どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ: 政治史など

日本ロック史について語れと問われたならば、私なりに数時間は語り続けられるような気もしているが、そんな中で必ず触れることになるであろうなという楽曲の1つに相川七瀬さんの「夢みる少女じゃいられない」が入るよなと思う。

殊に、あの箇所だ。

♪
街中に Bang! Bang! Bang! Bang!


午前0時の交差点、とあるクルマの助手席に、その女はいる。
運転席の男は女に話し掛けているが、女は物足りなさを感じており、
「少しダマってよ」と声を掛けたかと思うと、次の瞬間、ウィンドウを開けて
街中にBang!Bang!Bang!Bang!と、4発の銃弾を発砲する。

街中に銃弾をぶっ放した後は、次のように続く。

♪
もっと激しい夜に抱かれたい

ノー、ノー、 それじゃ、届かない

ステキな嘘に溺れたい

ノー、ノー、それじゃ、ものたんない

鏡の中 今も 震えてる

あの日の私がいる

夢みる少女じゃいられない
(作詞:作曲:織田哲郎)

この歌詞にあるような暴力的な衝動を、実は人々は内に秘めている。まさしくバタイユの世界の話でもある。我々は何ら理性を利かせることなく、仮に衝動のままに行動できる生物であったとするならば、街中で拳銃でも自動小銃でもぶっ放したいという凶暴な衝動を内に秘めている可能性がある。

しかし、そのような仮説を述べる者は存在していても、中々、実行に移してしまうような者は、長らく登場しなかった。この禁が破れられるようになったのは、近10年ぐらいだ。

アンドレ・ブルトン(生没年1896〜1966年)はフランスの詩人であり、作家であり、批評家であり、シュルレアリスムの中心的な存在であった。そのブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』には、次のような過激な一節があったという。酒井健著『バタイユとアナーキズム』(法政大学出版会)から(一部は孫引用となりますが)、以下に引用します。

最も単純なシュルレアリスムの行為は、両手に銃を持ち、街路に降り立って、群衆めがけて、めくらめっぽうに発砲する、そうしてできうるかぎり発砲し続けるということなのだ。現代社会で幅をきかす堕落と白痴化の卑小なシステムに対してこのように縁を切りたいと一度も欲したことのない輩は、この群衆のなかでよくに目立った場所を占めて、その腹を銃身に突き出しているのである。こうした暴力行為の正当化は、私の見方では、シュルレアリスムが我々の心の奥底に暴き出そうと努めているあの微光への信仰といささかも相反しない。私は人間としての絶望をここで呼び覚ましたかっただけなのだ。というのも、この絶望を乗り越えられないのならば、何一つあの微光への信仰を正当化できないからである。
(ブルトン『シュルレアリズム第二宣言』(一九二九))


この微光こそフロイトの発見した無意識層の欲望のことである。そこには破壊衝動もあれば死への欲動(タナトス)も巣くう。ブルトンはしかしこの微光を信仰しながらも、じっさいに路上で無差別殺人にでたわけではなかった。タナトスに駆られて自害もしなかった。対して、現代人はそうする人が目に見えて増えているのか。なぜなのか。(『バタイユとアナーキズム』182頁)

これは何気にコワい話ですが、入り組んだ内容なので、しばし、この後の文章にもきっちりと付き合うべし。

何故、かの歌の中の少女は街中に銃弾をぶっ放したいという衝動を抱えているのか? 勿論、それは最終的には「夢みる少女じゃいられない」に繋がる訳ですが、そういう暴力的な衝動を我々を持っているという仮説はフロイトの発見した「無意識」、その時点で既に発見されているのだ。街中で銃をぶっ放したいという感覚は衝動だ。何かを、気まぐれに破壊したくなるという衝動を我々は無意識下に持っているのだ。

ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」は、或る種のアジテーションも含まれているものと思いますが、フロイトが言うところの「無意識」を「微光」に呼び変えて、巧み、その本質を語っている可能性がある。我々が理性なしで飼い慣らしている感情は結構、凶暴で、もし、理性による抑制が利かなかったならば、群衆に向けてめくらめっぽうに発砲する�爛后璽僉爾平有瓩�登場してしまう可能性があり、どうも近年ともなると、実際に登場してしまっている可能性がある。

で、問題は、このバタイユは必ずしもシュルレアリスムに賛同していた訳ではないが、それでいて中立的な立ち位置を採っていた。社会道徳的に悪影響のある問題である可能性があれども、それが人間の本質なのではないのか? ――そのようにアプローチする必要性がある。

ニーチェであれば「超人」であり、バタイユであれば「崇高性」の問題になってゆく。そして、斯様な狂気的な次元に、食い込んでいた日本人として三島由紀夫がいた。ここが理解できると、ひょっとしたら三島由紀夫・楯の会事件の深部に迫っていけるような手ごたえがある。

再び、『バタイユとアナーキズム』から引用していきます。

三島由紀夫は自決の一週間前に文芸評論家の古林尚と対談を行なっている。そのさなかの三島の言葉からとったタイトル「いまにわかります」で死後『図書新聞』(一九七〇年十二月十二日号)に発表され、今日では『三島由紀夫 最後の言葉』の題名で全集に収められている。その最初のあたりで三島はバタイユについてまずこう述べている。

ジョルジュ・バタイユをぼくが知ったのは、昭和三十年(一九五五)ごろですが、僕が現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感を持っている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。
(「三島由紀夫 最後の言葉」)

この親近感の根本は、三島に言わせれば、具体的に今見えているものが全く別に「超絶的なもの」を指し示す点にある。古林尚がすかさず「その超絶的なものが三島さんの場合にはすぐ天皇のイメージに短絡してしまう。そしてエロティシズムはセックス抜きで、観念の高みに飛翔してしまう」と指摘するのだが、三島はこれに答えて「僕の場合には、バタイユから啓発されたんで、バタイユそのままではありません」ときっぱり違いを強調する。(同92〜93頁)

延々と引用しても仕方がないので、この先は私の文章による説明としますが、おそらく、死と引き換えにしても惜しくない超絶的な境地の話をミシマは示唆していたと思われる。引用文中で対談相手の古林尚が「超絶的なもの」という単語を使用していますが、それは、平たく言えば、バタイユの語る崇高性の話の中に登場する概念であり、確かに「超絶的な境地」を指していると思われる。

凡人は「命よりも大切なものはない」と考える。しかし、バタイユの場合は「脱自化」等が語られており、最終的には神のような崇高者の境地があると説く。これが「サド侯爵」の話などにも繋がっている訳です。もし、本当に自分の思うがままに他者の事を一切考慮せずに振る舞っていいのだとすれば――という或る種の仮定から、その「崇高者の境地」が導き出されている。サド侯爵の場合は、性交して絶頂のタイミングで相手の首を斬り落とす事などを夢想した。そのような行為こそが、崇高者の境地であり、崇高性の至極なのではないのか――と夢想したものだと思われる。バタイユは、サド侯爵の残した理不尽極まりないサディスティックな小説を解釈するにあたり、当時の人々の解釈やフロイト理論などを応用しながら「崇高性」や「崇高者」についての思索を深めてゆく。その中で、自分というものに縛られない境地としての脱自化がある。更には「自己存在」とは生命現象の認識であり、思えば実体を有する有限の�猜��瓩�自己である。無限の存在になるには脱物化が必要であり、そうなる為には、神話の中の住人に自らを変えてしまう必要性がある――のような、超絶的な境地を崇高性の極みと発想した。

しかも、バタイユが少しだけ政治的な運動も見せており、バタイユは「頭部を持たない統治体」を考え出した。この発想は或る種の無政府主義的なものだと思われますが、頭部が命令を下して動くという統治体の姿を否定し、頭部を持たない統治体にすべきであると発想していた。バタイユはマルクス主義が実質的には統治体制上、必ずトップダウン方式になる事を予期して、日本語にすると「無頭人」(むとうにん)を意味する「アセファル」という名の宗教的秘密結社を立ち上げていた。なんぴとたりとも、誰からの上に立ってはならない的な思想だ。(変形すれば、「天は人の上に人をつくらず、ヒトの下に人をつくらず」になる。ああ、福沢諭吉についても実はアナーキズム的な傾向があったと思われる。何故かというと、それが究極的な理想として浮かんでくることも確かであるから。)

さて、ミシマである。おそらく、ミシマは脱自化と脱物化を夢想し、あの割腹自殺を実行したのではないのか? 確かに、あのような事件を起こして、あのような死に方をすれば、「三島由紀夫」という一人の作家、平岡公威という一個の人間は、神話上の存在とは言えないまでも、明確に伝説上の存在となったと言える。まぁ、この辺りの推測は、結構、説得力があるような気もする。

著者の酒井健法政大学名誉教授は、1970年の三島由紀夫の割腹自殺を記憶しており、当時の新聞にはミシマの介錯された頭部の写真の記憶があるという。もしやと思ってインターネットで検索してみたら、確かに確認できた。切断されたミシマの頭部だけの写真があり、或る意味では凄い写真だなと感じた。まさか、ミシマ自らが「無頭人」を表現したものだとは思いませんが、ミシマがバタイユの影響を強く受けていた事は確かであろうなと感じた。生きたモノ、有限性のある生物の次元から、伝説の中に生き続ける次元の表象になった、とも考えられる訳で。
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NHK「日曜討論」をしていて、少し脳裡をよぎったことがあった。出演者は現職の参議院議員だったと思われますが、或る方が

「皇室の安定は国家としての根幹に関わることなので…」

のような発言をされていた。【根幹】だったかどうかは記憶が曖昧になってしまいましたが、そこで発されていた言葉は、それであった。「皇室を安定させる事が、この日本国の安定にとっても非常に大切なことなので、皇室典範改正の問題は、これこれこうである」のように発言したのだと思う。その冒頭の紋切り型の言い回しだ。

そのような発言を、私自身もする可能性がある。しかし、そういう部分は蛇足だよなと思う。本気も本気で「皇室の安定が国家の根幹と連携しているのか?」というと、そうまでは思っていない。もし、そう考えるのであれば、それは、これまでにも繰り返してきた聖帝思想や天道思想が天皇制を通して日本国の運営に反映される場合が前提だ。しかし、現在、日本国内で起こっている皇室典範改正の問題は、そうではないように思える。ただただ、漠然と、ただただ、文脈的に、「ニッポンは天皇を戴く国家であり、皇室の維持は国家の大事なのである」のような教条的な思想が支配している。同時並行で、国旗損壊罪の問題も起こっているようですが、いずれも関係してくる。

ホントは、日の丸の問題も、天皇及び皇室の問題も、シンボル(象徴)の問題であり、その象徴を為政者らが自由自在に利用し、自らの政治権力の正当化に使用してしまう危険性を秘めているという問題だ。ホントは明治以降に展開された天皇制というのは、歴史を眺めば大失敗だったというのが実相ではないのか。思想統制の線で語れば、天皇機関説、国体明徴運動、天皇の赤子、昭和天皇の御聖断、国体護持を条件にして無条件降伏、そして昭和天皇の崩御後に、戦後であるにもかかわらず本当に【崩御】という表現でいいのか、【ご逝去】でいいのではないかという葛藤を抱えたまま、新聞社やテレビ局は、一斉に【崩御】という前時代的な表現を復活させてしまい、以降が平成以降の天皇観や皇室観になっている。

私の記憶では、昭和50年頃までは祝日に日章旗を掲げる家々は結構あったが、それが昭和58年頃ともなると日章旗を掲げている家なんて殆んど見掛けなくなっていたという記憶がある。何故、その記憶が残っているのかというと、

「昔、祝日には日の丸の旗を掲げていたじゃないですか。でも、今は、どこへ行っても売ってないんですよ。呉服店も洋品店も行ってみたんですけど、取り扱いがないって言われました。電車で東京の百貨店へ行けば、売ってるんですかね?」

のように私の父親が尋ねられた事があり、

「あー、そういえば、日の丸の旗ってのは、何処へ行けば買えるものなのかねぇ」

となった事があって、その会話を小学生だった私が記憶している為だ。竹内久美子さんの動物生態学エッセイの著書の中にも、「天皇のことを周囲の人たちは〈天ちゃん〉などと呼んでいた時代もあった」旨の記述があり、おそらく1980年代の頃の時代の空気、その中で取り扱われていた平均的な日本人の天皇観というものも知ってしまっているのだ。ああ、我が家のケースでは1975年頃までは祝日には実際に日章旗を掲げていたと思う。しかし、周辺の家が日章旗なんて掲げなくなっている中で、いつまでも続けていると極端な思想の持ち主だと誤解されてしまうよな、という事で日章旗を掲げることを辞めたのであったと思う。

実際の時代の傍観者としての私の経験に頼って語れば、日章旗及び天皇観というのは、そのような流れの中にあったものであった。しかもホントは、ここで述べた話こそが生々しい世論の中の、日章旗及び天皇観であろうと思う。そういう中にあって、昭和天皇が御容態を悪くされ、自粛ムードが歓喜されてテレビからバラエティ番組が消え、井上陽水がCMの中で発していた「お元気ですか?」とテレビ画面の中から呼び掛けるCMが不謹慎狩りの標的となり、放送が見送られ、そういう中で実際に昭和天皇の〈崩御〉となった。

昭和天皇の崩御は、特別な意味があった。昭和天皇は、海外では「エンペラー・ヒロヒト」のように表現された人物であり、実相は天皇機関説であるが形式的には、悪名高い「大日本帝国」、その最高指導者であったのだ。ややあって、天皇の戦争責任についての議論は見送られることとなり、戦後日本は表向きには平和国家として再スタートし、戦後の昭和天皇には平和国家のシンボルという意味合いも付け加えられていた部分もあったかもしれない。

しかし、当代の国会議員たち、右から左まで居並んでいる訳ですが、全体的には右傾化したように見える。そんな中で、「皇室の安定が国家の根幹と関わることで…」と冒頭につけて語ることに、何の違和感も感じなくなっているという事だよなと感じた。どこに違和感があるのかというと、いつの間にか天皇制の維持、つまり、国体護持そのものが政治目的化してしまっているのに、それに何も感じない政治家が増えてしまったという事であろうと思う。御上を批判する気概を人々が喪失してしまっており、「ハイ、ヨロコンデ」と個人情報の使用をAI開発に差し出し、政府を批判すると悪役レスラーであるかのように扱われてしまうまでに御上への盲目的な信仰が根付いてしまっているという事はリスクなのではないのか。歌を忘れたカナリアならぬ、批判精神を忘れた有権者。

また、この問題は非常に複雑であり、田原総一郎氏が言うところの「顕教と密教の問題」、他の論者が指摘するところの「カゴの鳥の問題」がある。右派の系統は、正真正銘の尊皇思想なのかというと、そうではない。彼等は天皇及び皇族を政治利用してきた系譜なのだ。

二・二六事件であったと思いますが、途中で昭和天皇の弟君である秩父宮を軍隊が担ぎ出そうとする動きがあったとされている。昭和天皇の機転で、その動きは封じ込めたが、天皇制及び皇族といったものは、固定的なものにしておかないと、反乱工作にも用いられることが有り得ることを物語っている逸話だ。「現行の皇室典範を改正して、✕✕さまを天皇陛下にすべきである」という世論への嫌悪は、そこにある。民衆が畏れ多くも天皇を選ぶ等というふざけた行為が、如何に危険であるか、如何に冒瀆しているかは、こういう部分をも踏まえて主張している。

国民の世論に従って天皇を選択すればいい――そんなふざけた考え、政治的に利用されるだけの天皇制なのであれば、この際、日本人は「天皇制を卒業する」という風に発想した方がいいのではないか――のような事も脳裡をよぎった。

瀬戸内寂聴著『遠い声』(岩波書店)を読み始めたところだ。同著は、菅野スガを主人公にした小説だ。同著によると、スガは第三子の長女として生まれた。両親は女の子を待望していたので、当初は喜ばれたが、上の二人の男の子は容姿が整っていて「女の子だったらよかったのに」と言われるような容姿であったが、待望の長女であったスガは「よりによって」という容貌であったという。その為、実の母親からも容貌いじりをされ、継母ともなると顔面を柱に押しつけられるという屈辱の生育環境の中で育ち、コンプレックスの強い自我を形成したという。また、ある年齢になるとスガは容姿コンプレックスから鼻ぺちゃを修正する美容整形手術を実際に受けたが、その手術に起因する頭痛持ちになったともいう。当時の最先端技術の話なのでしょうけど。さすがに気の毒な境遇としかいいようがない。

菅野スガ(管野須賀子)は、金子文子のケースと同じように、自らの居場所を求めながら生きたものと思われますが、気が付けば「社会主義者」の活動家になっていた。そして過激思想を持つ仲間たちが出来上がり、最終的には大逆事件へ関与し、死刑判決を受けて絞首刑となった人物である。

瀬戸内寂聴は、その菅野スガを、どのように小説として再現してみせたのか? 死刑判決を出された後の菅野スガの心中を再現したものと思われましが、結構、凄い文章を残している。

もし私に死の前に一日の自由行動の時間が恵まれ、一番したいことをしてもいいといわれたら、私はなにをしよう。あの無法極まる言語道断の判決を下した殺人鬼、裁判長鶴丈一郎(つるじょういちろう)と、私の幼児すでに地獄の火をのぞかせたあの冷酷非情、野草と無知の権化のような継母を一思いに刺し殺しにいこうか。山県有朋や平沼騏一郎も見逃すわけにはいかない。(『遠い声』13頁)

その先で、昭和天皇への思いを語らせている。

今の元首は個人としては、これを無くすのは、実に気の毒な気もするけれど、吾々を迫害し危害する機関の元首としては政事上立っている人、つまり経済上では略奪者の張本人、政治上では罪悪の根本、思想上では迷信の根源というわけだから、死んでもらわねば仕方がない。歴代の天子の中では、頭もいい方だし、人間も好(よ)いようだし、豪(えら)い人だから気の毒に思う。(同14〜15頁)

更に、文章は続いているが、思えば天皇制の歴史を思えば、それだよなと思う。大逆事件(幸徳秋水らを大量に処刑している)もあれば、二・二六事件(北一輝を銃殺刑に処している)もあり、更には大杉栄、伊藤野江(関東大震災直後に官憲による集団リンチで暴行死し、しかも井戸に甥っ子も含めて殺害して遺棄されていた)、金子文子(死刑判決後に減刑されるも刑務所内で縊死)といった凄惨な歴史も持っている。どのような勢力に天皇制が都合よく利用されてきているのかという問題も確かに読み取れてしまいそうだ。結構、罪深い系譜でもあるのだ。これらは昭和天皇に係る逸話であるが、それが天皇制と、それを都合よく利用してきた政治勢力の歴史でもある。





なんだか現行政権下で議論されている国旗損壊罪を巡る議論とか、皇族の数の確保が云々という議論というのは、ホントに平均的な日本人の心性に沿っているものなのかどうか。三権分立なんて事が言われているものの、裁判所も警察も、実際にはひとつの非常に分かり易い政治勢力の下にあって、つぶさに観察すると大河原化工事件のような冤罪事件にしても甘々だ。民間に押しつけられている狂信的コンプライアンスと比較すると、政治家の金銭絡みのスキャンダルは甘々な処分しかしていないし、警察がらみや裁判所がらみの不祥事にしても、巨悪は裁かれなくて済むという社会環境になってきてしまっている。政治勢力が、裁判所もマスメディアまでもを包み込んでしまっている状態だ。おそらく宮内庁にしても、その勢力を批判することは許されていない。すべては一つの権力系統の単なる道具に成り下がっているのではないか――そんな気がした。
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國分功一郎著『天皇への敗北』(新潮新書)を読了。しかし、非常に複雑な気分となった。同著で述べられている事柄にどれもこれも賛成という訳にはいかないという事は事前に予想していたものの、色々と私の感覚とは異なるものが多かったなという感慨が残った。優れた指摘だなと思ったのは、戦後のリベラル体制、特にデモクラシーでも「立憲主義」が蔑ろにされるようになったが、それは上皇(当時の天皇)に敗北したという観点であったが、それ以外の殆んどは私の見識とは異なっていた。複雑な気分になったのは、1974年生まれの哲学博士でもある著者と、自分との見識が大きな事であった。

幾つかの決定的な意見の相違があった。戦後日本にはデモクラシーを受け容れるにあたって「ねじれ」があるという見解は理解できる。しかし、そこから戦争をした事に対して反省が足りない、となってしまう事は、私が知るリアリズムとは大きな開きがあるなと感じた。また、そこから派生してドイツがナチス政権下で起こしたホロコーストを猛反省しているのに対して、日本は有耶無耶にしているという指摘は、しばしば、そうした見解も目にしてきたが、私はどこか違うよなと感じている。

一応、引用しておきます。

今、僕は戦後憲法についての日本国民の成熟の不在という問題を論じるために、加藤典洋さんの「敗戦後論」に言及しています。この時点で、僕が「敗戦後論」をどう読んだのかについての最初の立場表明をしておきたいと思います。

「決して日本が行った侵略戦争の責任を否定するわけではないが、やはりまずは自国の死者を追悼するべきだし、追悼したい。それをわたし達は欲している」という欲望が表現しているのは、「自分たちはむしろ被害者だ」という被害者意識に他なりません。

この被害者意識を温存したままでは、日本は戦争について責任を取ることはできないし、謝罪する地点に到達することはできません。「本当は自分は悪くない」と思っているわけですから。したがって、加害者としての日本は、自らの被害者意識を直視しなければらない。ところが、日本はまるで、敗戦によって生まれ変わったかのような顔をしてきた。〜略〜この自己欺瞞は、被害者意識の温存をもたらします。
(『天皇への敗北』101〜102頁)

或る意味では、意義のある意見なのかも知れません。しかし、延々と戦後日本の問題を追ってきたつもりでいる私としては、結構、受け容れがたい見解だよなぁ…と率直に感じた。

政治をリアリズムとして捉えているかどうかという問題であり、実社会をリアリズムの作用する人的空間であるとして捉えているかの差異であろうと、私なりには反論したいと感じた。反省も謝罪も基本的には厭わない。しかし、先の戦争への反省や謝罪を、実際に戦争責任とは全く関係のない戦後生まれの世代が語るのは奇妙なことだと思うというのが一点と、実際主義(リアリズム)として謝罪をすれば、相手は謝罪を受けてくれるのかというと、そうではなく、相手の弱みに付け込んで、賠償、賠償と言い出してしまうのが私の考える「真のリアリズム」だ。つまり、謝罪というのは相手次第なのだ。

仮定の話で説明すると、こうだ。私が誰かにすれ違いざまに肩をぶつかったとして、私であれば明確な瑕疵を認識しておらずとも、その事態を起こした事に対しての軽い謝罪はすると思う。「すみません」とか「失礼しました」とかね。また、相手が「すみません」や「失礼しました」と来た場合にも、勿論、それで許すし、許す許さないもない。そんな事はお互い様であるとして水に流すのが当たり前の感覚であるという、そういう慣習法的な世界の中に生きている。しかし、これが通用しない相手がいる。一たび、相手が下手に出たなら、そこに付け込んで、とことん責任を追及し、謝罪を執拗に要求したり、賠償金をせしめようとか、謝罪する者から堂々と迷惑料を巻き上げようとするような、心の卑しい者が実在するのが現代社会のリアリズムであろうなと認識している。こうした道徳観のバラつき、モラルの不均衡の問題は否定できない現実であろうと思う。

ドイツのように謝罪すべきであるという。しかし、この認識については、近1〜2ヶ月で確認できてしまった事柄がある。ここも引用します。

現在、イスラエルによるガザ侵攻が世界中の非難を浴びているとともに、それを擁護する言説がドイツの知識人たちから発せられていることに驚きの声があがっている。だが、実はそれは決して故なきことではないのではあるまいか。(『天皇への敗北』132頁)

例えば、斎藤幸平氏は國分功一郎氏よりも更に若い1987年生まれだ。しかし、文藝春秋誌の寄せられていた文章だったと思いますが、「何故、マルクス・ガブリエルは、ガザ地区で民族浄化まがいの行為をしているイスラエルのネタニヤフ政権を批判しないのか?」という問題でマルクス・ガブリエルがあれこれと述べた事を受けたが納得できず、結局、マルクス・ガブリエルと疎遠な関係になってしまった旨の告白を目にした。

その他にも朝日新聞の書評欄でドイツ人が過去のホロコーストの歴史への反省からイスラエル擁護をしている事に対しての疑問の声を挙げられているのを目にした。4月18日付の朝日新聞24面(読書面)に於ける浅田進史、板橋拓己、香月恵理〈編著〉『岐路に立つドイツの「過去克服)』(大月書店)に対して中澤達哉・早大教授(東欧史)が書評した文章であった。

こちらも適度に引用します。

今日、ドイツほど理解しがたい国はない。いや、ドイツの知識人の思考に理解が及ばないのだといってよい。〜略〜ドイツの知識人たちはガザの人道危機に沈黙し、イスラエル擁護に回った。「過去の克服」とは名ばかりで、イスラエル批判を封じるための道具に落ちぶれてしまったかのように見えた。実際、先月逝去したハーバーマスのような著名な学者でさえ、ガザの惨状には目もくれず、イスラエルの安全を肯定することに終始していたのには、正直、驚きを禁じえなかった。〜略〜

ジェノサイド研究の大家モーゼスは「教理」という概念を提唱。戦後ドイツがホロコーストの唯一性を一種の宗教的聖域にしたことで、イスラエル批判や、ドイツの植民地支配、特にナミビア大虐殺への反省を二の次にするような思考が定着してしまったという。〜後略〜
(4月18日付朝日新聞24面の書評。因みに見出しは「ホロコーストは唯一無二の罪か」であった。)

ある意味ではナーバスな問題なのだろうか? しかし、昨年の新書大賞に選出された鶴見太郎著『ユダヤ人の歴史』(中公新書)でも、じっくりと確認したつもりである。因みに鶴見太郎氏は1982年生まれだ。そして、その『ユダヤ人の歴史』の帯には国際政治学者・三牧聖子氏の推薦コメントが添えられていたが、その三牧氏の推薦コメントは「受動的な犠牲者というユダヤ人のイメージは、本書によって塗り替えられる。」だ。

それらと突き合わせても國分功一郎氏の見解は、あまりにも偏っているように思えた。柄谷行人、加藤典洋、江藤淳、更には中野重治、大西巨人などの名前が随所に挙げられていたが、後半の2名は私からすれば未知の領域の人物なので、やはり、その者が読んできたものによって「見識そのもの」が異なるのだろうとは思う。思うものの、政治的リアリズムもしくは経験則に培われた人間社会の泳ぎ方の問題として、「真摯に反省をすればいい」や「真摯に謝罪をするべき」では通用しない次元がある――と、そう考えているのだ。

見識とは読書で得られる知識だけでは補えない部分があり、それは実際の経験が見識と関係しているように思う。

そもそも自分が意思決定をして戦争を行なった訳ではないのに、「先の戦争は間違っていました」と、私自身を含めて戦後世代の者が、それを語るのは飛躍がある。日本人という民族的な遺伝子の継承者として、その道義的な部分で謝罪する事は可能でも、「侵略戦争をしてすみませんでした。真摯に反省しております」と言いさえすれば誠心誠意の謝罪になるのかと問われれば、それも、どこか烏滸がましい問題になってしまうとも感じている。しかし、この問題を國分氏は「日本人が被害者意識を持っていてはいけない。戦争を行なったのは当時の人たちだから、我々も被害者なのであるという被害者意識があっては誠意は伝わらない」と展開させているので、或る意味では決定的な見解の相違がある。

当然、そこから「天皇には戦争責任があった」のように展開させる事になる。そう捉える人も多いのだけれども、これは現在も放送中の「関口宏の一番新しい近現代史」や、その他の多くの著書に目を通してきましたが、そもそも昭和天皇個人の責任で片付けられるような問題ではない。最低でも退位すべきであったのように指摘する声が、中野重治らの引用をしながら展開されていましたが、半藤一利や保坂正康、その他の著者の語る近現代史で天皇の責任問題を捉えると、これも「道義的な責任は免れない」が、実質的な問題として昭和天皇が開戦を積極的に決断した訳ではないという心苦しい問題にぶつかってしまう。天皇機関説の問題だってある。そもそも天皇は機関に過ぎず、昭和天皇自身は戦前の時点で天皇機関説を支持していたのだ。「天皇を機関に喩えるなど許し難い!」と大暴れした連中には罪があると思うが、昭和天皇のケースは「戦争に消極的だった」どころが、「戦争にかなり消極的だった」と思われるのが実相だ。実相や実態を軽んじて、形式上の罪、道義的な罪を重んじるものだろうか? ああ、授業中に騒いでいた為に何故か学級委員が教壇の上に呼び出され、そこで代表して学級委員がビンタを食らう的な、そういう組織運営が好ましいと思うだろうか? 思わないでしょ? そういうのは供犠の論理だ。

ああ、ネコだって自分が失敗すると八つ当たりするけど、そういう感覚だ。転移。理性的に言えば、そうなると思うけど、どうしても昭和天皇に責任を取らせなきゃ気が済まないという感覚は、実は理性ではなくて(動物に近い)情緒的なものなんじゃないのって気がするけど…。

また、昭和天皇独白録は文庫本もDVDも持っていると思いますが、昭和天皇はおそらく退位を申し出ていたが、GHQの意向で退位させられてもらえなかったという真相らしきものが出て来る。この辺りの天皇の戦争責任の問題は、色々と判断が割れるのかも知れませんが、少なくとも昭和天皇個人は開戦に対して非常に懐疑的な態度をとっていたのは確かであり、大日本帝国憲法下の天皇は「カゴの鳥」の論理の下であった事を理解していながら、天皇の戦争責任を問うのは、実際の状況に反していると私は考える。そう考える思想背景にも論拠があり、そもそも人間の意志なるものは固そうで固くもないというのが実際であり、その実際主義に拠れば、実は意志などというのは空疎なもので、その者が置かれた状況状況によって流されてしまうものであることを、身に染みて知っているつもりだ。

交通事故のような事故は、不注意などの避けがたい瑕疵だ。本当は不可抗力によるところが大きい。しかし、こうした問題に過度に「被害者」と「加害者」とに分類して物事を思考する西洋型の単純二元論を持ち込んでしまうと、まるで故意犯と同じように、加害者である事が強調されてしまうものだよな、と思う。実感と違うのだ。偶々、クルマのドアの開閉時に強風にドアを持っていかれてしまい、隣のクルマに傷をつけてしまった、のような不可抗力がある。そのような不可抗力による瑕疵であったとしても勿論、謝罪するし弁償もする。しかし、しかしなのだ。世の中には、卑怯な人間も多く存在しており、そのような不可抗力の瑕疵に付け込んで、堂々と謝罪と賠償を要求し、少しでも多く賠償を毟り取る為の条件交渉にしてしまう者も少なくないという生々しい現実がある。それが非常に煩わしいので保険業の出番となる訳です。

値切り交渉などでも同じ原理がある。この商品の、ここにキズがあっただのなんだのとゴネて、相手を打ち負かし、所謂、ゴネ得を常に繰り返すようにして生息している狡猾な人間だって、結構な割合で生息しているのが現実世界の実相だ。原則的に、こうした社会では「正直者はバカを見る」というのが常だ。狡猾な者の方が生きやすいような制度設計で出来ているのが、現実社会であり、現実世界である。これらの事柄は直接的にそう述べられておらずとも、バタイユなどを読んでいると「そうそう」と分かってしまう部分がある。あまりにも自己申告に頼った正義が、本来的な古来よりあった伝統的な善を駆逐してしまっている。一人のバカの誇大な被害者妄想の自己申告によって、特定の人が、或いは社会全体が脅かされているケースを、きっと、あなたは容易に思い浮かべることが出来るはずだ。

「こういう善玉と悪玉の二元論に還元して問題を取り扱われてしまっているけど、ホントは被害者だとされている方の者が、騒動になる前に、さんざんぱら悪事をしてたんだぜ」

というケースだ。これについては〈抑圧の原理〉をきちんと理解していなければ理解できない。法治主義や司法制度、裁判制度なんてものだって不完全なものだし、世論に媚びてばかりいるマスメディアで重宝がられている識者の見識なんてもアテにならなくなってきているというのが、2026年現在の情報環境のようにも思える。

実社会のデタラメ具合を理解するには、実社会の中に身を投じる必要性がある。「必ず返すから貸してくれ」と申し出てきたので、その申し出に応じて貸してやれば、返そうとしない。催促するのも心労だが、それを乗り越えて催促をしても返さない。そういう者も結構なパーセンテージで実在しているのが現実社会ではないだろうか? 所謂、水掛け論にもウンザリとさせられてきた。本当は、「こうじゃなかったかな」ぐらいの記憶はあるが、あやふやな部分もあるので、あやふやな部分については「私の記憶はあやふやだが、こうではなかったかな」と率直に述べる。しかし、先方は同じような態度ではない可能性がある。そんなに正確な記憶があるとは思えないが、その対峙している相手が「いいえ、私はハッキリと覚えているっ! この問題は、あなたの記憶違いであるっ! 謝罪したえまえ! 弁償したまえ!」のように平気で強硬な主張をする者もある。私の苦い経験では、相手が強硬に主張するので謝罪した上に金銭的な補償もしたが、後に証拠となる相手の筆跡のメモが出てきて、相手の主張が記憶違いである事に気づいた事だってあった。世の中、それぐらいデタラメだ。言ったもん勝ちだし、主張したもん勝ちになるケースだって少なくない。相手次第であるが、3割とか5割ぐらいの確率で、そういう者も居るよな、と認識している。。。。

何が言いたいのかというと、謝罪なんてものは、結局のところ、相手次第なのだ。偽善や欺瞞が、この世の中を醜悪なものにしてしまっているというのが実際であろうと思う。悔しさに耐えねばならないのも心労だし、「あの野郎、ふざけやがって!」と腹の底から湧き上がってくる怒りをコントロールするのもストレスだし、金銭的な損失もあれば、社会的な評価とて謝罪させられた事で低下し、自尊感情もダメージを受け乍ら生きている。バタイユの言及は、現代社会で覆い隠されている可視化されないそうした深部にも及んでいる。だから軽く「呪い」にも言及しているのだ。正直者がバカを見るばかりの、こんな世界には絶望しかないのではないか――と。

また、ジョルジュ・バタイユの例を紹介すると、バタイユは父親が梅毒であった為に、少年期から父親の排便の介護をしていた。それが実はバタイユには大きな精神的苦痛となった。しかも戦争が始まってしまい、その父親を置き去りにしたところ、父親は死んでおり、その事でもバタイユは自分を責めて苦しんだという。ホンモノの自責の念に苦しむとは、そういう自己の境遇に根差した要因によるものなのではないだろうか? 自分に僅かな非があった事も認識しているからこそ、強烈な自責をしてしまうのが人間の真の姿だよなと思う。

翻って、戦後生まれの私や私たちには、逆立ちしたって戦争をする意思決定もしていないし、人道的な罪も犯していないのに、それでも真摯な反省や真摯な謝罪をすべきだと言い出してしまうと、実は「真摯さ」への背徳であるようにも感じる。極めて根本的な問題として、真剣に謝罪しようのない問題なのに、真剣ぶって謝罪をしてみせるという、そちらの欺瞞を、私なら嫌悪すると思う。道義的な責任は、道義的な責任であり、道義的に謝罪するしかない。昭和天皇が退位をしていたとしても、それはそれで尊重するが、「昭和天皇が退位しなかったのが、間違っていたんですよっ!」と糾弾めいた主張、しかも、そうした糾弾を戦後世代がするとなるとズレもある訳で、そういう主張には全く賛同できないだろうなぁ…と思う。
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『獅子の時代』を視聴していたら、山城屋事件(山城屋和助事件)なる逸話が挿入されていた。先ずは、山城屋事件の概要について――。

幕末のこと、浄土宗の僧であった野村三千三は還俗して長州藩の奇兵隊に属し、戊申戦争などの合戦に従事した。維新後には「山城屋和助」と名乗って横浜で貿易業を試み、兵部省(後の陸軍省)の御用商人となった。この山城屋和助は、山県有朋とは奇兵隊以来の盟友であった。つまり、長州閥、それも奇兵隊出身の誼(よしみ)があったので御用商人になったの意でもある。

因みに奇兵隊は高杉晋作が創設した〈志願制の非正規軍〉であり、下級武士や豪農・豪商の有志らによって組織されていた。

明治維新後には、日本をどのような形で西洋近代化にしていくのかが模索される事となって、藩閥政治へとなっていく時期でもある1872年(明治5年)に、この山城屋事件が発生した。山城屋和助には山県有朋から兵部省の官金(公金)65万円が貸し出されていたが、山城屋和助が生糸相場に官金を注ぎ込んで官金を溶かしてしまった(使い切ってしまった)事が発覚。これを佐賀藩出身で当時は司法卿であった江藤新平が追及し、長州閥への締め付けを図ったが、同年11月29日、山城屋和助は陸軍省会計所で割腹自殺を遂げた。山県有朋は陸軍大輔という地位を利用して知己のある山城屋に多額の不正融資をしていた事で、陸軍大輔を辞職したが、翌年に山県有朋は初代の陸軍卿となって復権する。山城屋和助が割腹自殺をした事によって、実は山城屋事件については有耶無耶なものになった。

上記が山城屋事件の概要なのですが、『獅子の時代』では山城屋和助が陸軍省会計所で割腹自殺したシーンまで描いていた。すべての責任を山城屋に負わせた事件であったとし、こうした政治家の権力闘争に巻き込まれた人物の不審死は現代まで繋がっている旨のナレーションまでつけていた。

つまり、山城屋和助が山県有朋を庇うべく、全責任を潔く負って割腹自殺するのであれば、その割腹自殺を行なう場所は、何処になるべきかという話にもなってくる。何故、山城屋和助は、わざわざ陸軍省内の会計所で割腹自殺を図ったのか――という部分にメスを入れて描いていたという事でもある。恨みを抱えての割腹自殺か、ひょっとしたら下山事件的なミステリーなのかも知れない。


北一輝を松本清張が追った『北一輝論』を読んでいると、さすが松本清張で、当時の北一輝がどのようにして影響力を持つようになっていったのかについても考察されていた。北一輝という人物は元々は佐渡で平民新聞の熱狂的なマニアであり、少年時代の北一輝は「反戦」ではなく、「非戦」という平和思想を説いていた幸徳秋水らの文章に強く影響を受けていた天才少年であったと見立てている。上京後に早稲田大学の聴講生となり、20代前半で上野図書館に入り浸って書き上げた『国体論及び純正社会主義』で当時の一級知識人らを徹底批判し、天才少年として脚光を浴びた。しかし、この北一輝は宮崎滔天らの大陸浪人と関係を持つようになり、更に中国にて辛亥革命に関与するなどして、思想の方向性は革命を志向する右翼思想、それも帝国主義的な右翼思想へと進化していった。

松本清張は「もし、大陸浪人ではなく、幸徳秋水らと関係を持っていたなら、きっと北一輝は左翼革命を志向していただろう」旨のことも綴っている。どのみち北一輝は生粋のアジテーター気質を持っており、「世界を変える」とか「革命を起こす」という思想型であっただろうと分析している。

松本清張に拠れば、宮崎滔天は頭山満の弟格であるが、特に「革命志向」が強く、その宮崎滔天は「革命評論社」の看板を掲げていた。

大川周明が政府の上層部にコネクションを持っていたのに対して、北一輝は青年将校らから支持されるようになっていた。また、井上日召や橘孝三郎になると農本思想なので百姓による革命思想であったが、松本清張に拠れば、北一輝という人物は大川周明とも愛郷塾系の農本主義とも異なる系統の右翼思想家であったという。革命後の法律について著わした『日本改造法案大綱』を書き上げるなどの書斎派であったが、これに西田税(にしだ・みつぎ)が心酔して青年将校らの間で〈北一輝〉という個性的な右翼思想家の像がつくられていったという。つまり、真のエリート層の革命思想は大川周明、百姓らの下層民革命思想は井上日召&橘孝三郎、青年将校の革命思想は北一輝のように分類している。

1919年(大正8年)、皇太子・裕仁(後の昭和天皇)と久邇宮良子(くにのみや・ながこ)との婚約が発表された際、久邇宮家と、生家・島津家に色覚異常の血脈があるとして、山県有朋が久邇宮家に婚約の事態を求めるという宮中某重大事件が発生した。

これは、よくよく考えてみると薩摩閥と長州閥との争いであった事が分かる。ここでも長州は奇兵隊出身の「山県有朋」の名前が出てくるのだ。頭山満らは薩摩派について山県有朋を攻撃した。この宮中某重大事件に於いて、北一輝は北一輝の子分格の岩田富美夫は山県暗殺団を計画した。ここで北一輝は書斎派から行動派へと変節した。

1921年(大正10年)9月、朝日平吾が斬奸状「死の叫声」を携えて安田財閥の創立者・安田善次郎の別邸を訪れ、安田を刺殺し、朝日平吾自身もその場で自殺を遂げるという朝日平吾による安田善次郎刺殺事件が発生。この朝日平吾のテロ行為に対して北一輝は「朝日平吾は革命の為に殉死した」旨の解釈をし、革命を志向する青年将校らからは更に脚光を集め、企業家や政治家・官僚は右翼テロリストのカリスマになっている北一輝を怖れるようになる。北一輝によって名指し批判されれば、テロの標的になってしまう可能性があると恐れたという意味だ。今風に言えば「ブラックジャーナリズム」であるとか、総会屋的な性質で恐れられたという事かも知れない。

1926年(大正15年/昭和元年)、安田共済保険事件が起こる。これは大川周明の主宰する国粋団体の社員が馘首された事による労働争議であり、基本的には大川周明が馘首された側の立場となって交渉にあたり、大川周明が勝利を勝ち取った。しかし、この安田共済保険事件には、北一輝の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命に姿を現わして威嚇したという。実は、その血染めの着物は朝日平吾が自殺した際に着用していた着物であり、その朝日平吾の着物は北一輝の元へ送られていたのだという。もう、こうなると北一輝が政治ゴロであったと呼ばれる事情も分かりやすくなってくる。また、この頃までには北一輝は大川周明をライバル視していたところがあり、大川周明が手柄を立てようとしていたところへ、横槍を入れたという意味合いがあるという。

1927年(昭和2年)に皇室や官庁の預金が多いことで知られていた十五銀行、その十五銀行で事件が発生したというる。松本清張は「十五銀行事件」という言葉を使用している。

安田争議のあと、北は十五銀行事件をつくりあげる。北は、皇室金庫を保管し、華族富豪の大資産を預託されている十五銀行が薩派の巨頭で内大臣の牧野伸顕と結び政権と結託して財権を私慾私利に濫用し、乱脉(らんみゃく)を極めているという意味の攻撃パンフレットを作成して各方面にバラ撒いた。その一年半後に、五大銀行の一といわれた十五銀行が金融恐慌の波をうけてあえなく倒産したのでも分かるように北の言うような放漫経営があった。(『北一輝論』221頁)

北一輝が事件をつくりあげたという文章で始まっているが、実際に十五銀行が放漫経営をしていたという意味でもある。そういう部分を嗅ぎつけて攻撃していたという訳です。松本清張によれば、この十五銀行事件では黒竜会の内田良平と北一輝とには口封じの為にカネが流れたとしている。

更に北一輝は、その後に「朴烈・金子ふみ子事件」(1926年)を起こした。天皇暗殺を目論んでいたとして朴烈と金子ふみ子が逮捕・拘禁されていたが、審理を効率的に進める為に両名が判事室にて引き合わされるという措置が取られていた。朴烈の膝の上に金子ふみ子が座っているという写真が、北一輝に所縁のある人物によって持ち出された。北一輝は、その写真を掲載したパンフレットを作成し、司法の腐敗と政治の無能を攻撃した。これによって若槻内閣が危機に陥れられている。

大川周明は、この頃には完全に袂を分かっていたが、この北一輝を「魔王」と称した。

しかし、この時代の社会の腐敗や堕落が本格的なものであった事も確からしい。松本清張に拠れば、次のような事情も並行して存在していた事がわかる。

若槻の憲政会は大阪の松島遊郭移転問題をめぐる収賄事件、政友会は田中義一総裁の陸軍機密事件(田中大将が陸軍を去って政友会入りするとき陸軍機密費三百万円を持ち出したというもの)を抱えていたので(同222頁)

とある。政治家絡みの「収賄」と「機密費の持ち出し」というのは令和の現在でも偶に話題になったりする。いつの時代も悪い奴ほどよく栄えるって事でしょうねぇ。北一輝らのような陣営からすると、ゆするネタには事欠かない腐敗・堕落していた時代であったというのも確かだったのでしょう。いやいや政治ともなると「常に」と考えないとダメなのかも。

1932年(昭和7年)、血盟団事件が発生する。井上日召率いる血盟団員の菱沼五郎が三井財閥の最高指導者にして日本経済連盟(現在の経団連)会長であった団琢磨を三井本館前で射殺。団琢磨は岩倉使節団として欧米視察に同行した人物でもある。三井財閥では最高指導者の団琢磨を失った後、池田成彬(いけだ・しげあき)が三井合名会社常務理事となるも、実は池田成彬も暗殺の標的になる事を怖れ、三井合名会社の理事であった有馬長文が北一輝に庇護を求めて面会していたという。つまり、北一輝を後ろ盾にして血盟団からの暗殺の標的にならないように動いていた事が当時の憲兵長所によって分かっているのだそうな。松本清張、ここまでやるかとオドロキましたが、つまり、北一輝の最大のスポンサーは三井であった。三井は、この際に北一輝に2〜3万円(2万円は1976年換算で4〜5千万円に該当する大金)を渡し、以降は年に2万円を北一輝に支払っていたのだという。

拙ブログ:朝日平吾(あさひへいご)

拙ブログ:朴烈事件〜朴烈と金子ふみ子
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8日放送のBS-TBS「一番新しい江戸時代」では、意外な事に気づいてしまった。かの坂本龍馬の暗殺については、紀州藩説があるという。しかし、どうも暗殺されても仕方がないような、話であった。

1867年5月26日、海援隊の蒸気船いろは丸は瀬戸内海を航行中、紀州藩船の明光丸と衝突し、結果として、いろは丸は沈没したという。この沈没事故の後、坂本龍馬ら海援隊は紀州藩に対して損害賠償訴訟を起こした。坂本龍馬は沈没した「いろは丸」には4000丁の銃が積載されていた、衝突事故の責任は国際法に照らし合わせて紀州藩側にあると主張した。紀州藩は幕府の裁定に従うという態度であったが、幕府の裁定も坂本龍馬の主張に流された審判となり、紀州藩から8億3000万両(8億3000万円)の賠償を勝ち取っていた。(最終的には7億万両まで減額となった。)

ところが、近年明らかになった事によると、そもそも国際法うんぬんという話は整合性がなく、そればかりか実際に沈没地点の探索が行われたところ、銃は一丁も発見されなかったという。つまり、坂本龍馬は、紀州藩から7億万両を分捕ったという事になる。となると、「坂本龍馬」という人物、その実情は単なるゴロツキ、「政治ゴロ」に過ぎなかったというのが実相だったのではないだろうか?

年明けにも真田広之が坂本龍馬を演じたテレビドラマ「坂本龍馬」(1989年)を視聴したばかりだったのですが、坂本龍馬という人物はどうにもこうにも過大評価されているような印象がある。従来の坂本龍馬像は、新しいカタチの近代日本を夢見て動いていた人物だとされてきていたが、どうも実際のところとしては、戦争商人に都合よく利用されていただけの〈残念な人〉だった可能性が高いように思える。

実際、8日放送の「一番新しい江戸時代」の番組中でも、イギリス公使のパークスの徳川慶喜評が取り上げられており、パークスは「自分が会った日本人の中で最も聡明な人物は徳川慶喜だった」旨の文章を残しているそうで、幕末も幕末の最終段階であっても将軍は立派な人物であったらしい事が窺えた。田中優子氏は「パークスに高く評価されているという事は、論理的思考についていける人物であったという事です」と、そのエピソードに触れられた傍から付け加えていた。

つまり、大枠で語るとこうだ。維新を志した倒幕の志士たちが過剰に善玉にされてきたのが通史であったが、よりリアリスティックに幕末史を分析すると、どちらかを完全に善玉として捉え、歴史ロマンだと語る歴史観は、大幅に修正が必要になる。佐幕派も公武合体を志向して動いている中で、倒幕派は「このままでは、また幕府に覇権を握られてしまう」となり、武力クーデターを起こした。「維新」と語る事が定説化しているが、諸々を組み立てていくとクーデターに他ならない。薩摩藩や長州藩は、未来のニッポンをつくる為に行動を起こしたのではなく、自分たちが政治的主導権を獲る為に行動を起こしていた。その後の藩閥政治の流れを合わせても、そのことは歴然だ。昭和中期以降から起こった歴史ロマン幻想は、がらがらと音を立てて崩れてゆく。

先の「いろは丸」の賠償金の話などは、本当は国難の最中であるにもかかわらず、坂本龍馬は紀州藩から7億万両を詐取していたという事になる。紀州藩が龍馬暗殺の黒幕だとは断定できないが、動機からすれば充分なものであり、もし、あなたや私が紀州藩側の人間であったなら、坂本龍馬に対して刺客を放って暗殺を画策したとしても全く矛盾がない。「怨讐」とは、そういう性質のものだ。

武田鉄矢が坂本龍馬を演じたテレビドラマ特番「幕末青春グラフティ」も、真田広之が坂本龍馬を演じたテレビドラマ特番「坂本龍馬」も、或いは原田芳雄が坂本龍馬を演じた映画「竜馬暗殺」にしても、この「いろは丸」衝突事故のエピソードは省かれていたような気がする。勿論、根っこは司馬遼太郎の司馬史観なのでしょうけど、この「幕末の志士たち」が人気を博してしまう事は、現況を肯定せざるには居られないという現代人の心理が関係しているのだろうなと思う。志士たちが近代化を遂げてくれていなかったなら今の私たちはないという思いが、そういうストーリーを強化してしまうのだ。

しかし、当時の国際情勢上の日本の立ち位置とは、イギリスが戦勝商人を通じて薩長を焚きつけて日本の取り込みを目論んでいた。対して幕府側はフランスと肩を組んで対抗しようとしていたというのが、国際情勢なのであった。(フランスはイギリスと抗争していたので、自ずとそういう力学に落ち着くことになる。)
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キリシタン弾圧というと、どうしても「島原の乱」に目が向いてしまう訳ですが、実は東北地方でも徳川時代には苛烈なキリシタン弾圧があったという。しかし、筒井功著『差別と弾圧の事件史』(河出書房新社)によると、東北地方で行われていたキリシタン弾圧は「九州以上であったかもしれない」(同著75頁)と綴られていた。

基本的には西日本でキリスト教は広まった。島原・天草地方は後に「島原の乱」を起こしますが、そもそも大友宗麟はキリシタン大名だし、大活躍をした蒲生氏郷もキリシタンに転身したし、高山右近なんてのもキリシタンであった。戦国時代というべきか、織豊時代というべきか、日本史の場合は或る時期まではキリスト教に寛大で布教も認めていたが、途中から禁教とされていくという過程があった。

また、同著によると17世紀頃のキリシタンの処刑は、苛烈な拷問の後に火あぶり、磔(はりつけ)、水攻めによる拷問死であったという。遠藤周作の原作をマーティン・スコセッシが映像化した映画「沈黙〜サイレンス」の中でも、逆さ磔にして頭部に傷をつけて出血させるという拷問シーンがあったと思う。逆さ磔にすると、頭に血が上って(下がって)しまうので放置しておけば死んでしまう訳ですが、その血が地面に滴り落ちるように頭部に穴を開けてしまうというものであった。また、こうした苛烈な拷問にもキリシタン達が絶えてしまうのは、どこか一向宗門徒にも似た心理があったらしく、禁教を迫られても屈する事なく殺される事は、即ち殉教者になるという事でもあった。

1619年には「京都の大殉教」と呼ばれる処刑が京都で行なわれ、65人もしくは66人が火あぶりによって処刑されたという。その3年後となる1622年には「長崎・西坂の大殉教」で55人が処刑されたという。そして1629年2月に米沢藩で57人のキリシタンが処刑されたという。上杉景勝が米沢藩主であった時代には実際にはキリシタンが領内に居たが、上杉景勝は庇ったのか面倒くさかったのか「我が領内には切支丹は一人もいない」として居たが、上杉景勝が没して貞勝の代になるとキリシタン弾圧が行なわれたのだそうな。

人数として最大規模の弾圧は仙台藩の大籠村で、1638年から翌年にかけて300人以上のキリシタンが処刑されたのだという。では、何故、東北は仙台藩の村に、そんなにキリスト教が広まっていたのかという問題がある訳ですが、戦国時代の永禄年間に同地の領主であった葛西氏が製鉄の技術を取り入れようとして備中から製鉄の技術者を招いたところ、その技術者がキリシタンであった為に広まったという。当時は禁教でもなかったので信者は増え、最盛期には大籠村周辺のキリシタンは3万人に達するほどであったそうな。

1623年の事、仙台藩では広瀬川でキリシタン11人が拷問死した。時期的には東北で行われた初期のキリシタン弾圧になる。1623年12月の事、仙台藩では11名が捕らえ、これを見せしめに大雪の中を引き廻した。そのうちの2名は途中で歩けなくなったので、水沢で斬首された。残った9名は仙台へと送られて大晦日(太陽暦だと2月18日)、酷寒期の広瀬川の河原に池をつくり、それを水牢として裸にして水牢へ入ることを強制された。この時には2名が死んだ。その拷問でも生き残った7名のキリシタンが居たが、4日後には再び同じ水牢へ入れる拷問が行なわれ、この二度目の拷問で残った7名も全員死んだ。つまり、捕らえられた11人は全員殺されている。現在でも仙台市青葉区の公園内にはキリシタン殉教碑が建っているという。

人間というのは権力を持つと、怖ろしい事をするものですなぁ…。
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政見放送や選挙絡みの討論番組を視ていると、全ての政党、そして全ての評論家が結局のところ、大衆迎合してきてしまっていると強く感じている。結局のところ、選挙が近づいてきているので人気取りに躍起になっているのだ。評論家の方は本来は淡々と評論だけをしていればいいのに、これまた、イヤらしい事に視聴者から好く思われたいという下心なのでしょう大衆迎合に走っている。

辛口な事は誰も言えないような言論環境になってしまっているのかもね。節約、倹約、吝嗇、我慢、忍耐、辛抱といった言葉は現在ではタブーになったようで、兎にも角にも「カネをばら撒け」、そして「預貯金させずにカネを吐き出せ」と、まるで口裏を合わせたかのような展開になってきている。もう言論環境そのものが、消費至上主義の経済学に乗っ取られてしまったかのようだ。

20日付朝日新聞の総合3面には、「その事業、本当に必要か」という見出しのついた記事があった。話は岐阜県南東部の山間にある八百津町、その町役場の倉庫の話であった。この町のケースでは、地方創成臨時交付金(コロナ交付金)を財源として、町の全世帯に防災アプリがインストールされたタブレット端末を配布するという計画を立てた。タブレット端末を配布する代わりに防災無線の廃止を決定した。この話、交付金が財源になったと説明してあるので、そのように申請したら国庫から交付金が町に下りて、そのような政策が成立したという事だ。全世帯分のタブレット端末を町が購入したものの、市の倉庫には約800台のタブレット端末が段ボールに梱包された状態のまま、山積みされているという。タブレット端末は1台あたり5万1700円であった。何故、800台も余ってしまったのかというと、案内を送付しても申し込まない人が相次いだ為だという。理由は「タブレット端末なんてもらわないでも、自分のスマホにアプリをインストールすれば、それで用が足りてしまうから」という意見が多数寄せられたという。つまり、スマホを持っていない人に絞ってタブレット端末を配布すればよかった訳ですが、同町の場合は全戸配布を前提にしてタブレット端末を購入してしまっていたのだ。朝日新聞の取材に対して、町の担当者は「防災無線の代わりなので、間違った判断ではない」と言っているらしい。いいね。ブラボー。役人の鑑。Man in Men(男の中の男)。でも、その倉庫に山積みになっているという約800台のタブレット端末、どうすんの?   

そして次のように続く。

新潟県加茂市も23年、コロナ交付金を使って防災タブレットを配ることにした。スマホを持たない高齢世帯などに限って1600台を購入したが、希望を募っても、使い方がわからないなどの理由で、受け取らない人が相次いだ。いまも約400台が倉庫に眠る。

藤田明美市長は「予想以上にタブレットを使いたくない人が多かった」と振り返る。


そんな事例を挙げた後に、日本の財政状況に触れている。

国の財政はコロナ禍で一段と悪化した。昨年度末の借金の残高は、国内総生産(GDP)の2.2倍にのぼる。ほぼ2倍だった戦時中(1944年度)をも上回る歴史的な水準だ。

国際通貨基金(IMF)によると、日本の自治体などを含めた政府部門の借金の対GDP比は、187ヶ国・地域の中で上から2番目。日本より悪いのは、財政破綻したレバノンだけだ。


引用した記事は「一票の先に」というシリーズの第4弾(大日向寛文、徳島慎也)で、借金まみれの財政に余力はないという話を抉っている。結文も引用します。「日本は災害大国でもある。土木学会の試算によると、南海トラフ地震による経済被害は最大で1240兆円。借金をする余力を残さずに使い切ってよいのか。いまを生きる世代が問われる。」と結ばれていた。

選挙報道を視ていると、財源の話は全く出て来ず、5兆円だとか43兆円だとか、物価高に苦しんでいる国民に直接給付をするとか、子育てが大変なので支援金を出すとか、高校まで無償化するとか、減税するとか、どれもこれも羽振りのいい話だらけになっている。まぁ、破滅への序曲にならなきゃいいけど、なんだか怪しい気がするでしょう? 懲りてないんだ。ホントは、こうやって浪費に浪費を重ねてきたんだ。

タブレット端末の話にしたって、おそらく、タブレット端末の納入業者が、役人に提案するところから始まっていて、「この度、国の方では、これこれこういう交付金制度をやっているので、こちらの市(町)でも交付金を申請すべきです。我が社であれば、これこれこういうタブレット端末をこれここれこういう価格で納入できます」のように〈提案型のセールス〉という形で介入するというスキームが出来上がってしまっているのが昨今だ。そこにリベートがついてないと信じたいところだけれども、東京オリンピック関連事業の各種報道など諸々を考慮すると、どうなっているのかは大体、想像がついてしまうものでもあったりする。

ここで触れた話は日本の地方限定で起こっている話ではない。もう、こういう社会に改変されてしまっているのだ。東京もそうだし、米国もそう。米国政治も業界が送り込んでいるロビイストやロビー団体によるロビーに左右される政治になってしまっている。ネタニヤフ政権にはあれもこれも言いたいところだが、結局は「支援する」と発言する。ハリス陣営ともなるとネタニヤフ政権を庇えば庇うほどアラブ系住民からの支持率が低下し、それは大統領選にとっても痛手になると分析できているが、現に、こうなってしまっているのだ。

経済活動を生業としているコーポレーション、そのコーポレーションの原理からすると、政治なんてものはカネ儲けの為の道具に過ぎない。「我々が自分たちで動いて、政治家や官僚に働きかけて、政治を動かしてしまえばいいのだ」というところまで行ってしまっているって事だ。日本の選挙報道でも企業献金の問題が起こっていますが、そもそもクリーンな政治なんてのは出来ないのかもね。


古代ギリシャの民主政について、その記事の隣にあった「日曜に想う」という有田哲文記者の文章は印象的であった。「ギリシャ民主政」のように呼ばれるが、実際に民主政と呼べたのはアテネなどの全都市国家の内の3分の1ぐらいだそうな。

その上で、次の話が非常に興味深い。

興味深いのは、公職者のほとんどがくじ引きで選ばれていたことだ。しかも無給。民主政の初期は選挙も用いていたようだが、くじの方がふさわしいと判断したらしい。

続けて、古代ギリシャ史が専門の橋場弦(ゆずる)・東京大学教授の弁に繋がっている。

橋場教授は言う。「アテネ市民は選挙の弊害を警戒していました。選挙運動のうまい人ばかりが当選するのではないか。人気が集まれば、本人が勘違いして権力を振るい始めるのではないかと」

政治家はクジ引きで決定し、無給で奉仕してもらう。そして一年単位で会計報告書などを提出させて徹底的な審査を受ける仕組みだったという。実は、こちらの方がいいんじゃないの? 政治家なんて使命感のある人じゃないとダメに決まっているのであって、お金儲けをしたい人を政治家にしても失敗するに決まっている。そういう人を選ぶよりも「報酬なんて要りません!」とか「報酬なんて現行の歳費の3分の1でも充分です。私にやらせてください!」という人こそが政治家に相応しいのではないのだろうか? 

先ず、「そんな意見は荒唐無稽が過ぎる!」と思うものでしょう。しかし、よぉぉぉく考えてみると、こういう話こそ、重要なのだ。有田哲文記者も現在の選挙システムの矛盾にイライラしている内に古代ギリシャの民主政について考えようと思い立ち、その「日曜に想う」を書いたと冒頭で言及している。もう、今の政治制度は腐り切ってしまっていて、そう簡単には建て直せない事も同時に我々は分っている筈なのだ。根っこの部分からおかしいから、どんなに現行の選挙報道を視ても納得がいかないのだ。矛盾だらけの現行の一体系を正しい政治論だと思い込まされているのが現状で、その一体系の人たちの政治論に、全員が全員、巻き込まれてしまっているのだ。財源もないのに、労働時間も減らして最低賃金を上げて――なんて、そんな虫のいい話がある訳がない。殆んど寝ぼけているようなものだ。その挙げ句に借金を抱え続けているのが現実だ。収入と支出の著しい不均衡を正当化してしまっているのだ。ちゃんと事実を直視すべきだ。

上村剛著『アメリカ革命』(中公新書)は、現在のアメリカ合衆国の発足前後の成り立ちについて丁寧に記されていた。そこでは当然にギリシャの民主政の話なども土台にされていたのだ。日本の選挙報道を視ていると、堪らなくなるような感覚が沸いた。例えば、現在では「一人一票の原則」を我々は何となく支持している。何となくであるにも関わらず鉄則のように信じられている。しかし、それを受け容れた瞬間から都市部と地方との損と得とが発生する。その問題をアメリカ建国前夜で激論が交わされていたらしい。大きな州(当時は邦)と小さな州との間で不均衡が起こる事はみえみえの制度であり、小さな州は自分たちに不利になるようなルールは断じて受け入れられないと食い下がり、最終的には折衷案に持ち込んで上院と下院の議員配分となり、それが21世紀まで継続しているのだという。この「一人一票の原則」の話は『国家の品格』の著者としても有名な藤原正彦氏が週刊新潮の巻頭エッセイで取り上げた事がある。「一人一票の原則なんてものをなんだか盲目的に信用している者が多いが、絶対的な価値観ではない。もし、そんな事を言い出したら国連でも中国やインドに対して何票も議決権を与えなくてはいけなくなる」のような話であった。おおよそは、その通りでしょう。

ホントは偉い学者や裁判官らの言説を起点にして「一人一票の原則」になっているに過ぎず、そんなイニシアチブ(主導権)に関わる問題で、簡単に折れてはいけないのだ。「したたかさ」とか「質実剛健」といったものは、こういう部分で異論を展開できるかどうかに関わっている。そんな事を認めたら、そのルールになった瞬間から都市部の優越的地位が決定するようなものだ。何故、そこまで考えず、予め用意された問題の正解、その正解に従おうとしてしまうのか――そういう話なのだ。

もし仮に誰も反対することなく、人口の多寡を絶対的基準だとして、それを鉄則だとしていたなら、まとまるものもまとまらず決裂していたとも考えられる。大きな州も小さな州も納得できるような妥協点を模索したので、なんとか21世紀まで決裂を防げたという事なのだ。当然、ここが崩壊すれば多数決専制の民主政になってしまうのは自明でもあったのだ。

少なくとも人口の少ない県の場合、そんなものに賛同する必要性は最初から無かった筈なのに、〈正しいと考えられている一体系の政治〉の中の思考に押し込められ、思考を凝り固まらせてしまうから、そうなってしまっているのだ。

或いは、実際に日本の選挙報道では「派閥の解消」がテーマにされているが、アメリカ建国前夜の話し合いの時点で既に「どうやっても実は派閥のようなものを解消することはできない」という事も話し合われ、凡その合意を得ていたらしい。しかし、今でも日本の政治は「派閥の解消」が政治のテーマである訳でしょう? 政治の専門家を名乗る人たちも参加しているのに。でもホントは派閥のない政治なんて不可能だと思いますよ。「政治そのもの」が〈群れる〉という性質を内包して成り立っているようなものだから。
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玉野和志著『町内会〜コミュニティからみる日本近代』(ちくま新書)は、「行政学」という耳慣れない分野からのアプローチによって、近代以降の日本が具体的に、どのように誕生したのかを明らかにしていた。町内会とか町会とか自治会と呼ばれるような共同体が、どのように誕生して、どのように中央集権体制に組み込まれて行ったのかという過程を確認できる貴重な内容であった。教科書で「明治維新が起こりました。徳川幕府は大政奉還しました。その後、明治新政府は廃藩置県を行ないました」と教えられても肝心要の内情というものが分からないのだ。戦国時代を制した徳川家康が徳川幕府を布いて、その徳川幕府は実に265年もの期間、この日本を安定的に統治する事に成功していた。事態が変わったのは、南蛮船が出現するようになったからであり、黒船に開国を迫られてからの激動だったのだ。

日本を統治するには、統治するに値する大義名分が必要になる。その大義名分として担ぎ出されたのが天皇であった。攘夷思想の後に尊皇思想が隆盛となって尊皇攘夷運動になったのは、実際に、そういう順番だったからなのでしょう。とはいえ、既に徳川時代から日本は存在していた。江戸は100万都市であり、当時の水準では世界一の人口を誇っていた。歴史分類では江戸時代は中世ではなく、近世であり、後に西洋人に衝撃を与えた葛飾北斎や安藤広重の浮世絵ほか、最近、注目を集めている伊藤若冲であるとか世界に誇るべき文化を有していた。和歌に俳句といったものが独自の形式で発展をみていた。織物や染物や小物類のデザイン性や圧倒的完成度は明治維新以前の日本、徳川時代には確立されていた文化・文明であった。なのに、明治維新を〈文明開化〉と恥も外聞もなく呼んできたのが実際の戦後日本人の歴史観であり、歴史教育であった。アヘン戦争を「東洋文明と西洋文明との不幸な出会いであった」と回想する歴史観があるが、日本に於ける倒幕にも同じ事が言えるのではないだろうか。

蒼氓の民を統治するにあたって、明治新政府は農村部では徳川時代中期頃からあったという村落共同体とか部落と呼ばれる共同体を利用した。そこには豪農と呼ばれる人たちがあり、この豪農とは自らも農業を営む人たちであるが、その豪農の下で小作農は田畑を借りていた。実質的に小作人たちを取り仕切っていたのが豪農であった。豪農の上には江戸時代でも大地主があり、大地主になると自分自身は農業をしなかった。小作人らがリーダーとして仰いだのは当面、土地を借り、且つ、困ったことがあれば手助けもしてくれた豪農の方であった。明治新政府は地租改正を行なったが、当初は豪農が小作人を引き連れて日本各地で一揆を起こしてしまったので、税率を下げるなどの懐柔策をとった。また、豪農には、そういう力があると知った明治新政府は巧妙な選挙制度をつくった。大地主には国政選挙の被選挙権と選挙権とを与えたが、豪農には国政選挙の選挙権を与えたが被選挙権を与えたのは地方選挙に対してだけとした。豪農の多くが、そのまま、旧家として、その地位を守ることになり、村長や校長を出すという田舎の名士の家系となったという訳です。一方、小作人は親分を失ってしまった形となったので、以降は小作争議が各地で多発している。しかし、そうした抵抗運動を抑え込むのは豪農をリーダーとして起こされる豪農一揆と比較すれば、はるかに簡単だった――という訳です。

都市部では山の手の一等地に権力者たちが邸宅を構えた。「下町」と「山の手」とがあり、これは黒澤映画「天国と地獄」のモチーフでもあり、英語のタイトルは「ハイ&ロー」であった。山の上に佇んでいる豪邸を山の下にある庶民が眺めるという都市の地理的構造を背景として、犯人は社長の息子を誘拐して身代金を要求するという事件を起こしたというものであった。何故、その家を狙ったのかというと、いつも山の上にある豪邸を見上げながら羨望の情を募らせていたから。明治維新以降の日本の都市部では山の手に富裕層が住居を構え始めたので、坂の下に富裕層を相手にする商店が次から次へと集まってきた。特に都市計画されたものではなく、勝手にそうなったという意味であり、坂の下には商店が軒を連ね、そうなってくると今度は家を持てるだけの経済力を持つ人たちが坂の下、つまり、商店のある地域に住宅を持ち始めた。その時期に形成されたのが自営の商店主らを中心とした町内会であり、この町内会制度は効率的だというので日本全国に広まった。行政が町内会を特別扱いした事の裏にも事情があった。町内会とは市町村行政を補完する自治的な共同体であり、つまり、行政の末端の仕事は町内会が機能しれくれたのだ。或る意味では「自治体」という概念に最も理想的に対応した自助的共同体が都市部にも誕生した。農村部の部落共同体と並んで、それは明治以降の日本では、かなり機能的な役割を果たしていたと考えられる。まぁ、直ぐに戦争に突入していってしまうので、この日本型の共同体は不幸にも国家総動員法に組み敷かれ、「隣組」の結束が強調され、これまた不幸な衆人環視システムとして機能した。

ホントは町内会制度のようなものは、自治的性格が強く、役割にしても輪番制であり、小回りが利くという利点があったので1970年頃までは自民党政権も農家や小規模自営業者を保護する事で、その票田として抑え込んでいた。しかし、その関係性は最早、形骸化していて実質的には存在していない。80年代半ば頃から為政者は都市型の被用者層を対象としての選挙戦をする必要が出て来たので、自ら動く自営の人々ではなく、モノを消費する消費者、消費者至上主義へと政策をシフトさせたのだ。既に社会の構造が、そのように変化したので、そうなったとも言えるが、その変化をもたらせる分岐点にあったものは諸々の政策であった。

80年代半ば頃から自営業者や農家にとっては不利に作用する政策のオンパレードになっていく。大店法は小規模自営業者、特に商店にとっては命綱であったが、それが撤廃されてダイエーとヨーカドーが日本で飛躍的に広がって各地にあった商店街は没落。興味深い事に町内会の組織率の低下が起こるのも同時期なのだ。〈価格破壊〉という名の流通革命を起こしたダイエーは早々に経営破綻し、バブル期には隆盛を誇った西武グループも衰退。気が付いてみれば日本各地にハワイのショッピングセンターを想起させるような巨大なショッピングモールが登場した。「もう、飽和状態なんじゃねぇの?」と巷間では囁かれているが、まだまだ、ショッピングモールは乱立している。(おそらく人口減少は進展してゆくので、既存の巨大ショッピングモールにしても、先々は経営が苦しくなっていくだろうと予測できる。また、近年には実質的な戦後日本文化とも言えたであろう屋台の飲食店を衛生上の理由を掲げ、行政機構はテレビメディアとタッグを組んでトドメを刺した。)

かつて労働争議や安保闘争の盛んだった頃には、それらを鎮圧する為に政治家はヤクザとも手を組んでいたが現在ともなると掌返しをしている。「これは、やりすぎなのでは?」というレベルにまで暴対法を強化している。しかし、現在ともなると「暴力団なんてものが存在している事自体が問題なのです」と支援してくれる人たちと二人三脚のランデブーを楽しんでいる。何か反抗的な気運が起これば、即、世論と二人三脚で弾圧できるという絶好のポジションを為政者たちは手に入れる事に成功した。既に五公五民で搾取する苛酷な税制になっているが、誰もが税金を納める事は義務なのであると強く思い込んでいるので、誰も反乱を起こせない。芸能人の不倫騒動に対して世論は激怒し、政治家や経営者といった指導的な地位にある者たちも公然と同調するような社会になっている。しかし、それは逸脱者を叩き、逸脱者の排除に精を出しているという事でもある。「いじめ撲滅」を掲げながら、その実、国民総ぐるみで異分子排除に躍起になっているという事でもある。まぁ、異分子排除はちょっとしたゲームみたいなもので、最後に残るのは最も狡猾な裏切りをした者が生き残れるというゲームなのでしょうねぇ。


で、同じような観点で、アメリカ合衆国の成り立ちについても眺める事ができそう。上村剛著『アメリカ革命』(中公新書)は、英米、つまり、アングロサクソンが世界的な主導権を確立させていった歴史について語られている。というのは、日本近現代は維新軍らが天皇を担ぎ出した事に始まっている。天皇を担いで王政復古と称して、徳川幕府に向かっていったという事であり、その後も天皇制を武器にして薩長出身の政治家らが国民を組み敷いていった歴史であるとも言える。もし仮に天皇を担ぎ出せていなかったなら、維新軍は日本国民に統治する事の正当性を示せただろうか? きっと示せなかったでしょう。おそらく、それ以前は徳川幕藩体制が265年も継続していたのだから、次から次へと「わが✕✕藩が薩摩藩や長州藩に支配される謂われなぞ、無いワ! 皆の衆、立ち上がるのじゃ!」という具合に敵が出現したに違いないのだ。由比正雪は楠木流の軍学者だったようですが浪人たちを集めて反乱を企てていたという。具体的には、あちらこちらに火を放って江戸に攻め上ぼるというゲリラ戦術を考えていたと考えられるのだそうな。大塩平八郎は儒学者(陽明学)であったが、こちらは民衆に蜂起を呼び掛けるという手法を模索していたという。事前に計画が漏洩したので「大塩平八郎の乱」に発展し、大砲を街中でぶっ放すような市街戦が起こり、大坂を火の海にしてしまった訳ですが、一部には困窮民救済の目的での反乱計画だったのではないかという説もある。それらが逆賊として語り継がれている中で、何故、維新の志士に対してのみ、あれほどまでに正当化されるのかといえば、単に結果論として勝者だからに過ぎないという部分が大きいのではないだろうか。徳川家康ともなると日光東照宮に祀られているように、栃木県下では明治時代には家康の事を「東照宮」と呼んでおり、実質的には神様扱いしていたらしく、相応に上手に統治していたのも確かのでしょう。

独立の為に大英帝国と戦って、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ、つまり、現在の米国が誕生したというのが通常、語られる歴史である。しかし、それも実際には誇張がある事が近年の研究で明らかになってきているという。功労者があれば叡智があった事も事実であるが、シビアに歴史を眺めようとすれば、当然、そのような美しい物語ばかりで歴史が編纂されているものではない。

以下、『アメリカ革命』に沿って――。

西洋の帝国主義が北米や中米へ進出していたが最も早い時期に到達していたのはスペインとフランスであった。スペインはアステカ帝国を滅ぼした後に北アメリカに関心を抱き、1593年にフロリダに進出。フランスも北アメリカに進出してきたのでスペインはフランスと争いながらフロリダとニューメキシコを植民地とした。フランスはスペインを脅威と感じて更に北方を目指すこととなり、1608年にケベック(カナダ)を植民地とした。この頃のイギリスは新興勢力であり、チェサピーク湾(現在のワシントンDC付近)とニューイングランドへと進出した。因みに、ニューヨークはオランダの植民地で、かつてはニューアムステルダムだったし、スウェーデンの植民地もあったという。つまり、北米や中米は、西洋の帝国主義にとっては草刈場だったのだ。実際には先住民が棲息していたし、その上に奴隷を持ち込むなどのブラックな一面が、アメリカ史の前史として存在していた。

このようにして、ヨーロッパから渡ってきた人々は、複雑な「国際政治」のパワーゲームに巻き込まれることになった。スペイン、フランスの両列強とそれに追随するイギリス、オランダの両国の人々は、本国同士の対立を反映していただけではなく、先住民間の部族対立という別のパワーポリティクスに巻き込まれ、翻弄されていったのである。(『アメリカ革命』24頁)

また、イギリスからアメリカは独立するという歴史を歩む訳ですが、そこにあったのは「自由の獲得の為」や「民主主義を発展させる為」というよりも、生々しい国際政治であり、もっとごちゃごちゃとしたものだったというのが昨今の研究で注目を集めているという。例えば、アメリカには王党派と呼ばれる人たちが存在していた。王党派とは、イギリスの国王に忠誠を抱いていた人たちであり、勿論、イギリスからの独立にも反対の立場をとった人たちを指す。しかし、アメリカの独立問題が起こると王党派の人たちは独立を希求する人たちによって弾圧に遭い、イギリスへ帰国したり、カナダに逃れるなどしたという。しかも、この王党派はマイノリティとも言い切れず、独立に反対していた人たちは2〜4割だと推定されるのだそうな。しかし、この辺りなの話などは�牋嫂淌�に忘却されてきたアメリカ史�瓩世箸いΑ�

スペインとイギリスは1585年から1604年にかけて戦争をしている。事の発端は、1578年にオランダがスペインからの独立を動きがあった際にイギリスがオランダを支援した事で、スペインとイギリスの関係は悪化、それから7年後の1585年に戦争となった。スペインの無敵艦隊が撃破されて、世界史の流れが変わる。

イギリスの植民地はイギリス本国の政治と連動しており、イギリス本国は王という君主を持つと同時に議会も持っていた。しかし、1640年頃から王と議会との関係が険悪になり、1649年にはピューリタン革命(イングランド内乱)が起こり、国王が処刑されてしまうという事態が発生する。この頃のイギリスの植民地は国王から植民地の統治権を与えられているという形式になっていた事もあり、植民地の統治者らは基本的には国王に忠誠を誓っている人々であった。しかし、本国のイギリスでは国王のチャールズ1世が処刑されてしまったという事態が発生してしまったのだ。その結果として、植民地の統治者らは、引き続き王党派の立場をとるのか、それとも革命を成功させた議会側についていくべきか悩むという事態が起こった。この問題が、実はイギリスからの独立を望んでいない王党派が2〜4割は居ただろうという話につながっている。

1649年に国王が処刑され、国王のなき共和政となった。このイギリスが国王を戴かないという共和政は僅か11年間しか続かなかったが、その間にも北米大陸への影響は小さくなかった。メリーランドやヴァージニアなどの6つの植民地は、新政府(イギリス共和政)に対して忠誠を誓うことを拒否。それに対してイギリス新政府(イギリス本国)は反乱を起こした6つの植民地に対して禁輸措置をとった上に海軍を送り込んだ。結局、反乱軍は1652年までには鎮圧されたという。このイギリス新政府(共和政)のリーダーがオリヴァー・クロムウェル。しかし、オリヴァー・クロムウェルは、それから間もない1658年に没して息子のリチャード・クロムウェルが後継者となるも、動乱が起こって共和政は崩壊、再び政体は君主政へ。

イギリス本国が忙しい。1688年になると王政復古体制が進行し、ピューリタン革命の反動でカトリック化がジェームズ2世の元へ推進された。これに対して議会の政治家ら反発。議会の有力政治家らが結託してジェームズ2世の長女のメアリー(プロテスタント)と、その夫のオランダ統領オラニエ公ウィリアムを担ぎ出した。オランダ総督であったウィリアムは軍隊を率いてイギリスへ上陸。現役の国王であったジェームズ2世はフランスに逃亡する事となった。これが流血なしに成し遂げられた革命であったことから「名誉革命」と呼ばれる革命の顛末であった。その後、議会はウィリアムとメアリーを共同統治者として、それぞれウィリアム3世、メアリー2世となった。

また、この際に権利宣言が権利章典として法制化され、この流れが立憲主義を確立させてゆく。米国独立にも大きな影響を与えている。「国民には基本的な人権がある」という考え方の確立。

本国のイギリスがゴタゴタしている真、アメリカの植民地では植民地を経営する特許状が更新され、マサチューセッツやペンシルバニアでは植民地の領主に該当する総督の自治権の拡大が起こる。

やはり、この16〜17世紀のアメリカでも大きく世論を左右していたものは、宗教であったという。人は何かしらの道徳的基準が必要になるものであり、また、それが対立を惹き起こしたりもするという諸刃の剣の性格を有している。

ニューイングランドではピューリタン会衆派が圧倒的多数派であったが、南部は英国教会、メリーランドはカトリック教会、ペンシルバニアはクエーカー派といったようにまじりあっていたが、基本的にはプロテスタントが大勢を占めていたという。プロテスタントは「聖書を読む」が特に推奨される宗派なので自ずと識字率が高く、それが有利に作用し、それが「プロテスタント帝国」を作りだしたという語り口もあるという。

少し時間を飛ばしますが、これらの土壌の上にアメリカ独立戦争が起こる。我々、日本人は、これを「アメリカ独立戦争」として教科書で習ったのだと思いますが、英語では【American Revolution】と記す場合もあるという。それを日本語に直訳すると「アメリカ革命」となる。しかし、更に更に、これについては、近年、なんと【royalist revolution】(王党派革命)であったという研究があり、議論になっているという。

18世紀後半、大農園主らに対して群衆らが抗議活動をするようになっていた。「ジェントリ」と呼ばれる貴族そのものではないが紋章をつけることが許されている支配階級と、「ヨーマン」と呼ばれる独立自営農民らの対立が深まっていたのだ。1770年3月、ボストンでも民衆が抗議活動をしていたところ、イギリス軍が発砲、5名の死者が出る事件が起こった。これがボストン虐殺。このボストン虐殺を分岐点として、アメリカでは分断が深まっていった。そこで再び頭をもたげたのが、王への忠誠を保つかどうかという問題であったという。

ここは少し引用します。

今までアメリカ革命は、独立宣言で国王に対する異議申し立てをしたことや、独立後は君主を戴かなかったことから、共和政を打ち立てた革命であると考えられてきた。それに対して、あくまでアメリカの人々が反対したのは議会に対してであって、国王に対してではなかった、むしろ彼らは前の世紀の王様を理想として独立を果たしたのだ、と修正するような議論が登場した。それが「王党派革命」という語の意味である。

結論から言うと、この研究は強引な歴史解釈の面もあるため少数説にとどまっているが、私たちに再考を促すところもある。つまり、実際アメリカ植民地の人の多くは依然として遠く離れた国王に愛着があったし、表象としても、政治制度の点でもその影響下にあったという点を見逃してはならないのである。実際、国王ジョージ三世の肖像画や像が依然として植民地では広く存在していた。一七六八年にマサチューセッツ議会がとった態度はそのようなものへの典型的な反応を示している。彼らは本国に対する抵抗について検討するなかでなお、「我々の共通の長である国王」と表すことにためらいがなかった。それほど彼らの臣従はあつく、内面化されていたのである。
(『アメリカ革命』66頁)

どことなくニュアンスは読み取れるでしょう。アメリカの独立はイギリスの議会に対しての抵抗であり、国王に対しての抵抗ではなかった。アメリカの植民地は、この頃までには相応に自治が確立されており、自由貿易をしていた。しかし、イギリス本国の議会の方があれこれと政治的な介入をしてくることに腹を立てていた。まさしく高次化した政治問題ですが、それでいて「国王への忠義」がポイントだったと考えらえるのだ。

多数決でも戦争でも勝利する為には特定の勢力に譲歩して連携し、敵と味方とをつくるという政治力が物を言う。何かしらの志が影響したというのも真実でしょうけど、現実問題を考慮すると、おそらくリアリズムに基づいた政治的駆け引きの産物によって誕生したのが〈歴史〉であり、〈正義〉や〈正当性〉であったりするのが分かる。それは偶然の要素も大きく介在しており、絶対的な価値観ではありませんね。「偶々、そのように転がった」という部分が大きそうなのだ。

で、この『アメリカ革命』の著者は西洋史とかアメリカ政治史の研究をしている人物であったが、この『アメリカ革命』の書評を書いていたのが行政学という分野の人物であった。精緻に分析してしまうと、通説として語られている「自由を勝ち取る為に行なわれたアメリカ独立戦争」という神話にしても、少し違うものとして見えてくるという訳です。

後に掘り下げて論じる事ができればと思いますが、長々と展開させた話でも感じ取れる部分はあったと思う。日本史に於ける明治維新で、倒幕を掲げた志士たちが天皇を担ぎ出せていなかったらどうなっていたのか? 勝てば官軍という状況に過ぎなかったのだ。同様の状況はアメリカ独立戦争にも見い出すことができてしまい、独立運動の底にはイギリス本国に翻弄されても尚も統治権を与えてくれたのは国王であり、「イギリスの議会にはノーだが、イギリス国王には忠誠を誓いたい」という人が実は多かったらしいのだ。

総督はイギリス国王からの特許状を論拠にして植民地経営をしていた。そして総督の統治下で北米に移民してきた白人たちは生活をしていたのだ。そんな彼らにとって「あなたの親分は誰なのか?」といえば、イギリス国王であり、イギリス議会じゃないと捉える人たちが2〜4割ほどあっても全く不思議ではないのだ。むしろ、この部分をアメリカ史は意図的に忘却してきたと考えられるのだそうな。つまり、北米へ移民して実際に生活基盤をつくっていた人たちは総督下の体制で自由貿易も行なっていたが、イギリス本国(議会)があれこれと制裁として禁輸措置を課したり、税率を上げるなどの圧力をかけてきたので、イギリスの国王ではなく議会の方に対して「ふざけんなっ! こうなったらワシらはワシらで独立じゃ! 独立して神の国をつくるんじゃ!」というノリだったと考えた方が自然と言えば自然なのだ。これがアメリカン開拓スピリッツなのかもね。

誰もが権威的な裏付けを、自分たちこそが正統なのであるという裏付けになるものを欲しているという事なのでしょう。それだけでしかない。
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上村剛(かみむら・つよし)著『アメリカ革命』(中公新書)に目を通してゆくと、政体循環論というワードが登場している。この政体循環論は〈時代は循環している〉という考え方に依拠しており、政体循環論の場合は古代ギリシャのポリビュオスの唱えたものとして語られるのが主流であるという。

政体循環論について説明するには、その前段階が必要になってくる。それがアリストテレスであり、アリストテレスに拠れば、政治体制(以下、政体)は3種類に分類できるという。1つ目は君主制であり、2つ目は貴族制であり、3つ目が民主制となる。

アリストテレスは➀君主制、��貴族制、�L閏臉�と3つに分類したが、分類方法は多様であり、その後、ポリビュオスが政体循環論を展開させたという。ポリビュオスの政体循環論によれば、➀君主制⇒�∪貔�⇒�5�族制⇒�げ鋲�制⇒�ヌ閏臉�⇒��衆愚制と進行し、この��衆愚制の次には再び➀君主制に戻り、政治体制(政体)は6種類ほどあり、それが順繰りに循環しているだけであるという考え方を指している。因みに、この政体循環論はマキャベッリやシュペングラーも展開させていたものだという。

➀君主制⇒�∪貔�⇒�5�族制⇒�げ鋲�制⇒�ヌ閏臉�⇒��衆愚制ときたら、また最初の➀君主制へと戻るという訳です。

そんなもの根拠がない、実証されているものではないと言い張る事もできる。昨今の論調とは、それです。しかし、古代の賢者を舐めてはいけない。これが理解できているのか理解できていないのかで、大きな違いが生じてくる。実は、膨大な蓄積によって、これらの体系は出来上がっているのだ。

古代中国思想にも「易姓革命」というものがある。皇帝の姓が改まる事こそを、革命と捉えており、或る王朝が発足したなら、その発足時がその王朝の最も好ましい形を有しているという。しかし、年月が経過してゆくと政治体制というものは必ず弛みが生じるものであり、基本的に時間が経過すれば時間が経過するほど、政治体制は腐敗し劣化してゆく。もう、どうすることもできないという具合にまで劣化したときに、易姓革命が起こる。つまり、皇帝の姓名が替わるという訳です。その点、何故か日本の天皇には姓がなく、革命の起こりようがないという問題があり、思想家・松本健一らはその問題に言及していた。

拙ブログ:徳治と法治の間

ここで易姓革命に触れたのは意味がある。先に述べたように「政体というのは、どんどん腐敗が進行して劣化していくものである」という考え方が、古代ギリシャと共通しているじゃないか――と。

これはポリビュオスではなく、アリストテレスからして、そもそも政体は堕落していき、劣化していくものだと考えられていた事が分かる。君主制の政体であるが、堕落が起こって貴族たちによる貴族政治という意味での貴族制となり、その貴族制も堕落が起こるので民主制になるという堕落論は既に認識されていたのだという。それを更に細密にしたのがポリビュオスであり、君主制からスタートするが、中国史の太祖や太宗、日本史であれば徳川家康のような初代将軍に該当する人物が健在な時代は安泰だが、そのカリスマ性のある人物の死後には世襲となる。代々、王位(帝位)は世襲されてゆくが、この引き継ぎが起こる時点で堕落が始まり、君主制が堕落して世襲による専制政治が起こり、これを専制と呼ぶ。その専制も更に堕落して貴族たちによる貴族制になり、その貴族制も堕落して、貴族たちは相争い、そこで勝利した一部の有力貴族による寡頭制になる。寡頭制はそもそもからして収まりが悪いので民衆の反乱を招き、これによって一部の民衆たちが政治権力を奪取して民主制になる。しかし、その民主制も堕落するので衆愚制となって政治体制そのものが崩壊する。その混沌を制するのは、新たに登場する君主であり、その君主は君主制の政体を布く。このように政体は循環するだけであるという考え方。

現代人は「民主主義」こそを至上価値だと思い込んでいる。それは、政体論で言えば民主制であり、これは民主政と表記したものと同一である。しかし、ここに我々の認識の歪みがあるという。民主制とは18世紀に〈封建制〉という言葉への対立概念として登場した〈民主制〉であり、18世紀以前に考えられていた「民主制」は別の意味であるという。18世紀以前の民主制とは、率直に言えば「多数者による無秩序状態」を意味しているという。民衆どもが、それぞれに好き勝手なことを言っている状態であり、秩序としては無いに等しいという訳です。そんな民主制は、仮にマトモに機能したとしても、直ぐに腐敗と堕落が起こり、衆愚政治に転じる。

まぁ、統治者と被統治者からなる社会システムとは、即ち〈政治体制〉という事になりますが、その政治体制というのは、どこで切ってみても金太郎飴のように腐敗だらけであり、堕落のオンパレードであり、どのみち劣化していくと考えられてきたという訳です。自分たちの劣化を認めることが出来ないで、進歩している、進歩していると繰り返してばかりいる現代人というのは、まさしく無謬性の虜であり、既に相当にヤバい状態なのでは? 現行世界なんて末法も末法のような気がするかな。現在ともなると、パンとサーカスは恒常化し、政治家は自分が当選したい為に盛大にカネをばら撒き、テレビの中の知識人も訳知り顔で「カネをばら撒くべきなのです」と、平然とばら撒きを要求していたりする。

この『アメリカ革命』とは、アメリカが独立を果たして成文憲法による統治体制を確立するあたりまでを取り上げている書籍なのですが、それ以前ともなると、実質的には無秩序世界ですかねぇ。誰が最後までリング上で無事で居られるのかという、プロレスのバトルロイヤル状態だったことが解説されている。結構、決定的な事柄も記されている。また、この時代こそがフランス革命が起こった時代でもあり、どうすれば少しは皆が納得できる秩序体系ができるのだろうかと喧々諤々やっていた時代があったのだ。それらも暴力革命によって、それら革命が成ったというだけで特に決着がついた訳でもない。

ただ、一つ、そのイギリスとイギリスの植民地であったアメリカとが激しく対立していた頃、イギリスは「コモン・ロー」という法律制度を整備していくという秘策に到達した。この「コモン・ロー」とは、慣習を重んじ判例によって発達したものだという。奴隷の反乱があり、先住民の反乱があり、また、植民地民の領主階級の人たちが反乱があった。その中で、アングロサクソンたる英米では、コモン・ローが導入されていった。法律によって利害関係を公平に裁くという事を思いついた。しかも或る種の叡智のようなものによって、それが出来上がったのではなく、戦局を有利にする為、つまり、敵を取り込む為や懐柔する為の方便として出来上がったものだという。すべての政治的権力を有する者は、ことごとく強欲って事ですな。

で、救いになるのは英米の法律制度たる「コモン・ロー」の下地になっているものは、法哲学の分野になってしまいますが、「善きサマリア人(びと)の法」だという。

「善きサマリア人の法」とは、具体的に何を意味しているのかというと、以下のような事柄を意味している。

近隣者間や隣人愛的関係に関わる道徳的義務の遂行を促進することを目的として制定される政策。

であり、つまり、困窮者が居れば助けてやり、もし仮に弱い者いじめの現場に居合わせたなら見て見ぬふりをすべきではない等の、そういうキリスト教の隣人愛の精神が基盤になっているという。ホントは社会秩序の根源は、それら道徳的価値観であり、〈ルールそのもの〉や〈法律そのもの〉ではない事が分かる。また、隣人愛や憐れみについての部分ですが、それは極論すれば、手を差し伸べるのは弱者・困窮者だけでもいいという意味でもある。憐れみとは、それだ。ここで道徳的義務を過大に解釈してはいけない。でも、昨今は違いますやね。自民党総裁選や民主党代表選に耳を傾けて検証してみるといい。

「コモン・ロー」にしたって英米の慣習が元になっているという。という事は、日本人は日本の慣習に基づいて物事を判断していれば、それなりの秩序を保てるだけの道徳はあったのでしょうに皮肉な事に、悪い意味で世界標準化されてしまったという事なのかも知れない。

因みに、このキリスト教の〈隣人愛〉というのは、仏教の〈憐れみ〉を重視する思想と根底では繋がっているような気もするけどね。

拙ブログ:心の清い人は幸いである。その人は…
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上村剛著『アメリカ革命』(中公新書)を読み始めたところですが冒頭から、あれやこれやと思う事が多かった。

先ず、一つには白人史観やアングロ史観が多く、従来の歴史は通用しなくなってきているという話が一つ。これは目新しい訳でもない。最も簡単な例で述べれば「コロンブスの新大陸の発見」のように語る歴史観では通用しなくなってきているという問題だ。30〜40年前から、そうなっていたような気がする。新大陸を発見したのは、当時の西洋人が発見したという感覚であり、しかも新大陸には実際には先住民が居たのだ。でも、今更、この部分を強調しても仕方ないところがある。分かっていない人があるのであれば、そうなってしまう訳ですが、平たく言えば「相対主義が理解できない人が増えた」とも関係しているような気がする。これは現実問題として、知性を語るにあたって勝手に指標化して、その優劣の序列で並べるというデジタル優生思想のようなものが沸き出しているのが直近だよなと思う。

また、改めて【革命】とは何を意味しているのかを、前掲著では「易姓革命」という言葉を使用することなく、西洋史観に沿って論じている。「レボリューション」とは遡ってゆくと、2つの意味があるそうで、その内の1つ目は「以前の政治体制が崩壊して新しい政治体制が発足すること」だという。まぁ、我々がイメージする革命は具体的に何を指しているのかというと、産業革命であり、フランス革命であり、ロシア革命であったりする訳です。単に王権が交代したのではなく、政治体制そのものが根本的に変わっている。上記の革命は、いずれも暴力であるとか武力も用いられて成し遂げられた革命である。

では、アメリカ革命とは何を意味しているのかというと、成文憲法による憲法による統治を確立した事だという。勿論、暴力・武力も関係しているのですが、政治体制の確立はあるが、前の政治体制からの交代というのはない。相争う中で誕生したのが連邦憲法であり、つまり、成文憲法による統治という政治スタイルの誕生であったという。このアメリカ革命の話は、期間にしても、この年からこの年までという具合に語るにも諸説があるという。憲法が制定された事によって即座にアメリカ改革は成ったと考えるべきなのか、或いは憲法を制定してからも、あれこれと矛盾が噴出してしまったりするので、常に塗り替えられてゆくものであると言い出してしまうと、アメリカ改革は現在も継続中であるという意見まで出来てしまうという。

【革命】が意味している2つ目の意味とは「原点回帰」だという。革命とは政治体制が変わる事だけではなく、「循環する円の元に戻る」という意味があるらしい。平たく言えば、それは原点回帰を意味しているという。つまり、歴史は循環しているものであり、実は元に戻る事こそが革命だというのだ。1つ目の意味合いで政治体制が根本的なところから変わる事こそを、現在では「革命」の意味だとして使用される事が多いものの、古代ギリシャであるとか、マキャベッリあたりになると「元に戻る」の意味合いで使用されていたのだそうな。

政治体制というのは時間が経過すると劣化してしまうものなので、革命を起こして元へ戻すという意味だと『アメリカ革命』の中で語られている。これは或る意味では興味深くて、古代中国思想を陳舜臣の著書『十八史略』や『中国の歴史』で読むと、その通りの解説があったと記憶している。陳舜臣曰く、中国では、王朝はスタートした時が最も好ましい理想形であり、時間が経過していくと、どんどん政府は劣化の一途をたどるものだと考えられていたという。となると、古代ギリシャと、古代中国で、似たような政治観があったという事になる。しかも、どうやら現在も、その通りというか、古代の賢者らの政治観の方が正しいような気がしてくる。

現代人は「直線的に始点から終点へと向かうものである」という具合に物事を捉えている。おそらく、そういう抽象思考をしている。だから、いつの間にか「循環する」という理屈を忘れ、「前に進んでいるのだから前進して当然である」とか「成長なくして繁栄なし」のような奇妙なフレーズばかりを連呼するようになったのだ。

この円を描くように循環しているので原点に返るという話は、抽象思考といえば抽象思考である。なので想起する事が難しい。しかし、これは福岡ハカセが展開させている動的平衡の理数モデルの話にも似ている。実際に、生命活動を考えてみると、バランスを保ちながら転がっている輪のようなモデルだという。その輪は、少しづつ消滅して、また、消滅した分についてはバランスをとるべく、新たに欠けた部分が補われたりする。つまり、再生産しながら輪という名の生命は転がり続けている。そのようにして輪は転がり続ける。では、その輪は永久に転がり続けるのかというとそうではない。再生産には限界があり、それは生物の生命活動に置き換えるなら寿命のようなものがあるという事になるのだという。

おそらく、革命の意味として「循環して元に戻る」ではなく、現代人は「旧体制から新体制に前進する」という風に解釈しているのでしょう。本当は劣化しているのに劣化している事を受け止めることが出来なかったり、或るいは間違った方向に進んでいるのに「前に進め、前に進め。前に進むことこそが正解なのである。成長なくして繁栄なし」という残念な狭路に嵌まり込んでしまっているのだ。この数週間、兵庫県知事を巡って「無謬性の問題」が新聞やネット記事で取り上げられている。この無謬性(むびゅうせい)とは何かというと、自分で自分の誤りを認められない事を意味している。高学歴エリートである私が間違いを起こす筈がないのであるという硬直的思考になっているので、そのタイプの人は一切の批判を受け入れない。常に自分だけが正しいという思考回路なのだ。そして、間違っている方向へ、どんどんと突き進んでいく。この無謬性の問題なんてのは、40年ぐらい前の重信房子氏の文章にだって登場しているぐらいで、無反省で突っ走る事が如何に悲劇を生むのかという問題にしても、本当は古典のような領域だ。しかし、本当に、こういう問題が続出しているのが令和ニッポンであり、世界各国の政治的混迷も似ているのだ。

案の定、『アメリカ革命』でも日本史の「明治維新」について言及されている。「維新」という日本語を外国語に翻訳した場合、結局、意味合いとしては王政復古のようなイメージになってしまうので、少なくとも外国人向けに説明する場合は「維新」ではなく「革命」と呼んだ方が意味が通じるので「明治維新」という呼称についても見直しの声が上がっているという。

退屈な話だと思いますが、ここのところ、こういう類いの問題、言い直すと「従来、教科書で教えられていた手法は本当に通じなくなってきている」という問題がごろごろ発生している。従来の知の体系の欠点が噴出しているかのようだ。「知の転覆」とか「知の逆転」のような現象が、あちらこちらが沸き起こっているという事のような気がしないでもない。

仲間由紀恵&阿部寛コンビがハマった映画版「TRICK」シリーズを視聴していた。科学主義によって霊能者を否定する、トリックを暴くという趣向の人気コメディであった。視聴しながら、「本当に科学は万能なのかという問題は残るよな」と視聴しながら感じていた。殆んどは奇術なのだけれども。で、映画版第4弾の完結編になると、とうとう、その問題が頭をもたげることになる。ヤマダこと山田直子、上田こと上田次郎の凸凹コンビにも〔終焉のとき〕が訪れる。ヤマダはシャーマンの遺伝子を継承している者だと判明し、そのシャーマンの遺伝子を継承している者の使命として自分の命を犠牲にして、人々を救うという選択をする。様々なトリックを暴いてきたヤマダとウエダのコンビは、最後にそんな運命を辿るというエンディングになっていた。

コミカルな演出にコミカルな演技が売りの作品だったので、「えっ! 最後に仲間由紀恵演じるヤマダは死んで終わったんだっけ?!」と感じた。完結編では、演出としてもテレビドラマの歴史からすれば、13年半も続いた人気ドラマであり、そのヤマダ&ウエダのコンビへの愛着のようなものもあった。基本的には、とにもかくにも〈飄々とボケ倒す〉というスタイルのドラマだったので、コンビの片割れにして主人公であるヤマダが死んでしまったという終わり方はシリアス過ぎるじゃないかと感じた。あの仲間由紀恵さんがつくりだしたヤマダというキャラクターの最期としては、悲し過ぎるのではないか――そんな事を思った。霊媒、占星術をともすれば現代人は過度なまでにバカバカしいものであるという風に見てしまっているが、そもそも現行の人類にしても原初的には、そういう部分からスタートしている。

文化人類学であるとか、歴史、哲学であるとか宗教であるとか、殊に薄れかかっているのは『金枝篇』に描かれているような箇所ですが、或る時期までは易者と学者の区別はなかったのだ。それが理解できなくなってきている。特定のイデオロギーのみを信仰し、迷走に迷走を重ねている。原点回帰して〈元に戻る〉ことを忘れ、人類は誤まること等ないと盲信して、幾つも分岐点を間違ったままに進み、〈際限なく膨張できる〉とか〈克服できる〉という思い込みから抜け出せなくなっている。もののけたちが反乱しているのであれば、そいつらを力で退治すればいいのだという思考回路一辺倒になってしまっている。

攘夷思想が尊皇思想や勤皇思想に進化して、明治維新が起こり、日本は軍国主義に転じた。そして戦争を繰り返して敗戦を迎えた。この終戦を契機として日本は政治体制が切り替わった。実際に憲法が変わった。なので、学者らの間には実際に「八月革命説」なるものが存在しているのだそうな。日本は戦争に敗れた八月に革命が起こったのである――と。しかし、これにも異論を掲げる事ができてしまう。あれは自主憲法なのか? 実質的にどうか? 実態としてどうか? 

明治維新にまでさかのぼったとしても、あれは「文明開化」などというものではないのは歴然で、それ以前にも明らかに文明があったのだから、本当に明治維新と呼んでいるものを捉え直すと、単なる開国と西洋化であり、更に言えば帝国主義化をしたという事であったとも言えてしまうのだ。戦後の日本にしても実質的には国際的な枠組みに組み込まれたという説明でも矛盾はしないでしょう。

実際に『アメリカ革命』でも社会契約論の矛盾などに触れられていましたが、日本だけではなく世界各地で「ところでさ、この国の主権者は誰なんだい?」というイニシアチブの問題が噴出しているという事だよなと気付く。現行では、まだまだ、法治主義への盲目的信仰が根強い。しかし、昨日、ロシアに兵器を提供していたイランに対して制裁を発動するという報道があった。もし、本当に法治主義が機能しているのであれば、イランだけではなく、彼らが必死に庇っているかの国に対しても制裁を科さねばならないというのがルールによるシバリだとなと思う。似たような行為をしている事を前提として、或る者に対しては制裁を発動し、或る者に対しては制裁を発動しないというのでは整合性が取れないのだ。真の権力者は誰なのか? 何が権力を決定づけているのか? それを考えてゆくと結局のところ、16世紀とか17世紀に芽があった植民地主義のようなものに行き着いてしまう。勿論、武力のみではない。アングロサクソンの時代になると法治主義や宗教さえもが他者を支配する為の武器になっていたという話を『アメリカ革命』は論じている。

ああ、マキャベッリも元々は国を維持していくには人々の「徳」が必要だと考えていたらしい。しかし、いつの頃よりか「徳」のような抽象的観念は、科学主義とか唯物論に追いやられてしまい、なんでもかんでも「戦って勝利した方が偉いのである」という単純な問題に書き換えられてしまっている。
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