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カテゴリ:歴史関連 > ベトナム戦争

ベトナム戦争というのは、これまた括り方からして問題が多そうですかね。いやいや、それどころかベトナム戦争前史から始めないと、その流れが理解できないとゆーか。

先ずは【ベトナム戦争】についてですが、第二次大戦以降にベトナムで行なわれた戦争をベトナム戦争とするものの、語り口がさまざま過ぎて、定義づけるのは不可能という印象ですかね。アメリカ介入以降にベトナムで起こった戦争を「ベトナム戦争」と呼ぶケースが多いような印象がありますが、論者によっては、アメリカの介入以降のベトナムで起こった戦争を「第二次インドシナ戦争」と定義づけている場合もあり、それはベトナム側の視点からすれば「対米救国戦争」という名称になる。何故、第二次インドシナ戦争なのかというと、アメリカ介入以前には「対仏救国戦争」があったから。つまり、ベトナムのケースでは第二次大戦が終わった後もフランスとの間で戦争になっており、そちらが第一次インドシナ戦争という事になる。

対仏救国戦争=第一次インドシナ戦争/1946〜1954年

対米救国戦争=第二次インドシナ戦争/1960〜1975年

第一次インドシナ戦争は、1954年のジュネーブ協約によって終結している。第二次インドシナ戦争は1975年のサイゴン陥落で終結としている。

【ベトナム戦争】という呼称は、そのうち、米国介入後の戦争という意味で第二次インドシナ戦争(対米救国戦争)の意味で使用されているケースが多い。広辞苑などはそちらなのですが、それでいてブリタニカ国際大百科事典では「広義では第二次大戦後のベトナムで起こった戦争」と述べられている場合もある。

広辞苑では、第一次インドシナ戦争を第一次インドシナ戦争ともいうが「インドシナ戦争」のこととし、第二次インドシナ戦争についてベトナム戦争と呼ぶという説明がされているのですが、どうも論者に拠って用語の定義に統一感が無いんですよねぇ。この場合は、

インドシナ戦争/1946〜1954年

ベトナム戦争/1964年〜1970年

仮に、ベトナム戦争という呼称を用いて、対フランス戦争を語ったとしても広義の意味では間違いではない。また、厳格に1964年を以ってアメリカ軍が介入したと判断する場合と、1960年時点でアメリカが支援という形で介入したところから戦争がスタートしたという語り口もある。

細かい話といえば細かい話なんですが、どうも統一見解が成立していないので定義も定まらない。


◆ベトナム戦争前史(ベトナムとニッポン)

【インドシナ】とはインドシナ半島を指しており、現在の国名だとベトナム、ラオス、カンボジアの三か国を指している事になる。(ここにも異説があり、その三か国にタイとミャンマーを含めて【インドシナ】という言葉が使用されている場合もある。)

インドシナでは19世紀後半にフランスの植民地になっていたワケですが、インドシナに独立の転機が訪れるのは、旧日本軍が密接に関係しているという。

1937年以降、蒋介石率いる国民政府には連合国から物資が届けられていた。物資の運搬ルートは、ベトナム北部の貿易港ハイフォンなどが使用されていた。当時の旧日本軍は国民政府軍と対峙しており、蒋介石を支援している、その物資ルートを「援蒋ルート」と呼び、その援蒋ルートを遮断する事が戦局を有利に進めることになると考えられていた。

また、インドシナ半島に対しては援蒋ルート遮断だけではなく、インドシナ半島は海路、空路の拠点になり得たし、補給の拠点としても活用が見込めた上に、ゴムや鉄鉱石、スズなどの資源も垂涎の的であった。

1940年9月23日、日本は北部インドシナの占領に踏み切った。(仏印進駐)。この時には、植民地宗主国であったフランスは既にドイツに降伏していた為、在インドシナのフランス当局は日本のいいなりとなった。また、この仏印進駐の四日後に日独伊三国同盟が締結されている。1941年には日本の進駐はインドシナ南部にまで及んだ。

日本の仏印進駐は、大きな転機であったという。フランスの植民地であったインドシナの人々の間では第一次世界大戦終結後に既に独立運動の気運が上がっており、そこへアジアの一員である日本が進駐してきたことは、「白人優位の神話を打ち破った」という意味合いで受け止められたのは確かだったよう。仏印進駐が起こった事によって、宗主国フランスにしても独立運動をしようとする民族主義者への弾圧の手を緩めざるを得なくなったともいう。しかし、日本による仏印進駐を歓迎するムードは長くは続かなかったという。仏印進駐は、白人優位神話の打破という意味では大きな分岐点をもたらせ、確かに一時的に日本は救世主の役割を果たしたが、それは植民地制度からの脱却を目指していたアジアの民族主義者たちの求める牴鯤瓩魄嫐していなかった――。

その結果、インドシナ半島では、「抗仏」という民族主義的エネルギーと、「抗日」という民族主義エネルギーが沸き上がることになった。民族自決原理、民族の独立に裏打ちされ、独立運動に拍車がかかった。インドシナにとって日本の仏印進駐は「白人優位神話の打破」という興奮を味合わせたものの、その後は独立運動の隆盛の触媒として作用したのが実相であるという。

仏印進駐の当初についてですが、インドシナの人々にも「解放軍来たる!」として熱狂を呼び、植民地政策に不満を持っていた人々も日本軍に便乗して各地で武装蜂起が起こった。しかし、その熱狂は一年間も続かなかった。実は日本はフランス領でフランス総督府が置かれているインドシナの内政には干渉しないことをフランスと約束していた。日本軍はアメリカを刺激しない為に「仏印静謐保持」を締結していたのだった。故に、インドシナ住民からすると、フランスと日本、両国に抑圧されていると捉えることになった。

抗仏、抗日が叫ばれる中、1941年5月19日にベトミン(ベトナム独立同盟)が発足する。ベトミンとは既存勢力を統一戦線として統合したことに拠って発足した一勢力である。ベトミンの主軸になったのはインドシナ共産党であった。各種勢力は、「救国」や「民族民主革命」を合言葉にして結集したものであったという。

ベトミンの中心人物になったのが、後のベトナムにして「国父」とも呼ばれることになる政治家ホー・チ・ミン(胡志明)であった。

ホー・チ・ミンは、1890年生まれ。少年時代から反仏運動に参加しており、1911年に渡仏するとグエン・アイ・コックという名前を名乗り、植民地解放運動に従事。1920年のフランス共産党創立に参加する。その後にソ連に行きコミンテルンで植民地独立闘争を指導する。1925年にベトナム青年革命同志会を組織し、それを母体にして1930年に香港にてインドシナ共産党を結成。1941年2月にベトナムへ帰国する。そして日本軍による占領が契機にして救国が叫ばれるようになった1941年5月、ベトミン(ベトナム独立同盟)の指導者となった。

ホー・チ・ミンの幼名は、グエン・タット・タンであったが、フランスに渡った頃にはグエン・アイ・クオックと名乗る。グエン・アイ・コックは漢字表記だと「阮愛国」になる。更に、1945年のベトミンの結成を機会にホー・チ・ミンと名乗る。ホー・チ・ミンとは中国名だから「胡志明」という表記になる。幼名とも異なる本名はグエン・タト・タインであるという。

ホー・チ・ミンの経歴からすると、元々は宗主国であるフランスに対しての反仏運動、植民地解放運動に従事していたが、いわゆる人民革命を成功させた「ロシア革命」に衝撃を受け、当時、欧米列強の植民地支配と戦っていたアジア全土の指導者らはマルクス・レーニン主義こそが民族独立の近道であるかのに作用したという。明確に共産党に共鳴した当時のアジアのリーダーとしては中国の毛沢東、北朝鮮の金日成が挙げられ、共産党員ではなかったが影響を受けていたであろうアジアのリーダーとしてはインドのジャワハルラル・ネルー、インドネシアのスカルノ、カンボジアのノロドム・シアヌークが挙げられる。

ホー・チ・ミンという政治家を明確に分析することは難しいものの、ホー・チ・ミンに対して「アジアのレーニン」と呼ぶ場合があるという。コミンテルンで活動し、コミンテルンを通じて軍事教育も施されていた事、最終的に社会主義国家へ導いたことからすれば生粋の左翼政治家である。しかし、一方で、民族主義者の顔も併せ持っており、実際にベトナムでは「ホーおじさん」を意味する「バック・ホー」として親しまれており、一時的には敵国であったサイゴン市民でさえ、ホー・チ・ミンの人気は高かったという。また、ソビエトの方ではホー・チ・ミンは共産主義者でありながらも、「民族主義の側面が強すぎるリーダー」として分析され、心配されていた人物であるという。

さて、そのベトミン(ベトナム独立同盟)ですが、1943年頃から実はアメリカから支援を受けて、日本軍と戦っていたという。その頃、CIA(中央情報局)の前身となるOSS(戦略活動局)はベトミンに武器を提供し、軍事訓練なども行っていたという。アメリカにはアメリカの目論見があり、ベトミンを利用して日本軍を撹乱する狙いがあったとされる。

ベトミンは、いわば寄せ集めの統一戦線的な性格を有しており、一斉蜂起すべきという声も強かったが、ホー・チ・ミンの判断によって急進的な声を抑え、ベトミンは徐々に力を蓄えてゆくという方針が採られた。

ベトミンの抗日運動を辞めさせるべく、当時の日本軍はフランス総督府にベトミンの取り締まりを求めた。しかし、フランス総督府はベトミンを弾圧する傍ら、日本軍に対しての牽制として裏ではベトミンを支援して利用するという酷い状態であったという。

苛立った日本軍は「明号作戦」と呼ばれるクーデター作戦を決行する。それは、インドシナ各地を日本の後ろ盾て独立させてしまうというものであった。

かくして1945年3月9日、各地で独立宣言が起こった。カンボジアとラオス、それとベトナムで起こった。ベトナムの場合、グエン朝(漢字表記:阮朝)の最後の皇帝バオ・ダイ(漢字表記:保大)が元首として独立宣言が為されたが、それらは日本軍の傀儡であった。バオ・ダイ政権に実権はなく、自衛軍の設置要請と、紙幣発行要請は日本軍に却下され、また、バオ・ダイには四六時中、日本の憲兵の監視がついていたという。明号作戦は、独立させて傀儡政権を建てたが広く農民たちに浸透することもなく、カンボジアやラオスのケースでは、むしろ、日本軍は反発を招いたという。

そして、日本が敗戦を迎える。

1945年8月、ヒロシマとナガサキに原子爆弾が投下され、第二次世界大戦は日本の無条件降伏という形で最終的終結を迎えた。

日本人が玉音放送を耳にすることになった8月15日、その翌日となる8月16日にはベトナムでは一斉蜂起が起こった。ベトミンが一斉蜂起を呼び掛けたのだ。

さて、日本敗戦となると、それまで占領下にあった地域には、独立を巡る戦いの幕開けになったという意味なんですね。インドシナの場合、長年、植民地支配されていた。そこへ日本軍が侵入してきて、その日本軍の存在意義は無くなった。となると、次の瞬間から、元宗主国であるフランスとの独立を巡っての戦いに突入することになった。フランスは、既にこの頃までに戦後処理としてインドシナの植民地を手放したくないという意向を示していた。

フランスは第二次大戦ではナチスドイツに占領されていた関係で、ヴィシー政権時代の仏総督府は日本軍の言いなり状態であったがナチスドイツが降伏して以降は、自由フランス運動を指導していたシャルル・ド・ゴールが実質的な指導者となり、フランス復興の為にもインドシナの再植民地化を強く希望した。また、フランスの世論も再植民地化に大多数が賛成していた。

また、この終戦直後のベトミンの一斉蜂起に当たって、日本軍の一部の中にはベトミンに対して武器弾薬を与えた者もあったという。

因みに17日にはインドネシアでスカルノが独立を宣言し、そのまま、宗主国のオランダとの戦いに突入していますが、ホー・チ・ミンはというと19日から八月革命と名付けた大規模デモを結構し、27日にはバオ・ダイを顧問にした臨時政府を樹立させた。

戦勝国となった連合国側はポツダム会談による合意により、インドシナ半島の北緯16度以北を中国国民党軍が、以南をイギリス軍が日本軍の武装解除に当たることになった。ホー・チ・ミンは、それを容認したが、実際には日本軍を武装解除する為に進駐した国民政府軍もイギリス軍もホー・チ・ミン率いるベトミンに理解はなく、イギリス軍は残存日本兵を再編成してベトミンを攻撃させ、国民政府軍に到っては「滅共禁胡」、共産党を滅ぼしホー・チ・ミンを捕えるという身勝手な指針を提唱し、そのように振る舞いをした。(戦後処理ってのも、ひでぇもんスね。)

1945年9月2日、ハノイのフランス総督官邸前広場で、ホー・チ・ミンは「ベトナム民主共和国」(北ベトナム)の独立を宣言した。総督官邸前広場には50万人とも言われる人々が集まり、歓喜した――。

◆帝国主義の亡霊

勢力圏争いに本当の意味での区切りは無かった。日本は降伏に応じた、その瞬間から戦勝国にその処分を預ける事になったし、戦勝国は日本が降伏する以前から、日本列島の割譲統治案を含めて対策が考慮されていた。更には米英は、第二次大戦終結後にソビエトと対峙することになると見越しての国際新秩序体系や、東西冷戦という世界図を念頭に置いて戦略を打っていた。

敗戦直後からホー・チ・ミンはベトミンを率いて国家独立を実現すべく動き、1945年9月2日にはベトナム民主共和国の独立を宣言した。これについては先述した通りでもある。しかし、第二次大戦の終結とナチスドイツの降伏によって、フランスは失われていたフランスの威光を取り戻さんと政治的に動いていた。亡命してシャルル・ド・ゴール体制の自由主義路線のフランスに戻るのですが、フランスはインドシナ半島の植民地を再びフランスの植民地として手放す気はなかった。また、この時代に大きな大きな鍵を握っていたのは、トルーマン体制のアメリカであったワケですが、アメリカもフランスを容認する形となった。

基本的にアメリカの立ち位置としてはヨーロッパ諸国による植民地支配に対して否定的であったが、植民地経営をしてきたイギリス、フランス、オランダなどは植民地を手放したくなったの意です。なので、フランスはインドシナを再植民地化しようと動き、ベトミンは逸早く、国家の独立を宣言する必要があった。

ベトナム民主共和国(北ベトナム)は独立を宣言し、そのベトナム民主共和国を国際的に承認させる必要があった。ホー・チ・ミンは、トルーマン米大統領にも新国家の承認をするように繰り返し求めた。また、新たに創設された国際連合に対しても、植民地支配の実態や、自分たちの統治ぶりを訴え、新国家を国際社会に承認させようと動いた。

しかし、アメリカはフランスによる再植民地を容認した。9月にシャルル・ド・ゴールは渡米し、トルーマンと会談し、そこでアメリカはフランスのインドシナに於ける復帰を妨げない旨の約束を交わした。アメリカはフランス軍を輸送船に乗せてインドシナ半島へ届けるなど、フランスへの支援らしき行動もした。また、イギリスもフランスの方針を支持していた。

ベトナム民主共和国はベトナム北部のトンキン一帯しか支配できておらず、また、行政機構も貧弱であった。また、ベトナム一帯は風土として「道路と農地」とは別物であり、日中、道路を統治機構が統治していたとしても夜間には統治は関係なくなってしまう土地柄であったともいう。そのことから道路を統治することは出来ても、実質的に農地を統治することが難しい御国柄であったという。

フランスは再植民地化に動き出し、支配地域を広げ始めた。また、ベトナム南部のサイゴンではイギリスが残存日本軍を再編成し、その敗戦国日本の軍隊を利用して、ベトミン軍の撃退に当たらせていた。(多くの植民地を有していたイギリスはアジア諸国で民族独立の動きが高まることを怖れ、フランスに肩入れしていた。)

ホー・チ・ミンは、ソビエトや中国といった共産主義イデオロギーを後ろ盾にして民主共和国を建てていたが、共産主義イデオロギーを薄めるという対策を採った。インドシナ共産党がベトミンの中枢になっていたが、インドシナ共産党を解散するという手続きを踏み、それがイデオロギー闘争ではなく、民族独立の為の戦いである事を前面に打ち出す為に1946年にはリエン・ベト(ベトナム国民連合)を立ち上げている。



◆【ベトミン】と【リエンベト】と【ベトコン】

ベトナム戦争を語ろうとすると、どうしても用語が紛らわしくなってしまうので、ここで整理することにします。

ベトミン⇒ベトナム独立同盟

リエンベト⇒ベトナム国民連合

ベトコン⇒南ベトナム解放民族戦線


既に登場している【ベトミン】とはベトナム独立同盟ですが、その中枢にはインドネシア共産党(インドネシア労働党に途中で改名したりしている。)があり、中ソの共産主義イデオロギーからの支援を受けている。しかしながら、実際には、その政治的イデオロギーとは関係なく、ベトナムの人々は民族の独立を願う愛国主義がある。ベトミンには参加してくれていない愛国者を参加させる為に、新たにリエンベト(ベトナム国民連合)を結成させている。ベトミンもリエンベトも、いわば「統一国民戦線」というニュアンスの狎力瓩任垢ね。

リエンベトを結成した事で、ホー・チ・ミンは、ベトミンとリエンベトを並列して立ち上げた。(後に、リエンベトはベトミンに併合されることになる。)

【ベトコン】の正式名称は「南ベトナム解放民族戦線」(略称は解放戦線)であり、このベトコンはホー・チ・ミンとは全く関係なく、南ベトナムのキエンホア省モッカイ郡で結成された統一戦線である。まだ、本筋の展開としては未登場であり、後に、南ベトナム政府(ベトナム共和国)がサイゴンに建てられるのですが、その南ベトナム政府打倒を旗印にして立ち上がる勢力が【ベトコン】である。こちらのベトコンは、実質的に大国アメリカに敗戦を味わわせた意味で、非常に有名ですが、こちらの統一戦線は各種政党、大衆団体、宗教勢力らが参加したもので、それが後に反米イデオロギーを生み出して、苛烈なゲリラ戦を仕掛けて近代戦に長けたアメリカ軍を苦しめる役割を担うことになる。

【ベトコン】という呼称は、本来は「ベトナムの共産主義者」という意味でアメリカで使用された蔑称であるという。しかし、ベトコンは対米救国戦争の中で善戦を続けた事から、畏れられる異称として定着し、ベトナム民衆の中に於いてもベトコンという呼称を誇らしげに使用されたりもするようになるという。

◆対仏救国戦争(第一次インドシナ戦争)

1946年年初の頃には、フランス軍はベトナムの主要都市をほぼ確保していた。ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国(以下、北ベトナム)の存在など歯牙にもかけぬ勢いであった。

1946年11月20日、フランス軍はハノイからも近い港湾都市ハイフォンでベトミンに大規模な攻撃を仕掛けた。フランス軍は艦砲射撃で攻撃し、6000人もの死者が出たという。フランス軍の言い分は軍事行動ではなく、宗主国として行使した警察行動であるという言い分であった。

1946年12月19日、ハイフォン攻撃を受けたベトミンが反撃を開始する。ここから始まる戦争が、対仏救国戦争であり、第一次インドシナ戦争である。(インドシナ戦争とベトナム戦争という風に使い分けしている場合はインドシナ戦争に該当する。)

北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンは

「奴隷として生きるよりも死を!」

と全国民に向けて徹底抗戦を呼び掛けた。


開戦当初こそフランスが快進撃を続けて優位に戦争を進めたが、1947〜1948年では戦局は互角となった。更に1950年以降になるとベトミン軍のゲリラ戦術に加えて、北ベトナム政府軍も機動力部隊を投入するようになり、戦争はベトナムが優位に立つようになった。

1947年頃からソ連のベトミンへの支援は本格派し、翌1948年にはマラヤとビルマで反英闘争が、フィリピンでは反米闘争が本格化の兆しを見せた。

1949年6月14日、フランスは傀儡国家「ベトナム国」の樹立を発表する。日本が行なったように、ここでも担ぎ出されたのはグエン朝の最後の皇帝のバオ・ダイ(保大)であった。

1950年1月18日、建国まもなかった中華人民共和国政府が、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)を承認。それに触発されるようにして同月31日にスターリン体制のソ連もベトナム民主共和国を承認する。すると、東欧諸国、北朝鮮らもベトナム民主共和国を承認することになった。

1950年2月7日、アメリカとイギリスは、フランスの傀儡であるベトナム国を承認する。この承認合戦は、西側陣営と東側陣営を明確に分けるものであったと同時に、ベトナムに於いての東西冷戦構図でもあった。

アメリカは反植民地主義という信念に内部では揺れていたのは確かであったが、ここで、ベトナム国支援という選択をする。

「アメリカの世紀」か「民族の世紀」か――。

アメリカは、「アメリカの世紀」を選択して戦後秩序の構築を図った。フランスに対しては忸怩たる思いもあったがイギリスも植民地には執心していた。また、もし、ここでアメリカが英仏を指示せず、アジア諸国が独立を果たした場合、アジア諸国は悉く共産主義もしくは社会主義国家となって、将来的には自由主義圏の障壁となると考えた。特に、重視されたのが、インドシナ半島であり、一国が共産圏になったならドミノ倒し的に東南アジア西部は共産圏に雪崩を打つという具合に考えられた。(ドミノ理論)

1950年3月19日、アメリカはフランスを支援する為に空母一隻と駆逐艦二隻をサイゴン港に入港させた。ベトミン軍は砲撃で迎えた。

インドシナに於ける、アメリカによるフランスの支援は大きなものであった。5月9日に対インドシナ軍事援助を開始する宣言をしたのを皮切りに、軍事支援顧問団をサイゴンに派遣し、援助物資も送り始めた。

1951年3月、ホー・チ・ミンは対仏救国戦争に突入したことを理由に、リエンベトとベトミンを併合した。ホー・チ・ミンはリエンベトにベトミンを吸収させて「ベトナム祖国戦線」に刷新したという言い回しをして、政治色を払拭しようとしたが批判が内外から起こり、余り意味は為さなかった。実質的にはベトミンがリエンベトを吸収したという。(なので以降も「ベトミン」とする。)

この対仏救国戦争(第一次インドシナ戦争)の当事者はベトミン軍とフランス軍との戦争であったが、1953年末までにフランス軍が被った損害9万人のうち、フランス人は僅か2万人程度であったという。フランス人は将校、下士官クラスに多かったが、部隊は外人部隊であり、元ナチスドイツ親衛隊や、アフリカ出身者などを多く戦場に送り込んでいた。また、戦費全体の三分の一をアメリカが拠出するという奇妙な戦争であった。(オリバーストーン史観に拠れば戦費全体の8割がアメリカ負担であったとしている。アメリカの援助額は27億ドルにものぼった。)フランス本国も経済的にも低迷し、インドシナのフランス軍も、またフランス本国でも厭戦気分が拡大していったという。

決戦のときが迫っていた。決戦の地はディエンビエンフー(ディエン・ビエン・フー)という名の盆地であった。場所はベトナム北西部、ラオスとの国境に近い盆地であった。フランスは欧州の王たる座をイギリスやドイツに譲りたくないというプライドがあり、その為にはインドシナを手放すワケにはいかない。形勢逆転を狙って、ディエンビエンフーに要塞をつくり、その要塞を根城として、ベトミン軍の背後をつくと同時にラオスからの補給路を寸断するという一発逆転の大勝負に打って出ることにしたのだ。

1953年秋、フランス軍はディエンビンフーに1万6千の兵士を送り込み、要塞に立てこもった。フランス軍は自信満々であった。貧弱な武器しか持っていないベトミン軍は、大砲があってもロクに使いこなせないと考えていたし、盆地を取り巻く山々に大砲を運ぶ技術も軍事知識もないと考えていた。

しかし、ベトミン軍は冷静であった。1954年3月、ボー・グエン・ザップ将軍率いるベトミン軍はジャングルを切り開き、自転車、馬、水牛、手押し車などを使う人海戦術によって、大小500門近い高射砲、迫撃砲、榴弾砲と、その他の武器と食料を山の上に引き上げるという対処方法を採ったのだ。更にベトミン軍は5万人近い大兵力をディエンビエンフー周辺に配置し、無数の塹壕を掘った。火力兵器の単純比較でも五対一という圧倒的優位という情勢を作り上げ、フランス軍1万6千を袋のネズミ状態にしてしまったのだ。

1954年3月13日、ベトミン軍はディエンビエンフーに対しての総攻撃を開始する。フランス軍は砲撃されることを想定してしていなかったので要塞に釘付けにされることとなった。ベトナムは雨季であり、フランス軍は水に浸かり、泥に浸かり、周囲一帯は死体の悪臭で満ちる地獄と化した。飛行場もベトミン軍に占領され、フランス軍は食料や弾薬の補給も不能となり、負傷者の撤収も不可能。まさしく、フランス軍は袋のネズミ状態――。

フランスはアメリカに支援を求めていたという。この際、アイゼンハワー米大統領は本気でディエンビエンフーに原爆を投下すべきかどうかを検討していた。アイゼンハワーとしては地上部隊を送る訳には行かないという決定をしていたところ、国防省高官からベトミン陣地に対しての空爆が提案された。小型戦術原子爆弾を2発ないし3発投下すればフランス軍を救出できると考えたのだ。

1954年3月29日、ダレス国務長官は同盟諸国との共同派兵を提唱したが、イギリスの同調を得られず断念。

1954年4月26日から朝鮮戦争とインドシナ戦争の終結を話し合う目的で、スイスのジュネーブで19ヵ国が参加しての爛献絅諭璽峅餤牒瓩始まる。しかし、意見は対立したままであった。

1954年4月30日、アイゼンハワー大統領とダラス国務長官は原子爆弾の投下をニクソン副大統領と国家安全保障会議のロバート・カトラーに相談した。また、フランスのジョルジュ・ビドー外相らは、ダレス国務長官から、原子爆弾二発を提供するという申し出を、そのタイミングよりも一週間ほど前に打診されていたと後に証言しているという。因みに、このビドー証言について、アイゼンハワーとダレスは否定している。)しかし、フランスではジョルジュ・ビドー外相を筆頭にポール・エリー将軍、ジャン・ショーベル外務次官らが日記や回想録に残しているという。

1954年5月7日、ディエンビエンフー要塞が陥落し、「ディエンビエンフーの戦い」が終結する。1万3千のフランス軍が投降したという。

ディエンビエンフーの戦いに勝利したボー・グエン・ザップ将軍は「赤いナポレオン」と冠されることとなり、ディエンビエンフーの戦いは、ワーテルローの戦いや、スターリングラードの戦いに匹敵する世紀の戦いであったと称賛されることになった。

1954年5月8日、イギリス、ソ連、アメリカ、フランス、中国、ベトナム国、ベトナム民主共和国(ベトミン)、ラオス、カンボジアが参加してインドネシア休戦討議がジュネーブで始まる。

同年6月18日、フランスではラニエル政権が議会の不信任を受けて崩壊し、フランスはマンデス・フランスを新首相に選択した。マンデス首相兼外務大臣は「一ヶ月以内に和平を」と言い出した事で、ジュネーブ会議が進展の動きをみせる。

1954年7月21日、ジュネーブ協定によって対仏救国戦争は終焉する。ディエンビエンフー陥落によってベトミン軍は国土の大半を手中に収めていたが、ベトミン側の交渉担当者はソ連と中国の圧力に屈して、フランスの面目を立てる和平案となった。それは北緯17度線を境界線にして北部にホー・チ・ミン勢力(ベトミン、ベトナム民主共和国)が撤退し、南部にはフランスの支援を受けた勢力が撤退することで合意となった。その北緯17度線は政治的境界線でもなく、軍事境界線でもなく、領土の境界でもなく、飽くまで暫定的な措置として取り扱われた。

奇妙な協定内容ですが、ベトミン側は1956年7月に国を統一しての国政選挙の実施が含まれていた為に、その暫定的措置を受け容れても問題はないと考えていたという。

何故かアメリカはジュネーブ協定への署名を拒否した。1954年の4月から7月にかけてジュネーブ会議が行われたが、ジュネーブ会議に赴いたダレス米国務長官は、周恩来中国外相との握手を拒否するなど、神経を尖らせていたという。

また、フランスが傀儡として打ち立てたベトナム国のバオ・ダイは最終宣言に加わることを認めなかった。

アメリカはバオ・ダイに見切りをつけて、ベトナム国の首相であったゴ・ジン・ジェム(ゴ・ディン・ジエムとも)の擁立を画策する。

◆ジュネーブ協定について

ジュネーブ協定によって休戦となったが、ジュネーブ協定はホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(ベトミン軍)にとっては、かなり不利な仲裁案であった。既にベトミン軍はベトナム全土を掌握するに近い情勢であったが、北緯17度以北に撤退する事を飲まされたという奇妙な休戦協定であった。その裏には、特に共産党政権の中国による圧力が強かった為であるという。中国では共産党が国民党を破り、共産党政権が確立したばかりであったが実はベトミン軍が勝利し過ぎると、アメリカがベトナムに軍事介入する可能性があるとして、ベトミン軍に譲歩するように働きかけた為であるという。

ベトミン軍は必ずしも中国共産党の傀儡勢力では無く、実は中国共産党にも悩まされていたのだ。中国にしてみればベトナム北部は、国境で接しており、ベトナムを防波堤として機能させたいという思惑があった。ベトミン軍が勝利し過ぎてアメリカがベトナムに軍事介入するという事態は避けたいというのが中国共産党政権の戦略であった。

ベトミン軍代表としてインドシナ休戦討議(ジュネーブ会議)の交渉役はファム・バン・ドン主席代表であったが、中ソ、特に中国に対しての憤りを隠さなかったという。中国が西側諸国と結託して自分たちを犠牲にしたと考えていた。中国代表は周恩来外相であったが、周恩来はファム・バン・ドンに対して「南の事は忘れよう」と話しかけた。更にファム・バン・ドンを招いた夕食会にベトナム国のバオ・ダイを同席させ、その席で周恩来は「ベトナム国の代表部を北京に置いてはどうか?」などという提案もしたという。

また、当初、分割線はベトミン側が北緯13度線を主張し、西側陣営が支援するベトナム国側が北緯18度線を主張したが、中国が妥協を重ねてしまったので、最終的に北緯17度線が分割ラインになってしまったという。

ベトミンは、200万人にあたる国民を、南に残して撤収することとなった上に、カンボジアとの接点やラオス南部への交通路も失うことになった。ジュネーブ会議終幕近く、ハノイへ立ち寄った周恩来はホー・チ・ミンに対して休戦実現の為に大規模な軍事活動に踏み切ることがないよう戒めたという。

つまり、ベトミンにとってジュネーブ協約という休戦案は、アメリカを介入させたくないという中国やソ連の意向が強く反映し、その庇護下にあったベトミンは中ソ、特に中国の執拗な圧力に応じて譲歩した休戦協定であった。この休戦案にベトミン内部でも不満の声が上がり、ホー・チ・ミンは部下たちを必死になだめる羽目になったという。

ベトミンは中国共産党の支援を受けていたが内情は複雑で、中国の領土からするとベトナムは南側の要衝に過ぎず、本気でベトナムの独立に取り組んでいたワケではないらしく、衛星国としての北ベトナム(民主共和国)が防波堤として存在してくれていればいいという程度の扱いであったことが推測できる。


◆「南ベトナム政府」と「ベトコン」

1954年7月7日、アメリカはゴ・ジン・ジェムをベトナム国の首相に指名させ、その数週間後の7月21日のジュネーブ協定調印という経過を辿る。翌1955年10月26日に、フランスの傀儡だった「ベトナム国」を、「ベトナム共和国」(通称「南ベトナム」)に名称を変更し、今度はアメリカの傀儡国家としてのゴ・ジン・ジェム政権をベトナム南部に擁立した。背後にはアメリカの意向があったが表面的には「ゴ・ジン・ジェムは国民投票によって南ベトナム初代大統領の座についた」という経過を辿る。ベトナム共和国(南ベトナム)の拠点はサイゴンに置かれた事から、サイゴン政権と呼ぶ場合もあり、それに対応してホー・チ・ミンのベトナム民主共和国を「ハノイ政権」、「北ベトナム」と呼ぶ。

ゴ・ジン・ジェム(生年1901〜1963年)は反共反仏の民族主義者であるという。アンナン王朝の名門貴族であり、グエン朝では高級官僚をしていた父の下に生まれた。第二次世界大戦中にフランスに逮捕され、その後に仏印進駐を果たした日本軍によって救出されたという経歴を持つ。実は若き日のゴ・ジン・ジェムは日本を経由して渡米し、渡欧していた。ゴ・ジン・ジェムは解放者である日本軍にベトナムの独立に向けて働きかけたが、日本はフランスとの間で日仏協力体制で二重支配体制を採った事で日本に失望。1945年、日本は「明号作戦」というクーデター作戦をするにあたり、水面下でゴ・ジン・ジェムを首相に擁立しようと画策した。その説得工作にはホー・チ・ミンも一役買っていたが、ゴ・ジン・ジェムは首相就任の要請を拒否した。(実はゴ・ジン・ジェムは実兄をベトミン軍に殺害されており、それを理由にホー・チ・ミンに断ったとされる。)

反共産主義イデオロギーを持った民族主義者であったことから、ホー・チ・ミンと比較した場合、反共か否かという部分で対照的で、それをアメリカは南ベトナム、正式国名ではベトナム共和国の大統領に据えることにした。

このゴ・ジン・ジェム政権の成立によって、南北に分断された北ベトナムと南ベトナムとのコントラストも明確になる訳ですが、ゴ・ジン・ジェム政権の誕生が、その名を轟かせることになる爛戰肇灰鶚瓩鮴い忙困瀝遒箸后

ジュネーブ協定で示されていた1956年7月には南北ベトナムの民族統一をかけた統一選挙は、南ベトナムとアメリカの反対によって実施されなかった。南ベトナム(ゴ・ジン・ジェム政権)は自由な言論を制限し、集会も認めず、政治犯を80万人ほど逮捕し、その内の9万人が命を失ったという民衆弾圧を行なった。それには裏事情もあり、既にホー・チ・ミン率いるベトミン軍参加者が大量に南ベトナム領内に残存していた事、更には北ベトナムの意向によって、約二万人の旧ベトミンが南ベトナム領内で政治宣伝活動を行なったり、南ベトナム領内に労働党南部委員会を発足させたが、それを北ベトナムが裏で支援していた事とも関係していた。南ベトナムとアメリカは、統一選挙を拒否した理由は「既にジュネーブ協約に違反して北ベトナムが南ベトナムで政治宣伝活動をしているから、公正な選挙が行えない」という主旨のものであった。

南ベトナム政府の民衆弾圧は苛烈化してゆき、1958年にはサイゴン郊外の収容施設で6千人の収容者のうち千人が毒殺されたというが、同時期には似たような類似事件が相次いで南ベトナム政権下で発生。1959年になるとゴ・ジン・ジェム政権を脅かす者があれば、即座に財産を没収され、無期懲役か死刑になった。その根拠は同年に施行された治安維持法でも証明でき、政府が国家の安全を脅かすと判断した場合には特別軍事法廷で裁くことが可能となり、上告もなしに即座に刑を執行できるようになっていた。最早、南ベトナム政府からすれば、ベトミンに限らず、抗仏救国戦争に参加した者は悉く、政権に対しての脅威と見做されるようになった。

ホントは「アメリカの威を借る狐」でありながら、国民に対しては圧政を敷いたゴ・ジン・ジェム政権への憎悪が溜まり、それがベトコンを産み落とした。ベトコンはベトナム北部ではなく、ベトナム南部に生まれたのだ。

南ベトナムに於ける反南ベトナム政府活動は弾圧にさらされながらも自力で武器を調達しながら散発的なゲリラ活動をしていた。ホー・チ・ミンの北ベトナムからの支援も芳しくなかったようで、ゲリラ活動に従事していた者たちは北ベトナムが統一選挙というエサに幻惑されているとして不満の声が上がり始めたという。その為に1951年1月31年、ベトナム労働党中央委員会は政治闘争に見切りをつけて武力解放方針を固め、南部で民族解放闘争を繰り広げてきたレ・ズアン(生年1907〜1986年)がベトコンの組織化に務めた。レ・ズアンは、1960年にはベトナム労働党中央委員会の第一書記というポストであった。

【ベトコン】とは通称であり、正式名称は、南ベトナム解放民族戦線。結成されたのは1960年12月20日、アメリカの後ろ盾の元に設置されたゴ・ジン・ジェム政権に対しての憤りからベトナム南部各地の政党、政治活動組織や宗教団体、大衆団体らが統一戦線として集まることで結成された。民族の独立を掲げる民族主義であるが反米思想が強く、当面の敵対勢力をゴ・ジン・ジェム政権として捉え、打倒ゴ・ジン・ジェム政権という意味合いで登場した統一戦線が「ベトコン」の真の姿であったと思われる。

(「統一戦線」のような形になる理由は、「民族主義者であれば左派と右派は共闘すべし」という理念であったらしく、この頃のベトナムでは最早、伝統になっていた。ベトミンの成功にみたように民族自決主義こそが悲願なので伝統的に、そうした統一戦線方式が提唱されたという。)

南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の参加者は最初の一年で8倍にも膨れ上がった。1961年末までにはベトナム南部の農村の8割を支配し、いくつかの省では公然と徴税を行なうまでの勢力に拡大していた。

ベトコンの議長にはグエン・フー・ト(生年1910〜1996年)が就任した。グエン・フー・トは元々はサイゴンで弁護士をしていたが、1947年から抗仏闘争に参加するようになり、1950年3月、フランス軍に対してアメリカが軍事援助をすること反対するデモを主導した為に逮捕、1952年までフランス当局によって投獄される。また、1955年〜1961年までの期間はゴ・ジン・ジェム政権(南ベトナム政府)によって逮捕され投獄されていた。その後については、「投獄されていたところを何者かに救出され、そのまま、ベトコンで指導者になった」とする解説と、「釈放された後にベトコン幹部になった」という解説文があり、そちらは判然としない。

ベトコンとベトミン、つまり、南べトナム解放民族戦線と北ベトナム政府とはアメリカの指摘していたように繋がっていた。武器なども北ベトナムからベトコンへと渡っていた上に、政治的決定の特に重要な案件については、ハノイからの指示が送られていた。とはいえ、ホー・チ・ミンの北ベトナム政府とベトコンは完全には一致しない。原則としては両者は反サイゴン政権、反米で一致しているが、戦争が進展する中で北ベトナムとベトコンとの間でも軋轢が生じるという経緯を辿る。

◆南ベトナムの政情

圧政を敷く南ベトナム政府への不満がベトコンを登場させるなど、1960年以降のベトナムでクーデター事件が頻発するようになる。

外交政策の専門家でシカゴ大学教授であったハンス・モーゲンソーは1956年に南ベトナムを訪問した後、ゴ・ジン・ジェムを評して次のように発言した。

「東洋の暴君にふさわしい、ずるがしこくて非情な行動をとる人物。実際には、自らが反対する全体主義体制のレプリカを、細部に到るまで忠実につくりあげようとしている

1961年5月、ジョン・F・ケネディ米大統領は、リンドン・ジョンソン副大統領をサイゴンに派遣した。後にアメリカ大統領になるリンドン・ジョンソンは、その際にゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領に「東南アジアのウィンストン・チャーチルだ」と持ち上げたという。その他にもフランクリン・ルーズベルトの名前を挙げる等、明らかに爐茲い靴膈瓩任△襪里分かる。アメリカはゴ・ディン・ジェムを擁立してみたものの、実際にゴ・ディン・ジェムが南ベトナムで行なっていたのは独裁政治であった。

1963年5月8日、この日は釈迦誕生を記念日としてベトナムの古都フエでベトナムの仏教僧らが南ベトナム政府の宗教弾圧に抗議してデモを開催していたところ、南ベトナム政府軍が発砲し、少なくとも9名が死亡、14名が怪我を負う事件が発生する。南ベトナム地域では国民の8割が仏教徒であったが、ゴ・ディン・ジェム政権ではカトリックを国教扱いをするという強引な政策を採っていた。南ベトナム政府は、銃撃をベトコンの仕業だと発表する。抗議の意味で、地元僧侶7名が公然と焼身自殺をはかり、そのニュースは世界を駆け巡ることになった。ゴ・ジン・ジェムは、その後も「僧侶らの焼身自殺はアメリカのテレビ局の演出である」とした。

ゴ・ジン・ジェムの実弟の妻であるゴ・ジン・ニュー夫人は、丁度、訪米中であり、ニュースを受けて、僧侶らの焼身自殺を「バーベキュー」と呼び、「今後も僧侶らが焼身自殺を図るのであれば、喜んでガソリンとマッチを進呈する」と発言して、世論を驚かせた。(このゴ・ジン・ニュー夫人は「お騒がせな人」として嘲笑の対象でもあったが、一方で女傑として喧伝され「ベトナムの宋美齢」なんてニックネームがあったという。)

当時のアメリカ大統領のケネディはカトリック教徒であり、苦々しさもあったとは思われますがアメリカ政府としては、南ベトナム政府と仏教徒とを和解させようとするも、ゴ・ジン・ジェムの実弟ゴ・ジン・ニューが強く拒否。同年8月、南ベトナム特殊部隊が南ベトナム全土の仏教寺院を襲撃して1400名の仏教僧を逮捕するという事態に発展した。その南ベトナム特殊部隊は、CIAが組織した部隊であった事から、南ベトナムでも反米意識に火がついてしまう。

ゴ・ジン・ジェム政権はアメリカがつくってしまった政権であったものの、見切りをつけることとし、アメリカは発電所施設の建設、商品購入を凍結し、CIAも南ベトナム特殊部隊への援助を打ち切った。更には、南ベトナム政府内で反ゴ・ジン・ジェムのクーデターの動きがあり、クーデター主謀者のズオン・バン・ミン将軍とアメリカとの間で、ゴ・ジン・ジェム対して支援をしないという約束も交わされた。つまり、アメリカは、南ベトナムでクーデターを容認したのだ。

1963年11月1日未明、ズオン・バン・ミン将軍が軍事クーデターを起こした。ゴ・ジン・ジェムは同日夕、電話でアメリカ大使にワシントンの意向を尋ねたが鼻であしらわれ、ゴ・ジン・ジェムとゴ・ジン・ニューの兄弟は中国人街に潜伏したが、クーデター軍によって発見され、惨殺された。このクーデター劇によって、南ベトナムは、ズオン・バン・ミン政権へと移行するが、1964年1月にはグエン・カーン将軍が無血クーデターを起こし、1963年8月にはグエン・カーンが大統領となった。しかし、グエン・カーンが大統領緒になると南ベトナム国内で猛反対が起こり、大統領就任からわずか10日目に大統領を辞職し、首相に戻った。

この一連の目まぐるしい南ベトナムの政変事情ですが、ズオン・バン・ミンは国民の支持率そのものは高かったという。しかし、グエン・カーンになると国民の支持も低く、且つ、政治経験もなく、陸軍の掌握さえも十分ではないという状態であったという。しかし、グエン・カーンは、その後も南ベトナムで権力中枢に残るも、1965年2月に更なるクーデターで失脚し、フランスへ亡命する。

アメリカにして南ベトナムは、収拾不能な存在になってゆく。

1961年4月29日にアメリカはジュネーブ協定を破って南ベトナムに軍事顧問の増派を決定。以降、軍事顧問を南ベトナムに送り込んで南ベトナムの兵士らに軍事訓練を施すなどの軍事指導を行なっていた。しかし、1963年秋ころからケネディは南ベトナムに派遣していた軍事顧問1000名をアメリカに帰還させていた。それはベトナムから撤収するという意図ではなく、そこまで力を注力せずともベトナム情勢は何とかなるだろうという楽観的なものであったという。

1963年11月22日、ケネディ大統領がテキサス州ダラスで何者かに狙撃されるという形で暗殺される。アメリカ大統領の座は副大統領であったリンドン・ジョンソンが新たにアメリカ大統領に就任する。ジョン・F・ケネディはキューバ危機の経験とベトナム情勢にウンザリしてしており、ベトナムからは一歩退いて構える心づもりであったとされる。『オリバーストーンが語るもう一つのアメリカ史』に拠れば、ケネディは「ベトナムの社会改革を重視する」、「1965年までにベトナムから撤退する」という方針を予定していたが、リンドン・ジョンソンはケネディの路線を踏襲しなかった。


◆抗米救国戦争〜トンキン湾事件編

1964年8月2日、北ベトナムの拠点からほど近いトンキン湾でアメリカの駆逐艦マドックスが北ベトナム軍の魚雷艇の攻撃を受け、同月4日にも駆逐艦マドックスと僚艦ターナー・ジョイが北ベトナム軍の魚雷艇による攻撃を受けたとされる犹件瓩発生する。当時のアメリカのマクマナラ国防長官は北ベトナム軍の攻撃について「意図的で、いわれのないもの」と発言し、それは報道機関によって繰り返し繰り返し報じられた。これを「トンキン湾事件」といい、このトンキン湾事件を契機にして、アメリカによる北ベトナムに対しての爆撃、いわゆる北爆が始まるのですが、実は、そのトンキン湾事件そのものが、アメリカによる謀略であったことが判明してしまっているという、極めて問題のある犹件瓩任△襦

つまり、アメリカの駆逐艦がホー・チ・ミンの北ベトナム政府軍から攻撃を受けたという報道が為され、実際にアメリカ議会もトンキン湾事件が起こったという前提で、アメリカがベトナムに軍事介入する口実とした。しかし、1971年にペンタゴンの秘密文書によって真相が露見している。アメリカの駆逐艦は実際には南ベトナム軍の北ベトナム軍に対する攻撃に随伴していたという事実がある。随伴していたから北ベトナム軍に攻撃されたという話でしかない。更には、トンキン湾事件が発生する約二か月前に、当時のジョンソン米大統領に対して「無制限に戦争追行権限を付与する」という議案書が作成されていたことが露見する。予め、アメリカはベトナムに軍事介入する想定で動き、トンキン湾事件は、いわば本格的に軍事介入する為の口実として起こされたものだったのだ。

世界史事典では、【トンキン湾事件】を次のように簡潔に説明している。

1964年8月2日、北ヴェトナムのトンキン湾でアメリカの駆逐艦2隻がヴェトナム民主共和国の掃海艇に攻撃されたと報道した事件。

アメリカはこれにより、1965年2月からのいわゆる北爆開始の口実とした。1970年に虚偽であることが判明した。


広辞苑でも【トンキン湾事件】は掲載されている。

1964年8月トンキン湾で米国の軍艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃を受けたとされる事件。71年米国の謀略であることが明らかにされた。

駆逐艦なのか軍艦なのか、それとも魚雷艇なのか掃海艇なのかという細部の違いを読み取れるものの、それでいて、トンキン湾事件を読み取れそうですかね。戦争とは、このようにして始まってしまうものであるのかも知れず、特に、この時代のアメリカは、冷戦構造に対処しており、東南アジアに対してはドミノ理論がまことしやかに囁かれていたという時代背景がある上に、既に、この時代のホワイトハウスが採ってきた政策というものを、今こそ、冷静に回想する必要性があるのかも知れない。

アメリカの場合、反植民地主義を掲げていた偉大な時代がある。しかし、終戦後に妙な世界図を描いたという史観がある。確かに焦点を絞って第二次世界大戦後のアメリカの戦争を眺めてみれば、朝鮮戦争(1950年6月〜1953年7月)、キューバ危機(1962年10月)といった具合であり、更にベトナム戦争などを眺めたときには、狂気のようにさえ感じるかも知れない。

◆抗米救国戦争〜「北爆」編

ベトナム戦争と呼ばれる戦争について、「トンキン湾事件を発端として始まった戦争」と説明されている。そうなると、その戦争は1964年から始まったとなる。しかし、第二次インドシナ戦争および抵米救国戦争は1960年から始まっている。その4年のずれは即ち、アメリカ側の視点からの物言いか、そうではないかの差異であり、1960年から散発的に戦争は始まっていた。

1960年1月17日、サイゴンの南南西約70キロ、ベンチェ省の各地で武装蜂起が起こる。(ベンチェ蜂起。)

1962年1月12日、ランチ・ハンド作戦と称する作戦で枯葉剤が散布される。その後も10年間に渡って米軍は数百キロのダイオキシンを含む9万トンの薬液を少なくても2万3千平方キロメートルに大々的に散布する。

1962年2月8日、アメリカに拠る軍事援助司令部が正式に発足する。

1963年11月1日、ゴ・ジン・ジェム大統領がクーデターで倒れる。

1963年11月22日、ケネディ大統領が暗殺される。

1964年8月2日、トンキン湾事件が発生する。

1964年8月7日、トンキン湾決議が米議会で為される。このトンキン湾決議によってジョンソン米大統領は、軍事介入の口実を得る。

そして北ベトナムに対しての爆撃を意味する猖滅瓩始まる。当初の北爆はトンキン湾事件への報復爆撃として始まり、それは「ピアス・アロー作戦」と呼ばれた。

1965年2月7日、南ベトナム中部にあったブレイク米軍基地がベトコンに襲撃される。ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)はゲリラ戦を得意にしており、ベトコンは北ベトナム領を隠れ家にしたり、或いは南ベトナム領内にも隠れ家にもするが、アメリカ軍は、そのプレイク米軍基地襲撃の報復として限定的北爆「フレーミング・ダート作戦」を展開する。

しかし、アメリカ軍による北爆は恒常化する。基本的にベトナム戦争に於ける北爆とは恒常的に行なわれた空爆を指し、恒常的北爆の作戦名は「ローリング・サンダー作戦」であった。北爆は実質的には動くものすべてを合法的に標的にする「無差別爆撃」であり、ナパーム弾、クラスター爆弾、白リン弾なども使用された。(ベトナム戦争で使用された兵器については、後の章にて。)

カーチス・ルメイ空軍参謀総長は、

「ベトナムを石器時代に戻す」

と、北爆について息巻いたという。このカーチス・ルメイは日本の航空自衛隊の創設にも関与した功績によって日本政府から叙勲もされているが、対日爆撃も指揮をした人物である上に、キューバ危機に於いては楽観的な態度でキューバ空爆をジョン・F・ケネディに提言し、ジョン・F・ケネディを失望させた、あのカーチス・ルメイ。

日本を焦土作戦によって降伏に追い込めたように、徹底的な破壊によって北ベトナムに苦痛と恐怖を与え、補給ルートを寸断し、経済を窒息させ、有利に戦争を続けることであった。(有利に戦争を進めつつ、有利な条件で和平条約を結ぶというゲーム感覚のところがあるのが西洋式の戦争のセオリーである。)

また、北ベトナムから南ベトナムを守ることがアメリカ軍の重要項目であったワケですが、その事についてアメリカ軍は、「補給を上回る損失を敵に与え続ければ、自ずと侵略を諦める」という具合に思考していた。実際に北ベトナムの工場の操業率は低下した。また、北ベトナムの石油貯蔵能力の7割をアメリカ軍は破壊した。

アメリカ軍は更に北ベトナムの補給を断つために、ハイフォンのある港湾への爆撃や機雷敷設を画策していたが、それは実現できなかった。ソ連船もハイフォンに入港していたので、ソ連を沈めてしまったりすると、ややこしい事態に発展するのでジョンソン大統領が許可をしなかったのだという。また、北ベトナムのホー・チ・ミン政権内でもハイフォン港が狙われる可能性を見越していたらしく、常に外国籍の船舶をハイフォンに入港させていたという。

北爆は、質・量ともに大きなものであったが、思いの外、効果が上がらなかった。そこには文化的背景が関係していたという。ベトナム北部というのは、歴代中国王朝の侵攻に直面してきたエリアであり、その影響から歴史的に儒教が盛んな地域であり、しかも自然災害などの天災が多いことが知られるエリアでもあり、一致団結する気運が盛り上がる文化なのだという。つまり、アメリカ軍から北爆を受けたという事が、その住民たちの抗戦意欲に火を注いでしまったのだという。

橋が破壊されたとする。すると、トンキン地方の人、トンキン人は小舟、自転車、もっこ、トラック、象などを総動員して数時間で竹や木材を利用して浮き橋をかけてしまうような、そういう土地柄であったという。石油がないといえばドラム缶を総動員し、分散備蓄する為の地下施設に隠すなど、そういう行動をする精神風土であったという。更には防空壕を掘り、高空の敵機にはミサイルや高射砲で、低空の敵機であれば機関銃やライフル銃で迎撃する。自給自足で飢えをしのぎ、疎開する場合には町ぐるみで疎開してしまったりする。戦意高揚した北ベトナム国民は、戦争を最優先にして戦うことができる人達であった――と。

北ベトナムは中ソから兵器などの物資援助を受けていた事に加え、抗仏救国戦争でも北ベトナム政府の中枢であるベトミン軍がやたらと強さを見せつけ、フランス軍はコテンパンにやられた経緯にも触れてきましたが、どうもベトナムでも北部と南部とでは文化が違い、特にベトナム北部の強さというのは、その歴史や伝統に拠るものであるという。(実際に1970年代になると中国は自国の南に軍事大国ベトナムができてしまった事を嘆き出し、1979年になると中国とベトナムとの間で中越戦争が起こる。)

北爆にかかった経費は1日あたり50万ドル。B-52爆撃機が一回出撃すると8万ドルの経費が消えたという。一人のパイロットを養成するのにかかるコストは77万ドル。その上で、北ベトナム軍兵士一人を殺害するのに300発、14万ドル分もの爆弾を必要としていたという効率の悪さ。当時からコストパフォーマンスで計算していたらしいのですが、アメリカが10ドルを出費すると北ベトナムが1ドルを出費するという感じの経費バランスの戦争であり、しかも、北ベトナムに対してはソ連と中国が資金援助をしている状態であった。(アメリカがベトナム戦争を展開させたことが、日本と韓国には大きな経済効果をもたらせていたりもする。)

この北爆は恒常的に行なわれ戦費負担がアメリカ政府を苦しめると同時に、興味深い数字もある。空中戦に於ける撃墜率という数字があるらしいのですが、それは空中戦が発生したときの優劣比であるという。アメリカ軍の撃墜率は第二次大戦時には8対1の優位。朝鮮戦争では更に優位な数字となって13対1。しかし、どういうワケかベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)になると、1964〜1966年まででも3対1の優位でしかない。1968年頃になると、なんと、0.85対1となり、アメリカよりも北ベトナム軍の方が撃墜率で勝っていたという数字があるのそうな。

そして、この猖滅瓩魍始したアメリカの選択は、世界中から批判を浴びることになった。アメリカ国内的にも当初からベトナム戦争は国内世論も懐疑的な態度が多い戦争であった。


◆抗米救国戦争〜「南ベトナムの実情」編

南ベトナムとは「ベトナム共和国」という正式名称であったが、その本質は元宗主国フランスが傀儡としていたベトナム国を、アメリカが改造した傀儡国家であった。ベトナム南部、サイゴンを拠点とする。既にゴ・ジン・ジェム初代大統領に始まる独裁政権は収拾不能な暴政、圧政を敷き、その都度、クーデターが発生して大統領が目まぐるしく交代してしまうという、大混乱をみせている。アイゼンハワー、ケネディにしても、南ベトナム政府の運営に苦慮したまま、ジョンソン体制下でも、それは変わらない。

南ベトナム政府には問題が山積で、単純に大統領にしてもゴ・ジン・ジェム大統領⇒ズォン・バン・ミン大統領⇒グエン・カーン大統領となった。グエン・カーン大統領は僅か10日間で大統領を辞してしまう。しかし、その後もグエン・カーンは黒幕として政権運営に残ることに成功する。グエン・カーンは、グエン・カキ・オと、グエン・バン・チューらと結び付きながら運営される。しかし、その後もコロコロと内閣が改変され、グエン・カーンが仏教徒と結んだ内閣を立てた後にカトリック系軍人のクーデターに遭い、グエン・カーンも国外追放となる。それらグダグダな政変劇の末に、1965年6月11日にグエン・バン・チュー議長とグエン・カキ・オ首相による軍事体制が南ベトナム政府の実権を握る。

その迷走ぶりは、もう、書いていても何が何だか分からなくなるような大迷走ですが、それは当時のアメリカも痛感していたらしく、ジョン・マクノートン米国防次官補は、南ベトナム政府を指して「瀕死状態」と表現したことがあるという。マクナマラ国防長官は、その政変劇を「回転ドア」に喩えた。グエン・カキ・オ&グエン・バン・チューの軍事体制までに、九つの内閣と四つの憲法が生まれては消え、政変劇の回数は実に13回を数えた。

グエン・カオ・キは口ヒゲをトレードマークにした空軍司令官であった。グエン・カオ・キが首相になったが、このグエン・カオ・キは

「尊敬する理想の人物は誰かとよくたずねられる。私の理想の人物はただ一人、ヒトラーだ」

と語ったという。単なる都市伝説の類いではなく、実際にアドルフ・ヒトラー礼賛者であった。また、グエン・カオ・キ首相は実際に仏教弾圧を強化した上に、更には北ベトナムの背後にある中国に対しての攻撃も主張するなど、狂信的な言動の人物であったという。

ほとんど、南ベトナムの統治状態というのは、「お手上げ状態」であったのが分かる。


南ベトナム政府軍の弱さも問題視されていた。べトコンやベトミンと遭遇して戦闘状態になると、その8割方は相手に主導権を握られてしまうという大問題を抱えていた。南ベトナム政府軍は、同じベトナム人なのに、何故かベトミンやベトコンと比較すると、驚くほど弱い軍隊であることがアメリカでも問題視された。1961年頃のデータでは南ベトナム政府軍の正規軍15万人、民兵6万人、警察4万五千人、地方警備員一万人という「駒」を有しながら、たかだか1〜2万人のベトミンのゲリラに歯が立たなかったという。

「何故、南ベトナム政府軍は弱いのか?」――その問題はベトミンに言わせれば答えは明白であり、ベトミンは民族主義の軍隊であるのに対して、南ベトナム政府軍は単なる「傀儡軍」に過ぎないからだという分析になる。その軍隊の存在意義や動機付けからして、まったく違う次元なのである――、と。

ベトナム兵に武器を提供すると、その武器がベトコンに横流しされてしまう懸念があること等が考慮されていたが、南ベトナム軍は数的有利な状況でもゲリラに太刀打ちできないという不思議があった。後に軍事専門家が解明した一つの説に拠ると、ゲリラ1人を相手にするのに正規軍は10名が必要になるという。

フランス傀儡時代のベトナム国から、アメリカ傀儡のベトナム共和国に代わっても、南ベトナム政府軍は強い軍隊にはなり得なかったという。行軍しても静かに行軍することができず、道中、貧しい農民の家から鶏を盗むといった具合で、そもそもからしてという問題があったという。後にベトナムに派遣されたアメリカ兵たちも同じ症状を起こすが、麻薬や酒におぼれる兵士が多く、同じベトナム人でありながらベトミンやベトコンのような強さがなかった――と。

戦場で敵と遭遇してもロクに撃ち合わず、空に向けて発砲する。更には敵である筈のベトコンと事前に下交渉をしていて、武器弾薬をその場に置き去りにして、自分たちだけは安全な場所へ逃げ込んでしまう。(実はベトコンとも通じていたので武器を横流ししてしまったりするという話。)更に酷い場合には軍用のトラックからガソリンを抜き取って、そのガソリンを集落に持って行き、勝手に鶏を買って来てしまうといった事例もあったという。まるで漫画かコントのような話ですが、それが南ベトナム政府軍という傀儡軍の実相であったという。

実際問題として、南ベトナム政府軍は南ベトナムの拠点のサイゴンで働くタクシー運転手の半分の給与しか支給されず、戦死しても恩給は出ず、誰が何の為に命がけで戦闘をするものなのかという、極めて基本的な問題を抱えていたという。ベトミンが指摘するように、確かに傀儡国家の軍隊に過ぎなかったのだ。アメリカは当初は南ベトナム政府軍を教育する事で対処できると考えていたが、アメリカ兵投入の必要性に迫られ、アメリカの泥沼が始まる――。

◆抗米救国戦争〜ベトコン編

ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)のゲリラ戦は、戦争の概念を変えてしまった。最初から戦力差が歴然としているのだから、ベトコンは真正面から戦闘を挑まないという戦術なのだ。それは後にグリーンベレーなどの特殊軍隊の雛型にもなったというから、実は近代戦争の技術革新であったかのような印象さえある。

ベトコンのゲリラ部隊は、弓、槍、竹槍、火縄銃、落とし穴。それに日本製のラジオやオートバイを駆使した。南ベトナム政府軍から武器を手に入れることもしたし、不発弾を拾って火薬を抜き取って再利用するような、そういう戦い方であった。そんな前近代的とも言える装備であったが、南ベトナムの無線を傍受していたし、南ベトナムの情報、西側諸国の情報は、実はラジオを聴いているだけでも充分に入手可能であったので、指導者たちは現実的な作戦への高い適応能力を発揮したし、兵士らの士気も旺盛であったという。南ベトナム政府軍とは対照的なのだ。

無数の地下トンネルを掘って神出鬼没な動きをし、病院、薬局、厨房、印刷所、そして武器工場などをトンネルでつなげていたという。南ベトナム政府側についている村長があれば、家族ぐるみで誘拐したり、殺害もする。夜陰に紛れて政治工作を行ない、徴税もするし、兵士の徴募もしていたという。現在もイスラム過激派とアメリカ軍との間で戦闘が起こっていますが、まさしく、その先駆け的な戦術が駆使されていたのが分かる。

竹槍で最新鋭の軍隊と戦えるものなのかと思うものですが、実際にベトコンは戦いの中で戦術も洗練させていった。「ブービー・トラップ」とは、地面に針金状のワイヤーを仕掛け、そのワイヤーに引っ掛かると手榴弾が爆発するように設定された罠であった。また、古典的な落とし穴が活用されましたが、ベトコンが活用した落とし穴の場合は、穴の中には人糞塗れの竹串を突き立てたものであったという。いわゆる琅瓩覆里任垢アメリカ軍戦死者の約一割は、ホントに、それらの罠によって命を落としたという。

1965年1月からは、北爆ではなく、南爆が開始される。これは北緯17度以南に対しての爆撃の意味で、つまり、アメリカが後見人になっている南ベトナム(ベトナム共和国)の領土に対して爆撃を開始した。理由は簡単で何しろアメリカ軍を最も悩ませているのは北ベトナムよりもベトコンのゲリラ部隊の方であり、ベトコンを掃討する為に南爆に踏み切った。僅かでも敵の気配があれば砲撃し爆撃するという南爆は、確かにベトコンを苦しめ、消耗させたという。

南爆は北爆の三倍の規模で行なわれた。南爆は敵兵1名を殺害するのに民間人4人の犠牲者を出した。巻き込まれた民間人には34ドルの弔慰金が出たが、実はゴムの木一本に対しての補償金は87ドルだった。ナパーム弾を落とした後に絆創膏を配るようなものだという批判が生まれ、南ベトナム国民の中に反米感情、反サイゴン政府感情を刺激した。

1965年3月7日にアメリカ海兵隊3500名がダナンに上陸したのを皮切りに、アメリカはアメリカ兵をベトナムに次から次へと増派を行ない、最大時にはアメリカ兵は54万人にも達した。ベトナム勤務は海兵隊などの場合は13か月であったから、環境に慣れてきた頃には帰還してしまったとも言うが、アメリカ兵が目撃したベトナムの地獄絵図は「ベトコン症候群」の名で知られるところであり、四六時中、いつ襲われるか分からないという極度の心理状態に置かれるという過酷な状況が続き、そこで精神が病んでしまうものが相次いだ。

ジャングルの中には、毒蛇、毒グモ、毒虫、吸血ヒル、病原菌を媒介する蚊がおり、皮膚病もアメリカ兵を悩ませた。そして夜になってしまうと、完全にベトコンが支配する世界となり、どこからどんな襲撃がなされるか分からないという、それ。ベトコン症候群は、精神的症状ではあるのですが、それがアメリカ軍を蝕んでいった。

軍隊といえば規律が厳しい事が大前提ですが、ベトナムに於いては例外であったようで、無闇に部下を危険にさらすようなタイプの上官は部下に拠って密かに殺害されてしまうという「フラッギング」が起こった。ベトナム戦争を取り扱った映画「プラトーン」や「カジュアリティーズ」でもアメリカ兵がアメリカ兵を殺害するような描写がありましたが、アレです。1969〜1971年の期間には83名の士官が味方によって殺害されていたという異常な数字もあるという。

また、これも「プラトーン」や「カジュアリティーズ」が描いた世界ですが、アメリカ兵の中でも略奪、暴行、拷問、虐殺にのめり込む者が現われた。特に「ソンミ事件」が有名となったものの、当時の状況からすればソンミ事件に類するような米兵による民間人虐殺事件は、かなり起こっていたと捉えた方が合理的であるという。それら虐殺や拷問、強姦は良心を失ったアメリカ兵がストレスの捌け口として行なったものと考えられるが、それに付き合う事になった良心のあるアメリカ兵の精神をも蝕んだ。ベトナム人からの反感を買った事は考えるまでもない事でしょう。

実際にアメリカ軍の規律は南ベトナム政府軍に近いような、崩壊状態に陥っていた可能性がある。規律違反や出動拒否は日常茶飯事となり、1967〜1971年にかけての期間に一ヶ月以上の無断で離隊した兵士の数は35万人以上にものぼる。1969年には10名のうちの1名が脱走をしていたというデータになるという。更に一ヶ月以上の無断欠勤をした者は述べ20万人以上、不名誉除隊者は56万人にも達した。

アメリカ軍兵士の2人に1人はマリファナ中毒になり、4人に1人はヘロイン常習になった。軍にしても麻薬常習者の告発と、物資の横流しの告発に追われる異常事態となり、陸軍のお抱え弁護士は1965年時点では4名であったが1969年になると135名もの弁護士を抱えることになったという。

1963年末の時点、つまり、アメリカが本格的に軍事介入をする以前の段階でも、1960年から散発的にゲリラ戦を展開させていたベトコンの勢力圏は南ベトナム全土の四分の三を占めており、南ベトナムの人口の半分はベトコン支配下にあったという。1966年春頃になるとベトコンは南ベトナム全土の五分の四を勢力圏とし、南ベトナム人口の五分の四を支配下に置くまでになっていた。冷静に数字で回想してみると、アメリカの軍事介入は、一体なんだったのかという現実も突き付けられてしまいますかね。勿論、当時の常識からすると、まさか落とし穴や竹槍で戦っているゲリラ部隊の勢力に、世界最強、しかも最新鋭の兵器を携行したアメリカ軍が負ける訳がないと考えるのが常識だったのでしょうけど…。


◆抗米救国戦争〜泥沼に嵌まるアメリカ編

ここで今一度、アメリカの選択の話に戻ります。つまりは、第二次大戦後に一時的に世界唯一の核保有国となり、世界のリーダーとなったアメリカには、次の世紀を「アメリカの世紀」にすべきか、それとも「人々の世紀」、アジアやアフリカを見据えての「民族の世紀」にすべきかという選択肢があった。しかし、どういう訳かアメリカは、アメリカが世界の警察になるという東西冷戦構造の戦後世界をつくった。おそらくは、「アメリカの世紀」の方を選択したのだろうという史観ですね。

実はアメリカ国内の世論はベトナムへの軍事介入に最初から否定的であったという。それは朝鮮戦争の記憶が鮮明に残っていた為であり、「ノー・モア・コリア」(朝鮮戦争を繰り返すな)という自らを戒めようとする態度であったという。朝鮮戦争でアメリカは3万4千人とも言われる戦死者を出しており、経済負担も小さくはなかった。しかも、朝鮮戦争というのはアメリカ合衆国という単位で考えたときには、わざわざ極東まで出て行って戦った戦争でもあった。ベトナムに軍事介入する事は、朝鮮戦争を繰り返すようなものだという意識が実際に強かったのだという。またしても、わざわざアジアで戦争をする必要性があるのか――と。

或る意味では総括な話になってしまいますが、戦争というものは、その国の政治的理念よりも戦時体制そのものが優先される事態を招いてしまうという法則性を見い出せそうですかね。途中から大統領がどのように考えていようが止められなくなってしまう。

当初、アメリカ政府はベトナム情勢を楽観していた。軍事介入すれば事態が悪化するようなことは起こらないと考えており、確信犯的に「最善の選択」として軍事介入に踏み切ったと思われる。しかし、現実に直面してみると、とんでもない現実に気付かされた。南ベトナム政府はグダグダだし、そもそもベトナムの北緯17度線以南のベトコンの勢力圏は想像以上に大きく、ベトコンとの戦いは思いの外、苛酷なものであると後に気付かされたというのが実相のよう。しかし、軍事介入した以上、簡単に撤退する訳にはいかないという具合にして、アメリカ兵の増派に次ぐ増派を招き、泥沼化に嵌まってゆく。

アメリカが北爆を開始すると国際的にも国内的にもアメリカ政府批判が盛り上がり、北爆開始の翌月にはワシントンDCで、2万5千人規模の反戦デモが起こったというから、かなり初期の時点から微妙な決断であったようにも思えますが、当時のアメリカの為政者は、そのようには考えなかった。反戦デモをしている連中の背後には共産主義者が居ると考え、ジョンソン政権はCIAに対して共産主義者が関与している証拠を集めるように指示し、CIAは市民に対しての監視活動を7年間も継続した。30万の個人と組織が監視リストに登録され、約7200名の詳細な個人ファイルが作成されたが、それでいて共産主義との関与を見い出せなかった。

FBIは何故か平和活動をするマーティン・ルーサー・キング牧師を標的として動くなど不可解な動きを見せていたという。

◆抗米救国戦争〜「テト攻勢」編

1967年9月、ベトコンは「民主連合政権」を樹立させ、独立自主の経済、土地改革を提唱。

ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)は支配圏としての解放区を広げていったが、アメリカは南爆を強化し、ベトコンはホー・チ・ミンの北ベトナムへの依存を強めていったという。北ベトナム政府(ベトミン)とベトコン勢力とは、いつかはサイゴンを巡って争うことになるのではないかと思われていたが、アメリカの南爆は皮肉なことにベトコンの北ベトナム依存を強めるという方向性で作用した。抗米救国戦争の発端はベトナム南部で始まったベトコンの反乱と、それを鎮圧せんとして振る舞ったアメリカとの衝突によって始まったが、その戦争の主導権は徐々に北ベトナムのホー・チ・ミン政権に移っていった。

そして、抗米救国戦争の大きな分岐点が訪れる。

ベトナムには爆竹を鳴らして旧正月を祝う風習として【テト】があり、そのテトの期間中には休戦になるのが通例であった。日本の正月に似たもので、暦としては1月末から2月頭にかけてがテトにあたった。その「テト」の期間を利用して北ベトナム軍(旧ベトミン勢力)と民主連合政府を名乗り出したベトコンとが共同して、ベトナム全土で一斉に総攻撃を仕掛けた。(「テト攻勢」と呼ぶ。)

事前にアメリカ軍はテト休暇中に敵の総攻撃があるという情報を掴んでいたという。しかし、軍事作戦として捉えれば無謀な作戦であったし、北緯17度線近くにあるケサン村周辺で陽動作戦が行われた為にケサン周辺に海兵師団を送り込むなどしていた。アメリカ軍の判断ではテト期間中の総攻撃はないものとして構えていた。まさに、不意討ちをかける総攻撃がテト攻勢であったという。

1968年1月31日未明、テト攻勢と呼ばれることになる一斉蜂起が南ベトナムの首都サイゴン、古都ユエを含めて南ベトナム省都44都のうち39都(34都説もある)で発生。ダナンやビエンホアの米軍基地も総攻撃を受けた。

テト攻勢は、北ベトナム軍とベトコンとが共同作戦になる一斉蜂起であった。北ベトナム軍兵士はテトに備えて大量に移動する民間人に扮して南ベトナム領内に侵入、潜伏。ベトコンの蜂起に呼応して北ベトナム軍も一斉に加勢したという大胆な共同作戦であった。

テト攻勢では南ベトナム政府の首都サイゴンのアメリカ大使館が一時的に敵の占領を許すまでの勢いを見せたが、アメリカ軍と南ベトナム軍が防衛にあたり、最終的にはベトコン軍と北ベトナム軍が撤退した。単純に勝敗を述べれば、アメリカ軍と南ベトナム軍の勝利で終わったのがテト攻勢であり、アメリカ軍と南ベトナム政府軍との死傷者は約2万人であったのに対して、ベトコン軍と北ベトナム軍との死傷者は約4万5千人であった。

また、このテト攻勢の際、古都フエに於いて約2800名の南ベトナムの官吏、警察官、教師、学生らが解放軍勢力に拠って惨殺された。テト攻勢に於いては、南ベトナム領内のいたるところで虐殺行為が行われ、約4万人の民間人が死傷し、その恐怖から実に100万人以上のベトナム難民を生み出したという。

1968年4月にベトコンは「民族民主平和勢力連合」を設立した。民族民主平和勢力連合では、一つに南ベトナムのグエン・バン・チュー政権打倒、一つに外国軍の撤退、一つに狷販・民主・中立瓩箸いν念を掲げた。

1969年1月からベトコンはパリ会談に参加し、同年6月8日には南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立。

1969年9月、北ベトナムのホー・チ・ミン死去。ホー・チ・ミン死去後は、レ・ズアンが後継となって集団指導体制を維持する。

アメリカの迷走は続く。アメリカはベトナムの隣国であるカンボジアで国防大臣や首相を歴任していたロン・ノル将軍(生年1913〜1987年)を後押してクーデターを起こさせる。

1970年3月に国家元首シハヌークの外遊中にカンボジアのロン・ノル将軍がクーデターを起こし、クメール共和国を樹立させる。それはベトコンがカンボジア国内にパイプを持っていた事によるもので、ベトコンへの供給基地はカンボジアに在った事と関係している。アメリカがシハヌークを失脚させた事のウラには隣国カンボジア領にある補給ルートを断ち切る意味合いを持っていた。

ロン・ノル将軍はシハヌーク体制下で、国防大臣、首相を歴任しており、カンボジアの軍部を掌握していた人物であったという。しかし、ここでもアメリカが担ぎ出したロン・ノル将軍がベトナム人を虐殺。また、それを契機にしてカンボジアは内戦に突入する。


◆「ポル・ポト」という置き土産

ここからは少しだけ、ベトナム戦争の煽りを受ける形となった、隣国カンボジアの話になります。

アメリカの後ろ盾を受けてロン・ノル将軍がクーデターを起こした。そのクーデターによってノロドム・シハヌークは失脚したが、そのシハヌークと提携する形で、クメール・ルージュと呼ばれる勢力がロン・ノル政権軍に対して内戦を展開させることになる。

クメール・ルージュは反米、反ロン・ノルであり、シハヌークと手を組んだが、元々は反シハヌークとして活動していた急進左派グループであった。「クメール・ルージュ」とはシハヌークが国費でフランスに留学したのに共産主義に染まったクメール人の意味で使用した蔑称であるという。つまり、【クメール・ルージュ】とは「アカに染まったクメール人」という意味らしい。

また、クメール・ルージュといえばリーダーはポル・ポト(生年1928〜1998年)ですが、経歴はホー・チ・ミンと似ており、反仏闘争として政治活動を始めて、フランスに留学してフランスで共産党に入党する。教師をしながら、反仏ゲリラ活動を展開し、そのまま、カンボジア共産党内で書記長にまで上り詰めている。

ロン・ノル将軍のクーデター後に、ポルポト派(クメール・ルージュ)を率いて反アメリカ、反ロン・ノルで武力闘争に突入し、(時代が飛んでしまいますが)1975年には首都プノンペンを制圧。100〜300万人以上が犠牲になったという大量虐殺などで知られるポル・ポト政権(民主カンプチア)とは、そうした経緯を持ったものであったという。

親中国路線であったポル・ポト政権は、反中国路線のベトナム社会主義共和国軍の侵攻に遭い、1979年にプノンペンを追われ、再び山岳地帯を拠点にしたゲリラ勢力となる。ベトナムによるカンボジア侵攻は第三次インドシナ戦争の範疇となり、また、軍事大国と化したベトナムが中国と一戦を構える中越戦争でもある。(歴史ってのはアレコレと繋がっているようで。)

1998年、中国とタイの国境付近にあるチョンチャンガムという集落でポル・ポトの遺体が発見された。病死とされたが詳細は不明であるという。

ポル・ポトの本名はサロト・サルといい、「ポル・ポト」という名前は自ら改名したものだが、その意味は「純粋なカンボジア人」という意味であるという。その改名からも民族主義的なものを嗅ぎとることができますが、アンコールワット遺跡で有名なアンコール朝(9〜15世紀)、そのアンコール朝時代のような「(民族の)栄光を取り戻す」という類いの言説も残していたという。

◆抗米救国戦争〜「パリ会談」編

テト攻勢はアメリカ軍と南ベトナム軍との勝利に終わった。しかし、それは武力での勝利であったが政治的な敗北を決定づけた。テト攻勢の後、アメリカは国内的にも国際的にも反戦運動に火がつく結果をもたらせ、アメリカにしても、どのようにベトナムから撤退すべきかという問題へ政治判断は移行していった。

テト攻勢の後、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるペンタゴンの極秘文書が露見する。トンキン湾事件の真相が明るみになると同時に、ベトナムでも小型化した戦略核兵器の使用がケソン村を標的にして検討されていた事が露見する。イギリスのハロルド・ウィルソン首相がホワイトハウスの晩餐会で批判的な挨拶をし、更に報道番組「フェイス・ザ・ネイション」では次のように批判した。

「どんな手段をとるのであれ、この戦争をエスカレートさせるのは非常に危険だ。核兵器の使用を検討しているなど、どうかしているとしか考えようがない。アメリカを窮地に追い込むばかりではなく、世界中を戦争に巻き込むという非常に大きな過ちを冒すことになるだろう」

テト攻勢後、そうした反戦ムードが世界中で展開される事になり、更にはアメリカに対する不信が爆発した時期でもあった。1967年はアメリカ国内的には黒人問題、公民権運動が紛糾していた。1967年の夏、全米各地で暴動が発生した。二日間以上続いた大規模な暴動が25件発生、小さな暴動は30件以上も発生した。その暴動の際、アフリカ系アメリカ人が、警察隊や州兵部隊に殺害されるなどした為に、一気に黒人問題が噴出した。

また、この1967年にはCIAが全米学生協会に資金援助をするなどして学生運動の監視をしていた事が雑誌「ランパーツ」によって暴かれ、CIAの違法活動が明るみとなった。ニューヨークタイムズ紙にワシントンポスト紙も、CIAの隠れ蓑になっている団体名を実名で次から次へと掲載した。歪んだ反共イデオロギーによって、大学教授、ジャーナリスト、宣教師、人権活動家、労働組合幹部には、CIAから資金が流れており、彼等を使って反共キャンペーンが展開されていた事が暴かれ、以降、それらが学生運動に火がつき、公民権運動と連携して黒人問題を惹き起こしていた。

アメリカ政府への不信が充満している中で、テト攻勢が起こり、テト攻勢の後は反戦ムード一色となり、リンドン・ジョンソン大統領の支持率は急落した。

にもかかわらず、ベトナム援助軍司令官という役職にあったウィリアム・ウェストモーランド大将は、ベトナムへの更なる増派として20万6千の増派を要請。リンドン・ジョンソンは、クラーク・クリフォード国務長官に事態見直しの検討に入らせることとした。

1968年3月31日、リンドン・ジョンソンは自らの大統領選再出馬断念を発表すると同時に、北爆の大幅な縮小を発表した。ここからアメリカは北ベトナムとの和平会談を模索する方針へと、方向転換するのだ。

1968年5月18日から、パリにて、アメリカと北ベトナムとの間で和平交渉が開始される。

1968年11月、次期アメリカ大統領選は、「ベトナム和平に秘策がある」と主張した共和党のリチャード・ニクソン候補がジョンソン政権の副大統領(つまり、現職の副大統領)のヒューバート・ハンフリーに勝利する。

次期アメリカ大統領はニクソン政権へとバトンタッチされる。

1969年1月25日からは、拡大パリ会談となる。この拡大パリ会議には、ベトコン勢力から生まれることになる南ベトナム臨時革命政府の代表と、南ベトナム政府の代表も和平交渉に加わった事を意味している。(臨時革命政府には北ベトナムの意向が投影されており、南ベトナム政府の意向にはアメリカの意向が反映されている。)

(1969年6月8日、南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立。)

基本的にパリ会談及び拡大パリ会議和平交渉では、北ベトナムは無条件の北爆停止を要求し、アメリカは北ベトナム軍の南進の縮小を要求した。最終的には双方が双方のメンツを立てるという形で、和平交渉が進められたという。

因みにホー・チ・ミン政権時代には、アメリカ大使が電話で交渉を打診しても、北ベトナム政府は受話器を外してしままにして放置するなどの対応をしていたという。ホー・チ・ミンの場合は、互いに牽制しあう中国とソ連、その両国に振り回されながらも、ソ連とも中国とも上手に駆け引きしていたとされ、今にして考えるとホー・チ・ミンという人物の政治手腕を物語る逸話にも思える。

ニクソンがベトナム和平交渉の秘策にしていたものは何であったかというと、対中国政策の見直しであった。北ベトナムとの和解には、北ベトナムの後ろ盾になっている中国政府との和解が必要だと考えていたのだ。これは、「第一次ニクソン・ショック」であった。ニクソンは1971年7月15日に、訪中を発表、世界中を驚かせた。アメリカの戦略に則って対中政策を採っていた日本は、アメリカの頭越し外交に大きなショックを受けた。(更にニクソンは、その一か月後となる8月15日にドルと金との交換停止を発表し、ブレトンウッズ体制を崩壊させたが、そちらは「第二次ニクソン・ショック」となる。)

時系列的には、次のように続く。

1970年5月にアメリカ軍は南ベトナム政府軍と共にカンボジアに侵攻。

1971年2月には南ベトナム政府軍がラオスに侵攻、失敗。

1971年7月15日、ニクソン訪中発表。第一次ニクソン・ショックが起こる。

1972年2月21日、ニクソンの訪中。

1973年1月29日、パリ協定が調印される。アメリカ軍のベトナムに於ける軍事行動の一切は停止へ。

1973年3月29日、アメリカ軍がベトナムから完全撤退。

しかし、この和平のプロセスに於いても、戦争は終わっていない。1972年春には北ベトナム軍が春季大攻勢と銘打って公然と北緯17度線を越えて戦車や装甲車を南下させている。更に、アメリカ軍撤退もまじかに思える1972年のクリスマスに、「クリスマス爆撃」と呼ばれる12日間にも及ぶハノイとハイフォンを標的にした集中爆撃を行なっており、そのクリスマス爆撃は都市を標的に集中的に爆撃が行われた為にベトナム戦争史の中でも最も被害の大きい爆撃となった。

ニクソンの訪中は、アメリカによる中国への歩み寄りであったが、念頭にはベトナム和平が絡んでいた。北ベトナムは援助国である中国を抑えられた事になる。北ベトナム政府に圧力をかける為の、それでもあった。


◆抗米救国戦争〜「ソンミ事件」と「反戦意識の高まり」

1969年11月、ソンミ事件(ソンミ村事件)が暴露された。ベトナム帰還兵の一人であったロン・ライデンが仲間からソンミ村で発生した事件の内容を聴き、胸を痛め、二千語からなる手紙をしたため、30名の連邦議会議員と、行政部門、軍関係者に宛てて送付した。司令官を含めて50名前後の将校は、ソンミ村でアメリカ兵による虐殺事件が起こり、その事件に対して隠蔽工作が為されている事を知っていたという。主要メディアも、ソンミ事件に無関心であった。フリーランスのジャーナリストであったセイモア・ハーシュが記事を大手メディアに持ち込んでみたが、断れてしまった。なので、ハーシュは小規模な個人通信社であるディスパッチ・ニュースサービスを通じて、事件を暴露させることにした。

1968年3月16日、南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ部落という集落で、それは発生した。ベトコンに同情的であったとされる、そうした集落に対して、当時、アメリカ兵は掃討作戦と題した殺戮を展開させることが少なくなかった。このソンミ事件のケースでは、ウィリアム・カリー大尉率いる第一大隊であった。

老人と女、赤ん坊を含めた子供だけが集落に残っているのが通例であった。そこにアメリカの歩兵たちがやって来て、何の抵抗もしない村人らに発砲、射殺。レイプの対象になる女性を発見すればレイプし、赤ん坊があれば容赦なく殺した。また、抗議しようとする村の老人あれば容赦なく殺害した。しかも、レイプ&殺戮は長時間にも及び、兵士たちは一度、レイプ&殺戮を中止して昼食をとり、昼食をとり終えてから再びレイプ&殺戮を再開した。どういう精神状態であったのか謎ながら、殺害後に死体を食べたものはさすが居なかったが、死体を切り刻むなどの行為をしたものは居た。

因みに犠牲者数については109名とするものもあるが、『オリバーストーンが語るもう一つのアメリカ史』(ハヤカワ文庫)では犠牲者は500名と算出しており、「村民500名の人命が奪われた」と記述されている。

アメリカ軍機のヘリコプターが偶々、虐殺劇を上空から目撃した。逃げまどうベトナム人たちを追いかける狂気にとり憑かれたアメリカ兵たちの姿が、視界に広がっていた。ヘリコプターの乗っていた三名(ヒュー・トンプソン、ラリー・コルバーン、グレン・アンドレオッタ)は、惨劇を目の当たりにし、その惨劇が繰り広げられている集落の真ん中にヘリコプターを着陸させた。この際、ヘリコプターの三名のアメリカ兵は制止する目的で着陸しており、妨害してくるアメリカ兵に対しては容赦なく発砲する覚悟であったという。

ソンミ事件のニュースは容赦なしに人間性のグロテスクな部分を抉り出す戦争の現場を伝えるものであり、大きなショックをアメリカ社会にも与えた。

インディアナ州で農業に携わっていた青年が、ソンミ事件に加わっていた。そのインディアナ州出身の青年兵の母親は、

「私は軍隊に立派な息子を差し出したのに、人殺しを返してよこされたわ」

と、涙ながらに抗議した。

こういう部分というのは意外と見落とされがちですが、ホントは旧日本軍の話などでも似たような話が出てくるのがホントですよね。都市部ではなく、田舎であれば田舎であるほど、戦争というものが人の人間性を破壊してしまうことに敏感であったりする。純朴な環境の場合、そこには宗教的な善悪感であるとか、或いは伝統的価値感としての善と悪という観念に包まれて生活しているのが、人間のもう一つの姿でもあって――。

(保阪正康さんが調べた戦時の慰安所の逸話の中には、若い兵士は休日に「慰安所で女を抱くのと、甘いものとどちらがいいか?」と問われ、実は殆んどの若い兵士は「甘いもの」を選択していたという証言を紹介している。また、慰安所へ行っても慰安施設内で大人しく読書をしていた者もいたし、慰安婦とデキてしまい、慰安婦をつれて部隊を脱走してまった日本兵の話などを紹介している。純朴な青年とは本来、そーゆー牧歌的な側面を持っていそうですからね。インディアナ州で農業に従事していたアメリカの若者なんてのも元々は牧歌的な青年であった事は推察するのもホントは難しくないのかも。日本の慰安婦問題に【性奴隷】や【sex slave】という言葉を使用するのであれば、米軍のソンミ村事件なんてのは【レイプ&虐殺】という表現をしなければならず、それを用語化しないと表現が間に合わなくなってしまいそうですかね。)

因みに、ソンミ事件では、ウィリアム・カリー大尉は予謀殺人罪で軍法会議にかけられ、1971年3月に終身重労働の判決が言い渡されたが、起訴対象になった他の12名の大半は不起訴処分になったという。

ニクソンはソンミ事件が報道された事に憤り、大統領補佐官のアレクサンダー・バターフィールドに対して、

「根性の腐った卑怯者のユダヤ人のやつらが、ニューヨークから陰で操っているんだ」

と発言したという。殆んど支離滅裂で、まさしく狂気のような気がしますが…。

ソンミ村で発生した虐殺事件の報道に対して、当時のアメリカの世論調査では65%は無関心であったという。しかし、その一方で反戦運動は大きな拡大をみせ、1969年11月には75万人という大規模な反戦デモがワシントンDCに押し寄せた。

◆抗米救国戦争〜「サイゴン陥落」と「その後」編

1973年1月27日、パリ協定が調印されアメリカのベトナム撤退が表明される。

1973年3月27日、アメリカ軍が完全撤退する。

ここで抗米救国戦争そのものは終焉したと判断すべきですが、南北に分裂した二つのベトナムという問題を残したまま。ベトナムを統一する為には北ベトナム政府軍が南ベトナム政府の最後の拠点であるサイゴンを陥落させるという一大事業が残った。

1973年10月、北ベトナム軍は本格的な南進を開始する。戦車、装甲車、ミサイル、長距離砲、高射砲の部隊が次から次へと南進した。長い長い対立に最後のケジメをつける時が近づく。北ベトナム軍は26万以上の兵力を南下させたという。

1974年末、フォクロン省の省都ドンソアイ攻撃を皮切りに、北ベトナムの総攻撃が開始される。

1975年1月にフォクロン省が陥落。アメリカは現役大統領リチャード・ニクソンが絡んだ盗聴事件に端を発したウォーターゲート事件で大混乱の中での出来事であり、南ベトナムへの軍事援助も三分の一になっていた。

1975年3月10日、北ベトナム軍は30万の兵力を使っての大攻勢を開始する。ミサイルや戦車、ロケット砲が大量に使用された為に、その砲撃は南ベトナムで行なわれていたのに、北ベトナムにまで砲撃音が響くほどの大攻勢であったという。北ベトナム軍がワンサイドに戦闘を支配して南進が進み、北ベトナム軍では補給が追い付かないという問題が度々発生したという。

1975年4月26日、サイゴン総攻撃が始まる。10万人が参加したサイゴン総攻撃の作戦名は、「ホー・チ・ミン作戦」と命名され、実行された。サイゴン総攻撃は、開始から4日後にサイゴンを陥落させた。南ベトナム政府に終止符を打ったと同時に、傀儡国家を殲滅し、ベトナムが統一された事を意味するという。

かつてベトコンと呼ばれた勢力は臨時革命政府を建てていたが、ハノイの意向、つまり北ベトナムの首脳陣の意向が優先され、臨時革命政府は70ヵ国から承認を受けていたが重要な地位を占めることはなかった。また、実質的にアメリカ軍をベトコン症候群に陥れたベトコンは、「ベトナム祖国戦線」に吸収される形で、歴史から静かに姿を消した。

1976年7月2日、ベトナムは統一ベトナムとしてスタートすることとなり、国名はベトナム社会主義共和国となった。その後のベトナムの歩みは以下のような感じ。

1977年、隣国カンボジアはポルポト政権下であり、プノンペン放送は「カンボジア人1人がベトナム人30人を殺害すればよい」等の民族浄化を呼び掛け、12月31日には一方的にベトナムとの断交を宣言。ベトナム人や親ベトナム人の虐殺を始める。

1978年12月25日、ベトナム軍はカンボジアへ侵攻。カンボジアのポル・ポト政権内でクーデター騒ぎがあり、ポル・ポト政権から追放されたヘム・サムリンがベトナムに逃亡。ベトナム軍は、そのヘム・サムリンを担いでカンボジアに侵攻した。

1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペン占領。カンボジアからポル・ポトを追い出して、ヘム・サムリン政権が発足する。国名も「民主カンプチア」から「カンボジア人民共和国」に変更される。このカンボジア侵攻、ヘム・サムリン政権の樹立のプロセスまで、比較的ベトナムに対して国際社会は「民族解放の旗手」と評する声が多かったという。しかし、このカンボジア侵攻によってベトナムは国際的に孤立する。「軍事介入して新政権を樹立させるという手段は、そもそもフランスやアメリカの手法と一緒じゃないかっ!」、となる。

1979年2月7日、中国軍がベトナムに侵攻し、中越戦争に発展する。武力衝突は3月17日に終わる。アメリカの黙認の上で行なわれた中国による懲罰戦争であったとされる。中国軍は正規軍であったがベトナム軍は正規軍ではなく、国境警備隊などが戦闘にあたった。中国軍は圧勝を確信していたが、長年の歴史の中で軍事大国化していたベトナム軍は思いの外、屈強であった為に苦戦を強いられ、中国軍部に衝撃が走ったという。

1986年12月15日、ベトナムはドイモイ政策を宣言する。

1989年9月26日、ベトナム軍がカンボジアから撤退する。

1991年11月5日、中国と国交正常化。

1995年7月11日、アメリカと国交正常化。

2000年11月16日、ビル・クリントン米大統領がベトナム訪問を果たす。


◆ベトナム戦争の教訓

ベトナム戦争では、多種多様な軍事兵器が実際に使用された。レントゲンに写らないプラスチック片が弾け散る仕掛けの爆弾を、「ボール爆弾」と呼んだらしいのですが、レントゲンに写らないというのが味噌で、つまりは、摘出手術が不可能な重傷を負わせることを目的とした爆弾だったという事なんですね。

更には、地面すれすれのところで爆発し、その周辺にいるものの下半身に重傷を負わせることを目的にした、「デイジーカッター」なる兵器も使用されたという。

「ボール爆弾」も「デイジーカッター」も、「クラスター爆弾」に分類されるという。親爆弾が爆発することで、子爆弾が飛び散るという仕掛けなので、クラスター爆弾に集約されてしまう訳ですが、ボール爆弾やデイジーカッターというのは、多分に悪魔的な発想が詰め込まれた兵器であるような気がしないでもない。地雷もそうですが、相手を殺傷することそのものが目的というよりも重傷を負わせ、相手の戦意を削ぎ、経済的打撃を与えることを意図して開発されている。ソンミ事件、枯葉剤の散布にも感じた感慨ですが、ベトナム戦争というのは「人間性の喪失」を強く感じますかねぇ。


◆何故、ベトナムはアメリカに勝てたのか?

それと、軍事大国アメリカの敗北という重たい事実が転がっている。「何故、ベトナムはアメリカに勝利してしまったのか?」という問題が単純に残りますよね。

それについて北ベトナム軍の軍事指導者にして、「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を袋のネズミにしてしまった「赤いナポレオン」ことボー・グエン・ザップ将軍は、ずっと後に、次のように回想したという。

(いや、この言葉というのがですね、実は、中々、考えさせる言葉でもありました。)

――われわれがこの戦争で勝利をおさめたのは、隷属状態で生きるよりも死ぬほうがましだという信念のおかげだ。その正しさはこの国の歴史が証明している。われわれは常に、民族自決を何よりも熱望してきた。この精神をもって強力な敵と向かい合えば、スタミナも勇気も創造力も決して衰えない。

軍事力から言えば、アメリカ人はわれわれよりもはるかに強力だった。しかしフランス人と同じ間違いを犯した。ベトナム人の抵抗の激しさを過小評価したのだ。アメリカ人が空爆を始めたとき、ホーおじさん(ホー・チ・ミン)はこう言った――

「アメリカ人は何十万、いや何百万の兵力を投入できる。戦争は10年、20年、いやもっと長く続くかも知れない。しかしわが国民は勝利を手に入れるまで戦い続けるだろう。家も村も都市も破壊されるだろうが、われわれは決して脅しに屈しない。そして独立を取り戻したときには、この国をゼロから建て直し、以前よりも美しい姿に再現させよう」



ボー・グエン・ザップの言葉は、後に回想してみた時の、単なる自分語りに過ぎないようにも思える。しかし、よくよく調べてみると、これが「ベトナムの北部」という地域であった事に、歴史的な背景が広がっている事に気付かされる。ベトナムという国は南北に細長く、実は20キロや30キロも離れてしまうと、地元民でも方言がかなりあるのだという。サイゴン(現ホーチミン市)は南端であるのに対して、ハノイは北側であり、数千年に渡って中華帝国と対峙してきた地域だという歴史的背景が転がっている。トンキン湾事件の際に触れた際、トンキン人が儒教文化圏にあったと説明した通りで、ベトナム北部というのは圧倒的な歴史的スケールで中華帝国と対峙してきた地域であり、儒教の影響が強い儒教圏であり、実は小中華帝国とでも呼ぶべき民族の歴史を持っていたりする。

中華帝国に朝鮮半島では朝貢をしていたし、日本史でも何度か朝貢が見受けられる。歴代中華王朝の皇帝の前では【帝】を名乗れないので【王】と名乗る必要性があり、「倭王」のように表現される。日本人の場合は中華冊封下の日本という扱いを嫌った為に【天皇】という概念をつくりだし、場合によっては要らぬ衝突を避ける為に帝と名乗るのを避ける工夫をしていて「スメラミコト」や「おおきみ」(大君)という名前であるという具合に中華王朝側に伝えるなどの工夫をしている事に気付かされる。

実は同じ問題を東南アジアのベトナムも抱えていたようで、ベトナムの歴代王朝は国内では「帝」を名乗っていたが中華王朝に対しては「王」と名乗ってきたという。つまり、中華冊封秩序下の小中華帝国として二千年の歴史を持っていたのが、実はベトナムだったのだ。

紀元前111年に、ベトナム北部は漢の武帝による派兵に遭っている。そして紀元後1世紀半ば、後漢の時代にはチュン姉妹による反乱が起こっている。このチュン姉妹はベトナムでは寺院に祀られている存在だという。更に、10〜11世紀にかけて宋王朝軍を撃退している上に、13世紀の元王朝(モンゴル帝国)軍を何度も退けている。15世紀にも明王朝軍を駆逐し、18世紀に清王朝を撃破したのがグエン・フエであり、度々、登場して紛らわしく感じた「グエン」というファミリーネームは、そのベトナム統一を果たしたグエン王朝(阮王朝)のグエン一族であるという。

何度も中華王朝軍を撃退した歴史を持っているが、撃退後には中華王朝に謝罪をしてきたという。その、したたかさとも屈折とも受け取れる民族の歴史が有していたのがベトナムという地域の歴史なのだそうな。つまり、その北に聳える大国と二千年以上も向き合い続けてきた歴史がベトナム人の強烈な民族意識の根底になっていた――と。

また、その反面、ベトナム人の民族意識は儒教秩序意識が強いので、カンボジア人やラオス人に対しては優越感を抱いているともいう。こうした事情というのは、東アジアの何処かの国とも共通しているような気がしないでもない。

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