どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:政治史など > 黒く塗りつぶせ

1955年(昭和30年)にアメリカ駐留軍が立川飛行場の拡張を発表。これは立川基地の拡張を意味しており、当時の東京都北多摩群砂川(すながわ)町にも測量を及ぶことになったが、これに砂川町基地反対同盟、労組らが反対運動を展開。1955年11月、強制測量を行われる中で測量隊と反対派とが衝突。後に反対派から2名が起訴される。

鳩山一郎内閣では拡張予定地の強制収容を通告したので、この砂川闘争は勢いを増し、乱闘が激化。

1956年10月13日、反対派6000名に対し、警官2000名を動員した強制測量が行われるが反対派と警官隊とが衝突、ついに流血沙汰となった。これを第一次砂川事件と呼ぶ。

1957年7月8日、デモ隊の一部が立入禁止の境界柵を破壊して基地内に侵入、1000名以上の負傷者を出す事態となった。これを第二次砂川事件と呼び、23名の逮捕者を出す騒ぎになった。この際の反対派の行為が、日米安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反として7名が起訴されるという事件が発生した。

この時期(1955〜1957年)は、日米安保条約の改定前で該当し、日本国憲法の憲法適合性を問う裁判となった。戦力の不保持が謳う日本国憲法と、同時に成立している日米安全保障条約との整合性が法廷という舞台で、真正面から問われる事態を惹き起こした。

1959年3月、第一審となる東京地裁は米軍駐留は憲法第9条違反と判断し、被告無罪の判決を下した。

昭和三十四年三月三十日東京地裁(伊達秋雄裁判長)判決要旨

一、憲法第九条は、日本が戦争する権利も、戦力をもつことも禁じている。一方、日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本防衛のためだけでなく、極東における平和と安全の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国外にも出動できるとしている。その場合、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力抗争にまきこまれ、戦争の被害が日本におよぶおそれもある。したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性を持つ米軍駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に反する。

二、そうした危険性を持つ米軍の駐留は、日本政府が要請し、それをアメリカ政府が受諾した結果であり、つまり日本政府の行為によるものだといえる。米軍の駐留は、日本政府の要請と、基地の提供と費用分担などの協力があるからこそ可能なのである。この点を考えると、米軍の駐留を許していることは、指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法九条第二項で禁止されている戦力の保持に該当するものといわざるをえない。結局、日本に駐留する米軍は憲法上その存在を許すべきでないといえる。


上記が「伊達判決」と呼ばれるもので、つまり、「日米安全保障条約に基づく駐留米軍は、憲法前文と第9条の戦力保持禁止に違反して違憲である」とし、被告らに無罪判決を下した。

この時期は色々と衝撃的な判決である訳ですね。つまり、日本国憲法の戦争放棄、戦力不保持も元はといえばGHQが日本に要請したものであり、また、同時に提示したのが日米安全保障条約であった訳ですが、堅苦しい法解釈論でやってしまうと矛盾になってしまっているので、この伊達判決では「日本に駐留する米愚は憲法上その存在を許すべきでないと言える」と、とんでもない事を言い出してしまった訳です。

さて、日本政府は、この伊達判決に、どう対処したのか?

伊達判決が下されてから間もない同年4月3日、日本政府は高裁を飛び越えて最高裁に上告した。これを俗語なのか「跳躍上告」とか「飛躍上告」、「直訴上告」などいう単語で説明されている。

そして同年12月15日、最高裁判所大法廷では逆転判決、つまり、伊達判決を完全否定した。この最高裁(田中耕太郎)は逆転判決を下した。要旨は、

「憲法九条が禁止とする戦力とは日本国が(主体となって)指揮・管理する戦力のことであり、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、米軍の駐留は憲法や憲法前文の趣旨に反しない」

「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかを司法が判断することはできない」


というものであった。(伊達判決は廃棄、東京地裁に差戻され、砂川事件そのものは有罪判決が下り、控訴棄却の経緯で有罪が確定した。)


先ず、この問題、白井聡著『国体論〜菊と星条旗』(集英社新書)に目を通していて気付いてしまったんですが、重要なのは、一審が逆転判決になった事そのものではないという。三権分立が形式的なものであること、擬制であること、民主主義ごっこである事を一定のレベルで理解している我々は、その事自体には、さほど驚かないかも知れない。そこではなく、2008年に米国政府によって明かされた解禁秘密文書により、密約が判明して分かってしまった、その爐ぞましい経緯瓩問題であるという観点でしょうか。

さて、真相は如何なるものであったか?

一審判決(伊達判決)に驚いたのは日本政府だけではなくアメリカにとっても同じで、ダグラス・マッカーサー駐日大使が、一審判決が無効化されるよう藤山愛一郎外相、それと田中耕太郎最高裁長官に圧力を掛けていた事が明らかになった。この「最高裁判所長官・田中耕太郎」とは、マッカーサー神社の建立の発起人としても名前が出した人物であり、しかも、この最高裁判決は「駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら書いたもの」であった事が、明らかになった事であるという。

田中耕太郎(生年1890〜1974年)なる人物は1950年から1960年まで最高裁判所長官を務め、退官後は国際司法裁判所判事をしており、日本の裁判制度に一定の性格付けをなした人物であるという。もう、このあたりが国体の本丸かも知れませんやね。東大卒業後に内務省に入省、一年後に辞めて大学院に進んで法学博士、その後に参議院議員を経て、第二代最高裁判所長官に就任したという。松川事件では有罪判決維持説を採って文化勲章を受章しているという。松川事件で有罪維持? 色々と戦後のカラクリが出て来てしまいそうですな。ニッポンの黒い霧の話になってしまう。

つまり、与えられた三権分立であり、その三権分立を現実のものであるかのように世間一般では考え、そのままに論じられているが、ホントは三権分立あたりにも虚妄であり、最高裁判長官のレベルからして米国に自らかしづいて物事を動かされているのであれば、何もかもが虚妄で構成されているようなものかも知れませんやね。何もない。そこにあるのは国体で、しかも国体を牛耳っているものはアンタッチャブルなものであるというのでは、なんら本物の自主性や独立性はなく、アイデンティティーそのものが成立しない。

戦後日本のデモクラシーは擬制デモクラシーであるという話があるという指摘がありましたが、証拠が出始めてしまったのは比較的最近の事であり、或る種の密約によって、この体制が現在まで続いてしまっているという事実があって、これに向き合うことなく、政治家もマスコミも、また、現在ともなると国民全員が「自分さえ良ければそれでいいのさ」という、そういう分断した共同体になってきている訳で、はて、この時代に愛郷心を考えるにしても、既に一筋縄ではいかなくなってしまっているって事なんでしょうねぇ。これが戦後日本の国体と考えると、もう、色々とバカバカしくなってきてしまうかも知れない。

確かに、おぞましい話、おぞましすぎる話かも知れない。
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1945年8月14日、大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し無条件降伏を決定。

1945年8月15日、この日の正午に玉音放送が行われる。

これに対して、特高では1945年の春頃から、「敗戦不可避」という認識を有していたという。(或る意味では、この特高こそがディープ・ステートなのではないかと思わせる話でもある。)

1945年4月には小磯国昭内閣から鈴木貫太郎内閣への交代が起こる。終戦に於いては鈴木貫太郎は敗戦不可避を現実問題として感じ取って、御聖断の裏側に立つ事になった人物でもある。

警保局長の引継書類には「民心の動向」という項目があり、そこには「戦局の急展開に伴い、一般民心は戦況の劣性、戦局に対する不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり」と記されていた。

1945年4月30日の最高戦争指導者会議では、治安の維持について、「反戦ないし和平的気運擡頭の虞れある」という民心の分析が為されていた。

現実的に敗戦不可避であるが、国体護持の観点から警保局は、同年5月には非常措置要綱を策定。反戦和平分子、左翼、朝鮮人、宗教関係者の予防検束や拘禁という非常措置をとる事を決めている。直ちに措置すべき者は126名、情勢に応じて措置すべき者は717名。

5月末に策定したの段階の非常措置要綱では「右翼」が措置すべき者から外されていたが、ソ連の対日参戦、広島・長崎への原爆投下の後には「右翼先鋭分子」のテロを厳重に警戒する指針を打ち出している。

そして同年7月、警保局保安課が「思想旬報」を号外として発刊した。そこには以下のように記されていた。

沖縄島失陥に伴う民心の動向は極めて顕著なる敗戦感一色に塗りつぶされたるやの感ありて、これに基因する厭戦、反戦、自棄的無気魄状態の推移は極めて警戒を要するものあると共に、空襲激化、生活逼迫に伴う戦争疲労感の擡頭と相俟って敗北主義的気運の浸透を懸念さるるものあり、他面において戦局不振の責任を糾弾する反軍、反官、反政府思想の深刻化、一般化ある等、今後における民心の推移は極めて注意を要するものと認められる。

冷静に内務省警保局管轄の特高は、既に敗戦不可避を認識していたのだ。

しかし、それ以前には軍事政権と一体化していた特高では民衆の諸思想への取り締まりを強化していた。東条内閣時には「戦時国民思想確立に関する基本方策要綱」なるものが作成されており、そこでは、

イ)講和招来を希求するが如き思想、その他厭戦思想

ロ)同盟国との緊密を疎隔するが如き思想

ハ)戦時計画経済を否定し、民心を惑乱するが如き思想

ニ)動機の如何を問わず、国政変乱を目的とせる直接行動を是認するが如き思想

ホ)その他、国民の戦争意思ないし戦力を分裂、弱化に導くが如き思想


を、取り締まってきたし、それを連綿と継続してきた中での、敗戦不可避の状況。

8月14日ともなると、映画「日本の一番長い日」の状態となる。矯激なる右翼主義者を視察、監視している。


さて、玉音放送前夜に何が起こっていたのか? 多くの特高では関係資料が証拠隠滅の目的で焼却された。しかも、内務省が口頭にて各府県に文書を消却するように連絡したとされる。「特高警察の至宝」という異名を持っていた当時の埼玉県警察部長のMは敗戦直後に辞職した。更に、8月25日には警保局は各地の特高課長らが勝手に任地を離れてしまっている傾向があるとして「課長は任地において治安維持に専念せられたく」と指示を出したという。つまり、それ以前にはさんざん民衆を検束、拘禁、拷問、拷問殺をしてきたが、終戦という時局を迎えて浮き足立ち、特高では証拠隠滅、逃亡、職場放棄などが起こっていたらしいという、非常に生々しい話になってくる。


GHQによる占領地下・日本の統治となる。GHQはポツダム宣言第10項後段の「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去する」に沿い、基本的人権、特に信教、集会、言論、出版の自由の尊重を方針を打ち出した。警視庁特高部には、CICが臨検に入り、課長らを出頭させ、訊問などが行われた。

そして1945年10月4日、GHQは「政治的、公民的および宗教的自由に対する制限の除去の件」という覚書を占領下状態の政府に突き付けた。これを「人権指令」と呼ぶのだそうな。そこには治安維持法を筆頭とする一切の弾圧諸法令の廃止、政治犯の即時釈放、特高警察の廃止と、全ての特高警察官の罷免が記されていた。

10月5日、各府県の特高警察には機能停止の通牒が為される。

10月7日、政治犯の釈放が決定する。

10月13日、国防保安法、軍機保護法、言論出版集会結社等臨時取締法などが廃止される。

10月15日、治安維持法、思想犯保護観察法が廃止される。

全特高警察官の罷免も行われ、罷免となったパーセンテージは全警察官に占める6%、合計4990名が罷免となったという。(警察部長級51名、特高課長及び外事会長55名、警部168名、警部補1000名、巡査部長1587名、巡査2127名)

かくして特高の歴史も終わったと言えればいいのですが、実は、そうではない。「兵庫県警察史」という文献には、この際、253名が罷免になったが、その内の43%は一年未満の経験者が占めており、敗戦後に特高係に異動した者も13名含まれているなど、罷免の処分が下る前に異動、転属していた者は不問に付されていた。つまり、事前に転属、異動していれば、この罷免処分も免れることが出来てしまっていたのだ。

また罷免者であっても課長級以上を除き、その約12%が府県庁、市町村、外郭団体に再就職していたという。例として埼玉県の例では最終的に罷免になった者の4割以上の者が新たな公職に転じていたという。また、この埼玉県のケースとなりますが、「埼玉県警察史」に拠れば、(罷免者らに対して)「今後における社会的地位ならびに向後の生活状況を思う時、誠に同情に堪えず…」として、相当額の牋嶇金瓩支払われた事が分かっている。内務省でも「適当なる退職特別賜金」というものを支出しており、勤続20年の警視総監には月給の20倍の特別給付金を、勤続6年の巡査には月給の6倍を支給する計算になるという。実際に支払われた証拠は判然としないが、「埼玉県警察史」の中に牋嶇金瓩悗慮正擇あることからすると、支払われていた可能性も低くないのかも知れない。


報道統制の軛(くびき)から解放されたのか、或いはコウモリ的な日和見か、朝日新聞が特高の暴虐ぶりを戦後になって報道し、中央公論と改造が弾圧され拷問中に死者を出していた牴I融件瓩両楮戮鯤鵑犬拭

また、読売新聞は「忘れられた犖僕畛簓横行こそ奇怪事」、「特高警察に属していたものが、名称だけは変ったが本質的には特高と変わらぬ仕事をやっている機構の中に潜り込んでいるというのが、日本の警察の実情である」、毎日新聞が「憲兵と特高の政治警察は、民主主義実現の一大障害をなすものであった。…これが廃止によって、暗い空の晴れゆく明るさを感じたことは事実である」等と報じたという。

これで特高についての話も終わりにしますが、どういう制限を社会に加えられてしまったら最悪な状態になるのか等、考える材料になるのではないか。

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1928年2月に本邦初の衆院選普通選挙が実施されたが、同年3月15日に1500名にも及ぶ日本共産党員が治安維持法違反の容疑で同日未明から全国一斉に検挙された三・一五事件が起こる。起訴に到ったのは483名という。同年4月10日には治安警察法によって労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟を解散させる。

また同年6月、治安維持法違反の最高刑を死刑へと改め、目的遂行罪も新設。同年7月、全ての県に特別高等課を設置し、思想統制・思想弾圧を強めてゆく。つまり、普通選挙の始まりと同時に、思想統制が始まってしまったという残念な歴史を歩んでいる。

1929年4月16日、前年の三・一五事件に続いて再び約700名を一斉検挙(四・一六事件)。この際には三・一五事件で検挙を逃れていた日本共産党幹部らも逮捕された。

この頃までには司法も「思想検事」なるものを生み出し、三・一五事件、四・一六事件を経ると、逮捕した人物の思想を転向させる「転向政策」という手法も洗練されてゆき、実際に日本共産党の幹部として逮捕されながら思想を転向させる者も増えていった。しかし、特高は思想検事らの司法処分は寛大にして遅延だと不満を募らせ、特高は更なる取締り権限の拡充と取調べ権限の拡充を主張するという方向へ向かう。

転向させようとするものを転向主義、弾圧を強めようというものを弾圧主義と呼ぶと、やがて弾圧主義の方が隆盛になってゆく。

1933年、「蟹工船」でプロレタリア作家の地位を確立していた小説家の小林多喜二が特高により逮捕、虐殺される。小林多喜二が友人に宛てた手紙などによると、すべての手紙は開封されているという塩梅で、また、家族などに対しても《特高の尾行がついている事》が分かるに尾行していたという。つまり、それが脅し効果を伴うことを知って、そうしていたの意です。また、小林多喜二は銀行員であったが銀行にも特高が内偵している事が分かるように内偵するといった具合の、そうした手法が採られていたという。手法としては最大限に脅す事を目的とした尾行であった事が分かる。小林多喜二は銀行を辞めざるを得なくなる訳ですね。

小林多喜二は最終的に虐殺されており、拷問死が疑われる。現在でも尋常ではなく太腿が鬱血した小林多喜二の遺体の写真を現在でもインターネットで見つけることができる。

1941年、太平洋戦争が始まる。そして、翌1942年、特高の捏造によって起こったとされる横浜事件が始まる。

横浜事件の概要は、1942年、雑誌「改造」に掲載された論文『世界史の動向と日本』が共産主義を宣伝するものとして、発禁処分とする。同年9月14日、その論文の著者である細川嘉六(かろく)を逮捕。先に逮捕していた満鉄社員の押収品の中の温泉地で撮影した記念写真を口実とし、翌1943年になると、同温泉地にて共産党再建の謀議が為されていたとして中央公論社の社員ら7名を逮捕。以降、この横浜事件は戦争に批判的であったジャーナリストらの弾圧へと拡大し、1944〜1945年7月までの間には改造社、中央公論社、日本評論社、岩波書店らの編集者ら30余名が逮捕された。また、1944年には改造社、中央公論社は解散を命じられた。

横浜事件では激しい拷問が行われ、細川嘉六以外は全員が執行猶予となったが2名が獄死。出獄後にも2名が死亡するという特高による最大の思想弾圧事件となった。東条英機の懐刀と呼ばれた唐沢俊樹内務次官により、捏造されて起こった弾圧事件とされる。

この横浜事件、神奈川県特高警察が起こした最悪のテロとも呼ばれる。実は拷問は何かを白状させる為に用いられていたのではなく、最初から拷問する事が目的であったという最悪の内容であった。取調べの最初から

「言え。貴様は殺してしまうんだ。神奈川県警特高警察は警視庁とは違うんだ。貴様のような痩せこけたインテリは何人も殺しているのだ」

という威嚇からはじまり拷問への躊躇や遠慮は一切なかったという。肉体的苦痛と恐怖を植え付けることを優先して拷問しており、且つ、警視庁の特高よりも自分たちはもっと恐ろしいのであると張り合うようにして拷問を正当化していた特高の体質が現れていると分析される。目撃証言などからすると、拷問を受けている者は一日目から尋常ではない量の脂汗をかき、やり過ぎだと心配になったが、そういう拷問を20日間程度も続けていた等の後の証言もある。戦時犯罪というと731舞台の人体実験に目が向かいがちですが、特高の拷問死も酷さは窺い知れるところで、実際に横浜事件は4名の死者を実際に出していた事になる。

しかし、諸々の経緯とは裏腹に神奈川県の特高課の面々は、それぞれ昇進や栄転を果たした――。横浜事件とは異なるが、「蟹工船」で知られる小林多喜二の虐殺事件に関わった警視庁特高課警部のケースなどでは、いわゆる叙勲(銀杯)を授かった例もあるという。


さて、この政治警察、思想警察、秘密警察の類いは民衆に対しての弾圧や拷問を行なってきた機関として広く認識されている。当然、そこには悪辣な拷問もあったし、拷問死という最悪の悲劇も惹き起こしている。人間にとっての最悪な状況とは何か? それは拷問死でしょう。謂れのない事で肉体的・精神的拷問を課され、その果てに苦痛の中で死んでゆくという悲劇は、絞首刑や斬殺、銃殺の比ではない。クロかシロかさえも分からぬまま、苦痛の中で殺されるという事であり、拷問死以上の地獄を挙げる事は、難しいのではないか。しかし、実際に人類史では起こった話であり、このテの警察権の行使として暗黒裡に行なわれてきた事実は、覆しようがない。

鉛筆を指と指の間に挟んで締め付けるという拷問があったという。これは映画「少年H」の中でも、水谷豊演じる父親が、この拷問に遭うシーンがあったか。それ以外にも特高では、三角柱状の柱を挟むようにして正座させ、更に膝の上に石を置くという拷問をしていた。或いは、両足を縛って天井から逆さ吊りにして血液を逆流される拷問があったという。この拷問、舞台は江戸幕府によるキリスト教弾圧を描いた映画「沈黙」の中でも描かれていたかな。


或る時期からアメリカでは【ディープ・ステート】、即ち「闇の政府」を表わす言葉が使用されるようになった。その実体らしいものを指し示せないのだから、これは陰謀論であろうとして片付けられる。つまり、「闇の政府だって? トンデモな言説だね」と片付けてしまうんですね。では、その闇政府の正体が、実体がないものだとしたら、この陰謀論を片付けられるだろうか。

率直に言ってしまうとと、例えば、ケネディ暗殺、JFK暗殺事件であろうと思う。当時の状況を考慮すれば、仮に名付けるところの軍産複合体がJFK暗殺を企図していてもおかしくない状況であった。これは控え目に述べて、そうなのであって、実際に検証してしまうと検証すれば検証するほど、当時のアメリカで大統領であったJFKが疎まれる状況にあった事が分かってしまう。

私の場合は「オリバー・ストーンのもう一つのアメリカ史」で気付きましたが、状況が状況なんですね。FBIやCIAなどの諜報も肯定される情報機関や警察機関が存在している場合、後に事件を検証しようにも証拠を捏造できてしまったりする。いやいや、そもそも諜報とは、それなんですね。秘密裡に謀略を行ない、証拠も隠滅し、何もなかったとアナウンスする。これをやられてしまったら真相なんて永久に出てこない。そして、JFK暗殺の場合は狙撃犯が死んで、またその襲撃犯も殺されてしまっているのだから、怪しまない事の方が非常識だろうというケースでもある。

情報工作、諜報というのは真実を葬り去れてしまう性質を持ち、それを肯定する権能を一機関に与えてしまったら大統領という地位の者でさえ、怖ろしく感じる事はホントは当たり前なんですね。嵌められてしまう可能性がある、適当な証拠をでっちあげて暗殺されてしまう可能性だってあるじゃないかというのが自明だから。「もう一つのアメリカ史」に拠れば、トルーマン大統領あたりでさえCIAがゲシュタポ化する事を怖れていたという。情報工作もOK、暗殺もOKなのだから、あちらの人間が企図すれば大統領であっても嵌められてしまう可能性は否定できない訳ですね。また、トルーマンは軍事独裁になる可能性をも懸念していたという。傾斜するとすれば、そちらに傾斜する可能性が高いとも言える。翻って、軍産複合体の利益と相反する立場に動こうとしていたJFKが、利害が対立していた軍産複合体、その息のかかったマフィアもしくは一部か全部か何某かの警察権を有する勢力が関与して壮大な狢臈領暗殺劇という芝居瓩鮖杜てた可能性があるだろうと疑う事は、そんなに飛躍があるとも思わない。

警察国家の中で肯定された警察、その警察が政治警察化する、思想警察化するというのはアメリカも同じ流れなんですね。但し、日本の特高の方が実は早期に誕生している。日本でも、満州某重大事件というのがありましたが、要は、軍が内閣の方針を無視して暴走し、張作霖を暗殺してしまった事件ですが、これに特高がどう関与していたのか、昭和天皇はどう反応していたのかで、実際の権力の多重作用性が見えてしまうんですね。後述する機会があれば後述しますが、特高は満州某重大事件を内密に処理するように動いていた。つまり、警察という官僚組織は、そちらを主(あるじ)として選んだようにも見える。

となると、真の統治者もしくは闇の統治者とは一体、誰なのか、どこの機関なんだって事にもなる訳ですね。この満州某重大事件、昭和天皇は田中義一首相を詰問し、おそらくは辞任に追い込んでいる。田中義一にしても、満州某重大事件を勝手に起こされてしまった側の内閣総理大臣であったに過ぎないのであって、結局、責任の所在をうやむやにしながら事態は「暴走」の一言で片づけられて進行する。そうした理不尽な世界を具現化してしまう構造がある訳ですよね。
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ひと先ず、特高(特別高等警察)が誕生するまでの経緯と、ゲシュタポとの比較を前段までに終えたつもりなのですが、この問題、諸々の疑問とも密接に関係している割に、世の中は暗愚になっている内容かも知れないと直観しました。私自身も典型で「特高」と「憲兵」との差異、或いは「一般警察」と「特別高等警察」との差異について、最低限度の理解さえ出来ていなかったと思う。

そもそも情報が限られているので、書籍を探そうにも、途轍もなく高額な研究書か、その研究の第一人者が書き下ろした新書版しか見当たらない。基本的には、思想警察及び政治警察の話であり、しかも戦後に特高はGHQに廃止されたものでもあるから、その実態を知り得る資料そのものは、戦前の警察機関が残した文書などに依拠しなければならない訳ですね。

この思想統制及び弾圧があった事に暗愚になってしまうと、日本の近代以降の政治史、特に当ブログの場合は、民衆の側を主体にして政治史を捉えよう、考えようとしているので、統治者側の論理や抑圧を知らないでは、一知半解になってしまうのは自明でもある。

例えば、昨今、ネット上のメインストリームでは簡単にカタカナ表記の「サヨク」という呼称で、一刀両断に出来てしまうかのようなヘンテコな右傾化・保守化が確認できると思う。しかし、それらは或る種のレッテル貼りによる誤謬を大きく抱えている可能性が高い。米トランプ政権についても言えることかも知れませんが、過去を全否定して現在や自己を全肯定しようとする極端にして乱暴な理解であろうなと感じる。「黒船来航まで遡れば、そもそも右翼も左翼もないだろう」と言っても、理解できない人が軽く見積もっても7割以上なのではないかという気さえする。知らぬ間に凝り固まった用語や定見によって政治史が編まれてしまっている可能性が高いと感じている。率直に、こういうテの話は面白くないのでしょう。

しかし、裏返すと、これが理解できていないと、何故、血盟団事件が起きて、五・一五事件、二・二六事件が起きてという一面についての理解も浅いものになる。打ち壊し、米騒動といった民衆の暴動から足尾鉱毒事件、大正デモクラシー、大逆事件、甘粕事件、更には国体明徴論運動ら比較的大きな出来事さえをも理解できないと思う。当時の政治警察・思想警察がどのように動いていたのかを知ると、ごくごく本来的な日本の思想の流れが分かってしまうところがある。


日本の場合、或る論者は戦前の日本にもファシズムが在ったといい、或る論者は無かったという。また、或る論者は先の大戦もしくは大東亜戦争及び太平洋戦争の敗北、その戦争責任を、国民総懺悔として語るものもあれば、天皇にも責任があったという論者もあり、精緻に検証してみれば軍部の暴走こそが、その正体であるとする論陣が有力であるが、そこに密接に裏側で関与していた政治警察・思想警察については余り、語られないよなって思う。

政治思想を考えるにあたって基本中の基本になるであろう「権力は過ちを犯さないものだ」なんて、誰が言い切ることができるだろう。「世の中、親方日の丸よぉ。御上に楯突いちゃいけねぇぜ」というのが率直な日本人の希薄な国家観かも知れない。それが護送船団方式、官僚大国ニッポンの正体なのかも知れませんが、では本当に日本人は思想を持たずに近現代を歩んできたのかというと、さすがにそれは受け入れ難い。市井には中江兆民も福沢諭吉も居たし、戦後とて思想闘争や政治闘争は或る時期までは在ったんですね。いつの間にやら、選挙制度などもいじられてしまい、「はい、民主主義でーす。はい、法治国家なのでーす」となり、「はい、グローバル化でーす、国際規格に倣うべきで、異論は許されないのでーす」となってしまった可能性がある。

いやいや、何故、第一次世界大戦、第二時世界大戦、そうした戦争を起こせるようになってしまったのかという問題までも、実は貫徹している。国家総動員法や治安維持法をつくってしまえば、自ずと平民を兵士に仕立て上げて、上級国民の為に下級国民を戦地に送り込むが可能になってしまう、そのシステムの話でもある。この問題は日本に限らず、世界秩序の話でもあり、何故、近代以降は狒輓論鎰瓩可能になったのかというと、そうする事を「正しい事」と認識するような思想体系だからではないのか。

後述しますが、共産主義への取り締まりだけではなく、超国家主義の右翼も実は特高に拠って監視対象になっているし、私が幼少の頃にも「保守反動」もしくは「反動保守」という言葉があって、要は御上に逆らう主義者は悉く抑圧、排除されるように作用するのが、警察国家の実相であり、実像な訳ですね。となると、真の主体者は? ディープ・ステートとは?

(嗚呼、退屈な話になってしまっただろか…。)


1917年、寺内正毅(まさたけ)内閣では、外国人取締りと図書券悦という二面に対し、特高警察の機構拡充の実現を行なった。第一次世界大戦の交戦国として外国人取締りが重視され、またロシア革命の影響が波及する事を警戒してのものであった。内務省警保局、警視庁、その他にも兵庫、大阪、長崎などに外事課の設置を推進した。主に、社会主義思想を警戒していたが、デモクラシー思想、自由主義思想が広がる事にも危機感をおぼえ、出版物の検閲や調査の為であったという。

日比谷焼き討ち事件(1905年)以降は、都市部の民衆が新たな社会集団として登場し、論壇では民本主義や「貧乏物語」が、文壇では「白樺」や「青鞜」が大きな反響を呼ぶ時代へと変節していった。労働者問題も噴出し、各地でストライキが発生する時代になった。特高は「好況に乗じた労働者の急激非理なる要求」として取締り、弾圧的な立場を採った。

1922年には過激社会運動取締法案が、世論の反対によって廃案に追い込まれたという。1920年頃からは要注意外国人、危険思想抱持者、排日朝鮮人等の視察取締を強化していたが、社会運動の波がそれを廃案に追い込んだものと解されるという。また、社会運動の波は、農民運動、更には水平運動(部落解放運動)も勃興するという経緯を辿る。

そして、1923年9月、関東大震災が発生する。関東大震災のドサクサには緊急勅令として治安維持令が施行された。この関東大震災の混乱時に、若干の疑義を残すものの、流言蜚語によって朝鮮人虐殺が起こったとされる。

言及が困難なのですが、日本歴史大辞典には【関東大震災朝鮮人虐殺事件】という項目があるので、まんま全文を引用します。

日本歴史上の大不祥事。1923年(大正12)9月1日の関東大震災発生直後の午後から「朝鮮人の放火、略奪、暴行、井戸に毒薬投入」などの流言蜚語が発生、翌2日から東京、神奈川の各警察署は在日韓国・朝鮮人全員の保護検束指示を出した。当時日本には朝鮮人が本国での生活難のため多数渡航して重労働に酷使されていた。震災被害を受け治安の任を全うできないと判断した内務大臣水野練太郎と警視総監赤池濃(あつし)は戒厳令施行を要請、東京、神奈川、千葉、埼玉に軍隊が出動した。この結果6000名以上の罪のない在日韓国・朝鮮人が、軍隊・警察と流言蜚語に惑わされた民衆によって白昼虐殺される大不詳事件が起こされた。この大虐殺が展開されていた当時の日本植民地、朝鮮ではこの事実の新聞発表を厳重に取り締まったが、日本の社会主義者、労働運動家、無産運動家たちの協力で、在日朝鮮労働同盟会員は東京・大阪・神戸で真相究明、虐殺抗議、被害者遺族の生活権保障などの運動を展開した。

この事件を機に朝鮮人の反日感情が一層高まる一方、日本民衆のなかに朝鮮人蔑視感が浸透した。〈松尾章一〉


また、大杉栄、伊藤野江、大杉の甥の橘宗一の3名は憲兵隊によって拘束され、東京憲兵隊本部に連行され、当時7歳の橘宗一をも含めて虐殺されるという甘粕事件が発生する。3名の遺体は井戸に捨てられていた。この件は特高による仕業ではなく、憲兵大尉であった甘粕正彦の仕業として裁かれた。甘粕は軍法会議で裁かれ懲役10年の刑を受けるが3年で出獄、以後、満州国共和会の最高幹部となるなど、黒幕的な存在になる。(大杉栄を題材にした『断影』で、この甘粕事件、甘粕正彦は罪を被って汚れ役となり、結局は黒幕になった説を指摘したのは、竹中労である。)

憲兵は冒頭で述べたように「軍隊内警察」という位置付けなので特高(特別高等警察)とは組織管掌図は別系統であったが、混乱して当たり前で、この後、外地となる朝鮮半島、台湾、満州などでは軍隊が特高の役割を果たす為に「特務警察」という名称で占領地の警察権を掌握してゆく。内務局&警視庁の管轄が特高であるが、戦線の拡大と共に外地でも政治警察、思想警察が必要になり、軍隊内警察の位置づけであった憲兵隊が警察官代わりを果たすという役目を負わせるという経緯を辿る。1910年には朝鮮併合、そこで内鮮警察が発足し、以降、そこで警察権は軍隊に委ねられることになっていたというのが、深層のよう。つまり、特高と憲兵の紛らわしい理由も、この辺りにありそうですかね。
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【特高】とは【特別高等警察】の略称であるという。思想統制や思想弾圧に関与していた警察機関である事は認識しているものの、よくよく考えてみると、詳しく知らなかったりするものだと思う。例えば古い映画やドラマで描かれている【憲兵】との差異について、その認識が曖昧であったりする。知っている人は知っている話でもあるのですが、今一度、確認しておくと、憲兵とは「軍組織内に於いて警察活動を行う組織であり、これはカタカナにした場合は「ミリタリー・ポリス」となる。つまり、所属は軍隊内警察なのだ。一方の【特高】はというと、通常の警察機構の中の、政治警察または思想警察として機能していた機関で、その管轄は「警視庁特別高等課」に始まり、やがては「内務省警保局」を頂点にして統轄されていた。なので、この【特高】を英訳しようとした場合は出典はありませんが、荻野富士夫著『特高警察』(岩波新書)を中心に私が感じた印象からすると「シークレット・ポリス」または「シークレット・ガバメント・ポリス」あたりが妥当なのだろうなと思う。

また、憲兵にしても特高にしても、共に、その活動の中には防諜活動をしていた事も明らかになっている。更に、薄々は多くの人が感づいている事と思いますが、正義の名の下に非合理的な活動をしていた組織であり、思想弾圧に関与していた。殊に、思想弾圧をしていた特高については、拷問で怖れられていた事で名高くもある。

特高とは、いわゆるナチスドイツの【ゲシュタポ】に比定してもおかしくないような位置付けにも思える。しかし、単純ではない。ゲシュタポの前身は「党内警察」としてスタートしており、つまりは、ナチスドイツという政党内の警察組織であったのだ。アドルフ・ヒトラーが総統になった後に改めて「秘密国家警察」として創設されたのが、ゲシュタポであるという。ゲシュタポのトップとなったのは、ハインリヒ・ヒムラーであり、役職はゲシュタポ長官代理兼ゲシュタポ統監であったが、それは実質的に警察権の一元化体制の頂点であったという。

或る意味では、警察国家が過激な形で登場したのがゲシュタポであり、治安維持の名の下に特権的警察権で監視する立場となり、謀略を含め、やはり拷問などで悪評が高い。ゲシュタポに関する法律では、《独断によって、何人たりとも、何らの説明もなく、何らの条件もなく逮捕監禁し得る権能を与えられていた》という。

或る種の恐怖政治体制の番人みたいな存在ですが、それは国家もしくは社会の中で非常に強制力の強い警察権を掌握する事が、その本質として見えてくる。しかも、単なる番人ではなく、各種の諜報も認められ、拷問が拷問死、殺人や虐殺までもが正当化されてしまう状況を作り出す訳ですね。それに思想弾圧&思想統制が加わる。危険思想を監視するという理由で、それが行使された訳ですが、元より党内警察的な性格があるのだから、反乱分子の殲滅のようなものへ向かい易い。向かい易いというか絶対に向かいでそうですが…。

では、特高と比較してどうなのかという問題がある。思想弾圧装置という意味合いでは似ているが、特高の起源は、特定の政党ではないという。いや、その政党という概念がなかっただけかも知れない。

ゲシュタポと特高は共に政治警察であり、思想警察であり、秘密警察であった。ゲシュタポは裁判権から刑務所までもを管轄していたが、日本の特高は刑務所までもを管轄していなかったという。しかしながら、取り調べに於ける拷問は実際には黙認状態であったし、特高を管掌していたのは内務省であったという。意外と差異は小さいのかも知れない。

特高の前身は、国事警察であるという。大政奉還から明治維新への流れの中、1874年(明治7年)に内務省は、《国事犯を隠密中に探索警防すること》という主旨の下、東京警視庁に「安寧課国事掛」(あんねいか・こくじかかり)を創設したのが始まりだという。これは、その時代がかった漢字遣いにも表れていますが、凡そ、時代劇で見る「公儀隠密」に近いのかも知れない。

文明開化から間もない明治期というのは、士族の反乱があり、また、自由民権運動が盛り上がりをみせようという機運があった訳ですね。そこらに対して、明治新政府体制は、その体制を守る事を犢饂瓩版Ъ韻掘国事警察を置ている。しかし、この話は謂わば、都合の悪い言論活動や、具体的な民権運動を、政府に対して好ましくないものの監視や情報取集からスタートしている。

その国事警察は1886年になると「高等警察」へと転身する。政治に関する結社、集会、さらには新聞や雑誌その他の出版を監視する機関が必要となり、警視庁の中に置かれた。名称については「一般警察」と区分する為、「普通警察」と区分する為に、【高等】という言葉が冠されたものだという。この頃、高等警察が取り締まっていたものは社会主義でも共産主義でもなく、民権運動であったという。実は、もう、薩長閥からなる藩閥政府体制によってスタートする明治政府に対しての不満は多く、反政府運動が起こっており、その大きな盛り上がりは、日本の場合は自由民権運動であった。

この「高等警察」の登場の後となる、1890年、日本は国会を開設する。政党が政党として機能しはじめると、政党政治によって言論を統制する「新聞紙条例」は改正され、また、「保安条例」は廃止に追いやられた。これによって、高等警察の存在意義は薄れた。つまり、警察国家的な流れではなく、民主主義的な流れが定着しかけたのだ。

そして、日清戦争、日露戦争、産業革命、資本主義の勃興を迎える。(一部、順番は前後するものと思いますが、凡そ、我が国の文明開化後の流れ、明治期の流れは、そういうものであった。)

この後に隆盛を誇ることになるのが社会主義運動という事になる。足尾鉱毒事件では被害農民らが上京請願行動というデモンストレーションを起こし、その農民の上京請願を阻止せんと警官隊が衝突した事に始まる。田中正造に拠る天皇への直訴にもつながるものであり、既に幸徳秋水らも社会主義運動を展開していた時期か。

西暦にすると1900年2月に、この足尾鉱毒事件の農民と警官隊が衝突している。田中正造は右翼・左翼どちらに分類すべきか論者によっても意見が分かれる、そういう人物でもある。そもそも鉱毒被害が起こり、被害農民らが抗議活動を起こしたのが、この足尾鉱毒事件でもある。この足尾鉱毒事件を受けて、高等警察が息を吹き返す事となり、1900年3月に治安警察法が、同6月に行政執行法が施行される。

治安警察法では秘密結社の禁止規定や集会・デモの取り締まり規制が盛り込まれた。行政執行法には、危険分子に対しての予防検束、つまり、危険だと思われる人物を事前に検束する事が法律で認められたのだ。

社会主義以外は、或いは都市部は問題がなかったのかというと、そうではなく、1905年には頭山満らも関与していたとされる日比谷焼き討ち事件が発生、ここでは警察は刑法の兇徒聚衆罪(きょうとしゅうしゅう・ざい)で暴徒らを取り締まっている。日露戦争後の戦後処理に不満を抱く民衆らが日比谷を焼き討ちにした事件ですね。

1908年6月、当時の社会運動の中では直接活動派と分類されていた大杉栄、荒畑寒村らが「無政府共産」と書いた赤旗を振り回しながら警官隊と衝突した赤旗事件が起こる。赤旗事件が直接的にどれほどの影響力を与えたかは定かではないが、西園寺公望内閣が倒れ、次に桂太郎が再登板して組閣する。この桂内閣は、猛威を奮う社会運動を鎮圧する為に「裁判攻め」という作戦を採った。社会主義者に対しての刑罰を重くし、且つ、新聞や雑誌にも裁判を次から次へと起こして刊行不能に追い込むという策であった。

そして1910年、大逆事件(幸徳事件)が発生。これは幸徳秋水ら社会主義者を天皇暗殺を計画していたとして一斉に検挙、26名を起訴。罪名は大逆罪であった。無関係の者を含めての24名に死刑判決を下し、その半数は明治天皇による仁慈により無期懲役に減刑されたものの、最終的に12名が死刑になった。大審院特別法廷で一審制による非公開裁判を行なって12名を死刑にしたものでる。また、再審請求が行われたが棄却されている。通説では、この大逆事件そのものがデッチアゲと解釈されている。

1911年8月、警視庁は「高等課」から「特別高等課」を分離させ、ここに【特高】(特別高等警察)が誕生した。

関連リンク
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拙ブログ:足尾鉱毒事件〜2017-6-27

拙ブログ:日比谷焼き討ち事件〜2017-7-4

拙ブログ:大逆事件〜2017-2-1
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アメリカ映画「パージ」と、その続編「パージ〜アナーキーシティ」を視聴。2022年のアメリカでは、新しい為政者によって、3月21日の19時〜翌7時までの12時間に限定して、殺人を含むすべての犯罪を認めるという新しい法律が成立している。理屈としては、年に一度だけ、犯罪を容認することによって治安を改善するという。不審者やホームレスを処刑しようとする集団が登場するなど、何かしら、アメリカの分断を先取りしていたホラー映画だなと感心しました。

第一作「パージ」は、なにやら「パニック・ルーム」という映画を想起させるような内容でした。パージの一夜がはじまるので各世帯は我が家をシェルターにすべく防犯システムを購入している。その防犯システムのセールスマンが世帯主の一家を中心に、この騒動が描かれている。その家族の主は万全の防犯システムのセールスマンであるから、万全の防犯システムの家に住んでいるが、息子がきまぐれで黒人ホームレスを屋敷内に招き入れてしまう。その黒人ホームレスを処刑しようとして、大勢のヘンテコな若者たちが家に押し寄せ、そのホームレスを解放しないのであれば、一家もろとも襲撃すると予告される。その若者たちは自信満々に「パージ」を肯定している。どこか学生寮の友愛会っぽいノリの髪型と服装で、手には拳銃や斧を持ち、ホームレスをパージする事は、その国の利益に適っているという教条を掲げている。

二作目となる「アナーキ・シティー」の方になると、復讐劇になり、娯楽要素も幾らか増えますが、驚いた事に日本映画「カイジ」のような要素がありました。結局のところ、パージとは粛正であり、ホームレスや貧乏人が金持ちによって処刑されるものであるという性格が、この二作目で確定する。最終的には、悪趣味な処刑ショウ、つまり、貧乏人を処刑する見世物が開かれており、謎めいた主人公の無頼漢が会場に乗り込む。マルコムXのような人物がインターネット上でパージに反対しており、革命思想とも交錯しながら悪趣味な成金を処刑する。

白人が黒人を、いや、第一作目はミドルアメリカの白人がホームレスらを処刑するというところからスタートしていたので、何やら、白人優越主義の屈折した何かを見せられた思いがしましたが、第二作目になると、悪趣味な処刑ショウの司会をしているセレブ婦人が、どことなく、先の大統領選挙で敗れた、あの女性の服装や化粧に似ている。もう、どの道、アメリカの狂気を映画化してしまっているんだなぁ…と思い知らされました。

第一作目で、無業者であるホームレスを減少させれば経済合理性に適うという発想は有り得ますが、ホームレスを処刑すべしといっているのは追い詰められた、どこか旧式の白人層である。真の支配者階層たる白人層ではない。第二作目となると、より歪んだ選民意識が浮上し、貧しい者は処刑してよいに読み替えられており、貧しい者はリストアップされ、連行され、富裕層を楽しませる為の見世物として処刑され、それをセレブたちはワインなどを傾けながら観賞し、これで治安がよくなる、これで経済がよくなると、互いに励まし合う。


翻って、水谷豊&伊藤蘭の夫婦共演で話題になった「少年H」を視聴。こちらも偶然、2013年の作品でしたが、こちらは、基本的には手塚治虫の「アドルフに告ぐ」のような雰囲気。主人公一家は、神戸近郊なんでしょうか鷹取という地で生活している仕立屋一家である。キリスト教徒であり、外国人相手の洋裁を商売にしているので、昭和16年から昭和20年に掛けて、さまざまな思想狩りを、日常的な視線で取り上げている。近所のセーネンが、いわゆる「赤狩り」で特高(特別高等警察)にしょっぴかれるのに始まり、外国人と親交があり、且つ、キリスト教でもある、少年Hの一家にも、その思想狩りの魔の手が迫る。水谷豊演じる少年Hの父親は、「疑われるような事をしてはいけない」という態度を取り続けるが、拷問らしきものを受ける。また、少年Hもフランス人画家であるマネの絵を模写していた事がきっかけで原田泰三演じる教官に目をつけられて、何度も何度もぶん殴られる。非国民と思われてはいけないという、その全体主義の中の抑圧を、日常的な目線で描いている。分かり易い粛正とは言えないが、その思想狩りの恐怖は描かれており、隣組や町内の人々の目線を気にして生活する。ただでさえキリスト教徒であるから疑われ易いので、尚更に、非国民だと思われないように生活しなければならないと、父親は説き、実際にスパイでもなんでもないが、思想統制・思想狩りによって、当たり前が失われてゆく。

このテーマは「少年H」に限らず、「アドルフに告ぐ」でもそうだし、野坂昭如の小説でも何度か取り上げられた題材だし、探せば多いと思う。しかし、意外と困惑するのは、その怒りのやり場のなさなんですね。伊丹万作が記したという文藝春秋創刊号の文章を何度か引用しましたが、おそらく、戦時中というのは相互監視状態であり、競い合うようにして人々が愛国とか報国を掲げていた。まんまと競い合い、まんまと、その全体主義社会を実現してしまっていたという事でもある。ナチスの例を挙げるまでもなく、「何故、そんなバカな事を?」と後にして考えるものなんですが、実は伊丹万作らが言い当てたものは、それなんですね。実は、思いの外、民衆というものは脆い。その全体主義の中で自分の地位を守る為に、おかしな価値観を正当化しはじめる。「竹槍で戦うつもりだったなんておかしいんじゃないのか?」と言えるのは、事後なのだ。

しかも、負ける事や劣勢に置かれている事を口に出すと非国民扱いしてしまった御時世だから、際限なく戦争の被害は拡大させてしまったとも言える。一般人レベルでもそうだし、為政者らも言い出せず、いたずらに犠牲者数を増やしてしまったのが先の大戦の真相でもある。責任問題にしても、うやむやにならざるを得なかったが…というのが、伊丹万作の論旨であったと思う。

しかも、確かに厄介な問題があると思う。戦後、敗戦の後、日本は国体が保たれたことになっているが、結局は、戦前・戦中に愛国主義を掲げていた者が、そのまま戦後に親米愛国と言い出しただけなんじゃないのかという大問題がある。言ってしまえば、天皇陛下万歳と言っていた者がアメリカ万歳と言い出しただけだという、不可解な問題をホントに残してしまっているワケですね。おそらく、吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりの時点までは、大国アメリカの偉光に頼るのがセオリーであり、他の選択肢は無かったようにも思える。そのまま、東西冷戦状態に突入し、そこで日本は西側陣営に身を置いた。そして、冷戦体制が終焉した。気付いたときには、経済大国として成長していたが、東西冷戦体制が崩れ、中国が台頭し、世界情勢も対テロ戦争を含めて、複雑化した。

で、気になったのが、斎藤貴男著『平成とは何だったのか』(秀和システム)に記されていた、現行日本の政治家の、毛並みの問題でした。高村(こうむら)正彦さん、古屋圭司さん、故・町村信孝さんの毛並みの問題なんですが、これ、知りませんでした。麻生太郎副総理が吉田茂の孫にあたる事、また安倍晋三総理が岸信介の孫にあたる事は有名ですね。で、先に挙げた高村さん、古屋さん、町村さんというのは、それなりに大物政治家ですが、実は父親が特高(特別高等警察)の人物であったというんですね。これを事実とするなら、さすがに、余りにもメンツが揃い過ぎているんじゃないだろか。(ウィキペディアで調べると「警察官僚」あるいは「内務省警務局」といった経歴が、それぞれ実父、養父の経歴欄にあるのが確認できる。)

著者の斎藤貴男さんは元週刊文春記者のフリーライターで、愛川欽也さんが司会をしていたBS放送の番組でコメンテーターとして活躍していた他、NHK総合の「ニュース深読み」などにも出演していた人物である。また、著書の『梶原一騎伝』は確かに傑作であったと思う。しかし、斎藤さんはまさに私も視聴していた可能性が高い「ニュース深読み」の番組内で消費税問題にチャチャを入れたところ、以降、テレビという媒体からホサレたという。テレビ制作者サイドから「扱いにくい人物」と認定されてしまったという事である。しかし、このように媒体から締め出すというのも、パージの手法の一つになっている。テレビ局にとって、都合のいい発言をする者しかテレビには出られなくなってしまう訳ですね。

更に加えて谷垣禎一さんの祖父が、戦時中の影佐機関の影佐禎昭であった事を考慮すると、ホントは、戦後の日本の国体って、実は保守でもなんでもなくて、単なる戦勝国アメリカの属国になってしまっているんじゃないのか――という物凄い怖い話を考えねばならなくなる。実際、アメリカ国体論みたいな書籍が売れているようですが、もう、或る時期から日本でもマスコミを介しての思想コントールが酷い事になってきてしまっている可能性があるのかもなぁ…。実際問題、戦後70年以上も経過しているが、実は、ずーっと支配者層が微妙に生臭いところの血筋でホントに固定化してしまった可能性があるじゃないかと疑わねばならない訳で。

また、裏返すと「田中角栄はアメリカに嵌められた」という類いの陰謀論を田中角栄自身、或いは石原慎太郎さんあたりも採っていますよね。実は、田中角栄と福田赳夫の角福戦争とは自由民主党内で発生した党内政権交代劇であったという史観がある。党人派と官僚派ですね。で、党人派が勝利してしまったので、アメリカが捻りつぶした、と。公職追放されていた元高級官僚を復帰させたのは吉田茂と岸信介である事を踏まえて組み立ててしまうと、戦前・戦中から現在まで、敗戦なんてものを挟んでいるにもかかわらず、あんまり、支配者層の血筋が変わっていないという不思議がある。

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中島貞夫監督作品「日本暗殺秘録」を入手から4年ほどして気まぐれに視聴。見どころらしい見どころはないだろうと思って、ロクに期待もしていなかったのですが、これは、中々の傑作でした。絶賛に近いニュアンスで。というのは、タイトルからして「日本暗殺秘録」といった具合に各種の暗殺事件を再現したものなのですが、「小沼正を通して描いた血盟団事件」が全篇の7〜8割の尺数で描かれているのですが、これが良く出来ていて、感心してしまったんですね。

その「小沼を通して描いた血盟団事件」以外は余禄というか特典映像みたいなものでしかない。とはいえ、日本歴代のテロリストを豪華俳優陣で映像化しているのは余禄でありながら視聴の甲斐はあるのかな。先ず、安田財閥の安田善次郎を斬殺した朝日平吾を菅原文太が演じている。大杉栄の敵討ちの為に結成されたギロチン社、資金調達の為に銀行員殺害に及んだ古田大次郎を高橋長英が演じている。高倉健は永山鉄山軍務局長(少将)を軍刀でバッサリと斬殺した相沢三郎中尉を演じ、ごくごく短い映像なんですが、高倉健の振る舞いはヤクザ映画の刀の使い方。そして二・二六事件の磯部浅一は鶴田浩二が演じていましたが、この二・二六事件、仔細からすると史実に忠実に再現されているのが分かる。投降を呼びかけるシーンのナレーションは確かに活字本と一致している。

そして、血盟団事件が物語構成、キャスト、演出と総合的に傑作で、井上準之助を射殺する青年・小沼正を千葉真一。井上日召を片岡千恵蔵。藤井斉を田宮二郎。古内栄司を高津住男。ヒヤマセイジなる人物を村井国男。小沼の勤務先の落合製菓の娘・たか子役に藤純子。落合製菓の社長役に小池朝雄。その他にも役名不明ながら近藤正臣が出演している。豪華俳優陣を配役しているだけあって、いちいち凄い。千葉真一のこれほどの当たり役を知らないし、田宮二郎が演じた青年将校・藤井斉になるとカッコよ過ぎて、単純にヤバい描き方だよなって心配してしまうレベルでした。

また、小学校教師であった古内栄司が決行前に「学校には弁当を持ってこれない子もいるのに、政治家が賄賂をもらって私腹を肥やしている。政党政治だって党利党略でしか動いていない」というセリフがありましたが、これに近いセリフは資料として現存するから、おそらく、相応に忠実にノンフィクションとして作っていると思う。



で、何が凄いって、小沼正(おぬま・しょう)の目線から描いた血盟団事件なんですね。おそらく小沼正の予審調書などを参考にして脚本がつくられたものであろうと思いますが、中々、古い事件にして血盟団事件というのは分かり難い部分が多いんですね。それが一人のテロリストに身を落とした青年の目線で描かれている。最終的には前職が大蔵大臣であった井上準之助の暗殺にいどむ小沼は軍人でもないし、将校でもない。それだけに人間目線なんですね。

以下、「日本暗殺秘録」で描かれたテロリスト・小沼正の話。

元々、小沼正は七郎と言ったという。小学校時代の6年間は全て成績トップの優等生であった。しかし父親は経理担当の仕事をしており、同僚が起こした不正事件の責任をとって自ら仕事を辞してしまい、七郎は中学校へ進学できない。七郎は子供ながらに「父さんが問題を起こした訳ではないのに、何故、父さんが会社を辞めるんだ!」と、責任感の強すぎる父親への不満を口にしている。


その後、七郎は大工見習いなどの仕事を転々とし、大正末期には銀座に店を構えていたという菓子工場兼店舗・落合製菓の住み込みとして働いている。名前も正(しょう)に変わっている。そこの社長・落合(小池朝雄)は、昭和天皇の即位に合わせてカステーラの販売を見込んで工場を拡張、

「商売が巧くいったら支店を出さなきゃならなくなるかも知れない。そうしたら正ちゃんにも暖簾分けしなきゃな」

等と話している。また、娘のたか子も、正を互いに気に掛けている間柄であり、近所の風呂屋の番台からは、正とたか子の仲をからかわれている。

しかし、落合製菓の目論見は無残にも打ち砕かれる。工場の設計図は警察にも提出して許可を得ていたつもりであったが、所轄署から設計変更を持ち掛けられるのだ。社長の落合は、

「違法建築ではない。ちゃんと許可も取ってあるんだ。それに無理して資金を工面して今更…」

と食い下がる。ホントは、所轄署は賄賂を出せと暗に要求していたのだが、落合はそれに気付かず、抗ってしまう。予定が狂ってしまった落合製菓は、資金繰りが逼迫、料金滞納によってガスも電気も止められてしまい操業できなくなってしまう。落合製菓は破綻、落合一家は工場兼家屋を手放すことになる。飲んだくれて帰宅した落合(小池朝雄)が、言い散らかす。

「ああ、オレが甘かったんだ。大甘だったんだよ。みんな、袖の下を渡していたらしいんだ。オレが世間知らずだったんだ、チクショウ!」

若い若い千葉真一演じる小沼正は、だらしなく酔いつぶれてしまった社長・落合を真っすぐに見つめている。

郷里の大洗に戻ると、サツマイモを川に捨てている農夫の姿を見掛ける。世界的な金融不況の余波は農村にまで及んでおり、農家たちはサツマイモを行商に行っても肥料代にもならないから捨てているらしい事を知る。正自身も昆布をリヤカーに積んで東京まで売りに行くが、全く売れない。この頃に、井上日召を知り、井上日召の屋敷(護国堂?)に住み込むようになる。

片岡千恵蔵演じる井上日召と小沼正との接点が始まる。当初、井上日召は「本気で御題目を唱えるんだ」としか言わず、さほど正も御題目に熱心なワケではない。しかし、正は入水自殺をはかろうとして海に入ってゆく中で、御題目を本気で唱える事の重要さに覚醒してしまう。死に切れず、ふと気が付けば「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と震えながら御題目を唱えている弱い自分がいる。この入水自殺未遂シーン、映像的にも見事で、波と陽光とによって太陽に包まれてしまうかのような小沼正の心象風景が演出されている。また、何やら読経をイメージさせるかのような低い男性の唸り声のBGMも秀逸である。その自殺未遂後、小沼正は自ら住み込みたいと願い出るのだ。

間もなく、小沼正は藤井斉との面識を深める。藤井は急進派の海軍将校であり、井上日召と連携してクーデターを画策している。愛郷塾なのか、御国堂に集っている者らの間では、現状に日本への危惧が高まっており、金融不況と政党政治に蔓延している政治汚職、更には当時、日本が突き付けられていた洋上艦隊の艦船数を削減する弱腰外交等を総評して、「日本精神の堕落」というフレーズが度々、使用されるような絶望的局面に入ってゆく。

かつて勤めていた落合製菓、その社長の娘たか子(藤純子)と再会する。たか子はカフェーの女給に身を落としており、紅い口紅を塗ってタバコを吸いながらハスッパ女になってしまっている。中身は間違いなくたか子なのだが、昔の面影がない事に小沼はショックを受ける。

この年、全国の失業者31万人、スト件数984件、小作争議件数3419件――。

田宮二郎演じる藤井斉は、千葉真一演じる小沼正に語り掛ける。

「三井、三菱両財閥は、この機にドルを買って5億も儲けたそうだ。水戸は桜田門の烈士を生んだ土地だ。小沼君、僕も君と同じ旧水戸藩の生まれだ。僕たちの内のどちらか一人が革命の起爆剤になろうじゃないか」

と語り掛ける。

井上日召も、状況は差し迫っているという態度に変わってゆく。テロに傾斜し、後に一人一殺と呼ばれるような思想を説き始める。

「本来であれば革命には、破壊と建設とになるが、先ずは破壊だ。建設までは手は回らんだろうから、我々は捨て石になる覚悟、死ぬ覚悟となるしかない。建設は、我々によって覚醒した、我々に続く連中の手に委ねるしかない。捨て石になって、権力者たちを覚醒させねばならん」

と、片岡千恵蔵演じる井上日召に説かせている。結構、映像としても重厚である。


又、この映画では藤井斉を田宮二郎が演じていることもあっても、藤井を疑わせる要素はありません。その後、陸軍系の革命組織・桜会が神楽坂で宴会をしているところへ、海軍系の藤井は押し掛けて、睨み合いになるシーンがある。桜会のメンバーのリーダー格は「ヤマニシ」と呼ばれている。

その桜会は夜毎、芸者を上げて豪勢な宴会をしているらしく、業を煮やした田宮二郎演じる藤井斉が乗り込んでくる。藤井は、

「君たちは何をやっているんだ! 俺たちの革命は死で終わる筈だと云ったじゃないか! 君たちは革命後の閣僚名簿をつくり、自分たちをも二階級特進を予定しているらしいが、まったく不純だ! 君たちのやっている事は、単なる権力抗争じゃないか!」

と、気迫を示す。以降、陸海共同して革命派が集まるとしていたが、陸軍系と海軍系とに亀裂が入ってしまう。

藤井は急進派として動いている事を警戒されたのか上海赴任となる。映画の中では、芸者遊びを藤井に咎められた桜会が、その報復措置として藤井が危険人物である事を軍部に密告したらしいと告げられるクダリが挿入されている。

藤井は上海へ。しかし、藤井は飛行機の離着陸に係る事故によって死亡してしまう。

藤井の訃報を知った小沼正は、また海岸で太陽に向いながら御題目を唱えながら、それを天命と理解するに到る。映像は右下に御題目を唱える千葉真一であるが、画面には大きく、これまでの小沼正の半生が映し出され、その最後に石油タンクが爆発でもしたのか、宇宙のビッグバンなのか、そんな画像が映し出される。

そして千葉真一演じる小沼正は、かっと目を開く。

「我々が革命をするものだと思っていたが、それは違った。我々ではなく、オレがやらねばならないのだ!」

井上日召は、説く。

「ここは大洗だ。大洗とは日本を洗うということだ。ここは日の出の東方だが、日本だけではないぞ、世界を洗うのだ」

そして小さな拳銃を小沼正に授け、井上準之助暗殺の使命を与える。

「我々は捨て石になるのだ。間違っても警察官に銃口を向けてならんぞ。また、誰に対しても反撃してはならん。捕まって、裁かれるのだ。そして、その場で、堂々と、日本の堕落を指摘し、我々が決起した理由を周知してもらうしかない。これ以外、日本を救う道はない」

1931年2月9日、小沼正は民政党の選挙対策本部長をしていた井上準之助が本郷の小学校での応援演説にやって来るところを待ち伏せ、至近距離から発砲、射殺。直ぐに取り巻きによって殴る蹴るの暴行を受ける形で逮捕される――。小沼正、21歳。

同年3月5日、22歳の菱沼五郎が井上日召の命令で三井合名会社理事長・団琢磨を暗殺する。

井上日召は頭山満を訪ね、頭山の三男・頭山秀三の天向会に約一ヵ月ほど潜伏の後、自首。

血盟団事件の裁判は井上日召の狙い通り、異様な空気となった。事件を起こした血盟団に同情的な立場をとる者が少なくなかったのだ。小沼正は逮捕時、新聞記者からも罵声を浴びせられていたが、実際に裁判が始まると何もかもを正直に証言し、血盟団が決起した理由が明らかになると同情が集まりだした。そして実際に、この血盟団事件を機に、昭和維新運動は盛り上がりを見せる。同年五・一五事件が発生、後の二・二六事件までの一連の昭和維新運動が続いた――と。


因みに、田宮二郎演じる藤井斉がカッコ良過ぎるというのは、田原総一朗著『日本近現代史の「裏の主役」たち』(PHP文庫)では、田原総一朗が血盟団事件に詳しい中島岳志、或いは坂野潤治・東大名誉教授にインタビューした内容が記されている。坂野東大教授は「藤井斉もまた、その藤井本人の日記には革命のことしか記していない」、「革命後の計画が綴られていない」と、田原総一朗に示した事が記されている。しかし、井上日召や藤井斉らの思想が、この映画に描かれていたように「自分たちは捨て石になる」が目的であったのであれば、その使命は破壊の先鞭をつけさえすればいいのだ。そもそも「革命後の計画」は不要だった事になるし、少なくとも自分たちは死を覚悟して革命の布石となろうとしていたという事が血盟団事件の真相となる。

確かに井上日召は、革命の捨て石になる事、革命が成ったとしても勲章をもらおう等という邪(よこしま)な境地ではテロは完遂せず、テロリストとして捕まり、為政者や世論を覚醒させる事が目的だったという風に作られている。

純真そうなクリクリ目玉の若い若い千葉真一と、苦み走った二枚目・田宮二郎の演技は、見応えがありましたかね。
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1987年製作のドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」(原一男監督)は、視聴後に軽く鬱な気分になるレベルの作品でした。これはドキュメント映画の力なんでしょう、刺激的な内容である上、進行形で撮られた生身の人間の姿だから精神的にしんどい。凄い内容なんですけど、やはり色々と重た過ぎる中身なので、詳しく内容に触れる事は不可能。

これはフィクションで描いて、我々が気付かなきゃいけない内容なんでしょうねぇ。というのは、先の大戦にて戦争が終結後に発生したニューギニアで発生していたという旧日本軍の部隊内で発生した処刑事件が取り扱われている。しかも非常に複雑であり、終戦は御存知の通り、8月15日であった。その部隊に終戦の報が届いたのは8月18日であったが、9月4日に2名の兵士が何かしらの理由で銃殺刑に遭ったらしいという、40年以上も昔の戦後のドサクサ、その軍隊の中で発生した殺人を徹底的に追求する人物に密着取材した映像なのだ。しかも、「取材対象」氏は自らの手で真相を暴き、法的には時効であるが彼の考えるところの神の法によって、自らの手で誅そうともする至極過激な映像ドキュメンタリーなのだ。

それだけでも充分過ぎるほどに重たい内容なのですが、それとは別に重たいのが人肉食いに関しての証言が収録されてしまっている事でした。先の大戦に於ける餓死、飢餓状態の話というのはガダルカナル島はじめ、敵兵を食べたという人肉食の証言などもあるワケすが、まぁ、それも或る程度までは冷静に捉えることが出来る。映画「野火」なんてのもそうだったし、或いは白土三平の漫画でも寿司を食って人肉食の記憶を思い出して嘔吐する漫画があった気がしますが、このドキュメント映画の場合は余りにも生々しく、精神的にしんどい。

作品中、複数の証言者の口から【白豚】と【黒豚】という隠語が語られている。それが何を意味しているのかというと、これまた、そのままの言葉で証言されていましたが、【白んぼ】、【黒んぼ】、【土人】という単語で明確に証言されている。しかし、これが非常に生々しく響くんですね。撮影当時にしても40年前の記憶を回想しながら話している証言であるだけに物凄く生々しく響く。また、この事は同時に、単なるグロテスクな趣味で収まる範囲にはなく、実際に人肉を食べてでも生き残らねばならないという過酷な状態であった事を前提にしないと理解できない話なのだ。或る意味では言葉狩りや禁句狩りのようなものには何の意味もない事を嫌という程、見せつけてくれる。ありのままを語る事を回避してしまうと、生々しい情感なんてものが伝わる筈もない。

人肉食なんてのは「誰も好き好んで、そんなことをしていたのではない」というフレーズも二度ぐらい語られている。裏返すと、それがあった事を物語っている。確定的。しかも、それを戦後の飽食の時代に生きている我々が裁く事は難しいなと痛感させられる。但し、このドキュメント映画の中の登場人物は、その部隊に所属していた元軍人であり、かつての上官を平気で殴り倒せる強烈すぎる精神力の持ち主である。

多くの者は口を噤みたがる。これも非常に気持ちは分かるんですね。仮に当事者であったとしても自らの罪と向き合う事には抵抗があるだろうし、或いは知っているという場合でも、語るには余りにも重たい事実である。何も今更、蒸し返したくはないという心理が働くのも分かるといえば分かる。

かなり荒っぽい手法で証言を引き出すが、確かに法律的には時効成立の話であるが、戦争が終結した後に行なわれた銃殺刑は、或る意味では殺人である。その辺りは人権派弁護士として有名であった故・遠藤誠弁護士の見解を踏まえた上で行動した一連なのだ。多くの者が、語るに語れない罪、その罪悪感を胸の中に抱えて帰還し、その後の人生を送っていたであろう事も生々しく伝わってくる。

色々と考えさせれましたが、人肉食のようなものは極限的な飢餓状態でなければ行なえなかったであろう業(ごう)なのですが、ひょっとしたら、例の処刑は下っ端の兵士を銃殺し、その人肉を食べたという事ではないのかという嫌疑さえ、突き付ける展開まである。私の感想からすると、それは無かったと思いたいし、そう感じましたが、それは確信的かというと勿論、そうではない。(証言者も全員がさすがに否定している。)

おそらく、戦争末期や終戦直後の混乱というのは想像を絶せるレベルの惨状であった事が予想できるんですね。また、その極限状態で、何故、戦争が終わっているのに銃殺刑が行なわれたのかという部分、そこに確かに業としての罪を感じなくもない。厳しい状況であったのだろうから平時の感覚では裁けませんが、越えては欲しくない一線を越えた罪というものは感じざるを得ない。

兎に角、この映画には狄祐峇僂箸靴得鐐茲離筌个記瓩詰まっている。取材対象氏の取り憑かれたような行動には戸惑わされますが、戦争というもののヤバさを伝えるという意味では、この作品の存在感は極めて大きいような気もしますかねぇ。

まぁ、あの生々しい証言からすると間違いなく、人肉食は相応の頻度で発生していたと認識せざるを得なくなりますが…。おススメ度は高い反面、刺激が強いのは間違いないので多少、気分の変調などに耐えられる場合の視聴をおススメという感じです。



そうそう。この映画の取材対象氏の街宣車には、黒字に赤の日章旗があったり、白地に黒の日章旗が掲げられていて驚きました。大島渚監督の『日本春歌考』では、作品中に黒い日の丸が登場することが話題になったらしいのですが、実際に黒い日の丸、この取材対象氏は掲げていたんですね。単純に反体制の象徴でもあるのですが、見慣れている筈の配色が違うとギョッとする感覚があるのですが、まさかドキュメンタリー映画で見る事になるとは…。
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朴烈事件(ボクレツじけん)とは、1923年に大正天皇暗殺計画の容疑で朝鮮人社会活動家の朴烈(生没1902〜1974年)と、その妻・金子ふみ子とを1926年に逮捕、大逆罪に問い死刑宣告してしまった事件を端的には指している。今一度、確認しておくと、官憲が不当逮捕し且つ死刑宣告をした事を「朴烈事件」と呼ぶという事でしょうか。何故、今一度、確認しておく必要があったのかというと、この朴烈と金子ふみ子を語るには、少しばかり、その経緯を説明しておく必要があるから。

朴烈は本名を朴準植(ボク・ジュンショク)といい、慶尚北道生まれ。1919年に渡日し、日本でアナーキズム運動に参加する。1922年頃から同志であった金子ふみ子と同棲するようになる。この二人は結社、黒壽会(こくとうかい)、黒友会(こくゆうかい)を経て、最終的には不逞社(ふていしゃ)を立ち上げた。

この【不逞】とは「不逞の輩」という具合に使用する言葉であり、知っている人は知っている単語でもあるのですが、念の為に触れておくと、「従順ならざる〜」とか「勝手に秩序を乱す〜」という意味である。この朴烈と金子ふみ子の場合は、更に時代背景が稍あって、元々は内務省がアナーキズム系の社会運動をしていた危険分子と見なし、【不逞鮮人】という呼称を使用していたものを逆手にとって、結社名を不逞社としたもの。また、刊行物のタイトルにも『不逞鮮人』と命名、真正面から、その名称を名乗ってみせたが、それが叛逆的な態度であると修正を迫られると、その刊行物のタイトルは『太い鮮人』に変えた。「ふていせんじん」がイケないというのであれば「ふといせんじん」でいいだろ的な。しかし、字ヅラこそ変えたものの、実際には「あの野郎、ホントに太ぇ野郎だな」等と発音していたかも知れませんやね。

関東大震災の直後、混乱の中、朝鮮人虐殺があったとされる。近年、一部の保守系論者によって「朝鮮人虐殺はなかった」という類いの言説も流布されているようですが、おそらくは「あった」のが歴史的事実でしょう。例によって規模などは把握のしようがないというだけの話で、その事実が在ったか無かったのかといえば、それは「在った」で間違いない。この辺り、公然と流布されているフェイクニュースに御用心の事柄かも。

関東大震災の直後には、実は白色テロ(官憲によるテロ行為)が3件あったと考えられる。一つは、大杉栄ら3名を検束・虐殺・死体遺棄していたという大杉栄及び伊藤野江に係る事件。もう一つは右系労働運動関係者を逮捕した亀戸事件。そして最後の一つが、この朴烈事件であり、この朴烈事件の場合も朴烈事件という呼称が定着しているので、それを踏襲しますが、事件の概要は大杉栄事件と似ていて朴烈のみが対象ではなく、内容としては、金子ふみ子も一緒に逮捕され、死刑宣告を受けている。むしろ金子ふみ子の方が投獄後は悲劇的である。金子ふみ子は栃木刑務所で恨み骨髄を吐き出したまま、獄中で首つり自殺を完遂してしまった。金子ふみ子を自殺に追いやってしまったという意味で非常に後味が悪い事件なんですね。

先に述べてしまうと、朴烈の方は生き延びて、後に民団(在日本朝鮮居留民団)を結成し、李承晩政権にて国務委員を務め、更には北朝鮮に渡って南北平和統一委員会副委員長になった人物である。この歴史的経緯を掘り下げてゆくと、昭和以降の日本と朝鮮とが水面下では怨み骨髄、凄まじい感情的対立がある事、その一端と関係している可能性さえある。


1923年9月1日、正午近くに関東大震災(大正12年)が発生する。その関東大震災の余震が続く、本震発生の翌日となる9月2日、朴烈と、朴烈と内縁関係にして同志でもある金子ふみ子は、官憲によって検挙された。容疑は大正天皇の写真(御真影)を壁に貼り、その写真をナイフで刺したのを尾行していた刑事によって目撃された為とされている。しかし、何かと実相が分かり難い事件であり、軍部が社会主義者や朝鮮人らが震災の混乱に乗じて暴動を起こさぬよう、それを警戒して事前の予防措置として、不逞鮮人・朴烈を検束したのではないかという指摘もなされている。予防措置として検束しておく必要があったというのは官憲側の言い分であり、当の朴烈らが実際に暴動を画策していたのかどうかは別問題であったと思われる。

そして、関東大震災発生から数日後ともなると日本列島では諸々の理由によって朝鮮人虐殺が各地で発生していた。虐殺の規模にも諸説があるが、パニック状態になった人々が「朝鮮人が混乱に乗じて暴動を起こそうとしてる」や「井戸に毒を入れた」等のデマゴギーが関東地方に広く流布し、自警団や官憲にによって多数の朝鮮人が虐殺された。念の為、広辞苑第六版から引くと、「1923年(大正12)9月の関東大震災の際、在日朝鮮人が暴動を起こしたという流言が伝えられ、自警団や軍隊・警察により数千人の朝鮮人が虐殺された事件」と記されている。

(この関東大震災直後に起こった朝鮮人虐殺事件の話は、別の機会に触れることもあるかも。或る種の自虐史観になるものの真実は真実であり、隠蔽しようとしたり、事実の改竄を平気で展開する主張などに対しては警鐘を鳴らすべきだと考える。「真実のみが勝利する」の原則に従えば、歴史改竄論者には対抗する必要があると思うので。)

朝鮮人虐殺の責任はどうなのかという問題は判然としない問題なので触れませんが、実際問題として鮮人虐殺という事態が混乱の中で発生してしまった。当時も国際的なキリスト教関係の団体などから調査の要求などがあったようで、それに対して政府は黙認するのですが、そこで画策されたのが「実際に朝鮮人は暴動を画策していたので、こうなってしまった」という方便を用意しようとして、その過程の中で朴烈と金子ふみ子に対しての大逆罪がデッチアゲされていったのではないかという見解があり、相応に有力視できそう。(これには異論もありますが、混乱する内容なので省きます。)

つまり、国際的な批判を躱(かわ)す為に行なわれた或る種の謀略であったという見方ですね。「事実、朴烈夫妻は天皇及び皇太子暗殺を画策していた可能性があるのです」と主張する事で、政府は批判を躱そうとしたのではないか――と。

朴烈夫妻が検束されたのは9月2日であった。当初は治安維持法に係る嫌疑で検束したものであったが、その取調室の外では鮮人虐殺が起こってしまい、途中から朴烈夫妻が上海から爆弾を入手、天皇暗殺を画策していたという嫌疑へと変節、爆発物取締法違反という容疑によって震災発生からかなり経過した1925年10月20日に起訴をしている。

その後、天皇暗殺の嫌疑を濃厚なものとして最終的には大逆罪とし、翌1926年3月25日(27日という記述も)に大審院は朴烈、金子ふみ子の両名に死刑判決を下す。しかし、それから日もさほど経過しない同1926年4月5日に天皇の名の下に死刑から無期懲役刑への特赦が為されている。(大逆罪は一審制、しかも公開の原則なども曖昧なまま司法で裁くものであり、前例に幸徳秋水らを大逆罪として処刑した幸徳事件がある。)

1926年4月5日、市ヶ谷刑務所内にて係官から特赦状が両名に手渡された。朴烈は穏やかに特赦状を受け取ったという。しかし、金子ふみ子はというと、受け取った特赦状をビリビリに引き裂き、投げ捨てたという。よって、朴烈も特赦状を破くかも知れぬと心配し、係官は朴烈から特赦状を回収した。金子ふみ子は宇都宮刑務所栃木支所(栃木刑務所)に移送された。

1926年7月、不思議なスキャンダル事件が起こる。取調室内で朴烈が金子ふみ子を膝の上に抱いている写真が怪文書と共に出回り、時の若槻礼次郎政権を窮地に追い込んだという。その怪写真騒動を朴烈怪写真事件とも言い、これは何某かの策略で裏で指示していたのは北一輝だとする説があるが判然としない。その怪写真騒動は、その概要からすると、つまり、天皇暗殺を企てていた朴烈と金子ふみ子が取調室で仲睦まじくしている写真が出回った事に拠って、右翼主義者らは「政府は生ぬるい! 警察は大逆罪の被告両名をまるでゲストのように扱っているではないか!」という内閣に対しての攻撃材料として使用したのだ。

1926年7月26日早朝、金子ふみ子は縊死(いし/首吊り)の状態で発見された。勿論、それは自殺であり、金子ふみ子、数えで23歳、満年齢だと22歳であった。

1927年1月27日、新聞に朴烈と金子ふみ子の怪写真が掲載される。撮影されたのは1925年5月の事であり、予審判事が取調室内で撮影、その後、その写真を朴烈の元に渡されたが、それが何故か右翼の手に渡り、若槻礼次郎内閣の倒閣に利用された。当時の新聞には右翼主義者の言い分として「恩命に浴して栃木刑務所に送られてのち文子が妊娠して居り、当局愕然、その善後策に腐心中監房内に縊死云々の発表を見るに至った事」を伝えていた。

訊問調書には、取調中の金子ふみ子が言い放った叛逆精神が現われた箇所があるという。

権力ノ前ニ膝折ッテ生キルヨリハ寧ロ死ンデ飽ク迄自分ノ裡ニ終始シマス

私なりに意訳すると、「権力の前に膝折って生きるよりも、むしろ死んででも自らの掌握できる裡(うち)の範囲にて、自分の人生を終わらせます」かな。



金子ふみ子は自伝的な内容でもある獄中回想録『何が私をこうさせたか』を執筆しており、死後、刊行された。死刑判決が下る前の市ヶ谷刑務所、その未決監の中で執筆されたというその自叙伝は原稿用紙七百枚に及ぶ膨大な内容であった。

実際に『何が私をこうさせたか』に目を通すと、兎に角、余すことなく信念の下に果てた一人の女の生涯、いや、自分と真っすぐに向き合って生きた一人の日本人女性の生身の人生が描かれており、驚かされる。金子ふみ子は「無籍者」であり、その複雑な生い立ちについても述べられている。無籍者であるが故に学校へ行きたかったが行かせてもらえなかったという幼少期があるが、何故に無籍者であったのかという問題は、当時であっても理解に苦しむものであったらしい。

金子ふみ子の生まれは横浜の黄金町付近であったという。そう考えると売春地帯であるから、それに関係した生い立ちのように早計してしまいたくなるが、そうではない。非常に複雑で、原籍は山梨県・諏訪村であるという。実の母親は「金子とくの」であり、実の父親は「佐伯文一」である。しかし、両親は入籍しておらず、出生届も出さなかったので無籍者のまま幼少時を過ごし、一定の年齢になってから母方「金子とくの」の実家である金子姓となった。とくのの両親、ふみ子からすると実際には祖父祖母にある「金子富太郎・よし」の娘、つまり、祖父祖母の養子という風に戸籍上は処理した為であるという。従がって、実母たる「とくの」とは戸籍上では姉と妹という関係になっている。

ここまででも、そこそこ複雑ですが、更に複雑である。実母・とくのは、その後、実父・佐伯文一と別れ、その後も色々と嫁ぎ先を探し、最終的には別の男性の後妻になっているので、裁判の時点に於ける金子ふみ子はというと、実母とも実父とも苗字が違っていたらしいのだ。更に、実父である佐伯文一は、ふみ子からした場合の叔母にして、実母・とくのの妹とも男女関係を持っていた。

更に更に紛らわしい事に、実父・佐伯文一の祖母は日本統治時代の朝鮮半島・忠清北道の芙江(ふこう)という地で生活していた関係から、ふみ子は7年間ほど朝鮮で生活している。ここも紛らわしいのですが、佐伯家は自称「由緒正しい氏族の家系」であったらしく、氏族の末裔として朝鮮半島で官吏の職に就いていたという事であり、佐伯家や金子家が朝鮮人であるという意味ではないし、また、その血が混入していたという話でもない。最終的に朴烈の愛人(夫婦)となり、且つ、「金子」という姓が「金」と表記した場合の「キムさん」を連想されるので、金子ふみ子という人物自身が朝鮮半島に起源を持つ血脈の持ち主のように誤解しがちであるが、その意味では純然たる日本人である。

また、更に更に更に面倒くさい事に、この朝鮮時代にふみ子を引き取った父方の祖母は岩下姓を名乗っていた。由緒正しい佐伯家であるというのであれば佐伯姓を名乗っても良さそうなものであるが、この祖母は広島で結婚して文一を産むも夫に先立たれており、岩下という官吏に一人娘を嫁がせた。戸籍上は婿養子として入れ、祖母は、ふみ子の実父・佐伯文一の妹にあたる若夫婦(岩下姓)と生計を一緒すべく朝鮮半島に渡ったという。その若夫婦は、ふみ子からすると叔母とその夫にも該当し、その若夫婦に子が無かった事から岩下家の跡取りにすべく、7年間ほど朝鮮半島の祖母の元に預けられていた。なので、ほんの一時期は「岩下ふみ子」と名乗っていた時期もあったという。

ここまでの話だけで、既にウンザリさせられる複雑な境遇が、金子ふみ子を語る場合には付き纏ってしまう訳ですが、ついでに記すと、芙江の岩下家に於ける7年間は、ふみ子に劇的な叛逆精神を植え付けてしまった可能性がある。岩下家の養子となって岩下家の跡取り、将来的には岩下家の当主にすべく、その祖母に乞われて海を渡り、朝鮮・芙江まで行ったものであったが、実は途中から、ふみ子は岩下家の後継ではなく、別の血縁関係にある貞子という同じ年齢の娘を岩下家の後継にするように事情が変わってしまうのだ。故に岩下家にとって、ふみ子は厄介者となりだし、祖母や叔母夫婦の態度も豹変し、女中部屋に押し込められ、女中のような扱いを受ける事となる。

ふみ子は、生来、利発であったらしく、図画と書写を除けば、小さな学校では成績優秀であったが、無籍者であったが故に、他の児童たちが立派な修了証を貰っているのに、自分だけが手に持っていると折れて垂れ下がってしまうぺらぺらの半紙で修了証を手渡される等の差別を山梨時代に経験している。どんどん経済水準を落としていって、角砂糖を一つ持って来れば、それで学費と認めてくれるような貧しい児童だらけの学校にも通っていたが、その角砂糖一片を持ち出せないような赤貧の家であったという。

朝鮮・芙江での生活は、日人(日本人)と鮮人(朝鮮人)とは基本的には交流がなかったといい、また、岩下家は官吏であったが片手間に高利貸しを営んでいたという。家格が違うという理由で友人関係に口を出したという。日本人同士であっても家格の差があり、朝鮮人ともなると、その日人と鮮人、支配者と被支配者、その貴賤による断絶は大きかったという。ごはんを食べさせてもらえぬ、ふみ子、そんなふみ子に同情した朝鮮人の一家が、ふみ子に昼飯を用意してくれたことがあったが、その行為に甘え、腹を満たしたところで、それが祖母にバレたら、下駄で殴られるという、そういう環境であったという。

それらの朝鮮半島時代に虐げられた経験が、後に、金子ふみ子が朝鮮人アナキスト・朴烈に吸い寄せられてゆく、下地になったと考えられそうですかねぇ。日本人同士のコミュニティでは、名門氏族の出であるという事が自慢の父や父系の祖母(佐伯家・岩下家)があり、ふみ子をたらい回しにするがいやらしい貴賤感覚に基づく差別感情があり、母系の金子家にしても生活が大変だからホイホイとふみ子を養子や嫁ぎ先を見つけ出して片付けようとする。また、叔父などには一定の尊敬があるが、そうした叔父にしても性的にルーズである。

芙江時代、たみちゃんという日本人の下駄屋の娘と親友になるが、そのたみちゃんは病弱で早世してしまう。たみちゃんの実家では生前、仲良くしていたふみ子へと、黒塗りで蒔絵付きの立派な裁縫箱を遺し、それを形見分けとしてたみちゃんの妹のあいちゃんが家でふみ子の家に届けたという。しかし、ふみ子は、たみちゃんの形見の裁縫箱を見てもいないし、貰ってもいない。変だなと思って居ると祖母が勝手に岩下家の跡取り候補となった貞子に贈ってしまっていたという事実を知る。佐伯・岩下家の家風とは、そうした権威主義的差別主義であった。ふみ子は、自分が構築していた友情を祖母に踏みにじられ、悔し涙を流したものと思われる。或いは理髪店の娘と付き合えば「人様の垢を落として生計を立てているような家の子と遊ぶな」という。当然、朝鮮人とは口を利くなという考え方の佐伯・岩下家で育っているから、単純に朝鮮人に対しての支配者民族による被支配者民族への差別だけではなく、二重、三重に、その犧絞稔瓩箸いΔ發里持つ構造の嫌らしさに人一倍、敏感に育ったものと思われる。


『何が私をこうさせたか』は、その執筆時に既に金子ふみ子が自殺を念頭に置いていた事を考えると、中々、読み応えのある自伝になっている。おそらく、その原稿用紙7百余枚に、ありったけの自分の人生の不遇を綴り、また、その不遇の中に差し込んだ微かな光明に胸を躍らせては裏切られた強烈な女の主張が生きている。途中で熱が入り過ぎたと思しき箇所もあって、朝鮮時代に祖母から苛められたクダリは妙に話が長く、軽く食傷気味になりましたが、他方、ふみ子は活動屋で手を握られた瀬川という青年との出会いと別れ、或いはキリスト教系救世軍の伊藤という青年に励まされる中で恋心を募らせるが、その頃になると伊藤青年は糞真面目で「このままでは私もあなたも勉強が手につきませんので、お互いの為にも別れましょう」と言い出す。それら一連の恋愛模様なども正直な心情で綴られている。ふみ子の恋愛や性愛の情も隠さないが、実際にはチグハグになるものなのだ。

そして最後に朴烈と出会う。朴烈の書いた「犬コロ」というタイトルの詩を読んで何か惹かれるものを感じ、その男を紹介して欲しいと積極的に行動する。「プア―な人」であったという朴烈に、金子ふみ子は自分から求婚めいた言葉を言っている。粗末に扱われてきた女が東京に出てきて、気付いた事は自らの手で自らの道を切り拓く事であった。積極的に自分の人生を自分の思う方向へ切り拓いてみせたのが、朴烈に対しての愛であった。ふみ子は朴烈に

「配偶者はお有りですか? なくても恋人のようなものはお有りですか? もしお有りでしたら、私はあなたに、ただ同志としてでも交際していただきたいんですが…」

という不器用にして真剣な求婚をしたという。左翼かぶれ女学生の下手くそにして一生懸命なプロポーズ、滑稽といえば滑稽なのですが、その後のストーリーを追うと、悲恋でもある。

そして『何が私をこうさせたか』の中で、

「共に生きて 共に死にましょう」

と、確かに、金子ふみ子は綴っている。それは、まさしく『何が私をこうさせたか』の最後の箇所に記されている。神田方面行きの電車に飛び乗った朴烈に、咄嗟にふみ子が掛けた台詞で手記本編は終わる。

「待ってください。もう少しです。私が学校を出たら私達は直ぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについて居ます。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」

しかし、単純な事実からすると、金子ふみ子は刑務所内で首つり自殺を完遂したが、朴烈の方は生き延びた――。

そして「あとがき」は、後にして思えば死ぬ気で書き上げたのだなと分かるように記されている。

間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中には存続するものと私は思って居る。

私は今平静な冷やかな心でこの粗雑な記録の筆を擱く。私の愛するすべてのものの上に祝福あれ!




参考文献:秋山清著『ニヒルとテロル』(平凡社)、『日本人の自伝6』(平凡社)、竹中労著/かわぐちかいじ画『黒旗水滸伝』(晧星社)ほか。

追記:朴烈怪写真事件の黒幕は北一輝であったという記述を見つけることが出来るのですが、北一輝の関連書には記述が見つけられませんでした。ただ、竹中労の書籍では朴烈が北一輝に「拳銃と爆弾が手に入らないか?」と尋ねたという記述は見つける事ができました。そういう意味では両者に交流があったのかも知れない。しかし、北一輝が朴烈を売ったと? これがどうも解せないんですよねぇ。確かに当時の右翼や左翼はカネを踏み倒したりしたという悪評は多く北一輝も例外ではない。しかし、北一輝がネタを政治家に売るような真似をするかというと、ちょっと違うんですよねぇ。北一輝は右翼でも政府を引っくり返そうとした人物であって、ケチな倒閣運動に加担するタイプの右翼ではないような気がするんですが…。北一輝は右翼なんですがスケールが大きいタイプなんですね。大杉栄とは平気で会っていたという。だから朴烈と交流を持っていた可能性は高い。しかし、写真をネタにして時の倒閣運動に加担する事は考えにくく、写真に介在していた可能性はあるが、少なくとも写真をネタにして倒閣運動をしたのは別の右翼ではないか――と。
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新潮45誌が休刊に追い込まれたのは販売部数が落ち込んでいた事として片付けられようとしているものの、休刊発表のあった日の午後8時からは抗議デモが予定されているというタイミングを数時間後に控えての休刊発表であった。

経緯としては新潮45誌の9月号で杉田水脈議員の『「LGBT」支援の度が過ぎる』という寄稿文に対しての批判が盛り上がっていたところ、新潮45誌が10月号にて『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』という特集を企画し、複数の論客によって杉田論文を擁護する論文を掲載した。新潮社に批判の矛先が向かうのも分からないでもないが、結果として起こった事は、新潮45誌の休刊の発表であり、おそらくは休刊であり、実質的な廃刊の道筋であった。

杉田水脈議員に対しての擁護という論陣を企画した事が引金となった訳で、既にあれこれと指摘されているように杉田論文にしても杉田論文の擁護の論文にしても、評判は頗る悪いものの、どうしても引っ掛かってしまうのは、「ハテ、気分を害するとして抗議活動を展開し、それで出版社が萎縮するという事になりやしないだろうか? 猊集修亮由瓩茲蠅皚狢仂歇圓悗稜枸犬箋じい瓩鰺ダ茲気擦觧を同時に意味しているが、そこに一定の指針がなくなってしまうと、自由な言論も自由な思想も抗議運動が怖いので控えねばならなくなるのでは?」という部分に関心が向いてしまう。やはり、現実問題としても、次にどこかのメディアがLGBTに対して批判的文脈で言及する事は、難しくなってしまっただろうなと思うし、批判したら猛抗議、猛バッシングに遭い、出版社は存続の危機に晒されるという前例をつくってしまったんじゃないのかなぁ…と危惧しますかねぇ。

基本的には「言論の自由」であるとか「表現の自由」というのは、「思想の自由」と繋がっていて、実際には犲由そのもの瓩醗貎監餌里隆愀犬覆里任呂覆いなって思う。自由な思想、自由な言論が守られないというのでは、それは不自由な社会だという事になる。勿論、相手を必要以上に傷付けるべきではないという一定の配慮は必要ですが、正直、その線引きは難しい。むしろ、「これこれこれに関する事柄を報じてはならない」という禁忌を設定しまう事の方が、長期的展望からすると恐怖政治などに繋がってしまうと考えられてきたし、そのように我々も教育されてきたのだと思うんですね。

現在、ポリコレ批判もあちらこちらで上がっていますが、ホントは至極当たり前の事であろうと思うんです。ポリコレの怖いところは言論封印であり言論封殺なんですね。批判する事を許さないという強硬な態度を採ることにある。しかし、そのような一面的な正義というものが、よくよく考えてみれば世の中に幾つあるのかという話だ。ホントはリベラルと名乗る自由主義から派生した思想体系の一派が自分たちに都合のいいように言論狩りに手を染め、都合よく言論統制としての言論封殺に手を染めているだけではないのか――という批判だって当然、成立してしまうんですよね。

で、恐怖によって言論の封印をはかるという手法は、婉曲的には言論弾圧であり、そこに恐怖をもってして言論封殺したというのであればテロ的だよなって思う。暴力こそ伴っていないが、要は膨大な圧力、いずれも力には変わりありませんが、つまり、在る陣営は今回の一件で、古くからある言論誌を廃刊に追い込むことができてしまったワケですよね…。



その昔、風流夢譚(ふうりゅうむたん)事件というのが日本にあったという。非常に問題点の多い事件なのですが、実際に辞典類を引いても、その「風流夢譚事件の最大の問題点はテロによって言論が萎縮してしまったことにある」、「ジャーナリズムに天皇制論議を自主規制する風潮を醸成した」という具合に説明されている。しかも長い目でみると、世論や日米安保にも影響を与えてしまった可能性さえある。

思えば、天皇制の問題について語ることが戦後日本でも延々とタブー視されることになっている遠因のようにも思えなくもない。


事の発端は1960年(昭和35年)12月号の言論誌『中央公論』に深沢七郎の『風流夢譚』という小説が掲載された事に拠る。簡単に説明すると、左翼革命が実現して、その革命勢力によって皇居前広場にて皇族方が処刑されるという夢をみたというブラックユーモア小説で、いわゆる猝乾チ瓩両説であった。しかし、センセーショナルな描写であったことは間違いなく、別冊宝島編集部編『真 日本タブー事件史』(宝島SUGOI文庫)から引くと「風流夢譚」には、以下のような内容が含まれていた。

マサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった

――が、それは夢でした。ちゃんちゃん。

これをどう感じるのか微妙といえば微妙ではあるのですが、それこそ、戦後日本の天皇観・皇室観の分岐点であったかも知れない。

1960〜1961年にかけての出来事であり、これは日米安保闘争が日本列島を席巻していた頃であり、且つ、1960年10月12日には浅沼稲次郎刺殺事件が発生していたという、そのタイミングで発生した事件だったのだ。

浅沼稲次郎刺殺事件は映像が残っているので、多くの人が映像を視聴した経験があると思いますが、あの浅沼稲次郎刺殺事件が戦後初の政治家暗殺事件であったそうな。犯人は17歳の右翼少年・山口二矢(やまぐち・おとや)であり、山口は当時は大東文化大学の聴講生であったが、赤尾敏が総裁していた右翼団体「大日本愛国党」の元党員であった。山口は「左翼指導者を暗殺すること」を目的としての単独テロを主張、誰からの指示を受けたものではないと言い張った。

因みに、浅沼は社会党内では右派に属しており、天皇制容認派、どちらかといえば天皇崇拝者であったという。また、この浅沼稲次郎に襲い掛かる山口二矢、その決定的瞬間を捉えた一枚の写真は、報道写真としてピューリッツァー賞を受賞した。

更に、この事件を起こした山口二矢は東京少年鑑別所に在鑑中の11月2日に鑑別所の単独室で壁に「七生報国」、「天皇陛下万歳」と歯磨き粉で書き残して、首吊り自殺を完遂。反共右翼は勿論のこと右翼諸派からは「烈士」と祀り上げられ、英雄扱いを受けた。或いは右翼思想とは関係ない人たちも、山口二矢の潔い最期に対して「アッパレ」という感慨を含めての複雑な畏敬の念を抱いた。志の為に人を殺し、潔く死ぬテロリストの美学に情緒的に吸い寄せられた人も、そこそこあったのでしょう。

その浅沼稲次郎刺殺事件の延長上として、風流夢譚事件が発生――。

小説「風流夢譚」を掲載した中央公論は右翼からの激しい批判に晒され、中央公論社では掲載誌の回収を実行したが、騒動はそれで収まらず、1961年2月1日、中央公論社の嶋中鵬二社長邸に、またしても大日本愛国党の赤尾敏総裁から薫陶を受けたという17歳の右翼少年・小林一孝が押し入り、社長夫人と家政婦とを襲撃。嶋中夫人は重傷、家政婦は死亡。

この事件を受けて、中央公論社は(風流夢譚の掲載を)《端緒として殺傷事件まで惹き起こし、世間をお騒がせしたこと》を謝罪した。また、当時、中央公論社では『思想の科学』誌も出版していたが、思想の科学誌も「天皇制特集号」の発売を予定しており、既に刷り上がっていたが断念、刷り上がっていた分は断裁して処分したという。直接的には関係のない出版物も実際にそのように抗議やテロルを恐れ、騒動を避けざるを得ないことから処分されてしまう目に遭ってしまう事からすると、或る側面かすると自由である筈の思想・言論に対してもテロ行為は自由を奪う効果を持っているのだ。

以降、天皇制について語ることはタブー視される風潮がジャーナリズム全般に蔓延した。これが昭和天皇崩御まで続くのだと思いますが…。或る意味では言論封鎖をカンタンに許してしまったのが戦後日本に於けるジャーナリズムや言論界の反省って事なのかもね。自粛、自粛、謹慎、謹慎と靡きやすい国民性とも関係しているかも知れない。批判を怖れ、批判される事を怖れる。ジャーナリストや論客、偉い学者にしたって、殺されるのは恐怖だから、自由な思想、自由な言論については沈黙することなる。根底では言論そのものが恐怖に支配されてしまっているのかも知れない。この「恐怖」とは、すなわち【fear】ですな。

また、我々が使用している【テロ】もしくは【テロル】もドイツ語らしいのですが【terror】元々の言葉の意味は【恐怖】という意味である。殺人や破壊行為そのものではなく、敵対勢力を心理的に恐怖に陥れる事、暴力による威嚇というのがテロルの原義なのだ。

さて、どう捉えるべきか迷われる人が現在でも殆んどであろう、この一連があると思う。「政治犯のテロリストというけれど、殺人犯に過ぎない」という態度もあれば、山口二矢の方に関しては「これは英雄的なテロリストである。死に際も潔い」という態度も有り得るし、また、もしかしたら、それ以外の感想や意見だって有り得る。風流夢譚事件に関して述べれば、「不謹慎な事を表現の自由に託けた出版社が悪いのだから自業自得である」のように反応する事も想定できるし、「これは小説というフィクション世界、所詮はブラックユーモアに過ぎないんじゃないの? 彼等は表現の自由を知らんのか?」という反応だって想定できる。

実際問題、反応は様々なのだ。多様な反応があって当然、これが真実というものなのだ。

鈴木邦夫著『愛国の昭和』(講談社)に拠れば、そもそも深沢七郎は三島由紀夫から高く評価されており、『風流夢譚』についても「これは面白い」と絶賛していたという。中央公論の編集部の方では掲載前に大問題になる事を懸念したが、三島が「だったら私の『憂国』と一緒に載せたらいい。左右バランスがとれていいだろう」と言っていたという。(この部分、「少なくとも、そう伝えられている」と記されている。)

一方で、三島由紀夫は浅沼稲次郎刺殺事件の犯人・山口二矢を絶賛した。風流夢譚事件については一切の発言なし。

三島由紀夫が『風流夢譚』を推薦していた事から、右翼諸派の批判の矛先は三島にも向かい、右翼が三島邸に押し掛けてきたので、地元警察が三島邸を警備し、三島の外出時にも暴漢から襲われることを想定して警護が付いたという。

実は、或る時期まで右翼諸派は「三島由紀夫」を攻撃していたのだ。しかし、三島由紀夫が朝霞駐屯地に立て籠もって割腹自殺を遂げた後は、何故か今度は三島由紀夫は数少ない右翼の文豪であったという認識に変化していったのが真実であるという。更に三島が残した小説『憂国』は右翼・保守から高く評価される事となった。

問題となった小説「風流夢譚」を執筆した深沢七郎は、騒動の渦中、右翼諸派のテロを怖れて地方の旅館へと避難していたという。その深沢七郎の書いたのが『楢山節孝』(ならやまぶしこう)であり、これは後に映画監督・今村昌平の手で映画化され、1983年にカンヌ映画祭グランプリを受賞。内容は、いわゆる「姥捨て山」であり、その問題は広く国際社会にも大きな衝撃を与えた。

また、政治思想というのは不思議なものでテロを敢行した17歳の右翼少年2名との、何かしらの関与を疑われた大日本愛国党の総裁・赤尾敏が元々は社会主義者であり、左派から転向して、反共に熱を入れた反共親米というイデオロギーの右翼である。別冊宝島『日本「愛国者」列伝』(宝島社)によれば、赤尾敏の経歴には武者小路実篤の「新しい村」構想に参加、その後、「理想論だけでは社会改革はできない」として堺利彦や大杉栄などに指示していた人物であるとされる。この堺利彦は共産主義者であり、戦前、特高がマークしていた第一号で、その第二号が無政府主義者の大杉栄であったとされる。

右か左かというレッテルに巷間は勿論、規制メディアは現在もその色付けに基づいて報道したり、語られているが、実は原初的なレベルでの政治イデオロギーは源流を同じくしていたものであったりもするのだ。

天皇観もしくは天皇制の問題に関して述べれば、或る時期、1980年代末頃から1990年代だったか記憶は定かではありませんがテレ朝「朝まで生テレビ」あたりで天皇論や天皇制についても取り上げられるようになったものの、実はコレと言った天皇観が定まっている感じではなかったように思う。つまり、現人神の時代の観念的な天皇観を残している右翼思想も在ったし、また、戦後日本に求められていたのは人間天皇としての天皇観でしたが、そちらの戦後日本のあるべき天皇観にしても既定方針が定められていたワケでもない。(さすがに天皇制廃止論者の声は無かったのだったかな。胸の内に秘めていた者はあったかも知れないけど。)

何故、戦後の天皇観についてのコンセンサス、共通認識が出来ていなかったのかといえば、おそらく、それは戦後日本人が自分たちの事柄なのに考える事も、語る事も怖れて語らず、或いは考えることを拒否してきたから――。

あれこれと時代が経過してみると昭和天皇の御様態が悪化して、そこで井上陽水さんが出演していた「お元気ですか?」とクルマの車窓から問い掛けるテレビCMについて「あれは天皇に対して不敬ではないのか?」と問い合わされ、放送を自粛した。その結果、テレビのバラエティ番組などでも「不謹慎ではないのか?」という疑義を突き付けられてしまい、自粛などが続きましたが、アレあたりが分岐点であったかも知れない。かなり神経質となっており、「吐血があった」という報道があると、メディア各社は、血を吐く描写のある映画やドラマの放送を自粛する空気が醸造され、また、連想させる可能性のある歌詞の歌が放送禁止や販売延期にされたりもしたという。

昭和天皇の崩御に際して、それを【崩御】と報道するべきか、あるいは【逝去】、もしくは【死亡】と報じるべきなのか実は土壇場まで新聞各社は格闘したようなのだ。朝日新聞一社を除いて、他社は【崩御】と報じた。更には、平成のはじまりはテレビや新聞が先導する形で、一週間ほど国民は喪に服すことになった。これなどは平成生まれの人たちが知る由もない分岐点であったかも知れない。一方、なんとなく気が付けば、皇族方の逝去に関しては、崩御、薨去、卒去などの皇族方の逝去を取り扱う場合には旧式の言葉の使用されるべきであるという復古的論調に基づく右傾化があるように思う。また、そういう内容までもを語る事が許されていたのが、実は新潮社の週刊新潮だったんですね。結構、新潮社は保守に分類されているものの、深く物事を掘り下げるスタンスがあって。精神的に成熟していない人は読まないオッサン向けの雑誌だから、へーき、へーき、というノリ。しかし、思えばメディアの役割とは、そういうものでいいのではないかなって気がしないでもない。誰かの顔色をうかがって、掲載する内容をどうこうしてしまうというのでは、厳しい検閲によって言論統制が布かれていた、あの不幸を招いた時代と同じになってしまう。

大杉栄は言った。

「思想に自由にあれ。しかし又行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ」

正義的な見地からして弾圧するという行為は、その者からすると正しい事にしか思えないが、それは正義の押し付けでもある。それが容認されるとなると、思想の自由や言論の自由、諸々の自由が恐怖によって奪われてしまう。
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