本来、天皇とは、その姿の見えない存在であった。尊皇思想が起こって、倒幕運動へ。そして明治維新へと繋がって、それが我が国の近代化の扉を開いたのですが、よくよく考察してしまうと、天皇的権威というのは、政治勢力に利用された側面がある事に気付かされる。また、その政治利用によってカリスマ性を帯びていったという経緯も伺い知ることが出来る。
明治、大正、昭和という近代史の中で、最終的には昭和が激動の時代となり、戦争から敗戦、そして戦後からの復興という時代を歩んだ。
この近代史を考えるとき、権威の象徴たる天皇像も有るが、戦後の天皇像は特に人間宣言後の天皇像だという事になる。
しかし、本当は一貫して、そこに君臨していたのは現人神たる天皇ではなく、人間天皇であった。それで愕然とする人たちもあれば、或いは、責任の所在うんぬんと考える者もある。ところが、或る時期から侍従ら関係者らが残したメモなども世に出るようになり、更に、昭和天皇独白録と併せて目を通してみると、昭和天皇、もしくはエンペラー・ヒロヒトの実像に近い「像」が浮かび上がってきてしまう。
で、実は、その昭和天皇の人間的側面というのは、物凄い魅力的なんですよね…。スピノザの話も堅苦しい割には最後に辿り着いた境地が感動的じゃないかと感じましたが、人間としての昭和天皇の足跡というのは、小さな感動の広がっている『美質』で貫かれているのはホントですね…。伊藤之雄著『昭和天皇伝』(文春文庫)で、再々々確認ぐらいしているのですが、少年期の逸話だけで付箋だらけになってしまった。。。
なので、断片的になってしまいますが、このブログなりに幾つかの逸話に触れてみる。
1901年生まれの裕仁親王は、後の昭和天皇である。一歳下に雍仁親王があり、この雍仁親王は後の秩父宮である。幼少期、それこそ、両親王が3〜4歳の頃ですが、『機密報告書』なる文献に両親王の成長や個性などについて記された文章タイトル通りの機密報告書が現存するという。項目は、体力について、視覚や聴覚といった感覚機関について、観察力について、注意力について、規律について、寛大さについて、気性についてという八つの項目で、両親王について記されている。
裕仁親王が4歳で、雍仁親王が3歳だから成長にも差異があるだろうし、比較するのは誤まりなのですが、実際に「原敬関係文書」として、親王の成長状況を報告させる極秘資料があったという。それに拠ると、体力は年長の裕仁親王が優れ、視覚・聴覚・嗅覚といた感覚能力については同程度、観察力も同程度であるが、裕仁天皇は数字を5つまで数えられるが、雍仁親王は4つまで数えることができる等々、実は仔細に報告書が作成されていたという。
資料からすると、年齢差を考慮すると一概に裕仁親王の資質が優れているという風でもなく、且つ又、実は、後の秩父宮は優れた人物として評価され、また、秩父宮は天皇以上に自由が利いた事から軍人をはじめとする民間人との交流にも勝り、後に裕仁親王と、内なる対立をする実弟でもある。そして、二・二六事件を回想した際などはクーデター軍に近い人脈を有していた秩父宮の存在がある。昭和天皇が決断した「クーデター軍は断固鎮圧」という方針を秩父宮が指示してくれた後に夕食会で上機嫌になっている。実は、昭和天皇と秩父宮の関係性は仲が悪いワケではなかったが昭和天皇は、やや秩父宮にコンプレックスを抱いていた可能性が示唆されている。実は、表立った比較はしていないにしろ、大人は幼少期から、アレコレと、資質を比較されていたのであり、まぁ、一般人の中でも、そういう兄弟間の中というのはありますやね。
1909年の報知新聞には、両親王はリンコーンが好きであったという記事が掲載されていたという。この「リンコーン」というのは米国初代大統領、リンカーンの事。意外にも、皇孫たる両親王の教育というのは国家主義色から離れ、先進的なもの、開明的な教育が行われていた痕跡がうかがえる。これは両親王が7〜8歳の頃だと思われる。浅草、花屋敷(花やしき)等は、フツウの子と同じように両親王も大変に好まれたが、身分が異なるが故に花屋敷に行けない事を語り合った兄弟の会話があるという。
裕仁親王「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
雍仁親王「そうなの。不自由なんですもの。花屋敷なんどへも行かれないのですもの」
なんだか、皇孫であるが故の不遇を語り合う幼い兄弟の会話が生々しい。どうも皇族であるが故に外出もままならず、幼年期の親王は室内で戦争ごっこをしたり、追いかけっこや相撲を愉しまれていたという。女官などの証言に拠れば、追いかけっこは建物が壊れるのではないかと心配してしまうほどの、追いかけっこだったようだから、なんだか、微笑ましい話にも思える。
更に「牧野伸顕文書」には、裕仁親王のタヌキの逸話なるものがあるという。或る時、明治神宮の敷地内にある代々木御料地へ行啓した折、係員が裕仁親王にタヌキを見せようと箱に入れたタヌキを出すと、犬飼育場の犬がタヌキを察知して吠えだした。タヌキは犬に吠えられてぶるぶるとカラダを震わせ、身を竦(すく)ませた。その際、裕仁親王は
「もういい。可哀さうだから早く箱に入れてやれ」
と係員に申し付けた事があったという。動物好きは皇族方に通じた特徴でもあるが、裕仁親王時代の少年像は、かなり優しい少年であったとされ、それが窺える逸話とされている。
皇位継承順から考慮すれば、将来の天皇陛下であり、また、実質的な御兄弟との関係を考慮しても長兄であり、また、教育環境そのものからして、リーダーシップは育まれているものの、資質としては極めて几帳面であり、今風に語れば、繊細、やさしい。そういう資質であったらしく、宮内省や右翼が抱く天皇像としての威厳のある剛毅な人物に育って欲しいという願望なども介入し、後にややあって知識偏重の教育方針でいいのかうんぬんのクダリもあるのですが、ベースとなっている資質としては、極めて几帳面であるとか、非常に真面目であるとか、そうした評が多かったかのよう。母にあたる貞明皇后に到っては、立太子後に対立があった際、皇太子は【神経性】なところがあるのでうんぬんと注文をつけていた程であるという。
昭和天皇と言えば生物学での功績が有名ですが、少年期、青年期は歴史が最も好きで、生物学は二番目であったという。親王の時代に、白鳥庫吉博士が御用掛として歴史を教えていたが、裕仁親王は白鳥博士を尊敬していた節があるという。白鳥博士は、親王に神話と歴史とは異なるが、それを教えて良いのかという承諾を得て歴史を教えたとされる。これも後年、関係者たちは、これは好ましい事とは言えないというニュアンスで、「どうも裕仁親王は(祖父)天皇にあたる明治天皇を現人神だと思っていないようである」と書き残していたりするそうで、天皇像を巡る二重性が興味深い。
裕仁親王は学習院初等科を卒業すると、東宮内に設けられた東宮御学問所なる施設で、勉学に励むことになった。ここは極めて限られた御学友を出仕(当初、ご学友は泊まり込み体制)させ、その学友たちと教育係のオトナたちに接するという、極めて閉鎖的な状況で、裕仁親王は育っている。初期には10名(後に一人が転出して9名)、それ以後になると学友は僅か5名しかないという閉鎖的な環境で、教育を施されていたことが分かる。授業は45分間授業をして休憩、昼食時は東宮へ帰り昼食をし、午後から授業に返ったというから基本的に現在の一般的な教育カリキュラムと似ているようにも見える。(この御学問所の構想と設置は、かの乃木希典に拠るもので、更に総裁は東郷平八郎が務めた。)
1917年秋、年齢は差し引き16歳、裕仁皇太子時代でしょうか、国語で15分程度のスピーチをしている。裕仁親王は、「劉備玄徳について」、「ハンニバルの人格について」、「ケエサルの人物について」(ケエサルとは【カエサル】のこと)等、どれも歴史上の人物をテーマに選んでおり、しかも、なかなかハイグレードな内容をスピーチしていたらしい節をうかがいしることができる。劉備玄徳って、三国志の劉備ですよね。面白そう。歴史好きは間違いがなかったようで、千ページを超える『世界大戦史』を土曜日に読み始めて、月曜日には読み終え、それを的確に批評してみせたので、東郷平八郎が驚嘆してしまった事があるともいう。
明治天皇の崩御は1912年7月で、それは裕仁親王が11歳のとき。明治天皇の崩御によって、大正天皇が即位し、エスカレーター式に裕仁親王は裕仁皇太子になっている。これ、11歳なんですね。皇太子になったので、自動的に陸海軍の少尉に任官したという。軍服も着るようになり、勲章も下げるようになったのですが、その姿を後の秩父宮が当時を回想して「おもちゃの兵隊のようであった」と残しているという。(11歳って…。)
で、この明治天皇崩御にあたっては、乃木希典が殉死している。裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼び、乃木の教えを真面目に守る少年で、乃木を慕っていた節があったという。明治天皇崩御後、乃木が裕仁親王に面会にやって来て、その後、乃木が切腹、殉死した。「乃木が相果てた」との報が、裕仁親王の元にも届くと、裕仁親王は両目に涙をたたえて、深く悲しんだという。このときの養育係の回想によれば、【殉死】、即ち、軍人が天皇崩御に際して自分も切腹してしまう慣習ですが、その事を、親王たちは御理解されていなかったと回想している。ひたすらに、「何故、乃木院長が死んでしまったのか?」と、裕仁親王、雍仁親王らを悲しませた、と。これも11歳のときの出来事だから、酷な話といえば酷な話に思えますかねぇ…。
そして、明治天皇の大喪が明けた10月、11歳の裕仁皇太子は雍仁親王、宣仁親王を同道、波多野東宮大夫らと一緒に、上野公園で開かれていた拓殖博覧会なる博覧会へ出掛けている。この博覧会は、北海道、樺太、台湾の動植物や特産品を展示する博覧会であったが、同時に原住民を原住民として、つまり、当時の言葉に直すと土人を土人として展示していた。その様子を当時の東京朝日新聞が報じているらしいのですが、裕仁皇太子は「生蕃(せいばん)の住まっている処は何の辺ですか?」と積極的に質問していたという。この「生蕃」とは、台湾原住民を指しており、つまり、生蕃やアイヌの住居様式などに興味を示された様子の描写なのですが、11歳の皇太子が『「土人等」に対しても丁寧な会釈をした為に、「蕃人共」が感涙した』と報じている。
(今にして読むと、面白いですよね。東京朝日新聞の記事が「土人等」とか「蕃人共」と差別的な表記であるのに対し、当の裕仁皇太子は彼等に対しても礼を失うことなく、丁寧な会釈をして、見学をした旨が分かる。)
大袈裟に受け止めれば、11歳の皇太子の行動は胸を打つ逸話ですよね…。総じて、こういう逸話を我々は、フィクションであるかのように処理してしまうところがある。しかし、どうも、そうした解釈こそが勘繰り過ぎであり、生々しいまでの筆致で昭和天皇の人間的な部分を掘り下げみると、確かに、同じような逸話が繰り返し発見することが出来てしまう。
ホントは、特筆すべきレベルの人間的な資質としては几帳面さ、生真面目さは突出していたよう。実際には人間的な葛藤や挫折も実は多かったのではないか、そして、その挙げ句に、「無私無為の天皇像」に到ったのであれば、昭和天皇は、その生き様だけで、かなり多くのものを象徴的に体現したようにも見えてしまう不思議がある。
1916年9月、裕仁皇太子は佐渡を行啓している。皮肉なことに佐渡は大雨となってしまった。しかし、大雨にも限らず、皇太子歓待に沸き、大勢の人たちが通りに出て、奉迎していた。それを知ると、裕仁皇太子は
「この雨の降るのも厭わず余を出迎えている」
と述べ、皇太子は人力車にかけてある幌を外すよう、指示したという。これが何を意味しているのかというと、大雨に打たれながら、人力車の中から人々に会釈をした15歳の裕仁皇太子の逸話だそうな。大雨に打たれながら沿道に集まっている人たちに向かって、一々、会釈をして応じ、その奉迎に答えた生真面目さ、やさしさを意味しているのだそうな。
裕仁皇太子の18歳の成年式が終わった1919年秋から1920年夏にかけての時期に、渡欧計画が持ち上がる。具体的に動いていたのは山縣有朋、松平正義、西園寺公望、原敬らであったという。大正天皇の皇太子時代にも「世界を見ておくことが御国の為でもあり、皇太子自身の為になる」という理屈があったが、大正天皇のケースでは西洋かぶれになってしまって困ることになるのではないかとの葛藤があって、結局は実施されなかった。しかし、後に昭和天皇となる裕仁皇太子の場合、元老や宮内官僚、更には皇族方の後押しもあり、渡欧が実現した。(貞明皇后とは婚約問題と、この渡欧問題とで、この時期から折り合いが悪くなり、母・貞明皇后を説得するのに苦慮したよう。)
かくして1921年3月から半年間かけての渡欧が始まる。御召列車で横浜へ向かい、横浜から御召艦「香取」で発つ。沖縄(那覇)、香港、シンガポール、コロンボ、カイロ(エジプト)と航行したという。
この渡欧では裕仁皇太子の供奉員(ぐぶいん)として、多くの宮内省職員や外交官らが同行していたが、この航海中に困惑する事態に陥った。それは皇太子が充分に西洋式マナーを身に付けていなかったことであったという。
この部分、現在だからこそ、そのギャップを微笑ましい逸話として受け止められると思うし、人間味の溢れる部分なので、引用します。
皇太子は音を立ててスープを飲み、スプーンが皿にあたる音が部屋に響き、ナイフやフォークの使い方も少々手荒く、肉を切る仕草も不器用だった。
ああ、やはり、そういう事は有り得ますよね(笑 なにしろ、日本の皇族ですし、なによりも非常に親近感を感じさせる話でもある。
しかし、この渡欧ではイギリスのロイヤル・ファミリーはじめ、ヨーロッパのセレブや著名な学者と会食の席も用意されていたのであり、イギリスはポーツマスに上陸するまでに何とか西洋式マナーを身に付ける必要性が生じたという。(裕仁皇太子だけではなく、一般供奉員らも西洋式マナーを身につけておらず、実はカイロを過ぎたあたりから猛特訓をしていたそうで、苦労があったそうな。)
また、航海中は開放的な空間であったらしく、供奉員の宮内省庶務課長、宮内省書記官は、皇太子に柔道の稽古をつけており、皇太子を投げ飛ばしている。これには少し説明が必要になりますが、裕仁皇太子の場合は学習院初等科を卒業後は、特別メニューの教育カリキュラムで東宮御学問所で高い教育を施されていたものの、御学友は僅か五名と非常に乏しく、且つ又、御学友らと相撲や戦争ごっこをする機会が多かったが、御学友らが故意に手加減をして相撲やトランプに負けるなどしているのではないかという懸念が囁かれていた。そのように御機嫌を取るのではなく、フェアプレー精神を皇太子に身に付けて欲しいというのが宮内省の意向としてあり、それが叶ったのが、この航海中であったという。従がって、航海中の裕仁皇太子は柔道着を着て投げ飛ばされたり、ポーカーやブリッジで負かされる事もあったようなのですが、実は、ここに裕仁皇太子、後の昭和天皇のの御人柄、その真骨頂がある。
それは注意をされても素直に受け入れるという《美質》であったという。非常に生真面目。非常に几帳面と表現されているものは、この《美質》に集約されている。
これは我々平民も知っていますよね。「食べ方が悪い」と指摘されれば、不貞腐れてしまい、「ほんじゃ、こんなゴハン、要らねーよっ!」となってしまうのが人間のサガなのであって。柔道にしても、ゲームにしても、ホントにワガママな人になると、負けると何もかもを否定しはじめたりする。幼児がゲームで負けて泣き出してしまうことがありますが、そういうワガママな態度の大人も少なくない。或る種、セレブ階級ともなれば、そうした意のままになる事を当然と捉えるようになってしまう事を懸念してしまうものですが、昭和天皇の御人柄とは、後に考えると符合しますが、割と淡白に「あ、そう」と返答するなど、無私無為であることが天皇が天皇たる理由であるという境地に到達していたかのようにも思えてくる。
また、昭和天皇は学究肌であると報じられてきましたが、その部分にも、この美質は影響しているようで、教授してもらった事は素直に受け入れ、それを守ろうとする真っ直ぐさとも関係していたよう。乃木大将に東郷元帥らが養育に携わっていたし、東宮御学問所で教えていたカリキュラムにしても、明治天皇を筆頭に山鹿素行、吉田松陰、ナポレオン、コロンブス、釈迦、ソクラテス、管仲、キリスト、ヒポクラテス、最澄、空海、親鸞、日蓮、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ベンサム、ミル、ポンソンビー、フィヒテ、老子、荘子、シェークスピア、ゲーテ、マホメット、マキャベリ、英皇太子エドワード8世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世等であったという。素直に受け入れ、また、それを潔癖すぎると一部で揶揄されるまで実直であった人間的側面が浮かび上がってくる。幼少期にはリンカーンが好きな少年であり、その後にも明治天皇を現人神と考えず、歴史学者の白鳥庫吉博士を尊敬していたらしいこと、後に粘菌の研究で功績を残していますが、明らかに学究肌のバックボーンとして、潔癖や美質という御人柄が介在しているようにも見えてくる。
帰国後、皇太子人気は爆発したという。横浜から東京までの沿道は人で埋め尽くされての国民からの歓待があったという。また渡欧を記録した活動写真を大阪で上映された。更に京都でも同様の活動写真の上映会が開催されたが実に約三万人もの人たちが集まり、急遽、上映回数を増やして対応したという。
裕仁皇太子の人気が高まったことで、原敬が1919年から検討していた摂政への就任にも目途が立ち、1921年11年、20歳で摂政となり、正式に大正天皇の代理となった。しかし、原敬は摂政設置の20日前に東京駅で暗殺されてしまっている。また、摂政となり、正式に天皇の代理となったが、貞明皇后との確執が水面下に残っており、そのことが間接的に作用して(母)貞明皇后が(弟)秩父宮を可愛がり、裕仁皇太子が孤立するという、複雑な人間関係が皇室にも形成されていたという。
1923年9月に関東大震災が発生。震災を考慮して、御成婚は翌年1924年に延期されている。皇太子妃となった良子(ながこ)女王、その人選には様々な思惑が絡んでいたとされ、また、貞明皇后との関係がこじれていた事も、御妃問題がネックになっていたという。貞明皇后が良子女王を敬遠した理由としては諸説あって、どれが真実なのか分かりませんが、皇后は九条家出身であるのに皇太子妃は皇族出身であるから貞明皇后が嫌った等とされる。或いは、皇太子妃の御性格が勝気な性格であるとされたり、或いは、身体検査によってお世継ぎに色覚異常の男子が生まれてしまう可能性うんぬんが指摘されたり、或いは、薩摩閥と長州閥の対立問題が絡んでいたり、おそらくは、それら複合的な要素が絡み合っていたよう。よって、摂政となって後も、天皇の代理は皇后なのか判然としない部分も残したという。
そして1926年12月、大正天皇が崩御。裕仁皇太子は25歳で践祚(せんそ)して天皇へ。(正式に即位したのは1928年。)
また、この頃の国勢、世界情勢は非常にキナ臭いものになっており、既に、ここまでの経緯でも原敬が暗殺され、急進派の軍人や右翼活動家の動向も緊張感を高めており、皇后に不満もあれば皇太子にも不満を抱くという、奇妙な右翼思想が高まりを見せ始めている。
この後というか、昭和初期というのは非常に緊張感の高い時代で、張作霖爆殺事件(1928年)、満州事変(1931年)、血盟団事件と五・一五事件(1932年)、国体明徴運動(1935年)、二・二六事件(1936年)などに繋がってゆく――。
1928年11月に即位大礼によって正式に即位。奉祝ムードに沸く中、12月15日、東京は二重橋前で実に八万人を集めた奉祝イベントがあったという。昭和天皇は、雨天の場合は臣民(参加者)には遠慮なく雨具を使用させるべきだとし、その上で、たとえ雨が降っても天幕は張るなと天皇自らが指示をしていたという。それは、自分が雨に打たれても天幕は不要であるの意で、かつて、15歳の時の佐渡行啓で大雨の中、人力車の幌を外した会釈した御人柄の顕れであり、慈しむ心からの純真な心遣いであったと思われる。しかし、時代はシビアな反応をしている。
当日は、北西の冷たい風を伴った大雨となった。即位したばかりの25歳の昭和天皇は天幕を取り外すように指示し、実際に天幕が取り払われた。すると陸軍の「世話本部」が騎乗兵を出し、参加者らに雨具の使用を控えるよう呼び掛けをした。青年(女子を含む)らはオーバーコートを脱ぎ、傘をたたんだ。昭和天皇自身は防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けた。
新聞が報じたところによると、冷たい雨の中、その式典は1時間20分にもおよび、寒さに打ち震えながら立っていた女子の一団に触れていたという。
つまり、冷たい雨の中、善かれと思って昭和天皇は天幕を取り払い、防水マントも脱ぎ捨てたワケですが、天皇がそうするのであれば参加者たちも雨具を使用するワケにはいかないという行き違いが生じた。美しい行き違いと解釈することもできますが、双方ともに冷たい雨に打たれながらの長い式典、それが昭和天皇の本意であったのかどうかは微妙。
冷たい風雨も気にならない快濶さなのか、それとも、やさしい気遣いが天皇から参加者たちに連鎖したのか、あるいは過剰な精神主義、或る種の狂気が台頭していたと考えるべきか…。昭和天皇自身も防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けたという。
明治、大正、昭和という近代史の中で、最終的には昭和が激動の時代となり、戦争から敗戦、そして戦後からの復興という時代を歩んだ。
この近代史を考えるとき、権威の象徴たる天皇像も有るが、戦後の天皇像は特に人間宣言後の天皇像だという事になる。
しかし、本当は一貫して、そこに君臨していたのは現人神たる天皇ではなく、人間天皇であった。それで愕然とする人たちもあれば、或いは、責任の所在うんぬんと考える者もある。ところが、或る時期から侍従ら関係者らが残したメモなども世に出るようになり、更に、昭和天皇独白録と併せて目を通してみると、昭和天皇、もしくはエンペラー・ヒロヒトの実像に近い「像」が浮かび上がってきてしまう。
で、実は、その昭和天皇の人間的側面というのは、物凄い魅力的なんですよね…。スピノザの話も堅苦しい割には最後に辿り着いた境地が感動的じゃないかと感じましたが、人間としての昭和天皇の足跡というのは、小さな感動の広がっている『美質』で貫かれているのはホントですね…。伊藤之雄著『昭和天皇伝』(文春文庫)で、再々々確認ぐらいしているのですが、少年期の逸話だけで付箋だらけになってしまった。。。
なので、断片的になってしまいますが、このブログなりに幾つかの逸話に触れてみる。
1901年生まれの裕仁親王は、後の昭和天皇である。一歳下に雍仁親王があり、この雍仁親王は後の秩父宮である。幼少期、それこそ、両親王が3〜4歳の頃ですが、『機密報告書』なる文献に両親王の成長や個性などについて記された文章タイトル通りの機密報告書が現存するという。項目は、体力について、視覚や聴覚といった感覚機関について、観察力について、注意力について、規律について、寛大さについて、気性についてという八つの項目で、両親王について記されている。
裕仁親王が4歳で、雍仁親王が3歳だから成長にも差異があるだろうし、比較するのは誤まりなのですが、実際に「原敬関係文書」として、親王の成長状況を報告させる極秘資料があったという。それに拠ると、体力は年長の裕仁親王が優れ、視覚・聴覚・嗅覚といた感覚能力については同程度、観察力も同程度であるが、裕仁天皇は数字を5つまで数えられるが、雍仁親王は4つまで数えることができる等々、実は仔細に報告書が作成されていたという。
資料からすると、年齢差を考慮すると一概に裕仁親王の資質が優れているという風でもなく、且つ又、実は、後の秩父宮は優れた人物として評価され、また、秩父宮は天皇以上に自由が利いた事から軍人をはじめとする民間人との交流にも勝り、後に裕仁親王と、内なる対立をする実弟でもある。そして、二・二六事件を回想した際などはクーデター軍に近い人脈を有していた秩父宮の存在がある。昭和天皇が決断した「クーデター軍は断固鎮圧」という方針を秩父宮が指示してくれた後に夕食会で上機嫌になっている。実は、昭和天皇と秩父宮の関係性は仲が悪いワケではなかったが昭和天皇は、やや秩父宮にコンプレックスを抱いていた可能性が示唆されている。実は、表立った比較はしていないにしろ、大人は幼少期から、アレコレと、資質を比較されていたのであり、まぁ、一般人の中でも、そういう兄弟間の中というのはありますやね。
1909年の報知新聞には、両親王はリンコーンが好きであったという記事が掲載されていたという。この「リンコーン」というのは米国初代大統領、リンカーンの事。意外にも、皇孫たる両親王の教育というのは国家主義色から離れ、先進的なもの、開明的な教育が行われていた痕跡がうかがえる。これは両親王が7〜8歳の頃だと思われる。浅草、花屋敷(花やしき)等は、フツウの子と同じように両親王も大変に好まれたが、身分が異なるが故に花屋敷に行けない事を語り合った兄弟の会話があるという。
裕仁親王「質素が好き。だけど身分があるから困るね」
雍仁親王「そうなの。不自由なんですもの。花屋敷なんどへも行かれないのですもの」
なんだか、皇孫であるが故の不遇を語り合う幼い兄弟の会話が生々しい。どうも皇族であるが故に外出もままならず、幼年期の親王は室内で戦争ごっこをしたり、追いかけっこや相撲を愉しまれていたという。女官などの証言に拠れば、追いかけっこは建物が壊れるのではないかと心配してしまうほどの、追いかけっこだったようだから、なんだか、微笑ましい話にも思える。
更に「牧野伸顕文書」には、裕仁親王のタヌキの逸話なるものがあるという。或る時、明治神宮の敷地内にある代々木御料地へ行啓した折、係員が裕仁親王にタヌキを見せようと箱に入れたタヌキを出すと、犬飼育場の犬がタヌキを察知して吠えだした。タヌキは犬に吠えられてぶるぶるとカラダを震わせ、身を竦(すく)ませた。その際、裕仁親王は
「もういい。可哀さうだから早く箱に入れてやれ」
と係員に申し付けた事があったという。動物好きは皇族方に通じた特徴でもあるが、裕仁親王時代の少年像は、かなり優しい少年であったとされ、それが窺える逸話とされている。
皇位継承順から考慮すれば、将来の天皇陛下であり、また、実質的な御兄弟との関係を考慮しても長兄であり、また、教育環境そのものからして、リーダーシップは育まれているものの、資質としては極めて几帳面であり、今風に語れば、繊細、やさしい。そういう資質であったらしく、宮内省や右翼が抱く天皇像としての威厳のある剛毅な人物に育って欲しいという願望なども介入し、後にややあって知識偏重の教育方針でいいのかうんぬんのクダリもあるのですが、ベースとなっている資質としては、極めて几帳面であるとか、非常に真面目であるとか、そうした評が多かったかのよう。母にあたる貞明皇后に到っては、立太子後に対立があった際、皇太子は【神経性】なところがあるのでうんぬんと注文をつけていた程であるという。
昭和天皇と言えば生物学での功績が有名ですが、少年期、青年期は歴史が最も好きで、生物学は二番目であったという。親王の時代に、白鳥庫吉博士が御用掛として歴史を教えていたが、裕仁親王は白鳥博士を尊敬していた節があるという。白鳥博士は、親王に神話と歴史とは異なるが、それを教えて良いのかという承諾を得て歴史を教えたとされる。これも後年、関係者たちは、これは好ましい事とは言えないというニュアンスで、「どうも裕仁親王は(祖父)天皇にあたる明治天皇を現人神だと思っていないようである」と書き残していたりするそうで、天皇像を巡る二重性が興味深い。
裕仁親王は学習院初等科を卒業すると、東宮内に設けられた東宮御学問所なる施設で、勉学に励むことになった。ここは極めて限られた御学友を出仕(当初、ご学友は泊まり込み体制)させ、その学友たちと教育係のオトナたちに接するという、極めて閉鎖的な状況で、裕仁親王は育っている。初期には10名(後に一人が転出して9名)、それ以後になると学友は僅か5名しかないという閉鎖的な環境で、教育を施されていたことが分かる。授業は45分間授業をして休憩、昼食時は東宮へ帰り昼食をし、午後から授業に返ったというから基本的に現在の一般的な教育カリキュラムと似ているようにも見える。(この御学問所の構想と設置は、かの乃木希典に拠るもので、更に総裁は東郷平八郎が務めた。)
1917年秋、年齢は差し引き16歳、裕仁皇太子時代でしょうか、国語で15分程度のスピーチをしている。裕仁親王は、「劉備玄徳について」、「ハンニバルの人格について」、「ケエサルの人物について」(ケエサルとは【カエサル】のこと)等、どれも歴史上の人物をテーマに選んでおり、しかも、なかなかハイグレードな内容をスピーチしていたらしい節をうかがいしることができる。劉備玄徳って、三国志の劉備ですよね。面白そう。歴史好きは間違いがなかったようで、千ページを超える『世界大戦史』を土曜日に読み始めて、月曜日には読み終え、それを的確に批評してみせたので、東郷平八郎が驚嘆してしまった事があるともいう。
明治天皇の崩御は1912年7月で、それは裕仁親王が11歳のとき。明治天皇の崩御によって、大正天皇が即位し、エスカレーター式に裕仁親王は裕仁皇太子になっている。これ、11歳なんですね。皇太子になったので、自動的に陸海軍の少尉に任官したという。軍服も着るようになり、勲章も下げるようになったのですが、その姿を後の秩父宮が当時を回想して「おもちゃの兵隊のようであった」と残しているという。(11歳って…。)
で、この明治天皇崩御にあたっては、乃木希典が殉死している。裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼び、乃木の教えを真面目に守る少年で、乃木を慕っていた節があったという。明治天皇崩御後、乃木が裕仁親王に面会にやって来て、その後、乃木が切腹、殉死した。「乃木が相果てた」との報が、裕仁親王の元にも届くと、裕仁親王は両目に涙をたたえて、深く悲しんだという。このときの養育係の回想によれば、【殉死】、即ち、軍人が天皇崩御に際して自分も切腹してしまう慣習ですが、その事を、親王たちは御理解されていなかったと回想している。ひたすらに、「何故、乃木院長が死んでしまったのか?」と、裕仁親王、雍仁親王らを悲しませた、と。これも11歳のときの出来事だから、酷な話といえば酷な話に思えますかねぇ…。
そして、明治天皇の大喪が明けた10月、11歳の裕仁皇太子は雍仁親王、宣仁親王を同道、波多野東宮大夫らと一緒に、上野公園で開かれていた拓殖博覧会なる博覧会へ出掛けている。この博覧会は、北海道、樺太、台湾の動植物や特産品を展示する博覧会であったが、同時に原住民を原住民として、つまり、当時の言葉に直すと土人を土人として展示していた。その様子を当時の東京朝日新聞が報じているらしいのですが、裕仁皇太子は「生蕃(せいばん)の住まっている処は何の辺ですか?」と積極的に質問していたという。この「生蕃」とは、台湾原住民を指しており、つまり、生蕃やアイヌの住居様式などに興味を示された様子の描写なのですが、11歳の皇太子が『「土人等」に対しても丁寧な会釈をした為に、「蕃人共」が感涙した』と報じている。
(今にして読むと、面白いですよね。東京朝日新聞の記事が「土人等」とか「蕃人共」と差別的な表記であるのに対し、当の裕仁皇太子は彼等に対しても礼を失うことなく、丁寧な会釈をして、見学をした旨が分かる。)
大袈裟に受け止めれば、11歳の皇太子の行動は胸を打つ逸話ですよね…。総じて、こういう逸話を我々は、フィクションであるかのように処理してしまうところがある。しかし、どうも、そうした解釈こそが勘繰り過ぎであり、生々しいまでの筆致で昭和天皇の人間的な部分を掘り下げみると、確かに、同じような逸話が繰り返し発見することが出来てしまう。
ホントは、特筆すべきレベルの人間的な資質としては几帳面さ、生真面目さは突出していたよう。実際には人間的な葛藤や挫折も実は多かったのではないか、そして、その挙げ句に、「無私無為の天皇像」に到ったのであれば、昭和天皇は、その生き様だけで、かなり多くのものを象徴的に体現したようにも見えてしまう不思議がある。
1916年9月、裕仁皇太子は佐渡を行啓している。皮肉なことに佐渡は大雨となってしまった。しかし、大雨にも限らず、皇太子歓待に沸き、大勢の人たちが通りに出て、奉迎していた。それを知ると、裕仁皇太子は
「この雨の降るのも厭わず余を出迎えている」
と述べ、皇太子は人力車にかけてある幌を外すよう、指示したという。これが何を意味しているのかというと、大雨に打たれながら、人力車の中から人々に会釈をした15歳の裕仁皇太子の逸話だそうな。大雨に打たれながら沿道に集まっている人たちに向かって、一々、会釈をして応じ、その奉迎に答えた生真面目さ、やさしさを意味しているのだそうな。
裕仁皇太子の18歳の成年式が終わった1919年秋から1920年夏にかけての時期に、渡欧計画が持ち上がる。具体的に動いていたのは山縣有朋、松平正義、西園寺公望、原敬らであったという。大正天皇の皇太子時代にも「世界を見ておくことが御国の為でもあり、皇太子自身の為になる」という理屈があったが、大正天皇のケースでは西洋かぶれになってしまって困ることになるのではないかとの葛藤があって、結局は実施されなかった。しかし、後に昭和天皇となる裕仁皇太子の場合、元老や宮内官僚、更には皇族方の後押しもあり、渡欧が実現した。(貞明皇后とは婚約問題と、この渡欧問題とで、この時期から折り合いが悪くなり、母・貞明皇后を説得するのに苦慮したよう。)
かくして1921年3月から半年間かけての渡欧が始まる。御召列車で横浜へ向かい、横浜から御召艦「香取」で発つ。沖縄(那覇)、香港、シンガポール、コロンボ、カイロ(エジプト)と航行したという。
この渡欧では裕仁皇太子の供奉員(ぐぶいん)として、多くの宮内省職員や外交官らが同行していたが、この航海中に困惑する事態に陥った。それは皇太子が充分に西洋式マナーを身に付けていなかったことであったという。
この部分、現在だからこそ、そのギャップを微笑ましい逸話として受け止められると思うし、人間味の溢れる部分なので、引用します。
皇太子は音を立ててスープを飲み、スプーンが皿にあたる音が部屋に響き、ナイフやフォークの使い方も少々手荒く、肉を切る仕草も不器用だった。
ああ、やはり、そういう事は有り得ますよね(笑 なにしろ、日本の皇族ですし、なによりも非常に親近感を感じさせる話でもある。
しかし、この渡欧ではイギリスのロイヤル・ファミリーはじめ、ヨーロッパのセレブや著名な学者と会食の席も用意されていたのであり、イギリスはポーツマスに上陸するまでに何とか西洋式マナーを身に付ける必要性が生じたという。(裕仁皇太子だけではなく、一般供奉員らも西洋式マナーを身につけておらず、実はカイロを過ぎたあたりから猛特訓をしていたそうで、苦労があったそうな。)
また、航海中は開放的な空間であったらしく、供奉員の宮内省庶務課長、宮内省書記官は、皇太子に柔道の稽古をつけており、皇太子を投げ飛ばしている。これには少し説明が必要になりますが、裕仁皇太子の場合は学習院初等科を卒業後は、特別メニューの教育カリキュラムで東宮御学問所で高い教育を施されていたものの、御学友は僅か五名と非常に乏しく、且つ又、御学友らと相撲や戦争ごっこをする機会が多かったが、御学友らが故意に手加減をして相撲やトランプに負けるなどしているのではないかという懸念が囁かれていた。そのように御機嫌を取るのではなく、フェアプレー精神を皇太子に身に付けて欲しいというのが宮内省の意向としてあり、それが叶ったのが、この航海中であったという。従がって、航海中の裕仁皇太子は柔道着を着て投げ飛ばされたり、ポーカーやブリッジで負かされる事もあったようなのですが、実は、ここに裕仁皇太子、後の昭和天皇のの御人柄、その真骨頂がある。
それは注意をされても素直に受け入れるという《美質》であったという。非常に生真面目。非常に几帳面と表現されているものは、この《美質》に集約されている。
これは我々平民も知っていますよね。「食べ方が悪い」と指摘されれば、不貞腐れてしまい、「ほんじゃ、こんなゴハン、要らねーよっ!」となってしまうのが人間のサガなのであって。柔道にしても、ゲームにしても、ホントにワガママな人になると、負けると何もかもを否定しはじめたりする。幼児がゲームで負けて泣き出してしまうことがありますが、そういうワガママな態度の大人も少なくない。或る種、セレブ階級ともなれば、そうした意のままになる事を当然と捉えるようになってしまう事を懸念してしまうものですが、昭和天皇の御人柄とは、後に考えると符合しますが、割と淡白に「あ、そう」と返答するなど、無私無為であることが天皇が天皇たる理由であるという境地に到達していたかのようにも思えてくる。
また、昭和天皇は学究肌であると報じられてきましたが、その部分にも、この美質は影響しているようで、教授してもらった事は素直に受け入れ、それを守ろうとする真っ直ぐさとも関係していたよう。乃木大将に東郷元帥らが養育に携わっていたし、東宮御学問所で教えていたカリキュラムにしても、明治天皇を筆頭に山鹿素行、吉田松陰、ナポレオン、コロンブス、釈迦、ソクラテス、管仲、キリスト、ヒポクラテス、最澄、空海、親鸞、日蓮、プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ベンサム、ミル、ポンソンビー、フィヒテ、老子、荘子、シェークスピア、ゲーテ、マホメット、マキャベリ、英皇太子エドワード8世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世等であったという。素直に受け入れ、また、それを潔癖すぎると一部で揶揄されるまで実直であった人間的側面が浮かび上がってくる。幼少期にはリンカーンが好きな少年であり、その後にも明治天皇を現人神と考えず、歴史学者の白鳥庫吉博士を尊敬していたらしいこと、後に粘菌の研究で功績を残していますが、明らかに学究肌のバックボーンとして、潔癖や美質という御人柄が介在しているようにも見えてくる。
帰国後、皇太子人気は爆発したという。横浜から東京までの沿道は人で埋め尽くされての国民からの歓待があったという。また渡欧を記録した活動写真を大阪で上映された。更に京都でも同様の活動写真の上映会が開催されたが実に約三万人もの人たちが集まり、急遽、上映回数を増やして対応したという。
裕仁皇太子の人気が高まったことで、原敬が1919年から検討していた摂政への就任にも目途が立ち、1921年11年、20歳で摂政となり、正式に大正天皇の代理となった。しかし、原敬は摂政設置の20日前に東京駅で暗殺されてしまっている。また、摂政となり、正式に天皇の代理となったが、貞明皇后との確執が水面下に残っており、そのことが間接的に作用して(母)貞明皇后が(弟)秩父宮を可愛がり、裕仁皇太子が孤立するという、複雑な人間関係が皇室にも形成されていたという。
1923年9月に関東大震災が発生。震災を考慮して、御成婚は翌年1924年に延期されている。皇太子妃となった良子(ながこ)女王、その人選には様々な思惑が絡んでいたとされ、また、貞明皇后との関係がこじれていた事も、御妃問題がネックになっていたという。貞明皇后が良子女王を敬遠した理由としては諸説あって、どれが真実なのか分かりませんが、皇后は九条家出身であるのに皇太子妃は皇族出身であるから貞明皇后が嫌った等とされる。或いは、皇太子妃の御性格が勝気な性格であるとされたり、或いは、身体検査によってお世継ぎに色覚異常の男子が生まれてしまう可能性うんぬんが指摘されたり、或いは、薩摩閥と長州閥の対立問題が絡んでいたり、おそらくは、それら複合的な要素が絡み合っていたよう。よって、摂政となって後も、天皇の代理は皇后なのか判然としない部分も残したという。
そして1926年12月、大正天皇が崩御。裕仁皇太子は25歳で践祚(せんそ)して天皇へ。(正式に即位したのは1928年。)
また、この頃の国勢、世界情勢は非常にキナ臭いものになっており、既に、ここまでの経緯でも原敬が暗殺され、急進派の軍人や右翼活動家の動向も緊張感を高めており、皇后に不満もあれば皇太子にも不満を抱くという、奇妙な右翼思想が高まりを見せ始めている。
この後というか、昭和初期というのは非常に緊張感の高い時代で、張作霖爆殺事件(1928年)、満州事変(1931年)、血盟団事件と五・一五事件(1932年)、国体明徴運動(1935年)、二・二六事件(1936年)などに繋がってゆく――。
1928年11月に即位大礼によって正式に即位。奉祝ムードに沸く中、12月15日、東京は二重橋前で実に八万人を集めた奉祝イベントがあったという。昭和天皇は、雨天の場合は臣民(参加者)には遠慮なく雨具を使用させるべきだとし、その上で、たとえ雨が降っても天幕は張るなと天皇自らが指示をしていたという。それは、自分が雨に打たれても天幕は不要であるの意で、かつて、15歳の時の佐渡行啓で大雨の中、人力車の幌を外した会釈した御人柄の顕れであり、慈しむ心からの純真な心遣いであったと思われる。しかし、時代はシビアな反応をしている。
当日は、北西の冷たい風を伴った大雨となった。即位したばかりの25歳の昭和天皇は天幕を取り外すように指示し、実際に天幕が取り払われた。すると陸軍の「世話本部」が騎乗兵を出し、参加者らに雨具の使用を控えるよう呼び掛けをした。青年(女子を含む)らはオーバーコートを脱ぎ、傘をたたんだ。昭和天皇自身は防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けた。
新聞が報じたところによると、冷たい雨の中、その式典は1時間20分にもおよび、寒さに打ち震えながら立っていた女子の一団に触れていたという。
つまり、冷たい雨の中、善かれと思って昭和天皇は天幕を取り払い、防水マントも脱ぎ捨てたワケですが、天皇がそうするのであれば参加者たちも雨具を使用するワケにはいかないという行き違いが生じた。美しい行き違いと解釈することもできますが、双方ともに冷たい雨に打たれながらの長い式典、それが昭和天皇の本意であったのかどうかは微妙。
冷たい風雨も気にならない快濶さなのか、それとも、やさしい気遣いが天皇から参加者たちに連鎖したのか、あるいは過剰な精神主義、或る種の狂気が台頭していたと考えるべきか…。昭和天皇自身も防水マントを渡されていたが、それを脱ぎ捨てて、通過する集団の敬礼に挙手して応え続けたという。