1970年11月25日午前11時10分から同日午後0時15分にかけて、かの三島由紀夫は「楯の会」会員4名を伴って東京・市ヶ谷にある自衛隊駐屯地の東部方面総監部に押し掛け、総監を監禁。その後、三島由紀夫はバルコニーから市ヶ谷駐屯所内の自衛官らに向かって檄文を読み上げる形の演説を展開、その後、三島由紀夫と森田必勝が総監室内で割腹自殺を遂げた。
上記が、いわゆる「三島由紀夫割腹事件」であり、「三島事件」、もしくは「三島由紀夫事件」であり、且つ、「楯の会事件」、あるいは「三島由紀夫・楯の会事件」のあらましとなる。
三島由紀夫は言わずと知れた大作家であり、ノーベル文学賞候補として名前が挙がり、実際に『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』などの文学作品を残し、また、政治思想を反映した『英霊の聲』、『憂国』、そして小説家としての集大成的な作品と評される『豊饒の海』を残している。
この事件、どの呼称が最も事件を端的に表す呼称なのかも実は難しく、当該事件をシンボリックに表すだけでいいのなら「三島事件」、「三島由紀夫事件」、「三島由紀夫割腹事件」なのでしょうけど、事件の本質を著した呼称をしようとすると「三島由紀夫・楯の会事件」か「楯の会事件」になりそう。
知っているつもりであったが実状は知らない、分からないという事柄は意外と多く、この三島由紀夫・楯の会事件にしても、案外、我々は知っているつもりでいて、実は知らなかったなという感慨が強い。
以下、山形大学名誉教授にして鈴木邦夫氏の実兄という鈴木宏三著『三島由紀夫〜幻の皇居突入計画』(彩流社)に沿うものとなりますが、この事件は「知っているつもり」になっている典型的な事件であろうなという感慨に到りました。ミシマが何をしようとしていたのかを推論する内容なので、ともすれば軽視しがちですが、同著では豊富な資料の引用が為されており、筆致こそ謙虚であるが、おそらくは事件に肉薄している。
ヒトの認知機能というのは、信じるに値しないと思うものには端から反応しない。しかし、それを打ち砕くだけの資料が提示されており、且つ、よくよく三島由紀夫の思想というものを洗い直してみると、もっとも整合性が取れ、説得力があるように思えてくる。
『新潮』昭和61年8月号に掲載された文芸評論家・磯田光一の「模造の時代」と題した文章が掲載されたという。この磯田光一は、三島事件の約一ヵ月前に三島由紀夫から「本当は宮中で天皇を殺したい」という主旨の発言があったと綴っていたという。かなり、不穏な発言と認識されるかと思いますが、磯田の語った主旨では「人間天皇を抹殺する事によって逆説的に超越者としての天皇の存在を証明する」といった、そのような事を三島は話していたという。磯田が三島の発言した内容を正確に伝えていないという可能性も含め、事実関係をも含めて慎重に物事を考えねばならない。しかし、確かに組み立て直してゆくと、三島由紀夫の政治思想とは『英霊の聲』や『憂国』などに現れており、人間宣言をした天皇に対しての批判が語られており、その型の右翼思想であった事は誰もが理解する事が可能でもある。補足材料も多々あり、三島由紀夫は絶対者としての天皇や、超越者としての天皇を欲していた節があり、それが絶対者たる天皇が自衛隊を国軍として承認する事こそが、憂いの根幹にあったものと繋げる事ができ、実は矛盾しない事に気付かされる。
「三島由紀夫」とは偉大な作家であるが、同時に虚実綯い交ぜの狂気の才能の人でもあり、その狂気の部分については、三島事件そのものが端的に物語っているとも言えるではないか。自衛隊の総監室に押し掛けて、総監を監禁し、蹶起を呼び掛ける演説をした後、その総監の前で割腹自殺をしているのだ。もしかしたらミシマを理解するには江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」に代表されるような、幻想的にして耽美主義であり、傍からすると「やっぱり、天才って現実と虚構の境界線がヤバい感性の人だワ」という、その領域でしか読み解けない可能性がある。思えば『仮面の告白』あたりは、これは本人の性癖の吐露なのではないかと思わせる内容であり、サディズムやマゾヒズム、虚実綯い交ぜの創作であったが故に成立した最高傑作なのではないのか。
1970年11月25日午前11時頃、三島由紀夫は「楯の会」会員4名(森田必勝、小賀正義、古賀弘靖、小川正弘)を伴って市ヶ谷駐屯地を訪問。押し入ったと説明されているケースがままあるが、事前に益田兼利総監には面会のアポイントメントを取っていたらしい。
この際、三島由紀夫は関孫六の日本刀を持参しており、しばらくの間は、その日本刀について益田総監と歓談していたが、小賀が総監の背後に回って総監の首を絞め、猿ぐつわを咬ませた。古賀と小川が細引きで益田総監の両手両足を縛り、更に椅子に総監の身体を縛り付けた。森田はというと、総監室前の正面と隣接する幕僚長室と幕僚副長室に通じる出入口にテーブルや椅子なでバリケードを築いたという。
総監室の異変に気付いた幕僚を含む自衛官らがバリケードを破って、総監室に入ると乱闘になった。ミシマは「外へ出ないと総監を殺すぞ」と叫びながら持参した関孫六の日本刀を抜いて切りつけるなどし、実際に8名に重軽傷を負わせた。幕僚らは総監の身の安全と最優先させる為に、ミシマらの要求を呑む事とした。事前に「要求書」が用意されており、要求とは駐屯地内の全自衛官を総監室前の中庭に集合させる事であった。その要求に従って、この時、約800名の自衛官が中庭に集合させられた。中庭に面したバルコニーからは森田、小川らによって準備してきた垂れ幕が下げられ、やはり用意してきた檄文の紙片多数がバルコニーより撒かれた。
間もなくして、森田必勝を伴って三島由紀夫がバルコニーが姿を現し、撒いた檄文と同内容の演説を展開した。肉声による演説だったのでミシマは声を嗄らして叫ぶように演説していたが、中庭の自衛官からはすさまじい野次が吹き荒れ、尚且つ、事件を聞きつけた報道機関のヘリコプターが上空を旋回し始めた為、ミシマの演説は殆んど聞き取る事は不可能な状況であったという。ミシマなりの熱意は現実に弾き返されたという事でしょうか。実際には、ミシマの演説に続けて、同道した「楯の会」の4名も、そこで簡素な「名乗り」をする計画であったが、その「名乗り」は省かれたという。
ミシマは
「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に立ち、共に死のう」
と呼び掛けた。しばし返事を待ったが、それに応じる声はなく、それを確認したミシマは、「天皇陛下万歳」を三唱すると、バルコニーから姿を消して、総監室に戻った。
総監室に戻ったミシマは、楯の会の制服を脱ぎ、正座した。
益田総監に向かってミシマは
「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」
と、言ったとされる。
その後、両手で短刀を握り、自身の左脇腹に短刀を突き立て右へと引いた。背後に立っていた森田が介錯の為に日本刀を振り下ろしたが完全に首を切り落とすことが出来ず、古賀がその刀を受け取って介錯を果たした。
次いで森田必勝(まさかつ)がミシマ同様に割腹、これを古賀が一太刀で介錯した。残された楯の会メンバーらは二人の遺体を仰向けにし、制服をかけ、首を並べ、合掌。その後、総監の縛を説き、総監と共に総監室を出て警察に逮捕された。
上記が、いわゆる「三島由紀夫割腹事件」であり、「三島事件」、もしくは「三島由紀夫事件」であり、且つ、「楯の会事件」、あるいは「三島由紀夫・楯の会事件」のあらましとなる。
三島由紀夫は言わずと知れた大作家であり、ノーベル文学賞候補として名前が挙がり、実際に『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』などの文学作品を残し、また、政治思想を反映した『英霊の聲』、『憂国』、そして小説家としての集大成的な作品と評される『豊饒の海』を残している。
この事件、どの呼称が最も事件を端的に表す呼称なのかも実は難しく、当該事件をシンボリックに表すだけでいいのなら「三島事件」、「三島由紀夫事件」、「三島由紀夫割腹事件」なのでしょうけど、事件の本質を著した呼称をしようとすると「三島由紀夫・楯の会事件」か「楯の会事件」になりそう。
知っているつもりであったが実状は知らない、分からないという事柄は意外と多く、この三島由紀夫・楯の会事件にしても、案外、我々は知っているつもりでいて、実は知らなかったなという感慨が強い。
以下、山形大学名誉教授にして鈴木邦夫氏の実兄という鈴木宏三著『三島由紀夫〜幻の皇居突入計画』(彩流社)に沿うものとなりますが、この事件は「知っているつもり」になっている典型的な事件であろうなという感慨に到りました。ミシマが何をしようとしていたのかを推論する内容なので、ともすれば軽視しがちですが、同著では豊富な資料の引用が為されており、筆致こそ謙虚であるが、おそらくは事件に肉薄している。
ヒトの認知機能というのは、信じるに値しないと思うものには端から反応しない。しかし、それを打ち砕くだけの資料が提示されており、且つ、よくよく三島由紀夫の思想というものを洗い直してみると、もっとも整合性が取れ、説得力があるように思えてくる。
『新潮』昭和61年8月号に掲載された文芸評論家・磯田光一の「模造の時代」と題した文章が掲載されたという。この磯田光一は、三島事件の約一ヵ月前に三島由紀夫から「本当は宮中で天皇を殺したい」という主旨の発言があったと綴っていたという。かなり、不穏な発言と認識されるかと思いますが、磯田の語った主旨では「人間天皇を抹殺する事によって逆説的に超越者としての天皇の存在を証明する」といった、そのような事を三島は話していたという。磯田が三島の発言した内容を正確に伝えていないという可能性も含め、事実関係をも含めて慎重に物事を考えねばならない。しかし、確かに組み立て直してゆくと、三島由紀夫の政治思想とは『英霊の聲』や『憂国』などに現れており、人間宣言をした天皇に対しての批判が語られており、その型の右翼思想であった事は誰もが理解する事が可能でもある。補足材料も多々あり、三島由紀夫は絶対者としての天皇や、超越者としての天皇を欲していた節があり、それが絶対者たる天皇が自衛隊を国軍として承認する事こそが、憂いの根幹にあったものと繋げる事ができ、実は矛盾しない事に気付かされる。
「三島由紀夫」とは偉大な作家であるが、同時に虚実綯い交ぜの狂気の才能の人でもあり、その狂気の部分については、三島事件そのものが端的に物語っているとも言えるではないか。自衛隊の総監室に押し掛けて、総監を監禁し、蹶起を呼び掛ける演説をした後、その総監の前で割腹自殺をしているのだ。もしかしたらミシマを理解するには江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」に代表されるような、幻想的にして耽美主義であり、傍からすると「やっぱり、天才って現実と虚構の境界線がヤバい感性の人だワ」という、その領域でしか読み解けない可能性がある。思えば『仮面の告白』あたりは、これは本人の性癖の吐露なのではないかと思わせる内容であり、サディズムやマゾヒズム、虚実綯い交ぜの創作であったが故に成立した最高傑作なのではないのか。
1970年11月25日午前11時頃、三島由紀夫は「楯の会」会員4名(森田必勝、小賀正義、古賀弘靖、小川正弘)を伴って市ヶ谷駐屯地を訪問。押し入ったと説明されているケースがままあるが、事前に益田兼利総監には面会のアポイントメントを取っていたらしい。
この際、三島由紀夫は関孫六の日本刀を持参しており、しばらくの間は、その日本刀について益田総監と歓談していたが、小賀が総監の背後に回って総監の首を絞め、猿ぐつわを咬ませた。古賀と小川が細引きで益田総監の両手両足を縛り、更に椅子に総監の身体を縛り付けた。森田はというと、総監室前の正面と隣接する幕僚長室と幕僚副長室に通じる出入口にテーブルや椅子なでバリケードを築いたという。
総監室の異変に気付いた幕僚を含む自衛官らがバリケードを破って、総監室に入ると乱闘になった。ミシマは「外へ出ないと総監を殺すぞ」と叫びながら持参した関孫六の日本刀を抜いて切りつけるなどし、実際に8名に重軽傷を負わせた。幕僚らは総監の身の安全と最優先させる為に、ミシマらの要求を呑む事とした。事前に「要求書」が用意されており、要求とは駐屯地内の全自衛官を総監室前の中庭に集合させる事であった。その要求に従って、この時、約800名の自衛官が中庭に集合させられた。中庭に面したバルコニーからは森田、小川らによって準備してきた垂れ幕が下げられ、やはり用意してきた檄文の紙片多数がバルコニーより撒かれた。
間もなくして、森田必勝を伴って三島由紀夫がバルコニーが姿を現し、撒いた檄文と同内容の演説を展開した。肉声による演説だったのでミシマは声を嗄らして叫ぶように演説していたが、中庭の自衛官からはすさまじい野次が吹き荒れ、尚且つ、事件を聞きつけた報道機関のヘリコプターが上空を旋回し始めた為、ミシマの演説は殆んど聞き取る事は不可能な状況であったという。ミシマなりの熱意は現実に弾き返されたという事でしょうか。実際には、ミシマの演説に続けて、同道した「楯の会」の4名も、そこで簡素な「名乗り」をする計画であったが、その「名乗り」は省かれたという。
ミシマは
「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に立ち、共に死のう」
と呼び掛けた。しばし返事を待ったが、それに応じる声はなく、それを確認したミシマは、「天皇陛下万歳」を三唱すると、バルコニーから姿を消して、総監室に戻った。
総監室に戻ったミシマは、楯の会の制服を脱ぎ、正座した。
益田総監に向かってミシマは
「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」
と、言ったとされる。
その後、両手で短刀を握り、自身の左脇腹に短刀を突き立て右へと引いた。背後に立っていた森田が介錯の為に日本刀を振り下ろしたが完全に首を切り落とすことが出来ず、古賀がその刀を受け取って介錯を果たした。
次いで森田必勝(まさかつ)がミシマ同様に割腹、これを古賀が一太刀で介錯した。残された楯の会メンバーらは二人の遺体を仰向けにし、制服をかけ、首を並べ、合掌。その後、総監の縛を説き、総監と共に総監室を出て警察に逮捕された。

