どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ: 関東史シリーズ

◆足利義尚、陣中に没する

室町幕府では、第8代将軍が足利義政が隠居して第9代将軍に義尚が就いていた。義政の妻は日野富子であり、つまり、足利義尚の母は日野富子である。

父・義政が文人肌の将軍であったのに対して、この日野富子の血を引く義尚(よしひさ)は武人肌で、刀を持って人を追い掛け回したという逸話を持ち、実際に犬追物や鷹狩りを好んだという。1473年12月には義尚が将軍職に就くが、已然として政務を執り行なったのは父・義政で、その時期がしばらく続く。

1480年5月、将軍・義尚は本鳥を自ら切って不満を露わにする。この本鳥とは、髷を結った場合の髪を束ねた部分を言い、本鳥(髻/もとどり)を切るという行為は出家を意味するが、これは已然として政務を執り続ける父・義政への抗議であった。

1481年1月、将軍・義尚、再び本鳥を切って抗議する。

1481年7月、義政は政務を義尚を譲る。

1487年9月、将軍・義尚が近江国守護の六角高頼(佐々木氏の庶流)を征伐する為に自ら出陣。勇ましく若い義尚の姿は「これぞ征夷大将軍だ」と称されるほど颯爽としており、京都の群衆らは手を合わせて、その勇ましい姿を拝んだという。

1489年3月、将軍・義尚は六角征伐の為の遠征先の近江国の陣中にて急に病気を発病、重病となる。

1489年3月26日、第9代室町幕府将軍・足利義尚(改名して足利義熙)は近江国の六角氏頼に対しての征伐中、鈎の陣中にて没する。一説に、義尚は重病で病床にあったが、その病床でも酒を飲んでいた事がたたって死んだとも言われる。享年25歳という早過ぎる死であった。

凛々しい征夷大将軍と京都の民衆から拝まれるようにして出陣した義尚であったが、六角征伐の目的は果たされることなく、遺骸となって帰洛することとなった。



◆次期将軍争い「義材VS清晃」

義尚には子はなく、また、先代の足利義政にしても男子は義尚のみであったので、次期将軍を巡って再び混乱が巻き起こった。次期将軍候補は、義政の近親者から選ばざるを得ず、そうなると候補は2名におのずと絞られていった。

一人目は義政の弟に足利義視(よしみ)が在り、その義視の嫡男・足利義材(よしき)で、24歳。因みに、北条早雲は足利義視に仕えていたとされる。二人目の候補は、義政の庶兄にあたる足利政知、その政知の子で、天龍寺香護院に入っていた当時9歳の清晃(せいこう)であった。

因みに、この足利政知とは「関東主君」と幕府に認められて関東へ下向、職名としての鎌倉公方職に就こうとしたが鎌倉に入れず、前任の公方、足利成氏が古河に拠点を移して「古河公方」と呼ばれたのに対して「堀越公方」と呼ばれ、都鄙和睦以降は伊豆一国を安堵される事になった、あの足利政知である。つまり、次期将軍候補は、義政からすれば、どちらも甥っ子に当たる「義材」と「清晃」との間で争われることになった。

幕府の実力者であった細川政元は応仁の乱に於いて東軍の主力を務めていた経緯から、応仁の乱の際に西軍に担がれていた足利義視とは相性が悪い。その子が将軍になれば足利義視が出張ってきてしまいややこしくなると危惧した。従がって細川政元は足利政知の子の清晃を推した。元々は「関東主君」として送り出されたのに、結局は伊豆一国だけを安堵されるだけの待遇になってしまった足利政知にしても、我が子を将軍に就けられるのであれば、と、勿論、我が子の清晃を推した。

義視は西軍であった事、応仁の乱でいえば敗れた側であった。義視の子・義材は不利にも思えたが、義材を強烈にバックアップしたのは日野富子であったという。義材の母親は日野富子の妹であったのだ。結果として、日野富子が義材を推し、日野富子の意向に従って足利義政も義材を推した。

次期将軍は義材か清晃かで綱引きとなったが、結果、義材が室町幕府第10代将軍に決まった。


◆「明応の政変」と「豆州騒動」

1941年4月、伊豆国の堀越公方・足利政知が56歳にて没する。すると堀越公方家の後継問題が噴出する。既に室町幕府の将軍の座を巡る争いで登場した香厳院清晃とは別に、政知には後継候補の男児があった。清晃の弟に当たる潤童子(じゅんどうじ)の母は円満院(えんまんいん)殿であり、清晃が幕府の有力者らに食い込んでいた事から、政知は、どうやら堀越公方家の家督を、この潤童子に譲ろうとしていたという。

しかし、足利政知には、清晃、潤童子の兄弟とは母を異にする長男・茶々丸があった。堀越公方家の家督が潤童子に傾きかける中、長男の茶々丸(陣営)との間で家督相続争いに発展してゆく。

1491年7月、茶々丸が実力行使に出て、潤童子と、その母の円満院殿を殺害。茶々丸が堀越公方の家督を力づくで継承する。

その後も、この伊豆国の堀越公方家の内紛はしばらく続き、1492〜1501年までの間に茶々丸が家老を殺害するなどの事件を起こしたという。この堀越公方家の混乱を「豆州騒動」と呼ぶ。

1493年4月、京都にて「明応の政変」という政変が発生。1493年2月から第10代将軍・足利義材は、畠山基家討伐の為に河内国へ出陣していたが、それに反対していた細川政元が留守中に将軍・義材の廃立を宣言し、新将軍として香厳院清晃を擁立、京都を軍事力で抑えてしまったのだ。これに義材は降伏、龍安寺に幽閉され、実際に将軍の交代劇となる。後に清晃は、正式に室町幕府第11代将軍の足利義澄となる。


そして、この「豆州騒動」と「明応の政変」が、本格的な関東戦国時代の到来の呼び水となる。


1493年10月、駿河国守護・今川氏親を当主とする今川家の食客として興国寺城に入っていた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が今川軍の援軍を受けて伊豆へ侵攻。この伊勢氏の伊豆侵攻により、茶々丸は堀越御所から逃亡し、以降は山内上杉家を頼ったが、この伊勢氏の伊豆侵攻によって堀越公方家は実質的な崩壊を迎える。

この頃まで伊勢宗瑞は「伊勢新九郎」または「伊勢盛時」という名前を名乗っていたが、この伊豆攻略の後に出家して「宗瑞」と名乗り始めたと見るのが有力だという。

近年まで「北条早雲」については謎が多く、この伊豆侵攻にしても伊勢氏が伊勢氏の野心によって行なったものと解釈されていたが、現在は「伊勢宗瑞」と「細川政元」は連動していたと解釈されてるようになっているという。

具体的に組み立て直せば分かり易くなる。細川政元は初期の段階から清晃を将軍に推しており、一度は義材を推す陣営に敗れて、義材が先に将軍の職を継いだが、明応の政変によって細川政元が実力行使で清晃(足利義澄)を将軍に就けているという一連が見て取れる。

第11代将軍となった足利義澄(香厳院清晃)の実母は円満院殿であり、実弟は潤童子であった。つまり、茶々丸が堀越公方家の家督争いで殺害したのは、新将軍になった足利義澄の実母と実弟でもあった事になる。

元々、室町幕府内の奉公衆をしていた伊勢氏であったが権力闘争に敗れ、そのまま今川家の食客となっていたが、細川政元と連携していた可能性は高いと推測できる。少なくとも、この時点では伊勢氏による伊豆侵攻は、個人的な野心ではなく、細川政元と連動して新将軍・義澄派として動いていたとみると合理的に解釈ができるようになる。
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◆太田道灌、誅殺

都鄙和睦(とひのわぼく)が成った後も、関東では散発的な戦乱が続く。下総の千葉氏は引き続き、扇谷上杉氏との抗争を再開し、1483年には上杉方に降っていた上総武田氏を再び味方に引き入れて、臼井城を攻めて、この臼井城(千葉県佐倉市)を奪還する。

1483年10月、太田道灌が上総国に進軍し、千葉方に寝返った長南城を攻め落とす。

1484年5月15日、太田道灌が下総国の東葛飾に馬橋城(まばしじょう)を築城。この馬橋城を千葉氏に備える為の軍事拠点として考えたものであった。

それに対して、千葉氏は新たに本佐倉城を築城し、それまで亥鼻城を拠点にしていたが拠点を本佐倉城に移して対抗。これによって、上杉勢は千葉氏との間は膠着状態へ。

上野国では上州一揆衆であった長野業尚が箕輪城で蜂起。これには山内上杉氏が当たるが長野氏との間では決着は着かず。長野氏は上野国・箕輪城に勢力を張る事になる。

1486年7月26日、扇谷上杉家の家督である扇谷上杉定正の居館である相模国の糟谷館(神奈川県伊勢原市)に同家の家宰・太田道灌が招かれた。糟谷館にて入浴中の太田道灌が定正の命を受けた曽我兵庫の急襲を受けて、誅殺(謀殺)されるという大事件が発生する。死に際の太田道灌は

「当方滅亡」

と悲痛な叫び声を上げて最期を遂げたという。享年54歳。(「当方滅亡」の意味は事態を察知した太田道灌が「こんな事では扇谷上杉家は滅亡する」の意味であったと解釈されている。)

さて、何故、太田道灌は誅殺・謀殺されたのか? 一つには太田道灌は活躍し過ぎていた事と考えられている。「享徳の乱」及び「長尾景春の乱」に於いて縦横無尽の大活躍をしており、所領を与える事も困難になっており、「長尾景春の乱」終結後の1480年頃から当主・扇谷上杉定正と太田道灌の間には恩賞問題が転がっていた。太田道灌は豊島氏を滅ぼした恩賞として豊島氏の所領の大半を獲得しており、既に当主と並ぶほどの所領を有していた。

「上杉定正状」に拠れば、太田道灌が山内上杉顕定に対して謀反を企んでいたので誅殺した旨、記されているという。そして実際に、太田道灌が顕定への不満を記した文書も存在しているという。

1480年11月に書かれた「太田道灌状」と呼ばれる文書が残っており、そこには功績を扇谷上杉定正が正当に戦歴を評価してくれない事の不満、その戦歴を39か条(欠文なので39か条以上だった可能性も)も書き綴った書状を山内上杉家の重臣・高瀬民部少輔に提出し、扇谷上杉定正への取り成しを依頼した文書が残る。39件もの戦功を書き並べている事からして、太田道灌の不満が読み取れる。

また、一説に、関東管領は山内上杉顕定であったが、山内上杉顕定は太田道灌が江戸城と河越城を補修している事、また、武備を整えている事を理由に、「太田道灌が謀反を企てている」と扇谷上杉定正に讒言したとも言う。元より、太田道灌の台頭に苦慮していた定正が、この讒言に乗って誅殺したものという。実は、これにも一定の説得力があり、太田道灌亡き後、山内上杉家と扇谷上杉家との抗争が始まる。


◆長享の乱、勃発

扇谷上杉定正は、道灌誅殺後、太田家の次の家督を太田六郎衛門と指名した。しかし、太田家には嫡男・資康がおり、定正の命令は太田氏の反発を買った。太田氏は江戸城を出て、山内上杉家の鉢形城に入った。つまり、扇谷上杉家を離反し、太田家は丸ごと山内上杉家を頼ったのだ。

山内上杉家にしてみれば、太田家に頼られたこと、太田氏を庇護下に置いたことで扇谷上杉討伐の対義を得ることになった。関東一円に、その名を響かせた太田道灌を謀殺したのは扇谷上杉家であり、その太田氏が頼って来たのだから、大義としては充分すぎるものであった。山内上杉家では越後上杉家と組み、更に上州一揆衆をも味方につけ、更には武蔵国の千葉自胤、相模国の三浦義同(みうらよしあつ/三浦道寸)らを味方につけて扇谷上杉家との対立構図を形成した。

対する扇谷上杉家は古河公方・足利成氏を頼って支援を要請すると、古河公方はこれを快諾。古河公方の元で逼塞していた長尾景春も成氏の意向によって扇谷上杉家に加勢する事になった。

また、伊豆国主となった堀越公方・足利政知は、堀越公方を名乗り続けていたが、扇谷からも山内からも声が掛かっていない。役目を終えてしまった堀越公方は幕府からの支援も打ち切られており、名前だけが残っている状態であった。

1487年11月、太田道灌の死から1年後、「享徳の乱」の終結から約7年のインターバルをとって、再び関東は、扇谷上杉家と山内上杉家との20年抗争となる「長享の乱」が始まる。享徳の乱で37年、インターバルが7年、そして、ここから20年ほど長享の乱となる。

この月、越後上杉定昌が上野国の白井城を出陣して、下野国足利の観農城を攻めた。観農城は元々は山上上杉氏の支配下にあったが、観農城の長尾房清は「長尾景春の乱」の際に長尾景春方についており、この際には扇谷上杉方になっていた事に拠る。これによって上杉陣営が二手に分かれる「長享の乱」が始まる。


◆伊勢宗瑞、興国寺城主へ

また、この1487年11月、伊勢宗瑞が駿河国に下向してくる。先に今川家の家督問題で太田道灌と対峙したのが伊勢宗瑞(のちの北条早雲)であった。先代・今川義忠の嫡子である氏親が幼かった為、その繋ぎとして小鹿今川範満(おしかのりみつ)が今川家の当主となっていたが、氏親への家督継承が行われないという問題が発生、幕府の命を受けた伊勢宗瑞が再び駿河国・今川家の家督問題に介入することになったのだ。

伊勢宗瑞は、どう問題を解決したのか? 小鹿範満を殺害し、氏親を今川家の当主に据えたという。これが意味するのはクーデターのようにも思えるが、伊勢宗瑞は、それを実際に成功させた。この功績によって伊勢宗瑞は今川家の食客となり、駿河国に居座るようになる。また、その後、富士下方十二郷(静岡県富士市)を与えられ、興国寺城の城主になった。

今川家の食客になる以前の伊勢宗瑞は、室町幕府の被官であり、将軍家の奉公衆の一族である伊勢氏だと判明しているという。明治以降の一時期、一介の素浪人が北条早雲になったとされたり、鎌倉時代の北条氏の末裔とする説もあったが、その出自は京都の伊勢氏で確定的と思われる。


◆長享の乱〜須賀谷原の戦い

1488年2月以降に、長享の乱は大規模な合戦へ突入する。上野国鳥取に陣していた山内上杉方が、扇谷上杉方に加勢していた長尾景春軍を破る。

1488年2月5日、扇谷上杉家当主の扇谷上杉定正の居館・糟谷館の近郊、実蒔原(神奈川県伊勢原市)で扇谷軍と山内軍が激突。

1488年3月、扇谷上杉方の佐野周防守軍が山内上杉方の赤堀上野介の守る葛塚城を攻める。この対決は赤堀軍が佐野軍を破り、佐野周防守は山内上杉方に寝返る。

また、この3月、越後上杉家の当主である越後上杉定昌が自殺するという謎の事件が発生する。この越後上杉定昌は、関東管領である山内上杉顕定の実兄であり、越後上杉家の当主の座を巡って実弟の越後上杉房能との間で家督争いが発生し、自殺に追い込まれたものという。定昌の死後、定昌・顕定の実父である越後上杉房定が、越後上杉氏の前線基地である白井城(群馬県渋川市)に入る事になる。

(やたらと似た名前が登場しますが、この越後上杉房定が古河公方と室町幕府を和睦させた越後上杉家の当主であり、関東管領となった山内上杉家当主の山内上杉顕定の実父である。子の定昌に越後上杉家の家督を譲ったが、その定昌が自殺してしまったの意。)

1488年5月、越後上杉房定と山内上杉顕定は軍勢を率いて相模国まで遠征を仕掛ける。これに対して扇谷上杉定正は河越城から出陣し、激突。これは扇谷上杉軍と、山内上杉軍&越後上杉軍、それぞれ当主クラスが直接対決した構図であったが、勝利したのは扇谷上杉軍であった。敗れた顕定軍も直ぐには撤退せず、糟谷館の近くにある七沢城を1000を越える大軍で攻め、七沢城を守っていた定正の実弟である扇谷上杉朝昌は城を捨てて逃走。その後、顕定軍は南下して大森藤頼が守る小田原城まで攻めたが、これは攻め落とせず撤退。

1488年6月、山内上杉方の軍勢が扇谷上杉家の一大拠点である河越城に向けて出陣。これを受けて河越城の扇谷上杉方も迎撃すべく出陣。かくして、山内上杉氏の拠点としている鉢形城(埼玉県寄居町)と扇谷上杉氏が拠点としている河越城(埼玉県川越市)との中間にある、須賀谷にて、両軍が激突する。

1488年6月18日、須賀谷で両軍激突を、須賀谷原(すがやはら/埼玉県嵐山町)の戦いと呼ぶ。

須賀谷原の戦いは、山内、扇谷の当主自らが参陣、また、どちらも嫡子をも参陣させて争った総力戦であったという。また、この須賀谷原の戦いには、山内上杉方として相模国の有力国人から三浦高救(みうらたかひら)と、その子である三浦義同(みうらよしあつ)が参戦。この三浦義同は通名・三浦道寸(みうらどうすん)であり、三浦半島の三浦、鎌倉時代からの有力一族である。またまた、太田道灌の子・太田資康が山内上杉方として参加し、平沢山(へいたくさん)に布陣していた。

扇谷上杉方としては、足利成氏の子である足利政氏が出陣している。この頃までに足利成氏は隠居して公方の座を政氏に譲っていたのか、或いは、古河公方の嫡子として足利政氏が参加していたのかは微妙か。いずれにしてもタテマエとしては幕府に承認される形で関東9ヶ国を分国統治する事が認められていた古河公方は扇谷上杉方として参戦していたのだ。

この総力戦となった須賀谷原の戦い、決着は着かず、引き分けた。禅僧にして漢詩文の名手である万里集九(ばんりしゅうく)は、この須賀谷原の戦いの後の8月17日に平沢山(へいたくさん)に在陣していた太田道灌の子・太田資康の元を訪問し、須賀谷原の合戦の様子を、「死者七百余名のほか、数百疋の馬が犠牲になったことを知った」と残しているという。


◆長享の乱〜高見原の戦い

1488年11月、今度は扇谷上杉軍が山内上杉家の鉢形城攻めを目的に出陣し、これに足利政氏や長尾景春も参加した。山内上杉方では、これを迎撃すべく出陣し、鉢形城の近く高見原(埼玉県小川町)にて両軍が激突。

1488年11月15日、高見原の戦いが発生。この戦いは断続的に1週間にわたって続いた激烈なものであったという。この高見原の戦いでも、扇谷上杉定正、山内上杉顕定といった当主自らが参加していた事、古河から足利政氏が自軍を率いて参加していた事から苛烈な戦いであったとされる。

この「高見原の戦い」については、江戸時代に編纂された「新編武蔵国風土記稿」でも比企郡高見村の項目で取り上げられているという。それによると、扇谷上杉定正が古河(足利)政氏を誘い、二千余騎にて高見原に出陣、それに対して山内上杉顕定は三千騎を率いて対陣したが、顕定が軍兵裏崩して敗北せしと鎌倉管領記に見える旨、記されているという。また、江戸時代の時点で地元の人たちは、その地がかつての古戦場である事はあまり知られていない、とも記されているそうな。

また、風土記稿の男衾郡今市村(寄居町)の項でも、高見原合戦に触れられており、その地に【髑髏塚】という塚があり、多く髑髏(どくろ)が出土したことを伝えているという。「この塚は当時討死せしものの骸を埋めた印なるべし」と記されているという。具体的に髑髏塚がどこなのかは不明ながら、現在の小川町から寄居町今市あたりにに比定できるという。
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◆太田道灌VS千葉一族

古河公方・成氏の支援を失った長尾景春は、殆んどが山地である秩父に籠もって小規模な抵抗を続けるという状況になった。景春方の残存勢力として依然として大勢力を誇っていた下総国の千葉氏、下総千葉氏であった。既に、馬加康胤は亡くなっていたが、その後に下総千葉を仕切っていたのは千葉輔胤であった。上杉方では上総・下総に勢力を誇る千葉氏討伐に踏み切る。

1478年8月、太田道灌率いる上杉軍が下総国へ侵攻する。(これに足利成氏も参加していたという。)

1478年11月、太田道灌軍が千葉方の前ヶ崎城(千葉県流山市)を攻略する。

1478年12月、太田道灌軍が下総国・国府台(こうのだい/千葉県市川市)へ布陣。これに対して、千葉輔胤、孝胤親子は千葉平山城から出陣して境根原(千葉県柏市)で迎え撃ち、境根原合戦となる。この合戦を太田道灌軍が制する。千葉親子は臼井城(千葉県佐倉市)に撤退し、引き続き抵抗を続ける。

1479年1月18日、山内上杉家の当主・山内上杉顕定を総大将とし、太田道灌も参加しての、上杉勢による臼井城攻めが行なわれる。しかし、この千葉氏が籠もった臼井城は印旛沼に面している上に、付近に砦などが作られていた事もあり、半年に渡る攻城戦を持ち堪えたという。

1479年7月、臼井城攻略に手を焼いた事から、太田道灌は攻城軍を残し、自らは軍勢を率いて上総、下総の千葉氏傘下の国人衆の討伐に向かう。千葉一族である海上師胤(うなかみもろたね)の中島城(千葉県銚子市)を攻略する。

中島城が落ちた事で、千葉氏と連動して長尾景春方になっていた上総国に展開していた上総武田氏と呼ばれた長南城の武田上総介、真里谷城の武田清嗣らが続々と降伏してきたという。

太田道灌軍は境根原に帰還し、遠征が長引いている事から河越城への撤退を開始する。その撤退を見計らって、千葉軍が太田道灌軍を襲撃、太田道灌軍では大将の一人にして道灌の弟である太田資忠が討死に遭う、大乱戦となる。しかし、太田道灌軍は、この大乱戦を制し、更には一気呵成に要害の城・臼井城を攻め、臼井城をも落城させる大逆転勝利を勝ち取る。千葉輔胤、孝胤の親子は、落城前に逃亡に成功、逃げ遂せた。

(太田道灌の戦巧者ぶりも光りますねえ。足利尊氏も殆んど負けなしだった記憶があるけど、太田道灌は関東に於いては相模、武蔵北部・上野、上総下総と八面六臂のフル回転という感じ。)


◆長尾景春の乱、終息へ

1479年9月、太田道灌軍が景春方の長井六郎の拠点である武蔵国・長井城(埼玉県妻沼町)の攻略を開始する。

1480年1月、長尾景春軍が長井城救援の為、鉢形城の近く塚田(埼玉県寄居町)まで進軍。これに応じる為に上杉方からは扇谷上杉定正軍が出陣し、大谷(埼玉県東松山市)に進軍。長尾景春軍は扇谷上杉定正軍と戦うことなく撤退。

1480年1月20日、上杉景春が道灌の父・太田道真が隠居している越生(おごせ/埼玉県越生町)に進軍するが、これを太田道真が追い払う。

太田道灌が山内上杉家家臣の大石氏と共に、景春方の長井城(妻沼町)の攻略に成功する。

1480年2月、長尾景春方の勢力は風前の灯となるが、ここで、古河公方・成氏が長尾景春と再同盟の動きを見せる。古河公方・成氏は、上杉家に幕府との和睦の仲介を約束していたが、実は上杉家は幕府に対して和睦交渉の申し入れさえしていない事が、古河公方・成氏に露見した事が明らかになっている。古河公方と室町幕府との和睦交渉は、関東管領・山内上杉顕定、或いは扇谷上杉定正が取り持つ事になっていたが、和睦交渉の申し入れも済んでいなかった為、古河公方は長尾景春を名代にして幕府との和睦交渉をする方針に土壇場で切り替えたのだ。

1480年5月、山内上杉顕定軍が長尾景春の居城にしている日野城(埼玉県秩父市)へ向けて出陣。山内上杉家の重臣である大石軍も日野城を目指して出陣。

1480年6月13日、太田道灌軍が秩父に進軍する。

1480年6月24日、日野城で長尾景春は抵抗を続けていたが、この日、日野城が陥落する。長尾景春は陥落前に逃亡に成功、古河公方・成氏を頼って没落していった。

長尾景春は降伏した訳ではなかったが、完全な逼塞状態となり、これによって、長尾景春の乱が終結する。


◆都鄙和睦〜享徳の乱、終結する

古河公方・足利成氏は長尾景春を匿い、長尾景春を幕府との和睦交渉の役を負わせようと考えたが、長尾景春は新興勢力であった上に幕府に繋がるパイプが脆弱であった為、越後上杉家を頼る方針を打ち出す。山内上杉家、扇谷上杉家は、二年が経過しても幕府に和睦交渉の申し入れさえしていないのだから、最後のツテとなるのは越後上杉家であった。

越後上杉家の当主は越後上杉房定であり、これは子が山内上杉家に入って当主となった顕定の実父である。その越後上杉房定に和睦交渉を要請すると、この房定は重臣の飯沼氏を幕府に派遣し、ついに本格的な都(みやこ)の室町将軍家と鄙(ひな)の古河公方家との和睦について話し合いが始まる。

幕府は既に伊豆国に足利政知を下向させ、そこに堀越公方を建ててしまっていた。堀越公方とは俗称であり、鎌倉府の主という意味では鎌倉公方職を足利政知にしてしまっていた事を意味する。古河公方の方は、元々は鎌倉公方であったが役職的には解任され、また、鎌倉を脱出して関東の要衝である古河に居を構えて古河公方になっていた。

その公方の統一を巡って、和睦交渉は難航したが、1482年、伊豆国を足利政知に譲渡する事を条件にして、改めて幕府の職たる鎌倉公方の職は足利成氏である事を認めさせ、都鄙(とひ)和睦、都鄙合体に到った。

この和睦を、都と鄙との和睦を表すことから「都鄙(とひ)和睦」や「都鄙合体」と呼ぶそうな。この和睦によって、ようやく「享徳の乱」が終結となる。28年間にも及んだ大混乱であったが、その間、古河公方・足利成氏の発給文書は朝廷や幕府の意向を無視して、「享徳」の年号を延々と使用していたが、この和睦を契機にして、それも停止されたという。成氏の発給文書には享徳ばかりが使用されており、最後の享徳年号が使用された文書としては1478年のものが確認されている。「応仁の乱」の最中も、東国の社会では、ずっと享徳年間だったのだ。

冷静に、この「享徳の乱」を捉え直すと、中心人物は紛れもなく足利成氏であるが、都鄙和睦の結末からすると、足利成氏は実際には罰らしい罰を受けていない事にも気付かされる。
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◆上杉軍VS景春・成氏連合軍

「長尾景春の乱」は長尾景春が五十子陣を出て鉢形城に入り、上杉軍の総司令部的な位置づけであった五十子陣が襲撃された事に始まった。五十子陣に在った山内上杉家の当主であった山内上杉顕定は、その襲撃に遭った為に、上野国の河内(群馬県前橋市)に身を寄せていた。太田道灌が山内上杉顕定を武蔵国に呼び戻そうとしたところ、それを阻止せんと鉢形城(埼玉県寄居町)から長尾景春軍が出陣し、針谷原(はりがやはら/埼玉県深谷市)と用土原(ようどはら/埼玉県寄居町)にて、上杉軍と長尾軍とが激突した。

1477年5月14日、針谷原、用土原にて両軍が激突。景春軍の長野氏、上杉軍の大石氏が戦死する激しい戦闘となったが、ここでも太田道灌の活躍によって、勝利したのは上杉軍であったという。

太田道灌は、針谷原・用土原の合戦の勝利に乗じて、景春方が拠点にしている鉢形城付近まで兵を進めるが、ここで思いも拠らぬ事態が発生した。

1477年7月、古河公方・足利成氏が結城氏、簗瀬氏、武田氏、那須氏、佐々木氏、横瀬氏らと共に8千騎の大軍を率いて、上野国の滝・島名(ともに群馬県高崎市)に出没。太田道灌は鉢形城攻めを諦めざるを得なくなり、一方の長尾景春は窮地から脱することになった。上杉方では、一時的に上野国の白井城(群馬県渋川市)に、山内上杉、扇谷上杉、越後上杉の三家が揃う事になった。一方、長尾景春の援軍として登場した古河公方軍は、特に動く様子もなく、上野国の滝に布陣し、古河公方軍と上杉軍の睨み合いが続いた。

1477年9月27日、先に上杉軍が仕掛けた。山内上杉顕定が自ら出陣して片貝(かたがい/群馬県前橋市)に布陣、太田道灌が別動隊を担当して赤城山南麓の塩売原(群馬県前橋市)に出陣、古河公方軍との小競り合いが展開される。この小競り合いは同年12月まで続く。

1477年12月、古河公方・足利成氏軍は榛名山東麓の広馬場(ひろばば/群馬県榛東村)に陣を移動させ、それに対応して上杉軍は水沢(渋川市)と白岩(高崎市)に布陣。雪の降る中、両軍は引き続き対峙が続いたという。

年が明けて、1478年正月1日、付近は激しい大雪に見舞われ、上杉方から成氏方へと停戦の申し入れがあり、和睦交渉に入り、そのまま、翌2日に和睦が成立する。上杉氏が、古河公方と室町幕府との仲裁をするという条件で和睦に到ったものという。公方・成氏は武蔵国成田(埼玉県熊谷市)まで、その日の内に引き揚げ、その後、太田道灌や扇谷上杉定正は武蔵国の河越城に引き揚げた。

因みに西日本では1477年11月に西軍から西幕府軍になっていた、その屋台骨の大内氏(大内正弘)が帰国。西幕府は解散し、東軍と西軍とに分かれて軍事衝突した「応仁の乱」が終結している。「享徳の乱」も、直後に上杉家と古河公方とが和睦したとも言えるが、室町幕府と古河公方との和睦には、しばらく時間がかかり、「享徳の乱」は幕府と古河公方との和睦まで継続すると説明するのが通説になっているよう。


◆太田道灌VS豊島勘解由左衛門尉

長尾景春の叛乱に共鳴した豊島氏は、1447年4月に太田道灌の攻略を受けていた。太田道灌と豊島勘解由左衛門尉(としまかげゆざえもんのじょう)の争いを、いまいちどオサライします。豊島勘解由左衛門尉(としま−かげゆざえもん−の−じょう)を当主とする豊島氏は、練馬城で籠城戦を行ない太田道灌軍を沼袋に撤退させ、その太田道灌軍の追撃を狙うも、江古田原の合戦で敗れた。その後、石神井城に逃げ込んだが、この石神井城を攻められた豊島氏は、太田道灌率いる上杉方に降参していた。

しかし、その後、この豊島氏は、上野国で長尾景春軍と上杉軍が対峙し、更に古河公方軍が援軍に登場、上野国が一進一退の攻防を展開していた中、再び、長尾景春方として挙兵し、太田道灌の居城である江戸城にも近い平塚に城を築城。その平塚城(東京都北区)に拠点を置いた。平塚城に豊島氏が入ることによって、河越と江戸とを分断させる作戦であったという。

1478年1月25日、扇谷上杉氏の当主の拠点である河越城に帰還していた太田道灌は、休む暇もなく、豊島氏討伐の為に出陣する。

太田道灌軍が南下してくると、豊島軍は丸子(東京都大田区)まで南下し、太田道灌軍が更に追撃すると、豊島軍は小机城(横浜市港北区)に籠城。

その豊島氏に連動して、長尾景春方も動き出す。長尾景春は、武蔵国・浅羽(埼玉県坂戸市)へ出陣し、景春の家臣である吉里軍が小机城救援の為に出陣し、この吉里軍は同じく景春方の大石駿河守の拠点である二宮城(東京都あきるの市)へ出陣する。

1478年2月6日、小机城を太田道灌軍を含む上杉勢の軍勢が包囲。しかし、この小机城は深い堀と高い土塁を持つ堅固な城で、戦況は膠着。

1478年3月10日、この日、河越城の扇谷上杉家当主・扇谷上杉定正が出陣し、長尾景春が在陣していた浅羽(坂戸市)を襲撃、扇谷上杉定正軍が勝利する。敗れた長尾景春は、成田(埼玉県熊谷市)まで撤退。

成田まで撤退した長尾景春は、成田にて千葉輔胤と落ち合い、千葉輔胤軍を援軍として羽生峰(はにゅうほう/比定地不明、地名から羽生市説が有力とされているものの、地理的には河越城と鉢形城の中間にある峰となり、現坂戸市となる浅羽の北、現在の埼玉県滑川町の方が有力視できる)へ布陣。

羽生峰に長尾景春・千葉輔胤の軍勢が布陣した事を受けて、小机城攻城戦に参加していた太田資忠(道灌の弟)を景春討伐軍援軍として送り込んだ。

1478年4月10日、小机城が陥落、武蔵国の名門・豊島氏は、これによって滅亡。豊島氏の所領は扇谷上杉氏の所領となり、その大半は家宰・太田道灌の所領となった。


◆古河公方、古河へ帰る

扇谷上杉家の家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏を滅ぼし、長尾景春の反乱に対して上杉勢は優勢が明らかになっていくと、形成も動く。景春方として二宮城の大石憲仲が戦わずして上杉方に降伏。二宮城(東京都あきるの市)の降伏を受けて、ドミノ倒し的に小磯城(神奈川県大磯町)と小沢城(こさわじょう/神奈川県愛川町)も開城したという。小磯城と小沢城は景春方であり、小磯城には越後五郎四郎、小沢城には金子掃部助が入っていた。

景春方の残党となる本間近江守、海老名左衛門らは奥三保(神奈川県愛川町)まで撤退。景春方の残党に対して太田道灌軍が遠征。

1478年6月14日、景春残党軍と太田道灌軍が激突、太田道灌軍が勝利を収める。

その後も太田道灌軍は甲斐国に入り、景春方の加藤氏の拠点である鶴河(山梨県都留市)を攻略、更には景春方として小田原城に入っていた大森成頼を攻略し、相模国を平定。

1478年7月、太田道灌は北上して荒川を越えて、鉢形城(埼玉県寄居町)と成田(埼玉県熊谷市)の間に布陣。

古河公方・足利成氏は、同年正月の和睦、停戦によって、長尾景春と対立し、古河に帰れぬまま、成田に留まっていた。が、太田道灌が近場まで来ている事を知ると、太田道灌に古河へ戻りたい意向を伝えた。或る意味では長尾景春を足利成氏が完全に見限ったという意味であるという。

古河公方が古河に帰国できないで助けを求めに来ているという大義を得た太田道灌は、成田の在陣していた長尾景春攻めを展開、長尾景春軍を破る。更に、太田道灌は長尾景春の本城である鉢形城をも一気に攻めてみせ、鉢形城も落城。

古河公方・成氏は古河に帰国。敗れた長尾景春は、武蔵国・秩父へと撤退。
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◆享徳の乱〜膠着と亀裂

古河を回復した後、成氏方は逆襲を展開する。

1472年5月、成氏方では小山氏、結城氏、那須氏、宇都宮氏、佐野氏、佐貫氏ら主力からな8千の軍勢を編成し、新田荘世良田まで進軍。その後、上杉方の本拠になっている五十子陣(五十子城)と対峙するよう、大舘から岡山原に到るまでの東西約8キロメートルにも及ぶ布陣を配置した。

上杉方では、7千の軍勢で利根川を挟んで成氏方の軍勢に当たったという。そこへ世良田の背後にある金山城から岩松軍の軍勢が襲い掛かり、成氏方は敗北、そのまま古河へと撤退。

足利荘を巡っての観応城、館林城の攻防、更には古河城を巡る攻防を経ての五十子陣襲撃計画であったが、再び、戦況は両軍とも膠着状態に戻る。

この1473年は西日本の「応仁の乱」は大きな転機が訪れた。西軍の大将格であった山名宗全が前年に隠居、この1473年3月に70歳で死去し、5月には細川勝元が44歳で死去するという大転機となった。東軍と西軍に分かれて争っていたものであったが、双方の大将が同時期に死去した事で、「応仁の乱」は終結に向けて動き出す。

「応仁の乱」は、最終的には西暦1467年から1477年までの凡そ10年間の乱であるが、関東で起こった「享徳の乱」はというと、西暦1455年から1482年まで継続し、その期間は28年間にも及ぶ。これとて、実際には、成氏と上杉氏及び室町幕府との争いを「享徳の乱」として抽出しているから、そうなるが、関東史の場合は、その前に「結城合戦」があり、「永享の乱」があり、「上杉禅秀の乱」、すべて第4代鎌倉公方・足利持氏と、成氏に起因した騒乱である事からすると、ひょっとしたら「中世の関東大乱」ぐらいの認識の方が正しいような気がしてくる。

1473年、山名宗全、細川勝元が没して西日本の大乱は終息に向かう。この年、東日本では、山内上杉家の家宰・長尾景信が死去する。元はと言えば、清和源氏流の由緒正しい名門・足利家の執事として台頭したのが上杉氏であったが、この頃になると上杉家の補佐役であった家宰(宿老と同義)の長尾氏が台頭している。名目は上杉家であるが実際に軍隊を動かす将は長尾家や太田家に移行している。これは足利家の持氏・成氏も同じで、その主力となって動くのは、その神輿を担いでいる諸家になっている。


◆上杉家分裂〜長尾景春の乱

この頃までに【家宰】(かさい)が主家の主力であるという原理で物事が動くようになっており、扇谷上杉家であれば太田氏(太田道真、太田道灌)が台頭し、山内上杉家であれば長尾氏(長尾景仲、長尾景信)という構図になっていた。この家宰は、将軍兼軍師のような存在で実務面のトップでしょうか。

そして1473年6月、山内上杉家の家宰・長尾景信が死去する。この長尾景信は、その父の長尾景仲を継承し、この「享徳の乱」で上杉軍の中心的人物であった。山内上杉家は、後継の家宰職に景信の弟に当たる長尾忠景に定めた。しかし、この人選が上杉陣営に亀裂を惹き起こす。長尾景信には子の長尾景春があり、観応城を巡る攻防あたりからは長尾景春と長尾忠景は共に前線で活躍し、功をなしていたのだ。

長尾景信の弟にあたり、新たに家宰に就いた長尾忠景は、この頃までには惣社に拠点を構える惣社長尾氏の家督を継承してり、惣社長尾氏の当主であった。「惣社」には「総社」の意味もあるので、長尾家の本宗家の意味と紛らわしいが、この「惣社」は榛名山東裾野の地名であり、惣社の長尾家の当主の意である。長尾氏は上杉家の被官として各地で活躍し、長尾氏には庶流分家が多数できていたといい、この頃の長尾氏の中で最も勢いがあったのが、この(惣社)長尾忠景(ただかげ)であった。

この人事に不満を抱いたのが、長尾景信の嫡子であった長尾景春であった。年齢的には忠景が50代であったのに対して、景春が30歳であった。また、この長尾景仲、長尾景信、そして、景春は白井(群馬県渋川市)に拠点を持つ、いわば白井の長尾家であり、二代ほど続けて白井の長尾家が山内上杉家の家宰職を担ってきたが、それが惣社の長尾氏に移管してしまった事は、長尾景春だけではなく、白井長尾家の家臣らも不満を抱いたという。

山内上杉家の家宰継承問題で、山内上杉家が揺れている間、成氏方は一度、五十子陣を攻撃している。

1473年11月、古河公方軍が五十子陣を攻撃。結果として古河公方軍を追い返す事に上杉軍は成功するが、この際、扇谷上杉家の当主・上杉政真が討死。扇谷上杉家の家督問題は、家宰の太田道灌が上杉持朝の子の定正を擁立、無難に扇谷上杉家の家督相続は解決した。(実際には太田道灌が「道灌」という法号を名乗り始めたのは、この頃らしく、実際は「太田資長」である。)

その五十子陣での戦いと、扇谷上杉家の家督継承問題を経ても山内上杉家の家宰問題は解決せず、年が明けて1474年になってから正式に惣社の長尾景忠が山内上杉家の家宰に就任したという。人選に紛糾はあったが、最終的には山内上杉家の意向によって惣社長尾忠景が家宰に選ばれた――と。

この家宰問題、上杉勢には大きな問題だったらしく、扇谷上杉家の家宰にあった太田道灌にしても疑義を掲げていたという。当初、道灌は「この決定では長尾景春が反発するのは必至であるから、長尾忠景に与えている武蔵国守護代を景春に譲らせ、武蔵国守護と家宰との兼任をさせないようにして調和を図ってはどうか?」と具申したが、山内上杉家には受け入れられず。次に道灌は、直接、山内上杉家の当主・上杉定顕に「景春に謀反の兆候がある」と訴えたが、それも受け入れられなかったという。つまり、上杉忠景は武蔵国守護代と山内上杉家の家宰の両職の兼任を主家から認められたのだ。

現実は、どのように転んだか? 水面下で長尾景春は各地の武士に挙兵の準備がある事を呼び掛けていたという。つまり、太田道灌は長尾景春の動向を正確にキャッチしていたらしいことが分かる。

その太田道灌は、「応仁の乱」が元で発生した駿河国守護・今川家の家督争いに引っ張り出されてしまう。駿河国守護の今川家で発生した当主の座を巡る家督争いに、伊豆国の堀越公方、その堀越公方の被官になっているのは犬懸上杉家であり、犬懸上杉政憲から援軍を求められ、それに応じて太田道灌は江戸城を出て、相模を経由して伊豆へと出陣した。

太田道灌が留守――その間隙を巧みに縫って、「長尾景春の乱」が進行する。これは「享徳の乱」の最中にあって、重ねて発生していまっている反乱、謀反である。

1477年1月、長尾景春の軍勢が軍勢を引き連れて五十子陣を離れ、その南にある鉢形城(埼玉県寄居町)に入った。

1477年1月18日、鉢形城に入った長尾景春の軍勢が上杉軍の本拠である五十子陣(城)を急襲。

事前に長尾景春は各地の武士に挙兵を伝えていた為、景春挙兵の報が各地に伝わると、景春与党の武士たちが各地で蜂起したという。小さく伝わりがちであるが、この蜂起は関東一円にも伝わって大混乱を惹き起こしたという。

五十子陣には山内・扇谷の両当主、山内上杉定顕と扇谷上杉定正が在陣していたが、五十子陣を放棄して、上野国へ避難せざるを得ないという状況に陥る。五十子陣(埼玉県本庄市)が放棄されるのは五十子陣が築かれて以来、初めて起こった出来事である。

古河公方陣営は、長尾景春の乱を知ると即座に反応し、景春と組んで「反上杉」同盟を画策、この長尾景春の乱に加担した。


◆長尾景春VS太田道灌

今川家の次期当主を巡る家督争いは、龍王丸(後の今川氏親)と小鹿(今川)範満(おしか・のりみつ)との間で発生した問題であった。嫡子は龍王丸であったが、まだ幼少で元服まで時間がある為、今川氏の一門である小鹿範満を次期当主にすべきという小鹿範満派と、幼少でも嫡子の龍王丸が家督を継ぐべきという龍王丸派とで悶着になったのだ。

小鹿範満の母は犬懸上杉政憲の娘であった。なので、太田道灌は小鹿範満派として今川家の家督問題に介入した事になる。

通説では、ここに伊勢盛時、この伊勢盛時とは「伊勢宗瑞」であり、更に後の「北条早雲」であるが、伊勢盛時時代の北条早雲は、龍王丸の叔父であり、この今川家の家督争いに介入する為に京都から駿河に降ってきたとして登場する。(現在も、この説は否定されていないが、否定的な見解も強まっているという。しかし、通説としての伊勢宗瑞説を踏襲することにする。)

つまり、龍王丸派にとして伊勢宗瑞(北条早雲)と、小鹿範満派として太田道灌とが、ここで顔合わせをしていた事になる。

この今川家後継問題は、龍王丸が成長するまでの中継ぎとして小鹿範満を当主にする事で決着となった。提案をしたのは伊勢宗瑞であり、それを承服したのが太田道灌であったという。

今川家の家督問題を片づけた太田道灌が江戸城へ帰還して間もなく、長尾景春の乱が発生している。(長尾景春が五十子陣を離れていた期間、太田道灌は留守であったの意。)

長尾景春の反乱が発生すると、当初、太田道灌は和睦を模索した。景春には「主家への赦免」を求め、一方で山内上杉定顕には「景春との和睦」を打診しているが、共に拒否されたという。

この長尾景春の乱は、関東の地図を塗り替えている。相模国では上杉家は安泰であったが、その相模国から大森成頼の大森氏、本間氏、海老名氏、溝呂木(みぞろぎ)氏、金子氏らが、景春陣営へ。また、上杉家の影響力が強かった武蔵国の豊島勘解由左衛門尉(かげゆざえもんじょう)の豊島氏、それと武蔵国二宮(東京都あきるの市)を拠点にしていた大石憲仲、武蔵国北部に勢力を張っていた安保氏泰、武州一揆衆の毛呂三河守らが景春陣営へ。また、下総国では、前述の大石憲仲の同族で下総国・葛西の大石石見守が景春陣営となった。また、古河公方と長尾景春が手を組んだ事から、武蔵国・石浜城に身をおいていた千葉実胤も景春陣営へ。

北関東では、上野国・箕輪の長野為業が、また長尾家からでは下野国・足利の足利長尾氏が長尾景春陣営に。

この長尾景春の乱で活躍したのが、扇谷上杉家の家宰にあった太田道灌であった。

1477年3月、太田道灌が江戸城(東京都千代田区千代田、現在の皇居)を出陣する。

江戸城を出た太田道灌の軍勢は、当初、豊島氏の練馬城攻略を目指したが多摩川の増水によって相模国からの増援部隊が足止めされた事から、急遽、行先を変更し、電光石火の鎮圧をみせる。

1477年3月18日、景春方の溝呂木正重が籠もる溝呂木城(みぞろぎじょう/神奈川県厚木市?)を攻め落とす。

攻められた溝呂木正重は、溝呂木城から相模川上流の磯部城(神奈川県相模原市)へと逃げ延びたが、その磯部城も太田道灌は攻め落とす。

それに続けて、太田道灌は、景春方の金子掃部助(かもんのすけ)が籠もる小沢城(こざわじょう/神奈川県愛甲郡愛川町)へ向かう。

長尾景春は、小沢城を守る為に景春家臣であったという横山(東京都八王子市)に地盤を持っていた吉里宮内左衛門尉に軍勢を出陣させる。この吉里軍は府中方面に進軍し、上杉方の小山田城(東京都町田市)を陥落させ、上杉方の拠点の分断を図る。

更に長尾景春では、小机城(こづくえじょう/横浜市港北区小机)から矢野兵庫助が軍勢を率いて北上し、河越城の西、苦林(にがばやし/埼玉県毛呂山町)に陣を布いた。この景春方の矢野軍の動向は、河越城に備えた牽制であったと思われるが、この矢野軍に対しては、河越城に入っていた扇谷上杉家家臣にして太田道灌の弟の太田資忠(すけただ)らが、追い散らす。

1477年4月10日、上杉方の太田資忠らが出陣。勝呂原(すぐろはら/埼玉県坂戸市)にて矢野軍と衝突し、これを上杉方が制する。景春方の矢野軍は敗走。これを「勝呂原の戦い」という。

1477年4月13日、江戸城に帰還していた太田道灌が仕切り直しという形として、豊島氏攻略の為に出陣する。

太田道灌軍は、当初、練馬城を攻めるが練馬城(東京都練馬区)に籠城する豊島氏の抵抗が激しく、道灌は一旦、沼袋(東京都中野区沼袋)に撤退する。沼袋に撤退した道灌軍を追撃すべく、豊島軍が出陣し、道灌軍と豊島軍とが江古田原(東京都中野区江古田)で合戦となり、道灌軍が豊島軍を破る。これを「江古田原の戦い」という。

豊島氏は、この頃、練馬城と石神井城(どちらも東京都練馬区)を有していたが、勢いに乗った太田道灌軍は石神井城攻めを敢行する。

1477年4月18日、石神井城が落ちて、豊島氏が降伏。

また、同年4月中に、上杉方が矢野氏の小机城を陥落させる。この小机城に対しては長尾景春は吉里軍を援軍として派遣していたが、吉里軍の援軍は間に合わなかったという。
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◆享徳の乱〜成氏包囲網

足利政知が伊豆国・堀越(伊豆の国市)で、堀越公方になった後、享徳の乱に於ける大きな変化があった。この「享徳の乱」の発端は、上杉憲実ら22名を足利成氏与党が皆殺しにするというセンセーショナルな事件で幕を開けたが、その実行犯であり、成氏方の主力であった岩松持国に上杉方からの調略が行われ、岩松持国が寝返るという展開に発展した。

1458年7月頃、第8代室町幕府将軍・足利義政の異母兄である足利政知が伊豆に入り、堀越公方となる。

この堀越公方の誕生は、元々は鎌倉入りを目指していた節が伺える。扇谷上杉家で太田道真が太田道灌に家宰を譲ったのは、堀越公方と太田道真との軋轢があった為とされているが、幕府は足利政知の東国下向に併せて、足利一門の渋川義鏡(よしかね)を東国に下向させているが、これは渋川義鏡の祖父が武蔵国司として蕨城(埼玉県蕨市)を居城にしていたからという理由であったらしく、実際に武蔵国を統治していた扇谷上杉家を混乱させるものであったと推測できるという。つまり、扇谷上杉家からすれば、この室町幕府による政知の関東下向は有難迷惑であった側面があり、扇谷上杉家が政知の関東入りを拒否した為、伊豆国堀越で公方となったとみると整合性がとれる。幕府は政知の為に兵糧を得る為の所領を用意したが、結局は両上杉氏の所領を切り取る事を意味していた。実情としては幕府と上杉家との間でも足並みが揃っていた訳ではない。

また、この時期、上野国の国人である岩松持国が幕府・上杉方に寝返る。

京都へ逃れていた宇都宮等綱が陸奥国の白川結城直朝氏を頼って、古河公方攻めを画策して挙兵。しかし、この宇都宮・白河連合軍は、下野国の国人である成氏方勢力の那須資持に阻止された。

更に、上杉方の岩松家純が信濃国守護の小笠原氏と同時に出陣準備を開始。

更に更に、室町幕府は越前、尾張、遠江三ヵ国の守護を兼任していた斯波義敏に関東遠征を命じた。室町幕府は「三管四職」が将軍を補佐するシステムになっており、幕府の管領職になれるのは最初から細川、畠山、斯波の御三家に限定されていた。当時は管領は細川氏であったが、管領を輩出する権利を有する三管家の一つ、その斯波氏にに関東遠征を命じたの意である。

1458年秋、室町幕府は威信を賭けて享徳の乱を鎮圧しようとしたが、信濃国守護の小笠原氏と、幕府の有力者である斯波氏は出陣せず。小笠原氏と斯波氏が不参加ながら、幕府の援助を受けて、この秋、上杉軍は利根川を越えて、古河公方軍に総攻撃を仕掛ける。

1458年10月14日、武蔵国太田荘(推定されているのは鴻巣市付近)で幕府上杉大連合軍と、それを迎え撃った古河公方・成氏軍が激突。

1458年10月15日、上野国・海老瀬口(えびせぐち/群馬県板倉町)、同じく上野国の羽継原(はねつぐはら/群馬県館林市)で両軍の激しい戦闘になり、上杉軍には上杉教房の戦死を筆頭に甚大な被害があったという。つまり、この決戦でも、勝利したのは古河公方軍であった。

さて、寝返った岩松持国は、かなり有力な国人衆であったと思われるが、5月頃に寝返りを決意、この10月の合戦では上杉軍として参陣していた。

しかし、この合戦敗北後、岩松持国は再び公方・成氏方へ寝返ろうとし画策。それが上杉陣営に発覚した為、同族であった岩松家純に、岩松持国、その子・岩松成兼が討たれた。

また、犬懸上杉教朝が謎の自殺を遂げる。この犬懸上杉教朝は上杉禅秀の子であり、永享の乱、結城合戦にも上杉軍として活躍していた人物であるが、幕府の命によって堀越公方付きになっていたが、堀越公方の扱いでは、山内上杉家にしても扇谷上杉家にしても自家の権益を献上して支えろという命に不服であった為、堀越公方の補佐役であった教朝は幕府と上杉一族との板挟みに遭い、自死したものという。


◆享徳の乱〜長尾景人の足利荘入部

1463年、享徳の乱の中心人物でもあった山内上杉家の長尾景仲が死去する。関東管領・上杉憲忠ら22名が皆殺しに遭う前に、成氏を太田道真と共に襲撃した江ノ島合戦の張本人であり、一時期は成氏から目の敵にされていた人物でもあった。この長尾景仲は死去する前に家宰を息子の長尾景信に譲っていたが、一つの転機であったという。

1466年、上杉方の総大将でもあった関東管領・山内上杉顕房が、五十子(いかっこ/埼玉県本庄市)陣の陣中にて急逝。年齢は32歳と早世であり、且つ、この顕房には子がなかった為、越後上杉房定の13歳の次男を養子として迎えることとなる。その子は元服後に山内上杉顕定となり、関東管領も山内上杉家を継承する。

1466年7月、堀越公方は山内上杉家の長尾景人(かげひと)に下野国足利荘を与えた。名目上、堀越公方は鎌倉府の主であり、鎌倉公方なのだ。しかし、実際に下野国の足利荘を支配していたのは成氏方であった。長尾景人が足利荘へ入部すると、当然の事ながら、そこで長尾景人の軍勢は成氏方の勢力と衝突、合戦となり、長尾景人が成氏方の勢力を退けて、足利荘への入部に成功する。しかし、この足利荘を奪還しようと成氏方も次から次へと合戦を仕掛けてくるという展開となる。

長尾景人は入部した足利荘を守る為に、渡良瀬川の沿岸の台地上に観農城(かんのうじょう/栃木県足利市岩井町)を築城する。この観農城は渡良瀬川が城郭を取り囲むように流れている為、成氏方の軍勢を度々、撃退したという。


◆応仁の乱が勃発する。

1460年から1466年までの間、将軍・足利義政は実に162通もの書状を「享徳の乱」対策で発給していたという。将軍は関東に気を割いていたようにも思えるが、1467年には畿内では「応仁の乱」が発生し、細川勝元の東軍と山名宗全らの西軍とが一触即発の状態になっている。1466年の時点で、前述したように三管領家の一角である斯波家の家督を将軍・義政が勝手に変更させたり、同じく三管領家の畠山家が大掛かりな内紛を展開、将軍職の後継にしても義視を将軍にした後に義尚を将軍にするのか、義視を飛ばして義尚を将軍にするのかで割れて、幕府も朝廷も大混乱になっている。

また、将軍・義政によって家督を勝手に譲る事になったのは関東遠征を命じられ、出陣しなかった斯波義敏であったが、畿内の細川勝元周辺では、斯波義敏を政界に復帰させようとしていた。斯波家の家督をついた斯波義廉(よしかど)は、これまた、堀越公方の先鞭となって関東へ下向した渋川義鏡の息子であり、斯波家には養子に入った人物である。実際の混乱は専制政治をしてしまう将軍・義政の膝元で起こっているようにも見える。

1467年12月、西日本にて、応仁の乱、勃発。基本的には細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍による大乱に突入する。(この「応仁の乱」に先駆けて関東で「享徳の乱」が発生、継続中。実は「享徳の乱」が「応仁の乱」の遠因にもなっている。)


◆享徳の乱〜観農城を巡る攻防

畿内で「応仁の乱」が大混乱となっている頃、関東で発生していた「享徳の乱」も新たな局面が展開されてゆく。

1468年10月、足利荘付近、渡良瀬川を挟んで上野国で上杉軍と成氏軍とが激突。五十子陣から近いこともあり、上杉軍が勝利を収める。敗れた成氏軍は撤退したものの、後に足利成氏自らが那須氏、小山氏の軍勢を率いて天命(栃木県佐野市天明)まで進軍、更に小曽根(栃木県足利市小曽根)に陣を張って上杉方と対峙する。

1468年12月、成氏軍は観農城の長尾景人を攻めるが長尾景人軍の抵抗が激しく、攻め切れず。観農城の攻略に手を焼くことになった公方・成氏陣営は、観農城を取り巻くように城館を建てる策に出た。この際、観農城の北側に樺崎城(かばさきじょう/足利市)と八椚城(やくぬぎじょう/足利市)、東に赤見城(佐野市)、南側に館林城(群馬県館林市)を建てて、観農城を包囲する戦略に出た。樺崎城には南持宗が入り、赤見城には佐野氏の一族である赤見氏が入り、館林城には舞木氏の家臣であった赤井氏が入ったという。

これに上杉方も反応し、観農城の西側に金山城(群馬県太田市)に築城し、岩松家純を入れて対抗した。

1471年3月、成氏方の小山持政と結城氏広が1000余騎で箱根を越えて伊豆国へ侵攻、堀越公方攻めようとした。堀越公方の要請で駿河国の今川氏親が迎撃。戦況は小山・結城軍が優勢に進めていたが、背後から扇谷上杉氏の家臣・矢野安芸守の軍勢が襲い掛かった。これによって小山・結城は退却を始めたが、更に山上上杉氏の家臣・宇佐美孝忠(たかただ)の軍勢が退路を塞いだ。この為、小山・結城軍は惨敗となったが、小山持政と結城氏広とは命からがら逃げ切った。

古河公方が堀越公方とやりやった、その機を逃さず、上杉軍が反抗開始。山内上杉氏方の長尾景春、長尾忠景らが岩松家純、上州一揆軍、武州一揆軍を従えて下野国へ侵攻。この進撃に合わせて、成氏方の佐野城の佐野氏が上杉方に寝返りを打診。長尾軍は寝返りを信じて下野国深部の児玉塚(不明)に布陣。しかし、佐野氏は寝返りを白紙撤回し、佐野城に籠城。その為、侵攻していた長尾軍は小山氏の軍勢と佐野氏の軍勢に挟撃される羽目になり、撤退。

1471年4月、長尾景春、長尾忠景からなる長尾軍は一度、五十子陣まで撤退した後、再び下野国へ。

1471年4月15日、長尾軍が成氏方の赤見城を落城させる。

続けて成氏方の樺崎城を攻めて、ここでは城主の南持宗を討ち取って落城させる。

同月、山内上杉家の家宰・長尾景信が軍を率いて出陣、金山城の岩松家純も合流し、成氏方の八椚城(やくぬぎじょう)を攻めた。八椚城には佐野氏の庶流である赤見氏、加胡氏、大高氏らが守っていたが、同じく佐野氏一族である山越氏が長尾景信軍に内応し、この八椚城も落城する。

赤見城、樺崎城、八椚城が上杉方に落とされ、これで観農城包囲網は解かれた形となり、ここで上杉方は一度、五十子陣(埼玉県本庄市)へと撤退している。

1471年5月、上杉方は館林城の攻略に着手し、山上上杉家の家宰・長尾景信を大将とする6千の軍勢が出陣する。ここには景信の子の長尾景春、更には扇谷上杉家の家宰・太田道灌、惣社上杉家の家臣・長尾忠景らが参陣した。

館林城は三方を湖沼に囲まれた天然の要害で、上杉軍は主力を投入したが館林城の攻略に手こずる。この頃、館林城を守っていたのは赤井氏と高氏であったという。上杉軍が攻城戦に手間取っているとみて、成氏方は、この館林城の救援に小山氏、結城氏、佐野氏といった主力を投入。この館林城を巡る戦いでは、両軍の主力同士が激突したことになる。

1471年5月23日、館林城が落城する。

この館林城を巡る攻防の際、成氏方の中心人物でもあった小山持政が上杉方に寝返るという波乱があった。小山持政には上杉方からも幕府からも帰順勧告が再三再四届いていたが、この享徳の乱では一貫して黙殺、古河公方軍の主力中の主力で、公方・足利成氏からは「兄弟」と呼ばれる程の信頼を寄せられていた人物であったが、とうとう上杉方に内応したものという。

また、小山持政の上杉方への寝返りは成氏方に動揺を誘ったようで、小山氏の離反の直後、成氏方の有力者であった小田茂治、また、佐野氏の一族と思われる佐野愛寿(詳細不明)が成氏方から離反したという。

上杉軍は館林城に続けて、舞木城を落城させる。この舞木城は舞木氏の居城であり、館林城を守っていた赤井氏の主家にあたるという。


◆享徳の乱〜古河城争奪戦

一気呵成に、上杉軍が攻め続ける。上杉軍は山内上杉家の家宰・長尾景信を総大将とし、その子・長尾景春、惣社上杉家の長尾忠景らに加え、上州一揆衆、武州一揆衆が加わり、七千余の大軍勢となって、佐野盛綱が籠城する岩舟山の頂上に築かれた甲城を攻めた。この甲城(かぶとじょう/旧下都賀郡岩舟町)は険阻な山城で、且つ、佐野氏の抵抗も激しかったらしく、上杉軍は甲城攻めを諦めて、岩舟山の東、児玉塚に布陣。児玉塚の東側は小山氏の勢力圏であったが、既に小山氏は上杉方に寝返っていたのだ。児玉塚に布陣した後、上杉軍は古河公方の本拠である古河城を目指して南下してゆく。

1471年5月、上杉軍による古河城攻撃が始まる。

1471年6月24日、古河公方・足利成氏は古河脱出を余儀なくされ、下総国の本佐倉(千葉県酒々井市)の千葉孝胤(ちば・のりたね)の元まで逃げ落ちる。

上杉軍は下総国への侵入にも色気をみせたが、ここで戦線が膠着する。下野国では小山氏、小田氏、佐野氏が上杉方に降った情勢となり、分かり易い劣勢の状態となったが、結城氏広と千葉孝胤が二本柱となって古河公方軍を支えた。

或る意味では古河公方陣営の中心人物であった小山持政は、上杉方に寝返った後、児玉塚へと上杉軍の案内役を果たした後、文献から活動する姿を消える。没したか蟄居したものと推測されるという。元々、小山持政には子や孫があったが、いずれも早世しており、その小山家の家督を継承したのは、結城一族山川景胤の子の梅犬丸であり、後に梅犬丸は小山成長と見られる事から、小山氏は古河公方陣営に復帰した可能性が高いと見られるという。

1472年2月、古河公方・成氏は、結城氏広や実弟である鶴岡八幡の雪下殿・尊敒(そんじょう)、那須資持、茂木持らの助力を得て、古河奪還作戦を展開、あっさりと奪還に成功している。成氏は古河城を逐われたが、古河城そのもの成氏方が守り切っていたので、簡単に古河を奪還できたという。

ここまでで足利成氏を中心として動いた「享徳の乱」は既に発生から17年を経過している。


◆下総千葉氏と上総武田氏

因みに、常陸国の雄、佐竹氏はこの頃は内紛で宗家が窮地に立たされている。また、古河公方から頼られた千葉孝胤は千葉家分裂後の下総千葉氏である。

千葉氏の場合は、宗家であった千葉胤直に対して、一族の馬加(まくわり)千葉康胤との間で争いが起こり、当主の千葉胤直が滅ぼされるという大混乱になった事は前述した通り。そして千葉胤直の遺児である実胤と自胤(これたね)の兄弟は市川城に身を寄せていた。これを、享徳の乱に照らし合わせると、千葉家の宗家が幕府・上杉方となり、馬加氏は成氏方であった。

その後、千葉家の内紛には幕府が介入、美濃国郡上を本拠とする東常縁(とうのつねより)が下総国に入り、成氏方である馬加千葉氏の馬加城を攻め、馬加千葉康胤は千葉城へ逃げた。

市川城は実胤・自胤が拠点にしていたが、この市川城は成氏軍に攻められ、実胤・自胤は上杉方が抑えていた武蔵国へ逃げる。実胤は赤塚城(東京都板橋区)へ入り、自胤は石浜城(東京都台東区)に入り、それぞれ、こちらの武蔵国に入った実胤・自胤は上杉方として残り、武蔵千葉氏となる。

馬加千葉康胤は、その後、上総国の八幡(千葉県市原市)にて、幕府の命によってやってきた東常縁軍と戦い、敗死する。この馬加千葉氏は千葉城を居城としたままに残り、康胤の次には子の胤持、その次に胤持の弟である輔胤が家督を継承した。この輔胤の時に、この馬加千葉氏は「千葉介」(ちばのすけ)と名乗り、千葉介の千葉一統とし、下総千葉氏となる。輔胤の次に家督を継承したのが千葉孝胤であり、この頃には千葉城と本佐倉城を支配し、下総千葉に勢力を確立していた。

下総千葉氏とは馬加城を拠点にしていた馬加千葉康胤の系統であり、幕府・上杉方ではなく、古河公方を支援していた側という事になる。また、この成立そのものにも大きく「享徳の乱」の、古河公方対上杉家の構図が関係しており、上総国には武田信長が入り、安房国の里見義実が古河公方陣営として上総、下総、武蔵、相模の戦闘に参加して活躍が目立つ。

上総国に関しては、その北部では馬加千葉家の家臣であった原氏や酒井氏が活躍して所領を広げ、下総千葉氏の勢力を拡大し、上総国南部には成氏の側近として入部した武田信長の一族が真里谷(千葉県木更津市)、長南(千葉県長南町)などに勢力を張り、共に古河公方を担いでいた事で住み分けが可能となり、この時期に勢力を拡大したと思われる。この上総武田氏は、後に真里谷武田氏と、長南の武田氏とが並立していたが、長南の武田氏は古河公方・足利成氏が古河城を追われて本佐倉城の千葉孝胤の元に落ちてきた頃、上杉方に寝返ったという。
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◆佐竹氏について

佐竹氏は、清和源氏流で通称「新羅三郎」の源義光が常陸介となって下向、その子の義業が久慈東郡佐竹郷を領し、義業の子となる昌義が吉田清幹(きよもと)の娘と婚姻、土着して佐竹氏を名乗ったのが期限であるという。故に、佐竹氏初代は佐竹昌義となる。以来、常陸国の那珂川以北の奥七郡を支配する古豪である。金砂山合戦では源頼朝軍と対峙し、敗北、所領の大半を失なったが、奥州合戦や承久の乱で活躍し、同じ新羅三郎に祖を遡る名門・足利家と婚姻を通じ、南北朝内乱でも佐竹氏の本宗家は足利尊氏方として南朝軍と戦い、室町幕府下では常陸国守護に任じられた。しかし、一族の庶家ながら有力者であった山入氏(やまいり/やまのいり)らは南朝支持派であった為、佐竹氏は一族内で長い長い内紛を抱えていた。

佐竹氏と山入氏との内紛は、1407年、当主の佐竹義盛が没した後、後継者が不在となり、山内上杉家から山内上杉憲定を迎えて家督を継がせた事に起因するという。

1426年の上杉禅秀の乱では、佐竹氏は第4代公方・足利持氏方となり、山入氏は禅秀方となった。禅秀の乱の後、足利持氏が禅秀与党の討伐をした折、山入氏の当主・山入与義(ともよし)は討たれたが、その後も山入氏は生き残り、佐竹氏との抗争を続けた。

享徳の乱では、古河公方・足利成氏支持を巡って、更に佐竹家は分裂してしまう。宗家の当主である佐竹義頼(後に佐竹義俊に改名)は公方支持を打ち出したが、これに反発して次男・佐竹実定が上杉支持となり挙兵し、当主の佐竹義頼の太田城(茨城県常陸太田市)を攻め、攻められた当主・佐竹義頼は佐竹家重臣の大山氏の居城である孫根城(茨城県城里町)へ逃れた。つまり、佐竹家の場合は内紛を抱えながらも宗家は公方方となったが、次男の佐竹実定、また一族の山入氏は上杉方となって、この享徳の乱を迎えた。

また、佐竹氏は内部分裂状態である為、結城合戦には佐竹義憲は春王丸と安王丸を擁していた結城氏に加勢し、実定方の佐竹興義は幕府方につくなど、佐竹家は両軍に分裂して関東史の混乱期を過ごしている。この傾向は小山家、岩松家、宇都宮家、今川家でも起こっており、足利持氏の遺児を抱えている結城氏に加勢するか、幕府に加勢するかという問題が諸家に内部分裂を起こさせる一因になっているのも確認できる。


◆里見氏、上総武田氏について

「南総里見八犬伝」でも有名な里見氏の出自は新田義貞の新田一族であり、上野国の里見郷(群馬県高崎市)の地名を苗字とした一族という。南北朝内乱期に新田義貞に従い、室町時代に入ってからは常に鎌倉公方の近臣として活躍している。或る意味では新田一族がルーツであった為、足利一門に準ずる立場であったという。

この享徳の乱の発生以前の段階で、里見氏は安房を拠点に勢力を張っており、西暦1450年頃から安房から北上して上総にも勢力圏を広げていたという。この享徳の乱の頃には、当主は里見義実であり、この里見義実は上総国の白浜城(千葉県南房総市)を拠点にしていたとされる。

関東管領の上杉憲忠ら22名が皆殺しとなった直後に、鎌倉に雪崩れ込んで山内上杉家を襲撃したのが里見義実と武田信長の軍勢であった。

武田信長は特殊である。その父は甲斐武田氏、武田信満で、これは禅秀の乱の後、1417年2月、足利持氏に討伐されている。1433年には鎌倉府の被官であった武田信長が鎌倉府から逐電(どこかに逃亡)、公方・持氏に攻められる騒動があったが、以降、持氏に重用され、その持氏の遺児である古河公方・成氏を支えている。この享徳の乱の頃、この武田信長は上総国に領地を持ったという。この上総の武田氏を上総武田氏と呼ぶという。


◆河越城、江戸城、岩付城が築かれる

武蔵国の崎西(きさい)城に逃げ込んだ長尾景仲と、古河公方・成氏の話に戻る。

1455年12月、公方・成氏軍は下総国を発ち、崎西城を目指す。道中、武蔵国の須賀(埼玉県宮代町)で岩松長純軍を破って、崎西城攻めを敢行する。成氏軍の猛攻によって崎西城は陥落、長尾景仲はここでも逃げ遂せた。この武蔵国・崎西は、武蔵七党の私市(きさい)党の拠点で、この崎西城には、小山田上杉氏の一族や、庁鼻和上杉氏の一族も長尾景仲と共に籠城していたが敗走したという。

1456年1月、公方・成氏軍は上杉軍が拠点にしている上野国へ侵攻する。関東管領となった山内上杉房顕は上野国・平井城(群馬県藤岡市)に入って陣頭指揮を執っており、越後上杉房定は上野国・白井城(群馬県渋川市)に陣を布いていた。公方軍と上杉軍は戦乱を繰り広げるが戦況は膠着状態へ。

1456年2月10日、公方・成氏が武蔵国の鷲宮神社(太田庄鷲宮大明神/埼玉県久喜市鷲宮)に願文を奉納。願文には天下泰平・武運長久に次いで、凶徒退治を掲げ、願文成就の際には足立郡、崎西郡、両郡の段銭を修造料として寄進する旨の記述もあったという。この事から、この時期の成氏軍は武蔵国足立郡も、その勢力下に置いていたと考えられる。

武蔵国の大半は上杉陣営であったが、概ね荒川(現在の元荒川)より東側は公方・成氏軍が勢力下に抑えており、上杉方では、この頃に、成氏軍の侵攻を食い止める為に、河越城(埼玉県川越市)と江戸城(東京都千代田区)、それと岩付城(旧岩槻市)を築いたという。河越城は扇谷上杉家の当主であった上杉持朝が築城し、同家の家宰であった太田道真、その子の太田道灌が江戸城と岩付城を築城したと伝わる。当時としては、かなり堅固な城が築城されたという。

このうち、岩付城については相応に有力そうな異説もあるらしく、実は古河公方・成氏方に属していた成田氏とする見方があるという。太田氏と岩付の結び付きが強い反面、この岩付城については、古河公方勢力の居城としても登場しているという。岩付城の場合は1484年頃までに古河公方勢力の最前線基地として築城され、やはり古河公方に奉公していた渋江氏が居城していた頃から、太田道真・道灌の築城に疑義を掲げているという。岩付城趾は元荒川の僅かに西側ですが、古河公方勢力が入っていた事を考慮すると成田氏による築城説の方が有力に?!

公方・成氏は、古河城を自らの居城とし、その背後には簗田氏(関宿城)、野田氏(栗橋城)を置き、崎西城を最前線拠点とした。これに対して、上杉軍は武蔵国の五十子(いかっこ/埼玉県本庄市)に陣を布いて、この五十子陣を最前線基地として、長らく使用したという。この享徳の乱は、非常に長期間にわたって続き、また、両陣営との間では散発的な戦いが続くも、戦況は膠着状態となっていた為、関東管領にして山内上杉家の家督でもある山内上杉房顕は、この五十子陣で実に七年もの歳月を在陣したまま過ごす羽目になったという。(第1代鎌倉公方・足利基氏も新田氏の反乱に備えて入間川の陣に長く在陣していたが、このような場合の陣は、陣とはいっても事実上は御所のようなものであったと考えるられるのだそうな。)

また、この膠着状態の間に、河越城や江戸城、或いは岩付城が築城された。


◆太田道灌登場

1457年頃、江戸城が完成する。太田道灌は1455年頃から江戸城を修築しながら江戸城を居城とし、1457年に江戸城を完成させたものという。

この太田氏は、清和源氏流とされるが元々は丹波国の出身で、上杉氏の被官であったという。丹波国太田郷(京都府亀岡市)から「太田」という名を名乗ったという。近隣の丹波国上杉荘の地頭であった上杉氏に従って関東へ下向してきたと考えられているが、不明な点も多いという。その太田氏が、太田道灌の太田氏なのか、分からないのだ。太田道灌の先祖で実在が確認されているのは、やはり、扇谷上杉家の被官の太田氏であり、西暦にすると1347年頃という。祖父の太田資光が扇谷上杉家の家宰となり、父の道真(資清)、道灌(資長)と続く。太田道灌については持資から資長に名前を変えた後、更に出家し法号の道灌したという説もある一方、持資は誤まりで最初から資長であったという見解もあるという。少なくとも、資長としておくと間違いではないらしい。

1457年、室町幕府では享徳の乱が長引いている事を気に掛け、第8代将軍・足利義将の異母兄である足利政知を、鎌倉公方に任命する。

1458年6月に足利政知は京都を発って東へ向かったが鎌倉には入らず、8月に伊豆国の堀越(ほりごえ/現伊豆の国市、旧韮山町)の居館に入った。つまり、この足利政知は鎌倉入りをせず、伊豆国・堀越に公方として拠点を構えた。既に鎌倉公方が「古河公方」と名乗っている通りであり、それに対応して、この足利政知は「堀越公方」と呼ばれた。

この頃までに「鎌倉公方」の意味合いは、「関東主君」の意と同語になっており、この足利政知は石川文書の資料では「関東主君」と呼ばれていたという。また、時間が前後しますが、足利成氏を公方に選出する際にも「関東の主」という言葉が「鎌倉大草紙」で使用されている通り、「鎌倉公方」とは意味合いとしては武家の棟梁たる鎌倉殿の幻影を兼ねており、それは「関東の主」を意味するようになっていた。

堀越公方が伊豆国に拠点を置いて後、扇谷上杉家と堀越公方との間で関係が悪化、その為、扇谷上杉家では家宰の太田道真が1461年、息子の道灌に家宰、家督を譲ったという。
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◆享徳の乱〜古河公方誕生

1455年1月6日、成氏方の一色直清軍、武田信長軍と、扇谷上杉家の当主・上杉持朝軍とが、相模国島河原(神奈川県平塚市)で激突。上杉持朝軍には太田道真、長尾景仲も同道していたが、成氏方の軍勢がこれを制し、上杉軍は伊豆国三島へ逃げる。前家宰の長尾景仲は息子を討たれた為に再び家宰となるが、河越方面へと逃げたという。

1455年1月16日、室町幕府は信濃国守護・小笠原光康、駿河国守護・今川範忠に出陣命令を出した。この時の幕府管領は細川勝元であり、前段で登場した畠山持国に代わって細川勝元が管領職に就任していた。また、この前述のとおり、管領就任以前から上杉派であったから、この出陣命令は、勿論、鎌倉公方討伐を意味している。

扇谷上杉家の当主は上杉顕房であったが上野国で南下する為の軍勢を整えていた。また、庁鼻和上杉氏は上杉家の分家で、庁鼻和(こばなわ/埼玉県深谷市)を拠点にしていたが、庁鼻和上杉家の上杉憲信も上野国平井に出陣し、北上してくる長尾景仲と合流することを予定していたという。更に、この上杉軍には、上州一揆、武州一揆が加わり、膨れ上がる。

一方の公方・成氏は、常陸国の佐竹氏や、その佐竹氏を支える重臣の大山氏、武蔵国の豊島氏に軍事催促をし、鎌倉公方軍と上杉軍との対立は関東を二分するかのような状況を作り出したという。基本的には上野国と武蔵国、相模国が上杉方であるが、下野国、常陸国、上総国、下総国に成氏方が多く分布している。

扇谷上杉家当主・上杉顕房が率いる上杉軍が南下して武蔵国に入ると、鎌倉公方・足利成氏は村岡から後退して府中に陣を構えた。

1445年1月21日、武蔵国・分倍河原(東京都国立市、府中市)にて、上杉軍と成氏軍が激突。決着はつかず、日没と同時によって両軍が引き上げる。

翌22日、再び分倍河原にて合戦となるが、これも成氏軍が制する。この二日目の戦いは雌雄を分けるものであったらしく、庁鼻和上杉憲信が討死。深手を負ったという上杉軍総大将の扇谷上杉顕房も武蔵国夜瀬にて自害、犬懸上杉憲秋も武蔵国池亀にて自害に追い込まれている。更には、山内上杉家の重臣・大石憲儀(のりよし)が戦死、同族の大石重仲もこの日の合戦で負った傷が原因で三日後に死んでおり、上杉軍は成氏軍に大惨敗を喫した事が分かる。長尾景仲は常陸国の国人の小栗氏の小栗城(茨城県筑西市)に落ち延びている。この小栗氏は大掾氏の庶流である。

また、分倍河原での激闘で成氏が勝利した事が影響してか、上州一揆衆は成氏方に鞍替えする。

1455年2月、公方・足利成氏は武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に陣を張り、その後は、同年3月3日以前に下総国・古河(茨城県古河市)に入った。以後、この古河を足利成氏が拠点とした為、役職名は「鎌倉公方」であるが俗称・自称として「古河公方」と呼ばれるようになる。この後の展開で朝敵となり、幕府の役職としての鎌倉公方職も解任されるので「古河公方」と名乗って、関東に於ける武家の棟梁を自称するしかなくなる。

古河は南北朝時代から戦略拠点として整備されていた上に、公方の御料所にも接しており、且つ、成氏方として江の島合戦で戦功を挙げた小山持政の小山氏を筆頭に、下野国で小田氏、那須氏らも成氏方であった。また、成氏方の有力家臣に簗田氏、野田氏、一色氏が挙げられるが、伝統的豪族層でもある結城氏、里見氏、千葉氏らの支援を受けて、この頃に関宿城(千葉県野田市)、栗橋城(茨城県五霞町)、幸手城(埼玉県幸手市)と下総地方を固めていたという。(現在でも古河市は茨城県に属しなら群馬、栃木、埼玉と接する。このエリアは常陸国ではなく下総国が現在の茨城県になったものである事が分かる。同様に、下総国の関宿城は現在の千葉県野田市で、現在の地図でも千葉県野田市は北側に槍のように突き出している。)

成氏方は、小山氏、結城氏、佐竹氏(家督争い中)、小田氏、里見氏らの旧豪族層がついていた事からすると、関東武士の旧勢力を糾合していたのが成氏軍であり、対する上杉軍・上杉氏とは足利家の被官としてスタートし、室町幕府登場後に幕府と連動して台頭した当時の新興の勢力軍である事に気付かされる。関東武者、坂東武者、その武家の棟梁は誰であるのかを決める争いでもある。なので、以降は役職名としての「鎌倉公方」ではなく、その本義という意味での「関東公方」という便宜上の名称で語ることになる。この後、古河公方以外にも幕府が定めた名ばかりの公方など、やたらと「足利御一家の正統に当たる関東武家のの主です」と主張せんが為の「公方」が乱立してしまうのだ。


◆享徳の乱〜古河公方の快進撃

1455年3月19日、古河公方・足利成氏は小田持家、小田持政、簗田持助に兵を与えて長尾景仲が身を寄せている常陸国の小栗城攻めを命じる。この小栗城攻めには下総国の結城氏、下野国の下那須氏も従軍し、成氏自身も出陣して結城城まで進軍したが、小栗城は陥落せず。

1455年3月22日、成氏方が上野国の赤堀城と那波城を攻略する。

1455年3月28日、後花園天皇より幕府に足利成氏追討の為の御旗が下賜される。これによって、古河公方・足利成氏は朝敵になった。父・足利持氏に続き、親子二代での朝敵指名でもある。室町幕府は、昨年末に成氏に誅殺された山内上杉憲忠の弟、憲実の子である山内上杉房顕(房秋と名乗る場合もあり)を関東へ下向させた。朝敵とされた足利成氏は独自に軍旗を作成し、自陣営の勢力に下賜して対抗したという。

1455年4月、成氏軍の攻勢を継続しており、長尾景仲が籠城している常陸国の小栗城を陥落させる。これによって長尾景仲は下野国に逃亡し、天命(てんみょう/栃木県佐野市天明)、只木山(足利市、佐野市)へ逃れた。

1455年4月15日、駿河国守護の今川範忠(のりただ)が幕府の命令によって追討軍を出陣させており、同年正月の島河原の戦いで敗れて三島に残っていた上杉軍と合流、この今川軍は成氏方の軍勢を蹴散らしながら、この15日頃までに箱根まで進軍。この今川軍に備えて、成氏方では木戸氏、印東氏、里見氏が鎌倉の守備に着く。

1445年5月11日、上野国の小此木で成氏方の岩松持国が上杉軍を破る。この時の岩松持国軍には鶴岡八幡の雪下殿・尊敒(そんじょう)もしくは定尊(じょうそん)も参加していたという。この雪下殿が、結城合戦の戦後処理を生き延びた4歳児だった持氏の遺児、乙若丸の正体とみられるという。勿論、これは持氏の子なのだから足利成氏の弟に該当する。

また、この頃に、万寿王丸を庇護していた信濃国の大井氏も挙兵、碓氷峠を越えて上野国に入り、上杉攻めを展開していたという。

1455年5月下旬、足利成氏が祇園城(栃木県小山市)に入る。

1455年6月11日、祇園城から足利成氏が出陣し、只木山に籠もる長尾景仲を攻めるが、長尾景仲を討ち取る事が出来ず、長尾景仲は武蔵国・崎西(きさい/埼玉県加須市・旧騎西町)の崎西城へ逃げる。

1455年6月16日、今川軍が道中で成氏方の軍勢を蹴散らしながら鎌倉入りを果たす。成氏方の木戸、印東、里見氏は鎌倉を放棄して武蔵国へ逃れる。

ここまで連戦戦勝であった成氏軍であったが、この頃から旗色が変わる。上野国にて、新たに当主と関東管領職に就任した上杉房顕と、越後国守護の上杉房定が合流、この上杉軍が、長尾景仲救済の為に南下をはじめ、上野国の三宮原(さんのみやはら/群馬県吉岡町)で成氏方の軍勢を破り、更に南下。成氏軍は上野国の高井城(比定地不明ながら本庄市の北なので伊勢崎市か高崎市か藤岡市)に撤退するが、この高井城も上杉軍に落とされる。


◆享徳の乱〜錦の御旗と牙旗

1455年7月、上杉軍は崎西を目指して南東へ進み、上野国・渕名穂積原にて、成氏方の有力者である岩松持国軍と激突。公方・足利成氏は、下那須氏、結城氏、小山氏、佐野氏らに五千の軍勢を預けて岩松持国軍への援軍を派遣するが、ここでも上杉軍が勝利する。上杉軍は東進して下野国の足利に入る。

戦況に変化が起こる事を「旗色が変わる」とか「旗色が悪くなる」といった具合に表現する事がありますが、渕名穂積原の戦いを契機にして、快進撃を続けてきた成氏方に「旗」を巡る戦況の変化があったという。将軍から下される旗を牙旗(がき)と呼ぶという。この渕名穂積原の戦いに於いて、上杉軍には、その牙旗と、天皇から下された錦の御旗、いわゆる錦旗があった。先代の公方・足利持氏の時代にも朝敵となり、将軍家と敵対してきたのが先代公方・持氏の旧臣たちであり、その後の結城合戦でも結城氏や小山氏は幕府を敵に回しながら戦ってきたが、どれもこれも負けた戦であり、この渕名穂積原の戦いでも敗れた。

また、成氏方は独自の旗を掲げて戦っていたとされる。それがどのような旗なのか定かではないのですが、足利尊氏の時代に尊氏は足利家の家紋を旗にしていたというから、名前に【氏】の文字を踏襲していた関東公方の足利家でも、その家紋を旗印にしていたように推測できるのかも知れませんが、兎に角、関東諸将からすると、錦旗や牙旗のもたらせた精神的動揺は大きかったであろうと予測できる。

幕府から守護職に任じられていた宇都宮家や千葉家では、この頃から上杉方か成氏方で分裂が起こり始める。刃旗、錦旗によって動揺が走ったケースと考えられそう。国人は幕府から守護職を与えられていないが、守護は幕府からその職を任じられている立場である。また、室町幕府の場合は京都扶持衆として、幕府の要請によって鎌倉府を監視する役目を負っていたという経緯がある。

宇都宮等綱は上杉方へ寝返って宇都宮城に籠城、周辺の成氏方の勢力から攻撃を受ける。公方・成氏は下那須の那須資持に宇都宮討伐を命じている。その等綱の子の宇都宮明綱と重臣・芳賀成高は成氏方に降参、成氏方となる。宇都宮家からは芳賀氏と同じように重臣であった益子氏も成氏支持に回り、当主の宇都宮等綱は孤立しながらの籠城戦を1455年いっぱい続ける。翌1456年4月頃までには宇都宮等綱は降伏、出家。出家後に上洛して幕府の支持を取り付け、下野国に戻るが宇都宮城に入ることは出来ず、等綱は北へ逃れて白河結城氏を頼ったという。等綱は宇都宮へ戻ることなく、没したという。

下総国守護の千葉家でも、千葉一族の馬加康胤(まくわり・やすたね)と、千葉家の重臣・原胤房が成氏支持派として、千葉氏の本宗家たる千葉胤直、千葉胤宣親子と対立し、内紛に発展、最終的には宗家の千葉胤直、千葉胤宣、胤宣の弟の賢胤が自害に追い込まれるという本格的な御家騒動を惹き起こす。

この千葉氏の場合、当主の千葉胤直は元々は第4代鎌倉公方の足利持氏に仕えていたが、持氏が上杉憲実や幕府と争う段階になって上杉憲実に寝返った、あの千葉胤直である。その後も幕府の命令に従って、鎌倉の永安寺の持氏を攻めて自害に到らせたという経緯から、この享徳の乱でも上杉方につこうとし、この内訌を起こした。この享徳の乱に巻き込まれる形で千葉氏の当主が討たれる事態に及んでいる。

千葉家の内訌は、当主にして下総国守護の千葉胤直が上杉方につくことを表明したところ、成氏に支援すべきという不満を呼び起こして始まる。下総国の馬加(まくわり/千葉市花見川区)を拠点にしていた千葉一族でもある馬加康胤と、千葉家重臣の原胤房が挙兵、千葉胤直の居城にして千葉氏の本城である千葉城を攻めた。千葉胤直は子の胤宣は千葉城から逃げて、多古城や島城(共に千葉県多古町)を拠点にして抵抗を続けた。1455年8月、多古城が陥落し、この際、千葉胤宣が自害。また、原胤房と敵対関係にあった千葉家重臣の円城氏も自害に追い込まれた。千葉胤直は、最終的には妙光寺(千葉県多古町)で自害に追い込まれた。現役の守護職、当主が家臣に討たれた一大事であった。

胤直の弟にあたる千葉賢胤は兄を支える戦いをしていたが、上総国武射(むさ)郡の小堤(おんづつみ)で自害に追い込まれたが、賢胤の子の実胤(さねたね)、自胤(これたね)は市川城(千葉県市川市)を拠点にして、その後も幕府軍の援軍を受けながら、成氏軍との戦いを継続してゆく。

関東諸家はどこもかしこも内紛を抱えていたが、宇都宮家と千葉家のケースは、錦旗や牙旗によって精神的動揺が広がった事で、古河公方支配体制の一角に亀裂を生じさせた出来事という。
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◆持氏の遺児・万寿王丸

1441年12月、すべて片付いたと思っていたところ、足利持氏の遺児・万寿王丸の名義で御書が出回った。万寿王丸は信濃国の国人である大井持光に庇護されていたといい、万寿王丸を奉じた大井持光軍が上野国へ侵攻するという噂が立ち、山内上杉氏では家宰・長尾景仲を上野国・板鼻(群馬県安中市)まで進軍させたという。

この万寿丸王は、鎌倉・永安寺にて足利持氏が自害した際、瑞泉寺の僧侶である昌在に保護され、その後、信濃国の国人である大井持光の元に庇護されていたという。結城合戦にも挙兵していたが、挙兵の翌月に結城城が落城したので、捕らわれなかったものという。

持氏の子には9人の男子と1名の女子があり、永享の乱で自害に追い込まれた義久、結城合戦の後に美濃国・垂井宿で誅殺された春王丸、安王丸が確認でき、また、その際に4歳と幼かったので処置を幕府に問い合わせていたところで「嘉吉の変」が発生、命拾いをした乙若丸よりは、この万寿王丸の方が年長であった事になるという。乙若丸か万寿王丸のいずれかが、後に第5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)となり、拠点を下総国の古河に移し、以降は古河公方と呼ばれるようになる。

「系図要覧」では、春王丸、安王丸、成氏の母は「簗田長門守直助娘」と記されているといい、「古河公方系図」では春王丸の母について「簗田河内守娘」と記してあるという。


◆不孝之子・上杉憲忠

足利将軍家では、1441年の嘉吉の変の後、千也茶丸が家督を相続する事となり、翌1442年11月、征夷大将軍の宣下を受けた。室町幕府第7代将軍の足利義勝の誕生した。

1443年7月21日、将軍・義勝が僅か10歳で没する。「建内記」には「足利持氏討伐の報いもあるのか」と、その将軍家に起こる早世を訝った記述があるという。

1444年、この頃、永享の乱で主君・持氏を死に追いやった山内上杉憲実は隠居したがっていたが、幕府が強引に憲実を鎌倉に慰留させている状態だったので、憲実は鎌倉を去る事ができない状態に置かれていたという。

1444年秋、憲実は所領等の譲り状を書いたという。重要な所領は次男の房顕に譲ることとし、長男の龍忠(法名)には生きている間は丹波国漢部(あやべ)郷を知行させるが、死去後は次男・房顕の所領とするようにしたため、もし、出家している長男の龍忠が還俗するような事があったら、それは猊垤之子である瓩汎辰鵬めて記していたという。

山内上杉憲実は、既に関東管領の職掌と山内上杉家の家督を、越後上杉家から呼び寄せた実弟でもある越後上杉清方に譲ってしまっていた。残る所領は僅かであったが、その所領は京都で幕府に奉公している次男・房顕に譲り、長男の龍忠を含めて房顕以外の男子4人全員を出家させてしまい、その血脈を俗世から完全に引き上げてしまう心積もりであった。

1445年2月以前、上杉清方が死んでしまう。山内上杉家では家督が亡くなってしまったので、長尾景仲が出家していた龍忠を還俗させ、山内上杉家の家督に据えた。龍忠は還俗して、山内上杉憲忠と名乗ることになった。

事前に龍忠に対して、上杉憲実は還俗するなどは「不孝之子」と戒めていたが、実際、そうなってしまったのだ。

更に、憲忠は関東管領職も引き受けることになった。すると、憲実は、憲忠を義絶(ぎぜつ/縁を切る事、勘当)した。


◆足利成氏が鎌倉公方に

鎌倉府の長たる鎌倉公方は、永享の乱より途絶え、空位のままであった。幕府は関東での影響力を保つ為に第8代将軍足利義政の弟(名前は不明)を鎌倉公方に任命して下向させていたが、この義政弟は実際には鎌倉入りさえ果たさぬまま没し、実質的な鎌倉公方は空位のまま、8年間が経過していた。

関東諸将らの要望によって、持氏の遺児である万寿王丸が鎌倉公方に就任する事となった。万寿王丸は越後国守護の越後上杉房定、山内上杉家の長尾景仲らが推していたという。幕府内では、当然、持氏の遺児を鎌倉公方にする事には慎重であったと思われるが、室町幕府内も嘉吉の乱以降は有力者同士が対立する関係になっており、畠山氏が万寿王丸の鎌倉公方就任を推したと見られるという。

1448年8月28日、足利成氏が鎌倉入りを果たし、名実共に鎌倉公方となる。

足利成氏が鎌倉入りを果たすと、持氏の旧臣であった下総国の簗田持助、結城成朝、上野国の岩松持国、武蔵国の一色伊予守らが鎌倉に集まり出すが、持氏の旧臣とは即ち上杉憲実らと戦った国人衆であり、すなわち所領を没収されている等、反上杉色であったから、当然、成氏派は反上杉派であり、公方・成氏と関東管領・憲忠体制は発足して間もなく公方派と上杉派の対立が鮮明になったという。


◆足利成氏VS上杉連合軍

1450年4月20日、山内上杉家の家宰である長尾景仲と、扇谷上杉家の家宰である太田道真(太田道灌の父)が結託して、鎌倉の公方・足利成氏を襲撃するという事態が発生。公方・成氏が江の島に脱出し、腰越に向かうと、長尾・太田連合軍が追撃。またしても、関東管領家が公方家と軍事衝突する事態となる。腰越では、駆け付けた成氏方として小山持政の軍勢が、長尾・太田連合軍と激突。

更に、由比ヶ浜には成氏方として千葉胤将(下総国守護)、常陸国の小田持家、下野国の宇都宮等綱(ひとつな)が駆け付けており、この由比ヶ浜にて、長尾・太田連合軍は成氏軍と激突。この由比ヶ浜の戦いは数時間にも及ぶ激しい闘いとなったが、勝利したのは成氏軍であり、長尾・太田連合軍は扇谷上杉氏の居館まで撤退したという。

この軍事衝突により、両上杉氏と、公方・成氏との間で和睦が模索されたが、実質的な勝者になった公方・成氏は和睦条件として、両家の家宰にして、今回の実行役となった長尾景仲と太田道真両名の切腹を条件に提示したという。公方・成氏の要求は、まともな要求であった。何故なら、両名を処罰する事で手打ちとし、関東管領の上杉憲忠、山内上杉家、扇谷上杉家については不問とするという譲歩の上での、要求であったのだ。しかし、山内上杉家にしても扇谷上杉家にしても政治的にも軍事的にも柱になっている家宰を失うという条件は、簡単には飲めず、紛糾した。

公方・成氏は、幕府の管領職にあった畠山持国に書状を送り、判断を仰いだ。この頃、幕府内では細川勝元が権勢をふるい始めており、その細川勝元が関東管領寄りであった事から、その細川勝元と対立関係にあった畠山持国は、反上杉に味方する可能性があった。しかし、畠山持国の裁定は、緊張状態を解く事に主眼が置かれており、両上杉氏に対しての処罰には言及されていなかった。

一つ、由比ヶ浜の戦いで戦功のあった者には幕府から感状を出す。
一つ、伊豆に蟄居中の上杉憲実に対して政治へ復帰するよう御教書を出す。
一つ、関東諸家や武州一揆衆、上州一揆衆に対しては鎌倉公方への忠節に励むよう御教書を出す。

それだけであった。

関東武士には「鎌倉殿」という源頼朝に始まる「武家の棟梁」を統治者とみる精神風土が形成されていた。また、それは足利尊氏以降になっても「足利御一家」を棟梁とみる精神風土があったので、その鎌倉殿幻影は継続していた。これが第4代公方・足利持氏の時代に、上杉氏と足利氏との間に大きな亀裂が入ってしまった為、収拾は難しく、成氏支持派の国人衆による上杉領への浸出も起こるなど泥沼化してゆく。


◆享徳の乱、勃発

江の島合戦から4年後、ついに大事件が起こる。

1454年12月27日、この日、関東管領・上杉憲忠は山内上杉家の家宰・長尾実景ら総勢22名は、公方・成氏に呼び出され、鎌倉公方館を訪れた。しかし、そこで一行を待ち受けていたのは、成氏を担ぐ結城成朝、武田信長、里見義実、印東式部少輔らであった。鎌倉公方館西御門前にて、関東管領・上杉憲忠以下22名全員が皆殺しに遭うという大事件が発生。

公方・足利成氏の意図は判然としない。幕府に対して、公方・成氏は、

「憲忠が謀反を企てていたので誅殺した。公方からすれば関東管領は家臣であり、謀反を企てていた家臣を誅殺したからといって、自分が責められる謂われはない」

という主旨の強弁をしたという。

真偽が分からない。両上杉と鎌倉公方は、小康状態を保ちながらも散発的に軍事衝突を繰り返しており、上杉禅秀の例、上杉憲実の例を考慮すれば、既に、公方と関東管領の間柄は、絶望的に亀裂しており、上杉憲忠による謀反の計画、あるいは、その風聞が実在していたとしても不思議はない。他方、これが予め、公方・成氏による計略であったと推測することもできる。両上杉軍が反乱軍を立ち上げる前に、先手を打って公方・成氏が軍隊を動かしている。

相模国の山内は、山内上杉氏の本拠であるが、この相模国・山内に、成氏方の岩松持国軍が攻め寄せ、山内上杉氏は敗走。当主、家宰を討った後に、その本拠を襲撃するという一連は、予め計画されていた電撃作戦であった可能性もある。

この公方・成氏による関東管領・憲忠の誅殺事件を契機として「享徳の乱」の火蓋が切って落とされる。
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◆結城合戦

永享の乱によって鎌倉公方が滅んでしまったので、空位となる。

1440年3月3日、常陸国・木所城(茨城県桜川市)にて、上野国の国人である岩松持国が足利持氏の遺児である安王丸と春王丸を奉じて挙兵。安王丸らは下野国の日光山に逃れていたという。

岩松持国は西進し、同月13日に小栗城(茨城県筑西市)、同月21日には下総国の結城氏朝の居城である結城城に入城した。結城氏は「永享の乱」の後、幕府に恭順していたが安王丸ら持氏の遺児を迎え入れた事で翻意し、関東地方の諸将に決起を呼び掛けた。

この頃、山内上杉憲実は関東管領を辞しており、この時点では憲実の弟の山内上杉清方が関東管領にあったと推定されるという。関東管領によって討伐軍の動員をかけると共に、上杉清方自らも鎌倉を発つ。

1440年3月15日、討伐軍として山内上杉家の家宰(有力家臣の意で、後の宿老の意)にして武蔵国守護代の長尾景仲が出陣。

1440年3月21日、結城城に北関東の中小武士が参集し、結城氏朝を中心とする結城合戦が起こる。この鎌倉公方再興を促がす決起は、持氏の死の約一年後に発生している。

結城氏朝の呼び掛けに、下野国からは宇都宮伊予守、小山広朝、那須資重、常陸国からは佐竹義憲、上野国からは桃井憲義、信濃国からは大井持光、駿河国からは今川氏広、他に木戸氏、里見氏、一色氏、寺田氏、内田氏、小笠原氏など、2万の軍勢が結城氏朝の元に参陣したという。

1440年3月27日、結城城にて蜂起があったという事態を受けて、幕府は籠居状態にある山内上杉憲実に対しての政界復帰を命じている。命令に背けば、これまでの忠節は無に帰ると強く、憲実を促がしている。

1440年3月28日、征東将軍・安王丸の名義で、上杉憲実らの誅伐を呼び掛けて軍事催促状が国人衆らに発せられる。

その後、南陸奥の国人・石川持光は挙兵し、「永享の乱」で幕府に加担していた篠川御所を襲撃し、篠川御所の足利満直を殺害する。

同年4月6日、伊豆国を発った山内上杉憲実が鎌倉山内に到着し、幕府・上杉方による結城討伐軍が編成される。

幕府は、斯波持種率いる討伐隊を派遣すると共に、犬懸上杉教朝・持房兄弟も出陣。更に上野国の国人・岩松家純にも出陣を命じた。(この岩松家純は、安王丸らを奉じて蜂起した岩松持国の一族でもある。)

幕府・上杉連合軍には、宇都宮等綱(ともつな)、小山持政、佐竹興義、岩松家純、今川範忠、小笠原政康、武田信重、朝倉教景、土岐刑部小輔、小田讃岐守、千葉満胤のほか、武蔵七党、武蔵一揆衆が参陣し、総勢は十万余に及んだという。

幕府・上杉連合軍は同年7月末には結城城を包囲。結城城は必ずしも堅固な城ではなかったが、城内には足利持氏の遺児・安王丸らが匿われてているという事から、関東諸将の士気は上がらず、躊躇する姿が散見されたという。

同年4月17日、結城氏朝、岩松持国、桃井憲義らが、上杉方の小山持政の居城である祇園城に先制攻撃を仕掛けたのを皮切りに、各地で本格的な戦乱が展開されたという。

同年7月29日、幕府・上杉連合軍の総大将・上杉清方が結城に着陣。以降、陣頭指揮を執ったが、結城軍は籠城作戦で対抗し、一進一退の攻防となり、結城合戦は長期戦の様相を呈したという。そのまま、越年している。

戦況が膠着しているとして、将軍・足利義政から上杉清方には、早期決着の催促を受ける。

1441年4月16日、幕府・上杉軍は総攻撃を仕掛け、結城城陥落。

結城城陥落によって、結城氏朝は自刃、その子・持朝は戦死。旧持氏の近臣であった木戸氏をはじめ、幕府・上杉軍からなる討伐軍は、実に150にも及ぶ首級を上げたという。

持氏の遺児である安王丸、春王丸は女装して城内からの脱出を試みたが見破られて、捕縛される。

持氏の遺児とされる安王丸、春王丸、それと乙若丸は京都へ護送される事になった。安王丸は13〜12歳で、春王丸は11〜10歳で、乙若丸が4歳であったとされる。京都へ到る途中の美濃国・垂井の金蓮寺(こんれんじ/岐阜県垂井)にて安王丸と春王丸は誅殺された。まだ幼い乙若丸の処遇を巡って、誅殺すべきか否か室町幕府の意向を質していた折、幕府内で大事件「嘉吉の変」が発生する。

1441年5月16日、安王丸、春王丸が美濃国・垂井で誅殺される。

1441年6月24日、将軍・足利義教は、この日、結城合戦の勝利を祝うという名目で幕府内の有力者であり、播磨国守護・赤松満祐の屋敷に招かれて酒宴の席にあった。しかし、その酒宴の席で、赤松満祐に誅殺されたのだ。いわば「将軍殺し」という前代未聞の大事件が室町幕府で起こり、京都は大混乱に陥った。

嘉吉の変、将軍が赤松満祐に殺されたという大事件で京都は大混乱に陥り、その大混乱の御蔭で、乙若丸の処置はうやむやになる。従来は、このときの混乱で命拾いした乙若丸が後の足利成氏であると考えられていたが、近年、これは否定されているらしく、この乙若丸の正体は「神奈川県史」などでも成氏の弟の尊敒(そんじょう)であり、出家して「雪の下殿」と呼ばれていた七番目の子であるという。


◆嘉吉の乱

【乱】と【変】の用法について。原則的には「政変」を意味するものが【変】であり、軍隊が動くようなケースでは【乱】が用いられる。この将軍・足利義教の謀殺事件を暗殺事件として切り抜けば「嘉吉の変」という表現でも充分なのですが、当然、その後、軍隊が動いているので一連を称するなら「嘉吉の乱」の方が適切なように思えますかね…。

拙ブログ:【乱】と【変】について〜2019-1-19

さて、何故、将軍誅殺が起こったのかという問題がある。別に赤松満祐が乱心を起こして、将軍殺しをした訳ではない。

ここで誅殺された室町幕府第6代将軍・足利義教は、第5代の義量が早世してしまった為に、くじ引きで誕生した将軍であり、元々は出家していた僧侶であったという伏線があった。また、この第6代将軍職を巡っては、第4代鎌倉公方の足利持氏が将軍職に色気をみせたが、くじ引きから排除され、京都の足利家中からくじ引きをさせ、将軍となった人物でもある。

将軍となった義教の専制っぷりは凄まじく、当時の室町幕府は三管四職(さんかんししき)という合議制であったが、義教は各家の家督問題に介入し、勝手に家督を入れ替えたりしていた。また、これは地方の守護職や、国人衆に対しても同じであり、気に入らなければ守護職から外したり、所領を没収する等の極めて専制的に振る舞っていた将軍なのだ。比叡山に呪詛されていた例にも触れた通りだし、鎌倉公方に対しての謀議や謀略の痕跡も非常に多い人物で、「万人恐怖」と言われるようなワンマンっぷりの将軍だったのだ。

三管は細川家、斯波家、畠山家、四職として赤松家、一色家、山名家、京極家となる。これらの成立経緯は、室町幕府発足以前の幕府創建に貢献した有力諸家の体制であった事になる。赤松家の場合は足利家からすれば一門ではなく外様であるが、後醍醐天皇の時代から活躍が目立つ名門であり、四職家の赤松家の赤松満祐が将軍を誅殺した事になる。

伏線も様々にあり、結城合戦とも連動している。

中々、結城合戦が膠着している事に業を煮やした将軍・義教は、畠山持国に関東遠征を持ち掛けた。しかし、畠山持国は色よい返事をしなかった。畠山持国に不満を持つ家臣らから、将軍・義教らに持国罷免を求める声が上がったので、将軍・義教は畠山家の家督から外し、その弟の畠山持永を新たな家督に挿げ替えた。畠山持国は河内国へと落ちて行ったという一連がある。畠山家が管領家である事を考慮すると、この家督交代劇などは、まさしく将軍・義教の専制ぶりを表している。

将軍・義教は近臣の赤松貞村を重用する一方で、赤松家に対しては所領する播磨国と美作国と領地没収の噂が流れ、実際に赤松満祐の弟・赤松義雅の所領が没収されていた。赤松満祐は機先を制しようとして、この将軍誅殺を敢行したと思われるのだという。

結城合戦勝利後、京都では有力諸氏が競い合うようにして将軍・義教らを招いて祝宴をしていたという。赤松氏の場合は、赤松満祐の子・赤松教康の名で祝宴を開催したものという。

1441年6月24日、赤松邸で開催されたその宴会の席には、管領家の細川持之、斯波義廉らも同席していたという。赤松満祐と教康の赤松親子が具体的にどのように誅殺したのかは不明ながら、細川持之と斯波義廉は現場にいて逃走に成功したものというから、仮に細川持之や斯波義廉らが殺害されていたら室町幕府は即時に完全崩壊しかねない大事件であったのが分かる。また、この足利義教の誅殺時、この宴会に出席していた山名熙貴、京極高数(たかかず)、大内持世(もちよ)らは、赤松満祐によって、その場で殺害されたという。

逃げ遂せた者と、そうではない者が居た事ことからすると、毒殺ではなく、刀などを使用しての誅殺であったような気もしますね。想像すると、将軍殺しの現場は阿鼻叫喚の空間であったのかもね。

世紀の大事変を起こした赤松満祐は、その後、自邸に火を放つと、一族を率いて領国の播磨国へと引き揚げていったという。京都は大混乱に陥り、実際に室町幕府は、この事態を受けて、赤松追討軍の派遣に手こづったという。つまり、赤松一族は将軍を誅殺後、悠然と引き揚げていったのだ。

比叡山による呪詛や、鶴岡八幡宮で持氏に拠って血書願文で呪詛された足利義教には、宴席で誅殺されるという悲惨な最期が待っていたという事か。

1441年6月25日、管領・細川持之が諸氏を招集して善後策を話し合う。

後継の将軍は義教の嫡子の千也茶丸(足利義勝)に決定したが、千也茶丸(ちやちゃまる)は8歳であった為、政務は細川持之が代行する事が決まる。

管領・細川持之は、赤松討伐軍を編成するにあたり、仮に播磨へ軍勢を動かすと、河内国に隠然たる勢力圏を形成している畠山持国の存在が脅威となるので、畠山持国の赦免を検討する。足利義教が各方面で処罰や追放をやっていた事を悉く、赦免するという方針を執った。畠山持氏は最終的には家督に復帰している。

7月に入り、ようやく赤松討伐軍が出陣する。大手軍は細川持常、赤松定村、武田国信、搦め手は山名宗全が務めた。

1441年9月10日、山名宗全の活躍によって赤松満祐は自害に追い込まれた。子の教康は後に伊勢で誅殺されたという。

これによって、赤松氏の所領は播磨国を山名宗全に、備前国と美作国も山名一族の所領となった。ここで登場した山名宗全が、後の「応仁の乱」に大きく関与する一大勢力となる。

また、実質的な将軍暗殺事件であった「嘉吉の乱」を契機にして、室町幕府の威光は著しく低下したともいう。
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