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カテゴリ: 謎解き古代史

関裕二さんの古代史関連書籍を読み進めてゆくと、幾つかの当たり前に疑わしい歴史観が登場してくる。気になっている一つは【物部】でしょう。きっと、今、あなたは、これを【もののべ】と読んだと思うんですが、関裕二さんは「もののふ」とも読めるではないかと指摘している。

関裕二著『物部氏の正体』(新潮文庫)では、物部氏の正体を考察してある。【物部】の意味とは「物の部」であり、部曲(かきべ)に係る部民(べみん)の名称が起源と考えられる。懐かしい歴史用語ですが、つまり、犖譴衂瓩噺世辰疹豺腓劉猊瓩任△蝓∋簍豪族を著している。否定する意見もあるようですが、こういう話は推し進めねば話にならないので、先に進めますが、基本的には大化の改新以前にあったものとされている。

この頃には天皇は存在せず、大王と表記して「おほきみ」と読んでいた時代となり、その大王家の部民は特に品部(ともべ)と読んだ。大王家ではないのが有力豪族であり、その有力豪族たちが持っていたのは部曲。その部曲が大王家のものとなると品部となる。部曲も品部も、仕えている者の正統性によって呼び分けられているが、共に部民である。

そして、古代豪族の雄とされる大伴氏や蘇我氏、物部氏らがある訳ですが、それらの呼称は、元々は何かしらの品部・部曲の呼称から発祥し、それが後に固有の「姓」となって、そのまま大伴氏、蘇我氏、物部氏になっている。

思えば【武士】と表記して「もののふ」って発音するのって無理があると感じません!? 仮に古代日本で警察権と軍事権を有していた物部は武装していたのでしょうから、その物部が「もののふ」の語源なのではと夢想できる。

で、あらためて【物部】なのですが、物部というのは警察権力と軍事権力、それに加えて、祭祀権にかかる権限をも有していた。警察権と軍事権は、他の有力豪族も握っていたとされますが、祭祀権を物部氏が掌握していたというのは、非常に不思議な事なんですね。伴部(ともべ)を総括していたのが大伴氏であり、大伴氏も軍事物資などを管轄していた。しかし、祭祀権は持っていない。持っている筈がないんですね。しかし、何故か、物部氏は祭祀権を持っていた。

物部氏の伝承に詳しいとされる「先代旧事本紀」には、天皇家が使用している鎮魂祭(たましずめのまつり)の祝詞は、物部氏を祀ったとされる石上神宮の祝詞と酷似しているという。

「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)」

を、十回ほど繰り返すという。一方、石上神宮の祝詞は、

「ひふみよいむやこと(一二三四五六七八九十)ふるべゆらゆらとふるべ」

であるという。記紀を正史として解釈する万世一系の天皇観に基づけば、天皇家の祝詞を物部氏が真似したのだろうと考えるかも知れませんが、それは記紀のみを正統とみなす歴史観の話であり、先代旧事本紀の伝承の方が事実としては正しい事が記されている可能性を排除せんとする史観なんですね。真実に対してのアプローチではなく、天皇家の正統性を守る為の方便をも伴った歴史的アプローチである。

で、先代旧事本紀には如何なる事が記されていたのかというと、ニギハヤギと一緒に降ったアメノウズメの末裔のサルメノキミ(猨女君)が鎮魂祭の日に、この祝詞を上げたと記してあるという。

で、そこから関裕二さんの壮大な古代史分析が展開される。

つまり、天皇家の方が、物部氏の持っていた祭祀権を継承することになったという事ではないのか?

という仮説を立てる事が可能となる。

何故? 何故なら天皇制成立以前の段階にも、この日本列島には統治機構が存在しており、それが物部氏だったからではないのか? つまり、物部王朝が存在したのではないか――と。

と、発展する。

因みに、この物部王朝説は、おそらくは谷川健一の「白鳥伝説」とも所々で合致しそうですかね。また、その物部王朝が、出雲王朝でいいのか、それとも、また、異なるものなのかは謎です。

しかし、よぉぉぉく考えてみると、記紀でさえ、神武東征の話があるように、神武が畿内に入る以前に、そこに何かの権力が居座っていたと記しているのであり、こうした推測は容易に導けることなんですね。ヤマトに入ろうとして一時的に神武と構えたのはナガスネヒコ(長髄彦)ですね。

しかも、ここには「大物主」(おおものぬし)や「大事主」(おおことぬし)の御宣託のようなものが絡んでいる。

材料を並べてみれば、古代日本に於いて、祭祀権及び政治権が、旧体制から新体制に移行したように考えるものでしょう。


倭族論でさんざん取り上げた鳥越憲三郎の場合は、最古層として物部王朝があり、その後、もしくは並立して葛城王朝があったという説であったという。弥生時代の開始と同時に畿内に到達していたものを物部王朝とし、それを邪馬台国と推定している。邪馬台国は南にある狗奴国と交戦中であったという記述が魏志倭人伝に登場するが、狗奴国が葛城王朝と比定し、その狗奴国に手を焼いていたのがヤマト(物部王朝)だったという推論になる。

こうした古代史の話は、確定的な何かがある訳ではないので揚げ足取りも簡単なのですが、それでいて、色々と物事を当て嵌めてゆく楽しみがあると思うんですね。例えば、卑弥呼、邪馬台国を念頭に置いて物事を思考するワケですが、「あなたは本当に自分の見解を持っていますか?」という場合、意外と、このパズルを組み立てられないんですね。単純に出雲王朝の後に大和王朝が出来たという風に考えているとして、では、邪馬台国は、どちらだと思っているのかと問われると、ハッとする事になる。おそらくは、大和朝廷とか大和王朝と呼んでいるものの前段階が、邪馬台国の時代の可能性があるんですね。

加藤謙吉著『大和の豪族と渡来人』(吉川弘文館)を筆頭に、その他を読んだ際、結構、引っ掛かるところがありました。

蘇我入鹿から父系で系譜を遡ると、蘇我入鹿→蘇我蝦夷→蘇我馬子→蘇我稲目→蘇我高麗(馬背)→蘇我韓子→蘇我石川宿禰となる。で、蘇我氏の祖である石川宿禰は武内宿禰の7人ある子の内の一人だという事になっている。

先ず、引っ掛かるのは祖の石川宿禰から蘇我稲目までで、「韓子」の次に「高麗」と名がある。「韓子」という名前は母親が朝鮮人であった場合に、しばしば、そのような名前になったという。ところが次の高麗が気になる。本当は馬背という名前があるのに、通称が高麗であったという。蘇我氏の3代が韓子で4代が高麗ってのは、出来すぎで敢えて蘇我氏を渡来系の氏族であると喧伝する為に施された系図のように思えなくもないのだそうな。

引っ掛かるのは祖の石川宿禰から蘇我稲目までで「韓子」の次に「高麗」と名がある。「韓子」という名前は母親が朝鮮人であった場合に、しばしば、当時、そのような名前になったという。ところが次の高麗が気になる。本当は馬背という名前があるのに、通称が高麗であったという。蘇我氏の3代が韓子で4代が高麗ってのは、出来すぎで敢えて蘇我氏を渡来系の氏族であると喧伝する為に施された系図のように思えなくもないのだそうな。

これら諸文献には、当時の権力者の意向も加わるし、蘇我氏と物部氏、蘇我馬子と物部守屋とが抗争を繰り広げて物部氏に壊滅的な打撃を与え、その後に劇的な中大兄皇子と中臣鎌足に乙巳の変で、蘇我蝦夷と蘇我入鹿が殺害され、なにがなんだか不明ながら、それら歴史的出来事の順番を追うと、天智天皇や天武天皇以降になれば蘇我氏は悪役にならざるを得ない立場ですよね…。蘇我氏の家系図なんてものが残された頃には悪役の席しか残されていなかっただろうし、渡来系の血族が宗家の悪者であったとする作為が影響していたのではないか。

で、かつては蘇我万智という人物が居たことなどから、百済の武将の木羅斤資の子の木満致(もくまんち)が百済の政治をした時期があったが、それが蘇我氏の祖に比定されたり、やたらと語られるときに渡来系色が濃いんですよね。確かに、その時期に活躍が著しいのですが、改めて眺めてみると、確証みたいなものってないんですよね。そればかりか、先日、触れたばかりの葛城襲津彦の率いていた葛城の勢力の後釜として渡来人らを束ねて活躍したという輪郭が残る。また、蔵の管理をしていたという意味で、大蔵省+宮内庁のような役職をしていた人達だという説明もなされている。

著者の加藤謙吉氏は渡来人研究に定評があるが、蘇我氏の系図が意図的に渡来系を印象付けるかのように記されているように感じるという感想も綴られていました。

また、歴史読本編集部編『古代豪族の謎』(新人物文庫)でも蘇我氏について、「言うまでもなく、曽我とは植物のスガ・ソガのことであって」と解説している。この植物は日本のいたるところに生い茂っているスゲである。

蘇我氏の出自が不自然過ぎるのは謎が多すぎる点にあるという。蘇我氏について「和名類聚抄」では葛城氏の出身であり、本拠としていたのが奈良県橿原市曽我町という説と、大阪府富田林市東部一帯と南河内郡一帯という説とがあり、実は畿内出身という事になる。

葛城氏が朝鮮半島に遠征していて多くの技術者を連れて帰り、職能集団にしていたとも言われるので、何かと渡来系の色がついているが、よくよく考えるとこれを帰化系とするのは不自然な箇所が多すぎるように見えますかねぇ。



で、関裕二著『蘇我氏の正体』(新潮文庫)には、更に疑心暗鬼になるような記述をみつけることが出来てしまう。関裕二さんに拠れば、出雲大社の真裏のスサノオを祀る社が象徴的であるが、それは【素鵞社】と書いて「ソガのヤシロ」と読むのだという。

そう言われて確信的に思い出してしまったのは、御柱信仰ですかねぇ。数年前に伊勢神宮の遷宮がありましたが、確かNHKの特別番組でも放送されていたと思うのですが、遷宮にあたり、最初に行なわれる事は、小さな、推定するに30センチ程度の小さな柱に見立てた棒を新たに建造する土地に立てるという。そして、その小さな柱には五色の帯状の布が巻き付けられているという。関裕二さんの著書でも触れられていましたが、もう、疑うこともなく、太一(たいいつ)というやつで道教なんです。神仙思想から発達した道教でいうところの宇宙の本体であり、天皇という言葉の語源でもあろう天皇大帝の思想。祈祷にしても呪詛にしても、陰陽五行説にしても、そこら辺の思想背景や呪詛に係る様式のルーツは道教なんですね。(例えば現存する台湾の道教の姿と、現在の日本の神道の姿とでは完全に別物に見えると思いますが、護符や呪詛という概念そのものが道教と密接に関係している。これは広い意味で行ってしまうと真言密教も同源だったんじゃないのかな。つまり、真のルーツは古代中国の神仙思想に遡れてしまう。)

大和系ではなく出雲系のタケミナカタを祭神として建てられた諏訪大社には有名な御柱祭がある。死者が出るような奇習でもある訳ですが、頑なに執り行われていますやね。あれは柱信仰の名残りでしょう。また、単なる祭祀に限らず、建造様式にしても日本独特の建造様式としての、掘立型のそれがあり、更には五重塔の中央にも一本の柱が固定されることなく存在していて、それが地震に強い構造になっていて衝撃的に取り扱われたドキュメンタリー番組がありましたよね。

更には実際に現代人でも中高年であれば「一家の大黒柱」という言葉を知っているでしょう。何故か日本人は一本の丈夫な狠讚瓩、その家屋を支えているという、目に見えぬ信仰を持ってしまっている。これも無意識に「一家の狢膵畸譟廚噺世辰討い泙垢、この【大黒】とは【オオクニヌシ】が転じて「大黒天」に比定することが出来てしまう。大国主の「大国」を音読すると「ダイコク」だから大国主のことを大黒天にしたという解説は随処にある。出来過ぎでしょ、これ。どうしようもく柱信仰が残っていて、その「柱こそが礎である」と日本人は無意識に考えてきたように見える。

伊勢神宮の遷宮にあたっても、その儀式が残っているという事は、やはり、祭祀は大和王朝は出雲王朝を継承しているとも言えそうですかね。出雲が大和に対して国譲りをするが、その交換条件として出雲勢力は大和勢力に巨大神殿を造成するように要求したという話も、ここに繋がっている。出雲大社は、地上48メートルという高所に聳え立つ巨大神殿であった事が、これまた、実際に遺構が発掘され、嘘だろうという伝承が事実だった事が明らかになったんでしたよね。この巨大神殿も掘立柱であった。常識的には楚石を置き、その楚石の上に柱を立てるといい、実際に同時代に建てられたという東大寺大仏殿はその工法で建造されていた。しかし、出雲の巨大神殿は掘立柱で直径三メートルの巨大柱を立てていたというから、それは単なる柱に対しての信仰というよりも、建築技術にも反映される次元の実に堂々たる御柱信仰があったのだ。

宇宙と一体となる世界観を無意識に日本人は有していたと考えると、オドロキですけど、確かに私などは幼少時から「誰も人は分かってくれないけど、神様は見ているに違いない」的な事を空想してきましたが、これこそが太一の思想、タオイズムなんですよね。天網恢恢だ。無神論・無宗教のようでいて、実は独特の神様観を実は内包している。

話が少し脱線しましたが、関裕二さんは蘇我氏については出雲王朝との関係が深いと記している。



さて、どう考えるべきかと悩む事になる。思うに蘇我氏にしても葛城氏と接点があり、その葛城氏の拠点としていた地方が纏向遺跡などもある奈良県のあの一帯であるものの、その葛城氏の活躍は神功皇后を含めて応神天皇の時代で、それと並行して、もしくは派生して登場していると考えるのが妥当なような気がしますかねぇ。しかし、そうしてしまうと関裕二さんが指摘している出雲王朝と蘇我氏との距離が分からなくなり、大混乱してしまう。

神武、崇神があり、その後に応神という歴代天皇の並びは第一代、第十代、第十五代ですが、葛城氏の場合は葛城襲津彦の朝鮮半島遠征の逸話があるから西暦換算が可能なんですね。

371年…百済が高句麗と戦い高句麗の故国原王を戦死させる大勝利を治める。この頃の百済は最盛期で領土を拡大している。

382年…葛城襲津彦に新羅討伐を命じる。この葛城襲津彦の新羅討伐は、「百済記」に倭国を貴国と表記する文体で残されているという。新羅が尊奉(倭国への朝貢)をしなかったので「貴国は沙至比跪を遣わせて討たせた」とある。この【沙至比跪】が葛城襲津彦の【ソツヒコ】(おそらくはサチヒコ)に対応しており、それが葛城襲津彦の事である事は、多くの研究者が認めるポイントである。

しかし、百済紀ではソツヒコは新羅人が飾りつけた美女二人を用意して迎えると、裏切って加羅国を攻めた。加羅国王の己本旱岐(コホカンキ)は王族や人民を連れて百済へやって来たので百済では彼等を歓待した。加羅国王の妹である既殿至(ケデンチ)は大倭の向かい、天皇(倭の王)に「サチヒコは新羅を討たずに私たちの国を討ちました」と訴え出た。天皇は大いに怒り、すぐに木羅斤資(モクラコンシ)に兵を授けて加羅を復興させたとある。(後述しますが木羅斤資は百済の将である。)

391年…高句麗で広開土王(好太王)が即位する。以後、高句麗の最盛期になる。

392年…百済王が無礼を働いたとして角宿禰、矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣して百済王を廃立する。

396年…高句麗が百済を破って漢江以北を奪う。

397年…百済の阿莘王(あしん)が太子の天膳を倭に人質に差し出しす。 百済王の実弟として典支が倭に人質に出ていた旨が『梁書』でも確認できる。西暦年396年の事とある。典支は阿莘王の長男であったが、405年に父の阿莘王が没したので典支は百済への帰国を願い出て、倭では護衛百人をつけて送り出した。(帰国してみると王位を巡って兄弟間で争いが起こっていたので、足止めを受けた。)

402年…百済が使者を倭国に派遣する。(援軍の依頼?)

403年…倭国が百済に使者を派遣する。(援軍を了解?)

404年…倭軍が現在の黄海道(現在のソウルを越えて板門店の北緯38度線附近)まで攻め込んだ旨の記録が好太王碑像にある。

405年…木菟宿禰と戸田宿禰に新羅討伐を命じる。

413年…倭王讃が東晋王朝に遣使を送る。

421年…倭王讃が宋王朝から官爵を受ける。

425年…倭王讃が宋王朝に遣使を送る。

425年…新羅王が倭に人質になっている微叱己智波珍旱岐(ミシコチハトリカンキ)を取り返そうとして毛麻利叱智(モマリシチ)らを遣わせた。微叱己智波珍旱岐と毛麻利叱智は一時帰国が認められ、葛城襲津彦が付き添いとなった。一行が対馬に辿り付いたとき、葛城襲津彦は欺かれ、用意していた船で微叱己智波珍旱岐は逃れた。怒った葛城襲津彦は毛麻利叱智を焼き殺し、そのまま新羅へ向かい、草羅城(さわらのきし)を陥落させて帰国した。大くの捕虜を連れて帰り、それが葛城の漢人(あやひと)らの四つの邑(むら)で、桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海の四村である。


ああ、やはり、この応神天皇の時代というのは西暦だと、この時代なんですね。蘇我氏が派手な活躍を始める時期も、これ以降という事になる。

西暦562年、金官国(任那)が新羅に滅ぼされ、日本は百済との距離を縮めてゆく中で、蘇我氏の活躍が目立ち始める。

網野善彦×鶴野俊輔『歴史の話〜日本史を問い直す』(朝日文庫)には、次のように網野が語っている箇所がありました。

日本では七世紀末に天皇の称号がきまるまえの王を「大王」(おおきみ)といっています。ところが『今昔物語』に、関東のほうに「大君」(おおきみ)といわれている人が出てくるんです。十一〜十二世紀のころにもまだそういう言い方があらわれている。

平将門(平安中期の武将。東国に独立国をつくろうとした)は明らかに王ですし、鎌倉幕府や室町幕府の将軍も王権といってよいと思います。琉球にも独自の王権があり、北海道にも「夷千島王」のように王権らしきものがある。それだけではなくて、九州、四国、東北などの諸地域にもそれぞれ王権ということのできるような犢訛沖瓩いたと思います。


やはり、コレなんですよねぇ。一定の視座から成る史観を踏襲することなく、リアルに日本列島の古代史を考えるとなると、どう考えても現代人が考える日本国の成立は蝦夷との争いが松前藩の時代の頃まで続いている。いやいや、奥州藤原三代とかって、言ってしまえば、日本列島の中に別の国が存在していたという事ですやね。平将門にしても、中央政府の論理からするとクーデター以外のなにものでないのですが、当時は、東国であり、中央政府の統治が曖昧であった事が伺える。「関所の東」だから「関東」だったのだし、また【坂東】にしても「相模国の足柄の坂より東」の意味で「坂東」と呼んでいたことは容易に確認できてしまう。

足柄峠、碓氷峠といった坂の東を指しており、上古では東国は「吾嬬」(あづま)であったという。奈良時代になって「坂東」と呼ぶようになり、鎌倉時代以降になってから「関東」という呼称が一般化したという。

となると、これまた、現代の関東人のアイデンティティーというのは一筋縄ではない事になる。中央政府は、こういう歴史観に対して警戒感を持っているのでしょうけど、事実はどちらにあろうかと考えれば、言わずもがなという事になりそうですかねぇ。

数年前から、幕府の定義が変わりましたよね。幕府とは何ぞやという定義をしてみたところ、戦国時代に足利義昭が織田信長と対峙する過程の中で、広島県の鞆の浦に拠点を構えていた時期があり、それを瑁殍詆椨瓩班集修垢襪茲Δ砲覆辰拭3里に、そういう風に相対的に語るべきものが歴史なのかも知れませんやね。また、鞆幕府の例を挙げるまでもなく、南朝と北朝とに分かれた南北朝時代がある。それらを念頭に置くと、当然、日本列島の古代史で中央集権体制が確立する完成途上には様々な勢力が、指揮系統を一本化されぬまま、その地の王であったという可能性が考慮しなければならないワケですね。つまり、その地では堂々たる王なのですが、日本史を語る場合に使用される中央の視座立った場合から、その地方の王は「在地豪族」のように認識される。奥州藤原三代などは、明らかにこれでしょう。日本列島には堂々、二つの政府が併存していた。これをアタマでは理解できているつもりになっていても、深い考察に、これを用いる事を軽んじていたのではないか――という事もできてしまうワケですね。

で、やはり、鳥越憲三郎や谷川健一らが、それか、それに近いものを示してみせた。鳥越は実在しなかったであろうという欠史八代の天皇を葛城王朝と比定した。これは中々に画期的なんですね。ホントは、そのように考える方が自然のようにも思える。既に古くなってしまった説とも言われますが、鳥越は神武から葛城王朝、崇神天皇からは三輪王朝(イリ王朝)、神功皇后以降を河内王朝のように王朝が交代したという視点をみせた。しかし、これは時間軸を歴代天皇に合致させてタテに並べた場合の話であり、ひょっとしたら時間軸としては並行して王朝があったケースというのも考えられる。

それら先人の功績を偉大な功績であると認めた上で、近年では関裕二さんあたりが色々と説を立ててくれている。鳥越説を関裕二さんに倣って、最新の呼称にアップデートすると、以下のような感じになるんでしょうか。

歴代天皇には和風諡号(わふうしごう)があり、その和風諡号の中にあるワードで推理する事が可能になる。

◆イリ王朝(三輪王朝)
これは第10代の崇神天皇の諡号がミマキイリヒコであり、第11代の垂仁の諡号がイクメイリビコのように【イリ】がある。歴代天皇に充てると、第10代と第11代。

◆タラシ王朝(河内王朝?)
第12代の景行天皇はオオタラシヒコ、第13代はワカタラシヒコのように【タラシ】がある。鳥を追ったヤマトタケルは、オオタラシヒコ(景行天皇)の子である。また、応神天皇を生んだとされる神功皇后の諡号はオキナガタラシヒメである。歴代天皇に充てると第12代から第14代まで。因みに第14代は仲哀天皇(タラシナカツヒコ)である。

◆ワケ王朝(応神朝、河内王朝?)
御存知第15代応神天皇はホンダワケ。第16代の仁徳を飛ばして第17代履中はイザホワケであり、第18代反正はミズハワケである。

神功皇后(もしくは住吉大神)によって「新羅を授ける」という御宣託が出るもタラシナツヒコは従わず、神罰に触れて没したとされる。このタラシナカツヒコ(仲哀)はヤマトタケル(日本武尊)の子である。つまり、この後に、神功皇后の子である応神天皇の時代が始まっている。

応神天皇については、なんとなくイメージできるところでしょう。最後に九州地方から東征して畿内に入った有力者。神功皇后のクダリがあるので、どことなく日本古代史に当て嵌まる箇所を見つけられそうですかね。

こうしたときに、どれが出雲王朝で、どれが仮称するところの物部王朝にあたるのか、これまた、厄介にも感じる事になりますが。また、これに対して、時間軸をタテにして王位(皇位)は常に一つであったという風に並べるよりも、適度に併存していた可能性をも考慮してゆく必要性があるかも知れないませんやね。以降、歴代天皇の諡号は、色々と混雑しはじめるように見える。

「日本書紀」には、神武天皇が腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登って国見をした際に述べられたという言葉が記されているという。

あなにえや(研哉)、国之獲矣(くにみえつ)。

内木綿(うちゆう)の真迮国(まさきくに)といえども、なお蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)せる如くあるか。

これによりては始めて秋津洲(あきつしま)の号(な)あり。


これを現代語に訳する事は要らぬ過ちを犯す原因になるので省きますが、「あなにえや」は感嘆の句であり、「まさきくに」は察するに「真幸くに」と推測できる。「あきつのとなめ」とは蜻蛉が尻を舐め合うように交尾している平和な様子の描写。そして、神武天皇は「これによりて初めて秋津洲と名づけた」という感じの言葉を宣(のたま)われたという。

で、問題になるのは、その解釈ではありません。文脈からすると、神武天皇が国見をした丘が重視されるべきである。つまり、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)という場所に立って、国見をしたと記述されているのだから、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)が何処であるのかが重要になるだろう――と。

いきなり、挑発的な冒頭になりましたが、これ、昭和45年刊行の鳥越憲三郎著『神々の天皇の間』朝日新聞社に記されていた内容であったりします。既に絶版になっていると思われますが、何かと鋭すぎる考察だなと驚かされる。

さて、勿体ぶらずに話を進めます。神武が国見をした丘であるという、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)とは何処かという問題に絞られるワケですが、ズバリ、奈良県御所市掖上であると言及している。御所市掖上字柏原は元々は柏原郷と呼ばれており、地理的にも名称としても非常に紛らわしいが奈良県橿原市ではなく、御所市の柏原であり、御所市掖上には字(あざ)本馬(ほんま)があり、どう考えても、腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)とは、現在の奈良県御所市掖上字本馬である。よって、神武天皇は掖上本馬の丘から国を眺める犢餮瓩箸い行為をしていたことなる。となると、その丘に立った神武は、蜻蛉が交尾している様子からその地を秋津洲と名付けたことになったと解釈できることになる。(【ほほま】と【ほんま】は違いますが、どう考えたって訛った言葉ですやね。【掖上】と【腋上】の一致の方がヤバいのであって。)

「神武天皇は実在していなかったであろう」という見解が定説化している中にあって、鳥越憲三郎は果敢にも「神武天皇及び欠史八代の天皇は、仮に名付けるなら葛城王朝とでも呼ぶべき、葛城氏の王朝のことである」と提唱してみせた。思うに、何故、これが昭和45年に発刊されていながら、その後も延々と「神武は実在していない」という歴史観が定着してしまったのか、物凄く不思議に感じますかねぇ。神武天皇に関しては、飽くまで九州出身の天皇として哲学者・梅原猛の分厚い文庫本を一冊目にした記憶がありますが、私が思うに鳥越憲三郎の指摘、歴史観はずば抜けているように思える。(既に別件として重要な事柄に気づかされてしまった感慨もさえある。)

更に、話を続けますと、必ずしも神武天皇という人物もしくは神が実在したかどうかも関係ないと鳥越は続けている。日本書紀が記された其の時期に、其の地が初代天皇と深く関与していると感がられていたからこそ、その記述が成立しているのだと指摘するんですね。文献史学を超越した多元的視点で発想されているの、分かりますよね。網野善彦が多元的な視座を持っていない歴史家は大成しないと鶴野俊輔に語っていたようですが、まさしく、その多元的視点を持っていた人物こそが鳥越憲三郎博士であったように思える。

因みに日本書紀には「豊秋日本」と表記して「とよあきつやまと」と読ませたり、古事記にも「大倭豊秋津嶋」、「大日本豊秋津洲」と表記して「おおやまととよあきつしま」と読ませていたりする。皇統を肯定するのであれば、元々の我が国の名称は「ニッポン」でもなく「ヤマト」でもなく、「蜻蛉嶋」、意味合い的には「トンボの郷」であったのかも知れませんやね。別に「とよあしはらみずほのくに」ってのもありますが。

第2代・綏靖天皇について、日本書紀は「葛城に都をつくる。これを高丘(たかおか)宮という」という記述があり、古事記の方にも「葛城高岡(たかおか)宮」の記述があるという。いずれもタカオカですが、これは現在では「高宮」(たかみや)に比定でき、その高宮の地とは葛城山麓にあり、一言主命神社付近であるという。

そして第6代・孝安天皇の時代に「秋津嶋宮に都を移した」旨の記述が日本書紀にあるという。古事記にも同じ事柄の記述と思われる「葛城室之秋津嶋宮」があるという。これは現在の御所市秋津に比定できてしまい、そこには武内宿禰の室大墓があり、ここは御所市秋津大字室という住所になっていると思われる。この【室】とは【牟婁】のことで、岩屋のことであるという。その室大墓というのが前方後円墳で、長さにして約238メートルであるという。

神武が都としていた場所を宮と呼ぶのであれば、それは掖上柏原に王宮があったことになり、第2代・綏靖は高宮、第6代・孝安が秋津嶋宮のように当て嵌めてゆくと、初代から第9代までの天皇(神武+欠史八代)は全て、葛城地域に王宮跡を比定できることとなり、それによって鳥越は(仮称としての)葛城王朝説を展開させていた。

また、綏靖天皇の際に登場した高宮(高丘宮・高岡宮)は、葛城氏の本拠であったという。そして葛城氏として分かり易い人物の筆頭は何といっても葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)でしょう。この葛城襲津彦は「百済記」にも【沙至比跪】とみるのは既に定説化している。おそらく音(おん)は「ソツヒコ」か、もしくは類似した発音なのは自明なのだ。そして、その葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后になっている。

仁徳天皇は磐之媛との間に、第17代・履中天皇、第18代・反正天皇、第19代・弁恭天皇を設けている。しかし、仁徳天皇は磐之媛が留守の間に、別の后を宮殿に迎え入れてしまった為に、磐之媛は宮を出てしまい、仁徳天皇から難波の宮へ帰るように請われるも拒否したという逸話が日本書紀に挿入れている。

で、一代飛ばして、第21代が雄略天皇となる。この雄略天皇は葛城山で一言主と一緒に狩りをしたが不敬があったとして一言主を土佐へ移してしまったという話が「釈日本紀」にある。これに類する逸話が確かありましたよね。また、雄略天皇は皇位継承争いの元になるライバルを次から次に殺害した覇権型の天皇であった事も様々な記述から分かる。更に雄略とは「倭王武」であるという見解は定説化している上に、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄銘剣の主・ヲワケが仕えていたのが、ワカタケルであり、つまり、雄略天皇である。

前段で、ワケ王朝もしくは河内王朝という分類方法に触れました。諡号で分類が可能なのではないかとする見方ですね。で、第15代・応神天皇はホンダワケという諡号を持ち、第17代の履中天皇はイザホワケであり、第18代の反正天皇はミズハワケである――と。一つだけ飛ばしたのは第16代・仁徳天皇です。仁徳天皇の諡号は「オオサザキ」で【ワケ】が諡号に使用されていない。特異なんですね。で、その仁徳が后として迎えたのは葛城襲津彦の娘の磐之媛であった――と。

(20代・安康天皇を省いた事には深い意味はありませんが、雄略天皇と関係している。安康天皇は讒言を信じて不興を買い、眉輪王に殺害されてしまう。その眉輪王を殺害して皇位についたのが雄略天皇である。)

そして葛城の地には曽我川が流れ、そこが後に悪役として描かれる蘇我氏の出身地でもあると鳥越憲三郎も指摘している。

水木しげるは偉大だなぁ…と感じながら漫画『水木しげるの古代出雲』(角川文庫)に目を通しているところ。古事記に忠実に沿いながらも水木しげる風にアレンジが入っている。漫画の中に、荒俣宏さんを登場させてしまう事はしっていましたが、こちらには梅原猛さんが登場している。梅原さんの著書なども参考にしているのが分かるし、一方で古事記にはないのに出雲国風土記に登場する逸話にも触れている等、研究熱心さも伝わって来る。それをした上で、漫画という体裁にしてくれているのが物凄く有難いと感じる。

水木しげるが描いたスサノオは三貴子神話を踏襲しているので、いわゆるセオリーから外れていない。私がやってしまうと三貴子を無視するところから始めかねない。なので、「ああ、こう解釈していたのかぁ…」と、やや落胆しながら読み進めていたのですが、天の岩戸の一件を経て追放されたスサノオ、そのスサノオがヤマタノオロチを退治するクダリになると、やはり、漫画は面白いんですね。

この箇所、余りにも有名ですが細部もあるので今一度、オサライしてみる。


スサノオは「天の岩戸」の一件によって高天原を追放される。そんなスサノオは母の国に向かわんとして、出雲の肥の河(ひのかわ)の上流にある鳥髪(とりがみ/「鳥上」とも)に辿り着く。すると、河に箸が流れている。箸が流れてきているという事は、更に川上へ行けば人が住んでいるのだろうと考えてスサノオは肥の河の上流を目指す。

すると、老夫婦が一人の娘を囲んで泣いているという場面に遭遇する。

スサノオは何事であるかと、老夫婦に話し掛ける。すると老人が答える。

「私たちは国つ神の大山津見(おおやまつみ)神の子で、私はアシナヅチと申し、妻はテナヅチと申します。そして、これは私どもの娘なのですが、クシイナダヒメと申します」

「何故、泣いておるのか?」

「私たちには元々は八人の娘があったのですが、毎年、ヤマタノオロチがやって来まして私どもの娘を食らってしまうのです。今年もその時期になり、今度はこのクシイナダヒメが食われてしまうと泣いているのです」

「そのヤマタノオロチはどんな姿をしているのか?」

「目はホオズキのように赤く、一つのカラダに八つの頭を持ち、尾も八本ついている大蛇なのです。体長は八つの谷にも及びます。体の表面には苔や桧、杉が生やしていますが、腹のあたりは赤く爛れています」

その話を聞いたスサノオは、そこにいるクシイナダヒメを妻としてくれるなら、そのヤマタノオロチを事を退治しようじゃないかと、ヤマタノオロチ退治に名乗りを上げる。スサノオは、クシイナダヒメを櫛に変えて自分の髪に差すと、老夫婦(アシナヅチとテナヅチ)にヤマタオロチを討つ為の秘策を授ける。

「強い酒をつくり、この家のまわりに垣根を巡らせてくれ。その垣根に八つの門をつくり、その門ごとに台をすえて酒船を乗せ、それに酒を盛ってオロチを待ち構えればいいのだ」

と指示し、老夫婦は罠を仕掛ける。

ヤマタノオロチがやってくると見ごとに罠に嵌まる。八つの頭を八つの門に通して、ごくごくと酒を呑み出す。そして、ヤマタノオロチは酔いつぶれて寝入ってしまう。

その寝入った頃を見計らって、スサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いてヤマタノオロチに斬り掛かる。大蛇は切り裂かれ、肥の河は大蛇の血で赤く染まったという。

怪物ヤマタノオロチの尻尾を斬りにいったとき、スサノオの十拳剣は刃こぼれをしてしまう。何事かと思いスサノオが尻尾を切り裂いてみると、そこには神剣・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であった。

スサノオはヤマタノオロチを退治したときに手に入れた、その神剣をアマテラスに送った。

因みに、その神剣は後にヤマトタケルに授けられ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)となり、そのまま、天皇が天皇であることを証明する為の三種の神器の一つとなり、現在も熱田神宮に祀られている筈になっている――。


先ず、水木しげるは「ヤマタノオロチ」という名前をアシナヅチから聞いたコマで、スサノオに

「オロチョン?」

というセリフを言わせている。しかし、アシナヅチによって

「いいえ、オロチ様です」

と訂正させている一コマが挿入されている。【オロチ】とは大蛇の事だと説明されるものの、その【おろち】の語源が「ヤマタノオロチ」から発生しているという問題がある。つまり、「オロチといえば大蛇のことですよ」という説明は、このヤマタノオロチから生じているのであり、純粋に「何故、大蛇の事をオロチと呼ぶのか?」に意識が及べば、ひょっとしたら【オロチ】とは日本海に面している出雲王朝の想定すると、ひょっとしたらシベリアのバイカル湖付近からアムール川一帯に住んでいるトナカイを飼養しながら生活している狩猟民族【オロチョン】をチラリと疑うかのような、セリフを挿入する工夫が施されている。

【オロチ】と【オロチョン】か。まぁ、シロウトらしい単語の転訛を疑ったワケか。まぁ、所詮は漫画家の発想だねと思うかも知れない。

しかし、それが通じなくなる。水木しげるが描いたヤマタノオロチには、ヤマタノオロチを奉じている一つ目の鬼と、その家来たちが描かれているのだ。

ここに描かれている「一つ目の鬼」を説ける者は、そう簡単には居ないと思う。それを描いている事は深い理由がある。実は、このヤマタノオロチ退治の逸話には、非常に酷似した逸話が出雲地方に存在し、そこに登場して娘を食らう怪物は「一つ目の鬼」なのだ。(因みに、水木しげるの漫画では、ヤマタのオロチを奉じている一団はタタラ族であり、そのタタラ族のリーダーが一つ目の鬼として描かれている。)

出雲国風土記の中には、農民たちを食べてしまう一つ目の鬼の説話が挿入されている。

阿用郷(あよきょう)には古老の言い伝えがある。一つ目の鬼が来て、その一つ目の鬼は農夫を食らう。一人の農夫が食べられた。その農夫の父母は竹藪に隠れたが、竹が葉擦れして、あよあよと音がしてしまう。襲われている農夫は、父と母が竹藪に隠れている事を鬼に悟らせまいと、「あよあよ」と竹擦れの音を真似て、父母を匿った。故に、この地を「アヨ」と云う。(アヨ郷という地名の由来。)

ああ、水木しげるって人は、確信犯的に漫画を描いているのだなと気付かされる。


また、スサノオをついては、漫画の中に梅原猛を登場させてしまうという荒業を使用している。なるほど梅原猛の著書『葬られた王朝』(新潮社)をも参照して描いているのが分かる。しかし、梅原の著書の中には、アヨ郷の一つ目の鬼の話は登場していなかった記憶がある。そのアヨ郷の説話がヤマタノオロチの説話に取り込まれている、酷似していると説明しているのは鳥越憲三郎著『出雲神話の誕生』(講談社学術文庫)であると気付く。これは物凄い偶然で、私が同著を読んだときに、何だこりゃと思って付箋を貼っておいたページだったんですね。ああ、水木しげる、とうの昔に、この問題に気づいていたのか――と愕然としました。

鳥越憲三郎は、ヤマタノオロチ退治の説話はアヨ郷の説話が古事記の編纂時に流用されたものであろうと推測している。古事記は国つ神系のスサノオを、天つ神系のアマテラスと兄妹の関係にする必要性があったので、そのように話を繋げる必要性があった、と。常識的に考えれば、スサノオが手に入れた神剣をアマテラスに献上する理由がない。スサノオがアマテラスを奉じる立場の神様にする必要性があったから、そのように編纂されたのだろうという仮説に言及している。

いやいや、そればかりか、このヤマタノオロチ退治で登場しているクシイナダヒメ(奇稲田姫、櫛名田姫)は重要人物なのだ。父はアシナヅチで母がテナヅチ。更に、そのアシナヅチの父は大山津見であるという。そしてスサノオに嫁いだクシイナダヒメは、オオクニヌシを生んだ人物とされる一方で、スサノオから4代目がヤツカミズオミヅヌで、そのヤツカミズオミヅヌの孫がオオクニヌシであるという。

水木しげる著『水木しげるの古代出雲』(角川書店)を読み終えたのですが、感心する事が多かったという読後感でした。あ。飽くまで水木漫画のジャンルなのですが、参考文献も豊富で梅原猛、関裕二、谷川健一らの著書、それに加えて山川出版の歴史リブレットまで参考文献に掲げられており、それらは実は、このブログでも参考にしてきたものでもある。なので、当然、私の認識しているところの古代出雲観とは距離が近かったという事も云える。勿論、似たような検証をしながらも私とは異なる認識の仕方をしているなと感じた箇所もありましたが、凡そは、こんなものであろうと思う。どこかしら腑に落ちない部分は誰しもが抱く感慨であり、漫画のコマの中で机の前でペンを持っている水木しげる自身が「国譲りというのは、もっと過酷なものであっただろう。自分がつくった国を簡単に譲れるとは思えない…」といった所感まで記しており、大変、興味深い古代出雲観に触れる事ができました。

また、同著を読み進めてゆくと、大筋が整理できる。古墳時代以降、九州に登場したヤマト勢力が出雲勢力を圧して、国譲りをした経過というものを提示できているんですね。また、改めて別名も多い古代出雲のオオクニヌシという神様こそが、日本の神話の主人公である事に気付かされる。

因みに、水木しげるが導いた古代歴史観に沿うと、高天原とは朝鮮半島か九州であり、出雲王朝の版図についても通説・定説に則っている。アメノヒボコは新羅の皇子を名乗っていたというのも事実ですが、その描き方として、アメノヒボコ軍VS出雲勢力軍の戦いという構図を採択している。これは改めて、中々に興味深い考察だと思う。

勿論、そのように描いたウラ側には、アメノヒボコ(天日矛)を巡る数々の伝承があり、また、その後裔が但馬守になっている事などと合致して合わせている。

水木しげる史観に沿えば、アメノヒボコ軍は播磨への侵攻を皮切りに吉備にも攻め入り、播磨と吉備を占領。出雲王朝軍は巻き返しを図り、これに参加したのが葛城勢力と、それを支援した海部氏らであるとする。この葛城勢力がアメノヒボコ軍に攻勢を掛けるとヒボコ軍は分離され、葛城軍が吉備を奪還したとする。

その混乱の最中、とうとう九州のヤマト勢力が出雲王朝に対して国譲りを迫る。交渉は繰り返し行われるが、出雲王朝は使者を懐柔し、国譲りを拒絶。中々、国譲りが進展しない事に業を煮やした九州勢力は、遂に軍事出動を掛ける。これがタケミカヅチVSタケミナカタの戦いですね。因みに、このタケミナカタはオオクニヌシの次男とされている。最終的にタケミナカタは信濃の諏訪に逃れて、諏訪から出ない事を条件に降伏する。それが諏訪大社が諏訪大社であることの謂われである。

分かっていたつもりでいたけど、この水木しげる史観によって、まぁ、そんな風に組み立てる事が可能なのだなと思い知らされる。

水木しげる史観では、九州勢力をアマテラスに比定し、また神武天皇に比定している。しかし、これは何でもないようでいて、重要な指摘であり、スサノオとアマテラスとが実は姉弟の関係にない作り話だと考えれば、高天原、アマテラス、神武天皇というのは全て、ヤマト系の神様なんですね。一方で、出雲系の神様は、オオクニヌシに代表されている。オオナムチ、ヤチホコ、アシハラノシコオ、ウツシク二ミタマなど。他にもオオモノヌシ、牛頭天王、果ては大国主を音読みして大黒天にまでなって崇められている。

日本に於ける神とは、いつの頃よりかアマテラスを頂点として見る史観が定着したものの、圧倒的に神話を残して祀られているのは、実はオオクニヌシなんですよね。かつて、哲学者の梅原猛は出雲王朝を「葬られた王朝」と呼んでみせた――。

また、言及しにくい部分にも踏み込んでいる。出雲国造は出雲王朝の末裔なのかというと異なり、国譲りの際にヤマト勢力から出向した家系、アメノホヒを祖とする系統が出雲国造である。

更に、三輪王朝について水木しげるは、神武東征までは出雲系勢力であったとしている。神武東征によって討たれたナガスネヒコ、その系統の神々は逃散したとする。三輪山に陣取っていた出雲系の旧勢力は麓に降ろされ、あとは東国へ逃れた――と。

(水木しげる史観では東出雲の【意宇】氏は天孫系の力を借りた出雲勢力ではないのかと論考している。飽くまで出雲王朝の都は西出雲とみる。これに対して、鳥越憲三郎は元々は出雲は熊野大神を奉ずる東出雲に起こったものが西出雲に移ったという説を採っている。年代を比較してどうか?)


さて、この漫画を描くにあたって、水木しげるは自らの夢枕に古代出雲の青年が立ったとも記している。その夢枕に立つ青年に「早く描くように」と催促されながら、仕上げた漫画であるという。こう述べると、「オカルトかよ!」とツッコミたくなるのが現代人の常識的な感性なのですが、よぉぉぉく考えてみると、深く深く、その問題に関与してしまうと、夢で奇妙なヒントを得てしまう事があるのも、また真実なんでしょうけどね。


◆荒神谷遺跡
島根県斐川町神庭字西谷。弥生時代の青銅器埋納遺跡であり、色々な定説を覆してしまった遺跡である。

銅剣が358本、銅鐸が6口、銅矛が16本が出土した遺跡。銅剣は弥生中期後葉〜弥生後期初頭のものと思われる50センチメートル前後の中細銅剣で、細かな製造時期については不明。銅矛は中細形2本、中広形14本であったが、この銅矛については北部九州からの搬入品と推定されているという。また、この中広銅鉾から埋納年代は弥生中期末〜後期前葉以降と考えられるのだという。

銅鐸については器高20冤召蠅両型品であった。菱環紐式(りょうかんちゅうしき)と言われる最古段階の銅鐸と、外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)と呼ばれる古段階のものであった。


◆加茂岩倉遺跡
島根県雲南市加茂町岩倉。銅鐸が39個が発見された。銅鐸の大きさは30〜50センチメートルで、発見された多くの銅鐸では大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入っている狷れ子瓩半態で出土した。内訳は20個が器高45センチ以上で大型、19個が器高30センチ前後の小型であった。

39個中の7個の銅鐸にはウミガメの描かれてり、吊り手と呼ばれる部分にヒトの顔が描かれていた。また、12個の銅鐸の吊り手には【X】印がついており、荒神谷遺跡で出土した銅剣358本中の328本の把手にも【X】印が有った事からも注目を浴びた。これら銅鐸の製造年代は弥生中期と目されているという。

この加茂岩倉遺跡は前述の荒神谷遺跡と僅か3.4キロメートルしか離れていない。更には「景初三年」の銘があった三角縁神獣鏡が副葬されていた神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)は、加茂岩倉遺跡から東南へ2キロメートルほどの距離にあるという。


◆上御殿遺跡
滋賀県高島市。双環柄頭短剣(そうかんつかがしらたんけん)の鋳型が発見された。この双環柄頭短剣は、オルドス式短剣との関連が非常にセンセーショナルなんです。中国の春秋戦国時代(紀元前770〜前221年)に中国北部の黄河の湾曲に囲まれた地方(「オルドス」と呼ぶ)にはオルドス式短剣という独特な形の短剣があったのですが、そのオルドス式短剣の狠魴伸瓩滋賀県から出土した。やはり、この衝撃は大きいですよね。但し、鋳型は使用された痕跡がないといい、何故、鋳型が滋賀県から出て来てしまったのか、物凄く謎めいている。

このオルドス式短剣は柄頭に二つの環を持ち、また、柄と剣身を一緒に鋳造する「一鋳」という方式で製造されているが、九州地方や朝鮮半島の銅剣は柄と剣身とは別々に鋳造されている。また、このオルドス式短剣には鍔がなく、血を流す為の樋もない形状が特徴とされているという。九州は勿論、日本列島や朝鮮半島でも双環柄頭短剣は出土しておらず、中国北方のオルドス地方の文化が朝鮮半島や九州地方を経由することなく、日本海ルートで滋賀県に鋳型が到達していたと推測できるようになったという意味で注目を集めているという。

オルドス地方には石器時代の遺跡群がある他、ウマやヤギといった動物意匠を持つ青銅器の文明が確認されている地域である。中華王朝の秦代から漢代(紀元前700〜前200年)にかけては匈奴ら騎馬遊牧民が度々侵入した地帯とされる。

この上御殿遺跡は弥生時代から古墳時代初期にかけてのものと推測されるが、この場合の年代幅は非常に大きく、仮に中国の春秋戦国時代に照らしてしまうと単純には紀元前500〜前220年も射程に入ってしまい、その一方で考古学上の区分で古墳時代初期と説明している場合は3世紀後半を意味しているという。

鳥越憲三郎著『神々と天皇の間』(朝日新聞社刊)を読み終えたものの、昭和45年刊と約半世紀前の著書なので、「今更、参考になる箇所はさすがに少そうだなぁ」という思いで目を通してみたという感じでした。

率直に述べると、大胆すぎて仮説に仮説を重ねてゆく過程というのが多く、正直なところ、「そこで断定的に考えてしまうと、方向性を間違えないだろうか」という感慨を抱く箇所が多かった。しかしながら、それでいて「あ。これは?」と感じさせるようなものもありました。

単純化してしまうと、葛城王朝が有り。そこへ東征してきた神武天皇も有り。欠史八代を葛城王朝として片付けているのが特徴であり、しかも、その葛城王朝は神武以下欠史八代が起こしたとし、葛城王朝の正体を部族国家に求める。葛城王朝は部族国家として大和平定までを行なったものと推定している。第七代の孝霊天皇の頃に大和平定に動き出したとする。その論拠としているのは第7代孝霊天皇以前の天皇は、三輪山周辺のごくごく狭いエリアで婚姻関係をつくっていたものが、外族との婚姻関係をするようなっている事としている。

なので、鳥越説を大枠を今一度、踏襲すると神武天皇&欠史八代は何処かより三輪山にやってきた何かであるとするという意味では、神武天皇実在説になりそう。その後、葛城王朝は大和平定に乗り出すが、そのプロセスの中で崇神天皇が登場し、崇神朝による四道将軍などの覇権を肯定する。

神武と崇神と応神、どれも東征してきた何かであると読むのが、近年の読み方ですが、神武以降の中央集権体制の確立は、少し分かり難かったという印象でしょうか。いやいや、整理すると鳥越説は鳥越説なりに細部にわたる検証が行われている。しかし、関裕二氏らが指摘するように絶望的なまでに出雲王朝の位置づけに問題がある。欠史八代以降の時代になってから出雲王朝がつくられた、或いは記紀編纂後に出雲王朝があったとする幻想が生まれたとしてしまっているのだ。この出雲王朝幻想説というのは絶望的ですかねぇ。その後に加茂岩倉遺跡などが発見されている事からすると、出雲王朝もしくは出雲地方を拠点にした古層があったと考えない事には検証に耐えられない。また、鳥越説は日本神話や新撰姓氏録を疑いながらも、それに沿って編まれている。

その辺りを上手に取り繕っているのが関裕二氏になるのかもね。

とはいえ、目を瞠るものというのも、断片ではあるものの、そこに見つける事が出来たような読後感があるんですよねぇ。

鳥越説というのは、ごくごく小さな三輪山近郊で起こっていた神武&欠史八代の時代、また、そこから大和平定へ乗り出すにあたって、各地の勢力が入り乱れながら「大王」が「天皇」へ、大和朝廷成立の仮説を語ろうとしたものなんですね。ごくごく狭いエリアの物語であったと考えている事が、或る意味では目を瞠るべき仮説だなと感じました。

先ず、これを説明するには、どうすべきか?

大別すると、天津神系と国津神系とに分類すべきか。天津神の祖はニニギである。対して、国津神の祖はアメノホヒである。ニニギは神武の祖であり、葛城王朝及び葛城氏、更には蘇我氏も、実は、その系統である。対して、アメノホヒが国津神系となる。皇別、神別などの概念も入って来るので非常に混乱させられますが、これを「神武系か非神武系か」という風に捉えると少し分かり易くなるかも知れない。

鴨族、これは「加茂」、「賀毛」のような表記も含めて鴨族であるワケですが、この鴨族は神武天皇を熊野から大和への道案内役を果たした八咫烏の子孫であるとする神話要素を、鴨族が神武勢力の道案内役を果たし、後に重鎮になっていった部族とする。

それについては和珥氏についても基本的には同じ扱いをしている。和珥氏は居勢祝(こせのはふり)の部族の後裔としている。

神武に九州地方から帯同してやってきたのが久米氏であり、これが後に大伴氏の祖となる。

神武と対決したナガスネヒコは、やはり物部氏の一首長に当てている。この物部氏の祖はニギハヤヒですね。ここから物部氏と尾張氏は、ニギハヤヒの系譜である事は関裕二氏なども再三指摘している事柄である。

穂積、志貴、三輪氏の祖は、大和地方に存在していた土豪とする。これは広い意味では和珥氏と似ている。葛城王朝によって平らげられていった何かであり、帰順した何か。

そして問題の【穴師】ですが、これが非常に難解で新撰姓氏録に記されている祖はアメノホキ(天富貴)と記されているが、それは和泉国の兵主神社の話であり、本家本元であった筈の穴師坐兵主神社についての詳細は不明であるという。しかし、この穴師には穴師兵主神社というものが古い時代から高い社格を与えられ、且つ、大和、和泉、参河、近江、丹波、但馬、因幡、播磨などが延喜式で確認できるという。また、この兵主神社(ひょうずじんじゃ)の謂われもミステリーであり、

「一書にいわく、天皇のはじめて天降り来るましし時、ともに斎鏡三面・子鈴一合を副え護らしめたもう」

とあり、鳥越説では神宝である八咫鏡との関連性を推測した上で、崇神天皇を守護する神社であったのではないかと推測している。

何故、この穴師邑(あなしむら)の穴師坐兵主神社を分社したと思われる【兵主神社】(ひょうずじんじゃ)が全国各地に広がっていたのか。また、その猜室膈瓩箸いμ松里浪燭魄嫐しているのかについては諸説あるという。その一つに「史記」の「兵主、蚩尤(しゆう)を祠る」から【兵主】を執ったものであり、帰化人の秦氏が広めたとする説があったという。


しかし、これは鳥越説の方が説得力がありそう。つまり、崇神天皇の軍事面をサポートする部局、部曲のような、そういうものであったのではないか。天皇家の出自が謎に包まれているという問題、これは日本の天皇家には姓が存在しないという問題があるワケですが、それに似ていて穴師坐兵主神社の正体も全く不明であるという共通した謎に気づかされる。

鳥越憲三郎を無視して、想像を逞しくしてしまうと、オオナムチとは【大己貴】と表記したり、或いは【大穴牟遅】、【大穴持】と表記されるケースもあるんですよね。つまり、穴師邑の武装軍団を有していたのがオオナムチの正体であり、オオナムチとは崇神天皇の事を指していたのではないかなんて考えたくなってしまいました。いやいや、崇神天皇には不思議な逸話があり、三輪山の大物主を祀る為に大田田根子を捜し出して、その大田田根子に大物主を祀らせる事で世を収めたとされる天皇なのだ。

崇神天皇は三輪山の麓、磯城(しき)瑞籬(みずがき)に宮を建てたとされている。鳥越は素直に、崇神天皇の出自を磯城(志貴)ではないのかと疑問符を付けて記している。そして、この穴師兵主神社については崇神天皇が初めて祀ったのではなく、それ以前に祀られていた神社であろうとしている。

因みに『神社辞典』(東京堂出版)に拠れば、この穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)の祭神は大兵主神であり、各地の兵主神社の祭神は兵主神であると記されている。鳥越に拠れば穴師坐兵主神社の祭神については、大国主とするもの、八千鉾神とするもの、大己貴とするもの、経津主神、建御雷神とするものもあり、そこに全く統一性が見られない謎だらけの神社であるとしている。しかしながら『大倭社注進状裏書』には、上社の祭神が御食津神(みけつかみ)、下社の祭神が天鈿女(アメノウズメ)と記してあり、更には両社ともに御神体は猝鍬瓩筏されているという。これだけ謎めいているというのも珍しい気がしますかねぇ。古層の何かであるのは確かだから、崇神が初めて祀った訳ではなく、それよりも古くからあった何かであろうとしている。

鳥越が出雲王朝を否定しまっているのが何とも皮肉ですが、それこそ「大穴持」を当て嵌めたくなるのが人情でしょう。いやいや、ホントは大物主にしても、大己貴・大穴持にしても、関裕二氏が展開させている通り、それらを古層の出雲系の何かだとして、それらを当て嵌まれば、整合性の取れる仮説を立てられそうな話なのだ。

浦島太郎の昔話というものについて、大半の者が知っているワケですよね。童謡に沿っていて、浦島太郎は苛められていた亀を助けたところ、その亀に御礼だとして竜宮城に連れていってもらう。竜宮は天国のようなところで、そこで浦島太郎は乙姫様に歓待され、御馳走が並べられ、鯛や平目の舞い踊りが演じられ、それは「絵にも描けない美しさ」であった。帰り際、開けてはいけませんよと、禁じられるも玉手箱をもらってしまう。帰郷した浦島太郎は禁を破って玉手箱を開けてしまったところ、モクモクと煙が立ち上がり、たちまちのうちに浦島太郎はお爺さんになってしまった。浦島太郎が竜宮へ行っている間、かなりの長い年月が経過していて、その夢から醒めてしまった――と。

で、これは浦島子の話で、浦島子伝を筆頭に、雄略紀、丹後風土記、万葉集、更には俵藤太秀郷(藤原秀郷)にも俵藤太伝に竜宮入りが紹介されているという。「雄略紀」については、別に雄略天皇が竜宮に行ったという話ではなく、突如として当時の出来事として浦島子の話が紹介される形で挿入されているという。

また、浦島太郎の内容は、記紀に記されている「海幸山幸」説話との共通性も指摘されているという。これも今一度、おさらいすると以下のような説話である。

ニニギノミコトの子には兄と弟がいる。兄は海幸彦(火照/ホデリ)であり、弟は山幸彦(火遠/ホオリ)である。海幸彦は海での漁に長けており、山幸彦はというと山での狩りに長けていた。そんな海幸と山幸とが或る時、互いに道具を交換するが、山幸は兄である海幸の釣針を紛失してしまう。怒った海幸の怒りを鎮める為、山幸は海神宮を訪ねる。そこで海神の娘である豊玉姫(トヨタマビメ)と婚姻し、3年ほど過ごす。山幸彦は海神の助けを借りて釣針を取り戻したが、やがて、その兄弟は対立するようになる。山幸彦(=弟・火遠・ホオリ)は海神から授かった塩盈玉・塩乾玉(しおみつたま・しおひるたま)の力で、海幸彦を撃退する。この山幸彦と海神の娘・トヨタマ姫との間に生まれた子がウガヤフキアエズであり、その直系が皇祖であるという。(因みに海幸彦・山幸彦の型の説話は、東南アジア、更にはオセアニアにもあるという。)

こういう話は柳田国男あたりで既に論じられてしまっており、念の為、目を通してみたら、既に『海上の道』の「海神宮考」がありますね。駆け足になってしまいますが、これらは、明らかに犹ている瓩畔析されている。そればかりか、柳田国男の時点で既に、これは神仙郷の話であり、東に行けば蓬莱(ほうらい)があるという、その話と似て、海の何処かに竜宮があるとする狎膓神睿鱈瓩任△蹐Δ箸靴討い襦

勿論、「わだつみの神」とは、その海神を指している。

そして、柳田の「海神宮考」には、次のように記されている。

起原は多分仏法の経文にあり、読経師の口を経て、次第に通俗化して来たものと私などは思っている。今でも気がつくのは、日本の昔話には竜宮には竜はいない。そうしてしばしば乙姫様という美しい一人娘がいる。これから考えられるのは、新たに国外から運び入れたのは、主として語音の珍しいその仙境の名前だけであって、説話の内容はこれがために大きな変化を受けていなかったということで、このただ一つの側面からでも、島毎の昔話の発生時の、古さ新しさが測定し得られると思う。

柳田に拠れば、ある人物が別世界へ行って、そこに止まるという類型の説話を、仙郷淹留譚(せんきょうえんりゅうたん)という用語を使用して説明している。仙人が棲む仙郷に入(淹)り、そこに留まる話の意。既に、仙郷・仙人が登場しているように古代神仙思想に於ける「西には西王母の棲む理想郷があり、東方には東王父が棲む理想郷(神仙郷)がある」という思想に基づいているように見えるが、先に掲げた部分では柳田は「仏教の経文にあったものが通俗化したものと私などは思っている」という所感を添えて、この問題を掲げている。

この古代神仙思想って、よくよく考えてみると感慨深く、古代中国にはかなりの長期間に渡って、漠然と「東方には神仙郷がある」という具合に考えが根付いており、それが有名な蓬莱、あるいは蓬莱山(ほうらいさん)であり、そこへ行けば、不老不死の霊薬が手に入ると漠然と信じられ続けていたという事なのだ。

西と東、方向は逆なれども、ゴダイゴの「ガンダーラ」は、


そこへ行けば どんな夢も

叶うと云うよ

誰もみな行きたがるが 遥かな世界

その国の名はガンダーラ 何処かにあるユートピア

どうしたら行けるのだろう 教えて欲しい


と歌った。西へ行けばガンダーラという仏教の理想郷があると信じて西へ向かった三蔵法師一行の、西方への憧憬が、そこに歌われている。しかし、それよりも古い年代、同じように東方への憧憬があったのだ。それが東王父の棲む理想郷、神仙郷であった。つまり、「この海をずっとずっと東へ航路をとってゆけば、そこには神仙郷がある」という憧憬ですね。

また、或いは「ユートピア」と同義語であろう「桃仙郷」という言葉もありましたが、これも勿論、大きく影響しており、実は日本神話にも色濃く、この「桃」が関与しているし、そこから発生した呪術体系としての道教が日本神話に見て取れる。海幸彦山幸彦の話なんてのも海神の話だし、浦島太郎の話が脈絡も分からぬまま雄略天皇に繋がる欄に記されている事、更には出雲神話にも桃の種によって邪鬼を払う等の逸話が挿入されている通りで、どうしようもなく古代日本は、その東方にある神仙郷と目されてきたという話は、大陸的にも、或いは日本的にも、実は双方向性で痕跡を残しているように見える。

また、天武天皇あたりの諡号は、当方にある神仙郷の主であるかのようにも読める、その名前を残していると言えてしまうでしょう。例えば、天武天皇の和風諡号には「瀛真人」(えいまひと)とあるが、この【瀛】は(中国からみて)遥か東方にある神仙郷の名称であり、【真人】は道教上の導師の意味がある。

更には、四道将軍のうちの吉備(きび)、吉備津彦こそが桃太郎の正体であり、桃太郎についていったキジ、サル、イヌは、いずれも道教に継承された神仙思想で重視された動物であり、そもそも桃太郎の桃が桃源郷の桃なのだ。

また一つは不老不死の霊薬が手に入るという蓬莱、蓬莱山、ヨモギ山であった。台湾の異称であると同時に、日本の富士、熊野、熱田などの仙境も蓬莱と呼ぶことがあったといい、かの「竹取物語」にしても「東の海に蓬莱山という山あるなり」と記されている。また、荒俣宏の「帝都物語」で広く知られることになった徐福の逸話がある。秦の始皇帝の命令を受けた徐福は不老不死の霊薬を探す為に東方の海に出たが、ついに戻ってこなかった。実は徐福は東方に向かい日本列島に辿り着き、そこで倭国の王になった、即ち、徐福倭国王説にまで繋がっている。

さて、柳田国男の「海神宮考」では、これを更に広げて眺めてみる。これら「東方に理想郷がある」という神仙思想は通俗化された形式で、沖縄や奄美地方にも膨大に痕跡を残しているとする。そして、そもそも「竜宮」や「蓬莱」が「常世の国」と同義であった事の指摘に到る。

雄略天皇紀の二十二年に、浦島子の記事が出ているのは一つの不審だが、ともかくもこれが最古の文献であって、ここには蓬莱山という漢字を使い、その古訓はトコヨノクニであった。『釈日本紀』の述義に引用した三つの書、『丹後国風土記』には蓬山とあり、また海中博大之島とあり、『本朝神仙伝』には蓬莱とあり、ただ天書の第八というものに、海竜宮とあるばかりであった。蓬莱が竜宮以上の外来語なることは疑いを容れぬが、古訓のトコヨノクニにも文化の香があって、なお最初から民間の通語とは考えられぬである。

このトコヨノクニとは勿論、【常世の国】であり、この【常世】とは「永久に変わらない国」という意味である。

また、沖縄にも「ニライカナイ」という海の向こうの理想郷の説話がありますが、そのニライカナイを柳田は【儀来河内】(ぎらいかわち)と比較している。このニライカナイについてが本論なのですが、ここまでを序として――。


南方熊楠は「竜」とは、「インド、中国、日本などの想像上の生物である」という想像動物説を否定するという立場を採った。竜を想像上の動物だと語るのは「誤解」である――と、明確に立場を表明した。

熊楠は、どう主張していたのかというと、日本神話に登場するワニがワニを意味しておらず、実はサメのことをワニと呼んでいた事例などを挙げる。確かに、このワニにしてもオオクニヌシの「因幡の白兎」の説話に登場する。

白兎が沖の島から本土の因幡へと渡るにあたり、白兎はワニをダマしてしまう。ワニを整列させて、そのワニの頭の上を渡って因幡まで渡るが、ダマされたと気付いたワニは怒って、白兎の皮を剥がしてしまう。因幡の浜で白兎が泣いていたところ、最初はオオクニヌシの兄たち(八十神)が通り掛かり、その一行は海水でカラダを洗えと白兎をそそのかす。真に受けた白兎は憐れ、皮を剥がれたところへ塩水をつけてしまいヒリヒリとキズに塩分が痛めてしまう。そこへオオクニヌシが通りがかり、白兎を助ける。河の真水で塩分を洗い流し、ガマの穂綿にくるまるように忠告し、白兎は助かる。すると、その白兎は御礼にオオクニヌシに一つの予言を授ける。実はヤガミ姫の使いが白兎なのだ。オオクニヌシは白兎の予言通り、上の兄弟たちを差し置いて、ヤガミ姫を娶ることに成功する。

この話に登場するワニとは、フカの事であり、現在ではサメを指しているという解釈で統一されている。

熊楠によれば、竜とは蛇に近いが竜には足があり、それを考えれば竜とはトカゲが近いとする。古代中国にも古代エジプトにも、実は大トカゲを神とする例があると指摘する。一方でワニも古代エジプトとインド、西アフリカ、ルソン島あたりでもワニは神と崇拝され、生贄を捧げる風習までもあったという話に触れる。古代中国の神仙思想になると蛟(みずち)という水の中に棲んでいる竜の話がある。その蛟にしても熊楠は、おそらくはワニではないのかとする。

となると、熊楠を踏襲すれば、よくある疑問の一つ、「何故、十二支の中で龍だけが想像上の動物なのか?」に決着がつくのかも。ホントは龍および竜の正体とは大トカゲか、もしくはワニであったと考えた方が実は合理的?!

因みに、この蛟ですが、因みに(日本の)仁徳紀にも「蛟ありて人を苦しびしむ」という記述があるという。確かに、よくよく検証してみると、「これはホントに想像上の動物のことなのか?」と疑ってもいいような気がしないでもない。或いは、古代東アジアとは、本当に幻想と現実が一体化した世界であり、想像上の動物が生息するものとして世界を認識していたという可能性もありそう。

これは「天狗」の正体が落雷のあった後に、その落雷現場で犬に似た獣が目的される事から、江戸時代頃にはハクビシンを「天狗」と認識していたという。且つ、その天狗という動物はカミナリに乗って天空の中、駈けてくる生き物であると認識されていた世界であった可能性があるんですね。殆んどゲゲゲの鬼太郎的な世界ですが、つまり、妖怪とは、そういう事なのだ。

これは妖怪は妖怪でも「水木しげる」じゃなくて「井上円了」の方ですけどね。ハクビシンに限らず、イヌ、キツネ、それが稲作文化圏は神となる。何故ならカミナリの事を稲光や稲妻というように、この東方神仙郷に辿り着いた稲作民は雷を天神と認識し、そして崇めたのだ。井上円了であったと思いますが落雷があったり稲妻が走ると、その秋の収穫が良いと認識されていたのだったかな。そして落雷の現場に行ってみると、そこにはキツネのような動物が目撃されるので、いつしか「お稲荷様=キツネ」は神の使いである――という認識となる。これぞ妖怪学ですね。しかし、実は半分ぐらい、いや、4分の3ぐらいは正しいような気がしないでもない。

つまり、東洋文明というべきか古代アジアの神仙思想上では、伝説上の生物は実在しているものと解され、その前提の上に成立していた世界であり、それが表も裏もなく、真理と認識する世界であったワケです。で、日本神話などにも充分過ぎるほどに妖怪を妖怪として認識する世界観であったのが厳然たる事実であった――、と。

記紀に、これらの神仙思想的・道教要素の強い逸話が記載され、且つ、実際に桃太郎や浦島太郎に馴れ親しんできた我々日本人とは、ホントは頭のテッペンから足の爪先まで、堂々たる神州の民族だよなという気がしないでもない。雄略記に浦島子伝説が記され、仁徳天皇の時代でさえ、蛟が出没していたのが文献上では神州・日本の真の姿なのだ。

さて、竜宮城のあった竜宮とは何処か? これいついて柳田国男は「海神宮考」で踏み込んだ記述を残している。

宝海峡以南の島々においては、我々のいわゆる竜宮を、一般にニルヤ、またはそれと近い語をもって呼んでいた。

【宝列島】という地名を地図帳で探してしまい、そんな名前の海峡は見つからず。しかし、これは【吐噶喇列島】(トカラ列島)の事を、【宝列島】と表記したものでした。つまり、鹿児島県のトカラ列島以南の島々では、一般に竜宮のことを【ニルヤ】と呼んでいたという事のよう。柳田の引用を続けます。

例えば喜界島ではネイシャ、文字では根屋とも書き、それは竜宮のことだと、知っている者も少しはあった。沖永良部島では、ニラの島というのがそれであり、ニラの神またはニラの大主(おおぬし)という名も昔話に出て来る。奄美大島でも竜宮と訳して話す人もあるが、普通には根屋、もしくはネリヤの名をもって同じ昔話を説いている。

海神の棲む竜宮、それは「ニラ」もしくは「ネリヤ」などと呼ばれ、トカラ列島以南にも、その未知の土地に行くと、年齢を取らないという不思議な場所があるという昔話が残っていたのだ。

『琉球神道記』には、姿を消して23年も経過した後に、加齢することなく若いときの姿のままで帰還した若い妻の昔話があるという。妻に拠れば、野原で2〜3日遊んでいただけだというが、夫からすると23年もの月日が経過しており、何故、妻は老けることもなく若かりし頃の姿のまま帰ってきたのか――という不思議な逸話が記されているという。その不思議な逸話は、那覇の港に接した若狭町の若狭殿であるとまでの伝承が残っていたという。

沖縄にも確かに玉手箱&浦島太郎を思わせる昔話が何種類から確認できるらしく、上記の『琉球神道記』とは別に『遺老説伝』に酷似した話が掲載されているという。

沖縄には神寄せをする巫女として、独特の祝女(のろ)という文化がありますが、その祝女である稲福婆という人物が行方不明になってから三年目も経過して海の向こうから帰還したという。稲福婆は頭髪はなく、貝などを体に付けている状態であった。稲福婆によれば、海底で遊んでいたところ、竜宮に紛れ込み、そこで食事を賜ったところ、黄色い吐しゃ物を吐くようになったという。この稲福婆の事を、ニラヤ(根屋/常世の国)から帰還した婆の意で「儀来婆」と呼ぶことになったという。

この儀来婆の話は、つまり、三年の間ほど竜宮に滞在し、戻ってきたところ、頭の禿げ上がった老婆になってしまっていたという話なのだ。この儀来婆は、余り竜宮について語ろうとはしなかったという。

この儀来婆の話がギライカナイといい、それがニライカナイに転訛した。また、故に、『遺老説伝』の作者は、大和人たちがいう竜宮が、そのニライカナイの事であることを知っていた旨、柳田国男は記している。

更には、次のようにも記している。

久米島の神歌にはジルヤカナヤ、もしくはジロヤカナヤがあり、伊平屋島にはナルクミテルクミがあり、奄美大島の春祭に迎え送られるナルコ神テルコ神なども、まだ確証はないが、同じ系統の語かと想像せられる。

やはり柳田国男の時点で殆んど解決済みとも思えるような解説でもあるが、より生々しい解説を折口信夫(おりぐちしのぶ)を通して谷川健一が展開させている。

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