キューバ革命史

2017年04月14日

カストロとゲバラ〜1

◆美しき緑色の島

1492年にコロンブスがサンサルバドル島に次いでキューバを発見する。現在ではカリブ海に浮かぶ西インド諸島、その中の最大の島こそがキューバである。因みに【カリブ海】の【カリブ】とはスペイン語の【canib】であり、それは【cannibalism】(カニバリズム)、つまり、食人風習という言葉は【カリブ】が語源なのだという。

【カリブ民族】という呼称は南米東海岸及びカリブ海に住んでいた諸民族の総称であり、精霊信仰、シャーマニズムを有し、好戦的。そして食人習慣があったという。(これ、実は倭族論の倭族も似ています。中国南部や東南アジア地方に残っている倭族には首狩りの風習があり、また、シャーマニズムといえば実は北東アジア、朝鮮半島、日本列島こそがメッカみたいなもの。やはり、ホントに新モンゴロイド系の人たち。)

キューバには先住民があり、その先住民の内のシボネー族が香りつきの葉っぱに火をつけて吸引していたものがタバコであり、その後、タバコは凄まじい勢いで世界中に広がる事となる。

そしてコロンブスは、後にキューバと呼ぶ事になる緑色の島を発見した際、

「人間がみた最も美しい土地」

と感嘆したという。そう。キューバは、世界一、美しい島と認識される島なのだ。面積は日本の本州の約半分ほどですが、確かにマドンナの楽曲「ラ・イスラ・ボニータ〜美しい島」が似合ってしまいそうな、そういう美しいところのよう。

そして、キューバといえば、スポーツが強い事もそうですが、もう一つ重要な事柄があって、それは革命を成した社会主義共和国である。昨年末にフィデル・カストロ議長の訃報が報じられましたが、近現代史の中では特殊な地位を占めている国である。中南米というと、麻薬王であるとかマフィアが幅を利かせて政治も腐敗しているというイメージを持ってしまうのが日本人の感覚であろうと思いますが、キューバの場合、識字率96.9%(2002年)、乳児死亡率5%(2005年)、平均寿命・男性75.5歳、女性79.2歳であり、確かに革命を成し遂げた国の一端を感じ取れなくもありませんかね。


そのキューバは、1492年にコロンブスに発見されて以降、スペイン領、スペインの植民地となって、その後に独立運動が起こり、スペイン相手に独立戦争を展開するのですが、キューバが独立を勝ち取るのは、米西戦争が大きく関係している。

1898年、米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)が発生する。1895年からキューバではキューバ解放を求める反乱が起こっており、宗主国のスペインとキューバ住民との間で戦争が起こっていた。アメリカではキューバに経済的関心が持っていた事に加え、当時、アメリカでは『文明国の責任』という考え方が強く存在しており、スペインによるキューバへの圧政統治への批判が高まっていたという。アメリカの新聞もスペインの圧政をセンセーショナルに報じ、それ故にアメリカ人の間からもキューバ人への同情が沸き起こり、それは間もなく「キューバ干渉論」を惹き起こし、アメリカがスペインとの戦争に踏み切る契機となったのがキューバの独立問題であった。

1898年2月15日、キューバのハバナ港に停泊中の米国籍軍艦メイン号が原因不明の爆発事故を起こして沈没する事件が発生、死者は260名を数えた。そのメイン号事件を契機に、アメリカ国内でキューバ干渉論が高まり、米マッキンレー大統領はスペインに自治を与えるよう要求を出し、同年4月11日には開戦の教書を米議会に提出し、同20日、米議会は開戦を決議した。

(うーん。米軍艦のメイン号は何故、沈没したのか? 「トンキン湾事件」、「ピッグス湾事件」を考慮すると、このメイン号爆沈事件については、各自の想像力が必要となるかも知れませんが、怪しいといえば怪しいのはホントですかね。)

1898年5月1日から米西戦争が始まる。僅か10週間でアメリカはスペインに一方的な勝利を収める。実は、この米西戦争がフィリピンの統治事情などに大きく関係しており、マニラ湾では6隻のアメリカ艦隊が10隻のスペイン艦隊を完全壊滅に追いやり、アメリカ軍はスペイン領であったキューバ、プエルトリコを占領。

同年12月10日にパリで講和条約締結となったが戦勝国のアメリカは、この米西戦争によってプエルトリコ、グアム、フィリピンを自国領とし、キューバに関してはアメリカの保護国という扱いとする事で終結した。

因みにパリ講和条約の内容は、以下であった。

1.スペインはアメリカに2000万ドルの賠償金支払い義務

2.キューバを独立

3.プエルトリコ、グアム、フィリピンの譲渡

これによりキューバは米西戦争によって曲がりなりにもキューバ史の中で初めて独立を獲得した。しかし、その独立はアメリカが保護国としての独立であった。

1901年、プラット米上院議員を長として「プラット修正」が成立した。これはキューバによる独自外交を制限し、キューバに関してはアメリカが干渉権を有している事を明確にし、アメリカによるキューバに対しての基地設定権も規定した。それをキューバの新憲法の付帯条項として強制的に挿入した為、キューバはアメリカとの間で主従関係を課される形となった。

「アメリカの保護国としてのキューバ」であるワケですが、見方を変えると「キューバはアメリカの衛星国になった」という事でもある。

そんなキューバでは、しばらく政治腐敗が続く事になる――。


◆「1898年のアメリカ」について

米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)については、広辞苑にも掲載されており、広辞苑には以下のように記載されている。

1898年アメリカとスペインとの間に行われた戦争。キューバの反乱とアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件とを契機として勃発。この結果、キューバが独立、プエルト−リコ・グアム島・フィリピン諸島をアメリカが獲得した

他のブリタニカ国際大百科事典なども基本的には同じ内容であり、米西戦争の発端とは即ち、キューバのハバナ港に停泊していた米軍艦メイン号の爆沈事件であるという解説になっている。

しかし、オリバー・ストーンが示してみせたオリバーストーン史観を踏襲して眺めてみると、この1898年のアメリカの動向瓩砲弔い討蓮単純な上記の説明では済まないであろう異なる実相が浮かび上がってしまう。

アメリカの帝国主義は第25代大統領のウィリアム・マッキンレーの時代に、

1898年2月15日、ハバナ湾でメイン号事件が発生する。

1898年3月16日、アメリカ議会にハワイ併合の合同決議案が米議会に提出される。

1898年4月25日、アメリカはスペインに対して宣戦布告をする。

1898年5月1日、スペイン領であったフィリピンのマニラ湾にて、米西戦争の火蓋が切られる。

ハワイ併合というのは、つまりは、アメリカが太平洋及びアジアに対して帝国主義的な野心を抱き、それを実現する為に必要な手続きなんですよね。つまり、米西戦争はフィリピンで戦闘が開始されるワケですが、フィリピンを攻略するにはハワイは必要不可欠な平坦基地であるワケです。時系列で並べてしまうと、実は、そのまんまであるのが分かる。

しかも、この1898年3月にはアメリカは中国に対して「門戸開放通牒」なるものを出している。その中国に対しての門戸開放を訴える通牒は、翌1899年、「義和団の乱」(義和団事件)を誘発している。中国山東省の民族主義的な秘密結社が中核となった排外的民主運動が起こり、1900年まで続く。その排外的民主運動とは、即ち、反帝国主義運動であり、反キリスト教運動を指している。

つまり、アメリカの第25代大統領であるウィリアム・マッキンレー政権下の1898年に、アメリカ合衆国は太平洋=アジア地域に対して、帝国主義的な、或いは領土的野心に足を踏み入れてしまった年であるように見える。単純化すれば覇権国家スペインからアメリカが覇権を奪った、もしくは植民地を奪ったのが米西戦争なのだ。

因みに、この義和団事件は北支事変に発展する。義和団を擁護する中国清朝に対して、海外八か国が鎮圧軍を編成して共同出兵が行なわれたのだ。その鎮圧軍の共同出兵に参加したのは日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカである。やはり、際立ってしまうのは日本ですかねぇ。日本だけがいわゆるヨーロッパの国ではない。この辺りの事情が、脱亜入欧ってことなんでしょうね。

カストロとゲバラ〜2

◆巨躯の青年弁護士、立ち上がる

「マチャド将軍」の名でも語られるマチャド・イ・モラレス(生没年1871〜1939年)はキューバ独立運動に参加した後にリベラル党の指導者となり、1925年に大統領となるが間もなく独裁者となった。そのマチャド政権は軍の背信によって1933年、国外に逃亡。

マチャド政権を打倒したのはフルヘンシオ・バチスタ(生没年1901〜1973年)という一人の軍曹であった。(この「バチスタ」については「バティスタ」と表記されることもあるようですが、バチスタの呼称で統一します。)バチスタ軍曹は1933年に下士官らを集めてクーデターを起こし、その後に民族主義改革政権に合流する中で、一躍、昇進を果たして大佐兼キューバ軍司令官まで成り上がる。更にバチスタはキューバでは当時、認められていなかった共産党を合法化するなどして権力を掌握し、1940年には大統領に就任する。

しかし、1944年の大統領選でバチスタは敗北する。

1952年の大統領選にはバチスタの他に2名の大統領候補者がおり、6月に選挙の予定であったが、その選挙を控えた3月11日、バチスタは首都のハバナから僅か数キロの場所にあるコロンビア要塞の軍隊を動員して強引なクーデターを起こし、前任大統領を追い出してバチスタは二度目の大統領に就任する。つまり、バチスタの第二次政権は、大統領選挙を待たずして強引な軍事クーデターによって起こったものであった。

1952年3月24日、つまり、バチスタがクーデターを起こしてから僅か二週間後のこと、ハバナの最高裁判所に、おそろしく背の高い青年がやって来たという。その長身の青年は弁護士だと名乗り、フルヘンシオ・バチスタに対しての告発状を最高裁に提出した。

その最高裁に告発状を提出しに現われた長身の青年こそが後に「カストロ議長」として世界に広く知られることになるフィデル・カストロ(生没年1926〜2016年)であった。この時、フィデル・カストロはハバナ大学を二年前に卒業し、ハバナの一角に弁護士事務所を開設したばかりの若き弁護士であった。


カストロは学生時代から学生運動のリーダーとして広く知られた存在であったという。大学2年のときにドミニカの独裁者、モリナ・トルセーヨ打倒を目的として組織された遠征隊に参加した。しかし、その遠征隊はキューバ海軍によって取り締まりの網にかかった。カストロも、そこで逮捕されるところであったが、カストロはサメがうようよと泳いでいる海に飛び込み、5キロ先の海岸まで泳いで逃げ切ったという。人並み外れた巨躯の持ち主にして、行動力、精神力を兼ね備えた若者であったという。

カストロは大学生の頃から警察から危険人物視され、警察はカストロの暗殺する機会をうかがっていた。大学生にして警察から命を狙われていたカストロはというとピストルを常に携行していたという。この頃のカストロに軍隊を動かす知識などは無かったが、カストロは射撃が抜群に上手かったという。

大学4年のときには、大学学生連盟のキューバ代表としてコロンビアで開催された会議に出席することとなった。カストロがコロンビアに到着してみると、民族独立を訴える民族主義運動のリーダーが何者かによって暗殺されるという事件に遭遇する。コロンビアで街頭デモが発生し、カストロも街頭デモに加わった。この頃のラテンアメリカではデモが起これば警官隊は当たり前のように発砲するのが通例であり、ラテンアメリカに於ける警察及び軍隊とは、為政者を護衛する暴力装置であり、民衆を守る為の何かではなかった。街頭デモは、いつものように警官隊の銃声によって追い散らされた。


◆米帝傀儡政権下のキューバ

キューバに限らず、総じてラテンアメリカは政情不安定であり、それは歴史と密接に関係している。ラテン人に分類されるスペインに代表されるような大航海時代に始まる植民地経営とは、武力によって先住民を征服し、その後に支配体制を敷いて、それらの土地を統治していたという事なんですね。自ずと、宗主国にとって都合のいい為政者が支配者階級となってしまうので、いわゆる一般民衆にとっての都合というものは考慮されない。先にも述べたように、ラテンアメリカの国々に於ける、その国家の軍隊や警察というのは、為政者を民衆から守る為に存在している軍隊・警察である。

天安門事件で民主化を求める中国人の抗議活動が人民解放軍の戦車によって踏み潰されたのは、その軍隊が北京政府を守る為に動いたからなんですよね。軍隊、警察のような機関というのは、要は権力機構を守るための暴力装置であるというのは、実は事実である。日本では民主党政権時代に「自衛隊を暴力装置扱いした」としてテレビを賑わせた騒動がありましたが、ホントは軍隊を【暴力装置】と称するのは、マックスウェーバーの政治論に沿っての至極当たり前の解釈であり、その政治用語であったりするワケです。北朝鮮の金王朝にしても同じで、軍隊、国軍のようなものであっても、実は人民の為にあるのではなく、為政者の為であるとか、統治機構を守る為に存在しているというケースがある。

フィデル・カストロは大学生時代からピストルを常に携行していたワケですが、軍隊や警察が民衆に発砲することなどはラテンアメリカでは日常茶飯であり、過激分子となれば相手が学生であっても容赦なく暗殺も行われてしまうのが、当時のキューバ、そしてラテンアメリカの実情であったという。

キューバの場合、マチャド独裁政権の後に、一介の軍曹から成りあがったバチスタによるバチスタ独裁政権が起こる。バチスタは大統領選で敗れたものの、その後、軍隊を動員しての武力クーデターで、第二次バチスタ体制を作ろうとしていた。クーデターの僅か二週間後に、ハバナ最高裁にバチスタ大統領に対しての告発状を提出するという形で「フィデル・カストロ」が歴史に登場する。

舞台はキューバの首都、ハバナであるワケですが、この頃、1950年代のハバナはというと世界有数の観光地であったという。ヒルトンホテルをはじめとする高級ホテルが軒を列ね、きらびやかなナイトクラブに、豪勢なカジノがあり、当時のハバナは猝瓦療圻瓩里茲Δ幣貊蠅任△辰燭箸いΑ

しかし、その豊かさを享受している者は限られていたという。観光客と地主など上流階級、そして政府関係者だけが豊かさを享受する美貌の都――、それがハバナの真実であるという。

後にカストロは、革命前のキューバを語ったところによれば、当時のキューバには60万の失業者があり、50万の農業従事者は土地も持たずにみすぼらしい小屋に住み、40万の工場労働者と漁師は搾取に苦しんでいた。10万は貧農であったが退職金や年金は横領され、3万の教師・教授は安月給で働くばかりで、2万の商売人たちは汚職役人の収奪に遭い、借金づけのような状態であったという。

実際にカストロは法廷で以下のように革命前のキューバについて陳述したという。(「歴史は私に無罪を宣告するだろう」の一節が以下。)

死のみが人をこんな貧苦から解放できるのだ。しかも、これ――早死――については国家が大いに手を貸している。農村の子供の90%は地面から裸足を通して入ってくる寄生虫に冒されている。社交界はひとりの子供の誘拐や殺人を耳にすると同情するくせに、年々数千の子供たちが施設の不足から苦しみ悶えながら死んでゆく大量殺人には、犯罪的に無関心である。子供たちの無邪気な眼――すでに死の翳りがさしている――は、人間の利己主義に対して赦しを請い、神に憤りを抑えてくださいと願うがごとくに、無限のかなたを見つめている。一家の主人が一年に四か月しか働けない場合に、どうして子供に衣類や薬品を買ってやれるだろうか。子供たちはクル病をもったまま育ち、三十歳までには健康な歯は一本もなくなる。かれらは一千万回も演説を聞き、そして貧苦や欺瞞のうちに結局は死ぬだろう。公立病院はいつもいっぱいで、一握りの有力な政治家に紹介された患者しか受け付けないし、政治家は代償に不幸な人やその家族の投票を要求する。それ故にキューバは永久に同じ状態が続くか、あるいはもっと悪くなるばかりだろう。

高級ホテルに豪華なカジノ。そして世界有数の観光地。その華やかさな裏側にあったもの、もしくは支えていたものとは、惨めなキューバ人たちの境遇であったという。

まるで、IR法案こと統合型リゾート法案、通称「カジノ法案」を導入しようとしている今の日本をも連想させられてしまいますかねぇ。その贅沢を味わうのはどんな階層のどんな連中で、その豪奢さの陰で惨めな生活をするのは一体、どの国のどんな人たちになるんだねって話かも知れない。

2017年04月15日

カストロとゲバラ〜3

◆カストロ、モンカダ兵営を襲撃する

青年弁護士カストロがバチスタ大統領の告発状を出してみせたのは、キューバの1940年憲法第41条に「暴政に対しての反乱の権利の保証」が謳われていた為であった。弁護士でもあるカストロの告発に対して、キューバ憲法裁判所は何ともバツの悪い判断を導き出した。憲法裁判所は、「バチスタは革命という手段によって大統領になったのだから、そもそもからして憲法違反に問う事は出来ない」という混乱著しい判決を出した。それは、裏返してしまうと、革命の為なら暴力を用いても憲法違反にならないという意味合いにもなり、つまりは、フィデル・カストロのように革命思想の者に対しては、その暴力を用いての決起を正当化する口実を認めたようなものでもあった。

これは、革命を巡っての矛盾、その本質の話を孕んでいますよね。歴史を眺めれば、クーデターのようなものは実は正当化されている。日本の明治維新にしても事実関係からすれば、反体制派が現行体制に対しての武力蜂起が起こって、そのまま権力を奪取したのであり、つまりはクーデターだと言えばクーデターなんですよね。しかし、何となく、現代人は、それをクーデターではなく、英傑たちが「日本を洗濯をしてくれただけ」であるかのように捉えていたりする。「反乱分子は如何なる理由があっても許されるべきではなく、極刑を課すべし」と本気で考えているのであれば、それは、その人が体制側の人間であるか、もしくはダマされているかでしょう。

さて、フィデル・カストロは、その後、本格的に武装闘争を展開させ、モンカダ兵営を襲撃するという計画を立てる。政治家を狙うのでもなく、高級官僚を狙うのでもなく、はてまた資本家を狙って要人テロをするでもなく、企業に爆破テロを仕掛けるでもない。フィデル・カストロが選んだのは、軍隊、兵士が起居している兵営を襲撃するという破天荒な計画であった。この民衆蜂起によって組織されたゲリラ部隊が国家の管轄する軍隊に対して攻撃を仕掛けるという手法は、少なくともラテンアメリカ史上初の出来事となる。

1953年7月26日、カストロは準備に一年以上も費やし、自らがリーダーとなって150名の若者を率いて、モンカダ兵営襲撃を起こす。このモンカダ兵営襲撃事件こそが、キューバ革命の最初の一歩となる。

モンカダ兵営とは、つまりは兵舎であり、そこには1000名以上の陸軍部隊が駐屯していた。この7月26日というのはモンカダ兵営から程近い場所にあるサンチャゴ市、そのサンチャゴ名物のカーニバルの日程に合わせたものであるという。年に一度だけ行われるカーニバルであり、三日間行われるが、その中日(なかび)を決行日に選んだ。大勢の観光客で賑わうので、150名からなる決起部隊が人混みに紛れて移動するには都合が良いと考えた為であった。

モンカダ兵営は、ハバナから東に190キロほどの場所で、仮にハバナから増援部隊が派遣されたとしても丸一日はかかる位置にあり、襲撃に失敗した場合にはキューバ南東部にあるマエストラ山脈に逃げ込み、ゲリラ戦に持ち込めるという具合に戦略を立てていた。また、軍服は百着以上、武器は人数分を揃えていたが、それらは決起部隊のメンバーらがアルバイトをして稼いだものであったという。

このモンカダ兵営襲撃には、フィデル・カストロの実弟であるラウル・カストロ(現キューバのトップ)も参加したが大失敗に終わる。キューバ陸軍創立史上初となる戦死者、将校3名、兵士16名を出したものの、相手は軍隊であり、到底、150名程度の若者を集めて挑んだところで、戦果を挙げられるものではなかった。カストロ兄弟を含めて多くの者は逃げおおせたが、19名が軍に拘束され、その内の女性2名を除く17名は怒れるキューバ軍によって虐殺されたという。このときに虐殺された17名の中にはフィデル・カストロの親友であったアベル・サンタマリアが含まれている。

モンカダ兵営襲撃は、バチスタ大統領の怒りを買い、バチスタ統制下のキューバ軍は苛烈な反乱分子狩りを展開する。反乱軍を手助けしたりした者は老若男女を問わず射殺するという血の虐殺を展開した。(足掛け6年間で実に2万人が犠牲になったとされたという。)

事態を憂慮して、大主教が仲介に入り、サンチャゴ軍司令官に対して、反乱軍が降伏してきた場合には虐殺を辞めて裁判で裁くよう約束を取り付けるという事態になった。しかし、そんな約束が守られる保証はなく、実際に多くのキューバ軍兵士は「主謀者のカストロを発見した場合は即座に射殺しろ」という命令を受けていた。



◆ペドロ・サリア中尉の役割

キューバ革命の始まりはフィデル・カストロが150名の若者を引き連れて行なったモンカダ兵営襲撃事件であったが、そのモンカダ襲撃は大失敗と呼べる内容であった。その展開次第では、キューバ革命というものは、はじまりさえ無かったという歴史になっていてもおかしくない、そうした最悪の状況となった。

8月1日、モンカダ事件から6日後の朝、モンカダ兵営のパトロール隊長のペドロ・サリア中尉は17名の兵士を従えて、逃亡する反乱軍の捜索に出掛けた。このサリア中尉は当時53歳の黒人であった。どこの国にも差別問題というものは転がっており、キューバにあっても肌の色を考えた場合、サリア中尉は充分に出世した軍人であると言えた。

サリア中尉率いる捜索隊一行はトラックに乗って農場で降りて捜索を始めた。双眼鏡で辺りを見渡していると、三キロほど先にある山の中腹に一件の山小屋がある事に気付いた。サリア中尉は部下たちに山小屋を包囲するように指示し、自らも、その山小屋に向かう事にした。

包囲した山小屋内には、サリア中尉と数名の部下が一緒に立ち入ると、なんと、そこには反乱軍リーダーのフィデル・カストロと、他2名が疲れ果てて眠っていた。兵士らは巨躯のカストロの姿を視認し、即座に射殺しようとしたが、サリア中尉が、それを遮るようにして、その山小屋で寝ていた三人に名前を問い掛けた。

フィデル・カストロ以外の二人は正直に本名を答えた。そしてフィデル・カストロはというと、名前を問われて、

「ラファエル・ゴンサレス」

と偽称し、その難を乗り切ったという。何故なら、このとき、捜索隊の隊長であったサリア中尉はカストロに対して、小声で

「本当の名前を決して言ってはいけない」

と忠告した為であるという。

このペドロ・サリア中尉の逸話は、神話めいており、後から挿入された話のようにも聞こえるが、実話であるという。サリア中尉は、直感的に、主犯のフィデル・カストロを庇い、傍らの兵士によって射殺される事を防ぐために「本当の名前を決して言ってはいけない」とカストロに聴こえるように囁いたという。

キューバの人々は、この話が大変に好きで目を輝かせながら語るという。黒人のサリア中尉の咄嗟の判断が若き日のフィデル・カストロの絶体絶命のピンチを救ったという偶然――、その偶然にこそ、「神の采配」を見い出す為であるという。

【ペドロ・サリア中尉】という人物が、その時、その場所で捜索隊の隊長でなかったなら、キューバ革命の芽は消えていたかも知れない。となると、キリスト教ではない日本人の私にしても、こういう奇跡的な巡り合わせというものが【天の配剤】というものなのかな、と思う。

運命のような偶然。いや、偶然のような運命か。後から考えてみると、重大な役割、歴史的大役というものは、そこら辺の一個人だって、案外、無意識に背負わされたりしているのかもね。私には私の、あなたにはあなたの役割というものを全うすることに意義があるのかもなぁ。

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2017年04月17日

カストロとゲバラ〜4

◆バチスタ再選と特赦

カストロは150名を率いてモンカダ兵営を起こしたが生存者は122名。反乱軍のリーダーであったフィデル・カストロはペドロ・サリア中尉の咄嗟の機転によって射殺される危機を回避していたが、そのまま、当局に拘束されて法廷で裁かれ、反乱軍は刑罰を受けた。フィデル・カストロには懲役15年が、弟のラウル・カストロには懲役13年の判決が、それぞれ言い渡された。彼等は政治犯用に用意されたピノス島にある刑務所に収容された。

カストロはピノス島の刑務所内で、囚人たちを集めて自らが教師となり、歴史や時事問題のレクチャーをはじめたという。それは政治犯刑務所、その刑務所内の学校のようなものとなったが、徐々にカストロの抗議は過激なものになっていったので、途中からカストロは独房に入れられたという。

1955年2月、フルヘンシオ・バチスタが大統領選で再選を果たす。しかし、この時の選挙も不正選挙らしく、投票総数よりもバチスタの獲得票数の方が多いという珍妙な選挙であったという。実際に各県の選挙管理責任者が水増しした数字を報告した為に、奇妙な集計結果となったと考えられる。

しかし、バチスタが大統領再選を果たすとバチスタ陣営内には祝賀ムードが漂ったらしく、早々に国会には政治犯の特赦を認める法案が提出され、5月には可決された。バチスタ自身にして政治犯への特赦は乗り気ではなかったが、この程度のことは認めても差し支えはないと考えたかのよう。バチスタ体制は秘密警察組織を有して反乱分子を政治犯として検挙していたから、特赦は、バチスタ大統領にしてみれば、民衆に対しての狄裕い箸雖瓩任△蝓△修琉豬廚任△辰拭最早、バチスタ体制は揺るぎようがない状態でもあった。

かくして1955年5月15日、フィデル・カストロ、実弟のラウル・カストロらはピノス島の監獄から釈放された。

釈放された翌日となる同年5月16日にはカストロはハバナに戻ったが、ハバナに戻ってみるとカストロの元にはラジオ局や新聞社が殺到した。どういう目的でマスコミが殺到しているのか不明であったが、カストロはメディアを通して、犲由を求める戦い瓩僚斗彑を訴え、民衆の支持を得てやろうと取材に応じたという。しかし、カストロの声や談話がラジオの電波や新聞の活字になる事はなかった。通信大臣がバチスタの命令で報道機関に圧力をかけ、反乱分子の宣伝になる報道をしないよう手を打っていたのだ。

フィデル・カストロは、メキシコに亡命する事を決意する。そして、先ず手始めに弟のラウルをメキシコに向かわせた。


◆放浪のアルゼンチン青年医師

ラウル・カストロは、フィデル・カストロの実弟であるが長身のフィデルに比較して170センチ足らずの身長であり、体型にしても当時は女性のようなスマートなスタイルであったという。

そのラウルはメキシコ在住の同志であるニコ・ロペスから、一人のアルゼンチン人青年を紹介された。青年は医師であり、且つ、グアテマラからメキシコから、アメリカ・フロリダ州までもを放浪していた。また、その青年は既婚者でもあった。

そのアルゼンチン国籍でメキシコシティの公立心臓病病院のアレルギー病棟で助手として働いていた青年こそが、チェ・ゲバラ、その人であった。

チェ・ゲバラ(生没年1928〜1967年)とは、ニックネームであり、本名は略式名称でもエルネスト・ゲバラであった。【チェ】とは、ゲバラがメキシコに居てキューバ人たちに話すときに、「ねえ、きみ」という呼び掛けに相当する「チェ」(che)を頻繁に用いて喋る口癖からニックネームが「チェ・ゲバラ」となり、そのまま通名になってしまったという。

現在ともなると「チェ・ゲバラ」という名前は、革命のアイコン(象徴)にまでなっている人物ですが、その素姓というのは意外と語られていないような気がしないでもない。基本的にはアルゼンチン人の裕福な家庭に生まれた人物。幼少期から喘息持ちで、両親はエルネスト少年の喘息を心配して何度も転居をしている。

13歳ぐらいになると休暇を利用して自転車放浪旅行をするようになる。気ままな放浪の旅で野宿もすれば、費用を賄うために農場で働いたりして、一か月間も旅行をしたという。

1947年、ブエノスアイレス大学医学部に入学する。

1951年の年末から1953年春までは、自転車旅行をした幼馴染とオートバイで国外旅行の旅に出る。アルゼンチンからチリへ入ってからオートバイが故障したのでヒッチハイクに切り換え、ペルー、コロンビア、ベネゼエラ、マイアミ(米国)と旅行してからブエノスアイレスに戻り、1953年3月にブエノスアイレス大を卒業する。旅行中は皿洗い、人足、医療施設などで働き、旅費を稼いだという。

1953年、軍医に徴用される事を避ける為に再び流浪の旅をはじめ、ボリビア、ペルー、エクアドル、グアテマラ、コスタリカ、グアテマラと、まさしく放浪する。また、1953年に、キューバではカストロらがモンカダ襲撃事件を起こしますが、同年12月にカストロらの仲間でキューバ人亡命者のニコ・ロペスらと知り合う。

1954年、メキシコでニコ・ロペスらキューバ人亡命グループと再会し、親交を深める。

1955年5月、メキシコ市立病院に医師として就職。また、ここでイルダという女性と一度目の結婚をする。

1955年5月15日、フィデル・カストロが特赦により、釈放される。

1955年の7月〜8月にかけて、チェ・ゲバラは、ラウル・カストロ、そしてフィデル・カストロと出会う。

チェ・ゲバラという人物は元々はラテンアメリカ諸国の現状を見て回っていた放浪者であり、実は医師でもある。放浪中にもハンセン病の施設で医療助手をしている等、実は世間で思われているほど思想的背景が強い人物ではない。結婚相手のイルダからマルクス主義の本を沢山借りたというから、マルキシズムの洗礼は受けた青年である事は間違いないが、それ以上に思想的バックボーンとしては、「病めるラテンアメリカの政情を憂いていた」と考えらる。そんな中、キューバ革命に向けて動き出していたカストロ兄弟と出会い、チェは自分がアルゼンチン人であるにも関わらず、キューバ革命に参加する決意を固める。

フィデル・カストロは弁護士が生業であったワケですが、一方のチェ・ゲバラは医師が生業だったという事になる。フィデル・カストロが1926年生まれで、チェ・ゲバラが1928年生まれだから、カストロの方が二歳ほど年長であった。また、この二人が出会ったのが1955年だから、カストロが28〜29歳でゲバラは26〜27歳。若き革命家ですな。


◆余禄的「レッテル貼り」の原理

以下、少しだけ備忘録的な内容ですが、実は犇産党幻想瓩里茲Δ覆發里傍ど佞されます。チェ・ゲバラは、著書『ゲリラ戦争』の中で、ゲリラ戦争の本質、原理を説くわけですが、その最初には以下のように記した。

「ゲリラ戦争は、解放を目指す民衆の闘争の基盤である」

と。別に、それはマルクス主義の理念の是非や賛否そのものなのではなく、解放を目指す民衆の闘争なんですね。ゲリラとは【guerrilla】だそうで、元々はスペイン語。非正規軍による小規模な戦闘を意味する【guerra】の派生語であるという。

圧政に抗おうとするとき、民衆は統治者に対して抗議をしたり、場合によっては闘争をしなければならないという状況が発生する。それをいちいち、「反乱はけしからん」、「クーデターは禁止すべきである」という具合の頭ごなしの理解で、為政者と被為政者との関係性を肯定的に思考してしまうと、その者は、一生涯を、奴隷か、もしくは奴隷的な生活に甘んじる事になるという大原則がある。「キミは奉仕する人、ボクは奉仕される人」の問題に疑いを抱かなくなってしまうんですよね。

しかも、民衆による反乱とか、民衆による革命というのは、本来は、そんなに否定的に扱われる事柄でもない。1950年代頃からレッドパージの嵐が吹き荒れるワケですが、そこにも勿論、レッテル貼りが関係していて、なんでもかんでもアカと認定しさえすれば悪者に仕立て上げることが出来てしまうというカラクリが潜んでいるんですよね。つまり、任意の者を共産主義者と認定し、レッテル貼りを済ませてしまえば、多くの大衆は頭が悪いから簡単に煽動できるという論理によって、レッドパージの嵐が吹き荒れたワケです。

つい先日も、民進党の自称保守派のN議員が「共産党と共闘することに耐えられない」として民進党からの脱党を宣言しましたが、何のことは無い、共産党アレルギーを利用して物事を思考している証拠の一端かも知れない。

「アイツは共産主義者だ」

と言えば、その発言者は自動的に非共産主義者(=仲間)として認証されることになる。その政治的プロパガンダにダマされ続けている人が結構、多いと思う。その原理はナチスがユダヤ人の迫害をしたプロパガンダと実は同源なんですよね。ユダヤ人の悪口をいう者は、即ち仲間、味方であると認証される。こぞって、みんながユダヤ人排斥を叫ぶ。そういうプロパガンダに踊らされてしまうのが、大衆の素顔であって。(小泉政権時の【B層】の話とか、危険な軍事的プロパガンダを今風の「プロモーション戦略」という名称に言い換えて、露骨な世論操作を始めてしまいましたやね。)

一つの象徴を攻撃することで、自らの正当性を主張する。原理は狷Г潦┃瓩忙ている。その絵を踏んだ者は仲間であるが、踏めない者は敵であると認証し、排除する対象とする。物事の全体像を眺める視座があれば、その踏み絵のカラクリに気付くワケですが、一般大衆というのは、そういう思考を持たないものなんですよね。扇動に乗せられ、異分子というものを排除する事が正義だと信じてしまう。その挙げ句に迫害の当事者、つまり、加害者になってしまう。

反共思想に囚われるが余りにダマされ、旧統一教会に入れ上げてしまった戦後日本の右翼の黒歴史には、ダンマリじゃ、しょうがない。韓国系の何かに日本の右翼や保守政治家らが接近してしまったのは、どうしようもない事実ですよ。

実は、キューバ革命だけではなく、ベトナム戦争に於けるホー・チ・ミンのケースもそうなのですが、イデオロギー以前に民族解放闘争なんですね。このキューバ革命も然りであり、民族解放闘争が発生し、見本になったのがレーニンらが起こしたロシア革命であり、利用したのが当時の共産主義であり、よくよく観察してみると、ソビエトからの援助を引っ張り出す為に、その陣営に入っているのであり、原理とか本質というのは、飽くまでも、民衆によって自由の獲得を目指しての闘争である。

翻って、日本の場合は攘夷を掲げながら徳川幕府を倒して、それでいてちゃっかりと攘夷思想を捨てて、開国に踏み切った明治維新の歴史がある。かなり特殊なカタチで西洋的文明化を遂げてしまったので、日本人そのものの中に民主革命であるとか、民衆と権力機構との対立とか、支配者と被支配者の対立であるとか、そういう部分の意識が薄弱になっている可能性がある。

北一輝や三島由紀夫の思想系譜は、「軍隊は国民の軍隊であるべきだ」という信念に基づいている。しかし、現在の日本の保守思想や右翼思想というのは、そういう部分に曖昧さを残していますよね。国家という名前を名乗っている統治機構を盲信している。

【国家】という統治機構の概念を盲目的に崇め、その反面で生身の人間である国民を見下しつつある。そういう国家主義の傾向が、ホントに現在の日本に蔓延してしまったと思う。

極端な二択で表現をすれば、仮に私がちょっとばかり上級な地位の軍人であったとして、そんな私に対して民衆から

「あなたは国民の為に戦っているのか、それとも国家という統治機構の為に戦っているのか、どっちなんだ! ああん?」

と迫られた場合、きっと少しは迷うと思うんですね。

民衆を採るべきか?

それとも統治機構としての国家を採るべきなのか?

天安門事件の際の人民解放軍は、統治機構たるものを御主人様であると判断し、天安門広場に押し寄せていた中国人青年たちを銃撃し、戦車で轢き殺して事態を鎮圧したワケです。

国民主権とは何だろうね、というであって。

2017年04月18日

カストロとゲバラ〜5

◆グアテマラの政情

キューバ革命に第一歩を踏み出したフィデル・カストロ一行の元に、アルゼンチン人のチェ・ゲバラが加わったというのが、ここまでの流れでした。チェ・ゲバラはカストロらキューバ人亡命グループに加わって革命運動の同志になるほど、その革命思想に感化されたのかというと、別に唐突なものではない。チェ・ゲバラの場合は、ラテンアメリカを放浪し、特にグアテマラの政情を目撃した事が大きく関与しているという。

チェ・ゲバラが目にしてきた、爛哀▲謄泪蕕寮情瓩箸いΔ發里砲弔い董△靴个慧験します。


グアテマラではアメリカの支援を受けた独裁者ホルヘ・ウビコ体制があったが、その頃、人口の僅か2%にあたる人々が国土の60%を所有し、国民の50%は、国土の僅か3%の面積で生計を立てていた。

ウビコは1931年にグアテマラの大統領に就任した元軍人であり、政策としてはバナナやコーヒーの輸出振興を図るとともに、大衆運動を徹底的に弾圧して強権的な独裁体制を敷いていた。1944年にグアテマラで反乱が起こった為にウビコは大統領を辞任して亡命している。

1950年にはハコボ・アルベンス・グスマン大佐が、38歳という若さで大統領に選出される。グスマン大佐はハンサムであり、且つ、カリスマ的な魅力があったという。(以下、表記は「アルベンス大統領」で統一します。)

そのアルベンス大統領は、1951年3月の大統領就任演説で、公正な社会と社会改革の実施を宣言した。その演説は以下のようなものであった。

グアテマラの財産をすべて集めても、それは国民の中でも最も貧しい人々の生活や自由、尊厳、健康、そして幸福ほど大切ではありません。我々は、そうした財産を分配して、国民の圧倒的多数を占める、より貧しい人々がより多くの利益を得られるようにする必要があります。勿論、少数派である、より豊かな人々も利益を得るが、その利益は少なくなります。国民が直面している貧困や不健康、教育不足を考えれば、そうするより他にないのです。

同年6月、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、アルベンス大統領を批判して「グアテマラの癌」と非難する記事を掲載、ワシントンポスト紙は「グアテマラの赤血球」と題した社説を掲載した。要は、グアテマラに共産主義政権が誕生したと報じられていた。(【赤血球】は「赤い細胞」の意味になるので、アルベンスを共産主義分子だと揶揄した表現だという。)

アルベンス大統領は、グアテマラの産業振興に力を入れた。農業の近代化と、鉱山資源の開発に取り掛かったが、実は、それは、米国籍企業のユナイテッド・フルーツ社と敵対する事を意味していた。ユナイテッド・フルーツ社はグアテマラに於いては、鉄道、港湾、船舶、そしてとりわけ巨大だったのがバナナのプランテーションで莫大な権益を持っていた。実際にはアメリカが支援していたウビコ独裁政権時代に、バナナの輸出振興政策が採られた事と深く関係している。

また、このユナイテッド・フルーツ社という企業は米資本主義の黒い闇を背負っているような企業であった。アルベンス大統領時代、ユナイテッド・フルーツ社の大株主はアメリカCIA長官のアレン・ダレス長官であり、そのアレン・ダレスの実兄は、当時のアイゼンハワー政権で国務長官をしていたジョン・フォスター・ダレス長官であったという途轍もない現実がある。

ニューヨークタイムズ紙にワシントンポスト紙も、アルベンス政権を共産党政権と呼称して批判していたが、グアテマラ労働党はモスクワやクレムリンの意向そのものとは関係なしにグアテマラに登場した独立した組織であった。よくよく検証してしまうと、別にアルベンス政権はクレムリンに繋がっている共産主義陣営ではない。アメリカの為政者の都合で、危険な共産主義政権がグアテマラに登場したという具合に報道され、そのように認識されてしまうという話でしかない。

しかも決定的な証拠も示されており、ダレス兄弟の法律事務所には、1930年と1936年とに、ユナイテッド・フルーツ社がウビコ時代のグアテマラ政府と締結した契約書があった。また、アレン・ダレスの前任のCIA長官職にあったウォルター・ベデル・スミス国務次官は、1955年にはユナイテッド・フルーツ社の副社長に就任している。また中南米担当の国務次官補であったジョン・ムーアズ・キャボットはユナイテッド・フルーツ社の主要株主であった。その兄のトマス・ダドリー・キャボットは国務省管轄の国際安全保障局長官を務めた人物であるが、以前はユナイテッド・フルーツ社の社長であった。まだまだ、名前を挙げることが出来てしまい、国家安全保障会議のトップとなったロバート・カトラー大将は、かつてユナイテッド・フルーツ社の取締役会長であった。

(うーむ。どうやら、満鉄みたいなものだったという事なんでしょうかね。国策企業のようなもの。少し違うな。傀儡国家満州の中の満州鉄道と捉えるべきかな…。つまり、グアテマラ政府とアメリカ政府高官との間で契約が存在し、1932〜1944年までのウビコ独裁政権は裏でアメリカが支えており、ユナイテッド・フルーツ社はアメリカの政府高官が実質的に経営しているような状態。スペイン帝国のようなアカラサマな植民地経営ではないが、それでいて内容は似ている。ラテンアメリカの独立国家、その政権そのものをアメリカの政府高官が操縦できる。うーむ。日本でもアメリカの諜報機関から資金が流れており、その人たちが政権トップになってたりしますが、それがより、露骨に表出したのがラテンアメリカだったという事ですかねぇ。)

グアテマラに登場したアルベンス政権は、ユナイテッド・フルーツ社によるグアテマラ支配を脱しようとするワケですが、チェ・ゲバラは放浪中にグアテマラで、そのアルベンス政権とユナイテッド・フルーツ社との闘争劇を目撃していた。



◆アルベンス大統領VSユナイテッド・フルーツ社

グアテマラに誕生したアルベンス大統領は敢然とユナイテッド・フルーツ社の利権に手を掛けてみせた。大規模な土地改革計画を発表し、その手始めとしてユナイテッド・フルーツ社(以下、フルーツ社)が所有する900平方キロメートルの土地を接収し、その見返りとしてフルーツ社に対しては補償金として60万ドルの支払いを申し出た。その60万ドルという金額については、フルーツ社が過去にフルーツ社自身が安価に算出した土地評価額から算出したものであった。

その状況に対して、フルーツ社の方は補償金の増額を要求した。するとアルベンス大統領は更に700平方キロメートルの土地をフルーツ社から接収するという手段に出た。

グアテマラに登場したアルベンス政権に手を焼いたフルーツ社側の人間が、「アルベンス大統領は共産主義者である」というプロパガンダを仕掛け、ニューヨークタイムズ紙もワシントンポスト紙も、そのプロパガンダに乗ってしまったのだ。アメリカの世論は共産党脅威論とでも呼ぶべき幻想と結び付けられ、情報が拡散した。

アルベンス政権が誕生した翌年となる1952年、トルーマン政権下のアメリカではグアテマラから国外追放されてホンジュラスに亡命していたカルロス・カスティージョ・アルマス大佐という人物に白羽の矢を立てて、そのカスティージョ・アルマス大佐にアメリカが武器を提供し、アルベンス政権を打倒するという計画を立てた。

その後、アメリカはアイゼンハワー政権となる。先にも触れた通り、アレン・ダレスCIA長官はユナイテッド・フルーツ社の大株主であった。そしてアイゼンハワー政権では、アレン・ダレスの実兄であるジョン・フォスター・ダレスが国務長官になり、アルベンス政権打倒に動いた。

1954年3月28日、ベネズエラの首都カラカスで米州会議に「国際共産主義活動防止決議案」を米国務長官のジョン・フォスター・ダレスが提出した。それは米州全体にとって一国でも共産主義国が成立してしまうと米州全体の主権が脅かされるという主旨のものであった。事前にグアテマラのアルベンス政権を共産主義だと攻撃していたのだから、それは間接的にグアテマラのアルベンス政権に対しての果たし状のようなものであった。

間もなく、ホンジュラスに亡命中の元グアテマラ軍人のカスティージョ・アルマスにはCIAから資金が提供された。カスティージョ・アルマスは600名程度の傭兵を集めると同時に、グアテマラとの国境付近にラジオ放送局をつくり、そこから「グアテマラを国際共産主義から解放する」という主旨の放送を続けた。

1954年6月には、CIAが訓練した傭兵がホンジュラスとニカラグアの基地からグアテマラを攻撃し、その際にはアメリカ空軍も支援した。それでも行き詰まると、今度は国外追放されていた前出のカスティージョ・アルマス大佐に対して航空機を提供した。そのアイゼンハワー政権時のアメリカの手法には、イギリスやフランスも眉を顰めたという。そんなことをしてグアテマラの政権を倒そうとつするのは、いわば侵略行為ではないのか――と。

グアテマラ政府軍、つまり、このとき、アルベンス政権軍は7000名の兵力を誇っていた。カスティージョ・アルマス軍の兵力は600名。緒戦はアルベンス軍が侵入してきたアルマス軍に勝利している。しかし、徐々に戦況は変わっていったという。アルベンス大統領の支持層は農民や労働者たちであり、必ずしも軍人ではない。一方のアルマス軍の場合、そのバックにはCIAから融通された潤沢な資金があった。(※後にチェ・ゲバラは、このときにグアテマラの市民は武器を手にしてアルベンス軍と一緒になってアルマス軍と戦うべきだったと回想する。)

徐々にアメリカの支援を受けているアルマス軍が優位に立ち始め、アルベンス大統領の政権軍は劣勢に追い込まれてゆく。アルマス軍はラジオ放送と空から撒くビラにより、「我々が戦っているのはグアテマラの正規軍ではなく、アルベンス個人や、その一派に対して戦いを挑んでいる」と宣伝した事が大きいとされる。

1954年6月27日の夜、アルベンス大統領はラジオ演説に踏み切る。アルベンス大統領はアメリカに抵抗する事は無駄だと悟った為、自らが退き、グアテマラの陸軍参謀長に権限を委譲することにしたのだ。

アルベンス大統領はラジオ演説で訴えた。

「ユナイテッド・フルーツ社は、アメリカの政治家連中と手を組んで、今、グアテマラで起こっている事態に関与している」

〜略〜

「血塗られたファシズム的専制政治がこれから二十年続くだろう」

と。

アルベンス大統領はラジオ演説で、最後にグアテマラの陸軍参謀長に権限を委譲することにしたと発表した。しかし、それはアメリカの意向に反した政権移譲であったから、結局は叶わなかった。アメリカ軍はグアテマラ軍の練兵場と政府ラジオ局とに爆撃を行ない、アメリカ大使館の飛行機でカスティージョ・アルマス大佐をグアテマラに輸送し、そのカスティージョ・アルマス大佐が、グアテマラの新大統領に据えらえた。


1954年6月30日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は

「グアテマラ危機はグアテマラ国民自身によって解説された」

「ソビエト連邦の共産主義に対しての民主主義の勝利だ」

と、アメリカ国民に向けて演説した。

カスティージョ・アルマス新大統領は、その直後にワシントンを訪問し、ニクソン副大統領との間でアメリカへの忠誠を約束した。その後の二年間で、カスティージョ・アルマス政権はアメリカから9000万ドルの財政援助を受けた。その額はアルベンス改革政府が10年間に受け取っていた援助額の150倍にも相当するものであった。

しかも、そのカスティージョ・アルマスも三年後に暗殺され、結局はユナイテッド・フルーツ社は、アルベンス政権時代に接収された土地を取り戻している。

チェ・ゲバラは、このグアテマラの政変劇があった1954年にグアテマラシティに滞在していた。グアテマラでは殺戮劇が繰り広げられていた為、アルゼンチン大使館に身を隠しながらも、その政変を冷静に観察していた。

チェ・ゲバラは母親宛ての手紙の中に

「(アルベンス大統領には)国民に武器を与えることが可能だったのに、そうしたがらなかった。その結果がこれです」

と記していたという。チェ・ゲバラは放浪中、グアテマラの政変劇の真っただ中グアテマラシティで、民衆は自らの手で武器を持ち、グアテマラ人はグアテマラ人の為に戦うべきだと周辺には訴えていたとも言う。

チェ・ゲバラはグアテマラの政変劇を間近に経験したからこそ、武器を手にして戦わない限りは自由は獲得できないという武装革命思想になったと考えられる。

2017年04月19日

カストロとゲバラ〜6

◆本格的なゲリラ部隊へ

フィデル・カストロは特赦によって出獄した後、メキシコに亡命しているキューバ人亡命グループと合流する。その際に、アルゼンチン人で医師として働いていたチェ・ゲバラと出会った。チェ・ゲバラは放浪体験からラテンアメリカ全体を見渡して革命の必要性を強く抱いていたが、カストロらのキューバ革命計画を知ると、キューバ革命への参加を強く希望し、受け容れられた。

フィデル・カストロは衣服らを売り払って得たカネで革命運動の主旨を記した小冊子「七月二十六日運動」の印刷を手掛け、精力的な遊説を展開した。1955年10月にはメキシコを発ち、アメリカに入り、マイアミ、フィラデルフィア、ニューヨークを回り、各地でキューバ系の人々にキューバの実情を訴える演説をし、冊子を配布し、そして寄付を求めた。

メキシコに拠点を置いたカストロの同志らは、本格的なゲリラ戦に備えての訓練を開始した。彼等にゲリラ戦のノウハウを教えたのは、当時で60歳を超えていたというアルベルト・バヨ(元)将軍であった。

バヨ将軍はキューバ生まれながらスペイン士官学校を卒業し、スペイン軍としてスペイン領モロッコで10年以上の戦闘経験を持つ元軍人であった。このバヨ将軍のモロッコ赴任時代の上官は、かのフランコ将軍であったという。その後、スペインではフランコ将軍による「スペイン内乱」が発生すると、バヨ将軍は、かつての上司であるフランコ将軍との戦いに挑んだが、フランコ将軍が勝利し、敗れたバヨ将軍はというと身の危険を感じて、丁度、メキシコに亡命していたのだ。

バヨ将軍は、フィデル・カストロの革命主旨に共感し、ゲリラ部隊の訓練を買って出たという。よって、バヨ将軍が、一から軍事訓練を授けたという。銃器の構造と扱い方、行軍、渡河訓練、登山訓練、機動演習、露営の仕方、更には実際のゲリラ戦で重要になってくるであろう手榴弾の扱い方、地雷の作り方など。しかも、このバヨ将軍によるゲリラ部隊教育は実に一年以上の年月を費やして行われたという。

キューバ革命を起こさんとした若者たちはチェ・ゲバラも含めて、実は一度も実弾入りの拳銃を撃った経験がない者も多かったという。チェ・ゲバラは少年時代から喘息持ちであり、時折、喘息の発作を起こしたが、中々の優等生であり、且つ、本物の医者であった事から衛生兵として欠かせない存在であったという。証言に拠れば、チェ・ゲバラの射撃の腕前は、天才的な射撃の腕前だったとされるフィデル・カストロに次いで二番目の腕前であったと後に証言されているという。


◆キューバ上陸作戦前夜

フィデル・カストロは、本格的な武装クーデターとしてのキューバ遠征の計画を立てた。当初は1956年3月にメキシコのトゥスパン港からヨットでキューバに上陸作戦を決行するつもりであったが、遠征は順延に順延を重ねたという。武器の調達に、ヨットの調達に手間取った事が要因とされるが、その影響で、バヨ将軍によるゲリラ訓練は高いレベルのものになったと眺めることもできる。

なんとか船舶を調達したが、それは全長18メートルのもので、定員は8名というグランマ号であった。キューバ上陸作戦の実行部隊は83名であり、8名乗りのグランマ号に83名が乗り込んでホントにメキシコからキューバまでの遠征が可能なのかどうか首を傾げたくなるところですが、先に述べてしまうと、定員8名というグランマ号に一人が欠けて82名が乗り込んで、後にキューバ上陸作戦を決行している。「やればできるの精神」だったのか対戦車砲2門と人数分の小銃を積み込んでキューバまで遠征したというから驚かされる。

また、この頃、祖国キューバでは、米帝傀儡バチスタ政権がメキシコに渡ったフィデル・カストロ一味が不穏な動きをしている事をキャッチし、メキシコ警察当局に革命分子の取り締まりを要請するなど、水面下では早くも革命ツブシが始動していた。実行部隊83名がグランマ号の出航時には82名に減っているのはメンバーの内の一人がメキシコ当局に逮捕された為であった。また、もう一人、逮捕されたのがチェ・ゲバラであった。しかし、チェ・ゲバラの場合はアルゼンチン国籍であった上にメキシコシティの病院で働いている医師であった事から56日間の拘留の後に解放された。


1956年11月25日、キューバ上陸作戦は延期に延期を重ねながらも決行の日と決定する。同月25日、予定通りにメキシコのトゥスパン港を発てば、同月30日にはキューバのニケロ市に上陸できるという算段であった。計画では地下運動員のフランク・パイスが、ニケロ市の東にあるサンチャゴ・デ・クーパ市で30日に武装蜂起を同時に起こす事も決定していた。

更に、ニケロの上陸地点には、農民ゲリラ部隊と合流する約束も成立していた。クレセンシオ・ペレスという人物が百名程度の農民ゲリラを率い、そこでカストロ一行と合流するという約束が出来ていた。このクレセンシオ・ペレスは思想背景的には全く異なる農民ゲリラであったが、バチスタ政権に対しての憎悪では一致していた。この農民ゲリラ軍のリーダーであったクレセンシオ・ペレスは、過去にバチスタ政権の秘密警察に逮捕された際に拷問を受け、下腹部を抉り取られ、男性機能そのものを抉り取られた傷を持つ男であったという。

1956年11月25日の深夜二時頃、フィデル・カストロは、グランマ号のデッキに立って言い放った。

「われわれは、自由を勝ち取るか、さもなくば殉教者となるだろう」

8人乗りのヨットに82人を乗せたグランマ号は、夜霧の漂う中、メキシコからキューバを目指して海に出た。

チェ・ゲバラは四行詩を得意にしていたそうで、詩を残した。

さぁ、行こう

黎明の 燃えるような 予言者よ

音もなく ひそかな道を抜け

君が かくも愛する 緑の島の解放へ


その「緑の島」とは、ワニの形をした緑の美しい島、キューバを指している。

2017年04月20日

カストロとゲバラ〜7

◆カストロ反乱軍、キューバに上陸する

8人乗りのヨットに82名が乗り込んでの遠征は予想できる通り、苛酷な船旅となったという。出航して間もなくグランマ号は波に揺られ、船酔いが続出。人員だけではなく武器や食料も積載していたが必要最小限の荷物以外は海に投棄。

1956年11月30日には二コラ近郊の海岸に辿り着く予定であったが、予定の30日が過ぎてもキューバの島影は見えて来ず。カストロ率いる反乱軍の別動隊のフランク・パイスは予定通り、30日に二コラとグアンタナモ米軍基地との中間にあるサンチャゴ・デ・クーパで小規模な武装蜂起を起こしたものの、僅か数時間でバチスタ政府軍に鎮圧される。

無謀な上陸作戦に終わるかと思われたが、予定から2日遅れて、グランマ号は緑の島・キューバの島影を発見する。それはニケロ近郊のコロラダス湾であった。カストロ反乱軍はキューバへの上陸を急いだが、グランマ号はバチスタ政府軍の沿岸警備隊のパトロールボートに発見されており、反乱軍は各自で荷物を持てるだけ持って、胸まで海水に浸かりながら浅瀬を駆け足して上陸したという。

かくして1956年12月2日、カストロ反乱軍は82名全員無傷のまま上陸に成功。しかし、安堵の時間は殆んどなく、バチスタ政府軍の飛行機が低空飛行で飛来した為、上陸すると直ぐに湖沼地帯へと逃げ込んだ。この地方の湖沼地帯は背の高いマングローブで覆われている為に身を隠すのに最適であったが、そのマングローブの森を更に抜けて、サトウキビ畑に抜けてみると、82名あった反乱軍は74名になっていた。差し引き8名程はサトウキビ畑に辿り着けず、そのまま行方不明になったという。

サトウキビ畑からはシエラ・マエストラ(マエストラ山脈の意)に侵入し、そのマエストラ山脈地帯をアジトとしてゲリラ戦を展開させる計画であったが、カストロ反乱軍の動向は上陸時点からバチスタ政府軍に捕捉されており、難航した。バチスタ政府軍はカストロ反乱軍を殲滅すべく、既に動いており、待ち伏せ作戦を展開させていた。

1956年12月5日、カストロ反乱軍がサトウキビ畑で休憩中、バチスタ政府軍は急襲を仕掛けた。この急襲はカストロ反乱軍にとっては最大のピンチだったと回想される出来事であり、メキシコで医師をしていたチェ・ゲバラをラウル・カストロに紹介した古参隊員のニコ・ロペスが戦死。また、チェ・ゲバラも胸部に被弾し、死の境界を彷徨うという状態へ。

急襲を受けたカストロ反乱軍は、3〜4名の単位に分散してシエラ・マエストラの最高峰であるトルキノ山、そのトルキノ山の山頂で落ち合う約束をして、四散逃亡した。トルキノ山には、予め共闘を約束していたクレセンシオ・ペレスが率いる農民ゲリラ部隊が結集しており、トルキノ山まで辿り着けば地域一帯の農民ゲリラ軍と合流することが可能であった。

反乱軍は小さなグループに分散していた。フィデル・カストロ他2名、ラウル・カストロ他2名、チェ・ゲバラ他3名、カミーロ・シエンフエゴス他3名といった按配。

フィデル・カストロ一行と、ラウル・カストロ一行とは、並行したルートでトルキノ山へ向かった。どちらも並行して山中を移動しトルキノ山に向かってはいたが、実は互いに敵が並行して追尾してきていると考えていたという。

チェ・ゲバラ一行はサトウキビ畑で被弾しており、ゲバラ自身が重傷を負っていた。ゲバラ自身、従容(しょうよう)として自らの死を受け容れる気になっていたが、そこにカツを入れたのが、カミーロ・シエンフエゴスであった。

カミーロ・シエンフエゴスは、キューバ革命史に於いて、チェ・ゲバラと並び称される革命の英雄である。チェ・ゲバラに拠れば、カミーロ・シエンフエゴスとは「最高のゲリラ指導者にして完全な革命家」であると称される人物であった。

このチェ一行は低空飛行をするバチスタ政府軍機による機銃掃射にも遭い、被弾しているチェは這いつくばりながら逃げ果せたという。

このサトウキビ畑に於ける政府軍機の機銃掃射によって多くの反乱軍兵士は戦死しており、しかもバチスタ政府軍は山岳部に対しての残党狩りも展開しており、カストロ反乱軍は上陸から息つく暇もなく厳しいサバイバル戦を強いられている。


◆トルキノ山まで

チェ一行もトルキノ山を目指すこととなった。カミーロ一行とは、偶然に或る漁師小屋で再会した。

カミーロ一行は事前にサトウキビ畑でサトウキビを刈り込んで保有しており、ゲバラ一行はカミーロの御蔭でサトウキビにありつく事ができたという。カミーロは何と優秀であるのかとチェは痛感するワケですが、実はカミーロは無類の食いしん坊であり、トルキノ山を目指すまでに何度も何度も食糧の補給をカミーロが申し出て、チェは困惑したという。

実はチェは、炭小屋などに入って小屋にある食べ物を漁るにしても、きっちりと代金に相当する金額を小屋に置いておくという律儀な性格であった。だから単純に食糧を調達するにもカネがかかる。また、チェは農民ゲリラや農民といった人々に対してもきちんと対価を払うという信念の持ち主であり、農民ゲリラらが「道案内をする代わりに機関銃をくれ」と言われると、機関銃を上げてしまうような人物であった。(一件、いわゆる爛瀬瓩淵筌牒瓩忙廚┐襪、実は後にチェ・ゲバラがゲリラのカリスマとなるのは、チェという人間の、そうした律儀にして吝嗇な性格と関係している。)

チェは、食料調達するとカネがかかる上に目だってしまうから、寄り道をしたくなかったが、カミーロという男はどうにもこうにも狄いしん坊瓩任△蝓⊂屋や集落を発見すると必ず「食料を調達しよう!」と言い出したという。確かに、その食い意地の張ったカミーロが、サトウキビ畑で刈ったサトウキビを分けてもらい、実際に飢えをしのんだチェとしては断りにくい。なんだかんだいってチェはサトウキビをもらったことで、カミーロに対しての好意的な感情を有していたという。実は、カミーロはバヨ将軍によるゲリラ訓練に参加していない人物であったから、この時までチェをはじめ、多くの反乱軍兵士はカミーロに対して懐疑的で、ウラでは「カミーロはスパイなのではないのか?」と陰口を叩くほどだったという。

チェ一行とカミーロ一行とは合流してトルキノ山を目指したが、ちょっとしたオチが待ち受けていた。カミーロが仔山羊一頭を調達してきて、みんなで食べようという事になった。無論、なによりも食いしん坊のカミーロが多くのヤギ肉を食べたが、食あたりを起こし、全員が猛烈な下痢に悩まされるという地獄のような展開が待っていたという。実際に1名ほどが、このときの下痢で脱落、行方不明になっている。

また、ブエノスアイレス大卒で現役の医師でもったチェ・ゲバラはインテリであったが、「北極星を目指せばいい」と北極星らしき星を見つけ、その指針に沿ってトルキノ山に向かっていたが、実はチェの勘違いで、北極星ではない星を北極星と思い込んで進軍していたという。

トルキノ山の山頂に辿り着いたとき、82名あった反乱軍は僅か17名になっていたという。チェとカミーロの一行とでは激しい下痢。その上、チェ一行の場合は道案内の見返りに武器の大半を農民ゲリラに与えてきてしまっていた。


バチスタ政権は国営ハバナ放送を利用して「反乱軍を殲滅した」と喧伝し、それと同時に主謀者であるフィデル・カストロ死亡説を流し始めていた。

2017年04月21日

カストロとゲバラ〜8

◆チェ・ゲバラの聖性

1956年12月5日に反乱軍は政府軍の急襲を受けた後、反乱軍の動向は掴みにくくなっていたが、12月20日には反乱軍主要メンバーを含めて17名がシエラ・マエストラ(マエストラ山脈)中で落ち合う事に成功していた。シエラ・マエストラ地域で農民ゲリラを率いていたクレセンシオ・ペレスからカストロ反乱軍は兵士15名の補充を受けて、体制の立て直しに成功していた。

1957年1月17日、ラ・プラタ兵営に対する襲撃を行ない成功させる。当初は銃撃戦を展開させたが、後に調達していたブラジル製の手榴弾を投げつけるが不発。3個投げても不発だったという。転機となったのはチェがココナッツ小屋に放火したところ、政府軍兵士に動揺が起こり、逃散を始めた。反乱軍が逃散する政府軍兵士を狙い撃ちにする状況になったが、ここでもチェが敵兵に対して投降を呼び掛け、負傷した政府軍兵士に対して衛生兵であるチェは医療的な手当を施すという律儀な対応をしてみせたという。

「逃げ遅れた敵の負傷兵があれば射殺するか惨殺するのが当たり前」というのが当時のキューバでは相場であり、常識であったが、その常識を覆し、聖性で敵の負傷兵い当たったのだ。

フィデル・カストロは雄弁にしてリアリストの一面を持っていたが、チェ・ゲバラはというと思弁の人であり、理想主義のロマンチストであった。チェが反乱軍に参加したのは、この上陸作戦からであったがチェは無人の炭小屋から食料を調達するにしても応分の金銭を小屋に置いてきたし、道案内役を申し出た農民が在れば、その農民に道案内の対価として銃を与え、敵の負傷兵が在ればキッチリと傷の手当てを施す、そういう高い精神規範の持ち主であったという。

或る種、聖性とでも呼ぶべきチェの規範意識――それはキューバは勿論、アルゼンチンでも珍しい高潔さであるという。ラテンアメリカ全体としても珍しい。他者に対して献身的な性格。また、自己に対して厳しい吝嗇(りんしょく)であったという。公的なカネと私的用途のカネにはうるさいタイプ。服装に関して言えば、かなりの無頓着で着古して擦れきれているような服を平気で来てしまう人であったという。

後に、敵兵は「チェ・ゲバラが反乱軍の指揮官である」と知ると、「チェ・ゲバラが指揮官であれば投降しても殺されないで済む」と考え、バチスタ政権軍の兵士が反乱軍へと投降してくるようになるという現象を惹き起こす。「チェ・ゲバラ」の名前は、「フィデル・カストロ」という名前と同じように広く知れ渡ってゆく事となる。


密林地帯に於けるゲリラ戦、その苛酷な状況下で、反乱軍が高い軍規を維持していたというのは、中々に驚かされる話かも知れませんやね。勿論、村娘を暴行して銃殺刑になった反乱軍兵士なども居るには居るのですが軍規違反に対しては、キッチリと反乱軍内で統制をとっていたという事のよう。


◆フィデル・カストロ死亡説

国営ハバナ放送は「反乱軍は全滅した」、「モンカダ兵営事件を起こしたフィデル・カストロが反乱軍のリーダーであるが既に死亡している」とキューバ国内に報じていた。

「フィデル・カストロは死亡した」という報道のウラには、意外な実情が隠されていた。民衆の半数程度は、バチスタ政権の暴政にウンザリしており、そういった人々にとっては反乱軍のリーダーとしてバチスタ政権に戦いを挑んでいる爛侫デル・カストロ瓩箸いμ樵阿蓮峇望の星」であり、実はカストロ反乱軍に対しても陰ながら拍手を送っていたような者が少なくなかったのが実状であったという。

因みに、この当時、キューバには人民社会党という政党が存在し、それはいわゆる共産主義を綱領としていた政党であったが、カストロの武装闘争を否定していた。ずっと後に人民社会党はキューバ共産党になったが、その幹部らと面会した際、フィデル・カストロは

「あなたたちは、牢獄の中でひそかに殺されてしまう幹部を養成することはできるかもしれないが、雨あられと飛んでくる敵弾の中へ突撃する戦士をつくることはできない」

と、侮蔑的なニュアンスを含んだ皮肉を述べている。

死亡説を流されていたフィデル・カストロは、自らが健在であること、そして反乱軍の勢いは未だ衰えていないことを、宣伝する必要性があると考えた。プロパガンダ戦術として、メディアをどのように使用するかという問題と関係しているワケですが、カストロは、中立的な外国人ジャーナリストを探し出し、アジトにしているマエストラ山脈まで連れてきて、世界に情報を発信することを画策した。

水面下で、適当なジャーナリストを物色する中で、ニューヨーク・タイムズの記者のハーバート・マシューズが丁度、ハバナで休暇を取っている事は判明。工作にあたったのはファウンティーノ・ペレスであった。ペレスがハーバート・マシューズにカストロとの会見を打診してみると、マシューズは「これは世界的なスクープになる!」と飛びつき、マエストラ山脈に潜入することにした。

1956年2月17日にフィデル・カストロはマシューズを相手とした単独会見を行なった。ニューヨークタイムズによって、それが報道がなされたのは同月24日であった。

紙面にはフィデル・カストロが照準鏡付きライフルを構えた写真も掲載され、「カストロ生存」はキューバのみならず、南北アメリカに衝撃を与えたという。

情報戦としてマスコミを利用する事、説明することの重要性をカストロは理解していたという。一方のチェ・ゲバラは実はマスコミをアジトに招くことに反対していたという。チェの方はというと、ジャーナリストに紛れてスパイを招き入れてしまうリスクがあると消極的に捉えていたという。ここでも、カストロとゲバラの対照的な思考回路が現れていますが、それが両軸として回転して反乱軍は更に勢いを増してゆく事になる。

2017年04月23日

カストロとゲバラ〜9

◆「聖性」と「仁義」

1957年5月28日、ウベロ兵営を攻撃する。政府軍約50名がいる駐屯所を反乱軍80名で襲撃したものであったが、政府軍は機関銃を有しており、戦術としても守備に徹した為に戦闘は拮抗した。最終的に反乱軍は勝利を収めたものの6名が戦死、負傷者15名を出した。

1957年7月12日、「シエラ宣言」を発した。そこでは全ての市民組織、全ての革命勢力を統合する一大革命市民組織を結成する必要性を説いた。そして年末までに、自由選挙の実施、政治犯の釈放、言論の自由、農業改革、臨時政府の主宰者を指名することを掲げた。

「シエラ宣言」はハバナからラウル・チバスとフェリペ・パソスという人物がフィデル・カストロの元に訪問し、話し合った結果に出された宣言であった。チバスはオルトドクス党という政党の党首であったエドアルド・チバスの実弟であった。兄のエドアルド・チバスは悪政に抗議してラジオ放送中にピストル自殺しており、その弟がラウル・チバスであった。パソスは、かつて国立銀行の総裁で地位を利用しての公金横領もせずに辞職した事から評判のいい人物であった。この「シエラ宣言」では臨時政府の主宰者の項目はパソスの要望によるもので、パソスは臨時大統領の地位を狙っていた。

パソスとチバス、その二人のハバナからの訪問者をフィデル・カストロは政治的に利用しようとしたが、チェはチバスやパソスを軽蔑していたという。

シエラ宣言の後に、反乱軍は再編成された。反乱軍ではコマンダンテ(少佐)が最高位であり、フィデル・カストロは死ぬまでコマンダンテであったが、この1957年7月にチェ・ゲバラをコマンダンテとし、第二部隊の指揮官長としていた。(実質的には第二部隊の指揮官であったが、部隊編成数を多く見せかける為に対外的には「第四部隊」「第四部隊指揮官チェ・ゲバラ」と名乗っていた。)

この頃から、政府軍兵士にもチェ・ゲバラの名前は知れ渡るようになっており、

「殺さないでくれ! チェが捕虜を殺してはいけないと言ったぞ! チェが言ったぞ!」

と叫びながら投降してきたという。実際に、そういうケースが増えていったという。

東洋思想に於ける【仁】という概念の話とも適度に交錯してくるような話でもある。「項羽と劉邦」では、項羽は豪傑であり、また実際家(リアリスト)であったのに対して、劉邦は人から慕われる仁の人であったと描かれている。元々の劉邦は下級役人の息子でロクに働きもせず、酒色に溺れる放蕩三昧の人であったが何故か劉邦の元には人々が集まるという人気の人(与太郎のような車寅次郎のような。もしかしたら田中角栄的か?)であったという。項羽が自軍にとって不利益な敗残兵を平気で「わが軍にとって不利益だから」という理由で処刑できてしまう実際家、つまり、マキャベリズム的なリーダーであったのに対して、劉邦は違うんですね。劉邦の方はというと、項羽が捕虜の大量虐殺を行なった事こそを理由にして、大義の戦争を仕掛ける。それが【義】の概念なんですね。【義】とは現代語で平たく言えば「社会性」となるのですが、そこには「社会的に好ましくない行ないに対しては、義を発動してよい」という具合に東洋思想は編纂されている。

しかも、その劉邦の起こした犂銑瓩漢民族という場合のそれでもある。【仁】と【義】は、確かに司馬遷の「史記」からも読み取れてしまう東洋思想の何かである。また、その話は「三国志演義に於ける主人公が何故、曹操ではなく劉備なのか?」にも繋がっているし、この話は【覇道】と【王道】との差異も実は同じ構図である事に気付かされる。

チェ・ゲバラの場合には敵の負傷兵に対しても手当てをするという高い規範意識というか、キリスト教的な高潔な意志の力というか、そういうものになりそうですが、確かにカリスマに成りえそうな資質を有していたようにも思える。

仏パリマッチ誌の特派員であったエンリケ・メネセスは、チェ・ゲバラに従軍した人物であるが、チェ・ゲバラを次のように評した。

ゲバラには心から献身している数人の部下がついていた。彼らと話し合ってはっきりしたのは、この連中がカストロよりもゲバラを革命に重要だと考えていたことである。

〜中略〜

もしフィデル・カストロが夢をみることができるとしたら、チェ・ゲバラはそれらの夢を、少なくともそのいくつかを現実のものにできる男だというのが、その当時の私の感じであった。このアルゼンチン人の医師がメキシコで七月二十六日運動の反乱軍に加わってから私が彼と会う時まで、フィデルとゲバラの間には、つまり理念を持つものとそれを実行に移すことのできるものとの間には、有利なバランスがあった。シエラ・マエストラの反乱軍兵士のなかにはいつでも、フィデル・カストロよりもこのアルゼンチン人の方に忠誠と崇敬の念を抱く者がいたのだ。


歴史を動かすものというのは、合理的に設計されたシステム論ではなく、人間的な情動が関係しているという風に眺める事が出来るような気がしないでもないんですね。実際に引用したメネセスの文章にしても【忠誠】とか【崇敬】という単語が使用されている通りで、それは人間中心主義的な何かが実際に介在している事を、その特派員(メネセス)が感じ取った事を意味している。

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2017年04月24日

カストロとゲバラ〜10

◆快進撃

1957年7月30日、バチスタ政権軍の手によって反乱軍の初期メンバーであり、別動隊として地下工作のリーダーをしていたフランク・パイスが暗殺される。

1957年9月12日、カストロ反乱軍は、そのバチスタ政権軍の兵士が要塞としていたアグア堡塁を襲撃し、シエラ・マエストラに解放区を設置する。

しかし、ゲリラ戦ならではのヒット・エンド・ラン作戦であり、襲撃したら撤退するというのがゲリラ戦の鉄則であった。その為、バチスタ政権軍はアグア堡塁(ピノ・デア・ルアグア)に更なる兵士の増員を図って、守備拠点とする。

1957年11月には、機関紙「自由キューバ」の発刊に漕ぎつける。チェ・ゲバラは「狙撃兵」のペンネームで文章を掲載する。

1958年2月18日、アグア堡塁に二度目の戦闘を仕掛けて、バチスタ政府軍は多数の武器弾薬類を放棄して撤退した。これにより、反乱軍はシエラ・マエストラ一帯を完全掌握することに成功する。

1958年2月20日、ラジオ・レベルデを開局する。

1958年2月下旬、別動隊として都市工作をしていたファウスティーノ・ペレスが、当時F1ドライバーランキングで世界チャンピオンであったアルゼンチン国籍の人気レーサーのファン・マニュエル・ファンヒオ(ファン・マニュエル・ファンジオとも)を誘拐、レースの翌日にアルゼンチン大使館近辺でペレスの謝罪の手紙つきで解放される。この人気レーサーの誘拐事件は、バチスタ大統領によるキューバ国民への人気稼ぎという側面と、国際的にはバチスタ政権が健在である事を示す意味があった為に、カストロ反乱軍の別動隊で都市工作を仕掛けていたペレスによって実行された。(このペレスは、ハバナで休暇中だったニューヨークタイムズ記者をフィデル・カストロとの独占会見を行わせた、あのペレスである。)

この時期になると反バチスタ政権を掲げる勢力は、カストロ率いる反乱軍だけではなくなっていたという。大学生らが組織した「革命幹部団」と、バチスタの1952年のクーデターによって亡命を余儀なくされたソカラス前大統領が率いる「真正党」と、実質的に共産主義政党であり、元はキューバ共産党として一時的にバチスタと手を組んだ時期もあった「人民社会党」とが存在していた。

1958年4月9日、キューバ全土でゼネストをする予定であったが、人民社会党による妨害の為に失敗する。

ゼネストの失敗を機に、バチスタ政権が反撃の狼煙を上げる。十四大隊からなる約1万人もの兵力をシエラ・マエストラに投入して、カストロ反乱軍の殲滅を画策する。実はカストロの反乱軍は最も人員が多い時期でも二千名程度の兵力しか持っていなかったというから、かなり、大掛かりな規模の兵力が投入されたのが分かる。

1958年5月28日、マエストラ山脈の麓にあった反乱軍拠点「ラス・メルセデス」に政府軍が押し寄せて、拠点を奪取する。

1958年6月25日、反乱軍拠点「ラス・ベガス」が政府軍に占領される。この「ラス・ベガス」という拠点は、フィドロ・カストロが司令部を置いている場所から徒歩で4時間ほどの場所であった。

1958年6月29日、とうとうフィデル・カストロ本隊は、政府軍の約600名とサント・ドミンゴ河で鉢合わせとなり、熾烈な局地戦となる。ゲリラ戦に勝る反乱軍が政府軍を破った天下分け目の局地戦であったという。結果、政府軍は50名の死者と30人の捕虜、そして6万発にも上る弾薬を残して撤退した。

そのサント・ドミンゴ河での闘いが転機となり、今度は反乱軍が勢いづく。

1958年7月10日に政府軍兵士約250名が反乱軍の捕虜となる。

1958年7月29日に政府軍兵士約100名が反乱軍の捕虜となる。

1958年8月29日には反乱軍の再編成が行なわれ、チェは第八軍指揮官となり、カミーロが第二軍指揮官となる。同月31日から反乱軍はキューバを東西に二分する為に西へ向かう。キューバ島の中央部にある都市サンタクララを目標としてしていた。


◆決着

チェ・ゲバラ率いる第8軍とカミーロ・シエンフエゴス率いる第2軍はミランダ兵営を襲撃した後に1958年10月中旬にはチェの第8軍が南へ、そしてカミーロの第二軍が北へと分かれて中央国道を完全封鎖する。これにより、キューバは東西で分断された形となった。

そして次にはサンタクララでの戦闘を入った。サンタクララはバチスタ政府軍によって堡塁が築かれていた上に装甲車16両も投入、兵力としては2000名を動員していた。他方、反乱軍の兵力はというと僅かに300名であったが、打倒バチスタ政権に賛同する農民兵らが、それでも加わっていたという。

1958年12月29日午前5時、第八軍が攻撃を開始する。大きな波が起こったのは反乱軍は事前にハバナから兵士400名と弾薬とが詰まれた列車でサンタクララに送られてくる事をキャッチし、工兵隊を組織して線路に罠を仕掛けて列車を脱線させた事であった。反乱軍は脱線した列車に火炎瓶(モロトフ・カクテル)を投げ込み、突撃をかけるという天才的な戦術で、同日正午頃には政府軍は降伏したという。

局地戦は、その後も継続したが、このサンタクララ決戦では反乱軍だけが政府軍を攻撃したのではなく、市民の中にも政府軍を攻撃した者が多かったという。市は炎と煙に包まれ、死臭と硝煙の匂いが充満したという。

戦闘から4日目。これは年をまたいで1959年1月1日、バチスタ政府軍はビダール兵営にて未だ抗戦を続けていた。しかし、同日午前2時10分、フルヘンシオ・バチスタ大統領は家族と数名の部下を連れて大統領特別機でハバナを発ち、キューバから逃亡してドミニカ共和国に向かった。

明くる1月2日には、チェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴスは首都ハバナ入りを果たした。チェ・ゲバラはカバーニア要塞に入って「カバーニア要塞司令官」となり、フィデル・カストロは「キューバ人民軍総司令官」になった。反乱軍が反乱軍ではなくなった証であった。

既にハバナ市民にとっても「チェ・ゲバラ」の名前は広く知れ渡っていたので、チェには取材が殺到していたが、チェは固辞し、ようやく1月6日に会見に応じた。しかし、チェは言葉少なく、

わたしの指揮下にあった勇敢な人たちや理想に殉じた人たち、疑うことなくこのすぐれた人びとの協力なしには、勝利はなかったろう

と語っただけであった。

1月5日には、アメリカに亡命していたマヌエル・ウルチア元判事が帰国し、キューバの新大統領となる。ウルチア判事はバチスタ政権による反バチスタ派への処刑に反対してアメリカに亡命していた人物であった。

そして1月8日、フィデル・カストロが戦車に乗って首都ハバナに入った。市民たちは熱狂でカストロを迎えた。市民たちは至る所で、「フィデル!」、「フィデル!」と歓呼したという。