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カテゴリ:アウトロー関連 > 経済ヤクザ伝

「最強の経済ヤクザ」の異名で現在も日本の黒幕史に名前を残している稲川会二代目会長・石井隆匡(いしいたかまさ)について――。

西暦1924年(大正13年)に東京府北千住郡南千住町に生まれたが、生まれて間もなく両親と共に神奈川県横須賀市に移り、両親は横須賀で蕎麦店を開業。後に稲川会の二代目会長となる石井は、蕎麦店「朝日庵」の息子として育った。

進学校として名高い旧制鎌倉中学へ進んだが修学旅行先の三重県で地元チンピラと喧嘩騒動を起こして中退。(ソースが曖昧ながら記憶では、確か刃物を使用して切りつけていたような逸話があったような…。)

1943年(昭和18年)頃から石井は横須賀海軍工廠で工員として働き、1944年から横須賀の海軍通信学校に入学。海軍通信学校では同期二百名中、成績はトップクラスで、1945年春には八丈島にあった人間魚雷「回天」隊の通信兵となり、死を意識していたが、そこで終戦を迎える。1945年の暮れには復員したという。

人間魚雷「回天」による特攻部隊は、搭乗員89名が戦死し、15名が訓練中に殉死、終戦時には2名が自決したという苛酷な部隊であり、通信兵であった石井にしても鮮烈に死を覚悟させられた体験であったと思われる。

海軍工廠で工員をしていたという石井は造船部設計係で働いており、既に一端の不良少年であったという。但し、この石井隆匡という人物は常に付き纏うのが信心深いインテリの面影であり、不良少年は不良少年なのだが既に、この頃より不思議な「静謐(せいひつ)さ」を携えていたという。ド派手に暴れ回る愚連隊全盛の時代に、その静謐さを持った一風変わった不良少年だったという。(旧制鎌倉中学自体が成績上位1割しか入学できない学校であり、且つ、同時に家庭に経済的余裕が無ければ入学できなかっと推測されるから、既にエリート路線から洩れて不良少年化したという、やや特異な経歴を持っているのが分かる。)

また、数奇な縁もあり、この横須賀海軍工廠には後に石井が「五分の盃」を交わすことになる相手、山本健一(後に山口組若頭となり、あの田岡一雄三代目体制山口組の、四代目候補となる人物)も、同時期に横須賀海軍工廠の航海実験部に在籍したという。とはいえ、当時の横須賀海軍工廠には8万人を超える人々が働いていたというから、勿論、石井も山本も互いに面識はなかったという。

また、横須賀工廠時代の石井は「横須賀の番長格」と呼ばれた田島軍司とは既に兄弟分であった。その田島は出征し、サイパン島で戦死しており、その関係で戦後に田島の舎弟が田島と親しかった石井の元へと集まってきた。田島から受け継いだ舎弟の一人が宮本廣志であった。

終戦直後の横須賀界隈では進駐軍兵士によるトラブルも多く、舎弟を連れて歩くようになっていた石井はトラブルの仲裁に入るなどしていたが、進駐軍兵士に囲まれて蹴飛ばされていた復員兵・広崎浄吉を助けた事が縁となり、「ジョー」こと広崎浄吉と知り合う。この広崎は神風特攻隊帰りであるといい、人呼んで「特攻帰りのジョー」であるが、このジョーは宮本の舎弟となり、石井の一統に加わることになる。

宮本は横須賀の不良界隈を統一すべく、別の有力な愚連隊である末次グループとの抗争をしていたが、その石井率いる愚連隊グループの親分となった石井はというと直接的には、その抗争に関与せずに賭場に出入りするようになる。石井は、その賭場で石塚義八郎という本職のヤクザの親分と顔見知りになっている。

しかし、ここで意外な展開が待っている。石塚義八郎は笹田照一の「若い衆」であり、その笹田はというと「横浜のライオン」と呼ばれていた人物で、横浜の港湾荷受業界の有力メンバーだったのだ。(ここは補足が必要で、なんといっても横浜の実力者は鶴岡政次郎ですが、その鶴岡政次郎、藤木幸太郎、加藤伝兵衛、笹田照一の四親分を以って「横浜の四親分」。その系譜は更に古く、鶴岡寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎らが形成した「鶴酒藤兄弟会」という戦前から港湾荷受業で横浜界隈でシマを張っていた系統のヤクザであった。今一度、おさらいしますが当時の情勢からすると、「横浜の四親分」の一人が笹田照一であり、その笹田照一の門下として石塚義八郎。

愚連隊抗争としては、石井グループの舎弟である宮下が末次グループと抗争をしていたが、その末次はというと石井義八郎の舎弟になっていた。で、末次グループは愚連隊抗争の果てに宮本の舎弟である広崎ジョーを拉致監禁し、そのジョーを人質にして宮本廣志を末次グループのアジトである「本寿寺」という寺に呼び出すという騒動を起こす。ずっと愚連隊抗争には直接に関わらなかった石井は、ここで立ち上がる。事情を知った石井は不良アメリカ兵から宮本が入手したというコルト45口径を懐に忍ばせて「オレが話をつけてきてやる」と言い出し、ここで石井が宮本に代わって末次グループの元へ乗り出すのだ。

事態は意外な顛末を辿る。石塚義八郎が出て来たのだ。見どころがあると思って末次を若い衆に取ったが、拉致して敵対する愚連隊のリーダーを誘き出そうとしていた末次の人質騒動、その事の次第を知って石塚義八郎は末次を破門にしていたのだ。その一件を機会にして、石井は石塚義八郎の舎弟となり、石井一統は20名程度の舎弟を引き連れて、石塚義八郎一門に入り、代貸(だいがし)となった。この石井が石塚一門に加わったことで、石塚一門の所帯はイッキに大きくなったという。

図式として説明すると、笹田照一親分傘下の横須賀一家石塚組の石井らの一統。とはいえ石塚組の中でも石井の率いる石井一統は石塚の屋台骨のような存在。それが「稲川会」と接触する前の石井隆匡の在り方だったのだ。



稲川会の初代会長となる稲川聖城(せいじょう)は、石井よりも10歳ほど年長であり、稲川聖城伝説は大下英治の著書『修羅の群れ』で知られている。稲川聖城の場合は堀井一家の加藤伝兵衛の若い衆となったが、やがて稲川の存在は鶴岡政次郎の目に止まり、鶴岡政次郎預かりの身となり、1949年(昭和24年)頃に熱海を中心にして真鶴までの一帯を縄張りにしていた山崎屋一家を継承する形で、稲川組を熱海に構える。熱海では不良外国人の一掃によって名を売る一方で、通称「横浜愚連隊四天王」と呼ばれた出口辰雄(モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎ら全員を配下に加えて快進撃を続けていた。

その横浜愚連隊四天王の面々は、歴とした稲川組に身を預ける存在でありながらも愚連隊時代の習性が抜けず、しばしば賭場を荒らしたという。やがて、その稲川組に身を置く横浜愚連隊四天王は笹田系の者たちとも揉め事を起こす。(この騒動の当時、吉永金吾は関東松田組であった。)横浜愚連隊出身の者たちが笹田系の博徒組織に果たし状を書き、国道一号線沿いの保土ヶ谷遊園地で大規模な決闘が行なわれることになっていたが、それが鶴岡政次郎の耳にまで届き、鶴岡親分の配下が仲介に入って横浜愚連隊と笹田系との「手打ち式」が行なわれた。土壇場で笹田系の面々は決闘場たる保土ヶ谷遊園地に現われなかったが、横浜愚連隊四天王の面々は数百の舎弟を引き連れて結集し、沿道には正規の決闘を見物せんと人々で溢れかえったという。愚連隊四天王は不良界のカリスマだったという。

既に、その時点で稲川聖城の元には出口辰雄、井上喜一が若い衆として入門していたが、その手打ちの後に吉永金吾、林喜一郎も稲川組に入門するという経緯を辿る。



笹田系の横須賀一家石塚組の下にあった石井隆匡は、そういう状況下で、稲川組に籍を持つ出口辰雄(モロッコ)と面識を持つ間柄になっていた。モロッコは石井に対して「俺の舎弟になれ」と要求するなど悶着を起こしている。石井は既に石塚組傘下であり、拒否している。このとき、石井の舎弟であった宮本廣志らは「モロッコの辰」出口辰雄の無礼な要求に怒り、「次にこんなことがあれば容赦なく撃ち殺す」と宣言していたという。

が、出口辰雄は極度のヒロポン中毒であった為に早逝する。その出口の葬儀に石井隆匡が趣き、そこで稲川聖城との関係が出来上がる。石井は事前に賭場上で稲川聖城の姿を目撃していたし、石塚義八郎からも噂話を聞かされていた。葬儀会場で、井上喜一が石井を見つけ、井上が石井を誘い食事の席を設ける。そこで既に稲川組の斬込隊長になっていた井上喜一から石井に対して、五分の兄弟になって欲しいという要望を受ける。石井は石塚義八郎に義理立てして直ぐには返事をしなかったが、石塚の方が廃業する事になるという奇縁によって、石井隆匡は井上喜一と五分兄弟となる。


1959年(昭和34年)に「稲川興業」の看板を掲げ、鶴岡政次郎の名前を拝借し、稲川会の前身となる「鶴政会」が同年結成され、石井隆匡も既に稲川一門に加わっていた為に鶴政会に連なることになった。この「鶴政会」が創設された時期に、笹田系の組織は「双愛会」を立ち上げており、石塚義八郎との義理を立てて笹田系に石井が残っていたなら双愛会になっていた可能性も有り得るという。石塚義八郎の廃業、井上喜一との兄弟盃といった出来事が、石井隆匡を稲川聖城に引き合わせている不思議がある。

また、この鶴政会旗揚げの年、石井は、稲川聖城から19歳の息子・裕絋を一人前の極道にする為に預かり、石井の自宅に住まわせるようになる。その稲川裕絋は稲川会の三代目会長になる人物である。因みに、この稲川裕絋の入門に聖城は猛反対していたが裕絋が無断で背中に刺青を彫ってしまい、半ば強引に石井隆匡について極道修行をしたと伝わる。裕絋は石井邸では「若」と呼ばれていたという。

1962年(昭和37年)、山梨県甲府を巡って、地元甲府の加賀美一派という勢力と鶴政会との間で甲府抗争が起こる。発端は鶴政会系横須賀一家川上組の川上三喜組長が甲府の町を遊興していたときに加賀美一派のチンピラが川上が襟元に光らせていた鶴政会のバッジを「こんなもん、つけやがって!」と鷲づかみにした事に端を発するという。川上組の若頭は甲府で30人近い連中に襲われた事を石井一統の元へ連絡してきた為に、石井は70名からなる兵隊を甲府に派遣する等、大きな騒動に発展する。この石井が派遣した70名部隊の中には「若」こと稲川裕絋も含まれている。裕絋が甲府遠征を志願した為であったという。石井は「若に万が一の事があったら…」と考えたが、自ら志願してくる裕絋に頼もしさを感じたという。

さて、甲府です。川上組長は自らイタリア製ベレッタ22口径を持って加賀美土建で待ち伏せて、加賀美一派のトップである加賀美良明に三発の銃弾を撃ち込むという報復劇となった。加賀美は一命を取り止めた。抗争を終わらせるべく鶴政会は元横浜愚連隊四天王一人として名を売った林喜一郎が病室の加賀美良明の元に出向き、加賀美良明に引退を迫り、そのまま加賀美の舎弟を鶴政会で預かる事で甲府抗争は終結する。鶴政会は甲府を手に入れた。

間もなく、大問題が発生する。石井と五分兄弟であり、石井を稲川聖城に引き合わせた井上喜一の破門騒動が起こる。井上が無断で「稲川」の名を使って関東の親分らを箱根あたりに集めて賭場を開帳、テラ銭を稼いでいたことによる。石井は突拍子もない行動を取る。翌日、石井は稲川聖城の元を訪れ、「これで兄弟(井上)の破門を許してやってもらえませんか」と、自ら切断した左小指を奥座敷のテーブルの上に置いた。この石井の左小指の断指によって井上喜一の破門は免れた。

しかし、再び井上喜一が問題を起こす。東声会会長の町井久之と揉め事を起こし、「町井をやる」と言い出し、石井にも声を掛けたのだ。猛牛を意味する「ファンソ」と呼ばれた町井久之は児玉誉士夫の覚え目出度い反共主義者の在日青年であったが、このトラブルの少し前に児玉が仲介となり、山口組の田岡一雄の盃を受けた人物であった。

石井隆匡という人物はインテリの経済ヤクザとして知られ、風貌は長身にしてロマンスグレーであり、まるで大学教授のようだと評される。実際に読書と寺社仏閣巡りとを趣味としており、真夜中に成田山新勝寺などに実際に参詣していた非常に信心深い人物像として知られている。しかし、兄弟分のことになると我を見失うのか、井上喜一からの連絡を受けると井上を疑わない。石井は井上を疑うこともなく、石井麾下の宮本廣志と広崎ジョーに東声会の町井久之の命を狙わせるのだ。

宮本とジョーとは町井を狙うべく五日間ほどの潜伏をするが、狆絖瓩諒で手打ちが行なわれた。児玉誉士夫が自宅に稲川聖城と町井久之とを呼び出し、和解させたという。このときに稲川聖城と町井久之は顔を合わせているが、共に喧嘩になっていることさえ自覚しておらず、一方的に井上喜一が暴走して喧嘩を起こしかけていたという事実が判明する。町井にして稲川に喧嘩を売る気はなかったのだが、井上が勝手に暴走して町井襲撃を石井らに持ちかけていたのだ。(井上が町井に対して「町井君」と呼んだ為に、町井が「君づけ」で呼んだ井上にカチンとしたという極々些細な揉め事があり、喧嘩する程の揉め事ではないという認識だったという。)この町井久之騒動によって井上喜一の破門は決定的になるが、それでも石井が「破門ではなく引退にして欲しい」と兄弟分を庇い、最終的に井上喜一は自発的な引退として渡世から足を洗う。

1963年(昭和38年)10月、鶴政会は錦政会に改称する。錦政会は政治結社として届けられたという。これには事情があり、以前から稲川聖城は児玉誉士夫を懇意にしており、且つ、東声会の町井久之との一件を経て、政治結社化したように見える。錦政会の顧問には児玉誉士夫を筆頭に、「室町将軍」という異名を取った右翼の三浦義一、北星会会長の岡村吾一、更には血盟団事件で井上準之助前大蔵大臣を暗殺した小沼正らの名前が並んだ。後の稲川会も右翼的性格の強さが窺えますが、それは錦政会時代に秘密があるよう。同年、39歳であった石井隆匡も錦政会の組織委員長に就任した。

(また、石井は正式に横須賀一家五代目を継承する。本来、横須賀一家四代目であるが石井がゲンを担ぎ、ずっと空白になっていた期間には別の親分を四代目に立てて、自らは五代目となった。)

錦政会となったものの、拡大路線を取る西の山口組とは協調路線を取りながらも岐阜で発生した岐阜抗争を起こしており、山口組の伝説的な人物である「ボンノ」こと菅谷組の菅谷政雄が横浜進出に乗り出していたり、水面下では一触即発の事態にあり、その仲介役としても児玉誉士夫が暗躍していたという。(児玉はヤクザ組織と右翼とを大同団結させ、反共運動に充てようと「東亜同友会構想」を掲げたが、これは流れた。)

1964年(昭和39年)には、いわゆる「頂上作戦」が始まり、東京五輪前から気運として盛り上がっていた暴力団取り締まりに拍車がかかり、同年の錦政会の逮捕者は401名にものぼった。翌1965年にかけて、錦政会は解散に追い込まれている。賭博は現行犯ではないと逮捕できなかったが組織暴力犯罪への取り締まりが強化され、現行犯ではなくとも逮捕できるようになった為であったという。

「もう賭博では商売にならない」と思った石井は、土建業「巽産業」を起こした――と。
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1967年(昭和42年)、日本国粋会を脱会した趙春樹が石井隆匡の元を訪れ、改めて稲川組に入った。趙春樹は、東京・向島に縄張りにしていた国粋会系箱屋一家総長であり、これより20年前から趙と石井とは親しかったという。石井の親分であった石塚義八郎と趙の親分であった近藤幸次が親しかった事から度々、顔を合わせていたという。趙春樹は箱屋一家総長になっていたが、円満に日本国粋会を脱会してきたという。

趙春樹は映画などでは朝鮮半島系の人物として描かれているが、出身は中国河北省天津市で中国系の人物であったという。山形県酒田市の捕虜収容所に収容されていたが終戦後、東京は墨田区向島の中国人グループを率いる愚連隊のリーダーとしてのし上がったという経歴を持つ。通称「向島の親分」というフレーズは映画「修羅の群れ」の中でも確認でき、同劇中では元プロ野球選手の張本勲が趙春樹を演じている。(注:映画版のキャストを確認したら、張本勲は山川修身役になっていました。となると逸話がダブってしまっている気がしますが…)

劇中でも趙春樹は競輪場にいるところを、菅原文太演じる「イザワ」なる人物にスカウトされているが、石井隆匡の生涯を追った山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』(幻冬舎アウトロー文庫)にはより詳しく記載があり、趙春樹には後楽園競輪場事件というものがある。

趙春樹が後楽園競輪場で富藤組の連中に絡まれて大人数でコテンパンにやられるという事件が発生する。趙は報復を誓い、翌日、富藤組に果し合いを申し込む。趙は中国人グループのリーダーであったが愚連隊抗争では有名人であり、横浜愚連隊四天王らとも張り合っていた人物でもある。昭和30年頃、石塚義八郎の若い衆としてちょくちょく向島に行き来していた石井は趙春樹が痛めつけられ、富藤組と喧嘩をすると知り、横須賀から援軍を出したという過去がある。趙春樹が30名程度の舎弟を連れて後楽園競輪場へ行ってみると、富藤組は倍の60名ほどの大軍勢で待ち構えていた。そこへ石井隆匡が横須賀から車十台で30名程度の舎弟全員に拳銃を持たせて加勢したのだ。富藤組60名に対して、趙・石井連合軍60名が後楽園競輪場に集まるという事態に警察が動き、衝突は起こらなかったという。更に、石井は趙の仇を取るとして懐刀の宮本廣志に富藤組の富藤久太郎組長襲撃を画策し、宮本を鎌倉は材木座にあった富藤邸に向かわせるまでしていたという。その逸話からも趙春樹は、かなり石井と近い人物であったことが窺える。

また、映画「修羅の群れ」の中では趙春樹は張本勲演じる韓国人として描かれており、松方弘樹演じる稲川聖城から「韓国人だからどうだって言うんだいっ!」(韓国人だって同じ人間じゃねぇか的なニュアンス)と差別的な発言をした趙を在りし日の稲川聖城が庇ったという逸話が挿入されている。これも前掲著に拠れば、モロッコが稲川聖城に趙春樹を紹介した事がいつの頃かにあり、その際に趙を中国人だと知った稲川聖城が、趙に「苦労したろう……」と趙の歩んできた半生を、おもんぱかるような言葉をかけた。そのときのやりとりによって「向島の親分」こと趙春樹は稲川聖城に思いを募らせたというエピソードが充てられている。

趙に関しては以前から趙と面識のあったモロッコや石井が趙春樹を稲川組に誘っていたという記述もある。後楽園競輪場騒動の事柄が昭和30年頃の逸話になっているので、実際には石井隆匡と親密な関係だったようにも受け取れる。修羅が次から次へと稲川聖城の元に集まって来るのが「修羅の群れ」の特徴であるが、石井隆匡は元々は笹田系の石塚組の人物であり、稲川聖城の快進撃が始まってからも、なかなか手を出せなかった横須賀を縄張りにしてた横須賀を根城にしていた人物という事のよう。結局、石井も趙も稲川聖城の元に結集することになるのだから、まさしく「修羅」が次から次へと集まってくる奇妙な世界。


1972年(昭和47年)、賭博開帳図利罪で三年の懲役を服した稲川聖城が出所すると、稲川組は稲川会へと組織を改編する。石井隆匡は理事長という肩書きになり、会長補佐には林喜一郎、趙春樹も専務理事に就任している。(稲川会本部事務所は東京六本木に設置される。)

また、この年、稲川聖城は林と石井を連れて、関西労災病院に入院中の山口組三代目田岡一雄を見舞った。レジェンドの田岡は1970年に狭心症と心筋梗塞症を併発させ長期入院中であった為であるという。

同年夏、稲川会理事長の石井と、三代目山口組若頭の山本健一の兄弟盃の話が持ち上がる。稲川聖城と田岡一雄とは鶴岡政次郎が仲介をした過去があり、現実には散発的な揉め事を抱えてはいたが基本線では友好的な関係にあった。田岡は鶴岡と兄弟盃を交わしており、鶴岡は稲川の親分筋であったから系譜上は叔父と甥の関係に当たったという。(三代目体制の山口組は横浜進出を果たしており、岐阜を巡っては小競り合いも起こし、山口組と稲川組とで縄張りを分割するなど緊張もあったとされている。)

稲川会理事長と山口組若頭との兄弟盃となると、かなり大掛かりなものになることが想定された。関東のヤクザの殆んどは膨張戦略を有する山口組の関東進出を警戒しており、その兄弟盃が山口組の東京進出に利用されるのではないかという厳しい声が稲川会以外のヤクザ組織からは上がったという。

同年秋、神戸市の田岡一雄邸にて、山口組ナンバー2の山本健一と、稲川会ナンバー2の石井隆匡の縁組が盛大に行なわれた。(同日、山口組若頭補佐・益田佳於と稲川会専務理事・趙春樹も兄弟盃を交わした。)稲川会の規模は東日本では住吉会に次いで二番手の規模であるが、山口組と稲川会との縁組は猯鮖謀瓩半里気譴訐さの縁組であったという。

この頃、石井のボディガードを勤めていた「井の上孝彦」は、芸能人のポール牧の兄貴分であったという少し変わった人物である。井の上が断指するシーンに居合わせてしまったポール牧が、ずっと年下である井の上に対して「舎弟にして下さい」と言い出してしまったのが事の発端だという。しかし、その井の上は、実は石井隆匡のボディガードを勤めていた人物だという。

元々、この井の上は熊本県出身で「九州一の暴れん坊」と評された喧嘩巧者として十代半ばの頃から名を轟かせた人物で、実に600名もの構成員がいたとされる「龍譲会」なる不良グループの会長であったという。高校を退学になって上京、横浜市寿町のドヤ街に流れ着き、地元ヤクザとトラブルを起こしたところを石井に拾われた人物である。

その井の上は、ボディガードをしていた関係で、謎の多い石井の人物像を間近で目撃した証人でもあるワケですが、その石井の信心深さを垣間見た人物であるという。石井は毎月一日と十五日には寺社仏閣をお参りすることにしており、多忙のときでもそれは変わらなかったというから、石井の信心深さは相当なものであったのが分かる。成田山へ行くときには夜中の11時頃に車を出し、現地に到着するのは真夜中であったという。そして石井は月灯りだけを頼りに階段を昇り、賽銭箱には万札を数枚入れ、静かに無心で手を合わせたり、石井自らがお経を唱えたりしていたという。信じがたい不思議な逸話ですが、どうもホントらしく石井は賭博容疑で1978年から1984年まで都合で6年間ほどの服役を経験しているが、服役した長野刑務所内でも定時の起床時間よりも一時間早い朝5時に起きて読経していたというから筋金入りだったという事のよう。(因みに石井は毘沙門天を特に崇拝していたという。)

1978年(昭和53年)から石井は6年間服役する。

1981年(昭和56年)7月、三代目山口組田岡一雄組長が闘病生活の末に心不全で没する。日本最大のヤクザ組織である山口組のトップが空白になり、生前、その後継となる四代目は山口組若頭の山本健一が最有力候補であったが、このとき山本は肝硬変で大阪医療刑務所に服役中であった。その上に田岡の死から半年後となる1982年(昭和57年)2月に、山本は様態を悪化させて没する。山口組そのものが、その意外な展開を受けて、「四代目」の座を巡っての跡目問題が展開されることにある。

1984年(昭和59年)に石井は服役を終えて出所する。社会は山口組の跡目問題で激変する。山口組は定例会にて竹中正久若頭を四代目に認定するが、それを山本広組長代行を担ぐ山広派がボイコット。その一週間後には「一和会」を結成する。竹中正久による四代目山口組の継承式の後見人は親戚筋でもある稲川聖城が勤める。

1985年(昭和60年)1月、四代目山口組竹中正久組長が一和会のヒットマンに射殺されるという衝撃的な事件が起こる。この事件を契機に山一抗争は全面戦争状態に突入する。山口組が二つに割れたという状況を目の当たりした稲川聖城は跡目問題の怖さを痛感したのか、同年10月には第一線を退くようにして総裁となり、石井隆匡を稲川会二代目会長にする方針を固める。

話を持ちかけられた石井は二代目候補として「趙春樹」を提案したともいう。ここまでの来歴でも石井隆匡という人物は喧嘩や抗争といった武勇伝そのもので名を上げたタイプではなく、どういうワケか静謐な生き方で、ヤクザ的な人間関係の中で押し上げられるようにして二代目になった人物らしい実像が浮かび上がって来る。

同年末から田岡三代目の未亡人・文子の病状が悪化して自宅療養に入る。稲川会二代目を継承することが内定していた石井は山一抗争の終結に精力的に動いており、田岡文子の目の黒い内に一和会メンバーに接触し、お見舞いを促すという説得工作を開始している。石井は山口組と一和会の和解案として五分五分の和解案を提示し、一和会トップの山本広も未亡人のお見舞いに行くことを約束していたが、年明けて1986年(昭和61年)1月下旬、三代目田岡の未亡人となる田岡文子が病没し、一和会側はお見舞いの機会を逸してしまったという。

1986年2月、石井の元には山一抗争終結に向けて各地のヤクザから要望が殺到する。山一抗争が激化するに従い、テキヤ系組織の持つ露天商が締め出されるなど関東ヤクザへの影響も大きかったという。石井は仲裁に奔走する事になるが、山口組側から「(和解は)文子未亡人の喪明けまで待って欲しい」という要望となり、一方の一和会側は「五分と五分」の和解案であれば承諾するという決定をしていたことから、一時的に楽観ムードとなる。しかし、同月27日に竹中正久四代目の墓前で竹中組組員2名が一和会系とみられる何者かによって射殺されるという事件が発生し、一転、和解工作は暗礁に乗り上げる。

同年3月、石井が神戸入り。兄弟盃を交わした山本健一の墓参りを済ませた後、田岡一雄の墓参りに向かった。その期間中、石井は山口組執行部の渡辺芳則、小西一男らと面会し、粘り強く山一抗争の終結に向けての説得を試みたという。並行して、会津小鉄会の高山登久太郎が一和会側に働きかけに出向き、やはり説得交渉を展開させていたという。

同年4月、石井は先月に引き続き神戸へ向かい、このときには稲川会幹部8名を連れ立っての神戸入りを果たす。来月には石井は稲川会二代目会長の継承式を控えており、その出席を依頼する為であったが、同時に、ここでもギリギリの山一抗争終結の説得工作をしていた。

同1986年(昭和61年)5月5日、石井隆匡の稲川会二代目会長の継承式が熱海の稲川会本家の大広間に於いて盛大に執り行われた。継承式には北は北海道から南は沖縄まで文字通りの日本中のヤクザ、その錚々たる面々が一堂に会するという歴史的なシーンになったという。因みに山口組は山一抗争の真っ最中であったが渡辺芳則(山口組若頭)、宅見勝(山口組若頭補佐)、中西一男組長代行らも出席し、その見届人となっている。(渡辺は後に五代目山口組組長となり、宅見は石井同様「経済ヤクザ」と呼ばれ、「東の石井隆匡」に対して「西の宅見勝」で経済ヤクザ時代の到来を告げるキーマンとなる。)

1987年(昭和62年)2月、山一抗争は終結の道筋がつきそうでつかないという状況が続く。同月、一和会の常任顧問であった白神英雄がサイパン島で射殺体として発見されるという不可解な事件も起こっていた。しかし、何か水面下で終結に向けての決定があったらしく、山口組の中西一男代表代行は「組長代行権限によって抗争を終結させる」という宣言を出す。(山口組内では竹中正久の実弟らもおり、反対派の声もあったが執行部によって、その宣言が出された。)山口組の中西ら最高幹部が上京し、東京・紀尾井町のホテル・ニューオータニで、やはり石井ら稲川会最高幹部らと会談があったという。それは山口組・中西代表代行が稲川会・石井会長に伝える為であったという。

「山口組は抗争終結を決定致しました。謹んでご報告いたします」

という中西に対して、石井は

「その大所高所からの御英断に敬意を表します」

という具合の、やりとりが在ったという。石井から会津小鉄会の高山登久太郎に電話連絡が入り、それを受けて高山が一和会へ赴き、山口組が稲川会に抗争終結宣言を確約した旨を伝え、一和会の山本広も高山に

「本日を以って抗争を終結します」

という言質を預けたという。

狢莪貅´畛外豺柿茲、そこで終結し、石井は安堵を得たが、その7か月後となる1987年9月、東京・国会議事堂周辺には毎日のように「竹下登くんを総理大臣にしよう」という不可解なスローガンを連呼する右翼街宣車の存在を知る。


その日、石井は会津小鉄会の小頭・三神忠と一緒に自動車で移動中、街宣活動中の右翼団体の車列に遭遇した。その街宣車の車列は、いわゆる「竹下登ほめ殺し」街宣活動を行なっていた。この「竹下褒め殺し」街宣をやっていたのは日本皇民党で、稲本虎翁を総裁とする右翼団体であった。

偶然にも三神と稲本とは知り合いであった為、クルマを停めて、三神が窓を開けて「稲ちゃん」と声を掛けると稲本虎翁は街宣車から降りたので三神も降車して、挨拶を交わしたという。石井は車中で待たされることになったが、この際、三神が稲本を石井に紹介したという。このときの石井は、後に自分が稲本にホメ殺しを辞めるよう説得することなど全く意識しておらず、紹介はされたものの、

「ああ、そうですか。頑張ってください」

とだけ稲本に声を掛けたという。
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1986年(昭和61年)に平和相互銀行に於いて不正経理が発覚した。いわゆる平和相互銀行事件は、日本の経済事件の中でも特異な性格を持つ事件であり、戦後日本の不可解な地下マネーの流れが見えかけてしまった事件でもあった。

平和相互銀行(以下、平相銀)を語るにあたり、平相銀の輪郭について。平相銀の創業者・小宮山英蔵は東京・深川の生まれであり、生年は大正元年生まれである。小学校を卒業後に東京市役所・助役室の給仕をしながら夜間部の学校へ通っていた苦労人である。1923年(大正12年)に関東大震災が起こり、東京は一面が焼け野原になっていたが、その光景に小宮山英蔵少年はヒントを見い出す。鍋釜に釘、鉄板があちらこちらに落ちており、それを拾い集めて地元深川の鉄屑問屋に持ち込んで売ると、いいカネになったのだ。学校を卒業するとクズ鉄屋「小宮山商店」を開業。父親を呼びよせてリヤカーを引いて屑鉄を買い回ったという。そのクズ鉄事業は順調に推移した。小宮山商店の支店は全国的な展開となり、当時の植民地であった朝鮮や台湾にも支店を築くほどの大成功を収めたという。

終戦は1945年(昭和20年)ですが、そこでも小宮山英蔵の才覚は冴えをみせた。事前に英文タイプライターを買い漁っており、それはスクラップ鉄ともども進駐軍に高く売れた。権力者を相手にした商売すなわち進駐軍相手の商売は儲かると踏み、二世を十人ほど雇い入れてGHQとの交渉係にしたことでGHQ嘱託となり、更には清掃会社を設立して旧軍事工場を壊す仕事を引き受け、更にそこで大量のスクラップ鉄を回収し、しこたま儲けたという。その後、小宮山英蔵は銀行業(金融業)に手を広げる。昭和24年に関東殖産株式会社を設立。その後、相互銀行法の成立を経て、昭和28年に関東殖産は平和相互銀行となる。

そんな時代から平相銀は駅前に支店を構えたので、集金能力は抜群であったが「融資する」という銀行業のノウハウは低かったらしく、平相銀で集めたカネを小宮山の一族企業である小宮山商事の不動産部に貸し出すという具合にカネの巡回をさせた。一族企業といっても、それは小宮山コンツェルンと呼ぶに相応しい規模の一族企業群であり、健全な銀行業務とは言えず、当時の大蔵省や日本銀行からすれば平相銀は問題のある銀行であったが、小宮山英蔵は政治家に億単位の賄賂を届けるなどして問題を揉み消し揉み消しながら平相銀及び小宮山コンツェルンは、戦後復興の時代を生き抜いた。そういう奇妙な財閥の創業者であり、且つ、特殊な銀行だったのだ。

小宮山のカネは政治家の他にも右翼の大物であるとか、ヤクザにも撒かれていた可能性が高い。揉み消すのに必要なカネは持っているというタイプなのだ。また、中々、小宮山コンツェルンと言ってもピンと来ないものですが、一時期、プロ野球球団として「太平洋クラブライオンズ」、現在の埼玉西部ライオンズの前身のプロ野球球団を所有していた太平洋クラブグループは、平相銀のグループであり、つまり、クズ鉄を拾って巨万の富を有した小宮山コンツェルンの一族企業だったのだ。

で、その平和相互銀行の不正経理が発覚したというワケです。一つの大財閥、一つの企業群グループに大打撃を与えかねない、大きな大きなスキャンダル性を秘めていた。

先ず、事態を知って意外な展開が起こる。平相銀の顧問弁護士にして、元特捜検事、「カミソリ伊坂」の異名を持つ伊坂重昭が平和相互銀行そのものを食い潰すという行動を起こす。これは創業家を追い出し、そのまま平相銀を乗っ取るという事にも似ているのですが、乗っ取ることが目的なのではなく、食いつぶしてしまう事が目的であるワケです。この構図は同時期に起こるイトマン事件、イトマンという商社を許永中らが食いつぶした手法と似ている。この「食いつぶすことが目的である」というのは、企業を存続させる気がなく、ばんばん、その企業のカネを使えるだけ使い尽くして破綻させるの意であり、そのプロセスの中で自らが潤うことも、或いは誰かを潤わせることも出来るというのだ。

伊坂は手始めに不正経理を手掛かりにして小宮山一族を経営陣から追い出し、最終的には外資銀行であるシティバンクに売却してしまうつもりで平相銀の黒幕として「元カミソリ検事」、東大卒エリートの爛筌畍´瓩箸靴討零縅咾鬚佞襪辰燭里澄B膕識兌に拠れば伊坂はシティバンクに平相銀を一千億円で売却する腹づもりであったが、一方のシティバンクは平相銀は駅前に支店が揃っているという買収する側からすると見事な好物件であり、シティバンク側の内部調査による査定では平相銀には三千億円の価値があったという。

伊坂は小宮山一族が大量の平相銀株式を保有しているが、その株式を買収する必要性があった。故に小宮山家の一族企業が平相銀に対して抱えている不良債権の回収を迫った。小宮山一族が不良債権(借金)を返せないのであれば株式を手放すことになり、それによって伊坂らのクーデター軍は平相銀を私物化し、好きなように食いつぶせる。そういう状況を作ろうと画策した。しかし、それに対して創業家である小宮山一族も反撃に出た。所有している平相銀の80億分の株式を資産管理会社・川崎定徳の佐藤茂に預けてしまうという作戦に出た。平相銀を巡る熾烈な内紛劇である「カミソリ伊坂」と「創業家」との戦いに、第三者が介入し始めたのだ。

川崎コンツェルンの資産管理会社である川崎定徳、そこの佐藤茂が介入してきたことで伊坂の攻勢に転機が訪れる。伊坂は小宮山一族に123億円という巨額の借金の支払いを求めて裁判を起こしていたが、小宮山一族側は裁判所に3枚の小切手を持参し、利子をつけて総額127億円分の借金を即時返済するなどの壮大なマネー戦争が繰り広げられるという異常な展開となる。そうした巨額のマネーが動いた事には裏があり、いつの間にか関西に基盤を持つ住友銀行が平相銀の救済合併というシナリオに向けて動き出していたのだ。つまり、小宮山一族を守る為というよりも平相銀を吸収合併して関東進出の足掛かりにしたいという住友銀行グループの思惑が介在し、それが色々な闇紳士から竹下登らの有力政治家らを巻き込んで地下で蠢いていたのだ。

この平相銀事件については余りにも入り組んだ事件であった為に、誰がどういう思惑でどう動いているのかは未だに判然としない事件なのですが、実は既に稲川会二代目継承前の段階の石井隆匡は動いていたという。当時、石井隆匡は服役中であったが刑務所内から稲川会山川一家の山川修身総長に伊坂派を守るように命じていたという。

平相銀事件は途中で「金屏風疑惑」というスキャンダルを惹き起こしている。川崎定徳の佐藤茂預かりになっている分の平相銀の株式を伊坂派(当時の平相銀側)が買い戻そうとして、八重洲画廊の真部俊生社長から《金蒔絵時代行列図屏風》という推定価格8千万から5億円程度という金屏風、それを40億円で買い取っていたという事実が判明する。実際には高く見積もっても5億円程度の金屏風に対して40億円の代金を支払ったこととして処理し、一方で、その差額が闇紳士たちの口利き料であったと推測できるワケです。

この金屏風疑惑は、伊坂に対して「川崎定徳預かりになっている分の株式を買い取れるように口利きをしてやるから、この金屏風を40億円で買って下さい」と真部が持ち掛けたと読む事ができる一方、後に伊坂は「佐藤十五億、竹下三億」等と記されたメモを真部から見せられたとしている。また、伊坂によれば、(伊坂に)真部を紹介したのは竹下登の秘書の青木伊平であったという。

勿論、それら伊坂の証言を竹下登は否定しているし、真部も否定していたが皮肉なことに、どうしようもなく当時の大蔵大臣は「竹下登」であった――。

平相銀は最終的に住友銀行による救済合併によって幕を閉じる。平相銀事件では小宮山一族側についていた河合弘之弁護士によれば、元々、住友銀行はイトマンを仲介して平相銀合併に向けて動いていたが、途中から大蔵省の意向も介入し、最終的には外資に売却されるよりも住友銀行に吸収合併された方がよいという大蔵省や検察庁の思惑が住友銀行に加勢したという。


1986年(昭和59年)に服役を終えた石井隆匡は、東京佐川急便社長・渡辺広康に接近した。面識そのものは更に時代を遡り、銀座七丁目のクラブ「花」の経営者であった庄司宗信が石井と渡辺とを引き合わせていたという。その頃、庄司はクラブ「花」の経営者であり、石井は横須賀一家総長、渡辺は渡辺運輸の経営者であったというが、その後に石井の服役などの空白期間があり、出所後、石井と渡辺が急接近したのだ。

石井は新しいシノギとして株と不動産に目を向けていた。無職になっていた庄司から石井の元へ「東京佐川急便が配送センター用地を物色している」という情報を耳にする。その東京佐川急便の社長は渡辺広康であった。石井は庄司を企業舎弟の経営者に仕立て、その資金を渡辺に融通させて不動産会社「北祥産業」を設立する。この北祥産業の設立は1987年(昭和60年)の事であり、先ず手始めに東京佐川急便配送センター用地の仲介を手掛けた。主な取引先は「佐川急便」であり、保証人は東京佐川社長の渡辺であるという渡辺のカネに頼るものであったが、それが信用の裏づけともなり、この不動産事業は巧くいった。

北祥産業が順調である中、石井は更に株に手を出す事にした。やはり、服役前に面識のあった仕手集団「誠備グループ」を率いた相場師・加藤繊覆とうあきら)を渡辺に紹介する。石井がどういう目論見であったのかというと、渡辺にカネを出させて、株を儲けようとしていたという事のよう。加藤が指定した「太平工業株」は折からのバブルの中の建設株であり、石井は思惑通りに株で儲けることに成功した。

渡辺にタカっているようにも見えるが、両者の関係は一方的なものではなかった。渡辺の女性問題をブラックジャーナリストに嗅ぎ付けられると、石井は本業のヤクザとしての力を行使して記事掲載を差し止めた。また、渡辺が暴力団とトラブルを起こしたが、それも解決した。渡辺からは東京佐川の常務である早乙女潤を紹介されており、誠備グループが事前に教えた「太平工業株」の件では早乙女は個人で株を購入して儲けている等、この両者は互恵関係としてバックボーンを構築していったのだ。


経済ヤクザ・石井が勇躍する過程で、平和相互銀行問題も絡んでくる。北祥産業で茨城県岩間町で開発中の岩間カントリークラブで虫食いになっている土地があった事を掴んだ。岩間カントリークラブを手掛けていたのは太平洋クラブであり、その太平洋クラブとは即ち平和相互銀行グループの企業群だったのだ。石井は例によって東京佐川急便の債務保証を担保に第一相互銀行から5億5千万の融資を受け、そのカネで岩間カントリークラブの買収に充てた。

(ここから少しだけ、大下英治と一橋文哉との情報ソースが異なるので併記します。)

大下英治の著書に拠れば、石井は川崎定徳から購入したかのように読める。更に北祥産業は、これまた石井と渡辺とが造ったトンネル会社の「北東開発」へと虫食い地を転売。太平洋クラブは、岩間カントリークラブの開発を手掛けていた岩間開発社が行なっていたが、その岩間開発社の全株式を東京佐川急便が買い取る。そして東京佐川から北東開発へ、岩間開発社の株が譲渡された。ここまでの経緯で岩間開発社は石井の手中にあるワケですが、その岩間開発社にも東京佐川の債務保証を担保にしてノンバンクから資金融資を受け、それで岩間カントリークラブの開発を実行した――となる。この構図は東京佐川急便という存在、その東京佐川が債務を保証するという事で信用で生まれ、その債務保証を担保として新たにカネを借りているの意であり、危うい担保による融資でもあるワケですが、それでいて錬金術的な性格を有し、その手口は他の経済事件でも取られている。

一橋文哉の著書では、元検察関係者からの話として、石井が岩間カントリークラブを入手した経緯について、次のような談話を掲載してある。

「平相銀を円滑に合併できた住友銀行が、お世話になった犲嬶薛瓩岩間カントリークラブの譲渡だったんだ。太平洋クラブを管理下に置いた住銀から、48億円で岩間開発を売却された東京佐川急便は、更に周辺一帯の土地買収を進めて、ゴルフ場を完成させた」(『マネーの闇』(角川oneテーマ)p.89参照)

となる。こちらの一橋著に掲載された元検察関係者の弁になると、石井が動いていたのは住友銀行の意向に沿っての動きであった事となり、石井は主謀者としてではなく、プレーヤーとして動いていた事になる。石井を動かしていたのは住友銀行であり、その住銀による救済合併をサポートしていたのも大蔵省ではなかったのかという牋猫瓩鰊韻辰討靴泙ο辰砲覆襦この平和相互銀行事件は、検察の捜査も尻切れトンボ状態のまま打ち切られており、何かしらの政治的圧力が平和相互銀行の住銀の吸収劇の裏側にあったように見える。)

また、その元検察関係者の弁とも少し異なるニュアンスを一橋は触れており、石井は小宮山一族から川崎定徳⇒イトマンを経由して平相銀を住銀に吸収させる中で暗躍し、その過程で巧妙にカネ儲けに成功している。

併記したものの、それでいてどちらも或る意味では正しいと思われ、住銀による平相銀の救済合併劇の一連、その裏側の主人公として登場するのが「石井隆匡」なのだ。住友銀行や大蔵省が石井をコントロールできていたのかと問い返すと、それは違うんですよね。石井はプレイヤーとして参戦していながら、石井の動向は誰にもコントロールされていない。

その難解な部分に踏み込むと、石井はカミソリ伊坂らの当時の平相銀を守る役割として、平和相互銀行事件に介入していた。伊坂についていたのだから住友銀行が平相銀を最終的に救済合併したという事件の結果だけを見ると、石井は、この闇紳士バトルロイヤルの中での敗者のようにも映る。しかし、そうではないのは歴然なのだ。石井は平相銀系列だった岩間カントリークラブのまんまと手に入れており、どこかのタイミングで伊坂側から住友銀行側に乗り換えていた可能性が高いのだ。一橋文哉著『マネーの闇』に拠れば、石井を住銀側へ寝返らせた人物を「岸信介」としている。つまり、石井は当初は伊坂側として反住銀で戦っていたが途中から住銀側へ寝返り、そこで好き放題に地下マネーを食らったという可能性が高いのだ。

石井の、そういう行動に「最強の経済ヤクザ」のスケールの大きさを垣間見れる。しかも、これら石井が絡んだ経済事件が起こっていたタイミングというのは、実は山一抗争の仲裁に当たっていた時期とダブっていたり、石井の稲川会二代目を継承した時期とも重なっており、更には竹下登ほめ殺し事件とも重なるのだ。

稲川会の初代会長である稲川聖城は任侠ヤクザの意味でカリスマ的な存在である。一方で二代目の石井については「経済ヤクザ」として括られ、さほど知名度が高くないものの、一橋文哉は、この時期の石井隆匡を児玉誉士夫亡き後の「ニッポンの黒幕」、その継承者であったという風にも綴っている。仮に日本の黒幕史を黒幕史として作成した場合、最後のニッポンの黒幕は、この最強の経済ヤクザ・石井隆匡ではなかったか――。

この一連の平和相互銀行事件の顛末というのは最終的には住友銀行が東京進出の絶好の足掛かりとなる平相銀の救済合併に成功した。最も利益を得たのは誰か、最終的な勝者は誰であったのかという素朴な疑問が残る。おそらく多くの者は結果からして住銀が平相銀を手に入れたのだから住銀が勝者であったのだろうと考える。しかし、闇は深い。住友銀行は平相銀を吸収合併した後、思いの外、平相銀が抱えていた回収不能の不良債権の多さに直面させられたという。実際に住銀が平相銀を合併してみると公表されていた額の2倍以上、6千億円もの回収不能レベルの不良債権があり、その不良債権も住銀は引き取らされたのだ。苦慮して処理すべき不良債権額は4千億円になったが、住銀の目論見通りではなかったのだ。

そのカラクリはカミソリ伊坂重信らの平相銀乗っ取り組が食いつぶした事態に加え、それとは別に途中から合併劇に乱入してきた石井隆匡や宅見勝をはじめとする闇紳士らが「住銀が平相銀を合併する」を前提に平相銀の食いつぶしをやっていたからであるという。「食いつぶし」について念を押すと、「平相銀はどうせ住銀が合併するんだろ? だったら平相銀は今のうちにデタラメな担保でカネ貸してしまえや!」のような自爆が出来てしまい、実際に「食いつぶせた」という事である。

平相銀事件は闇紳士がオールスターズで参戦した合併劇だったのですが、その真の勝者は住友銀行であっただろうか? よくよく眺めてみると住友銀行は4千億円もの不良債権を掴まされているという側面があるのだ。当時の住友銀行は都銀の中でも収益率トップを独走していたが、この平相銀の救済合併に成功した後、収益率は第5位に転落している。不良債権という爆弾をツカマされたとも考えられるのだ。となると、やはり、真の勝者は石井隆匡と宅見勝という経済ヤクザの両巨頭であったような構図が見えてくる。石井の場合は北祥産業を経由した形で具体的に岩間カントリークラブを手に入れ、その岩間カントリークラブを武器に次なる一手を展開させている。宅見については謎が多いものの許永中らと連携しながら、当時の山口組には二千億円程度の巨額の利益を上げたのではないかと目されているという。

1986年(昭和59年)10月、平和相互銀行は住友銀行に救済合併されるという決着で終幕した。今一度、交錯した時間軸を整理すると、山一抗争の仲裁役は現在進行形であり、この五ヵ月前となる1986年年5月に石井は稲川会二代目の継承式を済ませていた、その頃である。


1987年(昭和60年)、竹下登は日本皇民党による「ほめ殺し」街宣活動に手を焼いていた。同年春頃から永田町付近での執拗なホメ殺し街宣活動が展開され、竹下派(当時の創世会で、経世会の前身)議員や、その他の自民党議員も日本皇民党の説得に躍起になっていた。明らかになっているだけでも金丸信、森喜朗、梶山静六、浜田幸一らが説得工作をしていたが説得は難航。

中曽根康弘が後継総理を指名するという事になっていたが、当時の自由民主党はニューリーダーとして竹下登、安倍信太郎、宮沢喜一が争っていたが、後継指名をする中曽根は「右翼団体の街宣も止められない者を次期総理に指名できない」と竹下にプレッシャーをかけていたという。皇民党を説得する為に20億円、30億円という巨額を提示したが皇民党の稲本虎翁総裁は折れる気をみせず、という最悪の状況になっていた。

同年9月末日、金丸信は東京・赤坂の日商岩井ビル19階の高級レストランで、東京佐川急便の渡辺広康社長と会食していた。その会食の席で、金丸が渡辺に「力を貸してくれ」と持ち掛けた。そう持ち掛けられた渡辺は「石井会長に正式に頼んでみますか?」と応じたという。そこで東京佐川急便の渡辺社長が出した「石井会長」とは、勿論、石井隆匡を指しており、金丸も一瞬、躊躇した。しかし、その席で金丸は渡辺を通じて石井にホメ殺しの仲介役を頼むことにしたという。

前述したように東京佐川の渡辺社長と稲川会の石井会長とは、中々、強い繋がりがあった。しかし、渡辺は石井にトラブル解決をお願いする場合でも、北祥産業を通していたという。渡辺から北祥産業の庄司宗信に電話で皇民党説得の依頼が入り、庄司が石井に、その旨を連絡した。石井は当初、突っぱねたという。稲川会という組織の前身は錦政会であり、その組織の性格からして右翼色が強い上に先代に当たる稲川聖城は児玉誉士夫を尊敬していたとも言われ、イデオロギー的にはそちらの系統であり、ヤクザ特有の盃の論理からしても「田中角栄という親を裏切った竹下登という子」は本来であれば稲川会のカラーとは異なる。兄弟分を破門させたくない為に一晩のうちに断指をしてみせたという古くさい価値感の持ち主でもあり、当初は固辞したという。何故、オレが竹下登を助けにゃならんのか――と。

しかし、最終的に石井は、この竹下登ホメ殺し騒動の仲介役をも請け負った。

石井は既にこの時点でツテがあった。日本皇民党の稲本総裁は、会津小鉄会系荒虎千本組の三神忠と仲がいい事を数ヵ月前に目の前で目撃し、紹介されていた。石井と、その三神忠との仲は1964年頃からという古い古い仲で、石井が趣味の寺社仏閣巡りをする為に奈良や京都へ行く仲で知り合ったという。石井にして三神忠は「ターちゃん」と呼ぶほどの仲であり、一方の三神の事務所には石井の写真が飾ってあるほどの仲であったという。

三神忠が後(平成2年)に組長となる荒虎千本組は会津小鉄会の二次団体で、代々、京都は太秦(うずまさ)周辺を縄張りにしており、映画界とも密接な関係にあるという。笹井末三郎三代目は、無政府主義者として知られる大杉栄と兄弟盃を交わしたとされる異色のヤクザであった。その笹井末三郎を継承して荒虎千本組の組長になったのが三神忠であり、継承の際には石井隆匡が特別検分役を務めたともいう。(山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』p.425)

石井が三神に電話を入れ、三神が稲本に電話を入れた。当初は稲本が断わった為に三神を通じて石井に返答があり、石井は東京佐川の渡辺に電話で交渉決裂を伝えた。しかし、渡辺は再度の要請をした。

その渡辺からの再要請を受けて、石井は手を変える。稲川会傘下の右翼団体である大行社の三本菅啓二(さんぽんすげけいじ)理事長を先ず皇民党に接触させ、アポイントを取りつけたという。三本菅は大阪のホテルで稲本に会い、一時間ほどで稲本に「石井会長と会うように」という約束を取り付けさせたという。稲本の態度は硬かったが、稲本虎翁は山口組系白神組の出身であり、宅見勝とも兄弟分であり、その構図からして稲川会二代目会長の要請はさすがに固辞できなかったものと推測されるという。(単純な意味でも超大物の要請であったが、稲川聖城が田岡三代目の葬儀を仕切り、且つ、石井隆匡は四代目候補だった山本健一の兄弟分であり、稲川会と山口組とは親戚関係でもある。)

同年10月2日夜、東京・赤坂プリンスホテルのロビーラウンジに稲本が降りていったところ、そのタイミングで石井は三神を帯同してやって来たので、そのままロビーラウンジで話し合いが行なわれたという。(本来は部屋で話し合う予定であった。)

そして、その席で竹下登ホメ殺し街宣の中止の条件として稲本が提示したのが、「竹下登に田中角栄邸へ行かせ、詫びを入れされる事」というものだった。同年元旦、竹下登は田中角栄邸に新年の挨拶に出向いたが門前払いに遭っており、田中角栄邸に行き、挨拶を済ませる事はそれなりにハードルの高い条件であった。しかし、それこそがホメ殺し中止の絶対条件であったのだ。

電撃的に10月3日、早朝に竹下登が田中角栄邸に総裁選出馬の挨拶に行くというシナリオが出来上がった。実際に3日早朝に竹下登を乗せたクルマは目白の田中角栄邸に向かっていたが、報道陣が集まっていたので引き返した。多くの報道陣の前で門前払いを受ける姿を晒すことは、次期総理を狙う竹下登にとっては屈辱的でもあった。(このとき、実は稲本皇民党総裁本人がTBSへ、三神忠が知り合いの朝日ジャーナルの記者に事前にリークしていたという。目的は、竹下登に恥をかかせることであった?)

竹下の田中邸詣でが流れた事で、石井の元に三神から抗議の電話が入った。三神は石井に「男と男の約束じゃないですか」と不満を口にしたという。しかし、そう言われた石井は冷静であったようで「必ず実行させる。しかし、会えないかも知れないよ。門前払いでもいいんだね?」と確認を取り付けた。そして、その旨を渡辺に伝える。その渡辺が更に金丸信に伝える。金丸は「必ず行かせる。火曜日、6日の朝だ」と確約する。

かくして10月6日朝、報道陣らが取り囲む中で、竹下登は小沢一郎を伴なって田中邸を訪問した。邸内に入ることは許されず、その門前で田中邸に自由に出入りが許されていた参議院議員を相手に約30秒間ほど総裁選出馬の挨拶を果たした。

これによってホメ殺し騒動は終結した。一説には稲川会や日本皇民党には一切のカネは渡らなかったといわれるが、また一説に東京佐川の渡辺が石井に10億円を支払い、その10億円の中から3〜5億円が日本皇民党に渡ったという説もあるという。


追記:皇民党事件(ホメ殺し騒動)の一連そのものとは直接的な関係は無いものの、右翼テロにまで広げてしまうと赤報隊事件も同じような時期に発生していた。
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拙ブログ「政治とテロルと地下マネーの時代」
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石井隆匡の元には、2つの仕手集団と繋がっていた。一つは相場師として人気を集めた加藤繊覆とうあきら)が率いる誠備グループ。もう一つは、小谷光浩(こたにみつひろ)の率いる光進であった。

小谷は元々は大和証券に勤めていた人物であるが、その後に「コーリン産業」(これが後に光進に改称)を起こす。クボタハウスと代理店契約を結び、大阪で建売住宅を売った。後に東京に進出すると、三井不動産が進めていた開園前の東京ディズニーランド周辺の住宅販売に関わり、手を広げた。その後にホテル経営の為にサンルート総合開発とサンルート東海を設立。その後、株の買い占めを仕掛けるようになった人物だという。

小谷はタイムレコーダー最大手のアマノ株の大量買いを手始めに、三菱電機系の協栄産業株を大量に買ったという。その後にゴルフ会員権の売買で大儲けし、飛鳥建設、蛇の目ミシン工業、藤田観光、国際航業、養命酒酒造、小糸製作所などの株を次から次へと買い占め、光進の名を轟かせた。その光進による株の買い占めと、稲川会二代目会長・石井との接点は、蛇の目ミシン工業で明らかになる。

1987年(昭和62年)6月、小谷光浩は蛇の目ミシンの株式を大量に保有し、蛇の目ミシン株を手放す気がないこと、蛇の目ミシン社の経営に参加する意志があることを訴え、同月の株主総会に於いて蛇の目ミシンの取締役に就任した。既に、この頃には小谷の光進は仕手集団としてマスコミから取り上げられる事もあった。大量に株を買い漁っては売り逃げしたり、もしくは大量に買った株式をその会社に買い取らせるという手法で荒稼ぎをしていた為に、その手法が追及されていたのだ。

1988年(昭和63年)3月末を以って、コーリン産業の代表取締役を辞任し、コーリン産業も光進へと商号を変更する。しかし、裏では小谷は相変わらずに活発に動いていた。それまで小谷光浩の近辺にはキーパーソンが2名あった。富嶋次郎と北見義郎であった。富嶋は東京は浅草の名門テキヤ組織の元組員であったが電気工事店の見習いを経て、茨城県で電気店を立ち上げた人物であるという。官庁関係の指定工事業者となり、茨城県下でも相応に大きな電気店であったという。一方の北見義郎はというと父親が全国テキヤ連盟会長の子分であったといい、北見自身は大学まで出て公認会計士になった人物であるが、その父親の関係で交友関係は住吉会系のヤクザや、右翼関係者が多い人物であったという。そして、このコーリン産業から光進への商号変更する頃に富嶋次郎は小谷と手を切った。

1988年(昭和63年)5月、小谷は資金繰りに苦慮するようになっていた。小谷は乗っ取りを仕掛ける為に常に膨大な資金を必要としていたが、それらの資金もまた購入した株式を担保にしてノンバンクから借入れをしていたのだ。その中でも最も小谷が借入れが多かったのが竹井博友の地産グループ系のノンバンクであった。竹井の地産グループもバブル期に次から次へと企業を地産グループに引き入れていった人物であるが、竹井の手法は少し変則的で、仕手集団に対して株券を担保に融資し、その貸出先の仕手集団が仕手戦に失敗したときに担保流れとなる株式を入手するという手法であった。この頃、光進の小谷は地産グループ系ファイナンスへの金利の支払いや一部資金の返済期限が迫り、苦慮していたという。

そのピンチを脱するべく、小谷は一計を講じた。蛇の目ミシン社は、埼玉銀行(現在のりそな銀グループ)と親戚関係にあり、同社の常務取締役経理部長というポストは埼玉銀行出身者が務め、同時に埼玉銀行の副頭取が蛇の目ミシン社の非常勤監査役になることが定式化している関係であった。つまり、蛇の目ミシンの経営陣には実際に埼玉銀行に所縁のある人物が多かったのだ。

それを熟知していた小谷は、埼玉銀行出身で次の蛇の目社の社長就任が決定していた常任顧問・森田暁(もりたさとる)に持ち掛けた。小谷は「自らが保有する蛇の目ミシン株700万株を担保に埼玉銀行200億円の融資の話を通してくれ」と森田顧問に頼んだ。

蛇の目ミシン側からすれば悪い話ではなかった。小谷が担保にするといっているのは自社株であり、株を買い取れれば、安定すると思ったという。(裏返すと、小谷に持たれている状態だと売り抜かれる可能性がある。)森田顧問は小谷の申し出を埼玉銀行東京本部に繋いだ。しかし、埼玉銀行は中々、返答をしなかったという。

一週間ほど経過したが森田顧問から小谷への返答は無かった。地産グループ系ファイナンスへの償還期限が迫っていた小谷は焦れて、蛇の目ミシン社へ乗り込んで森田顧問に埼玉銀行からの融資の件がどうなったのかを、激しい口調で問い質した。森田顧問が埼玉銀行からの猜峪待ち状態瓩任△襪海箸鮴睫世靴拭すると今度は小谷は森田顧問が地産の竹井博友と顔見知りである事に気付き、森田顧問の口利きがあれば地産グループ系ファイナンスから更に融資を受けられると気付き、森田顧問に取次を頼む。

1988年(昭和63年)7月、小谷は蛇の目ミシン株340万株を担保にして竹井の地産から100億円の調達に成功する。森田顧問は元埼玉銀行筆頭副頭取であり、竹井博友と面識があり、森田顧問からの電話仲介が功を奏した。

1988年8月、小谷は再び蛇の目ミシン本社にやって来て「(蛇の目ミシン株を担保に)300億円を融資して欲しい」という具合に駆け込んでくる。蛇の目ミシン側は、融資ではなく、この機会に小谷から株式を買い戻そうと、株式の買い取り話の方向へと水を向けた。すると、小谷は4,500万株を買い取るのであれば額面2,000円でいいと話に乗って来た。2,000円の株が4,500万株という事は総額900億円の話であったが、蛇の目ミシン側としては悪い話ではなかったので、この話も埼玉銀行へ通した。しかし、埼玉銀行の結論はノーであった。

1988年9月、再び小谷から700万株を担保に200億円の融資の請求があったが、これにも埼玉銀行は応じず、小谷は前回と同じように、再び地産グループから200億円の融資を得た。

1988年10月、とうとう小谷は埼玉銀行東京本部に足を運んだ。今度は埼玉銀行に直接、蛇の目ミシン株の譲渡を持ちかけた。

この頃、資金繰りに喘ぐ小谷光浩には北見義郎との確執があった。北見は小谷の片腕として国際航業株の買収に手を貸し成功させてきたが、北見の報酬分の30億円を小谷は支払えないでいた。執拗に30億円の支払いを求める北見に対して、それを踏み倒そうとする小谷という構図があった。

そのトラブルに稲川会系暴力団が介入してくる。北見の側に稲川会系の或る総長から電話が入り、その仲裁話は「石井会長(稲川会二代目石井隆匡)たっての申し立てで、伝言を授かった」と前置きした。その後に、石井が出しているという仲裁案が説明された。北見に対しては30億円の支払いを約束する。その代わりに国際航業株から一切の手を引けというものであった。小谷が石井隆匡に泣きついたらしく、翻って、この時期から光進の小谷は稲川会の石井と関係を構築していったように推測ができる。


1989年(平成元年)4月、石井は岩間カントリークラブの「会員資格保証金預かり証」なるものを発行し、384億円を集めた。「会員資格保証金預かり証」(以下、「預かり証」)なる代物は錬金術に近いもので、つまり、会員資格保証金を集め、その保証金を預かっている事に対して「預かり証」を発行した金融商品らしく、何が何だか分からない代物でもあるが、それでカネを掻き集める事にした。その「預かり証」の発行を進言したのは仕手集団・光進の小谷光浩であったという。(小谷は仕手筋となって以降、3億円で購入したゴルフ場でゴルフ会員権を販売し、見事に30億円を儲けたという過去があり、そうした才能に長けていたのだ。)

「預かり証」は川崎定徳の佐藤茂社長名義で発行され、その「預かり証」にはて小谷の光進、加藤の誠備グループ、それと東京佐川急便といった石井コネクションの他、ゼネコンの間組(現在のハザマ)、青木建設(現在の青木あすなろ建設)、野村證券、日興證券ら群がった。主な内訳は小谷の持ち会社であったケーエスジー社が70億円、青木建設が50億円などで石井の元には総額384億円が集まった。それとは別に、野村證券と日興証券からは系列ファイナンス会社を通して野村證券から160億円、日興證券から202億円の融資を得ていた。

角度を変えるとこうだ。石井が平相銀問題で入手した岩間カントリークラブが、更なるカネを生んだのだ。つまり、岩間カントリークラブをネタ元にして石井が掻き集めたカネは384億円の預かり証発行の額面と、融資として引き出した362億円であり、合わせると既に746億円にも上る。

石井は、その掻き集めた潤沢な資金を、なんと東京急行、東急電鉄株の買占めの軍資金に充てるという大博奕を打つのだ――。


1989年(平成元年)5月、蛇の目ミシン社にも、小谷を通して、その「預かり証」の購入話が持ち込まれる。(注:大下英治は会員証の売買が持ち込まれたとしているが、一方で一橋文哉によれば岩間カントリークラブは実は会員制ではないという。判然としないので、ここで持ち込まれた話は「預かり証」の購入話として話を進める。)しかし、蛇の目ミシン社は、岩間カントリークラブそのものが、稲川会、その石井二代目会長直属の企業舎弟である北祥産業の傘下にあることに気付き、拒否する。小谷は「オレのメンツをつぶすのか」と激怒したが、直ぐに怒りを鎮めたという。

1989年(平成元年)7月、パンチパーマをかけた大柄な男が蛇の目ミシン社の秘書室に「北祥産業の使いの者です」と名乗り、1メートル程度の長い箱に入った大きな一匹の鮭を「お中元です」と言って届けた。極めて謎めいた贈物であり、不気味な贈物であった。蛇の目ミシン側は副社長自らが北祥産業の庄司宗信社長宛てに御礼の電話を入れ、「みんなで分けて頂きます」と謝辞を述べた。蛇の目ミシン側では相手がヤクザであることにも気付いており、無碍な態度は取れなかったのだ。(因みに、映画「ゴッドファーザー」の中には関係者の命を断ったという証に魚を送るという不可思議なマフィアの習慣に触れられているという。)

すると翌日、またパンチパーマの大男が蛇の目ミシン社にやって来たという。その北祥産業の使いであると名乗る大男は「失礼しました。昨日は数を間違えまして」と、鮭が入った長箱を五つほど蛇の目ミシン社に置いていった――。
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小谷光浩は焦っていた。小谷の地産グループからの借入総額は966億円にも達しており、7月末までに200億円返済の期日が迫っていた。

1989年(平成元年)7月28日、蛇の目ミシン社へやってきた小谷は、森田暁社長(森田顧問が社長に就任したもの)に強い剣幕で一筆を迫った。蛇の目ミシン社が自社株を買い戻すという社長の念書があれば、地産グループに対して、何がしかの裏付けになると画策したのだ。森田社長は社長室に小谷を招き入れ、そこで念書をしたためた。

「貴殿所有の蛇の目ミシン工業の一千七百四十万株のファイナンスあるいは買い取りにつき蛇の目ミシンが責任をもって行ないます」

という文面であった。それを以って、一先ず7月末日に迫っていた返済期日を地産グループに延長させる材料とする為であった。

同月31日、蛇の目ミシン社の社長応接室では、森田社長が小谷の要望に応じて渋谷の地産本社へ出向き、200億円の返済期日の延期できた事で、「これでなんとかならないか?」と小谷に質していた。すると、小谷は意外な返答をする。

「もう延期はいい。竹井のところの966億円は全部返す。カネの段取りはできた。しかし、ヤバい筋からのもあるから、そっちで何とかできないかな。早く返事をしろ!」

というものだった。小谷の言わんとした「カネの段取りはできた」とは、「蛇の目ミシン株の引き取り先が見つかった」の意であり、その引き取り先の中には「ヤバい筋」も含まれているという脅しになっていた。

蛇の目ミシン側は埼玉銀行へ繋いで、小谷の保有する蛇の目ミシン株買い取りの融通がつかないか問い合わせたが埼玉銀行の回答は、やはり、ノーであった。

「埼玉銀行は無理だと言っています」

と返答すると、小谷は

「それではオレの株は全部、よそへ移る。それでは新大株主の登場だ! それでは新大株主に挨拶に来てもらおう」

と、あてつけがましく言い放ち、その場からどこかへ電話をかけた。その電話がホントに繋がっていたのか、あるいは小谷の自作自演の演技なのかは定かではない。小谷の電話が終わった後、蛇の目ミシン側の副社長が小谷に「(新大株主は)どこですか?」と尋ねた。すると、小谷は勿体つけるように間をおいてから、

「北祥産業だ」

と告げた。

しかし、蛇の目ミシン事件は単純には進行しない。シナリオは非常に入り組んでいるので、整理する必要があるのだ。

小谷は稲川会に対して蛇の目ミシンの株式1,740万株を売り渡す約束をしている。そして蛇の目ミシンの森田社長に書かせた念書が存在している事も、稲川会に伝えてあるというのだ。森田念書の文面は先に紹介した通りであり、額面は記されておらず、「貴殿所有の蛇の目ミシン一千七百四十万株のファイナンスおよび買い取りを、蛇の目ミシンが責任をもって行ないます」なのだ。つまり、蛇の目ミシン社は、稲川会から買取額面の指定のない1,740万株の株式を買い取らねばならいという状況に陥れられたのだった。

更に小谷の蛇の目ミシン社への揺さぶりは続く。稲川会が新大株主になるというのも悪夢であれば、稲川会から額面なしで1,740万株を買い取るのも悪夢である。稲川会への株式譲渡をキャンセルするから、そのキャンセル料として300億円を寄越せという要求に変わる。

1989年(平成元年)8月中旬、蛇の目ミシン役員の経営する企業を経由して、小谷の光進へ2回に分けて300億円の送金が為された。


石井隆匡の東急電鉄株の買い占めは続いていた。1989年(平成元年)11月の時点で東急株を3,170万株も保有していた。それは発行済み株式の3%相当を占め、既に大量保有株主になっていた。

石井による東急電鉄株の買い占めには色々な闇があるという。石井は同年4月〜8月にかけて430億円を投入して2,539万株と少しを野村證券と日興證券とを通して購入していた。購入価格は1株あたり1,700〜2,000円程度。それが同年11月中旬には過去最高値となる3,060円を記録するという高騰をみせたのだ。仮に石井が同年11月に東急株を売り抜けていたなら、僅か七か月間で1,000億円を超える利益が計上できたという。

東京電鉄株の異常高騰、その裏にあったのは野村證券であったという。同年10月頃、野村證券役員が東京と大阪で開催した大口投資家向けセミナーでは

「東急株は今後もどんどん上がる。年末には五千円を超える」

と自信満々に訴え、一般投資家向けのレポートでも東急株を推奨銘柄として挙げていたという。

それだけであれば偶然とも疑えるワケですが、後に株価操作疑惑が発生し、当時の大蔵省に調査結果がある。それによると、同年10月19日からの3営業日にかけて野村證券の全支店となる320店のうち、東急電鉄株の売買シェアが30%を超えた支店が164店あり、更に売買シェア50%を超えた支店が100店あったことが判明した。更に野村證券本店に於ける東急株の売買シェアは90%以上であったというから、現実的に考えるなら、これは株価操作疑惑ではなく、純然たる株価操作が行なわれた事例であった。(2年後、野村證券会長が国会に証人喚問を受けるまでの騒ぎとなり、「勧誘に行き過ぎがあったが、断じて株価操作はないと確信している」という答弁でウヤムヤなものであった。)


また、山一抗争は再燃し、狢萋鷦´畛外豺柿茲起こっていた。1987年(昭和63年)5月には一和会会長の山本広邸襲撃事件が起こった。山本邸に消火器爆弾と手榴弾が投げ入れられ、且つ、警戒中の警察官三名が自動小銃で銃撃され、重傷を負わせるという衝撃的な武力行使が行なわれた。1988年(平成元年)3月には一和会が解散することとなり、山一抗争は完全終結する。山口組と一和会との調停役は稲川会の石井隆匡と会津小鉄会の高山登久太郎であったが、途中から稲川会は石井に代わって稲川裕絋が重要な調停役を果たすことになった。この調停役を果たしたことで稲川裕絋は渡辺芳則との間で交流が深まり、後年、稲川会三代目と山口組五代目とのトップ同士による兄弟盃が交わされたという。

1987年(昭和63年)12月末の或る日、稲川会二代目会長の石井隆匡は自由民主党副総裁の金丸信と東京・千代田区一番町のとある料亭で会食したという。竹下登ホメ殺し騒動終結から実に一年以上の期間が開いているのは、要らぬ詮索を免れる為に時間をとったという事のよう。これが石井と金丸の初顔合わせであったという。当時の金丸は自民党に於ける実質的トップの存在だと呼ばれていた事を考慮すると、両者が会席していたというのは中々、衝撃的でもある。オモテの政治を仕切っていた金丸が、ウラ社会の黒幕にのし上がった石井とは実際に顔を合わせていたのだ。

両者は挨拶を交わすと金丸が石井に上座を勧めた。すると石井は

「いや、それはいけません。それなら私は帰らせていただきます」

と固辞し、見るからに品格のある石井の姿に金丸は驚いたという。その席の金丸は上機嫌だったといい、石井のことを「あなたこそ、真の任侠の人」と持ち上げたという。また、会食後に石井も

「政治家なんて気取っているヤツばかりと思っていたが、金丸さんというのはそこいらへんのオヤジみたいに気軽に話のできる人だな。けど、やはり只者じゃないな」

と洩らしていたという。


1989年(平成元年)11月下旬、石井隆匡の東急株を3170万株を買い占め、発行済み株式の3%を超え、東急株が過去最高値の3,060円を記録してから間もなく、石井はメキシコ・アカプルコで頭痛と手のシビレを起こした。石井隆匡の経済ヤクザとしての絶頂期、そのタイミングは同年11月中旬であったが、その11月末には病で倒れてしまったのだ。後に脳腫瘍と判明する。

1990年(平成2年)元旦、その日の一面トップに狆谷光浩瓩箸いμ樵阿狠譱昇康弘瓩箸いμ樵阿畔造鵑之悩椶気譴拭5事は中曽根元首相の側近に国際航業株10万株の相対取引が行なわれ、わずか一ヶ月の間に約1億2千万円の利ザヤが中曽根側近に渡っていた事を報じていた。

この国際航業という会社は既に小谷に乗っ取られていたが、国際航業には或る秘密があった。国際航業は、1947年(昭和22年)に飛行場関連不動産管理会社として設立された三路興業が前身。その後、1954年(昭和29年)に商号を国際航業に変更した会社であった。国際航業は国や都道府県が十年後、二十年後に予定している道路建設計画の測量が国際航業に依頼されるという特殊な事情を抱えていた官庁に極めて近い企業であったという。つまり、まだ事務官レベルでどこのエリアに道路建設の話が進められているかという情報を事前に知ることが出来る会社であった。事前にその道路建設予定地を購入してしまえば国に買い上げて貰えるから幾らでも儲けることが出来てしまうという特殊な事情を抱えた企業で、小谷は、その内部事情を知った上で株の買占めを仕掛けていたという。

1990年(平成2年)2月、石井は慶應義塾大学病院に入院、そのまま脳腫瘍の手術を受ける。退院後は熱海で静養生活に入る。既に、この頃から稲川会の会長職の禅譲について石井は語り出したという。

1990年(平成2年)3月、石井が闘病生活に入った中、小谷スキャンダルが拡大して、北祥産業の資金のネタが一部夕刊紙で報道される。記事は「稲川会二代目会長が経営している北祥産業が東急株の買占めを進めているが、その資金を有名運輸会社が債務保証の下に巨額の融資がなされている」旨であったという。(有名運輸会社とは東京佐川の事であるが、初期段階では実名は報道されなかった。)

1990年(平成2年)9月26日、金丸信が北朝鮮を訪朝、金日成主席と会談する。翌27日には「共同宣言」が発表された。その「共同宣言」の中には日本が朝鮮人民に与えた損失について謝罪し、償うべきだと認める文言が入っていた。そのニュースは日本国中の右翼団体の怒りを買い、マスコミも「土下座外交」と批判的に報じた。翌28日には東京佐川・渡辺広康から石井へと、金丸バッシング沈静化のお願いの陳情が入り、石井は了承、右翼関係者に金丸批判の手を緩めるよう働きかけたという。ホメ殺し騒動と同じように系列の右翼団体・大行社の三本菅が五つの右翼団体幹部に説得を試みた他、石井自らも静養中であったにもかかわらず、日本政治文化研究所理事長・西山広喜に電話を入れ、「金丸さん攻撃の件、なんとなか、穏便にしていただけないだろうか」と申し入れてきたので、昭和維新連盟へと電話を取り次いだという。結局、右翼団体への石井の仲裁はここでも機能し、右翼団体による組織的な金丸糾弾の動きは止まったという。(それとは別に金丸に対しては土下座外交への怒りから、栃木県で右翼関係者による発砲事件を受けた。)

1990年10月10日、稲川会は二代目体制を終えて三代目体制に入った。石井隆匡から稲川裕絋へと会長が継承されることとなり、同日、継承式が執り行われた。稲川会の会長職は初代・稲川聖城から石川隆匡へ、そして稲川裕絋へと継承されたが、稲川聖城の家系に戻された事になる。(暴力団と呼ばれる組織に於いて、実際に世襲されるのは実は非常に珍しいのだそうな。)

同年同月に、石井は意識混濁を起こし、慶應義塾病院に再入院する。ここでもタイミングを同じくして、大証券スキャンダルが火を噴く。石井が実質的な経営者である北祥産業が東急株買占めに充てていた資金の出どころが注目を集め、石井らの銀行口座も捜査の対象となった。野村證券の子会社である野村ファイナンスと、日興證券の子会社である日興クレジットから石井に合わせて360億円の振込が在った事が発覚し、証券スキャンダルとして一大騒動に発展してゆく。

1991年(平成3年)2月頃より、日本にバブル崩壊が始まる。石井隆匡にしても利息の支払いが滞り出し、瞬く間に巨額負債の返済不可能が確実となった。そのため巨額の債務保証を石井(北祥産業ほか)に対して行なってきた東京佐川急便はパニック状態となった。

渡辺広康は返済計画書の提出を求めたが、石井は本領を発揮する。石井の渡辺への返事は

「さらなる資金が必要だ!」

というもので、返済計画書の提出を黙殺し、カウンターパンチを見舞う。つまり、「返済してもらえませんか」と申し出てみたら、「カネが足りない。もっと貸してくれ」と応じたのだ。

石井が更なる債務保証を要求したので東京佐川は債務保証を上積みしたが、今度は正真正銘、東京佐川急便が倒産の危機に陥る。

1991年6月、野村證券の田淵義久社長と、日興證券の岩崎琢也社長は、それぞれ引責辞任へ追い込まれる。

1991年7月、東京佐川急便は渡辺広康を含めて幹部を全員解雇。東京佐川急便は佐川急便に吸収合併されることとなっていた。更に同月、渡辺ら東京佐川の幹部は検察から信義義務違反の容疑で起訴される。

1991年8月、田淵義久と岩崎琢也とが衆議院証券金融問題特別委員会にて証人喚問の席に引き出される。一連の証券スキャンダルの裏側に暴力団が絡んでいた事、それに証券会社も結託していたと世間は騒然となっていた。

1991(平成3年)年9月3日夕刻、慶応義塾大学病院に入院中であった石井隆匡は、その生涯を閉じた。享年は67歳であった。

石井が1989年11月にアカプルコで倒れて以降、実は石井が買占めを進めていた東急電鉄株の株価も徐々に下落に転じていた。東急電鉄株については株価操作疑惑があり、論者に拠っては前述したとおり、野村證券はクロが濃厚であったが、儲けさせたかった最大の人物であろう当の石井隆匡が東急電鉄株を売り損じているという問題が残った。この仕掛けられた東急電鉄株異常高騰の裏側には、石井隆匡の他にも誠備グループと光進、更には地産グループ、更には元祖「乗っ取り王」の横井英樹らも参戦しており、相応の時期に売り抜いていたが、石井は売り損じていたのだ。一説に、石井はカネ儲け目的ではなく、東急電鉄の大株主になりたかったのではないかという語り口もあるという。

1992年(平成4年)2月、渡辺広康ら東京佐川の幹部4名らを特別背任容疑で逮捕。闇に流れた東京佐川マネーがどこへ渡ったのかという追求に東京地検特捜部が乗り出す。

1992年(平成4年)9月、東京佐川急便から金丸信へ五億円の政治献金があったことが発覚、政治資金規正法違反で略式起訴されたが、罰金20万円という異例の軽い処分が話題になる。

以降、世論は猛反発し、金丸信は議員辞職に追い込まれ、自由民主党への不満と金権政治への怒りが爆発することとなり、日本新党の細川護熙を総理とする連立政権が誕生した。連立政権誕生により、自由民主党は実に38年ぶりに野党へ転落。しかし、数ヵ月もしないうちに細川護熙にも東京佐川急便から一億円の借入れがあった事が発覚、その細川政権はアッサリと転覆した。


さて、最後に少しだけ感想を――。

この稲川会二代目とは何者であったのか? 経済ヤクザといえば経済ヤクザであり、インテリヤクザといえばインテリヤクザであったのだと思う。しかし、それでは言葉は足りず、実は最後の最後まで石井隆匡とは「博奕打ち」であったのではないかという感慨が残る。それは、この一連を記すにあたり、石井の生涯に触れた山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』(幻冬舎アウトロー文庫)でも触れられている部分なのですが、その人間像を考えるに、それを否定しにくいと感じたから。

稲川聖城に始まる稲川会の伝統として、イデオロギー色が強く、且つ、仲裁役として事件に関与していくという手法があり、その最たるものが狎舒耄感瓩妨て取れる。稲川聖城の時代、モロッコの辰が大暴れをした後に、林喜十郎が相手に有利に交渉を持ちかけて、勢力を拡大させたという黄金パターンがあったと指摘されているし、実際に逸話からも、その黄金パターンを随所に見つける事ができる。「暴れ役」と「仲裁役」とを分担しているワケです。これがヤクザ稼業や右翼を評価するときに犂虧鬮瓩箸いι集修ある。西洋でも爛譽ぅ弌辞瓩箸いΩ斥佞あり、やはり、マフィアには、そうした犂虧鬮瓩顔役として機能する裏社会があるという。つまり、誰々が仲裁に乗り出したから解決するだろうという、その偶像が顔役であるワケですが、竹下登ホメ殺し騒動なんてのは完全に石井隆匡は顔役として登場しているのが分かる。山一抗争に於ける調停人というのも顔役ですね。「石井会長がそのように仲裁するのであれば従わざるを得ない」というような空気を醸造する。その役割を、いつも石井という人物が担っていた。まさしく影の実力者であり、裏社会の首領。仕手集団も総会屋といった連中も、真正面から稲川会会長と事を構える勇気はないワケで、従がわざるを得ない。

石井隆匡(石井進)には原則的にはヤクザ伝説にありがちな武勇伝が少ない。映画「修羅の群れ」の中でも、名高達郎が演じた石井の役どころであるイシザワは、「争いごとを好まない横須賀一家のイシザワ」として描かれている通り、大暴れをするタイプのヤクザではないのだ。では、ただのインテリであったのかというと、それも間違いであり、純然たるヤクザであったからこそ、兄弟分の為に小指を断ち、仲間が負けられない喧嘩をしているというと大勢の兵隊を連れて加勢するという具合に狎舒罩瓩箸いγ砲狼’修靴討い燭里分かる。石井の信心深さにも触れましたが、それは「北祥産業」の名称にも表れており、占い師の助言を信じ、自らが崇拝していた毘沙門天への憧れが【北祥】という社名になったという。毘沙門天で思い出したが、確かに石井の行動原理はどこか上杉謙信に似ていて義理堅いところがあるのだ。それは石塚義八郎の下で代貸を勤めていた頃、稲川聖城に見い出されて頭角を現した頃、自らが稲川会のトップに立ってからも基本的に、その行動原理は変わっていない事に気付かされる。晩年、金丸を助けているが、土下座外交後の金丸信に恩を売って金銭的利益が見込めたのかと考えると、それも難しく、石井自身の中に賭場を渡り歩いていた時代の博徒と呼ばれたヤクザの片鱗を垣間見たような気がしないでもない。

「何故、石井は東急電鉄株を売り抜けなかったのか?」

その問題が最後に残ってしまう。病気に倒れたのが第一の理由であるにしろ、一連を眺めてみると、石井の東急電鉄株買占めは、株を買占めて株価を吊り上げて利ザヤを稼ごうとしていたというよりも、むしろ博奕そのもの、奇想天外なスケールで石井が大博奕を打っていたかのような感慨も残る。石井に儲ける手口を教えたのは仕手筋の加藤と小谷である事は明白であるが、石井は最後まで自分自身が博奕の一プレイヤーでありたかったのではないか。博徒として「賭場から賭場へと歩く」という青春時代を送っていた石井の場合、まだ、そういう感覚を残していたのではないだろか。つまり、大博奕であったが故に、そもそも「売り抜く」というアタマを石井はハナッから持っていなかったのではないだろうか。石井は本気で東急電鉄を手に入れる大博奕をしていたのではないのか――と。



参考:山平重樹著『最強の経済ヤクザと呼ばれた男』(幻冬舎アウトロー文庫)、大下英治著『闇の支配者〜昭和、平成「経済事件」』(青思社)、一橋文哉著『「赤報隊」の正体』(新潮文庫)、森功著『許永中〜日本の闇を背負い続けた男』、一橋文哉著『マネーの闇』(角川oneテーマ21)、一橋文哉著『国家の闇』(角川oneテーマ21)、山平重樹著『伝説のヤクザ』(竹書房)ほか。



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