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カテゴリ:歴史関連 > ロシア革命史

◆ロシア革命前史〜イワン雷帝からピョートル大帝まで

トロツキーは、「(ロシアとは)ローマ文化の廃墟に住みついた西の蛮族」が作り出した国であるという。トロツキーの言うところの「西の蛮族」が東方の草原地帯の遊牧民と、タタールやビザンチウムと戦いや交易を繰り広げながら長い年月を重ね、16世紀に【雷帝】こと、イワン4世が残忍さを伴う強烈な力で北へ東へと領土を拡大し、全ロシアの皇帝(ツァーリ)となった。イワン4世(生年1530〜1584年)を特に猴訥覘瓩半里垢襦

東ローマ帝国の継承者を名乗ったのはイワン3世であるが、領土を拡大し、且つ、他の大貴族を恐怖政治によって抑え付け、特別に強大な君主を意味する【ツァーリ】もしくは【ツァー】というロシア特有の皇帝の称号を始めた名乗ったのも、このイワン4世である。

この雷帝没後、大ロシアは王朝同士が激しく争い合い、西暦1613年に貴族とローマ正教会の聖職者たちは、ミハイル・ロマノフをツァーリに選出した。これが1917年まで、300年以上も継続するロマノフ王朝であり、政治体制を踏まえた呼称は、帝政ロシアとなる。

ツァーリ(皇帝)の中にはイワン雷帝の他にも、一人だけ、重視されるツァーリが在る。それがピョートル1世であり、このピョートル1世がピョートル大帝(生年1672〜1725年)と呼ばれる。

ピョートル大帝は1682年に即位、1696年にトルコからアゾフ地方を奪い取り、その後も西欧文明の摂取に努めるという方針を採って、バルト海沿岸、カスピ海沿岸にも領土を拡張する。

ピョートル大帝は正教両面での首長となり、中央政府に元老院を置いて行政を監督させ、科学アカデミーを設置するなどしてロシアを一気に西欧化させた人物である。

そのピョートル大帝の功績の一つに、魔都サンクト・ペテルブルクの建設を挙げることが出来る。サンクト・ぺテルグルクは、ペテルブルクとも略されるロシア北西部にある都市で、現在のロシアの版図に於いてもモスクワに次ぐロシア第二の都市である。位置はバルト海の支湾、フィンランド湾の湾奥に流入するネバ川河口の三角州に位置する。

この魔都サンクト・ペテルブルクは、1703年にピョートル大帝がネバ川右岸にペトロパブロフスク要塞を築いたの事に始まる。元々はスウェーデン帝国の領土であったが、大北方戦争にでロシアが奪い取った土地であった。ピョートル大帝は、その地を狹圻瓩板蠅瓠▲團隋璽肇訛臘觴らの守護聖人の名に因んで、その地をサンクト・ペテルブルクと命名した――。

そのサンクト・ペテルブルクは、1712年より、モスクワに代わって帝政ロシアの首都となる。1914年からはロシア語読みのペトログラードとなり、1924年になるとソビエト連邦を創造した男・レーニンに因んでレニングラードに改称され、1991年のソビエト崩壊に伴い、旧称のサンクト・ペテルブルクという呼称が復活、正式に改称される。

ドフトエフスキーはサンクト・ペテルブルクを「地球上で最も抽象的で人工的な都市」と云ったという。ピョートル大帝は、スウェーデンの襲来に備えて要塞を建設したのが事実であり、史実としてはスウェーデンの襲来は起こらず、確かに、最も抽象的な存在である。また、現在もエルミタージュ美術館がサンクト・ペテルブルクに在するように街の設計は慎みのあるバロック様式にして壮麗と評され、実際に人工的な街なのだという。スラヴ的後進性を取り返さんと発想したピョートル大帝は技術の粋を結集してサンクト・ペテルブルクの建設を命じた。

(このスラブ的後進性の克服は、ロシアにとっては宿命であり、19世紀末に始まるシベリア鉄道の敷設は「万里の長城以来の大事業」と呼ばれるほど大掛かりな事業が行なわれる事と関係している。)

そのサンクト・ペテルブルクの建設には何十万人もの農奴や懲役囚に強制労働が課され、実際にばたばたと死んでいったという。その為、サンクト・ペテルブルクの地下には10万の人の死体が埋まっているとされる。或る者は、サンクト・ペテルブルクを「骨の上に建てられた街」と呼ぶという。

まさしく、その地は魔都であり、第二次大戦中には1941年から1944年にかけての29ヶ月間、このレニングラードはナチスドイツ軍に包囲され、激しい戦闘が展開されたが最後の最後まで魔都レニングラードは陥落するは無かった。

その魔の都こそが、ロシア革命の舞台ともなっている。


いやいや、ロシア革命の話というのは、ホントに神話と歴史の間ですかねぇ。幻想の話ようでいて、幻想ではない。ロシア革命そのものが叙事詩なのだ。

◆ナロードニキ&「人民の中へ」

ロシアに於ける人民主義運動もしくは農奴解放運動は、ブリタニカ国際大百科では1860年代からとされている一方で、1870年代にゲルツェンの思想に基づくという説明が定着している。それがロシアに於ける広義での反帝国主義を掲げた民衆運動に位置付ける事が出来そう。特に農民に主眼が置かれており、農奴解放という意味合いが強く、そこから「人民主義・人民主義者・革命運動・革命家」等の多義な意味として使用される爛淵蹇璽疋縫瓩台頭し、その気運が高まってゆく。

このナロードニキについてなのですが、どうも色々な著書に目を通してみると、ゲルツェンに始まるというくだりは、思想家のアレクサンドル・ゲルツェン(生年1812〜1870年)の1850年代初頭の主張に根差しており、

「ロシアの未来を担うのは農民だ!」

という言葉あたりを起源としているという意味のよう。著書も多数あり、その論旨はナロードニキの思想の骨格になっている。なので、ナロードニキに関しての記述には多少のばらつきが確認できますが、おそらくは、ゲルツェンの思想に肉付けされるかたちでロシアに人民主義思想が生まれたものが、ナロードニキの起源と推定できる。おそらく、起源は1870年代ではなく、1860年代でしょう。

また、ナロードニキには「創設者」とも呼ばれる人物がおり、それは思想家ニコライ・チェルヌイシェフスキー(生年1828〜1889年)であるという。急進的専制批判をした為に1862年に逮捕され、そのまま終身刑を言い渡され、獄中にて『何をするべきか』を執筆。その『何をするべきか』が当時の革命青年たちの必須の愛読書になったという。チェルヌイシェフスキー自身はシベリア流刑となり、約20年後には釈放されるが、間もなく死亡したという伝説的な人物であるという。

ナロードニキは、やがて帝政打倒を掲げる革命思想へと発展してゆく。初期段階では農村共同体(ミール)を基礎にした新しい社会の構築を目指していたとされる。このナロードニキらがロシア革命の原動力になっており、マルクス主義とは、やや距離を置いたものであるのが分かる。マルクス主義、マルクス思想をロシアに持ち込むのは後に登場するプレハーノフやレーニンらである。

ナロードニキ運動に特徴的なものは、マルクスが歴史のプロセスとしてブルジョア革命が起こり、その後にプロレタリア革命となるという経緯にあったが、ナロードニキは農村共同体を軸に於いていたのでマルクス思想との間には差異があり、工場労働者を軽視する形でスタートしたという。

また、ナロードニキ運動の特徴として、狄楊韻涼罎忰瓩箸い政治哲学が在る。

「ブ・ナロード!」(人民の中へ!)

というスローガンによって、ロシアの革命家たちは自ら農民らの中に飛び込んで、そこで革命勢力を形成してゆくという活動を展開した。この「人民の中へ」の理論的指導者はミハエル・バクーニン(生年1814〜1876年)と、パーヴェル・ラブロフ(生年1823〜1900年/名前はピョートル・ラブロフ?)であった。実は、バクーニンはモスクワ時代に前述のゲルツェンと知り合いであったらしく、1850年代からナロードニキの基礎概念はロシアに根差していたようにも推測できる。

しかし、このナロードニキもバクーニンが一揆をも厭わぬ一揆派(ブンターリー)を形成し、一方のラブロフらは啓蒙派(プロパガンジズト)とに分派した。バクーニンの方はロシアを飛び出して、フランスのプルードンが提唱した無政府主義思想の継承者として、マルクス主義の祖であるカール・マルクスと敵対する社会主義論陣を形成してゆく。


アレクサンドル・ゲルツェン(1812〜1870年)

ミハエル・アレクサンドロビチ・バクーニン(1814〜1876年)

ニコライ・チェルヌイシェフスキー(1828〜1889年)

パーヴェル・ラブロフ(1823〜1900年)



◆トレポス警察署長狙撃事件

ナロードニキから派生するかたちで、1876年、結社「土地と自由」がペテルブルクに結成される。その結社「土地と自由」には、プレハーノフらが参加していた。

ナロードニキ運動はマルクス主義思想を取り入れてはいたが「歴史の発展に関する理論」を修正し、工業プロレタリアートの存在を無視していた。この結社「土地と自由」は、更にマルクス思想を軽視して農村共同体を重視したナロードニキの伝統思想を強化し、「資本主義を経過することなく、農村共同体から社会主義に移行できる」という政治思想を持っていた。(後に、プレハーノフはマルクス主義に転身し、古巣であるナロードニキ系統に対して批判に転じる。)

ナロードニキ運動では一揆派と啓蒙派、これは言い換えれば、急進派と穏健派との対立であるが、その対立は常に起こり、その中で、一つの転機が起こる。

1878年、小貴族の家に生まれた若き女性活動家であったヴェラ・ザスーリチの起こした一つの騒動であった。

ペテルブルクの警察署長フョードル・トレポスは、

「礼儀を知らない囚人は鞭で打ち付けるように」

という命令を発し、当時のインテリや活動家から不興を買っていたという。その発言に憤慨した一人であったザスーリチは、ポケットに回転式拳銃を忍ばせて隠し持ち、トレポス警察署長に向けて発砲、重傷を負わせるというテロに及んだのだった。

警察署長暗殺未遂事件を起こしたザスーリチは厳罰が処されてもおかしくなかったが、既に世論が反体制に傾いていたらしく、陪審によってザスーリチは無罪となって釈放され、スイスへ逃亡する。

ザスーリチの警察署長狙撃事件を経て、ナロードニキ全体及び、その結社「土地と自由」でも急進派と穏健派の対立が高まり、1879年、プレハーノフはテロに反対して分派する。

ザスーリチは、後に前述のプレハーノフらと共に、スイスのジュネーブでロシア初のマルクス主義団体「労働解放団」を発足させ、ナロードニキの「農村共同体から資本主義を経ずに社会主義を実現できる」を批判する論陣を形成する。プレハーノフは「ロシア・マルクス主義の父」と呼ばれる事になる。

ゲオルグ・ヴァレンチノヴィッチ・プレハーノフ(1856〜1918)

ヴェラ・ザスーリチ(1849〜1919年)

◆「解放皇帝」暗殺事件

ザスーリチによるペテルブルク警察署長暗殺未遂事件の後、ナロードニキ及び結社「土地と自由」ではテロ行為の是非を巡って穏健派と急進派の対立が明確になってくる。急進派は帝政打倒の為のテロを頻発させるようになる。

1879年にソロビヨフによる皇帝暗殺未遂事件が発生。

皇帝暗殺事件を受けて、「土地と自由」から「人民の意志」が分派する。穏健派が「土地と自由」であり、急進派が「人民の意志」である。この頃から【結社】ではなく、「土地と自由(党)」、「人民の意志(党)」という【党】という記述が増えてゆく。この頃より中央執行委員会による決定が絶対視されるような集権体制となり、故に【党】という風に記述されていると推定。

分派後も、人民の意志(党)によるテロ事件として、1879年11月、皇帝列車に爆薬を仕掛けられる。

そして、1881年3月を迎える。

テロリストたちの標的となったのは、農奴解放に踏み切った事から「解放皇帝」の異名も持つ、皇帝アレクサンドル二世(生年1818〜1881年/在位1855〜1881年)であった。

このアレクサンドル2世は、農奴解放を実行したように必ずしも圧政を布いていた訳ではなかった。父ニコライ1世がクリミヤ戦争で敗北、絶望のうちに急死したのを受けて1855年に即位。即位後の1856年にはパリ講和条約で戦争の後始末をし、国内改革に取り掛かった。その大きな目玉の一つが1861年の農奴解放と、【ゼムストボ】と呼ばれる地方自治組織を設置しての上からの行政改革であった。しかし、それは「上からの改革」であり、「中央集権ツァーリズムが、その上からの目線で地方に課した行政改革」であった為に、より行政組織や地主階級との間での癒着が巧妙化し、結局は民衆の不満を逆に高めることになってしまったという。

1881年3月の第一日曜日、皇帝は馬車に乗ってペテルブルクの乗馬学校へ向かっていた。その途中、群衆を掻き分けるようにして、人民の意志党の若き活動家ニコライ・ルイサコフが現われ、ハンカチに包んだ爆弾を皇帝の馬車へと投げつけた。激しい爆発であったらしく、見物人たちの中にも負傷者があり、また、不意の爆発によって大きな悲鳴が一帯に響き渡った。

皇帝を乗せた馬車はよろよろと停車し、その馬車から、皇帝アレクサンドル2世が、やはり、よろよろと姿を現した。人民の意志党の若きテロリストたちは入念であった。今度は、ルイサコフの同志でのイグナツィ・フリニェヴィツキが二個目となる爆弾を皇帝アレクサンドル2世に投げつけた。

再びの大爆発。雪煙の中に、残骸と血が飛び散った。皇帝アレクサンドル2世は、衣服、肩章、サーベルの断片、それと、血まみれの肉塊とになっていた。

この皇帝暗殺が、ナロードニキ運動の最盛期とされる。皇帝の暗殺に成功したものの、それは急進派の勝利とはならなかった。何故なら、アレクサンドル2世の暗殺を受けて新皇帝になったアレクサンドル3世は、苛烈な政治体制を敷き、人民の意志党員らに対しても処刑にするなどの徹底した対抗措置をとった為であった。新皇帝アレクサンドル3世は、ロシアにあった【オフラナ】と呼ばれる政治警察を再編成し、苛烈な弾圧を行なったという。

【ポグロム】と呼ばれるユダヤ人を標的とした組織的な暴動と殺戮が起こったという。少数民族であるユダヤ人に対しては伝統的に差別的な扱いがロシアにはあり、居住区が法律的に制限されていた等の下地があったが、何か国家の危機のような出来事が発生すると、何もかもをユダヤ人の仕業にしようとする屈折が世俗社会と統治体制との間にあったという。平たく言えば、ガス抜きの為のスケープゴートにされていたのがユダヤ人であり、不都合があれば、なにもかもをユダヤ人の所為だという風に片付けようとするものであるという。


そんな新皇帝アレクサンドル3世に対しても、尚も、襲撃計画を練ったナロードニキ分子があった。

1887年3月、ペテルブルク警察は新皇帝暗殺を画策していたとして5名の学生活動家を逮捕、最終的に絞首刑に処した。

その処刑された5人の学生の中にアレクサンドル・ウリヤノフという一人の学生が在った。そのアレクサンドル・ウリヤノフには弟があり、その弟の名はウラジーミル・ウリヤノフと云った。

ウラジーミル・ウリヤノフ。

ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。

その名は、レーニンの本名であった。

レーニンの誕生年は1870年なので、この実兄が処刑された1887年にレーニンは16〜17歳であったことになる。レーニンはというと、17歳の頃から革命運動に参加するようになったとされる。

ウラジミール・イリイチ・レーニン(1870〜1924)

◆ニコライ皇太子の憂鬱〜大津事件編

新たに即位した皇帝アレクサンドル3世の時世は、ロシアにとって資本主義への移行期であり、目玉になっていたのは、インフラ整備、その中でも群を抜いて大きな事業はシベリアを横断する鉄道、即ちシベリア鉄道の敷設であった。

アレクサンドル3世の長男はニコライ・アレクサンドロヴィッチであり、ニコライ皇太子であった。このニコライ皇太子は、1891年4月、訪日している。訪日した理由はシベリア鉄道の起工式に出席するにあたり、ギリシャのジョージ親王を伴って国賓として来遊したものであった。

1891年4月21日に長崎に来遊し、鹿児島を経由して神戸を経て、5月9日に京都に到着。同月11日からは接待の責任者であった有栖川宮親王がニコライ露皇太子とジョージ希親王を滋賀県の三井寺に案内するという日程をこなしていた。

滋賀県庁に立ち寄って京都の旅館へ戻る行程で、ニコライ皇太子に、また、当時の日本政府にとって、信じられない出来事が起こってしまう。世に言う、大津事件が発生したのだ。

沿道を警備していた警察官の一人、津田三蔵巡査が乱心。突如として、腰に差していたサーベルを抜いて、人力車に乗っていたニコライ皇太子に斬り掛かるという衝撃的な事件が発生した。

警備体制としては8メートル置きに警官を配置し、沿道の警備にあたっていたが、津田巡査を制止できる警官はなく、津田巡査はサーベルを両手で上段に振り上げて、車上のニコライ皇太子の頭部にサーベルで二度も斬りつけたのだ。ニコライ皇太子は咄嗟に人力車を降りて、人力車の左後方へと逃げた。津田巡査は尚もニコライ皇太子を襲撃せんと追い掛ける素振りを見せたが、車夫と、後続の人力車に乗っていたジョージ親王とが、果敢にも乱心者・津田を制止に入った。ジョージ親王は勇敢にも携帯していた竹鞭で津田を叩き、また、人力車の車夫は津田のサーベルを奪い取り、そのまま津田の首筋と背中とを斬りつける形で、津田三蔵を捕縛した――という。

日本の明治政府は事態に激しく動揺したという。ニコライ皇太子の怪我は命に別状のある状態ではなかったが、国賓として招致した皇太子に警察官が斬り掛かったというのは覆しようのない事実であり、ロシア政府に対して申し開きに苦慮するという事態に陥ったという。(「これは戦争になってしまう」とホントに大慌てするような大事件であったという。)

しかし、当のニコライ皇太子の傷の程度は不明ながら、当時の目撃者証言によると、負傷後にも人力車の車上で、巻煙草を吹かしていた姿が目撃されており、動揺した様子や、激怒している様子は確認できなかったという。

日本中が大津事件でテンテコマイになるが、実はニコライ皇太子は「表情の乏しい人物/感情の起伏に乏しい人物」という評がある。ニコライ皇太子は幼少期から父のアレクサンドル3世から、虐待まがいの厳格な教育を受けていたので、感情を顕わにしないタイプの人物だったらしいのだ。

事件の翌日には明治天皇自らがニコライ皇太子の御見舞いの為に京都へ行幸し、接待の責任者であった有栖川宮は「謝罪使」としてロシアに赴いたという大騒動であった。

外交上の理由から日本政府は、津田三蔵を日本皇族に対しての謀殺未遂と同じように大逆罪として裁き、死刑にし、それでロシア政府からの報復を回避したい、或いは日本政府側としての謝罪するにあたっての申し開きの手土産にしたいという意向があった。その為、明治政府は司法に政治的圧力をかけた。しかし、この大津事件は司法関係者、特に大審院長の児島惟謙(こじまいけん)が、司法の独立を強く打ち出し、政治的圧力を排除して、注目された臨時法廷では通常の刑に適用される謀殺未遂罪とした。(法曹関係者の間では、この大津事件は司法の独立が守られた事例として、重視されているという。)

この大津事件は中谷陽二著『精神鑑定の事件史』(中公新書)で詳しく取り上げられている。津田自身は供述として「戦争の下見をしているのだと思い込み、愛国心に駆られてやった」としている。当時の日本には、ロシアの皇太子が戦争の下見で来日するらしいという風聞が実際に有った事から一定の整合性を持っている。しかし、実は津田巡査には斬り掛かった瞬間や、後に自分が取り押さえられた状況の記憶がすっぽりと抜け落ちており、典型的な猴霓喚瓩任△辰燭箸靴討い襦E時の日本人には【ゼノフォビア】(外人恐怖症)があり、体躯が大きく容貌も異なる異国人が意味もなく斬りつけられる事件が他にも在ったことを指摘している。また、緊張が頂点に達したときに自制心を喪失するという何某かの精神疾患の可能性が見えると言及している。

つまり、津田三蔵は「愛国心に駆られてやった。自刃したい」と供述していたが、そうなっているのは、元薩摩藩士であった自分や自分の身内の名誉の為にそう述べているのであり、愛国心云々も影響はしていただろうが、実際には精神疾患からくる乱心(何しろ、本人に記憶がないのだ)だったであろう事を指摘している。

幸いにも、大津事件は大事になることなく、日本政府はロシア政府から法外な賠償を求められるような事態には到らなかった。しかし、このニコライ皇太子がアレクサンドル3世の次のロシア皇帝である。

アレクサンドル3世は思いの外、早世で在位期間は13年間、西暦1894年に自然死で没し、ニコライ2世がロマノフ王朝最後の皇帝となり、日本とロシアとの間では日露戦争が起こる。

◆ニコライ2世の憂鬱〜怪僧ラスプーチン編

アレクサンドル3世の外交政策は当初はドイツ、オーストリアと三帝同盟と呼ばれる同盟関係を構築するが、後にフランスへと接近していき、1891年から1894年の間は露仏同盟を結んでいる。その間に、皇太子のニコライ・アレクサンドロヴィッチに、インド、中国、そして日本を歴訪させていたという事になる。(大津事件は1891年である。)

ニコライ2世は1894年、父のアレクサンドル3世の急逝後に急いで婚姻し、后を迎えた。后となったのはドイツ帝国の領邦国(半自立国)であったヘッセン大公国の大公の末娘のアレクサンドラ・フョードロヴナ、通称アリックスであった。アリックスは血統的には英ヴィクトリア女王の孫娘にあたり、幼少期から英ヴィクトリア女王の元で育ったという血筋であった。

ニコライ二世とアリックスとの間には、4人の娘と1人の息子が誕生した。息子はアレクセイといい、次代のロマノフ王朝の継承者となる事が期待された。しかし、一人息子のアレクセイは血友病に罹患しており、それがニコライ2世を憂鬱にさせていた。アリックスはというと、更に憂鬱になっていた。

そんな中、ロシア史の隙間に登場したのが、怪僧ラスプーチン(生年1864/1865〜1916年)であった。ラスプーチンはシベリア地方の農民の子として生まれ、キリスト教の一分派であるという「鞭打ち教」に加わり、放蕩を尽した人物であるという。1902年頃から「聖僧」、「預言者」と噂されるようになり、1904年頃からペテルブルクの社交界に顔を出すようになったという。その後、皇太子アレクセイの血友病に悩んでいたアリックス皇后に近づいた。アレクセイ皇太子は出血すると出血が止まらなくなるという症状を抱えていたが、ラスプーチンは催眠療法らしきものを施して、アレクセイ皇太子の出血を何度か止めてみせたという。

やがて、アリックス皇后はラスプーチンに深く心酔するようになり、また、ニコライ2世もラスプーチンを心酔するようになったという。


◆マルクス思想の伝播

ニコライ2世が皇帝に即位した後も国内情勢は不満が蓄積してゆく。外交策として帝国主義路線に舵を切っていた。それはロシアに限った事ではなかったが西洋諸国の間で植民地主義が競い合われていた時代であった。それらは飢饉とも重なって、少数派の犠牲の上に実現している帝国主義的繁栄として人々の目に映り出していた。よって、この機のイデオロギーは、単純に社会主義思想の盛り上がりだけではなく、民族主義者をも含めたものとなってゆく。ナロードニキ運動にしても、農奴解放思想からスタートしており、実は犲民族中心主義瓩般接に関係している。で、これは国家という統治機構を持ち上げる牋国主義瓩箸六ているが実は本質的な差異がある。

ロシアに起こったナロードニキ運動は徐々に進化してゆく。

1901年、社会改革党(通称エスエル)が発足する。このエスエルは【SR】と表記して「エスエル」と読む。このエスエルはナロードニキ思想の伝統を継承して誕生した政党であり、農民労働者階級を中心に形成され、そこに急進的な学生、更には急進的なインテリゲンチャが参加していた。急進派と穏健派とに分派し、急進派が「人民の意志」、穏健派が「土地と自由」になっていたが、このエスエルの中核となる政治理念は倏清伴匆饉腟銑瓩任△辰拭L渭澄△なりの急進派である。(政治思想、理念としては明らかにマルクス主義ではないが、当事者たちの中にはマルクス主義のつもりである者も含まれていたという。)


ロシアのマルクス主義者たちは――実兄を処刑されたウラジーミル・ウリヤノフこと、レーニンはというと、既に闘争の火花を散らしていた。

先ず、ナロードニキの急進的な動きに嫌気を指していたプレハーノフが、1880年にロシアを脱出。1882年(一説に1883年)、スイスはジュネーブでザスーリチと共に労働解放団を結成。この労働解放団はマルクス&エンゲルスの翻訳を手掛け、またマルクスやエンゲルスとも交信を取るようになり、ロシア・マルクス主義の先駆的存在とになっていた。


1895年、ロシア国内都市、モスクワ、キエフ、エカテリノスラフ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、そしてペテルブルクといった各都市で、労働者階級解放闘争同盟(余りにも長いので労働者解放同盟に略されている場合が多い。)が立ち上がった。立ち上げたのは、熱意溢れる二人の若者であった。

一人はユダヤ系ロシア人のユーリー・ツェデルバウムで、もう一人はウラジーミル・ウリヤノフ。これは、順番通りに並べると「マルトフ」と「レーニン」の二人である。マルトフ、或いはレーニンといった呼称は元々はペンネームだという。この時代、政治活動をするにはペンネームが必須だったのだ。

マルトフ(1873〜1923)はコンスタンチノープル生まれ。大物ユダヤ人出版社の孫という素姓を持ち、学生時代からペテルブルクの革命運動に参加。1890年代にユダヤ系社会主義政党ブントの立ち上げの中心的役割を果たしたという。また、このマルトフは1893〜1895年まではシベリアに流刑されている。そのマルトフと一緒に労働者解放同盟を各地につくったのが、かのレーニンであった。

また、この1895年、プレハーノフはレーニンと初めて出会う。

レーニンの方はというと、1897〜1900年までの間、シベリア流刑に遭っている。

レーニンが流刑中の1898年、マルトフ、そしてプレハーノフ、流刑地のレーニンまでもが参加する形で、ロシア社会民主労働党を創設する。

1902年、ロンドンにてレオン・トロツキーがレーニンと初めて出会う。このトロツキーはロシア社会民主労働党に属することなく、反戦派の社会主義者の集まりに参加していた。また、このトロツキーも1900年からシベリア流刑を食らっていたが、1902年に脱走し、ロンドンのレーニンに会いに行った。「トロツキー」は通称だが、これはペンネームではなく、この脱走したときに名乗る偽名が必要となり、咄嗟に看守の名前「トロツキー」を使用した事により、以降、トロツキーが通称となる。

レーニンはトロツキーにロンドン市内の案内をするなどしている。レーニンはトロツキーの高い能力に魅了され、ロシア社会民主労働党の機関紙「イスクラ」の編集に加えたがるが、その要求はプレハーノフによって断られてしまう。(この機関紙「イスクラ」は「火花」の意で、この党機関紙は大きな影響力を持っていたとされる。)

このロシア社会民主労働党こそが後のソビエト共産党の母体となっている。しかし、このロシア社会民主労働党も、1903年、レーニンのボルシェビキと、マルトフのメンシェビキとに分派してゆく。


(ようやく、プレハーノフ、ザスーリチ、レーニン、マルトフ、トロツキーといった面々が出揃いました。よくよく主張を並べてみると純正マルクス主義、もしくは王道としてのマルクス主義はプレハーノフあたりで、レーニン&トロツキーの方には、ややトリックスター的な立ち位置に見えますかねぇ。)


急に登場人物が増えましたが、マルトフは、本名をユーリー・オシポヴィッチ・ツェデルバウムという。静かなカフェが好きで入り浸っていたといい、よく喋る人物であったが演説はからっきし苦手であったという。人に好かれ、また、組織内で起こる陰謀めいた覇権争いとは無縁で、いつも、労働者のような疲れた服装を着ていたという。ひょろりとした体系で、鼻眼鏡がトレードマーク。

レーニンは、若禿げで、子供好き、猫好き、大声で笑うといった情報が差し障りのないところでしょうが、実際には「会う人誰もが魅了されてしまう人物」であったという。

ジャイルズ・ミルトン著・築地誠子訳『レーニン対イギリス秘密情報部』(原書房)では、MI−6の前身であるイギリス情報部がレーニンを調べていたメモが明かされている。それによると、

「人並み以下の身長に、短剣のような細い目をした醜い禿げの男は、何とも形容しがたい、尊大な主人のような眼差しで集まっていた人々を見た」

「アジア人の風貌をした小男で」


といったような具合で、特異なカリスマ性を持った人物であることが逆に読み取れてしまう。そんなに長身ではなく、禿げ頭。アジア人のような、また、短剣のような細い目。また、特徴的な尖った顎。しかし、そんなレーニンは、群衆を熱狂に包んでしまう不思議な、カリスマ性を持っていた。

メモは続けて、

「一言も発しないうちに、この見るからに貧相な小男は、これまでに聴衆が経験したこともないような方法で自分の存在を印象づけたのである」

「この男の正体が何であれ、私は彼が超人や怪物のように見えた」

「あたりには怖ろしい不吉な気配が漂っていたが、人々は彼に魅了されていた」


敵対関係にあったイギリス人スパイからしても、レーニンとは、そのように見えたという事なのだ。

レーニンは、活字や演説では人々を圧倒して釘付けにしてしまう、不思議な力があったという。内気ところがあるが陽気で、よく大声で笑う。怪物的であり、悪魔的であり、崇拝者からすると「神の如き天才」となる。そして、血や骨の髄に到るまで政治の事以外には何もないような人物であった――と。


最後にトロツキー。本名はレフ・ダヴィドヴィッチ・ブロンシュタインで、ユダヤ人農家の出身である。容姿も非常に特徴的で、モジャモジャ頭にモジャモジャの髭がトレードマーク。気難しいところがあったのか、知識に関しては頑固であり、短気であり、威張って見えるような事があったという。また、空気が読めなかったのか、熱心なマルクス主義者の前で、「全てのマルクス主義者に災いあれ!」という掛け声で乾杯の音頭をとって場の空気を凍らせてしまうような、やや知識偏重傾向というかカタブツの人物像が浮かび上がりそう。レーニンがトロツキーを重用する時期があり、その頃には周囲はトロツキーの事を「レーニンの棍棒」と陰口を叩いていたともいう。

レーニンが世に出たのは、マルトフと共に労働者階級解放同盟を各地で旗揚げした事に拠り、つまり、マルトフを相棒にして歴史舞台に登場した。しかし、ロシア系のマルクス主義者が結集したロシア社会民主労働党を旗揚げした後はトロツキーを相棒にしているという流れが、怪物レーニン並びにボルシェビキの歩みという感じ。


ニコライ2世(1865〜1918)

怪僧ラスプーチン(1864 or 1865〜1916)

ユーリー・オシポヴィッチ・マルトフ(1873〜1923)

レオン・トロツキー(1879〜1940)

◆日露戦争

帝政ロシアは帝国主義的拡張政策を東方のアジアへと向けていた。トルキスタンとパミール、更には朝鮮半島にも手を伸ばそうとした。ロシアは中国(清王朝)の協力を得てシベリア鉄道の建設を続ける中で、拡張路線にあった日本と衝突する事となる。

ロシアは日本と軍事衝突をしても万に一つも敗戦はないものと感じ取っていたらしく、当時のフォン・ブレーヴェ内務大臣は、「革命の潮流を食い止めるために、ちょっとした勝ち戦が必要だ」と語っていたという。つまり、国内の革命気運を鎮静化する為の勝ち戦をするぐらいのつもりだったのだ。また、皇帝ニコライ2世は、訪日時に津田巡査に襲撃されて頭部を負傷した大津事件の被害者その人であったが、日本人を「猿」と呼んでいたという。

当時の状況を、少しだけ掘り下げてみる。既に中国は欧米列強の分割競争の舞台となっており、1900年に清は義和団運動という民衆蜂起が起こり、その鎮圧にかこつけて日本、ロシアを含む列強8ヵ国が中国に連合軍を派遣し、その鎮圧にあたった。ロシアは満州に大量の鎮圧軍を送り込んだが、鎮圧後も満州に居座り、事実上の占領をしていた。日本は当初、大国ロシアと衝突する事を避けようとするが、1902年に日英同盟を締結させると、次第にロシアと対決する姿勢に変わっていった。(イギリスとアメリカは、ロシアと日本であれば日本に好意的であったという裏事情もありそう。)

1896年、ロシアは中国(清王朝)と対日同盟を結び、シベリア鉄道の敷設権を得て、中国領の満州の一部を路線地の足場として、拠点を形成する。

1898年、ロシアは中国(清王朝)に遼東半島南端の旅順港の租借権を獲得。

1900年、ロシアは義和団の乱の鎮圧軍を満州に送り、そのまま居残り、朝鮮半島に色気を見せる。

1903年、ロシアが満州からの撤兵同意を翻意したのを契機に、日本は対露開戦を決意。

1904年2月8日、日本による仁川沖、旅順港奇襲によって開戦。

1904年2月10日、日本は宣戦布告。以降、日本が苦戦しながらも有利に戦争を進めてゆく。

1904年5月、日本軍が遼東半島に上陸。

1904年8〜9月、遼陽会戦(陸戦)を日本軍が制する。日本軍13万、ロシア軍22万。日本は遼陽占領を果たしたが犠牲者はロシア軍を上回り、以降、補充兵が32歳以上の老兵となる。

1904年10月、沙河(さか)会戦(陸戦)。遼陽の北方の沙河での会戦。消耗の激しい日本軍に対してロシア軍が総攻撃を仕掛けたもの。日本軍は戦線を死守したが2万の死者と弾薬不足が発生。日本軍は苦戦を強いられながらも奉天へと軍を進める。

1905年1月、旅順攻囲戦。ロシア軍が築いていた旅順要塞は太平洋艦隊が常駐し、「東洋一」と評された近代化された軍事要塞であった。日本海軍は当初は狭い港口に閉じ込める作戦を採ったが失敗。援軍に最強と恐れられたバルチック艦隊の到着前に占領が必要となった。乃木希典VSステッセルが衝突したこの旅順攻囲戦は1904年5月から続き、1901年1月1日、ステッセル率いるロシア軍が降伏した。日本軍は勝利したが13万人を動員、死傷者は6万人に達した。

1905年3月、奉天会戦(陸戦)で日本軍25万、ロシア軍32万による決戦が展開される。大山巌VSクロパトキン。同月10日、日本軍25万は総攻撃を仕掛けるがロシア軍の逆襲に遭い、戦線は混乱。日本軍の第一線は潰走したという。ここでも日本軍は奉天の占領に成功するが死傷者7万を出し、本格的に日本軍は戦争継続が危ぶまれる事態へ。補給力が限界に達し、最早、講和工作に期待する状況だったという。(国内では、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を発表。)

1905年5月27〜28日、日本海海戦。ロシア軍が誇るバルチック艦隊を日本連合艦隊が破る歴史的会戦。東郷平八郎VSロジェストヴェンスキー。バルチック艦隊は戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、装甲海防艦3隻を基幹とする38隻から構成され、旗艦は「スオロフ」。日本連合艦隊は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦12隻、装甲海防観を基幹とする108隻から構成され旗艦は「三笠」。

バルチック艦隊は遥か喜望峰を迂回するというルートで日本海へ向かいウラジオストックを目指してが、これを日本連合艦隊が対馬沖で撃破した文字通り世界の海戦史に残る大海戦であった。予測ではバルチック艦隊が日本連合艦隊を圧倒すると思われたが、東郷平八郎率いる日本連合艦隊は敵の進行方向を塞ぐ敵前回頭(東郷ターン、もしくは丁字作戦)を敢行、日本連合艦隊の圧勝に終わった。被害状況はロシア側、戦艦8隻中6隻が撃沈、2隻を捕獲を含め、撃沈19隻、捕獲5隻、逃走沈没&自爆2隻、抑留8隻という壊滅的打撃を与えた。これによってロシアは有していた全ての海軍力を一時的に喪失するという衝撃的な敗北であったという。日本側の被害は水雷艇3隻が沈没のみであった。

(記憶では3〜4年前にもNHK制作の番組「その時、歴史が動いた」あたりで「丁字作戦」が取り上げられているのを視聴しましたが、丁字作戦が事実なのかには意見があるのだそうな。よう分からん。また、日本艦隊の速力が15キロノットであったのに対して、ロシア艦隊は9〜11キロノットであったという。)

おおよその日露戦争のあらましは上記のような感じですが、どんな事を思われたでしょ? 犠牲者出しながらも占領しているあたり、近代戦の割には精神力でフォローしたのかな的な…。とはいえ、どの戦闘でも日本が占領を果たしているから有利に進めていたんだよなって思うかも知れない。

しかし、これなんですが「安倍総理の先生」と呼ばれた岡崎久彦氏の著書『百年の遺産』(扶桑社文庫)では、やはり、日本海海戦までは勝敗は分からなかったとしている。日本海海戦前の段階でも、遼陽、旅順、奉天と手に入れているので有利に進めていたのように見えるんですが、日本軍は兵站が伸びきってしまっていて、戦争継続が危ぶまれたという状況に追い込まれていた事を指摘する。バルチック艦隊が日本海の制海権をとったら、日本軍は完全に補給路を断たれていたというのが、実相であるという。

ロシアの戦略は、伝統的なものであり、損害も少ないまま後退して、敵の兵站が伸び切らせてから、壊滅状態に追い込むものだという。この戦法はロシアの御家芸であり、ヒトラーのナチスドイツがこれでやられたのは有名ですが、そればかりではなく、かのナポレオン1世も、モスクワ遠征で同じようにロシアに敗れ、その敗北を契機にナポレオン時代を終わらせているという。

1812年、ナポレオンは61万2千という大軍勢でロシアへ攻め込み、そのままモスクワまで到達し、モスクワを炎上させることに成功。しかし、なんと、そこから長い長い敗走劇となって、潰滅。国境まで戻ってこられた軍勢は僅かに11万2千であったという。おそロシア。

また、岡崎久彦は日露戦争の舞台裏として、米英の支援を挙げている。イギリスがロシアが入手しようとしていた戦艦を日本に売るように仕向けていた事、更には、日本が戦費調達できたのは米英両国が戦時債を引き受けてくれた事が大きく、何故、米英が戦時債を引き受けてくれたのかというと、実はユダヤ系資本が関係しているという。帝政時代のロシアはポグロム(ユダヤ人迫害)を放置したり、利用していた節がある事からユダヤ系資本の怒りを買っており、それが関係して日本は戦費調達が出来たとしている。

◆血の日曜日

ロシア革命には第一次ロシア革命として1905年に民衆の抗議運動によって皇帝ニコライ2世から「十月詔書」を勝ち取ったという段階があり、その後の1917年を第二次ロシア革命(これにも二月革命と十月革命の二つがある)があって、こちらは二月革命によって帝政に終焉をもららせ、十月革命によって社会主義革命へと移行するという複雑な経過を辿る。古くは第一次ロシア革命と第二次ロシア革命と分けていたようですが、最近はロシア革命というと、主に1917年を指しているようですかね。

日露の戦争の最中、第一次ロシア革命を惹き起こす発端になったのは「血の日曜日」事件(【Bloody-Sunday】)と呼ばれる騒動に始まった。

これを惹き起こしたことにはゲオルギー・ガポン神父(生年1870〜1906年)が深く関係している。ガポン神父はロシア正教会の修道士であったが、政府の秘密警察と連携し、警察社会主義組合という性格の労働者団体を首都ペテルブルクで組織していた。労働者団体でありながら官許の労働者団体であり、しっかりと秘密警察に繋がっていたという。

実に些細な事が血の日曜日という惨劇を惹き起こしている。

とある金属機械工場で4名の労働者が解雇されたという事態が発生、同僚たちが不当解雇だと会合をしていうところに、ガポン神父が首を突っ込んだところから始まる。ガポン神父は、その席で労働者たちの間に「帝政打倒」を呼び掛けるビラを見つけ、それをびりびりに破り捨てる。しかし、労働者団体である手前、解雇された4人の労働者の復職を求めるという請願書をガポン神父は引き受けることになる。請願書の本旨は解雇された4名の復職を求めるものであったが、その請願書には他にも色々な内容が書き足されることになる。ガポン神父が書き足したのは賃上げ要求、衛生面の改善、労働時間8時間制であった。しかし、更に左派の連中が労働団体に存在し、集会と出版の自由、日露戦争の終結、憲法制定会議といった要求を書き足したという。

そして1905年1月3日、ペテルブルク全市でストライキが宣言された。すると、10万から15万の群衆が街頭に出てきて、デモ行進を始めた。

1月9日、当時のロシア暦では日曜日であったという、その日、労働者らのグループは皇帝の在する冬宮(とうきゅう)へ行進を始めた。このペテルブルクの冬宮はロシア・バロック建築の最大の建造物であり、歴代皇帝が住んだ宮殿であり、且つ、現在は一部がエルミタージュ美術館になっているという。

デモ行進は、皇帝に請願書を届ける、つまり、「直訴」という意味合いであったという。このデモ行進はガポン神父を先頭にして行われた。

なんなく鎮圧できたものと考えられるが、当局は実力行使で、このデモ行進に対応した。

コサック兵――この「コサック」とは農民ではなく、タタールの末裔とされる馬術に優れた南部ロシア、ポーランド、ウクライナ地方にいた人々であり、独自の軍事共同体を組織し、政権下では傭兵団として特別な扱いを受けていた人々であった。そのコサックが冬宮前広場でデモ隊を蹴散らさんと、サーベルを抜き、鞭を振るって、デモを鎮圧にかかった。

結果、冬宮前広場には、1500体の遺体が雪の中に横たわる惨劇となった。これを「血の日曜日」事件と呼ぶ。この「血の日曜日」事件はペテルブルクだけではなく、ロシア全土に拡散し、ロシア全土でゼネストが繰り広げられるという展開を見せる。


◆第一次ロシア革命

1905年は6月14日にはロシアの黒海艦隊の新鋭艦であったポチョムキン号で腐った肉のスープに抗議した水兵が将校に射殺された為に、水兵らが一斉蜂起し、他の将校らを監禁するというポチョムキン号の反乱事件が起こる。ポチョムキン号は赤旗を掲げてゼネストの行なわれていたオデッサ港に入港。水雷艇、監視船、戦艦などがポチョムキン号の反乱に応じるまでの騒ぎが拡大する。

ゼネストが各地で展開される事態に体制側も必死になったが、それは強烈なサディズムとなって表出する。国家に公認された伝統主義的なサディズムが疼くものらしく、何故か残虐なポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生する。これは警察が止める事もなく、いわば容認されているていユダヤ人に対しての集団リンチであり、キシニョフでは500人規模の被害者を出した虐殺事件であるという。また、そのキシニョフの虐殺では幼児の舌を切り取った等の残虐行為もみられたという。

この体制派、権威主義的な怒りの中から、ファシズムの原型とも言われるものが生まれたという。それは犢百人組瓩噺討个譴詁逝里涼里譴覆げ燭、伝統的・権威主義的な怒りが生み出す超反動的な各種のグループの総称であるという。

8月、ロシアは日露戦争中であったが国内も大混乱状態。皇帝ニコライ2世は妥協点を見い出さんと「ドゥーマ」と呼ばれる諮問議会の招集を発表する。この【ドゥーマ】とは、現代風に言い換えると上院と下院の下院にあたるという説明もある。しかし、選挙という代議制を用いようとした部分で新しいものであったが選挙制度は有産階級に有利なものであり、大衆の怒りを沈めることはできなかったという。

10月、モスクワの植字工の報酬は一文字につき賃金が設定されていたが、句読点も一文字にカウントすべきだと要求した小さな抗議活動が起こったが、これにパン焼き職人らが同情してストを起こすと、鉄道労働者から銀行員までもがストライキをし、更に波及して帝室バレエ団までもが講演を拒否、弁護士は公判を拒み、裁判官も審理を拒否するという大きなうねりとなったという。

10月13日、メンシェビキの画策によって、サンクトペテルブルク工科学校に、労働者の代表、エスエル、メンシェビキ、ボルシェビキが集結する。労働者は500人につき一人の代表を選出すべし――この集まりこそが「評議会」という意味で【ソビエト】なのだ。

10月17日、動乱の中、皇帝ニコライ2世は、ついに十月詔書を交付する。

人格の不可侵、思想・言論・集会・結社の自由、及びドゥーマ(議会)の開設と、ドゥーマの立法権を認める宣言した。もっとも、代議制が導入される事で自由主義者たちを喜ばせたが、その選挙権は都市部の男性労働者に対して限定的に認められたという。

また、この10月、オデッサでは超反動組織を意味するという黒百人組がポグロムを敢行し、400人を超えるユダヤ人が虐殺に遭ったという。

11月初旬、急進的な農民たちによる略奪や焼き討ちがロシア各地で起こる。ソビエト(評議会)は次から次へと形成されてゆく。

12月、モスクワで起こったゼネストはエスエルとボルシェビキのバックアップを受けて、都市反乱に発展。労働者たちは街頭にバリケードを張り巡らせる。

1906年1月、近衛連隊がペテルブルクから到着すると、革命分子が拠点としていた織物工を砲撃。蜂起派、250名が死亡する。これにより蜂起派は壊滅となり、実質的には第一次ロシア革命の終結に当たるという。

しかし、完全に火が消えることはなかった。

同じく1月、エスエル党員のマリア・スピリドーノヴァという21歳の女性が農民を酷く抑圧していた地元の治安責任者を射殺し、死刑宣告を受ける。この女テロリストであるスピリドーノヴァはシベリアの流刑地まで列車で移送されたが、列車が停車する度に群衆から歓声を浴びたという。

第一次ロシア革命では、死者は1万5千人、そして7万9千人が投獄または流刑に処されたという。また、米国ユダヤ人委員会によると、この1906年1月に人種差別による暴力で命を落とした者が4千人程度あったと証拠を揃えているともいう。

◆ロシアの自由主義・保守陣営

1905年の第一次ロシア革命とも呼ばれる革命運動の結果、皇帝ニコライ2世は十月詔書を交付。その十月詔書によって代議員選挙によって議員を選出させる議会「ドゥーマ」の設置が約束された。また、そのドゥーマには立法権も付与される事となった。

そのロシア政府の対応に応じる形で、ロシアに自由主義政党が登場する。

1.カデット(立憲民主党)
カデットは著名な歴史家であったというパヴェル・ミリュコーフ(生年1859〜1943年)を党首として形成された自由主義政党。このカデットは、都市ブルジョアと農村の進歩的中小地主、及び、自由職の穏健分子を支持基盤とした政党。党員はおよそ10万あり、その大半は中流の専門職であったされる。公民権、男性の普通選挙権、国内に於ける少数民族の一定の自治、穏健な土地改革と労働改革とを、党是として掲げた。

2.オクチャブリスト(十月党)
こちらはニコライ2世の十月詔書を支持する形で発足した政党で、政党の理念は立憲君主主義の確立を掲げる。大商工ブルジョア、地主層を支持基盤とする。規模はカデットの5分の1程度。政治イデオロギーでカデットと区別する為には、このオクチャブリストは「保守的な自由主義」であり、カデットが掲げている普通選挙には反対の立場である。(既得権益と直結しているから普通選挙では困るワケで、故に政治体制としての立憲制を維持して欲しいという。改めて、立憲君主主義。)大富豪のグチコフ(生年1862〜1936年)らが主要メンバー。

十月詔書が交付された後も、エスエルやボルシェビキの急進派は「(詔書を受け入れることは)現状追認になる!」として抵抗を呼び掛け、マリア・スピリドーノヴァのようなテロ活動は続いたが、また、混乱を収拾すべきという反動保守が猛威を振るい、革命支持者への弾圧が強まってゆく。

反動保守による革命分子弾圧の風の中で、世に台頭したのが、ストルイピン(生年1862〜1911年)であった。ピョートル・ストルイピンは、元々はサラトラ県の一知事であったが農民反乱の鎮圧の功によって頭角を現したという。このストルイピンは絞首刑を沢山行なったので、巷間では、首吊り用の縄に対して「ストルイピンのネクタイ」という隠語が生まれたという。

十月詔書に基づいて、その後、ドゥーマという議会が帝政ロシア政府内に生まれたものの、首相は皇帝による任命制で、当初はウィッテ(ヴィッテ)が首相に任命されていたが、その次には反動保守色の強いストルイピンが首相に任命される。

革命勢力への厳しい弾圧が始まり、ロシア社会民主労働党は最盛期には10万の党員を擁していたが、党員数は数千人単位にまで激減。(ボルシェビキの幹部になっていたレーニンは、最初はジュネーブへ、そこからパリへと亡命を続ける。)


◆議会ドゥーマの実態
十月詔書は空手形になるもなく、実際に1906年4月から二院制の議会が設置された。しかし、これは西洋国をはじめ、日本の議会導入と比較しても16年遅れのものであった。上院は国家評議会といい、これは以前にあった諮問議会を格下げしたもので、議員の半数までは身分制機関や帝国の統治を支える種々の団体が選出し、それを皇帝が任じるものであった。下院は新設された議会で、ここには政府に批判的な勢力が進出し、土地改革と諸民族の平等を強く訴えるようになった。しかし、このドゥーマは発足から三ヵ月後の1906年7月、皇帝ニコライ2世によって解散が命じられた。1906年4月から7月にかけてのドゥーマを第一ドゥーマと呼ぶ。

1907年2月から第二ドゥーマが開かれたが、こちらは更に政府に批判的な方向へ向かった為、首相になっていたストルイピンによって6月に解散、更に選挙法を大地主や都市富裕層に有利な制度に変更するという策を弄した。議会の承認なしに首相が選挙法を変えることは憲法違反であったが、このストルイピンの奇策によって1907年11月に召集された第三ドゥーマは親政府的な議会となった。

ボルシェビキ(ロシア社会民主労働党から分裂)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党から分裂)、エスエル(社会革命党/ナロードニキから発足)の上記3党は、しばしば選挙をボイコットしたという。エスエルは第二ドゥーマの選挙にしか参加しなかったという。

十月詔書が公布された後、新たにトルドビキという政党が発足していた。トルドビキとは【勤労者】を意味する言葉であり、語感はボルシェビキ、メンシェビキと似ているがロシア系マルクス主義の祖となるロシア社会民主労働党からの分派した政党ではない。飽くまで十月詔書によって設置されたドゥーマ(議会)で活躍する目的で発足した農村志向の政党で、第一ドゥーマ、第二ドゥーマでは活躍したという。

トルドビキと並んでドゥーマの主要勢力となったのは前出のカデット(立憲民主党)であった。著名な歴史学者であったミリュコーフを党首に沿え、大学講師や弁護士、更には改革派の貴族政治家も在籍しており、このカデットはイギリスを模した議会政治と立憲君主制の実現を訴えていた。

最後にオクチャブリスト(十月党)になりますが、こちらは現状維持派、帝政支持派の政党であった為に第一ドゥーマと第二ドゥーマでは議席数の獲得も少なかったが、ストルイピンの強引な選挙法改変によって、第三ドゥーマでは議席を伸ばしたという。この事は裏返すと第三ドゥーマに於いては、カデットとトルドビキが大きく議席を減少させた事を同時に意味している。このオクチャブリストの指導者としてロジャンコ(生年1859〜1924年)が台頭し、第三ドゥーマでは議長を務めるまでになる。

ストルイピン首相は第二ドゥーマを強引に解散、そして選挙法を改変した際、併せて社会主義者に対しての取り締まりをも強化し、容赦なく流刑に処していた事もあり、ボルシェビキ、メンシェビキ、エスエルの三党に対しては打撃となっていた。ボルシェビキの党員が10万から数千に激減した事とも関係しており、密告者に怯えるが余り、精神を病むものも多かったという。

更にストルイピン首相は「ミール」と呼ばれるロシアにあった伝統的な農村共同体の解散させ、小規模の自作農をつくりだそうとする。農民たちの間に私有権の喚起を促がして政府に親和的な階層を形成しようとしたともいう。

ストルイピンの農地改革は遅々としながらも動いていたはいたが、議会運営の中でオクチャブリストとの間で対立が発生。元々、体制支持派のオクチャブリストとストルイピンとは友好的な関係にあったが、首相を議会が任命する議員内閣制ではなく、皇帝が首相を指名するシステムであった為にオクチャブリストとストルイピンの対立が激化。1911年、ストルイピンはキエフで観劇中、二重スパイによって狙撃されて死亡する。

P.A.ストルイピン(1962〜1911)

アレクサンドル・グチコフ(1862〜1936)

ミハイル・ロジャンコ(1859〜1924)

◆ボルシェビキとメンシェビキ

1903年にロシア社会民主労働党はレーニン派とマルトフ派とに分裂した。レーニン派をボルシェビキ(ボリシェヴィキ)、マルトフ派をメンシェビキ(メンシェヴィキ)といい、ボルシェビキの方では、特に分裂した1903年以来のボルシェビキのメンバーを「オールド・ボルシェビキ」と呼んだ。ロシア革命以降、1918年にはボルシェビキが「ロシア共産党」となる。ボルシェビキという言葉には多数派の意味があり、対してメンシェビキは少数派の意である。

マルクス主義の生みの親であるカール・マルクス(生年1818〜1883年)は1883年に没しており、ロシアに於けるマルクス主義は既に拡大解釈も為される時代になっていたとされる。ナロードニキは少なくとも自分たちはマルクス主義の影響を受けていると考えていたし、また、ナロードニキを批判する中でロシア・マルクス主義が登場する。また、これも複雑な事に1900年代に入ると「マルクス主義は時代遅れだから改良する必要がある」のような気風となり、「合法マルクス主義或いは改良マルクス主義」も登場。この合法マルクス主義は折衷案であり、自由主義ブルジョア陣営と共同して一先ずはブルジョア革命を遂げてから漸次の変遷を遂げて社会主義革命とすべきだという主張であったが、レーニンはというと、これまた頑なに警戒したという。「妥協になってしまう」といのがレーニンの見解だったよう。

とはいうものの、実は生前のカール・マルクスはロシアでナロードニキ運動が起こっている事に対して、本物の革命になるのではないかと興味津々だったというから、どれが正統のマルクス主義なのかも実は分かり難い。しかし、一般論としてはマルクス主義の継承者として正統派とされていたのはドイツ社会民主党の指導者にして第二インターナショナルの指導者でもあったカウツキー(生年1854〜1938年)であった。(後述のローザ・ルクセンブルクがドイツ社会民主党の急進左派であったのに対して、カウツキーは中央派というポジションをとった。)


◆ロシアの資本主義の進捗度
十月詔書以降、ドゥーマと呼ばれる議会がまがりなりにも設置され、自由主義陣営、社会主義陣営、それと帝政保守陣営が登場して、ロシアの命運を語るイデオロギー対決になったときに、ロシアに於ける資本主義の進捗度というものが重要になってきそうですかね。ロシアはというと大きな流れで語れば、西洋の近代化に遅れを取っており、帝政ロシアは帝政ロシアなりに近代化を急いでいた。冒頭にてピョートル大帝が魔都サンクトペテルブルクを建設したのも、元々はロシアのスラヴ的後進性を払拭して近代化を急いでいたからであったと考えられる。

そして近代化を遂げるにあたり、その原動力となったのが資本主義原理であり、もう一つは附随してか膨張主義(覇権主義・帝国主義)であった。

資本主義によって市民ブルジョア層を厚くしてから、社会主義に移行するプロセスを踏むことが、一般的には正統とされるマルクス主義の思考であり、通説であった。従がって、ストルイピンの農業改革(1907〜1915年)にしても必要なプロセスであり、上手く移行する事が出来た可能性があるのではないかという指摘もある。実際に多くの歴史的見解は意外と肯定的であるという。

しかし、それに対しても全く別の見解があるよう。帝政ロシアは近代化を遂げていたし、それによって資本主義はとっくに根ついていたとも言えてしまう。帝政ロシアは近代化を急務とした頃からフランスを筆頭に外国資本を流入させていたというのが正しい。1915年には借款などでロシア国内の鉱山の90%、化学産業の50%、機械工場の40%、銀行の株式の42%は、西欧の外国資本が占めていたという。そして隣国にはドイツがあったのが現実であるという。

歴史学者の多くは今日的な価値観から眺めるので急進勢力のエスエルやボリシェビキを割り引いて語ってしまっている可能性がありそうですかねぇ。レーニンは、確かに1899年に『ロシアにおける資本主義の発展』を出版し、そこでは統計資料にあたっていたという。ロシアの実情とは、帝政ロシアという体制はしっかりして既に大国と見做されていたものの、国内の事情はガタガタだったようにも見える。

「自由主義陣営と組んで帝政打倒を果たせばいい」という論陣をレーニンは「自由主義ブルジョアジーを支えるだけのものだ」と批判した。更に、レーニンは「もし経済闘争がそれ自身完璧なものと見做されるなら、その中に社会主義的なものは何も無いだろう」と指摘した。

そこを考慮すると、複雑なレーニンな思想が少し見えてきますかね。1903年の第2回ロシア社会民主労働党大会に於いてボルシェビキとメンシェビキとが分派した。レーニンは「党員は綱領を承認し、党の財政を支え、その組織に所属すべきだ」とした。それに対してマルトフは「党員は党組織に所属する必要はないが組織の指導下で活動できる」とで決裂したのだ。マルトフに欠点はないようにも思えるし、実際にトロツキーもマルトフを支持してメンシェビキとなる。しかし、改めて、レーニンを検証すると【帰属性】と【責任】を上手く集約しているようにも見える。「党員には党を支える責任と責務がある」という考え方ですね。確かに共産主義思想原理の真髄を突いていたようにも見える。(今日的な日本の姿などは「無責任体制だ」と批判されますが、帰属を明確にして責務を負うというそれを蔑ろにしているのかも知れませんしね。)

実際、分裂劇の前年となる1902年にレーニンは『何をなすべきか?』を出版している。これはナロードニキ運動の発端にもなったチェルヌイシェフスキーの著書と全く同一のタイトルであり、既にレーニンの腹は決まっていたように見える。レーニンは自著『何をなすべきか?』の中で、「党はプロレタリアートの前衛として、出来る限り組織化されるべきだ」――と。

レーニンの複雑さ、それは両義的な信念であり、「全党員は党に対して責任を持ち、党は党員すべてに対して責任を負っている」という思考法になっている事に気づかされる。(実際にレーニンはスターリンと異なり、個人崇拝そのものを拒否していたし、反証にしても論理的な反証を許していた。スターリンになると反対者を粛正してしまう。偏えに「共産主義者」や「共産主義」と言いますが、実際にスターリンを支持していますという人は稀有ですやね。実際に歴史に登場した諸々の共産主義政権は独裁制になってしまっているというだけの話で。


◆第一次世界大戦の衝撃

1912年5月、シベリアのイルクーツクでイギリスが出資している広大な金鉱では劣悪な労働環境にさらされていた坑夫たちがストライキを展開する。坑夫たちは賃金の増額と、憎み切れない現場監督の解雇、一日八時間労働などを要求していた。しかし、そのストライキには軍が動員され、会社の容認の下に派遣された部隊が発砲するという騒ぎにまで拡大する。ストライキ参加者の中から270人もの死者を出す大惨事となり、これを「レナの虐殺」と呼ぶという。

レナの虐殺は大いにロシアの民衆の同情と怒りを買い、ペテルブルクとモスクワを揺るがし、大規模なストライキが繰り返し発生するようになる。

皇帝ニコライ2世は不人気であり、更に輪をかけて皇后アレクサンドラ(アリックス)は不人気であった。アリックスは英国ヴィクトリア女王の孫娘であり、しかもドイツ帝国の領邦国であったヘッセン大公国からロマノフ家に嫁いできたという経歴もロシアの民衆は気に入らない。更に、このアリックスは或る時期から怪僧ラスプーチンの提言に従って政治を動かして出していた。ラスプーチンは大酒飲みで好色であったという噂が巷間に伝わっていた。そんなラスプーチンを崇拝しているのがアリックスであり、それを許容してしまっているのが皇帝ニコライ2世だったのだ。

ロシアは大混乱の中で、第一次世界大戦を迎えようとしていた。

1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がボスニアで暗殺されるというサラエボ事件が発生。オーストリアは、この頃、オーストリア=ハンガリー帝国であり、ドイツ帝国と同盟関係を構築して欧州に覇権主義的帝国主義による緊張の渦中にあり、時の帝政ロシア政府はというとイギリス、フランスと三国協商という陣営を形成して、ドイツと敵対していた。皇太子夫妻を暗殺されたオーストリアがセルビアに最後通牒を突き付けたのが同年7月23日(26日という表記も)であった。ドイツら同盟国陣営は汎ゲルマン主義を掲げていた事もあり、その緊張はロシアの危機感を煽る事になった。

俄かにロシア国内にも「戦争が起こりそうだ」という空気が漂い始めたのが同月23日であり、28日になるとオーストリアがセルビアに宣戦布告。ロシアはセルビアを守らんと総動員令をかけた。

多くのロシアの民衆は戦争なんてものに巻き込まれたくないという状況であったが、事態は緊張していたし、混乱していた。

その混乱の中、エスエル穏健派、トルドビキの中から華麗さを持つ一人の弁護士、アレクサンドル・ケレンスキー(生年1881〜1970年)が登場する。1912年に弁護士から政治家に転身したばかりであったが、ケレンスキーは民衆から人気があったという。このケレンスキーの生い立ちはカザン大学の学長の息子であった。レーニンがカザン大学に在学中の学長の息子が、このケレンスキーであった。

ケレンスキーは農民や労働者たちに訴えかけた。

「我々の国を守り、しかる後に解放しよう」

と。それは戦争を肯定する事を意味していたが、現実的な提言でもあったと理解された。世界的な規模でアナーキズムの頂点に立った、かのピョートル・クロポトキンでさえもでさえ、第一次世界大戦を容認していたのが当時のロシア情勢であった。

ナロードニキ運動の継承者であるエスエルは、ケレンスキーの登場によって二分されたという。活動家と呼ばれた革命家の多くは戦争反対を主張したが、多くの知識人は戦争参加を支持していたという。

また、この頃はドイツ社会民主党が中心となったマルクス主義者たちによる国際大会を開催していた連合組織「第二インターナショナル」が続いていたが、やはり、この第一次世界大戦を巡って、戦争支持派、和平派、革命派などに分裂、崩壊した。

レーニンは、この頃、亡命中であり、ドイツ社会民主党を信じていたのでドイツ社会民主党が戦争支持を打ち出したという報告を受けると、当初、その報告は嘘だという思い込みにしがみついたという。また、急進派として名高いドイツ社会民主党の女傑ローザ・ルクセンブルク(生年1870〜1919年)は、党の決定に失望し、自殺をも考えたという。

ドゥーマ内では、ケレンスキーの登場によってエスエルが戦争支持に回り、ボルシェビキとメンシェビキが反対をして席を立ったという。



アレクサンドル・フュードロヴィッチ・ケレンスキー(1881〜1970)

カール・カウツキー(1854〜1938)

ローザ・ルクセンブルク(1870〜1919)

◆第一次世界大戦

第一次世界大戦の基本的な構図は、同盟国VS協商国(連合国)でした。

【三国同盟】⇒ドイツ、オーストリア、イタリア

【三国協商】⇒イギリス、フランス、ロシア

覇権主義的帝国主義は植民地の奪い合い、領土の奪い合いであり、帝国主義同士の利害が衝突していた。そして新興勢力のドイツら三国同盟は、イギリス、フランス、ロシアらの協商国と衝突したというのが基本構図です。

1914年6月28日、オーストリア皇太子夫妻がサラエボで暗殺される。

1914年7月23日、オーストリア=ハンガリー政府がセルビア政府に対して最後通牒を突き付ける。

1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告する。

1914年8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。

1914年8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。

1914年8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。

1914年8月、日本は日英同盟を理由に協商国として参戦表明。

1914年9月、日本はドイツの租借地であった青島占領。

そんな風に我も我もと戦火は拡大し、8月末までにイタリアを除く全同盟国、全協商国が交戦状態に入るという史上初の世界大戦が実現する。

1914年11月、オスマン帝国がドイツ(三国同盟)側として参戦。

1915年5月、イタリアはロンドン密約と呼ばれる領土拡大の約束を協商国側から持ち掛けられた為、元々の三国同盟を裏切ってドイツに対して宣戦布告する。

連盟国と連合国(協商国)とでは中東の被圧迫諸民族を自陣に引き入れる為に独立や自治を約束して世界大戦参戦に巻き込んだが、秘密協定を結んで領土分割は後世に禍根を残すものとなった。連合国側はアラブ諸民族の独立やユダヤ人国家建設などの約束をしており、また、国境線が直線的に惹かれたりしている事も、この頃の秘密協定が雑な形で残った為であるという。

1917年2月からドイツは猝祇限潜水艦作戦瓩鮑里襦これによってイギリスは無制限潜水艦作戦の前に劣勢に陥ったが、1917年4月にアメリカが連合国軍として参戦。大きな転換が起こる。イギリス軍とフランス軍はアメリカからの兵員・物資の援助を受けて反撃に転じる。

そして、もう一つ、大きな転機となったのが、1917年、二月と十月とに起こった第二次爛蹈轡革命瓩任△辰拭ロシア革命の場合は戦局を劇的に変えたとは言えませんが、ロシア革命に触発されて以降、世界中が動揺することになったという意味では、極めて稀有な出来事が発生したと言えそう。

1917年2月、二月革命によってロシアで帝政が崩壊する。

1917年10月、十月革命によって社会主義政権が成立する。



◆怪僧ラスプーチン暗殺事件

ロシアは第一次大戦に早々と踏み切って総動員体制を布いた。レーニンは、あっと驚く革命的祖国敗北主義を主張した。トロツキーは急進派として反戦を主張していたが、さすがにレーニンの革命艇的敗北主義からは距離を取ろうとしたという。(この「革命的敗北主義」というアクロバティックな主張については後日で触れる予定です。)

総動員体制になると徴兵だけではなく勤労動員も起こるので、ロシアの農場と工場から徐々に人手が減り出して、弾薬、装備、食糧の不足が発生。それはやがてインフレを喚起する。

1915年の夏頃になるとロシアはストライキと食糧を求める暴動が起こり始める。

1915年8月、皇帝ニコライ2世は軍の全面的指揮権を自らが握ると言い出すに到る。しかし、皇帝の人気は既に地に落ちつつあった。元凶は怪僧ラスプーチンにあった。この頃までに皇后アリックスはラスプーチンに高い地位を与え、ラスプーチンの幻視に基づいた助言を皇帝ニコライ2世に伝えるといった奇妙な関係が出来上がっていた。

皇后はラスプーチンの櫛を皇帝に与え、

「この櫛で髪を整えれば、ラスプーチンの英知があなたを導いてくれるでしょう」

と言えば、皇帝ニコライ2世は、それに従ったという。また、皇后はラスプーチンの髭についていたパン屑までを皇帝に送り、そのパン屑を皇帝が食べるまでにラスプーチン信仰が皇帝と皇后を蝕んでいたという。

また、皇后アリックスは、敵国ドイツに近いヘッセン=ダルムシュタット家の出身であった事から、皇后のアリックスが敵国ドイツに有利になるように皇帝に取り入っているのではないかという憶測も流れるようになっていた。

君主制を支持するオクチャブリスト(十月党)の政治家、ミハイル・ロジャンコはラスプーチンを悪の元凶であると考えていた。いつしか人種差別主義者プリシケヴィチらとラスプーチン排除で通じ合うようになり、ラスプーチン暗殺計画が練られるようになったという。

1916年12月16日深夜、ネヴァ川沿いにあるユスポフ宮殿にラスプーチンは誘(おび)き出された。

誘き出したのはフェリックス・ユスポフ公であった。ユスポフ公はロシア帝国随一の資産家であるユスポフ家の相続人であり、皇室士官学校出のエリートであった。いつしか、このユスポフ公はラスプーチン暗殺の協力者となり、ユスポフ公の妻であるイリナは公爵夫人であったが、美人で有名であった上に皇帝の姪にあたるというロシアの名門中の名門の人物であった。

ラスプーチンは一張羅を着てユスポフ公の宮殿にやってきた。

ラスプーチンには青酸入りのチョコレート(大きなケーキ)と、毒入りのワインとを出して、暗殺を試みたが、ラスプーチンは表情を変えることもなく、通された一室でくつろぎ続けたという。この奇妙な霊能者には、毒は効かないのかと共謀者たちはヒソヒソと話し合ったという。

この謀議の重要な協力者となっていたユスポフ公は、この事態にパニックになったという。

ユスポフ公は何とか暗殺を成功させんと思案し、部屋の整理箪笥に立てかけてある水晶と銀とでできたイタリア製の骨董の十字架を指さして、ラスプーチンに見て欲しいと誘導した。ユスポフ公の誘いに応じたラスプーチンが腰を屈めて、骨董の水晶の十字架を見入っている隙に、背後のユスポフ公は拳銃をそっと取り出して、そのまま、ラスプーチンの心臓に向けて発砲した。

ラスプーチンはクマの敷物の上に倒れた。銃声を聞いて、この暗殺劇に参加していたㇻゾヴェルト軍医が階上から駆け付けて、ラスプーチンの即死を確認した。

ラスプーチンの暗殺に関与していたのはユスポフ公の他に、人種差別主義を掲げる国会議員プリシケヴィチと、軍人のセルゲイ・スホーチン大尉と、ラゾヴェルト軍医、それとドミトリー大公の4名。暗殺団はラスプーチンの死を確認した後、遺体の処理を話し合っていた。

すると間もなく怪現象が起こる。死んで目を閉じていた筈のラスプーチンが左目、右目という順番に目を見開いた。そして、口から泡を吐きながら獣のような唸り声を上げ始めたのだ。ラスプーチンはゾンビと化したのだ。ラスプーチンは手を震わせたまま、立ち上がると、ユスポフ公の喉元に手を伸ばして、鉄のようなかぎ爪を這わせた。そして、しわがれ声で、ユスポフの名前を呼び続けたというのだ。

そしてラスプーチンは

「皇后に言いつけてやるぞ!」

とユスポフ公に告げた。

ユスポフ公は、中庭へと逃げ出して、中庭で待機していたプリシケヴィチに

「ラスプーチンを撃て!」

と叫んだ。プリシケヴィチは即座に反応し、ゾンビ化したラスプーチンに二発の発砲、更に二発を発砲。

かくして、皇后に取り入ってロマノフ王朝を自在に操っていた怪僧ラスプーチンは退治された――と通説では伝わっている。暗殺者ユスポフ公が残した回想録によれば、そういうものだったと記されていた為に、そう伝わっていたという。

しかし、ジャイルズ・ミルトン著・築地誠子訳『レーニン対イギリス秘密情報部』(原書房)は、このラスプーチン暗殺事件の真相について記している。まるで不死身のゾンビのようにラスプーチンが一度、死んだ後に襲い掛かってきたなどというのは、勿論、作り話である、と。

ラスプーチンの死体は暗殺事件の二日後に引き上げられたので、実は解剖報告書が残っているという。

解剖報告書よると、ラスプーチンの遺体は激しく損傷していたという。体の左側には刃物によって傷つけられたと思われる刺創があり、そこから出た浸出液が付着していた。右眼球は眼窩から飛び出して垂れ下がっていて、また、右耳もちぎれかけていて垂れ下がっている状態。更には首にはロープのようなもので絞められた傷があり、死体の顔と体には爐靴覆笋にして固いもの瓩廼打された痕跡が残っていた。

更にラスプーチンの遺体からは性器損傷――二つの睾丸を完全に押しつぶされていた。そのことは、残酷な拷問の途中で死者は両足を無理矢理に開かされ、顔と体を強打した凶器と同じ、何か、しなやかにして固いもので性器に損傷を与えるという行為が行なわれていた事を示してた。

更に、通説では「毒入りのケーキ」や「毒入りのチョコレート」が定着しているが、実はラスプーチンの遺体、その胃の内容物の検査も行われたが毒物は含まれていなかった。

ラスプーチンの遺体には三つの銃創があった。1つ目は胸の左側から入って胃と肝臓を貫通した銃創。2つ目は背中の右側から入り、腎臓を貫通した銃創。そして3つ目は額を撃って脳へ貫入した銃創であった。

ユスポフ公によれば、ユスポス公が撃ったのはドミトリー大公から借りたというブローニング自動拳銃であった。また、プリシケヴィチはソバージュという自動拳銃を使用していた。しかし、検死解剖では口径や射入口についても詳細に言及されており、額への一撃はリボルバー式と呼ばれる回転式拳銃であった。英国製のウェブリー・リボルバーに間違いないと断定されていたという。

実は、ユスポフ公の回顧録は、実は解剖報告書とは辻褄が合っていない箇所が多いのだ。しかも、この検死解剖はラスプーチンの死を悼む皇后アリックスの命令によって急遽中止になったという皮肉までついている。

ラスプーチンの暗殺事件には、実は、もう一人、意外な人物が協力者として関与しており、その人物については伏せられていたのだ。ユスポフ公らによって隠されていた、もう一人の協力者とは、イギリス人将校のオズワルド・レイナーという人物であった。このオズワルドは、ユスポフ公とオックスフォード大学の学友であった。そして、このオズワルド・レイナーが持っていた拳銃こそが、ウェブリー・リボルバーであった。

皇帝ニコライ2世の周辺にも、実は「ラスプーチン暗殺にユスポフ公の学友のイギリス人が関与していた疑いがある」という風聞が届き、ニコライ2世はイギリス大使を呼び出して、そのイギリス人が殺害に関与したのか否かの有無を問いただしたという。大使は何も知らない。一応、大使はイギリス秘密情報部の関係者に尋ねてみたが否定されたので、皇帝ニコライ2世には、「関与の事実はなかった」と謹んで報告されていたという。

しかし、真実としてはイギリス人将校オズワルド・レイナーはイギリス秘密情報部のスパイとしてラスプーチン暗殺に関与していた。ロシアの首都のペテルブルクの住民たちよりも早く、ロンドンでニュースとして「ペテルブルクで犯罪が起こった。一時代の歴史が変わるような犯罪だ」と報じられていたという。

つまり、ラスプーチン暗殺事件には政治背景、第一次世界大戦の戦局が関係していたと思われる。当時、協商国(連合国)としてイギリスとロシアは共にドイツ帝国に当たっていた。しかし、イギリス秘密情報部(SISであり、後にMI6に改称される諜報機関)と帝政ロシアの君主制支持者らが共謀し、皇帝を惑わせている怪僧ラスプーチンを排除する為に行なわれた暗殺劇であった――というのが真相だったとなる。

暗殺した一味は、その暗殺を正当化させる為には、ラスプーチンを怪物のように仕立て上げておく必要があり、それ故に、「毒入りケーキを食べさせてもピンピンとしてした」や、「死後にも立ち上がって襲い掛かってきた」等の、脚色を施していたのだ。実際には解剖報告書の通りであり、誘き出されたラスプーチン、その最期は、憐れ、半ば拷問死であったと思われる。


この頃の帝政ロシアは、既に大国と化していたが、実は多くの資本はイギリスやフランスに依存して近代化を遂げた大国であった。そして、ロシア皇后が心酔していたラスプーチンの暗殺にもイギリス秘密情報部(SIS)が関与していた事になる。大義とは、愛国心とは、君主制・皇帝への忠節というのは――。

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