どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、SOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

カテゴリ:政治史など > 三島由紀夫・楯の会事件

1970年11月25日午前11時10分から同日午後0時15分にかけて、かの三島由紀夫は「楯の会」会員4名を伴って東京・市ヶ谷にある自衛隊駐屯地の東部方面総監部に押し掛け、総監を監禁。その後、三島由紀夫はバルコニーから市ヶ谷駐屯所内の自衛官らに向かって檄文を読み上げる形の演説を展開、その後、三島由紀夫と森田必勝が総監室内で割腹自殺を遂げた。

上記が、いわゆる「三島由紀夫割腹事件」であり、「三島事件」、もしくは「三島由紀夫事件」であり、且つ、「楯の会事件」、あるいは「三島由紀夫・楯の会事件」のあらましとなる。

三島由紀夫は言わずと知れた大作家であり、ノーベル文学賞候補として名前が挙がり、実際に『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』などの文学作品を残し、また、政治思想を反映した『英霊の聲』、『憂国』、そして小説家としての集大成的な作品と評される『豊饒の海』を残している。

この事件、どの呼称が最も事件を端的に表す呼称なのかも実は難しく、当該事件をシンボリックに表すだけでいいのなら「三島事件」、「三島由紀夫事件」、「三島由紀夫割腹事件」なのでしょうけど、事件の本質を著した呼称をしようとすると「三島由紀夫・楯の会事件」か「楯の会事件」になりそう。

知っているつもりであったが実状は知らない、分からないという事柄は意外と多く、この三島由紀夫・楯の会事件にしても、案外、我々は知っているつもりでいて、実は知らなかったなという感慨が強い。

以下、山形大学名誉教授にして鈴木邦夫氏の実兄という鈴木宏三著『三島由紀夫〜幻の皇居突入計画』(彩流社)に沿うものとなりますが、この事件は「知っているつもり」になっている典型的な事件であろうなという感慨に到りました。ミシマが何をしようとしていたのかを推論する内容なので、ともすれば軽視しがちですが、同著では豊富な資料の引用が為されており、筆致こそ謙虚であるが、おそらくは事件に肉薄している。

ヒトの認知機能というのは、信じるに値しないと思うものには端から反応しない。しかし、それを打ち砕くだけの資料が提示されており、且つ、よくよく三島由紀夫の思想というものを洗い直してみると、もっとも整合性が取れ、説得力があるように思えてくる。

『新潮』昭和61年8月号に掲載された文芸評論家・磯田光一の「模造の時代」と題した文章が掲載されたという。この磯田光一は、三島事件の約一ヵ月前に三島由紀夫から「本当は宮中で天皇を殺したい」という主旨の発言があったと綴っていたという。かなり、不穏な発言と認識されるかと思いますが、磯田の語った主旨では「人間天皇を抹殺する事によって逆説的に超越者としての天皇の存在を証明する」といった、そのような事を三島は話していたという。磯田が三島の発言した内容を正確に伝えていないという可能性も含め、事実関係をも含めて慎重に物事を考えねばならない。しかし、確かに組み立て直してゆくと、三島由紀夫の政治思想とは『英霊の聲』や『憂国』などに現れており、人間宣言をした天皇に対しての批判が語られており、その型の右翼思想であった事は誰もが理解する事が可能でもある。補足材料も多々あり、三島由紀夫は絶対者としての天皇や、超越者としての天皇を欲していた節があり、それが絶対者たる天皇が自衛隊を国軍として承認する事こそが、憂いの根幹にあったものと繋げる事ができ、実は矛盾しない事に気付かされる。

「三島由紀夫」とは偉大な作家であるが、同時に虚実綯い交ぜの狂気の才能の人でもあり、その狂気の部分については、三島事件そのものが端的に物語っているとも言えるではないか。自衛隊の総監室に押し掛けて、総監を監禁し、蹶起を呼び掛ける演説をした後、その総監の前で割腹自殺をしているのだ。もしかしたらミシマを理解するには江戸川乱歩の「パノラマ島綺譚」に代表されるような、幻想的にして耽美主義であり、傍からすると「やっぱり、天才って現実と虚構の境界線がヤバい感性の人だワ」という、その領域でしか読み解けない可能性がある。思えば『仮面の告白』あたりは、これは本人の性癖の吐露なのではないかと思わせる内容であり、サディズムやマゾヒズム、虚実綯い交ぜの創作であったが故に成立した最高傑作なのではないのか。


1970年11月25日午前11時頃、三島由紀夫は「楯の会」会員4名(森田必勝、小賀正義、古賀弘靖、小川正弘)を伴って市ヶ谷駐屯地を訪問。押し入ったと説明されているケースがままあるが、事前に益田兼利総監には面会のアポイントメントを取っていたらしい。

この際、三島由紀夫は関孫六の日本刀を持参しており、しばらくの間は、その日本刀について益田総監と歓談していたが、小賀が総監の背後に回って総監の首を絞め、猿ぐつわを咬ませた。古賀と小川が細引きで益田総監の両手両足を縛り、更に椅子に総監の身体を縛り付けた。森田はというと、総監室前の正面と隣接する幕僚長室と幕僚副長室に通じる出入口にテーブルや椅子なでバリケードを築いたという。

総監室の異変に気付いた幕僚を含む自衛官らがバリケードを破って、総監室に入ると乱闘になった。ミシマは「外へ出ないと総監を殺すぞ」と叫びながら持参した関孫六の日本刀を抜いて切りつけるなどし、実際に8名に重軽傷を負わせた。幕僚らは総監の身の安全と最優先させる為に、ミシマらの要求を呑む事とした。事前に「要求書」が用意されており、要求とは駐屯地内の全自衛官を総監室前の中庭に集合させる事であった。その要求に従って、この時、約800名の自衛官が中庭に集合させられた。中庭に面したバルコニーからは森田、小川らによって準備してきた垂れ幕が下げられ、やはり用意してきた檄文の紙片多数がバルコニーより撒かれた。

間もなくして、森田必勝を伴って三島由紀夫がバルコニーが姿を現し、撒いた檄文と同内容の演説を展開した。肉声による演説だったのでミシマは声を嗄らして叫ぶように演説していたが、中庭の自衛官からはすさまじい野次が吹き荒れ、尚且つ、事件を聞きつけた報道機関のヘリコプターが上空を旋回し始めた為、ミシマの演説は殆んど聞き取る事は不可能な状況であったという。ミシマなりの熱意は現実に弾き返されたという事でしょうか。実際には、ミシマの演説に続けて、同道した「楯の会」の4名も、そこで簡素な「名乗り」をする計画であったが、その「名乗り」は省かれたという。

ミシマは

「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に立ち、共に死のう」

と呼び掛けた。しばし返事を待ったが、それに応じる声はなく、それを確認したミシマは、「天皇陛下万歳」を三唱すると、バルコニーから姿を消して、総監室に戻った。

総監室に戻ったミシマは、楯の会の制服を脱ぎ、正座した。

益田総監に向かってミシマは

「恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです」

と、言ったとされる。

その後、両手で短刀を握り、自身の左脇腹に短刀を突き立て右へと引いた。背後に立っていた森田が介錯の為に日本刀を振り下ろしたが完全に首を切り落とすことが出来ず、古賀がその刀を受け取って介錯を果たした。

次いで森田必勝(まさかつ)がミシマ同様に割腹、これを古賀が一太刀で介錯した。残された楯の会メンバーらは二人の遺体を仰向けにし、制服をかけ、首を並べ、合掌。その後、総監の縛を説き、総監と共に総監室を出て警察に逮捕された。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

さて、前段で述べたものが「三島由紀夫・楯の会事件」のあらましとなる。

実は、過去にも、そのあらましには触れました。また、総合週刊誌でも事件を回想する記事などを目にすることがあり、私の記憶にあるのは、当時の学生運動をしていた側の人の回想で、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地に乱入、割腹自殺を遂げたというニュースを知ったときのショックと脱力感などが語られていた。つまり、ラーメン店でラーメンを食べていたら三島由紀夫割腹自殺というテレビの報道を知り、その衝撃の大きさで動揺し、また、どうしようもなく自分を照らし合わせて惨めな気分になってヤケ酒を呑んだ的な、述懐であった。

拙ブログ:三島由紀夫事件について〜2019-7-7

しかし、どうも割り切れないものを感じなくもないんですね。充分、凄い事件ではあるのですが、演出的な部分で失敗だったかのように思える。蹶起を呼び掛けたという事になっているが、その場に集められた自衛官らからは野次や怒号が浴びせられ、三島由紀夫一世一代の演説は失敗に終わったかのような印象が否めない。改めて前掲著で確認すると、このときの計画でも、同道した4名の楯の会メンバーは、中庭に参集した自衛官らの眼前で、バルコニー上で、短い「名乗り」をする準備をしていたが、それを省略せざるを得なかったという経緯を辿っている。

この感覚というのは、言うなればクラス会やら文化祭の余興として寸劇を企画し、演じてみたものの、物の見事にダダ滑りしてしまったかのような、その雰囲気が読み取れる。やんやの喝采、或いは笑い声、応援しようという反応を期待したり、無難に演じ切る事ぐらいは何とか出来るだろうと思って、その舞台に立っているのに、とんでもなく不興を買ってしまい、その反応の悪さにやむなく時間を短縮して切り上げたときのような、そのバツの悪さのようなものを連想してしまう。

「俺たちのバンドも出るから見に来てね」という友人の声を受けて会場に足を運び、その扉を開けてみたら場内の雰囲気は惨憺たる有様で、そのシラケた空気に、見に来ただけの自分まで居た堪れなくなるような、あの感慨――。

いや、それとも少し違う。ホントは、余りにも稚拙だったのではないかと感じてしまう。そもそも、その手法で総監室に乱入し、総監を人質にとり、その交換条件として自衛官らを中庭に集めさせ、バルコニーで熱い演説をぶったところで、その場に集められた自衛官らが共鳴し、蹶起に応じる公算は愚か、そもそも歓迎的に受け止められ、その場が盛り上がる公算なんて、最初から見込む事が難しかのような、そういう計画であったような印象を受ける。つまり、「割腹自殺を遂げる」というセンセーショナルな箇所に対して、割腹自殺の前段の演出に、そもそも無理がないかという疑念ですね。裏返せば、この一連で、三島由紀夫の�狎�功�瓩�見い出せない。自衛官たちがミシマの熱い演説、蹶起の呼び掛けに呼応し、その熱狂とか興奮がウネリとなったなら、きっと演説としては成功なのでしょうけど、そもそも成功する光景というのが見い出しにくいんですね。ビラを撒こうが、迫真の演説を繰り広げようが、そもそも計画自体に無理があったような印象が強い。

そのように感じていたのですが、やはり、この事件、私のように腑に落ちないという意見の持ち主は、かなり多いらしいのだ。状況を検証しても同じで、現職ともいえる自衛官ら8百名の前で、三島由紀夫の私設右翼団体のような位置付けに思われていたであろう「楯の会」、そのメンバーが「名乗り」をするだけの状況が生まれるとは想定しにくいように思う。しかし、用意はしていたらしい。という事は、重ねて、現実的なイメージがないままに敢行されたものであったと考えざるを得なくなる。ミシマにナルシストなところがあって、それが楽観的に物事を考えさせ、計画に狂いが生じたという事かと考えようとしても、どうしても腑に落ちなかったんですね。

では、どういう事なのか? そもそも三島由紀夫は檄文を撒き、演説をした。そこでは憲法改正の重要性が謳われており、且つ、自衛隊が国軍となるべきだという政治思想が語られている。が、真の目的は、そこにはなく、最初から割腹自殺する事にあったのではないかと勘繰らざるを得なくなる。思えば最初から死ぬ気、決死の覚悟で行ない、そのまま文字通り、自決したという不可解な様相の事件なのだ。

実は、私の抱いていた感慨は特異ではなかった。この事件、通説はあんまりアテにならない。ホントは、多くの論者が違和感を抱き、また、一部の論者は違和感を吐露していたらしい。「楯の会」というのは、いわゆる民族派と呼ばれる右翼青年らが構成員になっており、その民族派の人たちの中には昔から「あれは三島事件というよりも森田事件と呼ぶべき事件だ」という意見があるという。これが何を意味しているのかというと、森田必勝の方が実は主導的役割であり、三島由紀夫の方は知名度の関係で、ああした役割を演じたものの、森田の要請を断り切れずに断行したものだという意見があるのだという。その内の一つは、著者の実弟でもある鈴木邦夫氏で氏の名前を世間に広く知らしめた往年のSPA誌の連載「夕暮れのコペルニクス」の中でも取り上げられた事があり、どうも民族派(新右翼)の間では、かなり昔から囁かれていた話らしいのだ。

著者の論考にありましたが、この事件、「ミシマは、何故、早稲田大生であった森田必勝にも割腹自殺をさせたのか?」という疑義がある。仮に、森田がミシマを心酔していたとしても、常識的には、これは右翼思想の常識としてもですが、「ここで割腹自殺をするのは俺一人でいい、若いオマエは死ぬ必要はない」とか「後の事は頼んだぞ」となる筈だという。そうじゃないと、ミシマの正義そのものが疑われてしまう訳ですよね。自分を心酔している若者に対しては後の事を託すことは有り得ても、一緒に割腹自殺してしまったのでは「ミシマは責任感がない」と指弾されるのは当然といえば当然でもある。思えば、これも不可解ですね。この事件、社会的知名度、また、年齢的なものからしてもそうだし、そもそも「楯の会」にしてもミシマは過去に田中清玄から金銭的援助を受けていた学生らに激怒、そのメンバーを追放したりしており、絶対的なリーダーはミシマなのだ。そのリーダーには責任がある。学生に割腹自殺をさせた事などは疑義を挟む余地がある。それを考慮した場合、実は森田の方が主導的な立場にあり、森田の強い要請を断り切れなくなったミシマが、成功図らしい成功図もないままに決行した事件だったのではないかと考えることができる。因みに、ミシマは森田に月十万円、当時の大卒の初任給の約3倍もの金額の金銭を渡していたという。

また、この森田事件説を挙げたものとして中村彰彦著『烈士と呼ばれる男――森田必勝の物語』なる著書の中には、「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺る」と言っていた森田の言葉が紹介されている。更に、生前の森田必勝と会った事がある堤堯は『諸君!』平成15年2月号の「三島由紀夫が遺した『謎の予言』」という文章の中で、森田が「僕は絶対に三島先生を逃がしません」と発言していた事を書いたという。その堤堯にしても回想して、「(あの事件は)森田が主で三島は従だったのではないか」と語っているという。

ノーベル文学賞候補の大作家が割腹自殺――という途轍もないセンセーショナルな事件である反面、その背景として、何がどうなって起こった事件なのか、さっぱり分からないのが、この事件なのだ。


そして磯田光一の語ったところの、(ミシマが割腹事件の一ヵ月前に)「本当は宮中で天皇を殺したい」と言っていたという証言がある。この箇所は先述したように『新潮』昭和61年8月号の「模造の時代」と題した島田雅彦との対談で中で、語られたという。引用します。

亡くなる一ヵ月前に、ちょうど三島さんに最後に会ったときに彼はこういうことを言ったのです。本当は宮中で天皇を殺したい、と言った、腹を切る前に。というのは、人間宣言をしたためにだめになったという。ところが宮中へはちょっと入れないから、自衛隊でという結論になったらしいのです。というのはどういうことかといいますと、人間天皇を抹殺することによって、『英霊の聲』に出てくる、超越者としての天皇を逆説的に証明する。パラドックスとして。それに対しる、自分は忠実な臣下としてのアイデンティティを確立する。そのためにいは、戦後の現存する天皇を殺すという発想を三島さんは持っていました。

という、磯田発言となった。この磯田の証言はニュアンスにしても微妙なニュアンスを含んでいる上に、常識的には「畏れ多い発言」であるから論評も少なく、論者によっては到底信じがたいとして、この話は(磯田の)「作り話ではないのか?」という憶測も少なくないという。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

生前の三島由紀夫は、

「楯の会をつくろうと決心したのは『英霊の聲』を書いてからだった」

と語っていたという。

神格の天皇が人間の天皇になった事を呪ったかのように受け止められる言葉を残している。やはり、そこら辺から、ミシマは現実世界でも奇妙な方向へ舵を切っている可能性がある。

その部分をタイムテーブル方式で並べてみる。


1966年6月、『英霊の聲』を発表する。

1966年10月、自衛隊への体験入隊の準備を始める。

1966年11月、『春の雪』(『豊饒の海』第一部)を脱稿する。

1966年12月19日、民族派雑誌『論争ジャーナル』編集部の万代潔氏と出会う。その後、「論争ジャーナル」の持丸博氏、中辻和彦氏らと親交を重ねるようなる。(以後、継承略します。)

1967年4月12日、自衛隊への体験入隊を果たす。ミシマは半年間の体験入隊を希望したが実際には一時帰宅を挟んでの45日間の体験入隊として実現した。

1967年10月8日、第一羽田闘争が発生する。佐藤栄作首相のベトナム訪問阻止を叫ぶ学生らが機動隊と衝突。日大生2名が警備用車両を運転、その警備者に轢かれて京大生・山崎弘昭が死亡。日大生は不起訴となった。(体育会系の日大生が当局によって鎮圧勢力として動員され、デモ隊側の学生に死者が出たの意か。)

1967年暮れ近く、「楯の会」の前身となる「祖国防衛隊」の構想が起こる。有事の際に動く民兵組織を形成しようとする構想であった。最終的には全国的な民兵組織にする構想であったという。

1968年7月、『文化防衛論』を発表する。

1968年9月、楯の会有志10名が皇居内にある皇宮警察の道場「済寧館」にて居合の稽古を始める。この済寧館道場での居合の稽古は、必ず真剣で稽古をするもので、楯の会は約1年間ほど皇居内の道場で居合の稽古をしていたという。

1969年6月15日、東京で集会が催され、昼に3万人、夜間にも1万2千を集めた。新宿西口広場では週末には決まって反戦フォーク集会が企画され、集会では岡林信康の「友よ」などが歌われていたという。

1969年6月某日、東京・山の上ホテルのレストランで三島由紀夫が山本舜勝(きよかつ)に奇妙な計画を持ち掛け、両者は意見が対立、以降、疎遠となる。この山本舜勝は元陸軍中野学校の出身者にして、当時は自衛隊調査学校情報教育課長という立場であった。ミシマの祖国防衛隊構想に興味を持つ中で親交が出来上がり、以降はミシマが自衛隊に体験入隊したい等の橋渡し役のような役割を演じていたとされる。

1969年9月20日、バリケード封鎖中の京都大学に機動隊が投入される。これは全共闘派学生であったが機動隊を相手に徹底抗戦し、京都大学は三日間ほど持ち堪えたという。

1969年10月10日には東京・明治公園で「安保粉砕・佐藤訪米阻止」を掲げる大規模集会が行われ、各党派、また、ベ平連、地方からやってきた高校生や大学生ら、10万人規模の集会となり、60年安保と規模的には匹敵する動員を見せた。しかし、佐藤内閣は盤石で揺らぐことはなかった。

1969年10月21日、この日はXデーであった。この日は「国際反戦デー」であった事から日本各地で学生や市民団体の集会が予定されており、翌年に日米安保更新を控えていたタイミングから、極めて暴動が起こる可能性が高いとして、警戒された一日であった。都公安員会が1969年10月21日国際反戦デーの集会を全て不許可にするという手を打つ。その為、同日は日本全国で過激派による火炎ビン投擲が起こり、日本全国で1222名もの逮捕者を出したという。

1969年11月3日、「楯の会」結成1周年パレードが行われ、国立劇場の屋上でセレモニーを行う。

1969年11月5日、大菩薩峠で戦闘訓練中であった赤軍派学生53名が一斉に逮捕される。

1969年11月15日、佐藤訪米阻止全国反戦総決起集会に2万人が集まる。

1969年11月16〜17日、過激派と化した党派の約3000名が羽田空港周辺でゲリラ戦を展開したが佐藤栄作はアメリカへと飛び立つ。第二次羽田闘争。この第二次羽田闘争以降、過激派らは石や角材といった武器の用意が恒常化する。

1969年11月21日、日米共同声明が発表され、沖縄闘争は終結する。体制に捩じ伏せられた形の過激派は沖縄闘争に敗北し、残るは安保延長阻止・安保粉砕に最後の戦いを挑む。

1969年12月24日、ミシマが「楯の会」の中に「憲法研究会」を起ち上げる。

1970年3月31日、田宮高麿率いる赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こす。

1970年4月28日、12万人デモ。

1970年6月23日、日米安全保障条約は規定によって自動延長され、70年安保闘争が終結する。

1970年11月25日、ミシマが「楯の会」構成員を引き連れて自衛隊市ヶ谷駐屯所に乱入、割腹自殺を遂げる。




ここからは、数々の疑問を一つ一つ『幻の皇居突入計画』に沿って、列挙してゆく形となります。

直球ど真ん中を攻めざるを得ない話でもあるのですが、そもそも市ヶ谷駐屯所でばら撒いた檄文の内容には疑義があるという。先ず一点目は、そもそも三島由紀夫は憲法改正に感心がなく、檄文と、その檄文を読み上げたとされる演説から、4年の間、ずっと待ち、最後の1年間は熱烈に蹶起を呼び掛けるタイミングを待っていたと解釈され、それが通説化しているが、実際に多くの論者は「ミシマはそんなに昔から憲法改正に熱心だった筈がない」という指摘があるという。これは実は活字媒体で証拠も残っており、『サンデー毎日』(昭和42年6月11日号)でジャーナリスト・徳岡孝夫のインタビュー記事、更には『論争ジャーナル』(昭和42年11月号)に残っている三島由紀夫と福田恆存(つねあり)との対談「文武両道と死の哲学」の紙面で確認できてしまうという。

少なくともミシマが実際に�犒�法改正�瓩良�要性を取り組むようになったのは、せいぜい2年、実際には1年間程度ではないのかという指摘を、徳岡孝夫の他にも、神道家・葦津珍彦(あしづ・うずひこ)らがあるという。

そして、その時期に三島由紀夫と親交を持ちながら、途中から疎遠になったという山本舜勝(きよかつ)の述懐や著書がある。この山本は当時は自衛隊調査学校情報教育課長にして後に副校長になった人物だというが、この山本は祖国防衛隊構想に共鳴し、当初は二人三脚で進んでいたが、1968年6月頃の�犹海両絅曠謄襪琉豬鎰甍聞漾∋核椶狼�離を置くようになったという。裏返すと、この山本は間近で三島由紀夫を見ていた人物でもある。

山本舜勝に拠れば、山の上ホテル、この「山の上ホテル」は東京ローカルという意味では、しばしば登場する舞台で、御茶の水駅の近く、明治大学の隣、神田とか神保町の古書店町などを歩いている内に「これが山の上ホテルだよ」と学生の頃に教えられた記憶がある。しばしば昭和の時代、作家などが缶詰にされた話などにも出てくる名所でもある。山本に拠れば、その山の上ホテルのレストランでミシマから、驚くべき計画を打ち明けられたので、以降、ミシマと距離を置くことにしたという。

山本舜勝は自著『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』の中で、その�犹海両絅曠謄覘瓩任僚侏荵�を記しているという。

(山の上ホテルのレストランにて、ミシマは側近らと共に山本舜勝を迎えた。ミシマは注文を取りに来たボーイに「大事な話があるから呼ぶまで来ないでくれ」と強い語調で言った後、ドアを閉めて鍵を掛けた。)

三島氏はやおら懐から紙片を出し、私たちの顔を睨むように見渡すと、それを読み始めた。

項目は三カ条あった。しかし、最初の一条があまりにも衝撃的で、私の記憶にはそれのみが焼き付いており、他の二カ条はどうしても思い出すことができない。

その一カ条とは、『楯の会』が皇居に突撃して、そこを死守する、とうものだった。いつ、どのような状況を想定してのことであったのか、それもどうしても思い出せない。�犢諜鐺容�、死守�瓩箸いΩ斥佞里澆�、私の頭の中で大きな音とともに破裂したのだ。

「すでに決死隊を作っている。九名の者に日本刀を渡したのだ!」

そうも言ったような気がする。

「この状況下でそれはあり得ない。まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」

そう私は答えたと思う。だが、これも明確な記憶ではない。

沈黙があった。やがて三島氏は、ボッとマッチを摺ると、灰皿の上でその紙片を燃やした。


この「山の上ホテルの一件」を、どう捉えるべきかという問題がある。少し補足説明が必要となりますが、当時は全学連ら学生運動が猛威を振るっていた。三島由紀夫の立場は�猗審很伸瓩任△蝓�右派であるから学生運動とは真逆にある。先ほどタイムテーブル方式で当時の民衆デモなどについても記した通り、日米安保問題は核であったし、時勢的にはベトナム戦争によって世界的な反米ムードがあった時代背景である。

三島と山本は、民衆による暴動が発生する事を懸念していたので、祖国防衛隊構想に共鳴し、親交を持つようになっていた。祖国防衛隊構想とは自衛隊が出動できない事態でも対応可能な、民兵団による祖国防衛を意味していたが、あまりにも遠大すぎて現実的には不可能な構想であった為に、有事に備えてのリーダー、ニュアンスとしては祖国防衛隊という民兵組織のリーダー養成機関として「楯の会」という構想へと切り替わった。「楯の会」には民族派・新右翼の青年らが入会してきた。山本は、この「楯の会」にも助力し、自衛隊への体験入隊などに尽力していたと思われるが、その山本に拠れば、どんどん三島由紀夫は先鋭化していってしまったと語っているのだ。

そして、山の上ホテルのレストランにて、ミシマから「皇居に突入して皇居を死守する」という不可解な構想を打ち明けられた。ミシマに言わせれば、万一の事があっては大変だから皇居を死守するという理屈は分かる。しかし、仮に、万が一でもデモ隊が暴徒化して皇居に押し寄せ、皇居を守る事態が発生したといても、皇居へ突入する必然性が理解できないとして、拒絶し、また、あまりにも大胆なミシマの提言に驚き、以降、距離を置くようになったというのが、凡その山本の主張なのだ。

ここで、疑問の二つ目という事になりましょうか。何故、三島由紀夫は皇居へ突入する計画を立てていたのか?

実は、これ、戯言ではないんですね。諸々、検証できてしまう。ミシマは、楯の会を結成し、その楯の会の一周年記念の式典では、国立劇場の屋上で式典を行ない、その通りでパレードを行っていた。また、ミシマは、殆んどの名誉職を辞退していたが、何故か国立劇場の理事職は引き受けており、国立劇場の利用にあたっては一定の範囲内で自由に使用できる立場にあった。くだんの山本舜勝も、ミシマに招かれて国立劇場の案内を受けたとある。丁度、ミシマの書いた「椿説弓月君」の舞台だったので何の気なく案内してもらったものと思い込んでいたが、山の上ホテルで「皇居突入」、「決死隊」、「死守」等と言われた後に気付いた。国立劇場は、皇居まで僅か五百メートルの場所にあり、国立劇場を拠点にして皇居へ突入する計画だったのだろうと、後に気付いたという。

狭い東京のはなしであるから、国立劇場と皇居との位置関係は、まぁ、偶然なのであろうと考えることもできる。しかし、それを補則するようにして、楯の会メンバーが皇居内の皇宮警察の居合道場「済寧館」に出入りできるような環境が実際にあった。この済寧館道場の居合の稽古では模擬刀ではなく真剣が使用されていた。楯の会初代学生長であった万代氏によれば、その居合の稽古にあたっては、楯の会メンバーらが使用する真剣は、済寧館道場に預かってもらっていたという。

つまり、そこそこ、段取りとして、楯の会の決死隊が皇居へ突入し、その皇居内で暴徒化した賊を迎え討つという段取りが整えられてたというのだ。山本が訝しんでいるのは整合性があり、そもそも皇居へ押し寄せる暴徒に斬り込みを掛けるのであれば、皇居内に入る必要性はなく、その場で白兵戦をすればいい。しかし、ミシマは違った。皇居内に突入する事そのものに意義を見い出していたのだ。絶望的な見解の相違を見た山本は、以降、ミシマと少しだけ距離を取るようになった、と。

勿論、様々な視点がある。このテの話では、常に行動派の青年将校が何者かに唆されて、蹶起してしまったというのが日本史の常でもある。通説としての二・二六事件では、計画としては上層部も蹶起将校らに加担する予定であったが、思いも拠らぬ昭和天皇の厳しい対処により、青年将校らはハシゴを外されたとする見解ですね。五社英雄が監督した映画「226」は、まさしく、それであった。なので、この話にしても、本当は三島由紀夫は山本舜勝にハシゴを外されたのではないかという見解もミシマの遺族などからは挙がった事があるという。

客観的に「楯の会」は皇居に近い国立劇場をその拠点とし、或る程度までは自由に使用できる権限を実際に得ていた。また、皇居内に入りさえすれば、その皇居内の道場には真剣を預けてあったとの話なのだから、決死隊が組織されていて事は否定しようがない。なので山本舜勝の述懐の一部は事実である事が確認できることになる。

となると、一体全体、ミシマは何の目的で皇居突入を画策していたのか――という問題になってきてしまう。これは避ける事ができないと思う。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

くどくなってしまいますが、重要な話なので今一度、繰り返しになります。三島由紀夫が「楯の会」の中から決死隊を組織し、実際に9名もしくはミシマ自身を含めた10名は、1969年10月21日の国際反戦デーで学生運動などを含む過激派が暴徒化する事態を想定していた。暴動が内乱となり、機動隊を含む警察力では対応できず、自衛隊に治安出動命令が出るという事態は確かに客観的にも想定することが出来たという。ミシマは、その自衛隊が治安出動するにもタイムロスがあるから、そのタイムロスの間に皇居に押し寄せる暴徒に対してミシマらは斬り込みを掛けるという計画を立てていたのだ。(後述しますが、これは斬り込みを掛けて最後には自分も死ぬ或いは殺される、「斬り死に」をミシマは意識している。)

山本舜勝とミシマとの見解の相違を抑えておくと、山本が「皇居付近で白兵戦をすればいいし、そもそも国際反戦デーが無事に終われば、それに越した事はない」という考え方であるのに対して、ミシマはというと「国際反戦デーに暴動が発生し、治安出動になる事態になってもらわねば困る」であり、「そうなった時には皇居内に突入し、皇居を死守する」という。

三島由紀夫が何か異なる思惑で、物事を計画していた公算が高いんですね。勿体ぶらずに述べてしまうと、ミシマが、何故、そんな部分に固執していたのかというと端的には�犹造蟷爐豊瓩鬚靴燭�ったのだという。この部分も事情を知らないところからするとチンプンカンプンになりますが、実際に複数の論者によって既に論考、言及されている事柄であるという。三島が持っていた「滅びの美学」とでも呼ぶべきものと関係しているので、改めて後述しますが、ここでは「斬り死に」から進めます。

おそらく、ミシマが吐露していた「斬り死にしたい」という幻想は、皇居の中で真剣を奮い、賊を斬って斬って斬りまくる中で、賊に殺される事であったと思われる。それが最高の死に方であり、ミシマが望んでいた死に方であったと推測できる。実際に私の本棚には三島由紀夫による注釈の『葉隠』がありますが、葉隠には「死化粧」の話などがあり、つまり、美しく死ぬ為に化粧をする、そういうものの中に或る種の美学が混在している事は否定できず、おそらくはミシマのような人物こそが、そういう部分に執着を持ってしまうという事なのかも知れない。これを考慮すると、生前のミシマが複数の人物と「切腹ごっこ」という切腹の真似事をし、それを写真撮影する趣味を持っていた事とも合致することになる。これが映画で切腹シーンを演じていたというのではなく、映画とは別にプライベートの部分でミシマは懇意にしていた男性と「切腹ごっこ」をしていた感性の人なのだ。

読売新聞の昭和42年1月1日、ミシマは「年頭の誓い」ならぬ「年頭の迷い」という文章を残していたという。

四十二歳といふ年齢は、英雄たるにはまだ辛うじて間に合ふ年齢線だと考えてゐる。西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連(じんぷうれん)を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅(かや・はるかた)が、私と同じ年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ。

私のことを、未練だ未練だと言ふけれど、それならヘミングウェイはどうだ。彼は老齢に達しても冒険的英雄的な死にあこがれ、これがみんな向うから死に逃げられ、おしまひに不本意きはまる自殺を遂げた。私はあんな風にはなりたくないものだと思ふが、あの気持はよくわかる気がする。


と残している。(文中にある作家のアーネスト・ヘミングウェイは、最後に猟銃自殺を遂げている。)

西暦換算1967年の元旦には、既にミシマは、そのような死生観を新聞紙上で披露していたのだ。

そして、ここで問題視されているミシマによる皇居突入計画、そのXデーは、1969年10月21日の日米安保更新を翌年に控えた国際反戦デーであった。そのXデーに向けて、ミシマが虎視眈々と皇居突入計画を実行していた可能性がある事を思えば、これは驚くべき話であろうと思う。しかし、実際に皇宮警察内に真剣を預かってもらう形式で楯の会メンバーが稽古を受けていた事は事実であり、山本に対しても、Xデーに暴動が発生するので備えておかねばならないという話は進めていた事は確かでもある。しかも、ミシマが山本と決裂した理由は、暴動が起こって治安出動の事態にならねばならぬ、その時には我々は皇居内に突入して斬り死にをせねばならぬ、という、ものであった。

ここで、この問題、誰しもが引っ掛かる事になるでしょう。ミシマは物騒な発言も残しており、先述したように「天皇を殺す」とか「人間天皇を抹殺する」という具合の発言をしていたとする証言があるのだ。ミシマが画策していた事は、何なのかと模索すると、ゾッとする。

いやいや、出るわ出るわ、ホントはミシマは自衛隊に体験入隊した際にも自衛官らにクーデターを匂わせるような発言をしていたという証言が残っているそうで、そうなると読売新聞に「年頭の迷い」を掲載した1967年に自衛隊に体験入隊し、既に「蹶起しませんか?」という具合に勧誘するような声を掛けていたことになる。

いやいや、実際にミシマが楯の会の中に憲法研究会を立ち上げたのは1969年12月24日である。1970年11月25日に市ヶ谷駐屯地に乱入、そこで撒いた檄文と演説では憲法改正の必要性を4年前から考えていたというが、具体的にアクションを起こしたのは、11ヶ月ほど前でしかない等の矛盾も発見できる。しかも、この「楯の会」内の憲法研究会は、市ヶ谷乱入の1970年11月25日までに憲法改正案を作成できぬままであった。また、その「憲法研究会」にはミシマ自身は「口を挟まない」という約束事があったという。

本当のミシマの目的とは「1969年10月21日」であり、その日に皇居に突入し、そこで死ぬ事を画策していた、夢想していたというべきか、そうである事は、ほぼ間違いがない。その日に暴動が発生しなかった事で、ミシマの夢想半分現実半分の計画は頓挫した。そのXデー以降になると、まさしく「死に場所」と「死ぬタイミング」とを捜していたかのような精神状態だったのではないか? ――この説を参考としている『幻の皇居突入計画』著者の鈴木宏三氏は採っている。重要なのは一連なのではなく、一度、1969年10月21日に皇居突入計画は失敗して終わっており、その事に拠って「楯の会」の存在意義も喪失してしまったが「楯の会」を解散させる訳にも行かず、森田必勝はじめ楯の会のメンバーに対しての「責任」がミシマに生じてしまい、ミシマは成行上、森田必勝の意見に引き摺られるような状況になったという見解を示している。

そのように着地させれば、確かに《余りにも市ヶ谷駐屯所乱入して割腹自殺というシナリオが中途半端で稚拙と感じてしまう事》にも、整合性をつけられる訳ですね。

1970年3月5日、ミシマは学習院時代の恩師・清水文雄に手紙を出していたという。当時、ミシマは『暁の寺』を執筆し完成させたタイミングである。つまみ食い的な引用ですが、以下へ。

「暁の寺」の完成の感想は、一口に言って憂鬱でありました。本当はこの巻の途中で日本が騒乱の渦に巻き込まれ、文学どころではなくなることを望んでゐたからです。なかなか悪魔の祈りは叶へられぬものであります。

また、「何故、皇居突入を画策していたのか?」という問題がありますが、それは二・二六事件に対してのミシマの見解で、おおよそ想像がつくものでもある。二・二六事件に於いて、ミシマは昭和天皇は間違いを犯したと思考する論者であった。心情的な部分では「神格である筈の天皇が、そうではない振る舞いをしたではないか」というニュアンス。しかし、そこではなく、何を戦略的ミスを犯していたという分析もミシマはしていた。これも「二・二六事件について」という文章になりますが、それが以下となる。

二・二六事件は戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつたことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかった義軍の、もろい清純な美しさがある。

ミシマは、皇居で何をしたかったのか?
    このエントリーをはてなブックマークに追加

1969年10月21日、この日こそがXデーであり、翌年に日米安保の延長を控えたタイミングで、国際反戦デーでもあった。ミシマは暴動が発生し、自衛隊に治安出動の命令が出る事を想定して動いていた事は間違いない。その事は、割腹自殺前の檄文や演説でも触れていた。檄文では、治安出動が無かった事で、自衛隊は国軍になるチャンスを逃したという主旨になっている。では、そのXデーにミシマは何をする気だったのか?

そのXデーたる1969年10月21日、都内であれば最も緊張が高まっていたのは東京・新宿であった。当時は副都心と呼ばれていたものと思われますが、既に新宿駅は過去にも大規模なデモ隊に占拠された場所でもある。

この日、楯の会では、山本舜勝の指示によって東京各地にメンバーを展開させ、その状況を把握するように命じていた。ミシマは、御茶の水駅前の日本医科歯科大学の構内や、明治大学前で繰り広げられていた学生と機動隊の攻防を目にしていた。その後、山本と一緒に銀座へ移動した。山本に拠れば、ミシマは銀座四丁目交番の屋根によじ登り、石の雨が飛び交うのをものともせず、身を震わせながら市街戦を見つめていたという。

その後、楯の会は赤坂に集まったという。機動隊を含む警察力では対応が不可能な事態となって、自衛隊の治安出動が検討されるような暴動は起こらなかった。この日、都公安委員会は事前に、このXデーを警戒し、都内で全ての集会を禁止にし、全力でデモに備えており、散発的な衝突は絶えなかったが、遂に内乱や暴動といった大事には到らなかった。山本は大事に至ることなく安堵したが、ミシマは違った。ミシマは落胆し、幻滅した。治安出動の事態に到らず、よって皇居突入計画も成立しなくなってしまった事で、おそらく、ミシマの目論見は完全に断ち切られてしまった。歯車が完全に狂い、この治安出動に到らなかった事に拠って「楯の会」の存在意義もなくなってしまい、かといって「楯の会」を解散する訳にもいかず、或いは森田必勝らに対しての責任を取る形で、杜撰な計画なまま、市ヶ谷駐屯所乱入へ向かったと推測する事ができる。

因みにXデーが過ぎた後、「楯の会」は皇居内の道場で居合の稽古をしていたが、その後、「楯の会」は道場では手狭になったという理由で、実は市ヶ谷駐屯所内の屋上を訓練場にするようになっていた。つまり、何かしらアクションを起こすに当たって、「楯の会」の訓練場を変更したという事にも思える。(乱入・割腹自殺の在った日も、実は市ヶ谷駐屯所内に総監室に乱入した4名以外の楯の会メンバーがあったが、それは訓練していたメンバーらであった。総監室前の中庭に集合するように要求されたが自衛隊側の措置によって、中庭に入れなかったという。)


さて、凡そ事件の相が浮かび上がった事になりますが、ミシマの心理状態や動機などの謎は多く残っている。その最たるものは、一体全体、ミシマは皇居へ突入して何をするつもりだったのか――というものである。本人が語らぬまま、この世を去ってしまったので、その謎は解けそうもない。しかし、既に何通りかの仮説は立てられる事ができる。

仮説A
ミシマは死に場所を探していた。皇居に突入、そこで皇居に押し寄せる暴徒を相手に敢然と斬り込みを掛けて、斬り死にを遂げ、以って、憲法改正の礎ともなる死を遂げ、英雄として死にたかった。

この仮説Aは、楯の会のメンバーの証言では「斬り死に」や「蹶起」が主眼となるので、こうなり、また、「英雄として死にたい」旨、過去に語っていた事からすると、そのように考えると、相応の説得力がある。

仮説B
ミシマは或る種の蹶起を企図したのだから、皇居に突入、そして天皇を人質にとり、政府に対して憲法改正を要求、自らは自害するつもりだったのではないか?

上記の仮説Bような仮説は若干の別の観点を踏まえてミシマと親交のあった板坂剛の著書『極論・三島由紀夫』に掲げられている。二・二六事件を語って、「北一輝が参加していたら皇居を抑えてクーデターを成功させていただろう」と過去に述べている事からすると、実は、整合性がある。この二・二六事件に当たっては、「何故、青年将校は皇居を抑えなかったのか?」という疑義はしばしば目にすることがあり、私の記憶でも田原総一朗さん辺りも、その観点を示していたと思うが、この『幻の突入計画』に拠れば、実際には皇居に向かった一派もあったが皇居を抑えられなかった旨の説明が為されている。また、論者によっては、二・二六事件の影の首謀者を北一輝であったと信じている場合は、「北一輝がミスをした」という語り口になるが、どれも二・二六事件が失敗した要因を皇居を支配下に置けなかった事と分析している点では共通しており、この論陣は根強い。

「天皇を人質に」というのも不敬な筋書きである訳ですが、二・二六事件の検証などをされた方は、この意味が理解できるのではないか。

この他にも例の磯田証言からすれば、皇居に突入したミシマは「大逆」に問われるような事を企図していたのではないかという可能性もありますが、磯田証言にしても「人間天皇を抹殺」という言い回しをしている事からすると、磯田証言を受けて、次のように解釈してみせた松本健一の解釈が説得力が高いようにも思う。

「人間天皇を抹殺することによって…超越者としての天皇を逆説的に証明する」という箇所は、論理として、きわめてよくわかる。わたしの言いかたでは、三島は「美しい天皇」を想い描くことによって「人間天皇」を否定しようとしたのだ、ということになる。三島はしかし、妄想であれ本当に宮中に入って天皇を殺そうとしたであろうか。私が考えうるのは、そういう過激なことではない。三島は「戦後の現存する天皇を殺す」などということはとうてい不可能だから、観念のうちでその抹殺を行ない、そうしてじぶんだけの「美しい天皇」を抱きしめ、その「美しい天皇」の歌をもはや誰にも歌わせまいとして、一人あの世へ走り去ってしまったのではないか、ということだ。(松本健一『三島由紀夫と亡命伝説』)

この松本健一の説明が、仮説Cという事になると思う。凡そ、どれが正解などとは何も断定することなどは不可能な訳ですが、これらの事が類推できる。



最後に三島由紀夫の、その心理について――。

既に、松本健一の解釈の中にも現れていますが、或る時期までは天皇は現人神として扱われてきた経緯があり、「人間宣言をした天皇など認めることはできない!」という天皇観というのも成立してしまう。では、ただ、クーデターを成功させるだけであれば、ただただ新宿あたりでデモ隊に突撃し、そのまま、斬って斬って、最終的には斬り死にするという英雄的な死も選択できた可能性があったと思われる。しかし、それでは納得できなかったから、どうしても皇居へ突入したかったという。それがミシマの心性であったという事になる。皇居内で斬り死にしたいとか、天皇陛下の御傍で死にたいと欲した事になる。この心理とは、一体、どういうところからきているの?

参考としている鈴木宏三著『三島由紀夫〜幻の皇居突入計画』(彩流社)の171頁から190頁ぐらいまでは、感嘆しながら目を通しましたが、非常に鋭く、また説得力のある説明が為されていました。ニーチェの「神の死」やバタイユ&プラトンの「エロティシズム」を引きながら、ミシマの心理を解説してあったのですが、素晴らしいレベルで読み応えがありました。

天皇の人間宣言とは、神の死であるという。これ、私、まったく別の文脈で梅原猛の著書を流用した記憶がある。そちらの場合は「神殺し」という表現であったけれど、どちらも結局はニーチェの話であった。梅原猛にしても「天皇の人間宣言は概念上の神殺しであった」という具合に語られていたと思う。また、この話は心理学的な考察に置き換えれば「父殺し」の話とも親戚関係にある。それまで信じていたものを喪失する、自分たちの手で葬ってしまう怖ろしい何かの話である。

そして、実際に三島由紀夫自身が「二・二六事件と私」なる文章中で、「神の死」と「エロティスム」について言及している。そこに用いられているのはバタイユである。

エロティシズム、死といふ図式はつまり絶対者の秩序の中にしかエロティシズムは見い出されない、といふ思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロティシズムは存在しないんです。そこには厳格な戒律があつて、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロティシズムといふのは、さういう過程をたどつて裏側から神に達することなんです。

ミシマの天皇観というのは、捩じれているものの、或る意味では真っ直ぐなのであろうなと見当をつけることが出来る訳ですね。好きでも嫌いでもない人に対して失望したとしても、そのメーターの針は大きく振れる事はない。しかし、大好きな人とか尊敬する人に失望すると、その針は大きく振れてしまう。ミシマにとっては、絶対者としての天皇が必要であったが、絶対者が絶対者ではなくなってしまったという形で「神の死」が起こってしまった。

他にもミシマ自身が寺山修司との対談でエロスを語った文章が挙げられてる。

エロスというのは、要するに�犒臻海寮鎖性瓩任靴腓Α⊆�分に足りないから何かが欲しいという。エロスっていうのは結局、自分は美しくなくて、美しいものにあごがれている。自分に足りないものがエロスの根元だから、反体制的感情なんて、ほんとにエロティックなもんだね。(寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」)

そしてプラトンについては、竹田青嗣著『プラトン入門』(ちくま新書かな?)を引用しながら説明されている。ここは引用ではなく、意訳にしますが――エロティシズムとは「恋」とは異なり、「美しいもの」を堕落させようと作用するという。そうする事で、その「美しいもの」の超越性に触れようとするものだというのがプラトンの語るエロティシズムであるという。そのため、エロティシズムはケガす目的で常に「美しいもの」を必要としている――と。

ケガす為に「美しいもの」を必要としている。これは日本人には、あんまり馴染みのないエロス論らしいのですが、まぁ、なんなく、理解できるところがありそうですかね。足跡がついていない一面の雪を見ると、足跡をつけたくなる。或いは立小便をして、その雪を溶かしてみたくなったりする。同様に、穢れなき処女を穢してみたいと思う人が多いから、或る時期までは根強く処女信仰のようなものが成立していたのでしょう。この話は、エロティシズムを充足させる為には、絶対無比、絶対不可侵の絶対者・超越者を予め作っておき、その絶対者・超越者を侵犯する事、堕落させる事で、その者は、一瞬にして�狡怯杣圻瓩砲覆譴襪箸いΑ�

「日本人には、あんまり馴染みがないエロティシズムだ」というのは、絶対的上位者を引き摺り下ろす事にエロティシズムを感じる「垂直型のエロス」なるものだという。その垂直型のエロスに基本的に日本人は疎いらしく、これはカトリック社会だと、よく考察されるものらしい。

これはどういう事かな。日本人は「高嶺の花」と直ぐに諦めるところがあるし、お似合いの相手、分相応である事に居心地の良さを覚えるが、それは水平型のエロスという事か…。裏返すと、垂直型エロスというのは、上にも下にもという具合に、垂直にエロスを抱くという事か…。確かに、あんまり馴染みがないエロスかも知れませんやね。それでも、薄々は、それを知っている。

三島由紀夫の『金閣寺』には、内翻足の青年が念仏を唱えている老婆を犯すような描写があったと思う。そもそも『金閣寺』という美の象徴を内翻足の青年が放火して燃やしてしまった話であり、考えてみれば「絶対的権威に対して侵犯する」というエロス構造を持っていた事に気付く。それと『仮面の告白』は虚実綯い交ぜと思いますが、胸がはだけて殺されている様子を夢想し、性的興奮をする主人公の性癖も描かれていたことからすると、これらの心理分析は、かなり説得力があるように感じますかね。。。

    このエントリーをはてなブックマークに追加

日本ロック史について語れと問われたならば、私なりに数時間は語り続けられるような気もしているが、そんな中で必ず触れることになるであろうなという楽曲の1つに相川七瀬さんの「夢みる少女じゃいられない」が入るよなと思う。

殊に、あの箇所だ。

♪
街中に Bang! Bang! Bang! Bang!


午前0時の交差点、とあるクルマの助手席に、その女はいる。
運転席の男は女に話し掛けているが、女は物足りなさを感じており、
「少しダマってよ」と声を掛けたかと思うと、次の瞬間、ウィンドウを開けて
街中にBang!Bang!Bang!Bang!と、4発の銃弾を発砲する。

街中に銃弾をぶっ放した後は、次のように続く。

♪
もっと激しい夜に抱かれたい

ノー、ノー、 それじゃ、届かない

ステキな嘘に溺れたい

ノー、ノー、それじゃ、ものたんない

鏡の中 今も 震えてる

あの日の私がいる

夢みる少女じゃいられない
(作詞:作曲:織田哲郎)

この歌詞にあるような暴力的な衝動を、実は人々は内に秘めている。まさしくバタイユの世界の話でもある。我々は何ら理性を利かせることなく、仮に衝動のままに行動できる生物であったとするならば、街中で拳銃でも自動小銃でもぶっ放したいという凶暴な衝動を内に秘めている可能性がある。

しかし、そのような仮説を述べる者は存在していても、中々、実行に移してしまうような者は、長らく登場しなかった。この禁が破れられるようになったのは、近10年ぐらいだ。

アンドレ・ブルトン(生没年1896〜1966年)はフランスの詩人であり、作家であり、批評家であり、シュルレアリスムの中心的な存在であった。そのブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』には、次のような過激な一節があったという。酒井健著『バタイユとアナーキズム』(法政大学出版会)から(一部は孫引用となりますが)、以下に引用します。

最も単純なシュルレアリスムの行為は、両手に銃を持ち、街路に降り立って、群衆めがけて、めくらめっぽうに発砲する、そうしてできうるかぎり発砲し続けるということなのだ。現代社会で幅をきかす堕落と白痴化の卑小なシステムに対してこのように縁を切りたいと一度も欲したことのない輩は、この群衆のなかでよくに目立った場所を占めて、その腹を銃身に突き出しているのである。こうした暴力行為の正当化は、私の見方では、シュルレアリスムが我々の心の奥底に暴き出そうと努めているあの微光への信仰といささかも相反しない。私は人間としての絶望をここで呼び覚ましたかっただけなのだ。というのも、この絶望を乗り越えられないのならば、何一つあの微光への信仰を正当化できないからである。
(ブルトン『シュルレアリズム第二宣言』(一九二九))


この微光こそフロイトの発見した無意識層の欲望のことである。そこには破壊衝動もあれば死への欲動(タナトス)も巣くう。ブルトンはしかしこの微光を信仰しながらも、じっさいに路上で無差別殺人にでたわけではなかった。タナトスに駆られて自害もしなかった。対して、現代人はそうする人が目に見えて増えているのか。なぜなのか。(『バタイユとアナーキズム』182頁)

これは何気にコワい話ですが、入り組んだ内容なので、しばし、この後の文章にもきっちりと付き合うべし。

何故、かの歌の中の少女は街中に銃弾をぶっ放したいという衝動を抱えているのか? 勿論、それは最終的には「夢みる少女じゃいられない」に繋がる訳ですが、そういう暴力的な衝動を我々を持っているという仮説はフロイトの発見した「無意識」、その時点で既に発見されているのだ。街中で銃をぶっ放したいという感覚は衝動だ。何かを、気まぐれに破壊したくなるという衝動を我々は無意識下に持っているのだ。

ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」は、或る種のアジテーションも含まれているものと思いますが、フロイトが言うところの「無意識」を「微光」に呼び変えて、巧み、その本質を語っている可能性がある。我々が理性なしで飼い慣らしている感情は結構、凶暴で、もし、理性による抑制が利かなかったならば、群衆に向けてめくらめっぽうに発砲する�爛后璽僉爾平有瓩�登場してしまう可能性があり、どうも近年ともなると、実際に登場してしまっている可能性がある。

で、問題は、このバタイユは必ずしもシュルレアリスムに賛同していた訳ではないが、それでいて中立的な立ち位置を採っていた。社会道徳的に悪影響のある問題である可能性があれども、それが人間の本質なのではないのか? ――そのようにアプローチする必要性がある。

ニーチェであれば「超人」であり、バタイユであれば「崇高性」の問題になってゆく。そして、斯様な狂気的な次元に、食い込んでいた日本人として三島由紀夫がいた。ここが理解できると、ひょっとしたら三島由紀夫・楯の会事件の深部に迫っていけるような手ごたえがある。

再び、『バタイユとアナーキズム』から引用していきます。

三島由紀夫は自決の一週間前に文芸評論家の古林尚と対談を行なっている。そのさなかの三島の言葉からとったタイトル「いまにわかります」で死後『図書新聞』(一九七〇年十二月十二日号)に発表され、今日では『三島由紀夫 最後の言葉』の題名で全集に収められている。その最初のあたりで三島はバタイユについてまずこう述べている。

ジョルジュ・バタイユをぼくが知ったのは、昭和三十年(一九五五)ごろですが、僕が現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感を持っている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。
(「三島由紀夫 最後の言葉」)

この親近感の根本は、三島に言わせれば、具体的に今見えているものが全く別に「超絶的なもの」を指し示す点にある。古林尚がすかさず「その超絶的なものが三島さんの場合にはすぐ天皇のイメージに短絡してしまう。そしてエロティシズムはセックス抜きで、観念の高みに飛翔してしまう」と指摘するのだが、三島はこれに答えて「僕の場合には、バタイユから啓発されたんで、バタイユそのままではありません」ときっぱり違いを強調する。(同92〜93頁)

延々と引用しても仕方がないので、この先は私の文章による説明としますが、おそらく、死と引き換えにしても惜しくない超絶的な境地の話をミシマは示唆していたと思われる。引用文中で対談相手の古林尚が「超絶的なもの」という単語を使用していますが、それは、平たく言えば、バタイユの語る崇高性の話の中に登場する概念であり、確かに「超絶的な境地」を指していると思われる。

凡人は「命よりも大切なものはない」と考える。しかし、バタイユの場合は「脱自化」等が語られており、最終的には神のような崇高者の境地があると説く。これが「サド侯爵」の話などにも繋がっている訳です。もし、本当に自分の思うがままに他者の事を一切考慮せずに振る舞っていいのだとすれば――という或る種の仮定から、その「崇高者の境地」が導き出されている。サド侯爵の場合は、性交して絶頂のタイミングで相手の首を斬り落とす事などを夢想した。そのような行為こそが、崇高者の境地であり、崇高性の至極なのではないのか――と夢想したものだと思われる。バタイユは、サド侯爵の残した理不尽極まりないサディスティックな小説を解釈するにあたり、当時の人々の解釈やフロイト理論などを応用しながら「崇高性」や「崇高者」についての思索を深めてゆく。その中で、自分というものに縛られない境地としての脱自化がある。更には「自己存在」とは生命現象の認識であり、思えば実体を有する有限の�猜��瓩�自己である。無限の存在になるには脱物化が必要であり、そうなる為には、神話の中の住人に自らを変えてしまう必要性がある――のような、超絶的な境地を崇高性の極みと発想した。

しかも、バタイユが少しだけ政治的な運動も見せており、バタイユは「頭部を持たない統治体」を考え出した。この発想は或る種の無政府主義的なものだと思われますが、頭部が命令を下して動くという統治体の姿を否定し、頭部を持たない統治体にすべきであると発想していた。バタイユはマルクス主義が実質的には統治体制上、必ずトップダウン方式になる事を予期して、日本語にすると「無頭人」(むとうにん)を意味する「アセファル」という名の宗教的秘密結社を立ち上げていた。なんぴとたりとも、誰からの上に立ってはならない的な思想だ。(変形すれば、「天は人の上に人をつくらず、ヒトの下に人をつくらず」になる。ああ、福沢諭吉についても実はアナーキズム的な傾向があったと思われる。何故かというと、それが究極的な理想として浮かんでくることも確かであるから。)

さて、ミシマである。おそらく、ミシマは脱自化と脱物化を夢想し、あの割腹自殺を実行したのではないのか? 確かに、あのような事件を起こして、あのような死に方をすれば、「三島由紀夫」という一人の作家、平岡公威という一個の人間は、神話上の存在とは言えないまでも、明確に伝説上の存在となったと言える。まぁ、この辺りの推測は、結構、説得力があるような気もする。

著者の酒井健法政大学名誉教授は、1970年の三島由紀夫の割腹自殺を記憶しており、当時の新聞にはミシマの介錯された頭部の写真の記憶があるという。もしやと思ってインターネットで検索してみたら、確かに確認できた。切断されたミシマの頭部だけの写真があり、或る意味では凄い写真だなと感じた。まさか、ミシマ自らが「無頭人」を表現したものだとは思いませんが、ミシマがバタイユの影響を強く受けていた事は確かであろうなと感じた。生きたモノ、有限性のある生物の次元から、伝説の中に生き続ける次元の表象になった、とも考えられる訳で。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ