どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:歴史関連 > もう一つのアメリカ史

トルーマン大統はヒロシマに原爆投下後、

「先ほどアメリカ軍機が1発の爆弾をヒロシマに投下、都市機能を壊滅させた。真珠湾攻撃で戦争を始めた日本は、その何倍もの報いを受けたが、まだ終わっていない。我々は港、工場、通信施設を破壊し、日本の戦争遂行能力を完全に消滅させる。これは宇宙の根源的な力を利用した原子爆弾なのである」

と、発表したという。

引っ掛かるのは「戦争遂行能力を完全に消滅させる」という箇所ですかねぇ。『もうひとつのアメリカ史』チャプター3「原爆投下」では、その映像が紹介されている。

更に、白人至上主義というかアングロサクソン至上主義というかWASP至上主義なのか、そこで日本人差別にも触れていました。

ピューリァー賞を受賞した歴史家ネヴィンズは「日本人ほど憎悪された敵はいない」と記していたという。それを裏付けるように実際に第三艦隊司令長官ハルゼーは

「黄色いサルの肉を持ってこい。手ごわいサルだが仕留められる

と、発言していたという。

一部の変わり者の軍人がそのような考え方だったのかというと、そうではない。かのTIME誌でさえ、

「無知なジャップには人間らしさを示すものが皆無だ」

という按配であったという。戦時中の話ではありますが、そういう言辞がどのように大衆心理に作用していたのか考えてしまう上に、これは現在でもアメリカ信仰やら欧米信仰をする日本人が過大に「TIME」誌を引用し、そのリベラル思想をベースにしている事を考慮すると、なんとも現代の日本人の複雑さ、卑屈さに気付かされてしまう。

更にワシントンの英大使館によれば、「米国人は日本人を害虫とみなしていた」という証拠があるという。従軍記者のアーニー・パイルは、1945年2月に、

「どれほど怖ろしくても欧州での敵は人間だったが、太平洋戦線では日本人はゴキブリかネズミのように見られている。」

と述べていたという。私の耳でも「コックローチ」という言葉の断片が聞きとれるのであり、おそらく当時のワシントンでは、日本人をゴキブリぐらいにしか考えていなかったのであろうなという、その、白人至上主義にゲンナリとさせられますかね。


丁度、金曜の夜に日本映画専門チャンネルを視聴していたら山田太一脚本の「あめりか物語」というドラマが放送されていたので、30分ほど視聴しました。大正時代にアメリカに渡っていた人々を描いたドラマでしたが、虐げられる日本人の姿が描かれていました。いい描き方をしており、アメリカ人の中にも「差別をするな」という意見もあるが、大勢は反日感情を募らせている。そうした状況下、日本人たちは仏壇の置いた集会所に集まり、話し合っている。北小路欣也演じる主人公は、「日本人は日本人集落に集うばかりで、アメリカに溶け込もうとしないことにアメリカ人は腹を立てている」と聞かされる。反省した主人公はアメリカ人が利用しているパブリックバーに入店してし、アメリカに溶け込む態度を実践してみるが、実際にバーに入店してみると、「ここは日本人が来るところじゃない!」と因縁をつけられてしまう――といった按配。


いやいや、今でも残念ながらホントに白人エリートの中にも白人至上主義は心の底には潜んでいるのがホントであろうと思う。ヒストリーチャンネルで放送されている「スターチャンネル」だかいう番組でも、現地在住の日本人なのか日系アメリカ人なのか、そういう人物がスタジオでトークしていたシーンを記憶している。その人物は英語で話しているのは勿論、ジェスチャーから話の構成まで完全にアメリカ式でした。正確さは書きますが、おおよそ、次のような会話でした。

日系人の学者「タクシーを止めようと思ったんだが、中々、タクシーが止まらなくてね。で、タクシーを蹴飛ばしてやったんだ」

黒人コメディアン「ワーオ、アジア人にもタクシーを蹴飛ばす権利が認められるようになったと?」

日系人の学者「そうなんだよ」

と、展開させ、二人は「HAHAHAHAHA!」という何気ない会話でしたが、こーゆーノリとかジョーク、正直、日本人、ついていけますかね? どこぞの会社は既に社内公用語を英語にしてグローバル化時代に備えているらしいのですが、アメリカンジョークにも対応して日本人にも、こうしたユーモアセンスが要求されてしまうのかも知れませんが、思うに仮に英語が理解できたとしても、私は顔を引き攣らせながら笑う感じになるだろうなって感じましたし。いちいち卑屈、いちいち自虐、いちいち、そーゆーノリに付き合わねばならないというのは地獄なんじゃないだろか。


いやいや、まだあるかな。先週、脳科学者の自伝を読んでいたのですが、或る日本で開かれた式典には日本の天皇皇后も出席しており、表彰される学者らは、天皇皇后のいるロイヤル席へと方へ一礼し、その後に観客席にも一礼してから壇上で賞状を受け取るという流れであったという。そこで或る学者は故意に天皇への一礼を省いてやったという話に触れられている。式典で、故意に天皇への一礼を省略したという意味ですよ。その学者の言い分としては、「その式典は学術的功績を称える式典であり、その学術的功績について日本の天皇が理解できているとは思えないし、そもそも日本の天皇は戦争犯罪者なのだから礼を失しても、全く構わないじゃないか。ボクはやってやったぜ」的な内容なんですね。

考え方は多様で結構だけど「恥」とか「礼」といったものの感覚は、全く違うことに驚かされる。どんな功績があるにせよ、最低限度の礼節を尽くそうと考えるのが日本人だから、その自己主張型の価値感についていけないんですよね。仮に南洋に浮かぶ小国の国王が相手であっても敬意を表するのが日本人の常識だし、不敬や不遜は恥以外の何物でもない。批判があるなら堂々とやればいいのであって。あ。いやいや、多分、そういう白人エリートの腹の底には、そのような白人至上主義が潜んでいるんだろうなって話で。

あ。また、オリバー・ストーンの話に戻りますが基本的にはトルーマン批判がなされている。トルーマンの偏狭な考えは若い頃からのもので、妻となる女性に送った手紙には、

「どの人間も価値がある。だがウィルおじさんによれば、神が白人を土で、ニガーを泥で創った。後の残り物が爛轡平有瓩澄

と、記していたという。

古い時代の話ではありますが、トルーマンはしばしば「ニガー」という言葉も使用しており、おそらくは、そういう考え方の持ち主であったのが窺える。


で、オリバー・ストーンの語る第二次大戦を終わらせたものとは何か――という話になります。ここはクイズ形式の方がインパクトがありそうなので、クイズ形式にしてみます。

「第二次世界大戦を終わらせた最大の功績は、どの国にあったでしょうか? 具体的に国名を思い浮かべてみて下さい」







具体的に国名を思い浮かべて欲しいんですね。オリバー・ストーンに限らず、多くの歴史学者は第二次世界大戦を負わせたのはスターリン率いるソビエトである――と指摘しているという。膨大な犠牲者を出しながらも最終的にナチスドイツを破ったのは確かにソビエトなんですよね。

しかし、多くのアメリカ人はアメリカこそが第二次世界大戦の勝利者であるという風に歴史を捉えている。太平洋戦争は熾烈な戦争であったのは確かなのですが、当時の日本が西洋世界を脅かすような脅威であったのかどうかという問題は、確かに馬鹿げているんですよね。

冒頭で紹介したトルーマンの言葉の中に、「日本の戦争遂行能力を消滅させる」という文言がありました。これは裏返せば日本を降伏させるのは容易いが完膚無きまで叩きのめしてやろうという意志の表出ですやね。オリバーストーン史観でも原爆投下の約3ヶ月前には日本が降伏を選択する事は理解できていた。既に日本側が降伏を模索している事も知っていた。無条件降伏を突き付けなければ、おそらくは原爆投下は起こらなかったでしょう。しかし、そういう帝国主義的な野心と有色人種に対しての差別意識を引き摺った系譜の知性によって、戦後の世界秩序が構築されたのではなかった――と。
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オリバー・ストーンの提示した歴史観、政治観について、引き続きという事になります。大雑把に、その骨格というものについて――。

フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)を高評価している。有名なニューディール政策が挙げられますが、同時に対ファシズムとの戦争に踏み切った人物でもある。ルーズベルトに対しては概ね好意的な評価が多いのですが、それでいて実は日系移民に対しての強制移住などが推し進められたのはルーズベルト体制下であったという事にも言及している。

しかし、ルーズベルト急死を受けて、33代大統領になるハリー・トルーマンに対しては辛辣な評しかない。生粋の差別主義者であったという顔にも触れていますが、それだし、実は、「トルーマン・ドクトリン」が戦後世界秩序に大きく影響を与えることになっている。トルーマン・ドクトリンとは「共産主義の脅威を煽り、それとの闘いを主張した」というものなんですが、戦後世界秩序は確かに、そちらに舵を切られてしまったのかも知れない。このトルーマンは戦争終結に向けての過程で決断し原爆投下もそうなのですが、同時並行して第二次世界大戦終結後の世界秩序を巡る方向性というものが確立されてしまうんですね。で、そこでアングロサクソンによって選択された戦後秩序とは大枠で語れば「対共産主義路線」であったワケです。

これは、いわば当時のソビエトを「次なる敵」と特定し、そのソビエトという脅威、共産主義という脅威に対して自由主義諸国は一致団結しましょうという、いわゆる戦後の西側諸国に貫徹されることになるテーゼですかね。共産主義は危険思想視されてレッドパージ、いわゆる「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、アメリカ共産党員は8分の1まで圧縮され、ハリウッドにも、それが及んだのは有名な逸話ですね。で、このときにハリウッドで告発者側になっていた俳優の一人が、後にアメリカを動かすことになる若き日のロナルド・レーガンであった――と。

ここで、当時の共産主義思想及びソビエトはホントに脅威であったのかという問題が生じると思う。確かに過大に脅威だと喧伝された部分は確認できますかねぇ。何故なら、トルーマン大統領の時代には核兵器をアメリカが独占できていたのであって、ソビエトは開発中。次のアイゼンハワー大統領の時代にソビエトもアメリカに続いて水爆実験を成功させる。トルーマン・ドクトリンは、まだソビエトと戦力差が確実に開いていた時代に始まっている。(イギリスのチャーチルは有名な共産党嫌いだったので、それに影響を受けてのトルーマン・ドクトリンであったというのが有力でしょか。)

既に表舞台からは退いたものと思われますが、田母神閣下と呼ばれた不思議な人物の田母神論文は非常に優秀な論文であると評され、アパホテルが主催した懸賞論文の最優勝を取った。しかし、内容が問題視されたんですね。旧日本軍はソビエト共産主義が展開させていたコミンテルンの謀略によって戦争に巻き込まれたという史観を論文に綴っていました。「はぁ?」という内容だったのですが、東京大学名誉教授にして産経新聞論説員にして、日本会議の理事だか副理事であった小堀桂一郎氏によって大絶賛された。つまり、小堀氏は田母神史観を正しいと承認するような言動を取ったんですね。また、安倍晋三現総理は現在は知りませんが当時、その懸賞論文を主催していたアパホテルをパトロンとしていた。

で、その一件があったので、現在も「日本会議が日本を動かす謎の右翼団体」として脚光を集めてしまい、日本会議本が書店の店頭から撤去されるなどの騒動を巻き起こした。現在はフツウに店頭に並んでいるし、私が思うに、日本会議が日本を動かす黒幕であるという話は、或る種の幻想であろうと考えています。まぁ、そういうものに権威らしいものを感じ、次から次へと誘蛾灯のようにレベルの高くない自称保守、自称右翼の政治家らが吸い寄せられているのは確かだと思いますが、どうも組織を運営している執行部は「生長の家OB」のメンバーであるという。勿論、放置しておけば今後、日本会議が肥大化してしまう可能性もありますが、話を精査してみると、右翼サークルというか保守サークルのようなもののよう。まぁ、これは笹川良一らも防共なんたらを張りましたが、なんだかんだいって途中から防共を利用して勢力を拡大した文鮮明の統一教会に唆されていたと気付き、慌てて離れた、あの一連に似ているように眺めています。宗教から思想が芽生え、そこに政治家や学者が吸い寄せられ、それが政治イデオロギー化してゆくという可能性はありますが…。

話が脱線しましたが、つまり、防共とか反共というイデオロギーは「トルーマン・ドクトリン」に遡れるものだという話がしたいワケです。それは更に深く探ればチャーチル、イギリスを率いてアングロサクソンを勝利に導いたウィンストン・チャーチルとも深く関係している。いわば、アングロサクソン主導の世界統治論であろう――と、オリバー・ストーンは描いている。

その後、アメリカは共和党が政権を奪取し、ドワイト・アイゼンハワーが第34代大統領になる。本格的な赤狩りに拍車がかかったのはアイゼンハワー時代であるが、アイゼンハワーそのものが何かをイメージしたものではない。既にトルーマン・ドクトリンによる戦後世界秩序が形成されてしまっており、軍産複合体が軍産複合体として機能する。

また、この頃までにはアメリカ中央情報局、いわゆるCIAですが、諜報機関が力をつけてしまっているという問題が発生している。諜報活動はいいが、工作までもを手掛けるようになっており、政治家にしても脅威に感じられるような機関へと肥大化している。

で、第35代大統領がジョン・F・ケネディですね。再び民主党であり、しかもプロテスタントではなく、カトリックという異色の大統領である。しかも、大統領就任時は、なんと43歳なんですね。しかし、このケネディの描き方にオドロキがありました。昨今、JFK、ケネディは神話化され、何もかもが完璧だったかのように語られるケースが少なくないんですが、結構、鋭い描き方をしている。端的に言えば、若いケネディは新しい時代の到来を予感させる、それこそオバマ大統領誕生と似たような、独特な感慨で誕生し、ブレーンにも新世代の秀才が集められたが思うように政治を取れていない。これはオリバー・ストーン史観に拠るものなのでしょうか、実は失敗が多かった――と。

政治というのはゼロから、真っ白な白紙からスタートできるものではない。既に、ここまでに軍産複合体は完成してしまっており、それがアメリカ経済を支えている。外交的には既にトルーマン・ドクトリンが浸透してしまっているという状況。しかも、アメリカの場合は既に世界の警察として軍事力を展開させてしまっていたワケですが、統合参謀本部の連中から上がって来る情報を正しい情報であるして採用してみると、失敗することに気付かされる。軍部には軍部のイデオロギーがあり、しかも、そこには銀行家や投資家らが提示するイデオロギーも干渉し、しかも社会全体が軍産複合体になっているから、政治理念では動かせないどころか、ヘンチクリンな提言を受けてしまい、その通りに命令を出すと、事態が悪い方向へ転がるという事に気付くというんですね。ケネディは途中で、それに気付いた。「軍人のいう事を真に受けるな。彼らは軍事の専門家ではない。素人以下だ。次の大統領にも忠告してくれ」と、洩らすレベルであったという。

で、地球滅亡の危機ではなかったのかという、キューバ危機が起こる。しばしば、ケネディが譲歩しなかったからキューバ危機を人類はしのげることができたという、きわめて自由主義礼賛の説明がありますが、そういうものを完膚無きまで否定するのがオリバー・ストーン史観でした。いや、このキューバ危機、ごくごく冷静に語ろうとすれば、そんなに難しくないんですよね。ケネディが救世主だったのか、フルシチョフが救世主だったのかという場合でも、実は引き上げたフルシチョフが世界を救ったと解釈できないかというのは中学生でも分かる問題だろうしね。

ホントは、キューバ危機の真実とは「究極のチキンレース」というもの世界中が付き合わされてしまったという事であったのかも知れない。オリバー・ストーンは、キューバ危機を総括して、ケネディが偉かったのでもなく、フルシチョフが偉かったのでもないという、そういう語り口をしている。核戦争の可能性を共にチラつかせながら対峙するという、その態度とは、「愚」である――と。

実際に米ソともに軍人たちは戦略核兵器の使用を前提に作戦を立てていたし、実際に世界最終戦争をも視野に入れていた。トルコにモスクワを射程にした核ミサイルがあり、それと、も一つ、我々日本人にとっては非常に重要な話ですが、沖縄に既に核ミサイルが持ち込まれており、沖縄の核ミサイルが照準にしていたのはモスクワではなく、北京であったという話も説明されている。キューバ危機、こじれた場合には核ミサイルによる都市攻撃を主眼にした世界最終戦争になっていた可能性がホントにあるんですよね。

更に、ソビエト側ですが、アメリカ統合参謀本部が予測していた4倍の兵力をキューバに展開させていたという。もし、仮に軍部の進言通りにケネディがキューバへ侵攻していたら世界は滅亡していたかも知れず、私やあなたも存在していなかった可能性がある。控え目に言っても、米ソ両国のいずれかが軍事的な衝突によって雌雄を決するという軍事作戦を展開していたとすれば、米ソに限らず、世界が滅亡していた可能性もあった――と。

実際に、ある軍人は次のように、強がりを吐いていたという。

「最後にアメリカ人の男一人と女一人が生き残りさえすれば我々の勝利だ。きっと、その男女が新世紀をつくってくれるだろう」

事態が理解できれば理解できるほど、フルシチョフとケネディは冷静な折衝が要求される。衝突を回避させるのが唯一の選択であるワケですが、こうした状況下で「ケネディは臆病者だ」とか「ケネディは敗北した」という風に突き上げられることが事態を膠着させるメカニズムであるという。それはフルシチョフも同じだったでしょうね。弱腰だ、臆病者だ、失敗した、敗北した、という風に人々は語りたがるのが実相でしょうからね。

ケネディは、ある境地に到達し、キューバ危機を回避した。そしてキューバ危機以降のケネディをオリバー・ストーンは高く評価する。天才政治家だったのではなく、ホントは失敗だらけであったがキューバ危機という大ピンチを通して成長し、偉大な政治家になったのがケネディ大統領であるというニュンアスでしょか。

キューバ危機後、フルシチョフからも長文の手紙がケネディに届いたらしく、米ソ両首脳は平和というものについては似たような問題に直面していたということを窺わせますかねぇ。アメリカン・ユニバーシティなる大学で、ケネディは素晴らしい演説をしたと絶賛している。それはルーズベルト以来の、世界平和の重要性を主眼として捉えた演説であった――と。

しかし、ケネディは多くの怨みを買った。

そしてダラスで何者かによって暗殺された――と。

ホントに世界平和を唱えると、それがアメリカ大統領であっても実は暗殺されてしまうという、その不都合すぎる事実――。


今風の情報の中で生活し、育った世代の人になると、どうなんでしょ。世界平和よりも、経済動向が心配事だろうか?

視聴していると、確かにルーズベルトの時代、アメリカの大統領は「平和と希望を」とかスピーチしているんですよね。アイゼンハワーやケネディも「平和を」と述べているのが確認できましたが、今、「平和を」というと何故かバカにされてしまう。「希望」はミョウチクリンな連中が「こっちにもカネを寄越せ」の意味で使用しているだけですかね。。。

オムニ7のアフィリエイトです。書籍はハヤカワ文庫になっておりまして、1が920円、2が960円、3が1100円でした。
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アメリカは第二次世界大戦に引きずり込まれる事になるという経緯があったというのですが、その部分について。

アメリカは建国以来、伝統とされた外交政策を指して【孤立主義】という。これは他国と同盟関係を結ばずに、出来る限り他国とのコミットメントを避ける政策を伝統的にアメリカが採ってきた事を指し、【孤立主義】という。この話は、いわゆる【モンロー主義】と酷似しているので同義で解釈していたのですが、正確には建国まもない1793年に混乱するヨーロッパの国際紛争に巻き込まれることなく中立を宣言した事などに拠る。対してモンロー主義は、1823年に南北アメリカの混乱とヨーロッパの混乱に巻き込まれる事を避けようと基本外交方針としてモンロー主義宣言をしたことによる。

つまり、アメリカという国家は、建国当初から国際紛争に関与しないよう、そういう外交政策を採ってきたという事を意味しているんですね。第一次世界大戦に於いても勃発当初に中立宣言を発し、また第一次大戦後にも国際連盟への加入をウィルソン大統領が提唱するも意見はまとまらずに実現はしなかった。伝統的にアメリカという国の外交方針は第二次世界大戦頃までは、徹底した孤立主義的(モンロー主義)な性格を有していた。

「要らぬ国際紛争に巻き込まれたくない」とか「引きずり込まれるのは御免だ」という、その考え方というのは、率直に分かるような気がしますよね。現代社会の日常に於いてでさえ、余計な揉め事に巻き込まれたくないという心理が実際に我々にもあるワケですが、基本的にはそれですかね。しかし、時代を経てしまうと現代アメリカは、いつの間にか「世界の警察だ」と自称するような唯一の超大国化を遂げる事になった。

ああ、少し語り口を現在のアメリカ情勢にも照応させますが、ドナルド・トランプの主張にも、これが現われているようにも思いますかねぇ。余計な軍事費を負担したくはない、アメリカはアメリカの利益の為にという外交政策上の理念が透けて見えている。また、よくよく考えてみると現在のオバマ政権にも、その兆候を見てとれたと思う。一定以上の長い目でアメリカ史を見渡してみれば、「アメリカは世界の警察だ!」のような言説が猛威をふるったのは、ほんの僅かな期間でしかない事に気付かされる。

アメリカが伝統としてきた孤立主義、その転機が訪れたのは、第二次世界大戦の頃であるという。つまり、フランクリン・ルーズベルト大統領時代になる。

オリバー・ストーン&ピーター・カズニック著『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』(ハヤカワ文庫)には、その経緯が詳細に説明されていました。

共和党の言い分は、「孤立主義を守るべきだ」、「戦争に介入すべきではない」、「戦争に巻き込まれるなんて、まっぴら御免だ」、「第一次大戦で懲り懲りだ。欧州に関わるとロクなことがない」なんですね。近25年ぐらいの共和党の主張を念頭に置いてみると、信じられないほど健全なんですね。基本的にアメリカの精神というのは「我々の住んでいるアメリカさえ平和であればいいじゃないの」という、呑気なものだったんですよね。

因みに、アメリカの場合は第二次大戦後に冷戦を経るので自由主義諸国の中核となる経緯を辿りますが、実はベトナム戦争が泥沼化した頃にも【新孤立主義】が打ち出され、ベトナムからの撤収や、対外援助の削減、国内問題に注力すべきという視聴が登場したといい、もう、アメリカという国の本質というのは実は孤立主義なのかも知れない。どうもオリバー・ストーン監督自身の言葉にも、この孤立主義がベースになっており、米軍は引き揚げるべきだという主張を基軸とした、平和主義なんですね。現実問題として対中問題を抱えている日本人からすると、手放しで歓迎しにくい正論と言いますか、そういうニュアンス。

「アメリカは欧州の戦争に巻き込まれるべきではない」という政治思想が優勢だった。フランクリン・ルーズベルト政権も決して積極的に軍事介入する気はなかったが、折からの不況に対応してニューディール政策を実行している中で、欧州に於けるナチスの台頭という事態を受ける。欧州ではヒトラーのドイツと、ムッソリーニのイタリアが暴れ出しているが、基本的には静観の構えをしている。

この頃のアメリカは尊敬に値するような、平和主義理念をも掲げていたらしく、民主党大統領候補選出選をルーズベルトは自ら降りると言い出し、民主党の代議員達に一通の手紙をしたためていたという。その手紙の文面が以下。

「民主党は、進歩的で自由な政策および原則を守り抜かなくてはならない。人間の価値よりも金でものを考える人間が主導権を握るとき、民主党は敗北してきた。保守主義や妥協の力から自由にならないかぎり、勝利は見込めない。二つの方向を同時に向くことはできないのだ。そのため私は大統領候補を辞退する。」

民主党内が割れた理由は、ヘンリー・ウォレスを副大統領としたいルーズベルトの意向があったが、実は民主党内では、ヘンリー・ウォレスを嫌う人たちが多かったが為に、そういう事態が発生したという。

この「ヘンリー・ウォレス」という人物は、いわゆるオリバー・ストーン史観の中で最重要視されている人物で、このウォレスという殆んど知名度もない歴史に埋もれた政治家に見いだし、スポットを当てて、改めて現代人に「世界平和とは何か?」と訴えるのがオリバー・ストーン史観の骨子中の骨子ですかね。

で、何故、ウォレスが嫌われていたのかというと、ニューディール政策とも関係しており、当時のアメリカは経済的に危機的な状況だったというんですね。農産物が市場に溢れ返り、価格が下落していた。1920年頃から農産物の価格下落は始まっていたが、1929年以降になると価格下落は危機的状況になったという。この頃、アメリカの総人口の4分の1は農業従事者であり、ニューディール政策の成功如何というのも農業を復興させられるか否かがカギを握っていた。そこで、ウォレスは過激な政策を実施した。農家に補助金を支払うという見返りに生産量を減らすように申し出た。つまり、生産調整というヤツです。日本でも御馴染みの減反政策がありましたが、あれに近い。市場に出回る供給量を減らせば、自ずと価格は上がるという、それをやった。

未収穫の作物の25%を破棄すれば、その埋め合わせとして補助金を出した。このウォレスの生産調整によって多くの綿花畑がつぶされていくことになったという。

更に、ウォレスは豚肉の生産調整を手掛けた。100ポンド未満の豚、およそ600万頭の処分を決定した。100ポンド未満というのは市場に出回っている豚の体重の半分以下を指しており、つまりは、子豚600万頭の処分を命じたのだ。人々からはウォレスへの批判が沸き起こった。ウォレスに対して一部の者は「豚の子殺し」と非難した。ウォレスは「子豚を殺すのが残酷なら、大人の豚を殺すのも同じように残酷でしょう。……彼等の話を訊いていると、どうも豚をペットか何かだと思っているみたいですね」と皮肉で返した。ウォレスは多くの者から反感を買ったが、本人なりには苦渋の決断だったらしく、豚肉とラード、石鹸などは貧困層へ分配するなどしていた。結果を述べると、綿花の価格は2倍に跳ね上がり、農業所得は僅か一年で30%も上昇した。

少し脱線しますが、この生産調整の話なんてのはどうなんでしょう。今の日本では、生産調整=悪だし、減反政策=悪という等式になっていますかね。また、テレビドラマ「北の国から」の中でも、牛乳価格が下落した為に捨てられる牛乳の逸話が盛り込まれていたり、捨てられてしまう農作物の話も盛り込まれていましたが、いつの頃よりか生産調整のようなものを牋瓩犯獣任垢覯礎祐兇吠僂錣辰燭里任靴腓Δ。しかし、産業を産業として成立させる為の、それこそ、生産して出荷しても需要と供給の関係で価格下落が起こると、それは生業としている者からすると「働いているけど儲からない」という状況に陥っている事でもあり。

さて、ルーズベルトは辞退をちらつけせウォレスを副大統領にして、民主党内を統一し、共和党陣営との大統領戦にのぞみ、圧勝。大統領選の演説で、ルーズベルトは

「みなさんの子どもが外国の戦争に行くようなことはけっしてありません」

と訴えていたという。

しかし、アメリカにも刻一刻と、戦争に巻き込まれる時が迫っていた――。

イギリスを支援する為にアメリカは大砲や戦車、機関銃やライフル銃、更には数千の航空機を提供していたが欧州情勢は深刻化しており、ルーズベルトは武器貸与法(レンドリース法)を提示した。イギリスへの大規模な軍事支援を意味していた。これにはルーズベルト夫人が「ひどく意外で、悲しむべきこと」と発言したという。

孤立主義を掲げる共和党は怒り狂い、ルーズベルトを猛批判したという。

「ルーズベルト独裁のはじまり」

「民主的な政府は終わりを迎え、議会は実質的に破綻するだろう」

「一歩また一歩と、ルーズベルトはわれわれを戦争のほうへ追いやっている」

「(レンドリース法が成立すれば)、戦争はほぼ避けられない」

「ニューディールの農業政策とまったく同じだ。アメリカ人の若者が多過ぎるから間引きしようとするわけですね?」


これに対して、ルーズベルトを弁護する弁は、以下のようなものであったという。

「アメリカが全面戦争を避ける方法はただひとつ、イギリスだけです。アメリカを血の洗礼から守っている防護壁は、いまやイギリスだけなのです」

レンドリース法(武器貸与法)は条件付きで可決された。当初は70億ドルの予算であったが、後に500億ドルまで膨らむことになった。

アメリカが戦争に引きずり込まれてゆく過程というのは、こういうものでしたか。確かに、アメリカの主流であった世論は裏切られ、確かにアメリカは戦争に引きずり込まれてゆく――。イギリスのチャーチル首相らは、アメリカが戦争に向かっている事を確信していたという。チャーチル曰く「もう少しどっぷり嵌まって欲しいところだが、どうせもう抜け出せないだろう」。

欧州ではヒトラーが暴れまくる。日本も警戒対象になる。アメリカ人の国民感情も戦争に前向きになっていく。1939年10月の世論調査では、回答者の84%が「イギリスとフランスの勝利を願っている」と回答した結果が確認できるという。しかし、95%のアメリカ人は「アメリカが戦争に参加しないことを望む」としていた。

1941年6月、ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破り、ソビエトに全面攻撃を開始(バルバロッサ作戦)する。油断していたスターリン体制下のソビエトは戦闘準備が整っておらず、ナチスドイツの快進撃となった。スターリンも「ヒトラーの野望」を警戒しており、以前にもイギリスやフランスに軍事同盟を持ち掛けていたが拒否されていた。また、イギリスとフランスとは1928年のミュンヘン会談で、ズデーテン地方のドイツ併合を認めているなど、一時しのぎの対策でナチスドイツの領土的野心を満足させた気になっていた。

アメリカではナチスドイツの猛攻にソビエトは耐えられないだろうという予測がなされた。三ヶ月間もかからずにソビエトは陥落してしまうだろう、早ければ4週間以内に陥落してしまう可能性がある――と。続けて、ソビエトが落ちれば、イギリスも持ちこたえられなくなる――と。そうした見解に到り、アメリカとイギリスはソビエトへの支援に動き出す。

1941年8月、ルーズベルトはニューファンドランド島で、チャーチルと秘密会談を行なった。作成されたのは太平洋憲章で、大国による領土拡大の否定と征服者と被征服者に同等の権利を認めるべき、住民の自治の尊重などであったが、その席上でチャーチルはルーズベルトに「今すぐ戦争に参加して欲しい」という要請を行なったという。しかし、ルーズベルトは要請を断った。後にチャーチルが当時のルーズベルトの腹の内を語ってみせたという。いわく、以下のようなものであったそうな。

「戦争を望んでいるが、自分から宣戦布告するつもりはないと言っていた。ただし、今後ますます挑発の姿勢を強めていくそうだ。ドイツの気に障ることをやっていれば、いずれ相手側からアメリカに攻撃を仕掛けてくる。要するにアメリカは全力で、戦争を始めるための『きっかけ』をつくろうとしているのだ」

前掲著は、続けて、ルーズベルトの犁盾崚な態度瓩妨正擇靴討い襪、続けて、「ある意味では正当な目的のための世論そうさとしてやむを得ないものだったかもしれない」と記している。

更に、前掲著では、真珠湾攻撃の説明の項で、アメリカが戦争に突入したという説明に進むワケですが、陰謀論にも触れている。

巷では、ルーズベルトの陰謀説がまことしやかにささかれた。政府が事前に情報を入手していながら、戦争突入のためあえて真珠湾を見捨てたのではないかという説だ。今でもそう考えている人は多いが、それを裏付ける証拠はない。

はてさて――。真珠湾攻撃は事前にアメリカに知られていたとする陰謀論については、そのように記されていましたが、どうでしょ、日本では半ば定説化した史観でもありますかね。証拠はない――とはいうものの難題かも知れませんね。週刊文春が歴史資料を提供して手塚治虫が著した漫画『アドルフに告ぐ』では確かにアメリカ側は事前に真珠湾攻撃をキャッチしながら、それをアメリカ参戦の口実にしたという史観で描かれていた。週刊文春に限らず、おそらくは半藤一利さんや保阪正康さんあたりの歴史検証にならったものと思われますが――。
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先ず、いわゆる爍藤贈畢瓩砲弔い董FBI(エフビーアイ)とは「連邦捜査局」であり、その母体の創設は1908年で、当時は「捜査局」であったが1935年に現在の名称「連邦捜査局」になった。米国司法省に属し、第二次世界大戦前は主に暴力犯の捜査をしていたが戦後は官吏の忠誠審査や思想調査に重点が移った。エドガー・フーバーが1924年から1972年までの48年間、長官を務め、組織改編をした。

アメリカでは1947年に「連邦公務員忠誠審査に関する大統領行政命令」が公布された。これは「忠誠審査」と略され、反共政策を採ったトルーマン政権で起こった。いわゆるレッド・パージ(赤狩り)ですが、忠誠を審査するという主旨なので、自ずと審査は恣意的であり、自由権の侵害であるとする非難も強いが、兎に角、実施されたワケです。そこに48年間も長官職に居座ったエドガー・フーバーのFBIも関与した。

さて、トルーマンは政府の全職員を対象とした忠誠審査の実施を命じたワケです。内務省忠誠委員会にて告発を募り、そこで疑わしい職員があればFBIが身辺調査に行なった。しかし、よくよく考えてみると、FBIという組織は、この時点でも1924年からエドガー・フーバーが長官に君臨していたことになるから、既にフーバー長官体制が20年を超えており、当のトルーマンさえ、FBIが「アメリカ版ゲシュタポ」になるのではないかと懸念していたという。

1947年から1951年にかけて、忠誠委員会は凡そ300人の政府職員を表立って解雇し、その10倍の職員に退職を強要したという。

また、この1947年に軍の再編案が可決された。陸軍省、海軍省、空軍省によって構成される国家軍政省が創設され、その国家軍政省が後に改称して現在の国防総省へ。このときに、国家安全保障会議(NSC)、軍事委員会、国家安全保障資源委員会、それと中央情報局(CIA)が設置された。現在もCIAの名称は誰もが知るところですが、このCIAに対しても、トルーマンは「ゲシュタポ」や「軍事独裁」になる可能性を恐れていたという。

FBIの忠誠審査が、或る種の思想狩りであり、且つ、現実問題として実施されてしまえば恣意性のある取り締まり行為になるのは半ば明白であったようにも思える。一方のCIAの場合は名目上、「国家安全保障に影響する情報にかかわるその他の役割および任務」を執り行う秘密機関であり、制御不能になる恐れが設置時点から懸念されていた事になる。というのも、CIAの活動内容を知る事が統制側にしても困難であり、果たして大統領やNSCがCIAを統制することが可能なのかどうかという、そもそもからしてという問題が在った。情報の探知や収集以外にも、諜報の一貫としての政治的プロパガンダ、破壊工作、更には暗殺、ゲリラ部隊・地下軍隊を創設するなどに利用されてしまう可能性も組織の性格から懸念され、「そもそも統制することが可能か?」という問題も実際に在ったよう。

第二次世界大戦後の世界を、どうすべきか? 

「人々の世紀」にするのか、それとも「アメリカの世紀」にすべきか。

ヒロシマとナガサキに原爆が投下され、それは後者へ舵を切った。その時点ではアメリカ一国が核爆弾を保有している状態であり、次なる敵をソビエトと睨み、実際のアメリカは反共政策を採った。冷静に歴史を眺めてみてどうでしょ、確かに、「何故なのか?」と感じるレベルでの、反共になっている。国内的にはレッドパージをし、国外的には諜報活動を仕掛けている。

1949年4月、NATO(北大西洋条約機構)が設立される。それが意味しているところは「平時の軍事同盟」であり、それは対ソビエトを念頭に置いたものである。

1949年9月、ソビエトで核爆発が起きたという証拠が得られ、それが報じられた。それまで核兵器保有国はアメリカ一国であったが、思いの外、早い時期にソビエトが核兵器の開発に成功した事を意味していた。これによって米ソ冷戦構図が明確に打ち出される。

1950年1月、トルーマンは水素爆弾の開発決定を発表。その二週間後には、アルバート・アインシュタインがテレビ出演をして、

「こうした取り組みが成功すれば、大気の放射能汚染と、それによる地球上のあらゆる生命の絶滅が、理論的にありうる範囲内でもたらされるでしょう」

と警告を発した。

冷戦構造はNATOの設立が決定打となりますが、細かな包囲網は敷かれており、ウクライナを巡って米ソが対立し、中東に於けるパレスチナ問題でも米ソが対立する中でイスラエルが独立宣言をし、中国では毛沢東政権が誕生する。朝鮮半島は北朝鮮と韓国とで境界線が敷かれていたが、1950年6月、北朝鮮が韓国に侵入してくるという形で朝鮮戦争の火蓋が切って落とされる。
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引き続き、オリバーストーン史観のまとめですが朝鮮戦争について。

朝鮮半島に於ける北緯38度線、南北を分断するという取り決めは長崎に原爆を投下した翌日にディーン・ラスク大佐が急遽起草したものであり、当初は一時的な措置としての南北分断であったという。しかし、ソビエトが抗日ゲリラ部隊を率いていた金日成(キム・イルソン/きんにっせい)をトップとし、アメリカが李承晩(イ・スンマン/りしょうばん)をトップに据える体制となると、南北朝鮮で小競り合いが続いた。

アメリカの統合参謀本部は、実は朝鮮半島を重視していなかったという。朝鮮半島はソビエトと中国に国境を接しており、不要な戦争に巻き込まれるリスクがあるが、それでいて戦略上の重要性は低いと考えられており、複数回に渡って統合参謀本部は朝鮮半島を防衛線から除外すべきだと主張していたという。実際に、当時のディーン・アチソン国務長官も1950年1月に行なった演説の中で、防衛線について触れたが、そこに朝鮮半島は含まれていなかったという。

韓国のトップに据えられた李承晩大統領は圧政を敷き、且つ、経済政策でも失敗し、韓国国内では全く人気がなかった。李承晩を支持する政党は1950年の選挙で大敗を喫する。李承晩は選挙で大敗を喫したが、自らの指揮する武力によって朝鮮半島を統一する計画を議論し続けた。

北朝鮮の金日成も朝鮮半島統一を口にしていたが、李承晩の選挙大敗及び不人気が金日成にとっては、チャンスになった。金日成はスターリンに何度も何度も韓国侵攻の許可を嘆願していたが、1950年春にスターリンから韓国侵攻の許可を得ることに成功する。このときのソビエトは原子爆弾の開発に成功し、且つ、中国の毛沢東とも同盟を正式に結んでいた事で自信をに溢れていた上、スターリン自身は韓国による北朝鮮への攻撃が迫っていると考えていた節もあり、そうなのであれば先手を打つことにしたのだという。

北朝鮮が韓国へ侵攻したという第一報を受けて、トルーマン(米・民主党)のアメリカは、武力介入する事を決めたが、そこに狎鐐茘瓩箸いκ幻世鯣鬚韻觧が重要だとして、国連を通しての治安維持活動という名称に出来るかどうか質問したという。実は、この頃、トルーマンは支援していた蒋介石が毛沢東に敗れ、中国が共産圏になった事で共和党からトルーマンの失敗を責め立てられており、更に批判を浴びない為には北朝鮮の侵攻に断固たる態度で臨まねばならない状況に置かれていた。故に、名目上、その武力介入は狎鐐茘瓩任呂覆犲0属飮活動瓩任△辰燭地上部隊の半分、海軍および空軍のほぼ全てはアメリカが派遣した。アメリカ軍以外の地上部隊の殆んどは韓国軍のみであった。

10万人以上の北朝鮮の兵力はソビエトで軍事訓練を受け、武器も供給されていた。アメリカと韓国の軍隊は圧倒され、釜山(プサン)まで押しやられた。

指揮を執っていたのはダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官であった。マッカーサーは1950年9月に陸海軍1万7千名の兵士による仁川(インチョン)への奇襲上陸作戦を成功させた。トルーマンはマッカーサーを「軍事史の上でも比肩するものがほとんどない」と褒め称えたが、真意は気の短いマッカーサーを宥めようとするものであった。トルーマンは米韓が38度線を越えて進軍する事に躊躇(ためら)いがあった。躊躇えば、共和党から「弱腰だ」と批判されるという苦境に立っていた。

アメリカ政府は中国による介入はないと読んでいた。しかし、中国国境付近への進軍は慎重を期さねばならず、それ故に「中国国境へ進軍するのは韓国軍のみとする」という条件をマッカーサーに提示し、マッカーサーも同意した。中国の周恩来外相(当時)はアメリカに対して「北への進軍を続けるなら参戦する」という警告を重ねていた。

中国はどうであったかというと、毛沢東は参戦に意欲的であったが中国共産党政治局内では参戦反対が多く、意見は割れていたという。しかし、その状況で、ソビエトのスターリンが中国に対して参戦を勧めてきたという。スターリンは日本とドイツが再武装していない世界情勢からすると、ソビエトと中国の戦力は、アメリカとヨーロッパの同盟国の戦力を上回っていると考えており、それを示した上で参戦を勧めてきたという。(ある意味、スターリンはしたたかなようで。)

アメリカは中国が参戦してくるとは考えていなかった為か、マッカーサーはトルーマンとの約束を反故する。中国国境付近には米軍は進軍せずに韓国軍のみを進軍させるという約束を破り、米空軍に国境付近への出撃を検討する。

1950年10月25日、中国軍が雲山の国連軍を攻撃する。11月8日に統合参謀本部がマッカーサーに攻撃の再検討を要請したが、マッカーサーは突っ撥ねる。

「中国の共産主義者の侵略に屈して、北朝鮮の一部でも明け渡せば、現代の自由主義社会で最大の敗北となる」

と息巻いた。そのマッカーサーの勢いにトルーマンと統合参謀本部は気圧された。

1950年11月24日にマッカーサーは大規模攻撃を開始する。しかし、意外な結末が待っていた。数十万の中国兵が突如として鴨緑江を越えて流れ込んできて、米軍と国連軍は壊滅的な敗北を喫する。

タイム誌は、「アメリカがこれまでに被ったなかで最悪の敗北」と伝えれば、オマール・ブラッドレー元帥は「アメリカの歴史上最大の軍事的失敗」と発言した。まさかの大敗を喫したマッカーサーは「われわれはまったく新しい戦争に直面している」と重々しく発表した。


実は、早期から米軍は朝鮮戦争で核兵器の使用を考えていたという。

マッカーサーは

「これは、またとない原子爆弾の使い道だ。原子爆弾を投下して敵の侵攻を阻めば、進路の補修に六ヵ月はかかる。私のB-29を用意しておくように」

と興奮して語っていたという。

また、トルーマン大統領にしても7月の時点で核兵器を運搬可能な爆撃機をイギリスとグアムに派遣しており、実は、この頃の原子爆弾の使用は曖昧であったのが分かる。統合参謀本部は既にソビエトが原爆の開発に成功している事もあり、その報復を可能性を冷静に指摘していたが、この時期のアメリカは国内的にはレッドパージであり、国外的には共産主義包囲網を展開していた事もあり、かなり曖昧であったと思われる。

11月後半、トルーマンはあらゆる選択肢を検討中であり、その選択肢の中には原子爆弾による徹底的な破壊も明示的にふくまれると発表し、記者団を驚かせた。

記者:「原子爆弾の使用について、積極的な検討が行われているということですか?」

トルーマン:「原子爆弾の使用については、つねに積極的な検討が行われてきている」

記者:「大統領、それはつまり、軍事目標に対して使うという事でしょうか、それとも市民に対して…」

トルーマン:「それは軍の人間が判断すべき問題だ。兵器の使用は、これまで通り、戦場にいる軍司令官が引き受ける問題だ」


オーウェン・ブルースター上院議員は、原子爆弾を中国に使うよう提案した。トム・スティード下院議員は「クレムリン」に使う方がいいと考えていた。ギャラップ社の世論調査は一般市民を対象に行われたものであったが、52%が原爆投下に賛成で、38%が反対だった。

マッカーサー最高司令官は1950年12月9日、自らの判断で原子爆弾を使用できる権限を与えるよう政府に要請した。また、12月24日には原爆投下地点26ヶ所のリストも提出した。

マッカーサーは侵略軍(北朝鮮軍)に投下する為の原子爆弾4発と、それとは別に敵の空軍力が集中している地域に投下する為の原子爆弾4発を要求した。

更にマッカーサーは、「30〜50発の原子爆弾を満州と接する地域全体に投下すれば、放射性コバルトの帯を作り出せることができるから、10日以内に戦争に勝利できる」という計算までしていたという。放射性コバルトの帯が日本海から黄海まで広がることになるから、そうなれば「少なくとも60年間は、北からの韓国への地上侵攻は起こらないだろう」と考えていたという。

戦況は、その後も米軍と韓国軍の被害が増大。ソビエトは朝鮮と満州で空軍能力を強化させ、中国軍は韓国国境付近に兵力を集めていた。

1951年3月24日、マッカーサーは中国に対しての原爆投下の最後通告を独自に発表。トルーマンが激怒し、統合参謀本部も全会一致でマッカーサーの司令官解任の勧告を出し、4月11日にホワイトハウスもマッカーサー最高司令官の解任を発表する。

マッカーサーは解任された。しかし、マッカサーは一般市民からは人気が高く、そのマッカーサーを解任したことでトルーマン大統領の支持率は落ち込んで30%以下の支持率になった。共和党はトルーマンの弾劾をも議論した。対して、解任されたダグラス・マッカーサーは英雄となり、ニューヨークでのパレードには750万人もの見物人が詰めかけたという。ワシントン、ボストン、サンフランシスコ、シカゴでもマッカサーは人気を博し、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という文言が含まれた演説はラジオで生中継され、レコード化され、そのレコードは入荷したそばから売り切れてしまう有様であったという。

一般市民のマッカーサー人気とは全く別次元で、議会公聴会は二か月間もかけて、マッカサーの主張の誤まりを証明した。ブラッドレー統合参謀本部議長は、マッカーサーが提案した中国との戦争を、

「間違った場所で間違った時期に引き起こされる、間違った相手との間違った戦争だ」

と否定した。その結果、アメリカ一般市民の間に起こったマッカーサー旋風は急速に冷え込んでいったが、このマッカーサー解任劇を契機にして下落したトルーマンの支持率は回復することなく、支持率は22%まで落ち込んだ。

マッカーサーの後任にはマシュー・リッジウェイが最高司令官となり、このリッジウェイも1951年5月に38発の原子爆弾を要求した。しかし、この春からアメリカ、中国、北朝鮮、韓国の仲介にスターリンが入り、戦争を終わらせる交渉が開始される。その交渉は2年間に及ぶが、その間にもアメリカ空軍の空襲は途絶えることなく続いた。(ナパーム弾が使用された。)

オリバーストーン史観では、この朝鮮戦争中にアメリカ社会は軍国主義化した――としている。世論的にはレッドパージの嵐が吹き荒れ、国際情勢としては共産主義対自由主義という冷戦構造が確立されただけではなく、アメリカの産業構造そのものも軍産複合体化が進展したとする。トルーマンは1951年度の国防予算を135億ドルから482億ドル、約4倍に増やしている事、また、軍需産業が製造業全体の80%近くを占めていたとする。また、政治的な背景としてNATOにより、アメリカ軍がヨーロッパに駐留するようになった。

そんな中で、1952年、アメリカ軍トップにあったドワイト・アイゼンハワー元帥が共和党からアメリカ大統領に立候補するという流れが起こり、1953年1月に大統領に就任する。副大統領に指名したのは、リチャード・ニクソンであり、国務長官はジョン・フォスター・ダレスである。

軍人上がりのドワイト・アイゼンハワーは、当初は熱狂的な反共産主義者ではなかったという。元々はソビエトのゲオルギー・ジューコフ元帥と親しかった上に、駐ソ大使に拠れば、アイゼンハワーの人物評は高く、「人間的で親しみがあり、親切でフランクな性格」と評され、遡って1945年にモスクワを訪れた際にはソビエト国民からも熱烈歓迎を受け、外国人として初めて狎屬旅場瓩任離僖譟璽匹鬟譟璽縫麌世硫鮎絅謄薀垢ら観覧するという好待遇を受けていた。実はスターリンもアイゼンハワーに敬意を持っていたという。

しかし、歴史は皮肉な運命を辿る。アイゼンハワーが大統領に就任した約一ヶ月後となる1953年3月5日、ヨシフ・スターリン死去の報が世界中を駆け巡った。

アイゼンハワーは名演説を残した。

銃が一挺製造されるたびに、軍艦が一隻浸水するたびに、そしてロケットが一基発射されるたびに、それは空腹を満たされぬ人々や、寒さの中で衣服のない人々から盗みを働いたことにある。この世界では、労働者の汗が、科学者の才能が、そして子どもたちの希望が浪費されている。

最新の重爆撃機一機を建造する費用があれば、三〇以上の都市に、現代的なレンガ造りの学校を一校ずつ建てられる。あるいは人口六万人が住む町に電力を供給する能力を備えた発電所を二ヵ所建設できる。設備が整った立派な病院なら二つ建てられるし、コンクリートの歩道なら五〇マイル舗装できる。われわれは戦闘機一機を買うのに、五〇万ブッシェル(約1万3600トン)の小麦に相当するカネを支払っている。駆逐艦一隻を、八〇〇〇人以上に新築の家を建てられるだけの費用で勝っている。このような生活様式はありえない。戦争という怪しい雲の下で、鉄の十字架にかけられているのは人類自身だ。


ニューヨークタイムズ紙は「拡張高く、非常に感動的」と評価したという。DVD版ではアイゼンハワーはアイクの略称で親しまれ、広報に使用された映像には「小さな敗北は、小さなシアワセ」という歌詞の歌がつけられているのが確認できる。確かに、アイゼンハワーは、トルーマンとは異なる何某かの希望によって誕生した大統領であったという事のよう。

しかし、現実は違った。アイゼンハワーは軍国主義者であった。朝鮮戦争はコツコツと休戦交渉が前進していたが、アイゼンハワーは戦争を拡大させる気配を見せた。アイゼンハワーが大統領に就任した1953年1月、米軍は実戦で使用可能な核兵器としての戦術核兵器のテストを初めて行っており、使用できる核兵器の模索が、より具体的に進行していたのだ。

1953年2月の国家安全保障会議で、アイゼンハワーは新しい兵器を使用するのに適した場所として、北朝鮮の開城(ケソン)の名前を挙げたという。陸軍参謀総長から核兵器を戦術的に使用することへの疑義が呈されると、アイゼンハワーは

「財政的な面で言えば、朝鮮半島では通常兵器を使い続けるより、核兵器を使ったほうが安上がりだろう」

と、冷淡に答えたという。アイゼンハワーの核兵器観というのは、その言葉に顕著であり、通常兵器と核兵器との境界線を取り払うことであったという。つまり、実際に使用可能な核兵器が模索されることになる。

後のベトナム戦争から検証するに、アイゼンハワー&ニクソン体制は、「核兵器の発射ボタンの上に我々の手は置いてある」という牾飽匈鏑瓩砲△辰燭叛睫世気譴討い襦それは「拳銃をこめかみにつけられた状態で抗える者は居ない」という論理の貫徹であり、ニクソンを評した場合の「狂人の論理」の原型がアイゼンハワーの、戦略核兵器の模索にあったという。(ニクソン体制になると核威嚇が多用される。)

朝鮮戦争の休戦交渉は進展していたが、現場の戦闘は激化しており、戦況としては双方ともに犠牲者数は急増していた。国連軍の士気は下がり、脱走兵が増加したと共に前線から逃れたいが為に兵士たちの間で自傷行為が多発したという。

1953年7月27日、交渉開始から2年と17日間をかけて、ついに朝鮮戦争は休戦協定の署名が行われ、休戦に入る。休戦協定に署名したのはアメリカ、中国、北朝鮮であり、韓国は署名を拒否。現在も韓国は休戦協定に署名していない。

休戦協定に到った経緯についても、核威嚇が利いており、アイゼンハワーは、

「和平合意がならない場合、核兵器を使用する用意があり、対中戦争も辞さない」

と、中国政府に伝えていた事が大きいとされる。まさしく悪魔的な核威嚇の概念。


ブリタニカ国際大百科事典に拠ると、この朝鮮戦争によって多くの民間人を含めて130万人の韓国人が死亡し、中国人の死者は概算で100万人、北朝鮮人が50万人、アメリカ人は約5万4千人が死亡した。但し、オリバーストーン史観は異なる数字を挙げており、当時の韓国の総人口3000万人のうち、300〜400万が死亡したと記している。また、中国人も100万人が死亡、アメリカ人の死亡は3万7千人としている。

(核兵器の問題は現在進行形ですかね。稲田朋美防衛大臣が過去の発言として核武装の未来が示された。防衛大臣就任後に蒸し返されたので、安倍総理が「将来に渡って核武装を検討しない」という主旨の発言をした。昨日、イギリスのテリーザ・メイ首相は野党に核兵器を市民の上に落とせるのかと野党議員から質問され、即答で「落とせる」と回答した。ずーっと、核兵器の問題は現在まで続いているんですよね。安倍総理の将来的にも核武装を検討しないに対しても、テリーザ・メイの核兵器を躊躇なく使用できるという態度に対しても、どちらにも「ホントに大丈夫なの?」という思いがしますかねぇ。オバマ効果によって広島を訪れる外国人が増えたという報道がありますが、地道にコツコツと核問題の本質を語り、多くの者に考える機会を与えてゆくというのも非常に重要な一つの選択肢なんじゃないスかね。)
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オリバー・ストーン&ピーター・カズラック著『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』(ハヤカワノンフィクション文庫)から、キューバ危機について。既にDVDを視聴した際にも少し触れた記憶がありますが今一度、文庫本に沿って――。

ジョン・F・ケネディは、1952年に上院議員に選出されたが、後に大統領まで上り詰めたことを考えると、議会における経歴はあまりぱっとしたものおてゃ言えなかった。冷戦リベラル派のケネディは、同じ民主党内で進歩的な考えを持つヘレン・ガーガン・ダグラスに対抗して、リチャード・ニクソンの共産主義弾圧キャンペーンを支持していた。

〜略〜

民主党リベラル派の支持を得ようと試みたものの、結局、彼らの信頼を得ることはできなかった。政治的に抜け目のない選択だとはいえ、日和見主義的にリンドン・ジョンソンを副大統領候補として選んだことがリベラル派の不信を決定づけることになってしまったからである。


つい先日、狃乎勅匆餡熟性瓩覆襪發里某┐譴泙靴燭、思うに集団社会化論は非常に優れているなって思う。このJFKの話一つにしても、民主党内の大統領候補選びに於いては、その有力な対抗候補と戦うにあたって、その正反対の立場を採っている。理念よりも戦略を選択をしているというか、無意識に有力候補に対して正反対の立場を選択してしまうというか、そこですね。

また、多くの場合、JFK、ケネディ大統領については、その暗殺劇というフィルターを通して語られてしまうので、私以降の世代になるとJFKこそが、理想的な大統領の典型、もしくは理想的な政治家の典型、更に理想的なリーダーシップ論や、理想的な自由主義思想の体現者のように語り継がれている。しかし、オリバー・ストーン史観で語られるケネディ像は、遥かに人間的であり、失敗を重ねた人物だと説明されている。つまり、これは失敗に失敗を重ねる中で、政治家として成長したかと、大統領として一つの境地に辿りついたという捉え方をしている。いきなり、若き天才政治家が空から降臨したのではなく、極めて現実的な政治闘争の中でチャンスを掴んだのがJFKであり、その若い大統領にしても、かなり辛酸を舐めさせられた挙げ句、暗殺されてしまったという、淡々とした歴史と言いますか、そんな感じですかね。

実は、アイゼンハワー政権(共和党)の時代から、アメリカは核武装を強化するという道を選択しており、膨大な予算を費やしてきたという経緯があった。その論拠となったのがソ連の保有する核戦力、すなわち核ミサイルについてであった。「ソ連は、こんなにも核ミサイルを保有している。それに備える為には我が国は更なる核武装の必要がある」というプロパガンダが為されていた。つまり、「ソ連に先行を許しているから我々は、そのミサイルギャップを埋める為にも核ミサイルを製造、配備しなければならない」という戦略的プロパガンダが採られていた。

そのミサイルギャップは実は、デタラメである事が判明した。ケネディ自身も「ミサイルギャップがあるから、対共産主義でなければらない」という主張をして、実は選挙に勝ち抜いてきた。そして実際にケネディが大統領に就任して、ミサイルギャップの話はホントなのかと、ロバート・マクマナラ国務長官に調査を命じたところ、ミサイルギャップに係る言説は嘘であるという不都合な事実が判明した。JFKは、経緯を考慮して、そのミサイルギャップ説は嘘であったことを知ることになったが、当初、国民の前で真実を語ろうとは考えなかった。自らが戦ってきた選挙戦に於ける主張などと照合しても、「実はアメリカはソビエトに核ミサイル保有数で圧倒している」という事実は猊堙垤腓併実瓩世辰燭里澄

しかし、1961年2月6日、ケネディの腹心であったマクナマラ国務長官は報道陣の前で、「ミサイルギャップは存在しない」と発言してしまう。アメリカ世論は激しく動揺することになった。マクナマラは自らの発言が失言であり、その失言によって政権運営を揺るがしてしまったという自責の念から辞任を申し出るなどしている。ケネディはマクナマラの辞任要請について「その判断は早急だ」として保留し、そのまま、マクナマラの失言及び辞任騒動は有耶無耶となった。

1961年10月頃、ケネディは、それまで隠し続けてきたミサイルギャップの嘘を公表するという決意を固めたという。

その頃の核戦力比較をすると、大陸間弾道ミサイル(ICBM)をアメリカは45基保有していたが、ソ連は僅か4期しか保有していなかった。また、アメリカは潜水艦や爆撃機かに搭載し、目標地点に到達可能な3400発以上の核弾頭を保有していた。重爆撃機の数はアメリカが1500機以上保有していたのに対してソ連は192機。更にはトルコ、イギリス、イタリアに120基あまりの中距離弾道弾(IRBM)を配備し、ソ連を爆撃可能な約1000機の戦闘爆撃機や、潜水艦搭載の核ミサイルも保有していた。総計すると、アメリカは約2万5千の核兵器を保有していたことになり、ソ連が保有する核兵器の10倍にも膨れ上がっていた。

しかし、公表されたのは10倍程度も保有核戦力が優位になっているというリアルな内容ではなく、表現的には「戦術的核兵器・戦略的核兵器のいずれにおいても、わが国の核兵器運搬手段の総数は数万に及んでいます」という具合の迂回した言い回しであったという。しかし、軍人たちは「アメリカの核優越」を公表したケネディ政権に反発し、更なるミサイルが必要であると訴えた。

1962年1月、ケネディ政権はカストロ打倒を政府の最優先事項に掲げていた。JFKはキューバ革命政府の転覆を目指していたのだ。

マングース作戦にJFKはゴーサインを出していた。CIAは600人の局員と約5000人の契約工作員、それと海軍部隊を南フロリダに集結させていた。キューバに対して軍事介入するつもりだったのだ。マングース作戦とは、ウィリアム・クレイグ准将が作戦を担当しており、キューバ人の手によるスパイ活動、破壊活動によってキューバを混乱させ、キューバ経済を破綻に追い込み、カストロ大統領を暗殺することであったという。事態はキューバに対して軍事介入する口実づくりにあった。

実際に、どのような謀議が検討されていたかというと、マーキュリー宇宙船に対してキューバによる電子妨害があったとし、その証拠をデッチアゲて軍事介入の口実とすること。キューバからフロリダに脱出する人々の難民船を撃沈を含む、カストロ政権によるキューバ難民に対してのテロ行為の捏造。カストロ政権を主謀者としたアメリカの民間航空機のハイジャック未遂事件の捏造。同じくカストロ政権を主謀者としてアメリカの民間航空機の撃墜事件の捏造。(これ、結構、ショッキングな話かも。民間航空機をカストロ政権が撃墜したとして、キューバに軍事介入するアイデアが実際に練られていた事が分かる。しかも、その謀略テロのシナリオとしては「休暇を利用して旅行に出掛ける大学生グループを想定」だって。怖い話すな。)他にもキューバの戦闘機による米軍機の撃墜事故の捏造。グアンタナモ基地内での爆発事故、軍用機の炎上、船舶の破壊、暴走などをカストロ政権が起こしたとする作戦。(これも真珠湾攻撃を巡る一部の陰謀論と合致している…。)

兎に角、ホントにアメリカはキューバに対して軍事介入、軍事侵攻の準備をしていた。それらは、実はソ連にも見抜かれる事となり、ソ連はソ連で「アメリカのキューバへの軍事侵攻が差し迫っている。(1962)年内にも進行が起こることを確信していた。1962年4月にはアメリカ軍は4万人が参加する軍事演習を実施し、翌5月にも似たような軍事演習が2回行われていた。更に、10月には【Castro】(カストロ)を逆さ綴りにした【Ortsac】(オートサック)作戦の実施が発表されていた。7500人の海兵隊を進行させる軍事演習であったが、そのオートサック作戦は実行されなかった。1962年10月というのは、既に爛ューバ危機瓩悗瞭容を意味しており、オートサック作戦は中止となったのだ。


1962年10月14日、アメリカの偵察機はキューバから衝撃的な航空写真を持ち帰った。専門家が写真を分析した結果、既にソ連が準中距離弾道ミサイルを配備している事が判明したのだ。(一応、他の事典類とも照応しているのですが、キューバ危機に関して一部の事典は「基地の建設中だった」という説明もありますね。オリバーストーン史的には既に基地はあり、後は核弾頭の搬入だけというところで、キューバ危機が発生したとしている。完全配備がなる前にキューバ危機が発生したのか、それとも基地も完成していない段階でキューバ危機が発生したのかという度合いの差があると言いますか…)

ソ連側は1962年中にもアメリカがキューバに軍事侵攻すると確信していた。しかし、ソ連にしても苦慮しており、ソ連が採ったのは1962年中にアメリカと直接的な軍事衝突を起こすことだけは避けたいという結論に到っていた。ソ連側からすれば、アメリカと直接に軍事衝突しない為に、キューバにミサイル基地を建設していたのだ。フルシチョフは秘密裏にミサイル基地を建設し、そこに核弾頭を配備することを、ボリェヴィキ革命の45周年記念日となる11月7日に公表しようとしていたという。

同年10月19日、ケネディはアメリカは統合参謀本部と会談した。統合参謀本部の見解は「キューバへの空爆」であったという。会談したのはカーティス・ルメイ将軍で、ルメイはキューバに空爆を展開してもソ連は反応のしようがないという事を掲げた。対するケネディは、ベルリンの方でソ連が何某かの動きをみせるかも知れないと宥めるような返答をした。ケネディは冷戦構造下の核戦争というものが地球規模の全面核戦争に到ってしまうという考え方に気付いていたが、ルメイを始め、統合参謀本部も、そのようには考えていなかった、という。

ケネディは、ルメイとの会談後、ケネス・オドネル補佐官に洩らした。

「ルメイがあんなことを言うなんて、信じられるかい? 高級官僚というのは、なんでも自分に都合よく解釈できるという、大きな強みをもっているようだ。彼らの話を真に受けて、その通りに行動したら、誰も生き残れないだろう。そうしたら、彼らの考えがまちがっていたのだと教えてやれる者がいなくなってしまう」

と。

ケネディは、軍人の大部分と補佐官の数人が進言する「キューバに空爆を仕掛けた後に侵攻」という案を退けて、牾ぞ緝鎖瓩箸い手を打った。進言を受け容れられなかった軍人たちは怒り狂ったという。

10月22日、ケネディはテレビ中継を使用して、神妙な顔で訴えた。

「私たちは軽率に、あるいは不必要に、世界的核戦争の道を歩むつもりはありません。全面的核戦争が起きれば、仮に勝利したとしても、口の中にいは死の灰が詰まっていることになるでしょう。しかし、危険に直面しなければならない状況のもとでは、どちらの側も、いかなるときも核戦争のリスクから逃れることはできないのです」

10月24日、アメリカは防衛準備態勢(デフコン)を「2」に引き上げた。デフコンは米戦略空軍が設定できるもので22日に「3」を設定していたが、この日、「2」に引き上げた事を意味する。このデフコンの設定は大統領への相談なく、米戦略空軍のパワー大将に権限があったという。米戦略空軍は常時は命令を暗号化して出すが、故意に暗号化をせずにデフコンを引き上げたという。挑発的な意図が隠されており、3000発に近い核兵器での攻撃態勢が採られた。

10月25日、海上封鎖を受けたソ連首脳部はキューバに配備したミサイルを撤去する必要性が高まったという見解に到ったものの、できるだけ有利な条件を引き出そうと画策した。キューバに配備したミサイルを撤去する交換条件として、トルコにアメリカが配備しているジュピターミサイルを撤去するように求めた。

そしてフルシチョフはケネディに手紙を送付した。

「本当に戦争が始まってしまったら、我々の力ではそれを止めることはできないしょう……都市や町や村をなめつくし、あらゆる場所が死と破壊で覆われないかぎり、戦争は終わりません」

フルシチョフとケネディは、似たような境遇に置かれていたようにも考えられますかね。キューバ危機のような緊張状態に際しては、アメリカでもソビエトでも軍人や民衆は必ず強硬姿勢を採るべきだという態度になり、実務者に対しての圧力として作用する。

10月27日、この日、キューバ危機の終結後に「冷戦下で最も危うい瞬間だった」と回想されることになる爆雷投下事件が発生する。

アメリカの空母ランドルフい先導されていた海軍部隊の駆逐艦が、キューバに向かう船舶を護衛するソ連潜水艦B-59の近くへ爆雷を投下したのだった。このとき、爆雷を投下したアメリカ駆逐艦はソ連の潜水艦が核魚雷を搭載していることを知らなかったという。つまり、アメリカ駆逐艦は特に意識することもなく爆雷を投下、その爆雷を投下されたソ連潜水艦は核兵器を搭載していたのだ。その爆雷はソ連潜水艦の至近距離で爆発した――。

ソ連潜水艦B-59の艦内では、気温が急激に上昇し、停電したという。気温の上昇は特に機関室が著しく、また、停電の為に艦内の照明は非常灯のみが灯っているという緊急事態になっていた。

更に艦内の二酸化炭素濃度が上昇し、艦内の者は息苦しさを感じはじめるまでの状況に陥ったという。一人が気を失って倒れたかと思うと、別の一人が倒れ、そして三人目…という具合にドミノ倒しのような状況に陥ったという。そうした異常事態は4時間近く続いていたという。

潜水艦内は文字通りのパニック状態となり、バレンチン・サビツキー艦長が司令部への連絡を試みたものの、失敗。核魚雷を搭載した潜水艦は、孤立状態のままであった。

そしてサビツキー艦長は、一つの決断をしたという。

「ここでもたついているあいだに、戦争ははじまってしまったようだ。ただちに核魚雷の発射準備に入る。われわれはここで死ぬことになるが、それと引き換えに敵艦もすべて沈める。わが海軍の面目を保つのだ」


しかし、B-59から核魚雷は発射されなかった。そのソ連の潜水艦に乗っていたワシーリー・アルヒポフという一将校がサビツキー艦長を宥めて説得、土壇場で魚雷の発射を中止させていた――という。

このソ連潜水艦が核魚雷発射寸前まで行っていたが、一人の将校の機転によって全面核戦争が回避されたという部分はNHK−BSでも一度、放送されたDVD版の方でも描かれていましたが、実際、人類は全面核戦争に突入していたとしても、そんなにおかしくはなかった可能性があったという、実にコワいエピソードなんですね。さほど歴史に名を残したワケでもない爛▲襯劵櫂姚瓩箸いΠ貎佑離熟⊃余校が、世界を窮地から救っていた――と。

その後もキューバ危機の緊迫は続き、キューバ上空でアメリカのU2偵察機が撃墜された。米統合参謀本部はケネディにキューバへの空爆と、空爆に続くキューバ侵攻の開始を訴えた。ケネディも時間切れである事を認めざるを得なくなり、アメリカ側は25万の兵士を動員して侵攻作戦に備えた。

カストロも早ければ24時間以内、おそくとも72時間以内にアメリカからの攻撃があると予想し、フルシチョフにアメリカへの核攻撃を要請した。アメリカがキューバに攻撃を仕掛けるだけではなく、ソ連に攻撃を仕掛ける可能性もあり、カストロは「ソ連が攻撃される前に、アメリカ帝国主義者に核攻撃を仕掛けるべきだ」と考えていたという。

ケネディへフルシチョフから二通目の手紙が届いた。役人が書いたような書面であり、そこにはキューバへの不侵攻およびトルコに配備したジュピターミサイルの撤去を求めるものだった。アメリカ側が提案していたがジュピターミサイルの撤去と引き換えにキューバへのミサイルを撤去するという交換条件は認めていた。双方ともに喉元に突き付けたミサイルを撤去する相殺取引であったが、ケネディは、これは拒否した。ケネディにしても既に軍部との対立が激化しており、ソ連の要求に屈したと解釈される事は自らを苦境に陥れる可能性があった。その上、トルコからミサイルを撤去した事が発端となり、NATO圏の西側諸国がソ連軍によって全滅させられてしまうのではないかと疑心暗鬼に陥った。その為、ケネディはミサイル相殺取引については返答を避け、キューバ不侵攻の条件を飲むと返答したという。

また、ソ連潜水艦が核魚雷発射を土壇場で回避した10月27日、ケネディは駐米ソ連大使を呼び出し、最後通牒とも取れる言葉を発した。

ソ連が直ちにキューバ国内に展開させた基地を撤収しなければアメリカは攻撃を開始する

まさしく、核戦争の寸前であったのが分かる。ロバート・マクナマラは、当時の心境を後に「次の土曜日には自分は生きていないだろうと考えていた」と表現した。

10月28日、キューバ危機は、フルシチョフの決断によって終結した。フルシチョフは「面目を保つ為だけに数億人の人を殺す価値はない」という判断に到り、撤去を決定した。通知を受けて、アメリカは海上封鎖を解除し、核戦争不可避と思われたキューバ危機は劇的に危機を回避した。

或る種、フルシチョフの英断によってキューバ危機は終結したが、フルシチョフは国内のタカ派からは弱腰との批判を浴びることになり、中国共産党からも屈服外交と批判された。ソ連と中国との関係は悪化。他方、折れずに解決したケネディもアメリカ国内のタカ派から不評を買ったという。

このキューバ危機には、更なる余談があるという。アメリカ側は強気を押し通していたが、その見通しは楽観的であったことが判明した。アメリカは偵察機で写真撮影に成功していたソ連の準中距離弾道ミサイルは33基であったが、実はソ連はキューバに42基の準中距離弾道ミサイルを配備していた。また、準中距離弾道ミサイルよりも射程が長くアメリカ全土を射程圏にしていた中距離弾道ミサイルも既にキューバに運び込まれていた上に、戦術核兵器も100前後配備されていた。その中には12キロトンの核弾頭を装備するFKR巡行ミサイルが80基、2キロトンの核弾頭を装備する地対地ミサイルLUNAが12基、航続距離約1200キロメートルの爆撃機用の12キロトン爆弾6発も含まれていたが、その事にアメリカは全く気付いていなかった――というが真相であるという。

また、侵攻にあたってアメリカはソ連兵1万人と武装したキューバ人10万人という数字を想定していたが、実際にはソ連兵は4万3千人、武装キューバ人27万人であった。

キューバ危機から30年後の1992年にロバート・マクナマラは、事実を伝え聞き、顔色を変えたという。結果オーライで捉えているが、その実、背筋が凍りつくような全面核戦争秒読み状態、地球滅亡寸前であった――と。

このキューバ危機について、日本は丸っきり関係ないよねという意識が強いと思うんですが、ごくごく近年、明らかになった事実というのがある。沖縄に核兵器が持ち込まれていた密約の存在は既に国会でも取り上げられた通りですが、キューバ危機のときに沖縄に核兵器が持ち込まれていたという。内容も驚くべきもので、水爆を搭載したF100戦闘爆撃機と、1.1メガトンの核弾頭を搭載した地対地誘導核ミサイルが臨戦態勢をとっており、しかも、攻撃目標に据えていたのはソ連ではなく、中国であった――と。


少し前にNHK特集でも「キューバ危機」を題材とした放送があったと思うのですが、そのときにも同じ感慨を抱きました。「キューバ危機というのは、よくよく考えてみると、ケネディが何かをしたおかげで人類滅亡の危機を回避したという話ではなく、フルシチョフの英断によって回避できたという事じゃないの?」という疑問でしたが、そういう歴史認識にタッチすることはタブーとされていますやね。ですが、どう考えても全面核戦争への突入を阻止したのはケネディではなく、フルシチョフだし、その停電中の潜水艦内で核魚雷発射命令を覆らせたアルヒポフなる名もなき将校のような気がしますかね。。。。

昨日も北朝鮮の核実験実施の報道があり、そして現在も核の傘の下の平和に我々は入っているワケですが、人類というのはホントに――。
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インドネシア建国の父と呼ばれ、且つ、デヴィ夫人がデヴィ夫人である理由とも関係しているのですが、インドネシアの初代大統領であるスカルノについて、殆んど知識がないよなって思う。

スラバヤ生まれ。1925年にバンドン工科大学を卒業。その後に民族独立運動に挺身し、1927年(昭和2年)に「インドネシア国民党」を結党。当時のインドネシアはオランダ領であり、スカルノはオランダからの独立運動の指導者となる。しかしオランダ官憲により、逮捕される。逮捕後の1929〜1931年は投獄され、1933〜1942年にかけては流刑に遭った。

1942年、オランダ領インドネシアに日本軍が侵攻、占領すると日本軍によってスカルノは釈放された。日本軍政下では日本軍に協力し、また、大衆運動の指導者として活躍。(ソースによっては、「日本軍の下で独立準備を進めた」ともある。)

1945年8月15日に日本が無条件降伏をすると、その直後となる8月17日にインドネシア共和国の独立を宣言。そのままインドネシア共和国初代大統領となったが、宗主国オランダと抗争が残った。しかし、1949年にオランダにも独立を認めさせた。これによってインドネシアは約400年間の長きに亘る植民地支配からの脱出を意味していた。

スカルノは「指導される民主主義」という政治理念を提唱し、推進。新興国から注目を集める。

1950年代から第三世界のリーダーとして反植民地闘争の先頭に立ち、国際舞台で存在感を増してゆく。特に1955年にはバンドンで「アジア−アフリカ会議」(通称「バンドン会議」)を主催するなど第三世界のリーダーとして活躍。

1963年、終身大統領へ。

1960年代になると国際情勢は米ソ冷戦に代表される東西対立が起こるが、その中でスカルノは共産主義を容認する「容共路線」を取る。容共路線は次第に強まってゆき、急進的な外交政策を取った為に西側諸国との関係が悪化。また、国内的にも経済政策が破綻して激しいインフレを招いた。スカルノ政権に対する反体勢力も生まれていた。

1965年9月30日、クーデター未遂事件「九・三〇事件」が起こる。クーデター未遂事件が発端となったが、これはインドネシア共産党PKI派軍人がクーデター未遂事件を起こし、その事件を契機として権力闘争が発生。1967年3月にスカルノは大統領職を辞任した。(別ソースでは、「1967年8月に大統領を解任された」とある。)



なんで、今更、そんな事を調べていたのかというと、『オリバー・ストーンの語るもう一つのアメリカ史』と関係していたりする。こういう話が、実は第二次大戦後に、「どのように世界秩序が構築されたのか?」に直結している問題でもあると思うんですね。

ヒロシマとナガサキに原爆が投下された。それに続けて日本も降伏した。が、既に、その頃までには戦勝国は第二次大戦後の世界新秩序を見据えて動いていたんですよね。冷酷な事実ですが、別に日本という国を降伏させる為に原子爆弾を投下したのではない。放っておいても日本は数週間、もしくは数ヵ月以内という時期に遅かれ早かれ降伏するであろう戦況分析は決して難しくなかった。戦勝国、特にアメリカの場合は、その先を見越して戦略を立てていた。見据えていたのは、反共産主義であり、ソビエトとの覇権をかけて争うことになるという国際情勢で、その布石を打てたし、実際に打ったと考えらられる。実際に、第二次大戦後というのは、その通りの東西冷戦の時代が始まっている。

1950〜1960年代のアメリカの動向は明確で、世界各地に軍事基地を持って世界のリーダーとして、共産主義と戦うという道を、自ら選択して、その時代をつくっている。

ベトナムはどうであったか? キューバはどうであったか? エルサルバドルはどうであったか? その中で、やはり、インドシナのスカルノ大統領なんても非常に重要なんですよね。

上記の通り、正史として認識されている歴史では、スカルノ大統領は「九・三〇事件」と呼ばれクーデター事件を契機としたインドネシア国内の権力争いに巻き込まれ、そのままスカルノは指導力を失い、最終的には追いやられ、1970年に没するという人生を歩んでいる。

しかし、スカルノの失脚劇の裏側に、アメリカの意向が作用していたという。以下、『もう一つのアメリカ史』からの引用です。(ほんの少しだけ読み易くする為に語尾、接続詞を修整してあります。)

1955年、スカルノはアジア、アフリカ、中東の29ヵ国の代表をバンドンに招いて会議を開催し、これにより非同盟運動が始まることになった。この運動は、冷戦下における二大強国のどちらの陣営にも属さず、植民地解放運動を支援し、自国の資源の支配権をもっと主張しようと第三世界の国々に働きかけるものだった。

ジョン・フォスター・ダレス国務長官は、この運動の先鋒だったスカルノを格別に憎んだ。1955年、その内容にふさわしく「体質改変委員会」と名づけられたCIAの組織がスカルノ暗殺を企てた。後に「そういうことになりそうな気配はあった」とリチャード・ビッセルCIA長官は認めている。

バンドン会議後、スカルノはソ連と中国を訪問し、東欧諸国から武器を購入して共産圏との距離を少しづつ縮めていった。スカルノの連立政権でインドネシア共産党(PKI)が目立った役割を果たすようになっていたのである。CIAはスカルノがロシアの金髪美人と関係をもち、彼女の言うなりになっているとのうわさを流してスカルノの足をすくおうとした。また、スカルノとその情婦に似た男女を出演させたポルノ映画を公開しようと目論んだ。しかし、適当なそっくりさんが見つからず、ポルノ男優につけさせるスカルノの仮面を製作現場に送ったが、映画は製作されたとしても日の目を見ることはなかった。

CIAは1957年後半、アイゼンハワー大統領の承認のもとで、軍人と民間人の反乱分子によるクーデターを積極に支援した。CIAのパイロットが反乱勢力に武器を供給し、軍や民間の施設を爆撃した。1958年5月下旬、インドネシア政府軍に撃墜されたパイロットのアレン・ポープが記者会見に姿を現わしたときは、アメリカは肝を冷やした。〜略〜アイゼンハワーは、この未遂に終わったクーデターへのアメリカの関与を公式に否定し、《ニューヨーク・タイムズ》紙でも再度型どおりに宣言した。

クーデターは、ポルノ映画計画と同じく失敗に終わった。CIAは在インドネシアのCIAの訓練部隊を、反乱に巻き込まれたトラ狩りのハンターだとか、珍しい蝶を探していた学者だったなどとする話をでってあげた。

〜略〜

スカルノは、このクーデターへの対応として野党の大半を排除し、アメリカの対外政策、とりわけ対ベトナム政策をこれまでより声高に非難した。クーデター未遂後、インドネシア共産党員の地位と影響力が飛躍的に高まった。それに応える意味もあって、スカルノは中国との結びつきを強めた。CIAは引き続きスカルノ打倒に全力を注いだ。

〜略〜

だが、
(アイゼンハワーに代わって新たに)大統領に就任したケネディは政策転換を強行した。スカルノは1961年にホワイトハウスを訪問し、それに応えて翌年にロバート・ケネディがインドネシアを訪問した。同時にケネディ大統領はインドネシアとオランダ――インドネシアの旧宗主国――の和解に一役買い、両国の戦争を回避させた。スカルノはケネディ大統領をインドネシアに熱心に誘い、「わが国では前例のない盛大な歓迎会を開きましょう」と約束した。1963年11月19日、ケネディは年明け早々にインドネシアを訪問することを決めた。インドネシア行きを決定したのはケネディがダラスで暗殺される三日前のことだった。

ケネディが暗殺された後は、副大統領のリンドン・ジョンソンが米国大統領に就任し、ジョンソン政権下では再び(狂信的な)反共産主義戦略が強まったワケです。ベトナムを念頭に置くと分かりやすいのですが、それと並行してインドネシアにも諜報作戦が仕掛けられていた。名目は共産主義打倒の為であったワケですが、第三世界が独立国家となろうとする事への介入であったとも言える。実際に、西側諸国の巨大資本は自由主義陣営に取り込む事で潤ったというのも否定できない上に、ホントは独裁政権なんてのものを支援するような手法も駆使され続けていた時代になる。

インドネシア共産党は1965年までに党員数が350万人に増加し、ソ連と中国のそれに次ぐ三番めに大きい共産党に成長していた。こうして自信をつけたスカルノは、中国の援助が念頭にあったのか、インドネシアもまもなく核実験を行なうとたびたび宣言した。

〜略〜

アメリカ政府は、インドネシア国軍が共産党と敵対するようになる事件を起こそうと目論んだ。ハワード・ジョーンズ大使は、インドネシア共産党がクーデターを起こして未遂に終われば、それが最も効果的なきっかけになるだろうと考えた。


既に、長々と引用していますが、スカルノ失脚の原因となった「九・三〇事件」が始まるのはここからです。

1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、大統領官邸の警護にあたる親衛隊の隊長に率いられた下級将校らが、CIAの後ろ盾でスカルノ政権転覆を企てたとして高級将校6名を殺害した。不思議なことに、国防大臣のアブドゥル・ハリス・ナスティオン将軍と陸軍戦略予備司令官のスハルト将軍はかろうじて難を逃れた。スハルトはその日のうちに国軍を動員して反撃し、スカルノ支持勢力を壊滅させた。インドネシア共産党が事件の首謀者だとスハルトは主張した。

「九・三〇事件」とは、少しだけめんどくさい事件なので、今一度、説明します。スカルノ政権下で「スカルノ政権転覆の動きがあった」という口実の下に、大統領官邸の警護の親衛隊らが、軍部の高級将校6名を殺害するという事件が発生した。すると、陸軍の有力者であったスハルト将軍が即座に国軍を動員して、事件の首謀者はインドネシア共産党だとして、スカルノ大統領の支持勢力を壊滅させ、後に大統領職はスカルノからスハルトへと移行するんですね。

再び引用します。

スハルトの新軍部は殺害された将校の写真を公開し、共産主義者、なかでも女性が将校らを拷問し、睾丸を抜いて目玉をえぐったと主張した。アメリカもうさわの流布に加担した。のちの検死の結果、それがまったくのでたらめであることがわかった。

新軍部にけしかけられた暴徒がインドネシア共産党とシンパを襲撃しはじめ、《ニューヨーク・タイムズ》紙のいう「近代政治史上最も残酷な大量殺戮」を実行した。〜略〜のちにアメリカの外交官は、数万人の処刑すべき共産主義者のリストをインドネシア国軍に渡したことを認めている。イギリスとオーストラリアもリストを提供した。

〜略〜

続く数ヵ月間に、共産主義者とその他の左派が50万人から100万人虐殺され、その多くがアメリカの武器によるものだった。およそ100万人が投獄され、数十年服役した者もいると見られている。


CIAはのちに、この虐殺を「20世紀最悪の大量殺戮の一つ」と呼んだ。しかし、その虐殺劇のウラにはアメリカがあった事になる。「おそらくインドネシアの幕僚の三分の一、将校のほぼ半数がアメリカから何かしらの訓練を受けていたのである

スハルト軍事独裁政権は、外国資本を積極的に受け入れる政策、企業優遇の新体制を採用し、その後も数十年続いた。

CIAがスカルノ失脚劇を演出したという明確な証拠は示されていませんでしたが、演出はしておらずともスカルノ体制を失脚せんと暗躍していた事は事実である上に、実はニューヨークタイムズ紙の記事でも、自由主義陣営と共産主義陣営の対立を煽動する報道をし、まるでインドネシアで発生した大虐殺を密かに喜んでいたかのような、その痕跡を確認できてしまう。九・三〇事件の発端は、インドネシア共産党の息のかかった下級将校らが勝手に高級将校6名を殺害した事に端を発しているが、その事件の当日中にスハルト将軍がインドネシア国軍を支配下にして、クーデターの口実を得たとも考えられる。スハルトを支持する勢力は、スカルノ勢力を一掃する為に大虐殺を行なったが、そのウラには確かにアメリカの間接的な関与の痕跡がある。


なんで、こんな話を掘り起こすのかといと、いわゆるオリバーストーン史観は、察するにピーター・カズニックという歴史学者の影響が強いと思われますが、そこに面白い二つの選択肢を掲げていたんですね。

アメリカ国内的には「アメリカの世紀」と「人々の世紀」かという語り口が光るんですね。つまり、この戦争が終わった後に、次の世紀を、「アメリカの世紀」にすべきか、もしくは叡智を前面に押し出した「人々の世紀」にすべきかの戦いがあったという史観を採用している。次の世紀を、人々の世紀にすべきだという戦いをした人物が、ヘンリー・ウォレスという人物であったとしている。

しかし、それは国内的な話なんですが、一方で、松岡完著『ベトナム戦争』(岩波新書)の冒頭には、「アメリカの世紀」にするか「民族の世紀」との戦いがあったという語り口を使用していました。

「アメリカの世紀」or「人々の世紀」

「アメリカの世紀」or「民族の世紀」

「人々の世紀」と「民族の世紀」とは完全には一致しませんが部分的には一致しそうですかね。しかし、実際の歴史はアメリカは覇権的な国際秩序を選び、いずれにしても次の世紀は「アメリカの世紀」となった。それは「自由主義」陣営と呼ばれたり、もしくは「西側諸国」のようにも呼ばれるのですが、その根底にあったのはアメリカが「世界の警察」という役割を演じる選択をした事なんですよね。

で、アメリカの世紀の方が選択された事は、ベトナムやインドネシア、キューバの歴史で確認できるし、朝鮮半島の38度線、ドイツの分裂でも確認できる。第二次大戦後というのは戦争が反省されて世界平和が希求されたという世紀ではない。それは「アメリカの世紀」と呼べる何かなんですね。確かに帝国主義らしい帝国主義は終焉し、植民地らしい植民地の時代は終わったが、それでいて強国が準植民地や衛星国を持つ時代になったに過ぎなかった。つまり、民族の世紀にはならなかった――。

もし、「民族の世紀」が実現していたならば――と思うと同時に、現在進行形の国際秩序を考えてしまいますかねぇ。この【民族】という単語の受け取り方を誤れば、即座にヒトラーに比定されるような排外主義と直結した民族主義という説明になってしまうのですが、その論理には飛躍がある。

これは清水幾太郎でもやりましたが、それは【エスノセントリズム】という言葉が充てられる自民族中心主義の話で、そのような排他性や攻撃性を含めた民族意識とは限らないんですよね。即座に、西洋的な自由主義的価値感こそが文化相対主義であるなんていう解説は大ウソでしょう。むしろ、純粋に、言語や文化、宗教、帰属意識が異なるという帰属集団の括りによる「民族」なのだから、なにも無理をして居住地域をミックスすべきだという必然性そのものがないし、無理矢理に異なる宗教の人たちを自分の共同体に受け入れることが正しいという主張は馬鹿げている。ホントは大きな間違いのベースになっていますやね。

そんなのは文化が違うんだからと理解し、棲み別ければいいじゃん。

🎶育ってきた環境が 違うから 好き嫌いは否めない

夏がダメだったり セロリが好きだったり するのね

がんばってみるよ やれるだけ

がんばってみるよ 少しだけ


で、足りる話なのに、なぜ、日本人は血眼になってグローバル・スタンダードなるものへの対応を迫られているのか?

ホントに、互いに文化が異なることを理解し、文化相対主義の立場を採ろうとするなら、自ずと民族、民族とで共生するために棲み別けるという選択を採ると思う。

未開人、仮にアボリジニのような例を採れば、文明とは関係なく、自らの帰属する集団の中で最適な生活をしている人々だと理解できれば、そうなる。そこに優劣を持ち込んでいるのは、イヤらしい世俗主義の方なんです。

西洋的なリベラル思想の中から出てきた「一元管理の世界として公平にすべきです」というグローバリズムなんてものが、どれだけ眉唾な理念で、幻想であるか気付けるんでしょうけどね。西洋文明の中には共生するとか棲みわかるという哲学そのものが存在しないんだから。結局、グローバリズムの意味しているものは、「俺達に合わせたルールで統一しろ」の意味に決まってるじゃないの。白人以外、いやアングロサクソン以外だと、知らぬ間に奴隷にされちゃうかも。

率先してグローバル・スタンダードに染められて、ニヤニヤしているのが現代の日本人だと思うと、かなり、ヤバいと思う。個々人が物理的な意味で遺伝子は残せる者はあるかも知れないけど、文化や伝統を含めたものの伝承者という意味合いの民族、その意味での日本民族は、順当に行けば淘汰されるということだと思う。


追記:デヴィ夫人について。

1959年6月、インドネシア初代大統領としてスカルノが来日して帝国ホテルに滞在していた。東日貿易ジャカルタ支店長であった人物が赤坂のクラブ「コパカバーナ」でスカルノ大統領が気に入りそうな日本人女性を物色、そこでママさんが推薦したのが当時19歳の根本七保子(現在のデヴィ夫人)氏であった。東日貿易ジャカルタ支店長が、そのまま、スカルノが滞在していた帝国ホテルに車で送り、ホテル前で大統領の副官にデヴィ氏を引き継いだ。デヴィ氏は大統領に直ぐに気に入られ、帰国後まもなくインドネシアに呼び寄せた――と。デヴィ氏には東日貿易から五百万円と世田谷区等々力の百坪の土地が渡されたという証言が、共同通信社社会部編『沈黙のファイル』(共同通信社)に記されている。

東日貿易はスカルノ政権に食い込み、ジープの納入を手始めに、紡績工場プラント、テレビ局設備などを次から次へと伊藤忠商事に仲介していた。(いわゆる日本の「戦後賠償ビジネス」であり、瀬島龍三などが暗躍していたそれ。東日貿易の株主には、大野伴睦、河野一郎、それと児玉誉士夫らがあった。)
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