「魏志倭人伝」に記されている女王国(邪馬台国)に従属しているしている国名というのがありましたよね。
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴里国、支惟国、烏奴国、◇奴国
似た音を持つ地名を当て嵌めることに意味はないとされているが、「おや?」と思う当て嵌めは出来てしまうものでもあるという。たとえば【斯馬国】とは【しま】という音であるが、大和盆地に隣接している【志摩】(三重県地方)の意味ではないのか、更には【弥奴国】は【みぬ】という音であるが【美濃】(岐阜県地方)にあたる。更に【鬼国】の音は【き】となりますが、これは『常陸国風土記』に拠れば筑波県の古い名称は「紀国」に当たるといい、その鬼国の次には【鬼奴国】が配置されており、その音は【きぬ】になるワケですが、現在の群馬県と栃木県地方は「毛野」であり、音は「けぬ」であったりする。
なるほど、よくよく眺めてみると地図上の配置と国名とで、「おや?」と感じるものはあるというのがホントらしい。
そういえば現在でいうところの【鬼怒川】というのは【衣川】であり、やはり、語源としては「毛野川」が語源ではないのかという話を聞いた事がありますが、古代になると謎だらけなのだ。
さて、掴みどころのない話ながら「東国について」をずっと考えているんですね。取り上えず、古代の東国を考えてみるつもりで、それを考えるときには手掛かりになる事柄は結構、少ないんですよね。取り敢えず、「魏志倭人伝の記述にある鬼国と鬼奴国は、それぞれ茨城県筑波地方、群馬と栃木に跨る毛野氏の勢力圏のように読むことができるという説が実在する、それだけ。
毛野氏については過去にも取り上げているんですが崇神天皇の後裔とされており、「新撰姓氏録」にも記されている。事実なのかどうかは微妙ながら古代に勢力を誇った豪族である事は確実視されている。
何故、上毛(じょうもう)と記せば現在でも群馬県を差し、一方で下毛(しもつけ)というと栃木県を差す。上野と書いて「こうずけ」だし、下野と書いても、これまた「しもつけ」と読む。北関東にある群馬と栃木というのは、古代毛野氏の国なのだ。
毛野氏が崇神天皇の末裔だというのが真実なのかどうかは一先ず置いておいても、妙に大きな勢力を誇っていたのが毛野氏であるという。
その話、よくよく見直してみると一定以上の説得力があるのではないかという気分になってくる。というのは、現在の関東地方を眺めた場合、西からやってくるには山梨県を越えて東京多摩地方、埼玉秩父地方を経由して北上すると群馬県、更に西に進んで栃木県へ到るという地理条件だったらしんですよね。ついつい現代人は東海道新幹線に沿って考えてしまうのですが、平安時代頃までの武蔵国地方(埼玉、東京)は低地であり、現代人の意識する横浜から東京を経てさいたま市を通過して北上するというルートは存在していなかった。考えればすぐにでも分かる事なんですが、結構、見落としてしまう。
で、もう一つは関東地方でも、房総地方を経て常陸地方・筑波地方へと到るルートであったという。静岡県の箱根あたりまで太平洋沿岸に沿って東進しても武蔵地方は低地だから北上できず、海路を行き房総半島へ進み、そこから上総、下総(千葉県)を北上して常陸地方へ到達できる。更に古代の霞ヶ浦は内海のようであった為に常陸地方を北上し、鹿島神宮と香取神宮が配置されている。武蔵エリアには中々、辿り着けずに海を東進し、そのルートになったのは半ば必然であったかのよう。
これらの事は、現在でこそ首都圏を有して繁栄の都になっている武蔵地方は古代人の東進ルートとしては、最後の方になったと考えられる。
そして、「日本書紀」には神功皇后にかかる一節で、千熊長彦(ちくまながひこ)が朝鮮半島へ渡ったという記述が登場する。西暦に換算すると、それは367年の事で、その千熊長彦とは武蔵国の人である。また、「ちくまながひこ」の名前は「百済記」でも確認可能で「職麻那那加比跪」が見える。
千熊長彦は、百済から大和朝廷に対しての貢物を新羅が横取りしたという事件が発生、その後、百済の使者と一緒に朝鮮半島へ渡り、百済との交流を深めた人物である。そして、西暦369年には荒田別と鹿我別の両人が将軍として新羅に軍事的圧力を加える為に朝鮮半島へ渡り、七か国を平定し、それらの国々を百済に与えたとされる。で、その荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)は、上毛野君(かみつけぬのきみ)の人であったことになっている。(石上神宮の七枝刀を持ち帰って献上したのも荒田別・鹿我別が有力だそうな。)
古代の東国というと未開の地であり、歴史舞台には余り関係がなかったようにも語られてきていた気がするものの、信憑性が検証できる4世紀の話で、既に武蔵地方から官人となり外交を任されていた節のある千熊長彦が居たり、武力で威嚇する為に出陣した将軍が上毛にあったとされる大豪族だったりするのだ。
それを考慮すると、魏志倭人伝に記されていた鬼国と鬼奴国が茨城、群馬、栃木のことではないのかという話も、結構、引っ掛かって来ますかねぇ。三世紀にあったという邪馬台国(女王国)というのは、既に関東の有力どころも関与していた? 4世紀にはこれが起こっているのだから魏志倭人伝の3世紀には既に畿内の中央勢力との連携がある程度は出来ていても不思議はなさそうだし。
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴里国、支惟国、烏奴国、◇奴国
似た音を持つ地名を当て嵌めることに意味はないとされているが、「おや?」と思う当て嵌めは出来てしまうものでもあるという。たとえば【斯馬国】とは【しま】という音であるが、大和盆地に隣接している【志摩】(三重県地方)の意味ではないのか、更には【弥奴国】は【みぬ】という音であるが【美濃】(岐阜県地方)にあたる。更に【鬼国】の音は【き】となりますが、これは『常陸国風土記』に拠れば筑波県の古い名称は「紀国」に当たるといい、その鬼国の次には【鬼奴国】が配置されており、その音は【きぬ】になるワケですが、現在の群馬県と栃木県地方は「毛野」であり、音は「けぬ」であったりする。
なるほど、よくよく眺めてみると地図上の配置と国名とで、「おや?」と感じるものはあるというのがホントらしい。
そういえば現在でいうところの【鬼怒川】というのは【衣川】であり、やはり、語源としては「毛野川」が語源ではないのかという話を聞いた事がありますが、古代になると謎だらけなのだ。
さて、掴みどころのない話ながら「東国について」をずっと考えているんですね。取り上えず、古代の東国を考えてみるつもりで、それを考えるときには手掛かりになる事柄は結構、少ないんですよね。取り敢えず、「魏志倭人伝の記述にある鬼国と鬼奴国は、それぞれ茨城県筑波地方、群馬と栃木に跨る毛野氏の勢力圏のように読むことができるという説が実在する、それだけ。
毛野氏については過去にも取り上げているんですが崇神天皇の後裔とされており、「新撰姓氏録」にも記されている。事実なのかどうかは微妙ながら古代に勢力を誇った豪族である事は確実視されている。
何故、上毛(じょうもう)と記せば現在でも群馬県を差し、一方で下毛(しもつけ)というと栃木県を差す。上野と書いて「こうずけ」だし、下野と書いても、これまた「しもつけ」と読む。北関東にある群馬と栃木というのは、古代毛野氏の国なのだ。
毛野氏が崇神天皇の末裔だというのが真実なのかどうかは一先ず置いておいても、妙に大きな勢力を誇っていたのが毛野氏であるという。
その話、よくよく見直してみると一定以上の説得力があるのではないかという気分になってくる。というのは、現在の関東地方を眺めた場合、西からやってくるには山梨県を越えて東京多摩地方、埼玉秩父地方を経由して北上すると群馬県、更に西に進んで栃木県へ到るという地理条件だったらしんですよね。ついつい現代人は東海道新幹線に沿って考えてしまうのですが、平安時代頃までの武蔵国地方(埼玉、東京)は低地であり、現代人の意識する横浜から東京を経てさいたま市を通過して北上するというルートは存在していなかった。考えればすぐにでも分かる事なんですが、結構、見落としてしまう。
で、もう一つは関東地方でも、房総地方を経て常陸地方・筑波地方へと到るルートであったという。静岡県の箱根あたりまで太平洋沿岸に沿って東進しても武蔵地方は低地だから北上できず、海路を行き房総半島へ進み、そこから上総、下総(千葉県)を北上して常陸地方へ到達できる。更に古代の霞ヶ浦は内海のようであった為に常陸地方を北上し、鹿島神宮と香取神宮が配置されている。武蔵エリアには中々、辿り着けずに海を東進し、そのルートになったのは半ば必然であったかのよう。
これらの事は、現在でこそ首都圏を有して繁栄の都になっている武蔵地方は古代人の東進ルートとしては、最後の方になったと考えられる。
そして、「日本書紀」には神功皇后にかかる一節で、千熊長彦(ちくまながひこ)が朝鮮半島へ渡ったという記述が登場する。西暦に換算すると、それは367年の事で、その千熊長彦とは武蔵国の人である。また、「ちくまながひこ」の名前は「百済記」でも確認可能で「職麻那那加比跪」が見える。
千熊長彦は、百済から大和朝廷に対しての貢物を新羅が横取りしたという事件が発生、その後、百済の使者と一緒に朝鮮半島へ渡り、百済との交流を深めた人物である。そして、西暦369年には荒田別と鹿我別の両人が将軍として新羅に軍事的圧力を加える為に朝鮮半島へ渡り、七か国を平定し、それらの国々を百済に与えたとされる。で、その荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)は、上毛野君(かみつけぬのきみ)の人であったことになっている。(石上神宮の七枝刀を持ち帰って献上したのも荒田別・鹿我別が有力だそうな。)
古代の東国というと未開の地であり、歴史舞台には余り関係がなかったようにも語られてきていた気がするものの、信憑性が検証できる4世紀の話で、既に武蔵地方から官人となり外交を任されていた節のある千熊長彦が居たり、武力で威嚇する為に出陣した将軍が上毛にあったとされる大豪族だったりするのだ。
それを考慮すると、魏志倭人伝に記されていた鬼国と鬼奴国が茨城、群馬、栃木のことではないのかという話も、結構、引っ掛かって来ますかねぇ。三世紀にあったという邪馬台国(女王国)というのは、既に関東の有力どころも関与していた? 4世紀にはこれが起こっているのだから魏志倭人伝の3世紀には既に畿内の中央勢力との連携がある程度は出来ていても不思議はなさそうだし。
