岡本武と柴田泰弘であった。(岡本武はFKさんと結婚。また岡本武は岡本公三の実弟である。)

更に、八尾恵(敬称略)の場合は、新左翼ジャーナリストの高沢皓治と当時・内縁関係にあったとされ、且つ、よど号グループが日本人拉致疑惑に関与したと証言しているのは、この八尾恵、高沢皓治の両名に拠る。確かに、色々と不可解さを感じる事実関係によって、日本人拉致疑惑へのよど号グループの関与というシナリオが定説化して現在に到っている。

「よど号グループ」は、「八尾恵が変節した」という見立てをし、その見解を記している。背後にはアメリカによる北朝鮮への「テロ国家指定」があり、その意向を受けた日本の警察当局が八尾恵に対して厳しい尋問をするなどし、それに八尾恵が猴遒舛伸瓩箸靴討い襦つまり、警察によって懐柔された八尾恵がアメリカの意向に沿って、北朝鮮及びハイジャック犯を悪者にする為に嘘の証言をしたというのが、その論旨である。



しかし、読後、私が考えたのは、そのシナリオではありませんでした。数年前から『FBI秘録』やら『イギリス秘密警察VSレーニン』等の諜報ものの本を読んできましたが、先ず、最初に思いついてしまったのは狷鷭泥好僖き瓩砲弔い討任靴拭

諜報機関や秘密警察といった類いの怖さというのは、アメリカの例がベストだと思いますが、エドガー・フーバー伝説などでも顕著であると思いますが、証拠を捏造できてしまう事にある。FBIやCIAといった情報機関の場合、ひょっとしたら現役の大統領さえもハメて、失脚させてしまう事ができる可能性がある訳ですね。なにしろ、証拠を捏造できる情報機関なのだ。本気で動かれてしまったたら、白いものも黒に出来てしまう可能性がある。事実を認定にするにあたっては物証が重視されますが極論すれば物証のデッチアゲも可能な世界なのだ。

では、実際にスパイ活動というのは、どのように行われるものなのかというアプローチがあると思う。先ず、映画として「裏切りのサーカス」というのがありましたが、実は生々しいスパイ活動とは二重スパイなんですね。日本でも日本共産党の歴史をやってゆくと、スパイの話が出てきますが、この諜報戦というのは、その大会に参加している出席者の半分がスパイであったり、支部長そのものがスパイであったりするという世界だったりする。近代に於けるスパイの登場と同時に、二重スパイは誕生している。実は最も確実なのが「二重スパイ」であり、実際のところ「あ。こいつ、敵のスパイじゃないか」と気付いても、その上で、「まぁ、それでもあいつは敵の情報を持ってくるから利用してやれ」とか「ガセネタを掴ませてやれ」といった具合に利用する、非常にタチの悪い世界で、しかも「裏切りのサーカス」は実話を元にした映画ですが、A国の諜報機関のボスが、実はB国のスパイであるという事さえ起こる、とんでもない世界らしい。(二重スパイはA国からも報酬を受けてB国からも報酬を受けるが、スパイと呼ばれる人たちは敵地に潜伏している人間であるから、必然的に、この二重スパイが実際に多いらしく、近代スパイの発祥と同時に二重スパイは登場している。)

本格的な諜報機関や秘密警察が介入してしまっている事件では、真相が明らかにならないなって思う事が多々ある。アメリカなどは機密情報であっても開示が可能で、且つ、特定の年数が過ぎたら開示するという運営をしていますが、そんなもん、守られているかどうかだって怪しい訳です。先ほど、BSテレ朝で「激論クロスファイア」で、例の「桜を見る会」についても取り上げていましたが、廃棄したという前提で語るのか、実は書類に記入していなかったようだから実は、まだどこかに文書を隠しているのではないかと疑う必要性とがある。ホントにひどい話だと思うんですけどねぇ。

いつぞや廃棄した筈の文書が出てきた事、それも6種類ぐらいの文書が存在し、改竄されて出てきた事がありましたよね。ミステリーみたいなもんだ。しかも「廃棄した」という発言は国会で為されていた。あの彼は五千万円台後半の退職金を手にして無事に官僚人生を終えたと週刊新潮が報じていましたが、案外、世の中を欺く事なんて、ちょろいって思っている人は多いのかも知れませんやね。

なので、思うに、その証言が嘘だというのであれば「仲間が変節した」のではなく、「仲間のつもりであったが実は最初から二重、三重のスパイであったのでは?」なんてことも考えながら読み終えました。

そもそも北朝鮮当局がお見合い相手として現れた女性であり、且つ、「八尾恵」さんが起こした訴訟などは、前掲著『拉致疑惑と帰国』で赤木志郎の項で指摘してある通り、訴訟を起こすにしても方向性そのものに矛盾がある。訴訟できないのに訴訟騒動を起こしている前段など、不自然な経緯がある。そのことも、つまり、最初から二重スパイとして存在していたと考えた方が、実は、しっくりするような気もしましたかね…。アメリカの陰謀と言い出してしまうのは悪手ではないのかな、と。スパイこそ、簡単に寝返る訳だろうからね。

「純真と感じた」と私は評していながら、どのように、それを感じているのかというと、懐疑的な態度ではないこと、皮肉屋ではないこと、現実の把握に諦念がないこと等から、純真と感じました。このケースで云えば、主体思想を巡る態度が純真であり、それだけではなくマルクス・レーニン主義に対しても純真に向き合っており、主体思想やML主義に対しての批判的な態度というのを取らないのだなぁ…と。北朝鮮当局が自分たちを欺く可能性があるという事にも言及していない。恐怖で批判できないという感じではなく、おそらく、本心から疑っていないように思え、それは「よど号ハイジャック犯」の境遇によるもののようにも感じました。北朝鮮当局によって、よど号ハイジャック犯は親切に飼い殺しにされた――という印象がある。なので、その手応えからも、田宮高麿が拉致や誘拐を命令し、それに「よど号グループ」の一味が工作員として活動したというあたり、これも疑わしいような気がする。利用された可能性はあるが、主体的にスパイ任務をこなせるような集団ではないんじゃないのかな、と。

主体思想とは、どうも彼等の説明からすると、「ありとあらゆる世界の主体者は人間である」が中核であるという。辞典などでは独裁体制の金王朝、つまり、金日成個人や金正日個人への崇拝と解説されているが、仮に奥義、核になっているものが「ありとあらゆる世界の主体者は人間である」が主体思想なのであれば、或る時期までの科学主義にも似ているような気もする。世界の主体者は神でも自然でもなく人間であるという考え方だから、「人間が世界の主体なのだから、人間による環境破壊も人間による核開発、核戦争も勿論、許される」と考える思考回路になっていると思う。科学万能主義に対しても言えることなのですが「神をも畏れぬ何か」の思想体系だなって感じましたかね。


1980年9月22日、イラン・イラク戦争が勃発する。

1980年6月頃からシャット・ル・アラブ川の国境地帯に石油利権が絡み、その領有を巡って、イランとイラクとの間で紛争が起こっていたが、この9月22日、サダム・フサイン政権のイラク空軍を使用した本格的な攻撃を仕掛けてイランとイラクとの全面戦争が勃発した。また、革命後のホメイニ体制のイランは各アラブ諸国に向けて、シーア派の決起を呼び掛けていたが、国民の過半数がシーア派であったイラクのサダム・フセイン政権にとっては非常に挑発に感じられたものという。

戦況は膠着したが、このイラン・イラク戦争ではソビエトがイラクの後ろ盾として有り、且つ、イランはパーレビー体制を引っくり返した為にアメリカの後ろ盾を失っている状態、且つ、アメリカ大使館人質事件中であった事からイランは国際的に孤立状態になっていた。イスラム教という意味でも分裂し、アラブ諸国もイラン陣営とイラク陣営とで分裂した。

ホメイニ体制のイラン支持には、シリアとリビア。

サダム・フセイン体制のイラク支持としてヨルダン、サウジアラビア。

そしてイラクに対しては、クルド人勢力が抗争中であったので間接的にクルド人武装勢力はイラクと敵対的な立場を採った。サダム・フセイン体制のイラクはクルド人の反抗に対して化学兵器の使用に踏み切るなどしていた。(サダム・フセインはイスラム宗派としてはスンナ派であり、政党としてはバース党であった。)

このイラン・イラク戦争は、1988年8月、国連安保理の調停まで継続した。また、双方がミサイルを撃ち合う人類史上初のミサイル戦争となった。死傷者は100万人とも150万人ともされる。

イラン、イラクは敵国の石油タンカーを攻撃するなどした為、世界的に石油価格が高騰、1982年頃を、第二次オイルショックと呼ぶ。1987年にはイラン軍がバスラ攻略で有利な局面に立つ中、国連安保理が即時停戦を採択して調停、劣勢のイラクは承諾したが攻勢であったイランは国連決議案(598号)を拒否し、サダム・フセインの処分を求めた。1987年夏以降になると、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエトがペルシャ湾内に展開した。(中立的であるが、イラク陣営へ肩入れした形である。)

1988年8月、イラクが攻勢に転じる。イラクはイランの都市や石油施設へのミサイル攻撃を強化し、占領されていた領地も回復した。劣勢になったイランは国連決議598号を受諾した。

1981年10月1日、PLOのアラファト議長が来日を果たす。

1981年10月6日、エジプトのサダト大統領がイスラム・ジハード団に爆殺される。

この頃までにエジプトのアラブ離脱、イラン革命、イラン−イラク戦争によってパレスチナ情勢も目まぐるしく変わり、反イスラエル勢力は、シリア、リビア、アルジェリア、南イエメン、PLOという陣容に変わっていた。

1982年6月4日、在ロンドンのイスラエル大使館が襲撃された事件を契機にして、イスラエル軍がレバノンへ侵攻する。このイスラエル軍はレバノンの奥深くまで進攻し、首都ベイルートをも包囲する。(注:「レバノン内戦」及び「イラン−イラク戦争」は終結しておらず、継続中。)イスラエル軍は、レバノン国内のキリスト教右派勢力と1976年頃から同盟関係にあり、一気に攻め上がった。

この頃までにPFLPや日本赤軍といったパレスチナ武装勢力の遊撃部隊は「ハイジャック闘争」を終結させた。PLOのアラファト議長の国連を通して国際社会を味方につける路線が一定程度、浸透していた。

アメリカ大統領はロナルド・レーガンが就任、アメリカは大胆な路線変革を行なった。レーガン政権の中東和平プランは、。丕味呂魯謄蹈螢好箸覆里脳鞠Г任ない、▲僖譽好船平佑魯ザ地区西岸で一定の自治権を認めるが国家建設は認めない、であった。パレスチナ解放勢力は猛反発。

イスラエル軍によるベイルート包囲は、1983年にレバノンの山岳地帯の左派勢力、バース党、シーア派、アラブ諸勢力など16勢力が結集し、レバノン救国戦線を展開するなどしてパレスチナ解放勢力は膨れ上がった。

1982年8月、PLO本部がベイルートからチュニスへ移転する。

1982年9月14日、次期レバノン大統領候補であったバシール・ジュマイレルを含む民兵組織レバニーズ・フォーセスの関係者ら約50名が爆殺される。

1982年9月16日から18日にかけて、イスラエル占領下のベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでパレスチナ人に対しての数千人規模が虐殺されたという大量虐殺事件が発生した。虐殺を行なったのはレバニーズ・フォーセスという民兵組織であったが、虐殺にはイスラエル軍の関与が疑われた。イスラエル軍の照明弾が打ち上げられ、その照明に照らされる中、夜通しレバニーズ・フォーセスが虐殺を行なったものという。ジュマイレル爆殺の報復行為であったと思われるが、泥沼化する。

1982年11月、シーア派の民兵組織であったアマル(希望の意)から、ヒズボラが分派して独立勢力となる。ヒズボラとは現地では「ヒッズブラー」と発音し、その意味は「神の党」であるという。

1983年4月18日、在ベイルートの米大使館を襲撃が行われ、7人が死亡し、120名が負傷する。

1983年10月、ベイルートの米海兵隊本部と仏軍施設で2台のトラックによる自爆テロ事件が発生し、241名が死亡する。多くの被害者はフランス兵であった。

この1983年の2つのテロ事件は特定の組織が行なったのか定かではないが在レバノンの武装勢力と思われ、多国籍軍として西ベイルートに展開していたアメリカ軍とフランス軍は撤退を余儀なくされる。

ここでレーガン政権は中東政策を刷新する。レバノン武装勢力に支援をしていたイランを打倒すべく、イラン−イラク戦争の渦中であった事からレーガン米政権は、1983年頃からイラクのサダム・フセイン政権への支援を開始し、イラク包囲網を形成する。(ラムズフェルドがイラク訪問を果たし、サダム・フセインと会談した。)

1984年1月、レーガン米政権はイランを「テロ支援国家」と非難する。

1984年2月、ベイルート包囲は解かれる。

1984年3月、ベイルートでCIA支局長が誘拐され、殺害される。

1985年5月、アメリカ軍がリビア(カダフィ政権)を空爆する。

1987年12月8日、ガザ地区でイスラエル軍のタンクローリーが衝突、パレスチナ人4名が死亡する事故が発生。事故の処理が不公平だとして抗議が起こっていたところへイスラエル軍が発砲、その発砲で少女が死亡した事から反イスラエルの気運が一斉に広がり、インティファーダ(民族蜂起)となった。インティファーダはUNLPOUT(被占領地人民蜂起民族東一指導部)という統一戦線からなり、被占領地の勢力であったPNF(パレスチナ民族戦線)にファハタ、PFLP、パレスチナ共産党などが加わったものであった。

1988年2月、UNLPOUTからアハメド・ヤシン師によって「ハマス」(イスラム抵抗運動)が結成される。

1988年4月、PLO副議長のアブ・ジハードがチュニスでイスラエルに暗殺される。

1988年8月20日、イラン−イラク戦争がイランのホメイニ師が国連安全保障理事会の停戦決議を受諾し、ようやくイラン−イラク戦争が終結する。

レーガン政権は、このイラン−イラク戦争中にイランと対峙していたが秘密裡にイランに禁輸武器を販売、その武器売却代金の一部をニカラグアの反政府組織であるコントラ(コントラ・レボルシオナリオ、反革命分子の意)に流していた「イラン=コントラ・スキャンダル事件」が後にレバノンの新聞に報じられ、大スキャンダルとなった。最終的にホワイトハウスは事実を認めた。

1974年12月、エジプト、シリア、レバノン、PLOはイスラエルが第5次中東戦争の準備をしていると非難する。アメリカのキッシンジャーが中東和平に奔走する。(2020年の年頭の状況と似ている気もしますが、ニクソンがウォーターゲート事件によってアメリカの政情不安も大混乱。また、このキッシンジャーは確かユダヤ系と『もう一つのアメリカ史』で指摘されていたのだったかな。)

1975年1月、中東諸国が外交カードとする石油輸出制限に、キッシンジャーは武力行使をチラつかせて牽制、それに対してエジプトのナセルの後継となったサダト大統領はアメリカ軍が介入すれば油田を爆破すると挑発。新たに米国大統領に就任したフォード大統領がキッシンジャー発言を支持する。

この1975年に中東情勢に大きな変化が起こる。3月にアラブ側に立っていたサウジアラビアのファイサル王が甥っ子に殺害され、サウジアラビアの後ろ盾にアメリカが介入する余地が出来上がる。サウジアラビアへの介入に成功したアメリカは、エジプトのサダト政権をアメリカ庇護の路線へ転向させる事に成功する。エジプトはナセル政権からサダト政権に既に変わっており、サダト政権も当初はアラブ側でソビエトの庇護下にあったが、サウジアラビアがアメリカ寄りになった事で、エジプトもアメリカ寄りに引っくり返った。

武装闘争路線のPFLPは、この辺りからPLOから離脱する。PLOのアラファト議長はアラブ諸勢力から批判を浴びながらも穏健路線に歩み寄って、国際社会に承認される路線を選択し、国連で国家と対等に扱われるレベルでPLO(パレスチナ解放機構)を承認させる政治的な動きに向かう。

1975年4月、レバノン内戦。ここも非常に複雑です。レバノンが旧フランス委任領であったが、独立する際に「レバノン国民協約」という法律を1943年に制定しており、このレバノン国民協約によって複雑なレバノンの宗教的諸勢力にポストの配分を定めていた。人口調査に基づいて、大統領、首相、国会議長といったポストは、特定の宗教勢力が輩出できるものと定めていた。大統領はマロン派キリスト教徒に限定され、首相はスンニー派イスラム教徒に限定され、国会議長はシーア派イスラム教徒に限定されていた。どうやっても大統領はキリスト教徒しか就任できぬような制度で、単純な人口配分からするとイスラム教徒の方が多いという、特殊な事情を持っていた。

必然的にイスラム教徒はレバノン政府に対して不満を高めていくことになった。

それに加えて1970年のヨルダン内戦の問題が絡んでいる。ヨルダン国軍がパレスチナのゲリラ勢力に対して大弾圧を行なった為、ヨルダンの領地内にいたパレスチナ難民とゲリラ勢力とがレバノンへと大量に移動した。(日本赤軍の世界各地の赤軍系の過激派、或いは義勇兵になろうとする人々がレバノンの首都のベイルートを目指していたのも、ヨルダン内戦後のパレスチナ情勢と実は密接に関係している。)

レバノンではキリスト教勢力と、イスラム教勢力との数が逆転していた上に、パレスチナ難民とパレスチナゲリラ勢力が流入し、とうとうキリスト教右派とイスラム教徒左派の対立が激化。そこにパレスチナゲリラがイスラム左派勢力に加勢し、キリスト教右派にに対してイスラム左派&パレスチナゲリラ連合軍という対立構図となり、狷眄鎰瓩箸呂いい覆ら、かなり大規模な内戦に発展してゆく。

「キリスト教右派をやっつけろ!」とイスラム武装勢力が入り、世界同時革命を志向していた赤軍思想ゲリラは「反帝国主義・反シオニズム」を掲げて参戦、結果として義勇兵やら革命兵士(コマンド)が続々と参加してしまうバトルロイヤル的な状況へ。

レバノンに於ける内戦は独立後も小規模な衝突が散発的に発生していたが、本格的な内戦になったのは、この1974年4月を特に「レバノン内戦」と呼ぶ。このレバノン内戦は、殆んど収拾不可能、実相としては無政府状態になったとされる。

1975年8月4日、日本赤軍がクアラルンプール事件を起こす。クアラルンプールの保険会社のビル内に入っていたアメリカ大使館とスウェーデン大使館を武装した実行部隊が占拠。人質の解放の交換条件として同志の釈放を迫った。日本政府は超法規的措置として拘置していた政治犯7名の釈放、解放に応じた。

1975年11月10日、国連総会でジュネーブ和平会議にPLOの招請決議が行われ、賛成101票、反対8票、棄権25票で可決した。因みに日本は棄権した。更に、この日の夜、「シオニズムは人種主義および人種差別主義の一形態である」とするシオニズム非難決議も、賛成72票、反対35票、棄権32票で可決した。こちらの決議も日本は棄権した。これが何を意味しているのかというと、実は、この頃まではパレスチナ問題及び中東情勢に対して、国連総会は適度に公正に取り扱っていた節が窺える。

この時代、まだ国際連盟は、適度に機能しており、西側と呼ばれる自由主義陣営と東側と呼ばれた共産主義陣営、それ以外に第三者的な非同盟諸国な一票があり、実はPLOやヤセル・アラファトに対しての共感は少なくなかった。強引にイスラエルをパレスチナに建国させてしまったのは当時の強国による都合で「こうなってしまった」というのが実相なのでしょうからね。必要以上に空気を読んで、自国の属する陣営に固執し、利益最重視で国際情勢が語られるようになった為、客観的な国際情勢が語られなくなった現在とは、少し事情が違っていたようにも考えられる。中東、パレスチナ地方の大混乱を考慮すれば、PLOに期待を託すしかない状況であったようにも思える。

1976年6月、大混乱となっているレバノン内戦にシリア軍が介入する。

1976年10月、アラブ首脳会議による調停によってレバノン内戦が停戦となる。被災者は150万人にも及んだとされる。

1977年2月、PLO東京事務所が開設する。

1977年9月、日本赤軍がダッカ事件を起こす。超法規的措置によって6名が解放される。これも現在、検証し直すと当時の国際情勢と関係しており、バングラディシュは政情不安定で日本赤軍が同志奪還に成功し、ダッカ空港を飛び去る際にはバングラディシュでクーデターが発生。まだ、バングラディシュの空港関係者の中にはパレスチナ解放闘争をしている日本赤軍に対して、或る種のシンパシーを持っていたらしい事も判明している。

1977年11月、エジプトのサダト大統領がイスラエルへ訪問し、イスラエル国会で「イスラエルを国家として承認する事を声明。これによって「一つのアラブ」という理念によって形成されていたナセル主義が崩壊、エジプトが離反してアラブ諸国は分裂する。

1978年3月、レバノン内戦に介入していたイスラエル軍がレバノン南部を占領する。これはエジプトとイスラエルとの間で和平が成立した事で可能となった。国連はイスラエルのレバノン南部占領を非難し、レバノン南部にUNIFIL(国連レバノン監視軍)が平和維持軍として駐留するという措置が採られた。

最早、主体としてどの勢力とどの勢力の対立問題なのか分からなくなってきますが、原則的にはイスラエルとレバノン内のキリスト教右派勢力とが一つ。他方で平和維持軍としてレバノン入りしたシリア軍は、イスラエルのレバノン南部占領によって民族主義が盛り上がった事を受けて、パレスチナ勢力、イスラム勢力に加勢するという流れが出来上がる。

1978年9月17日、エジプト(サダト大統領)とイスラエル(ベギン首相)との間で、米カーター大統領の調停により、米メリーランド州で和平の合意が成立する。キャンプ・デービッド合意。エジプトはイスラエルに占領されていたシナイ半島の全面的返還を勝ち取ったが、パレスチナ人の民族自決権の問題やレバノン南部の占領地からの撤退は棚上げとなった。(イスラエル占領下のパレスチナ人に対して一定の範囲内の自治は認めらた。)このキャンプ・デービッド合意によって、ベギンとサダトはノーベル平和賞を受賞したが、アラブ諸国は、合意にも反対していた。

1979年1月、イラン革命が起こる。

ペルシャ人の国であるイランは元よりアラブ人とは異なるアイデンティティーを有しており、実は一連のイスラエル−パレスチナ問題に於けるイランの存在は、アメリカの中東戦略上では同盟国、つまり、アメリカ寄りで近代を迎えた為、この頃まで王制国家(パーレビ―朝)であった。土地改革、婦人参政権、識字教育などを推進していたが、宗教指導者や地主階級が反発を強めていたところ、経済成長政策にも失敗。インフレが起こり、農業が停滞し、都市ではスラム化が発生、また経済格差も膨らみ、1978年1月以降、反王デモや小規模なテロ事件が全土で発生するような状態へ。これに対してパーレビ―国王は1978年11月に軍人内閣を発足させ、民衆弾圧を教化した。実は、王制時代のイランにはイラン秘密警察があり、拷問によって目玉をくりぬくなどの暗部もあった。パーレビ―政権はアメリカの地政学的な戦略上、重要な位置を占めていたが、反政府運動は熾烈なものとなり、パリ亡命中のホメイニ師の指導の下、王制打倒が叫ばれた。この1979年1月16日、パーレビ―国王(ムハマンド・レザー・シャー)が国外へ脱出。国王はエジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマと点々として再びエジプトへ入りエジプトへ亡命してエジプトで生涯を閉じた。革命政権が誕生したものの、革命に尽力した勢力は雑多であり、イスラム勢力の他にもマルクス主義の勢力、民族主義的な勢力、バザール商人など様々で、革命後もイランは勢力間の主導権争いが続いたが、最終的にはイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が選挙で圧勝(1980年5月)し、イスラム共和国憲法上では憲法の上に国家最高指導者(ホメイニ師、ハメネイ師)を置く統治体制となった。この革命後のイランは正式名称もイラン=イスラム共和国であり、そのイスラム国家体制は全世界のイスラム教徒に大きな影響を持つようになった。

1979年9月、エジプトとイスラエル間で和平条約が調印される。アラブ諸国はイスラエルと国交を樹立したエジプトに対して裏切者として断罪、アラブ諸国はエジプトと国交断絶を宣言するに到った。しかし、この約2年後にサダト大統領はエジプト国内のイスラム・ジハード団を名乗る勢力によって暗殺(1981年10月)された。また、アラブ各地ではエジプトに対して裏切りを断罪する為、エジプト大使館に対しての焼き討ちや襲撃も起こったという。

1979年11月4日、在テヘラン・アメリカ大使館員等人質事件が発生。

この在テヘラン米国大使館占拠事件は、パーレビ―元国王がアメリカに入国した事が誘発した。アメリカ入りした元国王の身柄引き渡しをイラン政府が要求するもアメリカ政府は拒否していた事が端緒であった。イランのデモ集団がアメリカ大使館を占拠し、当初は200名以上を人質に、最終的には職員ら52名を人質とした。占拠グループは人質解放を交換条件にして、パーレビ―元国王を引き渡せというものであったが、アメリカは要求を拒否。逆に制裁としてイランからの石油輸入を停止するなどして制裁した。実は、この頃、アメリカはカーター政権であったが非常にパーレビ―国王と親密にしており、ニューヨークタイムズ紙は「現在の世界で最も親密な独裁者と専制君主」という皮肉を書かれていた。

1980年4月にカーター大統領の指示によって人質救出作戦が強行されたがヘリコプターが故障する事故があり、逆に米兵8名が死亡、人質救出作戦は失敗した。この大使館員人質事件は実に444日にも及ぶ長丁場となり、ジミー・カーターは、この失敗で政治生命を断たれた。

1894年、ドレフェス事件が発生する。(フランス系ユダヤ人のドレフェス大尉にスパイ容疑がかかったが後に冤罪と判明した事件。フランスは軍法会議でドレフェスの位階を剥奪し、サーベルを折るという儀式を行なったが、その際、群衆らからは「ユダヤをやっつけろ!」等の罵声が上がった。潜在的なユダヤ人への偏見が自由主義の進んでいたフランスでも表出した事件。)

1896年、テオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を著わし、ユダヤ人の国家の必要性を説いたシオニズムが登場する。

1904年、シオニズム組織を介してのパレスチナへのユダヤ移民が始まる。

1914年、第一次大戦が始まる。

1915年、アメリカでKKK団の排斥運動が南部で発生し、やがて中西部、東部へと拡散した。攻撃対象は黒人でリンチ殺人などが横行した。この排斥運動は次第にユダヤ人、その他のアジア人を含む移民全般への排斥運動となった。

1915年7月〜1916年1月にかけて、イギリスのカイロ駐在高等弁務官マクマホンが、アラブ指導者フサインとの間の往復書簡の中で秘密協定「フサイン=マクマホン協定」を結ぶ。このフサイン=マクマホン協定ではイギリス政府はパレスチナにアラブ人国家の建設を秘密裡に約束していた。フサインがオスマン帝国(トルコ帝国)に反乱をする事が、この秘密協定の交換条件であり、応じた場合は東アラブ地方とアラビア半島とに独立したアラブ王国の建国を約束していた。

1916年11月、第一次大戦後のオスマン帝国の分割案を、戦勝国となるイギリスとフランスとロシア(帝政ロシア)とが話し合い、秘密裡に「サイクス=ピコ協定」が決定する。この秘密協定はイギリスとフランスとの間で交わされていた秘密協定であり、パリ講和会議で俎上に上がったが、ロシア革命を経たソビエト政府によってサイクス=ピコ協定の存在が暴露された。中東地域を英仏二国で分割統治する秘密協定で、フランスがイラク北部、レバノン、シリアを、そしてイギリスがイラク中部以南とヨルダン、パレスチナ南部を割譲し、エルサレムについては国際管理地域とするという案であった。

(この「サイクス=ピコ協定」と「フサイン=マクマホン協定」とは明らかに矛盾し、英仏列強による幻の中東分割計画であり、以降、アラブ諸民族の反帝国主義感情に火がついた。シャリーフ・フサインをヘンリー・マクマホンが接近していった手法は美化されて、映画「アラビアのローレンス」のモチーフになっている。「ローレンス」はアラブ人の為に戦っているのではなく、実はスパイとして活動していた。)

1917年10月4日、イギリスのロイド・ジョージ内閣のバルフォア外相がユダヤ人国家建設を決定づけた宣言、「バルフォア宣言」が行われた。ユダヤ人による支持と、ユダヤ系財閥からの財政支援を欲したイギリス政府が、同じシオニズム活動家からドイツ政府にも似たような打診があったが、ドイツ政府にユダヤ人を奪われてはならずと食いつき、「ユダヤ人によるユダヤ人国家をパレスチナ地方に建設する」旨の宣言をした。バルフォアは、事前に渡米し、ウィルソン大統領にも根回しをしていた。この頃、ウィルソン大統領の政策提言者からシオニストに転向したブランダイス弁護士が存在していた。結果としてアメリカ大統領による「御墨付き」も確保していた。

イギリス政府内には、2つの秘密協定と、バルフォア宣言との3案があったが、最終的にバルフォア宣言が正式な政策として採用となり、アングロサクソン(英米)の後ろ盾の下に、ユダヤ人による国民国家としてイスラエル建国構想が、強引に中東の歴史の中に放り込まれた。

1918年、第一次大戦が終結する。

1920年4月、イタリアのサンレモで開催された国連主催のサンレモ会議(日本も参加)にて「バルフォア宣言」が、ほぼ承認される。大雑把には、シリアをフランス委任統治領となり、イラクとパレスチナ地方についてはイギリスの委任統治領となった。そこにはユダヤ人による国民国家の建設も記されていた為、アラブ諸国は猛反発し、イスラエル建国は構想として残ったまま、しばし先送りとなった。しかし、その裏でイギリス政府はバルフォア宣言を守る為に、ユダヤ人の移民を開始する。

この時点では、現在のヨルダンとパレスチナ地方はイギリス領へ、現在のシリアとレバノンはフランス領へ。

1922年3月、旧オスマン帝国領であったエジプトがイギリスの庇護下で名目的な独立を果たす。(エジプト完全独立は1952年で、これは第二次大戦後にイギリス=エジプト条約をエジプト人自らが破棄して行われた。)

1933年、ドイツにて反ユダヤ主義を掲げたナチス政権が誕生、ユダヤ移民が増加する。パレスチナへ、或いはニューヨークへも。

1939年、第二次大戦が始まる。

1943年、レバノン共和国がフランスから独立する。

1945年、第二次大戦が終わる。

1946年、シリア共和国がフランスから独立する。

1947年4月、イギリスがパレスチナ地方の委任統治を国際連合に委ねる。

1947年11月29日、国連総会にて「パレスチナ分割決議案」(181号)が採択される。実はアラブ諸国は不承認のまま、この採択が為された。

1948年4月9日、ユダヤ人武装勢力がディール・ヤシン村を襲撃、254名が虐殺される。以降、パレスチナ在住のアラブ人が難民化し、これが「パレスチナ難民」と呼ばれる事になる。(ユダヤ難民をパレスチナ地方へ移民が進んだが為、元々のパレスチナ在住のアラブ人が難民化したの意。)

1948年5月14日、イスラエルが建国を宣言する。イスラエルの初代首相にはベン・グリオンが就任する。イスラエルの建国については当時のアメリカとソビエトとが即時に承認した。しかし、この建国宣言と同時に第一次中東戦争が発生する。

1949年5月11日、イスラエルが国際連合に加盟する。

1950年、イスラエルがヨルダン川西岸地区を自国に併合する。

1952年、エジプトが完全独立。エジプト大統領のナセルが自由将校団を率い、クーデターを起こす。このナセル大統領は「一つのアラブ」を唱え、アラブ諸国を糾合し、アラブのリーダー的存在になった。エジプトは名目的には独立していたが、エジプト国内にはイギリス軍が駐留しており、エジプトに於ける反英感情の盛り上がりも後押しした。

1956年7月26日、エジプトのナセル政権がスエズ運河の国有化を宣言する。

1956年10月、パレスチナ地方のカルフ・カセム村で多数の村人が虐殺される事件が発生、第二次中東戦争が始まる。

1957年10月10日、クウェートで、ファハタ(パレスチナ民族解放運動)が結成される。(この「ファハタ」の創設者であるヤセル・アラファトは、後にPLO(パレスチナ解放機構)の議長となり、ノーベル平和賞も授賞した、あのアラファト議長である。ファタハの当初の主張は.ぅ好薀┘襪侶国は無効であり、▲僖譽好船覆牢袷干放されるべきであるとして主張していた。

1961年1月、ファタハが武装闘争を開始する。

1967年6月5日から6日間に渡る第三次中東戦争が勃発する。軍事力に勝るイスラエルは、ヨルダン河西岸、ガザ地区、エジプト領のシナイ半島、シリア領のゴラン高原を占領。パレスチナ難民が大量に出る。

1967年11月、国連安保理が中東に介入、占領地からイスラエル軍を撤退させる。

1967年12月、パレスチナ地方でPFLP(パレスチナ解放人民戦線)が結成される。創設者はジョージ・ハバシュであった。このPFLPのハバシュ議長にしてもアメリカン大学ベイルート校の医学部を卒業しており、医学博士の資格も持っていた人物であるという。このPFLPはファハタらの武装闘争は「手ぬるい」として登場し、後にハイジャック闘争を展開させる。また、この頃、アラブ諸国で反イスラエル熱が盛り上がり、シリアではサイカ(アラビア語で「雷光」の意。)が発足し、イラクではALF(アラブ民族戦線)が発足する。

この頃までに、パレスチナ解放を主張する小規模勢力が乱立しており、既に勢力を束ねるPLO(パレスチナ解放機構)が創設されている。しかし、PFLPは過激な武装闘争路線であった為にPLOに参加せず、独自の武装闘争を展開してゆく。

1968年3月21日、イスラエル軍がヨルダンに侵入し、ファタハの基地に軍事攻撃をする。

1968年7月23日、PFLPがイスラエルのエルアル機をハイジャックする。

1968年12月25日、ギリシャのアテネで、エルアル機がパレスチナ・ゲリラに襲撃される。

1969年2月4日、ヤセル・アラファトがPLO議長に就任する。

1969年8月29日、ライラ・ハリッドらパレスチナ・ゲリラ実行部隊がTWA機をハイジャックする。

1969年9月1日、リビアでカダフィ大佐がクーデターを起こし、王制を廃止する。

1970年9月6日、PFLPが航空機4機を連続ハイジャックする。

1970年9月17日、旧英領で王制維持となったヨルダン軍がPLOへ軍事的圧力を掛けてヨルダン内戦が発生する。この際、将来的に銃を持てないようにする為に「右手狩り」と呼ばれる右手を斬り落とす行為がヨルダン軍によってPLO勢力に対して行われたという。

1970年9月27日、エジプトのナセル政権の仲裁によってヨルダン内戦が終結する。PLO本部はヨルダンからレバノンへと移動する。

1970年9月28日、ヨルダン内戦の調停後、エジプトのナセル大統領が病没する。アラブのリーダーであったナセルは、インドのネルー、ユーゴスラビアのチトーらと「非同盟グループ」を形成し、「非同盟諸国会議」などを具体的に発展させていたが、その一角が崩れた。因みに、この非同盟グループは、アメリカやソビエトといった大国と同盟関係を締結することなく、「平和共存」と「反植民地」をスローガンにしていたという。

1970年11月、シリアのバース党でバース党右派のアサドがバース党左派を追放し、無血クーデターによって政権を掌握する。翌年、アサド大統領が誕生する。宗教的にはアラウィ派である為に、多数派であるスンニ派と対立するシリア政権となる。現在でも、耳にする機会が多い「バース党」の【バース】とは「復興」の意味であるという。

1970年11月28日、ヨルダンのスフィ・タル首相がファハタ系のテロ実行部隊「ブラック・セプテンバー」によってエジプトのカイロで暗殺される。エジプト警察当局は「ブラック・セプテンバー」の実行犯を逮捕したがアラブ民衆が英雄視した為に釈放した。同年9月に発生した「ヨルダン内戦」前後の報復テロ部隊が、この「ブラック・セプテンバー」(黒い九月)の正体であった。

1972年5月30日、イスラエルのテルアビブ空港にて日本人の奥平剛士、安田安之、岡本公三が銃乱射後に手榴弾で自爆する自爆テロを敢行する。奥平、安田は自爆を完遂したが、岡本はイスラエル当局に逮捕された。イスラエルは当事件について、3名の日本人テロリストが乗客に向けて無差別に銃を乱射した後に自爆したと発表し、そのまま報じられた。日本政府はイスラエル政府に特使と賠償金を送り届けるなどの対応した。しかし、奥平の妻であり、後に日本赤軍を創設した重信房子に拠れば事情は全く異なり、3名が銃を乱射したのはイスラエルの警備兵に対してであったとする。また、日本政府が賠償金を支払った事に対して不満を持っていた日本赤軍は、1973年の日航機乗っ取り事件(ドバイ事件)では、その時に日本政府がイスラエル政府に支払った賠償金の10倍の額面を日本政府に要求し、奪取したとしている。銃を乱射した無差別テロ事件だというのはイスラエル当局とイスラエル当局にダマされた日本警察の言い分であり、日本赤軍側は「ドバイ闘争」等と呼んでいる。また、実際にパレスチナ解放運動側からすると、奥平、安田、岡本は英雄視されている。(通説や警察発表などの公的見解と、日本赤軍側の言い分は180度近く反目しているので、各自が吟味を。)

1972年7月8日、PFLPの機関紙「アル・アハリ」の編集長にして小説家であったガッサン・カナファーニがベイルート(レバノンの首都)の自宅前で自動車に仕掛けられた爆弾によって暗殺される。イスラエル秘密警察のモサドによる暗殺と推測される。(日本を脱出した赤軍派の重信房子が最初にレバノンで接触を図ったのがアル・アハリ編集長であった、このガッサン・カナファーニ氏であり、実は邦訳されている小説も存在しているという。)

1972年9月、ミュンヘン五輪開催中、その選手村でイスラエル代表団がファハタ系のテロリスト集団「ブラック・セプテンバー」によって拉致監禁され、最終的にはドイツの警察をも巻き込んで、壮絶な銃撃戦の末にイスラエル五輪代表選手が複数名死亡するという事件が発生する。

このミュンヘン五輪選手村襲撃事件については、アメリカでドキュメント映画が製作されており、内情も明らかになってきている。

事件が起こっているのに五輪開催を辞めぬまま、半日が経過。翌日になって、ようやく五輪競技も中止となる。テレビクルーらは、犯行現場となった選手村からテレビ中継を開始。当惑した西ドイツ当局は強硬突入を狙うも、犯行グループは逐一、突入計画をテレビ中継で視聴しており、選手村での突入計画は中止される。犯行グループは8名、人質は全部で11名。

犯行グループの要求はイスラエル政府と西ドイツ政府とに逮捕されている状態の同志の釈放を要求したものであった。犯行グループが「ブラック・セプテンバー」と名乗っていたのは、ヨルダン内戦の前後の1970年9月を「黒い九月」と呼んでいたからであった。ハイジャック犯として逮捕されたままになっていた女性兵士のライラ・ハリッドらの解放を要求していた。

当惑した西ドイツ政府はイスラエル政府へ事件を伝えたが、イスラエル政府は犯人らの要求をのむ気はなく、逆に特殊部隊の派遣許可を求めてきたという。五輪選手村で惨劇が起こる事を危惧した西ドイツは、時間引き延ばし策を採るが犯行グループは既に、反抗的な態度を採ったイスラエルのレスリング選手などを射殺しており、対応に苦慮する事になる。

最終的にヘリコプター3機によって人質と犯行グループとを空港へ移送し、その空港から飛行機へ乗り換えるタイミング、夜の飛行場で犯人全員を狙撃し、射殺してしまう策を採ったが、犯行グループに気付かれ、派手な銃撃戦となり、強硬策は大失敗となる。人質らは銃弾を浴びせられたり、手榴弾をヘリコプターに投げ入れられ、人質となっていたイスラエル五輪選手団11名が全員が死亡する大惨事となった。

犯行グループの内の5名は射殺となり、犯行グループの3名は生きたまま、ドイツ当局に逮捕された。射殺された5名の遺体は、カダフィ政権下のリビアに移送されたが、5名のテロリストが入った棺桶は実際に群衆らに担ぎ上げられてお祭り騒ぎとなった。英雄として迎えられていた。視点が変わればAからすれば凶悪なテロリストであっても、Bの視点からすれば勇敢な英雄であるという、その話であった。

西ドイツ当局もパレスチナ問題に苦慮し、生存したまま逮捕した3名の処遇にも困り、パレスチナ解放勢力との間で裏取引をし、簡素なハイジャック事件が発生、西ドイツ当局はイスラエルに相談もしないまま、逮捕していた3名をハイジャック犯の要求に答えたという形で解放した。(しかし、内2名はモサドによって暗殺された。)

1973年7月20日、日本赤軍がSOLOとの共同作戦として日航機ハイジャック事件(通称ドバイ事件)を起こす。

1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発、アラブ陣営は親イスラエル諸国に対して石油輸出制限という手法を用いる。俗に言う「オイル・ショック」に発展し、遠く離れた日本でもトイレットペーパーの買い占めなどが起こる。

日本赤軍の元幹部としてパレスチナ解放闘争に参加していた重信房子に拠れば、PFLPは1970年頃には10万人程度の勢力であったという。PLO(パレスチナ解放機構)とPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は基本的に共通しているが顕著な差は、PFLPがアングロサクソンとの密約によってフセイン1世の王制を維持したヨルダン政権に対してのスタンスで、PLOが穏健であったのに対してPFLPは傀儡の王制国家ヨルダンに敵意を燃やしていたという。なので、1970年9月のヨルダン内戦は非常に苛烈な戦いであったのが実相でヨルダン国軍側は「PFLPは皆殺し」という勢いで行われたものだという。この1970年9月の復讐テロ集団は「黒い九月」と名乗り、その後も強烈なテロ事件を起こし、西側諸国陣営を脅かした。

◆日本赤軍とは何だったのか?

赤軍派の登場から連合赤軍、そして日本赤軍の歩みを回想したのですが、これら一連は日本に於けるニューレフト(新左翼)の歩みであるという。「新左翼」といっても1960〜1970年代なのだから、最早、その言葉に新鮮味は全くない訳ですが、これらを事情を現代人が理解できているのかというと、これは大いに問題が残る。また、本当は日本赤軍の登場で明らかになるのですが、実際には日本限定で起こった出来事ではなく、ベトナム戦争の影響、米ソ対立、更にはパレスチナ解放運動(中東問題・アラブ問題)といった国際情勢と流れを同じくして起こっていた事に気付かされる。連合赤軍は少し異質ですが、赤軍派と日本赤軍のストーリーは、実は遊撃ゲリラ闘争を根本に抱えている。政治が闘争であるというのであれば、武力闘争はいけないのか、どのようにして強大な軍事力と警察力を持っている相手に闘争ができるのかという問題に、真正面から対決し、そして、おそらくは失敗したであろう系譜のストーリーになっている。

キューバ革命はゲリラ戦によるものだったし、ベトナム戦争も想像を絶するゲリラ戦が軍事大国アメリカを泥沼に引き込んでしまった何かであった。パレスチナ問題などは、気が付けば確かに日本人一般とすれば疎い問題であるが、確かに「映像の世紀」のようなワールドワイドな視線で戦後史を眺めてみれば、ずっと今日まで禍根を引き摺っている問題である。

大きな流れとしては、全共闘運動や反戦運動の中で、日本共産党とも異なる新左翼思想が台頭し、また、その各セクト間で熾烈なセクト争いの中に、ブント(共産同)の中で関西ブントが強硬な武装闘争理論を説いて「赤軍派」を創設した。こうしたセクト争いでは、往々にして過激な主張をした側が有利になる事は珍しくなく、「過激さ」を競う中で登場した過激派であったと言えるかも知れない。武闘派であれば武闘派であるほど主導権を握り易く、過激思想であれば過激思想であるほど主導権を握り易いという原理がある。何故なら、対峙する相手に対して

「そんな生ぬるい事では駄目なのだっ!」

と圧せるからでしょう。この原理がある限り、セクト争いは過激さを競い合うことになる。この「過激さ」を競う合ってしまう事の法則性に、何か名前が在ればいいのでしょうけど、ちょっと思いつかない。しかし、おそらく、塩見孝也や重信房子は、左翼思想独特の「自己批判」という手法によって、その原理を把握し、自己批判を済ませている。「相手を批判(攻撃)する事で、自分の利、自党の利、自派の利とするメカニズム」に言及している。これなどは、まさしく、現在進行形で日本の国会議員たちが日々、攻撃し合っている現状にも当て嵌まる。与党を攻撃する事でポイントを稼ぐ野党があり、最近ともなると野党を攻撃してポイントを稼ぐ与党も登場している。

正直、塩見や重信の文章というのは、通常の文章と異なり、いわゆるサヨク思想が鏤められている。やたらと【自己批判】という言葉が登場するのだ。これは、一般人であれば【反省】であり、人によっては最初から自省的に行動するが、どうもサヨク思想というのは自己批判に拠って、それが徹底されている。また、宗教観というか神概念らしいものは、やはり、低く、合理的唯物論といった雰囲気は嗅ぎ取れる。まぁ、或る意味では、それが科学的な思考法なのかも知れませんけどね。

そして、やはり、日本赤軍の特徴は、京都パルチザンに始まるゲリラ的な遊撃戦法にあったように思える。その究極的な作戦が、ハイジャックであった。途中からCIAが「大きな軍隊は必要なく、今や、僅か数名のテロリストによって…」というレポートを作成した通り、抗争の熾烈であった南米や中東ではハイジャックという当時にして最先端の闘争技術が登場しており、その波が押し寄せていたと眺める事ができる。

日本初のハイジャック事件が1972年の「よど号事件」で、これは乗っ取り犯が国外へ脱出する為のハイジャックであった。しかし、日本赤軍が行なった「クアラルンプール事件」と「ダッカ事件」は人質をとって要求を出し、仲間の釈放や金品を奪う手法へと進化している。また、その進化も日本赤軍に起源がある訳ではなく、実質的な戦争であろうイスラエル政府と反イスラエル勢力との間の戦闘の中で、その作戦として生み出された戦術であったらしい。

実際問題、虐殺は許されないというが虐殺は止まず、拷問は許されないといっても拷問も止まず、要人暗殺などは半ば肯定されている、それが生々しいパレスチナ闘争の真の姿、これはパレスチナ解放運動に限らず狎鐓讚瓩箸いΔ發里亮汰蠅任靴腓Α殺し合いの場になってしまえば、なんでもアリ状態。また、外交問題も複雑に絡み合う。ホンネとタテマエの二重基準があり、どこかに限界点があり、政府による正式発表や公的見解と真実との間に差異があり、或る種の情報戦が介在している事を浮かび上がらせている。

この一連の中でも何ヵ所かで「殲滅戦」とか「殲滅戦争」という単語が出てきましたが、それらは実は京浜安保共闘の側で出てきている。敵を殲滅するまで戦うという思想が表出している。「人質をとって戦いを有利にするなんていうゲリラ戦は卑怯である。殲滅するか殲滅されかだ」という発想が、武力至上主義の中から登場している。これは言ってしまえば、連合赤軍の国内建軍論は、それで、日本国内に革命兵士の軍隊をつくって警察と真正面から対峙して、正々堂々、殲滅戦を行なう事を方針に据えていた節がある。冷静に考えれば、かなりの狂気なのですが、その連合赤軍で大量リンチ殺害という名の「粛正」が起こったとも言える。

赤軍派は「国内か国外か?」という分岐点で、先ず、田宮高麿ら「よど号グループ」が日本から脱出した。どういう構想であったのかといえば、北朝鮮へ脱出して軍事訓練を受け、北朝鮮やキューバなどからも軍事的援助を受けて、いつか日本で革命を起こしてみせるという考えであった。

「よど号事件」から、さほど時間も置かずに重信房子はレバノンのベイルートへと脱出した。この時点で、重信房子にどれだけのビジョンがあったのかは判然としない。明確に、ベイルートでパレスチナ解放闘争こそが、反帝国主義の根拠地として最も相応しい地だったからという明確な意志があったというよりは、北朝鮮以外のどこかへ脱出しようとしていた中で、偶々、アラブの地、レバノンが候補地として浮上していたのではないか。当事者たる重信房子は、その時点で明確なビジョンと意志があってレバノンへ脱出したと組み立てている気もしますが、そこは後付けの説明も出来てしまう部分でしょうから、そこは微妙といえば微妙かも知れない。どうも奥平剛士らの京都パルチザン勢力こそが明確にパレスチナ解放運動に照準を定め、その地で新左翼思想的な武装闘争を画策しており、その急行列車に重信房子は飛び乗ったという事のような気がする。とはいえ、これによって鮮明になったのは「国内建軍論」対「国外根拠地論」という構図で、以降、パレスチナ解放闘争の義勇兵、義勇軍として参加し、後に日本赤軍が成立している。

この、いつ日本赤軍は成立したのか、どれだけ主体的に作戦に関与していたのかという部分は、裁判でも焦点になっているらしく、検察は「日本赤軍は当初からPFLPと共闘関係にあった」としているが、どうも諸々を考慮すると初期段階ではPFLPに義勇軍として参加し、徐々に日本赤軍が形成されていっている。テルアビブ空港銃乱射事件(リッダ事件・リッダ闘争)は奥平剛士、安田安之、岡本公三が起こした決死隊的性格のあった事件であり、その自爆によって、以降、アラブの地では、その自爆死を讃える現象が起こった。また、この奥平、安田による自爆テロについて立花隆は「世界初の自爆テロであった」という主旨の見解を示しているという。(対して、元日本赤軍のメンバーは「文献上はそうかも知れないが、実際の戦場を想定すると、名もなき兵士による無数の自爆テロというものは、ずっと以前から存在しているのが現実だろう」という見解を示している。)

また、日本赤軍は、そのリッダ闘争(テルアビブ空港事件)の報道は正確ではないと指摘している。事件は、軍事作戦の一環として企画された者であり、奥平、安田、岡本が一般乗客に向けて銃を乱射したのはイスラエル当局の発表を鵜呑みにした何かであり、一般乗客に向けて銃を乱射したものではないと主張している。既に、当時の事件発生当初から一般乗客をも巻き込んで銃の乱射がされたように報じられているが、実際は違うという。日本の警察発表や報道は「親イスラエル反アラブ」を選択し、実際の戦争や政治につきものである情報戦に巻き込まれている(いた)とする。外交的な天秤、その葛藤の中でやむなく親イスラエル、アメリカ追従、西側陣営参加というものであったと思われるが、或いは盲目的な自由主義世界追従によって、そのようなスタンスになった可能性も否定できないのかも知れない。裏返せば、日本赤軍は海外の諸勢力と連携して、その後のハイジャック事件や大使館占拠事件を起こせた、とも言える。協力者の存在なしには成立しない作戦でもあっただろうとも言えてしまう。



◆「重信房子」の印象

最初に重信房子の文章を目にして感じたものは「隙が無いな」という感慨でした。おそらく、裁判を視野に入れているから、どこまでが本当で、どこかに誤魔化しがあるのだろうと思いながら、その言説を眺めることになりました。裁判では日本赤軍の最高幹部、いわばナンバーワンの人物であったとして裁かれているが、『日本赤軍私史』の中では「私は日本赤軍の政治局員であったのは確かだが、ナンバーワンだった訳ではない」という言い回しを見つける事が出来た。おそらく、この辺は怪しいといえば怪しい訳ですが、日本赤軍は連合赤軍とは異なり、少なくとも独裁的リーダーを持って運営されていた組織ではなく、その序列そのものが曖昧であった可能性がある。それ以外の国際情勢の説明などは、隙が無い。

疑えばキリがなく、仮に「重信房子は裁判を睨んで、そのように述懐しているが、その思想的なものは昔から変わっていない」と見る事も出来るかも知れない。つまり、既に獄中にあり、裁判で減刑を求めて戦っているのだから、裁判に都合の悪い話をする訳がない。しかし、思いの外、重信房子の言論は、しっかりしており、ああ、なるほど、「この人は大器の人だったなのだろうな」という感慨がある。昨今も「日本は時代遅れだから優秀な女性政治家が登場しないのだ」という批判が定期的に蒸し返され、その際、日本で政治家として成功した女性政治家として「土井たか子」といった名前が挙げられているが、そこに仮定として「重信房子」を引っ張って来て、並べて比較したら、私は重信房子の方が器量が大きいように思う。

昔から「重信房子」という人物は、右翼と左翼からは意外と批判が出ないという風聞がありましたが、それが分かったような気がする。いやいや、永田洋子が男たちからチヤホヤされているらしい重信房子に敵愾心を持ち、嫉妬していた節が窺がえた事とも関係している。男性からモテる人であったというのも確かに一因であるが、勿論、それだけではない。一定以上、ホンネで言葉を操る事ができている人物のように思える。

重信房子は西暦2000年11月、大阪で逮捕となった。そして2001年に日本赤軍の解散を表明した。一部には裁判を有利に運ぶ為の方便であろうという批判もあるが、その辺りを、次のように語っている。

日本赤軍は2001年に解散を表明しました。犢餾歇腟舛鳩鎧を特性とした日本赤軍の闘いは、20世紀のアラブ人民と社会の歴史に刻みます瓩函F瓜にこの解散は、私の帰国・逮捕によって多くの方々に被害と迷惑をかけてしまったことの謝罪としてもありました。また、日本の社会に即した活動をしえなかった反省から、解散によって再出発をするという念(おも)いを込めたものでした。日本をよりよく変えたい! その念いは、私自身の闘いの反省の上に、今も初心の情熱を重ねています。

そして「負け惜しみですけど」や「思い上がりですけど」と前置きした上で、次のように帰国した理由を説明している。

日本を出発する当時は「平和」は自明のことじゃないかとし、また「民主主義」は権力の秩序のための制度と思っていました。六〇年の安保条約強行採決で、権力自らが民主主義を議会制のルールまで破壊して以降は、新左翼は政治社会を構成する原理としての民主主義はもはや終わったと捉えていました。そして革命を求めていきました。その中で、ブルジョア民主主義の法的秩序の面の「民主主義」を否定していたのですが、海外へ出て、その捉え方も変わりました。ヨーロッパの人々が身分制を打ち破っていった、闘いとる民主主義の側面を強く学びました。ギリシャ語の語源である「人民統治」という考えです。それらは、ヨーロッパの新左翼でも自主管理の闘いなどとして闘われていました。

中東は、世界の革命家たちの交叉点です。革命の過渡期を闘っている人ばかりではなく、社会主義国の人たちもたくさんいました。また私も、ソ連からキューバまで学ぶ機会がありました。そういう人々と会うたびに、日本を、日本人として問われます。「あなたは日本をどんな国にしたいのか?」と。当初は「世界革命論」一辺倒で、一国革命綱領は「日和見主義」のように考えていたので、日本国のあるべきイメージなど存在しないのが赤軍派でしたから、応える内容を持ち合わせていせんでした。


「世界革命論」とは、一国に捉われることなく世界全体を革命する事で、それが強固な信念であったから「日本をどういう国にしたいのか?」がスッポリと抜け落ちていた事を認めている。

「日本をどんな国にしたいのか?」と問われる中で学び、自問し、その中から資本主義であれ社会主義であれ、住んでいる人々の居るところに主権の基礎を置くような社会の在り方こそ問われていると思いました。ソ連のようにはなりたくないし、では、どんな社会? といったら、やっぱり民主主義を「民衆の統治」として考えました。日本の今あるカッコつきの「民主主義」という現実から、民主主義の徹底を通して、その質と量によって自治自決を求めるように闘い、日本を変革したいと。

隙が無いなぁ、と。左翼的無神論の中に、自己批判があるらしいが、自己批判の中、自問自答の中から、そういう政治スタンスに変貌しているらしい。柔軟な思考回路なのでしょう。思えば、理念にしても武装闘争なども、そういう柔軟性が要求されるものであり、非現実的な事をしていても仕方がない。唯銃主義、国内建軍、革命兵士の育成、殲滅戦を原理主義として思考していた連合赤軍の最高幹部とは大きな隔たり、器量の絶望的乖離があるように思う。

観念的な話として面白い事も語っている。赤軍派から日本赤軍へと重信房子は歩み、日本赤軍では実質的に組織の運営を行なっていたと思われる。その組織運営の哲学として「運動的飛翔」という単語を挙げている。出来過ぎの感、カッコ良過ぎるじゃないかと思うので、後付けを疑いたくもなりますが、本人がそう言っているのだから仕方がない。おそらくは重信にとって日本赤軍とは、運動しながら飛翔する何かだったというのだ。何かに繋がれてたり、固着しておらず、運動体であり、それは飛翔すればいい、と。しかし、確かに、そういう体質であった可能性がある。批判を受ければ、その批判に応じ、自らを変革してゆく術を持っていたからこそ、いつの間にやら「オルグの天才」から「自由主義世界の脅威と呼ばれた日本赤軍のリーダー」にまで、自らを飛翔させていたと考える事もできてしまう。スケールの大きい人物である事は否定のしようがないよなって思う。

組み立て直せば、この重信房子はモテた人である。美女であったから男たちが「重信の微笑外交」にコロリとダマされたという次元の「モテた」がある。しかし、この重信のモテ要素は、そこだけではなく、人々を惹き付ける事が出来る人物であったという事のように思う。パレスチナのゲリラ兵と対峙しても、女性であるが故に前面に立つ兵士にならずに済んだし、塹壕堀りのような重労働は回避できたという面、それと、やはり、重信はアラブでもモテモテだったらしい節がある。なので男社会の中で、女である事がプラスに作用した可能性は否定できない。

性別を超克しようとする男女平等論に傾斜することなく、男たちの調整役として機能し、且つ、それら男たちの中から多くの事を学び取って、自分の中に吸収していったというのが「重信房子」という人物が、大きく飛翔した理由ではないだろか。存分に女性という特性を根っこに持ったまま男性と対峙し、そこで上手に立ち振る舞いをしていた人であったように想像できる。日本赤軍兵士からも「重信は大したヤツだ」とか、「重信は女だから、向こうでもモテやがるんだ」といったニュアンスの言葉を見つける事が出来るが、気取り過ぎない、その人格的な魅力のようなものを持っていた証拠なのではないか。

永田洋子は「重信房子は美人だからチヤホヤされている」と嫉妬していた可能性があるように角田隆著『赤い雪』(読売新聞社)は描いていたが、そうであったならば、それは誤解で、その美醜によってチヤホヤされていた、モテていた、その次元のモテ方とは異なる、別の人格的な部分の魅力によって人々からモテていたように思える。実父は血盟団事件に関与していた人物であったが、その父に対しても遠慮なく赤軍派の友人を招き、「世界同時革命」云々とまで、その父親に話していたらしい逸話などから想像すると、誰に対しても屈託なく向き合い、純粋に物事を追求する探究心と冒険心を併せ持っていた人物のように思える。

重信房子に拠れば、最終的に、この日本赤軍は「去る者は追わず、来る者は拒まず」という態度にまでなっていたという。クアラルンプール事件以降、自己批判と相互批判をする「思想闘争」という名称のミーティングを取り入れていた。クアラルンプール事件で新しい仲間を受け入れる事になり、そこで組織を団結させる為に導入したという。これは、ともすれば連合赤軍で起こった総括という名の粛正を起こす場(総括会議)にもなりかねないものであった訳ですが、重信は見事に修正している。団結する事を過大評価し、いつの間にか闘いの方法であった団結を目的化してしまっていた、と。

繰り返し行われる自己批判は形式化し、疑心暗鬼を招く。また、新しいメンバーが旧いメンバーを批判すれば、旧いメンバーが面白い筈もなく組織の結束が揺らいだ、と。家族主義的、非政治的な結束では立ち行かないと考え、思想闘争と名付けた左翼思想らしい総括会議を設置したが、それは完全ではなかった。指導部と実行部隊(コマンド)との間でも亀裂が入った。このテの組織にとって情報は非常に重要で秘密事項が多い。なので指導部のみが保有する事になるので、実行部隊の面々に疑心暗鬼が生じるも必然であった。(それに付随して、指導部の方が「自分の方が偉い」と錯覚する等の組織の原理がある訳ですね。)

ダッカ事件の後、1979年頃から日本赤軍は原点に回帰し「メンバーを信じる」という大胆な方針変換を行なった。秘密保持は鉄則であるが極力、話し合う事で、その団結を重視する方針に変えた。そして「去る者は追わず、来る者は拒まず」といった柔軟な遊撃思想に立ち返った。この問題は連合赤軍問題と密接に関係しており、そこで意見が割れて日本赤軍を脱退したメンバーが出て、その脱退者を放置しておけば日本赤軍の情報を外部で漏洩させる可能性がある。なので脱退者をどうするのかは大問題であった。連合赤軍の場合は印旛沼事件から脱走は許さぬとして殺害してしまっていた訳ですね。しかし、重信は大胆な方針変更をした。坂東国男あたりの助言があったのかも知れませんが、

「推測で批判するはやめよう。私たちは起こった事実でしか判断するのはよそう。それが私たちが試行錯誤の中でつくってきた原則だ」

と結論づけたという。以降、入会脱会については

「もし望むのならどうぞ、もし望まないなら、それも構いません」
(去る者は追わず、来る者は拒まず)

に改めたという。この柔軟性、この修正力というのはホントは凄いリーダーシップだよなって思う。


参考:角間隆著『赤い雪〜総括・連合赤軍事件』(読売新聞社)、『FOR BEGINNERS 全学連』(現代書館)、重信房子著『日本赤軍私史〜パレスチナと共に』(河出書房新社)、小嵐九八郎編『日本赤軍!〜世界を疾走した群像』(図書新聞)、別冊宝島編集部編『証言〜昭和史のミステリー』(宝島SUGOI文庫)、別冊宝島編集部編『日本の右翼と左翼』(宝島SUGOI文庫)ほか。

◆在クアラルンプール米大使館占拠事件(クアラルンプール事件)

1975年8月4日、日本赤軍の和光晴生、奥平純三、山田義昭ら5名がマレーシアのクアラルンプールにある国際保険ビルの9階(10階)のアメリカ大使館領事部とスウェーデン大使館とに武装して押し入り、占拠。ロバート・ステビンズ領事ら50名を人質として、日本政府にとらえられていた7名の釈放を要求した。

西川純(日本赤軍)
戸平和夫(日本赤軍)
坂東国男(赤軍派〜連合赤軍)
坂口弘(京浜安保〜連合赤軍)
松浦順一(赤軍派)
松田久(赤軍派)
佐々木規夫(東アジア反日武装戦線・狼グループ)

この事件は、日本の三木首相(当時)の訪米のタイミングに合わせて実行され、日本赤軍メンバーの奪還と、新たに戦力を補強すべく重信房子がリクルートをかけたものであった。三木武夫首相は、国賓としてワシントン入りし、迎賓館(ブレア・ハウス)で翌日からの準備をしていた。

また、解放要求リストの中に東アジア反日武装戦線の「佐々木規夫」の名前があった事も異例の解放要求であった。

日本政府は、これを「超法規的措置」として要求された7名の釈放を決定した。しかし、上記7名のうち、坂口弘と松浦順一は解放を拒否したので、5名の解放となった。2名からの拒否の理由は、一方が不同意であり、一方が病気の為であったという。

1975年8月6日午後、日本から釈放された5名を乗せて飛び立った特別機がクアラルンプール空港に到着。この受け入れをリビアが表明した為、リビアへと移動して投降した。

ここで解放され日本赤軍に迎えられた人物の中に、連合赤軍大量リンチ殺害事件に関与し、且つ、あさま山荘事件で籠城戦をした坂東国男も含まれているのが分かる。坂東国男は、重信房子に会った際、

坂東「どうしても最初に言わねばならないことがあります。私は同志粛正という重大な誤りを犯したのに、どうして奪還してくれたのでしょう? 私は同志達によって処刑されることも覚悟してきました。人民が直接私たちをさばけない以上、あなたたちで査問委員会を開いて下さい。それなしに話す資格は私にはありません

重信「私たちは査問委員会などやるつもりも資格もないんです。連赤の敗北を日本階級闘争を闘うものの総体としての敗北と受け止め、共に、その敗北の責任を共有し、総括を勝ち取っていくために奪還したのです

日本赤軍は連合赤軍事件への犲己批判瓩鮃圓覆辰討り、坂東国男に限らず、凡そ、このような態度であった。確かに処刑を考えても良さそうなものであったが、どうもそういう思考回路ではないらしい。森恒夫、永田洋子に対しても「さん付け」で語る等の態度で一貫されているが、どうも組織として自己批判などから、そのような対応とする事を決めていたかのように思われる。さすがに、森恒夫に対しては、その拘置所内で自殺をした事、森恒夫は遺書で自殺を以って自己批判しているとしているが、それには納得しておらず、「自己批判すべきだった」や「自己批判せずに死んだ森は、まさしく敗北死をした」という突き放した見解も読み取れる。

重信房子に関して言えば、比較的近かった山田孝や、親友であった遠山美枝子を間接的に殺害された事に複雑な感情があってもおかしくないような気がするが、坂東国男は坂東国男で「処刑される覚悟」で日本赤軍最高幹部となった重信房子に対面した事となり、連合赤軍大量リンチ殺害事件の重みが窺える。

また、この坂東国男はアラブで日本赤軍に参加してから、日本赤軍の連中が明るくやっている事に驚いたという。

この頃、日本赤軍の実行部隊で常にリーダー的な役割をしていた赤軍コマンド・和光晴生が日本赤軍を脱退した。決定的な理由は判然としないが後に和光が語ったところに拠れば、この頃の日本赤軍では自己批判に加えて、北朝鮮から持ち込まれたと思われる相互批判なるものがあり、和光が批判される事が多くなった事、また、重信房子がリッダ事件を日本赤軍の宣伝に利用し過ぎている等の不満があった事が読み取れる。そもそも和光の志向していたものはコマンド(革命戦士)であったと思われ、実際に「PLOの軍隊に参加すべきであった」旨の発言も残している。これが意味するところは日本赤軍の特徴でもあったゲリラ戦法をする遊撃隊という根幹とズレてしまったという事かも知れない。



◆ダッカ日航機ハイジャック事件(ダッカ事件)

1976年9月27日、ヨルダンの首都アンマンで日本赤軍メンバーの奥平純三と日高敏彦の2名がヨルダン政府によって逮捕された。ヨルダン秘密警察に拠って、奥平と日高は別々に尋問と拷問を受けることとなった。この頃にはレバノンが内戦状態となっており、アラブ地域の勢力間でも戦闘が起こっていたので、日本赤軍は「アラブ勢力間の抗争には介入しない」という立場を打ち出していたが、ヨルダン秘密警察は厳しい尋問と拷問を両名に課した。

1976年10月13日、ヨルダン政府は奥平の身柄と日高の遺体を日本に送還した。いわゆる強制送還であったが、日高の方は死亡した形での日本帰国となった。日本の警察は遺体の解剖を拒否した上で、ヨルダン政府の公式発表を踏襲して「トイレで靴下による首吊り自殺をしたもの」と発表した。日高の遺体は火葬されたが、その遺灰の中から拷問に使用されたと思しき、長さ十数センチの金属針が発見されたという。

1977年2月、PLO東京事務所が開設。この東京事務所開設の背後では日本赤軍も動いていたといい、日本大使館の関係者と日本赤軍メンバーは、中東ではバッタリと鉢合わせするような状況であったという。(この頃まで日本の外交政策は、アメリカに引き摺られる事なく、概ねアラブ諸国とも外交ルートを保っていた。自ずと、裏ではアラブ諸国の各種の非公然組織とも接触していたらしい。)

日本赤軍は、日本に強制送還された奥平純三を奪還する必要性が生じ、新たなハイジャック計画が発足。

1977年9月28日、日本赤軍の丸山修、西川純、佐々木規夫ら5名の実行部隊がパリ発東京行き日航機470便を寄航地ムンバイ空港を離陸後、ハイジャック。ハイジャック機は日本赤軍の指示でバングラデシュのダッカ空港へ強制着陸し、ダッカ空港を舞台として、日本政府との交渉が行われる。バングラディシュにはアラブ問題の絡みがあり、またバングラディシュ国内も政情不安の中にあり、実は日本赤軍のハイジャックに理解を示す者が空港関係者の中に居たという。

日本赤軍は9名の解放を要求したが、うち3名は解放を拒否。結果からすると以下6名が、超法規的措置によって釈放されることとなった。

奥平純三(日本赤軍)
城崎勉(赤軍派)
大道寺あや子(東アジア反日武装戦線)
浴田由紀子(東アジア反日武装戦線)
泉水博(強盗殺人犯)
仁平映(殺人犯)

ハイジャックの交渉窓口となったのはバングラディシュ当局であり、そのバングラディシュ当局と日本赤軍の作戦部隊とが実際の交渉をし、日本政府と日本赤軍との間での直接交渉はなかったという。つまり、中間にバングラディシュ当局が入っての交渉であった。イスラム教国であり、パレスチナ問題でもパレスチナ解放を支持する空気があったとされる。

日本当局(警察)はバングラディシュ当局に交渉の引き延ばしと、警察の特殊部隊の入国を執拗に要請していたという。つまり、水面下では、このダッカ事件では特殊部隊による突入を実際に選択肢として用意していた可能性が高い。しかし、それらの要求はバングラディシュ当局によって却下された。

次なる日本当局の策は、ダッカ空港から新たに日航機に乗り込む交代要員、その交代要員のクルーに故意に滑走路上に車輪を落下させ、日航機を飛行できない状況をつくるように提案があった。日本当局側は、その状況にする事で乗客と実行部隊が別の飛行機へ乗り換える必要性をつくりだし、その乗り換えのタイミングを見計らってハイジャック実行部隊へのアクションを考えた。しかし、このダッカ事件では、これが大きな犁忰瓩箸覆辰拭その日本当局の工作を快く思わなかったバングラディシュ人の役人(空港関係者だった?)が、密かに日本赤軍の作戦部隊に

「交代要員として、これから乗り込むクルーには操縦させないように」

という忠告を送っていた。

バングラディシュでは、このダッカ事件で日航機が着陸駐機中に、軍事クーデターが発生。その大混乱の中、日本赤軍の実行部隊は釈放させた6名、それと賠償金として請求した600万ドルを手にしてダッカ空港を飛び立った。

この離陸時、ダッカ空港の管制塔からは、

「我が方でクーデターが起こった。機体に近づく者があったら撃ってもよい。ダンケツ、ダンケツ、早く飛び立て。成功を祈る。グッドラック」

という呼び掛けが日本赤軍の作戦部隊に届いたという。「ダンケツ」とは日本語の【団結】の意であった。

斯くして、ハイジャック機は交代要員のクルーに操縦させることなく、そのままダッカ空港を飛び立って、アルジェリアに着陸し、このダッカ事件は完結となる筈であった。しかし、日本当局は日本の外務省を通して、アルジェリア政府に、作戦部隊の確保と解放された6名の確保と、奪われた600万ドルの奪還を要求した。

するとアルジェリア政府が

「日本政府は国際マナーに反して、我が政府との約束を無視している。我々は日本政府の要請に従って人道的見地から着陸を許可しただけだ」

と、反応。これによってダッカ事件は完全に終結となった。

これには伏線があり、1976年6月、ドイツの過激派とPFLPとが共同して起こしたハイジャック事件では、ハイジャック機はウガンダへ着陸。そのウガンダの空港で、イスラエル奇襲部隊がハイジャック犯へ突入を仕掛けたが失敗、警備にあたっていたウガンダ兵の多数が死傷するなどしていた為、ハイジャック機の着陸を要求した上に、その国の政府に、更に過度な要求を出すハードルは高かったという。

また、このダッカ事件では、日本赤軍の実行部隊は乗客らに用紙を配ってアンケートも採るという一コマがあった。要旨は「ハイジャックをどう思うか?」というものであり、その用紙を回収してみると「日本赤軍の闘い方はアラブでは通用しても日本には通用しない」、「こうした方法は共感を呼ばない」といった意見が多数あったという。

当時、重信房子は、これらの人質をとるという作戦について「大義の中ではやむをえない」と考えていたが、ダッカ事件を成功させた後、「人民性のない闘争は行なわない」(人々の居ない革命に意味はなく、人々の共感を得られぬ作戦は好ましくない、の意)といった方向へ軌道修正してゆく。

また、重信に届いたのかどうか判然としないが赤軍派の最高幹部・塩見孝也も獄中からダッカ事件後に「ハイジャックを辞めよ」と声を上げていたという。作戦からすればダッカ事件は成功したものであったが、人々の共感を得られない闘争に未来はないという軌道修正が沸き起こっていた。

いわゆる日本赤軍によるハイジャックなどの「人質をとる事件」は、このダッカ事件が最後となった。

◆「ブラック・セプテンバー事件」と「ミュンヘン五輪村事件」

1972年9月、ドイツ・ミュンヘン五輪村をPLO(パレスチナ解放機構)に所属する「ファタハ」という組織の軍事部門「ブラック・セプテンバー」が襲撃するという事件が発生。これはイスラエル選手団の11名を人質にし、イスラエルに囚われているパレスチナ人政治犯と、西ドイツ政府に囚われている西独赤軍捕虜の釈放を要求。実行犯グループ5名はイスラエル選手団11名と共に、一先ず航空機でエジプトへと移動するという展開になった。航空機はドイツの軍事空港に着陸し、そこでドイツ特殊部隊が強硬突入作戦を実施し、実行犯5名と人質11名が全員死亡するという事件となった。

このミュンヘン五輪の事件に日本赤軍は直接的に関与はしていないが、PLO傘下に帰属しているパレスチナ解放紛争に加担しているテロリスト集団と認識され、日本赤軍に対して西側陣営の警戒心は高まっていった。この事件、殆んど語られる機会がないものの、要はパレスチナ解放機構下の過激派集団が五輪選手村を襲撃して、そこで政敵であるイスラエル選手団を人質にとり、イスラエル政府と西ドイツ政府とに、ゲリラ兵士の釈放を要求したという視点が、実際には事件の概要である事が分かる。

勿論、いきなり、このイスラエルとパレスチナとの敵対関係、つまり、中東問題が発生した訳ではなかった。この中東問題を説明をするのは誰であっても苦慮するところですが、イスラエルの建国と関係している。アラブ人が住んでいたところへ第二次大戦で戦争難民などが大量に出た事もあり、ユダヤ人がユダヤ人国家を建設し、そのイスラエル建国を「国際社会」が承認した事で、泥沼の攻防が発生したというのが起源である事を確認する必要がある。その前提の中で、水面下ではイスラエル政府とパレスチナ解放機構との軋轢が高まっていたものと思われる。

因みに「ファタハ」の創立者は、あのヤセル・アラファトであり、後にPLO議長となり、米クリントン政権下の2004年に一時的にイスラエルとパレスチナの和解があったが、あのアラファト議長である。

更に遡ると、このファタハの中の軍事部門「ブラックセプテンバー」が結成されたのは、1970年9月のヨルダン内戦への報復であった。PLOは1960年代後半からヨルダンに拠点を置いていたが、ヨルダン国王のフセイン1世がPLOとPFLPに対しての軍事攻撃を仕掛け、PLO側は多数のメンバーが虐殺された。(このヨルダン内戦にして表面的にはPFLPが起こしたハイジャック事件に対しての報復措置で行われた軍事制裁なので、この問題の根っこを語るのは不可能である。)以降、PLOとPFLPは、レバノンのベイルートを拠点にしてパレスチナ解放運動を展開した。このブラックセプテンバー事件の報復の為にPLO傘下にしてアラファトがリーダーだったファタハに創設されたのが、その事件を忘れぬ為の「ブラック・セプテンバー」という軍事部門であった。

もう、色々とヤバい事が分かる。確かに自由主義諸国(西側陣営)は、パレスチナのアラブ人たちに不利な決定をし、それを国際的に承認し、イスラエルを利していた事が、この中東問題の火種なのだ。

個人的には、高校生か大学生の頃に、まだ池上彰さんが「週刊こどもニュース」を担当していた際、初めて、その解説を知って驚いた記憶がある。池上彰さんは凄い、こどもニュースはバカにできないと思ったのもそれでしたが、要は、池上彰さんは、中東問題を説明した後、スタジオの男児に

「二千年前に住んでいたのだから、この場所に国をつくりますよって言われても、そこに住み続けていた人たちは困りますよねぇ」

と解説していたのでした。いや、考えてみればシンプルな話なのですが、その部分、他の報道番組やニュース番組では視た事がなかった。あまり、その深い部分に関しては踏み込まず、両成敗的な中立論としたり、どちからといえばイスラエル寄りの解説を目にする事の方が多かった記憶がある。これは先日、亡くなった中村哲さんがテレビなどに引っ張り出されて、アフガニスタン情勢について言及していた話と似ていて、実際には、当地には当地の正義や大義があるから、国際的な正義では語り尽くす事は難しい問題なのでしょう。

そして、ミュンヘン五輪村事件の報復措置として、イスラエルの秘密警察・モサドは1974年4月10日、PLOのリーダーら3名をベイルート市内のそれぞれの自宅で同時爆破テロによって暗殺。


日本赤軍の話に戻ると、テルアビブ空港襲撃事件では、奥平剛士と安田安之が自爆死。岡本公三はイスラエル当局に捕まった。岡本公三が、どんな仕打ちを受けたのかというと、自白剤を飲ませられたり、岡本が拳銃自殺をしたがっていると知りながら空の拳銃を渡したり、或いは証言の中には岡本公三さんは生体実験まがいの拷問を13年間受け続け、捕虜交換で解放されたときには重度の統合失調症を患っており、ナイフもフォークも使用できない状態であったという。



◆日航機ハイジャック事件(ドバイ事件)

1973年7月20日、日本赤軍の5名の実行部隊がパリ発東京行きボーイング747便を寄航地アムステルダムを離陸後、ハイジャックする。しかし、その際に手榴弾が暴発し、実行部隊の女性兵士が死亡。その手榴弾の暴発時、女性兵士は咄嗟に手榴弾を自らの腹部に抱え、我が身を挺して飛行機の墜落を防いだものという。しかし、機内での手榴弾暴発によって搭乗員と乗客の老夫婦が負傷、同機の窓にもヒビ割れが発生。負傷した搭乗員と老夫婦をアラブ首長国連邦のドバイ空港で解放した。

このハイジャックに於ける日本赤軍の要求は秘密裡に日本政府に対して行われた。要求の1件目は日本政府に囚われている赤軍派メンバー2名の釈放、2件目はテルアビブ空港襲撃事件後に日本政府がイスラエル政府に極秘裏に支払った賠償額、その10倍の額を要求した。当時の日本政府は、秘密裡に日本赤軍から要求が示されていた事を報じず、後に「脅迫状が届いていたこと」が警察発表された。

同月24日、ハイジャックされた日航機は、日本赤軍の要求に応じることなく、リビアのベンガジ空港へ着陸。乗客全員を解放後、日本赤軍実行犯はハイジャック機の機体を爆破。(おそらく映画『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程』のラストカットに実際の映像らしき、空港に停まっているジャンボ旅客機の中心付近で爆破が起こり、もうもうと火炎と黒煙とが舞い上がる無音声映像が挿入されている。)

実行部隊が機体爆破に踏み切ったのは、日本政府による執拗な時間稼ぎがあった為、その措置として機体爆破に踏み切ったものという。後日、日本の警察発表でもハイジャック犯から「要求書」が届いていた事が発表された。

この頃のハイジャックの手法は既に組織的に行われており、機体を制圧する実行部隊と交渉を担当するセクションは既に分離されており、交渉の窓口は指揮部隊に一本化されていた。しかし、この事件では日本政府の対応は指揮部隊ではなく、実行部隊を相手に時間稼ぎをするなどの対応であった為、実行部隊の判断によって全乗客を解放後、その機体を爆破するという顛末になったという。

実行部隊は、そのベンガジ空港でリビアのカダフィ政権に投降、そのままリビア政府に拘束された。日本赤軍はPFLPを通して実行部隊メンバーの釈放を働きかけようとしたが失敗。PFLPに頼り続けている事にも無理があるとし、この失敗を機に日本赤軍は組織の運営の独立性を強めて行った。



◆在ハーグ・フランス大使館占拠事件(ハーグ事件)

1974年9月13日、日本赤軍の和光晴夫、奥平純三(奥平剛士の実弟)、西川順の3名が武装して侵入、オランダにあるフランス大使館を占拠。そのまま大使館員を人質に取って、フランス警察に逮捕された仲間の解放を要求した。大使館を占拠した状態のまま、交渉は膠着。大使館占拠から5日が経過した9月18日、仲間と人質との交換交渉が成立した。

日本赤軍は、このハーグ事件で仲間の一人を解放する事に成功、また、現金30万ドルの軍資金を奪う事に成功したとしている。一方で、和光、奥平、西川の実行部隊はフランス航空機でシリアへ向かい、最終的にはダマスカス空港で投降した。

このハーグ事件は、その前段階で日本赤軍メンバーがパリのオルリー空港でフランス当局に逮捕されており、その仲間を解放する為に行なわれた、戦争もしくは闘争の一環として行なわれた作戦の一つであった。当初は人質奪還作戦として在欧の日本人商社マンの誘拐を企画するが失敗、そこから計画に関与した外国人組織や在留日本人の協力者にも多大な迷惑をかけてしまい、起死回生の策として実施されたのが、ハーグ事件の真相であった。

1974年11月13日、国連総会にてPLOのアラファト議長が演説し、PLOをパレスチナ人を代表す組織として認めるよう訴える。

1974年11月22日、国連総会はパレスチナ人の民族自決の権利を認めると共に、PLOをパレスチナ人の代表である事を認め、PLO(パレスチナ解放機構)に対して国連のオブザーバー資格を与えた。(イスラエルとアメリカは反対。)

重信房子著『日本赤軍私史』(河出書房新社)の中で重信房子は、次のように語っている。

国際社会は47年の国連決議においてパレスチナを二つの国に分割しながら、イスラエルの建国のみを認め、パレスチナ人やパレスチナの地をヨルダンやエジプトの一部のように扱い、またパレスチナ人を難民としてしか扱ってこなかった。67年の第三次中東戦争で全パレスチナが占領され、パレスチナの武装闘争が欧州に影響を与えてやっと今、イスラエルの占領地からの撤退を求める声が欧州でも大きくなってきた。PLOを中心とするパレスチナ人の民族自決、建国を認めようとする政権が欧州社民政権を中心に広がった。

アラファトPLO議長の、その路線にPFLPとイラクのバース党が反対の立場を採っていた。PFLPの義勇軍としてパレスチナ解放の活動に参加していた日本赤軍は、PFLPが機能しなくなっていると感じていた。

1974年12月、それまで日本向けに名乗る事があった「アラブ赤軍」の名称を、正式に「日本赤軍」とし、名称の統一する事が決定。また、これによってPFLPの義勇軍としての日本赤軍ではなく、より独立性の高い見地からの日本赤軍となったという。

一方、この頃、日本ではハーグ事件が発生する約2週間前の1974年8月30日に東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工本社ビル爆破事件が発生。以降、東アジア反日武装戦線の爆弾テロが日本国内を脅かした。日本政府は国内では東アジア反日武装戦線を抱え、国外では日本赤軍を抱えることになった。

◆「重信房子」という女

テルアビブ空港銃乱射事件の後、1972年の秋から冬にかけて、オルグについて明らかに天才的な才能を持っていた重信房子は、『闘うあなたへ、アラブよりの招請状』と題した文章を新左翼系の新聞や雑誌に送り付けて、掲載されたという。

世界の闘いは、徐々に一つの輪になってつながれているので、あなたが片道切符で出てくれば、ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも、私たちと出会うでしょう。どこに行っても仲間同志のアンテナで、知らないあなたが、闘いのために徐々に私たちのもとへ近づいていることを知ることができます。闘う世界中の仲間の連結で、あなたが出国した一か月後位から、アラブ赤軍のもとに、あなたの存在が知らされるでしょう。

さあ、片手に荷物をさげて知らない街に出てきて、私たちとともに闘いを始めましょう。そして、あなたが働きながら、革命にむけて学び、待機している間に、私たちの仲間が、戦闘開始の招請状を確実に送るでしょう。多分、一年間のあいだに、どこでも旅立つことは簡単です。無銭旅行は、あなたの革命を検証することでしょう。どこかで、待つこと、耐えること、思い切ることのうちにつちかわれるあなたの革命の更なる情熱は、私たちと共通の思いに貫かれていくことでしょう。

お金がないと外国に居られない、なんていう帝国主義者のウソっぱちな宣伝は、彼らの都合によるものです。片道切符と少しばかりのお金があれば十分です。

世界中に、のん気で、革命をめざす仲間が散らばっていて、仕事のこと、住みかのこと、食べもののことなど、自分のことみたいに気をつかってくれるでしょう。

アジア人もいれば、ヨーロッパ人も、アフリカ人もたくさんいます。まるで東京から大阪に、大阪からどこかの街へ、そんな風に、世界は拡がっています。簡単なことです。あなたの到着を待っています。握手の為に――。


上記の「アラブよりの招請状」、要は、アラブ赤軍(後の日本赤軍)へのリクルート文なのでしょうけど「オルグの天才」のように表現されていた重信房子らしさが表出しているように思う。実際問題からすると、アラブ(パレスチナ)で闘うという事は、イスラエルを始め、いわゆる西側陣営、自由主義陣営を相手にして、テロ事件などをして闘争を行なうこと、その仲間を集めている檄文でもある訳ですね。ホントは根無し草(デラシネ)にターゲットを絞っている。不安を払拭し、手ぶらで来て大丈夫だ、仲間がいっぱい待っていると言わんばかり、その根無し草青年の背中を、ポンと押すようなソフトな雰囲気を醸し出している。鬱屈している青年、懊悩している青年に「片道切符と少しばかりのお金があれば十分です」とか「そんな風に世界は拡がっています」あたりに、その片鱗を読み取れる気がする。

1974年、重信房子をリーダーとしたグループが「日本赤軍」と名乗るようになった。一説に、在アラブの組織なので、アラブに於いては「日本赤軍」と名乗り、日本に於いて「アラブ赤軍」と名乗っていたとする説明もある。その他にも「赤軍派アラブ委員会」や「革命赤軍」などの名称も用いており、この重信房子を中心とした組織の正式な発足日は曖昧で、飽くまで、この年から「日本赤軍」という名称が正式な名称として用いられるようになった。

この重信房子をリーダーとして登場した「日本赤軍」は、その後も各種のハイジャック事件を起こすなどし、「自由主義世界にとっての最大の脅威」とも指摘されるまでの存在となる。

アメリカ中央情報局、いわゆるCIAのレポートでは、

「いまや、世界制覇を目論むものは、何十万、何百万という軍隊を動かす必要はない。たった数人のテロリストを操ることによって、世界中が身動きできないようにすることも可能なのだ。国際テロほど安上がりな戦争はない、と考えている国家や政府が存在する以上、われわれは決して過激派に対して手を緩めることはできない」

としていた。この頃、日本赤軍に限らず、実は世界中でハイジャックなどの政治テロが頻発していた時期であり、その中でも重信房子が立ち上げた日本赤軍は、実際に西側諸国にとっては軽視していることが出来ない脅威として認識されるまでに、その存在感を高めていった。この頃、西側陣営では最大級の警戒が必要な政治テロ集団として、以下の3団体を挙げていた。一つは、西ドイツの「西独赤軍」であり、もう一つはイタリアの「赤い旅団」、そして3つ目は「日本赤軍」で、この3団体を最も警戒すべき自由主義諸国の敵(パブリック・エネミー)と位置付けていた。

偶然にも西ドイツ、イタリア、日本といった第二次大戦時の枢軸国、つまり日独伊三国同盟であった敗戦国となった国々に、それら赤色テロリスト集団が登場していた事は、国際情勢的な分析や、イデオロギーの分析などをしても面白いかも知れない。

そして「重信房子」という一人の女は、過激派の中にいる「オルグの天才」から、国際的テロリスト集団を束ねている女リーダー(重信本人からすれば職業革命家)へと転身する。日本国内で「どうも赤軍派メンバーの中には明大二部に在籍している美女が居るらしい」という認識であったものから、いつの間にか「重信房子は世界を舞台にしての革命戦争を展開し始めたらしい」という認識へと変化する。確かに考えようによっては、これほど見事な猗翔瓩鮨襪欧真擁もいないだろう、と。


◆重信の父は房子に「戻るな」と言った。

「あさま山荘事件」と、その後に明らかになった「連合赤軍大量リンチ殺害事件」によって、世間の過激派に対しての眼差しは急激に冷え込んでいった。以降、戦後の日本で民衆運動が盛り上がらなくなってしまった理由の一因も、連合赤軍が起こした両事件と深く関係しているという説明も少なくない。また、そこから波及して「赤軍」もしくは「赤軍派」という過激集団や過激分子への批判の声も一気に高まることとなった。よくよく事情を精査すれば、赤軍派から「よど号ハイジャック事件」を起こす田宮高麿のグループがあり、その田宮と重信とは親密な関係にあった。しかし、田宮は北朝鮮へ亡命、そして重信はというとパレスチナへ脱出。その他の幹部らが去った後に森恒夫が最高幹部となった赤軍派が、全く赤軍派とは関係のなかった革命左派京浜安保共闘と連携した事で生まれたのが「連合赤軍」であった。そして、その連合赤軍が「あさま山荘事件」と「リンチ事件」とを起こしている。したがって「連合赤軍」は「日本赤軍」との接点は殆んどない。しかし、1972年に発生した連合赤軍による2大事件の頃から、重信房子の実家に大量の嫌がらせの手紙や、脅迫電話紛いものも多く寄せられた。一般人からすれば「赤」は「赤」という訳だ。

重信房子の実父は、かの血盟団事件にも関与していた重信末夫であった。血盟団事件を参照すれば分かりますが、実は多くの献身的な立場で教壇に立っていた教師らも関与していた事件であった。地方の疲弊、農村の疲弊を無視し、東京では政治汚職によって政党政治は崩壊して軍部が専横していたが事への抗議であった。その過程で、一部の革命将校らと井上日召、果ては橘孝三郎の愛郷塾なども事件に連座したものであった。血盟団事件のケースなどは、彼等の主張はもっともだという部分も大きかったので、実際に裁判でも裁きようがなく、世論そのものも血盟団の決起に同情的な態度が多かったのだ。

房子の父は、東京理科大を卒業、代用教員という教職についていた人物であった。血盟団事件にあたっては、井上日召から「お前は実行部隊ではなく、後の教育者として残れ」と言われ、暗殺の実行部隊からは外された人物であった。実は、房子が友人たちを重信家に連れて来ていたので、この末夫も房子の仲間たちを相手に共産主義的イデオロギーの革命についても話した事があるという。

嫌がらせの電話が殺到する中、この重信末夫は文藝春秋誌に『重信房子の父として』という寄稿文を掲載していたという。

房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしに行くのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする。

という書き出しの文章であった。

そして

房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、最後まで反対だった

という一節もあったという。

この実父・重信末夫は、国際指名手配犯となった娘への批判をも一手に引き受けていたところもあったらしい。

◆あさま山荘事件の後に…

「あさま山荘事件」の後、その前段階で起こっていた凄惨な大量リンチ殺人事件が発覚した。山岳ベースでのリンチ殺人の被害者が12名、その山岳ベースでのリンチ以前の印旛沼事件で2名、この14名もの被害者を出していたのが、一般的に「連合赤軍リンチ事件」と称されている。内容を精査すると印旛沼事件の方は革命左派京浜安保共闘のみが直接的に関与していた事件であるが、日付としては連合赤軍の結成は1971年7月19日であり、最初の印旛沼事件の殺人は同年8月2日と8月10日である。従がって、被害者は14名と表記されている場合と、12名と表記されている場合とがある。また、「あさま山荘事件」では民間人1名と警察官2名の死亡があった。

「あさま山荘事件」が終結した後、奥沢修一がぽつぽつとリンチ事件について自供を始めた。

1972年3月7日、山田孝の遺体が発見される。

すると、16歳少年や、青砥幹夫、植垣康博、寺林真喜江、伊藤和子らから断片的な証言が出てきた。総合すると、そのリンチ殺人が発覚すると、当時、世間を賑わわせていた大久保清事件を上回る、とんでもない規模の大量殺人事件になった。

1972年3月10日、金子みちよ、大槻節子、山本順一の遺体が発見される。

この10日の午後8時15分頃、連合赤軍の迦葉山ベースから脱走した後に身を潜めていた山本保子が愛知県名古屋市の中村警察署に憔悴した面持ちで出頭し、夫が殺害されている事、また、連合赤軍に乳児を残して来てしまった事を打ち明ける。奇しくも、この山本保子は夫・山本順一の遺体が発見された日に警察に出頭していた。

1972年3月11日、山崎順の遺体が発見される。この日、前沢虎義が東京・練馬署へ出頭した。

1972年3月12日、小嶋和子、尾崎充男、加藤能敬、進藤隆三郎の遺体が発見される。

1972年3月13日、寺岡恒一、行方正時、そして最後に遠山美枝子の遺体が発見された。また、この日、行方不明になっていた山本保子の子が東京で保護される。中村愛子が知人に預けていたのだ。絶望的なまでにおどろおどろしい一連の中で、唯一の救いであったかも知れない。

しばらくして後、印旛沼事件について吉野雅邦が自供を始める。この印旛沼事件は、前述した通り、旧赤軍派は知らない事件であり、山岳ベースリンチ事件とは別に起こっていたものであった。

1972年3月25日、印旛沼の畔にて早岐やす子と向山茂徳の遺体が発見された。この両名の遺体は既に前年夏に埋められていた事から、既に白骨化した状態で発見された。



◆テルアビブ空港銃乱射事件

1972年5月31日(現地時間では30日)、遥か彼方、イスラエルの港湾都市テルアビブ。そのテルアビブ国際空港にて奥平剛士(京大〜)、安田安之(京大生)、岡本公三(鹿児島大生)の三人のボランティア革命兵士(義勇兵)がフランス航空機に搭乗、テルアビブ空港(リッダ空港もしくはロッダ空港とも)へ同機が着陸間もなく、同空港の旅客ターミナルで奥平、安田、岡本の3名がソビエト製自動小銃を乱射、手榴弾も用いて襲撃し、警備兵100名以上を殺傷、イスラエル人科学者のワイズマン研究所アハロン・カツィール教授ら24名を殺害。その後、奥平と安田は持参していた手榴弾を爆発させて自爆、生き残った岡本が現行犯逮捕されるという、とんでもない衝撃的な事件が発生する。

奥平剛士とは重信房子(戸籍上は奥平房子)の夫であり、ここで自爆死した奥平と安田は「京都パルチザン」の元メンバーであった。この京都パルチザンもしくは京大パルチザンは既出ですが、京都大学内にあった竹本信弘の影響を強く受けたとごくごく少数の都市遊撃ゲリラ思想集団であったという。

この時点では、まだ日本赤軍は成立しておらず、実質的にはパレスチナ人民解放戦線(PFLP)に義勇兵的、ボランティア的に参加していたものであったという。

つまり、正確を期すと、PFLPが行っていたイスラエル及び同国の秘密警察組織であるモサドとPFLPとが、実質的な戦争を展開しており、1970年頃からPFLPは連続ハイジャック事件を起こす等の狎鐐莨態瓩砲△辰拭戦争の定義の問題が発生してしまいますが、いわばPFLP側の定義に倣えば同事件は「リッダ闘争」という事になる。そのリッダ闘争にボランティア的に、もしくは義勇兵的に参加してPFLPの作戦を実行したのが奥平、安田、岡本であったという説明になる。(おそらく、これが正鵠を射ている。)

事情に詳しいと思われる重信房子に拠れば、確かに全員は「赤軍派系」であったと言えるという。奥平剛士については「赤軍派」に帰属していた事はないとする見解もあるが、夫婦になっていた重信に拠れば、日本から脱出してアラブへ行く際、奥平剛士も「責任をもって活動をしたい」と言って、赤軍派の一員になる事を決断してもらっていたという。

テルアビブ国際航空銃乱射事件(テルアビブ事件)は、田宮高麿の赤軍派が起こした「よど号ハイジャック事件」、更に森恒夫&永田洋子の連合赤軍の起こした「あさま山荘事件」と「連合赤軍リンチ事件」とも「赤軍」という単語で繋がっているといえば繋がっており、語り方に拠っては十把一絡げにして「過激派」や「赤軍」、「赤軍派」と認識されているが、どうも、その辺りの事情は中々、複雑である。PFLPの作戦に義勇兵として参加して行なったテロ事件であった。

日本では、日本人の赤軍派がイスラエルのテルアビブ空港で、とんでもない事件を起こしたと認識され、且つ、「また赤軍派か…」という理解であったのが事実であった。

事件発生当日、PFLPは

「今回の乱射事件は、我々の革命が無限の闘争である事の証明である」

と、犯行声明を出した。

国際問題にも発展しかねないと慌てた日本政府は、イスラエルに福永健司特派大使を派遣して、同事件に対応することになった。

1972年6月4日、福永大使はエルサレムの首相官邸にメイヤー首相(当時)を訪ね、「遺憾の意」を伝え、当時の日本の総理大臣である佐藤栄作首相の親書を手渡した。

重信房子に拠れば、このリッダ闘争の計画では「自爆をしないように」とPFLPから指令されていたのが事実であるという。しかし、京都パルチザン出身の出身で、元々はセツルメント活動(弱者救済活動)などをしていた奥平と安田は、「相手を殺害するのだから自分も死ぬ覚悟で」という理念を貫徹し、自爆を敢行したものだったという。

と、この辺までが「テルアビブ事件」の通説なのですが、どうも日本赤軍の主張は異なっている。一部、重複しますが、日本赤軍の見解ではテルアビブ事件とは一つの軍事作戦であり、それに奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が義勇兵・義勇軍として参加したものであり、そもそも、一般乗客に向けて銃を乱射したというのは誤りであり、実際にはテルアビブ空港でイスラエル兵に対して銃を乱射し、その後、自爆したものを、イスラエル当局が虚偽の発表をし、また、それを信用して西側メディアが、凶悪なテロリストが空港で無差別で銃を乱射し、そのまま自爆死したと報じたのが事実であるという。奥平と安田は自爆死、岡本はイスラエル当局に逮捕、そのまま、拷問などに耐えて1985年に捕虜交換によって釈放された。パレスチナ側が提出した捕虜交換名簿の第1位が「アハマッド岡本」(岡本公三)であり、実際にはパレスチナ側からすれば、テルアビブ事件の英雄であるという。これは、自ずと捕虜交換名簿の第1位であったという事からも証明できているのかも知れない。

岡本公三が、このリッダ事件(テルアビブ事件)を語ったインタビューがあるという。

テルアビブ空港に着き、飛行機のタラップを降りながら武装警備兵たちが立っているのを見て、「この警備兵と撃ち合うんだな」と思い、空を見上げたら星が一段と光って見えたのは、今思えば、その緊張の所為ですね。

安田同志が、最後に荷物から自動小銃を鷲掴みにすると、「じゃ、あばよ」って笑った顔のまま走り去り、僕がポジションに着いた直後、予定通り銃声がガンガンと響き、「始めたな」と思って、僕と奥平同志も身構えた警備兵との撃ち合いに入った。奥平同志は終始ぼくをカバーしていた。随分、長く撃ち合っていたように思う。手持ちの弾を撃ちつくした後、手榴弾をかまえて、飛行機に向かって走るところを捕り押さえられ、気を失った。

気を失いながら、「奥平同志、安田同志はどうしたろうか?」という想いが頭をかすめていた。


――イスラエル当局とその広報を受けたジャーナリズムは、当時、警備兵との銃撃戦はなく、「テロリストは、一般旅行客を狙い撃ちした」と、宣伝した。

訓練した我々三戦士が、計画通り警備兵を撃ち、慌てた警備兵が旅行客に向かって無差別に撃ち返した。その結果、戦場に巻き込まれた人々が多数支障した。我々が想定していた以上に、慌てたイスラエル警備兵の出鱈目な射撃による死傷者が大半だった。しかし、今僕がそう証言しても、自己弁護にしかならない。(『日本赤軍20年の軌跡』話の特集 1993年5月)

確かに、こんな事を疑った報道はありませんでしたやね。しかし、これがホントであったとするならば――。

いやいや、何故、イスラエル当局の発表を疑わなかったのか? そもそも戦争にプロパガンダは付き物でもあり、真偽は不明ながら、この大問題が転がっている。(実はイスラエルの特殊部隊が強硬突入して、人質が全滅になる事件は先述のミュンヘン五輪村襲撃事件を筆頭に、幾つか挙げる事が出来てしまう。)



◆奥平剛士の日記

奥平剛士は、日記を残していた。大学へ入ってからセツルメント活動を行なっていた。この【セツルメント】とは聞きなれない言葉であるが、1890年にイギリスに発祥した都市部の貧困者と共に生活し、その生活状況を改善しようとする運動であるという。有識者や宗教家、中産階級の間に起こった或る種の慈善活動的な啓蒙運動であった。日本でも片山潜によって取り入れられ、キリスト教系と仏教系のセツルメント、それ以外にも各大学にセツルメントが設立された。戦後の日本では、日本共産党系(民青)が中心となって全国学生セツルメント連合が結成された。日本共産党にして或る種の活動の一環として取り入れられていた政治的な面もある。しかし、60年安保闘争以降になると、セツルメントは日本共産党の影響下から離れ、新左翼系の団体がセツルメント活動をするようになっていた。

奥平は京都大学底辺問題研究会に所属し、京都府南区九条東岩本町の「希望の家」でセツルメント活動を1年10ヶ月間ほどしていた。正義感が強く、清潔で生真面目な青年であった。

その頃の日記には、奥平の懊悩が表出している。

貧乏人とは何だ。
怠け者だから、能力がないから、貧乏になるのか。たしかに今はそうだろう。しかし、今の社会はその一部が常に貧乏でないと成立しないんじゃないだろうか。こりゃナンセンスだな。

なぜ、どこの国にも貧乏人ができるのか。能力・勤勉さにより差ができることを認めるべきだろうか。俺は、それは認めるべきだと思う。しかし、その差によって下になったものが、「健康で文化的な生活」を営めないことが問題だ。〜後略〜
昭和39年7月23日の日記

自分としての確固たる信念を持ちえないことのつらさ。共産主義を立派だと思いつつも、現実の自分の位置との矛盾を絶つことのできぬつらさ、弱さ。どちらにもつけぬ。時が無為に流れる。有為とは何だ? 学生運動――。昭和39年8月13日の日記

「苦しめ! 悩め!」とか「俺はどういう役割を果たすべきであろう?」とか、「セツルメント。やめる、やめない。むつかしいよ。心の奥底の感情の問題。理論とは関係ない。理論のレベルで考えるやつはやめはしない。」とか「殺せ、殺せ、俺を殺せ、だが、オレは死なない。」といった事柄の事を綴っていた。

奥平がセツルメント活動をしていた、その九条東岩本町で1966年(昭和41年)2月8日、大きな火事があった。かなりの大火災となり、74世帯約280人が焼け出された大火であり、戦後の京都で発生した火事では最大規模であった。奥平は、自身が必死に取り組んできたセツルメント活動の拠点、九条東岩本町が灰燼に帰した事で、奥平の中で何かが変わった。

奥平剛士は京都大学底辺問題研究会の部室に「東九条の狼火」と題した文章を書きなぐって、セツルメント活動と決別した。

みんな! 東岩本町が燃えた! さあ! わくわくと大事件にはずむ心をうまくおさえて、地域へ入れ! チャンスだ!

君の心が躍るのも無理ではない。きのう東九条にあがったすさまじい火柱は、すべての頽廃となれあいとあきらめを切りさいて、血の底から噴き上がった人々の憤怒の炎ではなかったか。

あの舞い狂った火の粉は、三畳のくさった畳と、あかまみれのせんべいぶとんのなまぐさい粘液のさく裂する火花ではなかったか。

ああ、あの鮮烈な火炎は、売血にむしばまれた数千人の血に誓った。アルコールにくさった一万人の肉体に復讐を誓った。

天をつく火柱のまわりに輪をつないで踊り狂う無数の影が見えないか。つるはしと棍棒と酒の中に、三畳の奴隷部屋の中に、むなしくすりへらされた子供や大人の無数のいのちが、今、炎の中に舞い狂う。その必死の叫びをきけ。

「見ろ、これがぬすまれた俺たちの血潮だ!」

「見ろ、これこそが、つぶされた俺たちの心だ!」


〜後略〜

その大火事の後、奥平はセツルメント活動と決別し、半年間ほどは日共系の「民主青年同盟」(民青)にも入っていたが、結局は全共闘運動へと、のめり込んでいった。奥平なりに「自分に何ができるのか?」と悩み抜いた末に辿り着いたのが学生運動であったものと思われる。

奥平の遺稿集『天よ、我に仕事をあたえよ』(田畑書店刊)は、奥平の友人の渡辺君の次のような言葉を載せていたという。

「(奥平君は)一生懸命活動していた時期は、自分自身の境遇と、地域に生きる人の境遇との差を縮めようというか、こういう人たち(貧乏人)に対して、無条件にすまない、という自責の念が強くて、それでがむしゃらにやっていたと思う。それが後半になってくると、だんだん開き直ってkるうというか、進む道がわからないというか、そういう状況があったんじゃないですか。」

竹本信弘の都市ゲリラ論、遊撃の思想に出会った。また、この竹本の思想は任侠映画的な「我々は、世直しの渡世人である」といった具合に、それまで実際に日本にあった日本的価値観を踏襲していたものと思われる。そして奥平剛士はパレスチナへと発った。何故、パレスチナだったのか? それは少し世界史を考えれば、多くの者が行き着く一つの終着点と関係していた。

「帝国主義と戦うにはどうすればよいのか?」を突き詰めて行ったときに出した答えが、「パレスチナ紛争に義勇兵として参加し、イスラエルと闘うこと」であったとという。故にPFLPのボランティア革命戦士となって自爆を遂げた。

また、後に重信房子がリーダーとして発足する日本赤軍の理念は、この奥平剛士ら京都パルチザン(京大パルチザン遊撃軍団)メンバーらが強く影響したものであったという。

◆あさま山荘事件

1972年2月19日午後3時過ぎ、軽井沢レイクタウンにある空き別荘(さつき山荘)、その空き別荘付近に雪上に不審な足跡が残っている事をパトロール中の警官隊(15名)が発見。警官隊を代表して大野耕司巡査長と長瀬洋一郎巡査とが玄関先に回って、そのドアをコンコンとノックしてみたところ、その刹那、猛烈な勢いでドアが開き、ほぼ同時に黒っぽいジャンパー姿の男が猟銃を発砲、途轍もない銃声が静かな別荘地に轟いた。この銃声は文字通りの轟音であったらしく、その衝撃で屋根の雪が落下するほどであったという。

警官隊は拳銃で応戦しながら対峙したが、猟銃を容赦なくぶっ放してくる相手に、大きく後退を強いられた。警官隊は70〜80メートルも後退し、雪原に伏せて見守る事となった。すると、その空き別荘から次から次へと人影が現れ、次から次へと猟銃を発砲してきた。散弾が大野巡査長の頬と手を掠め、真っ白な雪の上に血が飛び散った。長瀬巡査も臀部に散弾を受けて軽く負傷していた。

警官隊15名は、いきなり雪原で銃撃戦をする事となった。そこで展開された銃撃戦は日本事件史では極めて珍しく、20分も続いたという。この銃撃戦の間にも大野巡査長は応援を要請、銃撃戦を続けている警官隊の元に、更に40名以上の武装警察官が応援に駆け付ける事になっていた。

警官隊を相手にして銃撃戦を展開していたのは、連合赤軍の残党の5名であった。連合赤軍残党は、そのまま銃撃戦を続けていても活路は見い出せないとして雪原の中、逃亡を始めた。とはいえ、辺り一面は雪原であり、その足跡は隠しようもなかった。連合赤軍残党は神津牧場方面へと追手に発砲しながら逃亡を続けていたが、午後4時過ぎ、そこから更に1キロほど離れた場所にあった河合楽器の保養所である「あさま山荘」へと逃げ込んだ。

「あさま山荘」は木造モルタル三階建て。山の斜面を利用して建てられており、建物の後方は絶壁になっており、その前方も幅8メートルの道路を隔ててしまうと険しい崖になっていた。連合赤軍残党は、咄嗟に「あさま山荘」へ逃げ込んだものと思われるが、その立地条件は、偶々、要塞のような立地であった。あさま山荘に籠城した連合赤軍残党側からは辺り一帯を見渡すことできるが、あさま山荘を包囲する側の警察からすると、ちょっとでも立ち上がると相手から丸見えとなり、狙い撃ちにされてしまうという最悪の場所に籠城される形となった。

日本中が連日のようにテレビの生中継に釘付けになった「あさま山荘事件」は、このように突如として始まった。

あさま山荘には、その日、6名の宿泊客があったが、その際には管理人夫婦の夫が宿泊客らをクルマで連れ出して外出中であった。その為、ただ一人、管理人夫婦の妻、牟田泰子さん(当時31歳)が留守番をしていたが、そのまま、人質とされ、籠城戦が始まった。連合赤軍残党は手際が良かったものと思われる。あさま山荘内に入ると、そこを要塞化する為にテキパキと動いたものと思われる。

こうして2月19日から、実に10日間、通算218時間40分にも及ぶ長期戦が始まった。続々と警官隊が、あさま山荘へ結集。やがてテレビ局も騒動を嗅ぎつけて、この「あさま山荘」の攻防、その模様を生中継し始めた。

連合赤軍残党はベランダにバリケードをつくり、見張番として警官隊を牽制、警官隊が拡声器を使用して

「直ちに武器を捨てて、出て来なさい」

「人質を放しなさい」

という具合に呼び掛けると、その都度、轟くような銃声で無言の返答してくるという異様な生中継となった。

テレビ局は続々と番組編成を変更し、この「あさま山荘」で起こっている過激派の若者と警官隊との攻防、その生中継を行なった。

何をしでかすか分からない武装した過激派の若者グループ。彼らが山荘の女性管理人を人質にして籠城し、数百人態勢になっている警官隊へ銃を発砲、周囲は雪山なので銃声は遠くまで響く。緊迫感に満ちており、テレビの生中継は日本中の関心をさらった。

1972年2月22日午前11時40分頃、異変が起こる。籠城事件発生から4日目のこの日、黒っぽい服装をした謎の人影が、警察が布いていた警戒網を無断で突破し、あさま山荘前の道路へ走り出して行った。人影は荷物を持った若い男であり、警察は男に「危ない!」や「引っ込め」という注意喚起を拡声器で行なったが、男は雪の斜面にへばりつくようにして、そのまま、あさま山荘の玄関口へと向かっていった。

同日11時55分頃、男はドア1枚を隔てたところで、山荘内に立て籠もっていた連合赤軍残党との会話に漕ぎつけた。やがてドアが開き、謎の男が山荘内のバリケードの上に果物カゴを置くなどの謎に出た。男は新潟県でスナックを経営している一般人男性であり、あさま山荘に籠城している連合赤軍一味に共鳴し、わざわざ食べ物の差し入れを持ってきた野次馬であった。

その後、その男性は警官隊の方へ向かって、「大丈夫、問題ない」といったジェスチャアで手を振ると、待機していた4名の機動隊員が雪の上を匍匐(ほふく)前進しながらドアへと近づいた。その一般人男性を保護する目的だったのか、或いは山荘への突入を意図したものであったのか分かり難い行動であった。

が、次の瞬間、銃声が響き、新潟から連合赤軍に差し入れをしにきていた男が倒れ込んだ。連合赤軍残党は、瞬時の判断によって拳銃で男性の頭部を撃ったのだった。男性は道路のところまで這い上がり、そこで機動隊員らに保護された。男性は佐久病院に緊急搬送された。(しかし、8日後に死亡。)

不可解な展開であったが民間人が撃たれた事で、あさま山荘事件を巡る世論は警察に対して風当たりが強まる事になった。

翌23日、籠城5日目となったこの日、午後3時57分、警察は50メートルほど離れた地点から一斉にガス弾を撃ち込んだ。このガス弾の一斉撃ち込みは警視庁の特別狙撃隊員を事前に配置し、一斉に行なったものであった。この際、警察はあさま山荘への送電を遮断した。このガス弾の一斉攻撃によって山荘内は煙が立ち込めたが、籠城する連合赤軍残党は果敢にも煙の中から撃ち返して応戦してきた。坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久ら、この連合赤軍残党は、さんざん射撃訓練をしてきた単なる過激派ではなかった。警察側の警備車両には散弾が命中、バシッ、バシッっと鉛の当たる音がしていた。

警察側は、まだ、この頃、籠城しているのが何人なのか確認できていなかった。

連合赤軍の山岳ベースからの脱走に成功し、身を潜めていた前沢虎義はテレビの生中継を視聴しながら、正直、脱走を悔いていたという。警察を相手に果敢に撃ち合っている姿は、どこか英雄的に映るものがあったという。脱走に成功して身を潜めていた者の何人かは似たような感想であったともいう。また、夫を殺害され、乳児を連合赤軍に預けていたままになっていた山本保子も、この頃はまだどこかに潜伏している状態で警察に自首していなかった。どこかで、この連合赤軍残党の籠城戦をテレビで視聴していたと思われる。

新潟のスナック経営者の男性が籠城犯に共鳴し、わざわざ籠城犯グループに差し入れを持って来てしまったように、説明の難しい部分として狷雲ぢ綽佑龍μ牒瓩噺討屬戮ようなな現象があった事も確かと思われる。この「あさま山荘事件」とは、テレビで延々と生中継された事件であり、多くの日本の家庭は、コタツに足を入れて食事をしながら、お茶を飲みながら、その様子を視聴していたというのが事実であり、そこには現在のような、背伸びをした正論などはない。この頃の世論、その道徳観としては「兎にも角にも人質を無事に救出する事」というのが警察に課されていた最大の使命であった。

翌24日、籠城6日目、警察は放水銃を使用し、山荘内へ大量の水を注ぎこんだ。前日以降、あさま山荘は送電停止となっており、ヘタをすれば人質をも凍死させかねない放水攻撃であった。放水と並行して、拡声器による犯人への投降呼び掛けにも熱が入った。

「君たちが抵抗する限り、警察は武器を使用する! 3階の換気扇の側で、銃を撃つ為の穴を開けている者、すぐに銃を捨てて出て来なさい!」

しかし、籠城している連合赤軍残党からの返答は銃声のみであった。(連合赤軍は塚田銃砲店襲撃事件で、大量の猟銃とライフル銃1丁、リボルバー式38口径拳銃1丁などを持っていたので、警官隊に対してライフル銃による狙撃も行っていた。)

籠城10日目となる2月28日、この日、警察は視聴者たちを驚かせる極秘作戦の決行を決めていた。鉄球作戦であった。これは現在ともなると、完全に日本の戦後史に欠かせない一コマになった。

28日午前10時、クレーン車と放水車とが出動し、あさま山荘へと接近していった。山荘内からは容赦なく銃弾が飛んできて、警察側も相変わらずガス弾による射撃で工事車両を援護した。

午前10時50分、高さ8メートルのクレーン車のから吊るされた鉄球が表わし、クレーン車は器用にも鉄球を自在に操るようにして、あさま山荘の東側の壁に「水平打ち」と呼ばれる方法で鉄球をぶつけ、山荘の破壊を開始した。

午前11時6分、今度は「水平打ち」から「垂直打ち」が始まった。高く吊り上げられた鉄球が、山荘の屋根の上へ垂直へ落下し、屋根を叩き潰していった。連合赤軍残党も、この鉄球作戦には動揺したものと思われるが、反応は冷静であり、ライフル銃でクレーン車を操縦している人物への狙撃を試みている。(このクレーン車を操作していたのは、実は警察への協力要請に答えた民間人であった。これについては、NHK製作の「プロジェクトX」が詳細に描いていた通り。)

午前11時31分、山荘の屋根が崩落し、機動隊員が一斉に突入を開始した。これが最後の攻防となったが、連合赤軍残党の抵抗も激しく、警視庁特科車両隊の高見繁光警部が顔面に被弾、左目上部から後頭部へ銃弾が貫通、意識不明。

午前11時58分、警視庁第二機動隊隊長・内田尚孝警視が被弾、土のうの上から転げ落ちた。左肩上部から後頭部へ銃創を残して意識不明。

意識不明であった高見警部が12時26分に死亡。

午後3時37分、籠城犯は山荘3階の一番奥の部屋である「銀杏の間」へと追い込まれていた。その銀杏の間に対しての突入攻撃を仕掛けた。機動隊員らは屋根裏に忍び込み、銀杏の間の天井裏へ。その人員配置が済んでから、鉄球の「水平打ち」が行われた。

意識不明であった内田警視が午後4時1分に死亡。

午後5時50分、警察は放水を開始し、これによって「銀杏の間」の窓枠が吹き飛び、更に放水が続けれた。連合赤軍残党が発した銃声が6発ほど響いたが、最早、どこを打っているのか分からない状態になっていた。更に、ガス弾が撃ち込まれて、ここから機動隊が一斉に、銀杏の間へと雪崩れ込んだ。

「この野郎っ!」

「人殺しめっ!」


という機動隊員らの怒声が飛び交い、最後まで籠城をしていた連合赤軍残党5名は全員が全員、血塗れとなって逮捕された。興奮した機動隊員らによってジュラルミンの楯や棍棒などが振り下ろされた為であった。

心配されていた人質の身柄も無事に確保された。機動隊員が大声を上げた。

「人質確保、生きているっ! 生きているっ!」

事件解決、人質も無事に救出、このハッピーエンドに期せずして、警官隊からも野次馬からも歓声が上がった。

しかし、一方で気になる見方をしていた人々もあった。傷だらけ、血だらけの姿で屈強な武装警察官に引き摺られるようにして確保されてきた連合赤軍残党の面々は全員が若者であり、未成年者が2名も含まれていた。その表情には、あどけなさを残す者も含まれていた。全身ボロボロであり、抵抗に抵抗を重ねてきたが、とうとう捕縛された憐れな野良犬の最後の姿のように見えた、という感想も残す。

1972年2月28日午後6時21分、坂口弘(25歳)、坂東国男(25歳)、吉野雅邦(23歳)、19歳少年、16歳少年の5名が正式に逮捕された。この「16歳少年」とは、加藤三兄弟の末弟であるが、彼は高校一年生であった。

斯くして連続10日間、218時間45分にも及ぶ日本事件史上最長のテレビ実況事件「あさま山荘事件」が終結した。実質的な連合赤軍の「活動」は、この時、すべて終わった。

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