「最強の経済ヤクザ」の異名で現在も日本の黒幕史に名前を残している稲川会二代目会長・石井隆匡(いしいたかまさ)について――。
西暦1924年(大正13年)に東京府北千住郡南千住町に生まれたが、生まれて間もなく両親と共に神奈川県横須賀市に移り、両親は横須賀で蕎麦店を開業。後に稲川会の二代目会長となる石井は、蕎麦店「朝日庵」の息子として育った。
進学校として名高い旧制鎌倉中学へ進んだが修学旅行先の三重県で地元チンピラと喧嘩騒動を起こして中退。(ソースが曖昧ながら記憶では、確か刃物を使用して切りつけていたような逸話があったような…。)
1943年(昭和18年)頃から石井は横須賀海軍工廠で工員として働き、1944年から横須賀の海軍通信学校に入学。海軍通信学校では同期二百名中、成績はトップクラスで、1945年春には八丈島にあった人間魚雷「回天」隊の通信兵となり、死を意識していたが、そこで終戦を迎える。1945年の暮れには復員したという。
人間魚雷「回天」による特攻部隊は、搭乗員89名が戦死し、15名が訓練中に殉死、終戦時には2名が自決したという苛酷な部隊であり、通信兵であった石井にしても鮮烈に死を覚悟させられた体験であったと思われる。
海軍工廠で工員をしていたという石井は造船部設計係で働いており、既に一端の不良少年であったという。但し、この石井隆匡という人物は常に付き纏うのが信心深いインテリの面影であり、不良少年は不良少年なのだが既に、この頃より不思議な「静謐(せいひつ)さ」を携えていたという。ド派手に暴れ回る愚連隊全盛の時代に、その静謐さを持った一風変わった不良少年だったという。(旧制鎌倉中学自体が成績上位1割しか入学できない学校であり、且つ、同時に家庭に経済的余裕が無ければ入学できなかっと推測されるから、既にエリート路線から洩れて不良少年化したという、やや特異な経歴を持っているのが分かる。)
また、数奇な縁もあり、この横須賀海軍工廠には後に石井が「五分の盃」を交わすことになる相手、山本健一(後に山口組若頭となり、あの田岡一雄三代目体制山口組の、四代目候補となる人物)も、同時期に横須賀海軍工廠の航海実験部に在籍したという。とはいえ、当時の横須賀海軍工廠には8万人を超える人々が働いていたというから、勿論、石井も山本も互いに面識はなかったという。
また、横須賀工廠時代の石井は「横須賀の番長格」と呼ばれた田島軍司とは既に兄弟分であった。その田島は出征し、サイパン島で戦死しており、その関係で戦後に田島の舎弟が田島と親しかった石井の元へと集まってきた。田島から受け継いだ舎弟の一人が宮本廣志であった。
終戦直後の横須賀界隈では進駐軍兵士によるトラブルも多く、舎弟を連れて歩くようになっていた石井はトラブルの仲裁に入るなどしていたが、進駐軍兵士に囲まれて蹴飛ばされていた復員兵・広崎浄吉を助けた事が縁となり、「ジョー」こと広崎浄吉と知り合う。この広崎は神風特攻隊帰りであるといい、人呼んで「特攻帰りのジョー」であるが、このジョーは宮本の舎弟となり、石井の一統に加わることになる。
宮本は横須賀の不良界隈を統一すべく、別の有力な愚連隊である末次グループとの抗争をしていたが、その石井率いる愚連隊グループの親分となった石井はというと直接的には、その抗争に関与せずに賭場に出入りするようになる。石井は、その賭場で石塚義八郎という本職のヤクザの親分と顔見知りになっている。
しかし、ここで意外な展開が待っている。石塚義八郎は笹田照一の「若い衆」であり、その笹田はというと「横浜のライオン」と呼ばれていた人物で、横浜の港湾荷受業界の有力メンバーだったのだ。(ここは補足が必要で、なんといっても横浜の実力者は鶴岡政次郎ですが、その鶴岡政次郎、藤木幸太郎、加藤伝兵衛、笹田照一の四親分を以って「横浜の四親分」。その系譜は更に古く、鶴岡寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎らが形成した「鶴酒藤兄弟会」という戦前から港湾荷受業で横浜界隈でシマを張っていた系統のヤクザであった。今一度、おさらいしますが当時の情勢からすると、「横浜の四親分」の一人が笹田照一であり、その笹田照一の門下として石塚義八郎。
愚連隊抗争としては、石井グループの舎弟である宮下が末次グループと抗争をしていたが、その末次はというと石井義八郎の舎弟になっていた。で、末次グループは愚連隊抗争の果てに宮本の舎弟である広崎ジョーを拉致監禁し、そのジョーを人質にして宮本廣志を末次グループのアジトである「本寿寺」という寺に呼び出すという騒動を起こす。ずっと愚連隊抗争には直接に関わらなかった石井は、ここで立ち上がる。事情を知った石井は不良アメリカ兵から宮本が入手したというコルト45口径を懐に忍ばせて「オレが話をつけてきてやる」と言い出し、ここで石井が宮本に代わって末次グループの元へ乗り出すのだ。
事態は意外な顛末を辿る。石塚義八郎が出て来たのだ。見どころがあると思って末次を若い衆に取ったが、拉致して敵対する愚連隊のリーダーを誘き出そうとしていた末次の人質騒動、その事の次第を知って石塚義八郎は末次を破門にしていたのだ。その一件を機会にして、石井は石塚義八郎の舎弟となり、石井一統は20名程度の舎弟を引き連れて、石塚義八郎一門に入り、代貸(だいがし)となった。この石井が石塚一門に加わったことで、石塚一門の所帯はイッキに大きくなったという。
図式として説明すると、笹田照一親分傘下の横須賀一家石塚組の石井らの一統。とはいえ石塚組の中でも石井の率いる石井一統は石塚の屋台骨のような存在。それが「稲川会」と接触する前の石井隆匡の在り方だったのだ。
稲川会の初代会長となる稲川聖城(せいじょう)は、石井よりも10歳ほど年長であり、稲川聖城伝説は大下英治の著書『修羅の群れ』で知られている。稲川聖城の場合は堀井一家の加藤伝兵衛の若い衆となったが、やがて稲川の存在は鶴岡政次郎の目に止まり、鶴岡政次郎預かりの身となり、1949年(昭和24年)頃に熱海を中心にして真鶴までの一帯を縄張りにしていた山崎屋一家を継承する形で、稲川組を熱海に構える。熱海では不良外国人の一掃によって名を売る一方で、通称「横浜愚連隊四天王」と呼ばれた出口辰雄(モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎ら全員を配下に加えて快進撃を続けていた。
その横浜愚連隊四天王の面々は、歴とした稲川組に身を預ける存在でありながらも愚連隊時代の習性が抜けず、しばしば賭場を荒らしたという。やがて、その稲川組に身を置く横浜愚連隊四天王は笹田系の者たちとも揉め事を起こす。(この騒動の当時、吉永金吾は関東松田組であった。)横浜愚連隊出身の者たちが笹田系の博徒組織に果たし状を書き、国道一号線沿いの保土ヶ谷遊園地で大規模な決闘が行なわれることになっていたが、それが鶴岡政次郎の耳にまで届き、鶴岡親分の配下が仲介に入って横浜愚連隊と笹田系との「手打ち式」が行なわれた。土壇場で笹田系の面々は決闘場たる保土ヶ谷遊園地に現われなかったが、横浜愚連隊四天王の面々は数百の舎弟を引き連れて結集し、沿道には正規の決闘を見物せんと人々で溢れかえったという。愚連隊四天王は不良界のカリスマだったという。
既に、その時点で稲川聖城の元には出口辰雄、井上喜一が若い衆として入門していたが、その手打ちの後に吉永金吾、林喜一郎も稲川組に入門するという経緯を辿る。
笹田系の横須賀一家石塚組の下にあった石井隆匡は、そういう状況下で、稲川組に籍を持つ出口辰雄(モロッコ)と面識を持つ間柄になっていた。モロッコは石井に対して「俺の舎弟になれ」と要求するなど悶着を起こしている。石井は既に石塚組傘下であり、拒否している。このとき、石井の舎弟であった宮本廣志らは「モロッコの辰」出口辰雄の無礼な要求に怒り、「次にこんなことがあれば容赦なく撃ち殺す」と宣言していたという。
が、出口辰雄は極度のヒロポン中毒であった為に早逝する。その出口の葬儀に石井隆匡が趣き、そこで稲川聖城との関係が出来上がる。石井は事前に賭場上で稲川聖城の姿を目撃していたし、石塚義八郎からも噂話を聞かされていた。葬儀会場で、井上喜一が石井を見つけ、井上が石井を誘い食事の席を設ける。そこで既に稲川組の斬込隊長になっていた井上喜一から石井に対して、五分の兄弟になって欲しいという要望を受ける。石井は石塚義八郎に義理立てして直ぐには返事をしなかったが、石塚の方が廃業する事になるという奇縁によって、石井隆匡は井上喜一と五分兄弟となる。
1959年(昭和34年)に「稲川興業」の看板を掲げ、鶴岡政次郎の名前を拝借し、稲川会の前身となる「鶴政会」が同年結成され、石井隆匡も既に稲川一門に加わっていた為に鶴政会に連なることになった。この「鶴政会」が創設された時期に、笹田系の組織は「双愛会」を立ち上げており、石塚義八郎との義理を立てて笹田系に石井が残っていたなら双愛会になっていた可能性も有り得るという。石塚義八郎の廃業、井上喜一との兄弟盃といった出来事が、石井隆匡を稲川聖城に引き合わせている不思議がある。
また、この鶴政会旗揚げの年、石井は、稲川聖城から19歳の息子・裕絋を一人前の極道にする為に預かり、石井の自宅に住まわせるようになる。その稲川裕絋は稲川会の三代目会長になる人物である。因みに、この稲川裕絋の入門に聖城は猛反対していたが裕絋が無断で背中に刺青を彫ってしまい、半ば強引に石井隆匡について極道修行をしたと伝わる。裕絋は石井邸では「若」と呼ばれていたという。
1962年(昭和37年)、山梨県甲府を巡って、地元甲府の加賀美一派という勢力と鶴政会との間で甲府抗争が起こる。発端は鶴政会系横須賀一家川上組の川上三喜組長が甲府の町を遊興していたときに加賀美一派のチンピラが川上が襟元に光らせていた鶴政会のバッジを「こんなもん、つけやがって!」と鷲づかみにした事に端を発するという。川上組の若頭は甲府で30人近い連中に襲われた事を石井一統の元へ連絡してきた為に、石井は70名からなる兵隊を甲府に派遣する等、大きな騒動に発展する。この石井が派遣した70名部隊の中には「若」こと稲川裕絋も含まれている。裕絋が甲府遠征を志願した為であったという。石井は「若に万が一の事があったら…」と考えたが、自ら志願してくる裕絋に頼もしさを感じたという。
さて、甲府です。川上組長は自らイタリア製ベレッタ22口径を持って加賀美土建で待ち伏せて、加賀美一派のトップである加賀美良明に三発の銃弾を撃ち込むという報復劇となった。加賀美は一命を取り止めた。抗争を終わらせるべく鶴政会は元横浜愚連隊四天王一人として名を売った林喜一郎が病室の加賀美良明の元に出向き、加賀美良明に引退を迫り、そのまま加賀美の舎弟を鶴政会で預かる事で甲府抗争は終結する。鶴政会は甲府を手に入れた。
間もなく、大問題が発生する。石井と五分兄弟であり、石井を稲川聖城に引き合わせた井上喜一の破門騒動が起こる。井上が無断で「稲川」の名を使って関東の親分らを箱根あたりに集めて賭場を開帳、テラ銭を稼いでいたことによる。石井は突拍子もない行動を取る。翌日、石井は稲川聖城の元を訪れ、「これで兄弟(井上)の破門を許してやってもらえませんか」と、自ら切断した左小指を奥座敷のテーブルの上に置いた。この石井の左小指の断指によって井上喜一の破門は免れた。
しかし、再び井上喜一が問題を起こす。東声会会長の町井久之と揉め事を起こし、「町井をやる」と言い出し、石井にも声を掛けたのだ。猛牛を意味する「ファンソ」と呼ばれた町井久之は児玉誉士夫の覚え目出度い反共主義者の在日青年であったが、このトラブルの少し前に児玉が仲介となり、山口組の田岡一雄の盃を受けた人物であった。
石井隆匡という人物はインテリの経済ヤクザとして知られ、風貌は長身にしてロマンスグレーであり、まるで大学教授のようだと評される。実際に読書と寺社仏閣巡りとを趣味としており、真夜中に成田山新勝寺などに実際に参詣していた非常に信心深い人物像として知られている。しかし、兄弟分のことになると我を見失うのか、井上喜一からの連絡を受けると井上を疑わない。石井は井上を疑うこともなく、石井麾下の宮本廣志と広崎ジョーに東声会の町井久之の命を狙わせるのだ。
宮本とジョーとは町井を狙うべく五日間ほどの潜伏をするが、狆絖瓩諒で手打ちが行なわれた。児玉誉士夫が自宅に稲川聖城と町井久之とを呼び出し、和解させたという。このときに稲川聖城と町井久之は顔を合わせているが、共に喧嘩になっていることさえ自覚しておらず、一方的に井上喜一が暴走して喧嘩を起こしかけていたという事実が判明する。町井にして稲川に喧嘩を売る気はなかったのだが、井上が勝手に暴走して町井襲撃を石井らに持ちかけていたのだ。(井上が町井に対して「町井君」と呼んだ為に、町井が「君づけ」で呼んだ井上にカチンとしたという極々些細な揉め事があり、喧嘩する程の揉め事ではないという認識だったという。)この町井久之騒動によって井上喜一の破門は決定的になるが、それでも石井が「破門ではなく引退にして欲しい」と兄弟分を庇い、最終的に井上喜一は自発的な引退として渡世から足を洗う。
1963年(昭和38年)10月、鶴政会は錦政会に改称する。錦政会は政治結社として届けられたという。これには事情があり、以前から稲川聖城は児玉誉士夫を懇意にしており、且つ、東声会の町井久之との一件を経て、政治結社化したように見える。錦政会の顧問には児玉誉士夫を筆頭に、「室町将軍」という異名を取った右翼の三浦義一、北星会会長の岡村吾一、更には血盟団事件で井上準之助前大蔵大臣を暗殺した小沼正らの名前が並んだ。後の稲川会も右翼的性格の強さが窺えますが、それは錦政会時代に秘密があるよう。同年、39歳であった石井隆匡も錦政会の組織委員長に就任した。
(また、石井は正式に横須賀一家五代目を継承する。本来、横須賀一家四代目であるが石井がゲンを担ぎ、ずっと空白になっていた期間には別の親分を四代目に立てて、自らは五代目となった。)
錦政会となったものの、拡大路線を取る西の山口組とは協調路線を取りながらも岐阜で発生した岐阜抗争を起こしており、山口組の伝説的な人物である「ボンノ」こと菅谷組の菅谷政雄が横浜進出に乗り出していたり、水面下では一触即発の事態にあり、その仲介役としても児玉誉士夫が暗躍していたという。(児玉はヤクザ組織と右翼とを大同団結させ、反共運動に充てようと「東亜同友会構想」を掲げたが、これは流れた。)
1964年(昭和39年)には、いわゆる「頂上作戦」が始まり、東京五輪前から気運として盛り上がっていた暴力団取り締まりに拍車がかかり、同年の錦政会の逮捕者は401名にものぼった。翌1965年にかけて、錦政会は解散に追い込まれている。賭博は現行犯ではないと逮捕できなかったが組織暴力犯罪への取り締まりが強化され、現行犯ではなくとも逮捕できるようになった為であったという。
「もう賭博では商売にならない」と思った石井は、土建業「巽産業」を起こした――と。
西暦1924年(大正13年)に東京府北千住郡南千住町に生まれたが、生まれて間もなく両親と共に神奈川県横須賀市に移り、両親は横須賀で蕎麦店を開業。後に稲川会の二代目会長となる石井は、蕎麦店「朝日庵」の息子として育った。
進学校として名高い旧制鎌倉中学へ進んだが修学旅行先の三重県で地元チンピラと喧嘩騒動を起こして中退。(ソースが曖昧ながら記憶では、確か刃物を使用して切りつけていたような逸話があったような…。)
1943年(昭和18年)頃から石井は横須賀海軍工廠で工員として働き、1944年から横須賀の海軍通信学校に入学。海軍通信学校では同期二百名中、成績はトップクラスで、1945年春には八丈島にあった人間魚雷「回天」隊の通信兵となり、死を意識していたが、そこで終戦を迎える。1945年の暮れには復員したという。
人間魚雷「回天」による特攻部隊は、搭乗員89名が戦死し、15名が訓練中に殉死、終戦時には2名が自決したという苛酷な部隊であり、通信兵であった石井にしても鮮烈に死を覚悟させられた体験であったと思われる。
海軍工廠で工員をしていたという石井は造船部設計係で働いており、既に一端の不良少年であったという。但し、この石井隆匡という人物は常に付き纏うのが信心深いインテリの面影であり、不良少年は不良少年なのだが既に、この頃より不思議な「静謐(せいひつ)さ」を携えていたという。ド派手に暴れ回る愚連隊全盛の時代に、その静謐さを持った一風変わった不良少年だったという。(旧制鎌倉中学自体が成績上位1割しか入学できない学校であり、且つ、同時に家庭に経済的余裕が無ければ入学できなかっと推測されるから、既にエリート路線から洩れて不良少年化したという、やや特異な経歴を持っているのが分かる。)
また、数奇な縁もあり、この横須賀海軍工廠には後に石井が「五分の盃」を交わすことになる相手、山本健一(後に山口組若頭となり、あの田岡一雄三代目体制山口組の、四代目候補となる人物)も、同時期に横須賀海軍工廠の航海実験部に在籍したという。とはいえ、当時の横須賀海軍工廠には8万人を超える人々が働いていたというから、勿論、石井も山本も互いに面識はなかったという。
また、横須賀工廠時代の石井は「横須賀の番長格」と呼ばれた田島軍司とは既に兄弟分であった。その田島は出征し、サイパン島で戦死しており、その関係で戦後に田島の舎弟が田島と親しかった石井の元へと集まってきた。田島から受け継いだ舎弟の一人が宮本廣志であった。
終戦直後の横須賀界隈では進駐軍兵士によるトラブルも多く、舎弟を連れて歩くようになっていた石井はトラブルの仲裁に入るなどしていたが、進駐軍兵士に囲まれて蹴飛ばされていた復員兵・広崎浄吉を助けた事が縁となり、「ジョー」こと広崎浄吉と知り合う。この広崎は神風特攻隊帰りであるといい、人呼んで「特攻帰りのジョー」であるが、このジョーは宮本の舎弟となり、石井の一統に加わることになる。
宮本は横須賀の不良界隈を統一すべく、別の有力な愚連隊である末次グループとの抗争をしていたが、その石井率いる愚連隊グループの親分となった石井はというと直接的には、その抗争に関与せずに賭場に出入りするようになる。石井は、その賭場で石塚義八郎という本職のヤクザの親分と顔見知りになっている。
しかし、ここで意外な展開が待っている。石塚義八郎は笹田照一の「若い衆」であり、その笹田はというと「横浜のライオン」と呼ばれていた人物で、横浜の港湾荷受業界の有力メンバーだったのだ。(ここは補足が必要で、なんといっても横浜の実力者は鶴岡政次郎ですが、その鶴岡政次郎、藤木幸太郎、加藤伝兵衛、笹田照一の四親分を以って「横浜の四親分」。その系譜は更に古く、鶴岡寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎らが形成した「鶴酒藤兄弟会」という戦前から港湾荷受業で横浜界隈でシマを張っていた系統のヤクザであった。今一度、おさらいしますが当時の情勢からすると、「横浜の四親分」の一人が笹田照一であり、その笹田照一の門下として石塚義八郎。
愚連隊抗争としては、石井グループの舎弟である宮下が末次グループと抗争をしていたが、その末次はというと石井義八郎の舎弟になっていた。で、末次グループは愚連隊抗争の果てに宮本の舎弟である広崎ジョーを拉致監禁し、そのジョーを人質にして宮本廣志を末次グループのアジトである「本寿寺」という寺に呼び出すという騒動を起こす。ずっと愚連隊抗争には直接に関わらなかった石井は、ここで立ち上がる。事情を知った石井は不良アメリカ兵から宮本が入手したというコルト45口径を懐に忍ばせて「オレが話をつけてきてやる」と言い出し、ここで石井が宮本に代わって末次グループの元へ乗り出すのだ。
事態は意外な顛末を辿る。石塚義八郎が出て来たのだ。見どころがあると思って末次を若い衆に取ったが、拉致して敵対する愚連隊のリーダーを誘き出そうとしていた末次の人質騒動、その事の次第を知って石塚義八郎は末次を破門にしていたのだ。その一件を機会にして、石井は石塚義八郎の舎弟となり、石井一統は20名程度の舎弟を引き連れて、石塚義八郎一門に入り、代貸(だいがし)となった。この石井が石塚一門に加わったことで、石塚一門の所帯はイッキに大きくなったという。
図式として説明すると、笹田照一親分傘下の横須賀一家石塚組の石井らの一統。とはいえ石塚組の中でも石井の率いる石井一統は石塚の屋台骨のような存在。それが「稲川会」と接触する前の石井隆匡の在り方だったのだ。
稲川会の初代会長となる稲川聖城(せいじょう)は、石井よりも10歳ほど年長であり、稲川聖城伝説は大下英治の著書『修羅の群れ』で知られている。稲川聖城の場合は堀井一家の加藤伝兵衛の若い衆となったが、やがて稲川の存在は鶴岡政次郎の目に止まり、鶴岡政次郎預かりの身となり、1949年(昭和24年)頃に熱海を中心にして真鶴までの一帯を縄張りにしていた山崎屋一家を継承する形で、稲川組を熱海に構える。熱海では不良外国人の一掃によって名を売る一方で、通称「横浜愚連隊四天王」と呼ばれた出口辰雄(モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎ら全員を配下に加えて快進撃を続けていた。
その横浜愚連隊四天王の面々は、歴とした稲川組に身を預ける存在でありながらも愚連隊時代の習性が抜けず、しばしば賭場を荒らしたという。やがて、その稲川組に身を置く横浜愚連隊四天王は笹田系の者たちとも揉め事を起こす。(この騒動の当時、吉永金吾は関東松田組であった。)横浜愚連隊出身の者たちが笹田系の博徒組織に果たし状を書き、国道一号線沿いの保土ヶ谷遊園地で大規模な決闘が行なわれることになっていたが、それが鶴岡政次郎の耳にまで届き、鶴岡親分の配下が仲介に入って横浜愚連隊と笹田系との「手打ち式」が行なわれた。土壇場で笹田系の面々は決闘場たる保土ヶ谷遊園地に現われなかったが、横浜愚連隊四天王の面々は数百の舎弟を引き連れて結集し、沿道には正規の決闘を見物せんと人々で溢れかえったという。愚連隊四天王は不良界のカリスマだったという。
既に、その時点で稲川聖城の元には出口辰雄、井上喜一が若い衆として入門していたが、その手打ちの後に吉永金吾、林喜一郎も稲川組に入門するという経緯を辿る。
笹田系の横須賀一家石塚組の下にあった石井隆匡は、そういう状況下で、稲川組に籍を持つ出口辰雄(モロッコ)と面識を持つ間柄になっていた。モロッコは石井に対して「俺の舎弟になれ」と要求するなど悶着を起こしている。石井は既に石塚組傘下であり、拒否している。このとき、石井の舎弟であった宮本廣志らは「モロッコの辰」出口辰雄の無礼な要求に怒り、「次にこんなことがあれば容赦なく撃ち殺す」と宣言していたという。
が、出口辰雄は極度のヒロポン中毒であった為に早逝する。その出口の葬儀に石井隆匡が趣き、そこで稲川聖城との関係が出来上がる。石井は事前に賭場上で稲川聖城の姿を目撃していたし、石塚義八郎からも噂話を聞かされていた。葬儀会場で、井上喜一が石井を見つけ、井上が石井を誘い食事の席を設ける。そこで既に稲川組の斬込隊長になっていた井上喜一から石井に対して、五分の兄弟になって欲しいという要望を受ける。石井は石塚義八郎に義理立てして直ぐには返事をしなかったが、石塚の方が廃業する事になるという奇縁によって、石井隆匡は井上喜一と五分兄弟となる。
1959年(昭和34年)に「稲川興業」の看板を掲げ、鶴岡政次郎の名前を拝借し、稲川会の前身となる「鶴政会」が同年結成され、石井隆匡も既に稲川一門に加わっていた為に鶴政会に連なることになった。この「鶴政会」が創設された時期に、笹田系の組織は「双愛会」を立ち上げており、石塚義八郎との義理を立てて笹田系に石井が残っていたなら双愛会になっていた可能性も有り得るという。石塚義八郎の廃業、井上喜一との兄弟盃といった出来事が、石井隆匡を稲川聖城に引き合わせている不思議がある。
また、この鶴政会旗揚げの年、石井は、稲川聖城から19歳の息子・裕絋を一人前の極道にする為に預かり、石井の自宅に住まわせるようになる。その稲川裕絋は稲川会の三代目会長になる人物である。因みに、この稲川裕絋の入門に聖城は猛反対していたが裕絋が無断で背中に刺青を彫ってしまい、半ば強引に石井隆匡について極道修行をしたと伝わる。裕絋は石井邸では「若」と呼ばれていたという。
1962年(昭和37年)、山梨県甲府を巡って、地元甲府の加賀美一派という勢力と鶴政会との間で甲府抗争が起こる。発端は鶴政会系横須賀一家川上組の川上三喜組長が甲府の町を遊興していたときに加賀美一派のチンピラが川上が襟元に光らせていた鶴政会のバッジを「こんなもん、つけやがって!」と鷲づかみにした事に端を発するという。川上組の若頭は甲府で30人近い連中に襲われた事を石井一統の元へ連絡してきた為に、石井は70名からなる兵隊を甲府に派遣する等、大きな騒動に発展する。この石井が派遣した70名部隊の中には「若」こと稲川裕絋も含まれている。裕絋が甲府遠征を志願した為であったという。石井は「若に万が一の事があったら…」と考えたが、自ら志願してくる裕絋に頼もしさを感じたという。
さて、甲府です。川上組長は自らイタリア製ベレッタ22口径を持って加賀美土建で待ち伏せて、加賀美一派のトップである加賀美良明に三発の銃弾を撃ち込むという報復劇となった。加賀美は一命を取り止めた。抗争を終わらせるべく鶴政会は元横浜愚連隊四天王一人として名を売った林喜一郎が病室の加賀美良明の元に出向き、加賀美良明に引退を迫り、そのまま加賀美の舎弟を鶴政会で預かる事で甲府抗争は終結する。鶴政会は甲府を手に入れた。
間もなく、大問題が発生する。石井と五分兄弟であり、石井を稲川聖城に引き合わせた井上喜一の破門騒動が起こる。井上が無断で「稲川」の名を使って関東の親分らを箱根あたりに集めて賭場を開帳、テラ銭を稼いでいたことによる。石井は突拍子もない行動を取る。翌日、石井は稲川聖城の元を訪れ、「これで兄弟(井上)の破門を許してやってもらえませんか」と、自ら切断した左小指を奥座敷のテーブルの上に置いた。この石井の左小指の断指によって井上喜一の破門は免れた。
しかし、再び井上喜一が問題を起こす。東声会会長の町井久之と揉め事を起こし、「町井をやる」と言い出し、石井にも声を掛けたのだ。猛牛を意味する「ファンソ」と呼ばれた町井久之は児玉誉士夫の覚え目出度い反共主義者の在日青年であったが、このトラブルの少し前に児玉が仲介となり、山口組の田岡一雄の盃を受けた人物であった。
石井隆匡という人物はインテリの経済ヤクザとして知られ、風貌は長身にしてロマンスグレーであり、まるで大学教授のようだと評される。実際に読書と寺社仏閣巡りとを趣味としており、真夜中に成田山新勝寺などに実際に参詣していた非常に信心深い人物像として知られている。しかし、兄弟分のことになると我を見失うのか、井上喜一からの連絡を受けると井上を疑わない。石井は井上を疑うこともなく、石井麾下の宮本廣志と広崎ジョーに東声会の町井久之の命を狙わせるのだ。
宮本とジョーとは町井を狙うべく五日間ほどの潜伏をするが、狆絖瓩諒で手打ちが行なわれた。児玉誉士夫が自宅に稲川聖城と町井久之とを呼び出し、和解させたという。このときに稲川聖城と町井久之は顔を合わせているが、共に喧嘩になっていることさえ自覚しておらず、一方的に井上喜一が暴走して喧嘩を起こしかけていたという事実が判明する。町井にして稲川に喧嘩を売る気はなかったのだが、井上が勝手に暴走して町井襲撃を石井らに持ちかけていたのだ。(井上が町井に対して「町井君」と呼んだ為に、町井が「君づけ」で呼んだ井上にカチンとしたという極々些細な揉め事があり、喧嘩する程の揉め事ではないという認識だったという。)この町井久之騒動によって井上喜一の破門は決定的になるが、それでも石井が「破門ではなく引退にして欲しい」と兄弟分を庇い、最終的に井上喜一は自発的な引退として渡世から足を洗う。
1963年(昭和38年)10月、鶴政会は錦政会に改称する。錦政会は政治結社として届けられたという。これには事情があり、以前から稲川聖城は児玉誉士夫を懇意にしており、且つ、東声会の町井久之との一件を経て、政治結社化したように見える。錦政会の顧問には児玉誉士夫を筆頭に、「室町将軍」という異名を取った右翼の三浦義一、北星会会長の岡村吾一、更には血盟団事件で井上準之助前大蔵大臣を暗殺した小沼正らの名前が並んだ。後の稲川会も右翼的性格の強さが窺えますが、それは錦政会時代に秘密があるよう。同年、39歳であった石井隆匡も錦政会の組織委員長に就任した。
(また、石井は正式に横須賀一家五代目を継承する。本来、横須賀一家四代目であるが石井がゲンを担ぎ、ずっと空白になっていた期間には別の親分を四代目に立てて、自らは五代目となった。)
錦政会となったものの、拡大路線を取る西の山口組とは協調路線を取りながらも岐阜で発生した岐阜抗争を起こしており、山口組の伝説的な人物である「ボンノ」こと菅谷組の菅谷政雄が横浜進出に乗り出していたり、水面下では一触即発の事態にあり、その仲介役としても児玉誉士夫が暗躍していたという。(児玉はヤクザ組織と右翼とを大同団結させ、反共運動に充てようと「東亜同友会構想」を掲げたが、これは流れた。)
1964年(昭和39年)には、いわゆる「頂上作戦」が始まり、東京五輪前から気運として盛り上がっていた暴力団取り締まりに拍車がかかり、同年の錦政会の逮捕者は401名にものぼった。翌1965年にかけて、錦政会は解散に追い込まれている。賭博は現行犯ではないと逮捕できなかったが組織暴力犯罪への取り締まりが強化され、現行犯ではなくとも逮捕できるようになった為であったという。
「もう賭博では商売にならない」と思った石井は、土建業「巽産業」を起こした――と。