栃木県には、星神社であるとか星の宮神社といった所謂、星神社系の神社が県内だけで三百を超えるほどあるのだという。中沢新一著『いま、ここにある神話』(講談社選書メチエ)から引用します。
星神社は、栃木県だけで三百を超える数がある。とくに茨城との県境に近づくにつれて、その密度はぐんぐんと増していき、私などには、まるで茨城方面に向けて並べられた砲台の群れのようにさえ、見えてしまうのである。(『いま、ここにある神話』200頁)
続けて引用していきます。
いまの宇都宮市の周辺から南の方向へかけて、かつて「香々背男」(カガセオ)を首長とする人たちが、大きな勢力をなしていた。五世紀頃の話である。この人々は、星を自分たちの神として祀っていた。星を祀っているところから見て、海洋系の人たちと推測される。当時の航海には星の観測が不可欠で、星が神として祀られたのであろう。
利根川水系をたどって、この地に入植したこの人たちは、そこで水田を開き、平和な暮らしを送っていた。そこへ、国というものをつくろうとしていた「ヤマト」の勢力が、鹿島の港から上陸し、服属を迫ってきた。カガセオの人々は服属されるのを嫌って、ヤマトに戦いを挑んだ。それまで列島の「蛮族」たちを、つぎつぎと征服してきたヤマト軍は、カガセオを相手にして、はじめて苦境に陥った。ヤマト軍はいまの水戸まで押し戻されてしまったのである。
戦況は膠着したが、〜略〜カガセオの親戚筋にあたると思われる「シズリ(倭文)」の一族が、仲介に立った。シズリの人々は、カガセオと同じ海洋系の人々であり、織物の技術に長けていた。文化的なシズリの人たちには、時代の大勢が見えていたのであろう。カガセオの人々に和平に応じることの得を説得して、停戦が実現することになった。その結果、いまの茨城と栃木の県境あたりを境として、東にはヤマトからの勢力の入植を許し、西側に広がる穀倉地帯は、星を祀る人々の世界が守られることになった。
こうして、茨城には、ヤマト系の鹿島神宮と香取神宮が鎮座して、そこまでがヤマトの勢力圏として、北方のエゾ世界に対峙する拠点になったが、栃木には、おびたらしい数の星神社が祀られて、その地帯が古くからのカガセオの土地として、ヤマトの一員とはなっても、けっしてヤマトに飲み込まれはしないという、意志表明がおこなわれることになった。(同201〜202頁)
このカガセオを話は『日本書記』にも記されているが、それを実際に栃木県内に広く現在でも分布している星神社によって、分析をしたものだ。この「カガセオ」については、「アマツカメボシ」(天津甕星)と同一視されており、荒唐無稽な分析や推測なのではなく、かなり説得力のある話でもある。
この話から汲み取ることが可能な、大きな文脈がある。それはヤマト系を中沢新一が鹿島神宮や香取神宮と見立てていること、それとカガセオもまた、その系譜で言えば国津神系であり、ヤマト勢力(後のヤマト王権)よりも古層の在地勢力であったという事でしょう。それに加えて、中沢新一の場合は、『アースダイバー』的な考察を加えており、海洋系の人々がヤマト勢力よりも先に現在の栃木県あたりにまで入植して農業をしていた事を示唆している。星の信仰をするカガセオ、5世紀以前の栃木県地方で勢力を築いていた勢力とは何だったのか?
そんな事に思いを巡らせることができる。
勿論、この話はイワレヒコ(神武天皇)に敗れたナガスネヒコに通じる話であるかも知れず、或いは「国譲り神話」の核心とも関係している可能性がある。国譲り神話を簡略化すると、出雲系の勢力が、ヤマト系の勢力に国を譲ったとされる筋書きである。すんなりと国譲りが成立したのかというと、実はそうではない。国譲りに到る過程で、戦をしている。国譲りをヨシとしてないタケミナカタは、ヤマト勢力のタケミカヅチとの力比べに挑むが、勝ち目がないと悟ったのか、諏訪大社(現在の長野県)へ逃亡し、そのまま、諏訪大社で祀られているという有名なシナリオがある。
この話は、もしかしたら小杵(オギ)と使主(オミ)とが争ったと思われる「武蔵国造の乱」にも繋がっている可能性がある。
そして、カガセオへのシズリの仲介があったのは、中沢新一は5世紀頃の出来事だと述べているのだ。この日本列島及びその周辺における5世紀というのは、「倭の五王」の時代である。
星神社は、栃木県だけで三百を超える数がある。とくに茨城との県境に近づくにつれて、その密度はぐんぐんと増していき、私などには、まるで茨城方面に向けて並べられた砲台の群れのようにさえ、見えてしまうのである。(『いま、ここにある神話』200頁)
続けて引用していきます。
いまの宇都宮市の周辺から南の方向へかけて、かつて「香々背男」(カガセオ)を首長とする人たちが、大きな勢力をなしていた。五世紀頃の話である。この人々は、星を自分たちの神として祀っていた。星を祀っているところから見て、海洋系の人たちと推測される。当時の航海には星の観測が不可欠で、星が神として祀られたのであろう。
利根川水系をたどって、この地に入植したこの人たちは、そこで水田を開き、平和な暮らしを送っていた。そこへ、国というものをつくろうとしていた「ヤマト」の勢力が、鹿島の港から上陸し、服属を迫ってきた。カガセオの人々は服属されるのを嫌って、ヤマトに戦いを挑んだ。それまで列島の「蛮族」たちを、つぎつぎと征服してきたヤマト軍は、カガセオを相手にして、はじめて苦境に陥った。ヤマト軍はいまの水戸まで押し戻されてしまったのである。
戦況は膠着したが、〜略〜カガセオの親戚筋にあたると思われる「シズリ(倭文)」の一族が、仲介に立った。シズリの人々は、カガセオと同じ海洋系の人々であり、織物の技術に長けていた。文化的なシズリの人たちには、時代の大勢が見えていたのであろう。カガセオの人々に和平に応じることの得を説得して、停戦が実現することになった。その結果、いまの茨城と栃木の県境あたりを境として、東にはヤマトからの勢力の入植を許し、西側に広がる穀倉地帯は、星を祀る人々の世界が守られることになった。
こうして、茨城には、ヤマト系の鹿島神宮と香取神宮が鎮座して、そこまでがヤマトの勢力圏として、北方のエゾ世界に対峙する拠点になったが、栃木には、おびたらしい数の星神社が祀られて、その地帯が古くからのカガセオの土地として、ヤマトの一員とはなっても、けっしてヤマトに飲み込まれはしないという、意志表明がおこなわれることになった。(同201〜202頁)
このカガセオを話は『日本書記』にも記されているが、それを実際に栃木県内に広く現在でも分布している星神社によって、分析をしたものだ。この「カガセオ」については、「アマツカメボシ」(天津甕星)と同一視されており、荒唐無稽な分析や推測なのではなく、かなり説得力のある話でもある。
この話から汲み取ることが可能な、大きな文脈がある。それはヤマト系を中沢新一が鹿島神宮や香取神宮と見立てていること、それとカガセオもまた、その系譜で言えば国津神系であり、ヤマト勢力(後のヤマト王権)よりも古層の在地勢力であったという事でしょう。それに加えて、中沢新一の場合は、『アースダイバー』的な考察を加えており、海洋系の人々がヤマト勢力よりも先に現在の栃木県あたりにまで入植して農業をしていた事を示唆している。星の信仰をするカガセオ、5世紀以前の栃木県地方で勢力を築いていた勢力とは何だったのか?
そんな事に思いを巡らせることができる。
勿論、この話はイワレヒコ(神武天皇)に敗れたナガスネヒコに通じる話であるかも知れず、或いは「国譲り神話」の核心とも関係している可能性がある。国譲り神話を簡略化すると、出雲系の勢力が、ヤマト系の勢力に国を譲ったとされる筋書きである。すんなりと国譲りが成立したのかというと、実はそうではない。国譲りに到る過程で、戦をしている。国譲りをヨシとしてないタケミナカタは、ヤマト勢力のタケミカヅチとの力比べに挑むが、勝ち目がないと悟ったのか、諏訪大社(現在の長野県)へ逃亡し、そのまま、諏訪大社で祀られているという有名なシナリオがある。
この話は、もしかしたら小杵(オギ)と使主(オミ)とが争ったと思われる「武蔵国造の乱」にも繋がっている可能性がある。
そして、カガセオへのシズリの仲介があったのは、中沢新一は5世紀頃の出来事だと述べているのだ。この日本列島及びその周辺における5世紀というのは、「倭の五王」の時代である。
