関裕二さんの古代史関連書籍を読み進めてゆくと、幾つかの当たり前に疑わしい歴史観が登場してくる。気になっている一つは【物部】でしょう。きっと、今、あなたは、これを【もののべ】と読んだと思うんですが、関裕二さんは「もののふ」とも読めるではないかと指摘している。
関裕二著『物部氏の正体』(新潮文庫)では、物部氏の正体を考察してある。【物部】の意味とは「物の部」であり、部曲(かきべ)に係る部民(べみん)の名称が起源と考えられる。懐かしい歴史用語ですが、つまり、犖譴衂瓩噺世辰疹豺腓劉猊瓩任△蝓∋簍豪族を著している。否定する意見もあるようですが、こういう話は推し進めねば話にならないので、先に進めますが、基本的には大化の改新以前にあったものとされている。
この頃には天皇は存在せず、大王と表記して「おほきみ」と読んでいた時代となり、その大王家の部民は特に品部(ともべ)と読んだ。大王家ではないのが有力豪族であり、その有力豪族たちが持っていたのは部曲。その部曲が大王家のものとなると品部となる。部曲も品部も、仕えている者の正統性によって呼び分けられているが、共に部民である。
そして、古代豪族の雄とされる大伴氏や蘇我氏、物部氏らがある訳ですが、それらの呼称は、元々は何かしらの品部・部曲の呼称から発祥し、それが後に固有の「姓」となって、そのまま大伴氏、蘇我氏、物部氏になっている。
思えば【武士】と表記して「もののふ」って発音するのって無理があると感じません!? 仮に古代日本で警察権と軍事権を有していた物部は武装していたのでしょうから、その物部が「もののふ」の語源なのではと夢想できる。
で、あらためて【物部】なのですが、物部というのは警察権力と軍事権力、それに加えて、祭祀権にかかる権限をも有していた。警察権と軍事権は、他の有力豪族も握っていたとされますが、祭祀権を物部氏が掌握していたというのは、非常に不思議な事なんですね。伴部(ともべ)を総括していたのが大伴氏であり、大伴氏も軍事物資などを管轄していた。しかし、祭祀権は持っていない。持っている筈がないんですね。しかし、何故か、物部氏は祭祀権を持っていた。
物部氏の伝承に詳しいとされる「先代旧事本紀」には、天皇家が使用している鎮魂祭(たましずめのまつり)の祝詞は、物部氏を祀ったとされる石上神宮の祝詞と酷似しているという。
「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)」
を、十回ほど繰り返すという。一方、石上神宮の祝詞は、
「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)ふるべゆらゆらとふるべ」
であるという。記紀を正史として解釈する万世一系の天皇観に基づけば、天皇家の祝詞を物部氏が真似したのだろうと考えるかも知れませんが、それは記紀のみを正統とみなす歴史観の話であり、先代旧事本紀の伝承の方が事実としては正しい事が記されている可能性を排除せんとする史観なんですね。真実に対してのアプローチではなく、天皇家の正統性を守る為の方便をも伴った歴史的アプローチである。
で、先代旧事本紀には如何なる事が記されていたのかというと、ニギハヤギと一緒に降ったアメノウズメの末裔のサルメノキミ(猨女君)が鎮魂祭の日に、この祝詞を上げたと記してあるという。
で、そこから関裕二さんの壮大な古代史分析が展開される。
つまり、天皇家の方が、物部氏の持っていた祭祀権を継承することになったという事ではないのか?
という仮説を立てる事が可能となる。
何故? 何故なら天皇制成立以前の段階にも、この日本列島には統治機構が存在しており、それが物部氏だったからではないのか? つまり、物部王朝が存在したのではないか――と。
と、発展する。
因みに、この物部王朝説は、おそらくは谷川健一の「白鳥伝説」とも所々で合致しそうですかね。また、その物部王朝が、出雲王朝でいいのか、それとも、また、異なるものなのかは謎です。
しかし、よぉぉぉく考えてみると、記紀でさえ、神武東征の話があるように、神武が畿内に入る以前に、そこに何かの権力が居座っていたと記しているのであり、こうした推測は容易に導けることなんですね。ヤマトに入ろうとして一時的に神武と構えたのはナガスネヒコ(長髄彦)ですね。
しかも、ここには「大物主」(おおものぬし)や「大事主」(おおことぬし)の御宣託のようなものが絡んでいる。
材料を並べてみれば、古代日本に於いて、祭祀権及び政治権が、旧体制から新体制に移行したように考えるものでしょう。
倭族論でさんざん取り上げた鳥越憲三郎の場合は、最古層として物部王朝があり、その後、もしくは並立して葛城王朝があったという説であったという。弥生時代の開始と同時に畿内に到達していたものを物部王朝とし、それを邪馬台国と推定している。邪馬台国は南にある狗奴国と交戦中であったという記述が魏志倭人伝に登場するが、狗奴国が葛城王朝と比定し、その狗奴国に手を焼いていたのがヤマト(物部王朝)だったという推論になる。
こうした古代史の話は、確定的な何かがある訳ではないので揚げ足取りも簡単なのですが、それでいて、色々と物事を当て嵌めてゆく楽しみがあると思うんですね。例えば、卑弥呼、邪馬台国を念頭に置いて物事を思考するワケですが、「あなたは本当に自分の見解を持っていますか?」という場合、意外と、このパズルを組み立てられないんですね。単純に出雲王朝の後に大和王朝が出来たという風に考えているとして、では、邪馬台国は、どちらだと思っているのかと問われると、ハッとする事になる。おそらくは、大和朝廷とか大和王朝と呼んでいるものの前段階が、邪馬台国の時代の可能性があるんですね。
関裕二著『物部氏の正体』(新潮文庫)では、物部氏の正体を考察してある。【物部】の意味とは「物の部」であり、部曲(かきべ)に係る部民(べみん)の名称が起源と考えられる。懐かしい歴史用語ですが、つまり、犖譴衂瓩噺世辰疹豺腓劉猊瓩任△蝓∋簍豪族を著している。否定する意見もあるようですが、こういう話は推し進めねば話にならないので、先に進めますが、基本的には大化の改新以前にあったものとされている。
この頃には天皇は存在せず、大王と表記して「おほきみ」と読んでいた時代となり、その大王家の部民は特に品部(ともべ)と読んだ。大王家ではないのが有力豪族であり、その有力豪族たちが持っていたのは部曲。その部曲が大王家のものとなると品部となる。部曲も品部も、仕えている者の正統性によって呼び分けられているが、共に部民である。
そして、古代豪族の雄とされる大伴氏や蘇我氏、物部氏らがある訳ですが、それらの呼称は、元々は何かしらの品部・部曲の呼称から発祥し、それが後に固有の「姓」となって、そのまま大伴氏、蘇我氏、物部氏になっている。
思えば【武士】と表記して「もののふ」って発音するのって無理があると感じません!? 仮に古代日本で警察権と軍事権を有していた物部は武装していたのでしょうから、その物部が「もののふ」の語源なのではと夢想できる。
で、あらためて【物部】なのですが、物部というのは警察権力と軍事権力、それに加えて、祭祀権にかかる権限をも有していた。警察権と軍事権は、他の有力豪族も握っていたとされますが、祭祀権を物部氏が掌握していたというのは、非常に不思議な事なんですね。伴部(ともべ)を総括していたのが大伴氏であり、大伴氏も軍事物資などを管轄していた。しかし、祭祀権は持っていない。持っている筈がないんですね。しかし、何故か、物部氏は祭祀権を持っていた。
物部氏の伝承に詳しいとされる「先代旧事本紀」には、天皇家が使用している鎮魂祭(たましずめのまつり)の祝詞は、物部氏を祀ったとされる石上神宮の祝詞と酷似しているという。
「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)」
を、十回ほど繰り返すという。一方、石上神宮の祝詞は、
「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)ふるべゆらゆらとふるべ」
であるという。記紀を正史として解釈する万世一系の天皇観に基づけば、天皇家の祝詞を物部氏が真似したのだろうと考えるかも知れませんが、それは記紀のみを正統とみなす歴史観の話であり、先代旧事本紀の伝承の方が事実としては正しい事が記されている可能性を排除せんとする史観なんですね。真実に対してのアプローチではなく、天皇家の正統性を守る為の方便をも伴った歴史的アプローチである。
で、先代旧事本紀には如何なる事が記されていたのかというと、ニギハヤギと一緒に降ったアメノウズメの末裔のサルメノキミ(猨女君)が鎮魂祭の日に、この祝詞を上げたと記してあるという。
で、そこから関裕二さんの壮大な古代史分析が展開される。
つまり、天皇家の方が、物部氏の持っていた祭祀権を継承することになったという事ではないのか?
という仮説を立てる事が可能となる。
何故? 何故なら天皇制成立以前の段階にも、この日本列島には統治機構が存在しており、それが物部氏だったからではないのか? つまり、物部王朝が存在したのではないか――と。
と、発展する。
因みに、この物部王朝説は、おそらくは谷川健一の「白鳥伝説」とも所々で合致しそうですかね。また、その物部王朝が、出雲王朝でいいのか、それとも、また、異なるものなのかは謎です。
しかし、よぉぉぉく考えてみると、記紀でさえ、神武東征の話があるように、神武が畿内に入る以前に、そこに何かの権力が居座っていたと記しているのであり、こうした推測は容易に導けることなんですね。ヤマトに入ろうとして一時的に神武と構えたのはナガスネヒコ(長髄彦)ですね。
しかも、ここには「大物主」(おおものぬし)や「大事主」(おおことぬし)の御宣託のようなものが絡んでいる。
材料を並べてみれば、古代日本に於いて、祭祀権及び政治権が、旧体制から新体制に移行したように考えるものでしょう。
倭族論でさんざん取り上げた鳥越憲三郎の場合は、最古層として物部王朝があり、その後、もしくは並立して葛城王朝があったという説であったという。弥生時代の開始と同時に畿内に到達していたものを物部王朝とし、それを邪馬台国と推定している。邪馬台国は南にある狗奴国と交戦中であったという記述が魏志倭人伝に登場するが、狗奴国が葛城王朝と比定し、その狗奴国に手を焼いていたのがヤマト(物部王朝)だったという推論になる。
こうした古代史の話は、確定的な何かがある訳ではないので揚げ足取りも簡単なのですが、それでいて、色々と物事を当て嵌めてゆく楽しみがあると思うんですね。例えば、卑弥呼、邪馬台国を念頭に置いて物事を思考するワケですが、「あなたは本当に自分の見解を持っていますか?」という場合、意外と、このパズルを組み立てられないんですね。単純に出雲王朝の後に大和王朝が出来たという風に考えているとして、では、邪馬台国は、どちらだと思っているのかと問われると、ハッとする事になる。おそらくは、大和朝廷とか大和王朝と呼んでいるものの前段階が、邪馬台国の時代の可能性があるんですね。