どーか誰にも見つかりませんようにブログ

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カテゴリ:政治史など > ロッキード事件

◆ニクソンとキッシンジャー

リチャード・ニクソン(生年1913〜1994年)は、第35代アイゼンハワー大統領の元で副大統領になっていたが、1960年の大統領選挙では共和党候補として民主党候補のジョン・F・ケネディと争ったが敗北。その後、1962年にニクソンはカリフォルニア知事選でも敗れたが、1968年、再び共和党の大統領候補となり、そのまま、第37代アメリカ大統領となった。何かと問題の多いリチャード・ニクソンの大統領の在職期間は1969〜1974年であった。

同じ時期に、アメリカには後にノーベル平和賞を受賞する事になる政治家ヘンリー・キッシンジャー(生年1923〜現在)があった。ニクソン政権下では1969年から大統領補佐官となり、ニクソン外交の決定に大きな役割を果たした。ニクソン訪中の準備をしたのもキッシンジャーであったし、泥沼化していた北ベトナム政府との秘密交渉の任にあたってベトナム和平協定の調印に貢献したとされ、ノーベル平和賞を受賞している。1973年以降は、国務長官となり、ニクソン失脚後のフォード大統領の元でも国務長官を務めた。

キッシンジャーは相当な皮肉屋であったと思われる。ニクソン評として、

「ものすごい変人/実に不愉快な男/神経質でわざとらしい/知らない人間と会うのを嫌がった/人間嫌いは半端ではなかった」

に加えて、「あの狂人」とまで述べたという。

一方のニクソンはキッシンジャーを使う立場であったがニクソンはキッシンジャーのことを「ユダヤ野郎」と呼んだり、酷い時には「冷血無類のサイコパス」とまで評した。(キッシンジャーはドイツ出身のユダヤ系で牧師の息子で、ナチス政権時代のドイツを脱出してアメリカに渡り、後に帰化したという経歴の持ち主である。)

眺め方によっては、覇権国家アメリカの中枢を「狂人」と「サイコパス」とのコンビが担っていたかのような、奇妙な一時期が実際に在った――と。

キッシンジャーは相当な皮肉屋であった反面、その皮肉は、ひょっとしたら貫徹した的確さを持っていたかも知れない。キッシンジャーはアメリカ政権内部で、「日本と付き合うのは難しい」、「彼らはなんでもリークする」、ニュアンスとしては日本の政治家は実際には会談上で言っていない事までも記者たちにベラベラとしゃべり、それが報道されてしまう事をボヤいている。その上で、次のように日本、及び日本人を評していたという。

「他者の残忍さを恐れる国はみずからも残忍になれると想定しなければならない。日本人は国際社会をむしばむ可能性がある。たとえばエネルギー。彼等は腐肉を食らう動物だ。狭量で、冷血だ。しかし、彼らは生き残るために周囲に同調できる。国際構造が彼らにとって好ましければ、彼らは(アメリカにとって)OKだ。好ましくなければ転向する」

実は、この部分の【腐食を食らう動物】は英語では【scavengers】という単語が使用されており、ひょっとしたら単純な意味での「ゴミ虫野郎」以上のスラングの意味を見い出せるのかも知れない。困ったことにキッシンジャーという人物は、安全保障担当の大統領補佐官であったが、最初から太平洋地域問題には感心が低く、日本に対しても厄介者のように考えていた節が窺える。

キッシンジャーは佐藤栄作と会談し、田中角栄とも会談したが、キッシンジャーの元には田中角栄のデータとして教育期間が短い事、つまり、低学歴であること、或いは低教養である事なども報告されており、或いは田中角栄という政治家に対しての偏見を抱いていた可能性もあるし、実際に「田中角栄」を理解できていたのかどうかは非常に疑わしい。

反面、キッシンジャーは大平正芳を好きだったようで「大平を尊敬している」とまで持ち上げていたし、福田赳夫にもエスタブリッシュメントなものを感じ取っていたが、そもそもからして日本人からしても狹鎮羈儕畢瓩箸い政治家は明らかに異色の政治家であった。しかも高い支持率のまま総理大臣にまで登り詰めた政治家であったが、キッシンジャーの元には田中角栄は【率直だが粗野】、【率直だが無教養】、【率直だが粗削り】あたりを意味する【Bluff and rough-hewn】(ブラフ・アンド・ラフ・ヒューン)という文言が報告として上がっていたという。

ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官のコンビ時代、ニクソンは国務省を信用しておらず、国務省を通さずにホワイトハウスから直接的な外交を展開させるという方針を採った。その為にキッシンジャーがニクソンの密使となり、ニクソン訪中やベトナム和平交渉を進める事が可能になったとも言えるが、一方で、アメリカ政治史にニクソン政権は空前のスキャンダル「ウォーターゲート事件」を巻き起こした。


◆「ウォーターゲート事件」

今日、ロッキード事件の語り口として、「その発端は何処にあったのか?」というと、1976年2月4日として日本では記憶されており、実際に手元に在る大下英治の著書『闇の支配者』(青志社)はじめ、他の週刊誌記事でも同様の扱いになっている。ところが、本年刊行された奥山俊宏著『秘密解除〜ロッキード事件』(岩波書店)ではアメリカの機密文書の公開状況などを取材しており、より、ロッキード事件の真相に迫ったものと思われる内容が含まれている。読み解いてゆくと、いわゆる「ロッキード事件」とは、陰謀論なのか陰謀論ではないのかという二択の問題を超越して根深い問題に繋がっている事に気付かされる。

日本では石原慎太郎の著した田中角栄関連書籍『天才』が大ヒットとなり、現在ともなると書店の新刊コーナーはおろかコンビニの店頭にもずらりと類似の狹鎮羈儕彬椨瓩陳列されており、実は田中角栄ブームが出版業界で起こっているという。陰謀論の通説では、誤配からロッキード事件が始まったという風に語られているものの、更に遡れば、それはウォーターゲート事件、更に更に遡れば、そもそも児玉誉士夫とCIAの関係、更にはCIAとロッキード社との関係になると、1950年代にまで遡らねばならないという厄介な事件である事に気付される。ロッキード事件は日本で火を噴いた一大疑獄事件であったワケですが、それを奇妙な情報操作劇の始まりだったと眺める場合には、このニクソンのウォーターゲート事件あたりから政治の裏側というものを捉えるのが良さそう。

1972年6月17日未明、ワシントンDCのポトマック河の川辺にあるウォーターゲートビルの民主党本部に侵入しようとした5人の男が現行犯逮捕された。男たちは民主党全国委員会本部の事務所内に盗聴器を仕掛ける事が目的としていた。盗聴が目的であった事から当初からニクソン大統領やホワイトハウスの関与が疑われることになった。この1972年は、11月にニクソンの再選を掛けた大統領選が展開されており、ニクソンは再選された。その後もウォーターゲート事件はニクソン大統領再選員会ならびにニクソン大統領の側近が関与した等という具合に転がっていた。

しかし年が明けて1973年3月23日になって大きなウォーターゲート事件は大きな転機を迎え、思いも依らぬ方向で膨張を始めた。ニクソンが政治的圧力によってウォーターゲート事件を揉み消そうとしているという疑惑が浮上、大統領と議会とが証拠提出を巡って対立する事態に発展したのだ。

この盗聴騒動にキッシンジャーは関与していなかったが、日増しにニクソンが揉み消し工作をしていた疑惑が強まっていった。

ニクソンには脱税容疑、牛乳業界からの政治献金問題なども噴出。更に、証拠揉み消し工作の証拠となりうる録音テープの存在が明るみになり、ニクソンはテープを提出したがテープには空白部分があるなど不自然だった為に国民の不信感は更に増大した。

その後、このウォーターゲート事件の追求は資金の出所を究明する事が鍵になりつつあった。アメリカの独立機関であった証券取引委員会が1974年3月8日に重要な決定をした。

「違法な政治献金で有罪となった上場企業は、その旨を公表しなければならない。その情報は投資家にとって、当該企業、経営者の誠実さを測る重要事実にあたる」

という法解釈を示した。その重要決定が意味していたのは、上場企業の経営者は自社の政治献金疑惑を調べ、場合によっては結果を公表しなければ証券取引法違反に問われる事を意味していた。

1974年5月1日、ウォーターゲート事件を捜査していたアメリカ司法省が、違法献金の罪で、航空機メーカーのノースロップ社を訴追した。ノースロップ社は1972年の大統領選挙に前後してニクソン再選委員会に寄付をしていた事が違法献金に問われたものだった。アメリカでは企業による政治献金は全面的に禁止されていた為、ノースロップ社は罪を認め、定められた罰金刑に応じた。しかし、問題は先の証券取引委員会の見解であった。違法な政治献金で有罪となった場合には、企業および経営者は政治献金疑惑について自ら内部調査を実施して事実関係を明らかにする報告書が示すことが、定められていた。

下院司法委員会は「司法妨害」、「権力濫用」、「議会侮辱」を理由にニクソンの弾劾を可決。下院本会議ならびに上院弾劾裁判の見通しもニクソンに厳しい状況となり、1974年8月9日、ニクソンは大統領を辞した。
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◆天才政治家「田中角栄」

田中角栄は大正7年、西暦1918年5月4日に新潟県刈羽郡二田村で生まれる。政治家になったのは1947年で、同年に定数5の新潟3区に民主党候補として立候補し、12人中3位で当選を果たす。翌1948年には第二次吉田内閣で法務政務次官に就任。1954年に自由党副幹事長に就任し、1955年の自由民主党の結成にも関与する。1957年には岸内閣にて郵政大臣に就任。この国務大臣就任は戦後初の30代(39歳)での大臣就任であった。

以降は、1959年に自民党副幹事長就任。1961年には自民党の政調会長に就任。1962年の第二次池田内閣で大蔵大臣に就任。1965年には自民党幹事長に就任する。1966年に「黒い霧」事件の責任を取る形で自民党幹事長を辞すが1968年に自民党幹事長に返り咲く。1971年に再び幹事長を辞任。佐藤内閣の内閣改造によって田中角栄は通産大臣に就任する。

1972年の田中角栄は、派手なアクションを起こす。同年5月、佐藤派田中系議員が次期総裁候補に田中角栄擁立を決定して、事実上の狹鎮翡畢瓩結成される。翌6月には著書『日本列島改造論』を刊行する。翌7月の総裁選で第6代自民党総裁に選ばれる。(この総裁選は決選投票となり、田中角栄は福田赳夫を破った。)7月7日より第一次田中内閣が発足する。8月31日にハワイでニクソン米大統領と会談。9月29日には日中共同声明を発表し、日中国交正常化を成す。12月22日の総選挙でも勝利し、第二次田中内閣として継続する。

1974年。この年が「田中角栄」にとっては大きな転機な年となる。文藝春秋11月号にて立花隆が『田中角栄研究――その金脈と人脈と』を掲載する。金権政治批判が巻き起こり、1974年12月9日、田中角栄は辞意表明し、内閣総辞職に到る。それに伴い後継として三木武夫内閣が発足する。

稀代の政治家・田中角栄の生涯については周知の通りと思いますが、ヘンリー・キッシンジャーは自らの回顧録の中で、ニクソンとタナカの命運は、「奇妙なほどに酷似していた」と記したという。実際にニクソンが大統領辞任に追い込まれたのが1974年8月であり、それから僅か4ヶ月後に田中内閣も総辞職することになった。

キッシンジャーは田中角栄について次のように回顧録に記した。

「ニクソン同様、類い稀な能力に恵まれ、ニクソン同様、ひどく情緒不安定で、しかも、日本人にはきわめて珍しく、それを表面に出した」

「個人権力臭のある話し方は、他の国の政府首班であれば当たり前だが、その点、日本の指導者のなかでは、田中は異色だった。しかも、なんと奇妙なことに、そのために彼の発言は時に信用されなかった」



◆ロッキード事件の発覚前

米議会上院の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会、またはチャーチ小委員会)は、1972年春に外交委員会の議決によって設置が決定され、同年9月から活動を開始した。組織図としては上院の下に外交委員会があり、その外交委員会の下に多国籍企業小委員会が設置されたものであった。この多国籍企業小委員会が、通称「チャーチ委員会」と呼ばれるのは、委員長のフランク・チャーチの名前に依拠してのものだという。

当初、このチャーチ委員会はロッキード事件とは全く関係のない事件の真相究明に当たっていた。元々、このチャーチ委員会は、米国を本社を持つ国際電信電話会社ITTが南米チリの左翼政権に対して、自社の事業展開にそぐわないからという理由で政権転覆を目論み、ITT社がCIA(中央情報局)に支援を求めていた事が1972年3月に発覚し、そのITT社の問題を調査する目的で設置されたのがチャーチ委員会であった。

ITT社の一件は米国の多国籍企業が海外で事業展開をするにあたり、不都合があればCIAに支援を求め、その先々で政権に対して何かしらの諜報を仕掛けていた可能性があるという性質のスキャンダルであり、CIAという組織の存在意義も含めて問題視されることになった。チャーチ委員会が独自の調査を展開してゆくと、多国籍企業を巡る海外での買収工作などの疑惑が次から次へと浮上し、単にITT社とチリ政権との問題に限らず、色々な問題を手掛ける事になってゆく。

このチャーチ委員会の活動が始まったのは1972年9月ですが、ウォータゲートビルで民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした不審な男5名が逮捕されたのが1972年6月の事であり、アメリカ議会は1972年になると、疑惑が噴出し、極めて基本的な狄頼そのもの瓩大きく揺らぎ出した年であるのが分かる。1972年11月には大統領選があり、ニクソンが勝利するが、実は大統領選への影響を考慮しながらチャーチ委員会の公聴会なども開かれていたといい、また、この1972年頃のウォーターゲート事件は、まだ小さなレベルで燻ぶっていた一つの疑惑という状態に過ぎなかったし、勿論、ロッキード事件は発覚しておらず、その形も存在していなかった。

1975年、このチャーチ委員会に引っ掛かったのが、前述した航空機メーカーのノースロップ社であった。ノースロップ社はサウジアラビア政府に戦闘機を売り込む為に、サウジアラビアの要人に多額の賄賂を贈っていた。金銭はノースロップ社、それと武器商人と思われる《アドナン・カショギ》なる人物を介して、サウジアラビアの要人に多額の賄賂が渡ったというものであった。ノースロップ社は、新たに示された証券取引法の理念に沿って報告書を作成し、チャーチ委員会に提出した。

ここでアメリカ政府は大きな問題に突き当たった。サウジアラビア側の要人でノースロップ社から賄賂を受け取っていた人物の名前を公表した場合、外交関係を損ねてしまうという問題が発生したのだ。キッシンジャーの立場からすれば、外交を損ねてまで議会が賄賂を受け取ったサウジアラビア側の人物名を公表する必要はないという立場であったが、チャーチ委員会の有力議員にして共和党のチャールズ・パーシーは共和党イデオロギーの反映なのか不正に厳格であり、アドナン・カショギなる武器商人からカネを受け取った人物の個人名も好評すると息巻いているという状況であった。

「多国籍企業が存在する時代、その秘密は、どこまで公表されるべきか?」

という問題だった。サウジ政府側とアメリカ政府との間に亀裂を入ること、両国関係を困難なものにしてまで個人名を公表する必要性があるのか無いのか。それとも飽くまで厳格な態度を取るべきか否か。

このノースロップ社の事件の場合、サウジアラビア政府側からアメリカ政府側へ、つまり、大使館を通してアメリカ国務省に個人名の公表を控えるような働きかけがあった。サウジアラビアのジッダに在る米大使館からは公電が入っていた。「もし仮に、サウジ王族が巻き込まれるような事態になれば、我々は苦しいことになる」、と。

しかし、この頃までには証券取引法の法解釈の問題と、日毎に募る疑惑にアメリカのマスコミもチャーチ委員会を支持し、不正糾弾に靡いていたのが実際の当時の空気であったという。そして、ジッダからの公電の中で、ノースロップ社以外にも同様にビジネスの為に多額のリベートを政府要人に支払っていると、思しき、会社名な挙がった。マサチューセッツ州になる軍事企業レイセオン社と、もう一つがカリフォルニア州にあった航空機メーカーのロッキード社であった。

サウジアラビアのケースでロッキード社は仲介人となったアドナン・カショギに対して約15%の代理人手数料を払っていた。そして、「(そのアドナン・カショギなる武器商人は)王子たちに車、家、若い女、その他のサービスを提供している」――と。

ジッダの米大使館から連絡を受けた米国務省はチャーチ委員会に個人名の発表を控えるよう、接触を図った。すると、国務省は或る事実を把握した。ノースロップ社はチャーチ委員会に提出した文書の中に、ロッキード社とサウジ政府との関係について言及しているらしいことを把握した。ノースロップ社としては、自社の行為を正当化する為に同じ航空機メーカーであるロッキード社が、どれだけサウジの要人に食い込んでビジネスをしているのか、ロッキード社を引き合いに説明しているようであった。ノースロップ社にすれば、「この問題はノースロップ社特有の問題ではない。他社もやっている事だ」という主張であったことが推し測れる。

1975年6月7日、新聞各紙は報じた。

「米兵器産業大手のノースロップ社は(中略)サウジアラビアの将軍二人への贈賄資金として、同社の販売代理人カショギ氏に対し、45万ドル(約1億3500万円)を支払った事を認めた」

と。

チャーチ委員会は、ノースロップ社への公聴会の中で具体的に「ロッキード社」の名前が挙がった事を受けて、動き始める。
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◆ロッキード事件〜発覚

1975年6月、ロッキード社の独立監査人を務めていた会計事務所アーサーヤングは、ロッキード社のダニエル・ホートン会長と、アーチボルド・カール・コーチャン社長に次の書面への署名を求めた。

すべての支払いは正しく帳簿に記載されている。

いかなる外国政府の職員も、コンサルティングや手数料の合意の相手方になっていない。


会長も社長のコーチャン氏も署名を拒否した。その為に会計会社アーサーヤングとロッキード社は共同で社内調査を実施する事にした。

同年同月18日、チャーチ委員会がロッキード社に文書の提出を命令する召喚状を出し、翌19日には証券取引員会も同様の召喚状を出した。

ロッキード社は文書を提出するのではなく、事実の概要を公表する事で事態に対応しようとした。同7月17日には牾姐饑府高官瓩北2500ドルの支払いをした事を示す文書がロッキード社から証取委に提出されたが、そこには国名や個人名は記されていなかった。同7月20日と30日にはロッキード社のホートン会長は証取委の前で証言も行ったが、支払い相手の名前と国名についての証言は拒否した。

「いずれかの国の誰かには賄賂を払ったが、国名と名前は言えない」、そんな膠着状態になったワケです。

ロッキード社は、前国務長官で法律事務所を営んでいたウィリアム・ロジャーズの顧客であった。ロジャーズは、ロッキード社の苦しい状況を説明すべく、国務次官のカーライル・モーに事態を説明した。ロジャーズは、ロッキード社からサウジアラビアに関して支払われたすべての情報と、チャーチ委員会に提出してすべての文書のコピーを国務省に渡すと約束した上で、率直に、事態を説明した。

1975年8月15日の時点で、実はアメリカ国務省には、サウジ以外にもイラン、日本を含め、多数の国の政府高官に金銭の支払いが行われていることを、ロジャーズの説明によって了解していたという。つまり、ロジャースはロッキード社の弁護士としてすべてを国務省に打ち明けた上で、国名や個人名の情報公開は回避できるよう、国務省が証券取引委員会やチャーチ委員会に働きかけてくれないかという要求であった。(ここで、カーライル・モー国務次官の具体的な立場は判然としないが、既に国務省は、ロッキード社の問題に「日本」が関与していることを把握していた事になる。)

同年8月26日、議会上院の銀行委員会がロッキード社のホートン会長を呼んで公聴会を開いた。この銀行委員会は直接的にはロッキード事件と関係しないが、それでいて初めて、この公聴会で具体的に「日本」という国名が使用された。公聴会の中で具体的に日本への贈賄疑惑を追及した事で、日本の新聞にも「ロッキード社の贈賄、日本にも波及か」という記事が掲載された。まだまだ、ロッキード事件は本格化していないのだ。

同年8月29日、チャーチ委員会はイタリアはローマにある米大使館から、イタリア絡みのロッキード社の内部文書を入手した。イタリア国防省と一つの政党に250万ドルが支払われている事が判明。更にロッキード社はスイスに覆面会社を設立し、送金に使用している事も明るみになった。ロンドンでのチャーチ委員会のスタッフが巨額の賄賂の支払いを暴いた。

同年9月12日、チャーチ委員会は政府高官の実名は挙げなかったが、賄賂の支払いがあった例として、サウジアラビア、イラン、インドネシア、フィリピンという国名を挙げた。

同年9月15日、後に陰謀論の発端となる不可解な誤配事件は、ここで明らかになる。ロッキード社側の会計事務所アーサーヤングはチャーチ委員会からの文書提出命令に抵抗するつもりで、ニューヨークにある著名な弁護士事務所ホワイト&ケースに依頼していたが、何故か二人の運び屋が提出しない筈の文書を誤って配達するという奇妙な出来事が起こった。報じたのはニューヨークタイムズ紙であり、何故か、ニューヨークタイムズ紙は、それを誤配と報じた。

故に、「ロッキード事件陰謀説」を形成する一箇所にされているのですが、チャーチ委員会に拠れば、それはウォールストリート・ジャーナル紙の誤報であるという。チャーチ委員会に拠れば「適法な令状に基づき提出を受けたもので、この件でだれとも紛争になっていない」と誤配を否定している。しかも不思議なことに、そのチャーチ委員会側のコメントも同じ9月15日付のウォールストリート・ジャーナル紙に記載されているという。

つまり、ウォールストリート・ジャーナルは、当のチャーチ委員会の主席法律顧問のコメントを無視して、さほど根拠も示さぬままに「誤配だ」と報じていたというのが真相のよう。(うーむ。どう考えてもウォールストリート・ジャーナルの方が変ですかね。何某かの理由で、ロッキード社は「誤配でチャーチ委員会に届いてしまった」というポーズ、言い訳を必要としていただけと考えるべきか…。)

1975年9月18日、サウジアラビアのサウド・ファイサル外相がホワイトハウスを訪問した。ニクソン大統領辞任に伴い、1974年8月にジェラルド・フォードが第38代アメリカ大統領(在位1974〜1977)に就任していた。会談は50分程度であったが、ファイサル外相はフォード米大統領に対して「贈賄に係る政府高官の実名が確定しているのであれば実名を教えて欲しいが、確定的な証拠がないのであれば実名が公表されるべきではない」という主旨の要請をした。少々、複雑ながら、ここで話し合われたのは「報道や公表について」であり、「疑惑の段階で実名を公表をするのは混乱を招くから注意深く対処欲しい」という見解であったと思われる。ホワイトハウス側にしても、同じ見解であった。

ホワイトハウス及び米国務省は諸々の理由から「公表については慎重であるべきだ」という態度が貫徹されたが、一方で、証取委とチャーチ委員会による調査は続き、更にマスコミ報道は真相を探るべく、調査報道に傾斜していった。

そのまま年を越して1976年2月4日未明のチャーチ委員会の公聴会で、ロッキード社の会計監査にあたった会計士のウィリアム・フィンドレーの爆弾証言を迎えた。

「ロッキード社がトライスターの日本売り込みのために、三十億円以上を支出し、うち二十一億円が右翼のフィクサー、児玉誉士夫に渡った」

2月6日には、ロッキード社のコーチャン副社長が同じくチャーチ委員会で更に証言した。

チャーチ「ロッキード社は、1972年に児玉に224万ドル(約6億7千万円)もやっている。児玉はいったいロッキードで何をしたのか? 彼は、あなたを、小佐野(小佐野賢治)に紹介したのか?

コーチャン「そうです」

チャーチ「小佐野とは誰か?」

コーチャン「日本で非常に影響力のある人物です」

チャーチ「小佐野にもカネを払ったのか?」

コーチャン「いいえ」

チャーチ「児玉に渡った7百万ドル(約21億円)のうち、いくらを児玉は小佐野に支払ったと思うか?」

コーチャン「ハッキリとは分からないが、そのような事があったかも知れない。私は、あったと思う」


日本では2月5日から大騒ぎとなった。ロッキード社の贈賄事件が日本にも波及する可能性は事前に周知されていたが、具体的に犹玉誉士夫瓩箸いμ樵阿米議会傘下のチャーチ小委員会で実際に取り上げられたのだ。商社「丸紅」との関係も報じられ、マスコミも大々的に取り上げる事となり、コーチャン副社長が出席した6日の公聴会は日本でも同時生中継される程の大騒動になった。

ここで日本に於けるロッキード事件の骨子が組み立てられた。ロッキード社からの対日工作費の総額は約30億円あり、その内の21億円が児玉誉士夫に渡った――と。

そして爛灰瀬洵瓩紡海、爛サノ瓩箸いμ樵阿皀船磧璽前儖会で挙げられたワケですが、このオサノとは「小佐野」であり、小佐野賢治であるのは明白であった。既に田中角栄は金権政治腐敗で総理を辞しおり、自民党内の田中派として闇将軍のような地位にあったが、実は文藝春秋社に鳴り物入りで入社した大型新人・立花隆が入社当日から個室を与えられるという特別待遇の中、間もなく暴いてみせた記事こそが『田中角栄研究――その金脈と人脈』であった。そこでは、田中角栄と小佐野賢治とが盟友関係にあること、更には小佐野が国有地の払い下げで27億円の利益を得ていた事を指摘してした。

「コダマ」、「オサノ」という名前が挙がると、次に名前が挙がりかねない大物の名前は、元総理大臣にして尚も自民党内に大派閥を誇っていた「タナカ」が怪しいと考えることになるワケですね。

因みに小佐野は、ロッキード事件が発覚する2月4日には、帝国ホテルで開催されていた西山幸輝が主催する「日本及び日本人」のパーティーに出席していたという。しかし、パーティー中に何やら小佐野の周辺が慌ただしくなり、そのまま退席。翌5日、つまり、日本中がロッキード事件で大慌てする頃には、早々に小佐野はハワイへと飛び立っていたという。
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◆右翼フィクサー「児玉誉士夫」

児玉誉士夫の履歴書はCIAに保管されているという。1911年2月18日に福島県安達郡本宮町で生まれ、小学校卒業後に上京、しばらくは板金職人として働いていた。1928年(昭和3年)頃には右翼活動をはじめ、天皇への直訴をしようとして請願令違反に問われ、1930年に懲役6ヶ月の判決を受けて服役。出所後も右翼団体を渡り歩き、脅迫、爆発物取締罰則違反、殺人予備などの罪で服役を重ねた。1937年に児玉は外務省情報部長の勧めで中国に渡り、以降は外務省の非公式の支援を受けて頻繁に上海に赴いた。1941年12月、海軍航空本部の依頼で上海に物資調達を目的とした特務機関「児玉機関」が設立された。児玉は辣腕を振るい、莫大な富を蓄えた。

戦後、児玉はGHQの諜報部隊(CIC)からも尋問を受けている。その調書には児玉自身による児玉の説明らしきものがあるが、それに拠れば日本海軍から20万上海ドルを借り入れ、その資金を元手に銅、真鍮、石油、皮、鉄、機械、プラチナなどを中国で買い付け、日本海軍に売ったという。

「私は、或る特定の物資をとても安く買うことができ、その低い価格でそれを海軍に売ることができました。それでも私はとても大きな利益を得ることができました。三井や三菱は私のような低い価格で売る余裕はありませんでした。私はそれをすることができ、1941年12月から終戦までの間に約1億5千万万円の粗利を現金で得ることができ、それには税金がまったくかかりませんでした。また、上海の周辺に四つの兵器工場を経営して1200人を雇っていますが、それらを合わせると6億円の価値があります」

終戦後の児玉は右翼、左翼を取り締まる特別高等警察の元締めである内務省警保局に海軍に要請で入り、右翼活動かを監視する業務にあたったという。終戦直後となる1945年9月には東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の参与にも任命されたが、後に戦犯に指定され、巣鴨プリズムに収監された。

児玉はCICの尋問官には「なんでもお示しする」という擦り寄るような態度であったらしく、CICが作成した報告書の末尾には尋問官によって

「児玉は抜け目がなく、ずるい男だ」

という所感が付記された。



少々異なるソースからの児玉誉士夫へのアプローチとなりますが、1941年から児玉に海軍の物資調達をさせる為の特務機関の長として児玉を抜擢したのは航空本部の大西瀧治郎少将であったという。児玉は戦前から右翼政治家であった笹川良一が情報部嘱託として児玉を使用していた繋がりがあり、上海で児玉と知り合った大西少将が児玉を特務機関のトップに抜擢したとされる。

(笹川は有志として航空機パイロットを育成するなど、独自の右翼活動路線を取っていた。戦前・戦中の児玉は右翼団体を渡り歩いたとされ、笹川の国粋大衆党に参加していた。また、ジャーナリスト大下英治が取材する中で、笹川良一の実子である笹川堯に拠れば「児玉は笹川の前では直立不動」であったという。)

一橋文哉著『国家の闇』(角川新書)に沿うと、児玉機関は大量の貴金属類を集めることに成功、終戦後の混乱に乗じて密かに朝日新聞社機に乗せて日本国内への持ち込んで隠匿したが、約半分はGHQに没収され、残った半分が鳩山一郎による自由党結成の資金に使われた――としている。(ほぼ同様の内容が各種の著書に散見されますが、この児玉誉士夫を語る場合の基本線としては児玉誉士夫が米国占領軍の意向を受けて自由党を結成した事や、米国が児玉を通して自由党を結成させた等のニュアンスがあり、僅かにニュアンスの違いがある。この鳩山一郎は鳩山由紀夫元総理の祖父にあたる。因みに、この一橋文哉のソースでは児玉は鳩山一郎、河野一郎、大野伴睦(おおのばんぼく)といった政治家の支援をしていたとされる。

『現代日本を操った黒幕たち』(宝島SUGOI文庫)の内容に沿って、少し補強します。児玉は元々は昭和維新運動なる過激な右翼活動をしており、斎藤実首相暗殺計画を立てたり、発電所爆破計画を立てるなどしていた人物であったという。後に辻嘉六の唱えていた「鳩山一郎を中心とした体制で戦後政治を」という意見に絆(ほだ)されるかたちで、1945年10月に日本自由党の結成資金を拠出。翌昭和1946年の総選挙で鳩山率いる自由党が第一党となったが、首班指名選挙前に鳩山一郎はGHQから公職追放されている。結局、児玉が熱望した鳩山一郎を中心にした第三次鳩山内閣は、1955年の保守合同、つまり、自由党と民主党が合同して産み落とされた自由民主党で実現することになった。



再び、2016年刊行の奥山俊宏著『秘密解除〜ロッキード事件』(岩波書店)のソースに戻って、CIAに保管されていた児玉誉士夫についての経歴情報なる文書に戻ります。

「(児玉は)一貫した思想はなく時の権力者と巧みに取り入り財を受るか、名を受るかの実利主義者である。/政治の舞台裏の策略にかなり関わっった」

等の記述があるという。具体的に「鳩山一郎」と「重光葵」という名前が児玉と繋がっていた旨の文書があるの意。重光葵と児玉誉士夫との繋がりは、従来の通説では触れられる機会が少なかったが戦前の1937年頃から両者は親しくしており、戦前の児玉が外務省の情報員として雇用されていた事、また、戦時中に重光が外務大臣をしていた事をなどを考慮すると、改めて、重光葵と児玉誉士夫が繋がっていた事に気付かされる。

戦後になると、重光が所属していた改進党に児玉を経由して保全経済会名義で4千万円の寄付がなされたとしている。その4千万円という額面は鳩山一郎の自由党に個人として1千万円、保全経済会名義で2千万円、合計3千万円である事を考慮すると、思いの外、児玉と重光が親しい間柄であったことが浮かび上がってくる。

また、CIAは、児玉が暗躍した幻のクーデター計画についても記録を残していたという。吉田茂の吉田政権下で鳩山一郎は吉田茂と敵対し、その裏でも児玉が暗躍していたという。児玉は吉田茂を「アメリカのヒモだ」と発言した事があるように吉田嫌いを隠さなかった一方で、吉田茂は児玉を危険視しており、岸信介に対して(児玉を指して)「あんな男とは付き合うな」と注意したことがあったという。

1953年3月11日、銀座の料亭にて児玉が右翼や元軍人を集めた会合の席では、

「吉田内閣を転覆するためには武力が必要だ」

という意見が出たという。更にCIAのセキュリティ情報では、朝日新聞記者出身の有力政治家で右翼や元軍人に囲まれていた緒方竹虎、笹川良一とのコネクションを記しており、仮に緒方竹虎が日本の政権中枢にいた場合に、武力クーデターを起こされた場合、緒方竹虎はクーデター軍に融和的な態度を取る可能性があるとして警戒されていた――と。

1954年11月、児玉が画策していた通りに鳩山一郎を総裁、重光葵が副総裁となる民主党が結成され、翌12月には鳩山が首相に就任、重光が副総理兼外務大臣になった。これが意味しているのは、7年間続いた吉田茂体制の瓦解であった。その後に児玉は鳩山一郎&重光葵の民主党と、緒方竹虎が所属する自由党との保守合同を画策した。この頃になると鳩山一郎と児玉誉士夫との間には距離が開き出しており、児玉は緒方派に秋波を送るようになったという。

1955年11月に、民主党と自由党との保守合同が実現し、現在の自由民主党が成立する。やはり、鳩山一郎、重光葵、大野伴睦、河野一郎といった面々が児玉誉士夫と繋がっていたとされている。

CIA保管文書は更に驚くべき、裏面史にも触れている。それはソ連との国交回復に係る一節であり、河野一郎外務大臣は全権弾として当時のソビエトとの交渉に及んで、それが日ソ国交回復に繋がったが、河野一郎の壮行会には暴力団幹部やギャングが多数出席していたという。実は自民党内でもソビエトとの交渉に反対する勢力があったし、いわゆる極右団体も反対していたので、極右団体が鳩山一郎及び河野一郎が暗殺される可能性があった。そこで睨みを利かせたのが児玉誉士夫であり、裏社会の指導者たちを集めたという。続けて、CIAは児玉の猖楴銑瓩諒析をしている。

児玉は右翼でありながら日本共産党の幹部と手を結び、「児玉は、共産ブロックとの友好関係の時代になっても、ボートに乗り遅れまいとしている」と。

池田勇人政権となる1962年にもCIAは児玉について調査しており、河野一郎を首相候補にすべく動いていること。また、この時期の児玉は暴力団とふつうの右翼とを仲間に引き入れようとしていたとし、松葉会、国粋会、義人党といった暴力団幹部をホテルオークラに招いて夕食を共にした事が記されているという。


児玉誉士夫を、CIAは「ずるい男」と評したり、或いは「一貫した思想はない実利主義者」という具合に分析した上で、危険視していた事が読み取れそうですかね。因みに、チャーチ委員会でロッキード事件の調査を主導していたジェローム・レビンソンは、何故、チャーチ委員会は徹底的にロッキード事件を調査したのかという問題について、田中角栄を失脚させる目的などは毛頭なく、ホントは日米政治史に於いて許し難い存在としての「児玉誉士夫」という存在に気付いてしまった事であると後に語ったという。

少なくとも、チャーチ委員会には田中角栄を失脚させる意図はなく、不正を追及するという立場で追及をしている中で、実はロッキード事件とはサウジアラビアやイタリアどころではなく、「(児玉のような人物が隠然と力を持っている)日本こそが問題である」という意識で追及が行われていたいたという。その観点からすると、どうも田中角栄への恨みではく、児玉誉士夫という黒幕の存在、その不健全性への嫌悪感が関係していたような気がしないでもない。
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◆暗躍するナカソネ

日本でロッキード事件の報道が大々的に取り上げられてから僅か2日後となる1976年2月6日、当時、自民党幹事長職にあった中曽根康弘は、東京に来ていたウィリアム・シャーマン米国務省日本部長と接触していた.。シャーマンは、その日の内にアメリカの在日大使館を通じて米国務省に公電で、中曽根との会話内容を報告していたという。

中曽根は、シャーマン国務省日本部長に、以下のような内容を話していた。

(共産党のスパイ査問事件が国会を賑わしていた事を前提に、自由民主党幹事長の立場として)「選挙の年に有益な動きだったのに、直後にロッキードの問題が持ち上がったのは不運でした」

「ロッキードの大騒ぎは総選挙のタイミングにも影響を与える」

「このようなことがらについて国内問題として調査するのはいいことかもしれませんが、他国を巻き込むのは別問題であり、慎重に検討されるべきです。米政府はこの点を認識してほしい。この問題はたいへん慎重に扱ってほしい」


と、話した。それに続けて中曽根は、更に犁刃猫瓩砲弔い討盡正擇靴討い拭

「ロッキードに有利な取引はニクソン大統領と田中前首相の間で結論が出ていた」

「その二人だけが事実を知っている可能性があります」

「米政府はこの問題を扱うにあたってくれぐれも慎重であるべきです」


中曽根の言葉は、「くれぐれも慎重に」が繰り返されており、ロッキード問題の取扱いについて慎重さが要求されるという事を牽制したものと推測できる。

ロッキード事件を徹底的に究明したいチャーチ委員会と証取委。国際関係を憂慮して慎重に扱うべきだという米国務省。中曽根の「慎重に取り扱われるべきだ」という指摘は、凡そは米国務省の立場に近いものであったが、米国務省にしても憂慮してはいたが、チャーチ委員会と証取委に強く働きかける事は困難な状況であった。

その状況を更に複雑にしたもの、それは猜騰した日本の世論瓩任△辰燭箸いΑF本人の立場からすれば、コダマとオサノを仲介役にして政府高官にカネが渡ったという流れは分かったが、政府高官名を伏せる形でチャーチ委員会は進められていたので、自ずと、

「児玉誉士夫と小佐野賢治を経由して、一体、誰にカネが渡ったというのか?」

という疑問が残ってしまうので日本国内の世論が沸騰するのは或る意味では必然であったかも知れない。

また、今一度、整理すると、実は、この時点で米国務省は実際には「田中角栄元首相」が一連に絡んでいる事を承知していた。ヘンリー・キッシンジャーはニクソン政権下では大統領補佐官であったが、フォード政権下では国務長官職にあり、もしキッシンジャーが田中角栄の名前が出る事に危機意識を働かせていれば、或いは異なる結果になった可能性があったが、生憎、キッシンジャーは田中角栄という政治家、人物を軽蔑するタイプの典型的なエリートタイプの人間であった。キッシンジャーと二人三脚を経験したニクソンに言わせれば、キッシンジャーとは「冷徹無比のサイコパス野郎」でもあるのだ。

火を噴いたロッキード問題は、そのまま、キリモミ飛行を続けるようなスリリングな経過を数日間辿った。連日のようにコダマ、オサノの報道が続いた。日本のマスコミ、それと国会議員団らは、急遽、ワシントンDCに押し寄せ、取材や内偵によって何とかカネを受け取った人物の名前を探り出そうとするという展開になった。

この間、米大使館はレポートを公電として国務省に送っていた。要約すると、以下のような感じ。

「現地(日本)では、児玉は岸信介と中曽根康弘に結び付けられている。不可解なロ社のトライスター機の購入が決定した1972年当時、中曽根は通産大臣であった。福田赳夫は岸信介に近いとされているが、現地(日本)では福田赳夫の名前は挙がっていない。複数のジャーナリストは我々に田中の副官である竹下登の関与に言及している。トライスター購入決定時に外務大臣だった大平正芳が関与しているという推測も一部にある。しかしながら、当地(日本)で記事になっているのは、小佐野と田中の関係だけである。現首相の三木武夫が関与しているとの推測は全く無く、三木首相の立場は安全に思える」

1976年2月9日よる、当時、外務大臣であった宮澤喜一が緊急と称してホジソン駐日大使と密談を交わした。宮沢喜一はホジソン駐日大使に対して

「国務省から日本政府に公式に提供された情報は全て公表される。どのような情報を日本政府に公式に提供するかについて、米国は非常に慎重になってほしい」

という内容で、これも報告公電として残っているという。中曽根も宮沢も、アメリカに対して「公表は慎重に」と釘を刺しているともとれる。しかも、宮沢の方は完全に密談という形式である。

同年2月13日、当時、副総理であった福田赳夫が、シャーマン米国務省日本部長の表敬訪問を受けた。福田は、

「たとえ元閣僚の関与があったとしても、すべての事実は速やかに公にされるべきです」

と強調した。この福田の言葉は、福田自身が身の潔白に自信を持っていた事の現われである一方、政局を睨めば当時の福田の政敵は田中角栄であったのも明白であり、福田にしてみれば、米国が田中角栄の関与を公表してくれることを、或いは歓迎する立場であったかも知れない。実際に米国側も、福田の態度に対して「福田の政敵が事件に巻き込まれる可能性というものを福田が理解していない訳はない」と推測していた。当時の政局からすると、福田赳夫は田中角栄と大平正芳と苛烈な派閥争いを展開していた事は、アメリカも充分に理解していたのだ。

福田と同じ立場の重要な人物があった。当時の首相である三木武夫、その人。田中角栄が金権政治批判で総理を辞した後、ワンポイントリリーフとして登場したのが中道路線でクリーンを売りにしていた三木武夫であったのだ。実際には、田中退陣後に、福田にも大平にも次期総裁・総理の話が持ち込まれたが双方ともに辞退し、その間隙を縫うようにして誕生したのが、クリーンが売りの三木武夫内閣だったのだ。

同年2月13日三木武夫総理は衆院本会議の場で「真相究明は政府の責任」と発言、同18日には「政府高官を含む、あらゆる資料の提供」をアメリカ政府に要請する方針を固めた。三木武夫という政治家は総理でありながら、有力な派閥を形成している田中、福田、大平と比較すると明らかに脆弱な地盤の上に立っていた。

再び、中曽根康弘が不可解な動きをしているのが確認できる。三木総理が米国政府にあらゆる資料の提供を要請する」と方針を固めたのが2月18日であったが、同日夜、「自民党幹事長であった中曽根」は謎のルートでホジソン駐日大使に接触し、「総理の三木」とは正反対の内容を託したというのだ。

中曽根は、在日大使館を通して米国政府に犲民党幹事長としてのメッセージ瓩鯏礎するように依頼したという。

中曽根は誰かを仲介してホジソン駐日大使に接触をし、中曽根康弘個人ではなく自民党幹事長のメッセージだとした。ホジソンによって米国務省に発信された公電が残されているが仲介した人物は不明。また、この公電には、二ヵ所ほど現在も閲覧可能になっていないという、何やら意味深なものであるという。また、その二ヵ所が秘密解除が出来ない理由は「国家安全保障上の理由」になっており、推測するとCIAの関与も疑えるような、そういう代物であるという。(この公電は、『秘密解除〜ロッキード事件』(岩波書店)の大きな目玉でもある。)

書き手はホジソン駐日大使である事に注意して、以下、引用します。

「二月十八日の晩、自民党幹事長・中曽根が以下のメッセージを大使館に託した。彼は、このメッセージが合衆国政府に伝達されることを望んだ。中曽根は、その際、個人的にではなく、自民党幹事長として話をしていると注意深く言明した」

「三木首相は、自民党の指導者らや閣僚らと相談した上で、関与を疑われる政府当局者の名前を含む日本関係のすべてのロッキード事件資料の提供を合衆国政府に要請すると二月十八日に決断したが、これについて中曽根は『苦しい』(KURUSHII)政策と評した。彼は、もし名前のリストが現時点で公表されると、日本の政治状況は『大変な混乱に投げ込まれ』るし、自民党は状況をコントロールできなくなるだろうと述べた」

「合衆国政府にとってはどのような暴露もできるだけ遅らせるのが最良だろうと中曽根は述べた」


――と。

自由民主党という政党ベースで考えた場合、これは自民党総裁の意志決定を、自民党幹事長が否定するかのような、奇妙な動きなのは明白ですかねぇ…。幾ら派閥争いの話だと言っても、この動きは異常だという気がしないでもない。日本政府ベースで眺めた場合でも、総理の決定を、幹事長職にある一政治家が否定したかのような動きでもある。しかもですよ、アメリカ在日大使館を通してアメリカ政府に伝達して欲しいという経緯で発信させられており、中曽根とホジソン駐日大使との間に入った人物の名前は犢餡醗汰簡歉秕紊陵由瓩如40年近く経過した現在でも、おそらくはシークレット扱い。(因みに2007年に公開されたが二ヵ所だけは秘密扱いにされており、その内の一つは明らかに仲介者の名前と思われる。(うーん。これ、誰だと思いますゥ? イニシャル【K】の妖怪が怪しいか? いや不毛地帯【S】の方か? 案外、主筆【W】かもな。やはり、流石に危険な内容になってしまうのも理解できるところですが…。)

中曽根は、翌19日朝にもホジソン駐日大使に接触をとり、前夜のメッセージの変更を依頼したという。

「ジャック・アンダーソンが一〇日ほど前に二人の当局者名を入手した。田中と大平である」

(ジャック・アンダーソンとはワシントンDCで活動する著名なコラムニストで、数々の特ダネで知られる人物だという。)

ホジソンが中曽根に託されたものを公電として書いている事に注意して、再び引用です。

「首相・三木の判断では、万が一、これらの名前がアンダーソンによって公表された場合、それは、彼の内閣の崩壊、選挙における自民党の『完全の敗北』、そして、自民党が管理できないかもしれない政治状況、ことによると、日米安保条約の枠組みの破壊につながるかもしれない政治状況を意味するだろう」

「ここで、中曽根は合衆国政府へのメッセージを次のように変更した。『私は、(合衆国政府が)これを注意深く考えることを希望する。私は合衆国政府がこの問題をもみ消す(MOMIKESU)を希望する』」

「これらの会話の中で中曽根は首相と緊密にしていると示唆したものの、三木のために話をしているとは、どの時点においても示唆しなかった」


この頃の三木武夫の元には、やはり後に総理になる海部俊樹があり、実は三木には元外交官にしてNHK解説者を務めていた外交評論家の平沢和重が三木のブレーンとして、また密使としても動いていた。が、どう考えても中曽根の行動は解せない。しかも、このナカソネの不可解なメッセージは、案の定、駐日大使館に於いても、三木首相の意向と反目するような不可解なメッセージであると分析されたという。

この【MOMIKESU】が含まれる公電については2010年に朝日新聞紙上で取り上げられ、2012年に中曽根康弘は自著『中曽根康弘が語る戦後外交史』(新潮社)の中で、「記憶がありますね」と認めているという。

「三木さんは資料公開をやろうとしていました。一方、副総裁の椎名と幹事長の私は、相談して、三木さんを抑えなければ駄目だという考えを共感しました」

メッセージを託した人物については

「私が個人的に使っているアメリカ通の英語のできる人間に指示したのだろうね」

と答えている。
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◆1972年の田中角栄

田中角栄が、ニクソン&キッシンジャーと向き合っていたのは1972年の事であった。勿論、この頃には爛蹈奪ード事件瓩覆觧件は影も形もない。

1972年5月9日、佐藤内閣時の佐藤派から田中系議員81名が終結して事実上の田中派が結成される。

同年6月20日、田中角栄が『日本列島改造論』を刊行する。

同年7月5日、田中角栄が自民党総裁選を制する。

同年7月7日、田中角栄内閣が発足する。

7月5日〜7日にかけて、ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官は、田中角栄にどのように接触すべきか相談していた。この1972年1月に実はニクソンは田中と顔を合わせていた。総理だった佐藤栄作に通産大臣だった田中角栄が随行してサクラメンテを訪れた際、田中とニクソンは言葉を交わして一つの印象的なエピソードを持っていた。

1960年の大統領選でリチャード・ニクソンはジョン・F・ケネディと争って敗れたが、その1960年に田中の長女・田中真紀子はペンシルバニア州フィラデルフィアに留学中で、当時16歳であった。16歳であった田中真紀子は他の生徒と一緒にニクソンバッジまでつけてニクソンを応援していた。

この「田中真紀子が16歳のときにニクソンバッジをつけてニクソンを応援していた」という微笑ましいエピソードは1960年の大統領選を指していたが、ニクソンは1968年、自分が勝利した大統領選の年と記憶が混同していた。しかし、確かにニクソンは「田中角栄の娘がペンシルバニアのどこかの学校で私の事を応援してくれていたらしいという、その逸話を記憶していた。

ニクソン「私が特にそのことを記憶しているということと、彼女(田中真紀子)に対しても御父上の総裁選勝利を私がお祝いしているという事を伝えて欲しい。なぜならば、この男(田中角栄)と良い関係を築くのは重要なことだから」

キッシンジャー「まったくその通りです。思うに、11月に控えた大統領選前に彼(田中角栄)と会う事を検討した方がいいかも知れません」

ニクソン「私も賛成だ。どこで会う? ハワイか?」

キッシンジャー「彼もそれを好むでしょう」

ニクソン「それはいい。ハワイで快適に過ごすのもいいだろう」

発足時の田中内閣の支持率は71%と国民から高い支持を得ていた。前任の佐藤内閣の末期は19%まで落ち込んでいた事というから、田中内閣のスタートは順調であったのだ。


1972年8月19日、ハワイ会談を前にキッシンジャーは来日して軽井沢の万平ホテルに田中角栄を訪ねた。

実際、その席でキッシンジャーは

「1968年の大統領選であなたの娘さんがニクソンバッジをつけていた事に感謝していますよ」

と挨拶した。(実際には1960年の大統領選の話であったが田中角栄は細部を訂正することなく、快く挨拶を受けたという。)

この万平ホテルに於ける田中とキッシンジャーとの会談は、おおよそ、次のようなものであった。

キッシンジャーは田中角栄に対して、国務省や外務省を通さない連絡ルートの構築を打診した。この頃のアメリカ政府(ホワイトハウス)は国務省や外務省といった各省庁と距離を置いていた時期と眺める事が出来る。アメリカはベトナム戦争の泥沼に直面しており、それが継続していた時代でもあり、このキッシンジャー自身がニクソンの密使として色々と世界中を飛び回って、諸問題に収拾をつけていた。また、沖縄返還にあたって佐藤栄作は密約外交をしていたワケですが民間人の若泉敬を密使として実際にホワイトハウスと交渉していた。

田中角栄はロバート・インガソル駐日大使に「自分から直接連絡を取る」と返答した。インガソルはニクソンと親交があり、「大統領の男たち」と呼ばれた一人であった。インガソルを通じて田中角栄をホワイトハウスに国務省や外務省を通さない裏ルートを構築し、田中角栄をも大統領の準ファミリーのような良好な首脳関係にしてしまおうという腹づもりであったと思われる。

とはいえ、キッシンジャーは田中角栄を腹の底から信用していたワケではなかった。既に、この頃までに田中角栄は「中華人民共和国」の北京政府との国交正常化に向けての態度を表明していた。後にニクソンも中国への電撃訪問を果たす事となり、そのお膳立てをしていたのはキッシンジャー自身であったが、そのキッシンジャーの目には、田中角栄は日中国交正常化に前のめりであるように見えた。キッシンジャーは、田中角栄に対して、

「日米両国が中国の歓心を買う競争をするべきではない」

と釘を刺すような発言をしたという。

また、キッシンジャーは田中角栄を警戒していたと思われる。

「(田中角栄に心を許すと)日本国民や北京政府にリークされるだろう」


というアタマがあったという。

キッシンジャーに拠れば、総じて日本の政治家は秘密を守れずマスコミに、何某かを匂わせてしまう事が多いが、特に田中角栄は注意が必要だと受け止められていたという事のよう。田中角栄は高い人気を誇っているが、その一つが庶民的な親しみ易さであり、日本人が田中角栄を評して言うところの「ヒトたらし」であるが、記者にあれこれとオフレコ発言を洩らしてニュアンスを漂わせたり、酷い場合には事実と異なるような内容を勝手に記者に話し、それをまた日本の報道機関が事実であるかのように報じてしまう事に、眉を顰めていたという。これは近年の田中角栄ブームでも取り上げられているところですが、田中角栄は官僚から新聞記者から、周囲の者を懐柔し、いわば「垂らし」ていたと言われる通りで、その辺りの奇異さは誰の目にも特異であったし、どうもキッシンジャーあたりは、そういう田中角栄を警戒していた。

(うっかりした事を教えると)「ホントだろうがホントではなかろうがリークされてしまうだろう」のような、そういう田中角栄観であった。

ハワイ会談は同年8月31日と9月1日の二日間をかけて実現するが、その首脳会談をする場所としてのホテルの選定で、早速、ホワイトハウス側は、田中角栄の怪しいの一面に直面していた。首脳会談を行なうホテルとして日本政府はサーフライダーホテルを希望し、アメリカ国務省も首脳会談場所については全て日本側の意向に任させるという態度であった。しかし、ホワイトハウスに話を取り次ぐと、異論が上がり、日米間で綱引きが行われることになった。何故なら、そのサーフライダーホテルとは、小佐野賢治が所有しているホテルであった為だった。既に「黒い霧」についてはアメリカも把握しており、田中角栄が小佐野賢治と親交が深いことも熟知していた。ホワイトハウスは急遽、オアフ島の最北端にあるクイリマホテルを推し出した。しかし、日本の外務省はホワイトハウスの意向をやんわりと断るという態度に出た。

日本の外務省は小佐野賢治の名前を挙げた上で、

「既に国際興業側が全面的に準備に取り掛かってしまっているので宿舎の変更は困難である」

と返答した。ホワイトハウスも譲らない。

「要望はわかるが、会談の便宜からいえば田中総理ご一行がクイリマホテルに宿泊されることが好都合」

と打診したが、日本大使館からの返答は「変更困難である」であった。更に日本総領事が現地視察をした上で、「2泊はサーフラダーホテルを使用し、3泊目のみクイリマホテルを使用する」などの折衷案も出たが、ホワイトハウスは「3泊ともクイリマホテルで」と譲らなかったという。ニクソンは「クイリマホテルの宿泊費はすべてアメリカ側の負担とする」という意向までを示し、「これはニクソン大統領の好意である」というニュアンスまで伝えてきたという。それでも日本側は折れずに「せっかくの大統領の御招待なので8月31日の晩餐会がある日はクイリマホテルに田中角栄ほか少人数を宿泊させるが、それ以外はサーフライダーホテルで」と、尚も譲らない。この宿泊ホテルを巡るだけの、日米の攻防は実に一週間もかかり、最終的に田中陣営は3泊中の2泊を小佐野のサーフライダーホテルに泊まり、一泊をクイリマホテルに泊まるという方針を押し通した。

1972年8月31日から、田中角栄とニクソンとのハワイに於ける日米首脳、いわゆるハワイ会談が行われた。儀礼的な挨拶を済ませた後、ニクソンは田中角栄に対して、裏チャンネルを提案してきた。事前に軽井沢の万平ホテルでキッシンジャーが田中角栄に打診していた内容そのものでもあった。佐藤栄作はホワイトハウスとの間に京都産業大学教授の若泉敬を用いて偽名でホワイトハウスに出入りさせていたし、田中角栄の後任総理となる三木武夫も実は外交評論家の平沢和重を密使としてワシントンDCに派遣していたのが歴史的な事実であるという。

この裏チャンネルを構築すべきというニクソン(&キッシンジャー)の提案について田中角栄は口頭では「同感です」という具合に答えていたが、実は動いた形跡がない。インガソル駐日大使に直接接触するとキッシンジャーには返答していたが、田中角栄は、そのまま放置していたし、その後も裏チャンネルを持たなかったという。

首脳会談2日目あたりから、ニクソンと田中角栄は擦れ違いが始まる。ハワイの地元紙に「ニクソンが和平を示唆」という新聞記事が掲載された。それに拠ると、日本の毎日新聞、読売新聞、日経新聞の夕刊が田中首相同行筋の話として、「ニクソン米大統領は田中首相との会談で、ベトナム戦争の年内停戦を示唆した」と報じられていた。キッシンジャーが懸念していた通り、「(ホントだろうがホントじゃななかろうが)リークされるだろう」という展開になってしまったのだ。当時のニクソン政権に取ってベトナム和平問題は最重要課題であり、無責任な情報が出回る事には神経質になっていた可能性が高く、ましては情報ソースが狹鎮羲鸛蠧厩垓抬瓩砲覆辰討い觧からすると、首脳会談の内容を誰かが軽々しく喋ったという事になる。キッシンジャーは「大統領はそんな事を言っていない」と田中に抗議したが、田中は「私も大平外相も日本の新聞記者には会っていない」と弁解した。しかし、それは虚偽であり、キッシンジャーが把握しているだけでも前夜、大平は同行記者団とクイリマホテルで懇談していた。但し、大平正芳は記者団に対して「本日の会談でベトナム戦争の話は出なかった」と説明していた。となると、情報を洩らしてしまっているのは田中総理身か牛場駐米大使かの二択になってしまう。

ハワイ会談では田中角栄の側から日米間の貿易不均衡是正の問題が取り上げれた。アメリカの対日貿易赤字が膨らんでいた当時の情勢に対応するもので、その対応策として下交渉で、日本の民間企業に米国の民間企業からの購入を促すという主旨の問題があった。ウラン鉱石などに続けて、日本は広い胴体を持った大型の民間航空機の購入が検討されていた。全日空と日本航空に対して、(マクダネル)ダグラス社はDC10機を、ボーイング社はB747機を、そしてロッキード社はL1011機を、全日空と日本航空とに猛セールスを仕掛けているタイミングであった。つまり、全日空と日本航空に対して米国の民間航空機メーカーの売り込みを政治的にも後押しするというものであった。

このうち、ロッキード社はカリフォルニア州に本拠があり、リチャード・ニクソンの地元でもあった。また、このハワイ会談が行われたのは1976年8月末であり、ニクソンは大統領選を戦っている最中の出来事でもあった。ニクソンが地元カリフォルニア州にあるロッキード社の為に何か日本政府との間で交渉をまとめることができたとしたら、それはニクソンにとって、大きな後押しになったであろう、そういう背景があった。

が、飽くまで、それは貿易不均衡を解消する目的で話し合われた日米首脳会談であり、政治家がどの会社にどの会社の航空機を買ってもらうべきだと政治判断で決定する事柄ではない。とはいえ、政府レベルで数値目標を決めることとし、田中角栄は「三億2000万ドル相当の大型機を含む民間購入機の購入」を決定、発表した。

具体的に政治決定によって民間航空機のセールスが成ったワケではない。飽くまで、米国の航空機メーカーから日本の航空会社2社が3億2000万ドル相当の買い物をすることを決定したという話であった。

しかし、すべての会談が終わった後、田中とニクソンは15分間ほど二人だけになってホテルの庭を歩いた。その際の会話記録は、どこにもなかった。


ハワイ会談では、その後も日米安全保障問題を巡って、どうやらニクソンと田中角栄は微妙な空気をつくってしまったらしい。ニクソンは佐藤栄作との間で日米安保と沖縄返還に絡んで台湾に係る狢耋兢鮃爿瓩鯢什斬舛砲靴覆ち按鵑之襪鵑任い拭

田中角栄は次のように日米安保について語ったという。

「日米安保条約は基本的には日本防衛を目的としており、台湾防衛については台北とワシントンとの問題だ。/事態はその後変わっており、当時想定された状況にない」

と、台湾を切り離して考えているかのような見識を語ったと報道された。しかし、それは台湾条項を無視した発言であり、中国との国交正常化に前のめりな田中角栄の態度の現われにも見えた。ニクソンと佐藤栄作との間で設けられた台湾条項とは、中華民国(台湾)の安全保障を日本の安全保障と結び付けるものとして考えるもので、特に、その箇所については狢耋兢鮃爿瓩箸靴堂縄返還の前提条件としてニクソンと佐藤とが決めた者であった。

実際に日米双方の会談記録として、ハワイ会談で台湾条項に係る話し合いは行なわれていないことが確認できるという。しかし、どういう訳か日本側、田中角栄側がリークしたと思われる不愉快な報道が為された。この台湾条項についてはニクソンは当事者でもあった事から、機嫌を損ねた出来事であったという。

ニクソン&キッシンジャーは、田中角栄という政治家の評価を決定的に悪いものとして印象づけた。

そして田中の「前のめり」を裏付けるように、1972年9月29日、日中共同声明を発表し、日中国交正常化へ。

キッシンジャーは、田中角栄内閣を分析して年内(1972年)も持たないだろうと考えるまでになっていた。しかし、1972年12月22月の総選挙でも田中角栄下の自民党は勝利し、田中内閣は第二次田中内閣として存続し続けた。
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◆1972年に実在した「ハイレベルの米政府の圧力」問題

1972年9月20日、アメリカの駐日大使館には奇妙な相談が舞い込んでいた。この日付は田中角栄とニクソンとがハワイ会談を終えてから約20日後の事であった。

ミズーリ州セントルイスに本社を置いているマクダネル・ダグラス社(以下、ダグラス社で統一)の副社長であるチャールズ・フォーサイスが「緊急の要件」と称して、在日大使館に苦情を持ち込んだ。

ダグラス社は日本の商社として知られる三井物産と共に自社の旅客機DC10機を売り込むべくセールスを展開しており、熾烈なセールス合戦の相手に、ロッキード社があった。ロッキード社は同じく日本の商社として知られる丸紅と組んで民間旅客機を売り込んでいた。

ダグラス社のチャールズ・フォーサイス副社長は、ダグラス社の代理店でビジネスパートナーであった三井物産の副社長が、9月19日に当時、通産大臣だった中曽根事務所に呼び出されたと話し出した。その中曽根事務所で、中曽根事務所の者から、三井物産副社長は次のような説明を受けた。

「ハイレベルの米政府の圧力を理由に、日本政府が日本の航空会社にロッキードL1011を購入するよう圧力をかけている」

「ハイレベルの米政府のプレッシャーの為、日本の航空会社は、ダグラス社DC10機とロッキード社のL1011機を分担して購入しなければならないだろう」


――と。

ダグラス社からすれば代理店の三井物産が、日本の通産大臣に呼び出され、そのように説明を受けたことになる。三井物産も、そのように言われてしまったので正直にダグラス社に連絡をし、それを受けてダグラス社はアメリカ駐日大使館に「このアメリカ政府がハイレベルの圧力をかけているという話は本当なのか? こんなことが許されるのか?」という具合にクレームを入れていたのだ。

中曽根事務所に呼び出された三井物産副社長は、中曽根事務所の人物から「ハイレベルの米政府からの圧力がある」と提示された際、そのハイレベルの圧力の詳細について尋ねたが、中曽根事務所の人物は「あなたの知った事ではない」と突っ撥ねられたという事まで、実は当時の公電に内容が記述されているという。

三井物産はダグラス社に

「もし米政府の圧力がなかったなら、全日空も日本航空もDC10機を購入していたと思われる」

と強調した。ダグラス社にしても三井物産の申し出を事実と仮定した上で、「米政府は中立であるべきだ」と駐日大使館にクレームを入れる為に「緊急の要件」として持ち込んだものだった。


このクレームを受けて、ロバート・インガソル駐日大使は反応している。前述したようにインガソルはニクソンから抜擢された人物で「大統領の男たち」と呼ばれたニクソン人脈に数えられた人物の内の一人であり、官僚経験は無かったがニクソンによって特別に抜擢された実業家出身の駐日大使であった。

実業家出身のインガソルは、クレームが示しているように「何某かの政治的圧力が健全な市場競争を妨害しているとしたら大問題である」と考えた。この辺りの考え方は伝統的共和党のフェアネスと関係しているという。ニクソン政権下のホワイトハウス、ニクソンにして、そんな事をするワケが無い。通産大臣の中曽根康弘が何やら勝手に不審な動きをしているようにも勘繰ることが出来るし、或いは中曽根のウラに何かがあるのかも知れない。かと言って、そう断定するだけの証拠があるワケでもなく、更に疑い出せば、ニクソンもしくはホワイトハウスがホントに日本政府を通じて何某かの圧力を掛けている可能性も完全には払拭できないと考えた。

インガソルは丸紅の檜山広社長と会った経験もあった。確かに、その際、檜山と意見を交換したのは日米貿易不均衡の問題であった。その際、丸紅の檜山社長は「現状を変えるには、確かに劇的な何かが必要です」という旨の見解を話していた。

駐日大使館が国務省に送っていた公電では、この複雑な事情を読み解いて、3パターンが考えられるとして、国務省に公電として送っていた。

A案…三井物産がDC10機の売り込みがうまくいかない理由を正当化する為に、こうした疑惑を用いている。

B案…ロッキード社の代理店である丸紅が、ロッキード社の販売の可能性を高める為に、日本政府内部に「米政府の圧力」の話を吹聴した。

C案…自民党を支援している大商社から圧力を受けた日本政府が、旅客機の商機を均等に分散するために方便として「米政府の圧力」を使用している。

というものだった。

これは複雑で、実際にロッキード社のコーチャン社長は8月下旬頃から「ニクソン政権は我がロッキード社を支援ている」という具合の宣伝文句をウワサとして各界に精力的に流していたのは事実であった。また、ロッキード社の本社はカリフォルニアであり、それはニクソン大統領の地元でもあり、それが単なる風聞なのか、ホントにニクソンがロッキード社を支援しているのかは、誰にも見極める事が出来ないというのが真相であった。

アメリカ在日大使館は、そのロ社による情報流布作戦に対抗した。機会がある度に「米政府は中立である」と抗い続けていたし、ずっと後、2001年にもインガソルは日本人ジャーナリストのインタビューを受けても、「特定の航空機を選び、介入したことはない」と説明しており、共和党の伝統的保守による市場観は貫徹されているという。

インガソルは、公電で次のようにまとめていた。

三井物産の話を真実として受け入れる理由はないものの、我々としては米政府がどのメーカーにも肩入れしないことについて、日本政府や日航、全日空に改めて念を押すべきだと信ずる。そうればダグラス社の心配を和げることができる。また、将来的に日航、全日空もしくは双方がロッキード社L1011機を購入した場合に、米政府が差別的な扱いをしたと疑われることを避けられる。

もし、日本政府が「事実として米政府のロッキード社の為に圧力をかけている」と主張するのなら、我々はその誤解を正すことになるだろう。

九月二五日までに別段の指示がない場合は、大使館は上記の通りに処理する。


インガソルは、その公電を1972年9月20日に送信しており、いわば「25日までの5日間以内に指示がない場合は、引き続き在日大使館として猜得府は中立である瓩箸いξ場で改めて説明を行なうと、アメリカ本国に対して布告するような内容になっている。インガソルによる、そのクレーム処理の公電はアメリカ国務省に対してだけではなく、大阪・神戸の領事館にも参考情報として送信されていたという。インガソルは敢えて、その公電が多くの者の目に止まるように、そうしたと考えられる。つまり、「もし米政府、ホワイトハウス側に猜銘覆了惻┃瓩ある場合は5日以内に連絡せよ」という通告形式であった。

わざわざ、五日間の猶予期間を設けている事からすると、インガソルの公電からインガソルの心中として

「まさかとは思うが、ホントに日本政府に圧力をかけているケースがあるのなら5日以内に連絡せよ」

の意が隠されているとも読める。

(因みに、インガソルの送った公電中では「中曽根事務所の人物」の個人名は伏せられており、更に中曽根事務所に呼び出された三井物産副社長の個人名も伏せられていたという。)


さて、本当に米政府からのハイレベルの圧力が有ったのか無かったのか、その見極めは非常に難しいであろうことが浮かび上がってくる。中曽根事務所は、中曽根康弘と繋がっている事は自明であり、この中曽根康弘が田中角栄と繋がっていたであろう事も半ば自明である。田中角栄が通産大臣であった中曽根康弘に何某かを示した上で、中曽根事務所が三井物産に民間航空機の分配購入を示唆した可能性がある。或いは、中曽根事務所が田中角栄の意向とは関係なしに勝手に「米政府のハイレベルの圧力によって決定した政治的決断である」という具合に先走って動いた可能性だって捨て切れいない。

このキーマン「中曽根康弘」は、ロッキード事件でも灰色高官に数えられており、いわば当事者中の当事者でもあるワケですが、後に「田中角栄とニクソンの二人だけが真実を知っている」という具合に証言もしている。これも、或る意味では鋭い指摘であり、ハワイ会談の最後に田中角栄とリチャード・ニクソンとは二人だけで15分間程度、クイリマホテルの庭を散策しながら会話したという空白の時間が実際にあるのだ。

しかも、その田中とニクソンの一対一の会話は、事前に首脳会談をセッティングする役目を負っていたキッシンジャーが執拗に「ニクソンと田中とで一対一で話し合う場を」と要求して、実現した者であった事も明らかになっている。ニクソンと田中との間で、「ロッキード社に便宜を図ってくれ」と要求があり、田中が承諾していた可能性も、やはり、捨てきれない。また、ハワイ会談後になると、キッシンジャーは田中角栄とニクソンとの一対一の場を避けるようになり、日本の外務省が「一対一で対話の場を」と要求する側に、立場が変わっているという。

また、中曽根康弘の動向は終始、不審でもある。1972年には、この中曽根事務所を発信源とした「ハイレベルの米政府の圧力」という問題が起こる。更に、ロッキード事件の発覚直後となる1976年にも時の総理大臣であった三木武夫を軽んじて、米大使館に自民党幹事長職として「ロッキード事件の公表は慎重に」と頭越しに米政府にコンタクトをとっていた事が明らかになっている。更には、現在も支配的である日本に於ける定説、通説にたる

「田中角栄はアメリカの虎を尾を踏んだので、アメリカの手によって失脚させられた」

という、ロッキード事件に係る陰謀論も、この中曽根康弘は大きく関与している。しかし、その「虎の尾を踏んだ田中角栄が陥れられた」というシナリオが、実際に、どこまで真実であるのかは判然としない話でもある。

確かに田中角栄は外交、特に日米関係に失敗した可能性があり、裏チャンネルのルートを使用するようにキッシンジャーとニクソンに提案され快諾しておきながら実際には問題を放置して、インガソルに接触しておらず、信用関係を構築してきれていなかった。また、それに火を注いだのが田中角栄の打ち出した日中国交正常化と、それに付随して台湾を蔑ろにするような発言をしてホワイトハウスの不興を買ったであろう事も確かに読み取れる。その上に田中角栄には小佐野賢治との親密さを窺わせるブラックな金脈があったワケで。

しかし、そもそもキッシンジャー自身やアメリカ国務省、ホワイトハウスは、ロッキード事件に於ける個人名の公表などには反対していたのが現実でもある。チャーチ委員会の行き過ぎた正義感に対して、

「アメリカの国益を損なうことまではするな!」

と釘を刺していたのがホワイトハウスや国務省の立場であったと考えるのが合理的だし、そう考えるだけの資料も現在は公表されている。

となると…。
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◆三木武夫とジェラルド・フォード

ニクソン辞任後に繰り上がってアメリカ第38代大統領に就任したジェラルド・フォードはニクソンの辞任劇による繰り上がりで誕生した大統領なので、やや印象が薄いが基本的な高潔な人物であったらしく、「アメリカ人でありながら歩きながらガムを噛むこともしない(できない)人物であった」という。明るく正直で学生時代にはフットボール選手としての活躍もあるという誠実な人物であったという。ポジションとしては「保守中道の人」であったという。

三木武夫はクリーンである事を売りにしていたが、三木が持っていた政治意識は「アメリカには明るさがある。あそこにはデモクラシーがある」という意識の持ち主で、実際にカリフォルニアに留学経験もあった。そして三木もフォードも棚からぼた餅で一国のリーダーの座についた境遇が似ていた事もあり、三木とフォードとの相性は悪くはなかったという。

1975年8月5日には三木が訪米してフォードと日米首脳会談を実現、フォードは疲労困憊の真っ只中というスケジュールで実現した首脳会談は三木が積極的に話し、フォードの口数は少なかったという。キッシンジャーによれば中身の薄い会談であり、フォードは三木に対して距離を置いていたとするが、フォード自身は三木にそこそこ好感を抱いていたという評もあるという。

三木に対して感心が低かったのは三木政権は短命であるとホワイトハウスが考えていて事も関係していたらしく、三木が1975年を越年した頃から三木への評価は好転していったという。(三木首相殴打事件が発生したのは1975年6月16日。)

しかし、1976年2月4日に、ロッキード事件が火を噴いた。

ロッキード事件が火を噴いて以降、三木はロッキード事件追及に向けて動き出したが、当時の政局は最大派閥は田中派であり、それに福田派、大平派という具合に割れており、三木は自民党内に於ける立場は一匹オオカミ的な心許ない状態であった事に加えて、ロッキード事件に前向きな姿勢をとった事によって、自民党内に「三木おろし」の風が吹き始めた。

1976年2月24日、三木武夫はフォードに親書を送った。

「去年の夏、われわれは日米両国が永遠の友人であることを認め、民主主義の擁護と日米親善発展のために相協力することを誓いました。/私は、関係者の氏名があればそれを含めて、すべての関係資料を明らかにすることの方が、日本の政治のためにも、ひいては、永い将来にわたる日米関係のためにもよいと考えます」

それに加えて、三木武夫は密使・平沢和重をアメリカ国務省に向けて放った。平沢和重は外交評論家で三木武夫のブレーンとして内閣参与としても知られていたという。戦前は外務省、戦後に退官してNHK解説委員になった人物であり、NHKのラジオやテレビで「みなさん、今晩は」と語りかけるスタイルをトレードマークにしていた人物であるという。

1976年3月5日、密使・平沢和重はフォード政権下で国務長官になっていたキッシンジャーと極秘で会っていたという。

国務省側には記録が残っているらしく、やりとりは以下のようなものであったという。

平沢は、「三木に対して、どのようにすべきか最良のアドバイスをしたいと思っており、助言者に徹する覚悟でいる」と説明した上で、「私は難しい立場におります。私はメディアで公表してほしくありません」と語った。

キッシンジャー「我々の側では公表しません。しかし、率直なところ、私たちがあなた方の為に何をできるのか、私には分かりません」

平沢「三木は、これをどのように扱うか決めていません。もし可能ならば、三木は少し前もって情報を得たい。大統領から返書があると三木は期待していますが、資料の提供には機が熟していません」

キッシンジャー「その通りです。私たちは、資料を司法の手続きに乗せるつもりで、その手続きには時間を要するでしょう。或る時点で、あなた方はあなた方の司法関係者を米国に派遣し、私たちの司法関係者と共に作業したいということになるかも知れません。私たちは、大変な注意と熟慮の上で進めています」

平沢「三木は、資料を受け取った場合に、何の条件もふされていなければ、その資料をすぐに公表すると述べています」

キッシンジャー「ノー。あなた方に資料を提供するにあたっての唯一の条件は、資料を秘密にすることです」

平沢「私たちは秘密を保ちます」

キッシンジャー「勿論、訴訟になれば、公になるかもしれません。しかし、それはすぐにそうなるものではないでしょう」

補足が必要な会話内容なので補足します。キッシンジャーは訴訟になって、その司法手続きの中で灰色高官の個人名が明らかになる事は構わないが、政権が政権として資料を公表すべきではないという考えた方を示したと思われる。また、三木の密使である平沢の発言からは三木のジレンマが感じ取れる。三木としてもアメリカに資料を請求して公表すべきだという立場をとって来たものの、早期に資料を渡されて、それを公表した場合、自民党政権そのものが窮地に陥ってしまう可能性を心配しても居たのだ。なので、「資料の提供には機が熟していません」、「可能ならば三木は前もって情報を得たい」という言い回しを平沢がしたものと推測できる。



◆「CIAの問題には近寄ってはならない」

時系列的にも続きになります。

1976年4月2日、ニューヨークタイムズ紙が一面トップである記事を報じた。

「CIAは50年代からロッキード社の賄賂を知っていた」

報じられたのは1976年だから当時にして既に20年以上も昔からCIAはロッキード社による賄賂を知っていたというセンセーショナルな記事であった。また、ロッキード事件は、この【CIA】が絡んでしまっている問題である事を嫌が応にも暴いてしまった記事であったと言える。

アン・クリッテンデン記者の署名入りの、その記事は凡そ、以下のような内容であったという。(分かりにくい内容なので引用ではなく意訳です。)

「元CIA職員や日本の情報源によると、一九五〇年代後半にロッキード航空機社によって日本人政治家に支払われていた賄賂の詳細の多くは、F104戦闘機の日本への売り込みに関連していたとされる。それらはワシントンのCIA本部に報告されていた。CIAは約二〇年前に賄賂を承知していたが、それはこの二月四日、チャーチ委員会の公聴会で初めて公開された。」

「児玉誉士夫は、日本の政界に隠然たる影響力を持つ一方で、米国の在日大使館の職員と繋がりがあり、CIAのエージェントではないものの、CIAの資金を受け取ったことがあるという。一九五〇年代前半に、児玉は中国本土に隠し持っていたタングステンを密輸して東京の米当局に引き渡すため、米大使館から一五万ドルを受け取ったと言われている。」

「ワシントンのCIA本部は、一九五〇年代後半に東京の大使館のCIAのチャンネルを通じてロッキードの支払いを知らされていた。ロッキードの為に働いていた日本人が、一九五八年に、賄賂が支払われると、それを米大使館職員に伝えた。その日本人はその支払いに関わっておらず、また、その大使館職員がCIAのエージェントだったとは知らなかったと言っている。元情報機関幹部は、その大使館職員がCIA東京支局のスタッフであったことを認めている。」

「別の元幹部は『CIA東京支局はロッキードに関する問題が持ち上がると、その全てについて本部のチェックを受け、その承認を得ていた』と語った。CIAはその情報を国務省には伝えなかった。」

「また、児玉はF104戦闘機の売り込みで、七五万ドルを稼いだと見積もられている。」

「ジョン・F・ケネディ政権下で、極東担当の国務次官補をしていたロジャー・ヒルズマンは、一九六一年に国務省入りした際、日本の一つないし複数の政党にCIAから資金が供給されたと聞かされたと回想している。」


(別のソースとして)「元首相・岸信介が再選された一九五八年の選挙についても、CIAが資金を援助した。岸氏は長く児玉氏と関係があり、日本政府がロッキードF104の購入を決定した当時、岸氏は国防会議議長を務めていた。」

また、ニューヨークタイムズ紙が一面で、上記の記事を掲載したのと同じ4月2日、ニューパブリック誌なる雑誌に元ニューヨークタイムズ記者のタッド・シュルツ記者の記事が掲載され、そちらも大きな問題を示唆していた。

こちらの雑誌記事は「両替商ディーク社の奇妙な顧客」という記事で、要約すると、ロッキード社が日本に送金するにあたり利用していたのは両替商のディーク社であるとし、このディーク社はCIAが世界中の資金捜査の為に利用している秘密チャンネルであったと示唆している。CIAはロッキード社の日本に於ける児玉を介した秘密工作を知っていただけではなく、CIAは米政府の秘密外交目的を達成するためにロッキード社の活動に相乗りしていた可能性がある、と示唆。CIAは日本で極右を支援するにあたって、その尖兵としてロッキードを使ったと考えるべきかも知れない――と。

ロッキード問題は、途轍もないレベルの大きな問題に発展しつつあった。戦後日本を牽引してきた日本の政治体制そのものに対して、CIAが1950年代から資金援助という形で関与していた事を暴きかねない内容であったとも言える。また、CIAから資金援助を受けていたのは一つの政党ではないという証言も、大きなインパクトを持っていると考えるべきでしょうか。挙がってしまった名前が犂濘介瓩箸覆襪汎米安保問題そのものにも波及しかねず、日米両国政府の安全保障にも係る問題であり、日本国内的に考えても「自由民主党」の存亡の危機に直結しかねない大問題のようにも思える。

報道がなされた翌日となる1976年4月3日、三木武夫は午前9時から官邸で開いた記者会見にて、

「重大な問題であり、徹底的に究明しなければならない」

「CIAは政府機関だから米側から協力を得なければならない」

と語った。

同日夕、日本の外務省は在米大使館に公電を送った。内容は

「国務省のしかるべきレベルに対し、記事について外部に発信し得る米政府の公的立場を改めて照会の上、五日午前までに回電ありたい」

であった。外務省は「5日午前までに」としたのは官房長官や外務大臣に記者から質問が飛ぶことを予測して、その日時をしたものの、国務省のウィリアム・シャーマン日本部長から

「政府内で相談しなければならないので即答は致しかねる。結果が出次第、回答することとしたい。検討にどれほどの日数がかかるか、現時点では推測しがたいので了承願いたい」

と返答があった。

大混乱に陥っていた。

この4月3日付の朝日新聞夕刊には、岸信介の反論が次のように掲載されていた。「全く事実に反する」、「児玉の工作、私にはない」という見出しであった。

「まったく事実にないことだ。(河野一郎を通して)私のところにいろんな働きかけがあったことは事実だ。河野君は児玉誉士夫と親しかったから、児玉が河野君に働きかけたこともあっただろう。この問題が政治的にやかましくなったのは、児玉の影響力があったためかも知れない。しかし、私に児玉が直接働きかけてきたことはなかった。(略)児玉がロッキード社からいくらカネを受け取ったのかは知らんが、機種決定にあたって児玉の影響は受けたことはない」

「日本の首相が外国からカネをもらうなんて、絶対あり得ないことだ」

日本の外務省が国務省日本部長シャーマンに問い合わせた件の回答があったのは、1976年4月14日であった。問い合わせからは11日が経過した計算になる。

「次の結論に達した。すなわち、米国政府としては従来から情報活動に関しては何らのコメントも行わないという政策を有しており、この政策について現在も何ら変更はない。したがって今回の日本側照会の件に関しても何らコメントする立場にない」

だった。

同16日、CIAから日本の政党に資金援助があったのではないかという疑惑は米上院議会(情報活動特別委員会)の反応によって更に混迷の様相が強まってゆく。米上院議会は14日に米国務省が日本の外務省に示した見解と一部異なる見解を発表した為だった。

「児玉を経由した日本政府公務員への支払いについてCIAは承知していない」

「ロッキードの支払いにCIAが関与したことはない」

「日本の公務員や政党に資金を提供するのにディーク社を使ったことはない」


という内容が含まれていた。

(【公務員】という単語の用法がミソで、何故、「高い地位の官職」を意味する【高官】ではないのかという疑問がありますかねぇ。ロッキード事件は【灰色高官】に代表されるように【高官】が使用された事件なのに。ひょっとしたら「国務大臣を含む意味での高官には払ったけど、公務員には払っていません」的な細工とか?! 「ロッキードの支払いにCIAが関与したことはない」にしても「CIAがロッキード社の支払いをするワケがない。CIAが主体となって資金提供をしていたのだから」という婉曲的表現で、その断片だけを見せているだけのようにも疑える。更に「ディーク社を使った事はない」という言い回しにしても、「ディーク社を使って公務員や政党に資金を提供したことはない。何故ならディーク社を使ったのは児玉誉士夫に資金提供する為であったに過ぎない」のような、そういう揚げ足取りも出来そうな内容ですけどね。)

国務省のウィリアム・シャーマン日本部長は14日に「政府としてCIAについて特にコメントすることはない」という見解を提示していたのに対して、米上院議会は一部報道を否定するかのような対応であった――と。

更に厄介な動きを在米大使館の羽澄光彦参事官が行なってしまっている。羽澄参事官はシャーマン日本部長から「特にコメントすることはない」という回答を貰ってしまった事に納得が出来なかったので、次のように公電を残していた。

「CIAが日本の政党に資金を提供したことを示す記録は見あたらない」という具合に回答を貰うワケにはいかないのかと、回答の中身を日本側から要求するという動きを見せている。しかも、これは日本人には御馴染みの牴皀関文学瓩陵冕,任△蝓△弔泙蝓◆峙録は見あたらない」とする事で事実を表面的に否定するが、後に検証問題が起こった場合には「そのときには記録は見あたらないと返答したが、出てきた。決して偽証したワケではない」という具合に積み上げていく、それであった。

その羽澄参事官の要請はシャーマン日本部長によって断られた。米国務省の見解は一貫しており、「CIAに係る情報活動についてはコメントしない」という態度は原則であり、その原則は守れるという態度であったのが分かる。

1976年5月6日、ジェームズ・ホジソン駐日大使は総理官邸で三木武夫総理と会談した。会談は実に70分にも及んだという。一部を引用です。

三木「日本では『ノーコメント』は肯定を含む得るのであり、場合によっては、肯定に近いことを意味する場合すらある」

ホジソン「CIAの問題については、核政策と同様に否定も肯定もしないとの立場だ」

三木「問題はちょっと違うように思う」

ホジソン「総理の言わんとしていることは分かる」

三木「国会開催中に国務省から取材を受けた場合、日本側にはまだ回答を与えていないとの線で応答してほしい。『ノーコメント』の回答はまだ外では言わないでほしい」

ホジソン「できる限り協力したい」


この会談中、ホジソン大使は三木武夫総理の窮状にアドバイスを送ったという一節がある。意訳混じりになりますが、その内容が以下。

「特使ならびに議員団がワシントン訪問中に避けるべき問題が二つあります。アメリカ政府が日本政府に資料を提供する場合に猗詭扱い瓩両魴錣ありますが、その秘密扱いについて再交渉を求めないことが、先ず一つです。これについては、総理ご自身が非常によく御理解頂いている事柄でしょう」

(ここでホジソンは笑いかけた。三木総理を持ち上げているし和やかなものと推測できる。しかし、ここで表情を険しく強張らせて以下のように続けたと推測できる。表情を一転させたホジソンは――)

「それ以外に、もう一つ避けるべき問題があります。CIAについては避けるべきです。〜略〜CIAの問題については我々にも日本政府に役立てるような回答を持っていないのです。」

CIAの活動内容については秘密解除が為されるまでは、どうやってもアンタッチャブルなのだ。
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◆児玉包囲網

1976年2月4日にロッキード事件が火を噴き、同時に周辺が慌ただしくなったのが児玉誉士夫であった。児玉と親交のあった稲川会総裁の稲川聖城(いながわ・せいじょう)は寝耳に水の状態であった。当時、稲川会の理事長であった石井隆匡(いしい・たかまさ)ともども、見舞いに行くべきかどうか話し合ったという。既に世田谷区等々力の児玉邸にはマスコミが詰めかけており、自分たちヤクザが見舞いへ行けばマスコミの餌食になると考え、児玉邸には足を運ばず、電話で見舞いをし、毎週土曜日には児玉邸に肉や魚といった食料品を届けたという。

児玉邸は緊張状態にあったという。マスコミの取材攻勢も去ることながら、左翼団体が騒ぎ出して当時の左翼の中には凶暴な者も含まれていた。また、非常に児玉にとって厄介な存在となったのが、右翼として知られた赤尾敏及び、赤尾敏の大日本愛国党であった。

1976年2月14日、赤尾敏は愛国者緊急時局懇談会を開き、児玉を糾弾し、「児玉即右翼ではない」という声明を発表。愛国党は児玉邸に街宣車による街宣を掛けていたという。暴力団関係者や系列の右翼団体の多くは、児玉の背後に稲川会の存在があった事をしっていたので、無言の圧力がかかっていたが、赤尾敏には通じなかったという事のよう。

因みに、この頃の児玉の秘書は太刀川恒夫であり、この太刀川恒夫は元々、児玉の秘書であったが1963年〜1966年(昭和38〜41年)までの期間を中曽根康弘の元で秘書修行し、その後に児玉の秘書に復活していた。児玉と中曽根との間に、この人物の存在があるが、この太刀川は「東スポ」の愛称で知られる東京スポーツの会長である。

このタイミングで中曽根康弘は児玉誉士夫との関係を暴露する書籍、緒方克行著『権力の陰謀』が出回った。そこには児玉と近い人物として中曽根康弘、渡辺恒雄、氏家斉一郎の名称が記されていた。読売とライバル関係にある朝日新聞社系の雑誌の週刊朝日が『権力の陰謀』の大特集を組んだ。

ナベツネのニックネームでも知られる渡辺恒雄は、当時の読売新聞社で政治部長という肩書きであった。当時の渡辺恒雄は週刊読売に「水爆時評」という連載を執筆していたが、二度に渡って児玉との関係を釈明した。

「怪物とか、黒幕といった存在も、日ごろ敬遠していたんでは、ニュースはとれない」

「取材対象には肉薄するが、主体的批判能力を失わないこと。これが、新聞記者という職業の原則である」



◆「記憶にございません」

国会の反応は早く、2月9日の衆議院予算委員会理事会にて、証人喚問することを決定。第一回の証人喚問は2月16日に決定、そこに小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅の伊藤宏が出頭することになった。

1976年2月16日午前10時から、人々の記憶に深く刻まれる事になる証人喚問が行われた。田中角栄の大親友であるという小佐野賢治が証人喚問に登場したのだ。この証人喚問で、小佐野賢治は

「記憶にございません」

を連発しまくった。事前に打ち合わせしていた通りの答弁であったという。小佐野はロッキード事件発覚後、即座にハワイへ脱出していてが13日に帰国。帰国後、直ぐに弁護士の黒沢長登(くろさわ・ちょうと)と竹内寿平(たけうち・じゅへい)ら証人喚問の対策を練ったという。日本中から冷笑と怒りを買った歴史的な名フレーズ、「記憶にございません」は、弁護士から提案されたものであったという事のよう。

「記憶にございません」を連発する中、小佐野は民社党の永末英一の質問にたじたじになった。

永末「しかるべき人の紹介がなければ、コーチャン氏と会う事はないと思うが、それは児玉氏か?」

小佐野「児玉氏とは会いません」

永末「児玉氏でなければ、誰か?」

小佐野「記憶にございません」

永末「あなたのは頭の中にある筈だ」

小佐野「児玉氏とは会わない。今の人は、まったく記憶にございません」

永末「児玉氏ではないというと、心理上は記憶があるということになる」


(※この質問は「『児玉氏と会っていない』という記憶が心の中にあるのであれば、それは心内の問題として、あなたには記憶があるという事ではないのか?」という質問であり、語り草になる鋭い質問であった。)

小佐野「児玉先生ではない。まったく記憶にございません」

永末「答弁は、きわめて不満足だ」


この2月16日の証人喚問を終えて、同日午後には小佐野に再喚問の日程が決められた。しかし、小佐野は「高血圧兼冠不全」の診断書を提出し、再出頭には応じなかった。以降、小佐野は東京・上野毛の自邸に引き篭もった。(この部分ですが、世間一般の解釈では仮病であろうと考えられてた記憶があります。しかし、ソースを忘れてしまいましたが小佐野サイドの証言では、実際に、あの証人喚問中に心拍数がとんでもない数字にまで跳ね上がってしまい、ドクターストップがかかったというソースを目にした事がある。)


◆児玉邸セスナ特攻事件

そして、3月23日、午前9時50分頃、それは起こった。児玉邸にセスナ機が操縦士もろとも突っ込んだのだ。特攻テロ、現在でいうところの自爆テロが発生。操縦士は死亡。児玉誉士夫を狙っての特攻攻撃であったが、幸い児玉は難を逃れた。操縦士は一階の寝室を狙って特攻したが、児玉は二階にある病室で寝ていたという。事故後に児玉は太刀川に背負われて一階の仏間に避難し、怪我もなかったという。

犯人は29歳の右翼青年・前野光保であった。ミリオン出版系のソースだと、この事件の扱いがイカレている感じのポルノ男優がイカレて自爆テロを起こしたかのような記事があったのですが、大下英治の著書では少し異なる印象で記されている。「ポルノ俳優」という風に記述してしまうとイメージが固着してしまうのだと思いますが、大下によれば前野光保の職業は「俳優」であり、いわば出演していた作品が日活ロマンポルノ作品が中心の俳優だったという事になる。(当時は現在のAV男優にあたるようなポルノ専業の俳優は存在していないんですよね。)

しかも、前野光保は元々は児玉誉士夫の信奉者であり、尊敬していたがロッキード事件が発覚した後に、裏切られたという感情に到り、命懸けの特攻テロを仕掛けたという説を採っている。

前野はNHKのテレビで「君が代」が流れると直立不動で聞き入るという行為を習慣にしており、自宅では父親にも起立をすることを求めるような、そういうタイプの右翼青年であったという。家宅捜索された渋谷区笹塚のマンションからは、書籍がずっしりと詰まった本棚があり、鈴木大拙、三島由紀夫、ヘッセ詩集、野坂昭如、井上靖、司馬遼太郎らの小説のほか、児玉誉士夫の著書である『悪声・銃声・乱世』も在ったという。その他には哲学書と航空学関係の書籍が並んでいた――と。

浮かび上がってくるのは、文学青年系というか、確かに思想背景を持っていそうな右翼青年の像ですかねぇ。「ポルノ俳優・前野光保」と表記されているケースとでは、その印象に差異がありそう。

同日9時50分頃にセスナ機で児玉邸上空にやってきた前野は、何度か児玉邸の上空で旋回した後に、「天皇陛下万歳」という雄叫びを上げながら児玉邸に突っ込んだ。前野の死体は火事場のマネキン人形のような姿で発見された――という。
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◆ロッキード事件、その後の経過

1976年3月13日、児玉誉士夫は8億5千万円の脱税容疑で東京地検に起訴される。

1976年6月18日、全日空社長の若狭得治が議員証言法違反によって衆議院予算委員会から告発される。

1976年6月30日、三木首相とフォード大統領による二度目の日米首脳会談が行われる。

1976年7月27日、5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反外為法違反容疑で田中角栄が逮捕される。

1976年11月2日、米大統領選では現職ジェラルド・フォードが破れ、ジミー・カーターが制する。

1976年11月4日、小佐野賢治が議院証言法違反によって告発される。

1976年12月5日、田中角栄は自民党を離党した状態で衆院選があったが一位当選を果たす。

1976年12月24日、ロッキード選挙で議席を減らした責任をとる形で三木武夫は総理・総裁を辞任し、福田赳夫内閣が発足する。

1977年1月21日、小佐野賢治が議院証言法違反で起訴される。

1977年1月27日、ロッキード裁判丸紅ルート初公判で、田中角栄は容疑を全面否認する。

1978年12月7日、大平内閣発足。「角影内閣」と揶揄される。

1980年7月17日、鈴木善幸内閣発足。

1982年11月27日、中曽根内閣発足。「田中曽根内閣」と揶揄される。

1985年2月7日、竹下登が創政会を立ち上げて、鉄の結束を誇った田中軍団に亀裂が生じる。

1985年2月27日、田中角栄が脳梗塞で倒れる。

1987年7月4日、竹下登が経世会を立ち上げ、田中派からは大量に竹下派に議員が流出する。

1993年12月16日、田中角栄が死去。ロッキード裁判が打ち切られる。

1995年2月22日、最高裁が田中角栄の元秘書の榎本敏夫に対する上告審の判決理由の中で、田中角栄の5億円収賄を認定する。

ロッキード裁判を巡る動静は膨大な上に通史でもあるので端折ることとしますが、奥山俊宏著『秘密解除〜ロッキード事件』(岩波書店)によって新たに明らかにされたと思われる日米外交事情部分のみに少し触れます。

通史としてのロッキード事件では、三木武夫は徹底的に悪役(ヒール)として描かれている。田中角栄に近かった者からは、「三木の指揮権によって田中角栄が逮捕された」という恨み節が存在する。これは、もし仮に三木総理が指揮権を発動して逮捕をさせないという選択をしていたなら田中角栄は逮捕されなかったが、これは裏返すと三木が田中逮捕を容認した事を指して、「三木が指揮権発動をしなかったから田中角栄は逮捕された」という文脈である。(後述する各種のロッキード事件陰謀説は、田中角栄に近い人物から発信されている。)

田中角栄に近くない筋や、中立的な観点の中にも、ロッキード事件という事件の性格が持つ難しさを考慮した上で、検察庁や裁判の在り方に疑問を呈する声も少しある一方で、明らかに金権体質の政治を田中角栄が行なっていた事も明白で、実情を考慮すると田中角栄批判は世の風潮とも合致しており、それはいわば金権体質の抜けない自民党批判であったようにも読めますかね。田中角栄の側近でありながら後に裏切った竹下登、金丸信、小沢一郎らの面々が歩んだ道というものも、やはり、暗い影を落としていた事は政治史を眺めていれば、誰でも考えることであろうと思う。意外と上手に立ち回っていたのは中曽根康弘の方であったかも知れない。

日本ではヒールにされがちな三木武夫ですが、三木はフォードとの二度目の首脳会談後、実は米国側の評価はウナギ登りであったという。

1976年、現職大統領で共和党のジェラルド・フォードは、民主党のジミー・カーターと熾烈な大統領選挙の繰り広げていた。フォードは三木武夫と同じような境遇のリーダーであり、リチャード・ニクソンの大スキャンダルを受けて副大統領から昇格した大統領であり、アメリカの世論からすればニクソンの後継であり、共和党候補であり、現職大統領でありながら支持は芳しくなかった。また、フォード政権下では、ヘンリー・キッシンジャーが国務長官として存在しており、ホワイトハウスと国務省とは一元化された状態で三木政権と向き合っており、三木武夫は、田中シンパが言っているほど暴走して自らの政局争いにロッキード事件を利用していたというよりも、キッシンジャーにも通じる、粛々と物事を処理するという態度であった可能性がある。

大統領補佐官のスコウクロフトと、ホジソン駐日大使は三木をベタ褒めしており、スコウクロフトは「私は個人的に三木が好きです」、「彼は素晴らしい」と評し、ホジソンも「田中に比べて三木は意思疎通しやすい」と評していたという。おそらくは、それはキッシンジャーも同じような感慨であったと推測できる。これは「操り易い」という意味で評価されているのではなく、政治家としての在り方とか処し方が評価されている。

ホジソン駐日大使は、フォードが大統領選に敗れた直後、フォードに対して手紙を出していた。

「もし日本が51番目の州だったならば(ときどきにほんはそのように行動しますが)、あなたの再選は確実だったでしょう。ここ日本で、あなたの人気は限りがありません。日米関係は過去最良であり、そのことに深く満足しています」

また、三木武夫は自身が総理・総裁を辞す前夜、すなわち1976年12月23日前夜に、フォードに手紙を書いていた。

「いわゆるロッキードスキャンダルについて、自民党は、特に前首相の関与の疑惑に対する厳しい批判の矛先を突き付けられました。しかしながら、第二に、私が追い求めてきた中道路線、すなわち、対立を避けて、対話と強調を求める路線は、日本の人々の固い支持を得ました。」

キッシンジャーが回顧録で述べた「ニクソンと田中は似たような境遇」で、その後継としてスキャンダルの処理をしたフォードと三木も、その歴史的文脈上の役割としては似ていたような気がしてくる。

1988年11月14日、三木武夫は没した。



◆【官僚派】と【党人派】

戦後の公職追放の人材不足を補う為に吉田茂は高級官僚を自民党の政治家として登用した。具体的には池田勇人、佐藤栄作、更には戦前官僚の岸信介が登用された。つまり、自民党内に於ける官僚派とは、池田、佐藤、岸の系譜を指しており、吉田茂によって登用された元官僚の系譜を【官僚派】と呼んだ。その官僚派に対して、戦前から政党政治を経験していた生粋の政治家の系譜、その非官僚系に対して【党人派】と呼ばれた。1955年の保守合同によって自由民主党が成立していますが、その1955年から10年間程度は、この「官僚派」と「党人派」が自由民主党内の主導権争いを形成した。

官僚派が岸信介、池田勇人、佐藤栄作らの系統であるのに対して、党人派は鳩山一郎、三木武夫、河野一郎、大野伴睦、川島正次郎らの系譜を指している。

三木武夫は堂々たる党人派の主役の一人であり、また、田中角栄も官僚出身ではないので党人派の政治家である。しかし、田中角栄を追うと「官僚派と党人派」という対立構図の終焉時期(1955年から10年)という時期で田中角栄が破壊しているのが分かる。田中角栄が頭角を現したのは佐藤栄作内閣下であり、佐藤派の中で大蔵大臣と党三役の幹事長職として頭角を現している。また、佐藤派時代には官僚出身の大平正芳と親しくしており、同じく官僚出身の福田赳夫と敵対し、党人派でありながら党人派の三木と敵対的な関係になっている反面、福田赳夫は三木武夫と相性がいい具合であったから、佐藤内閣時代に角福戦争、自民党は田中角栄VS福田赳夫の構図に変化しつつあった事に気付かされる。

つまり、「官僚派と党人派」という対立構図は、田中角栄が台頭してみせる頃に壊れる。田中角栄は佐藤派の中で要職を得て、官僚派の大平正芳と組んで勢力を拡大している。自民党の派閥は「三角大福」の4派閥が拮抗し、それは熾烈な田中対福田という覇権争いとも関係している。一時的に田中角栄が総理になった事は、自民党内による政権交代が実現していたとする史観がありますが、確かに非官僚系の総理大臣であり、民主的な政治続きと大衆人気によって生み出された民主的な政権交代であったのも、また事実でしょう。

キッシンジャーは「大平を気に入っていた」と同時に、それ以上に密使として接した中国の周恩来に心酔していたという。キッシンジャーの目からすれば、明らかに「田中角栄」は異端の政治家として映ったであろう事は、想像に難しくない。美化するまでもなく、田中角栄という政治家の場合、高等小学校卒が最終学歴であり、実務の人であった。建設業の社長時代があり、その後に政治家をしながら鉄道会社の経営をし、その頃までには小佐野賢治と親交を築いているワケですが、この小佐野も実は山梨の貧農の出で学歴もないままに上京を果たし、身一つで国際興業を作り上げた実務の人であった。

田中&小佐野は地方出身で、さほど裕福ではないという部分から立身出世を体現したという境遇からして似ている。また、田中&小佐野のコンビが会社の買収騒動や国有地の払い下げで利益を上げていた等の事実は、覆しようがない事実であり、無教養ウンヌン、粗暴ウンヌン、カネに汚いウンヌンと白眼視される一方で明らかに俗社会から這い上がって台頭してみせた成功者であった事は間違いない。或る意味で、こうした成功者を狹刑有瓩噺討屬冒蟇しいようにも思える。しかし、同時に俗社会から這い上がった成功者の裏側に横たわっていたものは、カネであり、金権政治に依拠したものであったという事も疑う余地はない。

現在、出版界は田中角栄ブームであるとされ、多少は「田中角栄の時代」への憧憬もあり、やや美化されている気もしますが、厳然たる事実を直視すれば、奇妙なカネの流れが権力を構築していたのも、また明白であり、後述しますが、いわゆる「田中角栄はアメリカにハメられた」という類いの陰謀論的な見地は、多分に田中角栄時代への憧憬が「恨み節」として込められてしまっているような印象ですかね。

田中角栄が佐藤内閣下で頭角を現し、田中派を形成し、ロッキード事件発覚後も、長期にわたって田中派(田中軍団)は勢力を維持し続け、闇将軍として君臨した。また、その闇将軍として政治を動かす系譜は、田中派を割っても残り続け、竹下登、金丸信、或いは小沢一郎という具合に継承されたと解釈できそう。

また、この党人派と呼ばれる系譜の直ぐ裏には「児玉誉士夫」の存在があったのも明白でしょう。総じて官僚派の自民党議員は児玉とのコネクションが貧弱であるのに対して、党人派の政治家の面々には児玉誉士夫の影が色濃く残っている。裏返すと、官僚派の佐藤栄作あたりは児玉誉士夫の存在に眉を顰めているのが分かるが、それはアメリカの議会、国務省、大統領官邸とも共通した観点である。児玉誉士夫がアメリカと繋がっているとされるのは、基本的には情報機関CIAルートの話なので、米議会にしてもホワイトハウスにしても対処のしようがない問題だったという観点が浮き彫りになっている。

岸信介の方は児玉誉士夫を窓口としてCIAとの接点までもをニューヨークタイムズ紙に書き立てられたが、密接な関係というものではない。また、後に発覚する政府専用機選定問題に於けるダグラス・グラマン事件の経緯などからすると、戦後日本の政治史の成り立ちには一定以上の割合で、CIAが資金援助などの形で間接的に関与していた事も、一定の留保はあるにしても基本的には歴史的事実として捉えることができそうですかね。
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