どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:オトナの話 > 肥大化する性意識

先ずは、大杉栄が書いた『羞恥と貞操』という短文を引用します。

猫は屋根の上で、犬は道端で、人目は勿論猫目も犬目も憚らずに、しかも大聲(おおごえ)を立てて戀(こい)をする。何故人間のみは、あんなに戀を恥ずかしがるのだらう。

蛤の赤身を平氣でひろげて見せて居た小娘が、年頃になると、何故急に、ああも事毎に恥ずかしがるのだらう。

湯屋の三助に背中を流させて得意でゐる女が、相許した男には随分痴態を演じても見せる女が何故外の男の前では、手足の膚一つ露はす事すらに、あんなに恥ずかしがるのだらう。

男はそんなでもないのに、何故女は、ああも慎み深いのだらう。それに田舎のよりも都会のに、謂はゆる文明の優れた國のに、何故ああも厳しいのだらう。


大杉栄の評としてエッセイストという評があるのかどうか知らないのですが、「ああ、この人は優れたエッセイストだな」と感心させられる書き出しと感じました。素朴すぎる疑問を掲げている。しかし、ホントに大杉栄の論考が凄いと驚かされる事になったのは、更なる考察なんですね。既に、引用した箇所に示されているのですが、実は、羞恥心というのは文明度と相関関係にあるという事を、西暦1915年3月頃には既に見抜いていたのだ。

メラネシアの男女が性交するのはいつも林の中から藪の中かで、しかも眞晝間である。そして其の性交の方法も、頗る妙なもので、全く動物的と云つていい。即ち犬のやるのと變りはない。更にメラネシアからポリネシアに行くと、殆んど動物と同様の両性関係を見い出す。其の自由は不規則といふのではなくて、始めから全く規則がないんだ。アメリカの一旅行者ポオタアは云つてゐる。吾々の云ふやうな道徳は、全く彼等の間に知られてゐない。其の行為を恥などとは少しも思はぬ。却つて自然のそして罪のない楽しみだとばかり思つてゐる。又フランスの一旅行家ヴリユイは言つてゐる。これ等の諸島にゐる宣教師が最も困難とするのは、女に羞恥や貞操を教へる事だ。彼等はそんな言葉も知らなければ、又どんなものだかも知らない。

もう、引用はこれだけで充分であろうと思う。

今春か昨年末か、NHK総合で、炭鉱労働をしていた当時の女性が身に着けていた腰巻をクローズアップした番組がありました。実際に炭鉱労働に従事していた女性が奇跡的に保管していたものであるという。それは長い薄手の布でできた腰巻であり、つまり、上半身はハダカで労働作業をしていたという。その労働している様子を撮影したモノクロ写真も紹介されましたが、予想通り、乳房は丸出し姿で何やら作業をしているというショットでした。

一応、触れておくべきか――エロいかエロくないかというと、エロくない。いやいや、全くエロくない。番組内でも、上半身裸で作業をしていた事に触れていましたが、坑内は非常に暑くて、上半身裸にならないと作業なんてしていられなかったのだそうな。

で、実際のところ、多くの男性は小中学生の時分、友人たちと、大杉栄ばりの会話を交わしていたであろうと思うんですね。例えば、海外ドキュメンタリー番組、私が記憶しているのは『素晴らしき世界旅行』であったと思いますが、いわゆる裸族の生態を追うドキュメンタリー番組に映る女性の乳房はエロくないのだ。エロくないというか、性的興奮を喚起しないといった方が正確でしょうねぇ。これは、ホントは、中々の疑問ですよ。

更に記憶を遡れば、おそらく小学生の頃、テレビが洋画を放送するのですが、白人さんの顔や黒人さんの顔の分別がつかなかったという経験を持っている人は多いのではないかと思う。これは、もしかしたら世代が関係していて、若年世代になれば幼少時から白人さんも黒人さんも身近に感じていたであろうから、それらを容貌なり顔貌なりで見分ける能力も早熟であった可能性がありますが、少なくとも、私や私の周囲では、そういう会話は幾度となく交わされていたのが事実ですかねぇ。洋画であれば似たような白人さんが多く登場するが、どの登場人物がどの登場人物なのか、分かり易い特徴がないと分別がつかなくなってしまう。黒人さんにしても似た事情があったと思う。

更に思春期を迎えると、それは性的興奮を喚起するか否かで大きな問題に発展する。白人女性のヌードには物凄く性的興奮をおぼえるという現象が起こるんですね。金髪やブルーアイに対してのコンプレックスなんていう語り口もありますが、それは兎も角、ホントに、そういう事が起こる。私は平気で周囲の友人たちと猥談をする少年であったから、これはよく記憶している。で、不思議な事に黒人女性のヌードというものには何故か思春期の少年たちの性的興奮は向かなかったという記憶があるんですよねぇ。もう、本人の自覚もないままに、そうした白人優越主義の文化体系の中に編み込まれてのかも知れませんが、率直に、私の知っている日本人の性事情とはそういうものであったと思う。それこそ、ビヨンセなんていう大スターが登場するにつれ、「うわっ。ビヨンセ、なんてセクシーなんだろう」という反応が現われたりするワケですが、そこに時間軸のギャップが存在していた事は紛れもない事実であっただろうと思う。

容貌・顔貌を分別するのが難しいという次元があり、そこから脱して、白人さんでも黒人さんでも個別に姿を認識できるようになって、更に、その先に、色々な意味づけが心理的に行われて、そこで初めて、性的興奮を喚起する何か、今風に言うところの爛┘蹐き瓩粒鞠阿謀るのであろうと推測している。
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引き続き、『羞恥と貞操』から引用します。

ポリネシア諸島では、男女関係の自由に殆んど何等の制限がない。結婚した女でも、其の夫の言葉次第で、貸しもし切売もする。そして女に羞恥とか貞操とかいふ事が全く知られてゐない。然るにニュウ・ジイランドに行くと、女の持主が大ぶ嫉妬深くなつて、許可のない不義は必ず死を以つて罰する。また其の許可するにも必ず何等かの刑罰を伴つてゐる。そして女も比較的に慎み深い。

ヨオロツパ人が其處の女を買はうと思つても、女は先づ家族のもの若しくは夫の許可がなければと云ふ。それから其の値段をきめて漸くそれ等のものの許可を得ても、こんどは又再び其の女といろいろ談判しなければならぬ。斯うして出来た女で、其のヨオロツパ人の情人に愛着して、随分忠實(ちゅうじつ)に盡(つく)すのも珍しくない。男は自分の妻を貸したり切売したりする事を、他の野蛮人と同様に、少しも不道徳だと思つてはゐないが、そして、それは持主たる男の権利だと信じてはゐるが、それでも多少の嫉妬心からこれを控える。

フランスの哲学者モンテエニユは云つゐる。『斯く自然な、必要な、そして正しい性行為が、頬を赤らめないでは話されないとか、眞面目な場合から遠ざけられねばならぬと云ふのはどう云ふ譯(わけ)なのだらうか。吾々は殺戮するとか、掠奪するとか、又は裏切りするとか云ふ事は遠慮もなく口に出す。そして此の事だけは、齒の間でなければ敢て云はない。』しかしこれは、比較人種學によつてのみ解釋せらるべき、進化論的心理學の一問題なのである。


大杉栄は、比較人種學による原始野蛮人の風俗、特に性風俗を列挙し、犬や猫といった動物の性交と原始野蛮人たちの社会にみる性事情と、それと文明人の性事情との比較を試みているのが分かる。そこに関係しているのは、【羞恥心】のようなものが実は文明の産物であるという事を見い出せるワケですね。

未開人(原始野蛮人)の社会では原始共産制(自由共産の制度)のような制度が、その発展状態の中で現われる。その自由共産の制度の中では現代人が言うところの爛侫蝓璽札奪ス瓩砲盪た自由性交の世界さえもが現われてしまう。それが文明の流入に伴い、「この女は俺の所有物である」というような私有権の概念を芽生えさせる。この事は資本主義的な概念であることは論を俟たないでしょうが、つまり、文明由来、資本主義原理と密接な関係がある犹簍権瓩粒鞠阿流入すると、社会に変化が生じるという考察をしている。結果として、女は羞恥の心を意識するようになり、一方で男は所有権意識を強め、嫉妬心も強める――と。

そして、以下のように結んでいる。

斯うして奴隷中の奴隷たる女は、幾萬年かの間に全く女特有の奴隷根性を養はれて了つた。

この結文は、やや偏重も感じなくもありませんが、大方、その文脈は支持していいのであろうと考えますかねぇ。更に大掛かりに述べれば、地母神信仰とかグレートマザー信仰、これは「原始、女性は太陽であった」的な文脈ですが、そういった原始的な原初段階では女性の地位は非常に高かったが、文明の発達過程の中で男性を上位と見做して文明を発達させてきたというのが通説ですやね。政治といっていいのか、戦争と捉えるべきなのか、社会を高度化させるにあたって、男権的な力が必要とされる段階になり、女性の地位は相対的に低下していったという事ではないのか的な。しかし、この時間軸の単位というのは数千年とか数万年の話であり、実際にはどんな風に転んでもおかしくは無かったが、強大な力による文明発達を模索するというプロセスの中で、強靭な男性的資質が重用されるような歴史を人類史は辿ったであろう的な。

そして、その中で性的道徳が発祥し、その性モラルとして、文明人たるもの、無闇矢鱈に人目を憚ることなく性交しないようなモラルを選択してきた。そこでは羞恥心が強く、行動様式としては慎み深い事、また、貞操観念が頑健な事が理想的であるという一つの犒伸瓩つくられ、その文明の「型」に我々は従っていると考えられる。

近年、有名人の不倫、これは不貞行為を直接的に指しているのに、何故か倫理の問題に婉曲して語られているように思える。【不倫】は石原慎太郎さんの小説あたりから頻繁に使用されるようになったとの事ですが、現代人は「倫理的な不なのであり、許されない事である。けしからん」という文明人的な文脈に則って、不貞行為を働いた人たちをバッシングしている。しかし、一方で或る時期まではフリーセックス待望論があったような気もしますかねぇ。「アバンチュール」だとか「ナンパ」、あるいは「失楽園」などですが、まぁ、自由に性を謳歌しなさいよ的な解放論があったのですが、20〜25年も経過してみると、すっかり、そういう気風は悪者となり、ガチガチな保守的な性モラルが主流となった。これは、大きな潮流としての話であり、大きな文脈として話ですが…。

また、この性事情と性モラルの変遷というのは非常に複雑怪奇な側面があると思う。
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思潮として、その男女格差問題を改善しようという動きが確認できるワケですね。

FBIが最も恐れていた人物とは、アメリカの女性活動家レッド・エマである。そのレッド・エマことエマ・ゴールドマンや、そのエマに影響を受けていた伊藤野江なども活動家の思想史としては挙げることが可能ですが、多くの場合、それは戦後のウーマンリブの波というものを第一波としてカウントしている。日本でも50歳以上の人であれば狠罐塹↓瓩噺討个譴真佑燭舛テレビ番組に乱入して、少しばかり異彩を放つ主張をしていた事を記憶しているかも知れない。その後に、フェミニズムという名称の第二波が押し寄せて、更にジェンダーという名称の第三波が到来したという風に一般的には認識されているワケです。

思いの外、強烈だったのは第二波のフェミニズムの波であり、それは実際に西暦1986年、男女雇用機会均等法という法律を成立させる事を以って具現化した。そして、おそらくは、それを契機にして日本社会には様々な混乱が起こる事になった。この男女機会雇用均等法には良い面も沢山あったでしょうし、おそらくは「職場環境に於ける女性」という部分で切り取れば、それは歴史的必然とも言える波であっただろうと思う。しかし、その舞台となった職場のような現場は混乱し、また、そこから延焼して燃え上がることになるフェミニズムは、それ以前には大きな存在として君臨していた専業主婦を「働いていない人たち」という風に解釈して攻撃をしたり、或いは「女性らしい細やかな感性を活かしていい仕事をしているね」といった具合の男性上司の言葉に対しても、「性的差別である!」と牙を剥くようなラジカルな言論潮流を同時に日本に蔓延させてしまったように思う。これはテレビなどの媒体で「ラジカルフェミニスト」と呼ばれた人たちが大いに活躍した事を思い出せば、人々の記憶と合致するであろうと思う。

で、その後、「ジェンダー論」、あるいは「LGBT」といった思潮があるワケですね。「フェミニズム」も含めて、それらの中核になっているのは牾萋芦鉢瓩箸牘親芦鉢瓩噺討个譴訖佑燭舛如△泙拭彼等がその舞台に言論活動があるワケです。で、それに大手、テレビ局や新聞社は乗っかる形で論陣を展開している事という事実に気づかされるでしょう。それは表向きは爛螢戰薀覘瓩箸いμ松里鮓譴蝓∪こε潮流としてそれが起こっているという前提、日本は男女同権の後進国であるという前提を、かなり強引に捻じ込んでいるように見える。しかも、この傾向がかれこれ20年近く継続しているので、現在の30歳程度の人は、もう、これが常態であり、常識として受け止めている世代も少なくないという状況になっている事が予想できてしまう。

今朝ほど、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」の中で一人のコメンテーター氏が、

「セクハラも犯罪にすべきなんですよ」

という類いのコメントをしていました。おそらく、これが通用してしまうのが現在の日本なんですね。しかし、これは裏返せば犒がらせ畊坩戮魘姦や恐喝のようなものだと法制化せよという意見であり、ビックリするレベルの暴論でしょう。数日前に小林よしのり氏がブログで「セクハラは犯罪ではない」と即座に反応していましたが、ホントは、小林よしのり氏のような認識の方が正しいんですね。

【セクハラ】は犯罪か否かという問題にしても、実は何かと問題の多い男女雇用均等法の中で義務づけられている何かである。これは法的にもグレイゾーンの部分で、義務づけている、改善の為の努力義務があるというニュアンスなのが真実なんですね。(しかも、この社会保障政策の多くは比較的近年、色々と改正されてしまって、ごちゃごちゃなのが実情でもある。)

決定的な事があり、セクハラを筆頭にして、いわゆる【ハラスメント】という行為は、単純に翻訳すれば【嫌がらせ】である。しかも、その認定に於いてはデタラメになってしまっていて、

「受け手が不愉快と感じたら、それはハラスメントなのです」

になってしまっている。これを法制化して犯罪にせよという意見は控え目に述べても、バカとしか言いようがない。そんなものを法制化したら、法律も法治主義もデタラメだと宣伝するようなものだ。法の自殺だ。その愚かさを内包している。だって、なんでもかんでも、気に入らない相手を犯罪者に仕立て上げる事が可能な社会をつくろうとしているという事ですからね。

で、これに思い当たるのは、【トラウマ】という言葉がマスメディアを通じて報じられ、一般的に利用されるようになった事と関係していると推定されている。実は古くから【フラストレーション】と並んで【トラウマ】という用語も保健体育などで使用されていたのですが、第二波フェミニズムが不思議な広がり方をしてしまい、なんでもかんでも「心が傷つきました!」と日本人が言い出すようになってしまった時期があった。それは「嫌な思いをした事」と同義なのですが、高らかに「私の心は傷つきました!」と宣言し、相手に謝罪を迫るという、その感情的な何かであると推定できる。

この箇所、参考にしているのは2007年刊の中嶋聡著『ブルマーはなぜ消えたのか』(春風社)であり、私が目撃してきた世論と対比させながら展開させていますが、実際、それですよね。

生活していれば、誰だってイヤな思いなんてのは日常的にしている。しかし、だからと言って、「私の心は深く傷つきました。謝罪して下さい!」という風に反応するか、やり過ごすか、或いは我慢するかは、その者の資質に左右されているのが現実です。それら考えられる反応のうち、最も感情的な反応が、相手に対して謝罪を要求する態度である。「嫌な思いをしちゃったけど、これが社会ってものの現実だから仕方ないよね」って、7〜8割方は現実を現実として受け容れ、不満を抱えながらも生活している事と一体、何が違うのか。それはセクハラはよくありませんよ。クソみたいなものだ。しかし、これは俗世間の問題であり、慣習や伝統と繋がっているし、人間関係そのものとも密接に関係している。一切のイヤミを吐かれないで済む快適な職場環境なんてものを模索するのは、ホントは荒唐無稽な荒業をやっている以外の何ものでもない。

また、それは元々は職場環境に於ける男女間の不均衡を改善する話であったものが、どうしようもないほど、拡大解釈され、言論や思想ベースではなく、ワイドショウ的言論ベースの中で「喫緊の問題である!」という風に歪曲化されてしまっている実情とも関係があると思う。
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先に、文明に順応する形で性意識がつくられているという話に触れました。これは欲情する側も、また、欲情される側も同じで、元々は性意識がなかったものに対して、いつの間にか、それがフェティシズムの対象となり、性的なアイコン(象徴)にされてしまう。

分かり易い例であれば、それは【ハイヒール】でしょう。世の中というのは不思議なもので、ハイヒールに欲情する性癖の者が存在するという事が知られている。性欲の対象となるのが女性そのものに対してではなく、女性が着用している衣服や装身具に向かい、その物質に執着して欲情する。フェティシズムについて引いてみると、実際に明鏡国語辞典では「異常性欲の一つ」と記している。何故、そうなってしまうのか不思議な気もするのですが、性意識というものは拡大してゆくものらしく、その下着に欲情したり、ハイヒールに欲情する人たちがいる。特に【ハイヒール】であろうというのは、例えば肌着に欲情するというのであれば、まだ、それが欲情の対象になる事にも秘部と接触しているものだから、それに欲情しているのだろうと考えられますが、ハイヒールというのは違うんですね。

科学ライターの竹内久美子さんは著書の中で、ハイヒールが性欲の対象になる事を語った事があったと記憶している。ハイヒールというものは、思えば男性は履かない靴であるから、或る意味ではハイヒールそのものが女性の象徴になり得る。広辞苑では【フェティシズム】を「物神崇拝」と記していますが、どこかで性欲の対象が、生身の女体や生身の秘部から乖離してしまい、女性の象徴としてのハイヒールに性的欲情を感じるようになってしまうと疑う事ができる。(それ以外にも竹内久美子さんの場合は、性交時にオルガズムスに達したときの女性の足先がピンと伸びた形になり、それがハイヒールを履いているときの足の形と同じだからではないのか、或いは、中国の纏足(てんそく)という風習を挙げて、ひょっとしたら世の男性は、よろよろと頼りなく歩く女性の姿に性衝動を抱いているのではないか等の試論も展開されていたと思う。)

そして、1993年という年を迎える。この年、ブルセラショップなるものが都会の一部に現われて社会問題化した。女子高生がブルマーやセーラー服を高額で売り、また、その着古されたブルマーやセーラー服を買うという都会人が登場したという事なんですね。文明が羞恥心を形成し、文明と羞恥心とは相関関係にあるという文脈を思い出して欲しいのですが、ここでは羞恥心なんてものは完全崩壊し、お小遣い稼ぎの為にブルマーやセーラー服といったものを売るという女子高校生たちが登場した。勿論、それを商売とする者、また、商売を許す社会、更には、いそいそと羞恥心もなく女子高生のブルマーをカネを払って購入する変態的な性欲の男性の購買意欲が、そんなビジネスを成立させていたとも言える。

おそらく、元々は、そういうフェティシズムは異常性欲というか、それなりに倒錯的な性癖であったと思われるワケですが、一度、社会問題化してしまうと、そこから問題が起動してしまうんですね。それが性意識の肥大化でしょう。何故なら、それまでブルマーを履くことはなんらハレンチではなかったのに、それが問題化した事を契機にして、一気に「ブルマーを履くことは恥ずかしい事なのです」という文脈が起動してしまう。

そのブルセラ問題と同じ1993年、シンガポールの日本人学校で、それまでは女子の体操着はブルマー、短パン、ジャージのいずれもを認めていたが、校長がブルマーに統一しようと強制する動きを見せるが、生徒たちが反発するという騒動が起こったという。校長は「九九%の生徒が従っているのに、一パーセントの生徒が従わないのはわがままだ」として、当初の女子の体操着はブルマーに統一という方針を貫こうとしたところ、生徒たちの反発を招き、この騒動が新聞記事になった。

元々、ブルマー導入拒否が起こったのは1987年、名古屋西高校であり、翌1988年に朝日新聞への投書をきっかけに朝日新聞が社会面で取り上げたという伏線があったという。1989年にいは毎日新聞の神奈川版「読者の意見」欄にブルマーに反対す女子高生の母親からの投書が掲載される。1992年、愛知県立稲沢東高校の生徒会でブルマー廃止が決議されるが、学校側に拒否され、生徒会の女子役員全員が辞表を提出するという騒動を起こした。そして、前述しましたが1993年にシンガポールの日本人学校の騒動が起こり、これも新聞記事として掲載され、更に、この年にブルセラショップの存在がクローズアップされ、ブルセラ問題が社会問題化。1994年、今治市の中学校がブルマーを一斉に廃止する事を決定。経緯を追うと、徐々にブルマー拒否運動が拡大してゆくプロセスが見えてしまいますが、1990年代後半になるとブルマー廃止、ハーフパンツ化が全国的に加速する。全国的に「ブルマー着用を強制するのは人権侵害である」的な言論が優勢となってゆく。

しかし、1998年には国際バレーボール連盟のアコスタ会長がユニフォームをブルマーに統一する方針を打ち出す。ユニフォームをハーフパンツにしていたブラジルなど五ヵ国に罰金を科すも、国際バレーボール連盟の打ち出した方針は、女性団体や選手らの反発を受けて、ほどなく撤回された。そして、西暦2000年頃にブルマーは消滅したという。

(改めて眺めてみると、登場する地域、メディアは、そこそこ偏っている事に気づいてしまう。名古屋、神奈川、今治市、愛知県、栃木県宇都宮市、東京都小金井市。それらの地域が革新的勢力の地盤であったワケではないのだろうと思いたいところですが、実際のところは分りませんかねぇ。そして新聞はというと、人権意識が高いと思われる朝日新聞&毎日新聞しか名前が出てこない。因みに、国旗掲揚拒否を生徒会が可決してテレビ等でも取り上げられた所沢高校のケースがありました。さも高校生が自発的にアクションを起こしたかのように見せかけておきながら、何のことはない、左翼OBが黒幕として存在していたという後日談が明かされたケースがあった。実は犢盥酸犬糧人隲瓩里茲Δ覆發里辰董案外、ウラに大人の活動家がいて、ホントに政治的プロパガンダとして利用されていたりするものなんですよねぇ。社会問題化させる宣伝ノウハウとしては古典的で、戦前戦中にも女子学生と名乗る新聞投稿によって国威発揚のプロパガンダが打たれていたりして。)

それまで何ら常識として通用していたものが、一気に引っくりかえった何かなのでしょう。で、口々に「ブルマーを履くのは恥ずかしい」という性モラルが形成される。また、ブルマーをどれだけの男性が性的な眼差しで見ていたのか実際のところは分かりませんやね。それまでは常識であったのだから、共学校の男子生徒であれば女子生徒のブルマー姿なんてものは珍しいものでもなかったワケで。そんなものでセンズリのネタにしていた者が沢山いたとはとても思えないのですが、中には、ブルセラショップに足を運んでいたような男性が登場していたのだから、つまり【ブルマー】というアイテムに性衝動を持った人たちが居たのでしょう。しかし、このことは元々はセクシャルな意味合いを有していなかった爛皀劉瓩髻∪的な意味合いのある爛皀劉瓩貌匹澳垢┐討靴泙辰燭箸いΠ譴弔諒語になっている。

ホントは、それだけの話なのだ。重要なのは、そうやって性意識が日々、つくられてしまうという現実がある。

実際、男児のオチンチンも或る時期から好ましくないとの事でテレビなどでは流さないことになったようですし、成人女性のバストトップも同じですね。「時間ですよ」にしても「11PM」あたり、いやいや、ホントに末期的であっただろうは日本テレビ「海賊チャンネル」の性感マッサージのコーナーだの、「オールナイトフジ」のアダルトビデオを女子大生に紹介させるコーナーだの、現在ともなると伝説であろうテレビ東京の「ギルガメッシュナイト」だの、ホントはテレビ各局が過激なエロを競っていた時代があった訳ですよね。

「時間ですよ」や「バカ殿」、或いは「土曜ワイド劇場」あたりに登場するハダカは、マイルドというか、お約束的な爐色気瓩世辰燭里任靴腓Δ、これが「海賊チャンネル」あたりになると、土曜深夜の男性視聴者を獲得せんと、各局が過激さを競っていたというのは歴然たる事実なんですよね。

テレビの中の人達ったら、何を今更、クソ真面目ぶって、平気でフェミっていやがるんだって話かも知れない。

先鋭的な連中と、先鋭的な連中とが争う。挙げ句、それが社会問題化される。ここが大きいんです。概念なんてものは、無ければ無い。名称のない問題は、問題化できない。しかし、それを問題化することで名称をつくりだし、「このテーマに沿って論じよ」という秩序体系をつくれてしまう。そういう動きが実際にルールを変える。社会規範、元々あった常識を変えてしまう。

おそらく、ブルマーが禁止になった事で、よりブルマーというものの性的な付加価値は増すワケですね。或いはセーラー服も同じでしょうか。見てはいけないというモラルが形成される中で、「それだったら見たい」と意識させられ、それによって性衝動グッズとしての地位が確立される。愚かな生きものですなぁ。

女性にしても、おそらくは「性的な眼差し」というものに対して、自意識過剰になっている可能性を疑う必要性がある。「エロい目で見られている」とする社会になればなるほど、その女性の持っている性的魅力の価値を高める事ととなり、それは自己の価値を高める事の利益と合致してしまっているから、それに陥りやすい環境になっている事が予想できる。

他人の目が気になるというのは女性に限らず、男性も同じでしょう。また、色気づいている年令であれば、おそらくは異性の視線は気になるものでしょう。また、中村うさぎさんなどのコラムから読み取れば、実際問題、女性が女性として見られなくなる事の悲劇や、男性が男性として見られない事の惨めさ等にも目を向けていいのかも知れませんやね。(一応、男性も並べましたが、実情としては女性が女性として見られない事の悲劇の方が深刻でしょう。ネオテニー&ロリコン文化も手伝い、世間一般の評は妙齢過ぎると価値が低下、なくなる等のバイアスが実際に存在しているから。)兎角、現実社会というのは他人の目や異性の目を意識して、その役割を演じさせられているところがあるってのが、ホントでしょうしね。
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現在、財務事務次官のセクハラ疑惑報道というものが財務省対新潮社という構図で起こったのに、この数日で急展開を見せている。財務省側が「告発者は名乗り出るように」と発表した事が、セカンドレイプを懸念する層の反感・反発を招き、新潮社を抜きにして、問題が上滑り。反発が大きかった為に財務事務次官は辞意を表明。その日の夜にテレビ朝日が自社の女性記者がセクハラを受けていた事、上司が握りつぶした為に女性記者が週刊新潮に録音した音声を提供していた事を公表。そして、今度は、テレビ朝日の対応にも批判が起こっているという展開。

はぁ。こういう感情的反発が絡む問題の動きは、非常にスピーディーなようで。そもそも週刊新潮と財務省との一対一の決闘じゃなかったっけ。当初、財務省は週刊新潮の匿名報道、また、その音声テープは水商売のホステスであるかのように読めるような、反論文を発表したのだったと思いますよ。「嘘つき野郎はどちらなのか?」という真実を巡っての一対一の勝負であったと思う。新潮社という出版社がその社史に歴史の幕を落とすのか、或いは財務官僚が10人ぐらい、ごっそりと懲戒免職になるのかという真剣勝負になるのかと思ったら、とんだ横槍な展開。まぁ、財務省が或る種の失策の演じたのは確実であろうと思いますが、論点は「セクハラ=女性の敵」という具合に情緒的な問題として大衆層に伝わり、その結果、更に話の軸が歪曲化して「テレ朝の対応こそがセクハラの温床である」という論になっている。マウントに次ぐマウント、目まぐるしく正論を掲げてのマウントの奪い合い状態――。



さて、和田秀樹著『テレビの大罪』(新潮新書)からの引用です。

2004年、大学生の集団レイプ事件が起きた際に、福田康夫官房長官(当時)は記者との懇談で、次のようなことを語ったという記事が出ました。(「週刊文春」2007年9月27日号)

「女性にもいかにも『してくれ』っていうの、いるじゃない。そこらへん歩けば、挑発的な恰好をしているのがいっぱいいるでしょ。世の中に男が半分いるっていうこと知らないんじゃないかなあ。ボクだって誘惑されちゃうよ」

「男は黒豹なんだから。(中略)女性も気をつけなきゃいけないんだよ」

オフレコの発言だったそうなので、福田氏はこのように言ったことを認めてはいませんが、当時は「レイプ犯を擁護するのか」と非難を浴びました。オフレコとはいえ、いかにも問題にされそうな発言をしてしまったことは軽率ともいえます。

しかし、冷静に福田氏の発言とされるものを読むと、一面の真理を突いていると思う人も多いはずです。「性欲だけで悪いことをする男だっているのだから、女性も用心しなきゃいかん」というのは、大人の男性が話す内容としては、常識の範囲内でしょう。そして、被害者を増やさないためには必要な常識だともいえます。少なくとも私だって、自分の娘には同じように教えます。

ある時期から、日本では被害者は「神様」になってしまいました。今日ではメディアで「被害者にも落ち度があった」ということを言うと、名誉毀損で訴えられても当然になっています。しかし、実は殺人事件の8割から9割は顔見知りの犯行で、怨恨によるものが数多く含まれているのです。落ち度があるかは別としても、怨まれずに済むよう何らかの予防策を取れたのではないか、という観点は持ってしかるべきでしょう。


上記は、言い難い内容を述べてみせた好例であるなと思う。おそらく、現在の日本の世論は感情暴走型なので、先ず、オフレコであろうがなんであろうが福田康夫発言の中に「レイプ犯を擁護するのか!」とか「それはセカンドレイプだ!」とばかりに、目くじらを立てて怒ると思う。もう、前掲著とて10年前の著書だから、そういうのが常態化してしまっているのが現在だと思う。本当は、発言内容が相応に真理を突いている発言であっても「被害者は神様だぞっ! 守られてしかるべき存在なのっ!」という思考癖が定着してしまっているから、ここぞとばかりに「その発言はセカンドレイプですよっ!」と、比較的近年、覚えた外来語を声高に叫ぶ。発言の意図を正確に読み取ろうという努力はせずに、兎に角、発言の揚げ足取りに執心してしまう態度というものが既に常態化してしまっているんですね。

しかも、それらの言説は多分に言論マフィア的な性格を持っており、

「福田康夫のチンパン野郎はレイプ擁護している! 吊し上げろ! 倒閣だ!」

のように展開される。本能剥き出し。しかし、その深部には政治的ヘゲモニー争いが潜んでいる。大臣を辞めさせてナンボ、解散に追い込んでナンボという政治的闘争本能(ヘゲモニー争い)を剥き出しにしてしまっているから健全な民主主義が根付かない。

また、不思議と、言論マフィアは実質的なレイプ行為が行われた訳ではないのに【レイプ】のような言葉を使用を好んでいるように見えますが、或る種、そういうのも常套手段なのでしょう。かつてCIAはインドネシアのスハルト大統領を失脚させる為にポルノ映像を制作しようとしたという。失敗したようですが、似たような計画はサダム・フセインに対しても計画されたのだったのかな。つまり、大衆層をダマくらかす為には、そういうセックス・スキャンダルをホントに狙うものらしいんですね。で、実際、そういうセックス・スキャンダルにホイホイとダマされてしまう層というのがある。情緒的に興奮してしまう事が関係しているのだと思う。

勿論、為政者にも人格という資質を求める事は間違いではないのですが、殊に下半身問題というのは、そんなに食いつくような話ではないんですよね…。伊藤博文とか大変な女好きだったらしいけど、それを以て伊藤博文を評してしまうのって問題でしょ? 公的な仕事をきっちりしてくれていれば、多少のプライベートの醜聞は容認してやらねばならないというぐらいの寛容な態度がなければ、なかなか適任者を選ぶ事が難しかったりするのが現実であって。

どちからというと、多少、余裕を持って、福田康夫さんが「男は黒豹だから」と言っている方に食いつくぐらいじゃなきゃ。「男は黒豹? しなやかなる漆黒の豹ですか? 私はどちらかというと、どじょう派ですけどね」ぐらいに応じておけばいいじゃん。だってさ、そもそもオフレコの場での発言なのであって。本音のないタテマエだけで論戦をしたところで、なんら的確な回答は得られないし、そんなのは労力と時間のムダでもある。

コミュニケーションの基本が意志の伝達であるとして、そこには相互性の原理から成り立っているのだから、当然、軽く受け流すべく発言された言葉に対しては、軽く受け流すのが正しい反応なんじゃないんスかね。それを揚げ足取りばっかりやってしまっている。

なんだか、テレ朝が叩かれているんですが、テレ朝の上司の対応というのは、ホントは常識的な対応であった可能性もあるんじゃないのかなって眺めています。週刊新潮の記事の事実関係そのものは捏造された内容ではない事が判明したワケですね。となると週刊新潮が報じているのは、前財務事務次官は、複数の新聞社、テレビ局の女性記者に対して、セクハラもしくはセクハラまがいの行為をしていたと報じている。つまり、被害者はテレ朝の女性記者だけではない公算が高く、まだ、名乗り出ていない女性記者が新聞社やテレビ局には居る筈なんですね。なのに、ナンタラ新聞社協会としてテレビ朝日をセクハラを握りつぶしていた事を批判している。おそらく、自社の女性記者が同様の被害に遭っている事を把握もしていないであろう人たちが、「我々こそがセクハラを強く憎んでいる正義のメディアなのですよ!」とアピールしたいのでしょう。しかし、なんだか猿山の猿が、これまたマウントを争っているような陳腐な図だと思う。

女子アナを野球選手の取材に当てるのと同じ感覚で、美人記者を財務省に配置してきたという事であり、そういう対応が財務官僚を増長させてきたとも言えてしまう。性的な目で見られるであろう「カワイコちゃん」を接待役にしてネタを拾おうとしてきたし、現在もしているワケで。つまり、スケベ心につけこんでいた部分もあるのだろうから、慣習として、女性記者にはセクハラまがいの対応は或る程度は容認されていたのが実情であったのでしょう。そう考えるのが合理的で、しかも、それをやっているのはホントはテレ朝一社だけである筈がないんですよねぇ。恒常的にセクハラが容認されていたという事だろうし、しかも、セクハラというものは犯罪ではないのだから相互に当事者同士の間合いに委ねられる。胸を揉みしだかれたというのであれば、上司も黙っていないでしょうし、警察や裁判を視野に入れるのでしょうが、会話の中のセクシャルな冗談というのは先ずは当事者同士の間合いに委ねられる。気に入っているイケメンからの言葉であればセクハラにはならないが、気に入らないブサメンから同じ言葉を吐かれたらセクハラになるというのでは、余りにもデタラメ過ぎて話にならない。

セクハラを誘発するような、そうした手法を採っているのはテレビ朝日に限らず、各社が競ってやっている事っぽいんですね。官庁からの発表を報道するという発表報道スタイルに加えて、記者クラブに所属しているマスコミ各社には官庁との間に、そういう人的ネットワークを形成して営まれている。ホントは、官僚機構と記者クラブ所属発表報道型の大手マスコミの関係は一体であり、つまり、一つの村社会で起こった何かなのでしょう。週刊文春や週刊新潮といった週刊誌の持っているコワさは、それが仲良しこよしの《発表報道》というスタイルではなく、《調査報道》というスタイルなんですね。だから今回の匿名報道も行なえたワケで。しかも、結構、ウラどりも強固である。今回、記者クラブに所属している報道機関は「テレ朝こそがセクハラの温床である」と批判しているのですが、その刀、その刀は別の大手新聞社やテレビ局にも向けられて然るべきなんですが、おそらくは、すっとぼけているワケでしょう?

実態が的確に反映されないまま、タテマエ的な正論だけで一連が動かされてしまっている。

セクシャルな内容になると、フェミニズム的言説によって感情的に取り扱われてしまい、また、尻込みが始まる。その結果、実情を直視しない偽善が狆讚瓩鮖拉曚靴討靴泙Α実情や実態を考慮せず、「背伸びしたモラル」で争い合うことになる。こういうのは致命的な悪癖だと思いますけどねぇ。

どこかの報道で「日本での女性の社会進出は遅れています。その証拠に世界中に広がっている#Metoo運動が日本では広がりをみせていません」という。或る意味では自作自演論法みたいなものに思えますが、これが今の日本だと通用してしまうんですよねぇ…。

実証責任を負わないで一方的に「私も私も」と告発する運動を正しい社会運動の姿として疑わない思考なんですね。で、もう本日、女性議員らがMetooと記されたシャツを着て何かしらのデモンストレーションを行なったという。性犯罪に巻き込まれ、告発しようにも告発できずにいたという文脈なのであれば共感する事も出来ますが、「セクハラ」のようなものは「嫌な思いをした」という程度の軽い問題も包摂しているんでしょうし、しかも、その本人の主観に根差した価値判断からの自己申告なので、そんなのものに勢いづかれるのは嫌ですね。
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ここまでに紹介した著書の中嶋聡氏と和田秀樹氏は、いずれも精神科医という側面を持つ経歴を有している。

幾分か踏み込んだ内容ながら参考までに触れておく部分があるかも知れないと思い、以下、引用していきます。先ずは、中嶋聡著『ブルマーはなぜ消えたのか』(春風社)から。

先の戦争で筆舌に尽くしがたい体験をした人は、日本国内だけでも、何百万人、何千万人といたはずだ。言挙げするのも憚られるが、広島・長崎の原爆、対馬丸の犠牲、東京・大阪の大空襲、もちろんそれだけではない。とても言葉にできないほどの辛い体験を、多くの国民が味わった。しかし、これらの体験にかんして心の傷を受けたなどと言う発言は、ほとんど聞いたことがない。本来、本当に大変な体験をした人は、心の傷などの軽々しい表現に身を託そうとは思わないはずだ。カウンセリングや精神療法によって癒す、治療するということも、軽々しく口にすることはできないだろう。そうした人々はたぶん、黙って、じっと耐えてきたに違いない。そしておそらく、それ以外の方法はないのではないかと思う。(162頁)

これは色々と指摘されている通りで、元々は耐えるしかなかったのですね。では、何故、そうではなくなったのかというと、《病理》が発見され、それを語る為の《名称》がつけられたからであるという。それは或る意味では好ましい進展を遂げたという事なのだけれども、大きな混乱の元になっている。それまで、心の傷を受けても基本的には耐えるより術がなかったし、自力で克服するしかなかったのでしょう。また、この【トラウマ】が日本国内で日常的に広まろうとしていた頃、それは幼児虐待などが後々、虐待された者が成長したときに今度は虐待する側になるという、暴力の連鎖論と一緒に広がったんですね。とてもとても現在のように、カラオケのデュエットを無理強いされたという程度の体験から受ける心の傷、嫌な思いとは明らかに次元が違うものであった。しかし、この【ハラスメント】という用語は何故か非常に敷居が低く使用される事となり、日常生活中の些細なことに対しても、

「私は心に傷を受けました。それはハラスメントというもので断じて許されるべきものではありません!」

と平気でいうような流布の仕方をしてしまった側面がある。これは長年、生きてきた者であれば、相応に気が付くであろう話でもある。殆んどワガママであろうような次元のものまでもを大袈裟に【心の傷】と表現するようになってしまったと考えると、ホントは辻褄が色々と合うのだ。

また、別の箇所から引用します。

思春期の少女の場合、感じやすい年頃という表現が使われ、心の傷のひどさが余計に強調されることがある。しかしこれも注意を要する表現の一つだ。思春期の少女は、果たして本当に中年のおじさんより物事に感じやすいのだろうか。中年のおじさんの方が人生経験を積んでいろんな物事に接している分だけ、気づきやすく、敏感に感じやすいのではないか。

この箇所は揚げ足取りは簡単ですが、まぁ、先に進めましょう。

感じやすいというのは、物事を敏感に感じるという意味ではない。嫌な思いを感じやすく、しかもそれを適切に処理できないため、泣いてしまったり、混乱してしまったりしやすい、ということだ。嫌な思いを感じるだけだったら、中年のおじさんの方がむしろ感じやすい。ただ、思春期の少女の場合、おじさんと違って、それを適切に処理できない。思いを自分のなかで咀嚼できず泣いたり混乱したりするか、それとも思いを自分のなかで冷静に処理して、我慢するなり反論するなりするかの違いである。思春期の少女がなにかがあって泣いたり混乱したりしていると、それこそだれかがひどいことをしたのではないかと錯覚しやすいが、実際には、大人ならなんの反応も示さずに通りすぎたようなことだったかもしれないのだ。(163頁)

これは精神科医の言葉である事を念頭に置くと、「ああ、やっぱり、そういう事か」と感じ取ることが出来るかも知れませんやね。昔から多感な時期があり、それを思春期と呼んできたワケですね。また、昔から【感傷的】とか【センチメンタル】という言葉も使用されていた。それは、一つの事象から色々なニュアンスを整理して感じ取ることができる敏感な感性を意味しているのではなく、自意識と関係していて、即ち、非常に感傷的、非常にナーバスという意味合いで、「思春期の少女は多感だからね」と評してきたのが、真実なんですよね。いつしか齢を重ねれば重ねるほど鈍感になり、若ければ若いほど敏感であるかのような理解で語られてしまっているのですが、自己申告に基づいて何かが起こるようになったという事を付け加えると、この引用箇所の読み方も変わってくるでしょう。

著者が対極を配置を狙って、「思春期少女」と「中年おじさん」という対置構図にしてしまっていますが、私は混乱を避ける為に「思春期少女」と「中年おばさん」との比較の方が分かり易いと思う。本当に感じ取るチカラが優れているのは思春期少女なのか中年おばさんなのかというと、これは後者であろうと思う。勿論、ここにも個体差の問題は付き纏いますが、しかし、ここでは基本線としての話をしている。そうなると中立的に、客観的に物事を眺めようとするには原則的に社会経験の蓄積は影響していると思う。思春期には思春期なりの悩みがあるものだと知っているのは、中高年に限定せずとも、つまり、成人の方なワケですよね…。

いやいや、更に考察することも出来ると思う。人格というものは形成されるものであると考えられている。で、思春期というのは形成の途中なのだ。形成中の人格であるから、ひん曲がらないように配慮する必然性はありますが、そこに錯覚が介在している可能性がある。中高年よりも思春期少女の方が感じ方が優れているのではなく、ホントは、情動、情緒的な不安定と関係した「多感さ」を意味しているに過ぎないと指摘しているのだ。

人格(パーソナリティー)については、経営学やら労務管理で用いられている「アージリスの未成熟・成熟理論」というものがあり、そこでは成熟か未成熟化を見分ける観点があるという。

能動的活動⇔受動的活動

独立的状態⇔依存的状態

多様な行動⇔単純行動

複雑で深い関心⇔移り気な浅い関心

長期的展望⇔短期的展望

対等・上位の地位への希求⇔従属的地位での満足

自覚と自己規制⇔自己の無感覚

上記の7項目は、能動的活動などの左側が成熟であり、受動的活動などの右側が未成熟の傾向とされているという。個体差はあるにしても、原則的には右側が未成熟の因子であり、左が成熟の因子であるというのは合点の行くところかも知れませんやね。で、現在の日本社会全体というのが、何故か右側ばかりだなと感じてしまうのは、私だけではないでしょう。おそらくは、安定的か否かに関係していて、未成熟なパーソナリティーというのは得てして、安定的ではない、つまり、不安定なのだ。
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思春期少女、少女に限定せずとも思春期の者は多感であるという。それが狷段未暴つきやすい何か瓩箸靴董近20年ほどは語られてきたかのような感慨がありますが、それは先述したようにオーソドックスに構えれば、未成熟な、つまり、人格形成途上であるから色々と情緒的な不安定を抱えているという意味での、傷つきやすさではないのかという問題があるワケですね。

例えば、深刻な精神的ダメージ、重篤な精神的打撃を受けた者なのであれば、自ら死を選択してしまうというシナリオを思い描けると思う。それに沿えば、ああ、なるほど思春期少女の自殺は、多いような印象を受ける。人気アクション俳優が結婚している事を知り、落胆して自殺してしまったという報道などがあったと思いますが、コレですね。それは繊細で、多感で傷つきやすいという多感な少女心理の混乱の典型例であるように思える。しかし、では社会全体で若者や、女性の自殺が多いのかというと、そうではない。ホントは古今東西、自殺が多いのは性別で語れば、男性であったのだ。

この問題、フェミニズム系やジェンダー系の論者は、平然と、社会は男性天国であるかのように語り、男尊女卑を日々強調しているが、ホントは女性は女性で辛いであろうが、同様に男性は男性で辛いというのが、この社会の真相であろうと思う。

ここで2010年刊行の和田秀樹著『テレビの大罪』(文春文庫)から、ほんの少しだけ引用です。

テレビは子どもの「いじめ自殺」を大きく取り扱う一方で、中高年の自殺についてはあまり扱いません。しかし、年間10件やそこらの「いじめ自殺」に対して、中高年の自殺は12年連続で年間2万人以上にも及んでいます。(146頁)

2010年頃の語り口なので現在と既に状況は変わってしまっている。

(因みに国内の自殺者の統計は厚生労働省がホームページ上で最新データを公開していますので、そちらで確認を。)

おそらく、「いじめ自殺」は年間10件では済まなくなっているような気もする。しかし、どういう文脈でこう並べているのかというと、自死に到るような不幸な境遇というもの実際には当たり前に中高年に起こっているのであり、それがマスメディアというフィルターを通して事実を認識しようとしたときに、殊更に「こどもがいじめによって自殺している」という輪郭で伝わってしまう事、その話なんですね。

死に到るレベルの重篤な精神的ダメージを引き摺っているのは、思春期の人たちよりも、先が見えて来てしまったり、実際に切羽詰まってしまうのは中高年期の人たちである事は、ホントは至極、当たり前の問題なのだ。若者ばかりが不幸であるかのように宣伝するのは、少しズレているのではないかと思う。ホントは性別や世代別よりも、ごくごく当然に、その者の置かれている社会的地位の高低や経済力の高低が濃厚に影響していると疑うべきではないのか。

これは前段で中嶋聡氏が投げかけた「思春期少女よりも中年おじさんの方が感じやすいのではないか?」に対応しているようにも思える。話が遠大になってしまうので触れませんが、ネオテニー&ロリコン文化がサブカル的に展開された結果、奇妙とも思える思春期少女に対しての信仰が出来上がってしまっている愚を突いているような気がしないでもない。



また、参考までに竹内久美子著『愛と性の「なぜ」』(文春文庫)でも、性別と自殺の関係について取り扱われている。読者からの質問に科学ライター・竹内久美子氏が回答したものですが、それに拠ると、日本は元々は自殺の多い国であり、1901年から1954年までの期間、常に自殺者数は世界第2位から第5位にランキングされていた「堂々たる自殺の多い国」であるという。しかも、その内、1955〜1960年までの6年間は世界第1位であったという。因みに1955年の例だと男性は10万人当たりの自殺率は31.5%であり、女性は19.0%であったという。

で、その1960年以前の日本の自殺率が高かった事は、若年層の自殺が多かった事で説明が可能であるという。つまり、ホントに若者の自殺が多った、と。

20〜24歳という年齢の自殺者が全体の24%を、15〜24歳と範囲を広げると全体の36%をも占めていたという。その後、1970年代以降になると、若者の自殺率が突出して高くなることはなくなるが、1980年代中盤に一度、男性の自殺率が27〜29%と少し増えて、更に1998〜1999年頃に男性の自殺率が36.5%というハイアベレージを叩き出している。その自殺率の高さに起因しているのは中高年男性の自殺の多さであるという。1998年から1999年期の女性の自殺率は14%で、これも国際水準としては決して低くはないのですが、男性の36.5%というハイアベレージと比較すると、やはり差異が大きい。

(1994年に於ける国別の女性自殺率では日本はスイスと並んで同率2位であるが自殺率は10.9%である。アメリカは4.5%、イギリスは3.1%、フランスは9.8%。この頃のフィンランドは自殺大国であり、女性自殺率も11.4%。しかし、同年の日本人男性の自殺率は23.1%で世界第7位。スイス人男性自殺率が29.6%で第5位、フランス人男性が30.2%で第5位。栄えある?!第1位はというとフィンランドで、42.3%というハイアベレージであった。古今東西、総じて女性よりも男性の方が実質的には自殺に到りやすい社会的な弱者な側面があるのではないか疑えるデータかも知れませんやね。)

年齢的に中高年には健康問題が関わって来るが、ハイアベレージを叩き出している直接的な因果関係を疑うなら経済問題であったと推測できるかも知れませんやね。

先述したように、実は、どこの国でも自殺率は女性よりも男性が高いという傾向があるという。そして国際比較すると、日本人女性は1994年頃のデータでは11%前後、世界水準としては日本人女性の自殺率は高い事にも気付かされる。つまり、日本の場合、男性も自殺が多いが女性も自殺も多いというのが妥当なのだ。一面的に「ニッポンは男尊女卑の国である!」と宣伝されている実情は非常に不可思議な話でもあるのだ。その際のソースは、海外の有力紙が「日本は男尊女卑の国である」と報じているとか、国際フォーラムのジェンダーギャップ指数のランキングがどうのこうのという我田引水の型で展開されるケースが殆んどである事にも気付かされる。

他方、世代別で若年層の自殺が多いかという問題については、日本の1960年頃と比べればそうではないのは一目瞭然である。

少し古い著書を参照したので補足すると、近年、「いじめ自殺」がクローズアップされており、実際に数字を伸ばしている可能性がありますが、ここまでの文脈にあったように、実は若年層、思春期などというのは多感な人格形成途上期であり、故に、状況に左右され易い人たちであるという重大な現実がある。マスメディアが「いじめ自殺」で騒げば騒ぐほど、未成年者、若年層、もしくは未成熟なパーソナリティーの者らは付和雷同傾向があるので後追い自殺が増えるとも考えられる。

また、自殺率に関してですが、総じてヨーロッパ系、アジア系に自殺が多く、アフリカ系には自殺が少ないという傾向があったという。参考までに述べると1960年、アフリカ系アメリカ人の自殺率は3.9%であった。しかし、その後、アメリカのアフリカ系の人たちの自殺率は増加傾向にあるという。

文明が未開人たちに羞恥心をもたらせたという話を、最初に掲げましたが、おそらく文明には、そういう側面があるのでしょう。実は文明というのは病んでいる側面を抱えている。それが現代人の精神病理でしょう。この文明というのは利便性を実現した裏側で奇妙な人たちをつくり出してもいるのだ。異常性欲に駆られた連続殺人鬼には「白人男性が多い」というプロファイル理論がありましたが、アレとも関係しているように見えてくる。

即ち、未開社会と比較すれば文明社会は明らかに高次化した社会なのですが、その高次化した社会というのは、満たされぬ欲求を抱える者、また、そこから鬱屈する者たちを量産するシステムでもあるのでしょう。
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名著『裸のサル』は書き出し部分で、次のように指摘していたという。

現在、世界には全部で一九三種類のサルとヒトニサル(類人猿)がいる。その一九二種は体が体毛におおわれている。例外なのは自称ホモ・サピエンスという裸のサルである。この奇妙な、そして高度に繁栄した種類は、たくさんの時間をかれの高尚な行動契機の探究に費やす一方、かれの基本的な行動契機を故意に無視することにおなじぐらい時間を費やしている。かれは、霊長類中最大の脳をもつことを誇っているが、かれのペニスもまた最大であることはかくしたがる。

上記の指摘が何を指しているのかというと、これまでに193種類のサルと類人猿が確認されているが、その中の192種のサル&類人猿はカラダが体毛に覆われている中で、唯一の例外がホモ・サピエンスであることの指摘から入っている。まさしく、爛魯瀬のエテ公瓩海修、ホモ・サピエンスの正体なのだ。

そして、その裸のエテ公は、霊長類中最大の脳を持つことを誇っているが、それと同時に、サル&類人猿の仲間の中でペニスも最大のサイズへと発達させてきている事実を述べている。しかも、その裸のエテ公の歴史ときたら、自分たちだけは特別な存在だと考えたいらしく、他のサル&類人猿たちとは違う存在であると思い込みたがり、その大きく巨大化させたペニスと向き合おうとしない。

駆け足で述べると、ペニスの長さはチンパンジーで8センチメートル、オランウータンは4センチメートル、そしてゴリラはというと、3センチメートルしかないという。それに比べると、裸のエテ公、つまり、ホモ・サピエンスのペニスは報告されているところに拠ると、実に13センチメートルもあるのだ。(後にノンケとゲイとのチンコのサイズについても後述するので、震えて待て!)

これが何を意味しているのかというと、以下の3点がホモ・サピエンスの特徴として抽出できる。

第1点…体毛のない唯一のサルであること。

第2点…脳を非常に発達させ、高度な音声言語を獲得したサルであること。

第3点…異常なまでにペニスを発達させたサルであること。

という上記の特徴こそが、ホモ・サピエンス、つまり、現生人類の傑出した特徴であると断じる視点を確立したのが、『裸のサル』であったワケですね。その後も色々と語られたものの、第一点と第二点ばかりの研究ばかりで、第三点目はあまり語られないが、ホントは、最初の定義の時点で、裸のサルには、その謎があったのだ。

何故にホモ・サピエンスはペニスを、こうまで巨大化させたのか?

その問題に対して、科学ライターの竹内久美子氏は長年、取り組んでこられている。サル学と並行して大きな転機となったのは、チャールズ・ダーウィンの進化論の延長線上にリチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論(利己的DNA論)が登場した事であった。自分の複製をより多く残すように遺伝子はプログラミングされているという仮説であったが、それは検証すれば検証するほど、衝撃的で動物の生態と比較した場合、謎とされていた動物の生態の不思議を逆説的に説明可能にしてしまうような画期的な大仮説であった。

しかし、利己的遺伝子論にもどうしても克服できぬ疑問があった。それは同性愛者が一定の確率で存在し、その同性愛者たちは自己の子孫を残す繁殖戦略としては明らかに不利なのに、同性愛者は淘汰される事もなく、古今東西、何故か一定の割合で存在している。一応、データらしいものもあるそうで、男性同性愛者の場合は3〜5%の比率で存在し、大雑把に言えば平均4%であるという。また、女性同性愛者は男性同性愛者の半分程度の割合で実際に存在している。

この部分、2012年刊の竹内久美子著『同性愛の謎』(文春新書)を参考にしていますが、認識するところの性別が身体的な性別とは異なるというトランスジェンダーは除外し、男性同性愛者と女性同性愛者、それと通常の異性を愛する異性愛者の事を【ヘテロ】と呼びますが、その比較をしている。科学的な検証でも、実は男性同性愛者は男性フェロモンを嗅ぐと興奮するという結果が得られており、つまり、ゲイやレズといった同性愛という性指向は、常に社会の中に一定の割合で存在する遺伝的な何かの可能性が高い事が前提になっている。

男性フェロモンのアンドロスタジエノンを嗅ぐと、ヘテロ女性は視床下部の血流が増加する事が確認できるという。おそらく興奮するのだ。同じようにアンドロスタジエノンをヘテロ男性に嗅がせても視床下部の血流に変化はない。このことから、アンドロスタジエノンが男性フェロモンであることが確認できる。

そして、そのアンドロスタジエノンをゲイ(男性同性愛者)が嗅ぐとどうなるのかというと、血流が活発化し、レズビアン(女性同性愛者)が嗅ぐと活性化は無かった。ゲイやレズビアンと呼ばれる同性愛者は、確かに器質的な問題として反応している同性愛者なのだ。それは原理としてはヘテロと何ら変わりはない。また、病気でもない。(自己認識することの性別と生物学的な性が不一致だというトランスジェンダーの人たちを除外しなければならない理由については、各自で考えましょう。)

同様に女性フェロモンと目されているエストラテトラエノールで実験しても、似たような結果が得られるという。

一連の研究から、利己的遺伝子論の方に「同性愛者が存在する理由」という問題が投げ掛けられてしまう。何故なら、利己的遺伝子論は自分の複製をつくるように行動する極めてエゴイストなのが遺伝子の正体であるとする仮説だから、同性愛者の謎は克服しなければならない大問題なのだ。また、さまざまな偏見や侮蔑的差別の歴史というものにしても、正常と異常という具合の区別、それが大きく関与して同性愛者差別問題が存在していたのでしょうから、その謎の解明には大きな意義があるし、同時に「裸のサル」に起因する「何故、ヒトはペニスを巨大化させる形で進化してきたのか?」にも王手をかけてしまう問題なのだ。

一定の割合で同性愛者が存在する事を、利己的遺伝子論はどう説明が可能であろうか?

そこで諸説が登場した。実はヒト以外の動物の中にも同性愛現象は確認できる事から、異性と性交する前、つまり、本番前の練習をしているというプラクティス仮説。或いはテストステロンのレベルが皺瓩て、異性を愛するだけは足りず、同性をも愛してしまうのではないかという超男性・超女性仮説などがあったという。

後者は単純に感心を惹く話であると思う。屈強なプロレスラーであるとか、雄々しい肉体美を誇る人たちの中に、意外とゲイが多いのではないかという疑問は、ずーっと昔から存在していたワケですね。ひょっとしたら彼等は男性を男性ならしめているテストステロンが高い人たちであり、故に頑健な筋骨隆々の肉体を手に入れ、そうでありながら男性に性的魅力を感じてしまうのではないか――と考えたくもなる。敢えて、ここに科学的考察というか論拠のようなもので語れないかというと、やはり、そういう研究成果があるという。実は、ヘテロ男性よりもゲイの方が所有しているペニスのサイズが大きいというデータがあるのだそうな。

平常時のペニスの長さは、異性愛者で9.82cm、同性愛者で10.41cm

勃起時のペニスの長さは、異性愛者で15.60cm、同性愛者で16.41cm

平常時のペニスの周囲は、異性愛者で9.40cm、同性愛者で9.75cm

勃起時のペニスの周囲は、異性愛者で12.19cm、同性愛者で12.57cm

あらゆる数値でゲイ男性の持つペニスの方がサイズが大きい。同数値は、いわゆるキンゼイ・レポートであり、被験者はコーカソイド男性。サンプルになった同性愛者は813名、異性愛者は3417名ある。それらの平均値で、これだけの差異があるというのは統計的にも有意差と見なされる差異であるという。

更に体格そのものは同性愛者は異性愛者よりも平均して小柄であるという。そうなると、その体格に占めるペニスの占有率という風に眺めると、明らかに男性同性愛者はヘテロ男性を超越した狡驚忙勠瓩箸い事なのではないかという推測も成り立ってしまう。

しかし、これが有力仮説になったのではありませんで、有力仮説となったのは、ミツバチの働き蜂たちは自分自身の子孫を残せないのに、何故に、あんなに一生懸命に働くのかという問題を説明した利己的遺伝子論の弁法に似ている。

ミツバチの場合、実は女王蜂と働き蜂との関係は犹佶絖瓩任△蝓¬魍笋鯤担していたとすると説明が可能になったのだ。女王蜂と働き蜂は共に雌であり、しかも保有する性染色体は同じ。個体としては異なるが、同じ遺伝子を持っている事になる。なので、働き蜂が女王蜂に卵を産ませる為に、せっせ、せっせと働くことは、実は、利己的遺伝子論の原則から逸脱してしなかったと説明できた。つまり、利己的遺伝子がそうさせており、しかも、女王蜂が卵を産むことは自分が産んだ場合の遺伝子と酷似したDNAをつくることになる――と。

こうして近親者の繁殖戦略を手伝う者が登場するという仮説をヘルパー仮説と呼んでいたのだ。そして、そのヘルパー仮説の延長線で、同性愛者の存在を利己的遺伝子論で語れそうな非常に有力な仮説が浮上したというのだ。

男性同性愛者に関してもミツバチと似たような構図がある事が近年、分かってきたという。男性同性者とヘテロ男性との差異として、ゲイには兄が多いという事が一つ判明したという。姉、妹、弟の数には有意差は発見できなかったが、一つの法則性として「兄の数が多ければ多いほど、弟がゲイとして存在している(生まれている)」が発見された。

更には、男性同性愛者の場合、父方、母方の中に同性愛者の有無を調べたという研究があるという。

男性同性愛者の場合⇒父方では593名中の12名に同性愛傾向が発見されたが、母方になると396名中の22名に同性愛傾向が発見されたという。

ヘテロの場合⇒父方では604名中の8名に同性愛傾向が発見されたが、母方になると370名中の0名に同性愛傾向が発見されたという。

イタリアのパドヴァ大学、カンペリオ=キアーニらの研究によるものですが、この研究では更に、男性同性愛者の母、または、母方の伯母・叔母が子沢山であるケースが多い事が確認されたという。

ヘルパー仮説をいち早く展開させていたR.L.トリヴァースは、「男性同性愛者は子孫を残せないのに何故、常に一定の確率で存在するのか?」という問題について答えた。

(「一個のX染色体が女性の中にいる時間は男性のなかにいる時間の二倍なので、これが女性の生殖能力にとって有利な性的拮抗遺伝子ならば、たとえ男性の生殖能力に二倍の悪影響を及ぼすにしてもなお生き残る可能性がある」)

少し分かり難いので竹内久美子訳にすると、以下となる。先ずは、性染色体の基礎について。

周知の通り、人間には二十二対の常染色体と一組の性染色体を持っている。性染色体は男でXY,女でXXである。Yは男であることについての情報を載せているが、男はこのYのせいで相方のXを孤立させ、ひいては変異の幅を大きくさせる結果となっているのである。

たとえば、そのX上に何かの劣性遺伝子が載っているとしよう。劣性遺伝子はふつうペアとなる染色体のどちらにも載っていないと発現しないが、男の性染色体だけは別で、必ず発現するのである。色盲や血友病が男に多く、女に少ないのはそのせいで、男で極端に出る能力は概ねこのようにして説明できるのである。

さらに我々は、もう一つ大変重要な事実に着目してみなければならない。それは男のXは必ず彼の母親に由来しているということである。思えば当然のことなのだが、男は男となるために父親からYを受け継ぐ。そのため、このより重大な方の性染色体は自ずと母親から譲り受けることになるのである。これは人間において、母から息子への遺伝的ルートが実は大変重要なものであることを示している。
(竹内久美子著『男と女の進化論』(新潮文庫)209頁より引用)

性染色体は女でXX、男でXYという状態なので、遺伝子が世代から世代へと時間の旅をするという観点からすると、女はXを二つ持ち、男の二倍持っているから一個のX染色体が女の体の中にいる時間は二倍になるということだ。

この事が何を意味しているのかというと、利己的遺伝子論的な見解としては、同性愛者が一定の確率で存在する事は元より利己的遺伝子論の理に適っている存在だったとする結論に帰結できそうだという事を意味している。その観点からすると犁有な性指向の人たち瓩任△襪、実は牋枉錣弊指向の人たち瓩任呂覆った。

――と。



こうなってくると、何故、このように裸のサルが進化して来たのかという問題も、一気に解決に向かう可能性がある。

体毛が少なくいカタチで進化してきた事は、体毛に頼る必要性がなく、それに代わる音声言語を手に入れたり、高度な意志疎通を可能にする為の大きな脳を発達させてきた。しかし、忘れてはならないのはホモ・サピエンスにも、腋の下や陰部周辺といった他者に見せない湿気のあるじめじめした部分には体毛を残している。そして、そこから性フェロモンを発散させている。

これは嗅覚で嗅ぎ取れる匂いではない。また、同時にじめじめした陰部に汗をかき、それをバクテリアが分解する事で独特の化学変化が起こり、ヒトがヒトとして嗅覚として感知する臭気とは別次元で性フェロモンが実在しているという話である。その性フェロモンは、多くの場合は男性は女性に、女性は男性へという具合に作用し、視床下部の血流を活性化させ、おそらくは興奮に到らせるという支配力を有しているという、その秘密の解明の話になってしまうのだ。

テングザルというサルは、名前の通り、鼻が大きなサルであるという。しかし、鼻が大きいのはオスだけの特徴であるという。何故、オスのテングザルは、そのように進化したのかと考えてゆくと、一つの仮説が浮かび上がって来る。メスのテングザルの鼻は大きくもないが、そのメスのテングザルたちは大きなペニスを持っている事が期待できる大きな鼻をしたオスに有利になるような繁殖戦略を採ってきた事の帰結ではないのか――と。

何がどう作用するのか分かり難いという人も在るかも知れませんが、Aという一個人は、周囲が求めるところのAの像を以って、自己を自己と認識する。自分で自分を直接的に見ることが出来ないのだ。なので、男性像は女性によって形成されるし、女性像というのも男性によって形成されている可能性が高い。それらは個体の繁殖戦略にも関係しているし、また、社会そのものとも密接に関係している。先に紹介した利己的遺伝子論が説明するミツバチや同性愛者の繁殖戦略とは、直接的には子を残さないが、遺伝子レベルで眺めてみると実はしっかりと遺伝子を残しているという説明になる。

利己的遺伝子論は個人の遺伝子単位で考えるのがセオリーであるが、ヒトという動物は社会性の動物であり、そもそも当事者だけが子沢山の繁殖戦力に固執しる必要性がないという可能性が示されてしまうのだ。何故、ゲイの男性は兄を沢山、持っているのか? 何故、母方に同性愛者が多く、更に出生率が高いのかという謎は、「ヒトはヒトという個体ではなく、ニンゲンという社会性の動物である事」を理解した上で利己的遺伝子論に再構成する事で全て、説明が可能になってしまうのだ。

さて、ここで改めて、ホモ・サピエンスが異常にペニスを発達させて進化してきた理由を考えてみると、「ああ、なるほどな」という結論に到達できてしまうかも知れませんやね。

翻って、我々の生きている文明の正体というのも、それでしょう。つまり、「スケベな目で見られたくないが、スケベな目で見られないと、これも困る」というパラドクスをホモ・サピエンス自身が抱えているのだ。「人格を研鑽すべし」とか「真の自立を遂げる為には?」といった問答は受け容れられない人たちが、結構、多いというのが現実社会の正体なのだ。



参考:『大杉栄全一冊』(第三書館)、中嶋聡著『ブルマーはなぜ消えたのか』(春風社)、和田秀樹著『テレビの大罪』(新潮新書)、竹内久美子著『あなたの知らない精子競争』(文春文庫)、竹内久美子著『愛と性の「なぜ」』(文春文庫)、竹内久美子著『同性愛の謎』(文春新書)ほか。
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