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カテゴリ:関東史シリーズ > 太平記の世界

◆鎌倉幕府の斜陽

蒙古襲来、二度の元寇によって鎌倉幕府は大きな打撃を受けた。元寇は西暦1274年の「文永の役」と西暦1281年の「弘安の役」で、この二度の元寇に対応したのは第8代執権・北条時宗であり、この北条時宗は元服後、「相模太郎」と称されたという。

この北条時宗が執権職として権勢をふるった時代、鎌倉幕府は得宗専制政治の礎をつくった。そして次代となる第9代執権・北条貞時の代で得宗専制が完成したという。この【得宗】(とくそう)とは北条家の嫡流を指しており、幕府の役職としての執権とは別で、つまり、北条宗家、その頭領を得宗と呼んだという。

元々、源頼朝が開いた本邦初の武家政権が鎌倉幕府であったが、頼朝直系は三代しか続かず、執権職の北条氏が実権を掌握、元々は鎌倉幕府の御家人らと、その筆頭格の北条氏らが評定を開いて物事を決めていたが、徐々に北条氏に権力が集中していったという。

ややこしいので今一度、重複して説明すると、第8代執権・北条時宗の時代に得宗専制体制へと傾斜して北条一門が独裁的に政治決定をするようになり、その得宗専制は第9代貞時の時代に得宗専制が完成したの意であるという。


◆霜月騒動

西暦1285年に発生した霜月騒動によって、鎌倉幕府内の得宗専制体制にも大きな異変が起こった。この霜月騒動については異称があり、「秋田城介の乱」や「弘安合戦」という呼び名もあるという。

安達氏は鎌倉幕府創建に貢献した一族であり、以降、安達氏は上野守護、秋田城介(あきた・じょうのすけ)、評定衆、引付衆などの要職を占めていた有力御家人であり、北条氏とは縁戚関係も構築していた。第5代執権は北条時頼の実母は安達泰盛の祖父の娘であり、また、安達泰盛にしても養女とした妹を第8代執権・北条時宗(得宗)に嫁がせていた。

元々、この安達泰盛の祖父の代に三浦氏討伐(三浦泰村討伐)で北条氏に貢献、鎌倉幕府内で確固たる地位を築いていた。なので、第9代執権・北条貞時の代になっても北条一門の寄合(秘密会議)にも参加するほど権勢があったという。

しかし、得宗被官の御内人(みうちびと)にして貞時体制の内管領(ないかんれい)職にあった平頼綱が有力御家人として権勢をふるう安達泰盛と対立、合戦に発展したという。安達泰盛が時宗の死後に政治を主導した事に対して北条一門の不満が高まっていたものと思われる。平頼綱が安達泰盛の子・安達宗景に謀反の企てがあるとして讒訴(ざんそ)し、この霜月騒動を起こした。つまり、平頼綱が讒訴し、北条貞時に軍を動かさせ、安達氏を滅ぼしたの意である。(また、何故か「讒訴」ではなく、平頼綱が安達泰盛を中傷した事が事の発端とする語り口もあるよう。)

1285年11月17日、安達泰盛を鎌倉に攻め滅ぼしたという。最初に泰盛が殺害され、その後、合戦に発展したという。「安達氏」と「内管領・平頼綱」との対決であったが、この霜月騒動、実は安達氏が守護であった上野のほか、武蔵、信濃や三河など諸国の幕府御家人も安達氏側についたという。上野・武蔵では五百名の死傷者が出たという。また、同月、筑前でも少弐氏の兄弟間で霜月騒動が波及した岩戸合戦が発生している。激しい戦闘となった鎌倉では安達氏陣営の大半が滅亡し、武士一族・安達氏の武家としての名跡も滅びた。

通説では、この霜月騒動は「鎌倉幕府の御家人」と「北条被官勢力」との争いであったと解釈されており、この霜月騒動以降、反得宗、反北条が御家人らの中に高まっていったという。

ここで討たれた「安達泰盛」は竹崎季長が元寇での自らの活躍を描かせた「元寇襲来絵巻」にも描かれている人物である。竹崎季長は肥後国の武士であり、元寇で奮闘したが充分な恩賞を貰えなかったので、1275年、鎌倉まで赴き、鎌倉幕府の御恩奉行であった安達泰盛邸を訪ね、安達泰盛に竹崎季長が直談判している様子も絵巻の中に含まれている。「元寇襲来絵巻」は現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵しているという。

また、安達氏は源頼朝の乳母・比企局(ひきのつぼね)の婿で、頼朝が流人であった時代からの側近・藤九郎盛長(とうくろう・もりなが)を祖とする鎌倉期の有力一族であった。定かな出自は不詳であるが、この霜月騒動では同じく「あだち」と発音する姓の足立氏、足立直元も自害に追い込まれており、足立氏との関係を疑う事ができる。また、所領にしていた陸奥国に安達保があり、そこから安達という姓を名乗っていたとも言われるが、この辺りは詳らかになっていない。一方、足立氏は通説では藤原北家魚名流もしくは藤原北家勧修寺家流とされているが、これも怪しく、むしろ、足立郡司の系譜を引く武蔵地方の豪族であったと考えた方が自然である。


◆平頼綱の乱

霜月騒動を起こした内管領・平頼綱は、霜月騒動の後、約10年間に亘って幕府の政治を壟断(ろうだん/利権を独占したの意)した。平頼綱は浄土真宗の保護者として知られる一方で日蓮教団に対して弾圧をした人物とされ、且つ、専制支配は朝廷の人事にまで及んだという。一説に、壟断の果てに平頼綱は我が子・平宗綱を将軍に擁立しようとまで計画していたという。

霜月騒動時、第9代執権・北条貞時は14歳であったが、成人した北条貞時は、平頼綱の専横に嫌気が差すと同時に恐怖を抱き、この前内管領・平頼綱を急襲した。

1293年、鎌倉大地震の9日後となる4月22日早朝、北条貞時方の討手として武蔵七党らが経師谷(きょうじやつ)の頼綱邸に火を放って急襲。平頼綱と、その次男・飯沼助宗ら93名を殺害。市街戦も発生し、平頼綱の郎党は粛正されたという。長男・平宗綱は事前に降伏した為に存命したが、北条貞時の娘2名は、この「平頼綱の乱」の巻き添えになって焼死。

尚、この際、貞時陣営には霜月騒動にて安達氏陣営についていた宇都宮氏、千葉氏らが参加しており、憂さを晴らしている。この「平頼綱の乱」は平頼綱の法号の関係で「平禅門の乱」という場合もある。

「内管領」は、いわば北条宗家の執事の職であり、この平頼綱が初代であったという。平頼綱は討たれたが、内管領は平頼綱の実弟・長崎光綱であり、その後も、この平頼綱の系統である長崎氏が内管領を踏襲する。


◆安東氏の乱

北条貞時は1301年に執権を引退し、1311年に没する。1311年の内管領は長崎光綱の孫・長崎高資(たかすけ)が「安東氏の乱」(「津軽大乱」とも)が発生する。

1316年、この年、北条高時が12歳で執権に就任する。この北条高時は執権には就いたが、北条氏に得宗ではない。その為、鎌倉幕府の実権は前内管領の長崎円喜と、元内管領の長崎高資であり、この長崎親子が実務を掌握していたという。

1317年頃から蝦夷地では蜂起なが散発的に起こっていたが、1322年に蝦夷管領の職にあった安東氏で家督継承問題と所領の争奪問題とが発生。安東(又太郎)季長と安東(五郎三郎)季久(または宗季)の両者の間で争いが起こり、その裁定を請け負ったのが内管領・長崎高資であった。安東氏の宗家は安東季長であり、庶流が安東季久であったという。

内管領・長崎高資は中々、裁定を下さず、季長側からも賄賂を受け取り、その一方で季久側からも賄賂を受け取っていたので、裁定を下せぬまま、放置。最終的に庶流であったと思われる安東季久の方を安東家の惣領と認定する鎌倉幕府の裁定を打ち出した為、安東季長が蝦夷を動員して本格的な蜂起へと発展する。1326年、幕府は安東季久に援軍を送るが中々、安東氏の乱を鎮圧できず、最終的には南部長継らの活躍で鎮圧。捕らえられた反乱の首謀者・安東季長は鎌倉に移送された。

しかし、今度は安東季長の与党であった安東季兼が蜂起騒動を起こした。その為、鎌倉幕府は1328年に、和議という形で、ようやく、この安東氏の乱に一区切りをつけた。
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◆両統迭立(りょうとうてつりつ)

後に南北朝時代の引金となったのは、御嵯峨上皇が次代の皇位継承者を指名しなかった為、次なる天皇を兄の後深草天皇の系統とするか弟の亀山天皇の系統にするかで審判を委ねられた鎌倉幕府は、改めて両統が交互に天皇を擁立するよう指針を出した。これを「両統迭立」と呼んだ。また、兄・後深草系を持明院統と呼び、弟・亀山天皇系を大覚寺統と呼んだ。

1272年に御嵯峨上皇の没して混乱が起こった。第89代・後深草天皇は既に第90代・亀山天皇に皇位を譲っていた。その時点で御嵯峨上皇は暗黙の了解で「承久の乱」以後は皇位継承者で揉めないように配慮されてきたが弟・亀山天皇系の世仁(よひと)親王を亀山天皇の次の天皇にするようにという意志を示していた。既に皇位を譲り渡していた持明院(後深草)は不満の声を挙げたが、亀山天皇は我が子である世仁親王に譲位した。そこで誕生したのが第91代の後宇多天皇(亀山=大覚寺統)であった。

後宇多天皇(第91代)からは、持明院統の伏見天皇(第92代)への譲位が行なわれたが、伏見天皇は皇位を我が子である後伏見天皇(第93代)へと譲位した。これが1301年の事であり、今度は大覚寺統から幕府に対して仲裁が求められたので、改めて鎌倉幕府は「持明院統と大覚寺統との両統が交互に皇位継承者を出すのが望ましい」という見解として猯湘迭立瓩鯊任曾个靴拭

その結果、第94代は大覚寺統(亀山天皇系)の後二条天皇となり、第95代は持明院統(後深草天皇系)の花園天皇となった。そして、第96代となったのが大覚寺統から践祚(せんそ/特に三種の神器を用いて即位する事)した後醍醐天皇であった。


◆後醍醐天皇

後醍醐天皇(生没1288〜1339年)の父は後宇多天皇であるが母は花山院師継の養女・五辻忠子(いつつじ・ちゅうし)であった。花山院師継(かざんいん・もろつぐ)は下級公卿であり、母・忠子は、いわば側室であり、つまり、後醍醐天皇の出自は皇子は皇子であったが正室の産んだ子ではなく、側室の産んだ子であり、当時の趨勢からすると必ずしも皇位継承者になれるかどうかは微妙な血統であったという。しかし、両統迭立の徹底方針が明確に鎌倉幕府から打ち出された事によって、誕生したとも言える。

この頃の皇位は、簡単に譲位がなされ、上皇が乱立している。譲位の発祥は第41代・持統天皇(アマテラス説アリ)で、第42代・文武天皇に譲位し、譲位の後の天皇は太政天皇となるという前例を作ったが、この太政天皇という概念が上皇となり、更に仏門に入った場合には法皇となる。その絶大な権力によって院政を行なうという悪しき慣例が、特に鎌倉時代末期に蔓延していたという。

第90代・亀山天皇…践祚は10歳、退位は24歳(大覚寺統)

第91代・後宇多天皇…践祚は7歳、退位は19歳(大覚寺統)

第92代・伏見天皇…践祚は22歳、退位は33歳(持明院統)

第93代・後伏見天皇…践祚は10歳、退位は12歳(持明院統)

第94代・後二条天皇…践祚は15歳、崩御が23歳(大覚寺統)

第95代・花園天皇…践祚は11歳、退位は20歳(持明院統)

という具合に、幼帝を立てて上皇が実権を握るという事態が慣例化していた。持明院統、大覚寺統の対立が激化していた事とも関係している。因みに践祚とは、第50代・桓武天皇以降には三種の神器を携えての即位を特に践祚と呼んだ。

両統迭立の徹底に拠って、第96代・後醍醐天皇が践祚したのは30歳もしくは31歳の時であり、明らかに、当時としては遅い践祚であったという。また、後醍醐天皇は元の名を尊治(たかはる)といい、その「尊治」に「親王」が付いて「尊治親王」になったのは14歳の時であるといい、どうやら元々は皇位継承者としては考えられていなかった人物であった節が伺える。

とはいえ、その尊治親王からの一字拝領によって「足利犢皚畛瓠廚「足利狢梱畛瓠廚悗般樵杏週が変えて、更には後醍醐天皇と足利尊氏と大戦争を後に展開するのだから、歴史ってのは何がどう転ぶか全く予見がつかないと思い知らされる。


◆正中の変

後醍醐天皇は「建武の新政」を行なった革新的思想の持ち主であったが、その思想背景には醍醐天皇や村上天皇の治政を理想としていた事、また、宋学への造詣が深く中国・宋王朝型の君主独裁政治を目指していたという。後醍醐天皇の目指した天皇親政とは、そういう思想背景を持っていた。

第60代・醍醐天皇は「古今和歌集」を勅撰した天皇として知られるが、一方で天皇親政を推進した天皇であり、その治政は「延喜の治」(えんぎのち)と呼んで称えられたという。第62代・村上天皇の治政もついても「天暦の地」(てんりゃくのち)という呼称で、醍醐天皇の「延喜の治」と並び称される治政であった。村上天皇は関白・藤原忠平の没後、代わりとなる関白を置かずに天皇自らが政治を主導した。この醍醐天皇と村上天皇の間に第61代・朱雀天皇があるが、その朱雀天皇の時代に「平将門の乱」、「藤原純友の乱」が発生、国中が大混乱した歴史に起因しているという。

1318年に後醍醐天皇は践祚。

1321年、実父でもある後宇多法皇の院政を廃止する。

1324年6月、後宇多法皇が崩御すると、後醍醐天皇は即座に倒幕計画を立てる。事前に情報が漏洩した為に実行には移されなかったが、これを「正中の変」(しょうちゅうのへん)と呼ぶ。

未遂に終わった「正中の変」は、毎年9月に京都・北野天満宮で行なわれる北野祭では沢山の喧嘩が発生するので、北野祭には六波羅探題が警備をすることになっていた。その上、この計画のあった1324年のケースでは六波羅探題には北方と南方とがあったが、その内の六波羅探題南方の大仏維貞(おさらぎ・これさだ)が鎌倉に出向いて京都を留守にしていたので警備が手薄になる事が分かっていたという。更に、後醍醐天皇は家格に捉われることなく、日野資朝・日野俊基を抜擢、側近として登用していたが、その日野資朝と日野俊基が陣頭指揮を執って六波羅探題北方の北条範貞を殺害、交通の要衝を押さえるという計画であった。

(この日野氏は山城国・日野という地名を名字にした藤原北家であり、日野氏は室町幕府の主となった足利家、その第3代将軍から第9代将軍までの将軍室を日野家が独占、大出世を果たしている。)

「正中の変」の計画が事前に露見したのかは諸説あるが、「太平記」では美濃の土岐氏、土岐頼員が妻への寝物語として計画を聞かせ、その妻の父親が六波羅探題の奉行であったとされている。

計画を事前に知った六波羅探題方では、後醍醐天皇の側近であった多治見国長と土岐頼兼らに召喚を掛けたが、召喚に応じる気配が無かった事から、計画日の4日前となる9月19日未明、夜襲を仕掛け、約二時間ほどの戦闘の後、多治見国長と土岐頼兼は自害に追い込まれた。

陣頭指揮を執る予定であった日野資朝と日野俊基は六波羅探題に自ら出頭。日野資朝は翌年、佐渡へ流された。日野俊基の方は翌年、赦免されて京都へ戻った。

この「正中の変」は「安東氏の乱」と同時期に発生しており、鎌倉幕府は忙殺されていた最中に起こったという。


◆元弘の変〜笠置山

正中の変が頓挫した後も、後醍醐天皇による倒幕計画は続いた。鎌倉幕府が見識として打ち出した両統迭立には不文律ながら、皇位は10年程度で譲るものとする慣習が含まれていた。後醍醐天皇の践祚は1318年なので、自ずと天皇親政を実現するにいはタイムリミットが迫っていたという。その為、後醍醐天皇は寺社に積極的に働きかけていたという。

1327年、後醍醐天皇は皇子であった護良親王を比叡山に送り込んで比叡山のトップである天台座主に付けた。1329年を天台座主に就けた。護良親王は比叡山で武芸に励んで来たるべき、倒幕に備えていたという。

1330年には天皇自ら延暦寺、春日大社、興福寺、東大寺に行幸した。更には、皇子であった護良(もりよし)親王を延暦寺のトップである天台座主に就けるなど、入念な倒幕計画を進行させた。

また、「正中の変」の事後処理で出頭した日野俊基は味方になってくれる武士に声を掛けており、各方面に人脈づくりを展開していたという。

後醍醐天皇の最側近は、吉田定房、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、それと「神皇正統記」を執筆者として知られる北畠親房らであった。

「正中の変」に比べると「元弘の変」に於ける後醍醐天皇の具体的な計画は不明ながら、こちらも意外な形で倒幕計画が発覚した。側近中の側近と目されていた吉田定房が「被害を最小限に止める為」として六波羅探題に密告した事に拠って、発覚する。

1331年4月29日、吉田定房から六波羅探題にクーデター計画のある事が密告され、即座に鎌倉幕府は追討使を京都に送り出し、5月5日には京都に到着。以降、追討使と六波羅探題とが「元弘の変」の取り締まりが始まり、日野俊基、二条為明、僧侶・文観、僧侶・忠円らが逮捕された。

同年6〜7月に掛けての徹底した取り調べによって「元弘の変」が明らかになる中、後醍醐天皇は幕府の責任追求が今度は二度目であった事もあって、自分に及ぶことを察知し、同年8月24日、皇居を脱出する。皇居を脱出した後醍醐天皇は東大寺南院に入った後、大友皇子創建と伝わる笠置寺へと移動し、その笠置寺を本陣に定めて、近隣の武士たちに挙兵を呼び掛けた。

また、比叡山で武芸に励んでいた護良親王も笠置寺に向かい、後醍醐天皇と合流。

後醍醐天皇が挙兵した笠置寺には、翌9月2日、大仏貞直、金沢貞冬らが主将とする大軍が鎌倉幕府から派遣される。この大仏・金沢を大将にした討伐軍が派遣された。この討伐軍に足利高氏も参加していた。

鎌倉からの討伐軍の到着に先駆けて、鎌倉幕府の出先機関でもある六波羅探題は六波羅探題軍を編成。この六波羅探題軍には京都に常駐していた御家人たちも動員されており、やはり京都に常駐していた足利家は、討伐軍とは異なる六波羅探題軍にも参加していた。六波羅探題軍は9月6日までに笠置山を四方から包囲し、同日早朝、一斉に攻撃を開始した。しかし、山道は狭路であり、六波羅探題軍は苦戦し、持久戦に突入。

この持久戦の間、後醍醐天皇の呼び掛けに応える悪党(諸将)が笠置山に集結を始める。三河国の足助重範、山城国の多賀帯刀らが笠置山に入るが、比叡山や興福寺は動けず。

笠置山に入りはせず、当地で放棄する悪党があった。備後国では桜山四郎入道が蜂起。そして、河内国赤坂で、同地を拠点にしていた悪党・楠木正成が蜂起。

9月20日、鎌倉から大仏貞直率いる討伐軍が入京。すると、京都は一大事になっていた。後醍醐天皇が笠置山に籠城している間に、鎌倉幕府の要請を受けた後伏見上皇が後見人となり、持明院統の光厳天皇を加茂神社で即位させていたのだ。三種の神器は後醍醐天皇が持ち出していたらしく、草薙剣と、もう一つ八咫鏡か八坂瓊勾玉のいずれか一方が見つからないままだったので、践祚ではなく即位となる異常事態になっていた。

1ヶ月間の小競り合いが続く攻防の後、笠置寺は陥落する。

1331年9月28日夜、六波羅探題軍は陶山義高と小宮山次郎が60名あまりの勢力を率いて風雨の中、笠置寺付近まで接近、坊社に火を放つことに成功。陶山・小宮山軍が鬨の声を挙げると、笠置寺に結集していた天皇軍は大混乱を起こした。これによって、後醍醐天皇は笠置寺から逃亡、そのまま万里小路藤房・季房兄弟ら僅かな公卿らと一緒に笠置山を後をした。

三河国・足助から参じていた武士、足助重徳は笠置山攻防で内櫓に登り、その遠矢によって六波羅探題軍の荒尾行忠、荒尾弥五郎、山田重綱を倒すなど奮戦するが、笠置山陥落後、六波羅探題軍に捕縛され、京都に移送された。翌年、京都六条河原に斬首された。

笠置山を脱出した後醍醐天皇は、河内国・赤坂を目指した。河内国・赤坂は金剛山の麓にあり、河内郡千早赤阪であり、そこは謎に包まれた悪党・楠木正成の本拠であった。

この楠木氏は、当時、「悪党」と呼ばれた一党であり、13世紀中頃から登場する荘園領主支配に敵対した猯鮖謀存在瓩寮力であるという。多くの「悪党」の正体は元々は荘園領主から任命された荘官の場合が多かったという。「楠木正成」は史料上の初見でも1331年に和泉国・若松荘に乱入したという記録であり、この後醍醐天皇の倒幕計画も1331年の話である。和泉国・若松荘で何かしらの所職、例えば元々は荘官の職にあったが領主と揉め事を起こして悪党となっていた等が考えられるという。また、葛城山の修験者と深く関わっていた痕跡があり、それらを武器にした情報網を駆使し、交通の要衝を押さえて神出鬼没、そして奇策を講じていた背景が疑われている。

実際、この楠木正成の楠木氏の出自については謎であり、諸説ある。橘正遠の子とする説もあれば、その姉が伊賀の服部氏に嫁ぎ、能役者の観阿弥を生んだとする系図が存在したりしているという。13世紀末に播磨国大部荘に姿を現した河内楠入道なる人物が楠木一族だったとされる。また、戦国j代末期、伊勢の大饗正虎(おおえ・まさとら)が楠木正成の子孫であると自称、楠木姓に改称して織田信長・豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ/貴人に侍して文を書く職)となったといい、また江戸時代にも甲斐庄(かいのしょう)氏が楠木氏の末を自称しているという。

1331年10月1日、後醍醐天皇は河内国・赤坂を目指していたが落人狩りも展開された事もあって、河内に辿り着けずに山中を三日間ほど歩いていたところ、山城国の有王山(ありおうやま)の麓付近にて、幕府軍に捕まった。後醍醐天皇は輿に乗せられて京都に護送されたという。
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◆元弘の変〜赤坂城落城と島流し

後醍醐天皇が幕府軍に捉えられた後も、元弘の変は数週間継続した。河内国・赤坂で挙兵した悪党・楠木正成の抵抗が続いていたのだ。

笠置山を陥落させた後、鎌倉から鎮圧にやってきた幕府軍は大仏貞直(北条分派)、金沢貞冬(北条分派)、そして足利高氏を将とする関東の精鋭であった。大仏軍は大和路から、金沢軍は高野街道経由で、そして足利高氏は伊賀国経由で河内国へ向かったという。

当初、楠木正成は一介の悪党と見なされてたが、この楠木正成が神出鬼没にして奇想天外な戦術、ゲリラ戦術を駆使して幕府軍の前に立ち塞がった。楠木正成は、幕府軍が向かってくる事を予見して赤坂に急造の小城を築いて、幕府軍を待ち構えていたのだ。

幕府軍は小城と侮っていたが、赤坂城は金剛山の麓にあり、更には多くの砦が築かれていたので驚愕したという。大軍勢で幕府軍が押し寄せたものの、正成軍は山上から矢を射かけ、大木や大石を投げ落として抵抗、これに幕府軍は大苦戦させられたという。城壁を登ろうとすると矢を射かけられ、大木や大石を落下させられるので、幕府軍は7百名を超える戦死者を出したという。

楠木正成軍の手勢5百余、対する幕府軍は最低でも万に近い兵士を動員していたと思われる中、赤坂城は1週間も持ち堪えたという。

1331年10月21日、赤坂城は落城。しかし、楠木正成は事前に逃走に成功。また、護良親王も、この赤坂城の籠城戦に参加していたが、こちらも落城前に脱出に成功。尊良親王は幕府軍に捕らえられた。

(この河内・赤坂城の落城までを「元弘の変」という場合もあるが、広辞苑などでは鎌倉幕府滅亡までの範囲を含めて「元弘の乱」として解説している。また、元弘三年の鎌倉幕府滅亡までをも全て一連の「変」として「元弘の変」と使用されている場合も確認できる。)

鎌倉幕府は現職の天皇が起こした倒幕事件であったので慎重な事後処理を行なうことになった。翌1332年4月10日に皇族方を除いた処分が発表され、日野資朝、日野俊基、平成輔、北畠具行らが斬首された。北畠具行の処刑を行なったのは後に「バサラ大名」と呼ばれることになる佐々木道誉(佐々木高氏・佐々木導誉)であったという。

また、後醍醐天皇寄りの公卿は排除され、後醍醐天皇が持ち去っていた神器は幕府によって回収され、この一連の騒動の中で異例の即位を遂げた光厳天皇へと渡された。

遅れて皇族方の処分が発表された。後醍醐天皇は隠岐の島への配流。護良(もりよし)親王は逃げおおせたので処分は無かったが、それ以外の後醍醐天皇の皇子ら3名は悉く地方に配流となった。


◆後醍醐天皇リターンズ

1332年5月、後醍醐天皇は隠岐の島に配流となる。後醍醐天皇の警固役をしたのは、これまた佐々木道誉であったという。

1332年6月、まだ後醍醐天皇の配流が行なわれて一ヵ月もしない内に、持明院統・花園上皇が護良親王が書いた令旨(りょうじ)を入手する。令旨には幕府討伐が記されていたという。赤坂城が幕府軍の手に落ちても逃げ遂せる事に成功した護良親王は、河内国・赤坂から大和国・吉野経由で脱出、その後も倒幕勢力の糾合を継続していたのだ。

1332年11月、護良親王が大和・吉野にて挙兵する。護良親王が挙兵すると、その翌12月、これまた行方不明になっていた楠木正成が挙兵する。護良親王と楠木正成については幕府軍、六波羅探題軍が懸命に捜索しても捕まえることが出来なかった二名であったが、半年間ほどの潜伏期間を経て再始動となった。

そして楠木正成の快進撃が始まる。挙兵した楠木正成は奪われた拠点・赤坂城の奪還に向かい鮮やかに赤坂城の奪還に成功する。

幕府軍によって占拠されていた赤坂城は赤坂城攻めで功績のあった紀伊国の御家人・湯浅宗藤が守備していた。そこへ楠木正成軍の兵士は兵糧を運び込む人足に成りすまして城内に侵入。兵糧の代わりに武器を持ち込んだ。その上で人足に紛れさせた正成軍の兵士に、これまた人足になりすました正成軍の兵士を襲うふりをさせた。敵が人足に成りすまして城内に侵入したと思い込んだ湯浅宗藤は兵糧を守ろうとして兵糧守備隊を城内に入れるという決断をしたが、その兵糧守備隊こそ正成軍の兵士たちであった。赤坂城の守備に当たっていた湯浅宗藤は即座に降伏し、楠木正成は無傷に近い形で赤坂城を奪還したという。(この攻防あたり、さすがにフィクションも含まれていそうですかね。)

その後、楠木正成は同じ金剛山の麓に千早城を築城を始める。一方、吉野で挙兵した護良親王の軍勢が吉野で粘り強く闘いを続ける。

1333年1月、楠木正成快進撃の幕が切って落とされる。天見峠にて幕府軍の山井五郎らを撃破し、続けて河内国・野田の地頭職にあった野田氏を撃破。更に西南の池尻へと兵を進めて池尻を攻略後、河内国守護代と和泉国守護代の軍勢をも破って怒涛の快進撃で天王寺付近に到達。既に、この時点で河内北部と和泉北部を制圧。更に渡部橋付近に陣取っていた六波羅探題軍をも撃破。

1333年1月下旬、ようやく鎌倉幕府は大規模な鎮圧軍を編成、阿曾治時を第一軍団、大仏高直と二階堂道薀を第二軍団、名越元心を第三軍団として投入。鎌倉幕府も必死で、護良親王を討ち取った者には近江国麻生荘を恩賞に、楠木正成を討ち取った者には丹波国船井荘を恩賞とする旨の発表も添えていた。しかし、この頃の鎌倉幕府に対しては御家人らからも信用されておらず、新田義貞あたりは動員され従軍もしたが何もせずに東国に帰還したという。

1333年2月1日、護良親王軍は吉野で幕府方第二軍と対峙していたが、この日、幕府方第二軍の総攻撃に遭い、吉野山を脱出する。護良親王自身、七本の矢を受けての命からがらの脱出であったという。同日、幕府方第一軍と対峙していた楠木正成軍の拠点、赤坂城も陥落。楠木正成は赤坂城を捨てて、千早城へと逃れる。

1333年2月7日頃から幕府方第一軍と第二軍が合流し、楠木正成が立て籠もる千早城に大胆な包囲作戦を展開する。千早城軍は頭上からの材木や大石投下の激しい抵抗に遭う。包囲戦に切り換えて水路を断とうと渓川へ向かったところ、正成軍の伏兵作戦に遭い失敗する。持久戦を決め込んだ幕府軍が河内・和泉へ兵糧の補給に向かったが、そこでも正成軍の伏兵作戦が炸裂。

1333年2月24日、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が脱走する。千種忠顕と名和長年が関与して後醍醐天皇を脱出させたもので、この名和長年は名和湊を利用して海上貿易で財を成した伯耆国の有力者であるという。脱出した後醍醐天皇は、名和氏の拠点である船上山に迎え入れられ、この頃から後醍醐天皇の倒幕を呼び掛ける綸旨(りんじ/天皇による勅命の書状)が頻発するようになる。

1332年2月下旬、護良親王の令旨に応えて挙兵した伊予国の土居通増、得能通綱が伊予国守護の宇都宮貞宗を撃破後、長門探題の北条時直軍を敗走させる。3月1日には根来山を襲撃、宇都宮貞泰を破って快進撃を展開。同族であるという忽那(くつな)氏や、海賊として名を馳せる村上水軍の村上氏が土居・得能軍に味方し、そのまま瀬戸内海の制海権を獲得する。

この頃、播磨国の赤松則村ら赤松一族が山陰道・山陽道を封鎖し、摂津国神戸付近に摩耶山城を築く。近江守護の佐々木時信が赤松追討軍を出すが、赤松一族に撃退される。佐々木時信の赤松追討軍が苦戦の方を受けて六波羅探題軍が出陣。3月10日、阿波国の守護・小笠原氏が夜陰に紛れて尼崎に上陸して赤松軍を奇襲、赤松軍は敗走を余儀なくされた。3月12日、赤松則村の赤松軍は山城国・山崎にて、桂川を挟んで六波羅探題軍と激突、六波羅探題軍を撃退する。赤松軍は桂川を越えて入京、放火しながら北上するが市街に入ってからは六波羅探題軍に押し返されて、赤松軍は男山まで敗走。赤松則村は大坂方面から京都に向かう物流を遮断すべく山崎に居座る布陣を布いた。

3月13日、肥後の豪族・菊池武時が挙兵し、博多の鎮西探題に付近に放火しながら襲撃するも、討死する。

3月28日、かつて護良親王が天台座主であった比叡山・延暦寺で決起が起こる。近隣豪族らを糾合して1万6千の大軍勢を形成し、京都へ向かうが六波羅探題軍に敗れる。
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◆足利高氏について

安達氏亡きあと、鎌倉幕府の御家人勢力は得宗専制体制の中で発言権を萎ませていったが、安達氏の後に台頭したのが、清和源氏流でもある源姓足利氏であった。この足利氏は前九年・後三年(奥州12年戦争)で安部貞任・宗任らを鎮圧して武家の棟梁の礎を築いた源義家こと八幡太郎義家、その八幡太郎義家の三男・源義国の家系である。

八幡太郎義家の三男・源義国はその源義国の時代に上野国と下野国に大きな勢力を築き、下野国足利郡内の私領を安楽樹院に寄進して足利荘が成立した。この源義国の子である義康が足利氏の始祖である。また、この義国の子である義重が新田氏の始祖となる。つまり、源義国まで遡れば足利氏と新田氏は同じ清和源氏となる。

因みに細川氏、畠山氏、斯波氏、渋川氏、石塔氏、加古氏(加子氏)、吉良氏、今川氏、一色氏、小俣氏、桃井氏、岩松氏らは足利氏の一族であり、足利氏支流に当たる。

源姓足利氏は、その成立以降、鎌倉幕府の実力者であった北条家とも縁戚関係を強め、義康の弟である義兼が北条政子の妹を妻とし、その義兼が建てた持仏堂が後の足利学校となっている。義兼の時代から代々北条氏と婚姻関係を結んでいたという。

また、足利高氏の正室は赤橋登子(あかはし・とうし)であった。この赤橋氏とは北条氏の分派で、その赤橋登子の実兄は執権・赤橋守時であった。つまり、足利高氏(尊氏)の義兄が鎌倉幕府の最後の執権となる第16代執権・赤橋守時だったのだ。因みに、この赤橋守時は北条氏本家ではないので執権であったが得宗ではない。鎌倉幕府最後の得宗は北条高時であった。

足利高氏の母は上杉清子(うえすぎ・せいし)であり、この上杉氏は元々は公家であったという。西暦1252年(建長4年)、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王(むねたか・しんのう)が鎌倉幕府第6代将軍となった際、その宗尊親王に供奉(ぐぶ)して鎌倉に下ってきた重房が「上杉」を称したのが始まりであるという。

つまり、元々は藤原氏勧修寺(かじゅうじ)流の庶流で朝廷の侍臣であったが、始祖の重房が鎌倉行きに伴い、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)の上杉荘を与えられ、故に上杉を称して武家になったという。鎌倉時代は早々に将軍家たる源頼朝の血脈が途切れ、執権政治体制となったが、この上杉氏は鎌倉幕府内に於いて足利氏と姻戚関係を結び、上杉氏始祖・上杉重房の孫娘に当たるのが上杉清子である。また、足利氏にとっての上杉氏とは「執事」という要職であり、後に名称が変わって「管領」という要職の一族であった。

上杉氏と同様に、足利氏の被官であったのが高一族、高(こう)氏であり、その「高」氏の家系は高階流と呼ばれ、高市皇子(たけちのみこ/天武天皇の第一皇子)の末裔の惟頼が大高大夫(おおたかのたいふ)、その子の惟真が高新五郎と称したのが始まりであるという。平安時代後期から東国へ進出、高惟長のときから足利義兼に仕えていたという。(足利高氏から数えると六代前の足利家当主が足利義兼に該当する。)

これらを考慮すると当時の足利氏が東国世界に於いて有力者であったのか浮かび上がってくる。鎌倉幕府が得宗専制体制によって、御家人武士らの不満が高まっている中、その御家人の中の筆頭格が、足利高氏であった。(この足利氏の持っている構図が圧倒的なので、新田義貞の新田氏が無名武士のように扱われてしまいがちなのですが、実際には足利氏の遠戚であり、地理的にも近く、新田義貞以前の新田氏が鎌倉幕府内で功績の差でしょうか…。本来であれば、足利氏と新田氏は並び称されてもいいような関係性でもある。)

足利高氏の弟には足利直義(ただよし)があった。また、正室が産んだ嫡子は千寿王であり、これは後の足利義詮(よしあきら)となり、室町幕府の第二代将軍となる。

西暦1333年だと、1305年生まれであった足利高氏は28歳前後であった事になり、また、子の千寿王が騒動の際、3歳(数えで4歳)であった事になるので、凡その年齢は整合性が取れる。正室の赤橋登子は高氏よりも一歳年下であったという。


◆足利高氏、六波羅探題を滅ぼす

1333年3月27日、鎌倉幕府は足利高氏を総大将とする幕府軍が鎌倉を出発する。勿論、幕府は、この幕府軍を西に派遣して後醍醐天皇陣営の反乱を鎮圧する為に編成されたもので、先発している名越高家軍と合流して船上山攻撃であった。この際、足利高氏は嫡男・千寿王を鎌倉に残しての出立であり、鎌倉幕府からすれば千寿王は保険的な人質であったという。

その前後、船上山の後醍醐天皇の元へ細川和氏と上杉重能の2名が訪れた。細川と上杉の両名は足利高氏の被官であり、この時に後醍醐天皇から倒幕の綸旨を貰い受けに上がった。

1333年4月16日、京都での軍議によって足利高氏軍は丹波国を経由して船上山のある伯耆国へ到るルートとなり、名越高家軍は鳥羽ルートで船上山を目指す事になり、その後、それぞれ出陣したが、足利高氏軍は丹波国篠村(しのむら)にて幕府に反旗を翻すことを決意し、京都に引き返したというのが通説である。

しかし、色々と検証すると事前に計画されていた謀反であった事が分かるという。丹波国は足利高氏の母・上杉清子の故郷であり、且つ、腹心であった上杉氏の拠点で、更に高氏は所領も丹波に持っていたのだ。更には、この頃に鎌倉へと早馬を出し、幕府の人質になっている妻子に脱出を促がし、一族である岩松経家に裏切りを実行する事を報告している。また、この岩松氏は上野国の御家人であり、新田義貞と足利高氏とを繋ぐことが出来た人物であるという。

1333年5月2日、三歳であった千寿王(後の足利義詮)が鎌倉を脱出し、行方不明となる。おそらく、この際、正室の赤橋登子を含めて足利高氏の近親者らは、高氏から謀反の計画を知らされ、事前に逃れている。

1333年5月7日、近隣の豪族たちを糾合した足利高氏は後醍醐天皇陣営の千種忠顕、赤松則村らと呼応するようにして出陣、京を目指した。千種忠顕・赤松則村は八幡から北上して入京するルートとなり、足利高氏は大江山を越えて嵯峨方面から入京した。足利高氏の謀反は六波羅探題は勿論、鎌倉幕府を激しく動揺させたという。

同日夜半、六波羅探題の北方・北条仲時と南方・北条時益は光厳天皇を含めて持明院統の皇族方を連れて、鎌倉に逃れる事を決めて六波羅から脱出した。六波羅探題は壊滅状態となる。

六波羅探題壊滅の方は瞬く間に周辺に広がり、落ち武者狩りが始まる。光厳天皇以下皇族を引き連れた仲時・時益一行は鎌倉へ向かおうとしていたが山城国・山科で北条時益は野伏と戦闘になり、討死する。

1333年5月8日、足利高氏の長男・竹若(母・加子六郎基氏の娘)は伊豆・走湯山(静岡県熱海市)に在り、京都を目指していたが、この日、北条方に駿河国・浮島が原(静岡県沼津市)で討たれる。

同日、仲時一行は美濃国・番場宿に辿り着く。翌9日、既に行く先々は倒幕軍に封鎖されていたので北条仲時は皇族方を残して蓮華寺にて自害した。随行していた432名も悉く自害して果てた。光厳天皇以下皇族は伊吹太平寺へ移され、神器は接収された。行方を塞いでいたのは土岐氏らであったが、一連には佐々木道誉が関与していたという。これにて、六波羅探題は滅亡。
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◆新田義貞、幕府を滅ぼす

1333年5月7日に足利高氏が後醍醐天皇軍に寝返り、翌8日に足利高氏は六波羅探題軍を滅ぼした。

その5月8日、関東では上野国・新田荘の生品神社(群馬県太田市)で新田義貞が僅か150騎ながら、倒幕の旗を掲げるという事態が発生した。

一説に、この新田義貞の挙兵は、先駆けて新田義貞は楠木正成の千早城攻めに従軍していたが何もせずに帰郷し、その一件で幕府から銭6満貫を差し出すように命じられていたという。新田義貞は幕府の対応に激怒し、その役人を斬り捨てたので、鎌倉幕府は新田義貞追討令を発したので、新田義貞が逆ギレ的に、そして足利高氏の謀反に便乗しての、半ばヤケクソな挙兵であったという語り口もある。

新田義貞の軍勢は電光石火で南下し、一路、鎌倉を目指して一気に鎌倉幕府を滅ぼしてしまう。

先ず、利根川の北岸、上野国・世良田で陣を構えて上野国守護代・長崎四郎左衛門尉(ながさき・しろうざえもんじょう)を退けて、八幡荘(群馬県高崎市)へ。ここで里見氏、鳥山氏、大井田氏ら越後勢と合流。その後、利根川を渡ったところで、信濃・甲斐と合流したという。

新田義貞の元には足利高氏の謀反を伝令したと思われる岩松経家、里見義胤、江田行義、大舘宗氏らの新田一門の氏族が集まり、更には足利一門の桃井尚義が加わり、上野国・新田荘から鎌倉街道上道(かみつみち)を一路、南下。武蔵国を縦断するようにして幕府の拠点である鎌倉を目指したという。

5月9日、新田義貞挙兵を聞きつけた鎌倉幕府は、得宗・北条高時自らが指揮を執って義貞討伐軍を派遣する。金沢貞将(さだゆき)軍に5万騎を振り分けて下河辺へ向かわせ、桜田貞国軍には6万騎を振り分けて入間へ向かわせた。

新田義貞軍は菅谷(埼玉県嵐山町)を通過し、笛吹峠(嵐山町・鳩山町)、堀兼(埼玉県狭山市)というルートで南下した。

5月10日、武蔵国の入間川を渡る。「太平記」では、ここで足利高氏の嫡男・千寿王が合流したと描かれているが、実際は異なっていた事も分かっており、千寿王については後述する。

下河辺を向かっていた金沢貞将軍は、武蔵国鶴見(横浜市鶴見区)で新田義貞方の千葉貞胤軍と戦闘になり、千葉軍が勝利、金沢軍は鎌倉に敗走したという。

5月11日、入間川と久米川との中間地帯となる武蔵国・小手指原(こてさしはら/埼玉県所沢市)にて、新田義貞軍は、桜田貞国率いる幕府軍とが激突する。新田義貞軍が鏑矢を射かけて、それに幕府軍が応戦、しばし矢の射かけ合いが続いた後、白兵戦に突入。白兵戦は30回を越えて夕暮れまで行われ、新田義貞軍は3百騎が討死、幕府軍は5百騎が討死したという。この日、決着は着かず、新田義貞軍は北の入間川へ、桜田貞国軍は南の久米川へ引き上げて、勝負は持ち越しに。

翌12日、新田義貞軍は先手をとって久米川(東京都東村山市)へ攻め込み、新田義貞軍の優勢に戦を進める。幕府軍は副将の加治次郎左衛門、長崎高重が合戦を仕掛けるも連敗、幕府軍は戦線を分倍河原(東京都府中市)へ引き下げる。

この5月12日、足利高氏の三歳の嫡男・千寿王が上野国・世良田にて旗揚げする。千寿王は、世良田満義と紀五左衛門(きのござえもん)に伴われて挙兵したとされる。この「世良田」という土地は現在の群馬県太田市であり新田荘でもあったが、この頃の世良田は新田荘内では経済と文化の中心地であり、ここで千寿王を担いでいる世良田満義とは世良田氏であり、新田氏庶流の世良田氏なのだ。また、世良田には大谷道海(おおやどうかい)という富裕者(有徳の人)がおり、その大谷道海は新田氏と婚姻関係を持っていた事、新田氏再興の為に資金提供していた事が現在は分かっているという。

新田義貞が、どの程度、足利高氏と連携を採っていたのか不明ながら、鎌倉で人質になっていた千寿王が鎌倉を脱走し、かなり鎌倉からは離れている新田荘の世良田で挙兵している辺り、かなり綿密に作戦が練られていたと考えられる。

この頃までには、足利高氏が六波羅探題を滅ぼした報は関東地方にも知られており、千寿王が新田義貞軍に合流している事は大きな宣伝効果を持っていたと考えられるという。因みに、鎌倉幕府軍は六波羅探題が滅亡した事を9日の時点では知らなかったという。となると得宗・北条高時が金沢軍に5万、桜田軍に6万という編成をした時点では、六波羅探題は持ち堪えているものと認識されていたことになる。

伝達コードとしては「足利高氏が既に六波羅探題を滅ぼしたらしい」の次に「足利高氏の嫡子・千寿王が新田義貞軍に合流した」という具合に関東に伝播し、それは当時の情勢を考慮すると、破格の宣伝効果であったと推測できる。新田義貞軍は異様な大軍勢に膨れ上がっていったというのが真相か。新田義貞は僅か150騎で挙兵し、新田荘の生品神社を出発しながら最終的には20万騎余とも言われる大軍勢に膨れ上がって鎌倉に押し寄せたというから、数字に誇張があるにしても、或る種、異様な盛り上がりによって新田義貞軍が大軍勢になった事は疑いようがない。

武蔵国からは江戸氏、豊島氏、葛西氏、河越氏、武蔵七党(村山党、横山党、西党、丹党、猪俣党、児玉党、私市党)、坂東八平氏(秩父氏、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏)が新田義貞軍に加わっていたという。この他にも文献等から庄為久、長浜光経、畑時能、熊谷直治(熊谷直実の後裔)等も参加していた事が分かっているという。

1333年5月14日、新田義貞討伐に苦戦しているらしい戦況を把握した鎌倉幕府は、得宗・北条高時の実弟・北条泰家に10万余騎を与えて分倍河原に援軍に送り、この日、北条泰家軍が分倍河原に到着する。分倍河原で敗れれば、交通の要衝を新田義貞軍に与える事になるので、分倍河原こそが重要な防衛ラインだったのだ。北条泰家軍は本陣を多摩丘陵の高地に構えて、桜田軍と共に新田義貞を待ち受けた。

5月15日、新田義貞軍が南下して分倍河原に到達し、「分倍河原の戦い」が始まる。幕府軍は大量の矢の雨を新田義貞軍に浴びせ、突撃してくる新田義貞軍を次々に撤退させる。新田義貞は精鋭を引き連れて敵の背後へ回る作戦を立てるが、これも押し返される。新田義貞軍は幕府軍に跳ね返された形で、堀兼(埼玉県狭山市)まで撤退する。この堀兼(狭山市)は小手指原(所沢市)よりも北である。この15日の戦いは一方的に幕府軍が新田義貞軍を蹴散らした戦況であったが、何故か幕府軍は追い討ちを掛けず、分倍河原に留まった。

15日夜、新田義貞軍に相模国の名門・三浦一族の大多和義勝が6千の兵を率いて加勢。この大多和義勝は鎌倉幕府の御家人であったが北条泰家の隙をみて兵を連れて新田義貞軍に合流したという。

16日未明、新田義貞軍は大多和軍を先陣にして分倍河原へ攻め上がり、別動隊を二軍編成、三方向からの挟撃を狙う作戦を仕掛ける。

その策はまんまと嵌まって北条泰家の幕府軍が総崩れとなり、敗走。

「太平記」では、ここで新田義貞軍は60万の大軍になったと記している。数字は兎も角として、翌17日、分倍河原の戦いに逆転勝利した新田義貞軍は、多摩丘陵を越えて藤沢に到達するが、この頃には陸奥国の石川氏、結城氏(これは陸奥国守護か陸奥管領かの役付き)、信濃国の市村氏、遠江国の天野氏らも参陣。かなり遠方から、和泉国の三木氏までもが駆け付けたという。鎌倉幕府は風前の灯の状態であったという事か。

17日、新田義貞軍による鎌倉包囲が開始される。小袋坂、化粧(けわい)坂、極楽寺坂の三方向から完全包囲。小袋坂には堀口貞満と大島守之を、化粧坂には大舘宗氏と江田行義を、そして極楽寺坂には新田義貞と実弟の脇屋義助(よしすけ)という布陣を執った。

対する鎌倉幕府は小袋坂に執権・赤橋守時を布陣。この赤橋守時は足利高氏の義兄でもある。化粧坂には金沢貞将を布陣。そして極楽寺坂には「笠置山の戦い」で戦功を挙げた大仏真直を布陣した。

18日、執権・赤橋守時の幕府軍が洲崎口で新田軍と戦闘となり、赤橋守時は一歩も引かぬ闘いを展開したが敗れ、執権・赤橋守時は自刃に追い込まれた。側近たちは次々に守時に続き、赤橋軍は全滅。

新田義貞軍と鎌倉幕府軍は、藤沢と鎌倉で対峙していた。鎌倉の西北が藤沢であり、藤沢の東南に鎌倉。それぞれ三つの坂に、軍隊を対峙させている構図。しかし、鎌倉の背後は海であった。海岸沿いの稲村ヶ崎を攻略し、そのルートから突破口を作れば、極楽寺坂に陣取っている大仏軍の脇や背後を突ける。稲村ヶ崎の東に霊山寺があり、そこまで侵入したい。

18日、大舘軍の大塚員成、天野経顕、天野経政が稲村ヶ崎へ突入を試みるが、難航。

19日、稲村ヶ崎への突入作戦を展開していた新田軍の大舘宗氏は果敢にも突破するが、霊山寺近くの戦いで討死を遂げる。大舘軍は腰越付近まで撤退を余儀なくされたという。

各地で激戦が展開され、鎌倉幕府軍が最後の意地を見せて、奮戦を見せている。

21日、新田義貞は稲村ヶ崎付近まで進出し、三木俊連を極楽寺の裏手の陣鐘山に登らせ、新田義貞本体が浮き足立った大仏軍に奇襲し、霊山寺に陣を布く事に成功する。霊山寺からは海岸線に由比ヶ浜に軍勢を繰り出し、更に由比ヶ浜から東の材木座海岸へ岩松経家の軍勢を進ませた。海岸線から背後を取る形で、遂に鎌倉攻略の要衝、極楽寺口を手に入れた。

22日早朝、新田軍は三方向から一斉攻撃を開始。こじ開けた極楽寺口から新田義貞軍が突入、極楽寺坂には大仏貞直軍と激突。大仏軍も意地を見せたが数に勝る新田義貞軍の圧倒。大将・大仏貞直は脇屋義助の部隊に決死の突撃攻撃をして、壮絶な討死を遂げた。

鎌倉に新田義貞軍が大挙して侵入、鎌倉市中の幕府方の諸将は悉く討たれてゆく――。

得宗・北条高時は自邸に居たが、火が迫ってきたので東勝寺に避難した。小袋坂で戦っていた金沢貞将や長崎高重ほか、北条家の御内人(みうちびと)は東勝寺に集まったらしく、やがて哀しき自刃の宴が始まった。得宗・北条高時が自刃すると相次いで後を追い、最終的には北条氏一門は238名、家臣870名が切腹して果てたという。

源頼朝が開いた鎌倉幕府は148年の歴史の幕を閉じた――。
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◆鎌倉幕府滅亡後

1333年5月23日、六波羅探題滅亡を知った後醍醐天皇は船上山を発つ。

1333年5月25日、後醍醐天皇は播磨国あたりにあったと思われるが、後醍醐天皇はすべての事柄を元弘元年八月以前の状態に戻すことを宣言し、光厳天皇を廃位し、光厳天皇が用いていた「正慶」年号を廃止して「元弘」年号を復活させた。

この頃、既に鎌倉幕府は滅んでいたが幕府滅亡は伝わっておらず、飽くまで六波羅探題の滅亡が伝わっていたという。なので幕府残存勢力は残っていたという。この5月25日、九州では鎮西探題が少弐氏、大友氏、島津氏、菊池氏らの軍勢が鎮西探題を包囲していた。六波羅探題滅亡を知って、九州では一気に倒幕が主流となったという。鎮西探題は北条英時で、これは執権・赤橋守時の弟であり、先立って菊池武時の反乱では鎮圧に成功していたが、この日、自刃。

同年5月30日、後醍醐天皇は播磨国兵庫の福厳寺に到着。この福厳寺には楠木正成が参じ、また、新田義貞からは鎌倉陥落の報が届いたという。

同年6月4日、後醍醐天皇は入京を果たす。京都市中は大混乱していたが、その京都を取り仕切っていたのは足利高氏であったという。足利高氏は鎌倉幕府の筆頭御家人であったが故か人望やノウハウを活かして、市中の治安回復に務め、揉め事を仲裁する奉行所を開くなどしていたという。足利高氏は倒幕の前段階で後醍醐天皇に使者を派遣して倒幕の綸旨を貰い受けていた経緯もあり、取り仕切る大義も有していたし、差配する技量を持った存在であった事が分かる。裏返すと赤松則村や千種忠顕らでは武士らの恩賞などを差配することは不可能であったの意。

同年6月5日、後醍醐天皇は政権を掌握した。これが「建武新政」の前段階であり、正式の改元は翌年1月から「建武」に改めたという。

後醍醐天皇による新体制は摂政・関白を置かず、いわゆる天皇親政であったが、それは天皇中心の専制であったようで、具体的には綸旨万能主義という形で現れたという。何事も天皇が発した綸旨によって物事が決定されるという秩序体制を布こうとしたが、いきなり躓いている。

同年6月15日、旧鎌倉幕府政権下で認められていた知行関係(武士たちの所領の問題)は緊急にして重大な課題であったが、これに新政権は個別安堵法で対応すると発表した。これは新政権による天皇の権威によって所領を直接的に保証するという方策で、そうすることに拠って天皇親政を具現化しようとしたものであったが、この頃、全国各地から綸旨を求める武士が京都に殺到しており、それを裁き切るだけの事務処理能力を、そもそも新体制が有していなかったので、大混乱を起こした。なので、この個別安堵法は施行から一ヵ月半ほどで撤廃されるという大失態を起こしている。

建武年間に書かれたという「二条河原落書(らくしょ)」とは、つまり、その頃に書かれた落書きを指すが、次の一文が実際に『建武年間記』に記されているという。

「此比(このごろ)都ニハヤル物、夜討、強盗、謀(にせ)綸旨」

綸旨すなわち天皇の発した命令書によって何事も決定しようとしたが、偽の綸旨が大量に出回ってしまい、大混乱を起こしてしまっていた様子を伝えるものとされている。

何事も勅裁によって統治しようとした後醍醐天皇の構想は、現実的な事務処理能力の限界を抱えていたという事でしょうねぇ。

足利高氏は「勲功第一」と評されて、従四位下・左兵衛督に叙任された。北条氏の所領であった武蔵・相模・伊豆の三ヵ国を与えられた。

後醍醐天皇が武士を統括できる足利高氏を利用しようと、もしくは逆らわぬよおうにしようという態度であったのに対して、護良親王は足利高氏への警戒心を解かなかった。入京後の後醍醐天皇は護良親王に入京を促がしていたが、武士の頭領である足利高氏を巡って後醍醐天皇と護良親王との間では温度差があったらしく、護良親王は信貴山に籠もって兵を集める動きをしていたという。

1333年6月23日、護良親王は入京を果たし、その入京と同時に征夷大将軍に任じられた。護良親王が入京に応じるにあたって、征夷大将軍任命を交換条件を出していたものと考えられるのだそうな。

1333年8月5日、足利高氏は官位が従三位に昇格となると同時に武蔵守(むさしのかみ)に任務じられ、これは国司と守護を兼ねた役職であったという。また、この8月5日、後醍醐天皇の諱である「尊治」から【尊】の一字を与えられ、足利高氏から足利尊氏へと改名した。(叙任された従四位・左兵衛督は、尊氏の実弟・足利直義が一時使用しているのが確認できる。)

1333年12月、上杉憲房は足利尊氏から勲功を認められ、伊豆国・奈古谷郷の地頭職を与えられる。奈古谷(なごや)郷とは今日の静岡県韮山町であり、旧北条領であった。以降、南北朝時代から室町時代に掛けて上杉氏が発展するが、上杉氏の東国に於ける発展基盤となったのは、この奈古谷郷であったという。


◆建武政権の軋み

後醍醐天皇の建武政権は足利尊氏に対しての警戒感の為か、鎌倉将軍府と奥州将軍府を置いた。この両将軍府は、鎌倉時代の六波羅探題や鎮西探題と似たような軍事力を持った拠点を中央政府が掌握する為の何かであったと思われ、鎌倉将軍府には成良(なりよし)親王が派遣され、奥州将軍府には義良(のりよし)親王を派遣した。成良親王、義良親王ともに後醍醐天皇の実子(母は側室の阿野廉子)であり、義良親王は後に後村上天皇となる。

鎌倉将軍府に入った成良親王の執事には足利尊氏の実弟・足利直義(ただよし)が付け、奥州将軍府に入った義良親王の執事には後醍醐天皇からの信望が厚かった北畠顕家が付けることにしたという。

1333年10月、北畠親房・北畠顕家が義良親王を奉じて奥州将軍府に下向する。

1333年12月、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に下向、鎌倉将軍府は関東8か国に甲斐、伊豆を合わせ、計10か国を管轄下に置いた。

1334年6月、京都市中に護良親王が足利尊氏を敵視し、挙兵を目論んでいるという不穏が噂が流布する。それに対して、足利尊氏は後醍醐天皇の側室で成良親王と義良親王の実母である阿野廉子(あのれんし)に「護良親王が後醍醐天皇の帝位を狙っている」と讒訴を吹聴して応じる。

1334年10月、足利尊氏の讒訴は功を奏し、後醍醐天皇の命令を受けた結城親光と名和長年によって護良親王は捕らえられ、足利尊氏の実弟・足利直義に身元を預けることとなり、鎌倉へ送られる。この時点では護良親王の対応は定かではないが、東光寺に幽閉される。


◆中先代の乱〜鎌倉奪還

1335年6月、京都の西園寺公宗(きんむね)に匿われていた北条泰家が建武政権打倒を企てていた事が園寺公宗の異母弟である西園寺公重が後醍醐天皇に、計画を打ち明けるという形で発覚。

この北条泰家は、新田義貞と分倍河原の戦いで対峙した北条泰家であり、最後の得宗・北条高時の実弟でもある。北条泰家は分倍河原の戦いに敗れた後、一度、鎌倉へ撤退し、その後、北条高時の子・時行(ときゆき/幼名・亀寿丸)を信濃国の諏訪氏に託し、北条泰家は陸奥国へ逃亡していた。しかし、陸奥国から京都に戻り、還俗し、刑部少輔・時興(ぎょうぶしょうすけ・ときおき)という名前を名乗って西園寺邸に潜伏していたのだ。

潜伏していた目的は北条家再興であった。信濃国の北条時行をはじめ、京都から各地の北条残存勢力と連絡を取り合っていたという。決起は、この6月を予定しており、計画では後醍醐天皇を弑逆し、光厳天皇を帝位に就かせるという計画であったという。

1335年年6月22日、結城親光、名和長年、中院定平が西園寺公宗邸に赴き、公宗ら一族を捕縛したが、肝心の北条泰家は逃走に成功。

1335年7月14日、信濃国で諏訪頼重が北条時行(幼名・亀寿丸)を報じて挙兵。得宗・北条高時の遺児である北条時行が諏訪氏に奉じられて挙兵した事で、滋野氏、保科氏、葦名氏、清久氏、工藤氏、四宮氏、塩谷氏らが呼応し、本格的な反乱軍が形成される。

その後、越中国でも北条一族の残存勢力である名越時兼が挙兵。各地で糾合が始まる。

信濃で挙兵した北条時行軍は、信濃国守護・小笠原貞宗軍を撃破。以後、保科・四宮軍が北信濃で建武政権軍と戦う一方、北条時行軍は碓井峠から上野国に入り、鎌倉街道上道を南下するという、嘗ての新田義貞と同じルートで鎌倉を目指して南下を始める。

名越時兼軍も建武政権方の越中・松倉城を陥落させ、京都へ進軍を始める。

鎌倉将軍府では、9歳の成良親王が「征夷将軍」の名で置かれていたが、その執事は足利直義であり、実権を握っていたのは足利直義であった。足利直義は反乱を鎮圧すべく、義兄・渋川義季と一族の岩松経家を武蔵国・女影原(おなかげはら/埼玉県日高市)に派遣し、下野国守護・小山秀朝を武蔵国・府中(東京都府中市)に派遣して、盤石の体制をとった。

北条時行軍の軍勢は5万騎余りの大軍となり、鎌倉将軍府が女影原へ派遣した渋川義季軍と岩松経家軍は撃破され、渋川義季は自刃、岩松経家も自刃という衝撃的な敗北を喫する。これは足利直義からすると、どちらも足利一門の将が自刃に追い込まれた事になり、足利直義は自ら北条時行討伐軍に乗り出し、武蔵国・井手沢(東京都町田市)まで軍を率いて出陣する。

その後も北条時行軍は快進撃を続け、小手指原の戦い、府中の戦いと制して南下を続ける。

1335年7月22日、井出沢で、とうとう足利直義軍と対峙する。しかし、ここでも北条時行軍は大勝し、足利直義は鎌倉へ撤退を余儀なくされる。

鎌倉へ戻った足利直義は鎌倉を捨てる選択をし、成良親王と千寿王(足利義詮)を連れて三河国へ脱出する。

また、この大混乱に乗じて、足利直義は配下の淵辺義広(ふちのべ・よしひろ)に命じて東光寺に幽閉していた護良親王の毒殺を謀ったとされる。

1335年7月25日、北条時行軍は鎌倉を占拠。

北条一族の亡霊でも味方したのか、最後の得宗・北条高時の遺児である北条時行が鎌倉を奪還するという波乱が起こる。
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◆中先代の乱〜鎌倉奪還

鎌倉を脱出した足利直義は三河国・矢作まで逃れ、そこで成良親王を京に送ると共に京に留まっている足利尊氏に援軍を求めた。足利尊氏は、後醍醐天皇に征夷大将軍と総追捕使の二つの職の任命を求めたが、後醍醐天皇の反応は足利尊氏に対しての警戒感からか鈍いものであった。

1335年8月2日、足利尊氏は後醍醐天皇の許諾を得ることもなく、5百騎を率いて弟と嫡男が滞在している三河国へ出陣しようとしたので、後醍醐天皇はやむを得ず「征東将軍」に任じたという。

1335年8月7日、三河国・八橋にて足利尊氏は3万の兵を率いて、弟・直義と合流。

1335年8月9日、遠江国・橋本にて、足利尊氏軍と北条時行軍が衝突、足利軍が撃破する。この初顔合わせから、同月12日に遠江国・小夜中山、同月14日に駿河国・府中、同月17日に水飲峠と連勝し、同18日には関東入りを果たす。関東入り後も片瀬、腰越、十間坂と勝ち進み、同19日には鎌倉入り。鎌倉で発生した市中戦でも足利尊氏軍は連戦連勝を続けた為、諏訪頼重は北条時行を逃がした後、勝長寿院にて自刃。一族郎党40余名が従ったという。

北条時行は鎌倉を占拠したが、鎌倉を占拠していた期間は僅か20日間ほどで鎮圧されて、中先代の乱は終結した。


◆箱根・竹之下の戦い

鎌倉を制圧した足利尊氏は、その後も鎌倉に居座った。後醍醐天皇の帰京命令も無視し、鎌倉に留まるという不穏な動きをとった。鎌倉に居座って動かない足利尊氏は、戦功のあった武士たちに恩賞を与えていたが、それが意味する事は建武政権の方針を無視している事でもあった。新田義貞の領地である上野国の守護に、足利尊氏は自らの腹心である上杉憲房を充てる等の恩賞の与え方をしていたという。

後醍醐天皇の勅使として中院具光が鎌倉入りし、恩賞は綸旨によって行うものとする旨の意向を伝え、足利尊氏に帰京を促がしたところ、当初、尊氏は帰京する態度を見せたが、弟の直義に反対されたという。

1335年11月2日、足利直義が新田義貞討伐の御教書(下達文書)を発する。

京都では足利尊氏が鎌倉に留まり続けている事に懸念を抱いていたが、この11月、新田義貞討伐の御教書が届き、また、護良親王が殺害された事も伝わったという。

1335年11月、後醍醐天皇はとうとう足利尊氏・直義の討伐の綸旨を下した。

同月22日、奥州将軍府の北畠顕家が出陣。この頃、足利尊氏は建武政権が設置した奥州将軍府に対抗して、足利氏庶流でもある足利一門の斯波家長を陸奥へ派遣している。

同月下旬、足利尊氏討伐軍の大将となった新田義貞が数万の大軍を率いて東征を展開、鎌倉側は新田義貞軍を迎撃すべく足利直義・高師泰の軍勢が出陣。

三河国・矢作にて足利直義軍と新田義貞軍が激突。この矢作宿は足利氏に所縁のある土地での合戦であったが新田義貞軍が勝利する。足利直義軍は撤退戦となる。続けて遠江国・鷺坂、駿河国・手越でも新田義貞軍が足利直義軍を破って東進を進める。

直義敗戦の報を受けた足利尊氏は、自ら出陣することを決意し、仁木、細川、高、上杉らの軍勢を引き連れて出陣、箱根へ向かい、箱根で弟・直義軍と合流して、遂に新田義貞と足利尊氏とが激突する運びとなる。

新田義貞は義弟の脇屋義助を足柄峠に進軍させ、一方の足利尊氏も新田軍を挟撃しようとして足柄峠越えという作戦を採った。

1335年12月11日、足利尊氏は足柄明神の南の竹之下に陣を張っている脇屋義助軍を発見、これに奇襲を仕掛けた。引き退いた脇屋軍を追い中山(御殿場)で脇屋軍に打撃を与える。翌12日、脇屋義助軍は佐野山に陣取って立て直しを図る。一方の足利尊氏は戦功のあった武士らに派手に恩賞を与え、その足利尊氏の気前の良さを伝え聞いた脇屋義助軍から主力であった大友貞載と塩冶高貞が足利軍に寝返る。このとき、後に足利氏に重用されるバサラ佐々木道誉も足利軍に寝返ったという。箱根山中では新田義貞軍は善戦、むしろ優勢に戦をして展開していたとされるが、この寝返りを契機にして新田軍は総崩れとなり、西へ敗走する。西へ敗走する新田軍に対して、足利軍は追撃を掛ける。

この戦いは竹之下(静岡県小川町)と箱根山中(神奈川県箱根町)で繰り広げられたものだという。

新田義貞、敗北の報は京都を震撼させた。建武政権軍は名和長年・結城親光を近江国・勢多へ、楠木正成を山城国・宇治へ、脇屋義助を山城国・山崎に布陣し、足利軍の侵入に備えた。当初、新田義貞軍は尾張国で、再び足利尊氏軍と合戦に持ち込む予定であったが、四国地方、北陸地方、山陰地方でも足利軍に呼応して蜂起する動きが出始めた為、新田義貞は後醍醐天皇によって京都の警固を固めるよう命じられ、そのまま入京する。京都市中は物々しい雰囲気を察した人々で騒がしくなり、中には船で脱出する者もあったという。

(この際、鎌倉には足利義詮が残って留守を守ったことになる。他に鎌倉に残っていたのは上杉憲顕、上杉憲藤らが留守部隊だったよう。)


◆足利尊氏、入京する

近江国に辿り着いた足利軍は、軍団を二つに分けた。尊氏自ら率いる本隊は宇治に進軍し、足利直義に高師泰を補佐させた直義軍を勢多に向かわせた。

1336年1月1日、勢多にて名和・結城軍と足利直義軍とが衝突。名和・結城軍は、事前に勢多橋の袂に櫓を設置して備えており、侵入してくる足利直義軍に矢を射かけた。宇治川を渡ろうとする事を見越して宇治川には杭を何本も打ち、さらには大網を張り巡らせる等の策で足利直義軍の足止めに成功する。

1336年1月7日、宇治にて足利尊氏軍が楠木正成軍と激突。楠木正成軍は奮戦、足利尊氏軍を食い止めたという。

しかし、四国で蜂起した細川定禅の軍勢が山陽道から進軍しており、山崎の脇屋義助軍が細川定禅軍に敗れる。山崎を破られた事で宇治に陣取っていた楠木正成軍は背後を衝かれる危険性が浮上、楠木正成は陣を引き払って京都に戻ったという。

1336年1月11日、後醍醐天皇は比叡山(滋賀県大津市)に逃亡。足利尊氏は入京を果たす。

上杉憲房が四条河原が討死し、その子・上杉憲顕が上野国守護となる。
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◆新田義貞の逆襲

1336年1月13日、昨年11月22日に奥州将軍府を出陣していた北畠顕家軍が近江国に到着し、比叡山の後醍醐天皇の軍勢と合流する。

1336年1月16日、奥州からの援軍を得た建武政権は新田義貞に細川定禅が陣を張る園城寺攻めを展開、細川定禅が迎撃に向かう。新田義貞軍が細川定禅軍を大津で破り、細川定前は園城寺(おんじょうじ/滋賀県大津市)に籠城。籠城した園城寺を新田義貞軍が焼き払い、陥落させる。足利尊氏軍が粟田(あわた)口で新田義貞軍を待ち伏せ、打撃を与える。新田義貞は近江へ撤退。

同年1月27日、新田義貞軍が再び京都を攻め、北畠顕家軍が山科方面から粟田口に向かい、粟田口の足利尊氏は新田義貞軍と北畠顕家軍の挟撃に遭う。足利尊氏は京都を放棄して丹波国へ撤退。建武政権軍は、チャンスを逃すことなく追撃、摂津国・兵庫、摂津国・打出、西宮、豊島河原(てしまがわら)でも足利尊氏軍に追い討ちを掛ける。

1336年2月12日、周防国守護でありながら建武政権に冷遇されていた大内弘之が軍船で神戸に到達。これは足利尊氏の救援に駆け付けたものであった。足利尊氏は神戸から室津へ大内弘之の軍船で逃亡する。

戦巧者の足利尊氏が連敗を喫しているものの、この間、足利尊氏は播磨国・室津で軍議を開き善後策を策定。中国・四国地方に人員配置をすると共に、光厳上皇の院宣(いんぜん)を入手して大義をつくる事を画策、これは建武政権下で排除されている持明院統の面々と合致したという。足利尊氏は備後国・鞆津にて、光厳上皇の院宣を手に入れる。

これによって大覚寺統と持明院統との対立構図が再燃する。

1336年2月29日、本州を脱した足利尊氏は、この日、筑前国・芦屋に上陸。筑前国守護の少弐氏は尊氏側であり、少弐頼尚(よりひさ)の案内にて尊氏は宗像大社の大宮司・宗像氏範の屋敷に身を寄せた。

建武政権側の肥後国・国司の菊池家では菊池武敏が軍勢を整え、阿蘇惟直と共に少弐氏の拠点になっている大宰府攻めを敢行、大宰府が陥落する。これによって筑前国守護の少弐貞経が自刃に追い込まれている。この少弐貞経は少弐頼尚の父である。


◆多々良浜の戦い

大宰府を陥落させた菊池武敏・阿蘇惟直の連合軍は筑前の箱崎・香椎間にあった多々良浜に進軍、その多々良浜にて、九州地方に於いて天下分け目の合戦となる。

当初、足利尊氏方についていた松浦氏、秋月氏、星野氏、蒲池氏、神田氏であったが、大宰府陥落を受けて菊池・阿蘇方に寝返り、足利尊氏方には島津氏、大友氏、宇都宮氏、千葉氏という陣容。単純な兵数では菊池・阿蘇連合軍の方が優位であった為、「太平記」では尊氏は自害を覚悟したが直義に諌められた事になっているという。

足利尊氏軍は高師泰、島津、大友、宇都宮、千葉で大手に配置する一方で、右翼に少弐頼尚軍を配置し、その右翼の先陣に足利直義を配置した。

1336年3月2日、両軍が激突。菊池・阿蘇軍は右翼に展開した少弐軍に攻撃を仕掛け、数的有利で優勢に進めたという。右翼・少弐軍で先陣を務めていた足利直義が菊池軍に包囲されてしまう。絶体絶命の窮地に陥った直義は、自らの直垂(ひたたれ/上着)の右袖を添えて、「この場は食い止めるので(尊氏は)周防長門へ退却するように」という形見付き伝言を寄こしたという。

直義から遣わされた形見付き伝言に尊氏は大いに発奮し、凄まじい勢いで数に勝る菊池軍を押し返し始めたという。徐々に戦況が足利尊氏に傾き出すと、松浦氏、神田氏が再び尊氏方への寝返りを演じると、内応が連鎖しはじめて九州武士は続々と尊氏の元に馳せ参じたという。それが転機となり菊池・阿蘇軍が雪崩を打つように瓦解。菊池武敏は敗走、阿蘇惟直は自刃(討死)に追い込まれた。終わってみれば、足利尊氏軍が大勝。

この多々良浜の戦いを制した後、足利尊氏は大宰府に滞在し、九州地方、西中国地方の諸勢力を味方に引き入れる策を講じた。

建武政権は多々良浜の戦いを足利尊氏が制したという報を受けて、直ちに尊氏討伐の為に新田義貞軍が出陣した。しかし、この新田義貞軍は播磨国・白旗城で籠城策を採った赤松則村に手こずり、足止めを受けた。また、新田義貞の弟・脇屋義助軍も備前国・三石城攻めに手こずり、足止めを受けた。足利尊氏は播磨国・室津で開いた軍議の際、再びの入京を視野に入れた人員配置をしており、予め追撃軍を阻止する為の配置をしていたという。


◆尊氏、九州を発つ

播磨・白旗城で籠城戦を続けている赤松則村、備前・三石城で籠城戦を続けている石橋和義から尊氏に上京を促がす書状が届く。秋まで九州で立て直しに尽力すべきという意見を退けて、足利尊氏は出陣を決意。

1336年4月3日、九州地方の拠点として九州探題を設置、その九州探題に一門の一色範氏を指名、九州探題を残して出陣。

1336年5月5日、備後国・鞆津にて軍議を開催。陸路を足利直義軍、海路を足利尊氏軍で東征を進める方針が決定される。
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◆湊川の戦い

迫りくる決戦に備えて、建武政権軍でも軍議が開かれた。その場で楠木正成は、「後醍醐天皇は比叡山に移り、尊氏を入京させた上で、淀川の川尻を塞ぎ、楠木正成軍と新田義貞軍とで挟撃する」という案を出したが、その案は後醍醐天皇の側近・坊門清忠によって猛反対を受けたという。理由は「天皇が年に二度も比叡山に逃げるのは体面が悪い」であったという。

その軍議の結果、決戦の舞台は摂津国・兵庫湊川付近となった。新田義貞は和田岬に、楠木正成は湊川西岸、会下山に陣する事になった。

1336年5月24日、尊氏本隊は明石沖に到達、尊氏方の細川氏率いる細川水軍は須磨沖へ展開。新田義貞が陣を布いていた和田岬は、細川水軍が生田に上陸作戦を展開すると背後を捕らえられてしまうので生田で細川氏の軍勢と戦うことになる。新田義貞軍が細川氏に誘き出されるかたちとなり、会下山の楠木正成は孤立することになる。

尊氏本隊は駒ヶ林に上陸。この位置は、新田義貞軍の背後であり、楠木正成軍の真正面となる。

陸路で展開していた直義軍は三方面から攻め、直義本隊は須磨方面から楠木正成軍を攻め、別動隊の斯波高経軍には北側、鵯越方面へ、そして少弐頼直軍には南ルートで攻めた。

新田義貞軍は生田まで引き返すが敗走。見事に足利方の戦術に嵌められて誘き出され、新田義貞軍と楠木正成軍は連携を遮断された状態となった。

楠木正成軍は、直義軍と向き合いながらも背後から斯波高経軍、正面から尊氏本隊からも攻められるという苦しい展開となった。楠木正成軍は、一時的に足利直義を一時退却させるまでの粘りを見せ、直義に追撃を仕掛けたが、その追撃は尊氏本隊から投入された吉良氏や上杉氏が追撃を許さなかったという。

敗戦を覚悟した楠木正成は一件の農家に立ち入り、弟・正季と刺し違えるようにして自刃。

新田義貞は生田森で尊氏本隊で激突し、新田義貞自ら前線で刀を振るったが戦力差は歴然で、新田義貞は京都へ撤退。


◆南北朝時代へ

楠木正成戦死の報を受けて後醍醐天皇は比叡山へ脱出。新田義貞軍を追撃しながら、足利尊氏軍が入京。新田義貞討伐の院宣を出した光厳上皇は東寺に身を寄せていた為、そこに足利尊氏も陣を展開させた。いずれ新田義貞が攻めてくると見据えていたという。

足利尊氏は近江国に地盤を持つ佐々木道誉に琵琶湖の水運を押さえさせ、自軍への補給路を確保。これは同時に北陸から比叡山への補給路を断つことを意味しており、比叡山は孤立化。

1336年6月30日、新田義貞軍が東寺に陣取る足利尊氏軍を攻めるが、尊氏軍は万全の態勢で備えており、迎撃。激戦となったが勝負を制したのは足利尊氏であった。新田義貞軍では名和長年が討死する等の打撃を受け、近江国・坂本に撤退。

1336年8月15日、光明天皇が光厳上皇の院宣によって即位する。三種の神器は後醍醐天皇が持っていた為に上皇の院宣のみを頼りに即位した。異例といえば異例であるが先例として、後鳥羽天皇のケースがあり、後鳥羽天皇は後白川法皇の院宣にて即位をしていた。この事態によって、後醍醐天皇(大覚寺統・南朝)と光明天皇(持明院統・北朝)とが同時に存在するという事態が生じる。

1336年10月9日、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王が新田義貞に託され、新田義貞は両親王を託された形で越前国へ発つ。

1336年10月10日、足利尊氏の要請に応じて後醍醐天皇が和睦案を受け入れて比叡山を下山する。

1336年10月13日、新田義貞が恒良親王と尊良親王を奉じた形で越前国・金ヶ崎城に入城する。

1336年11月2日、後醍醐天皇から光明天皇への譲位の儀が執り行われる。これによって後醍醐天皇は上皇となり、後醍醐天皇の皇子である成良親王が皇太子になるという両統迭立の法則性で一度は和睦が図られた形になったという。三種の神器は後醍醐天皇から足利氏を経由して光明天皇の元へ渡ったとされる。

1336年11月7日、「建武式目」を制定し、実質的な足利幕府が発足する。政務の面では足利直義が中心となり、鎌倉幕府の政策を受け継ぐことを表明。また、軍事面では尊氏の側近で功績の大きかった高師直(こうのもろなお)が重用される方針が固まったという。

1336年12月21日、後醍醐天皇は退位については認めておらず、京都を脱出。楠木一族の案内で河内国・東条に向かった後、更に大和国・吉野に入る。その吉野で朝廷を開き、名実ともに南北朝時代となる。

後醍醐天皇は比叡山を下山する直前に、恒良親王に三種の神器を譲った上で譲位し、恒良(つねよし)親王と尊良(たかよし)親王を新田義貞に預けて越前国に下らせていた。また、北畠親房に宗良(むねよし)親王を託して伊勢国に下らせていた。(特に「太平記」では、比叡山を下山する直前に後醍醐天皇は恒良親王に譲位していたとする。)


◆金ヶ崎の戦い

1337年1月18日、足利幕府軍は高師泰を大将とする大軍を投じて、金ヶ崎城攻めに取り掛かった。金ヶ崎城は小さな城ながら三方を海に囲まれた天然の要害であり、金ヶ崎城は容易には陥落しなかったが籠城戦が長引いた為に新田軍が兵糧不足の問題を抱え、新田義貞自らが杣山城へ物資の調達に出向いた隙に、高師泰軍の総攻撃を仕掛けた。

1337年3月6日、金ヶ崎城が陥落がする。この金ヶ崎の戦いにて、尊良親王が自刃、新田義貞の子・新田義顕が戦死したのを始め、新田一族で十余名の戦死者を出したという。
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◆三種の神器、実際にはどう考える?

「三種の神器は現存しているのか?」と問われたら、どう答えられだろうか。現在でも色々な説明がなされていますが、一度、ここで整理してみようと思ったら、桑田忠親著『日本史の謎と怪異』(日本文芸社)に詳しい記述があったので、それに沿って。

先ず、三種の神器は実在しているという。それは「御霊」が乗り移ったという解釈によって「神器」の概念が成っているので、延々と古代から同じ神器が継承しているという意味ではなく、模造品として御霊が移されて現存しているの意であるという。つまり、模造品であっても、それは偽物ではないの意。

その模造品は偽物ではないという含意の上で、いわゆる「三種の神器」はどのように考えられているのかというと、「全て模造品である」という説と、「勾玉だけは古代から神器であるが剣と鏡は模造品である」という説とに大別されているという。

先ず、八咫鏡については、『釈日本紀』と『小右記』に見える村上天皇の天徳4年(西暦960年)9月13日「内裏御所焼亡の条」に記述があるという。「中心に鈕座(ちゅうざ)を持つ径約八寸ばかりの円規の銅鏡である」旨の説明があるという。

次に、八尺瓊勾玉についてですが、これは『越後国風土記』の逸文に「八坂丹は玉の名なり。玉の色青きをいう。故れ、青八坂丹の玉という」を挙げることができるので、日本産の翡翠であると考えられるという。

最後に草薙剣ですが、これは熱田神宮に祀られている事で知られている。で、その熱田神宮の神官らが『玉籤集』の記事にヒントが発見できるという。それに拠れば、「刃先は菖蒲の葉のようになっており、鎬は丸みを帯び、長さは2尺7〜8寸」というヒントが記されているという。刃先は菖蒲の葉と形容されているから両刃であり、弥生時代後期の有柄広型銅剣が想定できるという。

では、滝川政次郎説から。

崇神天皇の時代に八咫鏡は笠縫邑に遷され、更に垂仁天皇の時代に伊勢に遷されて、そこで伊勢神宮の御神体になったという。

草薙剣は景行天皇の時代にヤマトタケルが持ち出しており、尾張の宮簀媛の枕辺に置いたとされるが、つまり、これが熱田神宮に祀られた事の記述であるという。

従って、八咫鏡も草薙剣も宮中には留まっておらず、宮中に残ったのは八尺瓊勾玉だけであったとなる。従がって、現存している八咫鏡と草薙剣については模造品という事になる。

しかも、この説の鋭いのは次の部分でしょうか。帝国学士院編『帝室制度史』の中には、伊勢神宮の御神体を神鏡、熱田神宮の御神体を神剣と呼ぶのに対して、宮中にある神器については、それぞれ宝鏡、宝剣といった具合に呼び分けて区別している旨の記述があるという。

おそらく、三種の神器が皇位を証とされたのは、大化改新の頃で、成文化されたのは天智天皇の時代の近江令が初見だという。しかし、間もなく壬申の乱が発生し、古くから伝わっていた三種の神器は焼亡し、天武天皇が飛鳥浄御原令を制定する際に、近江令に則って三種の神器を新造した可能性があるとする。

平安末期、安徳天皇を奉じて西海に向かい、安徳天皇と共に入水、つまり、海に沈んだとされる一件は特に有名であり、勾玉と鏡は発見されたが、剣はついに発見されなかったという逸話を残している。そのため、後鳥羽天皇は順徳天皇の即位にあたっては伊勢神宮に祀られていた宝剣を授け、以降、その宝剣が三種の神器になったという。

そして、この次が、後醍醐天皇から光明天皇へと渡った三種の神器はニセモノであるという、この混乱に行き着く事になる。ニセモノの神器を持っているのが北朝であり、ホンモノは吉野、南朝にアリという。しかし、このネタ元が北畠親房が編纂した『神皇正統記』であり、ばりばりの後醍醐天皇側の人物が編纂した歴史書であるワケですね。また、水戸光圀も『神皇正統記』を踏襲し、更には明治維新以降の近代日本でも南朝を正統とする南朝正統論が過熱して展開される事になった。喜田貞吉らは批判を加えていたものの、明治以降の日本は南朝正統論のまま、その歴史を歩んだ。

また、ごくごく最近になって足利尊氏の見直しが行われている。明治以降の皇国史観の中で「尊氏=逆賊」というレッテルで語られてしまった悪しき慣習があり、それを未だに引き摺っている事、また、面倒臭いので学者らも積極的に言及を避けてきてしまったテーマでもあるという。そうであるが故に、近年、初期室町時代及び南北朝時代の再検討される潮流にあるのだそうな。日本史史料研究会監修・亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線』(洋泉社)等は、そう言及されている。

既成の鎌倉幕府の秩序が崩壊し、そこへ後醍醐天皇の建武の新政が起こる。既存の秩序が、これほどダイナミックに崩壊し、大乱に次ぐ大乱の時代が、南北朝時代前後なんですね。或る意味では、群雄割拠になった戦国時代以上の乱世である。天皇が秩序なのか、それでは天皇が新たに擁立されてしまった場合、どうなるのか。そうなると正統性を争うことになり、そこから「そちらにある三種の神器は贋物である。本物は我々が持っている」という具合に展開してしまう、まさしく油断も隙もない時代である。
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