どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:事件・事故関連 > 連続企業爆破事件

偶然なのか昭和の時代の過激派関連の報道が続きました。一つは渋谷暴動事件で警察官を殺害したとして指名手配されていた大坂正明容疑者が46年もの歳月を経て逮捕されたというもの。もう一つは、大道寺将司死刑囚が病死したというものでした。

どちらも「過激派」なのですが、政治思想の背景としては大坂容疑者は新左翼に分類される中核派であり、大道寺死刑囚は新アナキズムとでも呼ぶべきもの。ただ、この派閥やグループというのは中身は曖昧で、「東アジア反日武装戦線」のリーダーが大道寺将司であるが、この東アジア反日武装戦線というのは、狼グループと、さそりグループと、大地の牙グループがあり、アナーキズムを地でゆくような比較的無統制な集団であった。各グループの構成員にしても3名程度の少人数であり、実際に、この東アジア反日武装戦線が仕掛けた倏弾戦争瓩蓮⊆尊櫃貌本を震撼させたし、戦後日本の思想史として並べた場合にも特異な思想テロ事件であったと思う。

余り語られない話だと思うので、この機会に触れると、先ず、この東アジア反日武装戦線というのは、その名の通り、反日思想という一点で結び付いているが、統制らしい統制はなく、アナーキズム原理を地で行くような組織であった。実際に赤色系の過激派はアジトらしいアジトを有しているが、アナーキズム系の思想は統制する事そのものを否定する気質があるので実際に、この東アジア反日武装戦線はアジトらしいアジトはなかったといい、この結成初期には各グループのリーダーが連絡を取り合う程度の繋がりしかなく、捜査陣泣かせの特殊な過激派であった。


◆大道寺夫妻

大道寺将司(だいどうじ・まさし)は1948年6月生まれで、北海道釧路港近くの生まれ。小学生の頃は閉じこもりがちな少年であったが中学に入ると成績はクラスで一番か二番という優等生であったという。その後も地元の名門高校に進学したが髪型はいつも短髪で詰襟制服のボタンもきちんとかけている真面目な生徒で、クラスメイトも地元住民も、一様に「模範生」のイメージしか持っていなかったという。

しかし、周囲が気付かぬ間にアナーキズムに傾倒していた事が分かっている。大阪外語大学に進学を希望するも失敗し、その翌年も大阪に残る。この浪人時代に1967年に羽田闘争で自分と同じ19歳という年齢の京大生がデモで死亡したというニュースを受けて大きなショックを受け、1968年に上京。四谷のラーメン店に就職しながらデモに参加するようになり、警棒で殴られるなどの経験もした。「社会主義研究会」なるもので法政大学の学生と知り合い、法大を受験するように勧めれた事がキッカケとなり、1969年に法大に入学している。

大道寺の初恋は高校時代の同級生であった。その女子生徒は成績がオールAで、クラス一の秀才。しかも性格がやさしいと評判で、母親のいない同級生が入院したときには実際に自分でサラダや手料理をつくって毎日のようにお見舞いに通っていたという。クラス一の秀才でありながらやさしい性格だという女子生徒は、多くの男子生徒から憧れられるマドンナ的な存在であったという。そのマドンナは高校の卒業式は卒業生総代として答辞を読み、薬剤師になって病気の人を助けるのだと競争率26倍の星薬科大学に推薦入学を果たしていた。その女子生徒の名は「駒沢あや子」であった。(これは後の大道寺あや子である。)

1969年の夏に大道寺将司は釧路に帰省し、そこで初恋の同級生・駒沢あや子と再会をした。聞けば東京の大学に通っており、学生寮に入っている事から、東京に戻ってからは、一緒に「社会主義研究会」に通うようになり、二人の距離は近づいた。1970年の春になると、駒沢あや子は学生寮を出て荏原の下宿に移り、その下宿には頻繁に大道寺将司が通うようになったという。そして、1973年、郷里の釧路で質素な結婚式を挙げた。

大道寺あや子は化学薬品会社に就職して薬剤師として臨床検査の試薬をつくる仕事に就き、大道寺将司は雑誌販売会社に就職した。

二人は釧路をきっかけに東京に戻ってからも、大道寺と駒沢あや子は一緒に「社会主義研究会」に出掛けるようなになった。社会主義研究会なる会合は土曜の夜から徹夜して日曜の朝まで続けられる研究会であったという。

この東アジア反日武装戦線のイデオロギーというのは、いわゆるボルシェビキの系譜の共産党イデオロギーとは関係がなく、そもそも統治機構は不要か最小限で充分ではないのかと思考する無政府主義思想(アナーキズム)の系譜で、しかも武力革命の必要性を強調して、実際に武力革命に身を投じた若者たちが構成員なんですね。当時は学生運動が盛んだったらしく、そこではセクト争いが激化していた。そのセクト争いに辟易とし、勿論、法政大学といえば学生運動が盛んな学風で知られますが、やはり、主導権を握っていたのは従来の左翼思想から一つ脱皮を図ろうとしする新左翼の中核派であったという。そんな中、大道寺は「今の学園紛争はセクト主義に走り過ぎている」と感じるようになり、おそらくは狹一武装戦線瓩箸い構想に到ったものと考えられる。

大道寺は、学内で開成中学、開成高校という東大、早稲田コースの進路を進めながらも、それでいて法政大学に在籍していた片岡利明と知り合う。二人は共に、学生運動のセクトの在り方、そのピラミッド型の組織運営に不満を抱いていた。一元的な管理体制を敷くというのはボルシェビキ型の組織運営であるワケですが、アナーキズム思想の場合は、思想的背景から同一組織内であってもピラミッド型や一元的管理体制をヨシとしない。大道寺と片岡はノンセクト、セクト問題を抜きにして全共闘運動を始めようと意気投合し、新宿西口のションベン横丁の居酒屋で酒を酌み交わすような関係に発展していった。(因みに、この片岡利明は元々は「ときわ台教会ベ平連に所属していた。「べ平連」とは、鶴見俊輔らが立ち上げていた「ベトナムに平和を!市民連合」の略で1974年に解散している。)

大道寺は全共闘に期待していたが、そこで展開されていたのは相変わらずのセクト間による主導権争いであった――。

1970年3月31日には、赤軍派の田宮高麿ら9名が、よど号ハイジャック事件を起こす。サブカル的な視座からすれば、この田宮高麿は「最後に確認しておこう。我々は、あしたのジョーである」という発言を残した人物でもあるワケですが、それが「よど号事件」が本当に意味していたものは、「日本国内で武力革命を成功させるのは困難であるから北朝鮮に亡命し、後に再上陸する」という意味でもあった。それに対して、大道寺が模索していたのは飽くまでも日本国内に於ける武力闘争、武力革命であった。

そして、大道寺は一つの、余りにも罪深い結論に到達した。(本人も晩年は改悛していたので、ホントは「してしまった」かな。)「機動隊を有する警察に武力闘争を仕掛けて勝利するにはどうすればいいのか?」と思案してゆくうちに、その悪魔的な、倏弾闘争瓩箸いΨ誅世鯑海出した。

これが東日本反日武装戦線のヤバさでしょうか。このニュアンスを今風に言い換えるなら、「ガチでやるのであれば、爆弾闘争だよな」的な、それですね。先日、取り上げた中村泰(なかむら・ひろし)は確かにゲリラ訓練を受けていたが、無差別テロは考えた形跡はなく、飽くまでも「一発の銃弾で歴史は変えられる」という要人テロ思考なんですね。しかし、東日本反日武装戦線の場合は、「銃弾」ではなく、「爆弾」を選択している。勿論、最初から一般人を標的にするような爆弾闘争を仕掛けたのではなく、要人テロや恫喝の武器にしての闘争を意味していたのですが、都市ゲリラ戦の手法としては、かなり過激な戦いを仕掛けてきた人々であるワケです。

政府に対して爆弾闘争を仕掛けるという構想で、最初は7名ほどが集まり、北海道の原野で爆破実験を行なった。しかし、爆弾を使用すれば死傷者を出すことになるであろうという思いから最終的には3名が去って、4名だけが残った。(キリスト教徒の片岡は爆弾を使用する事に心の整理がつかずに半年ほど去っていったが、後に戻っている。)

発足メンバーは、大道寺将司、大道寺あや子、片岡利明、それと、イニシャルFの僅か4名であった。


◆爆弾闘争の季節

爆弾闘争の火蓋を切って落としたのは、大道寺たちではなかった。この頃の過激派闘争はピークであり、他の左翼系の過激派によって、爆弾闘争の火蓋が切って落とされた。

1971年6月27日、沖縄返還協定反対闘争で、東京・明治公園で機動隊が赤軍派に鉄パイプ爆弾を投げつけられ、機動隊員26名が負傷を負った。それを皮切りに、交番爆破が数件続く。

1971年8月22日には警視総監公舎爆破未遂事件、警視庁大橋荘消火器爆弾事件が発生。

1971年9月18日、東京・高円寺駅前で、みかん缶詰爆弾が爆発する。

1971年9月22日、警視庁第四機動隊独身寮で時限爆弾が爆発する。

1971年9月25日、赤軍派が機関紙「赤い星」の中で、爆弾闘争への突入を宣言。

1971年10月18日、港区の日石本館地下郵便局にて、後藤田正晴・警察庁長官、今井栄文・新東京国際空港公団総裁、それぞれの自宅宛ての郵便小包が爆発し、郵便局員1名が負傷。

1971年10月24日、中野署および弥生町派出所ほか4件で爆発事件が起こる。

1971年12月18日、当時、警視庁警務部長であった土田國保邸に届いた小包が爆発。これによって民子夫人が死亡して、四男が重傷を負うという小包爆弾事件が発生。これは後に警察庁長官になった土田國保をターゲットにした爆弾事件であり、本格的に日本列島全体が爆弾戦争に巻き込まれた事を意味している。また、この土田は第70代警視総監として、連続企業爆破事件の見えない敵「東アジア武装戦線」と対決する人物でもある。

その僅か5日後の同年12月24日、クリスマスイブには新宿伊勢丹の脇、四谷警察追分派出所に置かれていたクリスマスツリー爆弾が爆発し、警官2名と市民10名が重軽傷を負った。このうちの警官一名は、左足を吹き飛ばされ、右目を失明、左手の指4本を失うという大怪我であった。(このクリスマスツリー爆弾事件では、鎌田俊彦、熊谷信幹らの黒ヘル、アナーキスト系の過激派が逮捕された。)


一方、それから3年ほど遅れた1974年から連続企業爆破事件を起こす大道寺たちのグループは、大道寺将司と片岡利明が爆弾の製造にあたっていたが、爆破実験をしてみるも不発であったり、思うように爆弾を製造できなかったという。

片岡は電気工作技術を身に付ける為に、1973年4月から東京都立赤羽高等職業訓練学校の機械科に入り、本格的な勉強をしている。爆弾の製造に必要な爆薬の種類、性質、また、爆体となる金属の威力、配線などの技術と、改造拳銃を製造する為に必要な旋盤技術や火薬調合の勉強も開始する。訓練校を卒業後は会社を転々としながらも機械工や設計助手として生活しており、しかも仕事熱心で休日出勤にもイヤな顔を一つ見せないので、社内での片岡の評判は高かったという。
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◆狼グループと腹腹時計

大道寺や片岡の周囲には、やはり、法政大学の学生であるイニシャルでM子という女子学生があった。M子はヘルメットをかぶってビラ配りをしており、狼グループのメンバーの一人であったが、M子は程なく脱退した。法政大学の学生であったが退学届を出して帰郷し、東北大学医療技術短大の看護科に入学した。M子は、何故、そんな選択をしたのかというと、自らの指針を発見した為であった。

狹豕でさまざな人間の生き方を見て、ショックを受けた。いろいろ考えた末、人間を対象にする看護婦という仕事に魅力を感じた。「人間の痛み」に生涯を捧げたい

元々、M子は宮城県出身で、両親ともに高校教師という家庭で育っており、当初は大学を出て高校教師になるという志を持って法政大学に入学していたが学園紛争の真っただ中であり、一時的に行動を共にしていたものの、大道寺や片岡にはついていけず、そればかりか「自分の生きるべき道」というものを発見したかのような、それであった。

もう一人のFは、爆破実験をしている頃からの狼グループのメンバーで、長野県の両親から「どうしても帰って来い」という要請を受けて、1971年の夏に実家に帰っていた。その為、連続企業爆破事件には関与はしていないという。

僅か3名になった狼グループは、大道寺が中心となって猜∧∋計瓠覆呂蕕呂蕕箸韻ぁ砲箸いη弾技術の解説と都市ゲリラ戦の兵法書らしきものを執筆した。1973年末に執筆して1974年2月下旬に印刷して、その後に左翼系書店に郵送した。物騒な話なので逆に「腹腹時計」に関心が向いてしまいそうですが、爆弾の技術的な解説書としては現在は価値はないものだという。どちらかというと、事件解決の糸口になったのが、この「腹腹時計」であり、そこに記されていた思想背景や、裏表紙に使用されていた写真が捜査の糸口となる左翼系出版社を割り出した事に拠るという。また、この東アジア反日武装戦線のテキストが「腹腹時計」であったワケですが、掻い摘んで述べると、一般人に完全に溶け込んで活動する事が都市ゲリラにとって重要であるという事柄が強調されており、実際に犯行声明文は「東アジア反日武装戦線」とあるが、当時の警察が把握していた過激派リストには名前が把握されていないグループ名で、存在しない、まるで目に見えない連中による犯行であったという意味では特殊な事件でもあった。

(こうした市民に溶け込んでしまう事を徹底した手口なんですが、後の色々な犯罪に似ているのかも。)

1974年2月、「腹腹時計」を刷り上げたのと同時期に、左翼系出版社レボルト社を通じて、大道寺は佐々木規夫と知り合いになり、佐々木をスカウトした。この佐々木は北海道小樽市の出身。筋金入りの活動家であり、北海道大学の学生ではなかったが、北大の全共闘に参加するなどの根っからの革命兵士思想の男であった。テレビ番組などでも度々紹介されている、アパートの一室、その床下に爆弾製造工場をつくっていたのは、この佐々木である。腹腹時計の教えを実行した人物でもあり、地下爆弾工場をつくる際には、南無妙法蓮華経という御題目のカセットテープを流し続ける程の用心深さであった。それには更にウラがあり、この頃の佐々木は創価学会に偽装入信届を提出して、その会合にも参加していたという徹底ぶりであった。

因みに「腹腹時計」にはフツウの生活人に徹する事、近所の住人とは広く浅く付き合う事を鉄則として最低でも挨拶はする事、経営者はタレコミをする場合があるので留意する事、閉鎖主義に陥らぬようして左翼的な粋がりをしない事、マスコミとの関係の一切を断つ事、酒を飲まぬ事――等々、かなり、具体的に都市ゲリラ工作員の日常に振る舞い方が説かれていたという。


◆大地の牙グループ

斎藤和(さいとう・のどか)は北海道室蘭市の出身。1947年11月生まれの長男であった。男児なのに【のどか】という名前は特徴的だが、それは親が「のどかで、穏やかに育って欲しい」という願いを込めて、そう名付けたという。やはり、少年期の斎藤は欠点のない模範生タイプの子であったという。創立されたばかりの道立室蘭東高校に進学し、同校の初代生徒会長を務め、成績トップで卒業。大学は東京都立大(いわゆる都立大)に進学した。

その都立大も学園紛争で慌ただしかったが、斎藤和は過激な無政府主義グループの「東京行動戦線」のメンバー26名の内の一人になっていた。しかし、1971年3月には大学を中退しており、そのまま家族とも音信不通とったという。

因みに、狼グループの佐々木規夫、その佐々木規夫の長兄も都立大で警察の捜査対象人物であった。左翼系出版社と表記されているレボルト社は佐々木の長兄と関係が深く、当初は佐々木の長兄こそがマークされていたが弟の佐々木規夫が東京行動戦線に参加していた。東京行動戦線は最盛期には42名が在籍しており、実は佐々木規夫も東京行動戦線の構成員であったという。

また、狼グループの佐々木規夫の場合は都立大の受験に失敗し、実家の行商を手伝いながら北海道大学の学園紛争に出入りしていたところを大道寺将司と知り合いになり、狼グループに加わっている。

この斎藤和は室蘭市出身であり、付近にアイヌ民族の集落があった。室蘭市では、中学を卒業したアイヌ子弟14人が地元企業から就職を拒否されるという、ちょっとした事件があり、その当時、中学生であった斎藤和は、「同じ日本人同士で、どうしてこんな馬鹿げた差別をするのだ」と学校や家庭で怒りをぶちまけていたという。実は、この斎藤和は、「いじめ」や「差別」といったものに対して強い反発を持ったとされるが、そんな体験が影響していると考えられるという。

斎藤和が一時期在籍していたという「東京行動戦線」は、この時代のアナーキストグループの指導的役割を果たした組織であった。先駆け的な存在で、1965年6月に結成され、アナーキスト系として全学連デモに加わり、デモ隊の先頭で機動隊と激しく衝突し、それをキッカケにして全学連を大暴動へと導こうと画策するような過激派グループ。その過激さから、非常に危険視されていたアナーキスト系組織であったという。

1967年2月28日に「無政府共産党」が旗揚げされ、「東京行動戦線」は、その前身組織だという。この斎藤和が「無政府共産党」に名を連ねていたのかどうは判然としないながらも、斎藤和は、後に新左翼指導者・太田竜が北海道静内町で起こしたシャクシャイン像の台座破損事件(1972年9月。「風雪の群像爆破事件」と表記される場合も。)に関与していたとされるので、東京行動戦線の後は、佐々木規夫らと一緒にアイヌ解放運動へと傾倒していったのが分かる。

つまり、大道寺にスカウトされた佐々木規夫。その佐々木規夫は斎藤和とは東京行動戦線OBという部分で繋がっていた。

東アジア反日武装戦線・大地の牙グループは、この斎藤和を中心にしているが、斎藤和と同棲関係にあって、この爆弾闘争に加わっていたのが浴田由紀子(えきだ・ゆきこ)であった。

浴田は山口県長門市出身であるが山陰本線の長門駅から13キロほど奥に入った20戸ほどの小さな集落の零細農家の長女であったという。1950年生まれ。この浴田は高校時代には周囲から「議論好きな少女」として評価され、クラスメートの男子に議論を吹っ掛けたり、得意にしていた化学の授業では教師をとっちめるような、気の強い女性生徒であったという。しかしながら、この浴田はゲバ学生に嫌悪感を持っており、ゲバ学生がいる大学には進学したくないと志望校を転々と変えて、最終的には北里大学衛生学部を選んでいた。

大学ではいつも一番前の席に座り、レポートも欠かさぬ真面目っぷりで、卒業試験の成績でも170人中10位と優秀であった。

ゲバ学生が嫌いという、この浴田が何故、東アジア反日武装戦線のメンバーになったのか? ここは単純に不思議ですが、先ず、大学三年のとき、この浴田のボーイフレンドが新宿東口交番に火炎瓶を投げ込いれたとして逮捕され、浴田は必死に裁判支援などをするようになったという。当時の浴田を知る旧友らに拠れば、そのボーイフレンドの身柄拘束をした国家権力に対して、何やら怒りの感情を募らせたのではないかと見ていたという。

大学を卒業後に42歳のミクロネシア人男性と同棲を始めるが、僅か半年後に、そのミクロネシア人男性は浴田を一人アパートに残して帰国してしまったという、悲恋を経験したという。その悲恋の後に、浴田の前に現われたのが、斎藤和であった。そのまま、斎藤和と親しくなり、思想に共鳴して東アジア反日武装戦線に参加してしまうのだ。

この浴田由紀子と斎藤和との関係というのは、ひょっとしたら、男女関係の目線で捉え直してみると違う側面も浮かんできそう。実は、斎藤和は、この浴田由紀子に対して本名を隠して、「タカシ」という偽名で交際を始め、かなりの長期にわたって「タカシ」という偽名が使用されていた可能性があるのだという。斎藤和と浴田由紀子が同棲するようになるのは、後述しますが、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」として、三井物産ビル爆破事件(1974年10月14日)を起こした後なのだという。


◆さそりグループ

さそりグループの中心人物は、黒川芳正で1948年生まれ。東京世田谷生まれながら、小学二年のときに父の転勤によって山口県防府市に転居し、その後は宇部市で高校を卒業。この黒川の少年時代は「おとなしい子」で、趣味はラジオの組み立てであり、どうやら印象の薄い少年であったよう。一浪して都立大に入学し、ここで学園紛争に傾倒した。1967年10月8日に発生した第一次羽田事件で、全学連が機動隊と衝突し、58名が逮捕されたが、その中の一人が黒川であった。1968年1月にも原子力空母エンタープライズ寄港阻止として、東京・飯田橋駅付近で学生らが機動隊に襲い掛かった事件が発生、131名が逮捕されたが、そこにも黒川がいたという。

都立大でもセクト争いは激しく、黒川自身も中核と行動を共にしていたが、後に一匹狼として「哲学闘争委員会」なるものを立ち上げて、ガリ版刷りのビラを配るようになったという。しかし、賛同は得られずに孤立し、大学に姿を見せぬようになり、1971年3月には授業料未納により除籍となった。論文なども多数執筆していたといい、連合赤軍批判、新左翼批判であったというから、或る意味では純正なアナーキズムを模索していた可能性もありそうですかね。

黒川は高田馬場の職業安定所に通っているときに、佐々木規夫と知り合ったという。そこで佐々木が大道寺の話を持ち出すと、黒川は飛びつく事となった。大道寺は「流動的労働者から革命は起きる」という持論を持っており、それを聞かされた黒川は、大道寺に共鳴した。(日雇雇い労働者など、窮民の救済というのが大正時代のアナーキズム思想にあり、その窮民救済思想に共鳴した。)

さそりグループは、この黒川の他に、明治学院大学の桐島聡と、イニシャルUから構成されている。この桐島とUの明治学院大生は、同和問題を通して、黒川芳正と知り合いになったという。桐島聡は広島県出身で1954年生まれ。「青春のすべてを犠牲にしてガリ勉になって何になるのか」等とクラスメートに語っていたというが、旧友らの評では「熱しやすく冷めやすい性格」であったという。同和問題の研究サークルで、Uと知り合いになり、そのまま、労務者が巣食う山谷に出入りしはじめて、桐島とUは、黒川と出会う。

イニシャルUはというと、1952年生まれで、出身は東京・品川区。少年時代の評判は「いつもニコニコしていて、ひょうきんな性格」であったという。明治学院の中学・高校に行っていたが、高校生の頃から社会問題に傾倒しはじめ、ホームルームの時間に「沖縄の基地問題について」や「同和問題について」というテーマで教壇に上ったという逸話を残している。涙を流しながら、「同和問題について考えよう」と訴えるような、そういう一面を持った高校生であったという。


オフィス街を震撼させた連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線とは、20代の若者たちらによって組織されていた。

狼グループ⇒大道寺将司(26歳)、大道寺あや子(26歳)、佐々木規夫(26歳)、片岡利明(26歳)

大地の牙グループ⇒斎藤和(27歳)、浴田由紀子(24歳)

さそりグループ⇒黒川芳正(27歳)、桐島聡(21歳)、U(22歳)

(年齢は逮捕時の年齢。桐島聡とUについては事件時の年齢。)


なんだか「真面目ないい子」というのが、意外と行き場を失って過激な思想に染まり、そのまま行ってしまったというパターンが多いような気もしますかねぇ。そういえば中学時代の同級生に驚かされた事があったかなぁ。読書感想文の発表をしていたのだけども、その子は「太宰治の『人間失格』を読んで」という感じの発表をしていたんですが、途中で、その子の声が聞こえなくなったんですね。

発表が止まってしまったので、教室内がざわつき始めて、みんなが、その子の方に視線を向けたら、泣いちゃってたんです。ちょっと泣いているという感じじゃなくて、顔を紅潮させてぼろぼろと大粒の涙を流し、鼻からはつーっと透明の糸を伸ばしちゃっているような、静かなる号泣状態でした。

「マジで泣くなよォ」

「性格の暗い奴に限って、暗い小説を読むもんだから」

という具合の冷やかしの野次が飛んだのに、その子の落涙は終わらなかった。教師も、「え? どうした?」という反応。その後に教師が「思い出しちゃって感極まったったんだな、よし」という具合に、その騒動を収集させたのでした。

しばらく時間が経過してから、その子に直接、「そんなに『人間失格』って悲しい話だっけ?」と尋ねたこともあるんですが、なんだか、うやむやな回答だったかな。

『人間失格』って、私には、そんなに泣ける箇所というのが見当たらなかったんですよねぇ。推察するに、例の道化として生きてきましただか、恥ずかしい一生を過ごしてきましただか、あの箇所というのが、その子の琴線に触れたのだろうとは考えましたが、ホントのところは分からず仕舞いでした。ただ、案外、それぐらいの年齢でもヒトというのは心の闇とか暗部というものを抱えているのかもね。
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◆御召し列車爆破計画

東アジア反日武装戦線の各グループは狼グループが中心になって執筆した「腹腹時計」に従って、各グループは個別に爆弾製造に取り掛かり、爆破実験を行ない独自に保管する等していた。

グループ内では、大道寺夫婦のいる狼グループが爆弾製造で先行していたが、この狼グループは、「レインボー計画」なる衝撃的な計画が練っていた。それは(昭和)天皇暗殺計画であった。

大道寺将司は、図書館で新聞の縮小版を読み漁り、過去十年間の天皇の日程を調べ上げていた。どのタイミングで、どういう暗殺が可能であるかを知る為に、実際に天皇の日程を調べていたのだ。その結果、大道寺がクローズアップしたのが、毎年8月15日に天皇は東京・九段にある日本武道館で開催される全国戦没者慰霊祭に出席している事を発見した。しかも、それには或るパターンがあった。この時期の天皇は那須御用邸で静養中であり、戦没者慰霊会に出席する為に式典前日となる8月14日に那須御用邸から特別に発車される御召し列車で帰京するというパターンを発見したのだ。

東北線(JR宇都宮線)は埼玉と東京との堺に荒川があり、その荒川を越える為に荒川鉄橋が架かっている事に目をつけ、天皇皇后両陛下を乗せた列車の通過に合わせて荒川鉄橋を大型爆弾で爆破し、そのまま殺害するという計画を立てて、具体的に動いていた。しかも、8月14日の御召し列車が午前10時58分〜11時2分の間に荒川鉄橋を通過するという細かな時間まで割り出していたのだ。大道寺将司に拠れば、そこまで調べる為に一年弱もの歳月を費やし、計測したものだという。

計画だけでも、ヒヤリとさせられる話ですが、このレインボー計画は、狼グループによって実は或る程度まで具体的に遂行されていた。

狼グループの4名、つまり、大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明は1974年のゴールデンウィークを前に埼玉県の秩父にある浦山渓谷の河原にテントを張って、二泊のキャンプを張った。そのキャンプでは、レインボー計画を実施する事をメンバーで確認した。

4月末に片岡は荒川区町屋にアパートを借り、そのアパートで爆弾の製造に取り掛かった。最初の試作品は奥多摩の日原川上流で爆破実験をさせたが失敗。次に爆薬の量を増やした試作品を富士・青木ヶ原で実験したという。

7月初めには荒川鉄橋周辺を再調査して、具体的に爆弾のセット場所を第7橋脚にすることを決定。最初はラジコン方式での爆破を考えていたが、うまくいかなかったので、導火線をつないで点火する方式に切り替えた。

7月中旬になると毎晩のように荒川鉄橋付近の下調べを行なった。設置個所を決めて、そこからコードの長さや発破器の設置場所、更には逃走経路も決めた。逃走には自転車を用いることとし、赤羽駅から逃走に使用する為の自転車も盗んで確保した。

8月5日、塗料などを運搬・貯蔵するのに使用するペール缶を二個、購入。(このペール缶は爆薬を詰め込む為の容器。)

8月10日〜11日、この両日、狼グループの4名は荒川区南千住にあった大道寺夫婦のアパートに集合し、徹夜でコツコツと爆薬をペール缶2個と消火器一個に詰め込むという作業をした。「腹腹時計」に自分たちで記した通りに行動は慎重であり、昼間は会社へきちんと出勤して帰社後に4人全員が集まって作業をしたという。二晩連続で狼グループが作り上げたペール缶爆弾2個と消火器爆弾1個の総重量は、実に五百キロにも達したという。

8月12日21時過ぎ、メンバー4名は夜陰に紛れるようにして荒川鉄橋に赴き、2人1組になって爆破用の電線の敷設を試みるが、連日の徹夜作業と、日本の夏の蒸し暑さの為に敷設は難航し、夜が明けてしまった為に作業を中断した。

8月13日23時過ぎ、中断していた敷設作業を再開。しかし、メンバーが作業を開始しようとすると、黒っぽい服装をした3〜4人の男の人影が出没した為に、狼グループは急遽、計画を中止することにした。リーダーらしいリーダーを置いていない集団にしては見事で、全員の意見が一致して中止に決定したという。

この中止決定は、この狼グループの用心深さ、慎重さ、そして賢明さを物語っているようにも見える。一年以上の歳月をかけ、連日のハードな徹夜作業によって既に敷設していた電線は900メートルにも達していたが、すっぱりと諦め、また苦労して運び込んでいた総重量500キロの爆弾も撤収するという決断を下した事を意味しているのだ。

土壇場で、御召し列車を狙っての荒川鉄橋爆破計画は中止になったが、中止に到らせた黒っぽい服を着た3〜4人の人影の正体は、実は不明であるという。荒川名物のノゾキ屋であったという説もあるが、実は、14日の御召し列車の通過の為に荒川鉄橋を私服警察官が警戒してパトロールしていたものという説もあるという。

しかし、皮肉な事に、このときに荒川鉄橋から持ち帰られたペール缶爆弾が、この2週間後に、オフィス街としてしられる丸の内で、破格の大爆音を轟かせて日本中を震撼させる事となる。


◆三菱重工ビル爆破事件

1974年8月15日、つまり終戦記念日には例年通りに東京・九段の日本武道館では全国戦没者慰霊祭が開催され――その15日後に、日本の爆弾事件史上最大の爆破事件が発生する。

1974年8月30日、この日の東京は曇りであったが蒸し暑かったという。

正午15分前に大道寺将司は勤めていた文京区湯島の会社を出て、御茶ノ水駅近くの喫茶店に入店して、片岡利明がスバル1000で迎えに来るのを待っていた。前の晩から早朝にかけて大道寺夫妻と片岡の3名で爆弾を組み立て、爆破時刻を12時45分にセットしていた。その時刻は昼休みを狙ってセットしたものであった。組み立てた円筒形のペール缶爆弾は一個が20キロほどの重量があったが、その爆弾2個を片岡の愛車であるスバルに載せるという作業まで終えて、一度解散した。

片岡はというと一度、帰宅して仮眠を取って10時過ぎに起床。そして、予定通りに片岡は爆弾を積んだスバルで大道寺を迎えに行った。大道寺夫妻は怪しまれぬように、この日も会社に出勤していた。

予定通りに片岡が迎えに来て、大道寺がスバルに乗り込むと、200メートルほど走らせたところで脇道に入って小さな駐車場にクルマを停めた。そこからは個人タクシーを利用する計画であった。二人はハトロン紙に包んだ20キロの爆弾を一つづつ持ち、御茶ノ水駅に向かい、駅から個人タクシーに乗った。

事前のリハーサルでは、御茶ノ水駅前から丸の内の三菱重工ビルまでクルマでの所要時間は15分であった。タクシーが三菱重工前に差し掛かったタイミングで、片岡が「ここでいい」と言ってタクシーを停車させた。時刻は12時23分であった。

準備は緻密であった。大道寺あや子は見張り役として三菱重工ビルの正面玄関の左脇で、既に待っていた。サングラスをかけてパンタロンを履いた大道寺あや子は完全にOLに成りすましていたが、実際には、何かしら不審な点あれば、爆弾を持っくる二人に中止のサインを送る役目として、昼休みに抜け出して、そこに待機していたのだ。

大道寺と片岡の両名は中止のサインがない事を確認していたが、この時に小さなハプニングが起こった。大道寺と片岡が降りようとしているタクシーに乗ろうとサラリーマン風の男が近づいてきていたのだ。片岡が咄嗟に機転を利かせて、タクシーの運転手に「用事を思い出したから、東京駅まで」と言い、そのタクシーを確保するという選択をした。従がって、大道寺が20キロのペール缶爆弾2個を一人で抱えて降車する事になったが、大道寺も片岡の機転を機転として理解しており、そのまま、ペール缶爆弾2個を持って三菱重工ビルの正面玄関方向へ向かった。(片岡は、そのまま、東京駅まで個人タクシーに乗車した。)

大道寺将司は、正面玄関左側のフラワーポットに爆弾を置くと、そのまま三菱重工ビルの正面玄関からビル内に入り、そのままロビーを突っ切るようにして不忍通りに出て、徒歩で東京駅へと向かった。東京駅から中央線の電車に乗車して御茶ノ水駅で下車して会社へ戻るという行動をとった。見張りをしていた大道寺あや子も、東京駅まで徒歩、山手線に乗車して御徒町駅で下車し、会社へと戻った。

佐々木規夫は、予告電話の担当であった。12時30分に勤め先の会社を抜け出して近くの公衆電話から予告電話を入れる算段であった。その公衆電話から三菱重工の代表番号に電話して、爆破予告をする計画であったが、何故か一度目の電話では繋がったものの、電話回線が切れてしまうというアクシデントに遭遇した。このとき、12時37であった。爆破時刻のセットは12時45分だから爆破の予告をして、避難を呼び掛ける計画であったが、この佐々木の予告電話が数分ほど遅れた事で、狼グループの緻密な計画に狂いが生じる。本来の計画段階では、死者を出すような爆破計画ではなかったのだ。佐々木は焦った。

二度目のダイヤルに応じた電話交換嬢に佐々木は予め用意しておいたメモを読み上げた。

「これから大事なことが伝えるからよく聞いてほしい。われわれは東アジア反日武装戦線猩記瓩任△襦三菱重工ビルと三菱電機ビルとの間の道路上に二つの爆弾を仕掛けた。すぐに爆発するので、道路上の人及び道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。繰り返す。至急避難させなさい。断わっておくが、これは絶対にイタズラ電話ではない」

交換嬢には、それはテープレコーダーに吹き込んだような調子の声に聴こえたというから、佐々木の電話の口調は、そういうものであったと思われる。

役目を終えた佐々木が腕時計で時刻を確認すると、時刻は12時41分であった。計画通りに、避難誘導させるには、厳しすぎる時刻であった。

交換嬢は庶務課長に事情を説明する為に急いで3階からエレベーターに乗り込んで、8階にいる庶務課長に連絡するつもりであったが間に合わなかった。交換嬢が乗ったエレベーターが5階を通過しようとしたタイミングで、大音響と共に震度3〜4程度の激しい揺れに襲われた。時刻は12時46分であった。

その爆発音は4キロ四方にまで及び、爆風は居並ぶビルのガラス窓を吹き飛ばした。三菱重工本社ビル前の歩道と車道には粉砕されたガラス片が大量に落下した為に、ガラス片だらけとなり、救助活動を妨げた。

爆心地付近で発見された7つの遺体は即死状態で、20メートル程離れたところで被害に遭った男性も翌日入院先で死亡し、死亡者は8名。重軽傷者は325名にものぼる日本の爆破事件史上、爆弾の規模も被害者数も最も大きな爆破事件となった。その日、丸の内のオフィス街を襲った大爆発は、ダイナマイト700本分にも相当する大爆発であった。

狼グループは内心では激しく動揺していた。想像していた以上に爆発の威力が大きかった事もあったが、実際に計画では人的被害を出すつもりはなく、爆破予告の電話を入れれば、避難するであろうから死者は出ないものと考えていたのだ。

片岡はラーメン屋に入り、冷やし中華をすすりながら、そのラーメン屋のテレビで臨時ニュースを目にしていた。ニュースは三菱重工ビルで爆発事故らしきものがあり、多数の死者が出ているというものであった。片岡は激しく動揺し、そばが喉を通らなかった。

大道寺将司は雑誌販売会社で机に向かっていた。16時過ぎに外回りの同僚社員がオフィスにやって来て、三菱重工で爆破事件が起こって、たくさんの人が死んだらしいと語った為、社内は騒然となった。大道寺も同僚らに交じって事件とは無関係の一個人を演じて驚いてみせる自分を演じたが、内心では少なからず動揺していた。

19時に、大道寺のアパートの近くにある喫茶店で、狼グループは落ち合う約束になっており、その通り、犯行当日となる30日19時にメンバー4名は顔を合わせた。片岡は佐々木の顔を見るなり、

「お前、本当に電話をしたのか?」

と詰問した。思いの外、被害者が多いのは佐々木が予告電話を入れるという計画を怠ったのではないかと勘繰らざるには居られなかった為であるという。大道寺将司も片岡と同じ思いであったが、新聞の夕刊には予告電話が有った事も報じられていた。

予想外に死者が多かったことにメンバーらは動揺し、今後の指針の相談が展開できないという状態に陥ったので、大道寺あや子が男たちを叱りつけたという。

「やってしまったことを、いまさらぐずぐず言ってもしようがないでしょッ!」

犯行声明をどうすべきか、その議論はまとまらず、結局は大道寺将司が声明文を書き、後日、発送することとした。

犯行声明文は同年9月28日に共同通信の独占スクープという形で発表された。A4版用紙に五百字程度、「狼通信第一号」というタイトルがつけられていた。

今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。(中略)爆死し、負傷した人間は(中略)日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で太る植民者である


三菱重工ビル爆破事件を受けての警察の対応は決して鈍くなかった。爆破事件が8月30日12時46分に発生して、一時間も経過していない13時30分には警視庁内に総合警部本部が設置された。また、14時には丸の内米内で公安部と刑事部が合同で捜査する為の特別捜査本部「丸の内ビル街爆破事件特別捜査本部」が設置されていた。この特捜本部には通常の特捜本部に動員される10倍もの人員を投入する方針が決定していた。

槇野勇警視総監は記者会見を開き、

「捜査に着手したばかりで、推理でものを言うのは危険だが、これがマニアの犯行だとすると手際がよすぎる。複数犯とみてよい。過激派の黒ヘル集団か」

と発言した。
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◆三井物産ビル爆破事件

1974年10月14日、浴田由紀子は山手線田町駅のコインロッカーから予め入れておいた三井物産女性社員の制服に似せてつくった衣装を取り出し、トイレで着替えを済ませた。地下鉄三田駅で斎藤和から爆弾を受け取って、再び地下鉄で内幸町駅で下車した。そこから三井物産本館まで徒歩で移動し、通用門から堂々とビルに入った。

この三井物産爆破事件は斎藤和と浴田由紀子によって構成された大地の牙グループの犯行であったが、狼グループ同様に計画は充分に練られており、事前に怪しまれないように女性社員の制服の偽造品を用意していた事をはじめ、そのビル内の構造もきっちりと浴田は頭に叩き込んでいた。浴田が堂々とビル内に入って闊歩していても、特に不審がられる事はなかった。

三階まで階段を上がり、通信部の二つ目のドア前に爆弾を置くと、ビルから屋外へと抜けて計画通りに付近の公衆電話から、斎藤和に電話を入れた。浴田は事前の打ち合わせ通り、電話で「完了」とだけ告げた。その合図の後に斎藤和が爆破予告電話をする計画になっていた。

斎藤和は公衆電話から、三井物産本館三階の業務部に電話を入れて爆破予告をした。

我々は東アジア反日武装戦線同盟の者だ。三井物産に爆弾をしかけた。直ちに退避せよ。繰り返す。我々は東アジア反日武装戦線同盟の者だ。三井物産に爆弾をしかけた。直ちに退避せよ。これはイタズラ電話ではない

その電話は12時50分頃であった。斎藤和は、その後も本館四階の総務部、別館五階の重機械部、第二別館三階の食品部と、合計4回も、三井物産の各部署毎に爆破予告の電話を入れた。

三井物産から通報を受けた愛宕署は12名の警察官を現場に急行させ、警官らが点検を開始した13時16分、轟音とともに爆弾が炸裂した。

この爆破テロにより、警察関係者と三井物産社員合わせて17名が重軽傷を負った。

この爆破事件を成功させた後、それまでは三畳間のアパートで一人暮らしをしていた浴田由紀子は斎藤和のアパートに転がり込む格好で、二人は同棲生活を始めた。


◆「帝人研究所爆破事件」と「大成建設爆破事件」

1974年11月25日午前3時10分、東京・日野市の帝人中央研究所で電算室が爆破された。死傷者なし。この爆破事件は狼グループによるものであった。

1974年12月10日午前9時45分、東京・築地の大成建設、その隣の大倉商事に「東南アジア牙団」、「帝国同盟」と名乗る爆破予告電話が三度ほど入り、警察などが捜索中の11時4分に大成建設駐車場で時限爆弾が爆発。爆発力も大きく、大成建設と大倉商事の全てビルの窓ガラスが割れて、駐車してあった2トントラックが横転する程の威力であった。この事件での重軽傷者は9名を数えた。この事件は、大地の牙グループによるもので後に犯行声明を出した。

大成建設の今日は、一九二二年新潟の信越電力信濃川水力発電所工事現場で大量虐殺された朝鮮人労働者等、植民地人民の血と屍のうえに築かれている

ここまでで、狼グループが2件、大地の牙グループが2件の爆破テロを成功させた。


◆鹿島建設内装センター爆破事件

狼グループが三菱重工ビル爆破事件を成功させ、大地の牙グループが三井物産爆破事件を成功させるという中で、さそりグループの順番となった。「東アジア反日武装戦線」の【戦線】という言葉は、その字義の通り、複数の部隊が合同戦線を張っている、同盟戦線であるという構想が自ずから主張されている。赤軍などと異なり、垂直方式のピラミッド型の統制図ではなく、主体となるのは各グループであった。また、巧妙な事に、それが狙いでもあった。つまり、東アジア反日武装戦線という名前が広まり、また、その爆弾テロが伝染して次から次へと過激な闘争が拡散してゆくことをも視野に入れていた。そうであるが故に、さそりグループにも、失敗は許さないという重圧がかかった。できることであれば、狼、大地の牙の先発2グループに遜色のない規模の爆破テロを起こす必要性があった。下手をすれば、東アジア反日武装戦線への参加も危ぶまれてしまう。

さそりのリーダーであった黒川芳正は、早期から鹿島建設をターゲットに決めていたという。以前に日雇い労働をしていた際に鹿島建設の現場で殴られたという経験があったのだ。「侵略企業」という思想的観点から眺めた場合、鹿島建設の格は充分であった。

また、さそりグループは爆弾にも工夫を施し、ワックスの1リットル缶に爆薬を詰めた後、その両脇に灯油を入れたポリタンクを抱き合わせるという火炎爆弾を使用した。

さそりグループは、港区赤坂にある鹿島建設本社の下見を行なったが、鹿島建設本社は思いの外、警戒態勢が厳しく、本社ビルへの侵入は不可能と判断し、江東区東陽町の鹿島建設内装センターに照準を切り替えた。内装センターは建設資材保管用のプレハブの建物で、東陽町駅の近くにある施設であった。さそりグループは、実に7回もの下見を敢行し、施設の職員は夜になると帰宅し、あとはガードマンが二時間毎に巡廻するだけである事を確認した。

1974年12月22日21時、計画は実行された。見張役として桐島聡が施設の外に残り、残りの黒川とUがガードマン詰所の死角から施設内に侵入。黒川とUは、四輪台車に爆弾を乗せて資材置き場のプレハブ脇に爆弾をセットした。黒川とUが設置を終えて施設の外に出たのが21時10分頃であったという。

予定通り、12月23日午前3時10分、火炎爆弾は大音響と共に3メートルもの火柱を上げた。爆音や火柱は派手であったが、爆破場所は資材置き場であり、しかも真夜中の爆発であった事もあり、報道の反応は鈍かった。新聞各紙はベタ記事、或いは二段程度の小さな扱いであり、新聞によっては牋賚△隆覿版破事件を模倣したいたずらの可能性瓩砲泙埜正擇靴討い拭A蟇のデモンストレーションで、狼グループ、大地の牙グループに続きたかった思惑は外れてしまい、さそりメンバーは落胆したという。

それでも犯行声明文は出した。

本日、鹿島建設=花岡作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線に参画する抗日パルチザンの義勇軍「さそり」である。鹿島建設は植民地人民の生き血をすすり、死肉をくらい、獲得したすべての財産を放棄せよ


◆スリリングな尾行劇

年が明けて1975年1月13日、愛宕署に密かに設けられていた裏捜査本部では思想犯の洗い出しの中から「佐々木規夫」をピックアップし、事件への関与が濃厚と判断し、行動確認を開始する。この佐々木は狼グループの中にあって逮捕歴があり、東京行動戦線の構成員でレボルト社とも繋がりがあり、事件への関与が濃厚と判断され、また、この段階では主謀者こそが佐々木規夫と考えられていたという。

佐々木に尾行が開始されると、佐々木の異常なまでの用心深さが確認される。定時にアパートを出て勤めている倉庫会社に出社し、殆んど決まった時刻に帰宅していた。しかし、用心深く、周囲を見回すような態度が確認できた。

1975年1月18日、佐々木への尾行(行動確認)開始から5日目のこと、「片岡利明」という人物が浮上する。佐々木規夫を尾行する中で、佐々木が都電荒川線の東尾久で降りて、片岡の住むアパートを訪問した為であった。片岡には逮捕歴等はなかったが爆破テロ事件に関与しているものとして、片岡に対しての行動確認も開始される。

片岡利明は非常に用心深く、刑事と鉢合わせすると直感的に尾行されていると勘繰り、自室で似顔絵を描いて机の脇に貼るなどしていた。更に、大道寺将司に電話をして、「刑事に尾行されているかも知れない。(自分は)もう潜った方がいいかも知れない」と相談したという。大道寺は片岡を宥め、実際に片岡に尾行がついているのかどうかを確かめるという行動に出た。そして、実際に大道寺夫妻は片岡を尾行している者が居ないか、片岡の動向を実際に尾行していた。刑事は片岡を尾行し、更に、その背後には、この時点では警察に事件への関与を全く知られていない大道寺夫妻が尾行するというスパイ映画さながらの構図があった。大道寺夫妻が片岡に対して刑事の行動確認がついている事を発見していたなら、事件は意外な方向に転がりかねなかったが、幸いにも、その日、刑事は尾行を途中で打ち切っていた。それは偶然の産物であったが、大道寺夫妻は片岡に対して刑事の尾行がない事を確認し、それを片岡にも伝えた。


◆間組爆破事件

年が明けた1975年1月28日、ここで初めて東アジア反日武装戦線の各グループの代表者1名が一堂に集まっての話し合いの席を設けた。狼グループの大道寺将司、大地の牙グループの斎藤和、さそりグループの黒川芳正が一堂に会しての初会合は、これであった。

(基本的に【リーダー】という概念を除外している思想グループなので、固定概念上では「代表」も「リーダー」も存在しないというのがアナーキスト思想の背景にある。そうであるが故に「リーダーらしき人物」や「実質的なリーダー」を発見できるというのが、そちらの側の論理であるワケですが、便宜上、大道寺将司、斎藤和、黒川芳正を「リーダー」と呼ばない事には表現のしようがない。)

その初会合に於いて、大道寺は三グループが合同作戦を持ち掛けたという。一つの作戦を3グループが共同して行なう事を意味していた。すると、鹿島建設事件でかんばしい爆破テロ効果を得られなかった後ろめたさが作用したらしく、黒川が積極的に乗り出して、「間(ハザマ)組はどうか?」と提案したという。黒川と斎藤は、窮民問題に意義を見い出していたらしく、

「福島県の沼倉水力発電所をつくる際、朝鮮人を強制連行し、虐待した前科がある」

「今も間組はマレーシアに進出し、テメンゴールで水力ダムを建設中だ」

と畳み掛けた事もあり、次なるターゲットは、間組に決定。更に、作戦決行日は来月の爍卸28日瓩鳩茲瓩拭


1975年1月31日、この日、警察は狼グループの佐々木規夫の行動確認で、佐々木が真鍮棒3本を購入した事を確認している。過激派は真鍮棒を使用して改造拳銃を製造することがあり、実際に、狼グループ内では改造拳銃の製造も為されていた。

1975年2月11日、佐々木を尾行する中で、警察は初めて大道寺将司、大道寺あや子夫婦の存在を知ることになった。佐々木と大道寺夫婦との接触を確認した為であった。但し、この時点でも、主謀者が佐々木であり、それに協力する夫婦が大道寺夫婦であるという認識であった。

1975年2月26日、この日の夜、佐々木と大道寺夫妻との合計3名が神宮外苑の外周を実に40分間も歩くという姿が確認された。夜間になると人気が少なく、刑事らは尾行に苦労することになる。大道寺夫妻と佐々木は歩きながら謀議を交わしていたものと思われるが、屋外、神宮外苑を徒歩で周回しながらというのは、行動確認をする刑事泣かせの斬新な手法であった。実は、神宮外苑を歩きながら大道寺夫妻と佐々木は明後日に爆破予定の間組本社ビルの下見調査をしていた。

1975年2月28日の夕刻にも大道寺夫妻と佐々木とが神宮外苑で合流し、合流したまでを尾行した刑事が確認していたが、この日、刑事は大道寺夫妻と佐々木を見失ってしまう。そして、この日の20時5分、間組本社ビルで爆発が発生。9階から上が炎に包まれ、同社の9階にあった電算室が壊滅的な打撃を受けるという被害を出し、残業していた社員と消防士など5名が負傷。事故後、使用されたものはアタッシュケース爆弾であると判明。

同日同時刻、埼玉県与野市の間組大宮工場でも爆発が発生。こちらの大宮工場では死傷者は無かった。使用された爆弾はシンナー缶爆弾であった。この間組大宮工場の爆破では、隣接していた日本通運大宮支店に爆破予告の電話を入れるなどしていた。(与野市+大宮市+浦和市=現さいたま市です。念のため。)

犯行声明文は間組本社の郵便受けに入れられていた。

昭和十九年、福島県猪苗代沼倉水力発電所工事で朝鮮人労働者に苛酷な労働条件で働かせ…(略)…我が部隊はキソダニ=テメンゴール作戦の一端を担い間組本社にたいし、爆破攻撃をおこなった

間組に対しては三派合同爆破テロであったワケですが、分担としては間本社ビルの9階に爆弾を仕掛けたのは狼グループ、同6階に爆弾を仕掛けたのが大地の牙グループ。そして大宮工場爆破を担当したのが、さそりグループであったという。
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◆土田國保、警視総監へ

1975年1月31日、東アジア反日武装戦線による企業連続爆破事件の捜査は進展せず、三菱重工、三井物産、帝人、大成建設、そして鹿島建設(鹿島)と爆破テロを許してしまった事で槇野勇警視総監は辞意を表明し、国家公安委員会が、それを承認し、後任に土田國保警視総監が任命された。

この土田は、警視庁警務部長の時代に自宅に小包爆弾を送られ、夫人を亡くした土田國保その人であった。元より私怨で捜査に進展が期待できるものではなく、それは巡り合わせであったが、過激派から送られてきた小包爆弾で妻を亡くした男が、最悪の爆弾テロ集団である東アジア反日武装戦線と対峙する警視庁のトップに就任したというのは、捉えようによっては、運命的な巡り合わせのようにも思える。

土田邸小包爆弾事件は、1971年12月18日に発生したもので、これは同年10月18日に日本石油本館ビル地下の郵便局で小包が爆発した事件と似ていた。また、この二件の小包爆弾事件は、他のピース缶爆弾を使用した事件と関連づけられ、そのまま、「ピース缶裁判」となる。土田邸小包爆弾事件は被疑者不明のまま、公訴時効を迎えている。

土田は第70代警視総監となった事を意味しているが、土田の前のポストは警察庁次長であり、警視総監を受けなければ、警察庁長官になれる地位にあった。つまり、少しでも警察庁長官になる事を最終目標に置く立身出世主義者であったなら、東京に権限が限定される警視総監ではなく、警察庁長官を自らの最終到達点にしたいという官僚的思考が作用してもおかしくない立場であったのだ。しかし、土田は待っていて警察庁長官になるよりも、荒れ狂う企業連続爆破事件に挑んで泥をかぶる覚悟で、警視総監を選択した。前任の槇野警視総監が「心残りは爆弾事件だけ」と語ったのを受けて、土田は警視総監就任の挨拶で

爆弾事件の捜査に特効薬などありません。しかし、あのような凶悪な犯罪を繰り返す犯人たちは必ず歪みを出すもので、それを捜査陣がどう捉えるかだ。地味な捜査を続ければ、必ず犯人に突き当たる

と語った。


槇野警視総監体制から愛宕署に設置した裏捜査本部による佐々木規夫、片岡利明への行動確認は続いていた。

1975年3月12日からは大道寺夫妻にも行動確認の尾行をつけた。

1975年3月23日、片岡利明の引っ越しを大道寺夫妻、佐々木規夫が手伝いに集結していた。トラックでの荷物運搬は二度あり、一度目の運搬では通常の家財道具を片岡の引っ越し先に運び出したが、二度目の運搬は危険物らしき毛布などで覆われたものを運び出してトラックに積み込むと、そのトラックは足立区・梅島の佐々木規夫のアパートに運び込まれたのを警察は確認した。

その後、佐々木規夫の住む一室に大道寺夫妻が入り、あの地下爆弾製造工場がつくれた。押入れを出入口として地下に作業場を確保したものであった。掘り返した泥を搬出することなく、泥は土塀として利用した。


◆韓国産研爆破事件

1975年4月19日午前1時、東京・銀座トキワビル5Fの韓国産業経済研究所と、兵庫県尼崎市の松本ビル7Fのオリエンタルメタルで、ブリキ缶爆弾が爆発。共に大きな被害は無し。しかし、そこには「東アジア反日武装戦線」を名乗る犯行声明文が郵便受けに入れられていた。

韓国産業経済研究所は、日帝企業の韓国、台湾、マラヤ侵略に奉仕する活動を停止せよ。オリエンタルメタル製造などによる「韓国工業団地視察団」の派遣を中止せよ。オリエンタルメタル製造は、韓国から撤退し在韓資本を放棄せよ

この韓国産業経済研究所爆破事件は、東アジア反日武装戦線による7件目の爆破テロ事件であったが、初めて不審な人物の目撃情報というものがあった。同研究所の入っているトキワビルで不審な男がうろついていたという目撃情報があり、捜査本部が「斎藤和」の顔写真を見せたところ、目撃者は「間違いない」という証言をした。更に、この事件でも犯行声明文が郵便受けに投函されていたが、その声明文を入れた黒塗りの封筒は、後の捜査の重要なカギとなる。


警視庁は、この頃、大きな問題を同時並行に進めていた。一つは、東アジア反日武装戦線への捜査であったが、もう一つは、5月7日に迫っていたエリザベス英国女王の警備という重要な任務を抱えていた。東アジア反日武装戦線への捜査は、韓国産研事件以降、急進展しており、有力な目撃者情報から「斎藤和」の周辺捜査を開始し、斎藤和と同棲している浴田由紀子が出したゴミ箱から、韓国産研事件に使用されていた黒封筒と同質の紙を4月17日に見つけ出していたのだ。

1975年4月24日、この日にも浴田は夜間にゴミ出しをし、そのゴミを警察が回収。回収したゴミの中から声明文に使用した紙片の一部を警察は回収していた。それは決定的な物証であった。


◆東アジア反日武装戦線、一斉逮捕

1975年5月7日に英国からエリザベス女王とフィリップ殿下が来日し、それから12日までの6日間滞在。同月9日には帝国ホテルから国立劇場までの区間をオープンカーでパレードする段取りであった。企業連続爆破事件を抱えていた警視庁にとって、この英国女王滞在中の警備体制は緊張の連続の6日間であったという。しかし、水面下では斎藤和と浴田由紀子が出したゴミ袋から回収した紙片の鑑識が進められいた。

1975年5月19日、午前8時25分、大道寺将司が逮捕されたのを発端に、東アジア反日武装戦線メンバーに対しての同日一斉逮捕となった。大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明、斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正ら主要メンバー7名が、この日の朝、ほぼ一斉に逮捕されたのだ。

逮捕時、逮捕後にも、この東アジア反日武装戦線は異様な展開を見せた。大道寺あや子を逮捕し、警察車両で護送中、あや子はペンダントの中から青酸カリを入れたカプセルを飲み込んで自殺を図ろうとした。刑事が咄嗟の判断によって、あや子の手から青酸カリ入りカプセルを叩き落として事なきを得たという。

東アジア反日武装戦線メンバーは、万が一に備えて全員が青酸カリ0.6グラムを入れたカプセルを持ち歩いてたとされる。青酸カリは、薬剤師の資格を有し、実際に試薬関連の仕事をしていた大道寺あや子が職場から持ち出したもので、メンバー全員が、この青酸入りのカプセルを所持していた。

斎藤和は逮捕直後に青酸カリ入りのカプセルを警察関係者の目を盗んで飲んで自殺を遂げた。思想犯、この東アジア反日武装戦線とは、そういうレベルの過激派であり、警察は拘置所内のメンバーが自殺を図る可能性が高いとして24時間体制の監視カメラによる監視を行なうという対応を取った。すると、東アジア反日武装戦線のメンバーらは、「24時間の監視は人権侵害に該当する」と抗議を始め、態度を硬化させ、その後の法廷闘争は大荒れに荒れた。

この一斉逮捕劇では、さそりグループの桐島聡とUは沖縄へ逃亡して逮捕を逃れた。イニシャル「U」は新聞販売店の住み込み店員などを職を転々としていたが1982年7月に東京・板橋で逮捕された。桐島聡は2017年現在でも逮捕されていない。

また、三菱重工ビル爆破事件を起こす以前に猩記瓩旅柔員であったイニシャル「F」は既に長野県の実家に戻っていたが、東アジア反日武装戦線一斉逮捕の報道から約一ヶ月後、自宅付近の山道に停めたクルマに排気ガスを引き込んで、いわゆる排ガス自殺を遂げた姿で発見された。

このFは、佐々木規夫が加入する以前の狼メンバーであり、大道寺夫妻、片岡、それとFの4名が、東アジア反日武装戦線による爆弾闘争の初期メンバーで、爆破実験や、東条英機らを祀った「七士の碑」の爆破、それと興亜観音に対しての爆破未遂、横浜市鶴見区の総持寺にある無名戦士の墓の爆破に関与していた。爆弾製造を大道寺将司と片岡利明が担当し、その爆弾の仕掛ける役目を負っていたのが大道寺あや子とFが担当していたとされる。

Fが自殺したクルマの中に遺書が残されており、そこには、

お父さん、お母さん許してください

と記されていた。
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◆意外な顛末

5月19日、早朝、東アジア反日武装戦線メンバー7名が一斉逮捕となった。一斉捜索は18ヵ所にも及んだ。斎藤和が逮捕当日の午前10時半頃に取調室で苦しみ出し、死亡(青酸カリ自殺であった)。この日の午後、「補助的役割を果たしていた」として、仙台に住んでいた初期の狼グループに関与していたM子が逮捕された。

裁判は大荒れとなった。被告となった東アジア反日武装戦線メンバー8名は、グループ毎の分離公判で裁かれることとなったが、被告と弁護団は分離せずに裁判を行なう統一公判を主張。東アジア反日武装戦線の被告らは獄中でハンガーストライキを展開し始めた。いわば獄中闘争に発展してゆく。弁護団も全共闘に関わった人物を含んで構成され、獄外でも支援団体が集会やデモを起こすなどの支援活動をするという展開となった。

統一公判か分離公判かという争いでは、東アジア反日武装戦線の被告らは裸になるなどして頑なに出廷を拒否し、統一公判を勝ち取っている。

更に衝撃的な展開となる。

1975年8月5日(現地では4日)、日本赤軍はマレーシアの首都クアラルンプールでアメリカ領事らを人質にとり、アメリカ大使館とスウェーデン大使館とを占拠した。いわゆる「クアラルンプール事件」であった。このクアラルンプール事件では日本赤軍は人質解放の条件として、拘禁中の日本赤軍、連合赤軍のメンバーの釈放(解放)を要求した。このクアラルンプール事件で解放を要求された中に東アジア反日武装戦線の「佐々木規夫」が含まれていた。

いわゆる赤軍はマルクス主義系の過激派であり、東アジア反日武装戦線のようなアナーキストとは同じ極左に分類されながらもイデオロギー的には反目関係にあった。日本赤軍が釈放を要求するメンバーの中に東アジア反日武装戦線の「佐々木規夫」の名前の含まれていた事は、或る意味、意外な展開であった。

クアラルンプール事件に話を戻します。いわゆる狡極ゝ的措置瓩砲茲辰董∪峽廓稗缶召蛤粥耕攀夫の計5名はクアラルンプールに移送されて釈放された。新アナーキストの佐々木規夫は、その後にリビアに入り、日本赤軍に合流するという意外な展開となった。


再び法廷の話。統一公判の中で、基本的な事柄を裁判官に宣言する人定質問では、名前や出身地を名乗るべきところで

「東アジア反日武装戦線兵士! 以下は答えません!」

「東アジア反日武装戦線兵士! 今は獄中兵士です!」


等と、大声で怒鳴るように叫ぶ以外には何も答えない等の、強硬な態度で法廷闘争を展開した。その後も浴田由紀子と大道寺あや子が法廷内で「イヌがいる。追い出せ!」とヒステリックに喚き散らし、退廷を命じられるなど、大荒れとなる。(また、大道寺将司の方は「統一公判にしたのに、何故、斎藤和と佐々木規夫が、この場に居ないのか説明せよ」等と、検察側に対しての揺さぶり攻撃を仕掛けた。)


更に更に、1977年9月28日、日本赤軍がインドのボンベイ空港に於いてパリ発東京行きの日本航空の旅客機をハイジャックするという、いわゆる「ダッカ事件」が発生。このダッカ事件には、クアラルンプール事件で釈放された佐々木規夫が参加。ハイジャック機はバングラディシュのダッカ国際空港に強制着陸した事から、ダッカ事件と呼ばれた。このダッカ事件は重信房子をリーダーとしたハイジャック犯グループであり、こちらは「身代金600万ドル」と「同志の解放」の二つを提示、要求した。同志の解放として9名のリストを示し、そこには「大道寺あや子」と「浴田由紀子」の名前も含まれており、その為、大道寺あや子と浴田由紀子も意外な形で牴鯤瓩気譴襪箸いε験となった。

超法規的措置によって解放された浴田由紀子は1995年にルーマニアで逮捕された。佐々木規夫は1988年にフィリピンやシンガポールに居た事が判明しているが逮捕されておらず、また、大道寺あや子は2017年現在逃亡が継続している。

最終的に刑が確定した東アジア反日武装戦線のメンバーは、大道寺将司と片岡利明が共に死刑判決が確定。黒川芳正は無期懲役、浴田由紀子は懲役20年、Uは懲役18年、そしてM子には懲役10年の判決が下った。

このうち、片岡利明は死刑制度廃止を訴える人物の養子となっているので戸籍上の苗字は変わっている。その片岡は逮捕当初から反省や謝罪の気持ちを表していたという。

私たち日本の人民は、帝国主義と闘う武装闘争によってのみ、その加害性を克服することができる。(中略)当時の我々が、このように、自分たちの加害者性を自覚したのは正しいことであったが、その自覚から一直線に武装闘争につき進んだのは、あまりにも短絡的であった。なぜなら、表現の自由など基本的人権がまがりなりにも保障された現在の日本で武装闘争を行うことは、加害者性の克服になるどころか、日本の人民に対する意識的な加害者となることにほかならないからである。」(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡協議会に送られた手紙の一部)

片岡利明は爆弾闘争そのものが誤まりであったと認めるという顛末になったが、大道寺将司と黒川芳正は「市民を殺害した事」には謝罪の言葉を述べるが、爆弾闘争そのものの意義は貫徹したとされる。つまり、死者を出してしまった事は戦略上の誤りであるが、爆弾闘争そのものは誤まっていないとする態度を貫徹した――。


◆東アジア反日武装戦線の亡霊

東アジア反日武装戦線の爆弾闘争が、どの時点で終結したとすべきか、実は曖昧である。狼グループ、大地の牙グループ、さそりグループは、一斉捜索と一斉逮捕によって確かに壊滅した。しかし、大道寺らの一斉逮捕以降にも、「東アジア反日武装戦線」という名称を名乗る爆破テロが複数件発生した。

1975年7月19日には札幌市の北海道警本部三階でロッカーが爆発し、警官3名と女性職員2名が負傷。後に道警本部と朝日新聞北海道支社に「東アジア反日武装戦線の者」を名乗る男から電話が入った。電話は地下鉄大通駅のコインロッカー18番を見るようにというもので、指定されたコインロッカーを開けたところ、そこには模倣犯による犯行声明文があった。

東アジア反日武装戦線ハ、本日、アイヌモシリヲ植民地支配シテイル日本帝国主義者北海道警察ニ対シ、本部爆破攻撃ヲ決行シタ

終っていなかったのだ。テロは共鳴を生む――。

1975年11月21日に大阪市北区中之島にある三井物産ビル一階西側駐車場の消火器が爆発して、2名が重軽傷を負う爆破テロが発生。

1976年3月2日、北海道庁一階ロビー西側エレベーター付近で時限爆弾が爆発し、天井、壁、窓ガラスが大破し、道庁職員2名が死亡、95名が重軽傷を負った。これも地下鉄大通駅のコインロッカー31番を開けよという電話が北海道新聞に入り、そのロッカーから犯行声明文が発見された。

私達日帝本国人は、アイヌ、沖縄人民、朝鮮人民、台湾人民、部落民、そしてアジアの人民に対する日帝の支配を打ち砕き、彼らの反日闘争に呼応してかねばならない

とあった。(後に、この爆破テロを起こした2名と、その内の1名の愛人、合計3名が逮捕される。)

大道寺将司の目論見通りに「東アジア反日武装戦線」に呼応・喚起・触発、或いは感染したかのような爆破テロが起こっていたのだ。

大道寺将司は、この「東アジア反日武装戦線」の構想をつくった時点で、自分たちの起こした爆破テロに喚起されて、その時点では目に見えない狷瓜岫瓩次々に現われてくれると考えていたという。実は大道寺将司の、その目論見は一定レベルで成功していたようにも見える。


◆仇花としてのアナーキズム

最後に所感ですが、東アジア反日武装戦線らの犯行声明文の内容の一部から読み取れる窮民救済思想がある。レッテル貼りに囚われてしまうと、それは無政府主義思想になるのですが稀にテレビ的言論人が発する【アナーキー】とは少し異なる。基本的には「政府が無くっていいと思っているんですか」的な意味で発せられていますが、実際にはアナルコ・サンディカリズムとボルシェビキとの間のアナ・ボル論争を経てのアナーキズムであり、ごくごく単純なそれではない。

最近になると、中々、このテのカタカナ語に不安があると思うんですね。テレビの中のお笑い芸人がビミョウな芸風の芸を評して【シュール】という言葉を使用して、なんとなく、その場の空気の収拾をはかっているシーンというのを幾度となく目にしたのですが【シュール】とは即ち「超現実」とか「奇抜」の意味であり、奇抜な芸に対してシュールと評しているのか、それともビミョウな理解しがたい芸に対してシュールと発しているのかが分からない。こういうケースは昔から多くて、私自身も【シュール】を「前衛」と頭の中で翻訳していましたから、偉そうな事は言えない。つまり、理解不能な芸、評するのに苦慮する前衛的な芸だから、シュールと発したり、評しておけばいいやね的な。

その芸なり、作品を評して現代人が述べる「シュールだなぁ!」というのは、ホントは「しょうもないことをしてくれたなぁ」の変換ですやね。

しかし、よくよく考えてみると、それをやってしまうと正真正銘、殻を打ち破ってみせての前衛的な何かを表現する場合に使用される【アバンギャルド】(前衛)に対して冒涜であるよな、と気付く。赤塚不二夫の漫画「レッツラ・ゴン」を評するのであれば確実に「アバンギャルド」と評するべきなのに、カタカナ語というのは難しくて、ついつい「シュール」と評してしまうのだ。しかも、それは近似したニュアンスが内包されているから発信側も受信側もコミュニケーションは成立してしまう。それを「奇抜・超現実・非日常」と表現しようが、前衛と表現しようが通用してしまう。ですが、「レッツラ・ゴン」という漫画の場合に顕著だと思うんですが、確信犯的に殻を打ち破って面白くもない漫画にしてみせたという解釈をきちんと表現したいのであれば、シュール(超現実)と評するのでは足りず、そこはアバンギャルド(前衛)と評さないとダメなんですよね。

それは【アナーキー】にも言えると思うんですね。というのは、【アナーキー】というカタカナ語は、察するに「秩序を無視する非常識」の同義で使用されているようにも、或いは「常識を無視したデタラメ」と同義で、しばしば使用されてしまっている可能性がありそうだと思っているから。しかも、厄介なことに、その用法でも日常会話では、そんなに齟齬を生じることなく、コミュニケーションが出来てしまうんですよね。確かに、無政府主義というのは、そういう理論で形成されているから。

「朝まで生テレビ」という番組内では深夜帯になってくると、スタジオ観覧者にもマイクが向けられたりする。或る時、ある観覧者が【サイコパス】という言葉を使用したんですね。その途端にパネラー席から冷笑が沸き起こったりました。

すると、そのマイクを握っていた観覧者は敏感に冷笑(蔑み笑い)された事を察知して、

「僕、何かおかしなことを言いましたか?」

と、投げかけてパネラー席の論客らを黙らせてしまったというシーンを視聴したのを記憶している。黙らせたといっても、これは軽薄インテリのパネラー陣が反省して沈黙をしたの意ではなく、ただ、彼等はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら「いや、なんでもない。続けて。(ふふん)」と促した程度の話でしたが、おそらくは軽薄な時代の軽薄な人々の慢心がテレビ画面に映ってしまった瞬間だったと思う。

冷笑が沸き起こったのは、「シロウトが、サイコパスだなんて言っちゃって、笑わせらァ」という蔑み笑い、侮蔑の笑いだったんですね。まだ、【サイコパス】という単語が目新しく感じるようなタイミングだったので、おそらく、そこに「一般観覧者がサイコパスなんて使用しやがって」という回路によって、嘲り笑いが起きたのだと思う。しかし、実は観覧者は何か笑われるような事を述べていたワケではなかった。そのマイクを向けられた観覧者は観覧者なりに、自分の意見を真剣に述べようとしており、そのカタカナ語を使用してしまったに過ぎない。それを嘲り笑ってしまうパネラー席の論客は確かに「インテリな人たち」なのだけれども、そういう自らの慢心、或いは欺瞞に疎いんですよね。。。

よりイヤらしいニュアンスまで言及すれば、自らの地位に自惚れて無意識のうちに他人を見下している種類の人間である。これは品性の話だけれど。

同じ番組の別の回では、或る観覧者が観覧者なりの意見を述べた。その後にパネラー席の論客が、

「あなたは、そんなアナーキーな事を言っているワケ?」

とアジって、大爆笑をとったというシーンがあった。これも或る種の嘲り笑いの対象にしたケースであったのですが、テンポよく、また、茶化し方も巧妙だったので、テレビの前に居た私も声を出して笑った記憶がある。しかし、このように【アナーキー】が使用されているあたり、笑っている人たちというのは、幸徳秋水であるとか大杉栄であるとか、或いは大逆事件であるとか、多分、そちらの系譜を素っ飛ばして、昔あったロックバンド「アナーキー」を茶化して笑うぐらいのレベルで、おそらくは笑ったのだと思うんですね。せいぜい、その程度。

しかし、この大道寺将司らの思想犯を相手にして、「アナーキーな事を言っているワケ?」と茶化して笑い飛ばるかと考えると、おそらくは、それは無いと思う。同じカタカナ語を使用しているが深度が全く異なっているんですよね。嘲り笑ったり、蔑み笑う人たちの感性の中には、血と骨、死ぬ覚悟、魂が存在していないのも、また歴然なのだ。

アナーキズム系の闘争というのは、統治機構そのものを否定したがる思想の系譜から生じているから、そもそもからして自己矛盾を抱えており、仮に破壊活動に成功して為政者を倒したとしても、次の新体制を敷くのが難しい。権力や強者に対しての嫌悪や反発が、その源泉であるワケですが、対案を出せと言われると対案を出せないという系譜かも知れない。とはいえ、そういっていると、どんどん権力というものは肥大化し、民衆に対しての抑圧的な態度を取れてしまう。どこかで誰かが破壊者の役割を果たせねばならないというのも、ホントかも知れない。権力が肥大化して、これはどうしようもなくなるだろうという状況が生じれば、対案などは無くても、やはり、否応なしに当面の問題に取り組まざるを得なくなるというものでしょうしね。

で、この狼グループ、大地の牙グループ、さそりグループの話というのは、どこかの時点に、その爆弾闘争の勝利に値するゴール地点が、そもそもあったのだろうかって思う。これ、最初から勝利のシナリオなんて存在していませんよね。爆破テロを起こして、爆破テロそのものは成功するかも知れないんですが、いつかは逮捕されたであろうし、仮に政府を転覆させるようなところまで武装蜂起が続いたとしても政治的イニシアチブを握れる可能性は非常に低かったと思う。軍事クーデターは政権を奪取するという最善のゴールに向かって起こされるワケですが、この手の爆弾テロは、その最善のゴール地点を最初から持っていないんです。ほぼほぼ、初期の段階から、彼らの最終的な到達点というのは「監獄行き」か「死」か、そんなものしかなかったように思えるんですよねぇ。

存在そのものが「時代の仇花」のような。


参考:福井惇著『狼・さそり・大地の牙』(文藝春秋)、別冊ナックルズvol.4【昭和三大事件】(ミリオン出版)、フジテレビ「金曜プレミアム・企業連続爆破事件〜40年目の真実」(2015年5月22日放送)ほか。
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