どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 政治史など

テルアビブ空港襲撃事件(リッダ闘争)は文献上、世界初の自爆テロであったとされ、それを敢行した人物の一人が奥平剛士であった。この奥平剛士は元々はセツルメント活動などをしており、社会奉仕の精神に富んでいた人物であった。同時並行として左翼思想へ没入した。没入したのは都市ゲリラ戦で革命を成し遂げようとする京都パルチザンと名乗る組織であった。

この奥平剛士は、詩を残していた。

奥平剛士
これが俺の名だ
まだ何もしていない

何もせずに生きるために
多くの代価を支払った
思想的な健全さのために
別な健全さを浪費しつつあるのだ

時間との競争にきわどい差をつけつつ
生にしがみついている

天よ、我に仕事を与えよ


最後の一行である「天よ、我に仕事を与えよ」は、「私にジョブをくれ」の意ではなく、当然、「天よ、我に天命を与え給え」の意である。

いわゆる左翼思想の人物でありながら「天」を前提にしている。これは西洋的なマルクス主義ではなく、実は東洋思想が典型的に影響しているよなって思う。実際のところ、この奥平剛士は三國志マニアだったと重信房子の証言にある。それ故に、このリッダ闘争(つまり、自爆テロ)を敢行する前に、自爆テロを近いあった同志3名で「桃園の誓い」なるものを行なっている。念の為、説明しておくと「桃園の誓い」とは、劉備と関羽と張飛とが義兄弟の誓約を交わしたのものである。

【桃】が東洋思想、特に道教思想に特に痕跡を残している。桃源郷・桃仙郷とは即ちユートピアの事であり、果実としての桃は、その象徴であり、その桃の種ともなると女陰に形状が似ている事から魔除け(邪視)の技法にも用いられる特別な果実である。日本神話にも桃は登場しているし、おとぎ話の桃太郎なんてのも、その御供として犬、猿、雉が登場しますが、実は方位としての戌、申、酉を意味している等と言われている訳ですね。

また、「誓い」とは「誓約」である。またまた、同志と義兄弟の契りを結ぶという発想も東洋では古代からの伝統であり、つまり、「死ぬときは一緒である」と固く固く兄弟分の誓いを立ててしまう事である。で、この様式は、紛れもなく任侠映画などで昭和30年代もしくは40年代ぐらいまでは、実際に日本社会の中で一定以上の価値基準を置かれていた事が否定のしようがない。

京都パルチザンの教祖的な存在であった竹本信弘は左翼思想に任侠道を取り入れていたとされ、或る種、義侠心などを肯定したゲリラ思想であった事で、改めて、答え合わせが可能になるし、赤軍派最高幹部と呼ばれていた塩見卓也にしても水滸伝に多大な影響を受けていたらしいから、なんだかんだいってマルクス主義を掲げていた過激派にしても東洋思想のそうした精神風土は影響していたのでしょう。

では、何故に自爆テロにまで到ってしまうのか? 

それは自己犠牲を厭わないという態度であり、そこに到るまでには精神的跳躍がないと、そこまでは踏ん切れないものでしょう。そこまでの覚悟に到達してしまうという事が不思議といえば不思議でもある訳ですが、これは「振れ幅」の問題のような気がする。

この振れ幅の問題は、観念的な問題ですが、好きな人に嫌われたらショックは大きいが、好きでも嫌いでもない人に嫌われてもショックは小さい、その振れ幅の問題と似ている。おそらく、社会正義なり、理想世界実現への情熱が強い者は、社会正義の為や理想世界実現の為であれば、我が身を捧げても構わないと発想するのでしょう。なんのことはない、情熱の強い人は、自己犠牲をも厭わないという態度になる訳ですね。

真面目な人ほど振り切れた場合には怖いという事かも知れない。セツルメント運動というのも典型的な慈善活動である訳ですが、やはり、未読ですが人文書院の書籍にはセツルメント運動をしていた大学生らが国家主義に取り込まれ、結局は、持ち前のその強い奉仕の精神、自己犠牲の精神というものが戦前の軍国主義に利用されたと分析しているらしい。

また、詩の前半には或る種の焦燥感のようなものも読み取れるかも知れない。前半で「(自分は)まだ何もしていない」と述べ、最後に「天よ、我に仕事を与えよ」なのだから、一たび、生を享けていながら未だ何も成し得ていない自分、そんな自分への焦燥。これは、或る種の功名心と関係しているような気がする。詩でも書いているタイプの者ではない限り、そういう心性を吐露する機会は少ないものと思いますが、思春期以降、何かを成し遂げて、出来る事なら歴史的な功績を残したいものだよね、なんて具合に夢想するものでしょう。内なる野望としてでしょうけどね。

死を覚悟して決行される決死隊によるテロという事になりますが、旧日本赤軍に言わせれば、当時の情勢からすれば、パレスチナとイスラエルとの間での戦争行為そのものであり、義勇兵として決行された作戦であった事となり、そもそも国際法上でも承認されている正当な戦争行為に義勇兵と参加したものであったという。正義というのは確かに相対的なものである事を考慮すると、そうなる訳ですね。また、リッダ闘争後に反イスラエルのアラブ諸国では、この作戦を決行した奥平剛士(自爆完遂)、安田安之(自爆完遂)、岡本公三(逮捕、服役後に亡命)は英雄視され、重信房子、丸山修の証言に拠れば、リッダ闘争のニュースは現地の人々を歓喜させ、タクシーに乗れば「あんた、日本人だろ。タダにしてやるぜ」となり、新聞を買いに行けば「あんた、日本人か。タダでもっていけよ」となり、町を歩けば日本人だというだけで地元の子供たちがまとわりついてくるほどの熱狂があったという。どうも実際に英雄的行為と認識され、大きな熱狂をもたらせた出来事であったらしい。

ミュンヘン五輪村襲撃事件にしても、最終的には銃撃戦を行ない死亡したテロリストたちの遺体を納めた柩がリビアに運ばれると、群衆らは手に手に頭上を橋渡しするようにして柩を御神輿のように担いで歓待している映像などが確認できる事を考慮すると、それらがホラ話であるとは片付けられなくなるでしょう。

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参院選に出馬し、史上最高得票を獲得する前年、石原慎太郎は文藝春秋誌(1967年11月号)にて『雪崩のための一つの石』と題した寄稿文にて、出馬宣言をしていた。出馬宣言にあたって、

私は自分で政治に参加する決心を決めた。来年六月に行なわれる参議院選挙に全国区候補として出る。想像力も創造力も書いて頽廃し切った自民党からあえて出る

とした。中曽根康弘とは個人的な交友を持っていたものと思われるが、石原慎太郎自身の自民党評が決して高くはなかった事が現われている可能性が高い。時勢を考慮すると、自民党は逆風の真っ只中にあり、その中で手にした、戦後派のトップランナーの「石原慎太郎」は渡りに船のような状態であった公算が高い。美濃部亮吉都政が前年の発足しているタイミングであり、「このままでは自民党の時代が終わってしまう」と自民党幹部が危機意識を持っていた中で、石原慎太郎は自民党という器の中で政治家になった。

現今の日本では、いわゆる保守も革新も、ともに頑迷愚鈍な保守でしかない。しかしまだ、政権を担当している「保守」の方に、いくばくかの責任感と政治感覚のリアリティはあると言えようが。

また、

日本という祖国は羅針盤を欠き、海図を読むことの出来ぬ船頭たちによって操られているのだ。彼らはにはもはやこの歴史の転換期に真の革新を行ない、未来に備える国づくりを行なう能力も資格もない。彼らに向かってそう宣言し、それに代わるべきものは我々若い世代でしかないのだ、まず、そう悟ることこそが現代における青年の歴史的自覚に他ならない。

といい、

我々の手で青年の国をつくろう。
青年の歴史をつくり出そう。
そのために、君の力をかしてくれ


と結んだ。そして、世の中全体が全共闘運動が盛り上がる中で、石原慎太郎は選挙で圧倒的な強さを見せつけた。

その後、石原慎太郎は「自民党におけるテロリストになりたい」という過激な発言も見せたという。その発言は1965年の東京・渋谷で発生した18歳の少年によるライフル乱射事件を念頭したものだという。これは永山則夫事件かと思ったら、そうではなく、永山事件に先駆けて発生した18歳少年によるライフル乱射事件であり、実は石原慎太郎は小説の題材にしてもいる。この18歳少年によるライフル乱射事件、西部劇並みの銃撃戦となった事件だという。少年が殺害したのは警察官1名であったが、未成年者による1名の殺人事件で死刑判決が下った稀有な例であるという。(一発の銃弾、一人の力で世の中を変えて見せるという考え方は、左右を問わず革命思想の中にあるので、石原慎太郎は、そういうものも持っていた節がある。)


江藤淳が1970年1月、保守論壇誌として知られていた「諸君!」誌に、『ごっこの世界が終わったとき』を寄稿する。これは保守論壇にあっては、一つの最高到達地点かも知れない内容となりますが、つまりは、アメリカの庇護下にある日本は爐瓦辰貝疝靴咾鬚靴討い襪發里世箸いΧ烈な指摘であった。戦後の日本とは、アメリカの庇護下もしくは傀儡的な何かであり、結局は何もかもが「ごっこ遊び」であるという批判であった。学生運動は「革命ごっこ」であり、自衛隊は「自衛隊ごっこ」となる。江藤淳は三島由紀夫の楯の会についても「ごっこに憂き身をやつしているようなもの」と酷評した。つまり、日本はすべての意思決定をアメリカに依拠し、日本は実際には自己決定権を放棄していると看破してしまっていたのだ。何をするにもアメリカの意向を尊重しなければならない、それが戦後日本の真の姿である――と。

因みに、この江藤の「ごっこ」論が発表された1970年の11月25日に三島由紀夫は楯の会メンバーらと共に自衛隊市ヶ谷駐屯地を占拠し、森田必勝と共に割腹自殺を遂げるという三島由紀夫・楯の会事件を起こしている。アメリカの支配下もしくは庇護下の日本という位置づけは、右派左派ともに懸念材料とされていたのが、分かる。左派は「打倒米帝」なので、非常に分かり易いところがありますが、右派の場合は「米帝からの独立」が志向されていたと、大雑把には言えるのかも知れませんやね。翻って「親米保守」という態度は、純粋性からすれば不可解なのですが、実際問題としての戦後日本は親米保守がその大半の政権政党であり続けているという現実がある。

そうした一部の政治思想の懊悩とは別に、大阪万博が盛大に開催され、おそらく日本国民の殆んどは三波春夫の

♪こんにちは、こんにちは、世界を結ぶ〜

こんにちは、こんにちは、日本の国で〜

1970年の、こんにちは〜


という万博の歌「世界の国からこんにちは」に浮かれていたのが実相であろうと思われる。

1972年11月に参議院議員を辞職し、翌12月に無所属として衆院選に出馬し当選を果す。当選後に自民党へ。

1973年、石原慎太郎は中川一郎、渡辺美智雄(ミッチー)、浜田幸一(ハマコー)、森喜朗らと青嵐会を発足させる。この青嵐会は、結成時に血判状を作成しており、血判状作成を提案したのは、石原慎太郎であったという。この青嵐会は、時の政権である田中角栄政権に対しての批判であったとされる。

1975年、石原慎太郎は議員を辞して都知事選に出馬するも、革新の美濃部亮吉の三選を阻めず敗れている。しかし、1976年に衆院選に出馬し、衆議院議員へ復活。福田赳夫政権にて環境庁長官に就任。

1987年、竹下登政権にて運輸大臣に就任。

1989年1月、ソニーの盛田昭夫との共著で発刊した『「NO」と言える日本』が大ベストセラーに。

1989年8月、自民党総裁選に出馬するも海部俊樹に敗れる。

1995年4月、議員在職25年の表彰を受けた当日に国会議員を辞職する。

1999年4月、東京都知事選に出馬、東京都知事となる。この石原都政は12年間も続いた。また、二選目となる2003年4月の東京都知事選では史上最高の得票率で以って都知事選に圧勝。

やはり、注目すべきは石原慎太郎の政治思想であり、1989年の『「NO」と言える日本』は単純なベストセラーに非ず、シリーズ化した事、また、アメリカに物を申せる日本の未来像を語った事で流行語にまでなったのだから、つくづく、この戦後派のトップランナーは、堂々たる太陽族であった事が分かる。しかも、それは保守本流から著しく逸れていたとも言い難い。おそらくは日本の保守思想の根幹の主張と本音とが一致していたであろう事にも気付かされる。

ただし、石原慎太郎は、この頃の日本の持っていた経済力、技術力を下敷きとしてアメリカにも堂々と物を申せる日本であった。仮に日本が日米通商交渉で、仮にアメリカ側から圧力をかけられても「そうなのであれば日本は米国には半導体を輸出しません」と言えるだけの、その技術的な裏付けがあったから成立していたものであった。

『「NO」と言える日本』は1989年のベストセラーであったが、1989年11月にベルリンの壁が崩壊する。次いで日本でバブルが崩壊するのは、1990年もしくは1991年ですが、諸々の条件が崩れて行くのが確認できる。

石原慎太郎の米国依存からの脱出という野望は、おそらくは1995年頃には潰えており、1999年以降は都知事としてマッチョな都知事となる。都知事時代の主な功績は歌舞伎町浄化作戦、築地移転、臨海副都心開発、ディーゼル排ガス規制、東京マラソンの実施など、実は誰からも批判されにくい分野に多い。また、性善説で行なったものと思われる首都銀行東京などは、惨憺たる結果を招いたと酷評される事が多い。

また、その東西冷戦構造が崩壊し、一国主義からグローバル社会、そして中国の台頭という状況の中で、石原慎太郎は対中国問題で強硬な態度を採るように変質していった。青嵐会以降、基本路線としては対米で構えていたのでアジアの中のリーダーとしての日本という構想が可能であったが、中国の台頭に加えて、日中関係の緊張も起こり、アジアのリーダーとして日本は独立すべきという構想は、いつの間にか完全に消え去ってゆく。

1991年、石原慎太郎は江藤淳と共著で『断固「NO」と言える日本』を刊行した。江藤の評を受けて石原慎太郎は、アメリカ依存からの脱却の必要性を語っていた。

究極はアジアの日本としてアジアとともにアジアの政治、経済ブロックの再構築を遂げる時期はやってくるでしょう。

また

アメリカだけが世界ではないのです。世界のために日米間に真にイコールなパートナーシップがあるべきなのです。

と述べていたから、石原慎太郎の本来的な方向性は、そこにあったのが確認できる。



江藤淳は1999年に没したが、江藤に拠れば「戦後日本」は「石原慎太郎的である」と評した。結局、中韓(アジア)との連携もできず、アメリカの庇護下から抜け出して自立的な日本を打ち立てる事は出来なかった――、と。

2014年、石原慎太郎は「太陽の党」を結成し、「日本維新の会」との連携を模索した後に、再度、「次世代の党」を結党して衆院選に挑むが落選。これを最後に政治家人生に幕を引いた。

確かに「戦後と寝た男」の物語なんでしょうねぇ。


最後に私見としてですが、中島岳志著『石原慎太郎〜作家はなぜ政治家になったのか』(NHK出版)の内容に沿って展開したものの、印象からすると著者の筆致はより批判的であったかも知れない。より、シビアであり、東西冷戦構造の崩壊、バブル崩壊、更には中国の台頭と日中関係を巡っての尖閣を巡る緊張等、環境要因の変化はさほど、酌んでくれていない筆致であったような気もする。「政治は結果責任」のように語るようになっている現状からすれば、環境要因の変化は言い訳にしかならず、アメリカ依存からの脱却を模索していてアメリカ依存を深める現況になってしまっているという結果は確かに重たい。(とはいえ、それは石原慎太郎の責任というよりも、ホントは安倍政権の責任だし、更に言えば、有権者による選択にも一因があると言えてしまうのかな。ああ、中曽根政権の頃から微妙な空気はありましたが、アメリカ依存、その要請を断り切れずに決壊してしまったのは実は第二次安倍政権でしょう。)

戦前を近代とし、戦後を現代と分類するのが通例なので、それを踏襲すると、すなわち戦後とは現代そのものを指している。そして戦後を象徴し、戦後保守派の中心人物であったであろう石原慎太郎は、確かに戦後日本そのものの姿を映している。着地点のないまま跳躍してみたが、あらぬところへ着地する羽目になってしまった。皮肉ながら現代日本の時局を考慮すると、まさに当て嵌まっていそう。安倍政権や読売新聞さん的な言説は「日米同盟の深化」を疑いませんが、そもそも保守思想とは――。





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「太陽族」の生みの親でもあった石原慎太郎とは、即ち戦後派(アプレゲール)であり、既存の旧態依然とした旧勢力に風穴を開けた。平たく言えば『太陽の季節』に関してもよく評されるように、それは実はアプレゲールとほぼ同義であり、旧勢力からは無道徳、無軌道、破廉恥、遊戯的と評された。実は文藝春秋社にしても芥川賞に選出しておきながら、文藝春秋社内に於いて「ウチは仮にも文芸誌だから…」という反対意見が根強く、結局、単行本の出版はライバルの新潮社から発刊されるほど問題視されていたのが『太陽の季節』であり、小説家「石原慎太郎」が世に出てきた頃の空気であったという。

また、前段の通り、1956年の時点、つまり、60年安保の前の段階では、あの石原慎太郎は堂々と「護憲」を掲げてさえいたのだ。

「太陽族」の名の通り、じめじめした日本文学を打破しようと「太陽性」を掲げ、実際に石原慎太郎は身体性を伴う快活にして健康的な何かを志し、ボクシングに打ち込み、カーレースにも打ち込み、スクーターでの南米横断旅行、ヨットレース、現代ジャズなどにも挑戦しており、到って、その太陽性の体現者でもあった。大阪万博公園にある「太陽の塔」、そして「芸術は爆発だ!」というフレーズでも有名な芸術家・岡本太郎と意気投合した、共鳴し合ったというのも事実であり、戦後日本の旗手、そのトップランナーが、戦後と寝た男・石原慎太郎だったのだ。

この当時の戦後派の登場、その状況を著者の中島岳志さんは、次の構図で説明している。

1955年…石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞。

1956年…江藤淳が『夏目漱石』で文藝評論家としてデビューする。

1957年…開高健が『裸の王様』で芥川賞を受賞。

1958年…大江健三郎が『飼育』で芥川賞を受賞。

戦後派の波が押し寄せているのが分かり、この内、石原慎太郎と江藤淳は「戦後派保守」を形成し、大江健三郎は戦後世代の左派論客となってゆく。明らかに、つなぎ目、変節期のようなものがあったという事かも知れませんやね。因みに石原慎太郎が登場した1955年には、アメリカでジャームス・ディーンの主演映画「理由なき反抗」が大ヒットしており、単に日本国内だけで起こったものではなく、既成の価値観から第二次大戦後の価値観への転換が、不良(アンモラル)な形で発現していたという事かも知れない。無軌道にして刹那的、「怒れる若者たち」というテーマが、注目されていた時期であるという。

石原慎太郎に年齢も近かった江藤淳が、直ぐに共鳴し、石原慎太郎バッシングに対して、石原を擁護する論陣を形成し、1958年には江藤淳が「若い日本の会」を結成した。この「若い日本の会」は警察官職務執行行政改正案に対して反対運動であり、つまりは、岸信介政権下で警察官の権限を大幅に拡大し、予防拘禁を可能にする法改正を意味しており、それに対しての反対運動であった。この運動には、江藤淳、開高健、谷川俊太郎、羽仁進、浅利慶太、大江健三郎、永六輔、黛敏郎、寺山修司、そして石原慎太郎も参加していた。

この「若い日本の会」は興味深いですやね。先ず、岸信介政権下で、それが起こっていたという事が一つ。(「岸信介」については、このブログ内で検索すると意味が分かる。)それと、ここに参加していた戦後派は、後に右派と左派とに分かれていく。戦後の日本を代表する作家として、その象徴してしまえば、つまりは「石原慎太郎」と「大江健三郎」という、後に政治思想として左右に分かれるものが、実は一緒であった事が分かる。

そして、石原慎太郎は、1959年8月に江藤淳が主催したシンポジウムに出席(このシンポジウムには大江健三郎も出席)し、下剋上を匂わせる発言をしてみせた。石原慎太郎は、次のように言った。着色文字は引用です。

戦後を、この混乱と停滞を誰よりも享受したのは、われわれなのだ。なぜならわれわれにはその以前は殆んどなかったのだから。

今日、アクチュアルなものとは一体何なのか。それはお涙さそう戦争の傷や、罪の意識、天皇、戦争という一種の極限状態におけるヒューマニズム等々、そんなお題目では決してない。もちろんそれもいい。しかし人間にとってはるかに実質的なアクチュアリティは今日この、掴みどころのない状況そのものである。


因みに上記引用文の中の【アクチュアル】とは「事実性もしくは今日性」の意です。そして、

人を刺す代わりに、私は人間の文明なるものを刺し殺したい。この態度の有無が、芸術家にやがて彼自身の人間としての可能性の有無を決めるだろう。もはや改修できない。壊して殺して息がつづけばその後、創るのだ。

とも発言した。この発言、何か分かり難くも感じますが、要は、既成の何かを破壊(刺し殺し)し、漠たる何かを新しく創り出せばいいじゃないかという内容を話していると思われる。ただ、具体的にどうする事が正解なのか分からないので、そこに焦燥や虚無感を抱いていたのが、この戦後派であっただろうと中島岳志さんが解説してくれている。おそらく、そうでしょう。おかしい事には気付いているが、どうする事が正解なのか分からないという煩悶。

で、ここで、石原慎太郎と大江健三郎との間で意見交換があったという。大江健三郎は

「石原さんの言葉には心惹かれるが、ぼく自身の考え方では、人間は見る前には跳ぶことはできない」

と指摘した。つまり、これは多くのテロリストたちにも共通するのですが、着地点が見えていないのに跳躍しようという発想であり、それを敏感に察知した大江健三郎が「石原さんの言葉には心惹かれるが、人間は見る前に跳ぶことはできないのではないですか?」と指摘した事を意味する。

そして、この石原慎太郎と大江健三郎は共に「若い日本の会」を下地にして60年安保闘争に向かってゆく。大江健三郎は、真っ直ぐに安保闘争に参加していった。しかし、石原慎太郎は非常に皮肉屋の立場を採る事となった。「若い日本の会」で言えば、江藤淳、石原慎太郎、有吉佐和子らは「若い日本の会」が「安保反対」に組み込まれていった事にシラケるようにして去っていったものという。実際の安保闘争、安保運動ともなると、大衆を運動に動員しているのが実相だから、インテリはシラケてしまうところがある。清水幾太郎なども同じで、終わった後にシラケた。日米安全保障条約がその後の日本にどのような影響を及ぼすことになるのか、そこに真剣にして重厚に、その部分に思いを到らせるよりも、先ずは運動が優先され、且つ、この分野のセクト争いは、非常に激しい事で知られる。こうした運動は主導権争いが盛んで、そこで上位になった者は「オレに従え」のような高慢な態度をとるのが多い世界なのだ。

また、この頃までに、石原慎太郎は中曽根康弘と親交を持っており、その事を江藤淳らから訝しがられている。そして、着地点を求めていた戦後派保守の石原と江藤は、「国家」や「日本民族」というものに活路を見い出してゆく。これは逆説的に、国家や民族といったものの中にアイデンティティを見い出そうとしたから、この両名を「戦後派保守」とカテゴライズするに相応しいとも言える訳ですね。


少し時間が経過します。

江藤淳が非常にシビアに考察を重ねて行く一方で、石原慎太郎はというと江藤のような考察を横目にしながらも、我が身を政界に投企するという手法を選択する。作家から政治家への転身を図る。ここは端折っていますが、この間、作家としての壁にもぶつかっている。石原慎太郎的には着地点は曖昧であるが、先ずは自己投企してしまうことが肝要であると考える、行動型、実践型のパーソナリティーなのでしょう。

1966年に知覧を訪問し、神風特攻隊の話を取材するなどして、ナショナリズム(国家主義)の中にロマンチシズムを見い出す。また、この年、週刊読売の特派員として戦争下のベトナムを訪れている。ベトナムで取り分け、酷い惨状を目撃した訳ではないが、「亡国」というものをイメージするようになったという。つまり、安穏としていたら国家というものが亡くなってしまう可能性があるという感慨を強くしたものと思われる。

1967年、知人の八幡製鉄所副社長のツテを使用して、佐藤栄作内閣に自由民主党からの参院選出馬を打診する。

1968年7月、参院選の全国区候補として石原慎太郎は出馬し、史上最高得票となる301万票余を獲得し、国会議員となる。この年は、全共闘運動が盛んな時期であり、東京都では前年に革新の美濃部亮吉が都知事になっている情勢の中、猜歇薛瓩隆待の新生として破格の得票を成したとも言える。

1956年に「太陽の季節」で芥川賞を受賞、颯爽と戦後派の代表となり、1968年には史上最高得票を達成して政界入り、しかも、この石原慎太郎の参議院、衆議院併せての国会議員生活は実に足掛け25年にも及ぶ。
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中島岳志著『石原慎太郎〜作家はなぜ政治家になったか』(NHK出版)を食い入るように読んでいるところ。石原慎太郎評というのは、或る時期には石原慎太郎待望論がありながら今日的にはクソミソに評されてしまっている人物ですね。政治家であり、作家であり、また、特異な事情として石原裕次郎の実兄であり、現在もテレビで活躍されている石原良純さんの実父でもある。或る意味では、戦後日本を歩んだ象徴的な人物が「石原慎太郎」であり、石原慎太郎さん本人も「戦後と寝た男」と自称しているという。

BS朝日が2時間番組で石原慎太郎を特集していたテレビ番組を視聴した事があったのですが、やはり、小説『太陽の季節』で小説家デビューし、太陽族ブームを巻き起こし、その太陽の季節の主人公のモデルでった実弟の石原裕次郎は戦後の大スターとなり、石原慎太郎自身は政界に身を転じ、国会議員を経て東京都知事を12年間も務めた人物なのだ。

さて、中島岳志さんは戦前・戦中派の論客と、戦後派の論客との間には断層があるように感じているという。言ってしまえば戦前・戦中派の保守論壇と、石原慎太郎に代表される戦後派の保守論壇とでは異なっていると感じているという。戦後派保守は80年代の歴史修正主義を経て、靖国神社の参拝を巡る問題等々で、毛色が異なっていると感じているという。

中島岳志さんの分類では、

戦中派保守…竹山道雄、田中美知太郎、猪木正道、福田恆存、津島信平、山本七平、会田雄次、林健太郎

戦後派保守…石原慎太郎、江藤淳

といった具合に分類している。そして、戦後派のトップランナーが実は「石原慎太郎」であったと捉える。石原慎太郎の「太陽の季節」は文芸作品といえば文芸作品であった訳ですが、戦前・戦中派からは猛批判を受けた小説であり、既存の道徳観を破壊し、サングラスにアロハシャツというスタイルなどは、戦後派の象徴であり、実は戦後派を意味する「アプレゲールそのもの」が「太陽族」ブームであったという。アプレゲール犯罪なんて言葉がありますが、或る意味では既存の道徳観を完全に打ち破ったのが、それである。

実際には石原裕次郎のライフスタイルが太陽族そのもので、そんな実弟たちのライフスタイルに驚愕し、「自分は太陽族にはなれないから小説で」と書いたのが小説「太陽の季節」であり、石原慎太郎は新進気鋭の太陽族の教祖的なものとして知識人界に誕生した訳ですね。

斯くいう私の父親なんて「慎太郎カット」なんて言いながら「角刈り」にしてきたものでしたが、おそらく年代は石原慎太郎さんと同世代に近かったのであろうなって思う。疎開先での苦労があったが為か、頑固で手の付けようがなかった。

現在、出版界は樹木希林ブームなのかも知れず、書店には沢山の関連本が並んでいましたが、その中の一冊、樹木希林著『心底惚れた〜樹木希林の異性懇談』(中央公論社)なる対談本にも、実は似たようなニュアンスを読み取れる箇所がある。

樹木希林さんは、つかこうへいさんとの対談の中で、戦争について語るべきか否かという話の流れの中で、次のように述べている。

悠木「みんなが戦争体験があるって誇らしげに言うわね。それこそ野坂昭如さんなんて、きらいじゃないのね。そういう人たちが戦争体験なんていうと、ウワー、うれしがっているなあと思っちゃうのね。ご三家でやったりするの、わたしはとても恥ずかしいの。うまくいえないけれどもね。この間テレビの『すばらしき仲間たち』というのを見ていて佐藤愛子さん、遠藤周作さん、北杜夫さんの三人が、一流レストランで食事しながら、うちの犬がこういうことをしたのよという話をしてね。わたしは話の内容をよく見なかったの。チャチャチャと回したら、三人、えらい人が出ているわけ。その姿見たときに、すごく嫌悪感がきたの。それで、やめちゃったのね。あれだけはやらないでいこう、一生やらないでいこうというふうに、そのとき何秒かの間だけれども、たしかに思ったのね。

つか「いや、ぼくも一度書いたことがあるんです。あの人たちの節操のなさというのは大きらいですね。どっかで、ここだけはふんばっているみたいなところは、ゆずっちゃいけないみたいなところがあるでしょう。

故人の言った故人に対しての悪口でもあるので、これを引用するのは悪趣味であるのですが、対談の中で、悠木千帆(樹木希林)とつかこうへいが、遠藤周作や北杜夫がチラリとみせた戦後世代の一面に何某かの嫌悪感を持っていた事が現われているような気がしないでもない。対談は70年代中頃のものであり、樹木希林は昭和18年生まれ、つかこうへいは昭和24年生まれだから、実際には堂々たる戦後派なのだ。ここで語られている「譲ってはいけない線みたいなものがある」という話は、つまりは、悠木千帆やつかこうへいの感性的に拒絶した、なんでもテレビのような大衆メディアに譲ってしまう文化人や知識人の姿、そこに矜持を感じないとか浮かれているように見えて、そうした態度に嫌悪感があるの意なのだ。翻って、まるで戦争体験を嬉々として語っているようにも見える野坂昭如は「嫌いではない」という。

まぁ、野坂昭如という人については色々と読み漁りましたが、年齢的には石原慎太郎とそんなに変わらないものの、少々特異で「戦後闇市派」と評されたように、単なる「戦後派」ではなく、戦争直後を引き摺りまくった作家、文化人である。また、面白い事に、石原慎太郎も野坂昭如も三島由紀夫への個人的な感謝を隠さない戦後派である。

いや、実は、我々の知る石原慎太郎とは、マッチョの典型のようにも見えるが、実は戦後派知識人のトップランナーだった時代があり、戦前・戦中派からもっともバッシングされたのも石原慎太郎という小説家だったらしい。「句点が少ない悪文」と評されたり、「漢字の間違いが多い」などと評されたり、実は、かなり上の世代から叩かれ、嫌われていたのが作家・石原慎太郎であったという。

文学といえば病的な、つまり、言ってしまえば太宰治を指しているのですが、ああしたデカダンス(退廃的)にして病的なものは不健康であり、太陽のようにカッと時代を照らしている人間観があるのが本来の文学であると言って、前世代に殴り込みを掛けた一人であったという。

そして、1956年6月25日付の朝日新聞の「飛び入り狒挙演説瓠廚砲蓮⊆閏圓琉貎佑箸靴討寮治観を次のように語っていたという。そして、社会党の左派に投票すると宣言した上で、次のように語っていた。

「今の社会体制というものは大きく変わらねばならない。具体的にどう、ということはうまくえいないが、とにかく新しい社会をつくるということを党の政策として大きくうたい、またそれを実現っせる可能性をもっている党だから。」

この時点で石原慎太郎が社会党左派を指示していた事が分かる。ああそういえば野坂昭如もエッセイの中で、戦後初の選挙では社会党に投票した旨、「どこに投票したのかと自分で語るほどバカなことはないが…」と前置きして述べていたかな。

更に、石原慎太郎は言った。

「憲法改正や再軍備は、再びわけのわからぬ国家意識を復活させるから反対。コスモポリタン的で解放的な、今の憲法の明るさがいい」

とまで。



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先月、29日に放送された「関口宏のもう一度!近現代史」は日露戦争前夜についてでしたが、先ずは日露戦争前夜前の情勢というのがあった訳ですね。大きな分岐点があったとして、それは日英同盟であったという。当時の大英帝国が大日本帝国と軍事同盟を結んだのは何故かという疑問がある訳ですが、想像もつくところですが、帝政ロシアと権益をヨーロッパで争っている関係があり、ロシアの勢力を抑えておきたいという事情があり、それが日英同盟に係るイギリス側の思惑であった。

で、面白かったのは日本側もイギリスの思惑を感じ取り、その上で日英同盟を巡っては意見が割れたのだという。山縣有朋と桂太郎は日英同盟を推進すべきだ、つまり、イギリスと組むべきであるという立場であったのに対して、伊藤博文と井上馨とは日英同盟は眼前の仮想敵国であったロシアを刺激してしまう可能性があると考え、「満韓交換」を主張する満韓交換論で敵対したのだという。これは西暦1898〜1903年頃か。

満韓交換論は朝鮮半島に於ける優越権を日本へ、満州に於ける優越権をロシアに、相互に承認し合うこととし、交渉していたが不調に終わった。これによって日英同盟という選択肢となった。

日英同盟⇒1902年

日露戦争⇒1904〜1905年

日露戦争の開戦前の1903年6月、【七博士建白事件】(しちはかせ・けんぱくじけん)があった。これは東京大学教授らが中心となって7名、戸水寛人、富井政章、金井延(のぶる)、寺尾亨、高橋作衛(さくえ)、小野塚喜平次、中村進午らの七人の教授が日露開戦を主張する意見書を政府に提出したという出来事を指している。東京大学と学習院大の教授陣だったようですが、これが意見書を桂太郎内閣に提出。主戦論は既に頭山満らが展開していたが、この七博士建白事件によって一般世論そのものも主戦論に傾かせたという。

なんじゃ、こりゃって思いますが、おそらくは大衆の扇動になったのでしょう。桂太郎政権下の政府は、この七博士建白事件を受けて、中心人物であった戸水を休職処分を命じた。すると今度は法科大学教授会が抗議書を文部省に提出した。この抗議書に対しても文部省は高圧策をとり、東京大学総長の山川建次郎を辞任させるなどの処分を課した。すると、この東大総長の辞任に不満を募らせた東京大学全学教授が抗議行動を展開した。2名の教授の復職と、言論の自由、大学の自治を主張しはじめて応戦した。

つまり、対露戦開戦と、ポーツマス講和条約反対が当時のアカデミー側の主張であり、それを圧殺しようとしたのが当時の大日本帝国政府であったという構図も見えてくる。長州が優位ですが藩閥政治から抜け切れていない明治末の大日本帝国政府vs学者という構図。(「言論の自由」や「大学の自治」の主張は、ずーっと後の1960年代や1970年代の大学紛争でも焦点となっていますね。)

東京大学全学教授の抗議活動にまで発展した為、桂太郎内閣では文相を辞任させ、且つ、要求していた2名の教授の復職もなった。学者の方がむしろ好戦的で、やはりロシアを仮想敵国にしていた桂太郎内閣でさえ、「過激な事を言うもんじゃない」と当初は好戦ムードを圧殺しようとしていた経緯が分かる。誰も彼もが戦争すべきというムードであったのでしょう。

番組では、ここで内村鑑三についても取り上げていました。実は、内村鑑三は日清戦争(1894〜1895年)には賛成していた。内村鑑三は日清戦争については「正義の戦争」だと主張していた。しかし、日露戦争になると内村鑑三は「戦争廃止論」を展開させた。これは日露戦争の開戦に反対であると同時に、もしかしたら現在、坂本龍一さんらが主張した事がある非戦に近い戦争そのものを廃止すべきという理屈であったと思われますが、日清戦争の際には「正義の戦争」と主張していた事を考慮すると、結構、ねぇ。

征韓論の際には福沢諭吉が「文明と野蛮の戦いである」的な発言をしていた事も紹介されていましたが、意外と、そんなもんなんですね。

当時のインテリ層にしても軒並み、戦争を肯定的に考えていた節が窺がえる。西洋的近代に目覚めた我々には、未開の野蛮な人たちを退治する権利があるとでも考えていたかのような欺瞞を見い出せてしまうかも知れない。欺瞞が言い過ぎの可能性があるかな。端的には「西洋列強への批判の欠如」でしょうか。植民地を持って何が悪いという考え方でしょうねぇ。人道主義の主張などはあんまり見い出せない。

ダイヤモンドに目が眩んで婚約破棄をする女など足蹴にし、「十年後の今月今夜のこの月を、俺の涙で月を曇らせてみせるぅぅぅ」という内容の尾崎紅葉の「金色夜叉」が大流行したのは1897年であるから、近代化とは、物質的な豊かさへのシフトであり、権益や利益の追求に目敏くなった何かであったと総括する事も出来るのかも知れない。金色夜叉の「貫一」に感情移入していた人たちも、おそらくは目の前の財貨、利益に目が眩むという価値観へと飲み込まれていったのでしょうねぇ。

山縣有朋は「ガチ軍人」であるから議会制民主主義などを顧慮してない。対して伊藤博文は相応に議会制民主義には理解を示しており、そちらに舵を切るべきだという立場であった。しかし、大日本帝国憲法下では、軍部大臣(陸軍大臣と海軍大臣)については現役の軍人が就任する事と定めた「現役武官制」が布かれた。「現役武官制」と「文民統制」(シビリアンコントロール)のバランスがある訳ですが大日本帝国は現役武官制、内閣をもってしても陸軍大臣と海軍大臣を御することが出来ない仕組みになっていた事は、昭和の戦前にも大きく影響を及ぼした可能性があると、同番組は解説していたかな。
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ティム・ワイナー著『CIA秘録』には、少しだけ日本に関しての事柄にも触れられているので、備忘録的に。

先ずは『CIA秘録』の第46章「経済的な安全保障の為のスパイ〜日米自動車交渉」という章があり、その書き出しは、こうだ。(例に拠って着色文字は引用です。)

日本の政界要人に対するCIAの金銭上の直接支援は、一九七二年には終わったようである。しかし秘密裡の政治的なつながりと連携は途絶えることなく続いた。日本でこの関係を自ら認めた者はほとんどいない。自民党で一目置かれた実力者の後藤田正晴はまれな例外だった。

注意深く読んでいくと、冒頭の一文は「1972年には直接的な金銭支援は終わっていた」の意であり、裏を返せば、1972年以前にはCIAからの直接的な金銭支援を受けていた政治家が存在していた事を含意している。その上で、1972年以降も直接的金銭支援こそなくなったがCIAと日本の政治家は秘密裡の連携を続けており、途絶えることはなかったの意に読める。(ちなみに同著の刊行は2008年だから少なくともその頃までは、いや、その後、断ち切れた様子はなさそうと考えるべきか。)

後藤田正晴は例外的に「私はCIAとは深い関係があった」と自ら認めた。後藤田は警察官僚出身で警察庁長官を経た後に政治家に転身し、法務大臣まで務めた人物である。日本では「カミソリ後藤田」ですね。

再び引用します。

「われわれはすべての政府機関に浸透した」と、一九七〇年代後期と八〇年代初めに東京に駐在したCIA局員は私に語っている。CIAは首相側近さえも取り込み、農林水産省には非常に有力なつてがあったので、日本が通商交渉でどんなことを言うか、事前に知ることもできたと言う。

牛肉とかんきつ類の輸出交渉で、「われわれは日本側の次善の代替案を知っていた。日本代表団がいつ席を立つかを知っていた」とその局員は証言している。


ほほぅ。日本の政治家や高級官僚の中にはCIAに情報を漏らしていたスパイが存在していたって事ですな…。まぁ、そうでしょう。冷静に戦後史を眺めれば、そうなりますなぁ。後藤田なんてマシな方かも知れない。警察官僚がCIAと繋がっていたという事を軽んじられるのであれば。

そして、1993年、クリントン政権の頃からホワイトハウスはCIAに同盟国から経済の秘密情報を盗み出すように命じるようになったという。標的は、日本であった。スパイが功を奏したのかどうかは判然としないが、1994年、クリントン政権下で日米貿易摩擦が激化、日本車の対米輸出を禁止するという「脅し」が行われた。いわゆる「ジャパン・バッシング」ですね。で、それについてティム・ワイナーは、次のように書いている。

クリントン政権の当局者は、この対決は倫理的、政治的にソ連との軍備管理交渉に相当するとみなしていた。東京で交渉に当たったアメリカの貿易当局者はどこへ行くにも、少数の諜報者を伴っていた。諜報員は毎朝、アメリカ通商代表のミッキー・カンターと側近に内部情報を伝えた。その情報は、CIAの東京支局と国家安全保障局の電子盗聴グループが収集し、ワシントンの分析官が吟味したものだった。

カンターは日本の官僚と、解決を迫るトヨタ、日産両社の経営幹部との間の話し合いの様子を記録した報告を受け取り、相反する圧力が橋本龍太郎通産相にかかっている状況に関する資料を読んだ。


盗聴もされていた訳だ。しかも、ソ連の軍備管理交渉に相当するとみなされていたという。同盟国とは言うけれど、対人関係に置き換えるなら、友人の財布の中身を開き、勝手に紙幣を抜き取ってポケットにしまい込むような盗癖のある友人かも知れない訳ですね。とはいえ、CIA側からすると、この当時の日本の政治情勢は橋本龍太郎と河野洋平とが鍔迫り合いを演じていたので、スパイの果実は得られなかったという。この話は他のところでも評価されていましたが、実は地味に橋本龍太郎あたりは堂々たる日本の国益を守る為の保守政治家として機能していたという語り口は、目にした事がある。あんまり評価されてないんだけどね。裏返すと、戦後日本の通史の中で過大に評価されている自民党の政治家こそが怪しい訳だ。



『CIA秘録』の第12章は「別のやり方でやった〜自民党への秘密献金」がある。結構、実名が記されている。戦後日本で米国のスパイになっていた人物は誰であったのか? 

参謀本部第二部長にして諜報責任者であった有末精三は、陸軍中将でもあったが、戦勝国に提出する為の諜報関係書類を秘密裡に集め、そうする事が有末自身の身を守ることになると考えていたらしく、米国の秘密工作員になる事を自ら申し出てきたという。有末は、チャールズ・ウィロビー少将の命令に従い、共産主義者への隠密工作を計画、実行させられた。ウィロビーについた有末は、参謀次長であった河辺虎四郎に協力を求め、その河辺はウィロビーから当時の金額で一千万円を受け取っていた。しかし、河辺が集めて来る情報は「おおむねウソかデッチアゲ」であったという。

CIAは、ウィロビー支配下の日本人スパイを監視したが、日本人スパイは右翼体制の復活を狙う政治活動と金儲けばかりをしていたので、驚愕した。

有末と河辺は、諜報活動の進行状況や成果について、アメリカ側の指揮官たちを常習的にだましていた。二人とその部下がアメリカに丸抱えされた任務を自分たちの金もうけに利用していたことは疑いのないところだった。たとえば二人は台湾の国民党のもとに日本人を送り込み、その代わりに大量のバナナや砂糖を入手していた。これらの食料は日本国内で転売され、巨額の利益をもたらした。

更には、有末とその部下は、在日の共産中国の工作員に「情報を売っていた」ともいう。ウィロビーから得た話を敵対勢力である中国の工作員に売っていた。また、ウィロビー少将には「荒木光子」という愛人がいたが、その愛人は日本政府側の情報源になっていたという。

つまり、CIAは中々、日本に本格的なスパイを確立できずにいた。しかし、或る時期から状況が変わる。

真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでには、さらに数年も要することになる。その任務はまさに、アメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで、並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは一九四八年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。

岸信介は、児玉と同様にA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に三年の間収監されていた。

東条英機ら死刑判決をうけた七名のA級戦犯の刑が執行されたその翌日、岸は児玉らとともに釈放されている。

釈放後岸は、CIAの援助とともに、支配政党のトップとなり、日本の首相の座までのぼりつめるのである。

岸信介は日本に台頭する保守派の指導者になった。国会議員に選出されて四年も経過しないうちに、国会内での最大勢力を支配するようになる。そしていったん権力を握ると、その後、半世紀近く続く政権党を築いていった。


引用しているティム・ワイナーの著書『CIA秘録』は、各紙で高評価されており、ウォールストリート・ジャーナル紙に到っては「CIAの秘密工作について書かれた最高の本」と評しているというから、実は信用できるソースとしては、かなり有力な内容と思われるのは間違いない。

巣鴨プリズンを出所した岸信介は、その足で首相公邸へ足を運んだ。そこで実弟の佐藤栄作と会った。佐藤栄作は占領下政府で官房長官をしていたのだ。実弟と再会時した岸信介は「(こうして会うのも)おかしなものだな」と声を掛け、続けて「いまや、我々はみんな民主主義者だ」と言ったという。

その後、岸信介はニューズウィーク誌の東京支局長から英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家に知己を得る。このハリー・カーンは、アレン・ダラスの親友であった。このアレン・ダラスとは1953〜1961年の間、CIA長官を務めた、あのアレン・ダラスである。

CIA(中央情報局)の前身にはOSS(戦略情報局)という組織があった。元OSS要員にして占領下日本の東京大使館で情報宣伝担当をしていたビル・ハッチンスンはCIAの協力者であったが、岸信彦はハッチンスンを歌舞伎観劇に招待し、ハッチンスンを日本のエリートたちに引き合わせた。また、岸信彦はハッチンスン家で米国務省の人物やCIAの当局者と隠密に会っていた。しかも、その事は、ハッチンスンが回想して認めている。

引用します。

岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。アメリカは日本に軍事基地を維持し、日本にとっては微妙な問題である核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。岸が見返りに求めたのは、アメリカからの政治的支援だった。

そして1955年8月、岸はフォスター・ダレス国務長官と会い、政治的支援を取り付けた。(このフォスター・ダレスは、アレン・ダレスと同じダレスで紛らわしいが国務長官のダレスである。)以降、岸信介はCIAのクライド・マカボイを連絡係とし、ここにCIAの支援を受ける有力な日本の政治家が誕生した。(このマカボイは元アメリカ海兵隊員であり、沖縄戦の経験者にして新聞記者のキャリアを持っていた人物であるとされている。)

CIAは自民党にカネを支援していた。以前、CIAはイタリアの政治家に対しての支援として現金の詰まったスーツケースを高級ホテルで手渡すというベタな手口をしていたが、この頃の岸信介へのカネの受け渡しにはビジネスマンを仲介役としてカネを渡していた。ロッキード事件などでも明らかになっているが、例えばロッキード社の社員を介してCIAのカネが日本の政治家に渡っていた。

引用します。

一九九五年十一月、「自由民主党」の旗の下に日本の保守勢力は統合された。岸は保守合同後、幹事長に就任する党の有力者だったが、議会のなかに、岸に協力する議員を増やす工作をCIAが始めるのを黙認することになる。(誰が何にが分かり難い文章ですがママ引用です。)巧みにトップに上り詰めるなかで、岸は、CIAと二人三脚で、アメリカと日本との間に新たな安全保障条約をつくりあげていこうとするのである。

1957年6月、岸は訪米を実現し、ヤンキーススタジアムで始球式のボールを投げた。また、ドワイト・アイゼンハワー大統領と共に白人専用のカントリー・クラブでゴルフをした。当時は副大統領であったリチャード・ニクソンは岸信介を米上院で「アメリカの偉大で忠実な友人」と紹介した。

ダグラス・マッカーサー二世駐日大使(ダグラス・マッカーサー将軍の甥)に対して、岸信介は「アメリカが権力固めを支援してくれるならば新安保条約を通過させられる」旨、語った。また、岸はCIAから一連の支払いを受けるよりも永続的な財源の支援を希望した。マッカーサー二世を通して、その岸信介の要望はフォスター・ダレス国務長官にも伝わった。フォスター・ダレスは「賭けだ」と考えたが、最終的にアイゼンハワーは容認した。

(これは60年安保当時の話だという事になる。『CIA秘録』では、岸はアメリカから資金提供を受けていたと、当たり前のように語られている。一方で「昭和の妖怪」岸信介は率先してアメリカからカネを引っ張ってきていたことも分かる。当ブログ内の「ロッキード事件」に於ける児玉誉士夫と比較すると、この一連は面白いかも知れない。)

そして、このCIAからのカネは少なくとも15年間にわたり、4人の大統領の下で日本へ流れた。そのように、書かれているが、これは連続して15年間であるのが自明だから、第34代ドワイト・アイゼンハワー、第35代ジョン・F・ケネディ、第36代リンドン・ジョンソン、第37代リチャード・ニクソンで確定である。この頃まで、自由民主党はCIAからというよりもホワイトハウスから資金援助を受けていたことになる。

つまり、日本側は岸内閣、池田内閣、佐藤内閣である。田中角栄が自由民主党を制圧し、田中内閣が誕生した事を指して、実は自由民主党という政党の中で政権交代が起こっていたという説があるが、このCIA秘録からも裏付ける事ができる。



アメリカ合衆国もCIAも、岸信介と自由民主党との関係を公式に認めた事は一度もない。その一方で、2006年7月、米国務省はCIAと日本の政界要人との間に秘密の関係があったことを認めた。

国務省によって認められた日本とCIAとの関係は、以下のような感じ。

1958年5月の衆院選選挙の前に親米保守政治家に対して秘密資金の援助を行なった。その資金援助は60年代以降も継続して行われた。

1959年、穏健派の左翼勢力と野党勢力との切り離し工作を行なった。投じられた資金は1960年に7万5千ドルを出しており、同水準の資金援助が60年代初頭まで続いた。

1964年には日本人政治家への資金援助の必要性はなくなったという認識が出来上がり、むしろ、秘密の繋がりがある事が露見する事をリンドン・ジョンソン政権の頃には怖れるようになり、打ち切られた。これは安保反対勢力の抑え込み資金を意味しているらしく、1964年には穏健派左翼と野党との切り離し工作は終わったので7万5千ドル水準の資金援助は終わった。しかし、1964年以降もリンドン・ジョンソン政権の全期を通して日本人政治家への資金提供は継続していた。この水準は年間45万ドルであった。

ご濘介への資金援助。

上記の 銑い亙胴駝馨覆眷Г瓩討い襪蕕靴ぁつまり、9割方以上は事実だと考えねばならない。

これらを理解した上で、政治や安全保障を考えて行かないと、どうにもならない。



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オリバー・ストーン監督の「JFK」は何か非常に腑に落ちなかった印象がある。実際に、オリバー・ストーン監督自身も、同作品で描いた真相には満足していないという。とはいえ、確かにピューリッツァー賞受賞者でもあるティム・ワイナーの著書『FBI秘録』と『CIA秘録』では、おおよそJFK暗殺事件の真相は、キューバのフィデル・カストロに対して暗殺作戦を実行したところ、カストロ側に逆に暗殺されてしまったというシナリオになっている。これを仮にティム・ワイナー説と名付けて改めて考えてみると――。


1959年1月1日、キューバではバチスタ政権をカストロが打倒してキューバ革命が起こった。それから約1年後から、この話は始まる。

エドガー・フーヴァーFBI長官は1960年11月、ジョン・F・ケネディがリチャード・ニクソンに僅差で大統領選で勝利する直前であったという。自ずと、それはアイゼンハワー政権下の事となりますが、アイゼンハワー政権は共産主義の拡大を怖れ、キューバのフィデル・カストロとドミニカのラファエル・トルヒーヨの暗殺を画策していた。勿論、それを請け負っていたのはCIA(中央情報局)であった。つまり、フーヴァーが気付いた時には、既にカストロ暗殺計画とトルヒーヨ暗殺計画とが存在していた事になる。

この当時のCIAとFBI及び米議会の実態は酷いものであったという。トルヒーヨは将軍上がりの独裁者であり、トルヒーヨは共産主義の蔓延を防ぐ、防波堤として裏では米上院議員やCIA、そして一部のFBI元捜査官なども繋がっており、しかもトルヒーヨからの賄賂や、「愛の巣」と呼ばれるサントドミンゴ郊外の屋敷でドミニカ秘密警察下で性接待などを受けていた人物も多かったのだという。

具体的には以下の4名の上院議員の名前が挙げられている。

.潺轡轡奪圈悉A出のジェームズ・イーストランド上院議員
▲襯ぅ献▲塀A出のアレン・エレンダー上院議員
ノースカロライナ州選出のハロルド・クーリー上院議員
ぅぅ鵐妊ア州選出のホーマー・E・ケイプハート上院議員

フーヴァーが捜査を始めてみると、不都合な事実が判明した。上記の内のホーマー・ケイプハート上院議員は、フーヴァーの強力な支援者であったが、ドミニカのトルヒーヨから2万ドルもの賄賂を受け取っている事が判明した。CIA関係者、米国会議員は反共、防共の砦として世界各国で独裁政権を裏で支援するという戦略を取って来たが、最悪な形で、米国側の人間が当の独裁者からの賄賂を受け取り、また、秘密の隠れ家で行なわれていた性接待を受けていた。つまり、彼等はバッチリとトルヒーヨに弱味を握られていた。

この頃のFBIでは国会議員の不倫などは掌握していても、そうした不倫に係る醜聞を基本的には利用する事はなかったというが、一方で同性愛や小児性愛の醜聞を掴んだ場合はホワイトハウスへ連絡をしていたという。つまり、多くの国会議員は叩けば誇りが出てしまうものであり、不倫なんぞは取るに足らないものと考えられていたらしい。

そしてJFKことジョン・F・ケネディ大統領(当時)も例外ではなかく、実に5人の愛人を有していたという。そして、その中にはサム・ジアンカナというマフィアのボス、そのジアンカナの情婦であったジュティス・キャンベルとJFKは愛人関係にあった。急に登場人物が増えましたが、サム・ジアンカナは、カリブ海のマフィア・ファミリー10人の内の1人である。併せて、キューバ革命以前のキューバの状態をおさらいすれば分かりますが、バティスタ政権時代のキューバは、トルヒーヨ政権時代のドミニカのようなもので、つまり、裏では米国が支援し、傀儡的なキューバ政府であった。キューバの首都ハバナには富裕層を愉しませる為のカジノがあったが、フィデル・カストロによるキューバ革命後、カジノは禁止となり、キューバ革命で追い出されたマフィアが「カリブ海マフィア」となり、CIA関係者や米国会議員に接近していたのだ。

ケイプハート上院議員がエドガー・フーヴァーの支持者であった事でフーヴァーにとっても都合が悪く、一方でフーヴァーは、事態の深刻さも感じたという。とても表沙汰にできるような話ではなかったらしい。

そして、フーヴァーの後ろ盾になる人物にも腐敗が及んでいたように、実はケネディ兄弟も例外ではなかった。JFK自身がカリブ海マフィアの情婦と愛人関係になっており、且つ、JFK政権で司法長官になっていた弟のロバート・ケネディ(ボビー・ケネディ)に到っては、CIAとカリブ海マフィアとを利用してフィデル・カストロの暗殺に躍起になっていたという。

ここが伝わりにくい部分でもありますが、実は最終的に凶弾に倒れた事でケネディ兄弟に対してはどこか「清廉潔白な政治家であった」というイメージ、その認識が世界的に浸透しているが、当時では禁断であった「暗殺」を何度も何度も画策していたという黒事情がある。そしてケネディ兄弟はカストロ暗殺に、再びカジノをハバナで展開したいカリブ海マフィアと密接な関係となり、先に名前を挙げたサム・ジアンカナにフィデル・カストロを暗殺させようとしていた。何度も何度もカストロは暗殺未遂事件にあっていますが、ここで言っているジアンカナを通じての暗殺計画は毒殺を予定していたという。しかし、その暗殺劇は成就することはなかった。カストロに見破られ、逆にJFKが暗殺された――というのが、ティム・ワイナー説の要旨である。


このJFK時代は、1961年4月にピッグス湾事件の大失態があり、1962年10月にはキューバ危機があった。そして1963年8月、米ソ間で部分的核兵器実験禁止条約が成立した。つまり、喫緊の核戦争リスクは遠ざかり、平和共存体制へと舵を切ったようにも見えた。

1963年11月22日、JFKはテキサス州ダラスで凶弾に倒れた。余りにも有名な映像なので多くの者は知っている、アノ映像ですね。キューバ及びソ連、つまり、当時の米国では東西冷戦は深刻な問題だと考えられていたのは確かである。

犯人とされ、逮捕されたのはリー・ハーヴィー・オズワルド(以下、オズワルド)であった。教科書倉庫に陣取っていたオズワルドがJFKを狙撃し、暗殺した。


オズワルドが逮捕された後、オズワルドに関して、不都合な事実が判明した。CIAに拠れば、リー・オズワルドはFBIへの情報提供者であった。他方、CIAの方はもっと酷い状態で、オズワルドについてのファイルを作成していながらロクに吟味してさえいなかった。

JFKが暗殺されたという一報を受けて、実弟であり司法長官であったボビー・ケネディは共産主義者による暗殺を最初に思い浮かべた。また、JFK暗殺によって第36代米国大統領になったリンドン・ジョンソンも第一報を聞いたとき、同様に共産主義者による仕業だと思ったという。

リー・オズワルドは、元々は米国海兵隊員であったが、1959年10月にアメリカ人としての市民権を捨ててソ連に亡命した人物であった。ロシア人を妻とし、太平洋上の米国の施設の秘密情報をソ連側に提供した人物であるが、1962年に米国に帰国して潜伏生活をしていた。そこまでCIAは盗聴によって把握し、ファイルを作成していた。しかし、そのオズワルドを実際に追尾していなかったのだ。メキシコシティではメキシコ秘密警察の協力を得て、大規模な電話盗聴を行なうなどしていたが、あまりにも情報が膨大過ぎて管理し切れていなかったのが実相だという。メキシコシティが当時、ソ連とキューバとを繫ぐ諜報戦の主戦場になっていた。そして、オズワルドはメキシコシティにあるソ連大使館とキューバ大使館に再三、足を運んでいた事もCIAは把握していた。

オズワルドは1963年9月28日、つまり、JFK暗殺の約2ヶ月前にソ連のKGBの暗殺担当と言われる「第13部」のワレリ・コスティコフなる人物と一対一で面会し、ビザ発給手続きをしていた事もCIAは把握していた。が、CIAによれば「オズワルドがモスクワ、或いはハバナの工作員である確証はない」と判断していた。

CIAもFBIも、この大統領暗殺事件については公表するには間抜けすぎる事実を有していた。しかし、それはCIAとFBIだけではなく、ケネディ兄弟やホワイトハウスそのものも似ていた。当時、フィデル・カストロ暗殺計画については何ら公表されておらず、ホワイトハウス内でも事実を知っていたのは、アレン・ダラスCIA長官、その部下のリチャード・ヘルムズ、ボビー・ケネディの3名だけであり、仮に4人目を加えるとすれば刺客を放たれ続けていたフィデル・カストロという事になる。

JFKを殺ったのはフルシチョフである、もしくはカストロであるという風聞が流れたが、それらは未確認情報なので関係者の口は重くなったのが当時であったという。CIAもFBIも、そしてボビー・ケネディも事情を知る者は誰も積極的には語りたがらなかった――と。

実際にFBIはエドガー・フーヴァーが完全掌握していたが捜査には本腰を入れておらず、ウォーレン委員会の名前にもなった最高裁判官アール・ウォーレンも渋々、ウォーレン委員会を引き受けたとする。このウォーレン委員会を誇大に取り扱うものの、メンバーのアレン・ダラスは事件当時のCIA長官であり、他のメンバーにはジェラルド・フォードがあり、このフォードは後に大統領になっているが、フォードがホワイトハウスに連絡係をしていた。


さて、確かにティム・ワイナーは、そのようなJFK暗殺事件説を採っている。細かな証言なども引用されているので、おおよそは真相に迫ったものと考えられるのかも知れない。FBI秘録、CIA秘録と読んでみると、ティム・ワイナーが暴いたのは以下の点か。

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■藤贈匹錬達稗舛鉾罎戮譴个泙箸發柄反イ任△辰燭フーヴァーは極端な反共主義者であった。

フーヴァーはケネディ兄弟と敵対的関係にあり、特にボビー・ケネディがCIAを通じてカリブ海マフィアにカストロ暗殺を画策していた事に非常に腹を立てており、捜査そのものに協力する気が希薄であった。

――が読み取れる。また、CIA内部では捜査官らによる足の引っ張り合いが起こっていたともいい、CIAが頼もしいスパイであるというのは小説や映画の影響であるとも述べている。諜報員とか秘密任務というと聞こえはいいのかも知れませんが、要は、賄賂や性接待の世界でもある。肥満を理由に出勤停止を申し渡された極秘情報にタッチしていた人物が、その出勤停止期間中、あっさりとソビエトの美人スパイのハニートラップに引っ掛かって、たった一回の性交渉の為に国家の機密情報を渡してしまっていたなんて話も『秘録』には収録されており、確かに表沙汰にはしにくい内容になっている。表沙汰にすれば「お粗末すぎるだろ!」とバッシングされるに決まっている、そーゆー次元のお粗末さやデタラメを抱えている組織なのだ。二重スパイだらけだし、映画スターが演じるハリウッド映画とは全然違うらしい。高級住宅地に住んではいるが、ロクに現場主義ではなく、潜入捜査などはしない連中が沢山、混じっているのだ。

反面、幾つかの疑問を浮かぶ。フルシチョフにはJFKを殺害して何かメリットがあったとは考えにくく、考えられるとすればカストロ黒幕説となる。既にフィデル・カストロも故人となっている訳ですが、そうした話はあんまり出て来ませんね。カストロの場合はケネディ兄弟から命を狙われていたので、恨み骨髄、報復する動機は確かにあったが、JFK暗殺に成功していたのであれば、何か匂わせる発言などが見つかっても良さそうな気がするが、それが無い。既にソビエト連邦も崩壊しており、何か機密文書が開封されても良さそうだが、それも無い。そして、どういう訳か未だに米国ではJFK暗殺に係る機密文書が存在したままの状態になっている。

鍵を握る人物であった筈の、リー・オズワルドは、連行されるダラス警察署前で射殺されてしまった事で、ケネディ大統領暗殺事件はフタをされてしまった訳です。

が、ヒントになるかも知れない逸話にも触れられている。当時のFBI及びホワイトハウスは、狂信的なレベルで反共主義に傾斜しており、キング牧師についての盗聴なども行なっており、最終的にはキング牧師も暗殺されている。FBIではキング牧師が共産主義者と繋がっているという名目で盗聴などをしており、キング牧師の性交中の声を録音した音声テープなども持っていたという。ワシントンへの行進に対しても反対、盗聴から得た「変態だから」が理由でキング牧師を危険人物視していたのが分かるる。エドガー・フーヴァーは、かなり狂信的な反共主義者であり、同時に公民権運動に対しても冷やかな白人優越主義であったことが読み取れる。

おっと、忘れてはいけない。ロバート・ケネディ(ボビー)も凶弾で倒れた。ああ、やっぱり、ケネディ兄弟の話というのは結構な闇があるんじゃ…。ブラックセプテンバー事件や日本赤軍なども検証してきましたが、左翼系テロリストや革命兵士らの暗殺技術や狙撃技術が優れているという話も、或る種の幻想であり、ホントは杜撰で仲間割れが激しかったというのが実相だったようで「共産主義勢力が…」のような陰謀論の組み立ては、共産主義勢力を怖れる心理が見せている虚妄と考えるのが妥当なんじゃないのかなと推定しますかねぇ…。
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連合赤軍と日本赤軍の話というのは、それまで理解できていなかった事が理解できたという意味でも意義があったと自覚しているのですが、それ以外にも色々と波及する内容が多かったような感慨がある。念の為と思って、北朝鮮行きを選択した「よど号グループ」についても、よど号グループ著『拉致疑惑と帰国〜ハイジャックから祖国へ』(河出書房新社)に目を通してみたのですが、大別すると2点、気になる事柄があった。

一つは、印象としてなのですが「よど号グループ」は、「純真な人」が多いのかも知れないなという感慨でした。幾度となく、報道番組などでも目にしてきたつもりだったのですが、改めて文章に目を通してみると、その印象が強い。打ち合わせの上で、各人が辻褄を合わせの文章を書いたのだろうと勘繰ることも可能ですが、どうも、そういう印象ではない。どこか純真というか無邪気というか、それが読み取れてしまう。どういう箇所から読み取ったのかというと、既に死んでしまっているよど号事件のリーダー田宮高麿との関係性、その逸話に言及されているのですが、「こう言われたので、こう思った」という感じの文章が目に付く。「面白くないと感じた」というものもあれば、「指摘された通りで自分は傲慢だった」という具合に記されているのですが、基本的に棘とか毒が無い人たちなのだろうかと感じる。

私が知る世間の人というのは本音と建前を使い分けている。何かわきまえている事があれば、わきまえている程、その使い分けは巧妙であり、発した言葉と発さずに胸の内に留めた気持ちとは必ずしも一致しない。意外と丁寧に長文を書いていると、どうしても本音と建前との間でぎくしゃくとしたものになったりするものであろうと思う。殊に悪感情なんてのは完全に殺して取り繕うか、それとも適度に皮肉とするか、そういう風になってしまう訳ですが、そういうものを感じない。これは、どういう事だろうか。

しばしば、「洗脳」とか「マインド・コントロール」などと説明されている事があるものの、少なくとも強制的に洗脳された何かではなさそうなのだ。

塩見卓也、重信房子の文章には明らかに【自己批判】という単語の頻発を確認できたし、また、唯物的な思考回路であり、やはり理屈っぽく感じる文章だなと感じた。しかし、「よど号グループ」の場合は理屈っぽさは余りなく、どういう事なのか【自己批判】という単語の頻度も高くない。

よど号ハイジャック犯たちは北朝鮮へ亡命し、北朝鮮で亡命外国人という扱いになった。ハイジャック犯は、これまた楽観的に北朝鮮へ行った節があり、本人たちも語っている通り、日本を脱出して北朝鮮で軍事訓練を受け、また、キューバやベトナムなどから軍事的援助を受けて日本に再上陸し、日本で革命を起こすという計画であったが、これを信じていた人たちなのだ。当然、そんな事が可能なのかどうかハイジャックの際には話し合われたが、金正日をオルグする、自分たちの理論で説得し、取り込めるものと考えていた節がある。

実際に北朝鮮へ行った後、よど号グループは北朝鮮政府に「勉強をしたい」と「軍事訓練を受けたい」と申し出た所、前者は許可されたが後者は拒否されたという。また、日本人村という集落に囲われていた訳ですが、軍事訓練を受けない事には革命という目的が果たせないので、その日本人村の村内で自主的な軍事訓練をしたという。(連合赤軍は日本政府との殲滅戦に備えて銃器や爆弾を調達し、射撃訓練をしていた。日本赤軍は遊撃戦=ゲリラ戦法に活路を見い出した。)

また、勉強するという事で北朝鮮特有の主体(チュチェ)思想を学習したが、その主体思想についての批判はない。疑問には言及している者もあるし、一部、将軍様をネタにしたジョークらしい事も述べているが、主体思想への批判は殆んど読み取れなかった。

よど号ハイジャック犯らは、結婚適齢期となって小西が日本に居た恋人を北朝鮮に呼び寄せて結婚すると、各自が結婚を模索する。ハイジャックをして北朝鮮へ渡った身なので勿論、結婚を諦めていたらしいが、どうも結婚も可能かも知れないぞという状況になると、順番に花嫁探しの欧州旅行や、あるいは北朝鮮当局に申し入れをしてお見合いをし、それぞれ婚姻している。しかも、その頃の回想も各人がしている訳ですが、思いの外、無邪気なのだ。ねるとん紅鯨団ほどの軽薄さはないにせよ、大胆にも「ナンパ」をして花嫁を探した者もある。必ずしも花嫁探した事を以って無邪気と言うのも変ですが、意外といえば意外と感じますよね。何しろ、ハイジャック事件を起こして自ら北朝鮮へ亡命した人たちなのだから、より極左思想なのだろうと思う訳で。(「ハイジャック犯」である身の上を隠してナンパしたところ、その相手も主体思想に傾倒している女性であったので…という具合。黒田佐喜子、森順子らは、よど号ハイジャック犯の妻となった主体思想に傾倒していた女性であった事になる。)

これに対して、日本赤軍では重信房子には陰鬱は余り感じないが、総じて陰鬱さが読み取れる。死が隣り合わせであったが故の何かなのか、連合赤軍のリンチ事件を知って泣き崩れたうんぬんや、まるで叱られた子供が押し入れに閉じこもってしまうように部屋にこもって出て来なくなってしまう等の仲間の裏切りや死についての「重さ」が読み取れたが、それが「よど号グループ」にはない。おそらく、楽観的にして純真なタイプか。そうとしか思えないという感慨がある。

そして2つ目、この「よど号グループ」は本当に北朝鮮による拉致事件の手先として行動していたのかという問題がある。スパイであればスパイならではの、何かしら強固な気骨の強さのようなものがあって良さそうなのに、それが感じられないのだ。どこか、この「よど号ハイジャック犯」の場合は学生運動をしていた若者が、そのまま、加齢したかのような、その純真さというか無邪気さがある。こういう人物に「工作員」としての資質があるのだろうか。

少し、込み入った話になりますが、「よど号グループ」が北朝鮮による日本人拉致事件に関与していたというストーリーが定説になっており、それは「八尾恵」(やお・めぐみ)の証言によって、成り立っている。複雑なので私も完全に忘れていましたが、つまり、有本恵子さん、石岡亨さん、松木薫さんの日本人拉致事件があり、その手引きをしたのは八尾恵の証言によって成立したという。八尾証言では、有本さんの手引きをしたのが魚本公博(旧姓安部)が、石岡さんと松木さんの拉致の手引きをしたのが森順子・黒田佐喜子という事になっている。罪名は「結婚目的誘拐罪」で国際指名手配中であるというが、このストーリーを当のよど号グループは完全否定しており、そればかりか現在も裁判で争っているのだ。

「八尾恵」という名前は記憶があるが、どういう訳か私には、何をどうした人物だったのか、さっぱり記憶がない。しかし、前掲著に拠れば、この八尾恵なる人物は、北朝鮮当局が「お見合いしてみてはどうか?」と、よど号グループに取り次がれ、16歳でよど号ハイジャック事件に参加していた柴田泰弘(故人)の妻になった人物である事が分かる。北朝鮮当局が「よど号グループ」の結婚願望を知ってお見合い話を持ってきた例は2件があり、2件とも成婚に到ったが、その内の1件が「八尾恵」であった。この北朝鮮からのお見合いで結婚したよど号ハイジャック犯は岡本武と柴田泰弘であった。(岡本武はFKさんと結婚。また岡本武は岡本公三の実弟である。)

更に、八尾恵(敬称略)の場合は、新左翼ジャーナリストの高沢皓治と当時・内縁関係にあったとされ、且つ、よど号グループが日本人拉致疑惑に関与したと証言しているのは、この八尾恵、高沢皓治の両名に拠る。確かに、色々と不可解さを感じる事実関係によって、日本人拉致疑惑へのよど号グループの関与というシナリオが定説化して現在に到っている。

「よど号グループ」は、「八尾恵が変節した」という見立てをし、その見解を記している。背後にはアメリカによる北朝鮮への「テロ国家指定」があり、その意向を受けた日本の警察当局が八尾恵に対して厳しい尋問をするなどし、それに八尾恵が猴遒舛伸瓩箸靴討い襦つまり、警察によって懐柔された八尾恵がアメリカの意向に沿って、北朝鮮及びハイジャック犯を悪者にする為に嘘の証言をしたというのが、その論旨である。



しかし、読後、私が考えたのは、そのシナリオではありませんでした。数年前から『FBI秘録』やら『イギリス秘密警察VSレーニン』等の諜報ものの本を読んできましたが、先ず、最初に思いついてしまったのは狷鷭泥好僖き瓩砲弔い討任靴拭

諜報機関や秘密警察といった類いの怖さというのは、アメリカの例がベストだと思いますが、エドガー・フーバー伝説などでも顕著であると思いますが、証拠を捏造できてしまう事にある。FBIやCIAといった情報機関の場合、ひょっとしたら現役の大統領さえもハメて、失脚させてしまう事ができる可能性がある訳ですね。なにしろ、証拠を捏造できる情報機関なのだ。本気で動かれてしまったたら、白いものも黒に出来てしまう可能性がある。事実を認定にするにあたっては物証が重視されますが極論すれば物証のデッチアゲも可能な世界なのだ。

では、実際にスパイ活動というのは、どのように行われるものなのかというアプローチがあると思う。先ず、映画として「裏切りのサーカス」というのがありましたが、実は生々しいスパイ活動とは二重スパイなんですね。日本でも日本共産党の歴史をやってゆくと、スパイの話が出てきますが、この諜報戦というのは、その大会に参加している出席者の半分がスパイであったり、支部長そのものがスパイであったりするという世界だったりする。近代に於けるスパイの登場と同時に、二重スパイは誕生している。実は最も確実なのが「二重スパイ」であり、実際のところ「あ。こいつ、敵のスパイじゃないか」と気付いても、その上で、「まぁ、それでもあいつは敵の情報を持ってくるから利用してやれ」とか「ガセネタを掴ませてやれ」といった具合に利用する、非常にタチの悪い世界で、しかも「裏切りのサーカス」は実話を元にした映画ですが、A国の諜報機関のボスが、実はB国のスパイであるという事さえ起こる、とんでもない世界らしい。(二重スパイはA国からも報酬を受けてB国からも報酬を受けるが、スパイと呼ばれる人たちは敵地に潜伏している人間であるから、必然的に、この二重スパイが実際に多いらしく、近代スパイの発祥と同時に二重スパイは登場している。)

本格的な諜報機関や秘密警察が介入してしまっている事件では、真相が明らかにならないなって思う事が多々ある。アメリカなどは機密情報であっても開示が可能で、且つ、特定の年数が過ぎたら開示するという運営をしていますが、そんなもん、守られているかどうかだって怪しい訳です。先ほど、BSテレ朝で「激論クロスファイア」で、例の「桜を見る会」についても取り上げていましたが、廃棄したという前提で語るのか、実は書類に記入していなかったようだから実は、まだどこかに文書を隠しているのではないかと疑う必要性とがある。ホントにひどい話だと思うんですけどねぇ。

いつぞや廃棄した筈の文書が出てきた事、それも6種類ぐらいの文書が存在し、改竄されて出てきた事がありましたよね。ミステリーみたいなもんだ。しかも「廃棄した」という発言は国会で為されていた。あの彼は五千万円台後半の退職金を手にして無事に官僚人生を終えたと週刊新潮が報じていましたが、案外、世の中を欺く事なんて、ちょろいって思っている人は多いのかも知れませんやね。

なので、思うに、その証言が嘘だというのであれば「仲間が変節した」のではなく、「仲間のつもりであったが実は最初から二重、三重のスパイであったのでは?」なんてことも考えながら読み終えました。

そもそも北朝鮮当局がお見合い相手として現れた女性であり、且つ、「八尾恵」さんが起こした訴訟などは、前掲著『拉致疑惑と帰国』で赤木志郎の項で指摘してある通り、訴訟を起こすにしても方向性そのものに矛盾がある。訴訟できないのに訴訟騒動を起こしている前段など、不自然な経緯がある。そのことも、つまり、最初から二重スパイとして存在していたと考えた方が、実は、しっくりするような気もしましたかね…。アメリカの陰謀と言い出してしまうのは悪手ではないのかな、と。スパイこそ、簡単に寝返る訳だろうからね。

「純真と感じた」と私は評していながら、どのように、それを感じているのかというと、懐疑的な態度ではないこと、皮肉屋ではないこと、現実の把握に諦念がないこと等から、純真と感じました。このケースで云えば、主体思想を巡る態度が純真であり、それだけではなくマルクス・レーニン主義に対しても純真に向き合っており、主体思想やML主義に対しての批判的な態度というのを取らないのだなぁ…と。北朝鮮当局が自分たちを欺く可能性があるという事にも言及していない。恐怖で批判できないという感じではなく、おそらく、本心から疑っていないように思え、それは「よど号ハイジャック犯」の境遇によるもののようにも感じました。北朝鮮当局によって、よど号ハイジャック犯は親切に飼い殺しにされた――という印象がある。なので、その手応えからも、田宮高麿が拉致や誘拐を命令し、それに「よど号グループ」の一味が工作員として活動したというあたり、これも疑わしいような気がする。利用された可能性はあるが、主体的にスパイ任務をこなせるような集団ではないんじゃないのかな、と。

主体思想とは、どうも彼等の説明からすると、「ありとあらゆる世界の主体者は人間である」が中核であるという。辞典などでは独裁体制の金王朝、つまり、金日成個人や金正日個人への崇拝と解説されているが、仮に奥義、核になっているものが「ありとあらゆる世界の主体者は人間である」が主体思想なのであれば、或る時期までの科学主義にも似ているような気もする。世界の主体者は神でも自然でもなく人間であるという考え方だから、「人間が世界の主体なのだから、人間による環境破壊も人間による核開発、核戦争も勿論、許される」と考える思考回路になっていると思う。科学万能主義に対しても言えることなのですが「神をも畏れぬ何か」の思想体系だなって感じましたかね。


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1980年9月22日、イラン・イラク戦争が勃発する。

1980年6月頃からシャット・ル・アラブ川の国境地帯に石油利権が絡み、その領有を巡って、イランとイラクとの間で紛争が起こっていたが、この9月22日、サダム・フサイン政権のイラク空軍を使用した本格的な攻撃を仕掛けてイランとイラクとの全面戦争が勃発した。また、革命後のホメイニ体制のイランは各アラブ諸国に向けて、シーア派の決起を呼び掛けていたが、国民の過半数がシーア派であったイラクのサダム・フセイン政権にとっては非常に挑発に感じられたものという。

戦況は膠着したが、このイラン・イラク戦争ではソビエトがイラクの後ろ盾として有り、且つ、イランはパーレビー体制を引っくり返した為にアメリカの後ろ盾を失っている状態、且つ、アメリカ大使館人質事件中であった事からイランは国際的に孤立状態になっていた。イスラム教という意味でも分裂し、アラブ諸国もイラン陣営とイラク陣営とで分裂した。

ホメイニ体制のイラン支持には、シリアとリビア。

サダム・フセイン体制のイラク支持としてヨルダン、サウジアラビア。

そしてイラクに対しては、クルド人勢力が抗争中であったので間接的にクルド人武装勢力はイラクと敵対的な立場を採った。サダム・フセイン体制のイラクはクルド人の反抗に対して化学兵器の使用に踏み切るなどしていた。(サダム・フセインはイスラム宗派としてはスンナ派であり、政党としてはバース党であった。)

このイラン・イラク戦争は、1988年8月、国連安保理の調停まで継続した。また、双方がミサイルを撃ち合う人類史上初のミサイル戦争となった。死傷者は100万人とも150万人ともされる。

イラン、イラクは敵国の石油タンカーを攻撃するなどした為、世界的に石油価格が高騰、1982年頃を、第二次オイルショックと呼ぶ。1987年にはイラン軍がバスラ攻略で有利な局面に立つ中、国連安保理が即時停戦を採択して調停、劣勢のイラクは承諾したが攻勢であったイランは国連決議案(598号)を拒否し、サダム・フセインの処分を求めた。1987年夏以降になると、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエトがペルシャ湾内に展開した。(中立的であるが、イラク陣営へ肩入れした形である。)

1988年8月、イラクが攻勢に転じる。イラクはイランの都市や石油施設へのミサイル攻撃を強化し、占領されていた領地も回復した。劣勢になったイランは国連決議598号を受諾した。

1981年10月1日、PLOのアラファト議長が来日を果たす。

1981年10月6日、エジプトのサダト大統領がイスラム・ジハード団に爆殺される。

この頃までにエジプトのアラブ離脱、イラン革命、イラン−イラク戦争によってパレスチナ情勢も目まぐるしく変わり、反イスラエル勢力は、シリア、リビア、アルジェリア、南イエメン、PLOという陣容に変わっていた。

1982年6月4日、在ロンドンのイスラエル大使館が襲撃された事件を契機にして、イスラエル軍がレバノンへ侵攻する。このイスラエル軍はレバノンの奥深くまで進攻し、首都ベイルートをも包囲する。(注:「レバノン内戦」及び「イラン−イラク戦争」は終結しておらず、継続中。)イスラエル軍は、レバノン国内のキリスト教右派勢力と1976年頃から同盟関係にあり、一気に攻め上がった。

この頃までにPFLPや日本赤軍といったパレスチナ武装勢力の遊撃部隊は「ハイジャック闘争」を終結させた。PLOのアラファト議長の国連を通して国際社会を味方につける路線が一定程度、浸透していた。

アメリカ大統領はロナルド・レーガンが就任、アメリカは大胆な路線変革を行なった。レーガン政権の中東和平プランは、。丕味呂魯謄蹈螢好箸覆里脳鞠Г任ない、▲僖譽好船平佑魯ザ地区西岸で一定の自治権を認めるが国家建設は認めない、であった。パレスチナ解放勢力は猛反発。

イスラエル軍によるベイルート包囲は、1983年にレバノンの山岳地帯の左派勢力、バース党、シーア派、アラブ諸勢力など16勢力が結集し、レバノン救国戦線を展開するなどしてパレスチナ解放勢力は膨れ上がった。

1982年8月、PLO本部がベイルートからチュニスへ移転する。

1982年9月14日、次期レバノン大統領候補であったバシール・ジュマイレルを含む民兵組織レバニーズ・フォーセスの関係者ら約50名が爆殺される。

1982年9月16日から18日にかけて、イスラエル占領下のベイルートのサブラ・シャティーラ難民キャンプでパレスチナ人に対しての数千人規模が虐殺されたという大量虐殺事件が発生した。虐殺を行なったのはレバニーズ・フォーセスという民兵組織であったが、虐殺にはイスラエル軍の関与が疑われた。イスラエル軍の照明弾が打ち上げられ、その照明に照らされる中、夜通しレバニーズ・フォーセスが虐殺を行なったものという。ジュマイレル爆殺の報復行為であったと思われるが、泥沼化する。

1982年11月、シーア派の民兵組織であったアマル(希望の意)から、ヒズボラが分派して独立勢力となる。ヒズボラとは現地では「ヒッズブラー」と発音し、その意味は「神の党」であるという。

1983年4月18日、在ベイルートの米大使館を襲撃が行われ、7人が死亡し、120名が負傷する。

1983年10月、ベイルートの米海兵隊本部と仏軍施設で2台のトラックによる自爆テロ事件が発生し、241名が死亡する。多くの被害者はフランス兵であった。

この1983年の2つのテロ事件は特定の組織が行なったのか定かではないが在レバノンの武装勢力と思われ、多国籍軍として西ベイルートに展開していたアメリカ軍とフランス軍は撤退を余儀なくされる。

ここでレーガン政権は中東政策を刷新する。レバノン武装勢力に支援をしていたイランを打倒すべく、イラン−イラク戦争の渦中であった事からレーガン米政権は、1983年頃からイラクのサダム・フセイン政権への支援を開始し、イラク包囲網を形成する。(ラムズフェルドがイラク訪問を果たし、サダム・フセインと会談した。)

1984年1月、レーガン米政権はイランを「テロ支援国家」と非難する。

1984年2月、ベイルート包囲は解かれる。

1984年3月、ベイルートでCIA支局長が誘拐され、殺害される。

1985年5月、アメリカ軍がリビア(カダフィ政権)を空爆する。

1987年12月8日、ガザ地区でイスラエル軍のタンクローリーが衝突、パレスチナ人4名が死亡する事故が発生。事故の処理が不公平だとして抗議が起こっていたところへイスラエル軍が発砲、その発砲で少女が死亡した事から反イスラエルの気運が一斉に広がり、インティファーダ(民族蜂起)となった。インティファーダはUNLPOUT(被占領地人民蜂起民族東一指導部)という統一戦線からなり、被占領地の勢力であったPNF(パレスチナ民族戦線)にファハタ、PFLP、パレスチナ共産党などが加わったものであった。

1988年2月、UNLPOUTからアハメド・ヤシン師によって「ハマス」(イスラム抵抗運動)が結成される。

1988年4月、PLO副議長のアブ・ジハードがチュニスでイスラエルに暗殺される。

1988年8月20日、イラン−イラク戦争がイランのホメイニ師が国連安全保障理事会の停戦決議を受諾し、ようやくイラン−イラク戦争が終結する。

レーガン政権は、このイラン−イラク戦争中にイランと対峙していたが秘密裡にイランに禁輸武器を販売、その武器売却代金の一部をニカラグアの反政府組織であるコントラ(コントラ・レボルシオナリオ、反革命分子の意)に流していた「イラン=コントラ・スキャンダル事件」が後にレバノンの新聞に報じられ、大スキャンダルとなった。最終的にホワイトハウスは事実を認めた。
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1974年12月、エジプト、シリア、レバノン、PLOはイスラエルが第5次中東戦争の準備をしていると非難する。アメリカのキッシンジャーが中東和平に奔走する。(2020年の年頭の状況と似ている気もしますが、ニクソンがウォーターゲート事件によってアメリカの政情不安も大混乱。また、このキッシンジャーは確かユダヤ系と『もう一つのアメリカ史』で指摘されていたのだったかな。)

1975年1月、中東諸国が外交カードとする石油輸出制限に、キッシンジャーは武力行使をチラつかせて牽制、それに対してエジプトのナセルの後継となったサダト大統領はアメリカ軍が介入すれば油田を爆破すると挑発。新たに米国大統領に就任したフォード大統領がキッシンジャー発言を支持する。

この1975年に中東情勢に大きな変化が起こる。3月にアラブ側に立っていたサウジアラビアのファイサル王が甥っ子に殺害され、サウジアラビアの後ろ盾にアメリカが介入する余地が出来上がる。サウジアラビアへの介入に成功したアメリカは、エジプトのサダト政権をアメリカ庇護の路線へ転向させる事に成功する。エジプトはナセル政権からサダト政権に既に変わっており、サダト政権も当初はアラブ側でソビエトの庇護下にあったが、サウジアラビアがアメリカ寄りになった事で、エジプトもアメリカ寄りに引っくり返った。

武装闘争路線のPFLPは、この辺りからPLOから離脱する。PLOのアラファト議長はアラブ諸勢力から批判を浴びながらも穏健路線に歩み寄って、国際社会に承認される路線を選択し、国連で国家と対等に扱われるレベルでPLO(パレスチナ解放機構)を承認させる政治的な動きに向かう。

1975年4月、レバノン内戦。ここも非常に複雑です。レバノンが旧フランス委任領であったが、独立する際に「レバノン国民協約」という法律を1943年に制定しており、このレバノン国民協約によって複雑なレバノンの宗教的諸勢力にポストの配分を定めていた。人口調査に基づいて、大統領、首相、国会議長といったポストは、特定の宗教勢力が輩出できるものと定めていた。大統領はマロン派キリスト教徒に限定され、首相はスンニー派イスラム教徒に限定され、国会議長はシーア派イスラム教徒に限定されていた。どうやっても大統領はキリスト教徒しか就任できぬような制度で、単純な人口配分からするとイスラム教徒の方が多いという、特殊な事情を持っていた。

必然的にイスラム教徒はレバノン政府に対して不満を高めていくことになった。

それに加えて1970年のヨルダン内戦の問題が絡んでいる。ヨルダン国軍がパレスチナのゲリラ勢力に対して大弾圧を行なった為、ヨルダンの領地内にいたパレスチナ難民とゲリラ勢力とがレバノンへと大量に移動した。(日本赤軍の世界各地の赤軍系の過激派、或いは義勇兵になろうとする人々がレバノンの首都のベイルートを目指していたのも、ヨルダン内戦後のパレスチナ情勢と実は密接に関係している。)

レバノンではキリスト教勢力と、イスラム教勢力との数が逆転していた上に、パレスチナ難民とパレスチナゲリラ勢力が流入し、とうとうキリスト教右派とイスラム教徒左派の対立が激化。そこにパレスチナゲリラがイスラム左派勢力に加勢し、キリスト教右派にに対してイスラム左派&パレスチナゲリラ連合軍という対立構図となり、狷眄鎰瓩箸呂いい覆ら、かなり大規模な内戦に発展してゆく。

「キリスト教右派をやっつけろ!」とイスラム武装勢力が入り、世界同時革命を志向していた赤軍思想ゲリラは「反帝国主義・反シオニズム」を掲げて参戦、結果として義勇兵やら革命兵士(コマンド)が続々と参加してしまうバトルロイヤル的な状況へ。

レバノンに於ける内戦は独立後も小規模な衝突が散発的に発生していたが、本格的な内戦になったのは、この1974年4月を特に「レバノン内戦」と呼ぶ。このレバノン内戦は、殆んど収拾不可能、実相としては無政府状態になったとされる。

1975年8月4日、日本赤軍がクアラルンプール事件を起こす。クアラルンプールの保険会社のビル内に入っていたアメリカ大使館とスウェーデン大使館を武装した実行部隊が占拠。人質の解放の交換条件として同志の釈放を迫った。日本政府は超法規的措置として拘置していた政治犯7名の釈放、解放に応じた。

1975年11月10日、国連総会でジュネーブ和平会議にPLOの招請決議が行われ、賛成101票、反対8票、棄権25票で可決した。因みに日本は棄権した。更に、この日の夜、「シオニズムは人種主義および人種差別主義の一形態である」とするシオニズム非難決議も、賛成72票、反対35票、棄権32票で可決した。こちらの決議も日本は棄権した。これが何を意味しているのかというと、実は、この頃まではパレスチナ問題及び中東情勢に対して、国連総会は適度に公正に取り扱っていた節が窺える。

この時代、まだ国際連盟は、適度に機能しており、西側と呼ばれる自由主義陣営と東側と呼ばれた共産主義陣営、それ以外に第三者的な非同盟諸国な一票があり、実はPLOやヤセル・アラファトに対しての共感は少なくなかった。強引にイスラエルをパレスチナに建国させてしまったのは当時の強国による都合で「こうなってしまった」というのが実相なのでしょうからね。必要以上に空気を読んで、自国の属する陣営に固執し、利益最重視で国際情勢が語られるようになった為、客観的な国際情勢が語られなくなった現在とは、少し事情が違っていたようにも考えられる。中東、パレスチナ地方の大混乱を考慮すれば、PLOに期待を託すしかない状況であったようにも思える。

1976年6月、大混乱となっているレバノン内戦にシリア軍が介入する。

1976年10月、アラブ首脳会議による調停によってレバノン内戦が停戦となる。被災者は150万人にも及んだとされる。

1977年2月、PLO東京事務所が開設する。

1977年9月、日本赤軍がダッカ事件を起こす。超法規的措置によって6名が解放される。これも現在、検証し直すと当時の国際情勢と関係しており、バングラディシュは政情不安定で日本赤軍が同志奪還に成功し、ダッカ空港を飛び去る際にはバングラディシュでクーデターが発生。まだ、バングラディシュの空港関係者の中にはパレスチナ解放闘争をしている日本赤軍に対して、或る種のシンパシーを持っていたらしい事も判明している。

1977年11月、エジプトのサダト大統領がイスラエルへ訪問し、イスラエル国会で「イスラエルを国家として承認する事を声明。これによって「一つのアラブ」という理念によって形成されていたナセル主義が崩壊、エジプトが離反してアラブ諸国は分裂する。

1978年3月、レバノン内戦に介入していたイスラエル軍がレバノン南部を占領する。これはエジプトとイスラエルとの間で和平が成立した事で可能となった。国連はイスラエルのレバノン南部占領を非難し、レバノン南部にUNIFIL(国連レバノン監視軍)が平和維持軍として駐留するという措置が採られた。

最早、主体としてどの勢力とどの勢力の対立問題なのか分からなくなってきますが、原則的にはイスラエルとレバノン内のキリスト教右派勢力とが一つ。他方で平和維持軍としてレバノン入りしたシリア軍は、イスラエルのレバノン南部占領によって民族主義が盛り上がった事を受けて、パレスチナ勢力、イスラム勢力に加勢するという流れが出来上がる。

1978年9月17日、エジプト(サダト大統領)とイスラエル(ベギン首相)との間で、米カーター大統領の調停により、米メリーランド州で和平の合意が成立する。キャンプ・デービッド合意。エジプトはイスラエルに占領されていたシナイ半島の全面的返還を勝ち取ったが、パレスチナ人の民族自決権の問題やレバノン南部の占領地からの撤退は棚上げとなった。(イスラエル占領下のパレスチナ人に対して一定の範囲内の自治は認めらた。)このキャンプ・デービッド合意によって、ベギンとサダトはノーベル平和賞を受賞したが、アラブ諸国は、合意にも反対していた。

1979年1月、イラン革命が起こる。

ペルシャ人の国であるイランは元よりアラブ人とは異なるアイデンティティーを有しており、実は一連のイスラエル−パレスチナ問題に於けるイランの存在は、アメリカの中東戦略上では同盟国、つまり、アメリカ寄りで近代を迎えた為、この頃まで王制国家(パーレビ―朝)であった。土地改革、婦人参政権、識字教育などを推進していたが、宗教指導者や地主階級が反発を強めていたところ、経済成長政策にも失敗。インフレが起こり、農業が停滞し、都市ではスラム化が発生、また経済格差も膨らみ、1978年1月以降、反王デモや小規模なテロ事件が全土で発生するような状態へ。これに対してパーレビ―国王は1978年11月に軍人内閣を発足させ、民衆弾圧を教化した。実は、王制時代のイランにはイラン秘密警察があり、拷問によって目玉をくりぬくなどの暗部もあった。パーレビ―政権はアメリカの地政学的な戦略上、重要な位置を占めていたが、反政府運動は熾烈なものとなり、パリ亡命中のホメイニ師の指導の下、王制打倒が叫ばれた。この1979年1月16日、パーレビ―国王(ムハマンド・レザー・シャー)が国外へ脱出。国王はエジプト、モロッコ、アメリカ、メキシコ、パナマと点々として再びエジプトへ入りエジプトへ亡命してエジプトで生涯を閉じた。革命政権が誕生したものの、革命に尽力した勢力は雑多であり、イスラム勢力の他にもマルクス主義の勢力、民族主義的な勢力、バザール商人など様々で、革命後もイランは勢力間の主導権争いが続いたが、最終的にはイスラム聖職者を中心とするイスラム共和党が選挙で圧勝(1980年5月)し、イスラム共和国憲法上では憲法の上に国家最高指導者(ホメイニ師、ハメネイ師)を置く統治体制となった。この革命後のイランは正式名称もイラン=イスラム共和国であり、そのイスラム国家体制は全世界のイスラム教徒に大きな影響を持つようになった。

1979年9月、エジプトとイスラエル間で和平条約が調印される。アラブ諸国はイスラエルと国交を樹立したエジプトに対して裏切者として断罪、アラブ諸国はエジプトと国交断絶を宣言するに到った。しかし、この約2年後にサダト大統領はエジプト国内のイスラム・ジハード団を名乗る勢力によって暗殺(1981年10月)された。また、アラブ各地ではエジプトに対して裏切りを断罪する為、エジプト大使館に対しての焼き討ちや襲撃も起こったという。

1979年11月4日、在テヘラン・アメリカ大使館員等人質事件が発生。

この在テヘラン米国大使館占拠事件は、パーレビ―元国王がアメリカに入国した事が誘発した。アメリカ入りした元国王の身柄引き渡しをイラン政府が要求するもアメリカ政府は拒否していた事が端緒であった。イランのデモ集団がアメリカ大使館を占拠し、当初は200名以上を人質に、最終的には職員ら52名を人質とした。占拠グループは人質解放を交換条件にして、パーレビ―元国王を引き渡せというものであったが、アメリカは要求を拒否。逆に制裁としてイランからの石油輸入を停止するなどして制裁した。実は、この頃、アメリカはカーター政権であったが非常にパーレビ―国王と親密にしており、ニューヨークタイムズ紙は「現在の世界で最も親密な独裁者と専制君主」という皮肉を書かれていた。

1980年4月にカーター大統領の指示によって人質救出作戦が強行されたがヘリコプターが故障する事故があり、逆に米兵8名が死亡、人質救出作戦は失敗した。この大使館員人質事件は実に444日にも及ぶ長丁場となり、ジミー・カーターは、この失敗で政治生命を断たれた。
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