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人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:関東史シリーズ > 関東史を考える

「魏志倭人伝」に記されている女王国(邪馬台国)に従属しているしている国名というのがありましたよね。

斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴里国、支惟国、烏奴国、◇奴国

似た音を持つ地名を当て嵌めることに意味はないとされているが、「おや?」と思う当て嵌めは出来てしまうものでもあるという。たとえば【斯馬国】とは【しま】という音であるが、大和盆地に隣接している【志摩】(三重県地方)の意味ではないのか、更には【弥奴国】は【みぬ】という音であるが【美濃】(岐阜県地方)にあたる。更に【鬼国】の音は【き】となりますが、これは『常陸国風土記』に拠れば筑波県の古い名称は「紀国」に当たるといい、その鬼国の次には【鬼奴国】が配置されており、その音は【きぬ】になるワケですが、現在の群馬県と栃木県地方は「毛野」であり、音は「けぬ」であったりする。

なるほど、よくよく眺めてみると地図上の配置と国名とで、「おや?」と感じるものはあるというのがホントらしい。

そういえば現在でいうところの【鬼怒川】というのは【衣川】であり、やはり、語源としては「毛野川」が語源ではないのかという話を聞いた事がありますが、古代になると謎だらけなのだ。

さて、掴みどころのない話ながら「東国について」をずっと考えているんですね。取り上えず、古代の東国を考えてみるつもりで、それを考えるときには手掛かりになる事柄は結構、少ないんですよね。取り敢えず、「魏志倭人伝の記述にある鬼国と鬼奴国は、それぞれ茨城県筑波地方、群馬と栃木に跨る毛野氏の勢力圏のように読むことができるという説が実在する、それだけ。

毛野氏については過去にも取り上げているんですが崇神天皇の後裔とされており、「新撰姓氏録」にも記されている。事実なのかどうかは微妙ながら古代に勢力を誇った豪族である事は確実視されている。

何故、上毛(じょうもう)と記せば現在でも群馬県を差し、一方で下毛(しもつけ)というと栃木県を差す。上野と書いて「こうずけ」だし、下野と書いても、これまた「しもつけ」と読む。北関東にある群馬と栃木というのは、古代毛野氏の国なのだ。

毛野氏が崇神天皇の末裔だというのが真実なのかどうかは一先ず置いておいても、妙に大きな勢力を誇っていたのが毛野氏であるという。

その話、よくよく見直してみると一定以上の説得力があるのではないかという気分になってくる。というのは、現在の関東地方を眺めた場合、西からやってくるには山梨県を越えて東京多摩地方、埼玉秩父地方を経由して北上すると群馬県、更に西に進んで栃木県へ到るという地理条件だったらしんですよね。ついつい現代人は東海道新幹線に沿って考えてしまうのですが、平安時代頃までの武蔵国地方(埼玉、東京)は低地であり、現代人の意識する横浜から東京を経てさいたま市を通過して北上するというルートは存在していなかった。考えればすぐにでも分かる事なんですが、結構、見落としてしまう。

で、もう一つは関東地方でも、房総地方を経て常陸地方・筑波地方へと到るルートであったという。静岡県の箱根あたりまで太平洋沿岸に沿って東進しても武蔵地方は低地だから北上できず、海路を行き房総半島へ進み、そこから上総、下総(千葉県)を北上して常陸地方へ到達できる。更に古代の霞ヶ浦は内海のようであった為に常陸地方を北上し、鹿島神宮と香取神宮が配置されている。武蔵エリアには中々、辿り着けずに海を東進し、そのルートになったのは半ば必然であったかのよう。

これらの事は、現在でこそ首都圏を有して繁栄の都になっている武蔵地方は古代人の東進ルートとしては、最後の方になったと考えられる。

そして、「日本書紀」には神功皇后にかかる一節で、千熊長彦(ちくまながひこ)が朝鮮半島へ渡ったという記述が登場する。西暦に換算すると、それは367年の事で、その千熊長彦とは武蔵国の人である。また、「ちくまながひこ」の名前は「百済記」でも確認可能で「職麻那那加比跪」が見える。

千熊長彦は、百済から大和朝廷に対しての貢物を新羅が横取りしたという事件が発生、その後、百済の使者と一緒に朝鮮半島へ渡り、百済との交流を深めた人物である。そして、西暦369年には荒田別と鹿我別の両人が将軍として新羅に軍事的圧力を加える為に朝鮮半島へ渡り、七か国を平定し、それらの国々を百済に与えたとされる。で、その荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)は、上毛野君(かみつけぬのきみ)の人であったことになっている。(石上神宮の七枝刀を持ち帰って献上したのも荒田別・鹿我別が有力だそうな。)

古代の東国というと未開の地であり、歴史舞台には余り関係がなかったようにも語られてきていた気がするものの、信憑性が検証できる4世紀の話で、既に武蔵地方から官人となり外交を任されていた節のある千熊長彦が居たり、武力で威嚇する為に出陣した将軍が上毛にあったとされる大豪族だったりするのだ。

それを考慮すると、魏志倭人伝に記されていた鬼国と鬼奴国が茨城、群馬、栃木のことではないのかという話も、結構、引っ掛かって来ますかねぇ。三世紀にあったという邪馬台国(女王国)というのは、既に関東の有力どころも関与していた? 4世紀にはこれが起こっているのだから魏志倭人伝の3世紀には既に畿内の中央勢力との連携がある程度は出来ていても不思議はなさそうだし。
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さきたま古墳群の中の稲荷山古墳から出土したオワケ(乎獲居)の銘鉄剣が現存する。乎獲居という人物が鉄剣に文章を銘していたワケですが、ワカタケル(獲加多支鹵)の杖刀人(じょうとうにん/親衛隊長なり護衛長のような意味)として仕えていたという。そして、乎獲居はオオヒコ(大彦・意富比垝)を祖とする八代の系譜を刻んでいた。銘が刻まれたのは辛亥年7月であり、西暦に換算すると471年となる。

(ワカタケルが雄略天皇であることは確定的であり、且つ、雄略天皇を「倭王武」という事もコンセンサスが出来上がっている。そのワカタケルの杖刀人が乎獲居。)

以前にも触れていて、乎獲居臣(おわけのおみ)は畿内の有力者が古代の埼玉県行田市にまでやって来たものなのか、それとも古代北武蔵の出身の有力豪族であったのか。これについては明確な方向性は打ち出せないものの、古墳ガイドに目を通していたら、その実、有力なのは乎獲居は武蔵豪族であろうという説でした。喧々諤々あるのですが、よくよく総合的に時代考証をしてみると既に上毛野君が4世紀に朝鮮半島に渡って大活躍している他、百済との外交を請け負った千熊長彦という人物にしても武蔵国の出身なのであり、従来の古代武蔵観は、少し畿内優位、東国劣位という先入観に捉われていたかのような、それがあるんですよね。

シンプルに考えると畿内からやってきたエリート官僚が何故、僻地の埼玉に古墳をつくるんだって話になる。まして貴重な鉄名剣と一緒ですからね。当然、故郷に墓をつくり、その鉄名剣にしても故地に自分ともども埋葬し、子孫に銘文を読ませたかったのが乎獲居の本意であったと解釈した方が自然といえば自然。出張先に墓を建ててお宝ごと埋まるよりも、故郷に墓を建てて埋まりたいという方が素直でしょうし、そんな貴重な鉄名剣であれば、子孫に残したいと考えるものでしょうしねぇ。武蔵出身者が武蔵に埋まったという解釈の方がすっきりするんですけどね。裏付けるように古墳の規模の状況などからすると不思議と埼玉や群馬には巨大古墳があり、或る意味では異常とも言えそうなのにね。

しかも、千熊長彦については始祖は額田部月本首(ぬかたべのつきのもとのおびと)と「日本書記」に記されている。その額田部は応神天皇の皇子である額田大中彦皇子の名前に因んだ名代部に由来し、額田部槻本首は額田部を管理していた伴造氏族に関わると見られており、武蔵地方の有力者であっただろうという推測は、さほど懸け離れていないともいう。更に言えば、埼玉県鴻巣市には「額田」という地名があり、その関連も疑われるという。

埼玉県の地理的な話になってしまいますが、鴻巣市であるとか行田市というのは思いの外、近く、且つ、さきたま古墳群があり、後述することになるかと思いますが笠原直という武蔵国造の根拠地と疑われる「笠原」という地名も残っている。北埼玉郡に「笠原」があり、現在は鴻巣市になっている。その笠原周辺には古代に強力な豪族があったと以前から伝わっていたものの、それが思いの外、大きな権力を持っていた武蔵国造の話になっているんですよね。埼玉ローカルなネタに思えてしまうかも知れませんが、これが中々、侮れない話でもある。


そして国造(くにのみやっこ)制について。国造は4世紀前半頃から大和朝廷の地方官として置かれたと読めるような記述が「日本書紀」成務天皇に係る箇所に記されているという。また、この国造については異説も多いようで、私自身が山川歴史リブレットをみながらメモしたものだと7世紀初頭から導入されたとあり、また、継体天皇の時代に発生した「磐井の乱」を契機に6世紀に西日本で一斉に成立し少し遅れて6世紀末に東日本にも実施されたともいう。実質的には6世紀末から7世紀初頭に設置されたというのが一般的な見解でしょうか。

そうした中にあって武蔵国造の扱いは複雑で、「国造本紀」には无邪志(むざし)国造については「成務朝の時代に出雲臣の祖、二井之宇迦諸忍神狭命の十世の孫、兄多毛比(えたもひ)命に国造を定めた」旨あり、やはり「日本書紀」と共通して4世紀の話として記してあるという。つまり、定説と照応してしまうと辻褄が合わないのだそうな。

同時に知々夫(ちちぶ)国造について「国造本紀」は、「崇神朝の時代に八意思金命の十世の孫である知々夫彦命を国造を定め…」と記しており、成務朝よりも更に古い崇神朝の時代という風に読めてしまう。

崇神天皇を三輪王朝とし、後の応神天皇を河内王朝のように整理すると、三輪王朝が既に東征をしていており、知々夫彦が埼玉秩父地方に何かしらの痕跡を残していたとか…。崇神天皇の後裔が毛野氏の祖であるという話を真面目に読めば三輪王朝は東進していたのかも知れない。そして崇神天皇の末裔は群馬や栃木にまで到達し、その地で毛野氏として繁栄をしていたのではないかというようにも思えないこともない。そんな事をしている間に崇神の三輪王朝系から応神の河内王朝へ切り替わった等も…。しかし、この話は余りにも材料が少ないというところでしょうか。

少し国造を巡る話は年代が飛びますが、筑紫国の国造であった磐井の乱へ。継体天皇の時代、西暦527年に近江毛野朝臣の朝鮮出兵を筑紫国造の磐井氏が新羅と組んで妨害するという大きな反乱が起こる。この際、磐井氏は火(熊本県・佐賀県・長崎県)と豊(福岡県東部・大分県)という広大な範囲を抑え、且つ、新羅と通じて大和朝廷に反旗を翻したというから、古代史の中でも空前のスケールの反乱。(※ここで朝鮮出兵を妨害されたのは近江毛野朝臣で「毛野」ですね。)

で、この「磐井の乱」に対して朝廷は大伴金村により、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)を将軍として派遣し、見事に物部麁鹿火は乱を鎮圧、磐井を斬り殺している。

その磐井の乱が西暦527年。それから間もない西暦534年に武蔵国造家では笠原直使主(かさわらのあたい・おみ)と、その同族である笠原直小杵(かさわらのあたい・おぎ)との間で国造を巡って内紛が起こった「日本書記」に記述があるという。これは、使主(おみ)と小杵(おぎ)との争い。小杵は密かに上毛野君小熊(かみつけのきみ・おくま)に救援を求め、小杵と上毛野君小熊とが組んで使主を殺そうと画策した。謀略を悟った使主は京の朝廷へと訴え出たところ、朝廷は使主を信用し、使主に助力した。その助力を得て使主(おみ)は小杵(おぎ)を誅殺した。そして武蔵国造・笠原直使主は朝廷に御礼として四カ所の屯倉(みやけ)を差し出した。(屯倉とは朝廷の直轄領地のようなもので、その地域で収穫したものは朝廷のものになる。)

ここに登場している笠原直使主という人物はハッキリと武蔵国造になっているのが分かる。

少し、複雑ながら山川歴史リブレットの解説を借りると、以下のようになる。

�|亙�で大勢力を形成した国造には【臣】という姓を与えた。��九州・中部・関東の国造には【公】あるいは【君】という姓を与えた。�5ζ蘯�辺及び、朝廷に対して屯倉がある地方の国造には【直】という姓が与えられたという。

笠原直の場合は内紛の時制を考慮すると時制的な逆転が起こるが、屯倉を献上した後の名前で記されているのだから【直】という姓を授与されたように解釈すると矛盾はなくなりそう。で、つまり、この西暦534年前後の武蔵国造は「笠原」という名前であった事が判明する。

ここも中々に問題です。古事記と日本書紀では、「アマテラスとスサノオが誓約して生まれた天穂日(あめのほひ)が、出雲臣、武蔵国造、土師連の祖先である」という共通認識で編成されている。笠原氏は【直】という姓であったが、天穂日の末裔であったのか。先に「国造本紀」では出雲臣の十世孫が兄多毛比(えたもひ)命を无邪志国造としたというが、出雲臣と武蔵国造とが共に天穂日を祖とする人々であるという意味では矛盾はない。しかし、笠原直の後に武蔵国造となるのは物部連(もののべのむらじ)の家系になっている。「聖徳太子伝暦」では物部連兄麻呂(もののべのむらじ・えまろ)が西暦633年に武蔵国造を賜った旨あるという。

物部。もののべ。モノノベ。これが捉えどころがないんですよねぇ。そのモノが「物資」を意味していると同時に「魂」のこともモノといったという。朝廷が所有していた部民(べみん)という意味で物部でもあるものの、そのまま姓を付けて物部連と表記されたり、物部直になっていたり。「物部」については部民として考えた場合、警察機構の役割なり、軍隊の役割であった、それに加えて宗教的儀式うんぬん等の解説もある。また、警察機構だの軍隊の役割の説明は「大伴」とダブっていたりすることがある。どこか捉えどころがない…。

非常にややこしさを持つ、姓(かばね)についてですが、原始的カバネ(姓)としては【別】、【彦】、【根子】、【耳】、【積】、【宿禰】などがあった。その後、少し改良があって以下のような法則性が与えられた。

【臣】⇒葛城、和邇、蘇我、平群、巨勢、阿倍、紀など。

【君】⇒大三輪、鴨、上毛野、火など。

【直】⇒地方の国造。例外的に和漢(やまとのあや)は渡来系であるが直。

【連】⇒中央の上級伴造に限定で、大伴、物部、中臣。

【造】⇒中央・地方の下級伴造に限定で、錦織、笠縫、穴穂部など。

平安時代になると皇子に「朝臣」が、遠胤に「真人」が与えられるなどしたが段々と序列順位なども転倒しだし、姓(かばね)の持つ本来的な意味合いも薄れていった――と。

再び山川歴史リブレットを読みながら作成したメモから。

氏姓制度とは、氏が政治組織に於ける職務・地位に応じて氏単位で授けられたと考えられていたが、近年、地位の継承にともなって特定個人に付与されたものという見解になっているという。というのは律令制成立期に、中国の姓(せい)の概念が導入され、旧来のカバネ(姓)は氏集団の称号に転じたとする見解が有力である。拠って「氏姓制度」という概念は現在は用いられなくなってきている――のだそうな。

(因みに古代日本で用いられていた氏姓制度は中国には存在せず、新羅の身分制度「骨品制」に似ているが古代日本固有のものとみられているという。)

色々な古代史関連本に目を通してもテキストの説明に細部に違いがあり、なかなか理解できないワケはこれですかね。

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谷川健一著『隠された物部王国「日本」』(情報センター出版局)では「ヒノモト」と呼ばれる勢力と、「ヤマト」と呼ばれる勢力、更に東には蝦夷の勢力圏があったという仮説で構成されている。谷川著『白鳥伝説』を再考した内容でもありましたが、確かに神武東征以前に畿内にはニギハヤヒやナガスネヒコらが既に統治していたが、つまり、神武以前にも畿内に統治体制なり統治者があった事を意味しているんですよね。それを谷川は「物部王朝」と呼んだ。

【モノノベ】の解釈が広範すぎて混乱させられてしまうのですが、今一度、可能な範囲で整理すると、いわゆる物部氏には「氏族としての物部氏」があり、また、それとは別に部民(べみん)として「物部」を名乗った人々があり、そこに混乱させられる。日本史で多用される「物部守屋」は物部氏族の総本家の物部氏であり、カバネとして「大連(おおむらじ)」が付けられている。その物部氏に対して、地方行政官として各地に赴任した「部民の物部」も、歴史の中で、その地方で首長になったり、或いは豪族になっていたケースもあるという。そうした人々も物部氏と名乗っていたりするので非常に難解なものになっている。

谷川の「物部王国」説は、やや整理が雑な印象もあるのですが、物部氏の故地は九州日田地方であるとし、ニギハヤヒを物部氏の祖としている。ニギハヤヒは神武に先立って畿内に入り、いわゆる河内王朝を築いていたが神武の率いる勢力に追われ、東へと逃れていったとする。【日田】から【飛騨】へ、更には茨城地方へ逃れて【日高見】となり、更に北上して東北地方に逃れて【日高見】となった。蝦夷とヤマト勢力に挟まれていたのが、その勢力であり、その勢力は「ヒノモトであり、日の下であり、日下であり、クサカ」であったというもの。荒唐無稽と感じる反面、確かに断片的に古代日本の謎を浮かび上がらせているのも確かでしょうか。何故、倭国から日本国になったのかという大きな謎があるのも確かなんですよね。

日本神話の輪郭からすると、国津神と天津神との問題、出雲王朝による大和王朝への国譲りの問題が転がっているワケです。機会のある度に、文藝春秋などで著名人が御自身の見解を述べられていたりするのですが、どれもこれも消化不良の解釈のように思える。

物凄く基本的な事柄でもコンセンサスは出来上がって居ませんよね。例えば、邪馬台国の女王卑弥呼は天津神と国津神のどちらに比定されるべきかとか、出雲系なのか大和系なのかも判然としていない。後の大和朝廷と邪馬台との音が似ていることから、邪馬台国がそのまま大和朝廷に移行したという見解がなんとなく支配的である反面、やや専門色の強い書籍を書いている大学の先生らは、「卑弥呼は出雲系ではないのか?」という疑問をホンネとして抱えているようにも思える。厳然たる証拠が示せない話ではあるのものの、弥生時代後期から古墳時代への移行期には九州に起こった鉄器を武器にした新興勢力が畿内へ到ったであろうという推測で満ちている。歴史関連書でヒットを飛ばしている関裕二氏もしかりだし、哲学者の梅原猛氏にしても似ていて、九州地方の勢力が畿内に到ったのは二度ないし三度ぐらいあったのではないかと指摘している。

順番は兎も角、神武の東征、応神の東征、それとニギハヤヒ? すると崇神はどうなったのか。崇神と神武は同一なのか。出雲から大和への国譲りの逸話を、どのよう考えるべきか。或いは、何故、茨城県にタケミカヅチを祀る鹿島神宮があり、フツの御霊を祀る香取神宮があるのか。

関裕二氏の著書であったと思いますが、物部とは三輪山信仰の大物主とゆかりが深く、原始的宗教の痕跡が色濃いという。やはり、邪馬台国から大和朝廷への移行とは何であったのかとか、何故、倭国から日本国へ改名したのかとか、出雲とは何で、その国譲りの意味するものは何か等のミステリーは尽きないワケで…。


さて、関東史に戻ります。

武蔵国造は出雲臣と祖を同じくすると「国造本紀」が述べている。そして、成務朝とされる4世紀に兄多毛比(えたけひ)命が无邪志国造に任命されたという。そして国造家は一族が踏襲する制度になっていたから特に理由がなければ、武蔵国造は、その子孫に継承されている事が考えられる。名前が特定できるのが内紛騒動を起こした笠原直使主である。

そして西暦587年、畿内では大きな政変が起こり、蘇我馬子が物部守屋を殺害する。ここから飛鳥時代と分類される期間となり、聖徳太子の時代になる。607年に壬生部が設定され、壬生吉志士が男衾と埼玉に入部する。633年には聖徳太子の舎人であったとも言われる物部直兄麻呂(もののべのあたい・えまろ)が武蔵国造となる。

関東最古、東日本最古の寺院と目されている寺谷廃寺(てらやつはいでら)を現在の埼玉県比企郡滑川町寺谷に造立されている。寺谷寺院は廃寺であり、本来の名称も謎のままながら、飛鳥時代の大和地方にある寺と同じ瓦が発見されている。

「壬生部」とは聖徳太子と所縁の深い上宮王家の所領民で構成された部であり、その壬生吉志の「吉志」とは朝鮮半島で「首長」を意味する言葉であったという。察するところ、崇仏か廃仏かで物部氏と蘇我氏とが争いを始めたという語り口は有名である上に、飛鳥文化が高句麗などの影響を受けた洗練された文化であった事が思い起こされますよね。で、壬生部が設置され、関東にも壬生吉志福正(みぶのきし・ふくまさ)という人物が郡司大領に任命され赴任している。壬生吉志福正は武蔵国分寺の再建を申し出ていた事が知られている。地方を開発せんと関東に乗り込んできた中央官僚の姿とダブりますかね。

ここで「郡司」という言葉を使用してしまいましたが、律令制にともない、国造(くにのみやっこ)は廃止され、郡司等の地方行政官が設置されるようになる。(但し、例外的に出雲国造などは廃止後も国造の称号を名乗り続けることが許された。)西暦645年に中央朝廷では中大兄皇子が「乙巳の変」を起こして蘇我入鹿を殺害。その政変を経て「大化の改新」へ。

はて、笠原直を名乗っていた笠原と、物部直兄麻呂の関係は謎です。笠原氏族は滅び、新たに物部直兄麻呂へ国造家が切り換えられてしまったのか、それとも笠原直が物部直という名前に変えただけのものなのか…。しかも中世に入ってからは足立郡司を名乗る武蔵竹芝(むさしたけしば)の名前が平将門騒動に於いて登場するのですが、その武蔵竹芝は「武蔵国造の末裔である」という。武蔵国造とは何か。一貫して物部直を名乗るずっと昔からモノノベの系譜だと言われればそのようにも見えるし、いやいや、国造本紀に記されている通り、それは出雲臣と祖先を同じくする者の系譜だと読めなくもない。武蔵と出雲、武蔵と出雲&物部の関係があり、そこに割り込もうとしても中々、割り込めない西日本と東日本との微妙な関係性が読み取れなくもないんですよねぇ。
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中大兄皇子と中臣鎌足らが、朝廷では絶大な権力を誇っていたとされる蘇我入鹿を暗殺し、政治改革が起こる。大化改新では、中華王朝である隋や唐の国制を模した律令国家の建設が目指されたという。乙巳の変から僅か二ヶ月後には東国に国司が派遣された。この場合の【国司】という役職名は「日本書紀」の編者が編集する為に官名として当て嵌めた言葉らしく、国司が置かれた側の「常陸国風土記」に於ける国司とは即ち【総領】であり、実際の役職名も【総領】であったものと考えられるという。

また、この場合の「東国」とは、東海及び東山道一帯を示していたという。

具体的に武蔵地方が、どの国司・総領の管理下にあったのか不明ながら、武蔵国については東山道に所属し、且つ、上野国と接していた事からして、毛野と一緒の地域であった可能性が考えられ、その国司・総領としては長官に紀臣麻利耆拕(きのおみ・まりきた)、次官が二名あり、三輪君大口(みわのきみ・おおくち)と河辺臣百依(かわべのおみももより)ら8名が派遣されたという。

公地公民を実施すべく、国司・総領らは派遣先で人民と土地の把握(造籍と校田)、それと私有する武器を集める(武器収公)を実施する予定であったが、東国では私地私民の風土が根強く、官人(地方の役人)が民から私的に物品の徴発を行なうなどの犯罪が多く、朝廷から赴いた国司・総領の麻利耆拕らも糾弾されるなど東国の独自の風土が伝わる。造籍、校田、武器収公などは在地の支配者が国造の協力を得て、それなりに遂行されたという。また、その後、大化改新政府は、人民と土地の把握(造籍・校田)を済ませ、数を整理した上で班田が行なわれたという。班田とは、百姓に田を均等に支給せよというものであったという。

班田と同時に「里の編成」と「評の建置」が行なわれた。おおまかに「里」は千人前後の口数で編成され、その下に評(こおり)を置いた。7世紀では評(こおり)が使用されたが8世紀以降、大宝律令が施行されるようになると、「評」ではなく「郡」が使用されるようになったという。それに伴い、国造の権限は評司・郡司へと移行していったという。但し、先に触れたように地方官人として地域に根付いていた国造や支配豪族らの協力を得ないと、公地公民にも手のつけようがなかったというのが現実的な所見か。

また、この流れの中で武蔵国は東山道ではなく東海道に入れ替えられている。これは現在でいうところの神奈川地方や東京地方、埼玉県南部や東部が少しづつ道路が整備されたことによるものらしい。また、渡来系の人々のかなり関東地方に政治政策として配置されているが、元々、武蔵地方からは朝廷の要請で朝鮮半島に豪族らが出征しており、土地柄として散発的に渡来系の人々の武蔵入部は多かったものと考えられるという。高句麗が滅亡、白村江の戦いで百済が壊滅するなどの戦乱があり、武蔵国では高句麗人の為の高麗郡、また上野国では多種の渡来人を引き受けたらしい多胡郡を設置するなどしている。また、続日本紀などにも多々、記されているように百済人や新羅人も広く東国へ入植(入部)させている。

百姓らは律令制度の下、口分田を与えられていた公地公民制は民一般の生活を向上させたが、徐々に退廃してゆき、平安時代に入ると農民に銭や稲で借金を負わせる私出挙(しすいこ)が蔓延していたという。現代にもあるサラリーマン金融、闇金に似ていて、利息は一年で10割、10割が高すぎると後に5割に減定されたが、その高利率によって土地を手放す農民や行方をくらます農民たちが大量に出たという。律令では私出挙に官人の関与は禁止されていたが官人による百姓への私出挙が猛威をふるったのが実相であるという。

どうも、この私出挙が蔓延した話というのは、借りる意志の無い百姓に対しても強引に貸して、そのまま法律をタテにし、高利を取りたてていたという事のよう。アコースティックギター(あこぎ)だなぁ。聖武天皇の耳にも届き、私出挙禁止令が出たという。征夷事業も断続的に続いており、天候不良に加え、官人らの横暴な振る舞いにより人々の疲弊は激しく、また社会は荒廃し、治安もかなり悪い状態であったとされる。

郡司や豪族がデタラメだったのかというと、それではなく、平安初期には地方の郡司や豪族が百姓の身代わりに庸調を代納する百姓を救済する郡司らもあったという。常陸国信太愚郡大領・物部志太連大成、常陸国新治郡大領・新治直大直、下総国猿島郡主張・孔王部山麻呂、常陸国人生部連広也、相模国高座郡大領・壬生直黒成、相模国大隅郡大領・壬生直広主等々は困窮する民の代わって代納をしたなどで、叙位や褒賞を受けている。


そして、9世紀末へ。この頃、関東地方の治安は大いに乱れ、各地で「就馬の党」と呼ばれる馬泥棒の盗賊団が跳梁していたという。東山道で盗んだ馬を東海道で売り、東海道で盗んだ馬を東山道で売る群盗で、上野、武蔵、相模などの地方では頻発していたという。浮浪者から富裕農民までもが国家に反発を起こしていたといい、集団化する事で盗賊行為もエスカレートしていたという。後ろで糸を引いていたのは「坂東諸国の富豪の輩」だったという。

また、その頃、東国へ強制的に移住させられた者を蝦夷を【俘囚】(ふしゅう)【夷俘】(いふ)と呼んだが、俘囚も不満を爆発させ、群盗に加わったり、上総や下総では俘囚たちの反乱が相次いで起こってたという。

武蔵が東山道から東海道に入れ替えられたのと関係していて、足柄山の「坂より東」を略して「坂東」と呼ぶようになった。その坂東の大混乱に対して、中央政府は騒乱の鎮圧を任務とした押領使(おうりょうし)を派遣したり、武芸に長けた畿内の軍事貴族を国司に任命し、事態収拾にあたることになった。桓武天皇の第三皇子に葛原親王があり、その孫の高望王(たかもちおう)は武芸に素質ありと目されたらしく、上総介を任命され、上総国へ下向した。高望王は後に「平」姓を賜る平高望であり、桓武平氏の祖となる。
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875年、下総国で俘囚の乱が起こる。

878年、出羽国で夷俘の乱が起こる。

883年、上総国で俘囚の乱が起こる。

889年に桓武天皇の曽孫である高望王は平姓を賜り、上総介に叙任される。高望王の子孫は関東地方に広く広がり、平安末期から鎌倉期にかけて活躍する坂東八平氏の系譜を構成する。

916年、下野国で藤原秀郷が配流となる。粗暴であった事から国司の家系にあったが国司に任命されず、一族18名を率いて濫行を働いた為に罪人として扱われたとされる。藤原秀郷は「扶桑略」「日本紀略」の記したところに拠れば、群盗の頭のような存在であったという。後に関東地方を中心に秀郷流藤原氏の系譜を形成する。

914〜924年頃、高望王の孫である平将門は上京し藤原忠平の主従関係を結んでいる。藤原忠平は朱雀天皇の側近で、右大臣から左大臣、最終的には太政大臣にまで出世する人物である。

930年、朱雀天皇即位に伴い藤原忠平が摂政になる。

931年、平将門は無位無官のまま帰国し、伯父の平良兼と戦争を始める。

将門の本拠地は下総国豊田・猿島両郡(茨城県の坂東、常総、境、八千代地方)であったという。内海(霞ヶ浦)に繋がる衣川(現・小貝川)と、常陸川(現・利根川)が丘陵間の低地に入り組んだ水郷的な地勢にあり、水運が発達していたと推測されるという。また、付近の遺跡には製鉄遺跡があり、また官牧もあった事が判明しており、軍事貴族の拠点としては申し分のない拠点であったという。

将門が最初に戦闘をすることになった平良兼(たいらのよしかね)は将門からすると伯父にあたり、そればかりか良兼の娘を将門は妻にしていたので舅でもあった。伯父と甥との戦闘であったが理由は定かではない。一説に将門と愛娘との婚姻に良兼が反対した為に将門と不和になったといい、一説に、源護(みなもとのまもる)の娘を巡って良兼と将門とで奪い合いになったが為といい、また、源扶(みなもとのたすく)へ良兼が娘を嫁がせようとしたら将門が略奪婚を敢行したが為ともいう。また、「今昔物語集」では、将門の父である良持(良将とも)が亡くなり、その良持の残した領地を巡っての争いであったもいう。

935年2月、将門が常陸国の筑波・真壁・新治の三郡に勢力を築いていた源護の子である源扶、源隆、源繁を攻める。将門の軍は扶、隆、繁を討ち取り、更には源護に加勢しようとした大伯父・平国香の本拠地をも襲撃して焼き払い、平国香は焼死したという。この平国香は高望王の長男であり、将門からみれば大伯父にもあたり、高望王の直系の人物である。

国香の子の平貞盛は在京して左馬允の官位を叙していたが、国香が討たれた為に帰国。しかし、貞盛は将門に仇討ちを挑んでいない。「今昔物語集」では貞盛は将門に怨みを報じようとしたが将門の威勢が余りのも凄まじく対抗のしようがなく国内に潜んでいたとし、「将門記」に拠れば貞盛は将門は本来の敵ではないとし和睦を申し込んできたという。

息子たちを悉く討ち取られた源護(みなもとのまもる)は姻戚関係にあった平良兼、平良正に助けを求めた。将門からは、良兼は伯父にあたり、良正は叔父にあたる。良兼は上総国にあり、叔父の平良正が将門退治に名乗りを挙げて、兵士を集めた。それを知った将門は、935年10月、叔父・良正を迎え討つべく出陣し、新治郡川輪村(現在の八千代市)で合戦となる。将門軍が良正軍に勝利し、良正軍は逃散した。

良正は一族の頭である良兼に書状を出し、協力を要請している。また良正の元には逃散した兵士たちが徐々に良正の元に集まって来て、気勢を上げたという。

936年6月、平良兼が良正に加勢せんと兵を整えて上総国を出立し、常陸国へ向かう。このときの良兼軍は上総国から下総国を抜けて更に常陸国へ出陣しているが、本来であれば禁令であり、関所を通過せずに北上している。道中で、敵討ちを果たぬまま姿を隠していた左馬允・平貞盛も良兼の前に姿を現した。良兼は親の仇である将門と戦わぬ貞盛を「兵に非ず」と叱責すると同時に、味方に加わるよう促した。これにより、平良兼、平良正、平貞盛の連合軍が出来上がり、将門討たんと下総と下野の国境付近へと進軍した。

同年7月下旬、良兼の率いる連合軍が国境付近に迫っていると知った将門は、百余騎を率いて国境付近へ出陣した。良兼軍は数千の大軍であったが、将門は歩兵を寄せて人馬八十余を射取ったというから不意討ちを仕掛け成功したらしい。良兼軍は大いに驚き畏れ、総崩れになって敗走した。戦慣れしていたらしい平将門は絶好の好奇と、これを見逃さず、馬に鞭を入れ、将門は名乗りを挙げて追撃。敗走した良兼は国境を超えて下野国へ入り、将門は良兼を、そのまま下野国の国府(栃木県栃木市)に追い込んで国府を包囲した。

しかし将門は高望王一門の頭にあたる国香に次いで良兼を殺害することを躊躇い、故意に良兼一人ぐらいは逃がそうと画策し、西側の陣を開いて脱出させることにした。良兼だけを逃がすつもりであったが、その隙に良兼軍の兵士ら千人余も脱出に成功。将門は下野国府の日記に「非があったのは良兼の方であった」という記録を残して、本拠地の鎌輪宿(茨城県下妻市)へと引き上げた。

同年9月上旬、将門の元に官符が届いた。前年12月に源護が朝廷に対して内乱についての裁きを訴え出ていたものであり、朝廷は源護、平将門、平将門の舎弟格であったという平真樹を召喚したのだった。将門は訴え出た源護よりも早く翌月には京の公庭に参じて、事件の経緯を説明したという。将門の弁明は能弁とは言い難いものであったが道理に適っている事が認められ、「罪科は重からず」との裁定をくだされる。この一件によって畿内に於いても平将門の「ツワモノ」の噂が広まったという。

937年正月、朱雀天皇の元服の儀式があり、将門にも恩赦の宣明が出る。かつて、将門が仕えていた藤原忠平は朱雀天皇の摂政であったが、このときには太政大臣になっており、藤原忠平の意向も作用した可能性も考えられるという。4月に正式に赦免となり、将門は下総国豊田郡鎌輪宿の本宅に帰宅できたのは5月下旬から6月上旬であったという。

将門を待ち受けていたのは、復讐に燃える伯父・平良兼であった。良兼は軍備を整え、兵力を増強して将門の記憶を待ち受けていた。

同年8月7日、良兼軍は将門の本拠地、鎌輪宿を目指して進軍を開始。常陸と下総の境界線にある毛野川(鬼怒川)下流小貝川の要地、子飼いの渡しを取り囲んだ。そこで将門と鉢合わせている。良兼軍は陣に高望王の霊像を張り付けて、それが桓武平氏一門の長を大々的に表わしていた上に、精兵で攻撃を仕掛けてきた為に将門は応戦せずに、拠点にしていた鎌輪宿に退散。良兼軍は勢いづき、百姓の舎宅や、国の施設である官厩を焼き払ってから退散した。

8月17日、将門は兵を立て直して、豊田郡下大方郷(八千代町大形)の堀越渡しに陣を固め、良兼軍に報復戦を挑んだ。しかし、ここでも将門軍は大敗を喫している。良兼軍は雲のように立ち出で、雷の如く攻め寄せ、将門軍は散り散りになり合戦らしい合戦にならなかったという。民家はことごとく焼亡し、農作物や人馬にも豊田郡は多大な損害を被ったという。このとき、平将門は自ら脚気になってしまっていたという。

将門は幸島郡(猿島郡)へと避難して、19日には幸島郡を発って本拠へ戻ったという。ところが、ここで一つ、この避難の際、将門の妻子を乗せた船を良兼軍に引き渡さんと手引きする者があり、将門の妻子は良兼軍に捕えられ、将門の妻は翌20日には上総国の良兼の元に送り届けられたという。将門の妻は、すなわち良兼の娘でもある。しかし、将門と離れ離れになってしまったと悲嘆にくれて泣いている姿を見た良兼の子である平公雅と平公連とが謀って、9月10日に将門の妻を将門の元へ帰還させている。

9月19日、平良兼は自分の妻に逢うために常陸国真壁郡服織宿(桜川市羽鳥)へと出向いた。良兼の妻は、源護の娘であり、関東の地でも平氏と源氏とで姻戚関係を固め、地盤を強固にしつあったという。同日、将門が襲撃した。将門は千八百余名の兵士を引き連れて真壁郡に進軍、ことごとくを焼き払ったという。良兼軍は筑波山系に逃げて筑波女体山の北東、弓袋山(湯袋峠)の南の谷に潜んだ。将門軍は良兼軍を追ったが持久戦になった。物音が木霊する山中で追い詰めた形であったが、良兼は動かず、将門も動けず。将門は幾千の舎宅を焼き、幾千の稲穀を滅ぼしたが、決着はつかずに引き上げたという。
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935年12月、朝廷から武蔵、安房、上総、下総、常陸の国司らに官符が届いた。官符には平良兼、源護、平貞盛、良兼の子であたる平公雅(たいらのきんまさ)、平公連(たいらのきんつら)らを平将門に追捕(ついぶ)させよ命じるものであった。事前に将門が良兼らの軍勢に朝廷の施設である官厩を焼き討ちにされたことを申し出ていた事に拠るものであった。朝廷は官位もない平将門に対しても一定以上の理解を示していた事がうかがえるという。

将門は官符に追捕の御墨付きを得て意気は上がったが、諸国の国司らは官符に従がう素振りはみせなかったという。そもそも諸国の国司に、良兼らの武装軍事帰属を取り締まれる警察力そのものが無かったものと推察できるという。

その折、将門の遣いの丈部子春丸(はせつかべ・こはるまる)を良兼は捕まえる事に成功。子春丸を取り立てて、味方に引き入れる。子春丸を案内人とし、将門の軍事拠点としていた猿島郡石井(現在の坂東市岩井)の営所を探らせたという。良兼は事前の敵陣視察によって将門の寝所や兵具の置き場所、さらには出入り口などの情報を得ることに成功、精鋭を率いて将門の営所に夜襲を仕掛ける作戦を練る。

12月14日の夕刻、良兼は精鋭80騎を率いて風、鳥の勢いで出陣した。14日の午後10時頃、良兼軍は結城郡の法城寺(結城寺? 結城市山川・矢畑)付近の道から南下して夜襲を仕掛けるルートを採ったが、そこで路傍にいた将門陣営の一兵士が良兼軍の急襲に気付き、良兼軍の後陣に紛れ込んだ。軍勢が鵞鴨ノ橋(かもかものはし/結城市山川新宿及び大木)付近に差し掛かった時に、紛れ込んでいた将門軍の兵士が隊列の前に出て、そのまま騎馬を飛ばして一気に将門の居る石井宿まで駆け抜けて、良兼の夜襲を告げたという。

開けて15日早朝6時頃、良兼軍は将門の居る石井宿を包囲。石井宿の将門陣営も大混乱になっていたが一方の良兼軍も夜襲が失敗した事で動揺していたという。将門は十人足らずの兵しか居なかったが猛烈に激を飛ばすなどして進み出て攻撃、これに良兼軍も応戦し、激しい撃ち合いへ。先に浮き足だったのは良兼軍の方で楯を捨てての敗走が始まったという。将門は追撃し、良兼軍の上兵・多治良利(たじひのよしとし)を射取り、その他40余名を討ち取ったという。

この夜襲の良兼軍は精鋭80騎余だったので半数近くが討ち取られた事になる。良兼は逃げおおせたが命からがら上総国へ撤退したらしく、以後、良兼は兵を動かすことは無かった。また、内通していた子春丸は内通が露見し、938年に将門に殺されたという。

平国香の長男である平貞盛は、従兄弟にあたる平将門との戦闘には一貫して消極的であったが、官符によって追悼令まで出されてしまった為に行き場を失い、常陸国を脱出して京都を目指して上洛することにした。938年2月中旬に貞盛は密かに常陸を発った。貞盛の上洛を知った将門は貞盛が将門を讒訴(ざんそ)すると思い、貞盛を追うべく百余騎を率いて東山道を疾駆し、貞盛を追った。

938年2月29日、信濃国小県郡(ちいさがたぐん/現在の長野県上田市)付近で、将門は貞盛一行に追い付き、千阿川(千曲川)を帯して合戦となった。双方が死傷者を出す激しい戦闘になったが、勝負をつけるまでには至らなかった。この箇所で、将門は騎百余で下野国から上野国、更に信濃国と行軍していることが分かる。先に良兼が上総から兵隊を動かして下総、常陸と行軍したが、それらは公然と禁令を破っていることを意味しており、裏返すと諸国の管理体制下の国司らに将門を取り締まる力がなかった状態であると推測できるという。むしろ、将門に野営地や兵糧などの面倒をみた協力者がいたことも疑われるという。

平貞盛はというと、雪と寒風の信濃国境の山々を越え、辛うじて上洛を果たした。官位も持っている貞盛は将門の非法を太政官に訴えた。その貞盛の訴えによって、関東諸国には将門の罪状を調査するという類いの天判(正邪の判定を天にゆだねるという起請文)が下された。



938年2月、丁度、その頃、武蔵国でも或る問題が発生していた。武蔵権守興世王と武蔵介源経基が、武蔵国足立郡郡司の武蔵武芝と、紛争を起こしており、その仲介に平将門が名乗り出ることになる。

興世王(おきよおう)は桓武天皇の玄孫にあたり、四世孫とされる。桓武天皇の皇子にあたる伊予親王の四世とする説もがあるが詳細は不明で、桓武天皇の末裔であるという見解でコンセンサスが形成されている。

また、源経基(みなもとのつねもと)は後の清和源氏の祖となる人物であり、清和天皇の孫である。清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で経基王であったが「源」姓を賜って臣籍降下し、源経基となった。臣籍降下と同時に武蔵国介として武蔵国の地方行政官として武蔵国に赴任した。清和天皇の第六皇子の子であることから、別名「六孫王」とも呼ばれる。埼玉県立鴻巣高校のグラウンドに隣接して「伝源経基館跡」(県指定史跡)があるという。

源経基の出自については近年、大きな指摘があり、第56代・清和天皇の皇子・貞純親王の子ではなく、第57代・陽成天皇の皇子にあたる元平親王の子と疑われている。清和天皇、陽成天皇ともに9歳で即位した天皇である。実は清和源氏ではなく陽成源氏ではないかとなるも、既に「清和源氏」が定着している上に源頼朝あたりも自ら「清和源氏」を自称していたので、ホントは清和源氏ではなく陽成源氏であり、呼称については「修正すべきではない」という判断でコンセンサスが成っているよう。

余談ながら清和天皇は31歳の早逝しているが、陽成天皇は17歳にして退位している。陽成天皇には奇行があったという逸話があり、裸の囚人を塔に登らせて射殺したり、女官を縄で縛って池に投げ込み溺死させたり、小動物を殺したり。最終的には乳母(めのと)の子を殴殺する事件を起こし、退位に追い込まれたという逸話を残している。

国司、地方行政官の役職名としては、興世王の武蔵権守(むさしごんのかみ)が長官にあたり、武蔵国介が次官に当たる。一方の武蔵武芝が持つ郡司とは武蔵国足立郡の郡司であり、いわば「郡の長官」にあたるという。また、この武蔵武芝という人物は武蔵国造の系譜を引く人物であり、地元民たちからは名郡司の誉れ高く、武蔵国にとって非常に意義のある氷川祭事にも或る時期までは管掌していた地元の大豪族にして大有力者であったという。

また、「武蔵権守」(むさしごんのかみ)と「武蔵守」(むさしくにのかみ)についての差異もあり、権守(ごんのかみ)とは「代理の国守」の意であり、後に武蔵国守として百済王貞連(くだらおう・さだつら)が赴任し、平将門を巻き込んで関東圏は大混乱に拍車がかかる。

桓武天皇の玄孫にして武蔵権守の興世王と、清和天皇の孫から臣籍降下したばかりの源経基は、足立郡の巡検に訪れた。しかし、足立郡司の武蔵武芝が、その巡検を拒絶した。定かではないながらも武蔵武芝の言い分としては「権守」というのは正規の中央政府から派遣された国司ではなく、代理だから受付られないという意味であったよう。とはいえ、そのタイミングでは武蔵守は空席であったから武蔵権守が興世王に任命されたとも言える。とにかく、地元で圧倒的な名声を得ている大豪族の武蔵武芝が、中央政府から派遣されてやってきた興世王と源経基の巡検を拒否した。興世王は、この待遇に腹を立てたらしく、近隣の住民の農作物や財物を没収する。興世王や基経らは兵杖(へいじょう/武器のこと)を携えて足立郡に侵入し、各種の差し押さえを始めたので、武蔵武芝は山野に身を隠したという。

さて、平将門は武蔵武芝に同じ地方有力者としてのシンパシーを感じたらしく、武芝を擁護しようという意図で紛争の調停者として介入してくる。

ここで基経と興世王との対応が分かれる。源基経は平将門を警戒して比企郡狭服山に籠もってしまう。将門は山野に身を隠していた武芝と合流。武芝は将門に、興世王と源経基らは兵を整え、妻子を伴って狭服山(狭山丘陵?)に籠もっていることを告げる。どういう経緯か後に興世王は源基経を狭服山に残して下山し、そのまま武蔵国府(東京都府中市)まで同道、その国衙(こくが/役所)で武芝と興世王との間で和睦が成立し、互いに酒を酌み交わすまで円満に調停が進んだという。

しかし、不測の事態が発生する。武芝の後続の手勢が、狭服山に籠もった源基経の営所を包囲し、圧力をかけてしまう。基経は、将門と武芝とが攻めてきたものと思い込み、驚き、騒ぎ、兵らは分散。基経も狭服山を脱出して、そのまま京都へと帰り、平将門が謀反を企てていると訴える。

誉れ高い武門の雄、その清和源氏の祖とされる源基経のだらしなさが描かれていますが、臣籍降下して間もなくの事であり、一先ず、基経は京都へ逃げ帰ったワケです。

その頃、畿内も大混乱しており、938年4月に京都で大地震が発生。多くの建造物が倒壊し、更に余震が数か月間にわたって続いたという。不吉であるというので、暦を「承平」から「天慶」に改め、賀茂祭は中止され、兵士を動かすことを慎んだり、物忌みをしたり不穏な空気に包まれていたという。

また、陰陽寮の卜占(ぼくせん)によれば、東西に兵乱が予見されたという。その予見があり、暗澹たる空気に包まれていた翌939年3月、京都へ戻った源基経が「平将門の謀反」を告げた。それは国家に対しての反乱を意味しており、それまでの一族内の内紛とは異なるニュアンスを読み取り、京都は大騒ぎになったという。更に4月、出羽にて俘囚が反乱が起こり、秋田城の軍と俘囚軍との合戦があったという情報も到来し、一層、京は緊迫する。

将門の嘗ての上役でもある太政大臣・藤原忠平は将門謀反の真偽を確かめようとする御教書(みきょうじょ/摂関家や公卿が出す文書)を出し、その御教書が平将門の元にも届く。対して将門は常陸、下総、上総、武蔵、上野の五か国の上申書を取り集め、「謀反無実之由」と主張する弁明の書を京都に送った。

同年5月、上総国で上総介をしていた百済王貞連にが武蔵守に任命された。百済王貞連(くだらおう・さだつら)は、百済の義慈王の子である余禅広(善光)が持統天皇の時代である693年に「百済王」という姓を賜ったことに始まる。貞連ではなく、貞運という説もあるという。
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武蔵国の国守として武蔵に赴任した百済王貞連は興世王とは姻戚があったが、百済王貞連は興世王を政治から遠ざける等した為に不和となったという。行き場を失った興世王は下総国の平将門の元へ身を寄せるようになったという。

太政大臣の藤原忠平は源経基の訴えた将門謀叛の真偽を確かめるべく、武蔵密告史の派遣を決定するが派遣するよりも早く将門から二通の弁明書が届き、評議が行なわれたが将門は無罪となる。源経基は讒訴(ざんそ)した事になり禁錮に処せられている。

939年6月中旬、上総で平良兼が病没する。また、この頃に平貞盛が将門を召喚する官符を持って常陸へ帰国し、常陸介・藤原維幾(ふじわら・これちか)に渡り、維幾は将門に召喚の官符が来ていることを頻りに通告するが、将門は維幾を無視する。

同年7月15日、再び出羽に於いて俘囚反乱の知らせが届き、折からの飢饉を憂いて天台座主(天台宗トップ)の雨乞いの読経が行なわれたという。

この頃、常陸国には藤原玄明(ふじわら・はるあき)という人物が農作物を収奪し、官物を収めず、国司の使いに反抗するなどしていた。常陸介・藤原維幾は玄明にも官物の弁済を求める文書を送っていたが、将門と同じように玄明は応じなかった。藤原玄明は土豪であったが維幾による催促が続くと、将門の本拠地である下総国豊田郡に逃げてしまった。維幾は将門に対しても玄明を捕まえるように要請しているが将門は玄明は逃亡したと返答とし、玄明を引き渡さなかった。

藤原玄明は常陸介・藤原維幾に合戦を仕掛ける企てを立てる。将門は玄明に協を約束し、将門と玄明とは内々に評議を行い、常陸国府である国庁を襲撃する計画となった。

同年11月、将門軍は千人余の軍兵を率いて常陸国府(茨城県石岡市)に押し寄せた。国庁軍には、藤原維幾、また維幾の子である藤原為憲、更に平貞盛が加勢し、勢力は三千余の精兵であったという。国庁を襲撃するという大胆不敵な戦いであったが、将門軍は国庁軍を悉く撃破し、舎宅、家屋などは焼き払われ、各種の財宝が略奪され、屏風の中に描かれたような美女たちも兵士らに凌辱されたという。常陸介・維幾は捉えられて捕虜となり、藤原為憲と平貞盛とは逃げ延びたという。将門は国庁を占拠し、《印鎰》(いんやく/国の印と国庫の鍵)を奪い、紛れもなく国家に対しての反乱に手を染めた。

一説に、この印鎰の奪取とは、すなわち常陸国の奪取であったが、それを扇動したのは将門の元に身を寄せていた桓武天皇の玄孫である興世王であったという説があるという。一国を奪ったとて公の責めは大きく、どうせなら坂東八か国を奪ってしまってはどうかという提案がなされ、将門がその気になった――と。

同年12月14日、将門は下野国に精兵数千を引き連れて押し寄せ、国庁を占拠。国司らに印鎰を差し出させた上に京都へ追い返した。翌15日には上野国に向かい国庁を占拠し印鎰を奪った。19日に上野介を追放。この上野国の国衙にある間、将門の目前に一人の巫女が現われ、「八幡大菩薩の使いである」等と口走り、将門に皇位を授ける旨の内容を話したという。その巫女の一件に乗じた形で、将門は「新皇」を自ら名乗る。

また、この12月に前伊予掾藤原純友が反乱を起こす。

平将門の乱は手際よく、新皇を自称しているでけではなく、行政手続きとして印鎰を奪い、元々の国司らを追放し、将門支配体制による国司らに入れ替える等の算段も済ませ、まるで坂東八か国を独立させたというような手際である。

東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の南都七大寺の名僧に「将門謀叛鎮定」の祈祷を命じ、社々の神祇官には将門の「頓死頓滅」の式神を祀らせ、七日間にわたって将門調伏の護摩焚きも行なわれた。

940年正月9日、将門の謀叛が明確になった事で、将門を告発したが讒訴したと禁錮に遭った源経基は改めて告発を称され、従五位下に叙される。

正月11日には太政官符が発せられ、将門の討伐に成功したものには破格の賞、末永く子孫に伝える功田と官爵(官位と爵位)を授けるとしていた。更に14日には、坂東諸国の《掾》(じょう)8名を特に「東国掾八名」と呼び、「押領使」(おうりょうし)、「追捕凶賊使」(ついぶきょうぞくし)に任命された。ここで登場する【掾】とは、国司次官に該当する【介】の下の役職。東国掾八名の中には上総掾・平公雅、遠江掾・橘遠保らの名前が判明している。平公雅(たらいのきんまさ)は平良兼の子である。また、推測として、この際に下野国造の系譜にありながら素行不良の為に国造になれず下野押領使をしていた藤原秀郷も含まれていた可能性が高いという。

正月中旬、将門はというと五千の兵を率いて常陸国へ向かった。久慈郡と那珂郡では土豪の藤原氏らから歓迎を受け、饗宴が開かれたという。藤原玄明と同族か。

将門軍は平貞盛や藤原為憲らを捜索していたが、土豪・藤原氏も所在を知らず、残敵退治は空振りに終わる。しかし、この際に平貞盛の妻と、源扶(みなもとのたすく)の妻、更には源護(みなものとのまもる)の妻らが将門軍に捕えられた。妻らは兵士らから凌辱を受けたらしいことを知り、将門はこれを憐れみ、衣服を与えて本貫地へ送還したという。

登場している「源護」や「源扶」の一字名の源氏は、10世紀の武蔵国に進出しており、嵯峨天皇の系譜にやはり一字名の源氏があるという。源経基を祖とする清和源氏とは別の系統。護や扶は桓武平氏の嫡流にあたる平国香、平貞盛と姻戚関係を結び互いに支配力を高めようとしており、傍流の将門が懸念を抱いたという解説も。

藤原秀郷は藤原北家房前の五男魚名流で、下野に土着し、国造の家系であるという。しかし、粗暴な振る舞いが原因で国造に任命されず、暴徒や盗賊を取り締まる下野押領使の職にあった。将門討伐は藤原秀郷にとっては千載一遇のチャンスであり、且つ、中央政府は秀郷のような在地勢力を利用することが将門討伐に効果的であると考えていたという。そして、その藤原秀郷の下に平貞盛が身を寄せる。秀郷は平貞盛と共に四千の兵を集め、将門に戦を仕掛ける事を決めた。

同年2月1日、将門は藤原秀郷・平貞盛連合軍を迎え撃つべく、軍を進めた。将門軍の副将、藤原玄茂、多治経明、坂上遂高らは山の頂から北の方角に、秀郷・貞盛連合軍を発見する。その山の頂は現在の栃木県佐野市の三毳山(みかもやま)にあてられている。副将らは将門の到着を待たずに攻め込んだ。秀郷は三隊に分けて藤原玄明・多治経明らの兵を討ち、四方に逃げ散るように壊滅した。このときに矢にあたって死んだ者は数百人を数えたという。

秀郷・貞盛軍は緒戦を制した事で勢いに乗り、同日午後には将門の本拠地の下総国豊田郡へ侵攻し、鎌輪宿からも近い川口村を襲撃。これには将門自らも剣を持って応戦したが、精兵三千を要している秀郷・貞盛軍に押され、夕刻頃に本拠地にしている石井宿へ将門は退却した。

2月13日、秀郷・貞盛軍は更に兵士を集い数千の大軍で将門の本拠地である石井宿を攻めた。秀郷・貞盛軍は計略を巡らせながら東西から攻め、将門之館をはじめ、与力の家、士卒の家などを悉く焼き討ちにした。本拠地の石井宿は焼かれたが将門は決戦を避けるべく、事前に兵を率いて幸島之広江(下総国猿島郡)に退避していた。

その翌日が決戦となる。猿島郡の北山(坂東市岩井周辺)で将門は四百余名の兵と共に陣を張って秀郷・貞盛軍を待ち受けた。対する秀郷・貞盛軍は三千数百の兵力であったという。この2月14日は春の暴風が吹き荒れ、木の枝が鳴り、土埃が舞い上がる天候であったという。風上に将門軍、風下に秀郷・貞盛軍。しかし、暴風だったので両軍とも楯が使えず、楯から離れて戦うことになった。その最中、貞盛の陣中に変化の兆しをみた将門は敵陣へ攻め入り、八十余名を討ち取り多くの従兵を追い散らした。将門軍の果敢な追撃に秀郷・貞盛軍の兵の多くは逃げ去り、秀郷・貞盛軍の精兵は三百余となり、その三百余の兵も逡巡するばかりであった。平将門の勝利かと思われた瞬間であったが、ここで俄かに春の暴風が気まぐれを起こし、風向きを変えた。将門は陣へ戻ろうとしたが、その途中で将門は風下に立つことになった。これを見た秀郷・貞盛は、この機を逃しまいと身命を捨てるかのような勢いで攻めかかり、合戦を挑んだ。これに対して将門は自ら駿馬を駆って自ら率先して戦った。そんな将門が射抜かれた。将門を射ぬいた矢は、流れ矢だった――。

『将門記』は、将門の最期を「暗ニ神鏑ニ中テ」と神仏の射た鏑矢が当たったと表記し、『今昔物語集』では「現二天罰有テ」で、天罰にて矢が当たったと表記し、『扶桑略記』では将門は貞盛の放った矢にあたり落馬し、そこへ秀郷が馳せ寄って頸を斬り、士卒に渡したという具合に表記されているという。


下野押領使・藤原秀郷は従四位下を叙された上に功田を与えられた。常陸掾・平貞盛は従五位上・右馬助に叙された。また、将門謀叛を告発した武蔵介・源経基は従五位下を叙していたが更に太宰少弐(九州の大宰府の次官)を任命された。

3月、藤原公雅が上総国に於いて、興世王を討ち取る。

秀郷は11月に下野守に任じられている。

平貞盛は桓武平氏の嫡流に当たる血筋であったが貞盛の系譜はその後も武家として繁栄し、貞盛の子の平維衡(たいらのこれひら)の子孫として平清盛が登場し、平氏政権を樹立。また、鎌倉期に活躍する執権・北条氏も貞盛の子である維将(これまさ)の末で、関東地方に国司職を継承した貞盛の系図から出ている。

平繁盛は平貞盛の弟で、つまり父は平国香。繁盛は貞盛が朝恩に授かったのに比較して地味な役回りをしたが、常陸平氏、海道平氏として系譜を広げている。常陸地方の国司職や常陸から陸奥にかけての太平洋沿いで活躍をする系譜を残した。

高望王の男子としては、国香、良兼、良将(将門の父)、良正、良文らがあったとされる。平将門のの乱の後に、良兼と将門の旧領を得たのが高望王の五男だったとされる良文であり、この良文の子孫は東国中に広がり、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、葛西氏、畠山氏らが登場している。

さて、最後に藤原秀郷ですが従4位下の官位を得たものの中央政府とは無関係で鎮守府将軍や武蔵守らを得ている。後世になってからムカデ退治の逸話や俵藤太(田原藤太)伝説を残す。その子孫は蝦夷討伐で活躍するなどが多く、鎮守府将軍を任じられ代々一族で継承していたという。また、秀郷の子孫からは結城氏、小山氏、下河辺氏、亘氏、波多野氏、松田氏、大河戸氏、秀郷流足利氏などがある。また、平泉に王国を築いた奥州藤原氏と呼ばれる清衡、基衡、秀衡、泰衡は秀郷流を自称していたという。
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平将門の乱の後になります。

将門の乱に於ける最高の功労者は藤原秀郷。他方、源経基は「清和源氏の祖」と呼ばれ、いわば武門といえば源氏という場合の祖にあたる人物。しかし、源経基は「平将門の乱」にあっては、さほど武功を挙げていない。興世王と共に東国へやってきたが地元の有力豪族であった武蔵武芝と対立し、仲裁に平将門が介入。この際、狭服山(狭山丘陵か)で源経基は武蔵武芝の軍勢に囲まれてしまうという事態に遭遇し、源経基の兵は驚き騒いで分散してしまい、残された源経基は京都へ帰っている。源経基は、このときに興世王の事も寝返ったと疑念を抱いていたという。つまり、将門と武芝の側に興世王もついたものと判断し、京都へ逃げ帰っている。また、そのように告発したが初期の段階では「謀叛は起こっていない」と判定され、源経基は讒訴(ざんそ)したという裁きを受けて禁錮刑に服している。その後に、将門の坂東に於ける私闘が国府を占領した事で、私闘から謀叛へと拡大し、それで源経基に対して、「早期から将門の謀叛を知らせていたという功が認められ、結果として功労者となる。武門源氏の祖にしては、いわゆる「ほろ苦いデビュー」をしている。

藤原秀郷の子である藤原千春は中央に出仕して、左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)に仕えていたが、源高明・藤原千春が失脚するのは源経基の子である源満仲の告発が原因であるという。源満仲は藤原氏北家にして右大臣であった藤原師尹(ふじわらもろただ)と関係を強化しており、その右大臣・藤原師尹に従がって左大臣・源高明を失脚させた騒動を「安和の変」という。この頃、藤原氏北家は権力を独占すべく、他者を排除する動きをしており、その最後の一手が「安和の変」とされる。源満仲は「左大臣・源高明は皇太子廃立を企んでいる」と密告し、左大臣・源高明の追放に成功する。源高明が左遷に遭った事で、高明に仕えていた藤原千春も隠岐に流される。その「安和の変」を総仕上げにして藤原氏北家による摂政・関白の独占時代が始まったという。

権力争い、派閥争いにも思えますが、興味深いのは「藤原秀郷の血脈」と「源経基の血脈」との戦いが既に始まっている事でしょうか。秀郷の子は基本的には京では開花せずに関東以北の在地軍事貴族として定着してゆく。一方の源氏は在地軍事貴族となる一方で中央政府に於ける出世、権力争いも巧みに成し遂げてゆく。

藤原千春は、同じく「将門の乱」で功績を残した平貞盛の兄弟にあたる平良盛と武蔵国で紛争を起こしており、その翌年に「安和(あんな)の変」が発生している。京に於いては右大臣が左大臣を失脚させた謀略であったが、関東に於いては藤原秀郷の子孫と、平貞盛らの子孫と、源経基らの子孫らが熾烈な縄張り争いを展開させており、関東に於いては「藤原秀郷の血脈」は排除したい対象であったという。京とのルートが断たれた藤原秀郷の子孫は北関東に辛うじて残るものの勢力を失い、関東圏に於ける勢力争いは、源経基の子孫の源氏と、桓武天皇に遡る高望王の平氏(平貞盛・平繁盛・平良文らの子孫)らが拮抗する。それでいて支配を万全とする為に在地豪族(地方軍事貴族)の間でも地固めの為の婚姻が模索されている。

平良文は「将門の乱」のくだりでは余り登場していませんでしたが高望王の五男。従がって平国香、平良兼の弟にあたり、平将門の叔父。相模国鎌倉郡村岡に因んで村岡姓で村岡五郎とも名乗っている。高望王の子ですが地域に根付いて支配体制を固めた好例で、いわば地方軍事貴族。

血脈的には高望王が東国にやってきたことに始まるが、東国にやってきて、どのように勢力を維持するのかというと在地豪族化することになる。その裏付けとなるものは武威だけにあらず、「守」や「介」といった地方に於ける役職であったり、中央政府とのパイプや官位であったりする。桓武天皇の末裔であることや、清和天皇の末裔であることは高貴な出自、つまり貴種(きしゅ)として支配権強化に有益であったよう。

今も昔も同じって事かもね。信用を得るには裏付けが必要。ある地方で信用を得ようとしたら地道に信用を重ねてゆくことになる。しかし、プラスアルファで後ろ盾として使用できるような元何々省で何年勤めていましたという類いの非常に分かり易い肩書きがあれば、それは即座に信用に繋がるワケです。裏返すと、何もバックボーンの無い者は「そんなドコの馬の骨とも分からないヤツを信用できるかい!」となってしまう。

平良文こと村岡五郎良文の話に戻りますが、この人物は「北辰の化身」と呼ばれたり、「妙見の御落胤」と神格化されており、東国に広く子孫を繁栄させている。それには理由があり、良文は叔父である平将門の遺領である下総、上総、常陸の領地を継承したこと、それと良文が戦功を重ね、陸奥守や鎮守府将軍にも任じられた事による。この血脈の一族は在地豪族として繁栄し、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏らを生み、これを坂東八平氏という。(秩父氏を入れずに畠山氏を入れる場合もあるが、秩父氏から畠山氏が派生している。)この坂東八平氏は有力御家人として活躍する歴史を残している。

一方、清和源氏の系譜はというと、源満仲が告発役をした「安和の変」に触れましたが、満仲の子となります。満仲の三人の子から、摂津源氏、大和源氏、河内源氏という区別が可能になる。このうちの河内源氏の祖となる源頼信の系譜から武家政治の創始者・源頼朝が後に登場する。この段階の話では源満仲が武蔵国で勢力を伸ばし始め、その子である源頼信は精力的に武蔵や常陸を拠点にして関東圏に勢力を広げてゆく。

平良文の孫の平忠常(たいらのただつね)が源頼信と火花を散らす。『今昔物語集』には源頼信が常陸介として常陸に在任していた際、下総を拠点にしている平忠常と接触したというクダリがある。平忠常は強大な勢力で上総と下総を我が物にしており、官物を収めることも怠り、常陸介・源頼信の命令も蔑ろにしていたという。源頼信が軍勢を引き連れて海を渡り、平忠常の拠点である下総国立花郷へ出向くと、平忠常は怠状と名簿(みょうぶ)を差し出してきたという。その名簿は主従関係の契約を意味するもので、源頼信を主とし平忠常を従者とする主従関係であったという。それによって源頼信は平忠常を攻めることなく引き揚げた――と。

その平忠常は「平忠常の乱」という反乱を起こしている。隣国の安房の揉め事に介入すべく、平忠常は兵を動かし、安房へ。仔細は謎に包まれているものの、安房の国衙に火を放ち、安房守・平惟忠を焼殺させた。これが謀叛と受け止められ、追捕使の人選が為される。源頼信は主従関係にあるから外され、追討使に選ばれたのが平直方であったが、この平直方は常陸に勢力を張った平貞盛の子孫の一族(常陸平氏)であり、同じ高望王の血筋でありながら仲の悪い常陸平氏と坂東平氏との対立関係が関与していたという。

要約しますと、一口に桓武平氏といっても常陸地方に拠点を置いた貞盛を祖とする常陸平氏と、村岡五郎良文の坂東平氏との間には軋轢があり、いわば桓武平氏同士の私闘のニュアンス。しかし、これも国衙を焼き討ちにするという行為が私闘ではなく謀叛と認識されている部分で、実は「平将門の乱」の構図と酷似しているという。

細かく追うのも大変なので、さらりと行きたいのですが、つまりは関東史も例に洩れず権力闘争史であるという事ですね。在地豪族、在地豪族というのですが、その表現にしても注意が必要で桓武天皇の末裔であるとか清和天皇の末裔であるとか、そうした貴種が坂東(関東)へ入る。で、その坂東を実質的に支配するには自らが在地豪族化してゆく。「平忠常の乱」でも発端となった安房の騒動というのは安房守と安房の住民たちとの争いであり、おそらくは更に古い在地豪族であった郡司が住民たちを率いて反乱したものであるという。これは氷川神社の神事に携わっていた名門の一族である足立郡司・武蔵武芝が新たに赴任してきた武蔵権介・興世王や武蔵介・源経基と揉め事を起こした構図とダブる。更に、その後に百済王貞連が武蔵守として武蔵に入ると、これまた興世王と揉め事を起こしている。「地方の実情」と「中央の事情」とは異なり、現在に置き換えるなら地方議員と国会議員との対立でしょうか。平氏と平氏との対立もあれば、平氏が源氏と姻戚関係を結んだり、一族の者を藤原摂関家に出仕させて中央とのパイプを強化しているなど、結構、生々しい人間の闘争史になっているよう。「権力」というものの本質も内包されていそうですかね。

で、その地方軍事貴族=在地豪族の話というのは平安後期以前の時代にも、それは通用するようで地方の権力者とは7〜8世紀になるのか国造家の家系であったりする。寺谷廃寺が埼玉県比企郡にありますが、これはいわゆる聖徳太子の飛鳥時代の寺の跡。或る意味では7世紀前半に武蔵国にも何がしかの勢力が在り、結構、早い時期に仏教寺院が到達してしまっているんですね。それどころか笠原直の話は6世紀の話で、そこで上毛野氏の介入を匂わせる逸話もあり、空白地帯であったというワケでもない。

東海道と東山道のルートを考えてみると、何故、鹿島神宮があり、香取神宮があるのかもにも頭が向かいます。ルートとして東山道では秩父地方あたりに到達した後は東には進み難い。武蔵地方に入るには甲信越、いや北陸ルートで新潟から南下して群馬へ到り、そこから南下して埼玉・東京になるワケですね。それに対して海岸沿いをゆく東海道ルートだと伊豆半島を越えて三浦半島を越えて、房総半島に水路で到達できる。もう千葉ですね。で、千葉を北上すれば茨城であり、つまりは常陸国。その茨城の鹿島と香取は当時は内海であったとも言われる霞ケ浦を挟んで対峙している。

鹿島神宮に香取神宮というのは、古くは東方拠点だったのではないか。崇められているフツ(経津・布津)の御霊とか、タケミカヅチについても、何某かの考察が可能になりそう。天津神勢力は国津神勢力と戦った痕跡を残しているといいますか、出雲王朝と大和王朝との転換期の混乱の痕跡のように想像してゆくこともできそう。以前に諏訪神社系の伝承として宗像神社と近い関係だった旨の伝承があると触れました。出雲大社や宗像神社、諏訪大社は、どうも古層の神社信仰の痕跡があるんですよね。裏返すと鹿島や香取よりも古い層の何か。勿論、謎だらけの氷川神社(大宮氷川)も古い層と考えないと辻褄が合わない。

また、「将門の乱」に登場した平貞盛・平繁盛の一族は常陸を拠点にしながら北上して勢力を伸ばしており、海道平氏と呼ばれていたりする。現在も地震速報などで「浜通り」という言葉が使用されていますが、あれで太平洋沿岸に北上し、その血脈は陸奥にまで到っている。

さて、忠常の乱に戻ります。平忠常は再度、安房へ侵攻しており、二度目の侵攻。焼殺された前安房守に変わって新安房守には藤原光業が就いていたが、忠常軍を怖れて印鎰を廃棄して京へ逃げ帰る。追討使として任じられている平直方は兵を動かしているものの忠常軍は上総国伊志見山(夷隅郡の山)に籠もって抗戦。平直方は二年以上を費やしても忠常を討伐できなかったので、改めて前年に甲斐守になっていた源頼信に忠常追討を命じた。平忠常と源頼信とは頼信を主とする主従関係があったので一度は見送られたが、改めて源頼信を頼ったという事のよう。

源頼信が動き出す準備に取り掛かると、平忠常は兵らに武器を捨てさせ、自らも剃髪し「常安」と号して自ら源頼信の居る甲斐へ向かい、投降する。忠常の身柄は京へ送られることになったが道中、美濃で忠常は死亡したらしく、その首級を源頼信の部下が持って上洛する。しかし、投降してきたことなどを考慮され、忠常の首級は忠常の従者らに返却されたという。ここで手柄を立てた源頼信は丹波守を授かっている。

忠常は最終的には自ら投降してきたことが考慮され、忠常の子弟らは追討を免れた。この忠常の近親者の血脈は、秩父氏、江戸氏、葛西氏、豊島氏、土肥氏、畠山氏、稲毛氏、河越氏、小山田氏に通じているという。結構、現在も使用されている地名との所縁も深そうですかね。
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ざっと、年表形式にして総ざらいをしてみると、以下のような感じ。


239年…邪馬台国女王・卑弥呼が親魏倭王となる。

4世紀前半…武蔵地方で古墳の築造が始まる。

367年…朝廷が武蔵国人・千熊長彦を遣わせて新羅へ渡り問責する。

369年…荒田別と鹿我別が将軍として朝鮮半島へ渡り、活躍する。

372年…千熊長彦が百済の久氐(くてい)を同道して帰国。久氐が七枝刀を献上する。

471年…ワカタケルの刀杖人であった乎獲居が辛亥銘鉄剣を製作する。

478年…雄略天皇(ワカタケル)が宋へ遣使し、倭王武として官爵を得る。

5世紀末…さきたま古墳群稲荷山古墳に辛亥鉄銘剣の持ち主である乎獲居が埋葬される。

507年…継体天皇が即位。

534年…笠原直使主(かさはらのあたい・おみ)が武蔵国造となる。同族の小杵(おぎ)が上毛野君小熊(かみつけのきみ・おくま)と謀って国造の座を狙っていたので笠原直使主が朝廷に申し述べて朝廷の助力を得て小杵を誅殺した。

587年…物部守屋が蘇我馬子らに攻められ敗死する。

607年…壬生部が設定され、男衾および埼玉地域に壬生吉志(みぶきし)が入部する。(聖徳太子の取り巻きに近い者が壬生部?)

633年…聖徳太子舎人の物部直兄麻呂が武蔵国造に任命される。間もなく兄麻呂が寺谷廃寺を造立か。

645年…乙巳の変。中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺する。

646年…大化改新。

この後に百済僧や新羅僧などの移民が増える。

658年…阿倍比羅夫の遠征が始まる。三カ年に及ぶ。

659年…遣唐使が毛人を中国に帯同させる。

710年…平城京遷都。

716年…武蔵国に高麗郡が設置される。

724年…海道の蝦夷を鎮める為に坂東九ヵ国の軍士に騎射を習わせる。

758年…陸奥国・桃生城、出羽国・雄勝柵を坂東の者を徴発して設置する。

759年…坂東八ヵ国、北陸四ヵ国の浮浪人二千人を雄勝柵に移す。また、上総など七ヵ国の軍士器仗を雄勝、桃生に置く。

764年…恵美押勝の乱。武蔵国から丈部直不破麻呂、物部直広成が鎮圧軍に加わり、戦功を上げる。

767年…丈部直不破麻呂(はせつかべのあたい・ふわまろ)らに武蔵宿祢が賜姓され、不破麻呂が武蔵国造になる。

768年…物部直広成らが入間宿祢を賜姓する。

769年…坂東八ヵ国の百姓を陸奥国・桃生、伊治2城に移す。

774年…この年より、対蝦夷38年戦争が始まる。

776年…出羽国志波村の蝦夷が反乱を起こす。下総、常陸、下野の騎兵が鎮圧する。

776年…安房、上総、下総、常陸の四ヵ国に船50隻を造らせ、陸奥に配置する。

777年…下総、相模、武蔵、下野、越後の五ヵ国に甲200領を作らせ、出羽に送る。

780年…陸奥国上治郡大領・伊治公呰麻呂(これはりのきみ・あざまろ/いじのきみ・あざまろ)が乱を起こす。

780年…坂東諸国他に命じて、糒(ほしいい)3万斛(こく)を準備させる。

780年…坂東の兵士を多賀城に集結させ、常陸一万斛と下総6千斛の糒を軍所に運ばせる。

781年…桓武天皇が即位。

783年…坂東諸国、軍役と物資調達で疲弊が顕在化する。

788年…坂東諸国の騎兵が多賀城に集結する。

790年…東国各国に革甲を作らせ、軍糧糒14万斛を備えさせる。

791年…坂東諸国に命じ軍糧糒12万余斛を備えさせる。

791年…坂上田村麻呂が征東副使として蝦夷征討に参加。

794年…平安京遷都。

796年…常陸国人を陸奥国伊治城へ移す。

797年…軍功を重ねた坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。また、この年に蝦夷の首長である阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)を降伏させ、戦線を多賀城から胆沢城に北上させる。

802年…常陸国などの浪人を陸奥国胆沢城へ移す。

811年…対蝦夷38年戦争が終結する。


848年…上総の俘囚・丸子廻毛が反乱を起こる。

861年…武蔵で群党が横行。郡ごとに検非違使を設置する。

864年…富士山大噴火(貞観大噴火)。

867年…上総に検非違使。

869年…陸奥国で貞観地震発生。

870年…上総で俘囚の反乱が起こる。

875年…下総で俘囚が反乱を起こし、常、総、武、下野に派兵を命じる。下野で120名を斬首する。

878年…出羽で俘囚の大反乱が起こる。

883年…上総で俘囚三十余名が山中へ逃亡する。

889年…東国の群党の首領・物部氏永らが蜂起する。

899年…僦馬の党の横行により、足柄・碓氷に関門を設置する。

900年…上野で群党を追捕、武蔵で群党蜂起。

901年…信、甲、武、上野で群党が横行する。

902年…駿河富士郡の官舎が群党によって焼失する。

909年…下総で騒乱。

916年…下野の罪人として藤原秀郷ら18名を配流する。

931年…平将門が伯父の平良兼と私闘を始める。

935年…平将門が私闘(内輪揉め)を拡大させ、平国香、源扶、源隆、源繁ら合戦をし悉く討ち殺す。国香の嫡子である平貞盛が帰国し、将門に合戦を挑む。

938年…武蔵権守興世王と武蔵介源経基が、足立郡司・武蔵武芝と争いを起こし、平将門が武蔵国に介入する。

938年…京都大地震。

939年…一連の平将門の行動が「謀叛」と認められる。

939年…西でも藤原純友の乱が発生する。

940年…将門の乱の鎮圧の為に押領使15名が任命され、配流されていた藤原秀郷も押領使に任ぜられる。

940年…平将門が藤原秀郷・平貞盛に討たれて、「将門の乱」が終結する。

1028年…平忠常の乱。将門の乱以降、勢力を拡大していた平忠常が安房の扮装に介入、国衙を焼き、安房守を焼殺する。

1030年…再び平忠常が安房へ侵攻し、国衙を襲撃する。安房守は印鎰を捨てて逃亡。追討使の平直方らは忠常を二年かかっても討てずに解任され、源頼信が追討を命じられる。

1031年…平忠常が甲斐守・源頼信の居る甲斐へ自ら趣いて投降する。忠常は投降後に病死する。

1032年…源頼信が美濃守になる。

――と、ここまで。


それと、ここまでの年表を通してですが、古代の関東地方は基本的には兵站基地・前線基地として活用されており、対蝦夷戦争の拠点として扱われているという事が先ず一点。それはいつ頃からなのかというのが悩ましく、千熊長彦や荒田別を考慮すると4世紀頃には朝廷の意向に沿って渡海し、問責をしたり、軍隊を動かしていたと考えられる。

そこから浮かび上がって来る古代の関東地方とは、西の鎮西府(大宰府)に対して、東の鎮守府という構図で、防衛ライン拠点という事でしょうか。新羅の海賊退治が西で起こり、東では蝦夷の反乱に当たっていた。その構図は平安時代に対蝦夷戦争を展開させてゆくことで明確になりますが、実は、その東西の防衛ラインが置かれ始めたのは、更に時代を4世紀まで遡れそうなんですね。既に、有力者が武蔵国や毛野国に在った事が千熊長彦、荒田別・鹿我別の話から推測ができる。

より詳しくは、知々夫彦が4世紀前半の崇神天皇の時代に知々夫国造となっている。垂仁天皇、景行天皇を経て、成務天皇の時代、これも4世紀ですが兄多毛比が无邪志国造になっている。

少し角度が変わりますが、両毛に君臨していた毛野氏、その出自は豊城入彦を経て崇神天皇に遡る事になっている。そうした出自の話というのは疑いたくなるワケですが、四道将軍の話を照応した場合、そこそこ合致しそうな気配がある。崇神朝の時代、大彦は北陸地方へ、建渟川別は東海地方へ、吉備津彦は山陽地方へ、そして丹波道主が丹波周辺地方へ。吉備津彦は桃太郎の事ではないのかとされる人物。建渟川別の遠征しているルートは飛躍をすればヤマトタケルのルートのようにも思えるし、丹波道主というのは不明ながら匂いとしてはアメノヒボコ(天日矛)を投影できそう。

で、大彦は北陸へ向かったのですが、当時の地理的な日本列島を考慮すると関東地方に畿内から到達しようとした場合には、結構、東海道ルートが鬼門になっており、北陸に到ってから南下したという可能性はアリらしいんですよね。新撰姓氏録は疑わねばならないものの、大彦の末裔が北関東、上野、下野、北武蔵に到達し、在地豪族化していたのではないかと勘繰ることは出来そうなんですよねぇ。乎獲居の臣の鉄名剣には、自らがワカタケルに仕えていたこと、自分はオオヒコの末裔である旨が記されていた。乎獲居(ヲワケ)が鉄名剣と一緒に埋葬されたのがさきたま古墳群稲荷山古墳であることを考慮すると、乎獲居を中央官僚とあてる説は実は必要以上に地方を地方たらしめる中央崇拝の不自然な思考に思える。常識的には乎獲居は自分の出身地である武蔵国に自分のつくった鉄名剣と共に埋葬されたと考えた方が遥かに自然でもある。自分の末裔に鉄名剣を見せたかったから、その古墳に埋まったのであって、わざわざ中央政府の有力者を一地方に埋葬する理由が見当たらない。乎獲居がオオヒコの末裔だと残していたのだから、オオヒコの末裔らは本当に北陸を経由して南下した可能性が高くなる。また、そのオオヒコとは、豊城入彦当人か、その末に比定するのも、さほど不自然ではなくなってしまう。

法則性が平安期に確認できる。貴種の中央軍事貴族が坂東に赴任してくるワケですが、現実問題として坂東諸国を統治しようとすれば、そこに根を下ろさねばならず、結局は地方軍事貴族としての地方豪族化という道を選択することになる。「将門の乱」に顕著ですが、新たに赴任してきた地方行政官は古参の有力者と揉め事を起こす。古参の者を「在地豪族」と表記してしまうので混乱してしまうワケですが、ホントは在地豪族の殆んどは地方軍事貴族であり、元々は中央軍事貴族として東国へやってきた末裔たちであったりするんですよね。赴任したその地で根を張り、嫡流が傍流・庶流を生みだして強靭な勢力に成長する。

少しフライング気味に鹿島神宮と香取神宮について触れましたが、鹿島氏という氏族は常陸大掾の地頭職の桓武平氏が、その地名を名乗って鹿島氏となったものだという。つまり、鹿島氏とは桓武平氏であり、地方行政官の大掾が大掾と名乗った常陸大掾の家系。官職として、守(かみ)があり、その下に「介」(すけ)があり、その下に「掾」(ぞう)があり、その下に「目」(さかん)があったという。常陸国の場合、直轄地の扱いであったりしたので「常陸守」が置かれないなどの入り組んだ事情があるものの、要は行政官職名が、そのまま姓となり、後に地名が氏族名になっている。

いわゆる「物部氏」という名前に生じる混乱も、こういうのがヒントになりますよね。元々の「物部」は軍事や刑罰に携わった職掌の品部(しなべ)としての名称であったが氏族名にもなり、且つ、地方行政官としての物部は朝廷の部民を意味していた可能性が高く、それも、そのまま氏族名として流用されている。

桓武平氏の末裔らがフツやタケミカヅチだと言いたいわけではありません。桓武平氏以前の時代に、おそらくは東海道を通って海路にて、伊豆半島、三浦半島、房総半島を経由して霞ヶ浦に辿り着き、そこに拠点となる神社を立てていた古い勢力があったと考えると合理的。桓武平氏の末裔がやって来る遥か以前に、神宮を建てて拠点にしていた在地豪族化した地方軍事貴族たちがあったのでしょう。

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平忠常の乱を終息させた源頼信の子は、源頼義であり、奥州十二年合戦(「前九年・後三年の役」のこと)の一方の主人公となる。

西暦1051年に陸奥国で奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手)の郡司であったという安倍頼良(後に安倍頼時に改名)が、賦貢・徭役を怠り、更には奥六郡の境界線を越えるという無法をはたらいた。その為に陸奥国守・藤原登任は、秋田城介・平重成と共に、安倍頼良を攻めたが、逆に鎮圧軍は俘囚長である安倍頼良に鬼功部(おにこうべ。宮城県鬼首を指しており、鬼切部は誤り。)で大敗を喫する。

俘囚長・安倍氏による、その事態を受けて朝廷は源頼信の子で武勇に優れている源頼義に陸奥守を任命。「平忠常の乱」以降は源頼信、その子である源頼義は関東地方の武士たちを束ねられるようになっており、源頼義に白羽の矢が立った。頼義は、子の義家と共に安倍頼良にあたったというもの。(頼義の子の【義家】とは別名「八幡太郎」で、八幡太郎義家とも呼ばれる。)

しかし、この話はとてもとても一筋縄では片付きそうもありませんで異聞や異説も目にしています。とりあえず、もっともシンプルなストーリーに沿う事としますが、源頼義・義家の父子が俘囚長の安倍頼良に苦戦しながらも勝利したというのが概要。都で、藤原道長の娘が大病を患い、病気平癒の祈祷の関係で全国的に大赦となり、安倍頼良は帰順した。帰順した俘囚長・安倍頼良は「ヨリヨシ」と名前の音が、源頼義の「ヨリヨシ」と同じであることを憚り、安倍頼時に改名した。(似たような名前にウンザリとさせられる箇所です。)

もう少し、この奥州十二年合戦をクローズアップしてみると、当時の坂東武士の成立過程だけではなく、当時の日本列島を巡る中央政権と蝦夷と呼ばれた勢力との関係性、更には日本史全体が浮かび上がって来そう。

先ずは、【蝦夷】についてでしょう。元々は【エミシ】と呼び、平安時代末期までは確実に【えみし】と呼んでいたとされる。5世紀以前は朝廷に従がわずに敵対していた者を「エミシ」と呼んでいたが、同時に東国でエミシと戦っている者のことも東国人と呼ぶような感覚で広く、「エミシ」と呼んでいたという。6世紀から7世紀になって国造制が採用されるようになると、その国造の支配地の外側の人々に対してもエミシと呼ぶようになり、言葉のニュアンスとしては「強い人たち、恐るべき人たち」というニュアンスが加わる。大化の改新から平安初期の頃になると、東北地方に城柵が本格的に造営される時代となり、貴種性を是とする価値感が浸透したことと並行して、やや侮蔑的なニュアンスが介入している。この頃までは漢字表記でも【毛人】と表記して「えみし」と読ませることがあったが【蝦夷】に集約されてゆく。「異族」のニュアンスが強まったという事のよう。そして平安初期から平安末期にかけては現在の秋田市と盛岡市とを結んだ線、それ以北が蝦夷地というニュアンスが強まる。また、この平安時代に「えみし」から「えぞ」という発音に変わったという。更に鎌倉時代以降になると、津軽海峡以北が蝦夷という認識に変わっていったという。

投げ出したくなる部分でもありますが、今一度、ここを詰める必要がありそう。中央政権、朝廷から見た場合の東国や坂東の扱いは蝦夷に対しての防波堤であり兵站基地であったという事の確認することに繋がる。「毒を以って毒を制する」という華夷思想の政治哲学が厳然と応用されており、武士モノノフが誕生するのは辺境地であるというのが、特色のよう。

さて、もう一度、奥州一二年合戦のおさらいをします。概要は工藤雅樹著『蝦夷の古代史』(平凡社)を参照しながら以下へ。

1051年に俘囚長・安倍頼良の南下してきた。その安倍氏の鎮圧にあたって鬼功部で大敗を喫したのは、陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)と、もう一人は秋田城介の平繁成です。この平繁成という人物は、将門を藤原秀郷と一緒に討った平貞盛、その貞盛の弟である平繁盛の孫に当たる。また、繁成の父は余五将軍と呼ばれた平維茂で、これは「今昔物語」等ではバリバリのツワモノであるという記述があり、つまり、平繁成も一線級の軍事貴族だったというのが分かる。その平繁成は先鋒を勤めたが鎮圧軍は逆に大敗を喫し、鎮圧軍の死者数は甚大であったという。また、このことからすると、安倍頼良の軍勢は、中々の実力者であった事も同時に伝わって来る。

一体、安倍氏とは何者なのだという疑問が沸いて当たり前ですが、先の蝦夷の説明の平安時代期の通りで、国郡制による支配の及ばぬ奥六郡の俘囚長。

鬼功部の大敗を喫したことで、更なる武門のエースとして「源頼義」が投入されることになり、陸奥守と鎮守府将軍とを兼任する形で、この鎮圧にあたっている。しかし、源頼義が下向してきてからは安倍氏と和平が成立する。ここには前述した大赦の件も関わるのでしょうが、1053年には俘囚長・安倍頼時は鎮守府将軍である源頼義に仕えるような関係性を築いていたという。

時間が経過して1056年、阿久利川付近で権守の役職を持つ者の子が襲撃されるという事態が発生。源頼義は兵を整えて安倍頼時征伐に発つ。一方の俘囚長・安倍頼時も迎撃体制を整え、境界線と目されていた衣川を越えて南下。源頼義は大軍を率いていたが飢餓により、両軍は膠着状態を続けた。その最中、安倍頼時の娘婿になっていた藤原経清が源頼義軍から安倍頼時軍へと寝返るという波瀾も起こしている。

ここで、安倍氏側に寝返った藤原経清(ふじわらのつねきよ)という人物は、これより少し後に平泉藤原三代の初代となる藤原清衡の父である。藤原経清は京都に痕跡を残している人物で、亘理権大夫や陸奥国権守という肩書きのあった人物であるという。秀郷流藤原氏の系図では、秀郷→千春→千清→政頼→頼遠→経清であり、あの藤原秀郷の末裔とされている。

1056年中にも源頼義の陸奥守が任期切れになり、後任の陸奥守が任じられたが安倍氏との抗争を聞いた後任候補が、これを辞退。改めて源頼義に安倍氏追討の宣旨(せんじ)を受けて、陸奥守に再任される。1057年秋、再任後の源頼義は鉋屋(かなや)、仁土呂志(にとろし)、宇曾利(うそり)という現在の青森県下北・上北地方の蝦夷を味方に引き入れようと画策する。このときに安倍富忠という人物が蝦夷を率いて寝返りに応じる構えであった。その寝返りを引き留めて説得せんと俘囚長・安倍頼時は自ら出陣したが、そこで合戦となり、安倍頼時は流れ矢に当たって負傷。安倍頼時は鳥海柵まで辿り着くが、そのケガが元で死亡。すると、安倍一族は安倍頼時の子である安倍貞任(あべのさだとう)の元で一致団結を決意し、安倍貞任体制になってからも、徹底抗戦を展開する。(一説に、安倍貞任、安倍宗任の二頭体制に引き継がれたとも言われる。)

その安倍新体制の蝦夷軍によって、実質的には源頼義は劣性を強いられたというのが史実であるという。そのまま源頼義の陸奥守は二期目の任期切れを迎える。それが1062年。新たな陸奥守については帰郷を余儀なくされたという表現もあれば、なかなか軍功を上げられない源頼義が妨害工作をしたという表現もある。とにかく、源頼義にしても軍功もないまま時間を費やしており、とうとう最後の手段として、俘囚主と表記される清原氏一族に頭を下げて援軍を要請する。

これを受けて出羽の俘囚主・清原武則が一万余を超える大軍を率いて、源頼義軍の三千と合流。一万三千を超える鎮圧軍となって、そのまま一気に安倍氏を滅亡に追い込んだ。これが1062年7月であった――と。

この清原氏は謎の人物じゃないかとなるワケですが「清原真人武則」とあり、この「真人」という姓は「八色の姓」(やくさのかばね/7世紀にあった制度)の筆頭格であるという。おそらくは清原氏とは、単なる豪族ではなく、7世紀の時点では、それこそ天皇家に近いレベル、遠胤にあたるような名家であった可能性が指摘されている。なかなか衝撃的なのだ。

で、やはり謎の多かった藤原秀郷の末裔であるともいう「安倍頼時」という人物ですが、確かに谷川健一が指摘するような、日本史を覆しかねない異説を背負っている。ブリタニカ国際大百科事典には以下のような記述がある。

「平安中期の奥州の俘囚の長。陸奥大掾忠良の子。初名は頼良、通称安大夫。安倍氏は神武天皇東征のとき、これに抵抗した長髄彦の兄安日(あび)が摂津国から陸奥に逃れて土着したのに始まると伝えられるが、本来は蝦夷酋長の子孫であろう」

というもの。結局、ナガスネヒコの兄のアビの末裔だというのが後世のデッチアゲであろうという解説になっている。

しかし、清原氏を巡っての「真人」という姓の謎などは厳然として残るワケですよね。語り手によっては必死に清原氏なんてのは俘囚主で、蝦夷の棟梁に過ぎないと言いたがるワケですが、どうもこの奥州12年戦争の顛末というのは、検証が進めば検証が進むほど、清原氏の援軍によって源頼義が安倍氏を滅ぼすことができたという具合の解釈になってしまう。清原氏の加勢がなかったとして、安倍氏を滅亡に追い込めただろうかと言えば、それは難しかったと考えねばならないのであって。また、歴史は勝者がつくるものだから、武門の雄として成功した源氏に有利な内容だけが正史になってしまうバイアスもありますかねぇ。

安倍氏については「蝦夷酋長」と考えるのが妥当だという。自ら名乗ったという伝承もある。他方、では、蝦夷(えみし・えぞ)についての定義は明確に出来ていただろうかとか、そうした考察を踏まえると、やはり、軽々に「蝦夷の酋長によるデッチアゲであろう」と軽んじるにも論拠が乏しいんですよね。

卑しい身分の者であったと語りたがるが、武士の歴史というのが中央軍事貴族が地方軍事貴族化し、それが地方豪族化した9世紀や10世紀の法則性を考慮すると、あながち軽視できなくなってくるような…。詳しくは、谷川健一の著書に記されていますが、歴史学者が常識として排除してきた古代史は、少し大胆な方向へ補正が可能なのかも。谷川健一による「安倍」、「丈部」、「佐伯」らの氏族を蝦夷か、蝦夷と中央朝廷との間で混血も含めて中間の勢力ではないのかという考察は、やはり興味深いものであったと思う。

大化改新後の聖徳太子の色合いが強い推古朝、皇統が途絶えた為に越から迎えられた継体天皇の継体朝、更には平城京遷都と蝦夷征伐を行ない、且つ母方の血脈が百済系であった桓武天皇の桓武朝という時代のプロセスを経ている。何かしら権力の変遷らしいものがあっただろうと推測できるし、統治体制や各時代の有力者が入れ替わっているのも事実でしょうからねぇ。嘗ての有力貴族が都を追われて、僻地に辿り着き、その僻地で有力豪族化していたのではないかという推測は、そこそこ正しいような気がしないでもない。権力が移ると元貴族は没落貴族となり、土豪、俘囚の棟梁のように認識されるのではないか。
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