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人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:歴史関連 > 昭和天皇史

本来、天皇とは、その姿の見えない存在であった。尊皇思想が起こって、倒幕運動へ。そして明治維新へと繋がって、それが我が国の近代化の扉を開いたのですが、よくよく考察してしまうと、天皇的権威というのは、政治勢力に利用された側面がある事に気付かされる。また、その政治利用によってカリスマ性を帯びていったという経緯も伺い知ることが出来る。

明治、大正、昭和という近代史の中で、最終的には昭和が激動の時代となり、戦争から敗戦、そして戦後からの復興という時代を歩んだ。

この近代史を考えるとき、権威の象徴たる天皇像も有るが、戦後の天皇像は特に人間宣言後の天皇像だという事になる。

しかし、本当は一貫して、そこに君臨していたのは現人神たる天皇ではなく、人間天皇であった。それで愕然とする人たちもあれば、或いは、責任の所在うんぬんと考える者もある。ところが、或る時期から侍従ら関係者らが残したメモなども世に出るようになり、更に、昭和天皇独白録と併せて目を通してみると、昭和天皇、もしくはエンペラー・ヒロヒトの実像に近い「像」が浮かび上がってきてしまう。

で、実は、その昭和天皇の人間的側面というのは、物凄い魅力的なんですよね…。スピノザの話も堅苦しい割には最後に辿り着いた境地が感動的じゃないかと感じましたが、人間としての昭和天皇の足跡というのは、小さな感動の広がっている『美質』で貫かれているのはホントですね…。伊藤之雄著『昭和天皇伝』(文春文庫)で、再々々確認ぐらいしているのですが、少年期の逸話だけで付箋だらけになってしまった。。。

なので、断片的になってしまいますが、このブログなりに幾つかの逸話に触れてみる。

1901年生まれの裕仁親王は、後の昭和天皇である。一歳下に雍仁親王があり、この雍仁親王は後の秩父宮である。幼少期、それこそ、両親王が3〜4歳の頃ですが、『機密報告書』なる文献に両親王の成長や個性などについて記された文章タイトル通りの機密報告書が現存するという。項目は、体力について、視覚や聴覚といった感覚機関について、観察力について、注意力について、規律について、寛大さについて、気性についてという八つの項目で、両親王について記されている。

裕仁親王が4歳で、雍仁親王が3歳だから成長にも差異があるだろうし、比較するのは誤まりなのですが、実際に「原敬関係文書」として、親王の成長状況を報告させる極秘資料があったという。それに拠ると、体力は年長の裕仁親王が優れ、視覚・聴覚・嗅覚といた感覚能力については同程度、観察力も同程度であるが、裕仁天皇は数字を5つまで数えられるが、雍仁親王は4つまで数えることができる等々、実は仔細に報告書が作成されていたという。

資料からすると、年齢差を考慮すると一概に裕仁親王の資質が優れているという風でもなく、且つ又、実は、後の秩父宮は優れた人物として評価され、また、秩父宮は天皇以上に自由が利いた事から軍人をはじめとする民間人との交流にも勝り、後に裕仁親王と、内なる対立をする実弟でもある。そして、二・二六事件を回想した際などはクーデター軍に近い人脈を有していた秩父宮の存在がある。昭和天皇が決断した「クーデター軍は断固鎮圧」という方針を秩父宮が指示してくれた後に夕食会で上機嫌になっている。実は、昭和天皇と秩父宮の関係性は仲が悪いワケではなかったが昭和天皇は、やや秩父宮にコンプレックスを抱いていた可能性が示唆されている。実は、表立った比較はしていないにしろ、大人は幼少期から、アレコレと、資質を比較されていたのであり、まぁ、一般人の中でも、そういう兄弟間の中というのはありますやね。

1909年の報知新聞には、両親王はリンコーンが好きであったという記事が掲載されていたという。この「リンコーン」というのは米国初代大統領、リンカーンの事。意外にも、皇孫たる両親王の教育というのは国家主義色から離れ、先進的なもの、開明的な教育が行われていた痕跡がうかがえる。これは両親王が7〜8歳の頃だと思われる。浅草、花屋敷(花やしき)等は、フツウの子と同じように両親王も大変に好まれたが、身分が異なるが故に花屋敷に行けない事を語り合った兄弟の会話があるという。

裕仁親王「質素が好き。だけど身分があるから困るね」

雍仁親王「そうなの。不自由なんですもの。花屋敷なんどへも行かれないのですもの」

なんだか、皇孫であるが故の不遇を語り合う幼い兄弟の会話が生々しい。どうも皇族であるが故に外出もままならず、幼年期の親王は室内で戦争ごっこをしたり、追いかけっこや相撲を愉しまれていたという。女官などの証言に拠れば、追いかけっこは建物が壊れるのではないかと心配してしまうほどの、追いかけっこだったようだから、なんだか、微笑ましい話にも思える。

更に「牧野伸顕文書」には、裕仁親王のタヌキの逸話なるものがあるという。或る時、明治神宮の敷地内にある代々木御料地へ行啓した折、係員が裕仁親王にタヌキを見せようと箱に入れたタヌキを出すと、犬飼育場の犬がタヌキを察知して吠えだした。タヌキは犬に吠えられてぶるぶるとカラダを震わせ、身を竦(すく)ませた。その際、裕仁親王は

「もういい。可哀さうだから早く箱に入れてやれ」

と係員に申し付けた事があったという。動物好きは皇族方に通じた特徴でもあるが、裕仁親王時代の少年像は、かなり優しい少年であったとされ、それが窺える逸話とされている。

皇位継承順から考慮すれば、将来の天皇陛下であり、また、実質的な御兄弟との関係を考慮しても長兄であり、また、教育環境そのものからして、リーダーシップは育まれているものの、資質としては極めて几帳面であり、今風に語れば、繊細、やさしい。そういう資質であったらしく、宮内省や右翼が抱く天皇像としての威厳のある剛毅な人物に育って欲しいという願望なども介入し、後にややあって知識偏重の教育方針でいいのかうんぬんのクダリもあるのですが、ベースとなっている資質としては、極めて几帳面であるとか、非常に真面目であるとか、そうした評が多かったかのよう。母にあたる貞明皇后に到っては、立太子後に対立があった際、皇太子は【神経性】なところがあるのでうんぬんと注文をつけていた程であるという。

昭和天皇と言えば生物学での功績が有名ですが、少年期、青年期は歴史が最も好きで、生物学は二番目であったという。親王の時代に、白鳥庫吉博士が御用掛として歴史を教えていたが、裕仁親王は白鳥博士を尊敬していた節があるという。白鳥博士は、親王に神話と歴史とは異なるが、それを教えて良いのかという承諾を得て歴史を教えたとされる。これも後年、関係者たちは、これは好ましい事とは言えないというニュアンスで、「どうも裕仁親王は(祖父)天皇にあたる明治天皇を現人神だと思っていないようである」と書き残していたりするそうで、天皇像を巡る二重性が興味深い。

裕仁親王は学習院初等科を卒業すると、東宮内に設けられた東宮御学問所なる施設で、勉学に励むことになった。ここは極めて限られた御学友を出仕(当初、ご学友は泊まり込み体制)させ、その学友たちと教育係のオトナたちに接するという、極めて閉鎖的な状況で、裕仁親王は育っている。初期には10名(後に一人が転出して9名)、それ以後になると学友は僅か5名しかないという閉鎖的な環境で、教育を施されていたことが分かる。授業は45分間授業をして休憩、昼食時は東宮へ帰り昼食をし、午後から授業に返ったというから基本的に現在の一般的な教育カリキュラムと似ているようにも見える。(この御学問所の構想と設置は、かの乃木希典に拠るもので、更に総裁は東郷平八郎が務めた。)

1917年秋、年齢は差し引き16歳、裕仁皇太子時代でしょうか、国語で15分程度のスピーチをしている。裕仁親王は、「劉備玄徳について」、「ハンニバルの人格について」、「ケエサルの人物について」(ケエサルとは【カエサル】のこと)等、どれも歴史上の人物をテーマに選んでおり、しかも、なかなかハイグレードな内容をスピーチしていたらしい節をうかがいしることができる。劉備玄徳って、三国志の劉備ですよね。面白そう。歴史好きは間違いがなかったようで、千ページを超える『世界大戦史』を土曜日に読み始めて、月曜日には読み終え、それを的確に批評してみせたので、東郷平八郎が驚嘆してしまった事があるともいう。

明治天皇の崩御は1912年7月で、それは裕仁親王が11歳のとき。明治天皇の崩御によって、大正天皇が即位し、エスカレーター式に裕仁親王は裕仁皇太子になっている。これ、11歳なんですね。皇太子になったので、自動的に陸海軍の少尉に任官したという。軍服も着るようになり、勲章も下げるようになったのですが、その姿を後の秩父宮が当時を回想して「おもちゃの兵隊のようであった」と残しているという。(11歳って…。)

で、この明治天皇崩御にあたっては、乃木希典が殉死している。裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼び、乃木の教えを真面目に守る少年で、乃木を慕っていた節があったという。明治天皇崩御後、乃木が裕仁親王に面会にやって来て、その後、乃木が切腹、殉死した。「乃木が相果てた」との報が、裕仁親王の元にも届くと、裕仁親王は両目に涙をたたえて、深く悲しんだという。このときの養育係の回想によれば、【殉死】、即ち、軍人が天皇崩御に際して自分も切腹してしまう慣習ですが、その事を、親王たちは御理解されていなかったと回想している。ひたすらに、「何故、乃木院長が死んでしまったのか?」と、裕仁親王、雍仁親王らを悲しませた、と。これも11歳のときの出来事だから、酷な話といえば酷な話に思えますかねぇ…。

そして、明治天皇の大喪が明けた10月、11歳の裕仁皇太子は雍仁親王、宣仁親王を同道、波多野東宮大夫らと一緒に、上野公園で開かれていた拓殖博覧会なる博覧会へ出掛けている。この博覧会は、北海道、樺太、台湾の動植物や特産品を展示する博覧会であったが、同時に原住民を原住民として、つまり、当時の言葉に直すと土人を土人として展示していた。その様子を当時の東京朝日新聞が報じているらしいのですが、裕仁皇太子は「生蕃(せいばん)の住まっている処は何の辺ですか?」と積極的に質問していたという。この「生蕃」とは、台湾原住民を指しており、つまり、生蕃やアイヌの住居様式などに興味を示された様子の描写なのですが、11歳の皇太子が『「土人等」に対しても丁寧な会釈をした為に、「蕃人共」が感涙した』と報じている。

(今にして読むと、面白いですよね。東京朝日新聞の記事が「土人等」とか「蕃人共」と差別的な表記であるのに対し、当の裕仁皇太子は彼等に対しても礼を失うことなく、丁寧な会釈をして、見学をした旨が分かる。)

大袈裟に受け止めれば、11歳の皇太子の行動は胸を打つ逸話ですよね…。総じて、こういう逸話を我々は、フィクションであるかのように処理してしまうところがある。しかし、どうも、そうした解釈こそが勘繰り過ぎであり、生々しいまでの筆致で昭和天皇の人間的な部分を掘り下げみると、確かに、同じような逸話が繰り返し発見することが出来てしまう。

ホントは、特筆すべきレベルの人間的な資質としては几帳面さ、生真面目さは突出していたよう。実際には人間的な葛藤や挫折も実は多かったのではないか、そして、その挙げ句に、「無私無為の天皇像」に到ったのであれば、昭和天皇は、その生き様だけで、かなり多くのものを象徴的に体現したようにも見えてしまう不思議がある。

1916年9月、裕仁皇太子は佐渡を行啓している。皮肉なことに佐渡は大雨となってしまった。しかし、大雨にも限らず、皇太子歓待に沸き、大勢の人たちが通りに出て、奉迎していた。それを知ると、裕仁皇太子は

「この雨の降るのも厭わず余を出迎えている」

と述べ、皇太子は人力車にかけてある幌を外すよう、指示したという。これが何を意味しているのかというと、大雨に打たれながら、人力車の中から人々に会釈をした15歳の裕仁皇太子の逸話だそうな。大雨に打たれながら沿道に集まっている人たちに向かって、一々、会釈をして応じ、その奉迎に答えた生真面目さ、やさしさを意味しているのだそうな。

裕仁皇太子の18歳の成年式が終わった1919年秋から1920年夏にかけての時期に、渡欧計画が持ち上がる。具体的に動いていたのは山縣有朋、松平正義、西園寺公望、原敬らであったという。大正天皇の皇太子時代にも「世界を見ておくことが御国の為でもあり、皇太子自身の為になる」という理屈があったが、大正天皇のケースでは西洋かぶれになってしまって困ることになるのではないかとの葛藤があって、結局は実施されなかった。しかし、後に昭和天皇となる裕仁皇太子の場合、元老や宮内官僚、更には皇族方の後押しもあり、渡欧が実現した。(貞明皇后とは婚約問題と、この渡欧問題とで、この時期から折り合いが悪くなり、母・貞明皇后を説得するのに苦慮したよう。)

かくして1921年3月から半年間かけての渡欧が始まる。御召列車で横浜へ向かい、横浜から御召艦「香取」で発つ。沖縄(那覇)、香港、シンガポール、コロンボ、カイロ(エジプト)と航行したという。

この渡欧では裕仁皇太子の供奉員(ぐぶいん)として、多くの宮内省職員や外交官らが同行していたが、この航海中に困惑する事態に陥った。それは皇太子が充分に西洋式マナーを身に付けていなかったことであったという。

この部分、現在だからこそ、そのギャップを微笑ましい逸話として受け止められると思うし、人間味の溢れる部分なので、引用します。

皇太子は音を立ててスープを飲み、スプーンが皿にあたる音が部屋に響き、ナイフやフォークの使い方も少々手荒く、肉を切る仕草も不器用だった。

ああ、やはり、そういう事は有り得ますよね(笑 なにしろ、日本の皇族ですし、なによりも非常に親近感を感じさせる話でもある。

しかし、この渡欧ではイギリスのロイヤル・ファミリーはじめ、ヨーロッパのセレブや著名な学者と会食の席も用意されていたのであり、イギリスはポーツマスに上陸するまでに何とか西洋式マナーを身に付ける必要性が生じたという。(裕仁皇太子だけではなく、一般供奉員らも西洋式マナーを身につけておらず、実はカイロを過ぎたあたりから猛特訓をしていたそうで、苦労があったそうな。)

また、航海中は開放的な空間であったらしく、供奉員の宮内省庶務課長、宮内省書記官は、皇太子に柔道の稽古をつけており、皇太子を投げ飛ばしている。これには少し説明が必要になりますが、裕仁皇太子の場合は学習院初等科を卒業後は、特別メニューの教育カリキュラムで東宮御学問所で高い教育を施されていたものの、御学友は僅か五名と非常に乏しく、且つ又、御学友らと相撲や戦争ごっこをする機会が多かったが、御学友らが故意に手加減をして相撲やトランプに負けるなどしているのではないかという懸念が囁かれていた。そのように御機嫌を取るのではなく、フェアプレー精神を皇太子に身に付けて欲しいというのが宮内省の意向としてあり、それが叶ったのが、この航海中であったという。従がって、航海中の裕仁皇太子は柔道着を着て投げ飛ばされたり、ポーカーやブリッジで負かされる事もあったようなのですが、実は、ここに裕仁皇太子、後の昭和天皇のの御人柄、その真骨頂がある。

それは注意をされても素直に受け入れるという《美質》であったという。非常に生真面目。非常に几帳面と表現されているものは、この《美質》に集約されている。

これは我々平民も知っていますよね。「食べ方が悪い」と指摘されれば、不貞腐れてしまい、「ほんじゃ、こんなゴハン、要らねーよっ!」となってしまうのが人間のサガなのであって。柔道にしても、ゲームにしても、ホントにワガママな人になると、負けると何もかもを否定しはじめたりする。幼児がゲームで負けて泣き出してしまうことがありますが、そういうワガママな態度の大人も少なくない。或る種、セレブ階級ともなれば、そうした意のままになる事を当然と捉えるようになってしまう事を懸念してしまうものですが、昭和天皇の御人柄とは、後に考えると符合しますが、割と淡白に「あ、そう」と返答するなど、無私無為であることが天皇が天皇たる理由であるという境地に到達していたかのようにも思えてくる。

また、昭和天皇は学究肌であると報じられてきましたが、その部分にも、この美質は影響しているようで、教授してもらった事は素直に受け入れ、それを守ろうとする真っ直ぐさとも関係していたよう。乃木大将に東郷元帥らが養育に携わっていたし、東宮御学問所で教えていたカリキュラムにしても、明治天皇を筆頭に山鹿素行、吉田松陰、ナポレオン、コロンブス、釈迦、ソクラテス、管仲、キリスト、ヒポクラテス、最澄、空海、親鸞、日蓮、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ベンサム、ミル、ポンソンビー、フィヒテ、老子、荘子、シェークスピア、ゲーテ、マホメット、マキャベリ、英皇太子エドワード8世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世等であったという。素直に受け入れ、また、それを潔癖すぎると一部で揶揄されるまで実直であった人間的側面が浮かび上がってくる。幼少期にはリンカーンが好きな少年であり、その後にも明治天皇を現人神と考えず、歴史学者の白鳥庫吉博士を尊敬していたらしいこと、後に粘菌の研究で功績を残していますが、明らかに学究肌のバックボーンとして、潔癖や美質という御人柄が介在しているようにも見えてくる。

帰国後、皇太子人気は爆発したという。横浜から東京までの沿道は人で埋め尽くされての国民からの歓待があったという。また渡欧を記録した活動写真を大阪で上映された。更に京都でも同様の活動写真の上映会が開催されたが実に約三万人もの人たちが集まり、急遽、上映回数を増やして対応したという。

裕仁皇太子の人気が高まったことで、原敬が1919年から検討していた摂政への就任にも目途が立ち、1921年11年、20歳で摂政となり、正式に大正天皇の代理となった。しかし、原敬は摂政設置の20日前に東京駅で暗殺されてしまっている。また、摂政となり、正式に天皇の代理となったが、貞明皇后との確執が水面下に残っており、そのことが間接的に作用して(母)貞明皇后が(弟)秩父宮を可愛がり、裕仁皇太子が孤立するという、複雑な人間関係が皇室にも形成されていたという。

1923年9月に関東大震災が発生。震災を考慮して、御成婚は翌年1924年に延期されている。皇太子妃となった良子(ながこ)女王、その人選には様々な思惑が絡んでいたとされ、また、貞明皇后との関係がこじれていた事も、御妃問題がネックになっていたという。貞明皇后が良子女王を敬遠した理由としては諸説あって、どれが真実なのか分かりませんが、皇后は九条家出身であるのに皇太子妃は皇族出身であるから貞明皇后が嫌った等とされる。或いは、皇太子妃の御性格が勝気な性格であるとされたり、或いは、身体検査によってお世継ぎに色覚異常の男子が生まれてしまう可能性うんぬんが指摘されたり、或いは、薩摩閥と長州閥の対立問題が絡んでいたり、おそらくは、それら複合的な要素が絡み合っていたよう。よって、摂政となって後も、天皇の代理は皇后なのか判然としない部分も残したという。

そして1926年12月、大正天皇が崩御。裕仁皇太子は25歳で践祚(せんそ)して天皇へ。(正式に即位したのは1928年。)

また、この頃の国勢、世界情勢は非常にキナ臭いものになっており、既に、ここまでの経緯でも原敬が暗殺され、急進派の軍人や右翼活動家の動向も緊張感を高めており、皇后に不満もあれば皇太子にも不満を抱くという、奇妙な右翼思想が高まりを見せ始めている。

この後というか、昭和初期というのは非常に緊張感の高い時代で、張作霖爆殺事件(1928年)、満州事変(1931年)、血盟団事件と五・一五事件(1932年)、国体明徴運動(1935年)、二・二六事件(1936年)などに繋がってゆく――。

1928年11月に即位大礼によって正式に即位。奉祝ムードに沸く中、12月15日、東京は二重橋前で実に八万人を集めた奉祝イベントがあったという。昭和天皇は、雨天の場合は臣民(参加者)には遠慮なく雨具を使用させるべきだとし、その上で、たとえ雨が降っても天幕は張るなと天皇自らが指示をしていたという。それは、自分が雨に打たれても天幕は不要であるの意で、かつて、15歳の時の佐渡行啓で大雨の中、人力車の幌を外した会釈した御人柄の顕れであり、慈しむ心からの純真な心遣いであったと思われる。しかし、時代はシビアな反応をしている。

当日は、北西の冷たい風を伴った大雨となった。即位したばかりの25歳の昭和天皇は天幕を取り外すように指示し、実際に天幕が取り払われた。すると陸軍の「世話本部」が騎乗兵を出し、参加者らに雨具の使用を控えるよう呼び掛けをした。青年(女子を含む)らはオーバーコートを脱ぎ、傘をたたんだ。昭和天皇自身は防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けた。

新聞が報じたところによると、冷たい雨の中、その式典は1時間20分にもおよび、寒さに打ち震えながら立っていた女子の一団に触れていたという。

つまり、冷たい雨の中、善かれと思って昭和天皇は天幕を取り払い、防水マントも脱ぎ捨てたワケですが、天皇がそうするのであれば参加者たちも雨具を使用するワケにはいかないという行き違いが生じた。美しい行き違いと解釈することもできますが、双方ともに冷たい雨に打たれながらの長い式典、それが昭和天皇の本意であったのかどうかは微妙。

冷たい風雨も気にならない快濶さなのか、それとも、やさしい気遣いが天皇から参加者たちに連鎖したのか、あるいは過剰な精神主義、或る種の狂気が台頭していたと考えるべきか…。昭和天皇自身も防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けたという。
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1926年12月、大正天皇の崩御によって践祚(せんそ)し、裕仁皇太子は25歳で実質的な即位をし、昭和天皇となる。

1920年から不況が続いており、1927年4月には関東大震災に絡んだ震災手形処理の問題が発生、手形を最も保有していた台湾銀行を救済する為に緊急措置をとる方針が立てられていたが枢密院が否決。台湾銀行は休業、更に宮内省の金庫を扱う十五銀行までもが休業し、預金の引き出しに人々が殺到する金融恐慌が起こっている。

その金融恐慌が原因となって若槻礼次郎内閣は辞職に追い込まれ、田中義一内閣が発足する。田中義一内閣は昭和天皇の側近とも言える元老・西園寺公望、信頼を寄せられていた牧野伸顕内大臣らの推挙を受けて、昭和天皇も承認して誕生した内閣であった。

しかし、その田中義一内閣と昭和天皇との相性は非常に悪かった。新内閣の発足から56日間で前例のない規模での人事異動を図った田中義一内閣は、党利党略を目論見したかのようにも映り、昭和天皇は若さからか積極的に注意を促す意向であった。西園寺や牧野を通して、田中義一首相に節度を失わないよう注意喚起をした。

「政治」と「天皇」との距離感は難しく、天皇は極力政治に関与すべきではないというのが現代の天皇論であり、その話は文藝春秋五月号でも宗教学者にして学習院名誉教授の山折哲雄氏が、「天皇制とは千年の昔から象徴天皇制であった」旨、明記している通りなので、明治以降というか近代に限って、天皇は政治権力との難しい距離間を取り合っていると解釈できる。非常に几帳面、徳治主義的、観念的な聖徳を是としていた20代半ばの昭和天皇にして、善かれと思っての行動であったとも思われるが、批判される箇所でもある。また、昭和天皇の側から思考すれば西園寺や牧野を通しての注意喚起であった。

しかし、官僚の人事異動に天皇が干渉するのは、中立としても微妙。また、これが天皇制のからくりでもあるのですが、天皇親政を掲げている右翼・国家主義者から昭和天皇は悪感情を抱かれるキッカケにもなったという。

この年の11月、倉富勇三郎枢密院議長の日記には、枢密院書記官長と交わした言葉が残ってるそうで、そこには「天皇はあまり意志は強くなく、秩父宮には何事も及ばないと聞いたことがあると述べた」旨の記述がある。極めて私的な日記の記述ではあるのですが、昭和初期の空気として、昭和天皇と、秩父宮との比較はかかせない気もする部分であったりもしますかねぇ。昭和天皇が一歳下の実弟である秩父宮にコンプレックスを抱いていたらしいという人間くさい話とも関係してくる。

昭和天皇はイギリスやアメリカ寄りであったのに対して、秩父宮はドイツ寄り。秩父宮は軍人とも知己があり、皇太子時代に皇太子妃問題以後、貞明皇后、このときには皇太后も秩父宮を可愛がることが多かったとされるから、若い天皇は、ひょっとしたら苦悩が多く、ここを抑えておくと後の二・二六事件に於ける昭和天皇が如何に優れた政治家であったかの理解にも役立つ。

(昨今の昭和天皇観にしても、あるいは昭和天皇独白録にしても、天皇御自らが表に立って政治力をふるったシーンというのは二・二六事件の鎮圧と、終戦を決定した御聖断の、たった2回しかないとされている。それを考慮すると感嘆してしまうんですよね。)

1928年6月、張作霖爆殺事件が発生する。

張作霖は馬族出身。元は地方商人の警備集団の隊長で、義和団事件の過程で中国清王朝の正規部隊に編入され、頭角を顕し、日露戦争時には日本軍とも関係を持った。清王朝滅亡後には袁世凱の指揮下に入り、その後も活躍をして東北全域を支配下に置いた。

袁世凱らは北洋軍閥と呼ばれ、中華民国北京政府期に中央政府と距離を置き独自の税制を設けるなどの利権集団を形成、政治に関与していた。北洋軍閥には安徽派と直隷派と奉天派があり、それぞれが争いを起こした。日本は奉天派と通じており、基本的には奉天派の張作霖を今後も利用するという方針にあった。

関東軍指令官・村岡中太郎中将(※)は、張作霖に対しての不審感を募らせており、満州を独立させようと画策したが、田中義一首相は武力行使を承認せず。それを受けて関東軍高級参謀・河本大作大佐が奉天の東京奉線と満鉄線のクロス地点のガード下に爆薬を仕掛け、張作霖を爆殺した。それは暴走、もしくは謀略であったが早期から関東軍の関与が噂された。

さて、『昭和天皇伝』を参考に昭和天皇サイドから張作霖爆殺事件を眺めると、翌7月か8月には西園寺公望、牧野伸顕にも内情が伝わっており、時間をおかずに昭和天皇にも情報が伝わった。

田中義一首相は陸軍大将であり、陸軍の有力者でもあった。また、張作霖(中華民国大元帥の肩書き)については今後も温存していく方針であったから、爆殺を起こした河本らの行動は田中義一内閣への反抗でもあったのが実状だった。その為、田中義一内閣にしても「日本人、それも関東軍が関与していた」という真相を把握したのは10月頃であるとされる。(爆殺事件は6月4日早暁だから、何が真相なのか把握するのに非常に時間がかかっており、且つ又、西園寺、牧野といった天皇側近の方が先に日本人の関与を疑っていたことになる。)

1928年12月末に田中義一首相が天皇に上奏。当初、爆殺事件は我が国の正義と陸軍の統制をも脅かした一大事であると受け止められており、犯人を軍法会議にかける旨の調整が西園寺・牧野という昭和天皇に近いラインと、田中義一首相との間で打ち合わせられており、その通り、田中義一首相も昭和天皇に言上した。新聞も「満州某重大事件」と報じ、一般の人々にも満州で何か重大なことが起こったらしいと伝わっていたという。

しかし、頭山満ら右翼が野党民政党に働きかけ、議会(第五十六回帝国議会)で、爆殺事件の内容は何ら明かされることはなかった。(野党の民政党が全く追求しなかったのだから、或る意味ではどうしようもない事態だったと考えることも出来る。この件、右翼史関連書で補足するなら、大正デモクラシーを経ており、政党政治そのものに期待されていたが早期から政党は財界やヤクザ、或いはヤクザと右翼の境界線も紛らわしく、そうした勢力と繋がってしまい、この民政党に対しては頭山満らが影響力を有していた。頭山はまだマシな部類の右翼であったかも。)

つまり、1928年12月には犯人を軍法会議にかけると田中義一は言上し、実際にその予定であったが、年が明けると事態が変わってしまい、右翼的世論の「内々に処理することが国益である」という風に陸軍内部でも意見が傾いた。或いは、それに抗えず、田中義一首相も犯人を軍法会議にかけるという当初の約束を破ることになった。

陸軍の総意として「国益に反することは出来ないが軍紀を正していきたい」とし、行政処分を課して事件の調査も打ち切りにすると田中義一内閣が方向転換をした。

しかし、真相が判明してみれば、張作霖爆殺事件とは軍紀を犯した日本軍人があり、また、それを隠蔽する者たちがあるという二重の不法行為を見逃すことにもなる。非常に生真面目、非常に几帳面、そして20代後半の昭和天皇にとって非常に不本意であったかのよう。

裏側としては2月に、田中義一首相が「一狂人(河本大佐)の仕事」に対し、「内閣が責任を取る必要はない」と天皇に言上。昭和天皇は呆れたらしく、即座に次の手を考えた。その奏上を受けた後、昭和天皇は内々に元連合艦隊司令長官にして侍従長であった鈴木貫太郎に、以下のように下問(相談)していた。

「もし、次に田中首相が陸軍軍人の関与の事実がないとして奏聞してきた場合、(朕自らが田中に)『責任を取るか云々』と反問してよいか?」

と尋ねていたという。昭和天皇の怒りはかなり強烈なものであったのが分かる。(天皇が直接、叱責するのは厳しすぎるのではないか等々、天皇の側近が諫め、西園寺や牧野が、やんわりと相手に注意をするのが通例であった。つまり、田中首相の次の態度次第によっては天皇自らが反問し、「責任を取れ」と迫ってもよいかと鈴木貫太郎に相談していたの意。)その下問を受けた鈴木貫太郎は、どうやら昭和天皇は田中義一首相を辞めさせたい意向であると知り、牧野内大臣に相談し、また、それは元老・西園寺の耳にも届いた。

西園寺は慎重で、首相の進退問題に天皇の御言葉が直接的に関与してしまう事は好ましくないと判断した。おそらく、この西園寺の考えも昭和天皇には達していたものと思われるが――。

かくして、爆殺事件から一年が経過した6月末、田中義一首相が天皇に上奏、天皇が田中義一を辞任に追い込む時が、やってくる。

1929年6月27日、田中義一首相が上奏した内容は「警備上の不行き届があったことを詫び、行政処分を課した」というもので、その裏には「これは天皇陛下への許諾をいただくものではなく、報告である」という主旨であったという。(上奏の前日、牧野、鈴木の前で田中首相はどのように言上するかを披露。それを牧野が日記に残している。)

田中義一が昭和天皇へ上奏。昭和天皇は田中義一を叱責。田中義一首相は辞任、内閣総辞職へと到った。この上奏シーン、一体、昭和天皇は田中義一に、どのように応じたのか、気になりますよね…。

牧野の日記や侍従らの回顧録が複数残っており、それによると、田中義一が言上した後、昭和天皇は《反問》されたという。

「昨年12月に上奏した内容と矛盾しているのではないか?」

と指摘。慌てた田中義一首相が説明をしようとしたが、昭和天皇は田中の話を聞くのを拒否した――という。

しかし、『昭和天皇独白録』によると、ホントは更に厳しいものであったことが分かる。

「(田中首相が)この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふことであつた。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいつた」

ホントは昭和天皇御自ら

「辞表を出してはどうか?」

と、冷淡に、強く、迫っていた可能性が高い。

この爆殺事件と田中義一首相への反問の逸話は、昭和天皇の几帳面さ、潔癖さと同時に天皇の正義感や「聖徳」を顕しているようにも見える。一方で、天皇が実際に政治に強く関与してしまっている意味で、天皇の在り方として好ましくはなかっただろうとされる。

実際、田中義一首相を若い天皇が叱責、そのまま辞任に追い込んだ事は、更に陸軍内部などで複雑な天皇観が形成されてゆく。【ブロック】という単語などが使用されたらしいのですが、宮中(天皇の側近)には君側の奸がおり陰謀を巡らせている旨の陰謀論が形成されていった。(宮中、君側に限らず、即位まもない若い天皇に対しての反発も密教的解釈の下、深部で形成されていたと思われる。つまり、天皇がダメなのは君側の奸が悪いのだというだけにとどまらず、一部の過激な国家主義者は君側ではなく、直球で「即位したばかりの新しい天皇は間違っている」というものもあったと思われるの意。)


さて、この張作霖爆殺事件と昭和天皇の話というのは、その眺め方、語り口にしても難しい問題ですが、基本的には昭和天皇が若さから政治に介入しすぎってしまった事例であっただろうと解説されることが多いよう。その意味では、西園寺公望の「首相の進退に天皇が直接的に関与してしまうのは好ましくない」が正答であったと考えられるという。一方で、昭和天皇を擁護する論者もある。張作霖爆殺事件は、我が国の名誉や正義が実際に絡んでいた事件であり、若き新天皇は気負いがあったとはいえ、天皇が天皇である為の徳治主義として振る舞った、その行動原理とは聖徳を示さんとして振る舞ったものだろうとも解釈できる。

この田中義一叱責については、戦後、昭和天皇御自らも自省的に回想しており、そうだからこそ、その後の昭和天皇が無私無為としての近代天皇像を築き挙げていったと考えられる。(また、当然ながら天皇機関説になる。)

現在もコンプライアンス問題などを企業が抱えており、且つ又、公官庁に対しての情報開示の問題などがありますが、張作霖爆殺事件の経緯は、何やら考えさせられてしまう部分もありますよね…。利益に適わないから隠蔽してしまうべきだという力学と、その損得を超越して運営すべきだという力学と…。

ドイツのテレビ番組に出演したスノーデン氏が、米国情報戦略の一部は産業スパイのようなものにも利用されていた旨の証言を数か月前にしていたそうで、また、それが水面下でアメリカの威信を低下させてしまっていたりもする。また、日本にしても昨年末に秘密保護法を巡って幾つかの保守メディアが安倍政権批判に転じている。真相を真相として明らかにすること、そういうフェアな態度というのは、現代社会では力学の中で圧し殺され、通じなくなりつつあるのかも…。

いやいや、佐村河内問題にしても小保方問題にしても、「真相を真相として語る」よりも、「真相は認めずに、徹底的に争うものだ」になってしまっているような、そういう感慨がある。そんな御時勢に、この聖徳を示さんが為に君臨している天皇、それを仰ぐ真っ直ぐな国民という在り方も、なんだか捨てがたいものだと感じてしまったりもする。

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1929年7月、田中義一内閣が終わり、浜口雄幸内閣となる。浜口雄幸は緊縮財政論者であり、人柄は謹厳実直。立憲民政党総裁で元大蔵官僚。

昭和天皇は浜口内閣の閣僚名簿を牧野に示し、「良い顔触れなり」と満足そうな表情を浮かべていたという。

浜口内閣の政策は金輸出解禁にあった。金と通貨の交換を可能とし、それを実現することで円の信用を厚くし、為替相場の安定を狙っていた。円と金とが交換できるのだから円の信用は保証されたことになり、当初こそ混乱を覚悟しなければならないが長い目で見れば、それは為替相場を安定させ、輸出によって貿易黒字国に転身できるというアイデアであった。(つまり、当時の日本は貿易赤字国だった。まぁ、ごくごく最近もそうなりましけど。)

新聞各紙の論調も浜口内閣の金輸出解禁に好意的で、浜口内閣への期待は期待として歓迎されていたかのよう。

緊縮財政を掲げていた浜口内閣の方針は、節約や質素を是とする昭和天皇の志向にかなっていたし、新聞各紙も緊縮財政を支持していたが、思いも寄らぬところで浜口内閣はつまづくことになる。

1929年10月19日、浜口内閣は官吏の俸給の一割削減するという政策を発表した。事前に天皇の内奏し、承認を得てからの発表であった。しかし、司法官らが全ての判事・検事の総辞職をちらつかせる猛反対をする事態になった。

官吏俸給の削減ができないとなれば天皇に対しての約束を守れないことにもなり、国家主義者からの圧力もかかることが予想できた。浜口内閣は、いきなり躓きかけた。しかし、ここで昭和天皇は鈴木貫太郎を通じて、浜口首相に助け船を出し、「減俸にかかる内奏の問題は問題にしていない」という意志を、財務大臣の私邸に海軍の系列の使者を出して伝え、問題を封じ込めることに成功した。

1929年10月24日、俗に言う「ブラック・マンデー」であり、米国ニューヨークで株式大暴落が発生。全ての資本主義国に経済恐慌であった。その僅か2日前の10月22日に、浜口内閣は減俸案撤回を決めていたが、日本経済も長引く不況に加えて世界恐慌の余波を覚悟し、且つ又、世界中が恐慌対策に奔走する端緒となっている。アメリカはニューディール政策を、イギリスはブロック経済政策を、日本、ドイツ、イタリアは準戦時体制とも言える持たざる国であるが故の政策に走ったとも言える。以後、日本も失業者が爆発的に増えてゆく。

また、1929年は政治絡みの疑獄事件が発覚しており、北海道鉄道疑獄、売勲疑獄、朝鮮疑獄、五私鉄疑獄と相次ぎ、大物政治家が逮捕された。東京市会では議員の半数が司直の手にかかったとされ、政治腐敗は極地に達している。(政党政治とは言うが、この頃、民政党は三菱財閥と癒着し、政友会は三井財閥と結託し、ヤクザをも取り込んで収集不能なレベルの政治腐敗にあった。)

浜口内閣はロンドン海軍軍縮会議に臨んだ。これは第一次大戦後に、軍縮の必要性が登場して既にワシントン海軍軍縮条約で、米英日の戦艦および航空母艦の保有比率を定めたもので、米英日はそれぞれ5:5:3、つまり、日本は戦艦と航空母艦は米英の6割しか保有できないという条約。それは戦艦と航空母艦についての取り決めであったから、ロンドン海軍軍縮会議では巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの保有比率を決めるという会議であった。浜口内閣では、7割の保有を確保できればよしと考え、会議に臨む方針になっていた。

1930年1月から3月までロンドン海軍軍縮会議が続けられる中で、紛糾を見せ始めた。おおよそ日本は目標の7割に近い数字を確保できたが、現有する潜水艦が多すぎると米英に迫られ、日本が譲歩しなければ会議そのものが決裂しかねないという状況になった。日本は既に総量7万8千5百トンの潜水艦を保有していたが、米英と同じ潜水艦総量5万2千7百トンという数字を迫った。ロンドン海軍軍縮会議の前に、巡洋艦や潜水艦の保有比率を決めようとしたジュネーブ軍縮会議は1927年に決裂して終わっており、ロンドン海軍軍縮会議も決裂となりうる可能性を持っていた。

浜口首相及び、海軍穏健派の岡田啓介大将は決裂は避けたいという意向であったのに対し、作戦・用兵に携わる海軍の軍令司令部は決裂も覚悟すべきであるという意向で、海軍内部でも意見が割れた。

3月27日、浜口首相が昭和天皇に言上すると、

「世界平和の為早くまとめるよう努力せよ」

という御言葉であったという。

しかし、問題は簡単ではなかった。明治天皇以来、天皇は公平でなければならず、一方の上奏だけを受け、また、それを承認するとなると慣例に反する。

3月31日、軍令部長の加藤寛治大将の上奏も行われることになる。加藤軍令部長が上奏を宮内省に打診したところ、鈴木貫太郎侍従長が上奏を翌日に延期して欲しいと伝え、上奏を阻止。

翌4月1日、鈴木侍従長に何かしらの作為があるのかも知れぬと疑った加藤大将は、鈴木侍従長とも仲のいい岡田啓介大将に上奏を依頼したが、この岡田も鈴木侍従長から上奏の延期を言われた。実質的な上奏阻止と思われた。

その2度の上奏延期・阻止のタイミングで浜口内閣は閣議で回訓案をまとめ、それをロンドンへ電送した。つまり、実質的に妥協派は「決裂も辞さず」という強硬派に上奏をさせず、そのままロンドン海軍軍縮会議を取りまとめた。4月22日にはフランス、イタリアも加わって軍縮条約が調印され、日本でも歓迎ムードで報じられた。

しかし、「どうやら上奏阻止があったらしい」という噂として海軍将校らの間に広がり、また、それが陸軍将校らの間にも広がった。上奏阻止は議会でも取り上げられ浜口内閣への攻撃が行われた。6月には中央新聞でも、鈴木侍従長による加藤軍令部長の上奏阻止があった旨の記事が掲載されたという。

7月に軍縮条約が批准されたが、天皇および鈴木、牧野らに対しての不満も高まりをみせた。

1930年11月14日、浜口首相が東京駅で右翼青年で狙撃されて重傷を負う。浜口首相は、このときの傷が原因で翌1931年4月に辞任。次いで若槻礼次郎内閣が発足する。

若槻内閣発足は4月であるが、3月に三月事件が起こっている。これは軍部革新新政権の樹立を目指したクーデター未遂事件。橋本欣五郎、影佐禎昭らが陸軍中堅将校らが結成した桜会というグループが、大川周明、岩田愛之助らと結び、議会をデモ隊で包囲、政友会本部、民政党本部を襲撃、首相官邸も襲撃し、更に陸軍が議場に入り、内閣を総辞職させ、宇垣一成陸軍大臣を総理にして、革新新政権の樹立を目指したものであった。しかし、実際には未遂に終わる。(ちなみに影佐禎昭は影佐機関の影佐であり、現在の自民党の谷垣禎一代議士の祖父である。)未遂に終わった理由は宇垣が消極的になった為であったという。

また、この1931年、大不況に加えて日本は大凶作に見舞われて農村は大打撃を受けた。特に北海道、東北地方は例年の半分の収穫しかなく、女郎屋には売られてきた娘が溢れていたと語られるような悲惨な状態であったという。

政府も予算編成が組めないような状況で、浜口内閣で頓挫した官吏の減俸に再び舵を切った。議会に諮っている時間的猶予がなく、勅命で減俸案を出すことになり、若槻首相は6月に天皇へ内奏。天皇は即答を避けて、牧野内大臣に下問したという。

その際、天皇は、「皇室費も一部削減するのは当然ではないか」と下問していたが、宮内省や西園寺公望の意向によって、結局は官吏俸給削減は実施されたが皇室費の削減は実施されなかった。

この6月、国民大衆党が旗揚げされている。総裁は笹川良一。メンバーには藤吉男ら。同じく6月に日本生産党が誕生しているが、日本生産党は黒龍会(頭山満、内田良平、葛生能久ら)の政治組織である。

1931年6月27日、満州でスパイ活動中の中村震太郎大尉ら一行が殺害される。8月になってから陸軍が公表。日本国内で反中感情が膨張する。内々に天皇に出兵要請があったが、どうやら昭和天皇は許可をしなかったと推測される。

9月、陸軍の一部で「今の陛下は凡庸で困る」などの陰口がきかれるようになっていたという証言(原田熊雄述)が確認できるそうで、陸軍の内部に、かなり緊迫した空気があったことが推し量れる。それを知ってか知らずか、昭和天皇は陸相と海相に軍紀維持について下問している。陸軍の統制が危険な状態にあることを察知していたものと考えられる。

そして、9月18日夜、関東軍高級参謀の板垣征四郎、石原莞爾による柳条湖事件(満州事変の発端)が起こる。柳条湖の満鉄線を爆破。関東軍司令官の本庄繁は中国側が日本に攻撃を仕掛けてきたという偽りの報告を信じて、関東軍に出撃を命じた。簡単に言えば参謀本部の石原莞爾によるスタンドプレー的な謀略で、関東軍のトップも事実を把握していなかったとされる。関東軍は張作霖を継いだ張学良の軍を追って満州に進軍した。

また、このとき関東軍は僅か一万しか無かったので、朝鮮に駐屯していた日本軍に関東軍から応援要請があった。朝鮮軍指令官の林銑十郎(中将)は朝鮮軍を満州へ向かわせた。しかし、この朝鮮軍(朝鮮に駐屯していた日本軍)が越境するには奉勅命令というプロセスが本来は必要であった。軍隊に国境を越えさせるには総理が内閣の合意を得て天皇に上奏し、次に参謀総長が上奏し、天皇から奉勅命令の許可をもらい、初めて奉勅命令が出せるという仕組みにいなっていた。(天皇の独断のみでも、軍の意向のみでも大規模な軍隊の越境は出来ないシステムであった。)

9月19日、陸軍参謀本部は混成旅団に国境を越えずに国境付近での待機を命じていた。奉勅命令が無かったからである。しかし、21日になると林朝鮮軍指令官が鴨緑江越えを命じており、とうとう奉勅命令もないままに越境をした。つまり、天皇の裁可のないまま朝鮮軍指令官は混成一個旅団を満州へと送り込んでしまった。

この独断越境は、天皇の統帥権を干犯した異常事態であった。先だって軍紀維持について下問したばかりであったが客観的事象を並べると、勝手に一参謀が謀略を打って、その後の関東軍や朝鮮軍が動いているのだから、勝手に雪崩込むようにして軍隊が動いてしまったというのが満州事変の実相に近いと思われる。

このとき30歳であった昭和天皇は不機嫌であったというが突発的に雪崩を打つようにして起こった事態に打つ手はなく(対応できず)、独断越境についても事後承認せざるを得なかったのが実相であると思われる。

(西園寺と鈴木は統帥大権干犯にも抵触する事態だから、もっと厳しく対応すべきとの意向であったがタイミング的に西園寺は京都に居り、昭和天皇と牧野も問責ぐらいはしたい意向を持っていたが、若槻礼次郎総理が陸軍に宥和的な態度を取ったこともあり、事後承認するという態度になった。)

9月22日には満州国建国に繋がる形で、関東軍が収集案を立てており、事変は拡大。

10月7日、南陸相は混成旅団の越境は【越権行為】ではなく満州の警備が手薄になった為の【果断】であると枢密院に説明した。
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1931年の満州事変にあたって、基本的に昭和天皇は満蒙を独立させようとする陸軍の姿勢に批判的であったとされる。しかし、10月9日には錦州(奉天と北京のあいだ)付近で張学良が軍隊を再組織されるならば事変の拡大もやむなしと参謀次長に述べるなど、拡大解釈すれば容認ともとれるような発言も残しているという。

(この部分、『昭和天皇伝』に沿えば、30歳の若き天皇にして「プレッシャーの前に混乱した」と表現されている。しかし、裏返してホントに満州事変時の状況で、天皇がどうにかすることがホントに可能であったのかという疑問も残りそう。歴史ですからね。)

独断越境、大権干犯とも取れる林朝鮮軍指令官の進退伺いの上奏が陸軍大臣から為されたが、天皇は処分らしい処分はしなかった。

つまり、天皇や天皇側近の意向、あるいは若槻礼次郎内閣の意向も、満州事変に懐疑的な意向を明確に持っていたが、事変への対応としては陸軍に敗れたという、そういう史観になる。

実際、当時の空気を伺いしる別の動きも、同年十月に十月事件として起こっている。参謀本部第二部ロシア班長の橋下欣五郎中佐らが軍事政権樹立を目指したクーデター計画を具体的に進めていた。直前になって陸軍首脳が察知し、憲兵隊に検束される形でクーデターは未遂で終わった。しかし、クーデター未遂事件が起こっている事が、もう、そういう機運であったことを示している。

三月事件に続いて十月事件と、共にクーデター未遂事件が起こっていた訳ですが、更に、この10月中旬頃から満州の関東軍が日本軍からの独立を画策しているという風聞が実際にあったという。10月18日、昭和天皇は白川義則大将(元陸相)を満州に派遣する裁可を出していたという。十月事件について南陸相が上奏すると、天皇は「満州は大丈夫か?」と下問したという。

(この三月事件、十月事件についてはクーデター未遂事件として調べることは容易ですが、関東軍が独立を画策しているという噂が流れ、実際に天皇が動いていたことは余り知られていませんよね…。ホントは収拾不能に近い状況だったとするのが実相に近かった気も。)

満州事変と、その対応。更に十月事件、更に関東軍独立の噂。それらが一挙に30歳の昭和天皇の身に降り懸かっていた。

10月24日には、国際批判も高まる中で、国際連合理事会では「日本軍の満州鉄道付属地からの撤兵を11月16日までに完了させる」旨の決議案の採決が行われた。可決には全会一致が条件であった為、13対1、つまり、日本だけが反対票を投じたから可決は免れたが、日本が国際社会の中で孤立する兆候が起こっていた。

天皇は精神状態を悪化させていたという。日をおかずに10月25日に天皇は上奏を受けたが、その時点で、天皇は列強が経済封鎖、あるいは開戦の可能性があるのではないかと心配していたという。(これは検証すれば分かりますが、かなり早い時期に天皇は「鋭い読み」をしていたことが分かる。)

情報を整理していても伝わってくる通り、とんでもない時期であり、この頃の昭和天皇は「精神状態の悪化」と呼ばれる状況に陥ったとされる。強いストレスがさらされていたであろうことは容易に察することができる上に、元々の性格として非常に几帳面と評された御人柄。おそらく陸軍に対しての不信感は、相当なものであったと推測できるし、自信も喪失されていた時期でもあるという。

また、このタイミングで昭和天皇と秩父宮が激論を戦わせていたと本庄繁の「本庄日記」には残されているという。開明的な立憲君主制論者であるが故に昭和天皇が悩んでいたので、秩父宮が天皇親政を説き、「必要となれば天皇は直接的に政治関与をし、なんだったら憲法停止を」というなどし、激論になっていたという。

苦しい状況下、幼年期には仲よくしていた秩父宮には支えて欲しいという気持ちがあった可能性があるが、皮肉にも秩父宮とは激論を交わすような関係性になっていたということのよう。(この兄弟間の対立は二・二六事件を意識すると、なんとも意味深長です。)

若槻内閣(第二次)も満州事変処理を巡って閣内で対立が起こり、12月12日に若槻首相は辞表を提出する。30歳の天皇から相談を受けていた齢82の元老・西園寺は、ほぼ天皇の意向と同じで、天皇の意向を良く理解していたが、ここで犬飼毅を後継総理としてピックアップ。天皇に犬飼内閣を推薦した。天皇は犬飼に「軍部が政治や外交に立ち入ったり押し入ることは憂慮すべき事態である」旨の意向を西園寺づてに伝え、犬飼内閣を託すことになった。犬飼も、よく承知していたとされる。

発足した犬飼内閣では、陸軍内で盛り上がっている満州国建国の動きを認めず、満州に中国の宗主権を残したまま日中で合作の新政権をたちあげるとした。しかし、軍部は納得せず、軍部は犬飼毅に対して反感を募らせた。

事変は拡大しており、年あけて1932年、1月3日に関東軍は錦州を占領。1月28日には上海事変が発生。2月5日には関東軍がハルピンなど要衝を占領、3月1日には満州国建国宣言がなされてる。

その満州国の建国宣言は天皇や内閣の承認もない状態で宣言されている。犬飼首相は西園寺と相談した上で、「満州国については簡単には承認しない」旨、天皇に上奏した。

同時並行で、天皇は上海事変の不拡大を模索し、ここでも白川義則大将(上海派遣軍指令官)に「不拡大」を命じていたという。白川はそのまま行動したようで、3月3日に停戦、5月5日に停戦協定締結として処理している。

寺崎英成に拠れば、天皇は白川の功績をたたえる御製(天皇のつくった和歌)が現存するという。白川の死後に御製がつくられ、白川未亡人に贈られたという。

をとめらの ひなまつる日に いくさをば

とどめしいさを おもひてにけり


歌は「(白川大将が)3月3日の雛祭りの日に停戦させた勲功を思い出す」という心情を詠んだ御製であった。(南方熊楠を詠んだ御製がある話は有名ですが、実は水面下で、こんなこともされていたというのが昭和天皇の実像のよう。)

さて、満州国建国の承認を巡る犬飼内閣の動向に戻りますが、犬飼の方針は右翼や陸軍の憤激を買った。

1932年2月、血盟団事件が発生する。日蓮宗の僧侶・井上日召(いのうえにっしょう)を首謀者とする右翼団体「血盟団」による暗殺事件で、2月9日に井上準之助前蔵相が小沼正にピストルで射殺される。3月5日には三井合名会社理事長にして財界の最高指導者であった団琢磨が菱沼五郎にピストルで射殺される。思想的リーダーであった井上日召は団琢磨暗殺後に自首、血盟団員14人は逮捕され、裁判に伏された。井上、小沼、菱沼は無期懲役となった。

この血盟団事件の刺客は、まるで時代劇に登場する虚無僧のような姿で、頭には編笠をかぶった団員らであった。思想として暗殺が正義にしてしまっている思想犯らしさが伝わる。また、犬飼毅首相をもターゲットにしていたとされる。元々、血盟団はロンドン条約(軍縮条約)などに端を発し、政治腐敗や経済不況から、財閥への憎悪に至り、政財界のトップを無差別で襲撃せんとするものであったという。(三菱、住友、安田、大倉などの財閥も狙われており、反資本主義の部分に実は右翼思想が見え隠れしている。)

血盟団事件に連動して、5月15日夕刻に五・一五事件が発生。海軍青年将校の三上卓、山岸宏、黒岩勇ら19名が首相官邸、内大臣官邸、民政党本部、警視庁、三菱銀行、日本銀行などを襲撃した。この際、農本思想右翼につながる橘孝三郎の愛郷塾生らが東京周辺の変電所を襲撃している。

五・一五事件では犬飼毅首相がピストルで撃たれ、同日夜に死去。天皇側近の牧野伸顕も襲撃されている。三菱銀行本店には手榴弾の投擲と発砲があり、さらには血盟団残党が決起に反対した青年将校・西田税の私宅を襲い、西田は瀕死の重傷を負った。

また、変電所を襲撃し、戒厳令を敷かせて…というプランは大川周明によるもので、その大川も懲役5年となっているが、このクーデター作戦は後の二・二六事件にも引き継がれている。

この五・一五事件を契機に政党政治は終焉する。陸軍から政党内閣を強く拒否する態度が起こった為であった。31歳の天皇は、クーデターにより総理が殺害され、政党内閣拒否という異常事態の中に置かれてしまっていた、と。
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五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された理由の一つとして、当時の内閣書記官長(現在の官房長官に相当)、森恪(もり・つとむ)の回想なるものがあるという。森の回想に拠れば、犬養は満州国独立に反対を唱え、具体的に閑院宮参謀総長に了解を得た後に天皇に上奏し、陛下の勅語を頂いて、その上で陸軍に「満州独立は承認できない」と働きかける算段であったという。つまり、具体的に行動しようとしていた犬養が狙われたという話のようにも思える。

また、ここで登場している閑院宮とは皇族であり陸軍元帥でもあった閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王を意味している。

現役の総理大臣職にあった犬養毅が暗殺されてしまった事で、次に元老・西園寺らによってピックアップされたのが海軍穏健派の斎藤実海軍大将(さいとうまこと/前朝鮮総督)であった。西園寺が独善的に人事権を握っていたかのようにも見えるが、実際には内々に昭和天皇のおおまかな意向を受けており、尚且つ、この際、西園寺は三日間に渡っての、政官界との面会なども行っている。実質的に裁いていたのは西園寺であるが、その上奏を受けて公正な調整役をしていたのが天皇であるという構図になっている。現在の民主主義の思考で捉えようとすると混乱してしまうものの、昭和天皇はじめ天皇側近の意向は、民主制や政党政治制に好意的に動いていたが、それが実質的な機能をせず、苦境に立たされてゆくのが分かる。

斎藤実を後継に選出するまでに、西園寺は以下の10名と面談を執り行い、後継内閣を下調べをしていたという。その10名とは高橋是清臨時首相、倉富枢密院議長、牧野内大臣(2回)、若槻礼次郎前首相、近衛文麿貴族院副議長、山本権兵衛元首相、清浦奎吾元首相、上原勇作元帥、荒木貞夫陸相、大角岑生(おおすみ・みねお)海相、東郷平八郎元帥。それら面談をした上で海軍穏健派の斎藤実を後継候補として昭和天皇に推挙している。選出方法からして、国家の危機とばかりに、文字通りの挙国一致内閣をつくる必要性に迫られていたかのよう。そして、誕生したのが斎藤実内閣であった。

斎藤実内閣には野党からも二名を組閣しており、実は、そこには政党制に復活すべきだという思惑が隠されていたが、その思惑は終戦まで叶わない。

挙国一致内閣として発足した斎藤内閣でも満州の情勢は収拾できず、1932年9月15日に内閣は満州国を承認することになった。つまり、済し崩し的な承認であった可能性が高い。更に10月1日にはリットン調査団によるリットン報告書が作成され、そのリットン報告書が国際連盟から日本へと同日、送付されている。リットン報告書は満州事変以前よりも満州に於ける日本の権益拡大を認める内容であったが、当時の有力各紙は強い論調でリットン報告書を批判した。既に、或る種のファシズム的な空気があったかのよう。

新聞の報道に西園寺は不快と感じていたという。昭和天皇にしても、実際にリットン報告書に目を通しており、その上で、外相には「報告書の内容はどうしようもないので、国際連盟で問題になったら円満に落着すべきである旨の希望である」と打診していたという。

この経緯は有名ですよね。松岡洋右が全権大使として国際連盟に臨み、結果的に日本は国際連盟を脱退する道を選択することになる。

国際連盟脱退には、もう一つ、熱河戦線の拡大も作用していたとさる。熱河とは満州は奉天の西にある熱河省で、熱河省を巡っては、張学良軍と関東軍との間で睨み合いが続いていたが、事変が拡大する中で日本による熱河侵攻作戦が採られていた。皮肉なことに、昭和天皇は陸軍への遠慮から熱河侵攻を裁可してしまっており、陸軍強硬派は既に裁可をもらっている作戦であると引く気はなく、昭和天皇は斎藤実首相を通して「内閣の承認が得られていないから熱河作戦は中止させることはできないか?」と打診している。

事情は複雑で、1933年2月4日、閑院宮から天皇は上奏を受け、熱河省に於いては長城の内側、河北省には侵入しないという条件が付けられていた事で、熱河作戦を許可してしまっていた。しかし、僅か4日後の2月8日に斎藤実首相から熱河作戦を実施すると国際連盟との絡みで不都合が生じるので「内閣としては承認しない」との上奏を天皇を受けることになった。国際的に孤立を見据え、暗に譲歩すべきではなかったという昭和天皇個人の後悔が見受けられる。(分かり難いので重複で説明すると、閑院宮に熱河作戦を認めてしまったが後に内閣からは承認しない旨の方針を聞かされ後悔したの意。ちなみに『昭和天皇伝』著者の伊藤之雄にして、昭和天皇が斎藤実の言葉を待たずして閑院宮に熱河作戦の了解をしてしまった事は、「昭和天皇の不注意な発言であった」と記されている。)

国際連盟については満州撤退が為されなければ国際連盟を除名される可能性が示唆させており、除名されるぐらいなら事前に脱退し、後に国際連盟を介さずに独自外交で米英列強や中国と話し合いをもち、満州問題を解決すればよいという思考に傾いていたとされる。

かくして2月24日、国際連盟に於ける日本の満州撤退を採決に当たって、日本陣営は反対票一票を投じて退席。3月27日に日本から国際連盟に対して脱退を通告。

この3月27日というのは、熱河作戦とも連動している。熱河省で中国側の反撃に遭い、満州軍は苦境に立たされており、同日、武藤信義関東軍司令官は河北省東北部への侵攻を命じている。丹念に並べてみると、河北省への侵攻は内閣はおろか、天皇の裁可も得ていないものであったことが分かる。

ごくごく近年の近代史、現代史として、「もし仮に戦争に没入することを防げたポイントは無かっただろうか?」という指摘が為されている。何故、あんなに風に暴走してしまったのか、と。単なる陸軍を中心とした人たちの暴走であったのか、それともファシズムと呼ぶべきものだったのかとか、或いは、昭和天皇の戦争責任を問う文脈というのも実際に存在している。ですが、実相に迫れば実相に迫るほど、天皇や天皇側近というのは基本的には「暴走をさせまい、食い止めないと大変なことになる」として苦悩していた痕跡を強く残していたことが明らかになってきている。
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不本意なままに国際連盟脱退という命運を採択したこの時期、昭和天皇は食事の量が減ってしまい、数ヶ月間で体重を7.5キロも減らすほど食を細めていたという。

国際連盟を脱退したのが1933年(昭和8年)の2月〜3月にかけては満州撤退問題と、それと連携して「日本の孤立=国際連盟脱退」が重なっているが、それは同時に新聞各紙の論調、国家主義的な流れが統治する側の論理と懸け離れ、統制のとれない困難な問題を突きつけていた。

体重を減らしていた事は昭和天皇の7歳下の弟、高松宮の日記に残されているという。その「高松宮日記」には、控え目ながら西園寺批判と、その西園寺を頼るばかりの昭和天皇への批判らしき「明治以来の老人によつて行き詰まってしまった」旨の記述があるという。

昭和天皇には1歳下に秩父宮、7歳下に高松宮があり、それぞれ皇位継承順位は2位、3位。秩父宮は陸軍に籍を置き、高松宮は海軍に籍を置いている。大元帥こそ天皇にあったが実状は、これまでにみてきたように、天皇による独裁体制ではまったくない。そればかりか、この時期には秩父宮、高松宮でさえ昭和天皇に批判的な立場をとっていたりする非常にナーバスな関係性と、重圧の中に32歳の昭和天皇が置かれているのが分かる。

皇位継承順という微妙な関係性があり、この1933年12月23日に長男として今上陛下である、幼称「継宮」名「明仁」親王が誕生している。

1934年春に帝国人造絹糸にまつわる疑獄事件、いわゆる帝人疑獄が発覚して政治は再び大混乱に陥り、7月には斎藤実内閣から岡田啓介内閣に変わっている。岡田啓介も斎藤実に継いで海軍穏健派であり、その人選には昭和天皇も非常に満足していたという。

1935年になると天皇機関説問題が発生。天皇機関説は学界や官界では通説であったが、この天皇機関説問題は非常に観念的で、「天皇を機関に例えるとは何事か!」という類いの大衆迎合的な怒りを憲法学者にぶつけている。ぶつけられたのは東京帝国大学名誉教授にして憲法学者、更に貴族員議員でもあった美濃部達吉らであった。怒りは直情的なポピュリズムという形で爆発し、国体明徴運動へ繋がってゆく。当の天皇の見解とは異なる現人神信仰を含むものであったが、その時代、それらは余り関係なかったらしい。「神を神とも思わぬ、けしからんヤツは誰だ?」という魔女狩り的な論争であり、ポピュリズムの典型にも思える。

岡田内閣では右翼主義者らを宥める意図で機関説を廃することとし、4月に美濃部の著書に発行禁止処分を課した。しかし、騒動は収まらず、8月に「国体明徴に関する声明」を発表。それでも騒動が収まらず、10月に「第二次国体明徴声明」を発表し、その騒動を鎮めた。

少し論考を加えますが「暴走」を決定づけたという意味では国体明徴声明の判断は重かったのではないか。非常に分かりやすいポピュリズムで、天皇主権論を掲げる者達が現人神という偶像を掲げて、当の天皇や天皇側近を窮地に追い込んでゆく結果につながっており、「けしからん」という感情が扇情的に在郷軍人会や右翼青年らに伝播し、美濃部ら学者を排撃することが正義であるかのような錯覚を生み出している。また、それが岡田内閣にして一歩引いて陸軍急進派を統制しようとして出した判断が裏目、裏目に作用し、皮肉にも二・二六事件の呼び水になっている。

そして1936年の2月26日の早朝、二・二六事件が発生する。青年将校らがクーデターを起こす。岡田啓介首相、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎警視総監、それと湯河原の旅館で静養中であった牧野伸顕前内大臣らが襲撃される。このうち、牧野は五・一五事件でも襲撃に遭っており、昭和天皇の極めて近い人物の一人であるのをはじめ、岡田啓介、斉藤実は共に海軍穏健派の出身で西園寺と昭和天皇が頼った人物らであり、鈴木貫太郎侍従長にしても海軍穏健派で斉藤実、岡田啓介に話を付けていた人物である。つまり、完全に昭和天皇の側近中の側近が狙われたというクーデターであったという一面がある。青年将校らは「君側の奸」が昭和天皇を悪いように操っているという風に考えていたと思われる。

しかし、それは昭和天皇からすれば文字通り、股肱の臣が襲撃された許しがたいクーデターであった。

昭和天皇から見た二・二六事件〜2012-12-26
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(二・二六事件がクライマックスなので、シリーズとして目を通していただいた方はぜひぜひ! 「昭和天皇と魔王・北一輝との対決であった」と考えると、日本近代史の中でもストーリー性としても抜群に面白い事件なんですけどね。)

二・二六事件というのは、秩父宮黒幕説などというのもフォークロア(都市伝説)として存在しており、実際、1936年2月の戒厳令下の状態では、かなりのデマが流布していたのだという。つまり、何が起こっているのか殆んど分からなかったというのが実相に近い可能性がある。岡田啓介首相の場合は天皇側近にしても首相即死と当初は考えられていたが後に義弟が射殺され首相は無事だったと判明した程で、情報の錯綜が著しかったよう。で、戒厳令下のデマの中には「秩父宮が軍隊を引き連れて、昭和天皇をやっつけるらしい」というデマも実際にあったかのよう。

なので土壇場で、秩父宮と高松宮とが駆けつけた際、昭和天皇はかなり元気づけられたというくだりの意味が強調される。



以下は、内容に附随しての「玉の論理」について。

北一輝著『国体論及び純正社会主義』(中公クラシックス)のまえがきで、保阪正康さんが語っている。繰り返し繰り返し、近代史を検証していたし、北一輝についても検証していたが、なかなか気付かなかったものがあるという。実際に農本主義を掲げて血盟団事件などを取材していく中で、「戦後民主主義に毒されているから、見えないのだ」と忠告を受けたが、なかなか玉論については一歩間違えると危険思想になるが故に話してくれず、後に気付いたという。

また、既に老齢を意識させるようになった田原総一朗さんにしても昨年、著した著書の中で、そこに踏み込んでいる。

ここは非常に簡単なのですが、それでいて気が付かないという、意外性が潜んでいる。それは何かというと、「玉」(ぎょく)の話です。明治維新が成功した理由は、正しくそれですよね。将棋の駒にも「王将」と「玉将」とがありますが、玉は、一つしかない。それは、本来的には玉は玉であり、かけがいのない「宝石」を意味するような言葉でもある。

また、日本の場合、おそらくは推古天皇の時代に「天皇」号を使用しはじめた時点で、そこには道教的な要素が入っており、「天」という発想それが道教的であるという解釈もなされる。中国では王朝が交代するのが天命であり、皇帝も姓名を変える政治制度で、それを易姓革命と呼んでいる。ところが日本史の中に存在する天皇制は最初から、その易姓革命の概念そのものが無いのだ。その非常に遠大な天という理念の中にいは「玉は一つしかない」のだ。為政者による王朝交替は起こっても天子たる天皇制に限っては易姓革命が起こりようが無いという、天皇制の天皇制たる核とはこれでしょう。

「勝てば官軍」とは、玉を手に入れれば「錦の御旗」を掲げられることですが、裏を返すと玉を掌中に納めさえすれば済んでしまうという、リスクをも内包している。それは仮に、玉を頂く権力者がゴロツキであろうと、或いは占領軍による占領政策であろうと、同じように作用する。つまり、「玉」は統治者からすれば非常に便利なのだ。裏を返せば天皇制の永続性の話とも符合し、如何なる権力者も天皇制を廃止するデメリットよりも利用するメリットを採択するという、権力者側の天皇論がある。

この部分というのは頭で理解できていそうで、それでいて多くの人たちが中々、気付かない部分なんですよね。この「玉の論理」については先に掲げた保阪正康さんだけではなく田原総一朗さんも昨年発刊した著書の中で「これまでにも取材してきたつもりであったが気付かなかった」と述べているほどで、熱烈な天皇信仰の意味を余り人間は疑わないものなんですよね。


また、松本健一さんも指摘しているように三島由紀夫はロマンチストで、それに根差した愛国者だったワケです。故に「天皇陛下万歳!」と叫んで自決したというのだけれど、その言葉の裏側には昭和天皇への憎悪がある。もっともっと、パーフェクトで、美しいまでの天皇、即ち「現人神であって欲しかった」というのが、そちらの系譜。

一方、北一輝はどうか? 北一輝こそが最初に「玉の論理」に気付いてしまった魔王であるワケですが、それに気付いたのは、明治維新がヒントであり、つまり、明治維新の維新軍にしてもゴロツキなようなものだと解釈すれば、北一輝の魔王と畏怖された鋭い分析力に、我々は怖れおののくことになる。その北一輝は二・二六事件の主謀者であるという事で、銃殺されている。

「天皇陛下万歳!」と叫んで刑場に及んだらしく、北一輝についても、それを促された。しかし、北一輝は一瞬の逡巡ののち、

「いや、私は止しておきましょう」

と述べて、「天皇陛下万歳!」という最期の雄叫びをしなかったという。

北一輝の愛国心はニセモノだったと疑うことも出来ますが、そこで、それを拒否している事は、これまた非常に複雑ですが、私には或る種の「尊崇と贖罪」とが一緒に組み合わさった感情であったように見える。つまり、「オレが正しいのだ! 昭和天皇が間違っている」という境地ではなく、「我が意は天皇に届いていなかった。私に天皇陛下万歳と唱和する資格はない」という感慨からの、辞退であっただろうと思う。

田原総一朗さんは鋭くて、「何故、北一輝は軍隊を動かすことに成功したのに、皇居を占拠しなかったのか? 皇居を占拠していたら北一輝のクーデターは成功したんじゃないの?」という部分に触れている。その先は謎だとしかいいようがないのですが、おそらく、そこがポイントで、北一輝にしても、そんな冷徹な詰将棋みたいな理屈は分かり切っていたが、心の片隅では、持論に自信があったし、昭和天皇を単なる玉であろうとみくびっていたというのが深層であるように思いましたかね…。

裏を返すと、昭和天皇は非常にしっかりとした人物であり、ホントに政治的決断らしい決断を成した人物ではないか、となる。政治的決断を余りしないのが天皇というものであったが、天皇がデバッてでも政治的決断をしなければならないタイミングでホントに政治的決断をしてみせたようにも見えるんですよね。私も、天皇機関説と二・二六事件に於ける昭和天皇の振る舞いを通じて、「ああ、ホントに開明的な考え方をされていたのだな」と感じた一人なのですが、松本健一さんの分析でも、やはり、畏るべきレベルの昭和天皇だと述べている。神ではないが、だからこそ、驚愕に価するのではないか、と。中曽根康弘が昭和天皇を評して歴代天皇の中でも傑出した天皇であったと回想しているのは、中曽根サンであるが故に割り引きが必要ですが、松本健一さんなどはまだ40代の研究者ですからね…。(北一輝についての印象には少し差異があるかも知れませんが…)

ちなみに、「天皇制の二重構造」というべきか、その「玉の論理」については、『畏るべき昭和天皇』の著者である松本健一さんにしても、或いは「逆説の日本史」の井沢元彦さんにしても、孝明天皇は毒殺されたのではないかという、暗殺説を肯定的に捉えているよう。尊王思想と攘夷思想とが組み合わさって尊王攘夷になったものが、実際に政権を手に入れてみたら攘夷ではなく開国へ。孝明天皇は攘夷思想を強烈に有していた節もあり、色々と面倒だったので岩倉具視あたりが暗殺してしまったようだという歴史研究家の意見って結構多いんですよね。為政者が利用する何か。
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二・二六事件の後に岡田内閣は総辞職し、後継内閣が模索される。一木喜徳郎枢密院議長は右翼からも期待をされている平沼騏一郎を推薦し、元老の西園寺公望は秀才で広く人気のある近衛文麿公爵(貴族院議長)を推薦したという。実際に近衛に首相を打診したが近衛は辞退。

近衛の辞退を受けて、次に白羽の矢が立てられたのは広田弘毅であった。広田内閣が発足することになるが、広田内閣は陸軍の意向にかなわなかったらしく、陸相と外相の人事で苦慮があったとされる。広田弘毅は外務次官の吉田茂を外相として迎えたがったが、吉田茂の妻の父は牧野伸顕であったことから吉田茂外相就任には陸軍から抵抗があったらしく、広田内閣は1936年3月に吉田茂を組閣できぬ形で発足。

(このときも右翼から推されている平沼騏一郎への首相打診は見送られたが、一木が枢密院議長を辞し、そのポストへ平沼がスライド昇進している。この裏事情としては昭和天皇、西園寺が二・二六事件以降も陸軍や右翼に警戒心を抱いていたが故の人事であったと推測される。)

広田内閣も国内的には粛軍を進めたが、中国の駐屯する現地軍への統制はできず終いとなり、短命政権で終わる。一年間も持たずに、1937年1月に閣内不一致による総辞職で終演する。論者によっては「広田はリーダーシップを発揮できず、軍部の膨張を抑えきれなかった」とも評されている。

広田弘毅内閣の後継としては宇垣一成(うがきかずしげ)の名前が挙がった。宇垣一成は皇道派に分類され、クーデター未遂事件に終わった三月事件ではクーデター軍によって首相に担がれる予定であった人物でもある。

宇垣は財界、政党、それと世論も宇垣を歓迎していた。また、宇垣の場合は昭和天皇から大命を賜る際、深夜の参内になってしまったが昭和天皇がこれを許した経緯があり、宇垣自身も感激し、そのまま宇垣内閣が誕生するかに思えたが、陸軍がこれまた宇垣を歓迎せず、陸軍大臣ポストを巡って圧力をかけた。誰も陸相に就任しないという手法で、それに対して昭和天皇サイドでも特例措置として陸相ポスト問題を解決すべく、「優詔」(ゆうしょう)という特例措置を以て宇垣内閣を誕生させようという動きを見せたが、特例措置で宇垣内閣を成立させたところで陸軍の不満は抑え切れぬとみて、宇垣内閣構想は構想のままで終わる。

後継選びは困難な状況になっており、平沼騏一郎に打診するが平沼が辞退し、平沼の次に打診した林銑十郎が首相となった。平沼、林ともに陸軍が推していた人選であり、実質的に人事でも陸軍を抑えることができなくなってきた状況であったと推測できる。元老・西園寺は、後継首相推薦の天皇からの下問を辞退したいと漏らすほどになっていたという。

この林銑十郎は、満州事変の際、朝鮮駐屯軍を独断で動かした司令官で、昭和天皇はじめ天皇側近を怒らせた人物である。そのことからも天皇及び天皇側近による人事主導は崩れていることが分かる。

1937年2月2日に林内閣が発足、同年4月、奇策として抜き打ち解散。林は二大政党に打撃を与えて一挙に親軍与党体制をつくろうと画策したが、4月30日に行われた解散総選挙では二大政党が全議席の75%を占める圧勝、親軍与党は大惨敗を喫した。殆ど意味不明に近い林銑十郎は早々に辞意表明し、わずか4ヶ月間という超短命政権で終焉。

実現しなかった宇垣一成が財界や政党、世論としても人気があったのは、挙国一致内閣の必要性が説かれていた為でインフレなども重なり、困窮する人々、また財界も政党も宇垣や近衛に支持が集まっていたかのように推測できそう。一方、陸軍の強硬姿勢が政治を迷走させているようにも見えますかね。陸軍にしても中国情勢が抜き差しならないものになっていたとも言えるようですが。

議席の大量確保に成功した二大政党は挙国一致内閣として近衛文麿待望論が強く、財界にしても、そして何よりも昭和天皇も品性と秀才とを兼ね備えた近衛文麿を熱望していた節がある。近衛内閣の発足こそが悲願であったかのような近衛文麿内閣(第一次)が発足する。



近年、近衛文麿評はさんざんなものになっています。『昭和天皇伝』でも、近衛文麿は秀才であったという認識に立っているものの、西園寺にしても昭和天皇にしても近衛文麿という人物を見抜けなかったのではないかと著者によって綴られている。『昭和天皇伝』では近衛の人物評として、自らの政治方針であるとか理念などが欠如していたかのような記述になっている。誰に対してもウケがよく、全方位型の人気を誇った人物で、その理念の欠如した人物という近衛の本性を見破るのは難しかったであろう旨の説明がなされている。

以前にも、やはり2008年頃の文藝春秋をテーマにした「近衛文麿とポピュリズム」に触れているのですが、それ以外でも近衛評はさんざんのよう。確かに決定打となるような、国家総動員法の成立に関わった人物で、挙国一致内閣、人々が熱望して登場した内閣であったハズが、実質的には日本に於けるファシズムの引き金を引いてしまっている上に、逃れようのない戦線拡大の道を選んでしまったかのような、そういう役回りを歴史の中で負ったのが近衛であったように眺めるのが客観的な考察なのかも知れません。

まず家柄がよろしい。五摂家に数えらえる近衛家の出自で学歴も抜群、1918年(大正7年)に27歳にして発表した米英の帝国主義を批判するような論文が広く高く評価された秀才。まるで「彗星のように表れた」という表現もあり、もしかしたら英雄待望論のようなカリスマ性を帯びていたのではないかなんて想像してしまう。右派にも好かれ、左派からも嫌われないというスバらしいポジション。その後も論客として活躍し、元老の西園寺からの信用も厚く、ベルサイユ条約の大使を任され、貴族院議員としても高評価を得ていた。論調は米英に批判的で、ドイツに同情的であったというから、昭和天皇の米英びいきとは異なり、秩父宮寄りであったようにも推測できますかね。いや、もしかしたら当時を鑑みると、そこそこ、中立的なものであったのかも知れない。しかし、何故か近衛文麿は失敗に失敗を重ねてゆく。

うーん、ごくごく近年、鳩山由紀夫という総理大臣が在りましたよね。当ブログでは【ルーピー】を連発させていただいた総理大臣でした。「クルクルパー」と表現したら失礼ですが、途中からホントに鳩山内閣は何が何だか理解不能な状況に陥りましたよね。スタンフォード大学院卒で、紛れもなく秀才であり、単純な学歴比較で語るなら、鳩山由紀夫氏は日本政治史上で最も高学歴の総理大臣であった。ところが発足から間もなく、「おいおい、この総理はホントに理解不能ではないのか? ホントにルーピーというネーミングはピッタリだ」という状況がホントに起こった。その鳩山評も、実は、目の前に居る相手に対しては、ベストの答弁をしてしまうが、全体像をみるビジョンを通す胆力が無かったと評されましたよね。似ているのかどうかは知りませんが、近衛も目の前にいる相手によって答弁が異なり、それ故に誰からも好かれる八方美人タイプであったようにも読めますかねぇ。家柄がよろしく高学歴で財界やマスコミからも人気があったという輪郭のようなものは文字にしてみると似ているのですが、まぁ、この部分、仔細は分かりませんが、輪郭は似ている。
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第一次近衛近衛内閣の発足と前後して、戦争拡大の不安が広がっていたという。実は昭和天皇は裏では蒋介石と妥協するして衝突を避ける方法を思案し、次のような動きをしていたという。

陸相の杉山元(すぎやまげん)と閑院宮参謀総長とを呼び、陸軍の意向が同じであれば、近衛首相にも蒋介石と妥協する道を話そうとしていたという。なぜなら「天津や北京で事件を起こせば必ず英・米の干渉がひどくなり、英・米と日本が衝突する恐れがあると思ったからである」という思惑があったという。(昭和天皇独白録による。)

少し補足すると、かなり早い時期から英・米と衝突することを懸念しており、満州事変の際にも気を揉んでいたが、この頃になると満州はともかくとして、華北(中国本土)で事件を起こせば、かなりの高確率でイギリスやアメリカの干渉にさらされ、下手をすれば衝突することになるだろうと見通していたことになる。(現在、これを検証すると或る意味で昭和天皇の国際情勢を眺める視点は、あなどりがたいハイセンスであったことも分かる。)

しかし、杉山と閑院宮は陸軍の意向は「一撃屈服論」であった。天津で一撃を加えれば、すぐに事態は収拾するという考え方であったので、昭和天皇は遺憾ながら妥協論を口にする機会を失ってしまった。当時、陸軍内では一撃屈服論が優勢で、中国軍が精強にならないうちに一撃を与えて日本に服従させるべしという空気が強まっていた。それを苦慮したが、昭和天皇は現実問題として捉え、不本意ながら現状に追随したと考えられるという。

1937年7月7日、北京南西郊の廬溝橋付近で、演習中だった支那駐屯軍歩兵第一連隊(一木大隊の中隊)に対して数発の実弾射撃があり、兵士一名が行方不明になったことに端を発する廬溝橋事件が発生。そのまま日中戦争の発端になった。

ちなみに張作霖爆殺事件については日本側の陰謀に見せかけた事件であったと内閣も調査で真相を知っていたし、天皇及び天皇側近はそれよりも早い段階で真相を知り、内閣総辞職にまで追い込んだが、廬溝橋事件について昭和天皇の見解はというと、「支那から仕掛けたとは思わぬ、つまらぬ争から起こつたものと思ふ」と昭和天皇独白録に残している。

昭和天皇はどこまで把握していたのか、未だ両論ある問題ながら、行方不明になっていた兵士一名は、その後に隊に帰隊している。しかし、数発、あるいは十数発の発砲があったのは事実であったらしく、現地指揮官が威嚇してやろうと中国軍に発砲、その小競り合いが廬溝橋事件の真相として有力視されているという。或る意味で、昭和天皇独白録は非常に的を射た見解になっている。

7月21日、昭和天皇は伏見宮軍令部総長に

「支那のことは大きくならなければよいが」

「困ったもの」


との考えを示し、8月12日にも侍従武官に

「もう、こうなつたら止むを得んだらうな。軍令部もそう思つてやつているのだらう。斯くなりては外交にて収むることはむづかしい」

等と語ったと「嶋田繁太郎大将無表題備忘録」には記録されているという。

昭和天皇が侍従武官にそんな胸中を語った翌日となる8月13日、日本軍と中国軍とが上海で衝突し、第二次上海事変が発生。戦火は中国中部にまで波及するものになった。不思議なもので、昭和天皇の「外交による戦況拡大阻止」への諦めとも思える本音が漏れた時期と同時並行するように上海事変が起こっている。

しかし昭和天皇は逃れられない身分でもあり、引き続き事態収拾に向けても動いている。第一次上海事変の際にも速やかに事態を収拾するよう上海派遣軍司令官であった白川義則に勅語を出し、また白川の功績をたたえて「ひなまつり」の御製をつくっていたが、この第二次上海事変でも上海派遣軍司令官の松井石根に勅語を出している。勅語は、そんなに出されていないことからして、昭和天皇が如何に上海での事件を危惧していたかがうかがい知る材料にもなりそう。

松井に下った勅語とは、

「速やかに敵軍を戡定(カンテイ)し、皇室の武威を中外に顕揚するように」

であった。カンテイとは、勝利して乱を鎮めるの意。

外交による解決は困難になったという認識から、この時期の昭和天皇は「威嚇と平和論」という二元構成の思考になっている。武威を示して早期に解決する場合の常套戦法であり、矛盾していない。徹底した平和論とは異なり、武威を示す以上、状況悪化のリスクは拡大したと言えるが、最終目的は早期の解決に置かれている。


【威嚇】と【平和論】との二元構成は、すなわち最小限度の武威を示して和平せよという主旨から成っていて、それについても、独白録で語れている。

「私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛同するが、陸軍省は反対する。多分、軍務局であらう。妥協の機会をここでも取り逃がした」

論者によっては昭和天皇独白録とは昭和天皇が戦犯から逃れる目的で作成された自己保身の為に語った内容であるとされてきた訳ですが、色々と照応してしまうと、そちらの懐疑論は見直しが必要でしょう。辻褄合わせをしようとしても出来るレベルの話ではないように思える。

「昭和天皇発言記録集成」には、この1937年9月10日、杉山元(すぎやまげん)陸相に対して、

「陸軍が部下の統制が取れているというなら、陸相が自ら領土的野心はないことをはっきりと述べたらどうか」

と発言していたと記されているという。確かに、どうしようもないレベルで昭和天皇が戦争不拡大論者であったのが分かる。

しかし、大きな誤算があった。昭和天皇は侍従らの証言によると、やはり近衛文麿には非常に気を許して接するなど信頼を寄せていたようだという証言が複数あるという。しかし、そんな昭和天皇の期待をよそに戦況が拡大していく中で、近衛内閣は何故か「早期に解決すること」、「戦火を拡大させないこと」といった基本理念を失い、国民政府軍(蒋介石)に対しての和平交渉の打ち切り声明をする。まるで時代の空気に飲み込まれてしまったかのような、戦線拡大、ファシズム方向へと向かってしまう。

近衛文麿は内閣発足当初は不拡大方針を取ったが軍部を抑えきることができず戦火を拡大させていた。日独防共協定のよしみによって、駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介役とするトラウトマン和平工作で和平を模索していたが不調で、それを打ち切って1938年1月には第一次近衛声明を出していた。

近衛文麿は昭和天皇に本音らしいものを漏らしたいたという。1938年3月末、近衛は昭和天皇に次のように漏らしていたという。

「どうもまるで自分のやうのものはマネキンガールのやうなもので、何にも知らされないで引張つて行かれるのでございますから、どうも困つたもので、誠に申訳ない次第でございます」

昭和天皇は近衛を激励したという。一方で西園寺は近衛への失望を隠さなかったという。確かに、軍部を抑え切れていないとか押し切られしまったかのような、リーダーシップらしいものを発揮できなかったというか、近衛の弱い一面が現れているようにも見える。あるいは状況が状況であるだけに何人たりともリーダーシップなんてものを発揮できる状況にあったのかどうかという検証は不可能ですが。

そして1938年4月に国家総動員法を公布、5月に施行。これは職業選択の自由や財産の売買に制約を加え、長期化する戦争体制に備える統制目的で、戦時統制経済の推進であったとされる。5月末には不拡大を託して陸軍の反対を押し切って宇垣一成を外相に就任させるなどもしたが宇垣も成果を上げられず9月末に宇垣は辞任する。

7月11日、朝鮮・満州国とソビエト連邦との国境にある張鼓峰(ちょうこほう)にて、日本軍とソ連軍との間で国境で衝突事件が発生。日独防共協定の締結がソ連の対日硬化を招いていた延長上にあり、ソ連軍が張鼓峰頂上を占拠して陣地を作り始めた為、それをソ連による日中戦争への介入なのか意志を確かめる為に偵察し、国境侵犯と捉えた関東軍が攻撃。

この張鼓峰事件の舞台裏は昭和天皇を激怒させるものであった。板垣征四郎陸相と閑院宮参謀総長が拝謁し、武力行使の裁可を願い出た。しかし、昭和天皇は激怒して裁可しなかった。

より深い事情があったと「昭和天皇伝」は綴っている。板垣陸相と閑院宮は武力行使の裁可を得る為に、武力行使には宇垣一成外相と米内光政海相も賛成しているから裁可を願う旨、申し出たが、実は昭和天皇は宇垣外相と米内海相の意見を既に知っていた。外相と海相は兵士配備には賛成しているが武力行使には反対していた。

つまり、7月21日に板垣、閑院宮の拝謁があり、その席で両名は武力行使の裁可を得たいが為に「外相も海相も武力行使に賛成している」と述べたが、それ嘘であり、嘘であることも昭和天皇に見破られていたのだ。その際、昭和天皇は多少興奮した面持ちで、叱りとばしたとされる。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の場合の柳条湖の場合といひ、今回の最初の廬溝橋のやり方といひ、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじき卑劣な方法を用ひるやうなことがしばしばある」

そして板垣陸相に向かって

「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことならん」

と、強い語気で窘めたという。

両名は辞表を提出する意向を固めたが、近衛文麿が間に入り、結果としては板垣と閑院宮に職務を続けさせた。(昭和天皇も近衛の仲介を受け入れたの意)

張鼓峰は7月29日から日ソが武力衝突へ。天皇の裁可なしのまま朝鮮第19師団が独断でソ連を攻撃して一時的に張鼓峰を占領したが、ソ連の機械化部隊の反撃に遭い、実質的には敗北に近い形での停戦協定になっている。

10月21日、日本軍が広東を占領。

10月29日、日本軍が武漢三鎮を占領。

この10月下旬、近衛文麿は辞意について語り出していたとされる。国民政府軍の要衝を占領したことで和平がなると期待されていたが、和平の目途は立たず。近衛自身は辞意を固めながらも、今しばらく近衛内閣が存続する。

近衛内閣は11月に第二次近衛声明を出し、「東亜新秩序建設」を発表。

翌12月には第三次近衛声明を出した。これは国民政府の要人であった汪兆銘に対して、親日政権をつくらせる手を打った。第三次近衛声明は、その汪兆銘の新政府への三原則であったことから、第三次声明は近衛三原則とも呼ばれる。「善隣友好、共同防共、経済提携」の三原則を掲げた。しかし、内容は満州国の承認と、防共の為の駐兵を要求しておきながら撤兵については触れていないものだった。

1940年1月4日に第一次近衛内閣が終わる。


盧溝橋事件発生後、昭和天皇は周囲への配慮からゴルフとテニスを自粛していた。(乗馬は続けていた。)土曜日には生物学の研究をされていたが、生物学の研究についても陸軍侍従武官の中から「この非常時に陛下が生物学をしている場合ではないのではないか?」とウワサが立っていることが昭和天皇の耳にも達し、昭和天皇は余暇ともライフワークともいえた生物学研究所へ足を運ぶことも辞めるようになってしまったという。昭和天皇は、1938年2月頃から体調も崩していたが、かといって静養を取る事に「非常時の天皇の行動としてどうか?」と悪評が立つことを気にされ、静養も取られなかったという。

天皇はピラミッドの頂点に君臨してるという図式の誤まりが分かりますよね。どこか日本の天皇というのは籠の中の鳥であるかのような、そういう側面を持っている。体調を崩していても静養をとることが憂慮され、戦況が悪くなれば余暇をも自粛するという行動様式であったのが分かる。

一方、陸軍大将でもあった皇族の東久邇宮は毎週日曜のゴルフ、平日のゴルフ練習も敗戦まで継続されていたことと対比することができるという。世間の目は、皇族の中でも特に「天皇」という頂点へ注がれ、その天皇には強烈な重圧がかかっていたのが分かる。

几帳面な昭和天皇は実は酒もタバコもやらず新聞を隅から隅まで目を通してから就寝するというタイプの御人柄であったという。就寝前に新聞を読む習慣を持っており、電灯が消えたら新聞を読み終わって就寝したという風に従者らは認識されていた。しかし、陸軍将校らの間では根拠もないまま「夜遅くまで電灯がついていて、そこでは火急の事態だというのに天皇と皇后がマージャンをしていたらしい」等のデマが出回るなどしていたという。昭和天皇への風当たりは二・二六事件以前から強まっていた事がうかがえる。
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1939年1月5日、近衛文麿の辞任を受けて平沼騏一郎内閣へ。この平沼内閣も挙国一致内閣という性格を引き継いだが、一撃屈服論の読み誤りで、日中戦争は停戦・終結に持ち込めず、日本を取り巻く情勢は厳しくなっていたという。防共協定を構えたが、ソビエトへの対処もしなければならない。

戦争が終わらない事には世論からも不満の声が上がっていたが、その為に日本は何処と同盟を組むのかという問題へ波及してゆく。秩父宮と陸軍はドイツ(ナチスドイツ)との日独伊同盟を主張し、昭和天皇伝に拠れば平沼はソ連を同盟候補とし、陸軍軍務局となるとソ連及び英米を候補とするなど主張していたという。

現在、検証してみてもグダグダなのが分かるところですが既に第一次近衛内閣が三国防共協定を強化する方針を決定しており、限りなく日独伊同盟の布石は打ってしまってある状況下での話。日本の苦慮の痕跡が生々しい。

ただし、この状況さえも一考あり、国際連合を脱退してまた後に復帰すればいいという選択をしてきた事、長引く日中戦争を停戦させるには一撃屈服、ちょっと武威を示してやれば停戦に持ち込めるとした楽観論が招いた筋道であり昭和天皇の時々の意向とは異なる選択を重ねていたのは覆しようのない事実のよう。

昭和天皇はというと、二歳下の弟である秩父宮と激しく衝突していた。秩父宮は週に3度も天皇の元へ来ては日独伊同盟を勧めた。昭和天皇は直接、秩父宮に対して、その意見を却下することを憂慮し、迂回して返答を試みるが、新総理の平沼は日独伊同盟に賛成の態度であったので、苦慮していたという。

また、宇佐美興屋(おきいえ)侍従武官が拝謁している際に、昭和天皇が興奮して大きな声で

「壬申の乱のようなことになる」

と言ったという。(岡部長章の『ある侍従の回想記』)

壬申の乱とは、7世紀の大海人皇子と大友皇子とが皇位を巡って争った内乱のことで、これは昭和天皇が秩父宮によるクーデターを心配し、思わず興奮して、声を荒らげた言葉であったと思われる。

1939年5月11日、ノモンハン事件が発生。満州西北部にあり外モンゴルとの国境地帯で、国境が曖昧なエリアであった為に紛争が起こりやすい場所であったが、そこで満州国警備隊と外モンゴル軍との間で交戦となった。外モンゴル軍との間に相互援助条約を持っていたソ連軍が参入、日本とソ連とが大きな衝突をする。

当初から陸軍は事件の不拡大方針をとったが、現地の関東軍が中央の意向を無視して戦闘が継続・拡大された。7月から停戦に向けた外交交渉の開始も決定されていたが、交渉開始が遅れ、その間に関東軍はソビエト機械化部隊の猛撃を受けて、8月下旬、第23師団は壊滅。日本はソ連機械化部隊の圧倒的な実力を見せつけられる。

同年8月23日、独ソ不可侵条約が締結。

同年8月25日、日独軍事同盟を目指していたが、独ソ不可侵条約締結を受けて、交渉の打ち切りが決定。

同年8月28日、平沼内閣が総辞職。平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という一語を残したという。後にドイツと同盟するし、このタイミングでもドイツとの同盟を模索していたワケですが、実は欧州情勢は複雑怪奇であると感じるほど、読みにくいものであったというニュアンスが集約されている。

同年9月3日、ヨーロッパにて第二次世界大戦はじまる。また、この日にノモンハン事件でソ連機械化部隊の実力を見せつけられた日本政府は停戦を決定。同月15日に停戦協定を成立させ、国境線を画定させることで解決した。

平沼内閣も八ヶ月の短命で終わり、既に元老・西園寺は87歳と高齢で後継首相の推挙も渋るような状況。人事は昭和天皇の意志決定の比重が大きかったとされるが、そこで白羽の矢が立ったのが前台湾軍指令官の阿部信行大将であった。陸軍内で阿部を推す声があった事、また陸軍内に於ける綱紀粛正が不可欠と考え、それを実行できるのは阿部であろうという選考だったと推測される。この人選には木戸幸一内相、近衛文麿枢密院議長、湯浅内大臣、松平宮内大臣らが当たったが、昭和天皇の意向が反映されている。

阿部内閣の組閣にも昭和天皇の意向が反映され、陸軍大臣を畑俊六侍従武官長を就任させ、綱紀粛正を狙ったと思われるが、阿部内閣は世界情勢を悪化に加えて、急激なインフレーションに見舞われる。貿易省設置案が失敗、官吏身分保障撤廃案も失敗、ほぼ功績を残せぬまま、議会から退陣要求を受けて退陣。(1939年8月30日から1940年1月16日)

興味深いことに、この阿部内閣は第二次大戦不介入声明という声明を出している。しかし、既に打つ手なく、電力不足に食糧不足、物価高騰。外交も手詰まりなのが分かる。

第一次近衛内閣以降の内閣は劇的に短命政権で、殆ど何もできないという状況に陥る。平沼内閣、阿部内閣あたりから元老西園寺も後継人事に投げやりとなっており、昭和天皇自らが人事に強く介入している。或る意味では、こうなってしまうと逃げ場はなかったものと推測できる。阿部内閣の後継にも、親英米派で陸軍ではなく海軍穏健派の米内光政が指名され、三国同盟締結を回避を試みる米内内閣が発足するが半年で総辞職している。(1940年1月16日から7月21日。)

その米内内閣は三国同盟の回避を目指していたから三国軍事同盟を推進したい陸軍の意向と真っ向から対立しており、実際にどうにもならない状況で畑陸相が三国同盟推進の潮流に飲まれて辞任。陸軍が陸軍大臣を出せないとし、米内内閣は総辞職に追い込まれている。

積極的に昭和天皇自ら人事に介入し、建て直しを画策した様子が分かるが、現実問題としては、結実せずしまいだった。

1940年3月下旬、近衛文麿、有馬頼安、風見章らが近衛新党の組織し、第二次近衛内閣に向けての活動を起こした。近衛新党は離合集散に終わらぬよう、それを新体制運動化させた。近衛文麿はキーマンであり、四十歳前後の華族らと人脈づくりに動いており、そこには木戸幸一、原田熊雄をといった昭和天皇とも連絡を取れる人的ネットワークを有していた。この近衛の新体制運動については、昭和天皇は下問(問い質した)とあるから、昭和天皇が画策したものではなく、後になって新体制運動はどういう性質なのかを問い質していたという事のよう。

ドイツ、イタリアとの同盟を結ぶのに米内内閣では不便であると陸軍筋の阿南惟幾(あなみ・これちか)中将が批判、そこへ再び、第二次近衛内閣を発足させるという政局がらみの動きと関係し、畑陸相が辞任、そのまま陸軍大臣が埋まらず、米内内閣は総辞職に追い込まれたという事でもあるという。昭和天皇の人事として強く介入していたのが米内内閣であることからすると、近衛文麿の動向は微妙であった?!

もう後継を選ぶのも困難であったが、木戸内大臣が総理経験者として若槻、岡田、広田、林、近衛、平沼ら六名を宮中に呼んで、話し合いをし、その結果、近衛文麿の二度目の登板が決定した。この第二次近衛内閣には外相として松岡洋右、陸軍大臣として東条英機という布陣であった。後継選びについて、ついに元老・西園寺は奉答を辞退をしていたという。
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広辞苑で【翼賛】を引くと、次のように記されている。

力を添えて助けること。特に、天子を補佐して政治を行うこと。「大政を――する」

ですが、それは、どのように作用したのか?

近衛文麿の新体制運動は第一次近衛内閣の頃に萌芽していたようで、1937年には【国民精神総動員運動】という思想教化運動らしいものが始まっている。帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体(74団体)が参加。内閣の外郭団体として国民精神総動員中央連盟が結成された。

平たく云うと、日中戦争の長期化に伴って、国民精神を総動員するべきだから、思想を教化しておくというもの。この国民精神総動員運動に於いて、掲げられていた三つの目標は、「挙国一致」、「尽忠報国」、「堅忍持久」。

当初は精神運動であったが次第に献金・献金、或いは蓄財奨励、国債応募などの物的協力に転換していったという。

また、この運動を実践してゆく過程の中で町内会、部落会、隣組などが整備された。因みに隣組についてですが、10世帯前後を基本単位とし、江戸時代以降は機能していなかった五人組制度を元にしていたという。産業団体、婦人団体、青少年団、学校までもを巻き込んで、国民総動員運動は展開されていったともいう。

1939年には総理の下に国民精神総動員委員会、道府県には主務課が設置された。1940年には総理を中心とした国民精神総動員本部が設置され、中央連盟を吸収。同年10月に、大政翼賛会が結成、国民精神総動員本部を吸収した。

大政翼賛会は、近衛文麿と、その側近によって組織された官製国民統制組織であるという説明もある。

近衛の側近としては、風見章、有馬頼安らの名前が挙げられている。風見は新聞記者出身の衆議院議員として近衛のブレーンと呼ばれた。第一次近衛内閣では書記官長を務め、第二次近衛内閣では法相を務めている。戦後は日本社会党の左派議員として活動した。後者の有馬は、農商務省出身で政友会に所属していた政治家で、近衛の腹心であったという。この有馬は大政翼賛会の初代事務総長を務めた。戦後、この有馬は戦犯として逮捕されるが釈放され、日本中央競馬会理事に転身、現在の有馬記念の有馬とは、この有馬頼安の功績を讃えるものとされる。

また、第一次近衛内閣は国家総動員法案、電力国家管理法案を成立させている。

第二次近衛内閣は、1940年7月22日から1941年7月18日まで。ここで具体的に大政翼賛会を組織し、その新体制運動を推進してゆく。東亜新秩序体制建設は第一次近衛内閣でも声明を出したが、第二次近衛内閣でも、日中戦争の停戦を目指していたが、国際情勢は厳しく、奇妙な方向へと転がりだす。

なんだか、息苦しさ満点で、とんでもない時代だろうなというのが、ひしひしと伝わって来ますが、昭和天皇は、どんな様子であったのか? 実は昭和天皇は英国留学の経験と関係してか、対米開戦への危機感を募らせていた節がうかがえるという。

それが確認できるのが第二次近衛内閣発足直後であるという。1940年7月22日に第二次近衛内閣が発足するが、僅か、その一週間後の7月29日に昭和天皇は閑院宮参謀総長と伏見宮軍令総長を呼んで下問していたという。

日本がフランス領インドシナ植民地の北部(北部仏印)に進駐する問題や、米国による石油や鉄クズの禁輸措置に出るおそれについて。それと、対米海戦になった場合、「日露戦争に於ける日本海海戦のような大戦果を上げられるのか?」と下問していた旨が『沢田茂回想録』に残されているという。まるで昭和天皇が対米開戦に乗り気であったかのようにも取れますが、後述しますが、そういう意図のものではないという。この時局というのは既にフランスはドイツに降伏し、フランス中部地方はドイツの統制下にある、いわゆるヴィシー体制になってから約一ヶ月後の話。蒋介石政権に対しての米英からの援助ルート(通称:援蒋ルート)を寸断するには北部仏印がネックになっていた。同時に、それを敢行すれば米英との対立を余儀なくされるという時局に於ける話で、全体的にはドイツの優位、この状況を利用しての南進論が優勢で、その真っ最中も真っ最中に、「日本海海戦と同じように大戦果を上げられるのか?」と下問していたことになる。

結局、1940年9月23日、日本は北部仏印進駐を開始。同月26日に米国は日本に対しての屑鉄輸出禁止の措置をとった。その翌日となる同月27日、日独伊三国同盟が調印され、これによって米英との対立が更に激化した。

ある意味では、こうなることは昭和天皇に近い部分でも掌握され、懸念していた通りの方向へと歴史が動き出してしまう。
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