どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみるブログ。

カテゴリ:関東史シリーズ > 関東戦国史

関幸彦著『武蔵武士団』(吉川弘文館)のまえがきで、著者が「坂東武者は強かったと言ったら郷土史研究家の偏屈な意見と思われるだろうか? 私は真剣にそう考えている」という具合の一文がありました。確かに、いつの頃よりか「坂東武者は強くなかった」が定説化してしまったので、昨今ともなると、こういう具合に展開される事になる。

しかし、よくよく考えてみると、やはり、坂東武者は強かったというのは基本中の基本である事に気付かされるかも知れない。平将門の乱があり、それを鎮圧したのは藤原秀郷である。源頼朝の時代になって熊谷直実、畠山重忠、比企能員あたりは典型的な武蔵武士であり、木曽義仲も生まれは武蔵国であったりする。蝦夷との戦いに尽力する中で源頼朝が台頭してきますが、やはり相模武士と武蔵武士の活躍が目立つ。しかも鎌倉幕府を滅ぼしたのは足利尊氏と新田義貞である。坂東武者は強くないのではないかとなってしまったのは、戦国時代の関東地方が上杉氏と後北条氏しかない事からイメージがつくられてしまったものなのですが、実は日本列島が戦国時代に突入する以前に関東地方は全国に先駆けて戦国時代に突入してしまっていたという見方が成立するんですよね。しかも、これほどの大混乱もないだろうというレベルの大混乱を演じたのは、やはり関東なのだ。そりゃ強いか弱いかといったら、その尺度は最終的には主観に委ねられますが、おそらく最も過酷な激戦区であった事は否定できそうもないんですね。

関東史は全国的な戦国時代が始まる前から戦乱、戦乱、戦乱、戦乱、寝返り、寝返り、内訌、内訌、誅殺の連続なのだ。伊勢宗瑞による相模進出が戦国時代の幕開けと理解されているのだと思いますが、これも微妙で、関東地方に於ける戦乱は足利公方家と上杉氏との争いとして「享徳の乱」、「長享の乱」、「上杉禅秀の乱」があり、「応仁の乱」よりも関東地方の戦乱の方が長期間であり、且つ、先駆けて発生している。

鎌倉公方の足利氏が朝敵となり、古河公方の足利氏が朝敵になっている。幕府も足利氏だし、三管領も足利一門であり、公方も足利氏であったが、公方は幾度となく幕府と反目している。京都・室町に幕府を置いたが、鎌倉府は独自に恩賞を払う権限を持ち、その武家の棟梁が棟梁として振る舞う権限を背負い続け、そのまま戦国時代まで残っていたかのような感慨を持つことになる。

戦国時代には上杉対北条の対立構図になる訳ですが、上杉謙信の関東侵攻ルートが途切れると、佐竹義重を盟主とする東方衆一統勢力が形成され、宇都宮氏、那須氏、大掾氏、真壁氏、江戸氏、鹿島氏、結城氏が一丸となって後北条氏と対峙している。小山氏は後北条氏に攻められていたので佐竹義重を頼っており、里見義弘は佐竹義重と同盟し、足利公方をも佐竹氏が庇護していた事を考慮すると、佐竹義重が戦国時代に形成した東方衆一統は、最後の坂東武者による決起に見えてくる。よくよく眺めてみると、鎌倉府は室町幕府と反目して抗争を続けており、上杉氏や後北条氏が背後で幕府と繋がっている中央政府であるのに対して、坂東武者は最後の最後まで抵抗している。これは「のぼうの城」で北条氏政が豊臣秀吉に降伏した後も、北条方の国衆であった成田氏が忍(おし)城に籠城し、石田三成の水攻めをも乗り切ってみせた坂東武者の矜持と似ている。つまり、東国は明らかに畿内とは異なる論理で歴史を刻んでいるように見えてくる。


◆関東管領・上杉憲春、諌死する

室町幕府第3代将軍・足利義満は栄華を極めた将軍として認識されている。しかし、その足利義満には同じ歳の鎌倉公方・足利氏満があり、この両者の関係はギクシャクしていたという。足利義満による疑心暗鬼のようでもあり、又、同時に、そうでもないように見える。鎌倉公方は、思いの外、大きな存在感を持っていたらしいのだ。

1379年2月、京都では前管領職の斯波義将(しば・よしゆき)と現管領職の細川頼之との間で対立が起こり、将軍義満の裁定によって現職の細川頼之に官僚を辞めさせ、斯波義将を復帰させるという「康暦の政変」という事件があった。

1379年3月初旬、関東管領・上杉憲春が理由不明の自害を遂げるという不可解な事件が発生した。何故、上杉憲春が自殺したのが謎であったが、鎌倉公方・氏満が将軍・義満を討つ計画をしており、それを諌(いさ)める為の、諌死(かんし)であったという。

この頃の将軍・義満は土岐氏を征伐しており、鎌倉府にも上洛要請が来ていた。その上洛要請に応えて上洛し、そのまま将軍・義満を討とうとしていたのではないかという。実際のところ、鎌倉公方・氏満の心の中は分からないが、「鎌倉大草紙」、「足利治乱記」、「上杉系図大概」、「南方紀伝」らは揃って鎌倉公方・氏満に義満を討つ計画があり、それを諌めた上杉憲春が諌死したものとして伝えている。

1379年3月、上杉憲方を大将にした関東軍が上洛しているが、騒動は起こしていない。

しかし、このときの関東管領・上杉憲春の死が諌死ではないのかと京都でも噂される事となり、以降、将軍・足利義満と鎌倉公方・足利氏満との関係はギクシャクしたものとなる。



◆小山義政・若犬丸の乱

下野国の豪族である小山氏は、藤原秀郷の後裔と伝わる。鎌倉時代以来、その本拠を下野国小山荘(栃木県小山市)に構え、下野国守護を務め、その勢力は北武蔵の一部にまで及んでいた。

この小山氏は下野国の支配権を巡って、宇都宮氏と対立の歴史を持っている。宇都宮氏は室町時代には北関東の名族に数えられているが、その出自には謎が多く、下毛野氏を祖とする説、中原氏を祖とする説、藤原氏を祖とする説などもあるが、各種の系図では関白職・藤原道兼の曾孫で僧になった宗円を祖としているものが多いという。或る時期から宇都宮二荒山神社の検校職に任じられ、美濃、伊予、下野の守護職や、伊賀、九州、四国の地頭職を安堵された一族と見られる。

宇都宮氏綱は「武蔵岩殿山の戦い」で鎌倉府に反乱し、更には「平一揆の乱」でも反乱に加担していたが、その宇都宮氏綱の子が宇都宮基綱であり、この宇都宮基綱と小山義政は敵対関係にあった。

1380年5月、鎌倉公方・足利氏満は、その両者の調停をしていたが、小山義政は調停を無視して宇都宮基綱を攻め滅ぼすという事件を起こす。これが「小山氏の乱」の始まりであった。

この「小山氏の乱」(小山義政・若犬丸の乱)に対処したのは二代目の鎌倉公方・足利氏満であった。この氏満は幼名・金王丸の頃、上杉憲顕が金王丸を奉じて「平一揆の乱」を鎮圧した。関東地方で幅を利かせてきた秩父氏一族などの一揆衆が歴史の舞台から退場し、関東地方は上杉姓が幅を利かせる時代へ移り変わっていった。

その後に上杉憲顕が死亡してしまったので、この足利氏満を支える関東管領職は上杉憲顕の子・能憲と、上杉憲顕の甥・朝房が務めた。上杉能憲、上杉朝房が関東管領となり、二人とも上杉姓になったことから「両上杉」と称されたという。

1380年5月、鎌倉公方・氏満の調停を無視し、小山義政が宇都宮基綱を攻めて自害に追い込む。

1380年6月1日付で鎌倉府は小山義政討伐を関東八ヵ国に催促する。

1380年7月14日、小山義政討伐を告げる鎌倉府の使節が京都に到着し、報告をしている。

1380年9月、鎌倉公方・足利氏満も出陣して小山氏の祇園城(栃木県小山市)を攻撃、小山義政は降伏する。この時、鎌倉を出た足利氏満軍は常陸国の烟田氏に警固役を務めさせ、武蔵国府中(東京都府中市)から村岡(埼玉県熊谷市)を経て天明(栃木県佐野市)を経て下野国小山に向かったという。

1381年2月、小山義政に再び不穏な動きがあったとして、今度は鷲城(栃木県小山市)に関東各地から集まった鎌倉府方の武士が鎮圧に向かった。村岡(埼玉県熊谷市)から足利(栃木県足利市)まで鎮圧軍が進軍すると、小山義政に呼応して新田氏の残存勢力が蜂起したので、一部では合戦は長井(埼玉県熊谷市)、吉見(埼玉県吉見町)、岩付(さいたま市岩槻)にまで波及したという。最終的には鷲城は鎮圧軍に攻略される。敗れた小山義政は出家して「永賢」と号すことになった。

1382年3月、小山義政は子の若犬丸と共に、三度目となる反乱を起こす。この反乱も鎌倉府は各地の武士に義政討伐命令を出し、またしても鷲城を攻略される。この際に小山義政は自刃。しかし、子の若犬丸は行方を眩ませた。若犬丸は陸奥国へ脱出していたとされる。

1386年5月、陸奥国の田村氏の元に匿われていた若犬丸が挙兵、かつての小山氏の拠点であった下野国小山の祇園城に籠城、敢然と鎌倉府に対して反乱の意を示した。鎌倉公方・氏満は若犬丸退治を関東武士に命じ、自らも軍勢を率いて出陣した。形成不利とみた若犬丸は常陸国へ逃れて、小田孝朝の庇護を受けて、男体城(茨城県笠間市・石岡市)などで抵抗し、翌年、若犬丸は陸奥国へ戻り、再び田村氏の庇護下に身を置いた。

1391年2月、陸奥国と出羽国の管轄が鎌倉府に併管される。

1396年2月、実に10年の歳月を経て、若犬丸が挙兵。鎌倉公方・足利氏満は自ら軍勢を率いて陸奥国白河まで陣を進め、若犬丸を庇護している田村軍を破って、7月に鎌倉に凱旋。若犬丸は会津に逃亡した。

1397年1月15日、会津方面に逃げていた若犬丸は蘆名氏に攻められて自害。小山氏の乱は終結するが、小山義政の反乱から数えると17年目であった。

若犬丸退治に手間取ったのは、陸奥国は鎌倉府の管轄外であった事が挙げられる。陸奥国は管轄外なので陸奥国の田村氏に匿われた若犬丸を討伐できなかったのだ。しかし、この小山氏の乱の終結までの期間に、奥羽は鎌倉府の管轄に含まれる、奥羽併管を幕府から認められていたという。しかし、このことは裏を返すと、鎌倉府は東国をごっそりと管轄下に置いたという事でもある。

この二代目鎌倉公方・足利氏満は公方として31年間もの在任期間を持ち、この氏満によって鎌倉府による統治体制は確立されたという。いつしか鎌倉公方は、鎌倉殿として関東武士たちに認識されてゆくことになる。

1398年11月4日、第2代鎌倉公方・足利氏満は40歳で没。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆満兼の野望

1394年12月、足利義満が将軍職を足利義持に譲る。

1398年、氏満から世襲によって満兼に鎌倉公方が継承され、足利満兼が第3代鎌倉公方となる。満兼(みつかね)は21歳前後で鎌倉公方になったものという。

満兼は公方になると、すぐ下の弟・満貞を陸奥国・稲村へ、またその次の次の弟・満直を陸奥国・篠川(ささがわ)へ派遣し、奥羽支配を固めたという。満貞は第2代公方・氏満の次男であり、満直は氏満の四男であったと思われる。満兼は、氏満の長男。また、稲村とは現在の福島県須賀川市、篠川とは福島県郡山市であるという。この稲村御所と篠川御所の設置は、満兼に於ける奥羽への備えであり、それよりも北では、伊達氏や大崎氏が勢力を広げていたという。

また、この頃から鎌倉府による関東支配が形成され、「関東八家」という呼称が使用されるようになったという。これは鎌倉公方を鎌倉殿、即ち関東武家の棟梁と認識した関東雄族を意味しており、千葉家、小山家、長沼家、結城家、佐竹家、小田家、宇都宮家、那須家を以って、これを関東八家と称した。

1399年3月、稲村御所の足利満貞が御所を逃亡する騒動が起こる。この頃、奥羽で勢力を誇っていた伊達政宗、蘆名満盛に不穏な動きがあった為という。鎌倉府は結城氏の庶流で白河を拠点にしてた結城白河満朝に伊達、蘆名退治を命じる。結城白河満朝は翌年、公方満兼より功績があったとして感状を送られている。

1399年11月、西日本では「応永の乱」が発生。大内義弘が、前将軍・足利義満の挑発に乗って反乱を起こし、そのまま室町幕府軍によって鎮圧されたものである。この「応永の乱」当時の大内義弘は周防、長門、石見、豊前、和泉、計六ヵ国の守護職を兼務していた有力者であった。既に足利義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権を握っていたのは義満であった。大内義弘は今川了俊が九州探題を解任された後、九州地方にも勢力を拡大し、且つ、海外貿易を推進していたので、室町幕府からは警戒される存在であったのだ。

足利義満が大内義弘に上洛を促がす。大内義弘は拠点にしていた周防国から和泉国堺にやってくるが、和泉国堺から動かなかった為、その真意を質したところ、謀反の意ありと判明、室町幕府は大内義弘討伐軍を派遣する。(大内義弘による謀反して一応は扱われているものの、これらの経緯からして幕府側が大内義弘を陥れた幕府の仕掛けた奸計、白色テロみたいなものでしょうねぇ。)

1399年11月29日、幕府軍が堺城に籠城する大内軍を攻める。

1339年12月21日、堺城が陥落、大内義弘は討死。大内義弘の弟・大内弘茂は足利義満に投降して、この応永の乱は終結する。

しかし、この「応永の乱」に際して、鎌倉公方・足利満兼は武蔵国・府中に出陣していた。足利満兼は関東の兵を率いて、幕府の援軍として上洛し、そのまま幕府を倒すつもりであったという満兼の野心があったとするのが室町幕府側の観点から語られる歴史である。少なくとも、この頃の鎌倉公方は大内義弘が室町幕府に警戒されていた事と同じで、幕府を脅かす存在になっていたのだ。

しかも大和国には室町時代は守護職を置かれず、興福寺などが勢力を形成していたが、その興福寺宛ての書簡では、大内義弘が第2代鎌倉公方・足利満兼に宛てたものと思われる「鎌倉御所京都へご発向候、忠節致されば、目出べく候」という文書が残っているという。つまり、大内義弘は実際に鎌倉公方・足利満兼に上洛を要請、反乱もしくは倒幕を計画していた痕跡は確かにあるらしいのだ。

平たく言えば、これは関東の軍勢が、応永の乱に乗じて上洛し、そのまま京都を攻めるという反乱計画の存在を物語っているとも言える。また、同時に、室町幕府にとって既に関東に於いて鎌倉殿になっている鎌倉公方は危険な存在になっていた事をも同時に表わしている。

足利満兼が府中に出陣したという報せを受けた足利義満は、山内上杉憲定に書状を送って、満兼出陣の真意を尋ね、山内上杉憲定は心配はない旨の返答をしたという「上杉家文書」が残っているという。

つまり、室町幕府は「ホントに足利満兼軍が出陣しているのか? その真意は何か?」と信用できるルートで確認していたのだ。(この時の山内上杉憲定は関東管領職にはなく、足利義満が自らが信用できるルートで、関東の情勢を確認していた事を示している。)

この「応永の乱」時、何故か足利満兼は府中在陣を続けた為、その後、山内上杉憲定から諌めたという。

更に、足利義満は、山内上杉憲定を通じて、「今川了俊が関東へ没落しているという噂があるが、これが本当であれば了俊を追討せよ」と命じたという。これにも裏があり、京都では今川了俊が関東へ逃れ、鎌倉公方・満兼と通じているのではないかと疑っていた事を婉曲的に証明している。

足利満兼の中に確固とした野心や野望があったのかは不明であるが、よくよく事情を洗い直してみると、どれもこれも室町幕府及び京都が自らの疑心暗鬼の中から、敵をつくり出しているようにも見える。

この感覚は私だけではなく、比較的最近刊行された水野大樹著『享徳の乱、長享の乱』(徳間書店)や黒田基樹著『関東戦国史』(角川文庫)にも共通していると思う。従来は幕府に敵対したら謀反・叛逆という歴史観で、そのまま通説化されていたが、相対主義的な歴史観を持ち込んで読み直すと、まるで室町幕府の側が、次から次へと敵をつくりだしている過程と、諸国の謀反は並行しているのだ。

1408年5月6日、前将軍・足利義満没。

1409年7月22日、第3代鎌倉公方・足利満兼が32歳で没。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆足利持氏について

1409年9月、満兼の嫡男として幸王丸(足利持氏)が、12歳で鎌倉公方に就く。関東管領職は上杉宗家の山内(やまのうち)上杉氏であり、満兼の代から継続して山内上杉憲定が幸王丸の補佐した。

1410年8月中旬、幸王丸の叔父で、篠川御所でも稲村御所でもない足利満隆に謀反の噂が流れ、一時的に山内上杉家に幸王丸が避難する騒動が発生する。足利満隆が事実を否定、虚説であった事が判明する。

1410年12月23日、幸王丸は元服して足利持氏となる。この名前は室町幕府第4代将軍・足利義持から【持】の字を貰い受ける烏帽子親制に則った偏諱(へんき)という儀式を経ている事を意味している。元々、下野国の足利荘を拠点にしていた足利家では足利尊氏(足利高氏)が将軍になって幕府を開いた事から拠点を京都室町に遷したが、尊氏の父は足利貞氏であり、実は足利家では元々は【氏】という一文字を子に継承させていたという。足利家が好んだ【氏】と、現役将軍から偏諱として【持】を貰い受けての、足利持氏の誕生であったが、この足利持氏は大波乱の鎌倉公方となる。

因みに室町幕府の足利将軍家は、尊氏、義詮□義満→義持あ義量ア義教Β義勝Б義政│義尚→義植→義澄→義晴→義輝→義栄→義昭となる。他方、鎌倉公方は、基氏、氏満□満兼→持氏あ成氏ア政氏Β高基Б晴氏│義氏となる。将軍家は【義】を継承したのに対して、鎌倉公方では【氏】が重用されて継承されている。(第5代以降は鎌倉府の鎌倉公方を名乗るが鎌倉に在所しておらず、古河に在所したので古河公方と呼ばれる。)加えて尊氏の父は貞氏であった。並べようによっては、鎌倉公方を踏襲した足利家に本家の意地を見い出せないでもない。

1413年4月18日、伊達持宗が大仏城(福島県福島市)に籠城し、反乱を企てているとして鎌倉府は畠山国詮を大将とする討伐軍を派遣する。畠山国詮軍による反乱鎮圧は果たせたが、鎮圧に手間取ったとして鎌倉府によって出仕停止の処分を受けたという。


◆上杉禅秀の乱

1415年4月25日、公方持氏が関東管領・上杉禅秀の家人であった小幡六郎の常陸国の所領を没収、小幡六郎を追放するという処分を下した。これに対して上杉禅秀は処分の撤回を進言したが、これを公方持氏が取り合わなかった。

1415年5月2日、上杉禅秀が関東管領職の辞任する。

1415年5月18日、上杉禅秀を継いだのは、上杉宗家にあたり鎌倉は山内に居館を構えていた山内上杉家の上杉憲基であった。上杉家は、この頃までに上杉氏の嫡流で上杉憲顕を祖とする山内上杉家、上杉憲藤を祖とする犬懸上杉家、上杉重顕を祖とする扇谷上杉家、上杉憲栄を祖とする越後上杉家などに枝分かれし、広く東国に広まっていた。

上杉禅秀(上杉氏憲)は、犬懸上杉家なので、この関東管領職の交代は、犬懸上杉家と山内上杉家との力関係にも影響するものであった。

1445年7月、武装した勢力が鎌倉市中に参集するという不可解な騒動が起こる。公方・持氏が帰国命令を出した事で武装勢力は撤退したが、この騒動の黒幕は前関東管領の上杉禅秀が裏で糸を引いているのではないかと勘繰られる事になった。上杉禅秀は公方・持氏の在する鎌倉御所に参上して、釈明し、その後、禅秀は出仕している。

しかし、裏では「上杉禅秀の乱」は進行していた。禅秀は、公方・持氏の叔父にあたり、1440年にも謀反の動静があった足利満隆を担ぎ出し、

「不義の御政道を正す!」

と、号令を掛けて反乱を起こした。禅秀の権力への執着などは汲み切れないが、号令では鎌倉公方・足利持氏は諌めても聞く耳を持たず、このままの政道では謀反が起こるのは目に見えている、嘆かわしい事態だ言って、足利満隆を担ぎ出したものという。「諌めても主君が聞く耳を持たない」や「御政道を正す」という文言に、足利家の執事職を請け負ってきた上杉家らしさが表出している。儒教色が強く、足利学校を再興したのも上杉氏であり、上杉家ではしばしば足利家に対しての諌言、諌死といった事例が並んでいる。この上杉禅秀の本意が、どこにあるのかは微妙ながら、この時代は、そういう論理で世の中が動かされている事に気付く。

足利満隆を担ぎ出しての禅秀の呼び掛けに、下総の千葉兼胤、上野の岩松満純、下野の那須資之、甲斐の武田信満、常陸の山入佐竹与義、小田治朝、大掾満幹、下野の宇都宮持綱、相模の曽我氏、中村氏、土肥氏、土屋氏、伊豆の狩野介一類、陸奥の篠川御所の足利満直、同じく陸奥の白河結城満朝といった錚々たるメンバーが、上杉禅秀軍となる。関東八家と呼ばれていた面々からも千葉、宇都宮、那須、小田が参加しており、内乱中の佐竹氏でも山入佐竹氏が参加、結城氏からも白河結城氏が参加、鎌倉府の出先機関であった筈の篠川御所も、この反乱に参加している事から、かなり、大規模な反乱であった事が予想できる。

そればかりか、室町幕府の将軍職を巡って義持に敗れた京都の足利義嗣までもが参加していたという。

1416年10月2日夜、人馬に背負わせた米俵などに兵具を隠し持って、鎌倉に侵入、突如として、そのクーデターが始まったという。足利満隆が鎌倉西御門の宝寿院で旗を掲げ、上杉禅秀はというと、公方・足利持氏邸を急襲した。この鮮やかなクーデターを考慮すると、同年7月に発生していた武装勢力の参集騒ぎは、やはり、クーデターの予行演習か、途中で頓挫したクーデターであったようにも思える。

近臣より、禅秀謀反を告げられた公方・持氏は半信半疑の様子であったが、そのまま、自邸から脱出し、馬にて山道を巡ったという。この時、持氏に従っていたのは約5百騎で、供奉していたのは中小武士ばかりであったという。持氏は、関東管領・山内上杉憲基邸を目指し、また、山内上杉憲基は即座に7百騎を従えて出陣、持氏と合流した。

1416年10月4日未明、関東管領・憲基は各地を防衛すべく陣を展開させる。足利満隆軍は若宮大路に1千余騎を率いて展開、上杉禅秀は浜の大鳥居から極楽寺口に陣取った。

1416年10月5日、この状況で関東八家の中で、唯一、反乱に加わっていない下野国守護の長沼義秀に対して、公方・持氏は上杉禅秀の所領没収を命じている。公方・持氏が長沼義秀を信用していた事を示すと同時に、持氏が即座に下知している事から、上杉禅秀に対して並々ならぬ怒りを著したものと解釈できる。

また、この「上杉禅秀の乱」にあたっては武蔵武士では、禅秀軍に児玉党、丹党、大類氏、荏原氏、蓮沼氏、別符氏、玉野井氏、瀬山氏、甕尻(みかじり)氏が加担し、公方・持氏軍には江戸氏、安保氏、長井氏、加治氏、金子氏が加担していたという。

1416年10月6日、禅秀方の岩松満澄軍が、扇谷で守備を固めていた扇谷上杉氏定軍を破って南下、化粧坂に押し寄せて、国清寺に火を放つ。この国清寺は観応の擾乱で活躍、山内上杉家の祖にあたる上杉憲顕が伊豆に建立した山内上杉氏にとっては菩提寺であり、その国清寺を鎌倉にも建てたものであった。また、この火が、関東管領・上杉憲基の邸宅にも延焼した為、関東管領・上杉憲基と公方・持氏は、極楽寺口の片瀬腰越の汀を抜けて鎌倉を脱出、小田原へ向かった。小田原には黄昏れどきに到着。しかし、間もなく、その小田原にも禅秀方の土肥氏と土屋氏の軍勢が押し寄せて火をかけた。その為、公方・持氏と関東管領・憲基の軍勢は小田原を追われ、西へ向かい、箱根山に着いたのは夜陰であったという。

1416年10月7日、公方・持氏らは箱根山からは大森氏の案内によって駿河国瀬名(静岡県静岡市)に入った。駿河国の守護は今川範政であり、この今川範政は扇谷上杉氏定の女婿であったので、いわば安全地帯まで逃げた事を意味する。関東管領・山内上杉憲基は、ここで公方・持氏と別れて、伊豆国へ出陣したが合戦で敗れ、越後国へ逃げ延びたという。鎌倉を追われた鎌倉公方・持氏は、しばし、駿河国で逗留。

1416年10月29日、室町幕府が公方・足利持氏の扶持を駿河国守護の今川氏と、越後国守護の越後上杉氏に命じる。第4代将軍・足利義持は必ずしも公方持・持氏と良好な関係にあった訳ではないが、持氏が元服に当たり、偏諱として【持】を与えた烏帽子親子の関係があった事、また、この上杉禅秀の乱には、将軍職を巡る争いで敗れた足利義嗣が関与していた事なども影響したと思われる。しかし、きほんてきには将軍・義持は、当初の段階では警戒対象である公方・持氏の苦境を知らされても放置するような消極的な態度であったとされ、この時期の複雑な東西関係が投影されている。

また、持氏を鎌倉から追い出す事に成功した足利満隆は自らを「鎌倉公方」と称し、武蔵国周辺で戦乱を続けた。

1416年12月25日、今川範政が関東諸氏に向けて、持氏への同心を促がす文書を発した。内容は、「謀反に乗じるのであれば代々の忠勤は消え、所領は没収する。一度、禅秀方に加担したとしても、今、心を改めるなら罪は問わない」というものであった。この文書は効果があったらしく、禅秀方からの離脱が始まる。

1416年12月23日、今川軍を引き連れて、公方・足利持氏が駿河を発つ。

1417年正月、小田原合戦なる戦いを公方軍が制し、更に公方・持氏軍が相模国入りを果たすと、大挙して禅秀方からの寝返りが起こったという。

1417年1月10日、劣勢に追い込まれた禅秀軍は鶴岡八幡宮に落ち延び、上杉禅秀とその一族、また、反乱に加担した足利満隆と、その弟の足利持仲らは自害した。しかし、何故か上杉禅秀の子で犬懸上杉家の嫡子であった憲秋、また弟の教朝は、前もって禅秀軍から離脱し、京都に逃れて幕府から扶持を受けていたという謎がある。実は、幕府は強大化した鎌倉府を脅威と感じており、その力を削いでおきたいという思惑があったのではないかと推測でき、事後の流れからも、その可能性が高かった事が分かる。

密かに、禅秀の乱に加わっていた京都の足利義嗣は、この反乱劇の渦中に行方を眩ませていたが、実は高尾の神護寺に出家していた。義嗣は捉えられて、京都の仁和寺、相国寺に身柄を送られ、1418年1月24日、将軍・足利義持の命令によって殺された。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆「禅秀の乱」後

「上杉禅秀の乱」の終息した後、公方・足利持氏は禅秀に与していた者の掃討を始めるが、それは同時に、幕府と鎌倉府との関係を緊張させる事になった。

この頃、関東には幕府と主従関係にある京都扶持衆が置かれており、その京都扶持衆の多くが「上杉禅秀の乱」で禅秀に加担していた。京都扶持衆は幕府が鎌倉府を監視、制御する為に設置していたものだという。また、それを裏付けるように幕府は京都扶持衆に対しての処遇を穏便に済ませようとした。具体的に禅秀方であった京都扶持衆は、宇都宮氏、那須氏、真壁氏、山入佐竹氏、小栗氏、甲斐武田氏、常陸大掾氏、白河結城氏、桃井(もものい)氏等であった。

怒れる鎌倉公方・足利持氏の復讐劇が始まる。上杉禅秀自害の翌月には甲斐国の武田信満を討伐し、その翌月には「禅秀の乱」で大きな役割を果たした岩松満純を攻め滅ぼした。

1417年2月、甲斐国の武田信満を討伐。

1417年3月、上野国の岩松満純を討伐。

1418年5月、禅秀の被官であった上総国の上総本一揆衆を討伐。

1422年秋、常陸国の山入佐竹与義(ともよし)を討伐。

1423年8月、下野国の小栗満重、宇都宮持綱を討伐。

1424年、常陸国の真壁秀幹を討伐。

1426年6月、常陸国の大掾満幹を討伐。

公方・持氏による反乱諸氏への討伐は、持氏の近臣によって行われたとされる。一色左近将監、扇谷上杉持定、木戸範懐(のりかね)、上杉定頼(深谷上杉名代「小山田」を名乗る)、宅間上杉憲家らが大将を務めたという。

この時期に上杉氏の勢力構成にも変化が起こる。禅秀が当主だった犬懸上杉家は没落、その一方で扇谷上杉家が勢力を拡大し、上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家が二大勢力になる。しかし、この事は上杉一門内で、山内上杉と扇谷上杉との間に軋轢を生じさせる関係が出来上がったという。

また、この公方・持氏による謀反勢力に対しての粛正は、幕府の意向を無視して行われたので幕府と鎌倉府、将軍・足利義持と公方・足利持氏との対立関係を深めてゆく。将軍・義持は、公方・持氏による京都扶持衆討伐に怒り、諸寺社に持氏呪詛の祈祷を行わせた。


◆足利持氏の野望

1418年正月4日、関東管領・山内上杉憲基が没する。憲基に子が無かった事で、山内上杉家は越後上杉家の当主・房方の三男坊の孔雀丸を猶子として迎えた。この孔雀丸は後に山内上杉憲実(「のりざね」と思われるが「かねざね」説もある)と名乗ることになる。庶流の越後上杉家から嫡流の山内上杉家が猶子を迎えたケースであるが、実は房方が山内上杉家から越後上杉家に入り、当主となっていたので、山内から越後へ行った房方の子が山内へ戻って来たような系図となる。

幕府でも継承を巡る動きがあった。

1423年3月、足利義持が将軍職を嫡子の義量(よしかず)に禅譲し、足利義量が室町幕府第5代将軍となる。

1425年2月27日、将軍・足利義量が19歳にて没。

足利義持には男子は義量一人しかなく、禅譲して将軍職を継がせていたが、その義量が思いがけず、早世してしまったのだ。室町幕府は、将軍職を巡って大混乱となった。

1425年11月、鎌倉公方・足利持氏は使者を幕府に送り、「義持の猶子になりたい」という持ち掛けた。これは非常に大胆な行動であり、要は持氏が義持の猶子となって、室町幕府第6代将軍になると挙手したような行動なのだ。しかも、この時期の持氏は幕府の意向を無視して京都扶持衆討伐を継続中であった。幕府側では「余りにも難題である」と理解され、持氏の使者は義持に対面することも出来なかったという。

1428年1月18日、足利義持が没する。義持は将軍職を空位のまま、自ら幕政を執っていたが、とうとう次期将軍を指名しないまま死去する。

1428年5月7日、義持の弟4名がくじ引きをして、そのくじ引きの結果、青蓮院准后義円が還俗して足利義宣が足利家の家督に決定する。(「喜連川判鑑」では足利義持は持氏を猶子にする事を約束していたと記しており、そうなると、この家督決めは、鎌倉公方・足利持氏を京都の意向によって除外して行われたものであった事になる。)

1428年8月、京都では北畠満雅が挙兵するという騒動が起こったが、その挙兵の黒幕は鎌倉公方の足利持氏だという風聞が流れたらしく、幕府は震撼した。また、後小松上皇が足利持氏に征夷将軍の院宣を成す等の風聞も流れたという。公方・足利持氏が上洛してくるらしいという噂は散発的に流れていたらしく、不安のタネであった事、実際問題として、この頃までに鎌倉公方・持氏は幕府を脅かすまでの存在になっていた事が分かる。

(これらの風聞を事実とする説もあるという。公方・持氏は新将軍の選任に怒り、実際に、この年の5月下旬以降、上洛を予定していたが、それを関東管領・上杉憲実が諌め、「上野で新田氏が挙兵した」という嘘まで吐いて、持氏の上洛を制止したという。)

1428年12月、北畠満雅は敗死する。

1429年3月15日、足利義宣は征夷大将軍の宣下を受けて、室町幕府第6代将軍となった。また、この際に義宣から義教へと改名した。

鎌倉公方としては第2代・足利氏満、第3代・足利満兼にも幕府への対抗意識、野心があったかのような見解もあるが、この第4代公方の足利持氏は、野心かどうかは別にして、幕府とも事を構える覚悟があったのは間違いない。幕府と敵対関係をつくり、実際に将軍職を欲し、上洛をも辞さない構えである。しかし、こうなったのは、元はといえば幕府方による鎌倉府に対しての疑心暗鬼や、「上杉禅秀の乱」にみるような謀略が公方・足利持氏の敵愾心を煽ったのも確かのように思える。

足利義教は改名前の義宣の時期に陸奥国の篠川御所・足利満直や、伊達、蘆名氏らに御内書を遣わせていたという。内容は「鎌倉府に備えよ」であった。そして、新たに将軍職に就いた足利義教の元には、篠川御所の足利満直から「鎌倉府を討ち、関東の政権を握りたい」と連絡が入る。管領の斯波義淳、前管領の畠山満家は鎌倉府討伐に反対し、山名・赤松両氏は鎌倉府討伐に賛成したという。意見は割れていたが、新将軍・足利義教は満直の申し入れを受け、鎌倉府討伐を承認する。


◆足利義教VS足利持氏

関東管領であった山内上杉憲実は、緊張関係にある幕府と鎌倉府の仲裁に奔走する事になった。将軍・義教と公方・持氏との関係は冷え切り、公方・持氏は義教に将軍の宣下があった後も慶びの挨拶を伝える賀使を京都に中々、送らず。ようやく宣下から半年が経過して鎌倉府から幕府へ賀使が送られたが、関東管領・憲実が苦労して公方・持氏を説得したか、もしくは憲実が持氏の意向とは別に賀氏を派遣したものという。

また、1429年9月5日には元号が「正長」から「永享」に改められたが、この改元についてもしばらく鎌倉府を無視をして「正長」を使用し続けたという。この京都で改元が為された後も、旧元号を使用し続ける例は南北朝時代の関東では何度か例があり、鎌倉による京都への反抗心が現われているという。

公方・持氏による「禅秀の乱」に対して復讐的粛正は継続中である。

1428年には山入氏の一族であった依上宗義を攻め滅ぼし、陸奥国南部の諸抗争にも介入。

1429年には那須氏と白川結城氏への討伐を本格化させる。

1432年、この年の秋には将軍・義教の富士遊覧が企画される。

1432年8月、関東管領・憲実は「富士遊覧の来年への延期」を幕府に要請。関東では将軍・義教が富士遊覧を口実にして関東攻めをするのではないかという風聞が流布し、公方・持氏も畏怖していた為に延期を要請したものという。

1432年9月、将軍・足利義教が富士遊覧を行われる。同月10日に京都を発って、同月28日に帰京したという。この富士遊覧は公方・足方持氏を威圧する政治的目的があったとされる。

1433年3月、甲斐国守護の武田信長が鎌倉府から姿を消して守護国の甲斐国に勝手に帰郷する騒動が起こる。この頃の甲斐国は、鎌倉府の管轄する関東分国領に該当し、その守護は鎌倉に在住する事が義務になっていたが、武田信長は逐電したのだ。

これに対して、公方・持氏は討伐軍を派遣する。武田信長は公方・持氏による討伐を怖れ、幕府の管轄下となる幕府分国下の駿河国へ逃亡する。

1433年6月、鎌倉府は幕府に対して、武田信長誅殺を要求。幕府は誅殺は認めなかったが、武田信長を駿河国には置かない事とする旨の、裁定を下した。

また、この武田信長討伐を巡る一連の中で、駿河国守護の今川氏の後継問題にも鎌倉府は介入を始める。(この武田信長は武田信満の子であるが鎌倉府に仕えており、逐電騒動を起こすが、その後は鎌倉公方側につく。)

1434年3月18日、公方・持氏は源氏ゆかりの鶴岡八幡宮に血でしたためた血書願文を奉納する。この鶴岡八幡は源氏の氏神であり、源頼朝以降、関東武士の棟梁たる「鎌倉殿」が庇護する事になっており、足利持氏が自らを鎌倉殿である事を強く意識した行動であったという。既に、この血書願文には「呪詛怨敵」という文言が確認できる。

1434年5月、比叡山延暦寺が将軍・義教に背く事態が発生。

1434年8月、延暦寺が将軍・義教を呪詛するという事態が発生。また、この際、延暦寺は鎌倉公方・足利持氏に上洛を要請したという内容が「看聞日記」に記されている。実は鎌倉公方・足利持氏は本格的に討幕を計画していたらしく、延暦寺と連携していたのだ。この事実は室町幕府内にも衝撃を与えたという。

1434年11月、呪詛された将軍・義教は土岐持頼らに延暦寺山麓の坂本を焼き払わせ、怒りを露わにした。

1435年、京都と鎌倉で緊張状態が高まる中、鎌倉府は京都扶持衆で反持氏派であった佐竹氏の一族の長倉義成を攻め滅ぼす。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆永享の乱

1436年8月、信濃国では信濃国守護の小笠原氏は、信濃の有力国人であった村上氏と領地を巡っての抗争を展開していた。小笠原政康は幕府に認められている守護職であり、幕府からの支援を受けることが出来たが、一方の村上頼清には後ろ盾となるものがなかった。幕府に対抗する後ろ盾を探していた村上頼清は、鎌倉公方・足利持氏に援軍を要請する事にした。

公方・持氏は、村上氏の援軍要請に応じる気になっていたが、そもそも信濃国は「幕府分国」であり、その管轄は幕府にあり、鎌倉府の管轄になかった。その信濃国へ、信濃国守護ではない村上氏の援軍として鎌倉府から援軍を送る事は、幕府と鎌倉府との間に決定的な対立を起こしかねない重大事であった。関東管領・山内上杉憲実は、村上氏への援軍は京都への不義になると公方・持氏に必死に諌言したが、持氏は諌言を無視して援軍派遣に踏み切った。

この頃の足利持氏は完全に幕府を敵視しており、その幕府と鎌倉府との調整役である関東管領・憲実に対して、或る種の煩わしさを感じていた可能性も高い。実際、関東管領の任命権は幕府が握っていたようで、関東管領の言う事、為す事は、いちいち幕府寄りに聞こえる。実際、「京都への不義になる」という上杉憲実の言い回しにも表れているかも知れない。「鎌倉九代記」に拠れば、上杉憲実は自ら出陣して信濃への援軍を阻止したとも記されているが、さすがに脚色を疑えるので、推定される実相としては公方・足利持氏は動員はかけたが出兵そのものは諦めたものと思われる。しかし、この信濃・村上氏への援軍を巡る一件は、鎌倉公方と、その補佐役である関東管領との間に大きな亀裂を生んだ。

1437年4月、足利持氏は再び村上氏に援軍を送ろうと「小笠原退治」を掲げて出兵の準備をした。すると鎌倉府内で、とうとう持氏が「小笠原退治」という口実で軍勢を動かし、山内上杉憲実を討つのではないかという風説が立った。この風説によって、憲実に所縁(ゆかり)のある武士が諸国から参集する騒ぎにまでなったという。この上杉憲実は鎌倉は山内(やまのうち)に居を構える上杉家宗家としての山内上杉家の家督であり、その影響力は小さくなかったという。

1437年6月7日、持氏は憲実の宿所を訪れ、両者の間で話し合いが持たれたが和解には到らず。

1437年7月25日、上杉憲実は7歳の嫡子を密かに所領の上野国に避難させた。

1437年8月13日、この日も持氏が憲実の宿所を訪ねて話し合いが行われたが、和解には到らず。

この間、信濃国での小笠原氏と村上氏との抗争は小笠原氏勝利で決着する。それによって足利持氏と上杉憲実の対立は深まった。これは鎌倉公方と、それを補佐する関東管領との溝が深まった事を意味している。また、上杉憲実は「京都の味方」という認識が生まれていたらしく、京都でしたためられた「看聞日記」には「京方として諌言致す」と記されており、どうやら京都目線でも関東管領・上杉憲実は「京都の味方」として映っていたらしい。

1438年6月、持氏の嫡子・賢王丸が元服して、「義久」と名乗る事になった。従来の慣習では鎌倉公方は元服の際に将軍から「義」を一字拝領する烏帽子親子の儀式があったが、その儀礼を省略し、予め、「義久」と持氏が命名したという。この賢王丸の元服にあたっても持氏と憲実は揉めた。更に賢王丸の元服の祝儀を憲実は欠席した。持氏が憲実を暗殺するのではないかという憶測が流れ、祝儀に出席するのは憲実からすると困難であったと思われる。

1438年8月、この月の16日には鶴岡八幡宮の放生会の翌日であり、猿楽が催される予定になっていた。その席には公方・持氏も、関東管領・憲実も終日、楽しむ予定が組まれていたが、その行事中に持氏が憲実を暗殺するのではないかという風聞が立った。

1438円8月14日深夜、上杉憲実は鎌倉を発って、所領の上野国へ向かった。

1438年8月15日、憲実脱出を知った公方・持氏は近臣の一色直兼に旗を与え、憲実追討軍を上野国へ向かわせた。

1438年8月16日、公方・持氏は自ら出陣し、武蔵国府中の高安寺(東京都府中市)に陣を張った。

これが通説が語るところの「永享の乱」であるが、実は少々、上杉寄りの可能性がある。これが乱の発端であれば、持氏が暗殺を計画しており、それを事前に察知した憲実が上野国に逃げ、その追討軍を放ったが持氏となる。しかし、奇妙な事に「足利将軍御内書幷奉書留」には、この騒動よりも2週間ほど早く、7月30日を皮切りに各武将に対して上杉憲実への合力を指示書を出していたらしい文書があるという。このことは実相としては幕府と関東管領は連動しており、足利持氏の挙兵待ち状態であった事が強く推測できる。それを裏付けるのが将軍・足利義教と陸奥国・篠川御所の足利満直の関係であろうと指摘できる。

1438年8月21日、持氏方の駿河国の国人・大森憲頼が憲実方の相模国・河村城を落とす。

1438年8月22日、室町幕府は犬懸上杉禅秀の子である犬懸上杉教朝を大将とした持氏討伐の下知を下す。この上杉教朝は「禅秀の乱」の、あの上杉禅秀の子であり、つまり、京都で幕府の庇護下に置かれていた事を証明するものでもある。

1438年8月28日、後花園天皇が持氏討伐の綸旨を発する。これによって、鎌倉公方・足利持氏は朝敵となる。また、この綸旨によって錦の御旗が天皇より幕府に与えられたが、その錦の御旗は「看聞日記」では、篠川御所の足利満直が賜ったという。この足利満直は事前に将軍・義教に「持氏を討って自らが鎌倉公方になる」と申し出て来た、あの人物である。

1438年9月8日、憲実方の下野国・小山氏の祇園城(栃木県小山市)を持氏方の那須資重が攻め、12日に祇園城の留守を預かっていた小野寺朝道を破る。

鎌倉府が管轄していた鎌倉府分国エリアに於ける有力どころで持氏方となったのは結城氏朝、那須資重、千葉胤直、三浦時高らであり、一方の憲実方には上杉憲忠、小山持政、武田信重であった。(甲斐は関東分国であった。)

序盤は持氏方の攻勢であったが、次第に持氏方は劣勢に追い込まれてゆく。北からは篠川御所の足利満直が南下し、東海道沿いに遠江・駿河の幕府軍が相模国へ迫り、幕府の命を受けて信濃国からは小笠原軍まで関東へ進軍していた。

1438年9月10日頃、幕府方の今川範忠軍が箱根を越えて風祭、早川尻で持氏方の軍勢を破り、更に東進する。

また、上杉憲実追討軍として上野国で戦闘をしていた一色直兼軍が、信濃・越後からの加勢を受けた上杉憲実軍に敗れる。その後、わずかな手勢を率いて一色直兼は公方・持氏に合流する。情勢が憲実方に傾いき始めた為に、中小武士の離脱が相次いだという。

同年9月29日、足利持氏は府中に展開していた陣を海老名に移す。

この前後、千葉胤直は公方・持氏に和睦を提案したが、これを持氏が拒否。千葉胤直は一端、下総国に帰った後に憲実方として挙兵する。寝返りや離脱が相次いでいるが、負ければ厳しい処遇は目に見えている状況であり、離脱、寝返りは必然の行動であったかも知れない。

同10月2日、平塚にて、幕府方の上杉持房軍(幕府が放った大将・犬懸上杉教朝の兄)と、持氏方の持氏側近の木戸持季が対峙する展開となる。

同10月3日、鎌倉府の留守を預かっていた三浦時高が離反、領地である三浦へ帰国してしまうという大事件が起こる。

同10月4日、上野国に遠征していた持氏近臣の一色直兼が持氏と合流する。

同10月6日、上杉憲実が武蔵国分倍河原に着陣。

同10月11日、三浦へ帰国した三浦時高が二階堂盛秀と共に寝返って鎌倉へ向けて出陣。

留守になっている鎌倉は憲実軍によって占領され、海老名に陣を張っていた持氏は鎌倉に戻れない状況に陥る。分倍河原陣の上杉憲実は家宰の長尾忠政を遣わせて和睦を図る。

長尾忠政は鎌倉を目指して持氏一行と葛原(くずはら)で出会い、和睦交渉が行なわれた。持氏は讒臣を退ける事を約束したという。

同11月2日、講和となる。

講和というものの、中身は持氏の敗北であった。持氏は剃髪し出家となり、持氏の近臣の多数は切腹となった。

鎌倉に入った山内上杉憲実は、幕府に持氏助命の嘆願をした。裏返すと、将軍・足利義教は持氏の処断を要求していたが、憲実は持氏の助命を再三、嘆願したという。しかし、将軍・義教は頑なに持氏の処断、つまり、殺害を命令した。

翌1439年2月10日、道継と号する事になった持氏は鎌倉・永安寺(ようあんじ)に身を寄せていたが、幕府は千葉胤直と上杉持朝ら(一説に上杉憲実も含まれている)に持氏を攻めさせた。足利持氏は自らの手で若公、姫君ら7名を殺害し、その後、寺に火を放ち自害した。鎌倉・報国寺に逃れていた持氏の嫡子・義久も自害し、ここに鎌倉公方は滅んだ。

足利持氏の享年は42歳であり、12歳で鎌倉公方になってから30年間の在位期間があったが、上杉禅秀、上杉憲実と争ったが、その背後にあったものは鎌倉公方を疑心暗鬼から敵視していた将軍職の足利義持と足利義教との反目の30年であったようにも見える。

ここまでが「永享の乱」なのですが、実は持氏には義久の下に3人の弟、安王丸と春王丸と乙若丸があり、この3人は鎌倉を脱出し、処分を免れていた。

この「永享の乱」の勝者となった筈の山内上杉憲実は、持氏を自害に追い込んだ事に苦悩したらしく、永安寺攻めのあった1440年年末までには出家し、伊豆国の国清寺に籠居したという。関東管領とは鎌倉公方を補佐する役目であり、足利家と上杉家の関係は足利氏の執事として上杉家の繁栄があった事を考慮すると憲実の自責は強かった可能性がある。儒教的道徳観からすると、主君を死に追いやった下剋上は戒められる対象でもある。「生田本鎌倉大日記」と「師郷記」では、持氏を自害に追い込んだ事を後悔した上杉憲実は国清寺で籠居に入る前の6月28日に自殺未遂を起こしていたと記しているという。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆結城合戦

永享の乱によって鎌倉公方が滅んでしまったので、空位となる。

1440年3月3日、常陸国・木所城(茨城県桜川市)にて、上野国の国人である岩松持国が足利持氏の遺児である安王丸と春王丸を奉じて挙兵。安王丸らは下野国の日光山に逃れていたという。

岩松持国は西進し、同月13日に小栗城(茨城県筑西市)、同月21日には下総国の結城氏朝の居城である結城城に入城した。結城氏は「永享の乱」の後、幕府に恭順していたが安王丸ら持氏の遺児を迎え入れた事で翻意し、関東地方の諸将に決起を呼び掛けた。

この頃、山内上杉憲実は関東管領を辞しており、この時点では憲実の弟の山内上杉清方が関東管領にあったと推定されるという。関東管領によって討伐軍の動員をかけると共に、上杉清方自らも鎌倉を発つ。

1440年3月15日、討伐軍として山内上杉家の家宰(有力家臣の意で、後の宿老の意)にして武蔵国守護代の長尾景仲が出陣。

1440年3月21日、結城城に北関東の中小武士が参集し、結城氏朝を中心とする結城合戦が起こる。この鎌倉公方再興を促がす決起は、持氏の死の約一年後に発生している。

結城氏朝の呼び掛けに、下野国からは宇都宮伊予守、小山広朝、那須資重、常陸国からは佐竹義憲、上野国からは桃井憲義、信濃国からは大井持光、駿河国からは今川氏広、他に木戸氏、里見氏、一色氏、寺田氏、内田氏、小笠原氏など、2万の軍勢が結城氏朝の元に参陣したという。

1440年3月27日、結城城にて蜂起があったという事態を受けて、幕府は籠居状態にある山内上杉憲実に対しての政界復帰を命じている。命令に背けば、これまでの忠節は無に帰ると強く、憲実を促がしている。

1440年3月28日、征東将軍・安王丸の名義で、上杉憲実らの誅伐を呼び掛けて軍事催促状が国人衆らに発せられる。

その後、南陸奥の国人・石川持光は挙兵し、「永享の乱」で幕府に加担していた篠川御所を襲撃し、篠川御所の足利満直を殺害する。

同年4月6日、伊豆国を発った山内上杉憲実が鎌倉山内に到着し、幕府・上杉方による結城討伐軍が編成される。

幕府は、斯波持種率いる討伐隊を派遣すると共に、犬懸上杉教朝・持房兄弟も出陣。更に上野国の国人・岩松家純にも出陣を命じた。(この岩松家純は、安王丸らを奉じて蜂起した岩松持国の一族でもある。)

幕府・上杉連合軍には、宇都宮等綱(ともつな)、小山持政、佐竹興義、岩松家純、今川範忠、小笠原政康、武田信重、朝倉教景、土岐刑部小輔、小田讃岐守、千葉満胤のほか、武蔵七党、武蔵一揆衆が参陣し、総勢は十万余に及んだという。

幕府・上杉連合軍は同年7月末には結城城を包囲。結城城は必ずしも堅固な城ではなかったが、城内には足利持氏の遺児・安王丸らが匿われてているという事から、関東諸将の士気は上がらず、躊躇する姿が散見されたという。

同年4月17日、結城氏朝、岩松持国、桃井憲義らが、上杉方の小山持政の居城である祇園城に先制攻撃を仕掛けたのを皮切りに、各地で本格的な戦乱が展開されたという。

同年7月29日、幕府・上杉連合軍の総大将・上杉清方が結城に着陣。以降、陣頭指揮を執ったが、結城軍は籠城作戦で対抗し、一進一退の攻防となり、結城合戦は長期戦の様相を呈したという。そのまま、越年している。

戦況が膠着しているとして、将軍・足利義政から上杉清方には、早期決着の催促を受ける。

1441年4月16日、幕府・上杉軍は総攻撃を仕掛け、結城城陥落。

結城城陥落によって、結城氏朝は自刃、その子・持朝は戦死。旧持氏の近臣であった木戸氏をはじめ、幕府・上杉軍からなる討伐軍は、実に150にも及ぶ首級を上げたという。

持氏の遺児である安王丸、春王丸は女装して城内からの脱出を試みたが見破られて、捕縛される。

持氏の遺児とされる安王丸、春王丸、それと乙若丸は京都へ護送される事になった。安王丸は13〜12歳で、春王丸は11〜10歳で、乙若丸が4歳であったとされる。京都へ到る途中の美濃国・垂井の金蓮寺(こんれんじ/岐阜県垂井)にて安王丸と春王丸は誅殺された。まだ幼い乙若丸の処遇を巡って、誅殺すべきか否か室町幕府の意向を質していた折、幕府内で大事件「嘉吉の変」が発生する。

1441年5月16日、安王丸、春王丸が美濃国・垂井で誅殺される。

1441年6月24日、将軍・足利義教は、この日、結城合戦の勝利を祝うという名目で幕府内の有力者であり、播磨国守護・赤松満祐の屋敷に招かれて酒宴の席にあった。しかし、その酒宴の席で、赤松満祐に誅殺されたのだ。いわば「将軍殺し」という前代未聞の大事件が室町幕府で起こり、京都は大混乱に陥った。

嘉吉の変、将軍が赤松満祐に殺されたという大事件で京都は大混乱に陥り、その大混乱の御蔭で、乙若丸の処置はうやむやになる。従来は、このときの混乱で命拾いした乙若丸が後の足利成氏であると考えられていたが、近年、これは否定されているらしく、この乙若丸の正体は「神奈川県史」などでも成氏の弟の尊敒(そんじょう)であり、出家して「雪の下殿」と呼ばれていた七番目の子であるという。


◆嘉吉の乱

【乱】と【変】の用法について。原則的には「政変」を意味するものが【変】であり、軍隊が動くようなケースでは【乱】が用いられる。この将軍・足利義教の謀殺事件を暗殺事件として切り抜けば「嘉吉の変」という表現でも充分なのですが、当然、その後、軍隊が動いているので一連を称するなら「嘉吉の乱」の方が適切なように思えますかね…。

拙ブログ:【乱】と【変】について〜2019-1-19

さて、何故、将軍誅殺が起こったのかという問題がある。別に赤松満祐が乱心を起こして、将軍殺しをした訳ではない。

ここで誅殺された室町幕府第6代将軍・足利義教は、第5代の義量が早世してしまった為に、くじ引きで誕生した将軍であり、元々は出家していた僧侶であったという伏線があった。また、この第6代将軍職を巡っては、第4代鎌倉公方の足利持氏が将軍職に色気をみせたが、くじ引きから排除され、京都の足利家中からくじ引きをさせ、将軍となった人物でもある。

将軍となった義教の専制っぷりは凄まじく、当時の室町幕府は三管四職(さんかんししき)という合議制であったが、義教は各家の家督問題に介入し、勝手に家督を入れ替えたりしていた。また、これは地方の守護職や、国人衆に対しても同じであり、気に入らなければ守護職から外したり、所領を没収する等の極めて専制的に振る舞っていた将軍なのだ。比叡山に呪詛されていた例にも触れた通りだし、鎌倉公方に対しての謀議や謀略の痕跡も非常に多い人物で、「万人恐怖」と言われるようなワンマンっぷりの将軍だったのだ。

三管は細川家、斯波家、畠山家、四職として赤松家、一色家、山名家、京極家となる。これらの成立経緯は、室町幕府発足以前の幕府創建に貢献した有力諸家の体制であった事になる。赤松家の場合は足利家からすれば一門ではなく外様であるが、後醍醐天皇の時代から活躍が目立つ名門であり、四職家の赤松家の赤松満祐が将軍を誅殺した事になる。

伏線も様々にあり、結城合戦とも連動している。

中々、結城合戦が膠着している事に業を煮やした将軍・義教は、畠山持国に関東遠征を持ち掛けた。しかし、畠山持国は色よい返事をしなかった。畠山持国に不満を持つ家臣らから、将軍・義教らに持国罷免を求める声が上がったので、将軍・義教は畠山家の家督から外し、その弟の畠山持永を新たな家督に挿げ替えた。畠山持国は河内国へと落ちて行ったという一連がある。畠山家が管領家である事を考慮すると、この家督交代劇などは、まさしく将軍・義教の専制ぶりを表している。

将軍・義教は近臣の赤松貞村を重用する一方で、赤松家に対しては所領する播磨国と美作国と領地没収の噂が流れ、実際に赤松満祐の弟・赤松義雅の所領が没収されていた。赤松満祐は機先を制しようとして、この将軍誅殺を敢行したと思われるのだという。

結城合戦勝利後、京都では有力諸氏が競い合うようにして将軍・義教らを招いて祝宴をしていたという。赤松氏の場合は、赤松満祐の子・赤松教康の名で祝宴を開催したものという。

1441年6月24日、赤松邸で開催されたその宴会の席には、管領家の細川持之、斯波義廉らも同席していたという。赤松満祐と教康の赤松親子が具体的にどのように誅殺したのかは不明ながら、細川持之と斯波義廉は現場にいて逃走に成功したものというから、仮に細川持之や斯波義廉らが殺害されていたら室町幕府は即時に完全崩壊しかねない大事件であったのが分かる。また、この足利義教の誅殺時、この宴会に出席していた山名熙貴、京極高数(たかかず)、大内持世(もちよ)らは、赤松満祐によって、その場で殺害されたという。

逃げ遂せた者と、そうではない者が居た事ことからすると、毒殺ではなく、刀などを使用しての誅殺であったような気もしますね。想像すると、将軍殺しの現場は阿鼻叫喚の空間であったのかもね。

世紀の大事変を起こした赤松満祐は、その後、自邸に火を放つと、一族を率いて領国の播磨国へと引き揚げていったという。京都は大混乱に陥り、実際に室町幕府は、この事態を受けて、赤松追討軍の派遣に手こづったという。つまり、赤松一族は将軍を誅殺後、悠然と引き揚げていったのだ。

比叡山による呪詛や、鶴岡八幡宮で持氏に拠って血書願文で呪詛された足利義教には、宴席で誅殺されるという悲惨な最期が待っていたという事か。

1441年6月25日、管領・細川持之が諸氏を招集して善後策を話し合う。

後継の将軍は義教の嫡子の千也茶丸(足利義勝)に決定したが、千也茶丸(ちやちゃまる)は8歳であった為、政務は細川持之が代行する事が決まる。

管領・細川持之は、赤松討伐軍を編成するにあたり、仮に播磨へ軍勢を動かすと、河内国に隠然たる勢力圏を形成している畠山持国の存在が脅威となるので、畠山持国の赦免を検討する。足利義教が各方面で処罰や追放をやっていた事を悉く、赦免するという方針を執った。畠山持氏は最終的には家督に復帰している。

7月に入り、ようやく赤松討伐軍が出陣する。大手軍は細川持常、赤松定村、武田国信、搦め手は山名宗全が務めた。

1441年9月10日、山名宗全の活躍によって赤松満祐は自害に追い込まれた。子の教康は後に伊勢で誅殺されたという。

これによって、赤松氏の所領は播磨国を山名宗全に、備前国と美作国も山名一族の所領となった。ここで登場した山名宗全が、後の「応仁の乱」に大きく関与する一大勢力となる。

また、実質的な将軍暗殺事件であった「嘉吉の乱」を契機にして、室町幕府の威光は著しく低下したともいう。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆持氏の遺児・万寿王丸

1441年12月、すべて片付いたと思っていたところ、足利持氏の遺児・万寿王丸の名義で御書が出回った。万寿王丸は信濃国の国人である大井持光に庇護されていたといい、万寿王丸を奉じた大井持光軍が上野国へ侵攻するという噂が立ち、山内上杉氏では家宰・長尾景仲を上野国・板鼻(群馬県安中市)まで進軍させたという。

この万寿丸王は、鎌倉・永安寺にて足利持氏が自害した際、瑞泉寺の僧侶である昌在に保護され、その後、信濃国の国人である大井持光の元に庇護されていたという。結城合戦にも挙兵していたが、挙兵の翌月に結城城が落城したので、捕らわれなかったものという。

持氏の子には9人の男子と1名の女子があり、永享の乱で自害に追い込まれた義久、結城合戦の後に美濃国・垂井宿で誅殺された春王丸、安王丸が確認でき、また、その際に4歳と幼かったので処置を幕府に問い合わせていたところで「嘉吉の変」が発生、命拾いをした乙若丸よりは、この万寿王丸の方が年長であった事になるという。乙若丸か万寿王丸のいずれかが、後に第5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)となり、拠点を下総国の古河に移し、以降は古河公方と呼ばれるようになる。

「系図要覧」では、春王丸、安王丸、成氏の母は「簗田長門守直助娘」と記されているといい、「古河公方系図」では春王丸の母について「簗田河内守娘」と記してあるという。


◆不孝之子・上杉憲忠

足利将軍家では、1441年の嘉吉の変の後、千也茶丸が家督を相続する事となり、翌1442年11月、征夷大将軍の宣下を受けた。室町幕府第7代将軍の足利義勝の誕生した。

1443年7月21日、将軍・義勝が僅か10歳で没する。「建内記」には「足利持氏討伐の報いもあるのか」と、その将軍家に起こる早世を訝った記述があるという。

1444年、この頃、永享の乱で主君・持氏を死に追いやった山内上杉憲実は隠居したがっていたが、幕府が強引に憲実を鎌倉に慰留させている状態だったので、憲実は鎌倉を去る事ができない状態に置かれていたという。

1444年秋、憲実は所領等の譲り状を書いたという。重要な所領は次男の房顕に譲ることとし、長男の龍忠(法名)には生きている間は丹波国漢部(あやべ)郷を知行させるが、死去後は次男・房顕の所領とするようにしたため、もし、出家している長男の龍忠が還俗するような事があったら、それは猊垤之子である瓩汎辰鵬めて記していたという。

山内上杉憲実は、既に関東管領の職掌と山内上杉家の家督を、越後上杉家から呼び寄せた実弟でもある越後上杉清方に譲ってしまっていた。残る所領は僅かであったが、その所領は京都で幕府に奉公している次男・房顕に譲り、長男の龍忠を含めて房顕以外の男子4人全員を出家させてしまい、その血脈を俗世から完全に引き上げてしまう心積もりであった。

1445年2月以前、上杉清方が死んでしまう。山内上杉家では家督が亡くなってしまったので、長尾景仲が出家していた龍忠を還俗させ、山内上杉家の家督に据えた。龍忠は還俗して、山内上杉憲忠と名乗ることになった。

事前に龍忠に対して、上杉憲実は還俗するなどは「不孝之子」と戒めていたが、実際、そうなってしまったのだ。

更に、憲忠は関東管領職も引き受けることになった。すると、憲実は、憲忠を義絶(ぎぜつ/縁を切る事、勘当)した。


◆足利成氏が鎌倉公方に

鎌倉府の長たる鎌倉公方は、永享の乱より途絶え、空位のままであった。幕府は関東での影響力を保つ為に第8代将軍足利義政の弟(名前は不明)を鎌倉公方に任命して下向させていたが、この義政弟は実際には鎌倉入りさえ果たさぬまま没し、実質的な鎌倉公方は空位のまま、8年間が経過していた。

関東諸将らの要望によって、持氏の遺児である万寿王丸が鎌倉公方に就任する事となった。万寿王丸は越後国守護の越後上杉房定、山内上杉家の長尾景仲らが推していたという。幕府内では、当然、持氏の遺児を鎌倉公方にする事には慎重であったと思われるが、室町幕府内も嘉吉の乱以降は有力者同士が対立する関係になっており、畠山氏が万寿王丸の鎌倉公方就任を推したと見られるという。

1448年8月28日、足利成氏が鎌倉入りを果たし、名実共に鎌倉公方となる。

足利成氏が鎌倉入りを果たすと、持氏の旧臣であった下総国の簗田持助、結城成朝、上野国の岩松持国、武蔵国の一色伊予守らが鎌倉に集まり出すが、持氏の旧臣とは即ち上杉憲実らと戦った国人衆であり、すなわち所領を没収されている等、反上杉色であったから、当然、成氏派は反上杉派であり、公方・成氏と関東管領・憲忠体制は発足して間もなく公方派と上杉派の対立が鮮明になったという。


◆足利成氏VS上杉連合軍

1450年4月20日、山内上杉家の家宰である長尾景仲と、扇谷上杉家の家宰である太田道真(太田道灌の父)が結託して、鎌倉の公方・足利成氏を襲撃するという事態が発生。公方・成氏が江の島に脱出し、腰越に向かうと、長尾・太田連合軍が追撃。またしても、関東管領家が公方家と軍事衝突する事態となる。腰越では、駆け付けた成氏方として小山持政の軍勢が、長尾・太田連合軍と激突。

更に、由比ヶ浜には成氏方として千葉胤将(下総国守護)、常陸国の小田持家、下野国の宇都宮等綱(ひとつな)が駆け付けており、この由比ヶ浜にて、長尾・太田連合軍は成氏軍と激突。この由比ヶ浜の戦いは数時間にも及ぶ激しい闘いとなったが、勝利したのは成氏軍であり、長尾・太田連合軍は扇谷上杉氏の居館まで撤退したという。

この軍事衝突により、両上杉氏と、公方・成氏との間で和睦が模索されたが、実質的な勝者になった公方・成氏は和睦条件として、両家の家宰にして、今回の実行役となった長尾景仲と太田道真両名の切腹を条件に提示したという。公方・成氏の要求は、まともな要求であった。何故なら、両名を処罰する事で手打ちとし、関東管領の上杉憲忠、山内上杉家、扇谷上杉家については不問とするという譲歩の上での、要求であったのだ。しかし、山内上杉家にしても扇谷上杉家にしても政治的にも軍事的にも柱になっている家宰を失うという条件は、簡単には飲めず、紛糾した。

公方・成氏は、幕府の管領職にあった畠山持国に書状を送り、判断を仰いだ。この頃、幕府内では細川勝元が権勢をふるい始めており、その細川勝元が関東管領寄りであった事から、その細川勝元と対立関係にあった畠山持国は、反上杉に味方する可能性があった。しかし、畠山持国の裁定は、緊張状態を解く事に主眼が置かれており、両上杉氏に対しての処罰には言及されていなかった。

一つ、由比ヶ浜の戦いで戦功のあった者には幕府から感状を出す。
一つ、伊豆に蟄居中の上杉憲実に対して政治へ復帰するよう御教書を出す。
一つ、関東諸家や武州一揆衆、上州一揆衆に対しては鎌倉公方への忠節に励むよう御教書を出す。

それだけであった。

関東武士には「鎌倉殿」という源頼朝に始まる「武家の棟梁」を統治者とみる精神風土が形成されていた。また、それは足利尊氏以降になっても「足利御一家」を棟梁とみる精神風土があったので、その鎌倉殿幻影は継続していた。これが第4代公方・足利持氏の時代に、上杉氏と足利氏との間に大きな亀裂が入ってしまった為、収拾は難しく、成氏支持派の国人衆による上杉領への浸出も起こるなど泥沼化してゆく。


◆享徳の乱、勃発

江の島合戦から4年後、ついに大事件が起こる。

1454年12月27日、この日、関東管領・上杉憲忠は山内上杉家の家宰・長尾実景ら総勢22名は、公方・成氏に呼び出され、鎌倉公方館を訪れた。しかし、そこで一行を待ち受けていたのは、成氏を担ぐ結城成朝、武田信長、里見義実、印東式部少輔らであった。鎌倉公方館西御門前にて、関東管領・上杉憲忠以下22名全員が皆殺しに遭うという大事件が発生。

公方・足利成氏の意図は判然としない。幕府に対して、公方・成氏は、

「憲忠が謀反を企てていたので誅殺した。公方からすれば関東管領は家臣であり、謀反を企てていた家臣を誅殺したからといって、自分が責められる謂われはない」

という主旨の強弁をしたという。

真偽が分からない。両上杉と鎌倉公方は、小康状態を保ちながらも散発的に軍事衝突を繰り返しており、上杉禅秀の例、上杉憲実の例を考慮すれば、既に、公方と関東管領の間柄は、絶望的に亀裂しており、上杉憲忠による謀反の計画、あるいは、その風聞が実在していたとしても不思議はない。他方、これが予め、公方・成氏による計略であったと推測することもできる。両上杉軍が反乱軍を立ち上げる前に、先手を打って公方・成氏が軍隊を動かしている。

相模国の山内は、山内上杉氏の本拠であるが、この相模国・山内に、成氏方の岩松持国軍が攻め寄せ、山内上杉氏は敗走。当主、家宰を討った後に、その本拠を襲撃するという一連は、予め計画されていた電撃作戦であった可能性もある。

この公方・成氏による関東管領・憲忠の誅殺事件を契機として「享徳の乱」の火蓋が切って落とされる。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆享徳の乱〜古河公方誕生

1455年1月6日、成氏方の一色直清軍、武田信長軍と、扇谷上杉家の当主・上杉持朝軍とが、相模国島河原(神奈川県平塚市)で激突。上杉持朝軍には太田道真、長尾景仲も同道していたが、成氏方の軍勢がこれを制し、上杉軍は伊豆国三島へ逃げる。前家宰の長尾景仲は息子を討たれた為に再び家宰となるが、河越方面へと逃げたという。

1455年1月16日、室町幕府は信濃国守護・小笠原光康、駿河国守護・今川範忠に出陣命令を出した。この時の幕府管領は細川勝元であり、前段で登場した畠山持国に代わって細川勝元が管領職に就任していた。また、この前述のとおり、管領就任以前から上杉派であったから、この出陣命令は、勿論、鎌倉公方討伐を意味している。

扇谷上杉家の当主は上杉顕房であったが上野国で南下する為の軍勢を整えていた。また、庁鼻和上杉氏は上杉家の分家で、庁鼻和(こばなわ/埼玉県深谷市)を拠点にしていたが、庁鼻和上杉家の上杉憲信も上野国平井に出陣し、北上してくる長尾景仲と合流することを予定していたという。更に、この上杉軍には、上州一揆、武州一揆が加わり、膨れ上がる。

一方の公方・成氏は、常陸国の佐竹氏や、その佐竹氏を支える重臣の大山氏、武蔵国の豊島氏に軍事催促をし、鎌倉公方軍と上杉軍との対立は関東を二分するかのような状況を作り出したという。基本的には上野国と武蔵国、相模国が上杉方であるが、下野国、常陸国、上総国、下総国に成氏方が多く分布している。

扇谷上杉家当主・上杉顕房が率いる上杉軍が南下して武蔵国に入ると、鎌倉公方・足利成氏は村岡から後退して府中に陣を構えた。

1445年1月21日、武蔵国・分倍河原(東京都国立市、府中市)にて、上杉軍と成氏軍が激突。決着はつかず、日没と同時によって両軍が引き上げる。

翌22日、再び分倍河原にて合戦となるが、これも成氏軍が制する。この二日目の戦いは雌雄を分けるものであったらしく、庁鼻和上杉憲信が討死。深手を負ったという上杉軍総大将の扇谷上杉顕房も武蔵国夜瀬にて自害、犬懸上杉憲秋も武蔵国池亀にて自害に追い込まれている。更には、山内上杉家の重臣・大石憲儀(のりよし)が戦死、同族の大石重仲もこの日の合戦で負った傷が原因で三日後に死んでおり、上杉軍は成氏軍に大惨敗を喫した事が分かる。長尾景仲は常陸国の国人の小栗氏の小栗城(茨城県筑西市)に落ち延びている。この小栗氏は大掾氏の庶流である。

また、分倍河原での激闘で成氏が勝利した事が影響してか、上州一揆衆は成氏方に鞍替えする。

1455年2月、公方・足利成氏は武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に陣を張り、その後は、同年3月3日以前に下総国・古河(茨城県古河市)に入った。以後、この古河を足利成氏が拠点とした為、役職名は「鎌倉公方」であるが俗称・自称として「古河公方」と呼ばれるようになる。この後の展開で朝敵となり、幕府の役職としての鎌倉公方職も解任されるので「古河公方」と名乗って、関東に於ける武家の棟梁を自称するしかなくなる。

古河は南北朝時代から戦略拠点として整備されていた上に、公方の御料所にも接しており、且つ、成氏方として江の島合戦で戦功を挙げた小山持政の小山氏を筆頭に、下野国で小田氏、那須氏らも成氏方であった。また、成氏方の有力家臣に簗田氏、野田氏、一色氏が挙げられるが、伝統的豪族層でもある結城氏、里見氏、千葉氏らの支援を受けて、この頃に関宿城(千葉県野田市)、栗橋城(茨城県五霞町)、幸手城(埼玉県幸手市)と下総地方を固めていたという。(現在でも古河市は茨城県に属しなら群馬、栃木、埼玉と接する。このエリアは常陸国ではなく下総国が現在の茨城県になったものである事が分かる。同様に、下総国の関宿城は現在の千葉県野田市で、現在の地図でも千葉県野田市は北側に槍のように突き出している。)

成氏方は、小山氏、結城氏、佐竹氏(家督争い中)、小田氏、里見氏らの旧豪族層がついていた事からすると、関東武士の旧勢力を糾合していたのが成氏軍であり、対する上杉軍・上杉氏とは足利家の被官としてスタートし、室町幕府登場後に幕府と連動して台頭した当時の新興の勢力軍である事に気付かされる。関東武者、坂東武者、その武家の棟梁は誰であるのかを決める争いでもある。なので、以降は役職名としての「鎌倉公方」ではなく、その本義という意味での「関東公方」という便宜上の名称で語ることになる。この後、古河公方以外にも幕府が定めた名ばかりの公方など、やたらと「足利御一家の正統に当たる関東武家のの主です」と主張せんが為の「公方」が乱立してしまうのだ。


◆享徳の乱〜古河公方の快進撃

1455年3月19日、古河公方・足利成氏は小田持家、小田持政、簗田持助に兵を与えて長尾景仲が身を寄せている常陸国の小栗城攻めを命じる。この小栗城攻めには下総国の結城氏、下野国の下那須氏も従軍し、成氏自身も出陣して結城城まで進軍したが、小栗城は陥落せず。

1455年3月22日、成氏方が上野国の赤堀城と那波城を攻略する。

1455年3月28日、後花園天皇より幕府に足利成氏追討の為の御旗が下賜される。これによって、古河公方・足利成氏は朝敵になった。父・足利持氏に続き、親子二代での朝敵指名でもある。室町幕府は、昨年末に成氏に誅殺された山内上杉憲忠の弟、憲実の子である山内上杉房顕(房秋と名乗る場合もあり)を関東へ下向させた。朝敵とされた足利成氏は独自に軍旗を作成し、自陣営の勢力に下賜して対抗したという。

1455年4月、成氏軍の攻勢を継続しており、長尾景仲が籠城している常陸国の小栗城を陥落させる。これによって長尾景仲は下野国に逃亡し、天命(てんみょう/栃木県佐野市天明)、只木山(足利市、佐野市)へ逃れた。

1455年4月15日、駿河国守護の今川範忠(のりただ)が幕府の命令によって追討軍を出陣させており、同年正月の島河原の戦いで敗れて三島に残っていた上杉軍と合流、この今川軍は成氏方の軍勢を蹴散らしながら、この15日頃までに箱根まで進軍。この今川軍に備えて、成氏方では木戸氏、印東氏、里見氏が鎌倉の守備に着く。

1445年5月11日、上野国の小此木で成氏方の岩松持国が上杉軍を破る。この時の岩松持国軍には鶴岡八幡の雪下殿・尊敒(そんじょう)もしくは定尊(じょうそん)も参加していたという。この雪下殿が、結城合戦の戦後処理を生き延びた4歳児だった持氏の遺児、乙若丸の正体とみられるという。勿論、これは持氏の子なのだから足利成氏の弟に該当する。

また、この頃に、万寿王丸を庇護していた信濃国の大井氏も挙兵、碓氷峠を越えて上野国に入り、上杉攻めを展開していたという。

1455年5月下旬、足利成氏が祇園城(栃木県小山市)に入る。

1455年6月11日、祇園城から足利成氏が出陣し、只木山に籠もる長尾景仲を攻めるが、長尾景仲を討ち取る事が出来ず、長尾景仲は武蔵国・崎西(きさい/埼玉県加須市・旧騎西町)の崎西城へ逃げる。

1455年6月16日、今川軍が道中で成氏方の軍勢を蹴散らしながら鎌倉入りを果たす。成氏方の木戸、印東、里見氏は鎌倉を放棄して武蔵国へ逃れる。

ここまで連戦戦勝であった成氏軍であったが、この頃から旗色が変わる。上野国にて、新たに当主と関東管領職に就任した上杉房顕と、越後国守護の上杉房定が合流、この上杉軍が、長尾景仲救済の為に南下をはじめ、上野国の三宮原(さんのみやはら/群馬県吉岡町)で成氏方の軍勢を破り、更に南下。成氏軍は上野国の高井城(比定地不明ながら本庄市の北なので伊勢崎市か高崎市か藤岡市)に撤退するが、この高井城も上杉軍に落とされる。


◆享徳の乱〜錦の御旗と牙旗

1455年7月、上杉軍は崎西を目指して南東へ進み、上野国・渕名穂積原にて、成氏方の有力者である岩松持国軍と激突。公方・足利成氏は、下那須氏、結城氏、小山氏、佐野氏らに五千の軍勢を預けて岩松持国軍への援軍を派遣するが、ここでも上杉軍が勝利する。上杉軍は東進して下野国の足利に入る。

戦況に変化が起こる事を「旗色が変わる」とか「旗色が悪くなる」といった具合に表現する事がありますが、渕名穂積原の戦いを契機にして、快進撃を続けてきた成氏方に「旗」を巡る戦況の変化があったという。将軍から下される旗を牙旗(がき)と呼ぶという。この渕名穂積原の戦いに於いて、上杉軍には、その牙旗と、天皇から下された錦の御旗、いわゆる錦旗があった。先代の公方・足利持氏の時代にも朝敵となり、将軍家と敵対してきたのが先代公方・持氏の旧臣たちであり、その後の結城合戦でも結城氏や小山氏は幕府を敵に回しながら戦ってきたが、どれもこれも負けた戦であり、この渕名穂積原の戦いでも敗れた。

また、成氏方は独自の旗を掲げて戦っていたとされる。それがどのような旗なのか定かではないのですが、足利尊氏の時代に尊氏は足利家の家紋を旗にしていたというから、名前に【氏】の文字を踏襲していた関東公方の足利家でも、その家紋を旗印にしていたように推測できるのかも知れませんが、兎に角、関東諸将からすると、錦旗や牙旗のもたらせた精神的動揺は大きかったであろうと予測できる。

幕府から守護職に任じられていた宇都宮家や千葉家では、この頃から上杉方か成氏方で分裂が起こり始める。刃旗、錦旗によって動揺が走ったケースと考えられそう。国人は幕府から守護職を与えられていないが、守護は幕府からその職を任じられている立場である。また、室町幕府の場合は京都扶持衆として、幕府の要請によって鎌倉府を監視する役目を負っていたという経緯がある。

宇都宮等綱は上杉方へ寝返って宇都宮城に籠城、周辺の成氏方の勢力から攻撃を受ける。公方・成氏は下那須の那須資持に宇都宮討伐を命じている。その等綱の子の宇都宮明綱と重臣・芳賀成高は成氏方に降参、成氏方となる。宇都宮家からは芳賀氏と同じように重臣であった益子氏も成氏支持に回り、当主の宇都宮等綱は孤立しながらの籠城戦を1455年いっぱい続ける。翌1456年4月頃までには宇都宮等綱は降伏、出家。出家後に上洛して幕府の支持を取り付け、下野国に戻るが宇都宮城に入ることは出来ず、等綱は北へ逃れて白河結城氏を頼ったという。等綱は宇都宮へ戻ることなく、没したという。

下総国守護の千葉家でも、千葉一族の馬加康胤(まくわり・やすたね)と、千葉家の重臣・原胤房が成氏支持派として、千葉氏の本宗家たる千葉胤直、千葉胤宣親子と対立し、内紛に発展、最終的には宗家の千葉胤直、千葉胤宣、胤宣の弟の賢胤が自害に追い込まれるという本格的な御家騒動を惹き起こす。

この千葉氏の場合、当主の千葉胤直は元々は第4代鎌倉公方の足利持氏に仕えていたが、持氏が上杉憲実や幕府と争う段階になって上杉憲実に寝返った、あの千葉胤直である。その後も幕府の命令に従って、鎌倉の永安寺の持氏を攻めて自害に到らせたという経緯から、この享徳の乱でも上杉方につこうとし、この内訌を起こした。この享徳の乱に巻き込まれる形で千葉氏の当主が討たれる事態に及んでいる。

千葉家の内訌は、当主にして下総国守護の千葉胤直が上杉方につくことを表明したところ、成氏に支援すべきという不満を呼び起こして始まる。下総国の馬加(まくわり/千葉市花見川区)を拠点にしていた千葉一族でもある馬加康胤と、千葉家重臣の原胤房が挙兵、千葉胤直の居城にして千葉氏の本城である千葉城を攻めた。千葉胤直は子の胤宣は千葉城から逃げて、多古城や島城(共に千葉県多古町)を拠点にして抵抗を続けた。1455年8月、多古城が陥落し、この際、千葉胤宣が自害。また、原胤房と敵対関係にあった千葉家重臣の円城氏も自害に追い込まれた。千葉胤直は、最終的には妙光寺(千葉県多古町)で自害に追い込まれた。現役の守護職、当主が家臣に討たれた一大事であった。

胤直の弟にあたる千葉賢胤は兄を支える戦いをしていたが、上総国武射(むさ)郡の小堤(おんづつみ)で自害に追い込まれたが、賢胤の子の実胤(さねたね)、自胤(これたね)は市川城(千葉県市川市)を拠点にして、その後も幕府軍の援軍を受けながら、成氏軍との戦いを継続してゆく。

関東諸家はどこもかしこも内紛を抱えていたが、宇都宮家と千葉家のケースは、錦旗や牙旗によって精神的動揺が広がった事で、古河公方支配体制の一角に亀裂を生じさせた出来事という。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆佐竹氏について

佐竹氏は、清和源氏流で通称「新羅三郎」の源義光が常陸介となって下向、その子の義業が久慈東郡佐竹郷を領し、義業の子となる昌義が吉田清幹(きよもと)の娘と婚姻、土着して佐竹氏を名乗ったのが期限であるという。故に、佐竹氏初代は佐竹昌義となる。以来、常陸国の那珂川以北の奥七郡を支配する古豪である。金砂山合戦では源頼朝軍と対峙し、敗北、所領の大半を失なったが、奥州合戦や承久の乱で活躍し、同じ新羅三郎に祖を遡る名門・足利家と婚姻を通じ、南北朝内乱でも佐竹氏の本宗家は足利尊氏方として南朝軍と戦い、室町幕府下では常陸国守護に任じられた。しかし、一族の庶家ながら有力者であった山入氏(やまいり/やまのいり)らは南朝支持派であった為、佐竹氏は一族内で長い長い内紛を抱えていた。

佐竹氏と山入氏との内紛は、1407年、当主の佐竹義盛が没した後、後継者が不在となり、山内上杉家から山内上杉憲定を迎えて家督を継がせた事に起因するという。

1426年の上杉禅秀の乱では、佐竹氏は第4代公方・足利持氏方となり、山入氏は禅秀方となった。禅秀の乱の後、足利持氏が禅秀与党の討伐をした折、山入氏の当主・山入与義(ともよし)は討たれたが、その後も山入氏は生き残り、佐竹氏との抗争を続けた。

享徳の乱では、古河公方・足利成氏支持を巡って、更に佐竹家は分裂してしまう。宗家の当主である佐竹義頼(後に佐竹義俊に改名)は公方支持を打ち出したが、これに反発して次男・佐竹実定が上杉支持となり挙兵し、当主の佐竹義頼の太田城(茨城県常陸太田市)を攻め、攻められた当主・佐竹義頼は佐竹家重臣の大山氏の居城である孫根城(茨城県城里町)へ逃れた。つまり、佐竹家の場合は内紛を抱えながらも宗家は公方方となったが、次男の佐竹実定、また一族の山入氏は上杉方となって、この享徳の乱を迎えた。

また、佐竹氏は内部分裂状態である為、結城合戦には佐竹義憲は春王丸と安王丸を擁していた結城氏に加勢し、実定方の佐竹興義は幕府方につくなど、佐竹家は両軍に分裂して関東史の混乱期を過ごしている。この傾向は小山家、岩松家、宇都宮家、今川家でも起こっており、足利持氏の遺児を抱えている結城氏に加勢するか、幕府に加勢するかという問題が諸家に内部分裂を起こさせる一因になっているのも確認できる。


◆里見氏、上総武田氏について

「南総里見八犬伝」でも有名な里見氏の出自は新田義貞の新田一族であり、上野国の里見郷(群馬県高崎市)の地名を苗字とした一族という。南北朝内乱期に新田義貞に従い、室町時代に入ってからは常に鎌倉公方の近臣として活躍している。或る意味では新田一族がルーツであった為、足利一門に準ずる立場であったという。

この享徳の乱の発生以前の段階で、里見氏は安房を拠点に勢力を張っており、西暦1450年頃から安房から北上して上総にも勢力圏を広げていたという。この享徳の乱の頃には、当主は里見義実であり、この里見義実は上総国の白浜城(千葉県南房総市)を拠点にしていたとされる。

関東管領の上杉憲忠ら22名が皆殺しとなった直後に、鎌倉に雪崩れ込んで山内上杉家を襲撃したのが里見義実と武田信長の軍勢であった。

武田信長は特殊である。その父は甲斐武田氏、武田信満で、これは禅秀の乱の後、1417年2月、足利持氏に討伐されている。1433年には鎌倉府の被官であった武田信長が鎌倉府から逐電(どこかに逃亡)、公方・持氏に攻められる騒動があったが、以降、持氏に重用され、その持氏の遺児である古河公方・成氏を支えている。この享徳の乱の頃、この武田信長は上総国に領地を持ったという。この上総の武田氏を上総武田氏と呼ぶという。


◆河越城、江戸城、岩付城が築かれる

武蔵国の崎西(きさい)城に逃げ込んだ長尾景仲と、古河公方・成氏の話に戻る。

1455年12月、公方・成氏軍は下総国を発ち、崎西城を目指す。道中、武蔵国の須賀(埼玉県宮代町)で岩松長純軍を破って、崎西城攻めを敢行する。成氏軍の猛攻によって崎西城は陥落、長尾景仲はここでも逃げ遂せた。この武蔵国・崎西は、武蔵七党の私市(きさい)党の拠点で、この崎西城には、小山田上杉氏の一族や、庁鼻和上杉氏の一族も長尾景仲と共に籠城していたが敗走したという。

1456年1月、公方・成氏軍は上杉軍が拠点にしている上野国へ侵攻する。関東管領となった山内上杉房顕は上野国・平井城(群馬県藤岡市)に入って陣頭指揮を執っており、越後上杉房定は上野国・白井城(群馬県渋川市)に陣を布いていた。公方軍と上杉軍は戦乱を繰り広げるが戦況は膠着状態へ。

1456年2月10日、公方・成氏が武蔵国の鷲宮神社(太田庄鷲宮大明神/埼玉県久喜市鷲宮)に願文を奉納。願文には天下泰平・武運長久に次いで、凶徒退治を掲げ、願文成就の際には足立郡、崎西郡、両郡の段銭を修造料として寄進する旨の記述もあったという。この事から、この時期の成氏軍は武蔵国足立郡も、その勢力下に置いていたと考えられる。

武蔵国の大半は上杉陣営であったが、概ね荒川(現在の元荒川)より東側は公方・成氏軍が勢力下に抑えており、上杉方では、この頃に、成氏軍の侵攻を食い止める為に、河越城(埼玉県川越市)と江戸城(東京都千代田区)、それと岩付城(旧岩槻市)を築いたという。河越城は扇谷上杉家の当主であった上杉持朝が築城し、同家の家宰であった太田道真、その子の太田道灌が江戸城と岩付城を築城したと伝わる。当時としては、かなり堅固な城が築城されたという。

このうち、岩付城については相応に有力そうな異説もあるらしく、実は古河公方・成氏方に属していた成田氏とする見方があるという。太田氏と岩付の結び付きが強い反面、この岩付城については、古河公方勢力の居城としても登場しているという。岩付城の場合は1484年頃までに古河公方勢力の最前線基地として築城され、やはり古河公方に奉公していた渋江氏が居城していた頃から、太田道真・道灌の築城に疑義を掲げているという。岩付城趾は元荒川の僅かに西側ですが、古河公方勢力が入っていた事を考慮すると成田氏による築城説の方が有力に?!

公方・成氏は、古河城を自らの居城とし、その背後には簗田氏(関宿城)、野田氏(栗橋城)を置き、崎西城を最前線拠点とした。これに対して、上杉軍は武蔵国の五十子(いかっこ/埼玉県本庄市)に陣を布いて、この五十子陣を最前線基地として、長らく使用したという。この享徳の乱は、非常に長期間にわたって続き、また、両陣営との間では散発的な戦いが続くも、戦況は膠着状態となっていた為、関東管領にして山内上杉家の家督でもある山内上杉房顕は、この五十子陣で実に七年もの歳月を在陣したまま過ごす羽目になったという。(第1代鎌倉公方・足利基氏も新田氏の反乱に備えて入間川の陣に長く在陣していたが、このような場合の陣は、陣とはいっても事実上は御所のようなものであったと考えるられるのだそうな。)

また、この膠着状態の間に、河越城や江戸城、或いは岩付城が築城された。


◆太田道灌登場

1457年頃、江戸城が完成する。太田道灌は1455年頃から江戸城を修築しながら江戸城を居城とし、1457年に江戸城を完成させたものという。

この太田氏は、清和源氏流とされるが元々は丹波国の出身で、上杉氏の被官であったという。丹波国太田郷(京都府亀岡市)から「太田」という名を名乗ったという。近隣の丹波国上杉荘の地頭であった上杉氏に従って関東へ下向してきたと考えられているが、不明な点も多いという。その太田氏が、太田道灌の太田氏なのか、分からないのだ。太田道灌の先祖で実在が確認されているのは、やはり、扇谷上杉家の被官の太田氏であり、西暦にすると1347年頃という。祖父の太田資光が扇谷上杉家の家宰となり、父の道真(資清)、道灌(資長)と続く。太田道灌については持資から資長に名前を変えた後、更に出家し法号の道灌したという説もある一方、持資は誤まりで最初から資長であったという見解もあるという。少なくとも、資長としておくと間違いではないらしい。

1457年、室町幕府では享徳の乱が長引いている事を気に掛け、第8代将軍・足利義将の異母兄である足利政知を、鎌倉公方に任命する。

1458年6月に足利政知は京都を発って東へ向かったが鎌倉には入らず、8月に伊豆国の堀越(ほりごえ/現伊豆の国市、旧韮山町)の居館に入った。つまり、この足利政知は鎌倉入りをせず、伊豆国・堀越に公方として拠点を構えた。既に鎌倉公方が「古河公方」と名乗っている通りであり、それに対応して、この足利政知は「堀越公方」と呼ばれた。

この頃までに「鎌倉公方」の意味合いは、「関東主君」の意と同語になっており、この足利政知は石川文書の資料では「関東主君」と呼ばれていたという。また、時間が前後しますが、足利成氏を公方に選出する際にも「関東の主」という言葉が「鎌倉大草紙」で使用されている通り、「鎌倉公方」とは意味合いとしては武家の棟梁たる鎌倉殿の幻影を兼ねており、それは「関東の主」を意味するようになっていた。

堀越公方が伊豆国に拠点を置いて後、扇谷上杉家と堀越公方との間で関係が悪化、その為、扇谷上杉家では家宰の太田道真が1461年、息子の道灌に家宰、家督を譲ったという。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

◆享徳の乱〜成氏包囲網

足利政知が伊豆国・堀越(伊豆の国市)で、堀越公方になった後、享徳の乱に於ける大きな変化があった。この「享徳の乱」の発端は、上杉憲実ら22名を足利成氏与党が皆殺しにするというセンセーショナルな事件で幕を開けたが、その実行犯であり、成氏方の主力であった岩松持国に上杉方からの調略が行われ、岩松持国が寝返るという展開に発展した。

1458年7月頃、第8代室町幕府将軍・足利義政の異母兄である足利政知が伊豆に入り、堀越公方となる。

この堀越公方の誕生は、元々は鎌倉入りを目指していた節が伺える。扇谷上杉家で太田道真が太田道灌に家宰を譲ったのは、堀越公方と太田道真との軋轢があった為とされているが、幕府は足利政知の東国下向に併せて、足利一門の渋川義鏡(よしかね)を東国に下向させているが、これは渋川義鏡の祖父が武蔵国司として蕨城(埼玉県蕨市)を居城にしていたからという理由であったらしく、実際に武蔵国を統治していた扇谷上杉家を混乱させるものであったと推測できるという。つまり、扇谷上杉家からすれば、この室町幕府による政知の関東下向は有難迷惑であった側面があり、扇谷上杉家が政知の関東入りを拒否した為、伊豆国堀越で公方となったとみると整合性がとれる。幕府は政知の為に兵糧を得る為の所領を用意したが、結局は両上杉氏の所領を切り取る事を意味していた。実情としては幕府と上杉家との間でも足並みが揃っていた訳ではない。

また、この時期、上野国の国人である岩松持国が幕府・上杉方に寝返る。

京都へ逃れていた宇都宮等綱が陸奥国の白川結城直朝氏を頼って、古河公方攻めを画策して挙兵。しかし、この宇都宮・白河連合軍は、下野国の国人である成氏方勢力の那須資持に阻止された。

更に、上杉方の岩松家純が信濃国守護の小笠原氏と同時に出陣準備を開始。

更に更に、室町幕府は越前、尾張、遠江三ヵ国の守護を兼任していた斯波義敏に関東遠征を命じた。室町幕府は「三管四職」が将軍を補佐するシステムになっており、幕府の管領職になれるのは最初から細川、畠山、斯波の御三家に限定されていた。当時は管領は細川氏であったが、管領を輩出する権利を有する三管家の一つ、その斯波氏にに関東遠征を命じたの意である。

1458年秋、室町幕府は威信を賭けて享徳の乱を鎮圧しようとしたが、信濃国守護の小笠原氏と、幕府の有力者である斯波氏は出陣せず。小笠原氏と斯波氏が不参加ながら、幕府の援助を受けて、この秋、上杉軍は利根川を越えて、古河公方軍に総攻撃を仕掛ける。

1458年10月14日、武蔵国太田荘(推定されているのは鴻巣市付近)で幕府上杉大連合軍と、それを迎え撃った古河公方・成氏軍が激突。

1458年10月15日、上野国・海老瀬口(えびせぐち/群馬県板倉町)、同じく上野国の羽継原(はねつぐはら/群馬県館林市)で両軍の激しい戦闘になり、上杉軍には上杉教房の戦死を筆頭に甚大な被害があったという。つまり、この決戦でも、勝利したのは古河公方軍であった。

さて、寝返った岩松持国は、かなり有力な国人衆であったと思われるが、5月頃に寝返りを決意、この10月の合戦では上杉軍として参陣していた。

しかし、この合戦敗北後、岩松持国は再び公方・成氏方へ寝返ろうとし画策。それが上杉陣営に発覚した為、同族であった岩松家純に、岩松持国、その子・岩松成兼が討たれた。

また、犬懸上杉教朝が謎の自殺を遂げる。この犬懸上杉教朝は上杉禅秀の子であり、永享の乱、結城合戦にも上杉軍として活躍していた人物であるが、幕府の命によって堀越公方付きになっていたが、堀越公方の扱いでは、山内上杉家にしても扇谷上杉家にしても自家の権益を献上して支えろという命に不服であった為、堀越公方の補佐役であった教朝は幕府と上杉一族との板挟みに遭い、自死したものという。


◆享徳の乱〜長尾景人の足利荘入部

1463年、享徳の乱の中心人物でもあった山内上杉家の長尾景仲が死去する。関東管領・上杉憲忠ら22名が皆殺しに遭う前に、成氏を太田道真と共に襲撃した江ノ島合戦の張本人であり、一時期は成氏から目の敵にされていた人物でもあった。この長尾景仲は死去する前に家宰を息子の長尾景信に譲っていたが、一つの転機であったという。

1466年、上杉方の総大将でもあった関東管領・山内上杉顕房が、五十子(いかっこ/埼玉県本庄市)陣の陣中にて急逝。年齢は32歳と早世であり、且つ、この顕房には子がなかった為、越後上杉房定の13歳の次男を養子として迎えることとなる。その子は元服後に山内上杉顕定となり、関東管領も山内上杉家を継承する。

1466年7月、堀越公方は山内上杉家の長尾景人(かげひと)に下野国足利荘を与えた。名目上、堀越公方は鎌倉府の主であり、鎌倉公方なのだ。しかし、実際に下野国の足利荘を支配していたのは成氏方であった。長尾景人が足利荘へ入部すると、当然の事ながら、そこで長尾景人の軍勢は成氏方の勢力と衝突、合戦となり、長尾景人が成氏方の勢力を退けて、足利荘への入部に成功する。しかし、この足利荘を奪還しようと成氏方も次から次へと合戦を仕掛けてくるという展開となる。

長尾景人は入部した足利荘を守る為に、渡良瀬川の沿岸の台地上に観農城(かんのうじょう/栃木県足利市岩井町)を築城する。この観農城は渡良瀬川が城郭を取り囲むように流れている為、成氏方の軍勢を度々、撃退したという。


◆応仁の乱が勃発する。

1460年から1466年までの間、将軍・足利義政は実に162通もの書状を「享徳の乱」対策で発給していたという。将軍は関東に気を割いていたようにも思えるが、1467年には畿内では「応仁の乱」が発生し、細川勝元の東軍と山名宗全らの西軍とが一触即発の状態になっている。1466年の時点で、前述したように三管領家の一角である斯波家の家督を将軍・義政が勝手に変更させたり、同じく三管領家の畠山家が大掛かりな内紛を展開、将軍職の後継にしても義視を将軍にした後に義尚を将軍にするのか、義視を飛ばして義尚を将軍にするのかで割れて、幕府も朝廷も大混乱になっている。

また、将軍・義政によって家督を勝手に譲る事になったのは関東遠征を命じられ、出陣しなかった斯波義敏であったが、畿内の細川勝元周辺では、斯波義敏を政界に復帰させようとしていた。斯波家の家督をついた斯波義廉(よしかど)は、これまた、堀越公方の先鞭となって関東へ下向した渋川義鏡の息子であり、斯波家には養子に入った人物である。実際の混乱は専制政治をしてしまう将軍・義政の膝元で起こっているようにも見える。

1467年12月、西日本にて、応仁の乱、勃発。基本的には細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍による大乱に突入する。(この「応仁の乱」に先駆けて関東で「享徳の乱」が発生、継続中。実は「享徳の乱」が「応仁の乱」の遠因にもなっている。)


◆享徳の乱〜観農城を巡る攻防

畿内で「応仁の乱」が大混乱となっている頃、関東で発生していた「享徳の乱」も新たな局面が展開されてゆく。

1468年10月、足利荘付近、渡良瀬川を挟んで上野国で上杉軍と成氏軍とが激突。五十子陣から近いこともあり、上杉軍が勝利を収める。敗れた成氏軍は撤退したものの、後に足利成氏自らが那須氏、小山氏の軍勢を率いて天命(栃木県佐野市天明)まで進軍、更に小曽根(栃木県足利市小曽根)に陣を張って上杉方と対峙する。

1468年12月、成氏軍は観農城の長尾景人を攻めるが長尾景人軍の抵抗が激しく、攻め切れず。観農城の攻略に手を焼くことになった公方・成氏陣営は、観農城を取り巻くように城館を建てる策に出た。この際、観農城の北側に樺崎城(かばさきじょう/足利市)と八椚城(やくぬぎじょう/足利市)、東に赤見城(佐野市)、南側に館林城(群馬県館林市)を建てて、観農城を包囲する戦略に出た。樺崎城には南持宗が入り、赤見城には佐野氏の一族である赤見氏が入り、館林城には舞木氏の家臣であった赤井氏が入ったという。

これに上杉方も反応し、観農城の西側に金山城(群馬県太田市)に築城し、岩松家純を入れて対抗した。

1471年3月、成氏方の小山持政と結城氏広が1000余騎で箱根を越えて伊豆国へ侵攻、堀越公方攻めようとした。堀越公方の要請で駿河国の今川氏親が迎撃。戦況は小山・結城軍が優勢に進めていたが、背後から扇谷上杉氏の家臣・矢野安芸守の軍勢が襲い掛かった。これによって小山・結城は退却を始めたが、更に山上上杉氏の家臣・宇佐美孝忠(たかただ)の軍勢が退路を塞いだ。この為、小山・結城軍は惨敗となったが、小山持政と結城氏広とは命からがら逃げ切った。

古河公方が堀越公方とやりやった、その機を逃さず、上杉軍が反抗開始。山内上杉氏方の長尾景春、長尾忠景らが岩松家純、上州一揆軍、武州一揆軍を従えて下野国へ侵攻。この進撃に合わせて、成氏方の佐野城の佐野氏が上杉方に寝返りを打診。長尾軍は寝返りを信じて下野国深部の児玉塚(不明)に布陣。しかし、佐野氏は寝返りを白紙撤回し、佐野城に籠城。その為、侵攻していた長尾軍は小山氏の軍勢と佐野氏の軍勢に挟撃される羽目になり、撤退。

1471年4月、長尾景春、長尾忠景からなる長尾軍は一度、五十子陣まで撤退した後、再び下野国へ。

1471年4月15日、長尾軍が成氏方の赤見城を落城させる。

続けて成氏方の樺崎城を攻めて、ここでは城主の南持宗を討ち取って落城させる。

同月、山内上杉家の家宰・長尾景信が軍を率いて出陣、金山城の岩松家純も合流し、成氏方の八椚城(やくぬぎじょう)を攻めた。八椚城には佐野氏の庶流である赤見氏、加胡氏、大高氏らが守っていたが、同じく佐野氏一族である山越氏が長尾景信軍に内応し、この八椚城も落城する。

赤見城、樺崎城、八椚城が上杉方に落とされ、これで観農城包囲網は解かれた形となり、ここで上杉方は一度、五十子陣(埼玉県本庄市)へと撤退している。

1471年5月、上杉方は館林城の攻略に着手し、山上上杉家の家宰・長尾景信を大将とする6千の軍勢が出陣する。ここには景信の子の長尾景春、更には扇谷上杉家の家宰・太田道灌、惣社上杉家の家臣・長尾忠景らが参陣した。

館林城は三方を湖沼に囲まれた天然の要害で、上杉軍は主力を投入したが館林城の攻略に手こずる。この頃、館林城を守っていたのは赤井氏と高氏であったという。上杉軍が攻城戦に手間取っているとみて、成氏方は、この館林城の救援に小山氏、結城氏、佐野氏といった主力を投入。この館林城を巡る戦いでは、両軍の主力同士が激突したことになる。

1471年5月23日、館林城が落城する。

この館林城を巡る攻防の際、成氏方の中心人物でもあった小山持政が上杉方に寝返るという波乱があった。小山持政には上杉方からも幕府からも帰順勧告が再三再四届いていたが、この享徳の乱では一貫して黙殺、古河公方軍の主力中の主力で、公方・足利成氏からは「兄弟」と呼ばれる程の信頼を寄せられていた人物であったが、とうとう上杉方に内応したものという。

また、小山持政の上杉方への寝返りは成氏方に動揺を誘ったようで、小山氏の離反の直後、成氏方の有力者であった小田茂治、また、佐野氏の一族と思われる佐野愛寿(詳細不明)が成氏方から離反したという。

上杉軍は館林城に続けて、舞木城を落城させる。この舞木城は舞木氏の居城であり、館林城を守っていた赤井氏の主家にあたるという。


◆享徳の乱〜古河城争奪戦

一気呵成に、上杉軍が攻め続ける。上杉軍は山内上杉家の家宰・長尾景信を総大将とし、その子・長尾景春、惣社上杉家の長尾忠景らに加え、上州一揆衆、武州一揆衆が加わり、七千余の大軍勢となって、佐野盛綱が籠城する岩舟山の頂上に築かれた甲城を攻めた。この甲城(かぶとじょう/旧下都賀郡岩舟町)は険阻な山城で、且つ、佐野氏の抵抗も激しかったらしく、上杉軍は甲城攻めを諦めて、岩舟山の東、児玉塚に布陣。児玉塚の東側は小山氏の勢力圏であったが、既に小山氏は上杉方に寝返っていたのだ。児玉塚に布陣した後、上杉軍は古河公方の本拠である古河城を目指して南下してゆく。

1471年5月、上杉軍による古河城攻撃が始まる。

1471年6月24日、古河公方・足利成氏は古河脱出を余儀なくされ、下総国の本佐倉(千葉県酒々井市)の千葉孝胤(ちば・のりたね)の元まで逃げ落ちる。

上杉軍は下総国への侵入にも色気をみせたが、ここで戦線が膠着する。下野国では小山氏、小田氏、佐野氏が上杉方に降った情勢となり、分かり易い劣勢の状態となったが、結城氏広と千葉孝胤が二本柱となって古河公方軍を支えた。

或る意味では古河公方陣営の中心人物であった小山持政は、上杉方に寝返った後、児玉塚へと上杉軍の案内役を果たした後、文献から活動する姿を消える。没したか蟄居したものと推測されるという。元々、小山持政には子や孫があったが、いずれも早世しており、その小山家の家督を継承したのは、結城一族山川景胤の子の梅犬丸であり、後に梅犬丸は小山成長と見られる事から、小山氏は古河公方陣営に復帰した可能性が高いと見られるという。

1472年2月、古河公方・成氏は、結城氏広や実弟である鶴岡八幡の雪下殿・尊敒(そんじょう)、那須資持、茂木持らの助力を得て、古河奪還作戦を展開、あっさりと奪還に成功している。成氏は古河城を逐われたが、古河城そのもの成氏方が守り切っていたので、簡単に古河を奪還できたという。

ここまでで足利成氏を中心として動いた「享徳の乱」は既に発生から17年を経過している。


◆下総千葉氏と上総武田氏

因みに、常陸国の雄、佐竹氏はこの頃は内紛で宗家が窮地に立たされている。また、古河公方から頼られた千葉孝胤は千葉家分裂後の下総千葉氏である。

千葉氏の場合は、宗家であった千葉胤直に対して、一族の馬加(まくわり)千葉康胤との間で争いが起こり、当主の千葉胤直が滅ぼされるという大混乱になった事は前述した通り。そして千葉胤直の遺児である実胤と自胤(これたね)の兄弟は市川城に身を寄せていた。これを、享徳の乱に照らし合わせると、千葉家の宗家が幕府・上杉方となり、馬加氏は成氏方であった。

その後、千葉家の内紛には幕府が介入、美濃国郡上を本拠とする東常縁(とうのつねより)が下総国に入り、成氏方である馬加千葉氏の馬加城を攻め、馬加千葉康胤は千葉城へ逃げた。

市川城は実胤・自胤が拠点にしていたが、この市川城は成氏軍に攻められ、実胤・自胤は上杉方が抑えていた武蔵国へ逃げる。実胤は赤塚城(東京都板橋区)へ入り、自胤は石浜城(東京都台東区)に入り、それぞれ、こちらの武蔵国に入った実胤・自胤は上杉方として残り、武蔵千葉氏となる。

馬加千葉康胤は、その後、上総国の八幡(千葉県市原市)にて、幕府の命によってやってきた東常縁軍と戦い、敗死する。この馬加千葉氏は千葉城を居城としたままに残り、康胤の次には子の胤持、その次に胤持の弟である輔胤が家督を継承した。この輔胤の時に、この馬加千葉氏は「千葉介」(ちばのすけ)と名乗り、千葉介の千葉一統とし、下総千葉氏となる。輔胤の次に家督を継承したのが千葉孝胤であり、この頃には千葉城と本佐倉城を支配し、下総千葉に勢力を確立していた。

下総千葉氏とは馬加城を拠点にしていた馬加千葉康胤の系統であり、幕府・上杉方ではなく、古河公方を支援していた側という事になる。また、この成立そのものにも大きく「享徳の乱」の、古河公方対上杉家の構図が関係しており、上総国には武田信長が入り、安房国の里見義実が古河公方陣営として上総、下総、武蔵、相模の戦闘に参加して活躍が目立つ。

上総国に関しては、その北部では馬加千葉家の家臣であった原氏や酒井氏が活躍して所領を広げ、下総千葉氏の勢力を拡大し、上総国南部には成氏の側近として入部した武田信長の一族が真里谷(千葉県木更津市)、長南(千葉県長南町)などに勢力を張り、共に古河公方を担いでいた事で住み分けが可能となり、この時期に勢力を拡大したと思われる。この上総武田氏は、後に真里谷武田氏と、長南の武田氏とが並立していたが、長南の武田氏は古河公方・足利成氏が古河城を追われて本佐倉城の千葉孝胤の元に落ちてきた頃、上杉方に寝返ったという。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ