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人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:歴史関連 > 兵士たちの戦争

EテレのETV特集「隠された毒ガス兵器」では、戦後75年が経過してようやく明らかになってきて日本軍の毒ガス兵器と、それに対しての米軍の毒ガス兵器との実相を描いたものでした。

これも不思議な事に、映画「日輪の遺産」に似た構図がありましたかね…。最後に書類は燃やされ、毒ガス兵器は隠蔽の目的で海や河、地中に埋めるなどの方法で投棄され、その仕事に携わった当時の少年たちには

「この事は50年間、黙っていろ。そうすれば罪には問わない」

という緘口令が布かれていた。その赤裸々な隠蔽体質、そして戦争に勝利する為であればありとあらゆる事が正義の美名の下に許されてしまうという、現行文明の危うさにも思いが到るかも知れない。

旧日本軍は日中戦争に於いて、化学兵器を使用していた。詳細も近年、明らかになったという。化学兵器の登場そのものは第一次世界大戦の欧州であり、余りにも非人道的な兵器であるとして第一次大戦後の1925年にはジュネーブ議定書により、毒ガス兵器の使用を禁止する流れが出来上がっていた。しかし、その議定書に、当時の日本と米国とは批准しなかったという。日米両国が批准しなかった事の裏側には、戦争という事態を考えた場合には、毒ガス兵器が有効な兵器となり得る可能性を考慮したものであったと思われる。

当時の日本では陸軍第六研究所、通称「六研」(ろくけん・ろっけん)で毒ガスの研究が為されていたという。そして密かに毒ガス兵器は、日中戦争で使用されたという。場所は、北担村(ほくたんそん)なる中国ののどかな村であったという。その際、原住民たる中国人は井戸に逃げ込んだが、その井戸に毒ガス兵器を投げ入れるなどして行われたという。この北担村で行われた毒ガス戦による死者は約800名であったとされる。

その後、旧日本軍は毒ガス兵器の有効性に着目した。毒ガスは有効であったらしいのだ。関東軍は密かに満州で化学兵器の極秘研究を行なうこととなり、関東軍化学部をつくった。チチハルに516部隊を設立し、この516部隊は主に毒ガス研究を行なったという。フラルキには526部隊が設立し、この526部隊は実戦で毒ガス兵器を使用する部隊であった。これは細菌兵器を研究をしていた731部隊とも連携して大規模な演習をしていたらしく、当時の少年兵らの証言や日記には「丸太」に関する証言や記述も現存しているという。『悪魔の飽食』の知識があれば、この丸太の意味は分かりますが、一応、説明しておくと、つまりは実験要員であり、同番組中でも「中国人とか、ソビエトの囚人などを指して丸太と呼んでいた」とある。これが何を示唆しているのかというと、丸太を10本とか6本とか、そのように勘定し、その丸太を実験台にしていたの意。毒ガス兵器の実験なので、丸太とは実際には実験動物であり、殺害してしまったものと思われる。

米国では、太平洋戦争の開戦前から日本が日中戦争で毒ガス兵器を使用していた事に気付いていたという。仮に日本と戦争に突入した場合、日本軍の毒ガス兵器は脅威と成り得ると冷静に分析していたが、当時の国際世論としても1925年以降は毒ガス兵器は使用すべきではないという流れの中にあり、積極に使用は考えられていなかったという。

ところが太平洋上の「タラワの戦い」は激戦となり、米兵の死者も千人を超える消耗戦となった。すると当時のアメリカ世論は「毒ガス兵器の使用も認められるべき」と流れたという。当時の新聞の紙面が映し出されていましたが、つまり、アメリカの場合は新聞のような公然メディアでも「日本との戦争では毒ガス兵器の使用も許される。これが正義だ」という正義論だったのでしょう。一方の日本の毒ガス戦略は極秘が徹底されていた事とは対照的でもある。

サイパン陥落の5日後、東条英機は「化学兵器の使用禁止」を打ち出した。それは懸命な判断であったかも知れない。仮に化学兵器を日本軍が使用した場合、米軍はたんまりと化学兵器を使用してくる可能性があり、先に使用してしまえば、その口実を与える事になる。だから、サイパン陥落後に東条英機は「化学兵器の使用禁止」を決断した。

沖縄戦が行われている頃、日本では来たるべき本土決戦に備えて、一度は使用を見送ると決断していた化学兵器、つまり、毒ガス兵器の大量生産が行われていたという。「あか弾」や「きい弾」、あるいは「ちゃ弾」等と通称で呼ばれていたものは毒ガス兵器であり、この内の「きい弾」(黄弾)とはイペリットとルイサイトを組み合わせた化学兵器であったという。毒ガス兵器は陸軍が主に関与していたが、本土決戦が迫ると海軍も毒ガス兵器の製造を始め、それは相模原工廠で製造されていたという。兵器の名称は「6番1号爆弾」であり、その6番1号爆弾を大量に製造していた。

対する米軍にしても沖縄戦の頃には、本土攻略として実際に日本本土25都市への毒ガス兵器の使用を考えていたという。述べ1000戦機の爆撃機を投入し、東京、大阪、名古屋を含む日本中の都市に爆撃を行ない、推定死者数500万人という空前のジェノサイド計画であった。これは5月頃にダウンフォール作戦という名称であたという。

日米が日本本土で毒ガス兵器を互いに使用し合うという最悪の事態は、ヒロシマとナガサキへの原爆投下、それとソビエト連邦による対日開戦によって、実現には到らなかった。日本は降伏を余儀なくされた訳ですね。

そして、玉音放送のあった翌日、満州と日本の化学兵器の拠点では貯蔵していた化学兵器の投棄と、書類の償却が行われた。地中に埋めたり、海や河に投棄した。それに携わった少年らにしても、それが毒物である事は知っていたので、「後で大変な事になるかも知れない」と思いながらの投棄であったといい、また、その極秘任務に携わった事は、口外しないように口封じをされたという。

チチハルの516部隊は化学兵器を地中に埋めたという。六研は川に遺棄したらしく、その際には「既に偉い人たちは東京へ引き上げてしまっていた」という。

やがて進駐軍が日本に入る。GHQは、日本国内の20ヶ所で4000トンにも上る化学兵器を発見したという。GHQが、それらをどうしたのかというと、やはり、海中投棄したようで、1970年代から千葉県銚子沖では、度々、化学兵器が漁師によって引き上げられるなどの事例が発生、被害者の実は多いのだという。

広島県であったか大久野島(おおくのじま)は化学兵器の生産拠点であり、ここでは戦後に3000トンもの化学兵器が押収され、その処理にはイギリスが日本の民間人800人ほどを投入して処理にあたったという。戦後、化学兵器の拠点は神奈川県湯河原市、富山県高雄市、千葉県の習志野学校(毒ガス部隊の訓練が行われていた)、神奈川県寒川町(これは神奈川県相模原工廠の関連か)等が明らかになっているという。銚子沖では投棄された化学兵器の引き上げが凡そ600件、寒川町(さがわちょう)でも約800本もの化学兵器が発掘されたという。また、占領下にあった中国本土でも53ヶ所から旧日本軍が遺棄した化学兵器が発見されており、この53ヶ所という数字は日本の内閣府調べによる2003年の数字であるという。


東京裁判を前に、戦争責任を問われる側は口裏合わせをしていた。畑俊六は日中戦争で毒ガス兵器の使用を問われても使用した事実はないと答弁した。

東京裁判で化学兵器に関しての罪を問うべきかという問題では、米陸軍化学戦部から「日本軍に対しての化学兵器での訴追は見送るべきだ。対ソビエト戦で、我々が化学兵器を使用できなくなってしまう恐れがある」という提議が起こり、その提議は、そのまま、ドワイト・アイゼンハワーにまで上がり、最終的に、化学兵器について東京裁判では取り上げないことになったという。

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2015年8月7日に放送されたNHKスペシャル「こうして憎しみは激化した〜戦争とプロパガンダ」をDVDにて視聴。なるほどなぁ…という内容でした。

太平洋戦争に於いて、アメリカでは、どのように情報宣伝が行われていたのかを検証した興味深い内容でした。元アメリカ海兵隊映像部のノーマン・ハッチ元少佐が、初めて「映像」として戦場を撮影することになった人物であったが、その内幕を語ったものでした。どのような経緯で、戦場が撮影され、また、その撮影された映像が利用されたのかというと、勿論、政府によって戦争を宣伝する目的で、それらの映像が使用されたものであったという。

太平洋上のタラワ島にて、初めて生々しい戦場を撮影する事に成功したという。塹壕に手榴弾を放り投げると、そこから日本兵が慌てて駆けだしてゆく。その日本兵を待ち構えていた米兵が狙い撃ちするのですが、カメラは、その銃を構えている米兵の直ぐ背後でカメラを回したという。本物の戦争、その現場の生々しい映像を撮影する事に成功した。カメラは、生々しい現場の映像を撮影し出したが、後に、それらの映像は米国民の戦意高揚、より具体的には戦時国債を売る為に利用されることになった。

モーゲンソウ米財務省長官は、タラワ島で撮影された戦地の映像を宣伝映画とし、戦時国債を販売することを思いつき、宣伝映画がつくられることとなり、これによって、790億ドルの戦費調達に成功したという。

次には、サイパン島が舞台となり、そのサイパンではバンザイクリフで知られるように、多くの日本の民間人が崖から飛び降りるなどした訳ですが、その映像もプロパガンダに利用された。「日本人は兵士だけではなく、民間人からしても狂気なのだ」と宣伝する為であった。

「映像の世紀」などでも使用されていた映像があって、その映像は崖から飛び降りる一人の女を映している。しかし、この「こうして憎しみは激化した」では、その映像には少しだけカットされた部分があり、その女は崖から飛び降りる前に、実は抱いていた赤ん坊抱いたまま崖下に追い込まれ、どうしよう、どうしようと、少し迷った後に、その赤ん坊を崖下に投げ捨て、その赤ん坊を投げ捨てた後に崖から飛び降りたというのが一連の映像であった。海兵隊映像部は、実際には、その母子の遺体が崖下に浮かんでいる映像も撮影していたが、憐れみを感じさせてしまうような映像はカットされ、ただただ、「日本人は民間人といえども、このように御国の為であれば自殺する事も厭わない異常な民族である」という主旨の戦時プロパガンダで使用された。赤ん坊を崖下に投げ捨てたシーンにしても、その異常性だけが強調され、そこに憐れみを感じないような工夫が施されたのが事実であったという。

このサイパンでは、映像にも収められている現地の日本人に投降を呼び掛けている映像も残っていた。その映像内で、実際に日本人に投降を呼び掛けていた海兵隊情報部のロバート・シークス氏が証言する。投降の呼び掛けは、日本語で、

「どうか出てきて下さい」

のように丁寧な言葉で呼び掛けたという。その頃の日本では軍民一体の傾向があり、兵隊だけではなく民間人も捕虜になるぐらいであれば…と、大勢が崖から身投げをしてしまう状態であった。なので、「出てこい」ではなく「出てきてください」と呼び掛けていたと証言する。まだ、この頃まで米海兵隊の現場には、そういう思考が残っていたが、米国本土では違っていた。すべての映像は戦意高揚、戦費国債を販売する為の宣伝映画として利用されたと証言している。

また、ピューリッツァー賞受賞者でもあるジョン・ダワーUCLA名誉教授の解説も入る。当時のアメリカには、モーゲンソウ財務省長官と、フォレスタル海軍省長官とが、戦争プロパガンダに積極的であったと説明する。財務省は戦費調達の為に、そして海軍省は戦意高揚の為に、それを必要としていた、と。

続いて、ペリリュー島へ。このペリリュー島では、アメリカでは新兵器を使用し始めた。130メートル先まで火炎を噴射できる火炎放射器であり、洞窟内に潜んでいる日本兵を焼き出すという戦法が用いられた。このペリリュー島攻略の頃になると、実は米海兵隊の中でも異常が発生していたと、元海兵隊情報部のノーマン・ハッチ氏が証言すると同時に、その眠っていた映像が紹介される。このペリリュー島の戦い辺りから、日米の対決は特に苛烈なものとなり、このペリリュー島では実に1万名もの米兵が死傷し、現場は地獄になっていたという。カメラは、大ヤケドを負った米兵や、米兵の死骸の山も移していたが、それらは厭戦気分を惹き起こす可能性があるとして検閲されたという。この頃、映像部のノーマン・ハッチ氏は検閲の任務についており、それを証言している。

番組内でも珍しい映像が流されていました。一人の米兵が船の上で何か泣き喚ているような映像でしたが、これはナチスドイツなどでも撮影されていた戦争神経症らしきものを発病した米兵の姿を撮影したものだという。異常な殺し合いを続けることによって、実は、この頃から精神に異常をきたし、異常行動をとってしまう海兵隊員が少なからず出ていたが、勿論、それらの生々しい映像は検閲された――と。

そして、硫黄島へ。有名な、すり鉢山の頂上で米国国旗を掲げる写真、映像、そして、そのブロンズ像がある訳ですね。有名な。しかし、あの写真や映像は、実際にはホントの映像ではなく、「英雄を作る為」の目的で作成された映像であり、写真であったという内情が語られる。実際にすり鉢山の上に星条旗を掲げた写真では、星条旗は小さすぎ、また、高すぎたので、改めて、海兵隊映像部によって映像として撮影され、また、あの有名な一枚の写真も、そこから配信されたものであったという事実が明かされる。

この硫黄島にはフォレスタル海軍省長官自らもやって来て、その戦意高揚に一役買ったという。既に、ヤルタ会談が行われており、つまりは戦後処理の問題が浮上していたが、それによって米国内が楽観ムードになる事を避ける為であったという。硫黄島では5万を超える死者が出て、そこら中に死体が転がり、死臭が漂う地獄のような有様になっていたという。

元海兵隊員が証言する。正確ではありませんが、以下のようなニュアンス。

「戦争というのは狂気であり、日本兵が米兵の死体を切り刻んだり、局部を切り取ったりしていた。だから我々も日本兵の死体に同じような事をしていた。これが戦争の現実です…」

と、齢90を超えた元海兵隊員が回想している。

しかし、戦争の必要性を国民に理解される為、或いは、その後の日本への都市攻撃を展開することになるが、その国民の戦意が落ちぬように、この硫黄島では「英雄的な美談」が必要となり、あの、硫黄島のすり鉢山に掲げられる星条旗の写真が必要になったのが、実状であったという。

そして、1945年8月9日には映画「敵を知れ」というプロパガンダ映画が米国で放映された。そこでは軍需工場と、軍需工業とは全く関係のない手工芸者らの映像が混合され、まだまだ日本人は全国民規模で戦争を継続してくるという主旨の内容になっていた。しかし、同映画が公開された1945年の8月9日といえば長崎に原爆が投下された日であった――と。


視聴後の感想も手短に。やはり、局部を切り取るなどの行為まで起こっていたのだな、また、日米双方で、それが起こっていた事を確認できたなという気がしました。露骨な話でもあるのですが、遺体損壊や、局部切断のような現象というのは、生身の人間が殺し合いをしてしまう現場では実は起こり得る話であるなという風に考える。報じられないだけ、語られないだけだろうな、と。ただ、このテのペリリュー島であるとか硫黄島などで、そういう事態になっていた事は初めて知りました。

朝鮮半島から中国に掛けて、そうした遺体損壊の話は、沢山残っている訳で、私の場合は下川耿史著『日本残酷写真史』(作品社)などにも目を通したことがあるのですが、同著などは、そのタイトルから受けるイメージとは異なるグロテスク本ではなく、実は真面目に憎悪の連鎖について著者の見解にも触れられている。(このあたりについては「下川耿史」という著者名で検索すれば、凡その検討はつくのですけどね。)

憎悪というのは、途中から歯止めが利かなくなる。「こんな酷いことをしやがって!」となると、その部隊は、その次には仕返しとばかりに似たような事、場合によっては、それ以上の残虐行為をし、次第に残虐行為に対しての、罪悪感などが薄れて行く。怒り、報復感情が、それを正当化させてしまうんですね。しかも、このテの問題は、どちらが先にどうだったというのが判断がつかない。兎に角、一連の連鎖の中で、そうした遺体損壊合戦が起こる。数年前にも米兵の遺体が晒し者とされ、それへの報復として軍事作戦が為された事がありましたし、確かイスラエル人の少年がガソリンを飲まされ、そのまま焼かれた事件などもあった気がしますが、もう、憎悪感情というのは増幅しながら連鎖し、また、集団的狂気の引金になってゆく。遺体損壊や、局部切断なんてのは、ホントは、そういう生々しい人間の憎悪感情の発現で、目を背けていたいたってホントはダメなんですよね。「そんなバカな」という反応ばかりの人というのは殺し合いのリアリズムに到達できていない可能性が高い。

そして、怖ろしい事に、そのように人と人とが憎悪をぶつけ合い、殺し合いをする状況になる事で、実は潤う人たちというのが存在する。しかも、それで潤う人たちは狆霾鵑鯀犧遒任ている瓩箸いΩ充造ある訳ですよね。「戦争と資本主義の密接な関係」、その核心かも知れない。

齢90を超えた元米海兵隊情報部の面々の証言は、「戦争というのはホントは地獄なんです。美談で済まされる話ではないんです。自分は任務だから、そうしたし、また、その後も生きてきたが、やはり、証言しておきたい、これが真実だ」という心の中の葛藤が、これらの証言されたような感慨も受けました。

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水木しげるも、小林よしのりの『戦争論』を読んでいたのかぁ…と知りました。僅か8ページでしたが「随筆マンガ 戦争論」というものを目にしました。

水木しげるの場合は、一兵卒として従軍し、そこで死にかけるも生還したという経歴の持ち主なんですね。片腕を失っていたから傷痍軍人でもあった。昨秋でしたか、水木しげるの肉筆の手紙が新たに発見され、戦争漫画を描いていた時代の正直な感慨なども判明し、確か、展覧会などで、その手紙も展示されたか、されるかという経緯になっていると思う。

戦争の悲惨さを漫画にしてみたところで商売にはならないので、商売になるような戦争漫画も描いている、と。しかし、ずーっと後年になると、このブログでも取り上げましたが死んだ戦友たちに背中を押される思いで、もう一つの戦争漫画『総員玉砕せよ〜セントジョージ岬・哀歌』を3年がかりで描き、それはNHKで映像化された。NHK特集スペシャルドラマ「鬼太郎の見た玉砕〜水木しげるの戦争」ですね。

その辺りの事情を「随筆マンガ」で埋め合わせた気がしている。

小林よしのり著『戦争論』が売れているらしいと知り、カランコロンと散歩する道すがら書店で平積みにされている戦争論を購入、そのまま、持ち帰ってゴロ寝しながら読み耽る。読んでいて精神的な高揚をおぼえたと記している。

私は「戦争論」で、ふとあの戦前の――

勇ましさを思い出し、

非常に懐かしかったが……、

なんだか輸送船に乗せられるような気持になったのは、ビンタ恐怖症のせいだろう。

戦争論の売れ行きが気になる。

「戦争恐怖症」のせいか、何となく胸騒ぎがするのだ。

きっと年のせいだろう。


と、椅子にもたれて座っているカットで犂悪瓩箸覆襪世韻痢嵜鑄マンガ」でした。

『総員玉砕せよ!』は、水木しげるが言うには、9割はノンフィクションであるという。「ビンタ恐怖症」とは、どういう意味かと思われるかも知れませんが、つまり、水木しげるが実際に体験した戦争とは、それであった。水木は、門司からパラオを経てラバウルへと、信濃丸に揺られて上陸した一兵卒であるが、ラバウルで兵隊たちを待っていたものは爛咼鵐燭陵鬮瓩任△辰燭箸いΔ里真実なのだ。

戦況も悪化しており、新入りをビンタすることで憂さを晴らし、また、そうされた者は自分よりも新入りの者をビンタして無茶苦茶な精神論を押し付けることが、帝国軍人の矜持であるかのような、そうした狂信的な帝国軍人像が軍隊内にあったのは確かでしょう。そういう状況になると、ビンタをすることは正義化され、そのビンタと称した精神注入がどんどん正当化されてゆく秩序であるワケです。

そんな中、水木しげるは

「アメリカだろうが日本だろうが、水木サンをいじめるやつは全員敵だ!」

と考えたという。

『総員玉砕せよ!』では、セント・ジョージ岬での出来事として記してあるが、ホントはガゼル岬で起こり、水木しげる自身が体験した真実であるという。『総員玉砕せよ!』は戦後28年も経過した昭和48年に発表した作品であったが、どうしても描かずにはいられなかった漫画であり、その絶望的状況の中で奇跡的に生還した者が水木しげる自身なのだ。

生き残った30〜40名は後方の兵団長に指示を仰ぐことにした。生き残った最前線の部隊(バイエン隊)からは軍医殿が、その交渉役を負って、後方に陣取っている兵団長を訪ねてみるが「なんで玉砕していないのだ」と罵倒される。軍医殿は口論してみるが覆る筈もなく、ピストルで自決。その場で焼かれてしまった。そして、兵団長の認可の元に参謀がガゼル岬へと赴き、生き残っていた最前線の兵士たちに、改めて命令を下した。

「キサマたちは生き残ってしまっているようだが、ワシが改めて軍の意向を命じる! 後退は許さん! 総員玉砕せよ! 生きて虜囚の辱めを受くることなかれ、この精神が何故、分らんのか!」

―――と。

これが戦争の実相であったりするのだ。
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野坂昭如著『この国のなくしもの』PHP研究社ほか、野坂昭如の書籍を何冊か積み上げながら、また、野坂歌泰全気箸いΣ山擅達弔鯆阿い討い襪函△覆襪曚鼻¬邵箴芝,了彖曚箸いΔ發里浮き上がって来る。

🎶この世は もうじき おしまいだ

と歌い出す、「マリリンモンロー・ノー・リターン」は、作詞は桜井順と記されているが、そこには確かに野坂イズムが象徴されているなと気付かされる。野坂昭如の思想を評して、終末思想と農本主義という風に評してあったりするのですが、まさしく、それでもある。

しかし、もう一つ、重要なのは、この「マリリン・モンロー・ノー・リターン」の文脈であるかも知れない。これは実はイザヤ・ベンダサン(山本七平)の指摘と似ていて、古き良きアメリカの終焉を暗示している。古き良きアメリカの一つの象徴こそが、「マリリン・モンロー」という事だなと解釈すると、なにもかもがスッキリとと収まる。

そんな事は当たり前じゃないかとも思う。しかし、その文脈は思いの外、深い。古き良きアメリカが終わっているという事、また、それに気付くという事は、山本七平を語る場合の文脈と同じように意義深く、つまり、既に戦後日本の総括を蔑ろにしていることへの批判と直結するんですね、それも、年代的には80年代であったりする。

戦争の総括というべきか、敗戦の総括が済んでいないのに、物質的な豊さに溺れ溺れて、日本は平成の世を迎えてしまった。この文脈は確かに重要で、ごくごく近年になって田原総一朗さんあたりまでも日本の近現代史をテレビや著書で精力的に掘り返していますが、まったく同じような言葉を導き出すことになる。戦争の総括というか、敗戦の総括というものを何もせずに、まるで白痴であるかのように自国の指針というものを日本人は考えぬまま、今日まで来てしまっているという、生々しい現実が浮かび上がってしまう。

慰安婦の強制連行について、野坂昭如は、かなり的確に90年代に言い当てていると思う。

強制連行された朝鮮人慰安婦、吉田某なる男の証言では、憲兵だか、警官だかが、突然、村へトラックを乗りつけ、すべての若い女をかっさらって、慰安所へ送りこんだという。吉田某の言動の、いかがわしさはさておき、また、この話を聞いた年配の韓国人が、「どこまでわれわれをバカにするのか。そんなことをされたら、いかに日本軍が鉄砲持っていようが、老人子供だって刃向かう、絶対に血をみる、われわれをなめるのもいい加減にしろ」と起こっていたのもさておく、彼は戦後生れ。

この事態は考え難い。ぼくは神戸で育った。学級に二人や三人、朝鮮人子弟がいた。子供として、彼等を特別に差別した覚えはない。民族差別じゃなくて、子供というものは、かなり残酷、むき出しにこれをやるもので、チビだハゲだチクノウだと、平気で口にしていた。

ただ、戦後、学年で一番か二番の、朝鮮人の子供が、公立中学に入れなかったことを知り、愕然とした。入学を許さなかった当時の仕組みよりも、このことに気づかないでいた自分に驚いた。


〜略〜

ぼくは、「娘狩り」といっていい強制連行はなかったと思う。「そんなことをされたら、殺されるの覚悟で、兵隊のチンポを噛みきる」とこれは年老いた朝鮮人女性がいっていた。〜略〜「なかった」といいきる根拠がまるでないし、日本人の最低のモラルを信じるのでもない。ただそういう対象となった「村」があったのなら、あの反日感情の強かった李承晩政権の頃、黙っているはずもない。

という具合。また、戦前の日本には年季奉公の実情としての「お女郎」があった事にも言及している。貧しかった東北地方には「タマダシ」と呼ばれるブローカーがやってきて、数えで16〜17歳の娘を抱えている親には、年季奉公を持ち掛けていた、と。それに応じればカネを払い、大体の場合は七年間が年季奉公の期間であった、と。実情としては、そのように年季奉公と称して都会の女郎屋に売られた娘は、年季奉公を終えて故郷に帰れたのかというと帰れなかったという。当時の日本社会は女郎として汚れた娘を実家に迎え入れる事は恥であるから受け容れない素地があり、結局は、売られてしまった娘は、家族からも見捨てられたのが当時の実情であったという丁寧な解説までしている。

この話は、より生々しい表現で語ったのが竹内労であったと思う。テロリストの和田久太郎が一生に一度の恋として愛したのはタチの悪い梅毒に冒されていた淫売婦・堀口直江との恋であった。おそらくは危険な危険な性交渉もあったであろうと考えられる。関東大震災後、堀口直江は埼玉県の実家に帰っていたが納屋に閉じ込められて生活しているような状態だったので、和田久太郎が堀口直江を迎えに行った。しかし、直江は久太郎との生活を拒否して、そのまま納屋の中で朽ちるように死ぬ。自殺なのか病死なのかも不明。堀口直江は家の為に身売りされ、その家の為に淫売宿の淫売婦になったというのに、実家に戻ってみると、梅毒を病んだ淫売婦が身内にある事は恥であり、しかも父親は再婚していたが、もう、居場所なんてものはなかった。だから納屋に閉じ込めて、粗末な食事をだけを運ぶだけ。直江は、納屋の中から村祭りの笛の音などを聞くが、既に梅毒が悪化して容姿をも害し始めていたし、何よりも、元淫売婦が村祭りに出掛けることなんて出来やしない。

そして、野坂イズムの特徴は、ここからですが、そもそもからして、戦争時の大本営は本土決戦をすると公言し、その名の下に敗戦を決断できずに、ずるずると沖縄戦を展開し、広島と長崎への原爆投下をも招いたが、その後に生き残った日本人は無条件降伏をするという形で、生き延びたワケですね。これを野坂は、「裏切りである」と捉えている。そこが特徴的ですかねぇ。しかし、これも分かるんですよねぇ。

みんなで死のう、靖国で会おうと言っていたんですよね、昭和20年頃というのは。そして、実際に南方戦線であるとか、沖縄戦、或いはソ連軍と戦わねばならなかった人たちなんてのもあった。確かに、生き残った戦後の日本人こそが、戦死した日本人を裏切ったような形になってしまっている。

ここまで組み立ててれば、靖国参拝問題にも思いが到るかも知れない。あれは戦没者の慰霊にこそ、意味があり、戦犯者を祀る施設ではないのだ。靖国問題というのは、戦後の自民党が、そこら辺を理解できなくなり、戦犯者も戦没者と一緒だと考えて、合祀してしまっているんですよね。天皇が靖国に参拝できなくなってしまったのも、実は合祀してしまったからなのであって。

で、偉大なる古き良きアメリカは終わっているという考え方、それが「マリリン・モンローは、もう戻ってこない」というフレーズにかかっているワケですが、この先見性というのが色々と驚かされるワケです。勿論、「古き良きアメリカ」という言葉は昔から使用されており、情緒的な懐古趣味として捉える事が出来てしまうんですね。しかし、よくよく考えてみると、ざっと日本人の70〜95%ぐらいは全く気付かなかった事柄なんですね。経済、経済、外国文化、外国文化と、そちらにしか目が向いていなかった。それが戦後日本の真実でしょう。そんな中で、言語の死滅は文化の死滅であるとか、そんな事を90年代に綴り、更に「マリリン・モンロー・ノー・リターン」なんてのになると、もっともっと時間を遡る必要性が生じてしまう。

で、確かに、このブログの場合は、オリバー・ストーン史観として「もう一つのアメリカ史」に触れてきましたが、ホントは世界秩序なんてものは人類の叡智なんてものとは全く関係なく、ただただ、強者が強者として居座る為の秩序体系で形成されているという現実が暴かれてしまう。それをニッポンというスケールで捉え直すと、実は日本人が日本人として、その信念も指針も全く持たぬまま、時代を歩んでいるという怖ろしい現実を表していますやね。どうしたいとか、こうしたいとか、そういう自分の意見さえ、日本人は構築できていない。絶えず、パワーバランスを眺めて、強そうな方の尻馬に乗ることだけを考えて、正解だ不正解だと思考しているだけに過ぎないというヤバ過ぎる現在がある。
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生存している兵士らの証言を取り扱ったドキュメント「兵士たちの戦争」の沖縄戦編ですが、証言をしたのは山形県で編成された陸軍第32連隊でした。

第32連隊は本土防衛の為に沖縄に派遣された部隊であり、約3千名。山形県と北海道、そして沖縄から招集されているが、実は満州のメッカ作戦などで活躍をした精鋭集団でもあった。戦局が悪くなって、精鋭を南方を送っているという意味では、ガダルカナルや北部ビルマと同じ構図を持っている。

1945年というのは太平洋戦争も末期ですが、その3月23日より、アメリカ軍は沖縄上陸作戦を展開。動員された兵力はなんと54万。大本営は、事前に敷いていた絶対国防圏を破られ、敗色濃厚に戦局は傾いていたが、決断ができず、本土防衛の為に沖縄を捨て石にする覚悟で徹底抗戦する事を決定。第32連隊は同年7月に沖縄入りを果たす。

証言に拠れば第32連隊の場合、真鍮製の認識票を引き上げられたという。認識票は戦死した場合に認識票に刻まれた番号で人物確認をする為のものであったが、第32連隊にあっては「全員死ぬんだから認識票は必要がない」との事で、事前に回収されたという。

沖縄戦には一説に日本軍も約10万の兵力が動員されたが、その中で第32連隊はというと首里司令部を死守するという任務を課されたという。アメリカ軍による沖縄への攻撃は語り草ですが、激しい艦砲射撃によって山の形が一昼夜にして変形してしまったというレベルの猛攻。将兵の約半数が序盤から死傷するという地獄のような展開となったという。

そんな中、「斬り込み攻撃」が行なわれる。これは銃剣を持って突撃してゆく白兵突撃ではなく、爆雷や手榴弾を持って敵陣に飛び込み、自爆するという作戦であった。爆雷は6キロほどの重量があったという。

この「斬り込み攻撃」を目撃していたという兵士の証言によると、「天皇陛下万歳」と叫んだ声は一度も耳にした事がなく、また「おかあさん」という具合の叫び声も耳にしなかったという。聴こえてくるのは、大本営に対しての悪口であったという。

沖縄戦から一ヶ月半が経過した時点で、10万名いた日本軍からは6万4千が戦死していた。

5月下旬、とうとうアメリカ軍は沖縄守備隊の司令部のある首里に迫っていた。

5月22日、守備軍司令官であった牛島満中将は大本営の命令に従って、更なる持久戦に持ち込むことを決断する。5月27日、南方のガマと呼ばれる洞窟で最後まで抗戦することを決定し、喜屋武半島(島尻)へ展開する。

沖縄戦を巡っては、触れきれない程、色々な要素がありますが、住民と兵士との関係についての言及がありました。32連隊関係者の証言に拠れば、住民(沖縄島民)との間には言葉や習慣に違いがある事から接することのないように命令があったという。接触を避ける必要があったのは防諜という側面からであり、沖縄島民と安易に接して、その島民が敵のスパイであるという可能性があったので、接触を禁じていたのだという。しかし、喜屋武半島のガマで応戦する段階になると、島民のガマに兵士が入ってしまったり、兵士のガマに島民が入ってしまったりの混乱は当たり前のように起こり、更には、兵士がガマの奥に籠もり、ガマの入口付近に島民をあてがう事で、軍が間接的に住民を利用していたという証言も。

また、島民から「兵隊さん、助けてくれ」と懇願された事があったが、島民との接触を禁止されていたので軽々に助けることが出来なかった旨を告白し、涙ぐむ元兵士の映像なんてのもありました。食糧を島民にも分けてあげたいが島民に分けるワケにいはいかないというのが軍隊の規則であった。証言する兵士は「申し訳ない」とやはり涙ながらに証言する。

それらの事情もあり、兵士らと島民との間に微妙な対立が生まれていたという。

6月23日、アメリカ軍が喜屋武半島を制圧。沖縄守備隊司令官の牛島中将が摩文仁の丘で自決する。しかし、32連隊に対しては最後の命令が出ており、「敵に出血を!」と最後の一兵に到るまでアメリカ軍に損傷を与えるよう命令が下っていたという。実際には、この時点で軍隊という体裁は消失するのですが、最後の最後まで「敵に出血を!」という命令があった為に、その後も32連隊の戦争は継続されてしまう。

8月になれば無傷の日本軍が援軍としてやってくる、国頭(くにがみ)に友軍がやってくるらしいという風聞が流れ、兵士らは犢馥突破瓩覆襪發里鮖遒澆燭箸いΑこれは完全にパニック状態下で起こった風聞であり、実際には援軍が到達する予定などは無かったが、銃弾の雨の中、兵士は国頭を目指して敵を突破せんとして突入し、要らぬ悲劇を招いたという。

8月15日、玉音放送が流れ、終戦・敗戦が表明されたが32連隊の抵抗は続き、32連隊の残存兵が武装解除に応じたのは、9月3日の事であったという。3000名だった32連隊の生存者は一割足らずとなり、沖縄戦全体の死者数は推計18万8千名、軍人の被害が9万4千名、島民の被害も9万4千名であったという。(沖縄戦に於ける死者数、その数字については別の数字も見つけることができますが、番組内で提示された数字はそれでした。)


※犹造蟾み瓩砲弔い堂甬邉事から引用です。
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NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」を視聴。「時論公論」を視聴していたら勝手に始まってしまったという感じだったのですが、沖縄戦の生々しい部分というのを報じていて興味深かったです。

沖縄返還直後にカセットテープなどで沖縄の人たちに戦争を語ってもらった音声テープがあり、その証言を検証していると、【斬り込み】という言葉がありました。まぁ、想像して言い当てる事も可能かも知れませんが、その「斬り込み」という単語が何を意味しているのかというと、爆弾を背負って突撃するという自爆攻撃の事でした。ニュアンスをボカせば「玉砕」という事になるんでしょうか。

どういう文脈で【斬り込み】という言葉が登場するのかというと、沖縄戦当時は十代であった女性の口から出たものでした。軍民一体となって沖縄戦に臨むという雰囲気になっており、誰もそれを疑っていなかったという。前日にお酒を飲んで、翌日に斬り込みを決行したが、皆が皆、「一人でも多くアメリカを殺してやるんだ」と決意していたから、死を怖いとはみんな感じていなかったと回想している。

あ。一応、補足しておくと、「アメリカ兵を殺す」でも「アメリカ人を殺す」でもなく、「アメリカを殺す」と語っていました。

斬り込みをしていた中には民間人も含まれていた。それこそ、十代の少女なんてのも含まれている。特に沖縄戦は戦争の訓練も間に合わぬという状態で、召集した人たちを兵士とし、民間人(住民)に対しても、軍民一体になってアメリカを殺すように教育というか洗脳というか微妙ですが、そうしていた。兵士の証言によると、沖縄の住民40人ぐらいに一度に斬り込み攻撃をさせた事があったという。うーん、多少なりともアメリカ軍に指揮系統らしいものが存在していたのに比べて、日本軍は軍の体裁をとっておらず(これも証言にあった。)、精神的洗脳とでもいうべきか、「みんなで死のう」というノリにしていたよう。この沖縄の民間人らの斬り込みでも、合言葉は「(死んで)靖国で逢おう」だったという。
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ソロモン群島にあるガダルカナル島は、太平洋戦争に於ける重要拠点であった。連合国軍としてのアメリカ軍とオーストラリア軍とを分断する意味合いから早期から日本軍はガダルカナル島を重要拠点と定めていた。

1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本軍は大きな敗北を喫していたが、日本海軍はガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン群島の攻略を目指していた。

しかし、1942年8月7日、アメリカ軍が空母3隻を含む総勢82隻もの軍勢でガダルカナル島へ侵攻、上陸部隊を上陸させて、そのまま、アメリカ軍はガダルカナル島の飛行場も制圧した。

この事態に対して、大本営は旭川歩兵第28連隊に、ガダルカナル島の飛行場奪還作戦を命じる。一木清直大佐を連隊長とする旭川歩兵第28連隊は満州などの北方戦線で活躍の目立った精鋭部隊であったが、このガダルカナル戦に当たっては、特別に一木清直大佐に2000名の兵士を選抜させ、大本営直轄の編成であった為に「一木支隊」と呼ばれたという。

選りすぐりの精鋭2000名で編成され、しかも大本営直轄の部隊。それが一木支隊であったが、そのガダルカナル島の戦いは、後に悲惨な戦いとして歴史に名を刻むことになる。

一木支隊の兵士らは、その作戦は「一晩もあれば終わってしまうと思っていた」と証言している。どうやら事前には楽観的観測があったらしく、実際に一木支隊の面々に配布されたという小冊子「これだけ讀めば戦は勝てる」が残っており、そこには

「敵はシナ兵以下の弱虫だ」

等と記されていたという。楽観していたが為に、補給の事は余り考えていなかった事が分かっている。

1942年8月18日、一木支隊は駆逐艦で、916名を上陸させる。2000名の兵士を用意していたが駆逐艦で上陸する事になった為に、916名しか上陸できなかったというのが真相であるという。上陸は夜陰に紛れての上陸作戦で、これはスムーズに上陸したという。しかし、その上陸地点から飛行場までは約30キロの距離があったという。

ガダルカナル島の様子を探る為に、一木支隊では現地人を捕えて情報を聞き出すことにした。それは偵察を兼ねたものと思われますが、三人一組となって一人の原住民を捕らえ、尋問。尋問後には原住民を銃剣で刺殺したと証言している。捕らえた原住民に対して尋問が終え、そのまま解放してしまうと一木支隊の動向が敵に漏れてしまう可能性があるので殺害する事になっていたらしく、、一人が尋問終了、解放の合図として「放せ」というと、その言葉を合図に銃剣で刺して原住民を殺害した――と。

翌8月19日、上陸二日目に一木支隊は照明弾に照らし出され、アメリカ軍から凄まじい銃撃を浴びせられる。アメリカ軍が使用していたのは曳光弾(えいこうだん)と呼ばれる弾丸で、弾道が分かるように光りながら飛ぶ弾丸であったという。証言によると、その曳光弾による銃撃は銃弾の弾道が見えるので「まるで川のようであった」という。しかも、アメリカ軍は準備万端だったらしく、足元を狙う高さ、兵士の腹部・胸部を狙う高さ、頭を狙う高さに銃を予め固定し、いつでも引き金を引けば銃撃できるというところまで準備万端の銃撃であったという。

しかも、916名で上陸した一木支隊に対して、アメリカ軍は11000名であった。そのアメリカ部隊の兵数は日本側が想定していた5倍以上の兵数であったという。916名対11000名って幾らなんでも。

上陸二日目にして、その圧倒的な戦力差を見せつけられたが、一木支隊が採った作戦は、【白兵突撃】と呼ばれる銃撃することなく、敵に接近して銃剣で敵を刺殺するというもの。この「白兵突撃」は日露戦争以降、日本陸軍に於ける伝統的な戦い方になっていたという。

つまり、アメリカ軍による機銃掃射の嵐の中、一木支隊の兵士らは銃撃することなく、敵に接近して敵兵を刺殺するという作戦で応じた、応じようとした、という事を意味している。その結果として、次から次へと撃たれる日本軍という展開となったという。

アメリカ軍は7台の戦車も、その戦いに投入。戦車は、死んだ日本兵と、死にかけている日本兵の上を踏み潰す役割として登場したという。つまり、死んでいようが死んでいまいが、それを「轢きつぶす」為に戦車が用いられたという意味です。壕に入っている兵士は、戦車が上を通り過ぎるだけならば無事で居られそうなものであるが、現場の戦争というのは、そうした細かい事にも気が付くらしく、アメリカ軍の戦車は壕の上でクルクルと方向転換をするなどし、壕に入っている日本兵の首から肩からを轢きちぎったという。

大本営肝入りの一木支隊は、上陸二日目にして壮絶な結果を招く。上陸したのは916名であったが戦死者は777名。因みにアメリカ軍の死者は35名。そして、一木支隊の一木大佐も自決なのか戦死なのかも不明のまま、この上陸二日目の戦いによって消息不明となる。

大本営はガダルカナル島を諦めず、第二梯団として5000の兵士をガダルカナルに投入する。隊長には、新たに川口清健少将が就任した。

川口少将は、一木大佐と同じ過ちは犯さないと、上陸ルートを海岸線から密林ルートに変更する。ジャングルの中を通って飛行場に接近し、9月12日に飛行場に総攻撃を仕掛けるという作戦を敢行する。しかし、粗末な地図しかない上に、慣れぬジャングルの進軍で期日の12日までには作戦時の場所まで辿り着けず。

翌9月13日、ここでも白兵突撃が繰り返された。夜陰に紛れて接近したが、アメリカ軍はジャングルから日本軍が接近してくる事を予め読んでいたらしく、ジャングル内に無数のマイクロフォンが仕掛けられていたという。そして、照明弾が放たれ、戦場は白昼のような明るさの中で行なわれたという。

実は、アメリカ軍は11000名だったものが15000名に増員されていた。日本軍はというと、二晩連続で「白兵突撃」を続け、633名が戦死、その丘は後に「血染めの丘」と呼ばれる事となったという。

ガダルカナル島の戦いは、既にここまでの「繰り返された白兵突撃」という部分にも驚かされますが、真骨頂なのは、その後であるという。輸送船が次々に撃沈され、ガダルカナル島は飢えの島と化し、【飢島】と呼ばれる事になる。

何故、満足な食糧を持っていなかったのかというと、作戦では飛行場に総攻撃を掛け、アメリカ軍の食糧を獲得できる見込みであったからだという。実は、作戦そのものが杜撰なのだ。この作戦に準じた部隊は、大本営陸軍部直轄の部隊なのに、そういう作戦であったという事ですからね。

9月中旬には、ガダルカナル島の日本軍は食糧は尽きていたと考えられるワケですが、飢えと病との地獄絵図の世界になったという。

或る元兵士の証言によると、

「明日、明後日、死ぬであろう人の鼻や口はウジだらけになる」

という。これは死後にウジが沸く状態になるのではなく、死ぬ前、死にかけている状態になると鼻孔や口内にウジが沸いてしまうという、生々しい現実、その目撃証言という事になるのでしょう。

また、元衛生兵だったという人物の証言では、死んでゆく兵隊たちから30通以上もの遺書を預かったという。クスリも食糧もない状態なので、衛生兵は空っぽの鞄に遺書を入れ、いつか遺族に遺書を届けようと思い、実際に、その元衛生兵は日本へ預かった遺書を持って生還した。しかし、それら遺書は「軍事機密として没収されてしまった」と証言している。

また、或る証言では、「もしアメリカ兵の死体が転がっていたなら、食べたと思う」と証言していました。日本人を食べる事には抵抗があったし、骨と皮のみであったから食べなかったが、もし、アメリカ兵の死体が転がっていたら「食べたと思う」、と――。



このガダルカナル島の戦い、その大敗について、大本営は実は失敗である事を認めず、また、発表していなかったのだ。

1942年12月31日の御前会議に於いて、ガダルカナル島からの撤退が決定される。しかし、撤退は中々、実行されなかった。その間にも、どんどん餓死者が出たものと考えられる。

1943年1月末、歩ける者だけがガダルカナル島から撤退を始め、歩けない者は置き去りにされ、そのままアメリカの捕虜になったという。

1943年2月7日、ガダルカナル島かの撤退が完了する。

ガダルカナル島に投入された兵士は総員で31000名。うち、戦死者は5000名、餓死と病死は15000名を超えるという。死者総計は20000超。

そして、大本営は次のように発表していたという。

ガダルカナル島に作戦中の部隊は

その目的を達成せるにより

2月上旬 同島を撤し

他に転進せしめられたり


大本営発表というのは、こうした嘘を平気で垂れ流していたのが史実であり、、、
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NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争」シリーズの「フィリピン・レイテ島、誤報が生んだ決戦」編から。

陸軍第一師団は関東地方で編成された部隊であり、兵士らの大半は関東地方出身者によって編成された13000人からなる師団。その第一師団は、フィリピン中央部にあるレイテ島で、世に言う爛譽ぅ瞳萓鎰瓩膨み、壮絶な被害を被った悲劇の部隊であるという。しかも、その悲劇的敗北を喫したレイテ決戦は、近年になってから、実は誤報によってもたらされたものであった事が明らかにされた――。

発端は1944年10月19日に日本軍とアメリカ軍との間に発生した台湾沖航空戦が関係しているという。台湾沖航空戦にて、日本軍は甚大なる戦果を挙げたとして現地の陸軍から大本営へと戦果報告が伝えられた事に拠る。台湾沖航空戦にて、陸軍は敵艦に次のような被害を与えたと報告していた。

航空母艦⇒11隻

戦艦⇒2隻

巡洋艦⇒3隻

巡洋艦若しくは駆逐艦⇒1隻

それらを犒眥声磴靴は撃沈に近い状態の被害を与えた瓩箸い戦果報告が為された。(※「戦果報告」について後述あり)

それは誤まった報告であったが、大本営陸軍部は報告を鵜呑みにし、翌10月20日に、「この好機を逃すべからず」と意気込み、レイテ決戦に踏み切った。大本営陸軍部から南方に展開していた南方軍レイテ司令部には、台湾沖航空戦に於いて敵軍は甚大な被害を被っているから今こそが好機であり、今のタイミングであれば「撃滅可能ナルベシ」と、レイテ決戦に踏み切るよう命令を下した。

これが「誤報が生んだレイテ決戦の悲劇」の真相であるワケですが、更なる皮肉がある。明らかに過大な戦果報告であり、それを疑う目を持っている事が大本営には求められていたワケですが、実は海軍、日本海軍は早期から、台湾沖航空戦に係る日本軍大勝利の報告が誤まっている事に気付いていたという。しかし、海軍は気付いていながら、それを明らかにしなかったというのが実相であるという。つまり、陸軍と海軍との間で情報の共有が出来ていなかったという事なのだ。

憐れなのは、そんな杜撰な体制、しかも誤報を元にレイテ決戦に臨んだ第一師団であり、、第一師団1万3千人の将兵に生身の出来事として降りかかる事となる。

実際に元兵士らの証言が紹介される。或る大隊長は長期戦になるものだと思い、軍用行李(衣類などをしまう容器)を用意していたが、参謀と話したところ、「軍用行李を持ってゆく必要もない。楽勝だ」という旨の説明を受けたという。また、別の兵士の証言でも、「今回のレイテ決戦は一週間もあれば勝負がついてしまうような、圧勝できる戦局にある」と聞かされて、レイテ決戦に臨んだという。

1944年11月1日、第一師団13000名は決戦に向かう。当時の状況は、オルモック地区に日本軍が展開していて、一方のアメリカ軍はカリガラ平野に軍事拠点を展開させていた。決戦にあたり、第一師団は中間地域にあるリモン峠を目指したが、そこで目の当たりにしたのは、事前の情報とは全く異なる圧倒的軍事力を誇るアメリカ軍の現実であった。

アメリカ軍はピンピンしており、しかも戦力は絶大であったという。大砲による砲撃に加え、火炎放射器も使用していた。更には米軍機による激しい爆撃が第一師団を待ち構えていた。米軍機は集団で上空に飛来しては組織的な爆撃を展開した。そう。実は制空権は完全にアメリカが掌握しており、米軍機が集団編成で爆撃を展開しているのに対して、日本軍機は一機も飛んでいなかったという。

また、アメリカ軍の砲撃は、曳火射撃(えいかしゃげき)と呼ばれるもので、砲弾が着地してから破裂するのではなく、空中で破裂する砲弾を使用していた為、第一師団の兵士らが味わったのは、砲弾の破片が土砂降りの雨のように降り注ぐ、そういう砲撃・射撃であったという。アメリカ軍の砲撃は目を開けていられない程の、驚くべきものであった、と。

大本営の作戦は極めて杜撰であった。誤報を信用していたが上に楽勝できると予想していたらしく、制空権を巡る戦略はおろか、当初は補給も必要なく、ホントに一週間もあればケリがつく、カンタンな戦争だと考えていた節があるのだ。また、心理的に「この好機を逃してはならない」という焦りがあったものとも考えられる。

後に補給艦が出されるが、その補給艦はアメリカ軍によって撃沈されてしまう。第一師団は補給も断たれた状態で、圧倒的兵力を有するアメリカ軍と対峙させられるという過酷な状況に追い込まれていた。そもそもからして食糧がないという戦争なので、兵士らは少人数編成で軍事調達(単に「調達」とも)をしたと証言している。それはレイテ島の原住民たちから食糧を調達することを意味しており、牛や豚、更には農作物なども泥棒同然に調達したと、証言している。

内情は深刻であり、第一師団は飢えとアメーバ赤痢に苦しめられていた。一週間もあればケリがつくと思っているが上に軽装備であった為、食糧は忽ち無くなった。兵士らはイモリ、ヤドカリ、カエルを捕まえては生で食べたという。それを食べられない者は餓死した。そして、それは生で食べた事を意味するのですが、生で食べて生き永らえてもアメーバ赤痢を発症してしまい、歩けない状態となり、やはり死んでいったという、地獄のような惨状に置かれる事となる。

1944年11月10日、第14方面司令官の山下奉文(やました・ともふみ)は、或る文章を残していた。そこには、次のように綴られていた。

「(このレイテ決戦は)将来、戦史の非難の的となる。今直ぐ辞めろ

と。

しかし、小磯國昭首相は、

レイテは日米の雌雄を決する天王山

と演説していた。大本営には、レイテ決戦で日米対決の雌雄を決する天王山だと報告しているから、そうなってしまっていたのだ。

内情を考慮すると、陸軍は狢爐に引けない瓩箸いΕ献譽鵐泙亡戮辰討い辰燭塙佑┐蕕譴襪箸いΑホントは、これは誤まりに気付きながらも、退くに引けないとして強がりを強いられ、嘘に嘘を糊塗した為に起こった悲劇がレイテ決戦の真相なのだから、なんとも司令部や大本営というのは罪深い。

その後、第一師団には「斬り込み攻撃」が命じられた。これは10人編成でアメリカ軍陣地に文字通りの斬り込みを仕掛けるという作戦であり、実質的には神風特別攻撃隊と同じ、玉砕を意味していた。実際に、10名編成で斬り込み攻撃を仕掛けてアメリカ軍にどれほどの損失を与えられたのは不明ながら、既に、そういう状況に大医師団は追い込まれてしまっていたという。

この頃、或る事件が第一師団内で発生した。700名ほどを預かる立場にあった大隊長、その大隊長の内の一人が、部下の命を守る為に独断で撤退をしてみせたという。その大隊長は「戦場離脱」の罪に問われ、部隊長に密室に呼び出され、部隊長から大隊長に対しての「銃殺してやる!」という具合の責めを受けてた声を聞いたと或る兵士は証言する。そして、その直後に2発の銃声が響いた、と。その銃声が銃殺を意味するのか、或いは大隊長の自決を意味するのかは不明であると兵士は証言する。しかし、史料上では、独断で撤退をした大隊長は、その後に「斬り込み攻撃」を命じられ、その斬り込み攻撃で戦死したこととして処理されている――と。

悲しい逸話も紹介されていました。或る兵士は、フィリピン人少女が日本の楽曲を弾いていたので聞き惚れていたという。その後、その少女とコミュニケーションを取り、ピアノの前に座るように合図されたので、二人でピアノを弾いていたという。数時間後に戻ってみると、そのピアノを弾いていた少女にスパイの容疑があるから殺すように命令されたという。その兵士は「命令に頭に来た」と証言していました。そして命令に背いて、その少女を逃がした、とも。

元々、フィリピンでも日本軍に協力的な現地人とアメリカ軍に協力的な現地人とがあったという。先に述べたように第一師団は現地調達の為に現地人の家畜や畑から食料を盗んだりしていたので、フィリピン人の間でも抗日ゲリラ部隊のようなものが組織されていたという。戦況が拮抗していた事もあり、どのフィリピン人が協力的な現地人であるのか分からないような状況になってきたので、或る証言に拠れば、「現地の人を見たら撃てと命令をされていた」と語っている。スパイなのかスパイじゃないのか判別がつかない上に、最悪の場合は日本軍の動きが敵にバレてしまう事を防ぐ為に、「現地人を見たら撃て」という命令が下っていた事の証でもある。

(勿論、現地人は非戦闘員であったのかゲリラであるのか判別がつかないから、兎に角、現地人と遭ったら「撃て」と対処していたの意ですが、人道的観点からすると、そのような命令が末端の心ある日本兵らを苦しめていた事が分かる。)

実際に、日本軍に協力的だった現地人が、抗日ゲリラと化した現地人らによって処刑される場面を目撃したという証言もありました。日本軍に協力していたレイテの原住民二十数名が抗日ゲリラ化した原住民らにサトウキビ畑に連れ出され、そこに掘られた穴に放り込まれた――と。レイテの原住民同士を分裂させてしまったという意味合いでもあり、その兵士は「レイテ島の原住民に申し訳ないことをした」と沈痛な表情で回想している。

1944年12月21日になって、ようやく転進命令というものが下ったという。レイテ島の部隊はセブ島へ転進せよという命令であった。セブ島へ移動する為に移動が始まるワケですが、落伍者が続出したという。落伍者は自害用に持たされた手榴弾で自決したらしく、そこでは「天皇陛下、万歳!」と声を上げながら自爆した兵士が多数があったという。

セブ島へ移動する為に用意されていたのは4隻の小型艇で用意されていたが、その小型艇に乗船できる岬に辿り着いた兵士数は、2500名。第一師団がレイテ島に派遣されたとき、13000名の兵士がいた。この転進命令のときには、兵士数は僅か2500名ほどになっていたという事のよう。

では、その2500名全員がセブ島へ行けたのかというと、そうではなく、セブ島に脱出できたのは700名であり、なんと1800名はレイテ島に置き去りにせざるを得なかったという。そのレイテ島に残された1800名は、実はアメリカ軍とゲリラ軍によって全滅したという。

最終的に日本に帰国した第一師団の生存者数は455名であったという。レイテ島に派遣された第一師団は当初13000名であった事を考慮すると、その生還率の低さが際立つ。


太平洋戦争末期に於ける「戦果報告」についての過去記事の引用です。
総じて戦果報告は作戦部隊が戦果を報告し、その報告を評価して大本営が発表していたが、作戦部隊による戦果報告は過大になる傾向があるという。これは実際には敵艦を撃沈していないが撃沈したという具合に報告してしまう心理があり、それが、そのまま実際の戦果として認められ、大本営まで上がっていたの意です。

また、EテレだかNHK総合でも神風特攻隊の戦果報告の杜撰さを取り上げたテレビ番組があり、その中で当時を知る元兵士の証言もありましたが、かなり杜撰なものであったのが分かる証言でしたかね。それは太平洋戦争末期の話でもあるのですが、番組内で証言者が指摘していたように嘘の戦果報告を上げるという行為が如何に軍隊にとって不毛であるかが理解できていない。「撃沈しました」という作戦本部からの報告を、「撃沈していない」と事実に基づいて修正する事に抵抗を感じるという奇妙な心理が大日本帝国軍人にあったのではないか? それが精神的美徳であったという理解でいいのか、何故かチェックが緩い。

また、こうした戦果報告は間違っていたら後に修正されるものであるが、そういう手続きも取られないことがあったというから、なかなか当時の「大本営発表」というのが罪深いのが分かる。或る意味では、天皇も大本営に騙されていたのだ。


この第一師団の証言、思いの外、情緒的な証言が多かったです。

或る兵士は、日本に帰国してから戦友の墓参りには行っているが、戦友の遺族には会った事がないという。何故なら遺族に会わせる顔がないから。自分だけが生き残っている事の後ろめたさがあるという事のよう。そして家族らにも、レイテ島の事を話した事はないという。仲間を見殺しにして自分だけが生きて帰国し、今も生きているという事が、やはり、何某かの後ろめたさになっているという。

また或る兵士は、目を潤ませて戦死した戦友を偲んで語っていました。自分は帰国後に結婚して子供を設け、今では孫に囲まれて生活している。しかし、彼等は「オンナも知らずに死んでしまった」と。少し違う切り取り方になってしまいますが、そんな風に思うのがヒトというものであるかも知れない。また、同時に、当時の兵士というのは招集され編成された青年らが兵士になっているのであり、確かに「オンナも知らずに死んでいった」となる。

三島由紀夫の小説「金閣寺」でも、童貞の青年は童貞を捨ててから金閣寺に放火をするし、実際に出撃前の兵士が女郎買いをして童貞を捨ててから死地に向かったなんてのは実は史実ですやね。「オンナも知らずに死んでいった」という言葉は、好ましい好ましくないに関係なく、その兵士たちの実像を如実に浮かび上がらせる証言であると思う。

アメリカ軍がベトナム戦争中にベトナム人集落を襲撃していたソンミ事件に関与して、ある兵士の母親は、「アメリカ軍は、私の息子を人殺しにしてしまったっ!」と訴えたという逸話をベトナム戦争の回想の中で取り上げましたが、ホントは、そーゆー事なんですよね。元々は農村の青年だった者が招集され、戦争映画とは異なる血生臭い戦地で、狂気の戦いを行なうというのが戦争のリアルであって。

保阪正康さんが従軍慰安婦問題を調べていた中で、実は、日本の青年兵の多くは「オンナと甘いものと、どっちかを選べ」と休日の余暇の過ごし方を提案されると、甘いものを欲した兵士が殆んど。女性を買うを選択して慰安所に向かった兵士にしても、そこで貪るように性交に励むでもなく、意外にも女性の傍らで静かに読書をして時間を潰すなどしていたという意外、意外すぎる証言に直面したという。また、中には、慰安所の女性とデキてしまい、その女性を連れて部隊からの脱走を図ったという惚れっぽい兵士の話なんてものあったそうですが、ホントは、そういう証言の方が信憑性が高いような気もしますかね。一兵卒なんてのは元々は田舎のセーネンであったワケで。
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NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争シリーズ」から「密林に倒れた最強部隊〜陸軍第18師団」編の粗筋を以下に記していきます。

陸軍第18師団は、福岡県久留米で編成された部隊であり、取り分け精鋭部隊として認知されていたという。その証拠として、第18師団には唯一「菊の紋章」の使用が認められていたという。故に、この第18兵団には別名があり、「菊兵団」と呼ばれていたそうな。

元兵士の証言に拠れば、自分たちこそが世界一強い部隊であると信じていたし、菊兵団に入隊した者は全員が全員、そういう気概を持ち、生きて還るという思考はなかったという。それ故に気高く精鋭部隊中の精鋭部隊であったという。また、最盛期の第18師団は2万5千人もの屈強な兵士たちが集められていたという。

菊兵団(第18師団)は日中戦争が始まって間もなく中国へ派遣され、その中国戦線では無敵の快進撃を続けたという。菊兵団の特徴は大砲による砲撃にあり、10キロ先の標的に的確に砲撃する技術などにあったとされ、南京城攻略に於ける大砲による砲撃で活躍したのが、菊兵団であったという。

1942年から精鋭部隊である菊兵団は北部ビルマへ。この頃より、チャーチルら連合国軍はルーズベルトのアメリカに第二次大戦への参戦を強く迫るようになり、アメリカの参戦が決定する。

1943年10月、アメリカ参戦。

この頃、戦況は援蒋ルートを巡っての攻防で動いていたという。菊兵団が派遣されていたのは北部ビルマにあるフーコン地区。フーコン地区とは谷間であり、地元原住民は一度、谷に入ったら出てくることができない「死の谷」として恐れられていた密林中の密林であったという。

昼間でも木々が生い茂っている為にまるで夜間のように薄暗く、霧も濃く、道らしい道もない。また、密林の中には吸血ヒル、コブラといった危険生物も棲息しているというのがフーコン地区であり、そのフーコン地区に派遣された菊兵団の数は約4000名。

アメリカ参戦後の連合国軍の攻撃に遭遇し、そこで菊兵団は絶望的な戦力差を見せつけられたという。先ずは連合国軍の飛行機による空爆が始まったが、それは証言によると、「目を開けてる事が困難な程の大規模な爆撃であった」という。豆が鉄板で炒めると豆が鉄板の上で撥ね上がりますが、その鉄板の上の豆を想起させるかのような大規模な爆撃によって最強部隊と呼ばれた菊兵団は連合国軍による洗礼を浴びた。

また、証言で明かされているのは連合国軍の物資の補給方法であったという。そこは密林であったが、赤色や黄色といった色付きの落下傘が飛行機からばら撒かれ、その落下傘に連合国軍は食糧や弾薬といった物資の補給をしていたが、そういう補給方法は菊兵団は元より日本軍にはなく、色とりどりの落下傘で物資の補給をしている連合国軍に「衝撃を受けた」と元兵士が証言する。

菊兵団の衝撃は留まる事を知らない。連合国軍は圧倒的な物量差がある事を思い知らされたが、それだけではなく、日本軍と連合国軍との間には戦争のノウハウにも明らかな差異があったという。前述した補給方法も、その一例であるワケですが、なんと連合国軍は密林地帯でも戦闘を考慮して、小型の迫撃砲を大量に戦地に持ち込んでいた。迫撃砲は密林戦で非常に有効であったらしく、その砲弾は密林の中に生い茂る高い木々を乗り越える高い軌道を描き、敵地に落下してくる。それに対して、菊兵団は、密林戦であるにも関わらず、南京城攻略などで活躍した大砲を持ち込んでいた。大砲は密林戦、しかも谷の中では使い物にならず、砲身の角度を上げようとしても限度があり、そこから放つ砲弾は密林の木々に当たってしまい、思うように砲撃できなかったというのだ。更に、大砲を馬に牽かせていたが、ビルマの熱さで馬が参ってしまい、結局、菊兵団は1トンもある大砲を人力で動かしながらの、苦しい苦しい戦いを強いられることになったという。

多くの新兵によって編成された陸軍107部隊が終戦後の14日間に渡って地獄の戦闘を強いられた逸話に触れましたが、同じく、この菊兵団のケースでも、三八式歩兵銃についての不満の声が当時の兵士から挙がっている。明治時代に開発された三八式は、5発装填できるが単発式の銃であり、しかも銃剣をセットしているが、銃剣をセットした三八式歩兵銃の全長は1メートル60センチにも及び、重量も約4キログラムであり、とても密林には不向きな装備であったという。密林の中を行軍するには重すぎる上に、決定的にダメなのは1メートル60センチも銃身がある為にフーコン地区のような密林では銃が木々に引っ掛かって邪魔になっていたという。

しかも相手は「まるでオモチャ」のように連続して弾丸を発射する自動小銃であり、どのように戦えばいいのか、兵士たちは途方に暮れたという。兵士の一人は三八式歩兵銃について、「あんなのは日露戦争の頃に活躍した銃だ」と怒りを隠さない。

1944年3月、インド東端とビルマとの国境近くにある都市インパールへの進攻が立案、実施された。それは世にいう「インパール作戦」であった。陸軍は援蒋ルートを巡って劣勢になりつつあったビルマ戦線で、起死回生のインパール作戦を展開させた。インパールに総攻撃をかけて一気に形勢逆転を狙ったという大作戦であった。陸軍はインパール作戦に10万もの兵士を集めた大規模な作戦であったが、その為に死の谷・フーコン地区で闘っている菊兵団に対しての補給は滞ったという。(このインパール作戦は失敗する。)

最強部隊とも呼ばれた第18師団、通称「菊兵団」には戦う術がなかった。食糧も兵器もなく、相手との戦力差は歴然という状態。しかし、総司令部から撤退の命令は出ず、フーコン地区を死守せよという。

27〜28名に守っている自陣には、毎日ように敵からの1200発もの砲撃が撃ち込まれたという。密林であったのに、その密林が畑のような有様になってしまうという連合国軍の猛攻。

1944年5月、既に地獄に直面していた菊兵団に更なる地獄が襲い掛かる。雨季に入ると同時にマラリアが流行しはじめた。医療施設に行きたいと思ったが、上官らは「マラリアは病気ではない」と撥ねつけたという。

雨季になって地面が泥濘状態になると、大砲が泥濘にハマってしまい、大砲を移動させることが不可能に。なので敵に接収されることを防ぐ為に大砲を破壊することにした。その大砲を放棄した部隊は13名で編成されていたが、大砲放棄後、その部隊に与えられた小銃は6丁でしかなかったという証言が紹介される。

1944年6月、フーコン地区の菊兵団は、連合国軍によって包囲されてしまう。ようやく、その段階になってから撤退命令が出たので、菊兵団は「筑紫峠」と呼ばれていた峠を目指して、撤退を始める。しかし、その撤退は苛酷なものであり、膝まで泥ぬかに浸かりながら、峠を目指すという行軍であり、多くの兵士は、その惨状の悲惨さを語る。脱落者が次から次へと出るワケですが、彼等を置き去りにして筑紫峠に行くしか選択肢がないという状況だったという。或る兵士が木に背中をもたれかかるように座り、その垂れたアタマの前には家族写真が置かれていた。筑紫峠まで頑張ろうと励ましの声を掛けようと思い、その木にもたれている兵士を見やると、目からも耳からもウジ虫が沸いている状態であった――という。

1945年8月15日、玉音放送にて終戦(敗戦)が通達される。フーコン地区に派遣された菊兵団4000名の内、実に8割が戦死してたという。

菊兵団の元兵士の一人は

「最後の最後まで第18師団自体は降伏をする事なく終戦を迎えた。(開戦と終戦を決めたのは皇軍である。)我々は降伏しなかった。その事は今でも誇りにも思っている」

と語る。

菊の御紋の使用を認められていたという精鋭部隊、その誉れ高き菊兵団は、自分たちの部隊は最後の最後まで降伏しなかった事が誇りである、とはいうものの、一連から浮かび上がって来るものというのは、定説通りの、つまりは、精神論に頼った何かであり、装備にしても作戦にしても杜撰さは否めず、何やら指導部層の方に問題点を見い出す事が出来そうな話なのかも知れませんね。
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野坂昭如著・坪内祐三編『俺の遺言』(文春文庫)に「関東軍上層部は何をしたか」という小見出しが設けられていました。終戦、つまりは日本の敗戦にあたって、関東軍総司令部は、何をしていたのかという意味合いなのですが、その箇所を少し引用します。

ソ連は、日本との不可侵条約を、昭和二十年四月に破棄の旨、通告してきた。すでに、日本はB29によって制圧され、神戸は三月十七日に、市の中心部を焼かれた。この惨状を養父と見に行ったが、道ばたにころがる黒焦げの死体のかたわらを過ぎる時、養父の表情は暗かった、何もいわなかった。

後で聞けば、精鋭こぞる関東軍は、とっくに急場凌ぎ、南の方へ移動されていた。つまり新兵を主体とした弱兵ばかり。それでも彼等は頑張ったのだ。ぼくは、今でもさっさと逃げ帰った関東軍の上層部を軽蔑する、本当に、何のかんばせあって、大和島根に相まみえたのか。


先ず、最後の「なんのかんばせあって大和島根に相まみえたのか」についてですが【大和島根】とは日本の別称であり、これを今風に意訳するなら、野坂は

「関東軍上層部は、どのツラ下げて日本国に顔向けをしているのか!」

のような、かなり皮肉的な意味合いである。

私は川越線というローカル線に文字通り揺られながら、その文章を目にして、「ハテ、なんのこっちゃ」と思っていたのですが、それから10日後、その意味を知ることになりました。NHKエンタープライズ版「兵士たちの戦争」のDVDの中の一枚を何の気なく再生してみたら、まさしく、満蒙国境で終戦を知らされることなく玉音放送後も14日間に渡って壮絶な戦いを強いられた陸軍第107師団の話であり、つまり、引用した野坂昭如の話なんですね。狙ったワケでもないのに。

陸軍第107師団は青森県を中心として東北地方出身者によって編成された俄仕立ての師団であり、生存者の証言からも、それは「勇猛果敢な関東軍」という衣を被っていたものの、実際には俄仕立ての軍隊であったという。前記の通り、日ソ不可侵条約は1941年に締結され、5年後に条約は破棄されない限りは自動更新されるという仕組みになっており、更新年は1946年ですが、1945年4月5日にソ連は翌1946年に期限切れとなるが延長しない事、つまり、条約の破棄を通告していた状況にあった。なので、事前に満蒙国境は緊張状態にあった筈なのですが、そこに置かれていたのは、俄仕立ての第107師団であり、関東軍の精鋭はというと既に南下していたという背景がある。

そしてヤルタ会談でまとめられた協定、ヤルタ協定の話が関係している。ナチスドイツ降伏後にソ連が対日参戦すること、それに対してアメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)はソ連(スターリン)との間に秘密協定を結んでいた。中立条約(不可侵条約)には残存期間が設定されていたが、戦勝国諸国によって、そこら辺の戦後世界構想は秘密裏に進められてしまっていたのが、現実であり厳然たる史実であるワケです。

翻弄されたのは兵士たち、第107師団のような部隊であった。

1945年8月6日、広島に原爆が投下される。

1945年8月9日、長崎に原爆が投下される。

と、この長崎に原爆が投下された8月9日に、ソビエト軍の侵攻が始まっている。第107師団には満蒙国境を守る役目が負わされていた。関東軍総司令部は防衛ラインを新たに新京で防衛ラインを形成しようと満蒙国境に展開していた第107師団に南下するように命令を出す。しかし、このソ連による対日参戦はヤルタ秘密協定によって明らかになっている通りで、ソ連軍は予め、それを予定していたから機械化された精強な部隊であり、第107師団には苛酷な苛酷な撤退戦が強いられることになった。いきなり、ソ連軍に挟み撃ちにされている。しかもソ連軍の機械化レベルは高く、自動小銃に分発900発なんていう近代化兵器を持っている。それに対して第107師団は「三八式」と呼ばれる銃剣付きの小銃で、装弾は5発できるが単発式。

生存者による証言に拠れば、一度、伏せたら顔を上げることも出来ない銃弾の嵐であったという。水筒に四人分の水を汲んできてくれたある兵士、同僚らに水筒を手渡した。そのそばから被弾し、倒れてしまったという。服を脱がせてみたら大腸が飛び出してしまっており、しかも大腸というのはどくんどくんと動くものだから、どんどん大腸が出てきてしまったのだという。身の危険をおかし、水筒に水を汲んでくれたという、その兵士は結局は死んでしまったという。

また、銃弾に倒れた無数の兵士らは生存兵によると「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいったのではなく、「お母さん、お母さん、お母さん」と呼びながら倒れていったと証言している。

同年8月15日正午頃、ソビエト軍の攻撃が一時的に停止した不思議な事が起こったと、第107師団の生存者は証言している。それは丁度、日本列島では玉音放送が流された時刻であった。

関東軍総司令部も、まだ、このタイミングでは停戦命令を出しておらず、関東軍総司令部が停戦命令を出したのは、16日午後10時頃。本来であれば、その停戦命令よって第107師団も終戦を知る筈であったが、第107師団には、その連絡が届いていなかった。通達は暗号によって配信されたが第107師団のケースでは、元暗号兵によれば8月13日に暗号書という暗号を解読する為のテキストを焼却してしまっていたという。東北青年の寄せ集め軍隊に過ぎない第107師団は引き続き戦闘を続け、大興安嶺へと撤退戦を続ける。

8月18日、新京のラジオ放送で未だに戦闘を続けている第107師団に停戦を知らせる放送が行なわれた。それは武装解除を命令する放送であった。その放送を第107師団の師団長は実際に聴いたが敵に拠る謀略放送の可能性があるとして、武装解除には応じなかった。既に暗号書はなく、謀略の放送なのか正規の放送なのかの判別がつかなかったのが実状であったという。

8月19日、関東軍総司令部はソ連に許可を得て、許可を得た飛行ルートに飛行機を飛ばすなどして第107師団の捜索をする。一日限定の飛行機による捜索であったが第107師団は発見できず。書類などを発見し、第107師団が苛酷な撤退戦を続けている事を知るも、師団を発見することが叶わなかったのだ。

第107師団の過酷な戦いは近代化されたソ連軍の銃弾と砲撃の嵐の中、銃剣によって敵兵を突き殺すという白兵突撃にまで及ぶ。命令を受けた兵士らは「玉砕しろという事だな」と理解したという。精神状態としては既に正常ではなく、生きる事への執着心のようなものはなく、「玉砕することもなんだか当たり前だな」という、そうしたぼんやりとした精神状態になるものだと証言している。

死体の山を築きながらも第107師団の捨て身の戦いが続く。水の流れる音がするから、きっと水にありつけると思って、水の音がする方に行ってみたら、その水の音は戦死者の血がの川のようになっている流れている、その音であったという。

実際の戦果は不明ながらソ連軍に打撃を与えたらしく、ソ連軍から停戦の申し入れが関東軍総司令部に入ったという。かくして、8月29日、日の丸をつけた飛行機が第107師団を発見し、上空から大量のビラを撒き、無条件降伏によって戦争が終結した事を第107師団に伝えた。飛行機が第107師団の元へ着陸したが、降りて来たのは日本人2名に引率されたソ連軍の指揮官であったという。

8月15日以降も14日間に渡って苛酷な戦いを強いられた第107師団の悲劇も、これも終わる。悲劇が終わったかというと、そうではありませんでした。その後、第107師団の兵士たちを待っていたのは別な意味で苛酷な爛轡戰螢⇒淮鵜瓩箸いγ蝋が待っていた――と。
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