どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:事件・事故関連 > 警察庁長官狙撃事件

◆精神的異能児

1930年(昭和5年)4月、その男は東京市淀橋区、現在の新宿区淀橋で出生した。父親は南満州鉄道に勤めていた関係で幼少期は大連や吉林、奉天(現在の瀋陽)などを転々とする一家の長男であった。この幼少期に中国では抗日運動が高まった事もあり、自らの身を守る為に就寝時にも拳銃を傍らに用意しているような生活環境であったという。

その後、日中戦争が拡大した為に、1940年、少年は日本に帰国。明くる1941年からは太平洋戦争が始まるが、その年から少年は祖母の実家がある茨城の水戸に疎開した。

その少年は後に茨城屈指の名門である旧制水戸高校を卒業して、1949年には東京大学教学部理科二類に進学している。

頭脳明晰な青年であったし、その家系は頭脳明晰な人物を輩出する家系であったが、その問題の人物は、少々、事情が異なっていたという。実弟に拠れば、犒擦論疑神橘辰療刑佑任△辰伸瓩半攜世垢襦

「兄は子供のころから変わっていました。いつも家にいて、本ばかり読んでいた。一言で云えば、天才ということ。勉強をしているのを見たことがないのに、学校で一番の成績だった。語学も得意で、英語、中国語、スペイン語が堪能。ドイツ語やフランス語も少し出来た。常人とは理解力が違うんです」

いつも家に居て本ばかり読んでいる少年。機械いじりが好きで秘密主義の少年であったという。そして身近にいた筈の弟の証言によれば、勉強をしている現場を目撃した事がないという。それなのに、その少年は学業成績は学年で一番であり、習得に取り組んだ様子もないのに英語、中国語、スペイン語は堪能というレベルで、更にはドイツ語やフランス語までも少し理解していたという事になる。

因みに、その家では三男も東京大学に入学しており、その三男との比較を前提として、例外的に長男のケースについて「理解力が常人とは違うんです」と次兄が回想している。異常レベルで優れた頭脳の持ち主であった事を証言している。

その青年は家族にも内緒で東京大学を受験し、しかも、そのまま家出状態になったという。実家に東京大学の合格通知が来たので、家族は長男が東大を受験、そして合格していた事を知る羽目になったという。

また、秘密主義の少年は、終戦前後に橘孝三郎(生没年1893〜1974年)が主宰して茨城県水戸市に起こした私塾、「愛郷塾」に在籍していたという。この愛郷塾は農本主義を掲げた右翼団体であり、農民決死隊を編成し、五・一五事件に民間人グループとして深く関与した私塾であった。

また、この少年は実際に日本がアメリカに原爆投下をされる以前に、

「日本はAボムで負ける」

と口癖のように言っていたという。

この【Aボム】が意味するところは、即ち、アトミック・ボムであり、つまり、原子爆弾が日本に投下され日本が敗戦すると、原子爆弾の存在が一般的に知られる以前から、そんな事を言う、不思議な少年であったという。この少年は1930年生まれであり、原爆投下及び敗戦は1945年である事を考慮すると、おそらく、「日本はAボムで負ける」と少年が言っていたのは、14歳もしくは15歳という年齢であった事になる。

運動は苦手であったと思われるが、少年の部屋は工作機械や分解した機械、それに工具が足の踏み場もないほど散乱しており、外国から文献を取り寄せて機械いじりをしていたというから、実は、この少年が原子爆弾の存在が広く一般に知られるよりも先に爛▲肇潺奪・ボム瓩粒発が為されている事を知っており、それ故に、「日本はAボムで負ける」という口癖に繋がっていた事が予想できる。稀有な頭脳の持ち主の少年時代とは、そういうものであったのかも知れない。

その家系は三人の兄弟の内の二名が東京大学に合格したと先に触れましたが、それは家柄や血筋という部分にも反映されていると思しき節があり、この家の母親は、とある総理大臣経験者の夫人と縁戚関係にあったといい、遠い親戚、つまり、遠戚には皇后陛下を輩出した正田家にも連なるという。

さて、そんな少年は青年となり、東京大学に入学した。そして、その青年は東京大学在学中に共産党へ入党する。そして、機関紙「細胞」の作成の活動に関与するなどして学生運動に傾倒した。

1951年4月、これは東大に入学してから2年目の春ですが、男は神田鍛治町の薬局に侵入し、現金6千円と、ペニシリンやダイアジンなど約27万円相当分の薬品を盗み出し、それを質屋に入れる等していた。その一件で万世橋警察署に逮捕され、同年7月に東京簡易裁判所で懲役1年執行猶予3年の判決を受けた。

1951年8月、つまり、前件の窃盗によって懲役1年執行猶予3年の判決を受けた翌月、高級外車・シボレーの窃盗事件に関与したとして、再び逮捕された。

その男は、東京大学に入学した前後から学生運動に傾倒し始めたが、その水戸出身の男の思想は過激なものであり、暴力革命を指向したという。即ち官憲は敵であり、官憲を倒す為には軍資金が必要になるからペニシリンなどの高価な薬品や、高級外車を盗んでいたのだ。更に、その暴力革命思想は具体化しており、将来的に市街戦を展開させる為に市街戦の知識が必要になるとして、ゲリラ戦術を学び取ろうとしてスペイン語を勉強したという。

1951年12月、その男は東京大学を自主退学している。その男は学生運動に没入し、窃盗事件を繰り返して起こした事で、大学当局が男の両親と話し合いの場を設けて、自主退学の方針を決めたものであった。

大学当局は、母親に対して、

「ノーベル賞を狙えるような稀有な頭脳の持ち主であったが、歩む道を間違ってしまった。単なる自動車泥棒ではなく、思想的は背景があるようだ」

と述べたという。

1952年1月10日、大学を辞めた男は三重県で人家に忍び込み自動車を盗み、これまた四日市南警察署によって逮捕された。同年3月、四日市簡易裁判所で懲役2年の実刑判決を受けて、三重刑務所に服役。しかし、同年12月に仮出獄している。


ここまでで、この人物が誰であるのか、おおよその見当はついたかも知れない。この人物は、中村泰(なかむら・ひろし)であり、いわゆる「国松警察庁長官狙撃事件」の真犯人とされる人物である。警察の公式見解では中村真犯人説は抹殺されているが、どう考えても真犯人である。鹿島圭介著『警察庁長官を撃った男』(新潮文庫)に加え、竹内明著「完全秘匿 警察庁長官狙撃事件」(講談社α文庫)で事件の詳細と、捜査の混乱が開示されているものの、どのように組み立てても、真犯人はこの人物である。

しかも、想像を超えてくる狢臾簑蠅鯤えた人物瓩覆里澄

因みに獄中の中村泰と面会を重ねて記された鹿島圭介著『警察庁長官を撃った男』については書評で立花隆が「これだけ面白い本に、ここ数年出会ったことがない」と記している上に、実際に大宅賞の候補作にもなっていたという。竹内明著『完全秘匿――』の方は警察の内情から捜査の混乱ぶりを描き出したもので真犯人究明には言及していないものの、警察の捜査というものが常軌を逸し、それこそ「お偉いさん」に対しての忖度と、縄張り意識に歪められた、捏造にも近いような捜査が行われてしまうという怖ろしい警察機構のタテ割り構図、その内情のヤバさを明らかにしている。

革命思想というものは、単なる理念や信条の延長線上に構築される思想上の革命という次元と、思想上ではなく現実的に革命を起こそうとする現実レベルの革命思想というものがあって、後者の場合は、即、「活動家」であり、「体現者」である事が好ましいという次元になってしまうワケですね。「君は革命が望ましいと考えているようだが、では君は革命を成す為に具体的に何をしてくれるんだね?」と、活動の次元になってしまう。具体的にどのような手法があるのかというと、宣伝活動という名前の大衆煽動が一つがありますが、もう一つの選択肢はというと、もう、これは伝統的に一つしかなく、つまりは、武力革命なんですね。

この筋書きは何かに似ているなと思っていたのですが、私の場合は水木しげるの傑作漫画「悪魔くん」と雰囲気が似ているな、と感じました。「悪魔くん」の初期作品(1963年版)の持っている、あのグロテスクさ。

それは救世主の物語であり、優秀が過ぎて危険視されるのが主人公なんですね。大企業「太平洋電気」の経営者である父親は、我が子「松下一郎」に対して、平凡な頭脳な子供である事を望んでいるのですが、皮肉な事に我が子は、宇宙史レベルで生まれ落ちた精神的奇形児である。後に【奇形】は【異能】に修正されていたような記憶もありますが、つまりは、水木しげるが描かんとした漫画「悪魔くん」のベースになっている粗筋とは、犬の中に一匹だけヒトと同等の頭脳を持つ犬が混じってしまった場合を想定している。

しかも、水木しげるの「悪魔くん」は確かにキリストの登場を予言した「東方の三賢人」に言及していたり、悪魔と対話したという中世の異端の思想家パラケルススから生じた秘密結社「薔薇十字会」に継承された「世界の改革」を意識したストーリーなんですね。そこで信仰されていた神秘的革命論とは、私が思うに、どこかナカザワ・シンイチ(中沢新一)に似ている気がしますが、

「現世とは夢であり、夢は現世となる」

というものであった。

「悪魔くん」こと松下一郎は小学二年生にして狎つ召鍬瓩魴莪佞掘奇妙な使途たちを従えるようになってしまう。まるでオウム真理教事件を暗示していたかのような、その破局と救世主羨望が編み込まれている、その世界観。秀でた何かが既存の秩序体制を破壊してしまう事のグロテスクさと、理想を追求する者の悲哀と、実に複雑な救世主譚が「悪魔くん」の真骨頂であったよな、と。

「悪魔くん」の書き出しには、タイトル前に次のようなナレーションが付されている。

人間には奇形というのがあるが、精神的奇形だってあるはずだ。釈迦やキリストにしても二千年たってもそれ以上のアタマの持主が現れないところをみると、大きな天才とは精神的奇形児でアル、という見方ができるかもしれない。いまここに人類がかって生んだことのない頭脳の持主が現れて、一万年に一人しか理解できないといわれるユダヤの古書をひもといて その文字の裏側にかくされた「悪魔を呼び出す術」にふけっていたとしたら、どうであろう。

………………我が「悪魔くん」がそうなのだ…………


割り切れない乍らも、その一端が、この人物の逸話にも見い出せてしまうんですよねぇ。。。。



◆警官殺し

三重刑務所を仮出獄した後、その男は、拳銃やカービン銃を集め始める。

1955年1月、東京立川市内で韓国人の兵器バイヤーからコルト45口径自動式拳銃2丁と、実弾1200発を約14万円で購入。

兵器が購入できる事を知ると、男は多額の金銭が必要になると考え出し、次には金庫破りの手口を具体的に検討し始めた。アメリカから金庫の鍵やダイヤルに関する文献を取り寄せて熱心に研究し、金庫破りをする目的で男はオリジナルの狹典つ餽蛎定器瓩覆覽ヽを自力で開発した。また、金庫破りのナマの教材を得る為に埼玉県の川口市役所、千葉県の松戸市役所に忍び込み、金庫のダイヤルを壊した。

男は本格的に金庫破りを始めるが、それは計画的であり、事前に何度もロケハンをしたという。

1955年11月、茨城県の常盤村にある下大野農協に侵入し、金庫破りを成功させ、約33万4千円を盗み出す事に成功。

1956年8月には、浅草は雷門にある台東地区電話局浅草分局に侵入し、現金約2万円と、電話債券195万1千円分を盗み出し、それを証券会社に転売。

この頃、男は埼玉県北足立郡蕨町(現・蕨市)のアパートをアジトとして、そのアジトを足場にして手頃な金融機関の物色を始めた。

1956年11月、東京都世田谷区にある永楽信用金庫北沢支店に侵入し、現金約40万円を盗み出した。

永楽信用金庫事件から2週間後となる同年11月23日、男は国鉄三鷹駅前の都民銀行三鷹支店に狙い定める。

その23日未明、都民銀行三鷹支店に侵入する前に井の頭公園近くに15万円ほどで購入した小型のダットサンを駐車して、少しだけ時間に余裕があったので車内でウイスキーを飲み始める。気が緩んだのか、疲れていたのか、男は睡魔に襲われて、車内で眠り込んでしまう。後に寝過ごした事に気付き、都民銀行へ向かったが既に警備が厳重になっていたので、計画を断念する。

そのまま、井の頭公園から埼玉は蕨のアパートまで帰ってもよかったが、男は立川市の韓国人兵器バイヤーの元へ立ち寄ろうと考える。兵器バイヤーの元に向かうには時間が余っているので、吉祥寺の市営競技場脇の道路にクルマを駐車し、仮眠することにする。

コツ、コツ、という音によって、男は目を醒ます。

すると一人の若い警察官がクルマの窓を叩いていた。辺りは既に白んでおり、時計を確認すると午前6時10分であった。

警察官は話し掛けた。

「すみません。ここで何をしているんですか? 免許証を見せて下さい」

警察官は山川治男巡査で、当時、22歳であった。

男は無視を決め込んだ。

山川巡査は

「無免許なら、交番まで来てもらわねばならない。これから何処へ行くつもりなんだ」

という具合に任意同行を求め始めた。男は所持品から金庫破りを常習にしている事が発覚しかねないと考え、また、根っからの警察嫌いの思想背景も影響したか、その若い警察官を殺害するしかないと思い立つ。

男はカッとなって、山川巡査に対して言い放った。

「お前も砂川闘争で棍棒を振った一味だろう。ならば、武器を使ってみろ!」

そこで語られている「砂川闘争」とは、「砂川事件」(すながわじけん)を指しており、これは1955〜57年にかけて米軍立川基地の滑走路延長計画に伴い、それに反対したデモ隊と警官隊とが衝突し、多数の負傷者を出した事件を指している。後に立川市に編入されたが元々は東京都北多摩郡砂川町という町があり、その町で起こった市民と警察との衝突事件で、流血沙汰となったものである。

つまり、男は警察官に対して、「オマエも砂川事件で市民に対して棍棒を振るった一味だろう? オレに対しても武器を使ってみろ!」と、挑発したのだ。

男は、挑発した後にクルマから降りた。山川巡査は驚いて腰の銃を抜こうとしたが、男は全て計算ずくであった。山川巡査が銃を抜くよりも早く、胸部に二発の銃弾を撃ち込んだ。

撃たれた山川巡査は崩れ落ちて仰向けに倒れていたが、その男は非情であった。犹殿擦犬鬚靴討呂い韻覆き瓩箸い醒めた理性を持ったその男は、その青年警察官のコメカミに銃口をあてて、極めて冷静に、トドメの一発を放った。

銃弾は巡査の頭部を貫通したという。

その後、男は関西方面に逃亡する。クルマをバラバラに解体してエンジンなどは業者に売り払う等して処分し、拳銃は油紙に包んで茶筒に入れて、奈良の生駒山中に埋めて隠した。しばらくは大阪市東成区のアパートに潜伏した。

しかし、やがて男は自ら警視庁に出頭した。当初は「冤罪を晴らすためにやって来た」と嘯いてみせたが、最終的には警官殺しを自供した。

警官殺しの男には、無期懲役刑が科された。その男、つまり、中村泰は1956年に警官殺しを犯し、1976年に仮出獄を果たすまで千葉刑務所に服役することになった。つまり、約20年間は無期懲役囚として人生を送った事になる。

殉職した山川巡査は二階級特進して警部補となり、その胸像が武蔵野署の中庭に建立された。中村泰は、胸像がある事を知ると、「一度、お詫びしたい」と申し出て、胸像に額(ぬか)づき詫びたという。その際、中村泰は、英国の詩人バイロン(生没年1788〜1824年)の詩を紙片に書いたものを持っていたという。

Whom the gods love dies young
(神に愛せられる者は若くして死す)



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◆チェ・ゲバラの影響

中村泰が千葉刑務所に服役中であった1959年1月1日、日本から遠く離れたキューバでは、歴史的革命が起こっていた。フィデル・カストロ率いる反乱軍が米帝傀儡バチスタ政権を倒し、キューバ革命を成し遂げていた。少し補足すると、この革命は狄Л瓩鬚弔韻討亮匆饉腟然很燭里茲Δ紡えられがちですが、実はそうではなく、ラテンアメリカに広く展開されている欧州型の帝国主義支配、その帝国主義的資本主義からの解放を勝ち取った民主革命でもある。バチスタ政権の背後にはアメリカのCIAが存在していた。

そのキューバ革命はフィデル・カストロ以外にも一人の英雄を生み落とした。それはチェ・ゲバラと呼ばれるがアルゼンチン国籍の青年医師であった。チェはアルゼンチン国籍にも関わらず、亡命中のキューバ人達に加わってキューバ革命に身を捧げた人物であった。強固な武装革命の信念と、何故かカトリック的な高潔、そしてナイチンゲール的でもある高潔さとを体現した英雄。チェ・ゲバラも裕福な家の育ちで実は国立ブエノスアイレス大卒のインテリである。ラテンアメリカでは非常に珍しい吝嗇家。また、ロマンチストで、ゲリラ戦の中にあっても多くの詩を残したりしている。

チェ・ゲバラは繊細な人間的魅力である一方で、強固な意志を有した革命戦士であり、チェは確かにキューバ革命に参加する前に、グアテマラで発生した民衆蜂起が政府軍によって武力鎮圧される現場を目撃し、そこでは意訳すると「何故、民衆は銃を手に取らないのだ。戦わない限り、自由は獲得できないのは必然だ」という確信的な武装闘争論理を体現した人物でもある。

今一度、強調するなら、それは体現者であり、実践者であり、活動家。「思想」という架空空間で、革命思想を理想に掲げる事は実は難しくないのですが、その革命思想の下に我が身を擲(なげう)って、活動し、自らが革命の体現者になる事は、非常にハードルが高い。一歩間違えれば、危険思想以外のなにものでもないワケですが理想を現実のものとする為には、実践し、活動し、体現者となる必要性がある。見事に体現者となって、革命の象徴にまでなってみせたのがチェ・ゲバラという青年であった。

多少、スペイン語の読み書きが出来たという中村泰は獄中でチェ・ゲバラの著書などを読み、後にチェ・ゲバラのように革命に身を投じるまでに感化されたという。元々、14〜15歳時の水戸の少年時代に五・一五事件に関与した愛郷塾に在籍していた事からすると、その相性は悪くなかったと思われますかねぇ。要人テロ、或いは武装クーデターというのは、いずれも武装闘争を意味している。

また、要人テロについて述べれば、まだまだ、その当時の世界情勢は1963年のケネディ大統領暗殺が絶好の例になってしまうものの、実は「一発の銃弾によって歴史を変えることが出来る」という思考回路は、プロセスを無視した場合には圧倒的な合理性があったワケですね。ダラスでジョン・F・ケネディが凶弾によって倒れた。それを画策して実行した連中は、中村泰と同じ思考回路の持ち主であり、おそらくは真犯人は何の咎も受けていない。その意味ではケネディ暗殺は成功したまま、歴史の闇に葬られたと考えられる。

チェ・ゲバラに感銘を受けた中村は、1980年代になってからニカラグアで起こっていた革命軍と政府軍との内戦(ニカラグア革命防衛戦争)に義勇兵として参加することを志す。つまり、1976年の仮出獄後の中村はチェ・ゲバラのような革命家、その将兵になる事に、当たり前のように情熱を注いでいた事に成る。

1980年代半ば過ぎに、中村は渡米し、アメリカで軍事訓練に参加する。しかし、この時、既に1930年生まれの中村は50代半ばという年齢であり、若い兵士と一緒に走り回るだけの体力がないという現実に直面する。革命戦士になるには、些か老い過ぎていた。そこで、中村は体力的な衰えを庇う為に狒牲蘯雖瓩砲覆襪箸いΨ莪佞鮓任瓠⊆遊發帽覆辰瞳盈を積むようになり、実際に1980年代後半ともなると、中村自身が納得ゆくレベルの、かなりのレベルの狙撃手になっていたという。

そして1988年6月16日にコスタリカに入った。これは渡航記録が発見されているという。コスタリカ入りを果たした中村は南部国境地帯を目指し、そこでニカラグアの革命戦争で戦っているコマンダンテ・セロのゲリラ部隊に参加するつもりであったが、状況が混迷化した為に妥協。同年同月29日にコスタリカから出国した。この日付についても渡航記録が確認されているという。これらから、この中村泰なる人物が「第二のチェ・ゲバラ」になるつもりであった事が一定レベルの次元で確認できる。



◆「特別義勇隊」構想グループ

また、中村泰(なかむらひろし)は1967年、千葉刑務所内で8歳下の人物、仮名「サイトウ」と出会う。そのサイトウは、1963年に山口県警管内で殺人と銃刀法違反とで服役していたといい、大阪市内で経営コンサルタント事務所を開設していた人物であるという。1976年に中村は仮出獄をするまでの、およそ8年8ヶ月間を、そのムショ仲間のサイトウとして過ごし、1976年以降の中村と連絡を取り合っていた協力者、もしくは共犯関係の人物が存在した事が判明している。

更に、不確定要素があるものの、中村は愛郷塾に在籍していた関係で、三上卓(みかみたく)とも面識が在った事を認めており、その三上卓を師と仰ぐ、行動派の大物右翼が会長を務める右翼団体とも縁があったと中村自身が証言を残している。(この部分、「三上卓」を師と仰ぎ、後に設立する右翼団体名を三上卓に命名してもらった行動派右翼、その会長は論客であり既に故人である旨も記されているので、インターネットで検索すれば、なんとなく誰を指しているのか目星をつけることができるかも知れない。)

そして、非常に重要な中村泰のパートナーである爛魯筌鍬瓩箸い人物が残る。

これは、中村がニカラグア革命戦争への参加を断念して日本に帰国した後、日本国内に「特別義勇隊」という民兵組織の立ち上げに奔走するという経緯を辿る。そこで中村は、ハヤシなる人物と共同して、その秘密武装組織(民兵組織)の立ち上げを行なっていた事を意味している。このハヤシとは、身なりがよく、如何にも仕事が出来そうな風貌をした人物であったという。

千葉刑務所内で出会った8歳年下の人物と、ハヤシが同一人物なのかは不明である。また、ハヤシなる人物のバックボーンと、三上卓の系譜を継承しているとする右翼団体との関係も不明である。

中村泰はアメリカでは偽名を使用して自由自在に地下活動し、銃器類の購入に射撃練習にも余念がなく、特に拳銃の知識については日本の警察よりも上を自認するまでになっていた。また、特別義勇隊の組織する為に中村は日本に武器を大量に密輸し、それらはアジト及び銀行の貸金庫に保管していた。最盛期には自動小銃7丁、短機関銃5丁を含め、数十丁もの密輸に成功していた。

中村の場合、密輸の手口も非常に巧妙であった。元々、工作機械が好きで、機械いじりを得意にしていた事もあり、銃器類を分解して部品とし、その部品を内部を空洞にしたバッテリーチャージャー等の自動車整備用電気機器の中に隠し、日本国内の私書箱宛てにアメリカから架空の法人名義で発送していたという。つまり、アメリカ企業から日本企業に宛てて発送された輸入機器として密輸していた。税関チェックをくぐり抜ける為に航空機ではなく船舶を使用し、しかも仮にレントゲン検査などを行なわれても武器類の部品が映らないように塗料を塗ったり、分解して確認するかどうかを確かめる為にバッテリー箱のネジに細工をして、税関で箱を開けているか開けていないかの確認までした上で、絶対に密輸できるとして、大量の銃器類を密輸にしていた。

中村泰と、その刑務所仲間のサイトウ、そして現在も謎に包まれているハヤシなる人物は、「特別義勇隊」なる武装組織を結成して、何をしようとしていたのか――。

具体的に挙げてゆくと、一つは、朝鮮総連幹部の誘拐をし、邦人拉致被害者の奪還を促がすという計画を立てていたという。当時の朝鮮総連の最高幹部は韓徳銖(ハンドンクス)中央委員会議長であったが身辺警護が厳重である上に韓徳銖は年齢が80歳代と高齢であった為に扱いが難しいとされ却下となった。その代わりに朝鮮総連副議長の内の誰かをターゲットにしようとしたが最終的には人員不足で諦めたとしている。ここでも、人員不足を解決する為に、窮地の右翼団体代表に相談をしたが、その代表は、自らの死の問題と向き合っていたので人員の相談は叶わず、最終的に朝鮮総連幹部誘拐は未然に終わったという。(この右翼団体代表というのは、朝日新聞社で拳銃自殺した御仁を指しているように思えますけど…。)

その後も、特別義勇隊構想を抱くグループは、米軍の目を北朝鮮に向ける事を画策し、横田基地の燃料貯蔵庫の爆破を画策したり、或いは在日米軍司令官リチャード・メイヤー中将を狙撃して北朝鮮工作員の仕業に見せ掛ける謀略などを画策したという。

1995年1月1日、読売新聞が驚愕のスクープを打った。「オウム真理教の上九一色村の教団施設から毒ガスのサリンを生成した場合に出る残留成分が検出された」という報道であった。その事から前年1994年6月27日に発生して日本中を騒然とさせた松本サリン事件が起こっていた。


ここは、実際に時系列を再確認すると、この1995年の3月20日に地下鉄サリン事件が発生するんですね。つまり、読売新聞による元旦のスクープから、実際に地下鉄サリン事件が起こるまでの空白期間というものがあったんです。私自身も実は、よく記憶している。「笑っていいとも」を視聴しようとしたら報道特別番組が放送されており、とんでもない事件が発生していたんですよね。サリンが地下鉄車内で巻かれたらしいという前代未聞の兇悪テロ事件であった。家族も友人も読売新聞の元旦のスクープ記事を知らないのか何なのか、或いはテレビの中の人たちも、ホントは分かり切っているのに爛ウム真理教瓩箸いΧ誼通召鮓世辰討れないのでホントにコワくなったのを記憶している。友人に電話で事情を説明してみるものの、この電話が盗聴されていたら我が家にサリンを噴霧されてしまうのかも、というレベルの焦燥感だったんですね。

今一度、確認してみると、この1995年の3月20日に地下鉄サリン事件が起こって、22日に、あのカゴに入ったカナリアを持って上九一色村の教団施設に強制捜査が入っている。しかし、なんというのか、「松本サリン事件⇒読売新聞の元旦スクープ⇒地下鉄サリン事件」を結び付けるのにタイムラグがあったんですよね。おそらくは、1995年正月中にも、オウム真理教教団こそが松本サリン事件の本命であり、何故、国家権力やマスコミは、オウム教団に対して弱腰なのか、知らぬふりをするのかと、肝を冷やした時期があったのを記憶している。


中村泰とハヤシはというと、「オウム真理教は何か破壊活動をするのではないか?」と、上九一色村のサリン生成プラントがあった第7サティアンの爆破計画を立てたという。爆破事件を起こせば、鈍感な日本の警察とて、オウム真理教の施設に立ち入らざるを得なくなるし、オウム真理教教団による大規模な無差別テロを未然に防ぐ事にもなると考えていたという。

実際に、中村は、この1995年に警察庁の内部に侵入して、オウム教団に対しての強制捜査の予定が有るのか無いのかを自ら確認したという。余りにも壮大な話なので、或る種のハッタリ、法螺話に聴こえてしまうのですが、これについては実はウラが取れているという。

1995年の2月から3月初旬にかけて、中村泰自身が警察内部に埼玉県警のOBを名乗って侵入し、そのままトイレに籠もって時間を稼ぎ、人気がなくなってから捜査報告書などを漁ったという。

まるでスパイ映画のような話で、俄かには信じられないと思うかも知れませんが、ほぼ真理でしょう。余りにも、具体的過ぎるし、後に警察が、ヘンテコな捜査をしてみせた事とも関係している可能性がある。

この部分、鹿島圭介著『警察庁長官を撃った男』(新潮文庫)のP202、中村泰による告白箇所を引用します。

当時、霞が関中央合同庁舎第二号館ビルに潜入調査活動を繰り返しました。オウムに対する警視庁や山梨県警などからの報告書を入手し、強制捜査は準備されているのか、されているとすれば、いつ頃、着手の予定なのか、捜査状況を探ることが最大の目的でした。

当時はまだ警備も厳重ではなく、受付で埼玉県警のOBを騙って、中に簡単に入ることができました。1〜2階には自治省も入っている雑居ビルだったので、チェックは緩いものにならざるを得なかったのでしょう。ちなみに出るときなどはノーチェックの状態でした。昼間、庁内のトイレにこもり、夜まで待って、始動。警備局長室や刑事局長室はカギがかかっていましたが、差込式の鍵穴があるレバー・タンブラー錠という旧式のタイプであり、用意したカギとピックング道具でたやすく忍び込むことができました。

警察庁に潜入した結果、分かったのは、警察ではほとんどオウムへの対策は講じられていないようで、ぬるま湯状態であることでした。この事実に私は驚き、愕然としました。この諜報活動の副産物として、警備局長室で見つけたのが、警察庁幹部たちの住所や電話番号が記された、緊急連絡表でした。国松長官の住所は荒川区南千住となっていて、次長の関口氏は、確か目黒区となっていました。私はこれを、当時、市販されていた簡易複写機「写楽」で記録しました。


後に、警察は中村真犯人説をツブす為に「警備局長室に国松長官の住所などを記した資料は置いていない」と主張するワケですが、検証することも面倒くさく感じる程、この警察庁長官狙撃事件に関しての捜査内容は残念な内容としか言いようがない。

そして、1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生する。

中村泰とハヤシは、地下鉄サリン事件に衝撃を受けた。警察に対しての複雑な思いがあった事が推測できる。しかし、その動機は「複雑である」としか説明のしようがない。

1.中村は「警察がオウムに対して無警戒だったから地下鉄サリン事件を起こされてしまった」と感じたと思われる。

2.そもそも中村は「警官殺し」の前科を持ち、約20年間服役した人物である。その心理とは「警察に対して憎悪の感情がなかったと言えば、それは嘘になる」というレベルであり、つまり、中村は警察に対して私怨を募らせていたとしてもおかしくない。

3.中村のような人物の場合、「だらしのない警察に活を入れてやる。実質的な警察のトップである警察庁長官をオレが撃ってやる」と感じてもおかしくない。

4.中村は、「年齢的に自分は65歳となった。特別義勇隊の立ち上げもままならず、計画していたオウムの第7サティアン爆破も出来なかった。自分が半生を捧げて習得した狙撃技術には絶対的な自信がある。こんな展開になってしまった以上は、警察庁長官を狙撃し、オウム真理教の仕業とし…」と、複合的な理由から思いが集約されていった。

実際に、それは複雑に絡み合っているので、どんな感情やどんな思いが警察庁長官を狙撃するという事になったのかは、本人でさえ、クリアには説明できないのではないか。

経過・経緯としては、朝鮮総連幹部誘拐計画を諦め、次にオウム真理教教団の第七サティアン爆破計画も頓挫させ、ついには地下鉄サリン事件を起こされてしまった。そのプロセスを経て、中村泰は爛ウム真理教の仕業に見せ掛けて國松警察庁長官を狙撃する瓩箸いΧЧ圓謀達するのだ。

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◆國松警察庁長官狙撃事件

1995年3月30日午前8時22分、田盛正幸警視は、國松孝次警察庁長官を迎える為に長官専用車を停めた。國松長官(当時)が住んでいたのは、荒川区に出来た高層マンションで、下町のイメージが強い荒川区の中にあって合計7棟からなる瀟洒(しょうしゃ)で特別な一画が「アクロシティ」であり、そのE棟6階に家族と一緒に居住していた。

田盛警視は長官付きの秘書室課長補佐であり、この日も、國松長官を迎えに来たのだった。決して、國松警察庁長官に対しての警備が甘かったというワケではない。

3月10日には國松警察庁長官宅の警戒センサーが3回ほど発報するという不審な予兆があった。

同月15日には地下鉄霞ケ関駅構内にボツリヌス菌噴霧装置が置かれていたというオウム教団による仕業と思われる、不気味な騒動があった。

同月20日には日本だけではなく、世界中を震撼させることになった狠浪偲乾汽螢鷸件瓩発生していたのだ。

同月22日、つまり、地下鉄サリン事件発生から二日後に、上九一色村の教団施設に一斉捜索が始まっていた。

その流れの中で、迎えた、3月30日であった。

田盛警視の元には私服警察官がやって来て、一枚のビラを差し出した。そのビラは、アクロシティにオウム真理教の宣伝ビラで、投函されていたのは前日29日であるという。ポスティングされたビラであるが、10日には警戒センサーが三度ほど発報した経緯もあり、不気味なポスティングビラであった。

田盛警視は、8時30分に國松長官宅のインターホンを押すまでの時間に、正面玄関まで歩いて郵便受けとゴミ置場に不審物がないかを確認した。特に何もなかった。

インターホンを押して、迎えに旨を告げた。

田盛警視は、いつもは正面玄関で國松長官を迎え、そのまま、長官専用車両まで付き添うことにしていた。正面玄関があるのだから正面玄関を使いたいというのが長官の意向であったという。警察庁長官といえば、この日本国の警察のトップであり、その警察庁長官がコソコソと正面玄関脇に儲けられている通用口を使用して出勤する事を気に掛けていたという。また、國松長官の家族が何某かの標的にされる可能性を考慮し、家族に対しても警護をつけていたが、それは國松の意向によって警護を取りやめていたという。つまり、警察庁長官たる者、そうした自負があったという事なのだ。

その朝、田盛警視は、何の気なしに、通用口の方に立って、國松長官がエレベーターを降りてくるのを待っていた。いつもは正面玄関で出迎えるが、この日は正面玄関ではなく、念のために脇にある通用口を使用しようと考えていた。國松長官は田盛警視の姿を正面玄関ではなく、通用口の方に発見したので、正面玄関ではなく通用口の方へ歩き出した。

そして、例外的に通用口を通って戸外へ出た。

その朝は小雨が降っていた。田盛警視は國松長官の背後から傘を差し出した。その傘を受け取ろうと國松長官は左腕を伸ばした。

時計の針が午前8時31分になって間もなく、アクロシティに「ドーン」という大音響が木霊した。その大音響は、日本犯罪史上では一度も使用された事がない、コルト・パイソン8インチバレルという長い銃身の拳銃が使用されていた。発砲時の反動が強過ぎて扱いが難しいとされる拳銃であったが、その反動を減らす為に独自のカスタマイズ銃床を拳銃に装着していた。更に銃弾は1980年代までアメリカで流通していたが威力が強烈すぎて後に「警官殺し」に使用された為にアメリカのガンマニアの間では【cop killer】と俗称で呼ばれていたという極めて特殊な銃弾が使用されていた。

このとき、國松長官は、田盛警視の機転により、いつも使用している正面玄関ではなく、通用門を使用した。それにも関わらず、スナイパーは通用門から僅か5メートルほどのところを歩いていた國松長官に凶弾を撃ち浴びせた。

その狙撃は鮮やかであった、いや、鮮やか過ぎた。

一発目の銃弾は國松長官の背中の正中線から左に2.5センチ、肩甲骨下方10センチの位置から射入し、左上腹部から射出。銃弾は勿論、貫通した事を意味している。

銃撃された國松長官はよろめきながら前のめりに倒れそうになったところに、二発目の銃弾が炸裂する。この二発目の銃弾は左大腿部後部から射入し、右大腿部側面から射出。これは左太腿の後部から入り、右太腿の側面へ弾丸が貫通した事を意味している。また、ホローポイント系のナイクラッド弾という特殊な銃弾が使用されていた。この銃弾は標的に命中すると弾丸の先端部分がマッシュルームの笠のように広がる仕掛けになっており、つまり、開いた笠によって肉を切り刻むようになっており、この二発目の銃弾はマッシュルーム状の笠部分が長官の体内で脱落し、その金属片は体内に留まった。

二発の銃弾を撃ち込まれた國松長官は仰向けに転倒したが、本能的にうつ伏せになる。咄嗟に秘書官補佐でもあった田盛警視が、勇敢にも國松長官を庇うべく覆い被さり、更なる銃撃を避けるべく、E棟に附属する植え込みの陰に國松長官を移動させたが、そこで三発目の銃弾が襲い掛かった。

三発目の銃声が響いたとき、狙撃手に対して國松長官の体勢は仰向けで足を向けているという体勢であった。しかし、それでも銃弾が命中したという。銃弾は陰嚢部後部から射入し、腹腔内を38センチ侵入し、右上腹部皮下に留まった。貫通せず、銃弾は被害者体内に留まった。

【陰嚢】とは「いんのう」であり、いわゆる「キンタマ袋」のこと。仰向けで足を向けてる被害者に対して、銃弾を命中させるとなると、自ずと的中部位は限られるワケですが、そんな精度で特殊な銃弾を的中させたのが、この事件の狙撃者なのだ。

四発目、これは警察発表に拠れば、田盛警視が更に國松長官の体を植え込みの陰に移動させ、そこで四発目の銃声が響いたが、この銃弾は「植え込み」の左上部角を掠(かす)って弾け散り、一部は隅田川方向に跳弾したと推測されるが、未発見。(因みに、この四発目に関して中村泰は「護衛車両から私服警官が飛び出してきたので、その追撃を怯ませる為に威嚇射撃をした」と証言している。)

黒っぽいコートを着た人物が、アクロシティE棟の正面玄関ではなく通用口を使用して出てきた國松長官を狙撃した場所は、直線距離にすると約21メートルほど離れたF棟の東南角地点。4発を発砲して3発を命中させた後、その男はコートを翻しながら自転車で逃走。

狙撃者は、自分の足元である狙撃地点に北朝鮮人民軍の記章(バッジ)を一つ置いた。また、韓国で使用されている10ウォン硬貨一枚を現場付近に残した。(中村泰は「エントランス・ホールに投げ入れた」と告白している。このエントランス・ホールから10ウォン硬貨が発見された事は当時は発表もされておらず、報じられてもいなかったので、実は「秘密の暴露」の一つと考えられている。)

中村に拠れば、北朝鮮軍の記章は、ムショ仲間であったというサイトウのツテで在日韓国人のイニシャルTという人物と知り合いになり、更に、その在日韓国人Tを通じて「韓国安企部の人物」を紹介してもらい、その韓国安企部の人物から入手したものだという。この「安企部」とは「安全企画部」の事を意味しており、つまり、中村は韓国の旧KCIAの諜報員と接触し、その人物から北朝鮮人民軍バッジを手に入れたと語っている事になる。

当初、中村は韓国安企部の人物に対して「北朝鮮製のライフル銃・カラシニコフ」を入手したいと要請したが、北朝鮮製のものはバッジか帽子ぐらいしか持ち出せないというやりとりがあり、北朝鮮人民軍バッジと、中村が所有していたコルト・ムスタング・ポケットライトという拳銃と交換して入手したものだという。

語弊のある表現として、先に「鮮やかだった、いや、鮮やか過ぎた」と述べました。それは射撃の精度という意味合いに於いて、余りにも鮮やか過ぎたという意であり、勿論、犯罪を奨励しているワケではありませんよ、念の為。

いや、だってね、まさか懲役ばかりを食らって人生の大半を刑務所で過ごした、いわゆる「懲役太郎」の老人が真犯人だなんて、当初は多くの事件ジャーナリストも全く相手にしなかったという盲点があったワケです。この中村泰は1930年生まれであり、この國松警察庁長官狙撃事件の当時でも既に60代半ば。まさか懲役太郎扱いされている貧相な爺サンが、劇画「ゴルゴ13」を地でいくような狙撃の名手であっただなんて、そんなバカな事があってたまるか――と考えるのが常識というものであって。

しかし、この中村泰の場合、そういった常識が通用しないんですよねぇ。「尋常じゃない人」というのは、つまりは常識では把握不可能なものだという好例のようで。


◆警察機構の組織構造

補足的な内容ですが、刑事ドラマなどを視聴するにも役立つ話だと思うので――。

日本国の治安維持の頂点は「警察庁長官」である。というのは【警察庁】とは行政官庁としての警察庁であるから。テレビドラマで御馴染みの「警視庁」というのも、道警や県警、府警と同様に警察庁の傘下にあると分類される。

ところが、実情というものは異なるそうで「警察庁という組織」と「警視庁という組織」との力関係は互角であるという。警視庁とは東京だけに特別に設けられたものであり、政府の中枢を守る警視庁の影響力は自ずと大きく、特に警視庁の最高職である【警視総監】は警察官の階級の頂点であるという。この【総監】に相当する階級は警察庁の方には存在しない。また、この「警察庁長官」と「警視総監」とは共に、内閣総理大臣から任命されるという。

それと「刑事警察」と「公安警察」との違いとがある。刑事警察というのは、いわゆる刑事事件を扱い警察組織を指しているが、それに対して思想犯や諜報を取り扱うのが公安警察であるという。単純に思想犯の取り締まりをしているだけではなく、その為に諜報機関としても機能しているの意であり、諸外国からスパイが侵入して破壊工作をしていれば、それを監視したりしているのが公安警察という事になり、それは公安の外事課の担当となる。

(公安の場合は内閣府の外局として国家公安委員会があり、国務大臣としての国家公安委員長がある。また、法務省の管轄下に公安調査庁、公安審査会がある。)

警察機構は官僚機構である。

警視庁の場合は、次のようになる。

1.警視総監

2.警視副総監

3.刑事部長・公安部長

4.刑事参事官・公安参事官

警察庁の場合は行政官庁でもあるので、次のようになる。

1.警察庁長官

2.警察庁次長

3.警察庁官房長

4.警備局長・刑事局長(警備局の管轄下に「機動隊」や「SP」が置かれている。)

この警察庁長官狙撃事件のケースでは、僅か10日前に前代未聞の地下鉄サリン事件が起こっており、しかもオウム教団対日本警察機構との戦争が始まりそうな、そういう非常に緊張した時期に発生したものであった。東京で発生した事件であるから自ずと警視庁は地下鉄サリン事件の捜査でアタフタしており、そんな中で警察庁長官狙撃事件の捜査は、本来であれば殺人未遂事件として刑事部が捜査本部を立ち上げるべきところ、公安部が捜査本部の主導権を握る事となった。

國松孝次警察庁長官が撃たれたので、もう一方の警視庁のトップ・当時の井上幸彦警視総監は「警察の威信」なるものを賭けて、南千住に特別捜査本部を敷いて、長官狙撃事件に当たらせた。その捜査本部は南千住に置かれていた事から通称「南千」(ナミセン)と呼ばれた。この南千は当該狙撃事件の為に設置された特別捜査本部であったが、公安警察と刑事警察とによる合同捜査体制としながらも、主導権が警視庁公安部に置かれた事で、かなり、ギクシャクとした捜査を辿ることになった。

タテ割りの問題、セクショナリズムの問題というのは、官僚機構に限らず、どんな組織にもあるワケですが、警察機構の場合は、公安部と刑事部とが捜査方法のノウハウからして異なり、互いに軽蔑し合っていた等の事情が絡み合い、警察の威信をかけて警察庁長官狙撃事件を捜査しながら、公訴時効という、最悪の結果を迎えた。

ホントは、途中から中村真犯人説に刑事部が触手を伸ばしていたのに【メンツ】(面子)なる不可解なものが、それらを粉砕し、長官狙撃はオウム真理教の仕業に決まっているという先入観の下に展開され、検察庁からも呆れられながらも、最後の最期まで元オウム真理教に固執するという逸脱した捜査を展開してしまい、公訴時効を迎えた――と、される。

そして現在でも、正式には警察機構は中村真犯人説を黙殺し、「犯行はオウム教団の犯行で間違いは無かったが確証が得られなかったので公訴時効になってしまった」という説明を貫徹し、その【メンツ】(面子)を貫いている。

断じて自らの失態を認めない、その威信と面子というのがねえ。

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◆不死身の男

國松孝次長官は凶弾を三発も被弾した。冷静に考えると死亡して当たり前のような状況であったが、奇跡的に一命を取り留めたとさる。とはいえ、ここで使用している【奇跡的】という表現には曖昧さが伴うワケですよね。しかし、それがリアルに奇跡的な復活であったという事が、被弾後の長官の容態から確認することができる。

犯人に拠って三発の凶弾が発砲されたのは、30日午前8時31分頃。119番通報は8時34分。その後に南千住救急隊が現場に駆け付けて、救急救命センターに運び込まれたワケですが、それが8時57分。通報の在った27分後には、國松長官は救急救命センターに運び込まれていた事になり、これは異例の速さだそうな。更に手術が開始されたのは9時20分であったというから、これも迅速な対応が取られていた事が分かる。

正中切開によって開腹したとき、執刀医は唸り声を上げたという。長官の腹腔内には、約3000CCもの血が溜まっており、まさしく、血の海状態であったという。(300ccではなく、3000ccです。)

凶弾は、先端が凹んでいるホローポイント弾であり、この銃弾は標的に命中するとキノコ状に反り返るマッシュルーミングという現象を起こす。マッシュルーミングした銃弾は被害者の体内で裂傷面積を拡大するので、極めて殺傷能力が高いのだという。笠が開くが故に貫通能力そのものは落ちるが、被害者の身体に大穴を開けてしまう、そういう種類の特殊な弾丸であった。通常の銃弾と比較するとホローポイント系の銃弾は裂傷面積が大きくなり、故に一撃必殺の銃弾とされる。殺傷能力が高い事から、アメリカではクマなどの猛獣を仕留める為に使用されることがあったという、正真正銘の殺傷能力の高い弾丸。

腹部大動脈から大量の出血があり、胃に関しては壊死していた部位を切除。小腸にも損傷があり、25センチほど切除。左腎臓と膵臓にも貫通銃創が見つかった。

凶弾の軌跡を再現すると、以下。

先ず、一発目の銃弾というのは背中の真ん中、正中線から射入し、その後に腎臓を貫通し、大動脈を切り裂きながら膵臓をも貫通、更に胃をも貫通し、そのまま銃弾は上腹部を突き抜けていた。

二発目は左大腿部に射入し、そのまま左大腿部を通って内股から一度、射出した後に再び右大腿部の付け根にある肛門付近に射入し、マッシュルーミングした銃弾頭部を体内に残しながら射出。この弾丸は、國松長官の背広ポケットの中から回収された。

三発目の銃弾は陰嚢外側から射出し、そのまま大腸の左半結腸付近を筋肉を切り裂きながらめり込み、長官の右上腹部の皮膚の下に銃弾は留まっていた。【腹腔】(ふくくう)には、胃、腸、肝臓、脾臓、腎臓、生殖器官が収まるスペースを指しているが、この三発目の銃弾は陰嚢から入り、そのまま腹腔内を肺へ向かって38センチも侵入したところで銃弾が留まっていた。本来であれば、この三発目の弾道は「必殺」の弾道と呼ぶべき弾道であった。

國松長官は、全血液量の二倍に相当する10000CCの輸血を受けたといい、血圧計は上が60以下、下は計測不能となり、失血性ショックによる危篤状態に陥り、心臓に電気ショックを与える蘇生措置を何度も繰り返し、奇跡的に一命を取り留めた。

というのが実相で、これだけの致命傷を負いながら一命を取り留めたというのは、正真正銘、奇跡的な出来事であった。

視点を狙撃した犯人の視点に切り換えてみると、確実に仕留めた筈であったが仕留め損じたという事を意味していた。


◆オウム在家信者のK巡査長

1995年。その3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、その二日後となる22日に上九一色村の教団施設に強制捜査が入った。そして翌23日、滋賀県警は逃走中で行方を追っていたオウム真理教信者のクルマを発見した。その車内から一枚の光ディスクを押収した。その光ディスクには、オウム教団機関紙の購読者約4000名分のリストが保存されていた。

リストの解析は滋賀県警が担当していたが、25日、つまり、國松長官狙撃事件の5日前に、或る事実が判明する。オウム教団機関紙の購読者リストの中には、複数の警察関係者及び出入り業者が存在していた。その内の一人、【K】という現職警官の名前も発見された。その人物、イニシャルにしてKは警視庁の巡査部長であり、しかも20日に発生した地下鉄サリン事件の特別捜査本部に出入りしている人物でもあったのだ。

滋賀県警から警視庁に、警視庁のK巡査長がオウム教団機関紙購読者であるという事実が連絡された。同27日には警視庁公安部内でK巡査長の一件が伝わった。K巡査長は出家信者でこそないが在家信者であり、しかも、オウム教団が開催しているセミナーなどにも参加している、そこそこ熱心な信者であったのだ。オウム教団は何故か警察の内部情報や捜査状況などがバレていたりする不可解があったが、現職警察官の中にもオウム信者が存在していたという、先ず、それが衝撃的であった。故に、警視庁公安部は、このK巡査長の取扱いに苦慮し、秘密裏にK巡査長に対しての立ち入り調査を展開していたのだ。

3月30日、これは國松長官が何者かによって狙撃された日であるが、同日、警視庁人事一課の不祥事調査部門の監察チームが、K巡査長が居住している警視庁菊坂寮に、令状なしでの立入捜査を敢行した。そもそも菊坂寮は警視庁の所有する寮である令状は必要なしという判断であった上に、勿論、その事実は秘密裏に行われた。

警視庁人事一課の監察チームが菊坂寮を調べるとK巡査長は留守であったが、室内からオウム真理教の関連書籍が発見された。また、このK巡査長は、築地に捜査本部を置いている地下鉄サリン事件の捜査に参加中であり、27日から山梨県上九一色村のオウム教団施設、それも第7サティアンの強制捜査に派遣されていた事が判明。

K巡査長は、4月1日に上九一色村の教団施設への捜索の任から外された。警視庁がK巡査長の実態を把握し、第7サティアンの捜索をさせるには相応しくないと判断し、それを地下鉄サリン事件の特別捜査本部となっている通称「築地特捜」に連絡し、そうなったものと考えられる。しかし、K巡査長は、築地特捜の任を解かれたものの、4月1日以降も何故か本富士警察署長の指示によって、オウム捜査に参加を続けていた。

この箇所、少々、複雑です。推測になりますが、警視庁公安部はK巡査長に対して秘密裏に身辺捜査を進めており、おそらくは警視庁刑事部が主導している地下鉄サリン事件担当の築地特捜に対して、K巡査部長がオウムの信者であるという事実を、その時点で打ち明けていなかった事を物語ったものと推し測れますよね。取り敢えず、第7サティアンの捜索からK巡査長を外すように指示を出した為に、確かにK巡査長は築地特捜の任を解かれた。しかし、どういう理由なのかの説明が無かったので、本富士警察署の署長がK巡査長に資料整理ではあったがオウム教団の捜査への協力を要請してしまった事を意味している。つまり、隠密主義であるとか、タテ割り行政機構の弊害でしょう。

以降も、このK巡査長を巡っては、隠密主義とタテ割りの迷走が延々と続きます。


◆K巡査長を巡る怪文書

國松長官狙撃事件は、タイミング的には完全にオウム真理教による犯行と思われた。これは私自身の記憶でも同じですかねぇ。北朝鮮人民軍のバッジが現場に落ちていようが、韓国通貨が現場に落ちていようが、警察庁長官を狙撃するなんてマネをするのは、3月20日に地下鉄サリン事件を起こし、22日からは強制捜査に入られた為にオウム教団は必死の抵抗を続けていたし、そもそも地下鉄サリン事件にしても通勤時間帯の地下鉄、それも霞ケ関駅に照準を絞って行われたテロであり、オウム真理教が敵視していたのは日本政府そのものであり、それは霞が関の官僚機構であり、治安維持の警察機構なのも明白であったと思う。凶暴なオウム教団が、実力を見せつけるべく、警察トップの警察庁長官を狙い撃ちにしたのだと考えれば、これほど、スッキリとする筋書きはない。

長官狙撃事件の特別捜査本部は、南千住に置かれたので、南千特捜(なみせん・とくそう)、もしくは「南千」(なみせん)と呼ばれる事となったが、この南千特捜の主導権は警視庁公安部が掌握した。前述しましたが刑事部の方はというと10日前に発生した地下鉄サリン事件の捜査でテンヤワンヤの状態であった為である。

公安警察と刑事警察とでは、同じ警察でありながら、全く異質であるという。刑事警察とは刑事事件を捜査する通常の警察であり、徹底的に捜索を展開して物証を集める。それに対して公安警察の方は思想犯などを相手にするので、場合によっては情報収集の為には犯罪を目の当たりにしても逮捕せずに泳がせ、その内情を探ることを主眼としている。故に公安警察の捜査は、予め筋書きを設定して行なわれるので刑事警察とは異なる捜査方法であるという。刑事警察と公安警察とは対立関係にあるともいう。公安の仕事は自ずと、大きな案件となるので、公安の関係者は「俺達こそが日本の安全を守っている」という自負があるので、伝統的にプライドが高いとされる。そこらで発生する殺人や窃盗は刑事警察の仕事であるが、俺達の仕事は防諜にあり、「俺達こそが日本を守っているのだ」という優越意識があるともいう。

故に、警視庁公安部が主導権を握った南千特捜は、当初からオウム犯行説と決めつけてしまい、しかも警視庁公安部に属しながら、オウム信者であったK巡査長の存在を身内である筈の警察にも秘匿し、軟禁状態にして取り調べを始めていたのだ。(警視庁と警察庁、それに加えて大きなセクショナリズム問題として、刑事警察と公安警察との間にも巨大なセクショナリズム問題が転がっていたの意です。そのセクト問題を孕んで、奇妙な縄張り意識と、メンツが交錯する。)

南千特捜は、長官狙撃事件についてオウム犯行説を採択しながらも、捜査は難航し、そのまま、歳月が流れた。

1996年10月中旬、匿名の犢霹文書瓩警視庁記者クラブの各報道機関に封書で届くという事態が発生した。

国松警察庁長官狙撃の犯人は警察官(オーム信者)。
すでに某施設に長期監禁して取り調べた結果、犯行を自供している。
しかし、警視庁と警察庁最高幹部の命令により捜査は凍結され、
隠蔽されている。警察官は犯罪を捜査し、真実を究明すべきもの。


1996年10月中旬という事は、狙撃事件そのものからは実に1年7ヵ月もの歳月が経過していた。しかし、K巡査については何ら公表されていなかった為に、匿名を装った何者かがマスコミにリークしたのだ。現職の警察官であるK巡査長が既に犯行を自供している事、しかも、K巡査長の取調は極秘裏にして、長期監禁状態で行なわれている、と。

それは大スキャンダル以外のナニモノでもない。単に現職警官の犯行である事を極秘捜査していたという次元ではなく、実質的には長期間に渡ってK巡査長をビジネスホテルに住まわせての軟禁状態とした不当な取調べをした挙げ句に自供を引き出したものであった。

超弩級のスキャンダル以外の何物でもなかった。当時の警察幹部である井上幸彦警視総監、桜井勝公安部長らはK巡査長を巡って違法に取られても仕方のないような軟禁状態に置く取り調べを極秘裏に行っていたのだ。途中からは、廣瀬権副総監、石川重明刑事部長、中田好昭警備部長という警視庁首脳部の全員がK巡査による自供の事実を知りながらも情報を隠し続けていたのだ。

告発文の第二弾が10月24日消印で10月下旬にも報道機関宛てに送付された。一度目は封書であったが二度目の告発文は葉書であった。おそらくは事実を知る警察関係者が、その異常事態を告発し、警察官の本分を改めて問う、非常に勇気のある告発文であった。

国松警察庁長官狙撃事件の犯人がオーム信者の警視庁警察官であることや本人は犯行を自供しているが、警視庁と警察庁最高幹部の命令で捜査が凍結されていることを、先般、共同通信社など数社の皆様にお伝えしました。

〜略〜

警察史上、例のない不祥事と批判され、当庁の威信は地に落ちると思います。警察庁と警視庁の最高幹部が、自己の将来と警察の威信を死守するため真相を隠蔽されようとしても真実は真実です。

〜略〜

被疑者の口を封じようとする有資格者の動きは恐ろしくこれを見逃すことは著しく正義に反すると思います。しかし、家族を抱えた一警察官の身では、卑怯ですが匿名によるこの方法しかありません。心あるマスコミと警察庁、警視庁、検察庁の幹部の皆様の勇気と正義が最後の拠り所です。匿名をお許しください。

記者たちが騒ぎ始めた為に、桜井公安部長らが告発文の内容が真実であり、極秘裏にオウム真理教信者の現役警察官が犯行を自供しているという事実を認め、また、その自供の裏取り捜査中である旨を打ち明けた。

これを受けて、警察庁幹部ら、警視庁への不信感を隠さなかった。しかし、警視庁のやったことで警察庁は関与していないというニュアンスを漂わすのが精一杯だった。
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◆K巡査長を巡る大混乱

1996年4月中旬、長官狙撃事件の捜査に行き詰まっていたところ、オウム教団の諜報作戦に関与していた井上嘉浩から長官狙撃事件について、K巡査長の名前が挙がった。井上嘉浩は「オウムの者が撃ったのだとれすれば、Kかも知れない」という具合に供述したものであったが、実際に長官狙撃事件の発生した1995年3月30日にK巡査長が教団の諜報を統括していた井上嘉浩の携帯電話に着信履歴が発見された。それを契機にしてK巡査長こそが狙撃犯であるとする極秘捜査、それも軟禁状態にして朝から晩まで取り調べをするという違法行為に相当し兼ねない取り調べをし、K巡査長の自供を引き出していたのが実相であった。

K巡査長は確かに犯行を自供するようになったものの、その自供内容の信憑性に問題があったし、何よりも取り調べそのものが非常に違法性が高いものであった。

1996年4月21日から、中央区新川にあるビジネスホテル「パークホテル茅場町」の一室にK巡査長を軟禁状態にして任意による事情聴取を始めた。それは極秘で行なわれたので、公安幹部が情報漏れと、K巡査長の自殺を恐れ、K巡査長を24時間体制で監視するようになり、そのまま、4月29日まで連続9日間で取り調べを行なった事を意味している。因みに、最初の9日間はK巡査長は事件への関与を否認し続けたという。

しかし、次第にK巡査長は取調官に迎合するような態度を取り始めたという。

「いろいろ問い詰められると記憶に自信がありませんので、つい、『そうかな』と思ってしまうんです」

想像するに、これは心神耗弱とか、そういう状態のような。

1996年4月30日、K巡査長から、とんでもな発言が飛び出した。

「長官が撃たれた当日のことなんですが、私は井上嘉浩とともに車に乗ったんです。そして国松長官が住んでいるマンション付近に行ったような気がするんですよ」

警視庁公安幹部らは、軟禁状態にしての違法性の高い取調べを続けている事を不安をおぼえ、今後はK巡査長を寮に帰し、警視庁本部の然るべき場所に呼び出して取調べを行なう算段をしていたが、土壇場でK巡査長が重大な供述をしそうになっている状況を知ると寮に帰す事を覆した。池袋にあるサンシャインシティプリンスホテルに予約を入れ、今度は、そちらのホテルにK巡査長を軟禁状態にすることを決定した。

「私が撃ったんです…。事件の何日か前に現場に下見に行ったんです。このときも井上と一緒でした。やっぱり、私が撃ったんですかね……」

「そうだ! お前が撃ったんだ!」

「撃てと言われて撃ちました…」

「誰に撃てと言われたんだ!」

「思い出せません。すいません」

「気持ちの整理はついたのか?」

「やっぱり現実なのか記憶に自信がないんです」

「現実だ。撃ったのはオマエなんだよ。誰に指示されて撃ったんだ?」

――といった具合の、非常に現実感の薄いフワフワとした取調べを警視庁は極秘裏に続けてしまうのだ。

5月27日まで池袋のサンシャインシティプリンスホテルに軟禁したが、5月28日からはJR日暮里駅近くのウィークリーマンションに軟禁した。因みに、宿泊費は警視庁持ちであったが途中から、違法性に不安をおぼえて、警視庁は食費をK巡査長から徴収し始める。また、宿泊費が嵩んできたきたことから、ウィークリーマンションに場所を移したという。しかし、そのウィークリーマンションは、長官狙撃現場である荒川区のアクロシティから二キロしか離れていない場所であった。

後に、K巡査長の供述聴取が作成され、そこにはアクロシティ近辺の様子も語られていたが、実は、警視庁公安部の特命取調班がK巡査長を散歩と称してアクロシティ近辺に連れ出していた等、殆んど、マインドコントロールによって自供させていた事が判明する。自供したとする供述調書を作成していたが、「そんなものは論外だ! 起訴したとしても公判を維持できるレベルの証拠ではない!」と断ぜざるを得ないレベルの、それは酷い酷い供述調書だったのが実相であった。

にもかかわらず、神田川に凶器の拳銃を遺棄したというK巡査長の供述に基づき、1996年10月にはJR水道橋駅周辺の大規模な捜索が行われ、それはワイドショウなどを賑わせた。膨大な量のヘドロの浚渫(しゅんせつ)をしてみたが、拳銃が発見されなかったのは、御存知の通り。(東京ドームの敷地内にある場外馬券売場に当時、日曜毎に通っていたので個人的にも記憶していますが、まぁ、大変な騒ぎでした。当時のスポーツ新聞は、「現職警官がオウム信者で狙撃犯だった!」と騒いでいましたからね。)

南千特捜の中には、刑事部の者も含まれていたし、公安部出身者の中にも、極秘裏に進めれていたK巡査長への特命取調べに激怒する者は少なくなかったのが内情であったが、それでも南千特捜による捜査の主導権を握っていたのは警視庁公安部で、それに影響を与えていたのは警視庁幹部と警察庁幹部であったというからマジメな刑事さんたちにとっては、何とも報われない話であった。

警視庁公安部内でも事情を知らされていなかった者があり、このヘドロ浚渫の頃には、公然と上司に向かって罵声を浴びせる者もあったという。警察官という縦型社会にしても、受け入れ難い程の捜査混乱であったのが分かる。「警察」というものの本分を問われかねないような、非常にヘンテコな事が起こってしまっていたのだ。

南千特捜は、最初にK巡査長を狙撃の実行犯とし、その周辺にオウム真理教の井上嘉浩や早川紀代秀らがサポートしていたという筋書きを書いた。最初からオウム教団の仕業であるという思い込みがあった為であるが、狙撃をした人物に誰を当て嵌めるかで難航し、実行班には高校時代に射撃部に所属し、当時は逃亡していた平田信(ひらた・まこと)を当て嵌めたり、目撃証言に符号し、且つ、ロシアの射撃訓練ツアーに参加していた端本悟(はしもと・さとし)を当て嵌める等していた。

しかし、K巡査長、平田信、端本悟らの射撃能力は、実はタカが知れていた。このうち、平田の場合は高校時代に射撃部に所属しており、全国大会にも出場していたと報道されていたものの、実は休部がちな補欠選手であった。犯行状況からすれば高度な射撃技術がない限りは不可能な銃撃であり、実行犯には高度なそれが求められるのは明白であったのだ。現実的に考えると、北朝鮮工作員説の方が少しは可能性が高かったという事のよう。

K巡査長に関しては実行犯説が浮上して以降、極秘裏に取調べをすすめ、自供らしきものを引き出したはいいが辻褄が合わなくなって苦慮していたところを、「警視庁幹部は既に現役警察官を極秘裏に取調べしている。既に、その現役警察官は自供をしている」と内部告発されてしまい、K巡査長実行犯説というものが非常にイビツな形で展開されていたというのが実相。

K巡査長の自供については後に東京地検は、「警視庁の取り調べでの長官狙撃供述について、任意性、信頼性ともに根底から否定した。

1997年6月17日、東京地検次席検事・松尾邦弘は

「供述全体としての信用性には重大な疑問を抱かざるを得ない点があり、狙撃事件の被疑者として手続きを進めるのは適当ではないと判断するに至った」

と記者会見で述べた。

東京医科歯科大学で犯罪精神学を専門とする山上皓(あきら)教授は、東京地検に意見を求められて、

「本人の暗示にかかりやすい性格と警察の取り調べでの誘導的な尋問と相俟って、誤まった記憶が形成され、その誤った記憶があたかも本当の記憶かのようになって供述されたものと思われる」

と述べた。

犯罪を犯していない者が「自分がやった」と言い出して、虚偽の自白をしてしまう事例は数多く存在し、犯罪心理学上では知られている話であるという。犯罪心理学に限定せずとも、ヒトの記憶というものはそういう部分がありそうですかね。幼児の頃の記憶について、家族からアレコレと「オマエの幼少時にはこうであった」という具合に話を聞かされていると、後に、その記憶がホンモノの記憶なのか、それとも伝え聞いた話を元にして脳内で作り上げた記憶なのかが、分からなくなってくる。ヒトの記憶というのは映像を記憶媒体に全部録画しているのではなく、適宜、修正されながら記憶として蓄積されているのであり、半年以上もK巡査長を軟禁状態にして、更にはアクロシティ周辺を意図的に散歩させていたとなると、その自供の信憑性は著しく低い。

しかし、何故か南千特捜は、その後にもK巡査長の供述をベースにした筋書きを描き続け、2002年には端本実行犯説をK巡査長の供述をベースに組み立てる等、その捜査の迷走は最後の最後まで続いた。

(因みに、かの脳機能学者・苫米地英人氏がK巡査長の脱洗脳に投入され、脱洗脳を行なった。苫米地氏はK巡査長の供述について、感触などが生々しく証言されている事から、その供述に信憑性アリと判断した。しかし、それにしても特別取調班が犯行現場にK巡査長を連れ出していた事などからすると、現場に居た者ではない感覚をK巡査長が有していたとしても、全てアウトでしょうねぇ。)


◆二丁拳銃の男

2002年11月22日、愛知県名古屋市にあるUFJ銀行押切支店の駐車場に、その男は身を潜めていた。男は腰にガンベルトを装着し、左のホルスターにはオートマチック式拳銃を備え、右のホルスターにはリボルバー式拳銃を忍ばせていた。

オートマチック式拳銃とは自動装填式拳銃を意味しており、一方のリボルバー式拳銃とは回転弾倉式拳銃の事である。刑事ドラマやヤクザ映画、或いはバイオレンス系のテレビゲームでは、お馴染みの話でもありますが、改めて確認しておくと、オートマチック式拳銃は引き金を引けば次から次へと弾丸が発射される拳銃で、命中精度よりも発射数と、取り扱い易さが特徴である。一方のリボルバー式は回転弾倉式拳銃であり、予め銃弾は6発なら6発という具合に装填する形式の拳銃であるという。一発を発砲し、もう一発を発砲しようとした場合、撃鉄を起こして引き金を引く。リボルバー式にメリットは無いようにも思ってしまったりするのですが、オートマチック式は命中精度を欠き、連発式であるが故に発砲後に薬莢を付近に撒き散らすというデメリットがあり、暴力団のヒットマンは単発式であっても命中すれば威力が大きいリボルバー式を好むという。実は、ターゲットを仕留めるという目的がある場合、リボルバー式の方が用途に適している、という。

ガンベルトの左右にオートマチック式拳銃とリボルバー式拳銃とを一丁づつ、即ち二丁の拳銃を腰に差した男は、銀行に到着する現金輸送車を襲撃する計画を立てて、身を潜めていた。

駐車場の様子をモニタリングできるように配電盤の上に小型のCCD高性能カメラを小型の自作の箱に入れて設置し、壁面に接続コードを這わせ、その先の液晶モニターで現金輸送車の動向を確認していた。いざというタイミングになったら、現金輸送車を襲撃するという計画であった。因みにCCDカメラを入れた箱や、その箱から液晶モニターまでの接続コードは目立たぬように、壁面と同色に塗装していた。

現金輸送車が駐車場に入って来るのを液晶モニターで確認した男は、自動式拳銃を抜いてアクションを起こした。現金輸送車には二名の警備員が乗車しており、男は無言のまま、一人の警備員の左足ヒザ付近を狙って発砲した。弾丸は警備員の布地を貫通しただけであったが、撃たれた警備員は衝撃で、その場に倒れ込んだ。相棒が発砲され、倒れ込んだところを目撃したもう一人の警備員は走って逃げ出した。が、ガンベルトを巻いた男はすかさず、逃亡をはかった約7.2メートル先の警備員の右足下腿に向かって発砲した。弾丸は、その警備員の右ふくらはぎに命中、そのまま貫通して左足下腿部にも銃創をつくった。

男は最初の発砲で転倒していた警備員に銃口を向け、そのまま威圧しながら現金輸送車に乗り込み、そこから現金五千万円入りのバッグを強奪。更に自分が仕掛けていた小型カメラを回収し、付近に用意していた盗難車のダイハツ・ミラに乗り込んで逃走する計画であった。

鮮やかな、鮮やか過ぎる現金輸送車襲撃計画であったが、計画は狂った。先ほどまで銃口に怯え、その場でうずくまっていた警備員が果敢にも追跡してきたのだ。

ダイハツ・ミラに男が乗り込むよりも速く、警備員が男を羽交い絞めにした。咄嗟に男はガンベルトの右に手を伸ばし、リボルバー式拳銃を抜いたが、その拳銃を抜いた手を警備員は制し、そのまま、警備員は男を組み伏せる事に成功した。

警備員は体力に自信のある20代の若者であったが、自らが制圧した現金輸送車襲撃犯の顔を見て、衝撃を受けた。

男はカツラに、マスクで変装していたが老人であった。更に靴もシークレットブーツで、160センチ程度の身長を170センチ程度に見せ掛けていたのだ。(更に、そのシークレットブーツの靴底にはボンドが塗られており、警察の捜査を撹乱する仕掛けが施されていた。)

現金輸送車襲撃をした老人は、そのまま、愛知県警に引き渡された。

愛知県警は苦悶することになった。老人は名前も喋らなければ事件についても全く喋らない。しかし、確かにリボルバー式拳銃一丁にオートマチック式拳銃一丁、それに実弾70発も携行しており、単に生活苦の老人が血迷って現金輸送車を襲撃した事件では無さそうだったのだ。何も喋ろうとしない態度にしても、その手口、装備していた拳銃にしても、只者ではないという雰囲気が漂っていた。

その老人は事件については一切語らなかったが、その代わりに奇妙な事を言い出した。

「銃器類については、自分は科学捜査研究所の専門官よりもずっと詳しい」

「8年前に、15メートル離れたところから、ペットボトルや空き缶、木片を標的として600発の実弾を撃ったことがある」


拳銃に関しての知識と、自らの射撃技術に自信がある事については、何故か会話に応じたという。

愛知県警は取り調べをする中で、「この老人は、ひょっとしたら何か重大事件にも関係しているのではないか?」と思い出し、指紋から前歴の洗い出しを行なったところ、その謎の老人の正体が判明した。

この当時で齢72歳の中村泰(なかむら・ひろし)、その人であった――。
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◆陰生花たちのアジト

中村泰は名古屋で起こした現金輸送車襲撃事件で強盗殺人未遂罪で起訴され、2003年9月に名古屋地裁では懲役15年、翌2004年3月の名古屋高裁では中村の主張が通って罪名が強盗致傷罪に変更になったが刑期は変更にならず、同じく懲役15年、同年10月、最高裁でも懲役15年が確定。

それまでの過程までに捜査当局は、中村の資産を調べる為に全国の金融機関に「中村泰」名義の口座を把握していたが、中村が拘留中であるにもかかわらず、中村の口座から何者かがキャッシュカードを使用して現金を引き出している事が発覚した。調べてゆくと、大阪の天王寺から、中村の刑事弁護を担当した弁護士の元に、預金通帳やキャッシュカード、更には衣類や筆記用具が送付されていた。弁護士は中村に指示された通り、東京に住んでいる中村の実弟に預金通帳とキャッシュカードを送っていた事が判明した。その事から、大阪・天王寺付近から、通帳や衣類をきっちりと弁護士に発送している中村の支援者の存在が注目される事となった。

先に述べてしまうと、拘留中の中村を陰で支援していたのは千葉刑務所内で知り合ったムショ仲間のサイトウ(仮名)であった。サイトウは大阪市内で経営コンサルタント事務所を開設している人物であった。

サイトウを捜索する内に、そのアジトらしきものが判明した。三重県西部の名張市であった。その地名は【名張】であり、勿論、「なばり」と発音するが、旧町名は【隠】と表記して「なばり」であった。名張(なばり)とは隠(なばり)であり、かつて、その一帯は伊賀忍者の里であった。アジトは、奈良県境に接する伊賀忍者の里、そして白土三平の漫画にも度々、登場する「赤目の滝」、「赤目四十八滝」のある、まさしく、その土地に存在していた。

愛知県警、大阪府警、そして警視庁から人員を集めた約40名のチームが、2003年7月に大阪のサイトウ宅に家宅捜索に入った。サイトウは、ひどく動揺してパニック状態になったという。その後、サイトウを警察車両に乗せて、三重県名張市の赤目の滝から程近い秘密アジトに向かった。

しかし、緊急事態が発生した。サイトウは警察車両の中で、急性心筋梗塞を起こし、死亡してしまったのだ。勿論、刑事の中には、その出来過ぎた展開から、青酸カリを飲んで自殺をはかったのではないかと訝る声もあったが、三重大学医学部による司法解剖の結果として、死因は急性心筋梗塞による虚血性心不全と確定された。

サイトウが突然死するというアクシデントがあったが、名張のアジトの捜索は続けられた。234平米の敷地に延べ床面積85平米、平屋建て。築30年の民家をサイトウが1996年11月に中古住宅として購入していた。捜査員たちは、隠生花のように暮らす都市ゲリラたちのアジトの扉を開いた。

ワードプロセッサー(ワープロ専用機)にフロッピーが14枚、シークレットブーツ、偽造パスポートに偽造運転免許証。そして天井裏からはコルト・マスタング自動式拳銃1丁と実弾142発が発見された。

新聞や雑誌を切り抜いて作成したスクラップブックがあり、そこにはニカラグア革命戦争に関する記事が多数張られていた。

また、段ボールに詰め込まれた形で、國松長官狙撃事件に関しての新聞や雑誌記事をコピーしたものが詰め込まれていた。長官狙撃事件に高い関心を持っていたのは間違いがないと確信されるものであった。

更に、捜査員たちを驚かせたのは、そのアジトから発見された精巧につくられた猜兮せ慳罩瓩任△辰燭箸いΑ2000年頃から指紋認証システムがセキュリティーとして導入されていたが、そのセキュリティーをくぐり抜ける目的で作られた指紋としか思えず、しかも、それを自作して大量に用意していた事に、アジトの主に対しての得体の知れぬ不気味さを感じたという。

14枚ほど押収されたフロッピーディスクのうちの8枚は、中村の自作詩が保存されていた。チェ・ゲバラが多くの詩を残していた事、また、中村はシンガーソングライター・中島みゆきの歌詞を愛していたといい、900篇ほどの自作詩をフロッピーに残していたのだ。その内の30篇ほどは、長官狙撃事件を匂わせる内容の詩であったという。

March 30, 1995

金のためではなく

名をうるためではなく

恨みもなく

誰にも強いられず

ただ この世のことは

今生で片を付けよ と

内なる声に迫られて

戦いの場に赴いた

無名の老鎗客


墨田の河畔 春浅く

そぼ降る雨に濡れし朝

静けさ常に変わらねど

獲物を狙う影一つ




満を持したる時ぞ今

轟然火を吐く銃口に

構想久し 積年の

敵の首領倒れたり

1995/4


鹿島圭介著『警察庁長官を撃った男』に拠れば、【鎗客】は「そうかく」と読み、中国語で銃器を使う手練れを意味しているが日本語の適訳はないという。また、「獲物を狙う影一つ」と「満を持したる時ぞ今」との間は、未完になっているという。

しかし、この詩には英文で記されている日付は、國松長官狙撃事件が発生した「1995年3月30日」を記しており、更には「墨田の河畔」や「そぼ降る雨に濡れし朝」、「轟然と火を吐く銃口」など、実はいちいち、長官狙撃事件の発生した状況に適合し、それを暗喩して作られているとしか思えない詩なのだ。


◆野獣死すべしの世界

名張市のアジトで発見された偽造パスポートや偽造免許証から、中村泰が複数の偽名を有している事が発覚し、次には偽名で持っている預貯金口座などの洗い出しが展開された。すると、UFJ銀行の貸金庫から、有名なアメリカ製のスミス&ウェッソンの拳銃、オーストリア製のルガー口径のグロック19型拳銃、スペイン製のスターというオートマチック式拳銃が発見される。

更にアジト捜索時に死亡してしまった中村の相棒であったサイトウの自宅から東京・新宿になる安田生命ビルの地下にある貸金庫室のカギと契約書が発見された。そこからは射撃訓練ビデオ、米国海兵隊戦闘用マニュアル、アメリカで使用したと思われる偽造運転免許証、日本で使用した偽造運転免許証、他人のパスポート、変造指紋、青酸カリ、ダイナマイトの起爆導火線、更には、信じられないほどの銃器が発見された。

コルト・ダイアモンド・バック、チャーター・アームズ・ブルドック、スミス&ウェッソン49型リボルバー、グロック、ワルサーP88、ベレッタM92オートマチック、SIG P226、上下二連式のアメリカン・デリンジャー双銃身拳銃(45口径)、掌に入ってしまう超小型のミニ・リボルバー拳銃10丁(特注品)。実弾は全部で1016発も発見された。

更にはKG-9短機関銃(サブマシンガン)、ULA短身小銃(ライフル)までもが新宿の貸金庫から発見された。このうち、ULA短身小銃はコンパクトでありながら、折り畳み式の銃床を取り付けられるライフル銃であり、コートの下に隠しながらも実際には100メートル先のピンポン玉を撃てるという高精度なもので銃大国アメリカでも手に入らない特注品の高性能ライフルであった。(実は、これに似たような折り畳み式の銃床を独自にカスタマイズしたコルト8インチバレルこそが、実際に長官狙撃事件で使用された拳銃であった。)

その他にも赤外線暗視装置、防毒マスク、防弾チョッキが中村泰の関係先から発見された。

この頃には、大阪府警管内で発生していた現金輸送車を狙った複数の強盗致傷事件との関与を疑われていた他、かの有名な八王子スーパーナンペイ事件の犯人として中村泰説が浮上した。ナンペイ事件については中村にアリバイがあり、直ぐに嫌疑は晴れたが、大阪府警が抱えていた事件は、確かに中村が逮捕されることになった名古屋のUFJ銀行押切支店の手口に酷似していた。

1.大阪厚生信用金庫深江支店事件
1997年8月4日、同信用金庫にて発生した強盗事件。3発の発砲があり、現金327万7千円が強奪された。

2.三和銀行玉出支店事件
1999年3月5日、同行同支店脇の駐車場で現金輸送車を狙った発生した強盗未遂事件。2発ほど発砲があり、1発は警備員の掌を貫通し、もう一発は逃亡時に威嚇射撃された。犯人はオートマチック拳銃とリボルバー式拳銃の二丁拳銃使いであった事が判明している。

3.東海銀行今里支店事件
1999年7月23日、同行同支店の駐車場に於いて現金輸送中の警備員に対して、6発の発砲があった。使用された拳銃はフィリピン製スカイヤーズビンガムと思しき回転式拳銃とされる。現金450万円入りのジュラルミンケース1個が強奪された。

4.三井住友銀行都島支店事件
2001年10月5日、同行同支店駐車場に於いて、現金輸送中の警備員に9ミリ・ルガー口径の自動式拳銃による発砲アリ。警備員に下腿部貫通の銃創を負わせ、現金500万円入りのジュラルミンケース1個が強奪された。

上記のうち、三井住友銀行都島支店事件でのみ、後に中村泰は大阪府警に逮捕・起訴され、地裁、高裁ともに無期懲役判決を出し、2008年6月20日に最高裁が上告を棄却して判決が確定している。中村は冤罪であると主張している。が、手口や時期からすると、三和銀行玉出支店事件、東海銀行今里支店事件、それと実際に刑が確定した三井住友銀行都島支店事件の3件は、名古屋UFJ銀行押切事件に酷似している。単純に、こんな風に並べてみただけでも、おそらくは中村泰の犯行であったのではないかと考えたくなってしまう。


これは何というんでしょう、ノンフィクションの話であると思うと、ホントに得体の知れないコワさと、単純に「スゲェ、爺さんだな」という畏敬の念が混じると言いますか…。例えるならハードボイルド映画「野獣死すべし」の世界ですかねぇ。いやいや、女っ気はゼロなのですが拳銃一つで現金輸送車を襲撃するというハードボイルドっぷりが、小説とか映画の世界のようなんですよねぇ。



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◆Viva! America!

警察庁長官狙撃事件、その解明のカギは偏(ひとえ)に使用された拳銃と銃弾にあった。日本犯罪史上、使用された事のない極めて稀少な拳銃と銃弾が使用された事は各種の鑑定から明白であったのだ。

しかも、水面下で南千特捜は事件解決の証拠にも接していたという。三重県名張市のアジトから米国の銃器販売店であるウェザビー社、そのサウスゲート店で購入時にもらったと思われる買い物袋が発見されており、それを手掛かりに捜査を進めていたのが実相であったという。

ウェザビー社は存続していたが、サウスゲート店は廃業していた。使用された拳銃は、銃弾に残されていた線状痕から、コルト・パイソン8インチバレルに特定されていたが、仮に新品に購入すると約600ドル程度の銃であるという。

使用された銃弾も非常に稀少な銃弾であり、「ホローポイント系のフェデラル社製のナイクラッド弾」と呼ばれるものであったが、そのフェデラル社製のナイクラッド弾となると、需要が少ない為に銃砲店で購入することが出来ない極めて特殊な銃弾が使用されていた事が判明する。

実際に使用された銃弾は、フェデラル・カートリッジ製のホローポイント系、357マグナム・ナイクラッド弾であったとされる。この357マグナム弾は通常の銃弾と比較すると非常に火薬量が多く使用されており、発射される弾丸の初速が速く、標的に命中した場合の破壊力も格段に高い銃弾であるという。

「ホローポイント」については前述しましたが、これは人体に命中・着弾すると、弾丸の先端がマッシュルーム状に笠が開き、内臓をズタズタに切り刻み、損傷を多く残すという特徴がある。これは単純に貫通力を弱めるが、その効果は殺傷能力を高めるという。

そして【ナイクラッド】が残るワケですが、これは銃弾をナイロン樹脂でコーティングしてある事を意味しており、これまた非常に特殊な銃弾であった。ナイクラッド弾が世に誕生したのは、米国の警察官は射撃訓練で大量の実弾射撃を行なうが、実は実弾射撃をした場合に、微量ながら鉛の粉塵が飛び散るという問題があり、鉛を大量に体内に吸い込んでしまうと健康被害に繋がるのではないかという意味で、ナイロン樹脂でコーティングするナイクラッド弾が生まれたという。つまり、最初は米国の警察官のニーズに対応して生まれたものであった。

しかし、後に米国ではナイクラッド弾を販売禁止にするよう求めるロビー活動が行なわれる事になったという。というのは、ナイクラッド弾を被弾して殉職した警察官が相次いだ為であるという。

元々は発射時に飛び散る鉛の粉塵を吸い込む事を阻止する目的で製造されたナイクラッド弾であったが、銃弾をナイロン樹脂やテフロン加工によってコーティングすると、その銃弾が発射され着弾した際、その威力そのものも高まる事が判明した為であった。アミラド繊維系の防弾チョッキを貫通してしまう場合があった。

また、ナイクラッド弾そのものが法律によって販売禁止になったワケではなかったが、元々は粉塵対策で製造された高価な銃弾で価格も高く、一般客に需要がなかった為に、メーカーの判断によってナイクラッド弾は製造中止になった極めて珍しい銃弾であった。

入手する方法も限られており、ナイクラッド弾を手に入れるには、ガンマニアたちが集まる爛ン・ショー瓩箸いε玄┣颪筌ぅ戰鵐伐颪納莪されていることもあるが、そうしたガン・ショーでさえも、ナイクラッド弾には、中々、お目にかかれない、そういう代物であった

また、ホローポイント弾というのは標的の体内で笠を開く役割をするので、実は貫通力そのものは低くなるという。一方で、ナイクラッド弾はコーティングの効果の為か初速が上がり、貫通力が増すという。それらの加工がない場合には357マグナム弾であり、やはり、これは抜群の威力がある事で知られている銃弾である。

警察庁長官狙撃事件で使用された銃弾が、如何に特殊な銃弾が使用されたのかが分かる。

しかし、この國松警察庁長官狙撃事件について、事件発生から今日まで使用された拳銃については

38口径のコルト社製回転式拳銃

とのみ発表されており、それが唯一の正式発表であった。それがコルト・パイソンであるという具合に表記している記事は、中村泰本命説以外では登場しない話なのだ。

「銃器類については、自分は科学捜査研究所の専門官よりもずっと詳しい」という主張を一貫させているのが、この老スナイパー・中村泰であり、実は当初から新聞報道などを目にしながら、それらの記事は誤りであると指摘していたという。357マグナム弾は、38口径の拳銃では弾倉の寸法が合わないので撃つ事は出来ない。警察は357マグナム弾を発見しながら、何故、使用された拳銃を「38口径のコルト社製回転式拳銃」と発表しているのか――と。

中村曰く、

「357マグナム弾を撃つ口径については、38口径ではなく、357マグナム口径と称するのです」

と。(例外的に38口径用のコルト・パイソンも実在するが、原則的にはコルト・パイソンは357マグナム口径であるという。)

しかも、中村は自分がチョイスしたホローポイント系の357マグナム・ナイクラッド弾という銃弾を撃つのに、自分がチョイスしたコルト・パイソン8インチバレルが如何に相性がいいのかを説明してみせたという。


中村が銃を購入した可能性があるウェザビー社のサウスゲート店、そのサウスゲート店は閉店していた。しかし、ウェザビー社の本社にはサウスゲート店の販売記録が残っていた。それによって、中村が購入したコルト・パイソンのシリアルナンバーが判明した。

1987年9月に、「Teruo Kobayashi」という東洋人にコルト・パイソン357マグナム・8インチバレルを販売した事を示す、販売記録が発見された。そして、その「コバヤシ・テルオ/小林照夫」という名前は、中村がカリフォルニア州発行の運転免許証を持っている偽名の一つであった。

更に、中村は「M.Amano」(モリオ・アマノ/天野守男)という偽名を使用して、セルフ方式の倉庫などを利用していたと告白し、その倉庫会社には確かに、その名前での利用記録が残っていた。そして、そこには、手に入れる事が非常に難しいとされるフェデラル社製ホローポイント系のナイクラッド弾が発見された。(それも細かく述べれば、製造年度によってナイロン樹脂の色や模様が変更されており、長官狙撃事件で使用されたものは青みのあるものであったが或る時期からは黒に変更されていた。そこで発見されたものは、まさしく、青みのあるナイロン加工されたナイクラッド弾であり、ホントは、否定することの方が不自然なレベルで、中村犯人説は成立してしまっている。)

また中村はアメリカ滞在時に、コルト・パイソン8インチバレルをカスタマイズした事にも言及していた。ロス北郊にある「ポニー・エキスプレス」という店の銃器職人にカスタマイズを依頼したという。中村の告白に拠れば、アメリカには【ガン・スミス】と呼ばれる銃器職人がおり、銃の修理や調整を行なってくれるのだという。中村の場合は、そのポニー・エキスプレスのゲイリー・ハードウィックというガン・スミスに引金張力の調整と、そのコルト・パイソン8インチバレルに合うよう銃床の製造と取り付けとを依頼していたという。

アメリカに於ける中村の痕跡はコバヤシ名義で射撃訓練に没頭する一方で、その射撃の師について格闘技や三週間に渡って行われた軍事キャンプにも参加していた。これが20年間の牢獄生活の後にゲリラ兵となってニカラグア戦争に参加しようとして挫折し、その後、狙撃手兼特殊工作員になろうとした中村泰の半生、その空白部分であった。つまり、この中村泰はアメリカで、その知識と技術を体得していたのだ。

Viva! America!

言論でも法律でもなく

最後の拠り所は武力

これが生涯一貫してきた我が信条

平和ぼけとか言われるこの国でこそ

異端として不人気であろうとも

世界のleaderと目される国が

実践によって教示している真理

国家としてだけではなく

人民各自もまた

自己を守るものは

己の力

自らの武器と

我が信条を支持する存在

America万歳!

USA万歳!

2002/1/26
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◆公訴時効へ

2009年には中村泰を長官狙撃事件で起訴するに充分すぎる証拠が積み上がっていたが、不可解な事に南千特捜は、引き続き警視庁公安部が主導し、2008年には矢代隆義から米村敏朗へと犒抻訌躊騰瓩引き継がれた。

矢代警視総監時代には中村泰を捜査対象としていたが、米村警視総監になると中村泰捜査班は放置され、捜査資料も放置されるという不可解な扱いになったという。事実上、中村犯行説は捜査本部内で「塩漬け」にされてしまったという。捜査本部でも公安部と刑事部とのセクショナリズム的な対立が激化し、長官狙撃事件の捜査報告会議に刑事部の幹部は「お呼び」もかからなくなったという。

2009年10月、A元巡査長の聴取が始まる。端本悟を狙撃実行犯とする捜査であった。

2010年1月、米村警視総監が勇退する。

2010年3月30日、國松警察庁長官狙撃事件が公訴時効が成立した。中村泰の場合は海外に渡航していたので、実際には公訴時効は伸ばせたが、どうやら、この長官狙撃事件が公訴時効になる事は、或る種の予定調和のようなものであったよう。

しかも、公訴時効後に警視庁公安部は批判を握り潰すべく、ホームページ上にオウム犯行説で間違いがなかったが証拠が不十分で起訴が出来なかった旨の文章を、わざわざ掲載し、その後に削除するという不可解な経緯を辿った。そのような釈明を警察機構がする事は前例がなく、察するに、それは爛瓮鵐弔量簑雖瓩箸靴峠萢されていた可能性が高い。

斯くして、國松警察庁長官狙撃事件は対外的には未解決事件として幕を下ろした。

因みに「特別義勇隊」を立ち上げようと中村泰と共に行動して、長官狙撃事件でも何らかの関与をした共犯者の「ハヤシ」は最後の最後まで警察は辿り着けず。

現代日本の警察機構に「本来的な警察官のあるべき姿」というのは見い出し難いものになっている――、その残念すぎる余韻を残して。


◆終章「懲役太郎」と呼ばれた男

人生の大半を刑務所で暮らすような人物を【懲役太郎】というのだそうな。それを知ってから後に、映画「網走番外地」であったか、確かに、その語句を実際に確認できました。確かに「アイツは懲役太郎でアテにならないぞ」というニュアンスで、その言葉が使用されていました。人生の大半を刑務所で暮らしているヤツなんて、アテにならないという意識が我々の中に潜んでいるという事なのでしょう。しかし、この中村泰のケースなどは、一歩間違えたら、天才中の天才と呼ばれていたかも知れない事例でもあり、なんとも複雑な感慨を残ししていると思う。

2002年に名古屋で起こした現金輸送車襲撃事件で中村泰が逮捕された後に、スーパーナンペイ事件、更には世田谷一家殺人事件を警視庁は未解決事件として抱えており、中村泰は一時的にスーパーナンペイ事件の犯人ではないのかという説が浮上した。中村泰は銃器を大量に保有していた上に、過去には警察官を冷酷無比に射殺した過去もあった。しかし、よくよく眺めてみると、1976年の仮出獄後の現金輸送車襲撃事件では警備員に対して発砲を繰り返している反面、下腿部を狙った射撃か掌を貫通する射撃かであり、冷酷無比な、相手を処刑するような冷徹さは確認できなくなっている。

その反面、1996年3月30日の國松警察庁狙撃事件は例外的に、必殺の対応を取っていた。中村泰の中には明確に警察に対して悪感情があったのではないか。国家権力に対しての強烈な憎悪であるとしたら、その思想はアナーキズムに分類できそう。

ですが、一筋縄ではいかない。少年時代は五・一五事件を起こした愛郷塾に属しており、その後に行動派右翼との接触が在った事を中村自身が認めている上に、構想の段階で実現することは無かったが、構想していたのは日本に「特別義勇隊」という武装組織、民兵団を立ち上げる事であったという。この辺りは、純粋な右翼思想のようにも思える。

中村泰は、偽名として、藤木久夫、島田満、宮西幸祐、加賀庄治、大野一夫、小林照夫、天野守男など、実際には50を超える偽名を使用していた。

それらの偽名は貸し倉庫の契約に用いられていたり、或いはダミー会社の役員名として、或いは証券取引用、銀行口座開設用であった。その中でも「藤木久夫」の偽名を使用していた中村は、先物取引を繰り返しており、そこで稼ぎ出していた金額は総額で1億円を超えていたという。

また、着目すべき偽名として狹渓郤蘆豊瓩あるという。「天野守男」は偽造パスポートに中村が利用していた偽名であったが、このケースでは、偽造戸籍抄本と偽造住民票も作られていた。順番からすると、天野守男という架空の人物名の戸籍抄本を偽装し、その偽造戸籍抄本を提出して、偽装パスポートを正規の窓口から得ていた。そんな工作が可能なのかと驚かされますが、中村泰はやってのけていたワケです。刑務所内で身に付けたという印刷技術を駆使して、精巧な戸籍抄本を自作していた。(記載内容の一部を改変し、公印を精巧に偽造していた。)

架空人物「天野守男」を作り上げるにあたって、中村泰には、一つのこだわりがあったという。「天野守男」を作り上げるにあたって中村は、「岐阜県加茂郡八百津町の戸籍にしたい」という意志があったという。何故なら八百津は中村が敬愛する杉原千畝(すぎはら・ちうね)の出身地だったからであるという。つまり、「日本のシンドラー」の杉原千畝を敬愛していたらしく、その出身地を「天野守男」の出身地として作り上げていたのだ。

よくよく考えてみると、この「天野守男」という名前というのは、ひょっとしたら「天の守男」の意味なのであろうな、なんて思う。詩を大量に書き残し、また、シンガーソングライター中島みゆきの歌詞を愛していたとも綴られていたので、そんな事を連想しました。

「懲役太郎」と呼ばれた男のアタマの中というのは、斯くも複雑にして、危険思想と理想とが交錯した世界であったという事なんでしょうねぇ。





※参考:鹿島圭介著『警察庁長官を撃った男』(新潮文庫)、竹内明著『完全秘匿 警察庁長官狙撃事件』(講談社+α文庫)、『犯行声明〜週刊実話創刊3000号特別企画』週刊実話増刊2月14日号。
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